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Kindleストアで安く、興味のある洋書を

 Kindleストアで30%オフをやっているとかでKindleストアを見てみたんですが、セールとか関係なしに、好きなキーワードを入れて「値段の安い順」に並べ直すといいということに気付きました。

 まずはAmazonの検索窓の「すべて」となっているのを「Kindleストア」に変更します。で、好きなキーワードを入れます。私は今回、「歴史」「Napoleon」「Prussia」あたりを入れてみました。で、右上の「並べ替え」のところを「価格の安い順番」に変更します。

 Kindleはパソコン上でも今は読めますし、スマホ上でも読めます。0円のやつで試してみるといいと思います。

 とりあえず私は、↓の2つを購入してみました。



 『Holland The History of the Netherlands』の方は、ナポレオン戦争時代のオランダの歴史がある程度以上詳しく載ってそうだったので。ただまあ、すぐに読みたいわけではないので、とりあえず確保で。0円ですし。

 『Napoleon's Marshals』は、ナポレオン麾下の元帥達の伝記が、一人一人別々に、結構分量があって載ってそうだったので、割といいかもしれないと思いまして。とりあえずダヴー元帥あたりから流し読みは、割としてみたいかも……。


 他に見つけた「ありかも」本としては例えば……。



 0円のは古い作品なんだろうと思いますけども、ノーリスクで試せるのでとりあえずダウンロードだけするのもありかも。

 有料のも、200円までとか、あるいは400円代くらいで買える本が結構いっぱいありますから、試してみるのはありだと思いますねー。

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『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』読了しました

 『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』読了しました。



 文献に関する話が結構好きなので、楽しんで読めました。あと、ある程度以上羅列的な本なので、英単語が分からなくて細かく意味が分からなくても、自分にとってそれほど興味がないところならスルーするということがやりやすくて良かったような気がします(普通の本の場合はもっと繋がりが大事なのでそこまでいかないような)。


 最後にワーテルロー戦役の箇所を流し読みだけでなく、分からない単語を引いてちゃんと読んでみました。すると、プロイセン軍の役割が昔より重視されているという話の割合が多くて興味深かったです。

 途中まで読んでいた『The Battle: A New History of Waterloo』(2006)も、プロイセン軍を今までよりも重視して公平に扱っている(つまり以前はプロイセン軍は非常に軽視されていたわけなんですが)ということでもって紹介されていたんですが、個人的にはそのような意識はなくて、むしろ色々な人の証言を持ってきてて面白いのが特徴かと思ってました。




 尤も、私が持っている本としては、個人的に『Waterloo:Companion』(2002)はプロイセン軍がちょっと軽視されていて、またナポレオンを割とけなしている(ただし他の多くの歴史家と同程度)一方で、ウェリントンに関してはまったく欠点がないとみなしていることに関してはちょっと度を超しているのではないかと思うほどだったりはしました。


 そして『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』上で、ウェリントンに冷たくあたっているかつての歴史家としてSiborne(1844/reprint1990)の名が挙げられており、その方向性を再び持ち出した現代の歴史家としてPeter Hofschröerが。で彼はその著作『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』(2006とあるけど1998?)およびその続編『1815 The Waterloo Campaign: The German Victory』(1999)の中で、ワーテルローの戦いを「ドイツ(軍)の勝利」と呼んだ、わけですが、そのフレーズには異論が多く出たものの、歴史家達にワーテルローの戦いに関して再検証を余儀なくさせた、と書かれています。





 そこらへんに関してR/Dさんの、

1815年6月15日 ブリュッセル
1815年6月16日 ブリー村

 がかなり面白いです。が、その後R/Dさんの関連Blogで何度かPeter Hofschröerによる「ウェリントンの陰謀説」が検証されてるんですが、ウェリントンがプロイセン軍をハメようとしたという説に関してはHofschröerの信頼度は落ちるだろうと書かれています(私も確かにそうかなという気がします)。

 たとえば陰謀説の由来


 『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』では、Hofschröerが「孤立した」歴史家であり、「独力で」研究した、と、ぼっちであることが2回も強調されているのが目を引きました(^_^; ただまあ、その後に紹介されていた『The Eagle's Last Triumph: Napoleon's Victory at Ligny, June 1815』の著者であるAndrew Uffindelも、リニーの戦いの前の会談で話されていた内容について、ウェリントンらが隠し事をしているということに関してHofschröerと同歩調っぽいですけども。




松田大秀氏が引いてきたクラウゼヴィッツ評

 ゲームジャーナルNo.41の『ワーテルローの落日』の松田大秀氏のマンガの冒頭(P12)には、以下のようなクラウゼヴィッツ評が載せられています。

 「彼(クラウゼヴィッツ)は何をやってもつまらなさそうでした。素振りもなんとなく冷たく協調性に欠けて(中略)他人を馬鹿にしているように見えることも(中略)いつも野心に燃えていて現代風の刺激や遊びごとは求めず古風な克己心一点張りの努力家でした。」
(カロライン・フォン・デア・マーヴィッツの回想録)



 この出典はどこなんだろうということは前々から気になっていたのですが、回想録を書いた人の名前がマーヴィッツ(Marwitz?)というのは、ホーエンローエについて、まとめで少し書いていたMarwitzなのだろうか……とさらに気になったりしたので、調べてみました。

 検索をかけてみていると、Marwitzという指揮官がワーテルローに参加していたりする(『1815 The Waterloo Campaign: The German Victory』P171)のも見つけたのですがしかし、Caroline con der Marwitzというのはクラウゼヴィッツの妻マリーの親友っぽいということが分かってきまして、しかもそのうちに引用部分の英文をGoogle Books上に発見!

https://books.google.co.jp/books?id=bv4WvIkbtv8C&pg=PA210&lpg=PA210&dq=Caroline+von+der+Marwitz+clausewitz&source=bl&ots=LhupBPLJ9c&sig=nTQja3vf-ah1lXhOt5dMugeI4lA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiUlqf0gt_LAhUnKKYKHdZWDbMQ6AEIITAB#v=onepage&q=Caroline%20von%20der%20Marwitz%20clausewitz&f=false

 この本は……と見てみたら、クラウゼヴィッツ周辺の当時のプロイセンに関して詳しい記述の多い本の邦訳本として良く参照させてもらっている『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』ではないですか!




 ということで、邦訳本からその部分を探そうとしたら、原本と章立ての名前がずれているのか探すのに苦労したんですが、ようやく見つけました。前後をまとめて引用してみます。

 ……彼(クラウゼヴィッツ)は宮廷生活というものをどうも好きになれず、フランスから帰還後は、それまでの廷臣らしさをすっかり脱ぎ捨ててしまっていた。他人の目には、何を考えているのか分からない、陰気な性格に見えることを承知していながら、敢えてそれを取り繕う努力も彼はしなかった。終日続くいくつもの委員会だの、閲兵式だの、晩餐会だのを精力的に愛想よくこなす友人のグナイゼナウとはちがって、クラウゼヴィッツは周囲の者に自分の生真面目さを隠すことが出来なかった。妻マリーの義妹【マリーの妹の夫の妹】に当るカロライン・フォン・デア・マーヴィッツの回想録は前にも引用した【P159】が、ちょうど二人の結婚式の頃、ブリュール家【マリーの実家】の人たちといっしょに住んでいた彼女はクラウゼヴィッツの人柄を次のように書いている。

 彼は何をやっていてもつまらなさそうでした。素振りもなんとなく冷たく、協調性に欠けていたので、他人を馬鹿にしているように見えることもよくありました。まわりの人たちの世間話などくだらないとでも思っているかのように、彼自身はほとんどしゃべりません。でも、夫人に対して抱いていたような理想化されたロマンティックな恋愛感情を詩句に託したり、時には突然雄弁になってそれをとうとうと語り出すときの彼は実に生き生きとしていました。いつも野心に燃えていて、現代風の刺激や遊びごとは求めず、古風な克己心一点張りの努力家でした。境遇のせいか、それとも彼のあまり人好きのしない性格のせいか、友人は少数でしたが、親密で堅い友情で結ばれており、みんな彼のことをずいぶん買いかぶっていました。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P313



 この後のあたりも面白いのですが、あまり長く引用すると良くないので、やめておきます。


 それから、松田大秀氏のマンガにはピクトン将軍について「20本のトランペット」に相当すると言われる大声の持ち主と書かれていて、これも出典が気になってました。

 で、「picton twenty trumpet」で検索してみると、一応出てきました。

http://www.forgottenbooks.com/readbook_text/The_Wellington_Memorial_1000352352/399

 ウェリントンの回想録が原典?

 松田氏はなんらかの和訳の本でこれを見られたのかもしれないですが、ウェリントン関係本からだとすると、和書は2冊しかないような気がします。↓以下のもの。



 しかし『ウェリントンの将軍たち』のピクトンの項は2ページほどあるのですが、そこにはトランペットの件は触れられておらず。あともう一冊、和訳されているウェリントン本の『公爵(ウェリントン)と皇帝(ナポレオン)』で、一応ワーテルローのところは見てみたのですが、トランペットの件はなく、じゃあ半島戦争中の部分を総ざらえで今見るのはあまりにもしんどいのでやめておきました(^_^;


 まあでもナポレオン関連本は色々とあるので、これら以外の和書かもしれず、あるいはまた、洋書上で読まれたのかもしれません。

 惜しむらくは、『公爵(ウェリントン)と皇帝(ナポレオン)』にも『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』にも索引がない……。索引の存在は重要だと思います……。

『1806:Rossbach Avenged』のホーエンローエの位置等の疑問点

 『1806:Rossbach Avenged』ですが、今回セットアップしてみて、2009年のザッカーによる配置変更点というのが良く分からなく……。

 その配置変更点というのは以下のものですが、

SET-UP CHANGES, FRENCH
Morning of the 9th, Soult: (change) S1004
Morning of the 10th, Soult: (change) S1122
Morning of the 10th, Beaumont: (change) S2514
Morning of the 11th, Soult: (change) in road march
Morning of the 12th, Soult: (change) in road march
Morning of the 13th, Nansouty: (change) S3427
Morning of the 14th, Bernadotte: (change) N1438


SET-UP CHANGES, PRUSSIAN
Morning of the 7th, Hohenlohe: (change) Hof
Morning of the 9th, Hohenlohe: (change) Schleiz
Morning of the 10th, Hohenlohe: (change) S3131



 フランス軍はそんなに問題はないと思うのですが、プロイセン軍のホーエンローエの位置の変更がなんか疑問を感じます。

 とりあえずまず一般的な話として、『1806:Rossbach Avenged』のセットアップ情報においては「地名が書かれた場合にはそれはマップ外の、その部隊がいた位置を歴史的興味として記してある」扱いなんですが、変更点の「Hof」も「Schleiz」もどちらもマップ内にある地名です。


 ↓右下にHof、真ん中よりやや左上にSchleizがあります。

スクリーンショット_160107_023


 しかしこれはまあ、「変更点を記す際に、面倒なので地名で記した」でも別に良いかもです。

 でも変更をそのまま採用すると、ホーエンローエは毎日のようにマップ上のかなりの距離を移動しまくって行ったり来たりしていることになってしまうのです。

 10月7日はN1818がHofに変更、10月8日はN1213ですが、N1213は↓の一番左下のユニットがいるヘクス(Rudolstadt)です。N1818はN1213から8ヘクスほど左上になります。

スクリーンショット_160107_022

 で、10月9日はN1213がSchleizに変更、10月10日はN0818がS3131に変更というのですが、一番困ってしまうのは、ホーエンローエ自身が麾下の部隊とは関係のないところにいることが激増(変更された3日は必ずそうなる)し、つまりは指揮下にいれることができないのです。それに比べると変更前の方がよほどそこらへん大丈夫でした。

 ただ、例えば、

 ……ホーエンローエは10月9日をTriptis - Aumaエリアでの彼の全軍を集結するための準備に費やし……
『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』MAP60の説明文



 とあって、TriptisやAumaというのはSchleizの少し北の町なので、史実で10月9日にホーエンローエがSchleizに来ていたということはないことではないかもという気もします。

 ただ、ゲーム上では重大な影響を及ぼす気はするので、この変更点に関してはプレイ前にどうするか、合意を取っておいた方がいいのではないかという気がしました。


 あとルールブックの方で、ゲーム添付の英文ルールブックだと個別移動セグメントのところに「フェイズプレイヤーは、非指揮下の将官(Officers)(のみ)をいくつでも動かすことができる。」とあるのですが、Ver.1.10の英文ルールブックではその文言が削られてしまっています。とすると、通常はこのルールは削られたとみなすのでしょうけども、じゃあ非指揮下の将官はどうやったら移動できるのかということがルールブックから探しきれず、「とりあえず自身のイニシアティブ値以下をダイスで出せたら移動できるということにするべきか……」としてそうしてみたのですが、そうすると麾下のユニットはイニシアティブチェックで動けたけど、指揮官が動けなかったなんてことが起こり、なんか変な感じがぬぐえなかったりします。

 また、騎馬哨兵は「指揮官と同じように移動する」と書いてあるのですが、指揮官(将官)がどのように移動できるのかが分からないので困ってしまいまして(^_^; まあ騎馬哨兵はイニシアティブチェックで動けるかどうかチェックしても良いような気はします。そもそもそうでなければ、騎馬哨兵にイニシアティブ値が書いてあることの意味が相当減ってしまうとも思いますし……。

 というような状態です。向後また読み込んでいくつもりですけども、分かる方おられましたら教えて頂ければ大変ありがたいです(^_^;

『1806:Rossbach Avenged』10月8日~10日セットアップなど

 21日のミドルアース大阪に行ってきました。

 『1806:Rossbach Avenged』のキャンペーンをセットアップしてみようと思いまして、史実キャンペーンの開始時点である10月8日(午後)でまずセットアップ(10月7日~10月14日までのそれぞれの日ごとのセットアップ情報が記されていて、どの日からでも開始できるのです。と言いつつ、なぜキャンペーンは10月7日からは始められないのかは分かりません(^_^;)。

スクリーンショット_160107_019


 プロイセン軍だけがちょこちょこっといて、フランス軍は全然いません。フランス軍はこの後、マップ下(南西)の、川の右側の部分から陸続とマップ内に入ってきます。この写真上のプロイセン軍の中で左下の方にいるのがホーエンローエ(の軍)で、水色の□で囲んであるのは、の左上端のヘクスから14ヘクス以内に自由配置のユニット。残りのプロイセン軍の大半(ブラウンシュヴァイク軍やリュッヘル軍)はマップ左端の下半分の辺りからマップの範囲内に帰ってきます。

 状況としては、プロイセン軍側もフランス軍側も相手がどこにいるかよく分かっていない状況の中で、フランス軍はこのマップのはるか左下の方の自分の連絡線を危険に晒してでも、ぐわーっと迂回して右下から回り込んでいった。プロイセン軍側は、まさか相手がそんな大胆なことをするとは思っていないので、右下への警戒は大してしておらず、むしろ自軍をこのマップの左端より左側に置いて状況を伺っていた……という感じでしょうか?

