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OCS『Enemy at the Gates』に登場する優秀なイタリア軍部隊

 7月17、18日のミドルアースでの『Enemy at the Gates』プレイに向けて、7月3日のミドルでワニミさんと練習しようということでセットアップの用意をしています。

 そうしている中で改めて、登場する優秀なイタリア軍部隊(のAR)を見て感銘を受けたので『イタリア軍入門』や英語版Wikipediaで調べてみました。OCSはARを見て感銘できるという点でも素晴らしいですよね~!






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 ↑アオスタ候アメデオ皇太子快速師団。ARが5と4が基本! すごい!

 【1942年の】3月に入り……メッセ将軍の要請により『アオスタ候』快速師団は完全な自動車化師団として改編され、2個騎兵連隊が外される替わりに第6ベルサリエリ機械化連隊と第120自動車化砲兵連隊が編入された。その後、夏までに40輌のアンサンドロL6軽戦車装備の第67ベルサリエリ機甲部隊やセモベンテ47mm自走砲を配備した【第3】アレッサンドリア自動車化騎兵部隊【兵科マークにAG:Assault Gunとある】も同師団に所属となり、ようやく独軍に見劣りしない師団編成となった。
『イタリア軍入門』P63、64


 ベルサリエリはゲーム上では「Brs」と表記されています。第6ベルサリエリが機械化連隊と書かれていますが、ゲーム上では自転車部隊になってますね。どうなんでしょ……。ちなみに裏の移動力は徒歩の10移動力で、徒歩で10とかってすごい使いやすいんですよ。67Brsも裏は15移動力あって、平地では攻撃力2倍でいいですね。戦力は低いですが……(^_^;

 ベルサリエリについては、以下。

 ベルサリエリの意味は「狙撃兵」だが、近代では“自動車化歩兵部隊”の役割を担った。……
 第二次世界大戦でベルサリエリ部隊は機械化され、SPA41装甲車やL6軽戦車も配備して高い機動力を有した。これらの部隊は陸軍機甲/自動車化師団に分散して配属されてバルカン、アフリカ、東部戦線と全戦線で投入され、ロシアでは1941年に『アオスタ候』快速師団所属の第3連隊はスターリノ占領にも貢献。1942年には第6連隊も加わり、ドンからドネツにかけての攻防戦を繰り広げている。
『イタリア軍入門』P236


 英語版Wikipediaの3rd Cavalry Division Amedeo Duca d'Aostaを見ていると、「第120自動車化砲兵連隊(指揮戦車として捕獲したT-34を運用していた)」とか、「この師団は1942年12月のドン河沿いの戦いで壊滅した。同師団の約半分は戦闘団として再編成され、1943年2月まで戦い続けた。」とかとありました。






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 ↑黒シャツ部隊(Blackってこと?)の1月3日連隊と3月23日連隊。AR3は平均的ですが、戦力が8と高い!

 さらに国防義勇軍(MVSN)である『タリアメント』黒シャツ部隊に『モンテベッロ』黒シャツ部隊を加えて再編成された『1月3日』連隊が第35軍団に、『3月23日』連隊が第2軍団に配置された。
『イタリア軍入門』P64








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 ↑普通の歩兵師団の方々。資料によっては一部が山岳歩兵師団扱いされていることもあります。AR3は立派かと。

 ……ソ連軍首脳部は、撤退したルーマニア軍の左翼に陣取るイタリア第8軍に目を付け、ここを突破してクライスト将軍の独A軍集団そのものを包囲する計画を立てた。“マルイ・サトゥルン”(小土星)と名付けられたこの新たな反攻作戦は12月11日に始まり、イタリア第29軍団と35軍団が強力なロシア3個軍の激しい攻撃にさらされた。
 かろうじて15日までイタリア軍は持ちこたえて敵を撃退したが、ドン河右翼を越えた赤軍第3親衛軍は迂回してイタリア第8軍の背後に回りこんだ。……右翼では独第298歩兵師団と『トリノ』『ラヴェンナ』『パスビオ』各師団の残余部隊が集結して、22日の赤軍による攻撃を食い止めたのだった。
『イタリア軍入門』P67、68



 イタリア軍の師団名は都市名であることが多いですが、それについてこんな風に書かれていました。

 これらの歩兵師団は一部の例外〈『レ』(国王)『レジーナ』(王妃)や第一次大戦の激戦地に因んだ『パスビオ』『ピアーヴェ』や『ルピ・ディ・トスカーナ』(トスカーナの狼達)等の愛称〉を除き、基本的に編成地方や都市の名称を付けられ、徴兵、招集された兵は兄弟、親戚を構わず同じ部隊に配属された。これはイタリア人特有の郷土愛を高め、郷土防衛軍の意識を鼓舞する考えでもあったが、結果としてイタリア国家としての軍隊への帰属意識が薄れ、開戦後は特に海外に派兵された兵士の士気にマイナスの影響をおよぼしたのであった。
『イタリア軍入門』P232








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 ↑山岳(アルピーニ)歩兵師団の方々。AR4は強い! ドイツ軍司令部も驚嘆したという粘り強さ! ヴィチェンツァ治安師団(治安維持にあたる部隊?)の話も出てきます。

 ……ドン河のイタリア軍陣地左翼の3個山岳(アルピーニ)師団は、年が明けても未だハンガリー第2軍と共に戦線に踏み留まり、『ヴィチェンツァ』歩兵師団とその他の残余部隊、さらにドイツ軍2個師団から新設された第24軍団の増援を受けて、果敢にソ連軍の攻撃を防いで戦線を支えていた。ドイツ軍最高司令部の官報でも数日間に2度に渡って『ユリア』山岳師団の防衛線の功績を称え、ラジオモスクワもこれを確認している。……
 ドン河を越えて迫り来る赤軍を迎えたイタリア山岳軍は、圧倒的な戦力差の中で3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した。3個山岳師団と残存部隊は零下30度の中で退却戦を続けながら友軍陣地を目指し、26日にはニコライエフカで『トリデンティーナ』山岳師団の一部と独伊両軍残存部隊は敵の包囲網を突破することに成功したが、『ユリア』と『クネーンゼ』山岳師団と『ヴィチェンツァ』歩兵師団はヴァルイキの後方100kmで撃破された。
『イタリア軍入門』P69、70


 山岳歩兵師団についてはこんな記述もありました。

 ロシアではこれらの山岳歩兵師団は、想定されていたコーカサス山脈ではなく、ドン河沿いの平原の戦線を維持する任務に就かされた。戦略的決断のミスのために、山岳戦のために訓練、装備、編成されていた山岳歩兵師団が、機甲部隊や機械化部隊などという対抗のための装備もなく訓練もしていない敵部隊に対して、平原で穴を掘って戦うことになったのである。だがそれにも関わらず、これらの山岳歩兵師団は1943年1月まで戦線を維持し続け、枢軸軍戦線が崩壊すると前進してきたソ連軍部隊によって包囲されてしまった。だが彼らの一部はこの包囲網を突破し、後に枢軸軍が後退先で構築した新しい戦線まで辿り着くことができた。トリデンティーナ師団の約3分の1(15,000名のうち生存者4250名)、ユリア師団は約10分の1(15,000名のうち1,200名)のみがこの退却行を生き抜いたのであった。そして、クネーンゼ師団の兵士達は文字通り全滅したのである。
英語版WikipediaAlpini


