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GameJournal59号にOCSシステム紹介記事が載りました

 6月1日発行のGameJournal59号が家に届きました。

ゲームジャーナルNo.59 講談級大坂の陣 ~狙うは家康の首一つ~

 今回、OCSシステム紹介記事を書いてまして、載せてもらってます。

CIMG3261.jpg

 3ページの記事で、システム紹介が主で個々のゲームはあまり扱ってません。白黒ですが写真も色々載ってます。可能ならぜひご覧下さい(*^_^*)


 あと、実はそれ以前に書いたOCS紹介記事が次のコマンドマガジン(6月20日発行の129号)に載りそうだと思われます。こちらもぜひよろしく~。



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OCSの物置(Wiki)とりあえずできました

 以前から作業していたWikiWikiシステムでの「OCSの物置」ですが、とりあえず現状置けるものはほぼ置いた形になったかと思います。

OCSの物置

 ようやく作業が終わったので、OCSのルールサマリーに着手していこうと思います。が、なんか色々やるべきことが……(教員免許更新とか、ネトゲとかバキッ!!☆/(x_x))。

1805年~1806年にかけてのブラウンシュヴァイク公(父)

 1806年のブラウンシュヴァイク公(父)について、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』で訳していっているのですが、最近寒暖の差が激しいためかちょっと風邪気味で頭が働かないので、むしろネトゲ(Blade&Soul)をメインにやっておりますバキッ!!☆/(x_x)

 ただ、1806年のブラウンシュヴァイク公についてはかなり分量も多くなりそうなので、とりあえず1805年~1806年にかけて(イエナ戦役前)の公について、一度ブログにまとめておいた方がいいなと思いました。

 以下、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』のP97からP99あたりです。

 1805年、ナポレオンは再びオーストリアを攻撃した。そしてフランスとロシアは同時に、プロイセン領を横断する部隊を送って脅迫してきた。片方はオーストリアを攻撃するために、他方はオーストリアを守るために。ブラウンシュヴァイク公はベルリンに呼ばれたが、「ハルデンベルク回想録」は再び公が、確固とした意見を述べることができなかったことを記録している。フランス軍が故意にプロイセン領アンスバッハを侵犯した時、ベルリンにおける主戦派にとって絶好の機会が訪れた。戦争は今や確実だと思われた。しかも同盟者としてロシア軍の助力を得て。10月24日、ブラウンシュヴァイク公は軍の指揮を執り、シャルンホルストは参謀長となったが、参謀本部はそのほとんどがシャルンホルストが新しく設立された士官学校で教えてきた若き将校達から成っていた。ベルナドット麾下のフランス軍は直ちにハノーファーを明け渡すように要求された。新しい敵をもたらすことは都合が悪いと考えたナポレオンはベルナドットに、ブラウンシュヴァイク公の軍隊が前進してくる前にハーメルンとハノーファーから撤退するよう命じた。その結果は明らかなプロイセンの勝利であり、この決断と事柄全体が士気を大きく改善させ、軍事的自信を得させることとなった。シャルンホルストがこの時ブラウンシュヴァイク公に要請したのは、プロイセン軍への一般的指示はあまりにも北西方向になりすぎないべきであるということで、なぜならばフランス軍はのドナウ川の渓谷を通って前進中であり、実際の戦闘はそこで起こるものと予想されたからであった。それまでシャルンホルストとブラウンシュヴァイク公との間にはいかなる見解の相違もなかった。



 その後、『Life of Scharnhorst』という本からの引用らしい文が続くのですが、「彼」とあるのは全部ブラウンシュヴァイク公? 全体のニュアンスがいまいち分かりにくいです。

【だが?】「彼の司令部が好戦的な人物に占められると、ブラウンシュヴァイク公は別人となった。彼はプロイセン軍の行軍の容認できないほどの遅さに絶えず愚痴をこぼしていた。彼はまた、国中の引き抜けるあらゆる場所から全軍を集結させることを要求した。この全軍で」彼は言った。「遅滞なくナポレオン軍に向かい、彼の無敵という名声を剥奪し、ここ何年もの間耐えてきた恥辱からヨーロッパを解放しなければならない。彼らの全ての努力は遅すぎるようになるかもしれないという信念がすでに彼を圧倒してしまっていた。」 もしオーストリアがやられたら、と彼は繰り返している。「次は我々がやられることになるだろう。そしてそれで最終的には、フランスを当てにして、ヨーロッパの共通の利益からプロイセンを分離させることが良いことなのだと考えている者達を納得させることになるだろう。」 