 ……しかしこの状況からキャンペーンを始めてみるのは、(特に初見では)厳しい感じがしたので、10月9日(午前)のセットアップをさらにしてみました。

スクリーンショット_160107_020

 前日からの移動を矢印で示してあります。マップ右下の方からフランス軍が入ってきてますが、まだ交戦は起こってません。一番右のフランス軍がスールト軍団で、その左側の先頭にいるのがミュラの騎兵軍団の一部、それに続くのがベルナドット軍団です。

 さらに10月10日(午前)のセットアップをやってみました。

スクリーンショット_160107_024

 3本出ているフランス軍の進撃路の真ん中の先端の部分、Schleizという町で両軍最初の交戦が史実で9日に起こっており、プロイセン軍側の部隊は2個ユニットが減少戦力面になって後退しています。

 最初の交戦は翌日【9日】に見られ、ベルナドットとミュラがシュライツで、6000のプロイセン兵と3000のザクセン兵で構成されるタウエンツィーン麾下の軍勢と遭遇した。竜騎兵2個師団と第Ⅰ軍団の歩兵に支援された軽騎兵2個旅団(ラサールとミローに指揮された)が、正体を現したこの敵分遣隊をすぐに一掃し、ゲーラへの道路を開放したのである。
『ナポレオン戦争 第三巻』P49

 その朝遅く、ナポレオンはシュライツへの攻撃を命じ、そこでタウエンツィーンによる及び腰の抵抗があったもののベルナドットが制した。これは小さな出来事であり、プロイセン軍が失ったのは約400名に過ぎなかったが、このことは間違いなくプロイセン軍の士気に衝撃を与えた。
『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』MAP60の説明文



 その真ん中のフランス軍の矢印の一番下の部分はダヴーの第Ⅲ軍団です(本当は行軍隊形で出てくるのでスタックはできず、歩兵師団3つと騎兵ユニットと架橋段列ユニットの5つがずらーっと並んでいるはず)。

 一番左はランヌの第Ⅴ軍団です。ランヌの軍団は2個歩兵師団から構成されているので、3個歩兵師団からなるダヴー、スールト、ベルナドットの軍団と比べるとやや小ぶりな感じがしました。

 プロイセン軍側は、ホーエンローエの軍が前日に比べてやたらめったらユニットを分散させているのが特徴的な気がします(これが良いのか、悪いのかはよく分かりませんけど)。マップ左下からはブラウンシュヴァイク公の主力軍が入ってきてます。

 ランヌ軍団と向かい合っているのは、当時プロイセン国内で(主に主戦派の人達に超絶)人気のあったルイ・フェルディナント公の率いる師団です。彼はフリードリヒ大王の末弟の子(つまり甥)で、フリードリヒ大王以来最も優秀な軍人と見なされていたそうです(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は大王の次弟の孫に当たります)。ところが、ここでランヌ軍団と交戦し、一フランス軍軍曹に殺されてしまうのです(ザールフェルトの戦い)。

スクリーンショット_160107_025

 ↑プロイセン軍スタックの下のユニットがルイ・フェルディナント公の師団です。

 ……彼の戦死と軍団の事実上の殲滅という知らせは、プロイセン軍司令部において最大の驚愕をもって受け取られた。
 『ナポレオン戦争 第三巻』P51



 私はセットアップやルールの解釈をするばかりでしたが、こかどさんがいくらかプレイらしきものを無理矢理されており、ランヌ軍団をザールフェルトの町へ突っ込ませました(戦闘結果表を見ていると、1:1以上が確保されそうなら殴った方が得そうではないかという話になり、隠匿状態だとしてもユニット数で勝っているから突っ込むだろうということになったのです)。

 で、戦闘結果はExだったのですが、改訂ルールで付け加えられたShock Combatルールによって再度判定するとAr2で、「やったー! ルイ・フェルディナント公が勝った~!!」と私はテンション上がりまくり。

 よくよく見てみると、ルイ・フェルディナント公師団のイニシアティブ値(真ん中の括弧の中の値。訳すならば自発的行動値。指揮官から離れていて指揮下に入れなくても、ユニット毎にこの括弧の数値以下の目をダイスで出せば、行動できる)は5で、スールト軍団の4、3、2などよりも相当すぐれており(尤も、ランヌ自身が優秀で常に毎ターン自動的に行動できるので、イニシアティブ値を使う機会などないとも思われますが)、「Napoleon's Finest」とさえ言われるダヴーの第Ⅲ軍団の4、4、4をさえ上まわります。しかもプロイセン側ではブリュッヒャーもイニシアティブ値が5なので、この両人をいかに活躍させるのが肝か!? とテンションさらに上げ上げでした。

スクリーンショット_160107_026

 ところが……。Shock Combatテーブルにおいては『1806:Rossbach Avenged』のプロイセン軍歩兵のイニシアティブ値は-1という記述があったことに気付き、そうすると結果はExで、このゲームのExは「総戦力の低かった方が全滅し、その戦力の50%相当を大兵力だった側が失う」というものなので大兵力側に結構有利で、プロイセン側は10戦力を失った(2個ユニット壊滅)のにフランス側の損失は5戦力(1ユニットが減少戦力面に)で、テンションは一気に下火となりました(^_^;

 良く考えてみるとルイ・フェルディナント公とブリュッヒャーのイニシアティブ値が5というのは、「(命令されなくても)とにかく突っ込んでいく」2人の性格を踏まえたものに過ぎず、別に優秀さを表しているというわけでもないという気も。まあイニシアティブ値が高い方がShock Combatでは非常に有利なんですが、プロイセン軍歩兵は-1、ザクセン軍歩兵は-2(無理矢理連れてこられているのでやる気が無い。同情しますわ……)、フランス軍親衛歩兵は+2で、やはりプロイセン軍はつらいものがありますね……。



 こかどさんと、「どういうプレイになりそうか」ということを色々話していたんですが、フランス軍がナポレオンで3、ランヌで1、ダヴーで1、ミュラで1の軍団を必ず行動させられるのに対し、プロイセン軍はブラウンシュヴァイクで1、ホーエンローエで1を必ず行動させられるに過ぎない(ただし1つの軍・軍団のまとまり(フォーメーション)の規模はプロイセン軍の方が大きいですが)ので、フランス軍としてはその「自動的に行動を可能とする6つの権利」をなるべく同時にいっぺんに敵にぶつけられれば事が相当優位に運ぶでしょう。

 一方でプロイセン軍側は、ブラウンシュヴァイクとホーエンローエの軍をなるべくうまく使いつつ、できるだけ自軍にとって有利な場所(小川や町や斜面は防御に有利)でしかフランス軍が会戦をしかけられないようにしたいところではないか、と。

 勝利条件はポイント制になっていて、いくつかの要素がありますが、差がつきやすくでかいと思われるのは両軍の損失比率によるもので、以下のようになってます。

プロイセン軍の損失:フランス軍の損失
           3:1以上  …… フランス軍のVPに+3
           2:1     ……            ±0
           1:1     ……            -2
           1:2     ……            -3

 つまり、プロイセン軍の損失がフランス軍の損失の1.99...倍以内なら、フランス軍のVPが-2されるということ? プロイセン軍側は結構敗北していても、まだフランス軍のVPを削れるわけです。大敗北でなければVP損にはならない。

 そしてまた最終的な勝利段階はVPが同点までならプロイセン軍の勝利なので、その他のVPでフランス軍は3ポイント以上取るのでなければならないでしょう。

 プロイセン軍としては、とにかく自軍の損失を抑えつつフランス軍に損失を与えるのが重要だと思います。フランス軍としては、損失が同じくらいならば完全に負け決定コースで、自軍の損失の2倍くらいの損失は少なくともプロイセン軍に与えたいところ。これは、デザイナーズノートをチラ見したところ、ナポレオンの狙いはロシア軍がプロイセン軍と合流してしまう前にプロイセン軍を完全に撃破してしまうことにあったので、プロイセン軍をボロボロにしてしまうのでなければフランス軍の勝ちとは言えず、辛勝程度ならばロシア軍とプロイセン軍が合流してしまった暁にはやばいことになるから……ということなのだと思われます。

 ですから、プロイセン軍としてはうまく立ち回れば勝ちにはできるし、逆にフランス軍は大勝しなければそれは勝ちではないということになりますね。

『La Bataille d' Halle -1806』をダウンロードしておきました

 バタイユシリーズのゲームにはいくつか無料でダウンロードできるミニゲームがあるのは知っていましたが、そういえば今熱中している1806年戦役の中(イエナ・アウエルシュタットの戦いの後)の戦いであるハレの戦いのゲームがあったのに気付いて、ダウンロードしておこうと思いました。

LA Bataille ME Premier

 ゲームをするかどうかはともかく、資料として……。ユニットや、ヒストリカルコメンタリーは特に資料になるような気がします。

 実は、ハレの戦いでも活躍した指揮官であるデュポン(日本語版Wikipediaに詳しい項目がありました:ピエール・デュポン (軍人))に最近触れることが多く、印象付いてます(前回のエントリでも扱ってました)。

 まずはR/Dさんのブログの2015年分を印刷したやつを読んでいたら、バイレンの戦い(1808年7月のスペインで、ナポレオンが直接指揮していないものの、フランス軍が最初に大規模に敗北、しかも降伏したため、ヨーロッパ全体に大きな衝撃を与えた)についてずーっと触れられていて、そのフランス軍の軍団長がデュポンでした。デュポンは帰国した後監禁されてしまったそうです。

 と、尤も、バイレンの戦いといっても私は(半島戦争に興味がないのもあって)全然知らなかったのですが、たまたま『歴史群像』の最新号のナポレオン戦争の連載がバイレンの戦いを扱っていて、それで少なくともある程度は頭に入ってきました。

 デュポンはバイレンではそういう不名誉なことになりはしましたけども、それまでの戦歴はかなり立派なものだそうで、ポッツォロ、ハズラッハ、デュレンシュタイン、ハレ、フリートラントなどで華々しい戦果を挙げたとか。で、『ナポレオン戦線従軍記』の著者のフランソワ・ヴィゴ=ルシヨンがデュポン師団に所属していたのでその中のハレの戦いについても数ページで描写されています。

 今、1806年戦役の最初のところを調べ初めてますけども、実はイエナ・アウエルシュタットの戦いの後の追撃戦の部分にかなーり興味があるので、その中の一つの戦いであるハレの戦いに関してバタイユゲームが存在し、そのユニットやヒストリカルコメンタリ-が見られるというのは大変嬉しいなと思いました(*^_^*)

1806年9月24日地図

 1806年9月24日の地図を作ってみました。

 が、あくまで勝手な私の推定であり、適当なものであることを前提としていただき、この地図が正しいとか信じ込まないようにして下さい。

 「勝手な推定です」という英文を入れようとも思ったのですが、例えば「presumed by」とかって用法が見つけられなかったので良く分からないのでやめときましたけど、まあでも個人ブログ上に落ちていた地図を権威あるものだと思う人もいないかー、ってことでまあいいか、とも(^_^;

1806年戦役用11Map58から9月24日

 一応、なぜこう推定したのかという説明を。

 まずプロイセン軍ですが、元の地図(10月6日時点の地図)には各軍に関して「25 Sept」という25日時点での位置を示す書き込みがあり、元々それを頼りに25日時点の地図を作ろうとしていたのですが、『1806 Coming Storm』上に、9月下旬時点での各プロイセン軍の位置を『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』が記述したものが引用されてまして、そっちの方が範囲まで書かれていたので、「こっちの方が面白そうだな」ということで採用(おい)。まあ元のやつはあくまで「点」しか示してなかったので、しかし実際にはまだまだ集結がされておらず、特にリュッヘル(+ブリュッヒャー)の軍などはかなり広範囲に分布していたみたいです。

 9月の最後の10日間になってもまだ、プロイセン軍は190マイルもの広い範囲に広がっていた。リュッヘルとブリュッヒャーはヘッセンにあり、PaderbornからEisenach、Gotha、Erfurtにまで分布していた。主力軍はNaumburg周辺にいた。ホーエンローエはElbe川からMulde川の間におり、ザクセン軍の動員はまだ完了していなかった。
『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P68


 ヴュルテンベルクの位置は元の地図の位置そのままです。プロイセン軍の兵力表示なんですが、それらは10月6日時点のもののはずで、9月24日時点でどうかは分からないはずなので、全部外しておきました。


 次にフランス軍です。前回エントリで『ナポレオン戦争 第三巻』などチャンドラーによる「24日に移動命令がミュンヘンに到着」というネタを書いてましたが、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』の方により詳しいというか、また別のネタが書かれてました。以下、MAP58の説明からです。

 ナポレオンがベルティエに対して発した最初の明確な命令は(9月13日)、騎兵予備と第Ⅲ、第Ⅵ、および第Ⅶ軍団を集結させておくことであった。さらにDupontの師団がWurzburgに……


 13日に出された命令であれば、(パリで出された命令が4日後にミュンヘンに届くくらいであったようなので)24日時点では実行されているでしょう。また、引用箇所のだいぶ後に、「ベルティエはすでに19日にその集結を命令していたのだった。」という一文があって、これがその命令にあたる可能性もあるかもです。その場合はさらに、19日にベルティエが(どこから?)出した命令が、各軍団にいつ届いて、それがどれくらい実行され始めているか、気にはなりますが……。「集結」というのは、「(現地に経済的ダメージを集中的に与えてしまわないように?)広範囲に広がって野営(宿営?)していた部隊をある程度の範囲に集結させる」ということかと推測します。ので、それらの軍団に関してそのように描いてあります。この命令から外れているスールトやネイの軍団ですが、元の地図を見ていても24日時点では集結さえ始まっていない印象があるので、そこらへん齟齬がないような気がします。

 デュポン師団はベルナドットの第Ⅰ軍団麾下なんですが、なぜか当時フランス国境あたりにいたらしいです。で、ヴュルツブルクまで移動していくのですが、これは元の地図にばっちり書き込まれてまして、コローニュ(ドイツ語名ケルン)を9月23日に出発したと書かれています。そいでもって、『ナポレオン戦線従軍記』の著者のフランソワ・ヴィゴ=ルシヨンがデュポン師団に所属していたので、その移動の様子も書かれています。曰く、

 私は第32連隊にボンで合流した。ライン川を遡り、アンダーナハを通った。9月25日、ノイヴィート近くでサンブル・エ・ムーズ軍がオーシュ将軍のために建てた記念碑とマルソ将軍の記念碑を見た。
『ナポレオン戦線従軍記』P263


 ノイヴィートの位置を調べてみると、コブレンツのすぐ北にある町でした。ので、その間が24日の位置であると推定しました。





 親衛隊に関してですが、9月18日(もしかしたら19日)の記述としてこうあります。

 ……帝国親衛隊は、接収された四輪駅馬車や特別な荷馬車に乗り、舗道をガタガタと音を立てて走ってマインツへと向かわされた。彼らはたった一週間余りで550キロも旅したのである。しかし、親衛隊の歩兵は、すべての行程を乗り物に頼って進んだわけではなかった。親衛隊の候補生であるアンシオームは、家族への手紙で述べた。「我々はいくつかの村を徒歩で行進し、村の遠いはずれで荷馬車のなかへ戻った」。マインツへの行進は27日に完了した。
『ナポレオン戦争 第三巻』P39


 ところが元の地図に、ベシエール麾下の親衛隊騎兵が10月6日にようやくMannheim(マインツでなく)に到着したかのように描かれていて、どうしたものかと悩みます(^_^; 一方でルフェーブル麾下の親衛隊歩兵はマインツから出発して、テューリンゲン地方へと前進してます。

 まあよくわかんないので、ベシエール麾下の部隊のことは無視して、親衛隊がマインツに、24日時点で到着した部隊もいる一方で27日くらいにならないと到着しない部隊もいるよ的範囲で示しておきました。


 次にオランダ(ホラント王国)の部隊について。9月16日時点で、ナポレオンはルイ・ボナパルトに以下のような内容を含む覚書を送っていたそうです。

 おまえの軍隊を急いで動員させよ。彼ら[プロイセン軍]をあざむき、おまえの国の国境地帯を守るためにすべての利用できる軍を再結集させよ。
『ナポレオン戦争 第三巻』P43


 これを鑑みて、Weselへの集結がやや進んでいるものとして描いておきました。兵力は『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』によると、9月上旬に18,000であったものが10月6日だと30,000にまで増加しているんですが、もちろん24日時点での数は分からないので、消してあります。


 最後にモルティエ元帥の第Ⅷ軍団について。

 オランダで軍の右翼を守り、ライン川にある自分の後方兵站部を保護するために、ナポレオンは20日、マインツで第Ⅷ軍団を結成するように、とモルティエ元帥に指示した。
『ナポレオン戦争 第三巻』P43