 ……山岳戦を想定して輸送・砲用の馬匹を装備した山岳歩兵師団……
『イタリア軍入門』P231

 各師団は基本的に2個山岳連隊と1個山岳砲兵連隊及び1個混成工兵大隊と1個化学戦中隊や各種補給・サービス部隊から構成された。
 1942年5月、『トリデンティーナ』『ユリア』『クネーンゼ』の3師団がコーカサス山岳地帯進撃のためロシア戦線に派遣され、ドン河で展開しニコライエフカ防衛戦で貴重な戦力となった。また、先発の『モンテ・チェルビーノ』山岳スキー大隊はドネツ戦で勇猛に戦い、赤軍から「白い悪魔」と呼ばれたのだった。
『イタリア軍入門』P235,6


 この最後のところで触れられているモンテ・チェルビーノ山岳スキー大隊がこれです(右側)。

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 AR5! 素晴らしい! 『イタリア軍入門』には、P63とP235にこのモンテ・チェルビーノ山岳スキー大隊の兵士達の写真が載っています。P63の方は特に、白い雪中迷彩ヤッケを着てスキー板を担いで進んでいる写真で、これが「白い悪魔」という呼び名の元なのでしょうね。

 英語版WikipediaでMonte Cervino Battalionの項目を見つけましたが、具体的にどんな風に凄かったかまでは書いてなかった……。ニコニコ大百科のイタリア軍の記事には、このモンテ・チェルビーノ山岳スキー大隊の話とあと、アオスタ候快速師団のサヴォイア騎兵連隊という話が出てきますけど、サヴォイア騎兵連隊ってどれ……?

 左のバルボ【?】騎兵旅団も強いですねー(もしかしてこれが↑の騎兵連隊のこと?)。イタリア軍のバルボ将軍と何か繋がりがあるのか、ないのか、調べてみたのですが、とりあえず綴りが違ってました(将軍はBalbo)。騎兵旅団については、戦闘序列の中にあるくらいしか見つけられませんでした……。






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 突撃工兵部隊もAR4で強いです。いい味出してます。

 またドイツ軍を参考にした攻撃型工兵部隊として爆破工兵が組織され、地雷工兵や火炎放射器工兵を含む突撃工兵を養成する学校も1940年3月チビタベッキアに開校。この敵前線の夜間強襲突破を主目的とした部隊は、1942年の北アフリカ・トブルク戦やアラム・ハルファ戦で活躍した。
『イタリア軍入門』P242,3




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OCS「弱ZOCかつユニット数が足りなくて戦線が引けない件」

 頭が働かないので適当に「OCS ウォーゲーム」で検索していたら、OCSに関して興味深いブログの書き込みを見つけました。

 まず、2016年5月14日に書かれたらしい
ケースブルー - bqsfgameの日記
 と、それを引用して意見を述べた
閑人工房:資料室(のちょっと下。「Ctrl+f」で「OCS」で検索するとすぐ見つかるでしょう)

 で、まとめるとOCSは特に東部戦線では「弱ZOC、かつユニット数が足りなくて戦線が引けなくてよくない(展開がメチャクチャになるということ?)」ということかと思いましたが、違うかもしれません(^_^;

 個人的にはこの件は私も、「まだ怖くて存分に体験はしてないので良く分からない」という感じです。一番この状態に近づいたのは『BalticGap』でソロプレイをやろうとした時(たとえば『Baltic Gap』5.6、初期配置完了とか)だと思いますが、ドイツ軍装甲師団は進出はできるかもしれないけども進出した後の反撃が怖すぎてどうしたらよいのかと途方にくれました。

 その後地形的にやや複雑な戦場をいくらかやってみて経験値を増やしまして、今度また7月の連休にミドルアースで『Enemy at the Gates』のリトルサターン作戦(マップ2枚版)をやろうという話になっているので、そこでいくらか経験値が得られるかと思っています。

 OCSルール冊子ですが、作業は時々しているのですが、コンセプトが色々混ざってしまっている気がして練り直し中です。今とりあえず作ろうとしているのは、シークエンスをB4一枚(半分に折って、4ページにする)とかで、Tips(コツ、秘訣)を書いておいて、関西でプレイヤー諸氏が参考にできるものを作っていこうかと。で、改訂もしていく、と。

ルイーゼ王妃がブラウンシュヴァイク公に頼んだのか?

 以前、1805年~1806年にかけてのブラウンシュヴァイク公(父)の最後で書いてました、「1806年のプロイセン軍の指揮をブラウンシュヴァイク公が執るように、ルイーゼ王妃が頼んだ」という件ですが、確か2箇所で見たと思っていたのですが、その数分だけ見つけたので報告しておきます。

 1つは、『Who was who in the Napoleonic Wars』におけるブラウンシュヴァイク公に関する記述の中。

 カールは父の後を1780年に継いでブラウンシュヴァイク公となり、「啓蒙」君主の模範となったが、彼が最も評価されたのは軍人としてであった。彼は軍人としての経歴を1757年にカンバーランド公の下で始め、その後叔父であるFerdinand of Brunswickの下で戦った。ウェールズ公フレデリックの娘と結婚し、叔父であるフリードリヒ大王の下で仕えた後、陸軍元帥として1792年のフランス侵攻のための連合軍の司令官に任命された。だが彼の自由主義的な見解は非常に良く知られており、同じ年にフランス軍の指揮も提示されていたのだった。彼の指揮はプロイセン王が陣内にいたため困難な状態にされており、ヴァルミーの敗戦後には王の存在によって制限され、また連合軍内での連携の難しさのために彼は辞任し、所領へと戻った。1803年にはロシアへの政治的任務に成功し、1806年にはルイーゼ王妃の依頼で再びプロイセン軍の指揮を執るように説得されたが、今度も王や顧問らによって彼が自由に軍事行動を執ることは難しかった。彼はアウエルシュタットで重傷を負い、1806年11月10日にハンブルクの近くで亡くなった。彼の息子で跡継ぎとなったフリードリヒ・ヴィルヘルム公はフランスに対する戦いを続け、カトル・ブラで亡くなった。




 もう1つは、英語版Wikipedia上の記述(日本語版Wikipediaにはこの記述はありませんでした)。

Despite being over 70 years old, the Duke of Brunswick returned to command the Prussian army at the personal request of Louise, Queen of Prussia.[3]



 ここには注釈[3]が付いていて、その先はこうなっています。

Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Brunswick, Karl Wilhelm Ferdinand, Duke of". Encyclopædia Britannica (11th ed.). Cambridge University Press.