 次に述べられるのは、ブラウンシュヴァイク公が果断な計画を持っていたものの、それを非戦派の王の前では言えなかったという話。

 彼はベルリンにある計画を送っており、シャルンホルストによると、それはフランス軍の左側面を突くことができるように南へ進撃して彼らの連絡線を遮断し、その間ハーメルンのベルナドットを監視するために充分な部隊を送っておくというものだった。だが、それが野営地におけるブラウンシュヴァイク公の言葉だとしても、彼はベルリンで王【フリードリヒ・ヴィルヘルム3世】の面前で同じ言葉を維持することができなかった。王は公の計画を承認していたが、ハウクヴィッツ、ロンバルド、ルッケシーニなどに取り囲まれ、可能であればいかなる代価を払っても平和を維持することを固く決心していたのだった。



 そして、ボイエンによるブラウンシュヴァイク公評が来ます。途中、ひたすらブラウンシュヴァイク公が褒められる文章が続く(そして最後にひっくり返される)のですが、あまりにも長いのでそこは途中で省略しました(^_^;

 この時の参謀将校達の中にボイエンがいた。彼は『回想録』の中で、この時の将軍がどう見えたかを詳しく書いている。
「ブラウンシュヴァイク公は」と彼は言う。「その前半の軍事経歴において優れた意志決定と軍事的洞察力を示し、確実に最も博識な君主達のうちの一人であり、これまでに存在した中で最も尊敬すべき人物であった。この人ほどに知的で魅力的な会話をすることのできる人物などほとんどいないだろう。オランダでの戦役における彼の成功と、ライン戦役における彼の指揮のいくつかは大きな名声を彼に与え、シャンパーニュでの不成功はそれを曇らせることはできなかった。彼の膨大な軍事的知識は、専門的な面での詳細さにおいても範囲の広さにおいても、卓越した融合を果たしていた。……
 だが、と彼は続ける。これらの全ての美点が、深刻な欠点によって覆い隠されてほとんど役に立たないものとなってしまっていた。……かつての名声を失ってしまうのではないかという緊張と不安、ささいなことへ愚かしいほどに気を取られてしまうこと……そして特に、王と意見が異なる際に、普段言っている自説を主張することが全く不可能であったことであった。「この人物が」ボイエンは問うている。「ナポレオンに対して指揮して勝てるのだろうか?」




 ちょっととばして、P105~106。1806年中の、戦役が始まるまでの間の話です。

「これが」ハルデンベルクは絶望しながら書いている。「これがブラウンシュヴァイク公なのだ! なぜ彼は自分の気持ちを王に話さないのか? そしてなぜ王はこれらの件について彼に要求しないのか? こうして、この過誤によって、この国に破滅がもたらされようとしている!」


「私はブラウンシュヴァイク公と会った。」Alopaeusは書いている。「我々は長い時間話し合った。彼は私が望んでいたことのすべてを語り、彼と私の意見はまったく一致した。だがそれにも関わらず、彼は1インチも動こうとはしなかった。」 そしてその間に、ブラウンシュヴァイク公には分かっていたことであったが、あの奔流【1806年戦役のこと】がやってきたのである。



 で、この本の中では1806年戦役が始まってしまったらしいですが、開始時(8月7日にベルリンにて対仏戦争が決定された)のことは何も書かれていません。かつて、ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか?というエントリで公が主戦派であったのか非戦派であったのかということを書きましたが、以下を見る限りでは「戦争に対して消極的」という気がします。

 ベルリンにおいてブラウンシュヴァイク公が、ロシア軍が到着するまで宣戦をおこなうことはプロイセン軍にとって望ましくない、と主張したのは少なくとも確かであるらしい。彼は、プロイセン軍単独ではこの戦争は遂行できないという意見を表明した。彼が頼るべきだったであろう同僚達のほとんどに、彼は低い評価しか与えていなかった。メレンドルフはもうろくしており、リュッヘルは虚栄心が強く、自慢ばかりしている。カルクロイトは常に不機嫌で、あらゆることを批判してばかり。師団級の将軍達のほとんどはありふれた、才能のない人物だ、と彼は言っていたのだ。「これらの人間で、」ブラウンシュヴァイク公は、ボイエンが彼について言っていた問いを発していた。「王はナポレオンと戦って勝てと所望されておられるのか?」 プロイセンの財政状況もまた、彼を絶望させるものであり……