 20日に指示したという時モルティエはどこにいたのか謎ですし、マインツでの編成作業は24日では始まっていない……という可能性も大いにあるかと思います。が、まあ分からないですし、少なくとも命令上は始まっているのだから描いておけばいいかな、と(^_^;


 と、こんな感じですけども、他にもっといい記述などを見つけた方がおられましたら、教えて下されば適宜修正しますので~。こういうのは「いつまで経っても仮定のままで、より良い資料によって塗り替えられていく」のが面白いのだと思いますし。

1806年9月上旬も同じマップから

 前回のエントリ(1806年9月25日の地図を作製中)の後作業してまして、一番最初の配置図である9月上旬のマップも同じやつで作って、その後を表示していった方が分かりやすいなと思ったので、そちらをまず作ってみました(クリックして拡大表示すれば4344×3320にできます)。あと、その後の移動(予定)を矢印で表示してみました。

1806年戦役用11Map58から9月上旬

 上旬としてますが、一応9月12日のつもりです。プロイセンはホーエンローエに対してザクセンを占領するように8月30日に命令し、ホーエンローエが国境を越えたのが9月6日で、首都ドレスデンの占領が12日でした。首都を占領したところで、まだザクセン軍を吸収できてないとして、ザクセン軍の表示は消しました。

 状況としては1806年9月初旬のプロイセン軍配置の↓のものとほぼ一緒ですが、↓の方は方で、レストック軍の配置が入っているとか、同盟国が分かりやすいとか、いろいろメリットがあります(『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』の地図の国境線は、だいたいの線であって、細かく入り組んだ飛び地とかは無視されており、ザクセン=ヴァイマール公国とかブラウンシュヴァイク公国の国境線が表示されてないのです)。

1806年戦役用03Map57用02


 前回作っていた9月25日の地図ですが、フランス軍の各軍団への移動命令がミュンヘンに到着したのが9月24日らしいので、まだ移動が始まっていないであろう9月24日ということにした方が良いかと思ってそれで作り直し始めてます。ただ、9月5日に、

 ベルティエは、最終の命令を受領して8日以内に、バンベルクで第Ⅳ、第Ⅵ、第Ⅶ軍団を集める用意をすることになった。
『ナポレオン戦争 第三巻』P38


 とあって、24日以前に「集結」だけはしている可能性があるのかな……? と考えたりしたのですが、「最終の命令」がいつとか、「集める用意」とは何を意味しているのかとか分からないので、むーん(^_^;

1806年9月25日の地図を作製中

 とりあえず、1806年9月25日の地図を『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』のMAP58(元は10月6日の地図)から作り始めてみました。


1806年戦役用11Map58から

 プロイセン軍の配置は置き終わりました。プロイセン軍はこの9月25日から10月6日の間くらいに色々作戦計画でごちゃごちゃやっていたみたいなので、この地図上でそれができればな、と。

 あとはフランス軍の配置ですが、フランス軍に関してはこれまであまり読んでないので(^_^;、しばらく地図の作業を置いといて、資料読み込み作業に入ります……。


 ただこのMAP58を見ていて分かったこととして、スールト軍団の部隊はオーストリア国境を越えた、国境沿いの(オーストリアから見て内側)あたりにも配置されていたみたいです。ですので前の地図のデータは修正しておきました(エントリ上の地図は修正せず(^_^;)。

1806年9月初旬のプロイセン軍配置

 1806年9月初旬の地図について、プロイセン軍配置を中心に調べてみました。


1806年戦役用03Map57用02

 元にした『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』のMAP57には、「Situation Early September 1806」と書いてあるので、9月初旬だと理解してますが、詳しく何日とかは分かりません。ただ、プロイセン軍がドレスデンを占領したのが9月12日で、この地図はドレスデンを占領した状態なので、9月12日よりは後ですかね……。

 プロイセンは8月7日に密かに開戦を決意、9日あるいは10日に動員を開始してます。8月10日には最高戦争会議も始まってます。ナポレオンは9月5日に戦争に対する備えを始めはするのですが緊迫感はなく、戦争が避けられないと考えて部隊を移動し始めるのは9月18日(か19日)からなので、結果的にプロイセン側には6週間の時間的リードが存在したことになります。

 なぜナポレオン側の対応がこんなにも遅れたかですが、

 ……進行中の事態についての予兆がパリに届けられたときでさえ、プロイセンがグランド・アルメに一騎打ちで挑みかかるほど向こう見ずになるとは、彼は依然信じようとしなかった。当時、フランス軍は南ドイツに少なくとも16万の部隊を置き、彼らはラインからドナウまでとマイン川に沿った広大な領域に宿営させられていた……
『ナポレオン戦争 第三巻』P29,30

 と、そもそも当時オーストリアやプロイセンに対する脅しとして、またフランス国内での宿営を避けて自国での負担を減じるために南ドイツに大陸軍の大部隊が駐屯して、にらみをきかせていたことがあるようです。

 これに対して、プロイセン軍側の兵力ですが、

 ……動員に関しては約25万4000もの兵を理論上は利用できた(かなりの傭兵も含む)が、この総計は1806年の8月には17万1000の実働兵力にまで削減されていた。それはおびただしい数の守備隊が派遣されたこと(それらのうちの多くは不必要であった)や、プロイセンの官僚が利用できる予備役人員を全員は出動させなかったことによっていた。
『ナポレオン戦争 第三巻』P30

 とあって、数の上では負けてないような気もしますが……しかし、そもそも戦争するつもりがもともと上層部にはなかったのにいきなり戦争を決意してしまって準備ができてなかったことや、気持ちの上ではまだ、特に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と最高司令官であったブラウンシュヴァイク公が大いに優柔不断であったようです。

 このようなことをプロイセンは意図していなかった。戦争が不可避だと分かると、軍事的準備を完了させるための時間が必要であった。
『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P14

 しかしフリードリヒ・ヴィルヘルムはその性格からこの動員令を全軍に適用せず、王国の西と中央部に駐屯している部隊のみに適用した。ナポレオンは警戒されていたのであって、脅威を与えつつあった訳ではなかったからである。……動員は、それが即座の攻勢に使用されるのでなければ、自殺行為も同然であった。王と彼の顧問達は、現実の状況が彼らの意図を越えてしまうまで、防衛的な方法での限定的な動員ということに固執し、防衛的作戦に向けて趨勢を推し進めた。
『1806 Coming Storm』P12

 より問題であったのは、プロイセン軍司令部にはっきりと異なる二派が存在していたことである。ブラウンシュヴァイク公らの一派はフランス軍に対する数的劣位に気付いており、ナポレオンの大軍に敵することは難しいと考え、戦争を避けることのできる可能性にまだしがみついており、大胆かつ即自の攻勢によって戦争状態に落ち込んでいくことをなんとか避けようとしていた。
『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P68


 とかとか……(最後のやつは時間的にもっと後のことかもですが、とりあえず)。

 しかし一方で、この時間的リードを利用してフランス軍を撃破できる可能性もあった……?

 ……プロイセン軍の指揮官達はどうすることがナポレオンを撃ち破るのに最適であり、すぐにでも祖国に加えられた屈辱に対して復讐することができるのか、ということに関して長い議論に熱中した。フランス大陸軍はオーストリアを威圧するためにドイツ中央部に広範囲に散らばって配置されていることが分かっており、その集結が完了してしまう前にプロイセン軍が奇襲をかけて撃ち破ってしまうことができそうだった。だが、プロイセン軍最高司令部はとてつもない多頭体制になっており、全員を納得させる案など出すことは不可能だった。このような状態を進行させるために取り得る策もまったく用意がなかった。一ヶ月に渡って戦争指揮に関してやりとりした挙げ句、9月初旬になってもプロイセン軍の部隊は配置を完了しない有様だった。
『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』P11



 で、結局どうなったかといいますと……チャンドラーの『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』(1993)によると、時期不明ながら、

■ブラウンシュヴァイク公の書類上75,000がベルリンとマグデブルクのあたりに。
■ホーエンローエの42,000(ザクセン軍18,000を含む)がドレスデンのあたりに。
■リュッヘルとブリュッヒャーの恐らく計29,000がそれぞれミュールハウゼンとゲッティンゲンのあたりに。
■レストックの25,000がポズナン(ポズナニ:Posen)のあたりに。

 スクロールが面倒だと思うので再び前掲地図を出してきますと、

1806年戦役用03Map57用02

 で、リュッヘル軍の位置が『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』と大いに異なっているんですが、同書の次のMAP58(10月6日の時点)を見るとリュッヘル軍はミュールハウゼンより南にいるものの、ゲッティンゲンよりだいぶ北から移動してきたという矢印が付いた形になっているので、矛盾しているわけではないのかな? と。


 資料を見ていると、9月25日頃のプロイセン軍の配置について結構書かれていて、しかもその頃の地図は『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』にもないので、その頃の地図が作れそうな気がしてきました。間を埋める地図を作れるのは良いなぁと思います。

 あと、フランス軍の兵力がほとんど元の地図には書かれてないので、そっち方面とか……。


 情報がまとまってない状態でもどんどんブログに挙げていこうと思います。そうでないとむしろ自分の中でわけがわからなくなるので……。あと、使用する資料は新しめのものとして『1806 Coming Storm』(2010:最新にして詳細)、『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』(1993:情報が新しめっぽくて文が分かりやすくて分量が適度)を基本として、それにもちろん地図として『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』(1965/1999:自分なりの和訳も完了している)、それから日本語で読める『ナポレオン戦争 第三巻』(1966)に絞っていこうかと。資料を絞らないと全然進まないですし(^_^;

 『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』はかなり面白そうなんですが、ちとすらすら読めないので苦しい……。

1806年9月初旬地図を作製中


 1806年戦役の地図を作る作業に取りかかりまして、とりあえず『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』のMap57を一番の元にして、1806年9月初旬の地図を作製し始めました。


1806年戦役用03Map57用

 が、色々疑問点がありまして。

 たとえば、オランダから伸びている青い範囲の線は当時ホラント国王となっていたルイ・ボナパルトの指揮していた18,000名の軍の範囲で、1806年戦役の際にはプロイセンに対して好意的中立であったヘッセン=カッセルを牽制するためにそちらに圧力をかけることになるらしいのですが、9月上旬というまだ戦争が始まっていない時点(ナポレオンが戦争が避けられないと考えて部隊を移動し始めたのは9月19日から)のはずの元々の地図上ですでにしてプロイセンの国境を越えてしまっています。

 元々の地図はこんなカラーでないのであまり気にならないのですが、カラーだとむっちゃ気になるんですが……。

 他にも、元の地図ではプロイセン側もフランス側もオーストリア国境を越えてオーストリア内に部隊が存在するかのように範囲が描かれていたりしてます(上の地図ではずらしましたが……)。

 あと気になったのが、プロイセン領のアンスバッハ(上の地図ではプロイセンの色を消してしまってますが、ヴュルツブルクの左斜め下の赤い線で囲まれた領域)上にむちゃくちゃフランス軍(ベルナドットの第Ⅰ軍団)がいること。ただ、この9月頃の時期にはもしかしてアンスバッハはすでにしてフランスに接収されているんだったか……? とも思ったりしたんですが、どうもこの問題を放っておくのも良くない気がして調べてみました。

 『ナポレオン戦争 第三巻』にはこうありました。

 バイロイト近郊での二~三のとるにたらない境界線の変更と引き替えにに、アンスバッハはドイツにおけるあの忠実な盟友バイエルンのものになった。ヌシャテルは勤勉なるベルティエに授与されることになり、ヴェーゼルはフランスに併合された。……これらの強要された譲歩の代わりに、プロイセンはハノーヴァを手に入れることになった……
『ナポレオン戦争 第三巻』P18,9


 他にも、Charles Alexander, Margrave of Brandenburg-Ansbach上に、アンスバッハは1805年12月15日の第1次シェーンブルン和約でハノーファーと引き替えにされた、と書いてありました。

 英語版WikipediaのPrincipality of Ansbachだと詳しいことは書いてないのですが、Principality of Bayreuthにはこうありました。

 バイロイトは第4次対仏同盟戦争の際にフランス軍によって占領され、1807年のティルジット条約によってプロイセンから割譲されることになった。1808年のエアフルト会議で、フランス皇帝ナポレオンは新しく誕生したバイエルン王国にバイロイトを売却することにし、1810年に1500万フランで譲られることになった。



 そうすると、バイロイトは1806年後半当時はプロイセン領であったっぽい?

 元々1806年の地図は、Wikipedia上にある↓の地図を元にして作っていたのですが……

Rheinbund 1806, political map

 この地図は「1806」とは書いてあっても1806年のいつの時点かまでは分からないという問題もあったんですが、この地図ではヌシャテル(スイスの北西)とヴェーゼル(オランダの南東)はすでにプロイセン領ではないことになっている一方でアンスバッハとバイロイトはプロイセン領となっているんですが、しかしアンスバッハは1805年12月か、あるいは1806年1月くらいの時点でプロイセン領ではない(バイエルン領である?)とした方がよさそうですね。一方で、バイロイトに関しては少なくとも1806年戦役が始まるまではプロイセン領のままである……。


 あと、プロイセン領以外で色が付けてあるのはプロイセンに好意的であった国なんですが、ヴュルテンベルクは明確にナポレオンの影響下にあったにも関わらず色付きであるのは、国王の弟がプロイセン軍に従軍していて予備軍団を率いていたからです。

オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822)

 ↑これがその人ですが、ごく周辺の英語版Wikipedia等を見てみたりした感じでは、ヴュルテンベルク国王がナポレオン側にいるのにその弟がプロイセン側にいることに関しての記述は見つけられませんでした。この弟はプロイセン領であるシュレージエンに領地を持っていたらしいので、もう全然そっちの人間という扱い? しかしこの領地というのが、ブラウンシュヴァイク公(子)と同じ領地っぽく、そこらへん一体どういうことなのか分からない……(^_^;

 またこの人物については、調べるのが進んでいけば記述が見つかるかと思って先送りにしようと思ってます。

 ちなみに『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』のMap58(1806年戦役が始まってすぐの地図)の左下には、

注意:地図上にヴュルテンベルクとあるのは、プロイセン軍の将軍である。この時フランス軍の同盟国であったヴュルテンベルク王国の部隊という意味ではないので、混同しないこと。


 と書いてあるという(^_^;

ハノーファーの被占領歴

 ブラウンシュヴァイク公(父)の伝記本?である『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』の1805年のところ(P96)を読んでいたら、細かい時期は不明ながら11月頃かに、「ハノーファーからベルナドットの部隊が撤退を要求され、ナポレオンはこのオーストリアとの戦争の時期に敵を増やしたくはなかったので部隊を撤退させ、その後にブラウンシュヴァイク公の軍が入った。」というようなことが書かれていました。

 変だなと思ったのが、「ハノーファーにベルナドット」という点で、この時期はウルム戦の後、アウステルリッツの戦いに向かっている頃で、ベルナドット軍団がハノーファーにいるわけはないのでは……ということで気になって、色々調べてました。

 その途中で、1805年のフランス・スウェーデン戦争の英語版Wikipedia記事を読んでみたら、イギリス、スウェーデン、ロシアの連合軍がハノーファーを1805年~1806年にかけて占領したとか書いてあるし、ますます「どういうことやねん?」と(^_^;


 尤も、あんまりはっきりちゃんとしたものは見つけられず適当なところで切り上げるも、ハノーファーがいつどの国に占領されたかという話はごちゃごちゃしてわけが分からなくなりがちなので、ある程度まとまったことが書かれてあったBremen-Verden Wikipediaという記事を中心にまとめておこうと思います。





1795年 バーゼル和約によりプロイセンがハノーファーを含む北ドイツの中立を保証。ハノーファーは武装中立となる。

1801年 24,000のプロイセン兵がハノーファーに侵攻、ハノーファーは戦わずして降伏。

1801年10月 プロイセン軍は撤兵し、ハノーファーをジョージ3世に返上。

1803年5月18日のイギリスの対仏宣戦後、5月26日にフランス軍がハノーファーに侵攻『GREAT BRITAIN AND HANOVER』という本?によるとモルティエが指揮官か)

1805年秋 第3次対仏同盟戦争が始まり、ハノーファーにいたフランス軍が去る(『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』のMAP46を見るとハノーファーに部隊がいたことは描かれているが、誰の部隊とは書いていない。しかし最も近い配置の軍団長がベルナドットなので、ハノーファーにいた部隊がベルナドット麾下の部隊の一部である可能性は高そう?)

