FC2ブログ

『ハイスクール・フリート』にブラウンシュヴァイク娘が……(^_^;

 下野守さんから今期の萌えアニメで『ハイスクール・フリート』(元は『はいふり』という名前だったが変更された)というのが駆逐艦(っぽいもの)が舞台だというので、とりえあずニコニコ生放送で視聴してみましたら、第1話が結構すごい展開で面白いなと思いました。キャラクターもいっぱい出てきますが、魅力的だなと思います。

ハイスクール・フリート

 で、3話まで見てましたら、ドイツ娘としてヴィルヘルミーナ・ブラウンシュヴァイク・インゲノール・フリーデブルクという娘が出てきました。

ヴィルヘルミーナ・ブラウンシュヴァイク・インゲノール・フリーデブルク

 「ブラウンシュヴァイク……だと!?」と思ったんですが、そこに反応するのは日本では私一人くらいなものでしょうね(^_^; ドイツ人オタクならいくらか反応する人はいるかも……?(ちなみに恐らく、このキャラで最も反応が大きい部分は声優が五十嵐裕美だという辺りだと思われ)

 ただ、4つある名前のうち2つ目にブラウンシュヴァイクが来るというのはどういうことなのか良く分かりません。一つ目のヴィルヘルミーナはヴィルヘルムの女性名でしょうし、例えばフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の縁者には複数のヴィルヘルミーネという名前の女性がいます。

 このキャラ、性格・特徴が「質実剛健」とか、趣味の一つがチェスだとかってのはブラウンシュヴァイクっぽいように思うのですが、しかし多分私のバイアスに過ぎないんでしょうねー。

(実はブラウンシュヴァイク公(子)の長男のカール2世ブラウンシュヴァイク公は有名なチェスの勝負をしたことで知られているらしいです。→これは、1858年にパリのオペラ座で行われた試合です。


 近況ですが、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』のフランス革命戦争に入る辺りのブラウンシュヴァイク公の記述が非常に面白いのでそこをぜひブログに書きたいと思っているのですが、量が多くて和訳途中です。

 あと、OCSに関する紹介文を2つ書いたのですが、Game Journal誌とコマンドマガジン誌にそれぞれ掲載され……そうな気がします。が、まだ決定ではないです。で、「これさえあればOCSがプレイできるルールまとめ」を作る作業に入りたいんですが、その前段階として、

OCSの物置

の整理、拡充を始めてます。細かいページを色々まだ追加しようと。


スポンサーサイト



尼崎会でOCS練習プレイしました

 下野守さんが休みが取れたということで、尼崎会(拙宅)でOCSの練習プレイをしてました。

 シナリオはOCS『KOREA』の中共軍参戦シナリオです。ただし、東の山の方のはオミットしました。


CIMG3131.jpg

 私がルールや選択肢について説明を加えながら、下野守さんがプレイする形でやってました。

 第1ターンの表は存在せず、裏の中共軍ターンの後、第2ターンの表を中共軍が取ってダブルターンとなりました。が、あくまで練習なので裏の国連軍ターンはプレイせずお開きに。


CIMG3132.jpg

 ↑壊滅させられた国連軍ユニットです。


 今後また適宜、練習会をやっていきたいです。とりあえずOCS紹介の文を書き始めてます。

OCS『Tunisia』シナリオ1を再度練習

 ミドルアース大阪で、OCS『Tunisia』のシナリオ1を練習してました。

 以前ワニミさんと何回かプレイさせてもらったのですが、私のプレイはひどいできで……(^_^; しかしその後経験値もある程度増えてきているので、いくらかマシにできないものかと。


CIMG3119.jpg

 赤い○で囲ったのが勝利条件ヘクスで、このうち3つを連合軍側が支配すれば連合軍の勝利です。

 Board Game Geek上にある『Tunisia』シナリオ1のリプレイ記事だと、3つある進撃路のうち一番南に第1ターンに攻撃をかけているのですが、この時点で使用できる唯一の戦車大隊ユニットが元々移動力16であったのを訂正カウンターを使用していて14になってまして、同じ作戦が不可能なことが分かりまして。

 で、しょうがないのでより有望そうな真ん中のルートを攻撃しようとしましたが、ドイツ軍側の予備部隊が攻撃予定ヘクスに入ってきたので「オッズが立たない」と考えて攻撃はスルー。