 ここのプロイセンの将軍達の評価は、私が後生大事にまとめていっている『ナポレオニック書籍人物評まとめ』というファイルの中にありがたく記録させていただきました(*^_^*) しかしむしろ、ブラウンシュヴァイク公がシャルンホルストについてどう思っていたかというのがかなり知りたいところなのですが、この本の中でそういう記述を見つけられていません。ただ、1806年戦役におけるやりとりを流し読みした感じでは、今回の引用箇所にもありましたが、「意見は一致している」という感じで、仲が悪いとか評価が低いという印象は受けません。

 アウエルシュタットでのシャルンホルストというエントリの中では、「ブラウンシュヴァイク公はシャルンホルストを軽蔑の目で見ており」(『1806 Coming Storm』P54)だとか、「ブラウンシュヴァイク老公はアウエルシュテットで瀕死の重傷を負うまで、極めて優秀な幕僚長【シャルンホルストのこと】をどう活用してよいかわからず、命令伝達に便利な副官として彼を使用した。」(『ドイツ参謀本部興亡史 上』P48)という資料を挙げていたのですが……どうなんでしょうね……。

 一応推測として、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』はシャルンホルストやボイエンなどの回想録等、シャルンホルスト一派の資料が使われている率がかなり高めなので、シャルンホルストに対する批判的な見方が掲載される率が低いということかもしれません。あるいはまた一方で、多くの資料では敗北した指揮官であるブラウンシュヴァイク公に対する厳しい見方(優秀なシャルンホルストを軽んじた、等)が採用される率が高くなる傾向がありそうな気もします。


 あと、いくつかの資料(Wikipediaとか? 今再度探すのがしんどいのでパス(^_^;)では、1806年戦役にあたってルイーゼ王妃がブラウンシュヴァイク公に指揮をとってもらえるように頼んだという風に書かれていたような気がするのですが、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』を見ている感じでは、すでに1792年の時点でブラウンシュヴァイク公はプロイセン軍の最高指揮官であり(一時的にほぼ同等の権威を持つ、より年長のメレンドルフがプロイセン軍を指揮したこともありますが)、1805年にも当たり前のようにブラウンシュヴァイク公は最高指揮官であり、1806年もそう、という感じで、わざわざルイーゼ王妃が頼まなければならない感じも受けないし、またそういう記述も出てきませんでした。が、だからといってその記述がウソである証明にもならないので、また今後追っかけていくということで……。なにより、面白そうな話ですし。

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は『咲-Saki-』の野依プロであるバキッ!!☆/(x_x)

 かつて、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像というエントリで、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の萌えキャラ化的なことを書いたことがありました。

 引用しますと……。

 いつも短い一言しか発しない亡き父王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世……
『ドイツ王室1000年史』P78


 これを見て私は、「おおお、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は綾波レイや長門有希のような寡黙型萌えキャラだったのか!?」と思い、しばらく脳内で萌えキャラに変換してワクワクしてたんですが、ちょっとして試しにWikipediaで「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」を検索してみて、大いにがっかりすることになりました。

 彼は父王の果てしない漁色に嫌悪を感じながら育ち、「分かる。不愉快」といった主語を欠いた横柄に響く断片的な話し方を身につけた。王は主語を欠いた動詞の人称を無視して不定詞のまま使用したので”König Infinitiv”「不定詞王」とあだ名されるようになった。



 これじゃ萌えキャラとは言えないじゃないかぁ~ジタバタ(><@)(おい)



 ところがしかし、最近になって、このフリードリヒ・ヴィルヘルム3世のような萌え?キャラが『咲-Saki-』という(美少女超能力的?)麻雀マンガにいるということに気付きました。

 それが野依プロ(野依理沙)で、彼女はテレビの解説員として出てくるのですが、とにかくいつも怒っている感じで、しかも一言のみしか絶対に発しません。

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 別のキャラによる説明曰く、野依プロはすごく口べたで、怒っているように見えるのはただ興奮しているだけらしいですけども。

 しかしともかくも、野依プロを想起すればフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の萌えキャラ化は可能ということで!