1805年11月初旬 イギリス、ロシア、スウェーデン連合軍約12,000名がスウェーデン領ポメラニアを出発してフランス支配下のハノーファーの解放に向かう。ハノーファーへの侵攻は、スウェーデン軍とロシア軍のプロイセン領の通過に対してプロイセンが各所で消極的な姿勢を見せたため、何度も遅延した。

1805年12月 アウステルリッツの戦いの結果、イギリスとロシアの部隊はハノーファーからの撤退を始め、フランスに対抗するのは小規模なスウェーデン軍部隊だけとなった。

1806年1月 プロイセン軍部隊が暫定的にハノーファーを占領

1806年4月 フランスがハノーファーをプロイセンに譲ることが正式に合意される。ハノーファーに残っていたスウェーデン軍もスウェーデン領ポメラニアへの撤退を余儀なくされた。

1807年? イエナ・アウエルシュタットの戦いの後、フランス軍のモルティエの部隊がハノーファーを再占領。

1813年 ハノーファーは連合軍によって解放される。





 こうしてみると、1801年、プロイセンがハノーファーを占領の最後に書いてあったまとめは大筋間違ってなかったみたいですね……。

 『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』にあった「ベルナドットが撤退を要求され」の件ですが、要求したのは誰なのかは書いてないので、プロイセンが要求したのかと思いきや、ナポレオンが単に作戦上要求しただけなのかもです(^_^;


ナポレオン軍部隊とタマネギの関係

 先日、ナポレオン戦争時代の女性酒保商人達の本などで紹介してました『Swords Around A Throne』という本ですが、中身検索で読めるうちのプロローグの部分を見ていると冒頭に、1806年10月12日(イエナ・アウエルシュタットの戦いの2日前)の話であると書いてあったので、「おっ。これは」と思って印刷してみて、流し読みしてみました。

 すると、フランス軍の騎馬哨兵が急に町に現れて、ぽかんとしている町民にプロイセン軍に関する聞き取りをして、それを報告書にまとめて(この時、複数のコピーを作って一部は保管するとかってのが興味深かったです)ナポレオンの司令部に届ける……という話であったのですが、その途中に、ベルナドットの第Ⅰ軍団のそばを通ったものか、その歩兵達の行軍の様子についての記述がありました。

 南へ向かう道路はベルナドット元帥の第Ⅰ軍団の歩兵達でいっぱいであり、彼らはほこりのもやが低く上がり、汗、タマネギ、それにきついフランス煙草の匂いが立ちこめる中を前進していっていた。
『Swords Around A Throne』P2



 汗と煙草は全然分かるとして、タマネギとはどういうことかと(^_^; 「onions」にタマネギ以外の意味があるのかと思って英和中辞典などもひもといてみたのですが、そういうわけでもなさそう。

 とすると、歩兵たちがタマネギを持ち歩いていたとでもいうのか、あるいは周辺にタマネギが植えられていたのか……?(後者ならああいう表現にはならないでしょうが)


 で、とりあえず「Napoleon onion」とかで検索してみましたら、意外な情報が。

 それは、ナポレオン麾下のフランス軍親衛隊が突撃の時に好んで歌っていた軍歌の歌詞が、繰り返し部分を省略すると、

油で揚げたタマネギが好き
うまいから俺はタマネギが好き
進もう戦友よ 進もう戦友よ 進もう 進もう 進もう
油で揚げたタマネギ一つで
獅子奮迅の戦い
だけどオーストリア人にやるタマネギはない
犬どもにやるタマネギはない



 というような内容で、しかもその繰り返し部分の「進もう戦友よ 進もう戦友よ 進もう 進もう 進もう」の箇所が、日本人には『クラリネットをこわしちゃった』で有名な「オパキャマラード パキャマラード オパオパオパ♪」と全く同じだということ(^_^;

 ↓その動画です。





 その部分のフランス語歌詞は

Au pas camarade, au pas camarade,
Au pas, au pas, au pas.

 au pasは「足並みを揃えて歩く」という意味で、camaradeは英語のcomradeと同じ、「戦友、仲間」という意味です。

 これは……ナポレオニックゲームでフランス軍部隊(特に親衛隊)が前進する際には、「オパキャマラード パキャマラード オパオパオパ♪」と歌うのが必須なのでは?(*^_^*)


 とりあえず、そこらへんの情報についてのリンクを。

玉ねぎの歌 La Chanson de l'oignon フランスの行進曲/オパキャマラード オパ オパ オパ!

玉ねぎの歌 La Chanson de l'oignon フランスの古い行進曲 オパ キャマラード オパ オパ オパ!
Napoleon's Secret Weapon Revealed - Le Chant de l'Oignon


 しかし、このエントリを書いている最中にふと思いついたのですが、「タマネギ」というのは、「タマネギのような体臭、悪臭」ということでは……? と思って検索してみると、やはりそのような体臭についての記事がありました。たとえば、

体臭玉ねぎの臭いがする症状!
体臭が玉ねぎ臭いと言われてしまうのはなぜ? - 体臭対策

 「Napoleon onion」で検索した時に前記の歌詞以外のことではほぼ何もヒットしなかった(ような気がする)ことから考えても、これはもう、ほぼ間違いなく、『Swords Around A Throne』で書かれていた「タマネギの匂い」というのはタマネギの匂いがする兵士達の体臭・悪臭ってことなんではないでしょうか(^_^;

 面白い話かと思いきや、悪臭の話になってしまった……でもそれが実相ですよねー。

リュッヘルはイエナ会戦の敗北の責任を負うべきなのか?

 体調的にリュッヘルの『Who was who in the Napoleonic Wars』の項目を訳せそうな気がしたので訳してますと、興味を引く記述がありました。

 だが、彼が最も良く知られているのは、イエナの戦いにおいてホーエンローエの軍を助けにいった派遣軍団(軍と表記されることもある)の司令官としてである。彼はイエナの戦いが始まった時には戦場から離れたヴァイマールにおり、ホーエンローエからの救援要請を受け取ってすぐに出発したものの、主戦場の情勢は良好であり急ぐ必要はないとホーエンローエの文面からは受け取れた。その後急ぎ援軍を請うとの急使が届いたものの、イエナの戦いは彼が到着する前に終わってしまっており、彼の到着が遅すぎたのだという不当な非難が彼に浴びせられたのである。その時ホーエンローエはリュッヘルの15,000の兵を退却の援護に使用する代わりに彼に攻撃を命じたが、グレスロムシュタットの近くで勝利の勢いに乗るフランス軍によって打ちのめされることになった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P286



 リュッヘルの到着が遅すぎ、それゆえにリュッヘルが無能扱いされたことに関しては、どこかで読んだ記憶はありました。しかも到着した時に、本来すべきであったろう「ホーエンローエ軍の退却の援護」ではなく、フランス軍に突っ込んでいってボロボロにやられてしまったために、「勇気バカ」と評される所以となっているとも……。

 今見てみていると、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』はそういう解釈になっているようです。多分これでもってそう覚えていたわけではないような気がしますが……。


Battle of Jena-Auerstedt - Map01

 ↑Wikipediaから。一番左の部隊がリュッヘルの軍で、真ん中やや下あたりがイエナの戦場です。それから、後で名前の出てくるUmpferstedtの町というのは、WeimarとFrankendorfの中間にある、矢印で半分隠れている町です。また、Frankendorfのすぐ東の川がザルバッハ川で、その川沿いにある町がCapellendorf(あるいはKapellendorf)です。


 リュッヘル - 0800時の後しばらくしてホーエンローエが増援を求めていた - は、ヴァイマールに小さな守備隊を置いて、1000時にこの戦場【イエナ】への行軍を始めた。彼の善意と勇気に疑う余地はなかったが、彼はその道程約6マイル【10km弱?】に4時間もかけた。その理由は現在に至るも不明である。
 ……
 だがこの時、リュッヘルがその失われた戦場へとずかずかとやってきて、敗走中の友軍を通り抜けて困難な方法に取りかかった。勇敢な心と力を持ち(頭は鈍かったかもしれないが)、フリードリヒ大王の教えを自らの戦争芸術にすべて内包すると公言し、フランス軍の質を口を極めて非難する彼は、単にホーエンローエの退却を援護しようとはしなかった。その代わりに、Frankendorfに小さな予備を置いた上で、彼の自らの小さな軍をくさび形の隊形にし、彼自身の戦いを勝利とするために、Gross Romstadtへと行軍していったのである。
『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』MAP65の説明



 両方をリュッヘルの責任に帰している点では、チャンドラーの『ナポレオン戦争 第三巻』でも同様でした。

 主戦場に現れなかったことは、この敗戦の惨事に関して大いに責められるべきであった。現状では、彼の最も賢明な策はザルバッハ川の戦線に沿って防御態勢をとり、そこで同胞の退却を援護することだった。しかし、これは彼の趣味には合わなかった。
『ナポレオン戦争 第三巻』P71



 『The Jena Campaign 1806』を見てみると、リュッヘルの行軍についてのやや詳しい説明がありました(敵に突っ込んだことに関する記述もあるのかもですが、探すのが面倒なのでパスします(^_^;)。

 リュッヘルは午前9時頃にホーエンローエから救援の要請を受け、それに対して……彼の全軍をもって向かうと返信した。

 彼の部隊はかなり分散した状態であったのだが、午前10時を少し過ぎる頃には先頭部隊が行軍を開始した。Umpferstedtの近くでリュッヘルはホーエンローエからの二通目の伝令を受け取り、再度彼の小さな全軍でもってそちらに接近中ということを知らせ、またその中で行軍を急がせる命令を出したとも書いた。……

 ヴァイマールから到着すべき村【Vierzehnheiligen】までは6マイルに過ぎず、12時までにはその場所に到達して配置まで完了していてもおかしくなかった。……ところが実際には午後2時、つまり4時間も経っているのにその隊列の先頭はCapellendorfに達していたに過ぎず、今日に至るまでこの遅延に関しては、リュッヘルが行軍をわざと遅らせた以外の説明をできた者はいないのである。
『The Jena Campaign 1806』P158,9



 出版年でいうと、1909年に『The Jena Campaign 1806』、1965年に『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars』、1966年に『ナポレオン戦争』、『Who was who in the Napoleonic Wars』は1998年となります。その間に来るのが『ナポレオン戦争』の著者チャンドラーが1993年に出版した『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』で、この本ではリュッヘルは何も悪くないことになっていました(^_^;

 リュッヘルの一見したところ遅い行軍はしばしば非難されるが、実際には彼はむしろ良くやっていたのである。彼がホーエンローエの軍に合流すべく移動せよという命令を受け取った午前9時には、リュッヘル軍はまだヴァイマール周辺で野営中であった。彼はすぐに野営地を引き払い、歩兵を班単位で早いペースでイエナに向けて出発させた。Umpferstedtで彼らは小隊単位に組み直され、後方と側面の防御にまわされていた兵は回収され、砲兵は行軍隊形を解除された。そこまでの5kmを1時間ほどで進んできて、隊形を直すのに1時間かかり、ここまでで午前11時頃になっていた。午前10時半にはリュッヘルはホーエンローエから、イエナでの戦いはうまくいっており、全戦線において勝利の半ばにあるという報告を受けていたのである。そこからKapellendorfまでは4kmであった。これに約1時間かかった。正午頃、ホーエンローエから至急救援を請うとの急使が到着した。リュッヘルがKapellendorfに到着する直前、ホーエンローエはすでに敗北したとの知らせを彼の副官が持って到着した。この村のすぐ近くにマッセンバッハがやって来て、リュッヘルに攻撃をおこなうためにKapellendorfをそのまま通過するようにという【ホーエンローエの?】命令を伝えた。リュッヘルは麾下の部隊にKapellendorfを通過させ、戦いのための配置をおこなった。午後1時半、彼は攻撃のために前線に赴いた。午後1時までにKapellendorfに到着したということはつまり、彼は4時間で12kmを移動したのであった。野営地を引き払うための時間、Umpferstedtで隊列を組み直す(ここで街道を外れ、田野を横切らねばならなくなる)ための時間、困難な状況にあるとの最初の知らせが届いたのが正午であったことなどを考慮すると、リュッヘルの移動速度は遅いどころか、その状況において期待される速度よりもむしろ少し速いくらいであった。至急救援を請うとの最初の伝令が来てから彼は1時間半で戦闘に入っているのである。ホーエンローエの擁護者は非難の矛先を気の毒なリュッヘルに向けるかもしれないが、状況を誤判断したのはホーエンローエの方であり、退却を援護させるべき時にリュッヘルを攻撃に向かわせたのもホーエンローエであったことを我々は忘れるべきではない。
『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』P64



 『ナポレオン戦争』でリュッヘルを散々非難していたお前が言うか、というほどのすがすがしさですが(^_^;、これが歴史学の世界における学問の進歩なのでしょうね~。学説への批判や新しい知見などから、こういう風に説が変化していくのが面白いです。

 この同じ時間帯に、フランス軍側ではベルナドット元帥がまさに同じような批判を喰らっている、というか喰らいまくっていて、しかしその説も色々批判を受けて、「どうもベルナドットは悪くないんじゃないか」というのが今の大勢になっているようです(例えば1806年10月14日 ドルンブルクなど)。


 ただ、個人的に若干気になるのが、野営地を午前9時の時点でも引き払ってなかったという点です。これはちょっと、いやかなり遅めではなかろうかという気もするのですが……?

 Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815: Rüchel, Ernst Friedrich Wilhelm Philipp vonを見てみると、そこらへんのこととも絡むのかもしれない、またちょっと違う視点からリュッヘルが擁護されていました。

 この日のイエナの戦いへ彼の軍団の到着が遅れたことは彼の責任ではなく、ホーエンローエとマッセンバッハが10月14日の朝の時点でさえも、戦いが起こるとは思っていなかったことに原因が帰せられるべきである。その日の戦いへのリュッヘルの軍団の参加についてはリュッヘルにとっての上級司令官達【ホーエンローエとマッセンバッハの両名のことを指している?】から命令されるという一方通行の関係にあり、彼らからリュッヘルに対して、10月13日の時点で翌日リュッヘルがどこにいるべきかが明らかにされる必要があったのだ。だが、プロイセンの上級司令部の連携の欠如のため、そのような命令が出されることはなかったのだった。




 「リュッヘルは悪くない」ということが新しめの資料では大勢となってきているのか……? という一方で、ホーエンローエとマッセンバッハはますます悪く言われる傾向が強まっているかもしれないという気がするのですが(^_^;、両名の擁護者って今後期待できるのでしょうか……?