 第2ターン、どうしようかと悩みましたが、真ん中と南のルートで攻撃を両方かけられそうかと思ったので両方で攻撃。真ん中のヘクスには予備部隊が入ってきたのですが、そのまま砲撃・攻撃したらこの時点のドイツ軍最強ユニットを壊滅させることに。しかも南方でも攻撃は成功し、突破フェイズにさらにこのターンに入ってきたアメリカ軍第1機甲師団でその次の防衛線も殴って1ユニットロスさせました。

 ↓マップの上(外)に置いてあるのが両軍の損失です。

CIMG3122.jpg


 この時点で一番南の進撃路が破れていて、その先は基本的に平地しかないのでドイツ軍にとってはかなりつらそうな……。

 Geekのリプレイを見てみると、南の進撃路は阻止しつつ、北と真ん中ですぐに下がって防衛線を敷いてました。地形的に南を破られるのが一番つらそうなので、南はなんとしても保持しての方がいいかもですねー。


 今回練習してみて、以前このシチュエーションをやっていた時よりは迷いなくプレイできたと思います。以前のプレイはもう、とにかく悩みまくりだったので……(^_^;

 ネトゲでも、慣れないうちは全然ダメだったんですが、ずーっとやっていて慣れてくるとある程度の水準は確保できるような気がしてます(それでも上手いゲーマーがすぐ到達する水準に全然かないませんが(T_T))。OCSも非常に慣れが重要だなと思います。


 YSGAで『Beyond the Rhine』の8人プレイがされたそうで、くや……羨ましかったんですが(^_^;、今日ミドルアース大阪で話してますと、4人ほどがOCSをやる気があるそうで、うち2人は『KOREA』で練習プレイの場を私が用意すれば乗ってきてくれるということでした。

 ということなので、ぜひそれができるようにしていければと思います。ただその前に、OCSルールに関するマニュアル的なものを作ろうとも思います。

『ナポレオンズ・ラスト・ギャンブル』を見せてもらいました

 ミドルアース大阪に行ってきまして、T-ZANさんが購入された『ナポレオンズ・ラスト・ギャンブル』を見せてもらいました。


CIMG3112.jpg

CIMG3117.jpg

CIMG3115.jpg

CIMG3118.jpg


 エキスパンションも込みらしく、どういう構成か良く分かってないのですが、こういうスケールでブリュッセルが完全にマップに入っているのは初めて見たので、そこがものすごく印象的でした(『L'Armee du Nord』でも入っているかもと思って確認してみたら、ブリュッセルの南端が少しだけ入ってました)。

 和訳が完成してきたら、テストも含めてプレイしてみようという話になりまして、楽しみです(ルールは複雑そうではありますが……(^_^;)。

『激闘! ナルヴァ軍集団』をOCSで

 ぼーっとして何もやる気が出ないので、逃げとして、以前から案だけあった、「コマンドマガジン112号の『激闘! ナルヴァ軍集団』をOCSで作ってみる」という企画のマップスケールを合わせてみてました(こんなことばっかりやってますネ(^_^;)。

 昔、『激闘! ナルヴァ軍集団』のマップを、『Baltic Gap』らと比べてみたことがありました(1944年の北方軍集団)。

 その時の地図↓  レニングラードの南西にちょこんと小さくあるのが『激闘! ナルヴァ軍集団』(フルマップ1枚)、その下にある最も大きい四角の領域が『Baltic Gap』(フルマップ2枚)、さらにその真ん中下辺りにあるのが『死闘! 北方軍集団』(ハーフマップ1枚)です。

13091901


 で、ちょっと前にいよいよ案を実行してみようとして、『激闘! ナルヴァ軍集団』のマップスケールを確認してみようとしたら、1ヘクスが何mだとかってことがどこにも書いてない!(書いてあるのかもですが、見つけられませんでした) で、その時は挫折したのですが、今回マップのなるべく端から端までをOCSの2倍スケールである2.5マイル(約4km)でヘクス経が来るように調整しまして……。

 できたのが↓です。

OCSナルヴァの戦い01

 『Baltic Gap』は通常スケールなので1ヘクス5マイルなんですが、通常スケールだと『激闘! ナルヴァ軍集団』はえらいヘクス数が少なくなってしまいそうだったので、倍スケールで挑戦してみました。

 結果、「これならなんとかゲームとして通用しないでもない……?」というマップの大きさにはなったかも……?