 ……オチはありません(^_^;

ブラウンシュヴァイク公(父)がプロイセン王に服従するワケ

 『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』のフランス革命戦争直前のあたりを訳し終わったのでそこらへんを。

  まず、フランス革命戦争直前における、ブラウンシュヴァイク公(父)の状況について。

 1792年の初め、彼は名声の頂点にあった。彼はヨーロッパにおいて最も優れていると見なされていた軍隊の最高位の指揮官であった。……彼はイギリスを支配するこの偉大な大臣との政治的合意と、それにその王室との婚姻関係によって結びついていた。 『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P44


 つまり彼はプロイセン軍の元帥の地位にあり、(大臣との政治的合意ってのは別の箇所に書いてあるのかもですが良く分かんない)自身はイギリス王ジョージ3世の姉と結婚し、娘がイギリス王太子(のちのジョージ4世)と結婚していました。ついで言うと彼自身はフリードリヒ大王の妹の長男でもあり、軍事的にも血筋的にも才能的にも「最・強」といった感じだったのでしょう。

  で、フランス革命でフランスが諸外国との戦争状態になる中、ブラウンシュヴァイク公はフランス軍の指揮官になるように要請されることになったそうです。

 だが、外国との戦争にあたって、この国【フランス】には国民の信頼を受けるような将軍がいなかった。……ナルボンヌ【フランスの戦争大臣?】はブラウンシュヴァイク公こそがそのための人物であろうと主張した。ジロンド派も、ジャコバン派でさえも、彼を自由の友人達のうちの一人であると見なしていた。ブラウンシュヴァイク公が、フリードリヒ大王がそうであったのと同じように、フランスのあらゆるものに共感を感じているということは良く知られていた。……デュムーリエは、ブラウンシュヴァイク公の崇拝者として知られていた。タレイランもまたそうであった。ラファイエットはブラウンシュヴァイク公に来て貰うように使者を送ることに賛成した。スタール夫人は熱狂的にそれを支持した。 『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P45,46


 しかしブラウンシュヴァイク公はこれを拒絶します。

 【使者の】キュスティーヌは1月初旬にブラウンシュヴァイク公国に到着した。彼は、ブラウンシュヴァイク公が期待していたほど自由と民主主義に対して情熱的ではないということを知って少しがっかりした。

『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P47  


 ブラウンシュヴァイク公はキュスティーヌに対して、自分は自らの地位に満足していると語った。彼の職務は戦時にプロイセン軍を指揮することと、平時に自身の公国の政務を執ることである。……だが彼は、フランス王の置かれた立場は気の毒だと述べた。

『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P48


「……私は生きていく中で偉大な事業を回避したことはないし、世界初という舞台での指導的役割がいかに高く評価されるかということは理解している。だが、もし私がこの件の成功は全く不可能だと考えるならば、私は非常におこがましいことをすることになるか、あるいはまったく役に立たない人間になることだろう。……あまりにも大きな危険と困難を伴う事業で私の評判をリスクにさらすには、私は自尊心が高すぎよう。」

『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P49


 ところが彼はその直後、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に呼び出されてフランス侵攻軍の指揮官となることを受諾してしまいます。

 前述のように、ブラウンシュヴァイク公は、ナルボンヌから打診のあったのとは真逆の事業への相談のために、ベルリンへ呼ばれていた。彼はキュスティーヌに、ドイツ諸侯はフランスを攻撃しようなどとはしていないと語ったばかりだった。だが彼がベルリンに到着すると、彼は王から、王とオーストリア王家の名によるフランス侵攻軍の最高司令官となるようにと告げられたのである。そして彼は、先日彼が守ることを依頼されたまさにその国を征服するための作戦計画を準備するように命じられたのだ。このような皮肉な巡り合わせの中で、彼は王命に従ったのだった。