 ところで今回、『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』と『1806 Coming Storm』は参照しておりません。なぜならめんどくさかったからです(おい)。特に前者は、当該部分をまだ印刷してないので……。

ナポレオン戦争時代の女性酒保商人達の本など

 ここ2日ほど、若干腎臓に炎症起こってるなぁ的痛みがあり、そのせいか体調が低調で頭が働かないので無理しないようにしてます……。


 『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』が流し読み進みまして、あと1/4くらいですが、「おおっ」と思う内容がありました。

 元々、ナポレオン戦争に従軍していた女性達の話に興味があった(例えば過去のエントリのナポレオン戦争時代の実相)んですが、そこらへんの内容を含む本の紹介が。

 1つ目は、『Swords Around A Throne』(「王座の周りの剣の数々」? 1988)という本。この本、色んな場所で参考文献として名前を見ることが多く、書名もなんか印象的なので書名自体は覚えていたんですが、「ナポレオンの元帥達に関する本なのかな……?」とかの推測程度で、その中身に関して詳しく知りませんでした。



 が、『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』の紹介によると、ナポレオン戦争を豊富な地図で説明した古典的名著?『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars』(1965)の共著者の一人John R.Eltingが書いた本で、大陸軍の工兵、医療、懲罰大隊、補給、酒保商人(女性含む)に関する章などもある、当時のフランス軍のあらゆる面について書かれた本だと。




 で、「おおっ、それはいいかも!」と思ってAmazonで見てみましたら、ペーパーバックが3000円で、Kindle版が2708円。中身検索で中を見てみると、英語の難易度的に私にはちと難しそうですが、Kindle版だと英単語の和訳を画面上で検索できますし、「Word Wise」という機能が使えると書いてあるので、難しい単語上には簡単な英単語で言い直したものを表示させられます(詳しくは過去のエントリ、KindleのWord Wise機能で空き時間に洋書が読みやすくをご覧下さい。なお、当時私のAndroid上でWord Wiseが使用できなかった『The Pacific War』と『The Nazi Murder Machine』は今回見たら使用できるようになってました)。

 手持ちのKindle洋書の中では、『Jena to Eylau』(←これはペーパーバック版も購入してあります(^_^;)や『Iron Hulls, Iron Hearts』はじっくり押さえながら読みたいんですが、『Swords Around A Throne』は興味のあるところから流し読みでいいんじゃないかとも思えるので、Kindle版を購入するのは良いかも……それにもうすぐ『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』が読み終わってしまって、寝転がって読める重さの軽い本がなくなってしまうというのもあるし……と思ったんですが、今あまり頭が働かなくて読めなさそうというのもあり、とりあえずはやめておきました(^_^; まあ、Kindle版ならば買ったらすぐに読める状態にできますし……。


 あともう一冊は、『Intrepid Women: Cantinieres and Vivandieres of the French Army』(「勇敢な女性たち:フランス軍の酒保女将たち」2010)という本で、フランス革命戦争期から、第1次世界大戦直前までの、フランス軍について行っていた酒保女将たちに関する本。酒保女将たちという範囲ではどんぴしゃなんですが、時代が若干長いのと、値段が高いです(^_^; まあとりあえず、「ほしい物リスト」に入れておきました。





 それから、これらの本を検索する過程で出てきて「ほう、これは」と思ったのが、OspreyのEssential Histories seriesというシリーズ本?で、ページ数の少ない入門本という感じなんでしょうけども、Kindleでかなり安く買えます。↓はナポレオン戦争の1805~1807年を扱ったもの。



 ページを開いて、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」も見ていると、色々な戦争に関する同シリーズの本が軒並み149円で購入できWord Wiseも有効なので、英語の勉強がてら買って読んでみるのもありではないでしょうか。目次を見ていると、ランヌ元帥に関するコラム記事とか、当時のある音楽家に関するコラム記事とかもあるようで、他のシリーズ本でもそういう構成なのかも。


 他にも、表示された中では、ここらへんも安くていいですね。他にもネルソン本とか、第1次世界大戦の将軍に関するKindle本とかも安かったです。



 中でとりあえず、『The Battle of Leipzig: The History and Legacy of the Biggest Battle of the Napoleonic Wars』を購入してみました。ライプツィヒの戦いについてはまだ私が良く分かってないですし、簡潔な紹介本らしくて読みやすそうだし、レビューも結構褒められていたので。しかし購入した後気付いたのですが、Word Wiseに対応してなかった……まあ単語長押しで訳語出せるので問題なしで(^_^;

『1806』のバージョン1.10等、細々としたもの

 『1806』の解読作業をやろうと思って、とりあえずその前に今まで放っておいた最新バージョン(1.10+α)の修正などを見てみました。そしたら、まったく大した量ではなかったので、ここにまとめて挙げておきます。


 まず、バージョン1.06と1.10の違いですが、一箇所しかありませんでした(^_^; 1.10には「以前のバージョンから変更された最終変更部分はパープルで書いてある。」とあって、どう見てもオレンジにしか見えないんですが、ともかく目視検索したところその箇所は一箇所のみで、13.22 戦闘前退却の最後の文が変更されるというもの。

「攻撃ユニットは、騎馬哨兵が戦闘前退却したヘクス内には前進できない。」
  ↓
「攻撃ユニットは、騎馬哨兵が戦闘前退却して空いたヘクスに前進してもよい。」

 ただし、バージョン1.10の前のバージョンが1.06でない可能性とか、OCSでは良くあることに、「変更点には印を付けておいたよ!」と書いてあるクセに、印が付いてない部分にも大量に変更点があるとか、そういう可能性もあるかもしれません(>_<)


 あと、バージョン1.10は2005年8月3日付けなんですが、BoardGameGeek上に、ザッカーが書いたという『1806』の変更点が挙げられていて、その日付が2009年10月14日になってます。内容は以下のもの。

 このテストの過程で、以前の『1806』に多くの変更すべき点が見つかりました。以下のものは、従来のアップデートに加えておこわれる公式の修正だと考えて下さい。

新ルール:ザクセン軍の士気
 ザクセン軍は無理矢理プロイセン軍に協力させられており、それゆえザクセン軍部隊の士気はプロイセン軍のそれよりも低いものでした。
 ザクセン軍部隊を含むプロイセン軍団が士気阻喪した場合には、その最初の再編成の機会が24時間遅らされます。



 それから、セットアップ情報が改訂されています。私も一応セットアップシートに訂正を書き入れましたが、11日のスールトはすでに道路行軍だと指定されているじゃんとか、例外を除く指揮下の部隊全部に対してのことなのかとか(恐らくそうなのでしょう)、若干疑問ありますけど。


 あと、以前(OSG『1806』の訂正カウンターデータを作ってみました)訂正カウンターを作っていましたが、今回セットアップしていて、ミローの本体のユニットに「騎馬哨兵を1個出せるよ」という意味の「*」を1個付けるべきだったことに気付きました。ので、一応作ってみました。

訂正カウンターミロー


 あと、マップを繋げてみたところ、S(南方)マップ側のN(北方)マップへのつなぎ目で、ほんの少しだけヘクスがある部分の地形がちゃんと反映されていないので、カッターで切り取った方がいいなと思いました(『Wellington's Victory』でも似たようなことがあって、私は切り取ってます)。



 あ、あと全然別件なんですが、COAの『The Six Days of Glory』をお持ちの方、私の買ったやつのカウンターシートの裏面が印刷がずれてしまってまして……可能でしたら裏面をコンビニでカラーコピーしたものをもらえたりしませんでしょうか……(ダメもとで書いてみます)。BoadGameGeekに裏面のデータはあるんですが、色がむちゃくちゃおかしくて、修正しようとしてみましたが無理っぽいという……(>_<) あるいは自分でいったん裏面をカラーコピーして、浮きが出たり線が入ったりするけど、それを貼ってみるとかでしょうか……。

ミドルアースで『1806』セットアップしてみました


 病気療養中で運動不足のため、運動がてらミドルアース大阪に行ってきました……が、行き道が特に痛くて痛くて非常につらかったです……(T_T)


 ミドルでは、『Austerlitz』(GMT)、『Rostov』(SA)、『Korsun Pocket』(PWG)、『日露戦争』(EP)などがプレイされてました。


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 私は『1806』を持っていきまして、とりあえず10月14日(イエナ・アウエルシュタット会戦当日)の朝の時点でのセットアップをしてみました。本来はすべてのユニットを裏向き(陣営しか分からない)で配置するのですが、とりあえず表面で。

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 フルマップ2枚で、各マップの上の方のロゴの近くに方位が書いてあり、斜め左上が北となります。


 ↓イエナとアウエルシュタットの両会戦の戦場のあたり。一番手前にイエナの街があり、その向こうの扇形3~4ヘクス程度が史実のイエナ会戦の戦場でした。

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 ↓アウエルシュタットの戦いの戦場のみを撮影したもの。アウエルシュタットの街が左側にありますが、そこは主戦場ではなく、写真真ん中あたりのSpielbergの村付近が主戦場でした。

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 史実では、マップ上方向への策源への連絡線を切られかかったプロイセン軍の本体(ブラウンシュヴァイク公の部隊)があわてて撤退しようとしたら、アウエルシュタットの街を過ぎた辺りでダヴー元帥の1個軍団と遭遇戦になり、兵力は多かったのに色々あって敗北。撤退の動きを殿軍として?支えるはずだったホーエンローエもイエナで敗北、という動きだったのですが……。

 ユニットの配置としては、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』のMAP63、10月13日から14日にかけての真夜中の配置を示した地図そのままなんですが、もしこの位置からまじでゲームを始めたとしたら、アウエルシュタットを通過して退却しようとしているブラウンシュヴァイク公の部隊もイエナ方面に引き返して、全力でナポレオン(ランヌ軍団とオージュロー軍団が主体)を殴ったら勝てるのでは……? と思ったり(^_^; 尤も、策源との間の補給線は切られたままになるかもしれず、そうすると夜間ターンに入ると損耗しはじめるかもですが。

 しかし本来はすべてのユニットが裏向きであるはずで、また本来このゲームはキャンペーンをプレイして「敵の主力はどこだ~。敵の目的はなんじゃ~」と疑心暗鬼しながら哨戒騎兵で索敵しつつ、機動戦をするゲームであるはずのところを、無視して14日のセットアップをとりあえずしてみただけなので、まあそういう考え自体があり得ないことではありましょう(^_^;


 で、私は基本的にルールの解読してました。が、体調の問題や、ノートパソコンに入力して表現を精査しながらだったりもして大して進まず……。哨戒騎兵の出し方と、指揮セグメントでの指揮下への入れ方への理解が進んだ程度で、あと、他のテーブルを見に行ったり、下野守さんが来られてて雑談したりしてました(^_^;

 しかしこかどさんが哨戒騎兵の使い方のルールなども読んで、とりあえずプレイらしきものをされてました。本来は裏向きプレイで相手の戦力が分からないので、セットアップではとりあえず出していなかった哨戒騎兵を出して相手の戦力を探るのが定石であろう、ということでした。しかしその中でもランヌの強力な師団2つとかでとりあえず殴ってみたりもされてました。


 ↓先攻のフランス軍ターンの戦闘フェイズ終了時。

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 若干やる気が上昇したので、ゲーム会時のみでなく、家でも『1806』のルールサマリー(要約:それだけ見ればプレイが不足なくできるものを作るつもりでいます)を作る作業をやるかもしれません。というか、本来そういう作業は家でやっとくべきものですが……(^_^;

ホーエンローエについて、まとめ

 ホーエンローエについて、まとめてみました。


Friedrich Ludwig, prince zu Hohenlohe-Ingelfingen
 ↑Wikipediaから


 ゲーム上のホーエンローエについても調べてみようと思って見てみたのですが、能力値的な差がつけられてなくてそこらへんの面白さはないですね(^_^;


 ↓『War and Peace』(AH)の指揮官シート

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 プロイセン軍ではブリュッヒャーのみが2で、その他の指揮官は全員1です。能力値よりも重要なのは恐らく、その活躍した時期についてではないでしょうか。

 1806……ブラウンシュヴァイク、ホーエンローエ、リュッヘル
 1812……ヨルク(フランスの同盟国軍として)
 1813~14……ブリュッヒャー、ヨルク、ビューロー、クライスト
 1815……ブリュッヒャー、ビューロー




 ↓『1806』(OSG)のホーエンローエのユニット

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 ↓『The Coming Storm』(OSG)のホーエンローエ周辺のユニット

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 『1806』も『The Coming Storm』も、ブラウンシュヴァイク、ホーエンローエ、リュッヘル(あとダヴーとかランヌとかも)はみな最高司令官扱いで、[1] 10 という能力値で代わり映えがしません(^_^; ナポレオンのみ[3] 10 で、あと、下級指揮官だと能力値の差はありますが……。



 ホーエンローエの経歴記事ですが、ビューロー(兄)の時と同じように、複数の資料を参照してまとめてみました。ただ、ビューロー(兄)の時は諸資料で矛盾がほとんどなく、単純に足していったことが多かったのですが、ホーエンローエの場合には相互に矛盾する内容がいくらかあったので、そこらへんはもう記載しないようにしてあったりしてます。参照した資料は以下のもの。

・『Dictionary of the Napoleonic Wars』
・『Who was who in the Napoleonic Wars』
・『The Hussar General』
Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815: Friedrich Ludwig Fürst zu Hohenlohe-Ingelfingen
・『ドイツ参謀本部興亡史 上』
・『ドイツ参謀本部』
・『ナポレオン戦争 第3巻』
・『The Jena Campaign 1806』
・『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』


Friedrich Ludwig, Prince of Hohenlohe-Ingelfingen(1746-1818)

 ヴュルテンベルクのホーエンローエ地方の有名な一族の跡継ぎとして生まれる。当初、七年戦争の終盤に反プロイセン側(オーストリア軍)で従軍したが、戦後(1768年に)プロイセン軍に入った。公国の跡継ぎという身分の高さのためにすぐに少佐に、そして1775年に中佐へと昇進した。

 1778-1779年のバイエルン継承戦争に従軍した後、所領を継承。1791年にベルリン長官に任命される。1793年には彼はブラウンシュヴァイク公の下でプロイセン軍の1個軍団を指揮して何度も勇戦し、特に1793年11月28~30日にかけてのカイザースラウテルンの戦いで目覚ましい活躍をした。

 彼のプロイセン軍内での人気は群を抜いて高いものとなり、当時ブリュッヒャーも指揮官としてのホーエンローエを称賛し、「この素晴らしく勇敢な人物は、非情さと決然さの例を全ての人に見せていた。」と述べていた。

 1806年の戦争開始直前に彼は自身の公国の支配権を長男に譲り渡したが、この時にはこの小さい公国はナポレオンによるドイツ諸邦の再編成により、ヴュルテンベルク王国に陪臣化されていた。

 1806年戦役ではプロイセン軍左翼の指揮権を与えられた。だがこれはかなりの程度、不適切な任命であった。というのは彼はその時健康状態が優れず(重い中風にかかっていた)、軍事的判断能力に非常に問題のあった彼の参謀長であるクリスティアン・フォン・マッセンバッハ(彼もまたヴュルテンベルク出身であった)の過度の影響下にあったのである。イエナでの敗北にあっても彼はいつもの勇敢さを見せ、軍の一部をなんとか再結集して退却したが、再びマッセンバッハの影響下で1806年10月28日にプレンツラウで降伏し、その降伏は他のプロイセン軍要塞の指揮官達の決断に悪影響をもたらした。

 2年間を戦争捕虜として過ごして釈放された後ひっそりと引退し、1818年に人々に知られぬまま亡くなった。

  彼が非常に勇敢であったことに疑いの余地はなく、また当時としては珍しく本を良く読み、フランス軍部隊を観察し研究することもしたことがあった。だが、情報を吸収するキャパシティは不足しており、いくらかの軍事的才能を持っていたものの無分別でせっかちな決定をしがちで想像力に乏しく、雄弁な口のうまい人によって容易に道を間違えた。また嫉妬深く、過度なほどに強情で虚栄的であり、1806年戦役では近視のために15m先も明瞭に見えなかったにも関わらず眼鏡をかけたがらず、マッセンバッハの目に頼っていたという。

 イエナの戦いに参加していたMarwitzによると、ホーエンローエはその時の作戦上の主目的をすぐに、簡単に変更してしまいがちで、「何事も成し終えることがなく」、その指揮は支離滅裂で不合理、かつほとんど犯罪的なほどに不注意なものであったという。



 Marwitzとは誰なのかですが、Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815: Marwitz, Otto Sigismund Albrecht Alexander von derがその人なのだとすれば、1806年戦役で抵抗もせずに降伏し、軍事法廷で禁固刑となった人物ということになります(^_^; まあだからといって、その証言が信用できるかできないかは……それぞれの人の判断ということになりましょうか。

 それから、ホーエンローエ家の所領はどこにあったかですが、Wkipedia上の「陪臣化」という項目に載っている地図の、北東の方の一角に「Hohenlohe」の記載があるので、これではないでしょうか。

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 ↑Wikipediaから。


 あと、このまとめに入れるにはちょっと相応しくないかなと思っていれなかった逸話がいくらかあります。

 【フランス革命戦争で?フランス軍に対して】旧軍ならば完全に壊滅するような打撃を受けても、まもなく立ちなおるので、連合軍を指揮したホーエンローエ公は「気違いどもには勝てない」と言って匙を投げたと言われる。
『ドイツ参謀本部』P39


 ……フランス軍の新式の戦闘法が散兵射撃であることを認識したビューロウは、従来の洗練された数学的兵術をがらくたであるとして、強く否定した。だが当分の間、最高軍事参議院にも最高副官の中にも、この「はいつくばり者の福音(プロイセンの将軍ホーエンローエ=インゲルフィンゲン公は散兵戦術のことを軽蔑してこう呼んだ)」を信奉するものはいなかった。
『ドイツ参謀本部興亡史 上』P28



 【1806年戦役において】重い中風にかかっていた【ホーエンローエ】公について皮肉屋は、やっかいな痛み止めの塗り薬を主人があまりに愛好するので、公の本営は薬のためにこちこちになっている、と言った。
『ドイツ参謀本部興亡史 上』P47




 調べているとホーエンローエ家(多分このホーエンローエの子孫ではないのでしょうけども)は現在も存続しており、色々な著名人を出しているようです。その中にはこんなのもありました(^_^;

ソチ五輪で、あなたがホーエンローエ=ランゲンブルク公子フーベルトゥスを応援する8つの理由

ネット上に膨大なプロイセン軍の将軍事典がありました(>_<)

 昨日からフリードリヒ・ヴィルヘルム3世やホーエンローエの資料を探すのに熱中していたのですが、今日になって何やらホーエンローエに関する詳細なページを発見。しかもなんか、ナポレオン戦争におけるプロイセン軍の将軍に関してまとまったページなのか……? と思い、見ていったら、それどころでない、色んな国毎とかの将軍達の経歴がまとめられてる~。

 たどっていってみると、トップがThe Napoleon Series、でその中のResearch Subjects: Biographiesというページが伝記や経歴に関するトップページになっていて、プロイセン軍の将軍に関してはPrussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815から。その一番下にプルダウン形式のメニューがあって、そこで非常に多くの将軍が選べます。個々のページの内容も、記述量が多いです。

 「The Napoleon Series」というサイトは、さすがに存在は知っていたのですが、私は割とまとまったサイトを見に行ったり、そこから情報を探すのが苦手で……(Consim Worldとかも怖くて全然見に行けないタチです(>_<))。

 しかし、この「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」というページの存在を知ってしまうと、今まで手間かけてプロイセン軍の将軍について情報を探したり集積したり訳してきたりしたのが馬鹿らしくなってしまうほどの内容で(^_^; 嬉しいのは嬉しいですが、ある意味大いに泣けます(T_T) 今まで知らないでいた(無視してきた?)私が悪いのですが……トホホ。


 今までだと、『Dictionary of the Napoleonic Wars』や『Who was who in the Napoleonic Wars』で探して、しかしそれでは情報が足りない感があるので熱中して他でも色々調べるとかって感じだったのですが、この「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」上で見ると個々の将軍に関してすでにして過剰とも言える情報があるので、今度は「どう情報を捨てる(取捨選択する)か」ということが大いに問題になってくるような気がしました(^_^; 単に経歴だけでなく、人物評も載っているっぽいのでスゴイ。

 試しにビューロー(兄)やプゥールを流し読みしてみたんですが、特にプゥールなんか人間が壊れている感じでえらい面白そうな……(^_^;

 ただ、自分の英語力的に、流し読みだけで情報の取捨選択ができるほどの実力はなく……。かつては「全部一度日本語に訳してから、日本語で読んで取捨選択をしなければならない」という状態だったんですが、今は「英文のページ上に訳語を書いたり、蛍光ペンでラインを引いたり、大意をメモったりしておけば、取捨選択ができなくもない」という状態なので、読みたい将軍に関するページを印刷してそうする……という感じでしょうか。

 また、このサイトだけで見ていると情報量の多さに圧倒されてわけが分からなくもなりそうで、簡潔な経歴を見るという意味で、『Who was who in the Napoleonic Wars』等はまだ全然有益かな、という気もします。


 以前から、「当時のプロイセン軍の将軍だけについてまとめられた本とかってないのかなぁ~」と思ってAmazonで探したりしていたので、今回の発見は嬉しいのですが、一方で英語力のなさがますます課題になってきました(>o<)

プロイセンが対仏戦争を決断(1806年8月7日)

 いよいよ時系列に沿って、1806年戦役に着手していこうかと思います(が、色々脱線もするかもですが)。

 まず1806年戦役の開戦に至る経緯なんですが、諸資料だとこの経緯を1805年のフランス軍によるプロイセン領侵犯(→1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯)から説き起こして、アウステルリッツの戦い前後の時にナポレオンにいいように弄ばれてしまったプロイセンの外交官ハウクヴィッツを中心に長々と語られることが多いのですが、めんどくさいのパスしまして(^_^;、もういきなり、プロイセン宮廷における戦争決定の日(1806年8月7日)の周辺についてのみで。

 手持ちの資料を割と総ざらえで見てみたんですが、8月7日周辺の細かいことを書いてある資料は少なく、『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』(チャンドラー)、『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』(ピーター)、『1806 Coming Storm』(ザッカー)あたりしか出してくる意味がないような感じでした。

 この3つの資料ですが、文の読みやすさ、意味の取りやすさにえらい差がありまして……。『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』は御大チャンドラーの晩年の本ですが、オスプレイ・キャンペーン・シリーズの1冊でして、入門者向けに書かれているのでしょう、英文も分かりやすい気がします。ピーターは「簡潔で時折意味が取りにくい」とPetre(ピーター)は2番目に読まれるべきナポレオン戦役本だそうですで紹介してましたが、まあ確かに時折そういうことがあるような気がします。かなり苦しかったのが『1806 Coming Storm』の当該部分で、「事実関係については他の本で知っているだろうから、ここで長々と当たり前のことを述べる必要はないよな?」というオーラを発しつつレトリックに凝りに凝った感じの英文で書かれているかのような……(T_T) ただ、この本、軍事行動が始まる前のプロローグ的な部分はそういう感じで書かれているんですが、軍事行動が始まった後は、別に普通の読みやすい英文であるような気がします。プロローグも分かりやすく書いて欲しかった……(>_<) そういうわけで、誤訳とかも(普段からですが)大いにあるとも思いますので、そこらへんご了承くださいまし。


 ではそれぞれの本の内容について入っていこうと思いますが、まず前提条件として、当時のナポレオンはアウステルリッツ戦役の後で、ヨーロッパ中央部に自分の血筋を王族として送り込んだり、ドイツ南西部に自分の保護下に入るライン同盟という枠組みを作ろうとして体制固めをすると共に、実はフランス国内の財政的・政治的には様々な問題を抱えてしまっており、1803年以来再度敵対関係に入ってしまっていたイギリスともどうしても和平を結びたい状態であったということを押さえといていただければ。なので、いったんプロイセンにあげてしまったハノーファーを、イギリスとの講和条件として使えないかとフト思って、持ち出すわけです。

『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』P9

 総合的に考えて、ナポレオンが故意にプロイセンとの戦争を誘発させたのだという説は疑わしい。一つには、彼が依然としてフリードリヒ大王によって作られた軍に対してかすかな尊敬の念を抱いていたこと。もう一つには、彼はフリードリヒ大王の孫【フリードリヒ・ヴィルヘルム3世。正確には甥の子】に対して軽侮以外の感情を表しておらず、恐らく(特段の根拠もないままに)断固とした行動を取ることなどできまいと信じ切っていたのである。それが、イギリス政府との交渉が長引いてきた中で、ナポレオンがプロイセンへの相談も全くなしに、全面的な平和のための代価としてハノーファー選帝侯領を元の持ち主であるジョージ3世に即座に返還するという案を突如として交渉の席に出してきた背景であった。実はナポレオンは1796年に「戦争の要諦とは統治と同様、各所への配慮である」と語っていたのだったが、しかしこれではプロイセンをわざと侮辱しているも同然であった。だが、この提案に対するロンドンの反応はごく小さいものですらなかった。ジョージ3世は病気で苦しんでいる最中であり、その臣下のイギリスの大臣達はハノーファーとの繋がりを負債とさえ見なしていたのだ。ところが、この単なる提示に過ぎなかったものが、ベルリンにおいては破滅的な青天の霹靂として受け止められることになったのである。

 意志の弱いフリードリヒ・ヴィルヘルム3世や、あるいは彼のフランス贔屓の大臣であるハウクヴィッツなどの、ポツダムにおける「非戦派」の人々ならば、これまでにもナポレオンのドイツに対する構想によって憤りを感じていたとはいえ、この新しい提案を受け入れた可能性があったのかもしれない。だが王の美しく気の強い妻であるルイーゼ王妃や、彼女を筆頭とする宮廷における「主戦派」 - その中にはフランス嫌いのカール・ハルデンベルク、老齢な指揮官であるブラウンシュヴァイク公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントとホーエンローエ公フリードリヒ・ルートヴィヒの二人も含まれていた - にとっては全く受け入れがたいものであった。秘密裏に数日間、激しい議論が交わされた。ついに「主戦派」が勝利したがしかしそれも、よく言われるように意志の強い王妃が、妻に甘い夫が「名誉を重んじる道」に賛意を示すまでかたくなに夫婦の権利を拒否したからであった。8月7日、この取り返しのつかない戦争に関する決定が秘密裏についに行われ、同盟国探しが急がれた。10日、プロイセンは動員を開始した。


 3箇所についてコメントを。

 まず「ジョージ3世は病気で苦しんでいる最中であり」ですが、病名は「ポルフィリン代謝異常症」というもので、詳しい症状については1810~1820年のイギリスをご覧下さい。

 「この新しい提案を受け入れた可能性があったのかもしれない」ですが、同じチャンドラーの『ナポレオン戦争 第三巻』P28によると、「自分たちだけであれば、王も彼の新しい宰相ハウグヴィッッも平穏な生活を求めてどんなフランスの行為も大目に見る覚悟があったかもしれない」と書いてある一方で、その数行後に「そのときである。ナポレオンがジョージ3世にハノーヴァを返すという、裏切りの申し出が発覚したのだ。このことは国王にとってさえ耐えられない屈辱だった。」とあります。1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯)に書きましたように、1805年の時には国王が激怒しなかったという資料は私は見つけてないのですが(とはいえ、激怒したから当時何ができたのかというと、ほとんど何もできなかったわけですが)、1806年の8月7日については、詳しい資料ほど、また詳しい資料であれば大体、「王自身が激怒したということはなく、王はまだ非戦派にとどまった可能性があった(が、主戦派につきあげられて開戦を決定せざるを得なかった)」という感触を受けます。

 「夫婦の権利を拒否した」からであった、というくだりからもそういう印象を受けます。同じチャンドラーで割と書き方が異なっているのは、その後の資料発掘とかの問題なんでしょうか?(書かれたのは『ナポレオン戦争』が1966年で、『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』が1993年) あと、「夫婦の権利」とは何か、という問題なんですが、一般的には色っぽい話だと思うんですが、そういうこと持ち出す局面かなぁという気もします。何か結婚当時に二人の間に約束があったりしたことを指しているのかもとも思ったのですが、良く分かりません。


 王とその顧問官たちが依然として「主戦」的でなかった証拠として、次のようなことも挙げられそうな気がします。

『1806 Coming Storm』P12
 しかしフリードリヒ・ヴィルヘルムはその性格からこの動員令を全軍に適用せず、王国の西と中央部に駐屯している部隊のみに適用した。ナポレオンは警戒されていたのであって、脅威を与えつつあった訳ではなかったからである。……動員は、それが即座の攻勢に使用されるのでなければ、自殺行為も同然であった。王と彼の顧問達は、現実の状況が彼らの意図を越えてしまうまで、防衛的な方法での限定的な動員ということに固執し、防衛的作戦に向けて趨勢を推し進めた。




 次に、『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』です。

『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P13,14

 だが、ナポレオン自身が絶えずプロイセンを侮辱し、苛立たせたことが、プロイセンを戦争に突き動かした本当の原因であった。その最後の一突きとなった侮辱とは、ナポレオンがプロイセンをしてイギリスと反目させるためにプロイセンに提供していたハノーファーを、自身がイギリスと和平を結ぶために再度イギリスへと返還しようとしたことであった。かような状況においては貴族派【主戦派のこと?】の意見が、戦争以外に救済はないとして優勢にになるのも驚くべきことではなく、8月7日にベルリンにて戦争が決定されたのであった。

 クラフト公【ホーエンローエの子孫か?】はナポレオンが「プロイセンに対してほとんどどんなに侮辱をしたとしても、プロイセンが敢えて武器を取るということはあり得ないと信じていたのだろう」と考えている。彼はそう考えてはいなかったはずだというのも信憑性に乏しいが、彼がどんなことを言っていたにせよ、【プロイセンにとっては】このような侮辱がこのまま続くよりは、敗北の可能性の方がまだましだというところまで来ていたのは間違いない。確かに9月10日などという時点においてさえ、彼はベルティエに決裂の可能性を信じない旨、書き送っている。だが、そう書いた胸の内を誰が正確に知り得ようか?