 『ブリタニカ百科事典』の第11版が出典? 調べてみるとこの第11版は、1911年出版だそうです。


 と、一応出してみましたけども、これ以上のことは分からずで何とも言えません(^_^; ただまあ、これ以外の資料ではこの件は見たことがない(見つけてないだけという可能性は全然ありますが)ということも言えます。

ブラウンシュヴァイク公(父)が亡くなる


 承前。今回はブラウンシュヴァイク公(父)が亡くなる+αまでです。

 ↓ブラウンシュヴァイク公の足取りに関する地名等を入れた地図を作ってみました。ブラウンシュヴァイク公はアウエルシュタットの戦場からハンブルクにまで至り、そこで亡くなります。薄い黄色い範囲がブラウンシュヴァイク公国です。

1806年戦役用02ブラウンシュヴァイク死用2



 まずは、両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公へのコメント欄で、Schaluppeさんに教えて貰ったドイツ語版Wikipediaでの記述を引用してみます。

 1806年10月14日のイェーナ・アウエルシュタットの戦いで、ハッセンハウゼン近郊において側面から飛来した銃弾が彼(公)の両目を打ち砕いた。彼は担架に乗せられて10月20日にブラウンシュヴァイクに辿り着く。視力に障害を負う年長の息子たちの断念を経て、公は最も若いフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・エールスを後継者に指名した。ナポレオンへの手紙の中で公は自らの中立国への寛大な処遇と、彼自身のためにはただ安らかに死ぬに任せてくれるよう願っている。ナポレオンがそれを拒んだため、公は10月25日に再びブラウンシュヴァイクを去るとツェレとハーブルクを経由してアルトナ、すなわち中立国デンマークの領域に至った。彼はオッテンゼンの、アム・フェルデ5番地にある宿屋に泊った。そこで1806年11月10日、負傷のため71歳で没する前に妻、妹と最年長の息子たち二人に別れを告げることができた。ひとまずオッテンゼンのクリスティアンス教会に埋葬されたが1819年、最後の安息の地をブラウンシュヴァイク大聖堂の地下に得ている。



 アルトナとオッテンゼンは両方とも、ハンブルクの一地区にあたります。

https://www.google.co.jp/maps/@53.5637684,9.9725797,11.5z


 ↑を見てもらって、「ハンブルク」と書いてあるのの左上の辺りに両方ともの地名があります。

 「視力に障害を負う年長の息子たちの断念を経て、公は最も若いフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・エールスを後継者に指名した。」の件ですが、視力障害があったとすればそれは三男のはずで、長男はすでに亡くなっていたので「たち」というのは次男を含んでいるのでしょう。後継者となったのは四男でした。

 死ぬ直前に別れを告げることができた「最年長の息子たち二人」というのは、普通に解釈すれば次男と三男でしょうか。後継者となっていた四男(黒公爵)は(後述のOSGの本によると)11月7日の時点で、リューベック(ハンブルクから50kmほど北東)でまだ抵抗を続けていたブリュッヒャーの近くにいて何やら接点を持っていたらしいのですが、事情をちょっと私もまだ把握しきれてませんのでそこらへんパスで。



 次に、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』から引用してみます。

 彼は惨めな状態で戦場から退却したが、その夜にHartz山脈を越えて遠くブラウンシュヴァイクへと向かうことを決断した。彼に一言の不満を漏らす者もなく、彼にかけるべき言葉もまた見つからなかった。彼は【軍医の】Folgerに言った。
「私は以前から、盲目になって当然だったのだ。よいよい。この老齢なのだから、盲目も悪くはない。」
 ブラウンシュヴァイク公国では大臣達が、フランス軍が24時間以内に来るだろうからと、ブラウンシュヴァイク公に公国に留まらないようにと懇願した。
「それは予想以上に早いな。」ブラウンシュヴァイク公は返答した。
「だが、彼らから逃げ出して何の利益があろうか?」
「殿下はどれほどの危険に御身をさらしているかご存じないのです」
 ブラウンシュヴァイク公に対して、征服者が個人的に激怒しているとの噂が存在していたのである。
「私はフランス人達を、君達よりも昔から知っている。彼らは戦場で負傷した老将に敬意を表するだろう。将校達は舞踏会を開いたり劇場へと足を運んだり、兵士達は女の子達と少しばかりいちゃつきたいだけだ。兵士用宿舎に心を配れば、彼らはそれ以上を望むまい。私がどんな状態かを知るために、フランス皇帝の使者が途上にあるに違いないのだ。」
 ……ブラウンシュヴァイク公は、1793年当時に彼の参謀長であった老Wolfradtから、彼が公国にいると軍事的占領の恐怖をさらに悪化させる口実になるだろうという説得を受けてようやく折れた。彼はどこか他の場所へ移ることに同意したのである。
「思うに、」彼は言った。
「私は長い旅に耐えることができないほど弱ってしまっている。だが、私がここにいることで私の臣民達への災難が大きくなりそうだということならば、私はここを去らねばなるまい。もはや躊躇すまい。」
 イギリスへ渡ることができるかもしれないということで、彼はLuneburger Heideを越えてHamburgへと運ばれた。公国から出発する前に、彼は家族と臣民達への慈悲を請う手紙を征服者へと送った。その返事は、今やナポレオンの所有に帰したベルリンで発行された官報である『Gazette』【ガゼット・ナシヨナルール・モニトール・ユニベルセル(大陸軍公報)】の声明に含まれていた。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P125~127



 青文字にした箇所はOSGの『SPECIAL STUDY NR.2 1806:The Autumn of No Return』のP13にも少し英文が違った形で書かれており、それを見て若干和訳を修正してあります。

 OSGの同書P15によれば、ブラウンシュヴァイク公の手紙がナポレオンの元に届いたのは11月3日でした(ドイツ語版Wikipediaの記述では、公からの手紙がナポレオンによって拒否されたので10月25日にブラウンシュヴァイクの町を去った、とありましたが、辻褄が合いにくいですね)。この手紙を読んでナポレオンは激怒したそう(というか前記引用ですでに、ナポレオンが激怒しているという噂があったと書かれていましたが)ですが、その激怒の理由はブラウンシュヴァイク公が1792年7月25日に発した「ブラウンシュヴァイク宣言」にありました。

 この辺のことを『ドイツ史 2』から引用してみます。

 戦争が始まると亡命者たちはみずから軍団を組織してプロイセン・オーストリア軍と行動をともにした。もちろんその行動に軍事的価値はない。しかしこの戦争が革命対反革命のイデオロギー戦争となるうえでは、ほとんど決定的な役割を果たしたのであった。それを象徴するのが、連合軍総司令官ブラウンシュヴァイク公が7月25日にコーブレンツで発した宣言であって、この悪名高い「ブラウンシュヴァイク宣言」は亡命者たちの起草した草案を、非政治的なブラウンシュヴァイク公が無思慮にうけいれたものなのである。なかんずくその結びの部分は草案そのままであったとされている。もし国王一家にほんの少しでも危害や侮辱がくわえられたなら、もしその安全、生命、自由のための対策がただちに講じられなかったなら、「永久に忘れられない復讐がなされ、パリ市は軍事的執行と完全な破壊にゆだねられ、犯罪者は当然の報いとして死刑に処せられるであろう」。この宣言がパリに届いたのが7月28日、民衆がテュイルリ宮殿の国王一家をおそったのが8月10日である。
 こうして悪循環のリレーが始まった。ヴァルミで形勢が逆転したのち、92年の11月に今度はブリソがいっている。「われわれは全ヨーロッパが炎に包まれるまで休むことはないでろう」。そしてショメットはこう予言した。「パリとペテルブルク、パリとモスクワのあいだの地域はまもなくフランス化され、コミューン化され、ジャコバン化されるであろう」。
『ドイツ史 2』P134,135




 で、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』では先ほどの引用の後に「大陸軍公報」の内容が来ています。

「ブラウンシュヴァイク公はなんと言うだろうか」 公報は続ける。
「もし私がブラウンシュヴァイクの町を破壊すれば、15年前のように彼は、私が支配する偉大な国民の首都を攻めると脅迫したのか? ブラウンシュヴァイク公は1792年の無慈悲な宣言【ブラウンシュヴァイク宣言】を否定していた。それはそのうち、理性が激情を上まわるようになれば信じられるようになるのかもしれない。しかしそれにもかかわらず、再び彼は自らの高名を浅はかな若者達の愚行に貸し、侵攻してきた。そしてそれがプロイセンを破滅させたのである。だが彼が成すべきは、ご婦人方や廷臣達、それに若き将校達に自分達の収まるべき場所を自覚させ、また自らの年齢に伴う権威、広い博識、高邁な精神、高い地位の義務を自覚することであった。彼はこれらを成すことができる強さを持たず、プロイセン王朝は打ち倒され、そしてブラウンシュヴァイク公国は我が所有に帰した。"ブラウンシュヴァイク将軍"に伝えよ。あなたは一人の将校としては、充分な待遇を得ることになるであろう。だが、私は"プロイセン軍"の将軍のうちのある一人の中に、統治者という地位を認めることはできない。」
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P127


 ↑この内容は「なかなか読ませるものがあるなぁ」と私は思いました。「浅はかな若者達の愚行」というのの「若者」には、王や王妃達が含意されているのではないかと思いましたがどうでしょう。

 ですが、恐らく、この「大陸軍公報」が届く前に、ブラウンシュヴァイク公は亡くなったのだろうと思われます(↓下記引用の2つ目の文がそういう意味ではないかと)。

 そのようにして、ライン同盟の中のこの小さな公国の併合の布告が発令されたのである。だがそれが届く前に、彼は賞賛も非難も届かないところにいた。彼の北への旅は最初のうちは桁外れの身体的頑強さを示し、受けた傷の苦痛の大きさにも関わらず、よく耐えていた。
「もし神が」彼は言った。
「両目のうち片方でも残しておいてくれるなら、満足せねばなるまい。」
 だがこの旅路の2日目に激しい炎症が傷を襲い、彼の脳にまで影響を及ぼすようになった。この様な状況の中、彼は29日に、Altonaの近くにあるOttensenに到着した。
「彼がその町へ運ばれていく様子は、」ブーリエンヌが書いている。
「運命の浮き沈みに関する興味深い実例を提供した。彼は10人ばかりが担う惨めな担架に乗せられており、将校達もおらず、メイドたちもおらず、物珍しさに惹きつけられた乞食達と子供達の一群が付き従っていた。彼はある一軒の粗末な宿に宿泊したが、あまりにも激しい疲労と両目の激痛のために極度に消耗し、彼が到着した翌日には彼の死の知らせが広く知られることとなった。見舞う者もないまま、彼はその月の10日に息を引き取った。」
 最期はMetzner大佐の腕に抱かれてであった。彼はOttensenにある、ちょっと前の1804年に亡くなっていたklopstockと同じ墓場に埋葬された。Klopstockは1792年に彼の指揮を辞任するように彼に求めていた人物である。その墓場にはまた少し後になって、ハンブルクにおけるダヴーの厳しい圧政から真冬に逃げ出さざるを得なかった犠牲者達が葬られた。この地は1806年以降の抑圧と暴政の数年間において愛国的ドイツ人達の聖地となり、リュッケルトの愛国的な詩にうたわれた。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P128,129



 「見舞う者もないまま」とここにはありますが、ドイツ語版Wikipediaでは「そこで1806年11月10日、負傷のため71歳で没する前に妻、妹と最年長の息子たち二人に別れを告げることができた。」とありましたし、『キャロライン王妃事件』P38には「公爵も一ヶ月後に他界したが、愛人が付き添っていたという。」とありました(尤も、妹や息子達がいて、愛人もいたのかというとどうかという気もしますが……)。

 ブーリエンヌはフランス側の人間ですし、その回想録の信憑性は色々と問題があるそうで、噂的に聞いたことを書きとめただけなのではないかという解釈もあり得るかもです。が、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』が他の資料でそこらへん書かなかった(書けなかった?)のはなぜかという問題もあるか……。

 ハンブルクにおけるダヴーの圧政というのは、1813年からのハンブルク防衛にあたってダヴーが、数万におよぶ市民を無理矢理追い出し、うち数千人は行くあてもなくそのまま市外にとどまって-8度という気温の中で病死して……ということを指していると思います。


 その後、1807年のことですが、こんなことがあったそうです。

 バーデン辺境伯の娘が嫁いでいるブラウンシュヴァイク大公の国土がナポレオンによって蹂躙され、大公家の私有財産も没収された。それを悩んだバーデン辺境伯夫人の依頼で、フォン・ベルクハイムはナポレオンに今は亡きブラウンシュヴァイク大公の後継者の息子たちやその嫁である辺境伯の娘に対し、多少は寛大な措置をとってくれないかと頼んだ。しかしナポレオンはブラウンシュヴァイク大公には対仏戦争の責任がある。そしてブラウンシュヴァイクが加勢しなかったらプロイセンはけっして、ナポレオンに対して挑戦しなかったろうと述べた。……
 その後再度ベルクハイムが、ブラウンシュヴァイクが実はナポレオンと戦う意志がなかったのだと言うと、彼は激怒して答えた。
「何を言うか! ブラウンシュヴァイク大公こそ、12年前(フランス革命軍が同盟軍と戦った頃)のあの低劣なマニフェスト【ブラウンシュヴァイク宣言】を書いた当の人物ではないか。彼はそのなかで、パリを破壊する、石ころ一つ残しておかないと言ったではないか! いったいパリが彼に何をしたというのだ? 数人の単純な人間がパリで何やらけしからんことを企んだからだというのか? あのマニフェストを書いた連中が私に対して行なった侮辱には報復せねばならない。私が彼らのもとに押しかけたように、もし彼らが私の領内に侵入したら、彼らは私を放っておいてくれると、あなたは本当に信じるのか? 彼らが私を放置しておくはずはないし、私もそれを望まなかったであろう。戦争においてはだれしもおのれの義務を果たすべきだ!」
『ナポレオン大いに語る』P119,120



 バーデン辺境伯の娘というのはマリー・フォン・バーデンのことで、四男の黒公爵と結婚していましたが、1808年の出産時に死去していたんですね……ブラウンシュヴァイク公(父)の子ども達の世代は基本的に不幸だと思いますわ……。

ブラウンシュヴァイク公が両目を負傷した場所

 寒暖の差が激しくなくなってきて、ようやく体調が落ち着いてきました。

 で、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』の1806年の部分を、所々飛ばしつつも、ようやく最後まで訳せました。戦いに関連する部分は今後、他の資料とも付き合わせながら見ていくとして、ブラウンシュヴァイク公が撃たれた時とその後について先に書いておこうと思います。


 ブラウンシュヴァイク公がアウエルシュタットの戦いの最中に両目に弾が当たったことについては、過去に両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公で扱ってました。