 ミラボーやキュスティーヌとの対話の中で、ブラウンシュヴァイク公は彼の気質の良い側の面を見せていた。我々は彼が、偏りのない判断力と冷徹な知性と素晴らしい先見の明でヨーロッパ情勢を見通し、政治的共感を感じている、あるいは更なる名声をもたらす可能性のある、危険な仕事をあえて断るのを見た。だがベルリンではそれがまったく逆になった。そこでは彼は、自分にとって本質的に不快な事業の指揮者となるようにという王からの命令に、あえて従ったのである。彼の見解によれば、プロイセンの政治的利益にとってこれは危険な事業であった。なぜなら、ロシアに対して東方におけるフリーハンドを与えてしまうことになるのが確実であったし、またベルリンにおける混乱と腐敗のゆえに、軍事的な見地から見ても二重の危険を有していた。この事業はまた、プロイセン王【フリードリヒ・ヴィルヘルム2世】とフランスのエミグレ達の考えによるものであったのだが、公は王の能力に極めて低い評価しか与えていなかったし、彼はブラウンシュヴァイク公国に逃げてきていたDuc de Castriesや他のかつての七年戦争の敵対者達に自ら快く親切なもてなしを与えていたものの、エミグレ達の考えをひどく嫌っていたのである。彼がキュスティーヌに、それからマッセンバッハにも語っていたことだが、彼はフランス軍がすぐにでも崩壊をしそうなほどに統制を失ってしまっているという説をまったく支持していなかったのだが、エミグレ達はそうなるに決まっていると騒ぎ立てていたのだ。逆に、彼は戦争それ自体が悪に救済をもたらすと考えていた。フランス人の勇敢さは、この時独特の情熱によって最高潮に達しており、疑いもなく彼らの獲得した名声に匹敵するであろう。もし彼がフランスへの侵攻を指揮しなければならないならば、性急に事をなそうとして大規模な会戦を戦うことは避けるようにするだろう。なぜならば、1回のフランス軍の勝利はその敵の破滅を意味するのに、1回のフランス軍の敗北では結局のところ問題の解決からはほど遠いものに過ぎないからである。だから、彼自身の計画は、国境の様々な地点にいくつかの軍を移動させてそこで攻撃に対して堅固な地形を占領したまま軍を保持し、あからさまな攻撃によって彼らを憤激させてしまって超人的な力を発揮させることになるよりは、そのままフランスが内部分裂と財政破綻によって崩壊するのを待つというものだった。だが王の要求に応じ、彼は今やフランスを侵攻してパリへと直接進撃するという計画を立案し、自身が攻撃の指揮を執ることを承諾。同時にこの計画は彼自身によるものなのではなく、王によるものなのだということを後世の人々の前で自身を正当化すべく注意深く書き記していた。友人達との仲間内では彼は、この遠征の方針について相談されることなく、軍事的手段の達成だけを要求されただけだったことへの不満を述べずにはいられなかった。彼の見解ではそもそも、この遠征によるドイツ側の実際上の利益など何一つなかった。彼はフランス軍の膨大な兵力 - 詳しい戦力は不明であったが - の背後にある明らかな混乱にすぐに気付いた。彼は専門家的な杓子定規に陥ることもなかった。フランス軍とその行政における混乱はまったく明らかであり、そのために将校達や補給物資を調達することが難しくなっているかもしれなかった「が、その噴水口への軽率な突進を、彼は何よりも恐れていた。」「我々の側の同盟関係も様々な要因から解体してしまう可能性もある。」彼はブラウンシュヴァイク=エールス公に書いている。「だが、我々はあのフランスの悪魔共をどうにか我慢してきたではないか!」 そして彼ははっきりと「フリードリヒ・ヴィルヘルム【2世】に次のように語っていた。不測の事態が起こる可能性もあります。なぜなら、現在のフランスを統治している者達は異常なほどの興奮状態の中にあり、それがどれほど通常あり得ない結果をもたらすことになるか全く予想がつかないからです。」  ……この彼の経歴の危機にあって、彼は自らの円熟した、政治と軍事両面における的を射た見方を両方とも放棄したのであった。そこには、知性、意志、気質、そして道徳的力強さなどの諸要素の間の著しい不均衡によって欠陥がもたらされた精神的な構造が存在した。洞察力にも知性にも劣るが強い意志によって突き動かされている人物が、比較的性格の弱い知性的な人物よりも大きな結果をもたらすことがしばしばある。……神は彼に、神そのものには及ばぬものの大きな力と優れた環境と、あらゆる知的能力を与えたが、それに伴って本来必要であった信念に基づく意志の固さをお与えにはならなかったのだった。ハルデンベルクはかつてブラウンシュヴァイク公に対して、目の前に提示された提案が不賛成なものだったならば、それに対して断固とした態度で少なくとも「No」と言ってくれるようにと懇願したと言われている。そうするための力に彼は欠けており、この欠如は戦場における勇敢さと全く対照的であった……。


 オランダへの遠征に同行し、後にブラウンシュヴァイク宮廷へと特別に派遣されたLord Malmesburyはある時、いかにブラウンシュヴァイク公に「すべての栄光に包まれて」何の疑念も術策もないかのように見えたすぐ後に、「あらゆる疑念、狡猾さ、優柔不断さ」と「精神的な決断力の欠如」が顔を覗かせるかということを語っていた。……シュタインはブラウンシュヴァイク公の1792年の指揮を「利己的で偽善的」だとして非難するが、1804年にはドイツ小諸邦君主達全員が卑劣で愚劣であるのの例外となる「高貴」な人物であると述べている。マッセンバッハはある時、ヴォルテールの『Henriade』に出てくるなかなか決心の付けられないMornayという人物が、戦争を非難しつつも主人に同情して従うのがブラウンシュヴァイク公と同じようだと述べていた。また別の時にはマッセンバッハはブラウンシュヴァイク公こそがドイツを救うことのできる唯一の人物であり、軍を指揮するのにふさわしい人物だと述べた。マッセンバッハは1791年のブラウンシュヴァイク公を世界における最も偉大な将軍だとしている。1792年には、Homburgにおける大きな躊躇という事例の後、彼は完全に手を引くことを宣言する。1793年のPirmasensとKaiserslauternの戦勝の後、彼はブラウンシュヴァイク公の軍事的能力と人格の偉大さについて何ページにも渡って書いている。1799年にはブラウンシュヴァイク公が毅然と振る舞い、この国の指導を取るように仕向けることが不可能であることを嘆き悲しんでいる。1805年と1806年には、ブラウンシュヴァイク公の性格の強さの欠如を非難している。そして最後に、公の死の後、公が、公のみが、イエナの戦いの後の状況を救うことができたかもしれないと述べている。恐らく最も問題であったのは、ブラウンシュヴァイク公自身も自分の弱さを認識していたことである。「私はそれに抵抗できない。」彼はLord Malmesburyに言っていた。「それは私よりも強力なのだ。」 年を経てもこの欠点が弱まることはなかった。むしろ彼の私生活における不幸や、彼の小さな公国の政策がベルリンに繋ぎ止められた状態から抜け出られないならば彼の家族に政治的破滅がもたらされるのではないかという不安によって、この欠点は増大させられた。それはプロイセン王に対する軍事的服従の義務というほとんど迷信的な考えによってさらにかき立てられた。彼の考えによれば、プロイセン王は一国家元首である彼に対しても強制をおこなう権利を有する。なぜならばブラウンシュヴァイク公はプロイセン軍の元帥であり、フリードリヒ大王の後継者によるどんな命令にも従わなければならないのである。この後継者【フリードリヒ・ヴィルヘルム2世】は - 公の円熟した判断によれば - 手腕のない人物であったがそれは公が後継者というもののあるべき姿を知っていたが故であった。そしてベルリン宮廷の臣下達全員の人格を彼は心底軽蔑しており、キュスティーヌには彼らのことを憎むべきやつらかそうでなければ自分としては非常識なやつらだと思うと述べていたのだった。 『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P49~56


 すなわち、ブラウンシュヴァイク公の軍事的政治的判断はあらゆる側面で正しかったのだけども、特に「プロイセン軍元帥として、プロイセン王に従わなければならない」という観念が彼を束縛しており、いやいやながらも指揮官として従軍しなければならなかったということのようです(そして彼はそれを断ることができない性格であった……)。なぜ「いやいやながらも従うのか?」という辺りが非常に気になっていたので、ある程度納得がいく記述が見つかって満足です。

  ブラウンシュヴァイク公の頭の良さであるとか軍事的能力の高さに関しては、R/Dさんの味方か敵かというエントリが非常に印象的なのでぜひ見てみて下さい。


 この後、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』ではフランス革命戦争における記述が来るハズで、ブラウンシュヴァイク宣言のあたりとか、ヴァルミーの戦いの辺りなんかも気にはなりますがともかくも1806年戦役をまずは片付けたいので、そっちを優先します。1806年戦役に関するこの本の記述も非常に興味深かったのでそちらを全部訳して、その後また諸本を参照してに戻る感じで。



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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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