 とりあえず今回はここまで。また何もやる気が出ない時に、今度はユニットの方を検討してみようかと(^_^;

GJ28『1813諸国民戦争』を『The Struggle of Nations』上に……

 とある筋から、キャンペーン・オブ・ナポレオンシリーズの1813年戦役を再現する『The Struggle of Nations』をプレイ可能かも……というお話を頂きました。

 1813年戦役はまだまだおぼろげながらにしか理解してないのですが、興味はある話なので、とりあえず和訳ルールブックだけコピーさせてもらいました。ただ、長方形のユニットのためのルールとかがあるので普通のキャンペーン・オブ・ナポレオンシリーズよりは複雑そうですねー。

 それよりもまず自分の手持ちでそれほどルールも難しくないらしい、1815年戦役の『The Emperor Returns』や『Hundred Days Battles』をプレイできるようにすべきではないかという気もしますが……(^_^; 『Hundred Days Battles』は一時期ソロプレイ寸前までいったのですが……(ほんと、ゲームをプレイしないゲーマーで(T_T))


 そんな中、ふと本棚のGJ28号を手に取った時、その付録ゲームである『1813諸国民戦争』を、昔ヘクスゲームになんとか置き換えられないかとやってみたことを思い出しました。

 ↓『1813諸国民戦争』について

GJ#28 「1813諸国民戦争」紹介とリプレイ
ゲームジャーナルNo.28 1813諸国民戦争&春秋戦国




 『1813諸国民戦争』はポイント・トゥ・ポイントのゲームで、興味はあって、すぐにプレイできるようにユニットも切断してあるのですが、個人的にどうしてもヘクスゲームでないとそそられず、ポイント・トゥ・ポイントとかエリアゲームはする気が起きない……(>_<)(先日とある所でお会いした大陸中国のウォーゲーマーさんも、「やっぱりヘクスゲームですよ!」と言っておられて、「そうそう、そうですよね!」と意気投合したという……) そこでこのゲームをポイントをヘクスに置き換える試みを昔やってみたのですが、その時はうまくいかず挫折しました。

 しかし今回、『The Struggle of Nations』のマップ上に『1813諸国民戦争』のポイントを置いていったらどうか……? ということを思いつき、やってみました。すると、『The Struggle of Nations』よりも扱っている範囲が広くてマップ外の部分もある程度あったのですが、まあそれらはマップ外に置いておくということでなんとか。

 ↓できたマップ。

The-Struggle-of-NationsMap.jpg

 うん……! これなら、プレイ意欲が湧くのではないでしょうか。まるで『The Struggle of Nations』をプレイしているかのように自分をだましつつ……!(おい)。

 なにしろ『1813諸国民戦争』は1時間程度でプレイできるらしいのですごいです。つまり1時間で『The Struggle of Nations』ができるということですよ!!バキッ!!☆/(x_x)

 とりあえずA3×4枚に印刷しまして、ミドルアース大阪などに持っていこうかと思います。


 しかし今回、この作業をやってみて思ったのは、デザイナーの砂漠のキタキツネさんは『The Struggle of Nations』のエッセンスを切り取って『1813諸国民戦争』を作ったとかではなくて、『The Struggle of Nations』で扱ってない部分(ハンブルクに籠もっているダヴーとか)も入れて作っておられるんですよね。これは、何かそういう部分まで含んだゲームが他にあって(私は他に『Napoleon at the Crossroads』くらいしか知らないんですが、その範囲は『The Struggle of Nations』より狭い)それらを参考に作っておられるのか、あるいは、戦史を調べて独自に作っておられるのか……。

 今回のこの試みがうまくいくようなら、1814年戦役の砂漠のキタキツネさんのゲームも『Napoleon at Bay』に重ねてプレイできるようになるかもしれません。すばらしいかも……!

1806年のプロイセン軍は腐敗していなかった?

 1806年戦役に関して挙げられている資料で挙げていました、「1806年のプロイセン軍は腐敗していなかった説」の『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』を2回目の入院中に目を通していました。


 1806年のプロイセン軍についてですが、古い本だと「フリードリヒ大王時代の栄光にあぐらをかいて何の改革もなされておらず、一突きで崩壊させられてしまうほどの腐敗状況にあった」という感じで説明されていることが多いような気がします。そしてイエナ・アウエルシュタットの戦いでの大敗北にショックを受けて、シャルンホルストらによるドイツ参謀本部への取り組みが始まる、と……。

 ところが若干新しめの資料になってくると、「1806年以前は改革がなく、1806年以後に改革が始まった説」が批判されてくるように思います。『プロイセンの歴史』(1979)の中でセバスチャン・ハフナーは、前述の説を「今日なお多くの人びとの頭の中に固く根づいているこの伝説」と呼び(P143)、こう書いています。