 この時のことを、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』ではこう記述しています。

 ブラウンシュヴァイク公はその時その場に残り、いつも通り自身の危険を顧みず、その村の中央への攻撃の先頭に立った。霧が晴れ、10月の朝日の中に、フランス軍の配置が見え始めた。正午までのブラウンシュヴァイク公の部隊配置により、ことは完全に成功するところであった。フランス軍は、数的劣勢の中、恐ろしく粘り強い抵抗を続けていた。だが、損害が膨大であったことはダヴー元帥の報告からも分かる。左翼へのシャルンホルストの攻撃は確実に地歩を得つつあり、また右翼の諸高地の占領も成功しつつあったまさにその時、突如ブラウンシュヴァイク公が重傷を負ったのである。ナポレオン麾下の将軍の一人であるToulongeonが語るには、ブラウンシュヴァイク公はそれまでの諸戦役において、必要な瞬間には単なる一兵士としての役割を果たす心構えが、あり過ぎるほどあったという。彼はほとんど単独か、あるいはまったく単独で、敵部隊の切っ先へと前進していったことが再三再四あったことが知られていた。そして彼はこの時、このほとんど無謀な勇敢さ故に罰を受けることになったのである。彼は自身の下の将校達全員を様々な任務のためにすでに派遣してしまっており、Hassenhausenの村の正面にいたHamsteinの擲弾兵達を鼓舞するために彼らの先頭に立ったのだが、その時一発の銃弾が彼の鼻を横切り、彼の両目をかすめて失明させた。彼はそばにあった石積みへと倒れたが、一人の兵卒に支えられながら、再度自分の馬に乗ることができた。この状態で、彼はハンカチで顔を覆い、軍の他の諸師団と一緒に馬に乗っていくのが目撃されている。だが彼はすぐに努力を放棄せざるを得なくなり、有名なFolger軍医に付き添われて、担架に乗せられて戦場を離れなければならなかった。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P121~123


 「有名なFolger軍医」というのを検索して探してみたのですが、ぱっとは出てこなかったのでパス(^_^;


 弾丸の通り方について、前掲エントリに挙げていたR/Dさんの二重に見えた?から再度引用しますと、

 ブラウンシュヴァイク公の負傷について、HöpfnerはDer Krieg von 1806 und 1807, Erster Theil. Erster Band."http://books.google.co.jp/books?id=ZAcKAAAAIAAJ"で、「公がヴァルテンスレーベン師団の左翼にいるハンシュタイン擲弾兵大隊に[ハッセンハウゼン]村を奪うよう要請した時、彼は両目を撃たれ馬から落ちた」(p450)と記している。そのタイミングは、Höpfnerの説明によれば戦闘経過を5段階に分けた3段階目。PetreのNapoleon's Conquest of Prussia"https://archive.org/details/napoleonsconque00petrgoog"に従うなら午前10時頃となる(p159)。まさに戦闘が佳境に入る頃であった。
 ちなみに最終的にブラウンシュヴァイクの命を奪うことになった弾丸は「頭の右側から左側へと貫通し、右目の上端から指の幅分上を通って左目の眼角の内側を通った」(Hoepfner, p450n)そうだ。……右目はすぐに視力を失ったが左目はなおいくらかの光を見ることができたとあるので、公は自分の症状を説明できる程度の意識は持っていたと思われる。この時代には決して珍しくないが、恐ろしい爺さんだ。



 今回、『Der Krieg von 1806 und 1807』を再度ドイツ語→英語翻訳できないものかと見てみたのですが、ひげ文字の解読がWikipediaで例を見ながらでさえできなかったのでやはり諦めまして(>_<)

 『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』で当該ページを見てみると、このようにありました。

 10時には、【フランス軍師団長の】ギュダンは恐ろしいほどの危機的状況にあった。だが彼は、右翼におけるシュメッタウの攻撃をすべて撃退した。この際にシュメッタウは瀕死の重傷を負い、王の乗っていた馬に弾丸が当たって彼の下で息絶えたほどであった。ブラウンシュヴァイク公もまた、一発の銃弾に両目を撃ち抜かれて重傷となり、戦場から運ばれていった。この傷により彼は、Altonaの近くで11月10日に亡くなる。彼が撃たれた場所はHassenhausen村とTaugwitz村を結ぶ道路の大体真ん中あたりから100ヤードほど南で、碑が建てられている。
『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P159



 なんと! もしかしたらGoogleストリートビューか何かでこの碑を見ることができるかもしれない、と思って見てみますと……。

https://www.google.co.jp/maps/@51.1276026,11.6476698,1718m/data=!3m1!1e3


 ↓その画像

スクリーンショット_160405_022

 Googleストリートビューが使用できない! トホホ……(T_T)

 しかしめげずに、碑のありそうな辺り(2つの村の間の道路の真ん中のちょっと南)を探してみますと……。

 生け垣付きの碑らしきものを発見!

https://www.google.co.jp/maps/@51.1249455,11.6456702,111m/data=!3m1!1e3

 ↓その画像

スクリーンショット_160405_023

 「いやー、これじゃね? すげぇ~(*^_^*)」

 ……と思ったものの、傍証も探すべく、とりあえずドイツ語で画像検索してたりしたのですが、この生け垣付きの碑らしきものの形で、ブラウンシュヴァイク公の碑だというものが全然見つからない!

 諦めて英語で探してみると、『Battlefields』とかいう本の、現在のアウエルシュタットの案内の最後のあたりにブラウンシュヴァイク公の負傷の地点の碑の記述があり、その下に写真もあって、これはドイツ語で検索した時によく出てきた、木の下にあるなんかでっかい碑。しかしどうも、他の資料等色々総合するとこのでっかい碑が負傷地点の碑らしい……。

 ↓Wikipediaから、その碑の画像

Hassenhausen - Denkmal für den Herzog von Braunschweig

 しかしこの、木の下の碑はどこなのか。最初に見つけた碑らしきものの右側の木の下か、あるいは道路から100ヤード(90m程度)という記述からするとその更に上の木の下か……と悩んだんですが、とあるページの写真から分かった!(ような気がする)

Europe Grand Tour 2014

 ナポレオン戦争などの古戦場巡りをしたらしき、英語のページですが、そのアウエルシュタットの部分の最後の写真(イエナの地図の直前)に、その「木の下の碑」の遠景があり、その右側に私が最初に見つけた「生け垣付きの碑らしきもの」が映っている(ような気がする)。

 この写真からすると、最初に見つけた「生け垣付きの碑らしきもの」は、なんか屋根だけで下はがらんどうっぽいですね(^_^;

 しかしともかくも、前掲の写真の「生け垣付きの碑らしきもの」の右側の木の下に、見えませんが、ブラウンシュヴァイク公が負傷した場所であるという碑があるのだと思います。この遠景の写真は道路方向から南を向いて撮影されたのでしょう。

 前掲『Battlefields』という本の地図にも、ブラウンシュヴァイク公とシュメッタウが負傷した地点が書き込まれていましたが、ちょっと東に寄ってしまっている気がしないでもない……。


 いやー、途中諦めかけたほどだったんですが、多分そこだろうというところまで行ってよかった……。しかし、前掲のEurope Grand Tour 2014というページはいいですね。戦場の辺りが全然開発されてなくて、ほとんど昔のままじゃないのかと思えるほどで、景色がすごいのもいいと思います。


コマンドマガジン129号にOCS記事載りました

 コマンドマガジン129号に書きましたOCS記事が載りました!

コマンドマガジン第129号『クラッシュ・オブ・タイタンズ Clash of Titans』

 送っていただいたので、ちょこっとだけ写真を。

CIMG3301.jpg

 5ページの記事で、写真もカラーで入っています。これでOCSプレイヤーが増えてくれたら……(特に関西で!)


 他の記事にあったように、今後OCSのリプレイ記事とか作戦研究とかの記事も送れればいいのかなぁ……と思いましたが、リプレイ記事は作るのが難しそうなので作戦研究か……? 『KOREA』の開戦キャンペーンあたりで……? うーん、どうしたものか……。



 

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と鉄十字章

 『愉しいビーダーマイヤー』5回目。

 読んでいると、鉄十字章の話が出てきました。1813年にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって制定されたというのは良く分かってなかった……。

 ↓1813年に制定された鉄十字章の画像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/de/d/dd/SDC11339.JPG

 ……鉄十字章は、もとは解放戦争のとき、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって怨敵ナポレオン=フランスのレジオン・ド・ヌール勲章の向こうを張って創設され、功一級と功二級とがあり、もっぱら軍人に与えられた。
 ……制定にあたり、国王自らデザインを考えたが、結局、あの大建築家フリードリヒ・シンケルの簡素で力強いデザインに決まった。鋳鉄の十字型の上にアームに王冠と国王のイニシャルFW、中央に樫の葉、下のアームに1813の年号が入っている。だが黒い鉄製では黒い制服を着たときまったく目立たないという不満の声が挙がり、倹約家の王もしぶしぶ十字架全体に銀縁をつけることに賛成した。それでも当時、1個2ターラー50ペニヒかかったという(現在では7500円ほどと考えられる)。
 ……最高位にあたる大鉄十字章は、1815年にブリュッヒャー元帥、1914年にヒンデンブルク元帥、1940年にゲーリング国家元帥が受賞している。
『愉しいビーダーマイヤー』P23,25



<2020/01/04追記>
 その後読んだ、大木毅さんの本にこうありました。これも非常に興味深い話です。

 鉄十字といえば、あらためて説明するまでもない。そのかみのドイツ騎士団の旗に由来する、プロイセン・ドイツ軍隊の象徴である。かかる意匠が、プロイセン、そしてヨーロッパで初めての、社会的出自や身分、軍の階級を問わず、戦場で勇敢な働きを示したものに与えられる勲章に採用されたのも、ある意味当然のことだったろう。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、解放戦争(ベフライウングクリーク。ドイツでは、1813年から15年にかけての対ナポレオン戦争を、このように呼ぶ)において活躍した名将グナイゼナウ宛の手紙の欄外に、こうした鉄十字章創設の意図を明白に記している。「もちろん、胸につける十字章がよろしい。それは、プロイセンの色であり、ドイツ騎士団の色である。その一致が重要だ。この十字章は、敵前で義務を果たしたものなら誰でも受けられるということになろう」。
 ルイーゼ王妃の誕生日である1813年3月10日、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、ブレスラウにて、鉄十字章創設を命じる公文書を発布した。デザインは、最初、軍事顧問官アインジーデル伯爵に委託されていたが、彼の案は国王の好みに合わず、建築家シンケルがあらためて意匠を練ることになった。
その結果、われわれが知る鉄十字章の原型が誕生したわけである。素材には鉄が選ばれた。これには、当時、戦費をまかなうために「われは鉄のために金を捧げた(ゴルト・ガープ・イッヒ・ヒューア・アイゼン)」というスローガンのもと、貴族や市民層から金装飾品の供出を求めていたという背景があり、一種の時代精神の反映だったともいえる。
 等級は一級と二級で、一級は二級を受けたものが、あらたな戦功を挙げたときに授けられることになっていた。その上に大十字章があり、これは、決定的な戦勝、もしくは重要な要塞の奪取に功績があったものにのみ授与されると定められている。ちなみに特別賞として、星付大十字章というものもあったが、それを授与されたのは、ワーテルローの勝者ブリュッヒャー元帥ただ一人だった。
 ただ、より注目すべきは、鉄十字章が「祖国のために功績をあげた臣下に与える、この戦争限りの勲功章」とされていたことだろう。つまり、鉄十字章は本来、対ナポレオン戦争、フランスの圧政からプロイセンを解放するいくさでの功績を称える勲章だったのである。事実、1864年のデンマークとの戦争ならびに1866年の普墺戦争では、鉄十字章は出されていない。
『ルビコンを渡った男たち』P50

<追記ここまで>

 鉄十字章 ー Wikipediaによれば、

 「1813年章」として知られ、章の裏面には王冠と柏葉及びフリードリヒ・ヴィルヘルムの頭文字FWと制定年度の1813が刻印されている。この刻印は、祖国解放戦争の勝利を記念して創設されたこの勲章の伝統を受け継いでいることを表すため、以後制定された鉄十字勲章の裏面にも施された。

 ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥は星章を授与された。この星章は Blücherstern と呼ばれている。


 だそうで、大鉄十字章と星章の両方を付けているブリュッヒャーのカラー画像↓
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/Bl%C3%BCcher_%28nach_Gebauer%29.jpg


 実は騎士十字章のレプリカは私も持ってます。というのは、大学時代に所属していた國學院大學シミュレーションゲーム研究会(K.G.M.C.)で学祭後に授与されたので……(創設者の方が軍装好きで、色々持っておられたり用意されたりで、我々ももらったのでした)。

CIMG3290.jpg

 K.G.M.C.のマーク(バーバリーのパクリらしい)が多分瞬間接着剤で付けられてます。下の年号が1813なのでこれが本来は裏面なのですね。反対側を見ると鉤十字と1939が刻印されてました。

 1813という数字は、確かこの騎士十字章で見たような気がしてました。そうか、これは解放戦争の年のことだったのか……。


 横に見えている生地は、確かその創設者の方が作った(あるいは見つけた?)、勲章をモチーフにしたネクタイで、これは買わせてもらったような気がします。

CIMG3289.jpg

 確か左側のが騎士十字章をモチーフにしたやつで、右側は連合国側の何かの勲章をモチーフにしたものだと聞いたと記憶していたのですが、今見ると右側の帯の部分が騎士十字章のタイ?の部分とまったく同じなのでは……。右側の方が騎士十字章がモチーフだったのかなぁ?(^_^;

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と音楽人形

 『愉しいビーダーマイヤー』の4回目。

 自動音楽人形に関する項目で、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の話が出てきました。↓の後半はオマケ。

 ドレースデンのフリードリヒ・カウフマンは父親と息子の協力をえて、多くの音楽人形を製作した。ナポレオンがプロイセンを破り、ベルリンのシャルロッテンブルクに勝利の夢をむすんだとき、プロイセン王ヴィルヘルム3世は召使いに命じて、ひそかに人形のねじをかけさせ、時ならぬ時にプロイセン騎兵隊のマーチを喨々と演奏せしめて、征服者の夢を破ったという。カウフマンの技術もすこぶる優秀で、トランペット人形は指でピストンを正しく押さえるように作られている。ドレースデンにつくられたカウフマンの「音響効果室」は、第二次大戦まで子供づれの見物客で賑わう名所となっていた。

 メトロノームの発明者でもあるヨーハン・ネーポムク・メルツェルは、自動音楽演奏機「パンハルモニコン」のためベートーヴェンに「ヴィクトリアの戦い」を作曲してもらい、のち版権問題を惹き起こしたが、楽聖のために4個の補聴器をこしらえたことはよく知られている。彼はナポレオンとマリー・ルイーズの結婚式のため、仏墺両国の騎兵隊マーチを演奏するトランペット人形をこしらえた。
『愉しいビーダーマイヤー』P177,178



 軽く検索してみたんですが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のこの件に関するずばりそのものに関する資料は見つけられませんでした。

 どういう人形であったかに関しては例えば↓とか?

Trumpet Player of Friedrich Kaufmann


 また、『Androids in the Enlightenment: Mechanics, Artisans, and Cultures of the Self』という本のP33には、

 これらの最初の大規模な人形群は、1805年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって購入された。


 と書いてありました。

 詳しい話が分かるなら知りたいところですけどもね~。

ナポレオン時代のドイツ道路事情

 『愉しいビーダーマイヤー』の3回目。

 ナポレオン時代のドイツの道路事情について。

 ……ドイツの駅馬車の有名な遅さ……の原因としてまず当時の道路事情が挙げられる。徳川幕府の政策同様、18世紀末まで西欧でも、英国以外の国では外敵の侵入や経済の混乱を恐れて、道路の整備に力を入れず、継子扱いにしていた。ローマ時代以後荒廃するに任されていた幹線道路の改善に手をつけたのが、機動力を重視する近代戦の開祖ナポレオンで、本国はもちろん、占領した国の幹線道路を拡張し、道の両側をポプラ並木にすることを奨励した。だがナポレオンのために幾度か決戦場を提供することになったドイツの道路は重装備の各国軍隊の往来のために、やっと解放戦争に勝ったものの、そのときは昔以上にひどい状態になっていたのである。たとえば1824年、大建築家のシンケルがイタリアから帰国した際、バンベルクからテューリンゲンの森を経てワイマルまで行ったが、絶えず転覆の危機にさらされ、夜間は一歩も進めず、ゴータ付近では雨のため道が泥の海と化して、それが乾くまで待機しなければならなかった。だがワイマルから北東のエッカルツベルガまでの道路は大臣ゲーテの努力によって立派に舗装されていた。

 死者や重傷者が出る転覆事故は始終起こった。たとえばE・T・A・ホフマンが1813年5月20日、ライプツィヒへ向かう途中、乗っていた満員の馬車が転覆し、妻のミーシャが頭部に重傷を負った。そのとき同乗していた某伯爵夫人は死亡している。
『愉しいビーダーマイヤー』P111,112



 ナポレオンによる道路整備についてちょこっと検索してみたのですが、たとえば↓とか。

なぜ日本の道路は左側通行なのか? 調べて分かった歴史の裏側


 Napoleon: Man of Peaceというページには、ナポレオンはフランス帝国内で20,000マイル(約32,000km)、それ以外の地域?で12,000マイル(約19,200km)の道路を完成させたと書いてありました。地球1周が40,000kmですから、それ以上の長さを整備したことになります。


 ゲーテによる道路建設については、『ゲーテとその時代』にも詳しい記述がありました。

1806_1812Map02ヴァイマル用地図01フランクフルト

 ↑参考地図。緑色の領域がザクセン・ヴァイマール公国で、ここの大臣をゲーテはやっていたのです。

 道路建設も彼が力を入れた仕事の一つである。道路建設局長としてのゲーテは、当初はとぼしい予算をやりくりして道路を補修することで満足していたが、財務庁長官になった1782年から方針を変え、赤字覚悟でエルフルト-ワイマル、およびワイマル-イェーナの幹線道路を完成しようとした。目的はエルフルトを通っているフランクフルト-ライプツィヒ間の一大通商路にワイマルとイェーナを連結し、ワイマルの経済を振興することである。この大きな目的をゲーテは局長在任中で達成することはできなかったが、ともあれ1786年に彼がイタリアに旅立った時、エルフルト-ワイマル道路は完成し、ワイマル-イェーナ線も完成に近づいていたのだった。
『ゲーテとその時代』P129,130



 イエナの町の重要度がちょっと気になったんですが、例えばこんな風に書かれていました。

 この国の主な都市にはワイマル(住民約6000人)のほかアイゼナハ(8000人強)とイェーナ(4000人強)がある。……イェーナは大学町である。……ワイマルは第一に宮廷都市……
『ゲーテとその時代』P115,117



 あと、ぱらぱらめくっていて、ザクセン・ヴァイマール公であるカール・アウグストの母がブラウンシュヴァイクの公女であったという記述が目に留まりました。

 しかしこの田舎の小宮廷都市【ヴァイマールのこと】が、実はゲーテが来る少し前から文化・学芸都市への道をすでに歩み始めていたのだった。カール・アウグストの母、アンナ・アマーリアの意向に沿って、である。彼女はブラウンシュヴァイクの公女、母はプロイセンのフリードリヒ大王の妹のフィリピーネ。……【七年戦争】戦後情勢が安定すると、およそ文化の香りを欠いていたワイマルの宮廷に……生家のブラウンシュヴァイクの宮廷にみなぎっていた学芸の雰囲気を移し替えようとしたのである。
『ゲーテとその時代』P118



 アンナ・アマーリアは我らがブラウンシュヴァイク公(父)の4歳年下の妹で、没年が1807年ですからブラウンシュヴァイク公(父)が死んだ1806年にはまだ存命で、つまりカール・アウグスト公はプロイセン元帥のブラウンシュヴァイク公(父)の甥っ子であったわけですね(あと、フリードリヒ大王の妹の孫に当たる)。そりゃー、1806年当時、プロイセンに与してもおかしくないですねー(それでもって、蹂躙されたヴァイマールにおいてカール・アウグスト公の妻ルイーゼがプロイセンに与したことをやむを得ないことだとナポレオンに言うわけです。→ヴァイマール公妃ルイーゼの勇気)。


フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が側室を?

 『愉しいビーダーマイヤー』から、2回目。

 ダンディについて扱った項でヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵という人物が出てくるのですが、まあダンディとかどうでもいいので(おい)ナポレオン戦争に関係することだけ取り出してきますと、彼は

 ……ライプツィヒ大学へ進み、ここを中退してザクセン公国の軍隊へ入り、ドレースデンで近衛将校として勤務した【1805年前後?】。……1811年、家督を継いで伯爵となる。解放戦争のときはワイマルのカール・アウグスト公【→ヴァイマール公とは?】の副官となって従軍。戦後ムスカウはプロイセン領となり、彼もプロイセン軍の大佐となった。
『愉しいビーダーマイヤー』P93


 むしろカール・アウグスト公が1813年に戦っていたことの方に驚きを覚えましたが、Wikipedia英語版によるとカール・アウグスト公は、

 この時以後、1812年のモスクワ戦役の後まで、彼の部隊は全てのナポレオン戦争においてフランス軍の旗の下で戦った。だが1813年、彼は第6次対仏同盟に加わり、1814年の最初には30,000人から成る1個軍団を率いてネーデルラントで作戦行動をおこなった。


 だそうです。


 それはともかく、戦後ピュックラー侯爵はハルデンベルクの娘と結婚しますが……。

 その後ピュックラーは、プロイセンの宰相カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクの出戻りの娘ルーツィエに求婚をくりかえし……1816年、ルーツィエと婚約が整うと、この10歳も年長で、15歳で彼を生んだ自分の母親とさほど年が変わらない花嫁を迎えるため、ムスカウにイギリス式大庭園をつくり始めた。……
 妻ルーツィエには先夫フォン・パッペンハイム伯爵との間にもうけたアーデルハイトと、誰の種かわからないヘルミーネの二人の娘があったが、世間では、ヘルミーネはナポレオンのお気に入りの元帥でスウェーデン王となったベルナドットの種であると噂していた。しかしルーツィエは、自分が使っていた馭者との火遊びの結果だと公言していたようである。いずれにせよ、この娘は絶世の美女で、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が見初め、ぜひ側室にと血道をあげたが、ハルデンベルクがかろうじて思いとどまらせた。美人に眼のないピュックラーもこの娘にはひとかたならぬ執心ぶりであったが、ルーツィエの眼が光っていたので、とうとうプラトニックな関係に終わったようである。
『愉しいビーダーマイヤー』P95


 なんかもう、色々と突っ込みどころが(^_^;

 とりあえず、ベルナドットがナポレオンのお気に入りであるという記述が一番オカシイというのは置いといて、ピュックラーが自分の妻の連れ子があまりにも美人過ぎて手を出そうとするのが当然であるかのような書き方……。「プラトニックな関係」って、プラトニックならいいのかよ!

 いや本来は、そこらへんどうでもいいのです。このエントリの本題は、宰相ハルデンベルクの孫娘(父親不明)が絶世の美人で、それを側室にしようと血道をあげたというフリードリヒ・ヴィルヘルム3世について。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、その日本語版Wikipediaにもあるように、「父王の果てしない漁色に嫌悪を感じながら育ち」、妻ルイーゼ(これもすげえ美女)一途かと思っていたのですが……。今回改めて見てみると、

1810年にルイーゼ王妃が死去したあとは独身であったが、1824年ハラハ伯爵夫人アウグステと再婚した。……王妃ルイーゼとの間には、以下の5男4女をもうけた。後妻のアウグステとの間に子供はいない。


 なのですね。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の側室について調べようとしてみたのですが、英語版までだと、記述は見つけられませんでした。あと、ハラハ伯爵夫人アウグステの英語版Wikipediaを見てみると、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はルイーゼ王妃以外には王妃を持ちたくなく、アウグステには王妃の呼称を与えなかったそうです。アウグステが美人かどうかは書かれていませんでした。

 王族は子孫を残すのが重要な仕事の一つですし、ルイーゼ王妃が早逝であったこともあって、周りもフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に再婚を促したということも考えられますが、しかしアウグステとの結婚は割と秘密であったらしいし……。時代的には側室がいるのは当然でしょうから(というか、現代ここ数十年?の「側室がいるのは異常」という感覚は、人類を生物学的に見た場合にはむしろ超異常ではないかとも私は思うのですが)、父親の漁色に嫌悪を感じながらも?、しかし美人だったらぜひ側室に欲しいという感じだったんですかねー(部下の孫ですが)。まったくこれだから男は……(おい)。

 生物学的には人類は一夫一婦制じゃないですよ的な話とかに関しては、最近出た、



 という本がなかなかオススメです。子どもの学歴は努力次第だと信じて疑わない、日本の教育関係者にもぜひ読んで欲しい……。

ブリュッヒャー元帥のパイプ

 以前紹介していました、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世について書かれたウェブページ、

不定詞王 König Infinitiv

 で、『愉しいビーダーマイヤー』という本が出てきていました。



 この本、1815年~1848年のドイツの様々な諸相について書かれた本で、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に関しても出てくるというわけですが、先日ジュンク堂に行ってこの本があったので索引を見てみると、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が出てくる箇所が6箇所あるとか、ブリュッヒャーについても2箇所で触れられていることが分かったので、Amazonにて古本を注文してみました。


 で、目を通し始めているんですが、とりあえずナポレオン時代のこととして書けそうなネタがあったのでそれを。タバコと、そのパイプの話です。

 プロイセン政府は、18世紀末から、火災予防のため、街頭で喫煙する行為を禁止していたが、1806年、フランス軍がベルリンを占領すると、勝利者の特権をもってこれ見よがしにパイプをくわえて都大路を闊歩したので、こらえきれなくなった市民たちが真似して禁止令は有名無実になってしまった。ところが1809年、フランス軍が撤退していくと、頑迷な政府は再び市街区及びティーアガルテンでの喫煙を禁じ、違反者にはパイプの没収や罰金や体罰をもって臨むことに決めたが、なにしろ当時の状況では自国の将兵の士気をも考えねばならず、軍人だけは例外としたので、市民のなかには、国民皆兵というスローガンを逆手にとって取り締まる警官に逆らうものが多く、ときには警官と組んで軍隊と小競り合いを惹き起こすものさえあった。
『愉しいビーダーマイヤー』P32、33



 1809年に一度ベルリンを撤退しているというのは意外でしたが、その後また戻ってきたりしたんでしょうか……。最終的な解放は1813年でしょうし……。


 それからこれ。

 ブリュヒャー元帥がワーテルローの決定的瞬間に、馬上で愛用の大パイプをうちふって、突撃! と叫んだという伝説が、このタイプのパイプに寄せるドイツ人の民族的愛着をいっそう高めたのであった。
『愉しいビーダーマイヤー』P34



 こういう描写を私は読んだ記憶がなく、試しに『Blücher:Scourge of Napoleon』と『The Hussar General』を軽く流し読みしてみたのですが、パイプに関する話はないっぽい感じでした(もちろん見落としている可能性もあります)。むしろ、リニーの戦いの終盤に落馬した時の傷が激痛のままであり、キツイ酒を飲んだり塗ったり?していたという描写が多いです。ただ、ブリュッヒャーは若い頃から無鉄砲な若者がやるようなあらゆる悪いことに手を出していましたし、タバコをやってないということは考えにくい(^_^; 尤も、引用に「伝説」とあるのは、「史実ではないのだが、そういう伝説が作られ」ということなのかもしれませんね。


 試しにさらに、「blucher waterloo pipe」で検索してみると、ワーテルロー戦役の時のブリュッヒャーの大パイプの写真と説明文が出てきました(ロンドンの軍事博物館での、ワーテルロー関連の品200個のうちの一つ? 200周年記念とかけてある?)。

Marshal Blücher’s Pipe

 パイプに関係するところだけを拾い出してみると、「これはブリュッヒャーのパイプである。彼はリニーの戦いの時にこのパイプをなくした。(その後?)彼は落馬して失神し、助け出されたのだが、その間にこのパイプは回収された。」ということらしいです。先ほどの引用の「ワーテルローの決定的瞬間に、馬上で愛用の大パイプをうちふって、突撃! と叫んだ」という話は出てきてません。

 史実は地味であるというテーゼの好例かもしれませんが、しかし写真の大パイプはなかなかにインパクトがあって、印象深くていいですね。この写真はレプリカとかでなく、ブリュッヒャーがワーテルロー戦役で使っていたパイプ本物だということなのでしょうか……すごいですね。


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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