 プロイセン大使であったルケシーニによってもたらされたその知らせは、ハノーファーの返還の提案についてであったが、ナポレオンがプロイセン領ポーランドをロシアに割譲してロシアと和約を結ぶ準備ができているという噂についても付け加えてあり、それが最終的にプロイセン宮廷をして戦争は不可避であると確信させることになった。


 いつもそうしてるんですが、【】は私による注釈です。なるほど、ちょい分かりにくい気がします(^_^;

 具体的な8月7日周辺の出来事について書いてあるというよりは、ナポレオンによる侮辱が大きな原因であったことがメインの文章かと思いますが、他の資料にはない、プロイセン領ポーランドをロシアに割譲する案(の内容)について書かれているのが目をひきました。


 最後に『1806 Coming Storm』。正直、動詞の意味するところとか、主語が何かとか、文の繋がりとかが分からないことがままあって、誤訳の可能性が高いのに、文としてはなるべく綺麗な日本語になるようにしてあるのでそれがよくない可能性も?(^_^;

『1806 Coming Storm』P11

 プロイセンは今や、ある大国【ロシア】と同盟して形の上ではフランスとの戦争状態となったが、王に最も信頼されていた相談役ら ー 首相のクリスティアン・フォン・ハウクヴィッツ伯爵、王の秘書官のヴィルヘルム・ロンバルト、パリ駐在のプロイセン大使のジローラモ・ルケシーニ - は、公開状態での国交断絶を諫めた。だが、宮廷の他の者達は、より好戦的であった。「愛国的な上級将校達の一派が……美しく好戦的な王妃を中心として結成されていた」 彼女にとって、1806年という希望のない年は、侮辱から被害へと発展した。一つの慰めはハノーファーという領土を与えられたことだったが、7月の終わりにはルケシーニが、ナポレオンによるイギリスへのハノーファー返還という秘密の提案を報告した。

 ルケシーニの、対仏同盟の味方とも敵ともどちらとも取れる振る舞いで彼は、宮廷の「主戦派」への誠意を示さなければ激しい非難にさらされた。それゆえ彼は、7月29日にパリから外交特使経由で報告を送った。ロンバルトがヤーマスからの報告を読んだ時、そこにはハノーファーはプロイセンから取り上げられるであろうと書かれていた。ロンバルトの任務の中には、このような全ての秘密条項を王に伝えるということも含まれていた。このフランス人のごまかしの言葉は、熱狂的な一触即発の状態を作り出した。「最初の伝令使が8月の5日か6日にベルリンに到着した時、それは異常な興奮状態を作り出した。二番目の伝令使も9日に到着したが、最初の伝令使によって作られた効果を増大させただけだった。それはあっという間に爆発的状態となった。」

 プロイセン人達の興奮はフリードリヒ・ヴィルヘルムを説得しようとする中でもますます増大し、戦争の炎をかき立てた。ナポレオンによる、さらなる屈辱がもたらされるという噂ももたらされた。シュタイン、ルイ・フェルディナンド王子、それにリュッヘル将軍とブリュッヒャーは、憤然たる抗議の行進を先導した。フリードリヒ・ヴィルヘルムはまさにその日に、軍隊の一部を動員した。


 8月7日について何も書いてない辺りからしてすでに、レトリックが重視され(過ぎ)ていると思うんですが……。最初の伝令使がハノーファーの件だったとして、二番目の伝令使の内容とか、「さらなる屈辱の噂」とか、内容が何も書かれてないじゃないですかー。「まさにその日に、軍隊の一部を動員した」の「まさにその日」っていつなのかとかも、この文からだけでは分からないし……動員開始日は、『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』によると8月10日ですが、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P172によると8月9日となっていました。

 ただ、なんか当時のベルリンの雰囲気は良く伝わるような気がします。そういう辺りの記述も、資料があれば知りたいところではありますし……。

 この辺りの文に付いている注を見ていると、Thiersというのが多くて、アドルフ・ティエールの著作から引かれているのが多いっぽいんですが、その本はフランス語版だけで英語版はない?かと思われるので、当然パスするということで……(^_^;


 以下、2016年3月4日追記:

 すみません、R/Dさんのブログをまとめて印刷したものをたまたま読んでいたら、ティエールの英訳本について書いてありました(^_^;

バイレン 史料

 英訳本はこちら→ History of the consulate and the empire of France under Napoleon, tr. by D.F. Campbell

 

プロイセンにとっての「核心的利益」ハノーファー


 次にハノーファーについてです。

 1806年(あるいは1805年)におけるハノーファーの領域について、自分で作っている地図に組み込もうと一時期色々努力していたんですが、参考にする地図の種類毎に諸邦の領域が異なっていたりでなんか色々齟齬がどうしても出るので、もう諦めようと思ってます(T_T)

 一応参考として、http://cliomaps.de/karten-dtl/1805a/grenzenを見て貰って、そこの肌色?みたいな領域がまあ、1806年の問題における直近のハノーファーの領域だと思ってもらったら。


 ハノーファーについてはかつて、1801年、プロイセンがハノーファーを占領でいくらか調べたんですが、その時は1801年の件を中心としてでした。今回ハノーファーについて大いに疑問だったのが、以下のこと。

 「1806年にプロイセンがフランスに対して宣戦布告したのは、プロイセンに与えられていたハノーファーが取り上げられイギリスに再度与えようとナポレオンがしているということを知ったからだった……とあらゆる資料に書いてあるのだけども、『なぜそんなにもプロイセンにとってハノーファーが重要だったのか?』ということが知りたい」な、と。


 で、前掲エントリにも挙げてました『Hanover and Prussia, 1795-1803; a study in neutrality』という本に(結局)目を通してみました。

 目次上でP23が「プロイセンがハノーファーにこだわる理由」という見出しになっていて、ある程度目を通した感じでも確かにそこが一番そこらへんのことが書いてある感じでしたが、大体こういうこと。

・特に西の方のプロイセン領がバラバラに存在しており、その不連続性と、その領土を守る大変さに苦しんでいた。

・プロイセン自身の平和と静寂は、その離れた飛び地までの間の他の独立国家の独立と中立に大いに依存してしまっている。

・プロイセンのリーダーシップに服従させられずにもしそれらの諸邦がプロイセンに敵対するか、あるいは敵の手に落ちてしまえば、ほとんど対処不能になってしまう。


 で、しかしまだこれだけだと個人的には「大いに得心」とまではいかなかったんですが、他の件も合わせて考えてみると、ある程度以上納得できるような気も今回してきました。というのは、

・ハノーファーはイギリスとの同君連合であり、イギリスがプロイセンと味方になるか、敵になるかがすなわちプロイセンにとって重大な影響を及ぼすことになる。そして実際にイギリスがプロイセンの敵か味方かというのは、歴史的に見てもその時その時でケースバイケースであった感じがある(若干、味方であるケースの方が多いかなという気もしますが)。

・恐らくザクセン併合の方がハノーファー併合よりも、若干プロイセンにとって重要であったようにも思われる(実際、フリードリヒ大王の時代からザクセンを隙あらば併合しようとしている)けども、ザクセン併合に関しては他の列強からの干渉も大きく、ザクセン自身の反発も強かった。ところがハノーファーに関してはイギリス本国側がハノーファーを脆弱なお荷物と見なしているような状況であり、ハノーファーの貴族達も安全のためにプロイセンの傘下に入りたいという姿勢を示すことがあった。つまり、ザクセンよりもハノーファーは遙かに、プロイセンにとって手に入りやすい状況だったと思われる。

・ハノーファー周辺のより小さい諸邦はプロイセンにとってどうだったのかと考えると、ハノーファーの東のメクレンブルクや南東のブラウンシュヴァイクはすでにプロイセンと大きく婚姻関係で結びついており、プロイセンの味方と言っていい状態である。南のザクセン=ヴァイマールやヘッセン=カッセルも大いに親プロイセン的な国家である。他に、ハノーファーの西のオルテンブルクはどうなのかと考えてみると、プロイセンとの直接的関係は良く分からないけども、当時プロイセンに非常に好意的であったアレクサンドル1世が血筋的にオルテンブルクと深く、そういう意味で決して敵性ではなさそう。とすると、常に敵か味方かが不安定でかつ領土が広く、国力の高いハノーファーは、プロイセンにとって残された唯一かつ巨大な「目の前にぶらさがったニンジン」であり、また安全保障上も欠くべからざる「核心的利益」であった……というのは理解できなくもない。


 もちろん、なんか考え違いとか事実誤認とかも多いと思いますので、指摘していただければ……。

 しかしまあ、一応なんとか、「理解できない~ジタバタ(><@)」という苦しい状態からは脱することができたかもしれません(^_^;


 ただしかし、プロイセンがフランスに宣戦布告したのは、いろいろ読んでいるとどうも、「ハノーファーが大事で、それを取り上げられることが合理的計算的に耐えられなくて」という理由なのではなく、「フランスにいろいろと侮られた対応をされまくっていて不満がたまっていたところで、またどでかい軽侮的なことをされそうだというが来たので感情的にもう耐えられなくて爆発した」ということらしいのですが(^_^;



 あと、前掲『Hanover and Prussia, 1795-1803; a study in neutrality』を見ていたら非常に興味深い話として、ハノーファー内部がダメダメだったので、ハノーファーから多くの逸材がプロイセンに移ってきていた……という話がありました。

 真に有能で進歩的な人物は、ハノーファーで働き続けることが難しかった。君主の不在ということが、活動分野を狭めてしまっていたのである。その主たる目的は単に行政を継続させるということでしかなかった。明確な、自ら策定したハノーファーの政策、などというものは存在しなかったのである。不在の選帝侯【ジョージ3世がイギリス王とハノーファー選帝侯を兼ねていた】の活動の大部分と実質的な関心は、イギリス国民に向けられていた。君主による直接的な指揮なしで有能なハノーファー将校が働いたとしても、その昇進はあまりにも遅すぎると、進歩的で大志を持つ者には思われた。昇進は古くから続く身分の高い貴族から優先的に、また貴族出身の大臣達のお気に入りの度合いによって決まるのが常であり、彼らが「受け入れ」難い階級に権力を与えてくれるなどという期待はまったくできなかった。

 この停滞している国と比較して、遙かに挑戦的なフリードリヒ大王のプロイセンが、深い愛国心と高邁な大志を抱く者達の目を引きつけていた。プロイセン領のヴェストファーレン地域における仕事ぶりを通してハノーファーでもその優秀さを良く知られていたフォン・シュタイン男爵は、ハノーファーでの大臣の位を提示された時(1802年)、親族がハノーファーの貴族政治における上層部にいて、それによって縛られていたにも関わらず、フリードリヒ大王の国に仕えることを望んだほどであった(注2)。彼は、彼が「ドイツにおける清王朝」と呼んでいたこの国に未来を見いだすことができなかったのである。シュタインと並んでプロイセンの近代化に貢献した軍事改革の創始者であったシャルンホルストは、ハノーファー軍の改革に費やした自身の努力の空しいことに失望し、1801年1月にハノーファーの軍務を辞し、プロイセン軍に入った。シュタインの後継者であり、改革の実行者であったハルデンベルクは生まれも育ちもハノーファーであり、若い頃には自国に献身的に仕えていた。だがその出世の道があまりにも長く不確実で、それがロンドンのジョージ3世の宮廷においてさえそうであることを徐々に悟って、ブラウンシュヴァイク公国経由でハノーファーを去ってプロイセンに仕え始めた。シャルンホルスト、ハルデンベルク、シュタイン(注1) - これらの綺羅星の如き天才達を失ったではないかということが、ハノーファーのアンシャン・レジーム(旧体制)に対する最大の悪口雑言たり得よう。同時に、プロイセンに彼らをもたらしたということが、フリードリヒ大王の国にハノーファーが与えることのできた最大の貢献であった。

注2:Lehmann, Stein, vol.i.246. Pertz, ii, 194-195. Pertzは非常に有能であったハノーファーにおける将校達、例えばRehberg、Brandes、Rumann、Hoppenstedt、Roseらが低い階級のままにとどめられていたことを指摘している。アイラウとフリートラントにおけるロシア軍の指揮官であり、パーヴェル1世を暗殺した一派のリーダーであったことでも知られるベニグセンもまた、ハノーファー人であった。

注1:フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の側近の一人であったベイムもまた、ハノーファー人であった。


『Hanover and Prussia, 1795-1803; a study in neutrality』P43~45



 シャルンホルスト、シュタイン、ハルデンベルクらって、揃いも揃ってハノーファー出身だったんですね……。「綺羅星の如き天才達」という評価も確かにその通りかと思います(シュタインは過激に過ぎた人物だったらしいですけど)。ベニグセンも結構有能な人物だったらしいですし。ベイムというのは誰も知らないだろうと思います(私も知りません(^_^;)が、シュタインらに口を極めて非難されていた、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の4人の側近のうちの一人です。後の3人は、ハウクヴィッツ(この人は1806年までのプロイセンの中立外交政策を取り仕切った人で、ある程度詳しいナポレオン戦争関係の本にならその非活躍ぶりが出てきます(^_^;)、コークリッツ、ロンバルトです(『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P178より)。

 引用の注の順番が逆転しているのは元のページが途中で変わっているからで、また、注の内容も適当に取捨選択してますのであしからず……。


 『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』にも、シャルンホルストがハノーファーで出世できなかったことについていくらか言及されています。

 シャルンホルストの上司たちは、彼の主張が正しいと納得してはくれなかった。だが、かりに納得してくれたとしても、ジョージ3世治下のイギリス政府は、永年の特権を守るため、ハノーヴァーの貴族たちの反発を敢えて買うようなことはしたがらなかったであろう。シャルンホルストは非現実的なことばかり言う人騒がせな野心家として無視され、隊内の上級ポストが空くと、実力では到底彼に及ばぬ連中がどんどん昇進した。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P104



 イギリス軍も1815年当時でさえも売官制度がひどく、軍隊内で貴族の特権の前に平民の権利はないも同然だったらしいですから、ハノーファーもそういう感じだったのかもしれませんね~。

 

『コンサイス外国人名事典』で諸公を調べてみました


 ふと思いついて、『コンサイス外国人名事典』でここんとこ取り上げている諸公を調べてみました。




 ↑これは第3版だそうですが、私が持っているのは改訂版(つまり第2版?)です。

 ビューロー(兄)の時に試しに参照してみてたんですが、他の詳しい資料では触れられていないような視点からの記述があったりして、なかなか侮れないなと思ってました。


 まず、ザクセンのフリードリヒ・アウグスト1世

フリードリヒ-アウグスト1世
②通称 der Gerechte(正義王) 1750~1827 ザクセン王、在位1806~27。選帝侯(としてはフリードリヒ-アウグスト3世)、在位 1763~1806。
 ナポレオン戦争でプロイセンと同盟して戦ったが敗北。ポーゼンの和約で国王称号を認められ、ライン同盟に参加。1807ティルジットの和約でワルシャワ公国を与えられたが、その統治権を行使しなかった。'13ライプチヒの諸国民戦争後、捕われ、ウィーン会議の決定によりザクセンの半ばをプロイセンに譲渡、'15ドレスデンに帰った。


 青字にしたところは「ほー」と思ったところ。ザクセンのフリードリヒ・アウグスト1世についてでは「義人公」としてましたが、これはどこかの本にそう書いてあったのをメモってあったものでした。うーん、でもイメージ的には「正義王」より「義人公」の方がそれらしいかなぁ。

 「'15ドレスデンに帰った。」というのは、コンサイス(簡潔な)なのに書く意味があるのかなと思いましたけども(^_^;

 「統治権を行使しなかった」というのはしかし、ナポレオンがワルシャワ公国の実質的な統治権を持っていてフリードリヒ・アウグスト1世は名目上の王に過ぎず、行使しようにも行使できなかったということではないかとは思います。


 同じページにあったので、ついでにプロイセン王も。

フリードリヒ-ヴィルヘルム2世 1744~97 プロイセン王、在位 1786~97。
 フリードリヒ2世の甥。政治的には凡庸で、父王に似ず啓蒙思想を嫌悪。第2回・第3回ポーランド分割により領土を拡大したが、1795 バーゼルの和約によりライン左岸をフランスに割譲。

フリードリヒ-ヴィルヘルム3世 1770~1840 プロイセン王、在位 1797~1840。
 フリードリヒ-ヴィルヘルム2世の子。ナポレオン1世と争いイエナ-アウエルシュテットの戦いに破れ、ティルジットの和約で領土の半分を失う。1814~15 のウィーン会議以後はメッテルニヒの影響の下で自由主義運動を抑圧。ドイツ関税同盟を成立させた。


 「甥」なのに「父王」とはなぜ……?

 「政治的には凡庸」とあって、基本的にはそういう評価らしいです。が、『プロイセンの歴史』ではかなり褒められていました。

 「自由主義運動を抑圧」というのは、そこまで良く分かってませんでした。が、まあこの人ならそうするだろうな、と全然違和感ありません(^_^;


 それから、ザクセン・ヴァイマール公国のカール・アウグストも。

カール-アウグスト 1757~1828 ドイツの貴族・ザクセン-ワイマール大公
 ゲーテと親交をもち、学芸を奨励しヘルダーやシラーらを招き、その首都ワイマールはドイツの精神的中心地となる。政治的にはプロイセンと結び、1806 ナポレオン1世と戦い敗北。また連邦規約に基づき、'16ドイツの公国ではじめて憲法を制定した。


 「学芸を奨励しヘルダーやシラーらを招き」というのは良く分かってませんでした。個人的には軍事面ばかりに注目してたんですが、世界史的にはそちらの方が重要なんでしょうね~。


 ヘッセン=カッセルのヴィルヘルム1世は載っていませんでした(^_^; 彼は『Who was who in the Napoleonic Wars』などにも載っていないので、重要度ではやはり落ちるのでしょうね。尤も、連合軍に膨大な資金を貸し付けていたというのは、経済を重視する考え方からすると、ものすごく重要という考え方もできるかと思いますが……。


 コンサイスでない外国人名事典があるのかな……と思ってAmazonで調べてみたのですが、なんかないような……? まああったとして、数万円とかじゃ苦しいですからね~。



ザクセンのフリードリヒ・アウグスト1世について

 次に、ザクセンとフリードリヒ・アウグスト1世について。

 また地図を挙げておきます。ちなみにザクセンの首都はドレスデンでした。

スクリーンショット_160107_010



 実は1806年戦役が始まる時点では「ザクセン選帝侯領」と「フリードリヒ・アウグスト3世」なのですが、終わった後「ザクセン王国」と「フリードリヒ・アウグスト1世」とこれまた名前が変わります。あーややこしい。

 ザクセンとその王フリードリヒ・アウグスト1世も非常に興味深いです。当時のドイツでは、オーストリアとプロイセンに次ぐ国力を持っていたのはドイツ南部のバイエルンだったでしょうけども、バイエルンは割と当初からナポレオンの保護下に入ることを余儀なくされたのでナポレオン戦争においてあまりどうこうということはない印象があります。しかしその次に大きかったであろうザクセンは、1806年戦役ではプロイセン側につくことを余儀なくされ、その後ナポレオンの保護下に入ったものの、1813年のライプツィヒの戦いでザクセン軍が寝返るという、割と劇的な動きをしました。それにまた、フリードリヒ・アウグスト1世がいい人過ぎて、かつ不幸すぎて泣けます(T_T)


 まずはフリードリヒ・アウグスト1世について。

Fryderyk August I

Frederick Augustus I, King of Saxony(1750-1827)

 1763年に父のフリードリヒ・クリスティアンから選帝侯位を継承、1768年に成人年齢となって正式に就任した。謙虚で控え目、良心的な人物であり、あまりにも誠実過ぎて無能な家来を解任することすらできず、大臣達や将軍達に操縦されてしまう傾向があった。それゆえナポレオンは彼のことを、かつて王位に就いた中で最も純真な人物であると断言したほどである。外交政策においては彼は努めて火種を避けようとし、1791年にはポーランドの王位を辞退し、フランス革命戦争にザクセンはほんの少し関与しただけで、1796年にはフランスとの間の中立条約を締結した。だが1806年には彼はプロイセンの側に立ったものの、その敗北の後にはライン同盟に加入して王位を得た。その後彼はナポレオンを忠実に支援し、1807年には名目上のワルシャワ大公となり、1813年にはフランス皇帝への忠誠を破棄することを拒否しさえした。ドレスデンの戦いの場に彼はおり、ライプツィヒの戦いでザクセン軍が寝返った後、彼は連合軍の捕虜となった。プロイセンとの間に緩衝地帯を欲するオーストリアの要求により、プロイセンによるザクセン完全併合は阻止されたものの、ウィーン会議における激しい論争の末、彼は領土の半分以上を失い、残りはプロイセンに併合された。彼への臣民達からの人気は決して衰えず、その統治の残りの期間は戦争による痛手から立ち直るために充てられ、彼はその「義人公」の称号に充分に相応しい人物であった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P124



 「ワルシャワ大公」という称号は、昔はそう呼ばれていましたが、最近は「ワルシャワ公」と呼ぶのが正しいらしいとなっているような気がします。ただまあ原文にそう書いてあったので一応そのままに。

 あと、「1813年にはフランス皇帝への忠誠を破棄することを拒否しさえした」という話ですが、明確な話としては知らないのですが、ナポレオンを裏切るようにという働きかけが色々と王にあったのを拒否したということだろうと推測します。


 そういえばフリードリヒ・アウグスト1世はかの、フランス共和国政府を恐怖と激怒の渦に巻き込んだピルニッツ宣言の宣言者の一人であった?かもしれず、そのことを書いてあった『ドイツ王室1000年史』P43には「革命を恐れたザクセン選帝侯は」とあって、前エントリでヘッセン=カッセルのヴィルヘルム1世がとにかく「反フランス」であったのは、「革命を恐れて」のことだろうな、そうか、と思いました(^_^;。ただまあ、反フランスが必ず親プロイセンであるということもないと思うので……。1809年のDörnbergでは、「プロイセンとの結びつきが深いヘッセン」と私自身が書いていたので、なにか歴史的な繋がりがあったのかもですが、参考文献からそのような記述を今見つけられず、なんか私が思い込んで書いた可能性もあるので、あうー、なんだかな。

 閑話休題。

 ピルニッツ宣言に関する『ドイツ王室1000年史』の文ですが、該当箇所を全文引用すると、

 革命を恐れたザクセン選帝侯は、1791年、ピルニッツ城【ドレスデン市内にあった】で三君主【オーストリア、プロイセン、ザクセン】による会談を催し、このとき三君主は「ピルニッツ宣言」を発表する。これに基づいてオーストリア・プロイセン・ザクセンはフランスに軍事介入した。
『ドイツ王室1000年史』P43,44


 とあるんですけども、Wikipediaなどを見ていてもフリードリヒ・アウグスト1世は少なくとも主唱者っぽくはないですし、またピルニッツ宣言自体が、実は「直接行動の断念を表明したものにほかならなかった。」のが現在では定説だそうです。ので、まあフリードリヒ・アウグスト1世は革命を恐れはしたかもしれないですが、少なくとも軍事的なことを自分からしたくてしたという感じではない?

 ピルニッツ宣言について、『ドイツ史2』の記述が非常に面白いので、フリードリヒ・アウグスト1世も一応出てくるので、挙げておきます。

 皇帝レオポルト2世とプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の1791年8月27日の「ピルニッツ宣言」は、結果が意図を裏切った点で、おそらく史上もっとも不幸な宣言のひとつに数えられるであろう。ルイ16世の逃亡失敗の事件(6月20/21日)があったのち、レオポルト2世は7月6日付でヨーロッパ諸国君主に回状を発し、フランスの君主制を救うために共同の行動をとるよう要請している。しかし8月に両君主がザクセンのピル二ッツで会したとき、他国君主は - ホスト役のザクセン選帝侯をのぞけば - だれもこなかったし、とくに共同干渉にたいするイギリスの拒否的姿勢はこの時点でははっきりしていたのである。したがって他国君主にたいし「署名君主と共同で、その力に応じて有効な手段をとるよう」(傍点=引用者。以下同じ【下線しておきました】)要請し、「この場合には皇帝と国王はただちに相互の了解において必要な対策を講ずる」、「この前提において軍隊に必要な命令をくだす」と述べたこの宣言は、実際には直接行動の断念を表明したものにほかならなかった。この点では現在、歴史家の見解は一致しているといってよい。
 しかしフランスの革命陣営がこれをまったく別様に解釈し、フランスの内政にたいする不当な干渉としてこれに反発したのもまたやむをえないところがあった。
『ドイツ史2』P133





 さて、1806年戦役時のザクセンについてです。『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』には以下のように書かれていました。

 ザクセンの立場は特有のもので、ザクセンの場合、ナポレオンはプロイセンによる圧力がザクセンにかけられるのは許容しないということを明らかにした上で、自身はザクセン選帝侯に対しライン同盟に参加する様に要求しつつ、同時に少し前にナポレオンが王位へと引き上げたバイエルンやヴュルテンベルクなどの国々へと同様に王冠を目の前にちらつかせた。選帝侯は差し迫る戦争から努めて離れようとしていたが、神聖ローマ帝国の解体と、ナポレオンがオーストリアとプロイセンの双方を除外しかつフランスの影響下と保護下にあるようなドイツを再構成しようとするのを見て、ザクセンの国境へと迫るこの戦いへの参加を避ける方法はもはやないのだろうということを悟った。オーストリアは前年すでに撃破されており、ザクセンの選択肢はバイエルンと同様にフランスの同盟国となるか、あるいはドイツがフランスの保護下になるのに反対しドイツを守るためにプロイセンと共に最後の戦いに突き進むかのどちらかであった。ザクセンとしては、自身が影響力を持っているテューリンゲン諸国のザクセン系の諸公との関係を強固にして基盤を固めるという方法もあったかもしれないが、しかしそのようなことはプロイセンとロシアの両方から反対されるに決まっており、だとすればその結果としてフランスに従属することになるも同然であった。ザクセンはすでに広範にプロイセンの影響下にあったが、プロイセンによる北部同盟構想の中に入った上で独立を維持できる可能性については疑念を持っていた。ナポレオンがザクセンをしてライン同盟に入れさせようとする努力の方がもっと疑わしかったが、しかしナポレオンは注意深くザクセン自身の自由意志に任せるかのように装っていた。そしてその餌の一つが、王位の可能性の提示だったのである。プロイセン側のザクセンに対する執着は遙かに強いものであり、時間が経つにつれ、プロイセンはその目的を達するために軍隊を使用することを躊躇しないであろうということが明らかになってきた。プロイセンは仏露間の交渉が決裂する前に戦争を決意したが、それは最終的にロシアの支援を受けられる見込みが得られたからである。だが一方で、プロイセンにとって序盤の戦いのためにはザクセンという同盟者が最も重要かつ必要であったのだ。しかしザクセンに同盟を強制させたことで、プロイセンはナポレオンの術中にはまることになった。なぜならプロイセンはいやいやながらの同盟国を得たに過ぎず、一方でナポレオンには、プロイセンの暴力からザクセンを守るという態度を示す絶好の機会が与えられることになり、その結果プロイセンに対してザクセン側の憎悪が激しく増大することになったからである。
『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P11~13



 とすると、ザクセンとしては選択の自由などまずなかった感じがありますね……。

 様々な資料を見ていますと、1806年戦役におけるザクセン軍兵士達の士気は総じて低かったとあります。ただ、質的には割と高かったらしいです。

 1806年戦役でプロイセン側には、プロイセン外からの指揮官としてブラウンシュヴァイク公、ザクセン・ヴァイマール公、オラニエ公、ヴュルテンベルク公らが参加していますが、部隊としてはプロイセン軍とザクセン軍しかどうも見ないような……? 『ゲーテとその時代』P227には「プロイセン軍にはワイマル公カール・アウグストが将軍として復帰し、あまつさえワイマルは兵775名を馬107頭とともにプロイセン軍に提供することになったのだ。」と書いてあるのですが、諸資料で戦闘序列をさーっと見てみたんですが、どこにザクセン・ヴァイマール公国の兵がいるのか分かりませんでした(もちろん、見落としの可能性も高いです)。

 一方で、OSGの『1806 Coming Storm』のP14にはザクセン兵の士気が低かったという記述に続けて、「恐らくこれは賢明なことであったろうが、プロイセン王はドイツのより小さい諸邦には部隊を提供させて困らせるようなことをしなかった。これはもし呼集すればさらに38,000名を得られたかもしれなかったのだが。」とありました。

 とすると、ますますザクセンの気の毒さが際立ちます……(>_<)


 で、まあ1806年戦役における細かいザクセン軍の動きについては今後見ていくとして、『ライプチヒ戦場哀話』にフリードリヒ・アウグスト1世に関する記述がいくらかあるので、引用しておこうと思います。1813年のライプツィヒの戦いの時の話です。

 ザックセンでは、ナポレオンのロシア遠征に従軍した古兵たちは、ほとんど倒れてしまい、1813年の4月から5月にかけて新軍が編成された時には、これまではフランス軍に加担してきたものの、最後には彼らを敵とすることになるだろうとひそかに期待するむきが濃厚であった。ところが、国王のフリードリッヒ・アウグスト1世が、グロースグェルシェンでのフランス軍の勝利に影響されて、ふたたびフランスとの友好関係を保持することを宣言したとき、そんなことは空だのみとなった。ここから、ザックセン軍にとっての不運がはじまったのである。
 兵士たちが入隊する時に国王に捧げた宣誓からすれば、軍隊が四散することはあり得ないのだが、戦死者の数がおびただしかったことと、フランス兵が二度の戦役のさいに同盟国のザックセンではたらいた乱行のゆえに、とくに兵隊たちのあいだでは、抑えることのできない怒りが蓄積していたのだ。
 ナポレオンも、そんな空気を感づきはじめていた。10月9日に彼が、アイレンブルクの東方のキュルツシャウという所でザックセン軍を査閲したときには、普通なら自然に起こる「皇帝万歳!」という声が起こらなかったし、皇帝が演説をぶったのちにも、兵士たちは口を閉ざしていた。しかし、郷里にもたらされた悲報を聞いて、それだけで彼らが皇帝を許さないという気になったのではない。ザックセン国王を皇帝が冷遇したことも、兵士たちの憤激を招いていたのである。フランス人の護衛兵に連行されるような国王が、ナポレオン皇帝にかしづくようにライプチヒにおもむく姿は、体のよい人質にほかならなかったのだ!
 今日の私たちは、このあたりの成り行きを、もっとよく知ることができる。実はフリードリッヒ・アウグストという国王は、多分、たぶらかされていたのでもあろうが、最後までナポレオンを信用していた。しかし当時としては、ザックセン軍が同盟軍に寝返った行動の決め手となったのは、まさに、国王がナポレオンに進退の自由を奪われていなさるのだという印象であった。いわば軍隊が身代りとなって、独立心の強いザックセンの存続をはかろうというのである。のちのウイーン会議の時の折衝が、この決断の当っていたことを確認したのである。
 他方、フランス側から見れば、右の寝返りの決断が実行に移されるのがおそかったために、もはや大決戦の成り行きを左右するものではなかったとはいえ、ザックセン兵の動向は長らく疑惑の的となっていた。右の決断を実行に移したのは、8月には18,000名を数えた兵員にうち4,000名にすぎなかった。
『ライプチヒ戦場哀話』P89~91


 10月19日という、永遠に記念されるべき日が夜明けを告げるとともに、町の内外で、フランス軍が完敗して退却しようとする、もっとも明瞭なしるしが見えてきた。放火【ママ】と銃声とがだんだん町に近づいてくると、午前10時ごろ、ナポレオンとその随行員とは、ザックセン国王とともに、広場にある国王の私邸(注19:その家と出窓とは、今も残っている。なお、王妃のマリア・アマーリアは、バイエルン国王の妹であった)に入って来た。
 私が見ると、皇帝は二階の出窓で、国王と王妃のあいだに立って、活発に話しているようだった。王妃はひどく感動しているらしく、白いハンカチで涙をぬぐっておられたが、国王のほうは、表情を変えずに落ち着いて、打ちひしがれた態の世界支配者のそばに立っておられた……。
 午後一時半ごろ、ナポレオンは国王に別れを告げて出発した。
『ライプチヒ戦場哀話』P100


 私たちのザックセン国王は、同盟軍から背信の嫌疑をかけられ、どこかに身柄を抑留されることになったそうですが(注34:この国王は、1813年10月23日に、ロシア兵に護送される身となってベルリンにおもむいた)この間に国王の示されました卑屈な態度のために、人民の感情は非常につめたくなってしまったのです。
『ライプチヒ戦場哀話』P168



 ザクセン軍の寝返りが王のことを思ってのことであった一方で、最後の引用では王に対する人民の感情が冷たくなったともあります。「卑屈な態度」ってなんでしょうね? 最初、ナポレオンに対する卑屈な態度ということかと思ってたんですが、捕虜となって拘留されてからの卑屈な態度に関してだと思った方が時系列的に合う……?


 最後に、『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』には、P161の前のページにフリードリヒ・アウグスト1世の肖像画があるのですが、その解説文の中に以下のような文があります。

 この時代におけるかなり不幸な人物であった彼は、敗北する側につく傾向があった。


 はうあー(T_T)

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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