 この伝説からわれわれは解放されなければならない。この伝説は真実の歴史を過度に簡略化しているばかりではなく、真実の歴史を歪曲している。実際にはこの全時期【1795年~1815年】が同一のものであった。この全時期が、同一の人びと、同一の力によって動かされた。改革を行ったもっとも有名な二人の大臣シュタインとハルデンベルクは、すでに1806年以前からプロイセンの大臣であり、もっとも有名な軍制改革者シャルンホルストは、1806年にはすでに副参謀総長であった。



 また日本人のドイツ軍事史家の論文が集められた『広義の軍事史と近世ドイツ』(2014)では、1806年以前のプロイセンにおける改革の取り組みが詳しく述べられており、特に、一般に反改革派とされることが多いリュッヘルと改革派のシャルンホルストが共に1806年以前のプロイセンで改革に苦闘していたことが描かれています。

 あと、ドイツ参謀本部に関して書かれた本である『ドイツ参謀本部』(渡辺昇一)と『ドイツ参謀本部興亡史』(ヴァルター・ゲルリッツ)でも、マッセンバッハやシャルンホルストらによる1806年以前の改革の動きに関して結構触れられています。







 ただ、ここまでだと「1806年以前にも改革はしようとしていたんだよ」という話であって、「でも改革はうまくいかなかったし、実際のところ当時のプロイセンは弱かった」というような考え方を否定するところまではいってないでしょう。しかし、『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』では「1806年のプロイセン軍は決して弱くなかった」と言っている……らしい。

 で、前掲エントリで「私は読まないつもり」と書いていたのになぜ読んだかといいますと、リュッヘルについてまとめようとしたんですがそうすると彼が関わった1806年以前の改革について触れないで通るわけにもいかず、なればそれらが意味があったのかなかったのかという問題もつきまとってくるわけで、それならばどうも読まないわけにはいかないな……と思ったわけであります。また実際のところ、1806年戦役をまとめる上でこの問題は非常に重要な地位を占めているでしょう。


 で、目を通してみたんですが……。若干英文が難しめのような気がするのと、扱っている範囲が1763年~1806年と広く、1792年以前あたりだとあまり興味がないので盛大に読み飛ばしながらで……結局のところ、今回扱うのは最終章である第Ⅴ章がメインとなります。

 第Ⅳ章までには、こまごまとした改革の具体例や、1763年~1806年にプロイセンがとっていた政策である中立主義を基本としてプロイセン軍の存在によって圧力をかけて成果を得たり、限定戦争的に介入していくことなどにおいて、プロイセンとその軍が非常にうまくやっていたことなどが描かれています。

 で、まず諸改革の結果として、

 いくらか不充分な点もあったものの、1806年のプロイセン軍はそれまでの10年間に発展を遂げた新しい戦争のやり方の導入の途中経過にあり、その成果は完全ではないが満足のいく程度のものであったと充分に言うことができた。……時期的に比較してみるならば、当時のプロイセン軍は4年後のワグラムの戦いの時点でのオーストリア軍に匹敵する質であった。イベリア半島におけるイギリスの主力軍が戦術的、統率的レベルにおいてイエナの戦い直前のプロイセン軍に到達するのは少なくとも1810年を待たねばならなかった。ロシア軍は1814年にいたるも古い価値観にこだわって改善されないままであり、そのことによって大きな成功が阻害されていた。
『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』P330


 と、(フランス軍を除けば)ヨーロッパにおいて軍事的諸改革の最先端にあったと。

 限定戦争の考え方や成果についても古い時代から全部論文中では挙げられているのですが、古い時代のことだと私が読む気になれないので1803年のハノーファーの件と、1805年にプロイセン軍が参戦しなかった件(←後知恵的に後世から大いに非難されている?)についてのみで。

 1803年に再度フランスとイギリスとの間で戦争が勃発した時、フランス軍部隊がハノーファー選帝侯国を蹂躙し、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世も3世も避けようとしてきた地理上の直接接触が生じるかという事態がもたらされた。だがフランスの外交官達はこの行動は一時的なものであり、プロイセンが中立を継続すれば充分に報いられることになるでしょうと述べたものだった。結局、フランス軍守備隊は迅速に撤退し、プロイセン軍部隊は1805年10月に抵抗もなしにハノーファーを占領することとなったのである。

 この成功が、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世をして大陸においてナポレオンに対抗するロシアとオーストリアの第3次対仏同盟への参加を拒否させる自信を強めさせた。王の決断は、他国同士が争えばそれぞれが充分にすり減ることになるという信念によって補強されていたのであって、過去の経験から言って決して理不尽なものではなかった。フランス軍は勝つかもしれない。だがそれには損失がつきまとうわけであり、結果、ヨーロッパにおける諸案件に対してプロイセン軍の重みをさらに増大させることになるだろう。
『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』P331



 1803年の件ではプロイセン軍の名高さとその存在がプレッシャーになっていたのでしょう。1805年の件は個人的には目から鱗でした。後世から見ればこの当時の普墺露英はすべて対フランスだという気がしてしまうところですが、プロイセンはこの時代ロシアやオーストリアやイギリスを敵にすることが往々にしてありましたし、実際ワーテルローの戦いの時にプロイセン軍の最も質の高い部隊はオーストリアへの警戒から対オーストリア国境に貼り付けられていて、ベルギーに送られていたのは二線級の部隊でした。また、1812年に退却するナポレオンをあまり追わなかったクトゥーゾフは「あまりにナポレオンを叩きすぎるとイギリスの得になるばかりだ」と言ったとか……?(別の人だったかな)

 後知恵で見ればナポレオンは列強で隔絶して強かったわけですが、特に1805年当時はまだ、「オーストリアとフランスが戦争すれば得をするのは中立のままのプロイセンじゃん?」という感覚が大いに説得力を持っていたというわけですね……。


 で、1806年のプロイセンの開戦の決断についてはこんな風に書かれていました。

 バイエルンやヴュルテンベルクのような従属国家のレベルに落ちるということを受け入れるよりも、フリードリヒ・ヴィルヘルムは戦争を宣言することにしたのだ。彼はフランス嫌いで主戦派の指導者であった王妃マリー・ルイーゼから全面的な支援を受けることになったが、彼女はいくつかの資料によれば、夫が剣を抜くことに同意するまで性交渉を拒否したのだった。
『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』P331



 おおー。以前、プロイセンが対仏戦争を決断(1806年8月7日)で「夫婦の権利を拒否」と書いていたのはやはりそれだったのですね(^_^; まあ書き方からして真偽不明なのかもですが……。

 「バイエルンやヴュルテンベルクのような従属国家のレベルに落ちるということを受け入れるよりも」というのはこれまた納得のいく表現でした。ハノーファーをイギリスに返還するとかどうとか、様々に軽んじた扱いを受けていたわけで、それらの状況をそのまま受け入れて戦争をしないでいれば、確かにナポレオンの性格上からもその後プロイセンは当時のバイエルンやヴュルテンベルクがそうなっていたように、ナポレオンにとって都合の良いことを押しつけられ続ける従属国家となったのかもです。まあ、主戦派がそんなの耐えられないとは思いますが、しかしまあそこらへん考えると、あの時点でフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が開戦を決断せざるを得なかったのもむべなるかなという気がしました。


 で、結論めいたもの?

 しかし現実の世界においては、絶対的な信念というものは常に新たな事態によって覆されるに至る。フベルトゥスブルク条約からアウエルシュタットの戦いまでの間の期間、プロイセン軍は多国間の国際関係システムという文脈の中で抑止力として形成され、使用されてきた。ところがそれが、突然にしてある帝国を相手に単独で、しかも全面戦争を戦うことを要求されたのである。その結果が破滅的だったことは驚くべきものではないとも言えるが、しかしそうなることが運命づけられていたわけでもなかった。平時といえども軍隊というものがあまりにもその在り方を間違えることは許されない中で、プロイセン軍の将軍や兵士達はフベルトゥスブルク以来の数十年間を袋小路へとのこのこと進んできたわけではなかったのである。1806年のプロイセン軍は不名誉なものではなかった。作戦や指揮のあらゆるまずさににも関わらず、プロイセン軍は敵に対して地獄の数十分間を経験させるほど良く戦った。それは後世の愛国者が言い張るような、1806年のプロイセン軍はフランス軍の強さが最高であった時に、権力の絶頂期の歴史上最強の軍事的指揮官による指揮に直面したのだという言い訳に譲歩することを意味しているわけではない。弱点が無慈悲なほどに露わになったとしても、大敗北ということだけでは、それまでに恐ろしいほどの腐敗が進行していたことの明白な証拠などには決してならない、ということなのである。
『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』P332



 英文解釈能力のなさと翻訳のまずさからか、今ひとつ分かりにくいような気がするんですが(^_^;、「新たに研究すれば研究するほど、当時のプロイセン軍は色々頑張って改革していたことが分かってくる。それなのに、かつての歴史界は、1806年のプロイセン軍がものすごい大敗北を喫したということで、これは当時のプロイセン軍は恐ろしいほどの腐敗が進行していたに違いないと思い込んで、それに相応しい証拠集めばかりしていた。しかし大敗北したのであれば必ず腐敗していたということにはならない。」というようなことでしょうか……?

 少なくとも、墺英露と比べた場合プロイセン軍は数年先を進んでいたし、またフリードリヒ大王の晩年からプロイセンが採用してきた中立的抑止的政策はうまく機能し、プロイセン軍はそのために最適化された状態にあった。これは基本的に称賛されるべきことであって、非難されるようなことではない。

 ところが、革命フランス軍とナポレオンという新たに登場したものが、予想外にもそれを破っていくことになるわけで、例えばこの論文中でも、

 フリードリヒ大王の遺産たる、限的的な政治的目的のために遂行される戦争という概念のためにプロイセンは、フランスの中に生じ始めていたパラダイムシフトに気付くのが遅れてしまった。
『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』P330,1


 と書かれています。

 ただ、そこらへんのフランス側が新しくも強すぎた的部分については、主たる問題とはされてないのでしょうね(古い本とかでも、この論文とかでも)。

 ただ、1806年戦役においてフランス軍が勝った要因のかなりの部分に、当時のフランス軍が極めて強かった(ナポレオン戦争時代中最強クラスの練度の兵士達と元帥達とまだ病気に苦しんだりそれほど思い上がったりしていないナポレオン)ということはあるのではないかと個人的には思います。

 ので、OCSのアクションレーティング的に喩えれば、古い本ではフランス軍のARが5で、プロイセン軍のARが0(フリードリヒ大王の時代だと4とかあたり?)とかって表現なんでしょうけども、いやいや1806年のプロイセン軍のARは3か、あるいはひょっとすると4くらいもあったんですよ(ただそれ以外の色々な部分 - プレイヤーの能力とか(^_^; - には問題があったけど)という感じでしょうか?

 あ、あと補給システム的にもプロイセン軍は、1806年のちょっと前に見直しがされていたんだけども、それによって単純化された結果作戦的余裕がなくなって、柔軟性も欠如する結果になったのだとか(P328)。しかもそれで実際の作戦行動は部隊を非常に右往左往させていたので、それでもって兵士達がすでにイエナ・アウエルシュタットの戦いの数日前から飢え始めていたという……。ですので、補給システム上での問題もあったりした、と。

ブラウンシュヴァイク公(父)の中年の頃の評判

 ブラウンシュヴァイク公(父)の伝記本である『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』が面白いです。とりあえず1805年以降の部分はすべて目を通しましたが、そこらへんの部分はまたおいおい。




 その後ページ的に戻りまして、彼が公爵位を継いだ1780年(Wikipediaによると1773年にすでに実権は譲られていたみたいですが)以降の部分を、自分の興味のなさそうなところは適当に飛ばしつつ、興味が持てそうなところなら分からない英単語も調べつつ読んでいってます。

 彼は1735年生まれなので、1780年というとすでに45歳。若い頃に七年戦争で活躍して昇進し、フリードリヒ大王の下で元帥であった叔父の薫陶も受けて軍事指揮官として一流と見なされていたらしいですが、詳しくは私が七年戦争は良く分からないのでパスしまして(^_^;

BraunschweigLKWF
(↑ここに元々ブラウンシュヴァイク公の叔父フェルディナントの画像を貼ってしまってました(>_<) Schaluppeさんからご指摘を頂いて修正しました。ありがとうございますー(*^_^*))

 ブラウンシュヴァイク公国は大きく3~4つに分かれた断片のような国ですが、当時財政的にも困窮していたようです。

 ↓参考に、1806年当時のブラウンシュヴァイク公国が分かる地図を。黄色い部分がそうです。

1806年戦役用03Map57用02



 1780年に公爵位を継いだ直後のブラウンシュヴァイク公について、この本ではvon Sybelという人の本から引いてきて書いています(von Sybelという人がHeinrich von Sybelだとしたら、1817年生まれのドイツの歴史家で、フランス革命とかの本を書いた人?)。

 von Sybelは書いている。
「ブラウンシュヴァイク公の小さな宮廷でこの時期に彼を見た人々は、このクレフェルトとミンデンにおける英雄が国政においても優れたやり手であり、あらゆる種類の知的な進歩の擁護者となってそれらを熱心に吸収し、また精力的でかつ気取らない人物であることにひどく驚かされた。彼が公国の人民達よりも少ない生活必需品しか使用しないでいたことは非常に印象的であったし、また将軍としての名声にも関わらず非常に小さな軍隊しか持たないでいたことなどから、彼は大きな評判を得た。」(注3:Sybel, book iv. ch.1.)
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P18



 それでもって公国の人々からも非常に敬愛されていたようです。財政上の改革とか、ハルデンベルクがハノーファーから逃れてまずブラウンシュヴァイク公国で役人となったらしいとか、レッシングがどうとかというあたりはパスしまして(おい)、ブラウンシュヴァイク公の好みや性格などについて。

 彼は音楽にも大いに親しみ、情熱的に打ち込んだ。仕事に余裕のある時には夜中までヴァイオリンを弾いたりして、その腕前もなかなかの名手と言えた。怒っている時の彼の一瞥は恐怖を引き起こすものであり、自分の命令が迅速に期限を守って実行されることを要求し、反対を許さなかった。だが普段は多くの人を引きつける魅力に溢れており、ウォルポールはブラウンシュヴァイク公の成功の秘訣はそこにあるのだと考えていた。……美食や賭け事にはまったく無関心であった。ワインや水を飲むよりも、牛乳を好んで常に飲んでいた。長い時間続く晩餐を特に毛嫌いしており、その時には大体、黙ったまま不機嫌そうにしていた。古なじみとチェスをうつのがお気に入りのくつろぎの時間であった。スポーツにはほとんど興味を持たなかった。マッセンバッハの意見によると、ブラウンシュヴァイク公が山岳地帯や森林地帯での作戦行動であまり良くない判断をすることがあったのはこれに起因しており、遺憾なことだったそうである。兵士達も市民達も、ブラウンシュヴァイク公がいるところでも安心して彼と共に物事に打ち込むことができるという優れた能力を彼は持っていた。過度なほどに礼儀正しく、フランス語を完璧に使いこなした。彼はまた、農民達と地方訛りで農業についての会話で盛り上がることもでき、そのことが彼の人気を押し上げた。だが、彼は田舎での生活にはほとんど興味がなく、何か問題がある時以外は自分の所領にめったに訪れなかった。彼の生活はブラウンシュヴァイク公国と軍営に分かれていたが、彼の本当の関心は完全に軍事行動の方にあった。なすべき仕事がない時には彼は生来のはやる気質に取って代わられたようになり、その時には誰といても、自分自身に対しても彼は飽き足りなくなってしまっていた。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P20~22


 と訳してみましたが、最後の辺りの訳は原文が色んな意味に解釈できて自信がありません。「彼の本当の関心は完全に軍事行動の方にあった。」と訳したところの原文は「in them his real interests were entirely centred.」で、直訳するなら「公国と軍営の間の中心に関心があった」となるような気がしますが、そうすると政務と軍務の行き来に関心があったということに? 「人々の中心にいることに関心があった」という意味かと思ったりもしましたが、一番可能性が高いのは軍事行動に本当の関心があったという解釈なのかなぁ……と。

 内容的には色々興味深いですが、中でもマッセンバッハがまた?なにやら偉そうに訳の分からないことを主張しているのがちょっと笑えます(^_^;


 背が高く、精神的にも肉体的にも活力に溢れており、威厳を感じさせながらも柔和な印象、率直で打ち解けた表情、その青い眼は情熱に溢れていてフリードリヒ大王のそれに似ていると言われ、ほとんど常にあまりにも礼儀正しいので大げさにも見えたほどであったが、その彼の様子は、生まれつきにあらゆる上品さを備えながらも出身階級がどうだというような偏見を持たなかった古いフランス貴族のToulongeon将軍を思い起こさせるものがあった。

 ブラウンシュヴァイク公爵はそのような多くの卓越した美点を持っていたので、フリードリヒ大王の死が近づいてきた時までにこのプロイセン王朝の軍事的栄光と政治的理念の後継者を任されるに値するという評価を、大王の弟であるハインリヒ公【ハインリヒ・フォン・プロイセン (1726-1802)】と、大王の個人的友人であり相談役でもあったメレンドルフ元帥【Wichard Joachim Heinrich von Möllendorf (1724–1816)】らと共に与えられるようになっていた。だがハインリヒ公の健康状態はもはや戦場に立つことを許さないだろうと思われたし、またメレンドルフ元帥はブラウンシュヴァイク公よりもはるかに年上で、それにその地位を争う競争相手になるにはあまりにも謙虚であった。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P22,23


 ハインリヒ公のことは良く知りませんが、メレンドルフ元帥は1806年戦役には部隊を指揮することなく参加だけしていて、アウエルシュタットの戦いで傷を負い、翌日エアフルトの降伏の時にひっくり返っていた人物です(詳しくはあっけなく降伏したエアフルトの司令官は誰か?をどうぞ)。彼の印象は「謙虚(modest)」というにはちょっと違和感があったので若干調べてみたのですが、良く分からず。ドイツ語版WikipediaをGoogle翻訳で日本語にすると兵士の待遇改善を大王に主張していたのか?と思えるような感じも受けるのですが、どうなんでしょ……。


 しかしまあともかく、そういう状況の中でこういう風に言われるようになったようです。

 ゴータ公はザクセン=ヴァイマール公に書いている。
「ブラウンシュヴァイク公以外に、この同盟【君侯同盟】の長たり得る人物はいない。」
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P23

 1786年8月にフリードリヒ大王は亡くなった。
「老人は若者に場所を譲らねばならぬ。」
 彼は死の6日前に、ブラウンシュヴァイク公国の妹【フィリッピーネ・シャルロッテ・フォン・プロイセン:ブラウンシュヴァイク公(父)の母】に書いている。……彼の遺書には、その他の遺産に加えて、大王からその甥であるブラウンシュヴァイク公爵に8頭の馬が贈られるように書かれており、しかもその中には大王が最後に乗った馬も含まれていた - 大王が自身の軍事的後継者を誰だと考えていたかは、相当程度明らかであった。ミラボーは、ブラウンシュヴァイク公がプロイセン王国の政治的指導者としても王の後継者として運命づけられていたと確信していた。

 「……誰が指導者となるべきなのか? 明らかにブラウンシュヴァイク公だ。この点はまったく私には疑いないように思われる。……」
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P28


 「老人は若者に場所を譲らねばならぬ。」の部分ですが、日本語だと訳しにくいんですが英語での原文は「The old must give place to the young,」となっていて、theは言う方と聞く方にとって明らかに特定できる単一のものに付く冠詞ですから、いわば「あなたが知っているこの老人は、あなたが知っているあの若者に、場所を譲らねばならぬ。」と言っているわけです。「世間一般に老人というものは、若者達に場所を譲らねばならぬ。」と言っているわけではないわけです。

 ブラウンシュヴァイク公爵は、当時明らかにドイツにおいて軍事的にも政治的にも第一級の人物と衆目から見られていたわけですね。

 また、実際にプロイセンの王位を継ぐことになっていたもう一人の大王の甥であるフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が、大王から見て恐らく無能に映っており、それで同様に甥でかつ極めて優秀なブラウンシュヴァイク公こそが実質的な後継者であると思いたいということがあったのではないでしょうか。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は日本語版Wikipediaを見ても「しつけも受けずわがままに育てられた」とか書いてありますし、1806年戦役に関して挙げられている資料で挙げていました『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』に(結局)目を通していたら、第2章の冒頭にこうありました。

 彼の叔父【フリードリヒ大王】は七年戦争中に、彼の父を無能ゆえに排除していた。フリードリヒ・ヴィルヘルム【2世】はそのことに恨みを持ったりはしていなかったが、さりとて軍事的技能を習得することによってそれを補おうともしなかった。
『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』P314



 世間的な評価も、特に女性関係が放埒であったことから酷評されてますが、彼の在位期間(1786-1797)に成し遂げられた政治的・領土的な結果から考えれば名君に等しいとも言われたりするようです。


 で、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』ですが、その後だいぶ読み飛ばしましてフランス革命のところを読んでいたりしたんですが、日本語版Wikipediaのブラウンシュヴァイク公(父)を読んでいたら、アメリカ独立戦争(1775-1783)にブラウンシュヴァイク公が軍隊を派遣していたとか、1787年(フリードリヒ大王の死の翌年)にオランダにブラウンシュヴァイク公が侵攻して、それでフリードリヒ・ヴィルヘルム2世がブランデンブルク門を作ったとか書いてあるので、面白そうなのでちょっとそこらへんの記述を探してみようかとも思います。

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR