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ヘッセン=カッセル選帝侯ヴィルヘルム1世について

 1806年戦役に取りかかりたいのですが、個人的に気になってる外堀を埋めてから(^_^;

 まずはヘッセン=カッセルについてです。ヘッセン=カッセルは1806年戦役でプロイセン軍と共には(多分)戦わなかったものの、親プロイセンの立場から、ナポレオンの傀儡「連合国家」であったライン同盟加入への誘いは拒否したらしいです。


 ↓1806年当時の関係地図です。赤い太い線はライン同盟の範囲。1806年戦役はヴュルツブルク周辺の辺りからフランス軍がイエナ、ライプツィヒ、ベルリンの方向へと侵攻する形で行われました。

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 ヘッセン=カッセルについては以前、「兵士貿易」で有名なヘッセン=カッセル方伯でいくらか書きました。この時は「ヘッセン=カッセル方伯」の「ヴィルヘルム9世」と書いてましたが、1803年に「ヘッセン選帝侯国」の「ヴィルヘルム1世」と名前(称号)が変わっていたようです。ですので厳密には1806年当時は「ヘッセン=カッセル」とは呼ばないはずではありますが、慣習的にそう呼ばれていたらしくて1806年戦役の資料にもその名前で出てくるので、そういうことで(^_^;


 『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』を読んでいると、1806年戦役の開戦直前の辺りに以下のような記述がありました。

 ライン同盟の構成要素として利用できる可能性が残っていた諸邦のうち、最も重要な2つが、ザクセンとヘッセン=カッセルであった。後者については、ナポレオンが【ヘッセン=カッセル】選帝侯に対してその領土に近接している南の同盟【ライン同盟】に加入するように執拗に圧力をかけた。だが選帝侯は非常に頑固な親プロイセン主義者であったため、このフランス側の提案を謝絶し……
『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P11



 で、選帝侯ヴィルヘルム1世がなぜ「頑固な親プロイセン主義者」であったのかが個人的に非常に知りたいのですが、全然そこらへんの資料が見つけられず(^_^;


 のでまあそこらへんはとりあえず諦めまして、ヘッセン=カッセル自体、あるいはヴィルヘルム1世その人の他の面について。

 兵士貿易についてですが、Wikipedia上の「アメリカ独立戦争におけるドイツ」という項目にある程度詳しく載っていました。

 アメリカ独立戦争にイギリス側の兵士として行ったヘッセン=カッセルの兵士達は、アメリカで略奪などをしまくり、アメリカ植民地人の怒りをかき立ててそれ故に独立戦争がアメリカ側の勝利に導かれた側面があった……というようなことを歴史群像で読んだ(多分、67号の「アメリカ独立戦争 【戦史分析】最強大英帝国vs.不屈の市民軍」という記事だと思うのですが、今手元にないので確認できません(>_<))ような気がします。とすると、今アメリカ合衆国という国があるのも、当時のヘッセン=カッセル方伯であった、ヴィルヘルム1世の父親のフリードリヒ2世とヘッセン=カッセルの兵士達のおかげだということに……(おい)。


 ヴィルヘルム1世についてですが、前掲エントリで書いてました『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』から該当箇所を引用してみますと……。

Wilhelmihessenkassel


 ヴィルヘルム公の先祖は戦争で富を得た。自ら仕掛けたわけではなかったが武力を売ることで儲けたのだ。1618年以来、ヨーロッパや海外においてヘッセンの傭兵隊が巻き込まれなかった戦いはほとんどなかった。イギリス、プロシア、スウェーデン他、ヨーロッパ大陸の権力闘争に借り出された兵士一人一人が、ヘッセン=カッセル伯爵の金庫にお金をもたらした。兵士が一人殺される毎に、彼に特別見舞い金が支払われたからだ。こうやって死の取り引きで得られた利益は、王家のいくつかの政略結婚によってさらに増大し、代々の伯爵たちはカッセルを、北ヨーロッパで最も洗練された都市の一つに、公園や屋敷や画廊などのあるきらびやかな都市にすることができた。ヴィルヘルムスホーヘ宮殿は、より広く誇り高き国々を支配していた公たちにとっても羨望の的だった。それでも代々の伯爵たちは優れた実業家と同じで、収入をすっかり浪費してしまうようなことはしなかった。いくらかは投資に使った。残りは他の政府に結構な金利で貸し出された。ヘッセン=カッセル伯爵家ほど、商業組織を運営するように国を運営していった者はなかった。

 この事業の経営責任者の地位を継ぐことになっているのが - ロスチャイルドが力を入れて取り入ろうとした男 - この地位を占めるに見事に相応しい人物、ハナウ公ヴィルヘルムなのだ。マイヤー・アムシェル【ロスチャイルド家の創始者】より一歳年長になるが、精力的で意志が固く、無鉄砲で貪欲な男だった。成年するにつれ、あらゆることに情熱を注ぎ込んだ。売春であろうと(彼は70人以上もの私生児を作った)、伝統文化の研究であろうと、軍隊の教練であろうと(彼は兵士のボタンの磨き具合まで一人一人チェックする鬼教官で、下げ髪の長さを測るため特製の物差しを持ち歩いていた)、彼には同じことだった。古銭の蒐集も例外ではない。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P27,28


 戦争【フランス革命戦争のこと】のせいでヘッセン=カッセル家のヴィルヘルム9世は、以前にも増して銀行家を必要とするようになっていた。彼は連合軍のために未曾有のスケールで軍を集め、養っており、そのため現金を必要としていたのだ。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P40


 【1795年の】バーゼル条約後、ヘッセン=カッセルは戦争から退いたが、金融上の前線ではヴィルヘルム伯爵が一層の努力によって、早くもヨーロッパ随一の金貸しになっていた。フランクフルトの「ラート」【フランクフルト市当局のこと】からオーストリア皇帝にいたるまで、ほとんどあらゆる権威が、ヘッセン=カッセルからの借り物であるかのようだった。これらの取り引きはむろん、フランスからの報復を恐れて、公然と行うわけにはいかない。ヴィルヘルムは仲介者を使った。その中にロスチャイルド家があり、かくして彼らは莫大な量の事業を扱うこととなったのだ。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P46


 ヨーロッパの支配者となったナポレオンは今【1807年】、積年の恨みを晴らそうとしていた。ヘッセン=カッセル公(オーストリア皇帝が1803年に「選帝侯」の名誉を授けている)への彼の恨みは例を見ないほど激しかった。ヴィルヘルムが何年もの間、中立を装いながらナポレオンの敵を援助していたことを、ナポレオンはとうの昔に知っていた。総力を結集して復讐する時が、ついにやってきたのだ。皇帝ナポレオンは戦場指揮官モルティエ将軍に命令を下す -

「あらゆる財宝、食料を封じ込め、ラグランジュ将軍をこの国の総督に任命せよ。税金を上げ、判決は余の名をもって下すべし。完璧な成功を期するため、秘密厳守、迅速行動を肝に銘じること。余の目的はヘッセン=カッセル家を支配階級から除外し、権力の外へと追いやることである。」

 しかし「秘密厳守、迅速行動」は何もナポレオン側だけの専売特許ではない。ヴィルヘルムはすでに危険を察知していた。数週間というもの、彼の家来たちは何箱もの金塊を、台帳や札束や抵当証券と一緒に、輸送したり隠したりする、とてつもない仕事に没頭していたのである。その中には、もしも征服者の手に落ちたら最後、選帝侯の多角的事業経営がすっかり暴露されてしまうような抵当証文もあった。

 結果から言えば、公の努力は部分的にしか成功しなかった。このことは彼以外の誰の責任でもない。偏執的とも言えるほど狭量で猜疑心が強かった彼は、緊急事態においても代理人たちに全面的信頼を寄せることができなかったのである。銀の大半がカッセルで足止めをくう結果となった。川から海を経て荷をイギリスへと運ぶのに船を借りる際、船長の言い値に彼が同意できなかったためだった。このとき争議のもととなった額はわずか50ターレル。フランスの手に落ちた金塊は何百万ターレルだった。まさに、財宝を手元から離すのを渋るあまり、ほとんど身の自由を失うほどに高くついてしまったわけだ。彼の馬車は6人の従者を連れ、ある門を抜けてどうにかこうにか逃れた。その時もう一つの門にはナポレオン部隊が入りつつあった。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P62~64


 ヘッセン=カッセルの占領は、『ナポレオンの元帥たち フランス帝国の群雄伝』(オスプレイ・メンアットアムーズ・シリーズ)のP17によるとこうなっています。「1807年 【モルティエが】グラン・タルメ第8軍団を指揮し、ヘッセンおよびハノーファーを征服、ハンブルクおよびブレーメンを占領」

 また、50ターレルというのはいくらぐらいなのかという問題ですが、『ゲーテとその時代』のP98によると「当時の「中流」の市民の年収は二百~四百ターラーであった。職人や小学校教師はせいぜいが百ターラーである」とあるので、今の日本円にすると、1ターレルは2万円くらい……? とすると50ターレルは100万円、100万ターレルが200億円なので、「何百万ターレル」というとまあ、600億円から1500億円とかくらい?


 デンマークの町ゴットロープに亡命中の身で、残された財産を直接動かすこともできず、彼【ヴィルヘルム1世】は自暴自棄になるほど経済的困窮に陥っていた。……「我々は今はなはだ惨めな境遇におります。すぐにも金銭的援助をいただきたい。他に手の施しようがないのです。カッセルからは一文も得られないのですから。ああ、なんという変わりようか。」……プラハは亡命した選帝侯が1807年に居を定めたところだった。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P67,8


 1809年の春、ヴィルヘルム9世が彼ら【フランスのスパイ】に【ロスチャイルド家への疑惑を暴かせるような】その機会を、まさに皿に載せて差し出すようなことをしでかした。彼はヘッセン=カッセル内で起きた、準備もろくに整わないような反乱に財政援助したのだ。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P71,2


 この反乱というのは恐らくデルンベルクの起こした反乱のことではないでしょうか(あるいはその前のカッテ大尉の試みである可能性も)。デルンベルクとその反乱については1809年のDörnbergをご参照下さい。


 親プロイセン的立場についてですが、最初の引用のところに「精力的で意思が固く」とあり、そもそもフランス革命戦争の頃からずーーーっと反フランス陣営を援助し続けていたようですから、1806年の時点でナポレオン側につくということはまあ、あり得ないような気がします(^_^;

 一方で、ある程度以上親プロイセンであった他の家系、たとえばブラウンシュヴァイク公だとかオラニエ公だとかは、プロイセン王家と婚姻関係で非常に強く結びついていました(しかし両家系はイギリス王家とも婚姻関係で非常に深く結びついていたので、プロイセンべったりという感じでもないですが)。ヴァイマール公とは?で書いていたザクセン・ヴァイマール公国のカール・アウグスト公の場合には、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(3世の父)と妻が姉妹同士(ヘッセン=ダルムシュタットの出)で(今回資料をひっくり返していて気付きました(^_^;)、つまり一応は義兄弟の関係?にあったわけで、1806年戦役の時にその息子の3世の側に立つのは当たり前だったでしょう。

 なので、ヴィルヘルム1世がプロイセン王家となんらかの婚姻関係にあるのか……ということを探したのですが、ぱっとは見つけられませんでした。うーむ。

 あと考えられるとしたら、当時少しずつ醸成されてきていた「ドイツ国民」という繋がりの意識の存在で、そこらへんからあくまでドイツ側を支援し、フランス側を敵とした……という可能性もあるかもですが、何の資料的裏付けもありません(^_^;

 まあとりあえずわかんないということですかねー(^_^;

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1806年戦役に関して挙げられている資料

 『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』から、1806年戦役の資料について他にもちょっと挙げておこうと思います(以下引用はすべて同書のP39から)。

 Dennis E. Showalterという人が書いた論文か何かで『Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?』(1994年)というのがあり、その中でShowalterはこういうことを主張しているそうです(訳にちと自信がありませんが、たぶん大意的に)。

 ……18世紀末のプロイセン軍には何の問題もなかったとShowalterは主張している。第一次対仏同盟に参加していた他国の軍に比べればむしろ優れていたほどであった。1806年における問題は本質的には、当時のフランス軍がプロイセン軍を凌ぐほどにプロイセン的軍国主義の権化になっていたことにあるのだ。ナポレオンの軍隊は、戦場におけるプロイセン軍より優れているとは言えなかったとしても同等には優秀であり、そして大軍であった。軍隊の敗北の後に起こったプロイセン国家の破局は、軍の優秀さとはまた別の問題である。



 なかなか面白い問題だと思います。

 検索してみると、どうもその全文がPDFで読めるみたいです。

Hubertusberg to Auerstädt: The Prussian Army in Decline?

 興味のある方はどうぞ……。私は1806年における推移に取りかかりたいので、やめておこうと思います(^_^;


 それから、以下の2書が、フランス軍側の視点から見た書物として非常に優れているとして挙げられています。

・F. N. Maude 『The Jena Campaign, 1806』(1909年初版、1998年再版)
・『Napoleon's Finest: Davout and His 3rd Corps, Combat Journal of Operations, 1805-1807』(2006年出版)







 『The Jena Campaign, 1806』はAmazonで色々な形態で売られているんですね……。私が入手したのは一番左のやつでしたが、しまった、再版のやつの方が安いし、きれいそう? しかもInternet Archiveでも読めるという……。

 『Napoleon's Finest: Davout and His 3rd Corps, Combat Journal of Operations, 1805-1807』はダヴーの報告書のまとめなんでしょうけども、12万円越え(^_^; フランス語のやつでならばネット上で読めたりするとかなんでしょうか……。


 『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』で以下のように書かれています。

 この第一次史料は軍事史を研究する者にとっては計り知れないほど価値のあるものである。入手が困難でひどく高価ではあるが、その翻訳と装丁は高く評価されている。不幸なことに、この1806年戦役に関する第一次史料は、フランス軍側にしか残っていない。1806年戦役に関するプロイセン軍側の第一次史料のほとんどは、第二次世界大戦中に失われてしまったのである。歴史家にとって、このアンバランスさを克服するのは将来における難題であろう。



 これは悲しい(T_T)

 ただまあ、個人的な課題である「手に入り、分かる/読める範囲でまとめる」ということに関して言えば、ほぼ関係はありませんが(^_^;、しかし研究者レベルの方達にとって手に入る史料は多い方が我々にとっても嬉しいわけで。



 1806年戦役の資料については以上ですが、あと、「1806~1807年戦役の本は少ない。でも1809年戦役の本はいっぱい出てるよ」と書かれていたりとか、以前買っていた(OCS4.1aとシル少佐関連)『Long Ride of Major Von Schill: A Journey Through German History and Memory』が挙げられていたのが興味深かった/良かったです。




『戦争と飢餓』、超絶オススメです!

 だいぶ前に買っていた『戦争と飢餓』という本を入院中に読了しました。第二次世界大戦中の「飢餓」の状況やそれに対する対処を各国ごとに記述、分析した本です。帯には「2000万人が餓死した第2次世界大戦 - それは食料をめぐる熾烈な戦いだった!」とあります。




 一応買った時点で「これは読む価値がありそうだ」とは思っていたんですが、読んでみていやいやそれどころではない、第二次世界大戦、あるいは戦争というものにいくらかでも興味のある人はすべての人が必ず読むべき、必読の書ではないかとさえ思いました。

 元々、戦前のイタリアや日本が貧しくて海外へ移民しなければ生きていけない人々が多くいた(そして移住先でもすごく苦労してなんとか食いつなぐという状況であった……)というようなことは知ってはいたんですが、飢餓問題がそれほど重大なこととまでは思っていませんでした。

 『戦争と飢餓』を読んでいて個人的に一番驚いたのはイギリスについてです。イギリス政府は戦争中に海上封鎖を受ける中でも自国民がある程度以上の食料を得られるように非常に努力しましたが、1942年から43年にかけて大英帝国植民地の多くで干魃が発生した時にそれら植民地人を救うための努力はほとんど一切せず(本国だけで精一杯だったからでしょうが)、アフリカで30万人以上、インドでは300万人以上が餓死するままに放置したそうです(中東では有能な行政官がその危機的状況をなんとか阻止した)。これは「作為的な罪」ではなくて「不作為の罪」ではあるでしょうけども、本国人が最上位に位置し、植民地人が明らかに下にされる暗黙のヒエラルキーがあったからこそ可能になったことなのだと。

 イギリスがイギリス本国だけで戦っていたわけではなく、広大な植民地を抱えてその一部に犠牲を押しつけつつ戦っていたということなわけですが、一方でドイツは植民地を持たず、ヒトラーのいう「生存圏(レーベンスラウム)」の獲得のために東方へ侵攻したということは有名です。

 で、しかしドイツが独ソ戦でウクライナなどを占領した時に、被占領民に対して非常に冷たくあたったことから、「そこで優しくしていれば独ソ戦はうまくいっていただろうに」という意見に対して、「実はナチスはロシア人やウクライナ人を絶滅させてそこに入植しようという計画をもって侵攻をおこなっていたという説が出てきていて、だとすればそのような優しい占領政策などするはずもなかったのかもしれない」というのはどこかでちょっと前に読んでいた(大木毅さんの記事だったかなぁと思うんですが、今見つけられません)のですが、『戦争と飢餓』においてまさにそこのところが説かれています。ヒトラーその人がそう考えていたわけではないようだけども、ヘルベルト・バッケという人物やゲーリングなどが、まさに意図的に、占領地の人間を殺してそこにドイツ人を入植させるだとか、あるいは飢餓が広がった時に「ドイツ人よりも先に被占領地民がまず死ななければならない」として、特に(元々ヒトラーによる殲滅候補に挙がっていた)ユダヤ人の意図的な処刑、絶滅計画を推進させた……と。

 ユダヤ人に対する絶滅政策はつとに有名ですが、イデオロギー的に絶滅させようとしたのだと言われても良く理解できないところがありました。ですが、実際に飢餓が広がろうとする中で、焦りながら「特定の人々を絶滅させればその分食料が浮くではないか」と思って絶滅政策を実行する……というのは、なるほど確かに納得できないこともない……。

 日本やソ連についても、意図的ではなくある意味無関心により飢餓を、日本は特に兵士に、ソ連は特に農民に押しつけていたことが書かれています。日本は植民地にも意図的にではなくとも飢餓を、結果的には輸出していたとも。

 一方でアメリカは故意に恐ろしく豊富な食料をもって戦争を遂行しましたが、その理由は豊富な食料が保証されないような状況ではアメリカの若者達に、元々自分達に関わりの無かった戦争に行かせることができなかったということだ、というのはなるほどと思いました。



 ある時フリースクールの子に割といきなり「第二次世界大戦の時って、かなり食べ物が不足していたの?」と聞かれて「お、おう。そうだよ」という感じで答えたら、「それなら戦争するのも分かる」と言われたことがあります。

 「戦争反対!」という声が昔から今にかけてもかまびすしいものがありますが、別に戦争反対なのはいいのですが、あの人達は大日本帝国が戦争を起こしたり、ナチスドイツが戦争を起こした時のそれぞれの国の状況について、ある程度以上豊かで別に生活に困っているわけではないのに、戦争が好きで、侵略したかったから戦争を起こしたのだろうと考えているのではないか……? と思ったりもします(そうでもない?)。恐ろしい程の飢餓状態であるとして、だったら戦争をしていいのか、それでもやはり戦争はダメなのか(カルネアデスの板問題ですね)ということを議論するならもっと意味がある……とかになりませんかね。



 ともかくも、『戦争と飢餓』、超々々々々絶オススメです。かつて、戦争に興味のある人が必ず読むべきと個人的に思う本について、『戦争における「人殺し」の心理学』と『補給戦』を挙げたことがありましたが、いやいやいやいやいや、それらを遙かに超えて『戦争と飢餓』の方が必読書であろうと思うようになりました。

 問題は値段(定価4500円+税)ですが……。いや、それだけの価値はあります。ぜひ!

(今回、文がうまくかけずに意味がとりにくくなってると思います。スミマセン)



カブト会で『KOREA』リッジウェイシナリオ


 西宮でのウォーゲーム会であるカブト会があったので行ってみました(具合は良くはなかったのですが、適度な運動をした方がよいという指導をもらっているので痛み止めを飲みつつ運動がてら……)。


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 『Triumph and Tragedy』、『Ukraine'43(第二版)』、『幸村ズラストバトルズ』などがプレイされてました。

 私はOCS『KOREA』でまだセットアップしてみたことがないシナリオとして、「5.10 リッジウェイの戦い」をセットアップしてみました。

 和訳によると、

 中国軍がソウルを奪回した第三次攻勢を再現したキャンペーンゲームです。マシュー・リッジウェーが国連軍を立て直したことで、共産軍の攻撃は停止しました。


 とあったので、共産軍によるソウル奪回前から始まるのかなーと思ってセットアップしてたら、実際にはソウルを奪回した後になってまして(^_^;

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 シナリオ開始時期は1951年1月8日ターンからで、調べてみると史実では、

12/5 国連軍が平壌を放棄
12/24 アメリカ第8軍司令官ウォーカー中将が交通事故で死亡
12/25 国連軍が38度線を越えて南へ撤退
12/27? リッジウェイ将軍が後任として韓国に入る
1/4 ソウル全域が共産軍の支配下に入る
 その後ソウルから40kmほど南の辺りで補給や攻勢の限界に達して停止
1/25 リッジウェイによる組織的反撃開始

 つまり1/8というのはどうも、共産軍の進撃がストップした時期あたりらしく、セットアップの状況もまさにそのようになっています。第1ターンにどういうことができそうか、やるのがよさそうかをある程度考えてみたのですが、共産側としてはすでに攻勢限界点に達していることを前提として、現在地点を保持する/より良い防御地点までいっそ下がるためにどんな最善手がうてるかを考える局面であろうと思いました。

 シナリオの説明の原文を見ると、私ならこう訳したかなと思います。

 中国軍の第三次攻勢がソウルを奪取し、その後きしみをあげつつ停止したところからこのキャンペーンシナリオは始まります。リッジウェイ将軍が今や、韓国における国連軍の指揮を執ることになったのです。



 ただ、国連軍による攻勢にしても数ターン後に始まるのだと見込まれ、具合悪い中で運動メインで出てきたこともあり、セットアップ状況を俯瞰したところでそれ以上のプレイはやめておきました(^_^;

 他のテーブルのプレイの様子を見学させてもらったり、ぽんにゃんさんが覗きに来ておられたので色々談笑しまして、なかなか面白かったです。セットアップも含め、楽しく過ごせて良かったです。


 ↓シナリオ5.10の全体像が欲しい方向け。

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 アメリカ海兵隊を追い落とした後なのでしょうが、興南(フンナム)や元山(ウォンサン)に中国軍ユニットがかたまっているのが見えます。セットアップではアメリカ海兵隊(1個連隊が欠けている状態)は上陸用舟艇と共に海ボックスにあり、国連軍はやろうと思えば上陸作戦を行えるでしょう。史実でもそうだったらしいですが、共産側は仁川上陸作戦の後では国連軍側の戦線後方への上陸作戦に怯えざるを得ず、そのために後方の港湾などに多くの部隊が足止めされていたそうです。

 国連軍プレイヤーとしては、海兵隊を上陸させて戦線で戦わさずに、上陸用舟艇に乗せ続けておいた方が良いのかもしれませんねー。

 しかしセットアップではなぜか仁川(インチョン)ががら空きで、共産側はすぐにそこに部隊を置かねばならないよなと思いました(^_^;

Petre(ピーター)は2番目に読まれるべきナポレオン戦役本だそうです

 『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』に載っていたこととして、次に取り上げたいのはフランシス・ロレーン・ピーター(F.Loraine Petre)という著作家です。

 この「Petre」という名前は1806年戦役関係の資料を読んでいると脚注というか出典として良く出てきまして、その使用されている本は『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』(1907年出版)で、Internet Archive上で読めます。

https://archive.org/details/napoleonsconque00petrgoog

 英語版Wikipediaの彼の項によるとイギリスのピーター男爵という家系の傍流であるらしく、つまりPetreはピーターと発音するのですね(英和辞典でもそうなっていた……)。私は「ペトル」とでも発音するのかと勝手に思ってました(^_^;

 1806年戦役に関して色々資料を漁ってみたとりあえずの結果として、ピーターの『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』はかなり良さそうな著作っぽいとは思ってました。個人的に一番の価値は記述量が多いということで、また英語がMaudeの『The Jena Campaign 1806』(1909年出版)ほど絶望的に分かりにくくはないということも重要(^_^; またMaudeが戦争会議とイエナの戦いに重点がありそうなのに比べて、イエナ・アウエルシュタットの戦い以後のことも含めて様々なことを分量良く記述してそうな印象が。

 ただまあ、割と分量が多くて英語も易しいとは言えないのでぽんぽん読むとかはできず、貴重な本尊的資料として読もうと思ってました。

 そのピーターが、この『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』ではチャンドラーに次ぐ重要資料としての位置づけで語られている感じだったのです。

 とりあえず今まで読んだ範囲では3箇所にピーターのことが書かれていましたが、順番的に逆に引用した方が分かりやすそう(^_^;

 個々の戦役に関して詳細な経緯を知る上でのスタートポイントとなるのは常に、デヴィッド・チャンドラーである。だがチャンドラーはドイツやロシアの史料を調査しておらず、その史料性に限界があったことは承知しておかねばならない。チャンドラーを読んだ後、古典的著作家のうち必ず参照すべきなのはフランシス・ロレーン・ピーターだ。ピーターは1806年、1807年、1809年、1813年、1814年の戦役に関して別々に、詳細な著作を著した。これらの戦役に関して、良く知られていたアウステルリッツ(1805年)やワーテルロー(1815年)並みに詳しく調査するのが彼の願望であったと、ピーターは書いている。……これらの著作は詳細な分析と連合軍側に均等に紙幅が割り振られている点で非常に価値が高い。ピーターの最大の欠点は、簡潔な文体だ。確かにしばしば意味が取りにくいこともあるが、しかし出来事、決断、結果に関する確かな理解をもたらしてくれるであろう。
『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』P35,36


 フランシス・ロレーン・ピーターによって書かれた著作はチャンドラーに影響を与えたのみならず、現在でも読まれるべきものである。第一次世界大戦前のイギリス軍将校であったピーターは、中央ヨーロッパにおける5つの戦役に関する著作を別々に著した。

・Napoleon's Campaign in Poland, 1806–1807(1901)
・Napoleon's Conquest of Prussia, 1806(1907)
・Napoleon and the Archduke Charles(1909)
・Napoleon's Last Campaign in Germany, 1813(1912)
・Napoleon at Bay, 1814(1913)

 ピーターの文章はきびきびした簡単明瞭なもので時折やや分かりにくいが、彼は縦横にドイツ語史料にあたり、またヴィンセンヌにあるフランス軍国防史編纂部の史料も利用している。この編纂部史料の利用は、それ以前はフランス軍の史料部の将校か、あるいはこの編纂部の使用を許可された退役将校が、フランスで著作を発行する場合にのみ許可されていたものだったのである。その上に、ピーターは二次的な戦域に関しても触れている。彼は1805年、1812年、1815年戦役に関する著作を故意に著さなかったが、それらの戦役に関してはそれまででもすでに多くの本が出ていたし、わざわざ彼が書く必要もなかったからである。彼の意図は、英語圏の人々にあまり知られていない戦役に関する本を提供することであった。
『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』P27,28


 ↑この著作名や出版年は、前掲の英語版Wikipediaではなんか色々異なってます。なんで?

 実のところ、英語圏の人達にとってのナポレオン戦争の本というのはイギリスとフランスからの資料によるものがほとんどだった。フランシス・ロレーン・ピーターによるいくつかのナポレオン戦役に関する難解な著作のみが、この壁を打ち破るスタンダードであり続けた。ドイツ、オーストリア、ロシアの資料へのアクセスが可能になるように多くの歴史家達によって言語の壁が破壊され、ナポレオン戦争に関する広範な資料が再検討できるようになってきたのは、たかだかこの20年のことに過ぎない。
『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』P4



 「簡潔で、時に分かりにくい」と訳した部分は他の訳しかたもあるかもですが、たぶんそうだと……。個人的には分量が多いと思っていたんですが、あれは簡潔なんですね(^_^;

 R/Dさんらもピーターをある程度引用されてまして(「ナポレオン Petre」で検索すると色々引っかかります)、その中に一箇所、20世紀初頭の著作家として「まだ」良質な歴史家の一人であったと書かれているようにとれるエントリがありました。

関連Blog:先行研究
(場所は分かりにくいと思うので、Ctrl+Fで「Petre」で検索してもらえれば)



 ともかくも、読もうと思っていた本がある程度良質であると評価されているのを見て嬉しくなりました。

 ピーターの著作は(調べてないですが)Internet Archive上で全部読めたりするのではないでしょうか。読まれてネタとして一部なりとも訳してブログとかに挙げてくれる人が増えると嬉しいなぁ……(^_^;



チャンドラーの『ナポレオン戦争』はやはりすごかった

 「ナポレオニック雑文集」を印刷してみたりで紹介していました『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』ですが、重さが軽いので、寝る前に寝転びながら流し読みするのに最適です。入院中も寝転びながら何かを読みたい時に読んでました。

 

 内容的にはやはりナポレオン戦争に関する英文資料を紹介するもので、特にここ20年間の歴史家による視点の遷移や、それぞれの著作物の大まかな内容や評価が書かれている感じです。

 また途中(半分弱)まで目を通したところですが、チャンドラーに関する評価が興味深かったのでそれを書いてみようと思います。



 チャンドラーの『ナポレオン戦争』(『The Campaign of Napoleon』)は日本でも5巻本1冊1万円(+消費税)で販売されてますが、ナポレオン戦争本の基本資料として良く名前が出てくる本です。より詳しくは、『ナポレオン戦争』3~5巻買いましたをどうぞ。余談ながら、◆ナポレオン戦役というページの最初のQ&Aが「Q.『ナポレオン戦争』が高すぎる。A.あれでも出版社側は大赤字だ、漢なら買え。」というもので面白かったです(^_^;

 で、『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』のチャンドラー評ですが……。ナポレオン戦争全体を扱った書に関する第2章「Napoleonic Wars」の出だし(P25,26)。

 初めにデヴィッド・チャンドラーありき。ナポレオン戦争を知ろうとする者 - 過去、現在、未来において - は全員がそれをチャンドラーの記念碑的著作である『The Campaign of Napoleon:The Mind and Method of History's Greatest Soldier』から始めるべきである。1966年に出版された『The Campaign of Napoleon』は、ナポレオン戦争を軍事史における注目分野へと引き戻した。良く調べられた内容と卓越した文章による3000ページを越える印象的なこの一冊本はナポレオンの諸戦役を一躍ポピュラーなものとし、新しい世代のファンや研究者を生み出すことになった。この本はその後40年以上もスタンダードであり続けている。だが一方でチャンドラーは、その歴史が1796年から1815年にかけてのナポレオンが直接関わった戦役のみについて述べられるものであるのだということの端緒ともなった。実際『The Campaign of Napoleon』には、1809年1月にナポレオンが去った後のスペイン戦役に関する章は存在しないし、中央ヨーロッパやロシアでの戦役でナポレオンがいなかった戦域に関しては最低限のことしか触れられていない。反ナポレオン陣営に関するチャンドラーの記述は限られたものであり、また彼が参照したのはフランス語と英語の資料のみであった。これらの欠点はドイツ、オーストリア、ロシアでの諸戦役における彼の研究の説得力を弱めるものでは決してないが、彼の文章と研究がこの欠点を抱えているのも事実である。『The Campaign of Napoleon』の出版以来の45年で、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語の使用できる資料は爆発的に増加し、反ナポレオン陣営側の視点が大いに提供されるようになってきた。



 「初めにデヴィッド・チャンドラーありき。」という文(原文は現在形)は聖書の「初めに言葉ありき」を思い起こさせて面白かったです。

 英語版が一冊本だというのは、これでしょうか。



 ◆ナポレオン戦役では「古本で3000円もあれば買える」とありましたが、現状Amazonではそこまでではないですね……。

 「ナポレオン戦争を軍事史における注目分野へと引き戻した。」の「引き戻した」の件ですが、第一次世界大戦が起こるまでは、ナポレオン戦争が、今のウォーゲーム界における第二次世界大戦みたいな「超メジャー」な位置づけにあったらしいです(たしかR/Dさんがそういうことを書いておられたような記憶が)。ですのでここの文意は、第一次世界大戦以降はナポレオン戦争に関する注目度は落ちていたのだが、チャンドラーによってそれが再び復位したということなのでしょう。

 戦域の問題は、特に半島戦争全体に関してはチャンドラー後イギリスの歴史家から著作が結構出てきたらしいのですが、半島戦争には個人的に興味がない……(^_^;

 一方で私はナポレオン戦争におけるプロイセン軍に特に興味があるので、そこらへんの資料は充実していって欲しいですが、当たり前ですが私自身が英語しか読めない(なんとか読めるかどうかという水準)ので、ドイツ語資料とかでは……。

 ネット翻訳で独→英翻訳とかすればある程度は読めないことはないのは試したのですが、やはり分からなさは英語資料よりも増大しますし、英語資料さえすいすい読めるわけではないことを鑑みまして、私としては英語以外の資料には自分では手を出さず、ある程度手に入る範囲での英語資料に限って読んでいこうと思ってます。

 ナポレオン戦争関係の日本語の本がそんなに大量にあるわけではない現状では、英語資料がなんとか読めるだけでも非常にありがたいことですし、「英語資料の範囲でだと、こんなこと書かれてましたよ」ということをまとめてみたり紹介したりするのが自分の力量の範囲内かな、と思ったりしてます。研究の領域までやるのは全然無理だと(^_^;

英単語暗記用アプリBiscuit、いいです!

 左側の腎臓の尿路結石で、とりあえず入院・手術・退院しました……が、また右の腎臓の手術のために入院する見込みです(3~4週間先?)。

 入院ちょっと前になんですが、スマホのニュースアプリでiPhone用の単語帳アプリで良さげなのが紹介されていて、Androidでも同じようなのがないかなと思って探していてBiscuitというアプリを見つけました。

Biscuit (ビスケット)

 これかなり良いような気がします! 元々、スマホ上で英語版Wikipediaの記事とか、Kindleの洋書とかの英単語を「コピー」だけしたら単語帳にすぐ登録される、という機能が目当てでインストールしてみたんですが、すぐに全然それはどうでもよくなりました(^_^;

 むしろ良いのは、英単語だけ登録したら内臓辞書で勝手に対応訳が表示されるようになり、発音もしてくれる(オプションでダウンロードが必要)こと。それが一覧的に表示され、シェイクで表示順がランダム変更できる。単語をタップすると発音と同時に訳が表示され、4秒後に元に戻る。これがなんか気持ちいいのです(*^_^*)

 あと、例えば午前7時から午後10時までの間に30回(これらは設定できる)、スマホ上に登録単語からランダムで英単語を1個表示(同時に発音)してくれるようにできて、それで喚起されるので、「インストールして単語登録したけどその後アプリを開いてない」というようなことが起こらず学習できます。

 よくある単語帳アプリだと、英単語と和訳の両方を登録しなければならない、発音などもちろんない、登録単語が一覧的に見えるわけではない(これは個人的に一覧的なのは良いなぁと思っただけで、そうでない人も結構いるかもですが)、喚起機能なし、だと思うのでそこらへんかなりアドバンテージがあるような気がします。

 唯一残念なのは、英単語の手動登録の時に、予測変換で余計な文字が入ってしまうことがままあること。普段使っている辞書アプリであるHandy英辞郎(→「ナポレオニック雑文集」を印刷してみたりで紹介済み)では、英単語がコピーできないようなんですよね……。以前使っていたaDiceの英辞郎ならコピーできるんですが、単語レベルはやっぱ知りたい情報なんで……(>_<)

 Handy英辞郎でコピーできるようにバージョンアップされないかなぁ……。あるいは再度aDice英辞郎で検索してコピーするとかかなぁ……。や、Biscuitの予測変換機能を使用しないように設定できるようになるのを期待するのが一番かな(^_^;

 ※2016/12/6追記:なんかいつの間にかHandy英辞郎でコピーできるようになってました。機種変更して新たなスマホにHandy英辞郎をダウンロードした際も、最初はコピーできなかったのですが、翌日にはコピーできるようになってました。どういう仕様か分かりませんが(^_^;、しかし便利に使用できるのでありがたいことです。


 英単語暗記に関して、今まで何度も何度も何度も何度も何度も……何かに手を出しては三日坊主に終わるのを繰り返して来ましたが、このアプリが個人的にかなり良さそうなのと、あとやっぱ辞書なしである程度以上流し読みできるようになりたい欲求が強まっているので、なんとか続いて分かる単語数が増えればなぁと思います。

 前掲のエントリで紹介していた『Napoleonic Wars (Essential Bibliography)』という本を入院中に(なんとか)流し読みしていて、大変面白かったです。次にそこらへん書きます。

軍事理論家ビューロー(弟)

 ビューロー将軍について、まとめでも挙げていましたように、軍事理論家のビューローというのは、ビューロー将軍の弟になります。

 このビューロー弟について私が最初に認識したのは、『歴史群像』105号にある、連載企画「近代軍事学の道標」という連載の第5回で、このディートリッヒ・フォン・ビューローが取り上げられていた記事からでした(P160~165)。

 まずはその中からビューロー弟の人となりについての部分を引用してみますと……。

 アダム・ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー(Adam Heinrich Dietrich von Bulow:1757~1807)は、古くからプロイセン・ドイツに根を張る軍人貴族の家系に生まれた。……兄弟のなかにはナポレオン戦争で武勲を樹てた高級軍人もいる。
 ……
 傲慢で際限のない虚栄心に満ち、自分以外の人間は脳細胞を持っていないかの如き言動をせずには済ますことの出来なかったビューローは、いたるところで他人の憤激を買い、たとえ一抹であれ才能を評価してくれる人すらも傷つけ、不快にせずには済まさなかった。人々は、ビューローは狂気と紙一重の人格破綻者ではないかと疑った。才能を浪費した一生を送った人物というよりも、我が身に備わった才能で我が身をさいなまれた挙句、自滅した人物にビューローは見える。



 かなりすごい人物です(^_^; 直言せずにはいられなかった兄と似ている部分もある……のかなぁ。


 で、何を軍事理論として主張したのかですが、例えば『Who was who in the Napoleonic Wars』P49におけるここ。
(英文に分かりにくい部分があり、割と適当に訳してしまっていることをお断りしておきます(>_<) あと、全体を見れば後で触れる革新性の話も入っているでしょうけども、彼の人生の全体像としてもとりあえず)。

BULOW,Dietrich Heinrich,Freiherr von(1757-1807)
 ディートリッヒ・フォン・ビューローは兄のフリードリヒ・ヴィルヘルムに続いて1773年にプロイセン軍に入ったが、型にはまった軍務に飽き飽きして16年後に軍を辞めてヨーロッパとアメリカを旅行し、その後劇場経営やガラス輸出など様々な仕事をやったものの、一つも成功しなかった。最終的には細々とした著作活動から生計を得ることになり、『近代軍制の精神』(ハンブルク、1799)を出版、軍事史および軍事理論に多大な影響を与えた。この著作は戦略を予測可能な科学としてまとめるという試みであり、大きな成功は収めなかったものの、戦術理論においては散兵戦術や軽歩兵の重視などで知られるように彼はさらに革新的であった。名声が確立していたプロイセン軍の訓練に対する彼の批判は支配者層からの敵意を買い、ほとんど反逆的だと見なされた。彼は凶人として逮捕されたが正気であることが証明されてもコルベルクに監禁され、そこからロシア軍の管理下に移され、恐らく放置されて1807年リガにて獄中で亡くなった。



 『ドイツ参謀本部興亡史 上』でも次のように書かれています。

 こういう時に、フリードリッヒ大王没後のプロイセンはアンシャン・レジームのたそがれの中でまどろんでいた。確かにプロイセンの軍隊は己れを卓絶したものと思い込んでいた。伝統的な横隊戦術(これで3つの戦争に勝った!)、非現実の幾何学様式の世界、組織の成果、というものによって、兵術とは数学的に算定可能な学問である、との理論が導き出された。実はこの組織は、深く刻まれた階層秩序と確固不変の行動様式の上に打ち立てられたものだったのにである。

 プロイセンでこの「数学派」の代表的な提唱者としてあげられるのは、テンペルホーフ砲兵大佐(のちにこの家系からルーデンドルフの母親が出た)や、非常に幻想的な軍事理論家ディートリッヒ・ハインリッヒ・フォン・ビューロウ、そして兵站総監部付きのクリスティアン・フォン・マッセンバッハ少佐などである。ビューロウは放縦な生活がたたって免官となっていたが、数学的戦争体系に関する著作によって軍への復職をねらっていた ー 兵站総監部付きとして。
『ドイツ参謀本部興亡史 上』P25



 この、「戦略を予測可能な科学としてまとめる」とか「兵術とは数学的に算定可能な学問である」というのはどういうことかといいますと、同じ「数学派」として挙げられているマッセンバッハに関する次の部分がある程度分かりやすかったです。

 どこの軍隊でも夜になると、歩哨と騎馬哨戒でもって兵士の逃亡を防がねばならず、そのため野営地と行軍路は極めて入念に決められた。兵站総監部の任務とされた「布陣術」は、この世紀の初めにプロイセンにも紹介されていた「兵用数学」なる新しい学問を発展させることになった。これは合理的な計算によって、事前に政治の道具としての戦争の想像図を見積もることであった。マッセンバッハ大佐はプロイセンの参謀本部構想についての学説の冒頭に、良く統制のとれた軍隊の精密な前進運動をあげている。それは合戦で勝つことよりも、流血の損害なしに軍隊の機動的運動で敵を撃退することの方が才能として優れている、というのであった。
『ドイツ参謀本部興亡史 上』P21



 で、端的に言ってこういうことになるのでしょう。

 マッセンバッハの計画というのは起こり得るすべての事態を考えておくというものであり、そこには個々の将軍のリーダーシップを尊重するであるとか、その時々の状況を考慮するというようなことがほとんどなかった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P210



 ところが、前掲の「どこの軍隊でも夜になると、歩哨と騎馬哨戒でもって兵士の逃亡を防がねばならず」という件は、アメリカ独立戦争、フランス革命戦争で祖国愛に燃える兵士達が戦った場合、まったく違った様相を見せ始めました

 この件に関して非常に分かりやすかったのが、R/Dさんの「フランス革命戦争の背景>戦争の形態その1」にあった次の説明でした(元の文は有効な隊形について述べているのですが、ここでの文脈に沿う部分だけを引用してます)。

 ……兵隊の質もその理由になった。絶対王政の兵士たちとは、犯罪者だったり力ずくで軍隊に取られたりした人間たちから成り立っていた。志願して軍に入った連中の中にも、機会があれば脱走して別の軍に入り、契約金をせしめようと考えている者がいた。彼らを散開させ自由に行動させれば、多くの兵士がすぐに脱走すると思われていたのだ。国王の財産を守るためには隊形を維持して規律を保ち、部隊を集権的にコントロールする必要があった。……

 既に18世紀の中ごろには、より一層兵士を散開させる散兵戦術が登場していた。最初はオーストリア軍の軍政国境地帯の兵たちが使ったこのやり方は、やがて欧州の諸列強にもゆっくりと広がっていく。しかし、この散兵戦術が決定的な意味を持つようになってきたのはアメリカ独立戦争だった。まともな訓練を受けていないが戦意は高い民兵たちが好んだのが、自らの判断で動き、必要なら物影に隠れて相手を撃つ散兵戦術だった。そして、横隊戦術のプロフェッショナルであるイギリス軍がこの民兵たちに敗北したことが、欧州にも大きな影響を与えた。

 フランス革命戦争においても散兵戦術はしばしば採用された。祖国を守る熱意溢れた兵隊たちは、むりに隊形に縛り付けなくても脱走することはない。むしろ、彼らの積極性を戦場で活用した方がいいとの判断から、フランス軍は積極的に散兵戦術を採用するようになった。他国にも散開して戦う兵隊はいた。だが、フランス軍はどの列強よりも大規模な散兵を投入できた。君主の軍隊でなく国民の軍隊だったからこそ可能な戦法だった。




 で、この事を認識したビューローはその主張をがらっと変えたらしいのです。

 ……フランス軍の新式の戦闘法が散兵射撃であることを認識したビューロウは、従来の洗練された数学的兵術をがらくたであるとして、強く否定した。だが当分の間、最高軍事参議院にも最高副官の中にも、この「はいつくばり者の福音(プロイセンの将軍ホーエンローエ=インゲルフィンゲン公は散兵戦術のことを軽蔑してこう呼んだ)」を信奉するものはいなかった。
『ドイツ参謀本部興亡史 上』P28



 前掲の『歴史群像』105号にはこうあります。

 ……独立を達成したアメリカの地で、ビューローは新しい戦争のイメージと用兵の新しい可能性を掴んだ。それは「大衆戦争(Massenkrieg)」のイメージと、自由な人格に基づき各個人が自主的に戦うことによって拓かれる柔軟な用兵という新たな可能性であった。
 ……
 勿論、これからの戦争の本流として小戦争を考えるべきだと唱えたのはビューロー一人に限らない。グナイゼナウやクラウゼヴィッツ等、プロイセン陸軍の改革派将校たちは、ほぼ同意見であった。だが、ビューローは議論を展開する際の急進性において際立っていた。その論調は告発に等しかった。

 ……ビューローはフリードリッヒの用兵思想と国家支配の姿勢は同根だと考えていた。つまり、どちらも人間を個性ある存在として尊重しておらず、畜生よろしく怒鳴り、鞭打ち、隷従させることしか考えていないという思考だったのだ。自らが登用されないという私怨が混じっているためか、一般人の潜在的能力を引き出し、活用するのではなく、抑圧しようとしている(と彼が考える)身分制社会に対するビューローの攻撃は執拗で、憎悪が感じられる。



 ↑の引用部分よりも前にあった文ですが、こんな記述も。

 ナポレオン崇拝を公言し、プロイセン王国首脳部の無能と優柔不断に罵詈雑言を浴びせ、フランス革命に倣って国家を全面改造することを説いてやまないビューロー……



 『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』によると、こんな感じだったようです。

 ……フランス革命の信奉者たちと共通の……熱気溢れるメッセージ……をもっと専門的な言葉に代えて広く提唱したのが、プロイセン軍の刷新をはかるハインリヒ・デートリヒ・フォン・ビューローだった。彼の論旨は、実戦経験のある兵士ならすぐさま指摘出来そうなわざとらしさや誇張もあったが、軍隊内ではそれがかえって面白がられて、わずか十年足らずの間にプロイセンの民間、軍部両方の改革者たちの「合言葉」になって行くのである。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P80

 ハインリヒ・ビューローはプロイセン軍の退役大尉で、軍事、政治関係の著書も十数冊あり、軍事理論をわかりやすい言葉で説明した人である。……プロイセン軍の改革の必要性をだれよりも痛感していたのもビューローだが、その理由を筋道立てて説明せず、出世の道が開けなかったこともあって、ピラミッド型の軍隊組織を軽蔑し、感情的に毛嫌いしていたため、彼の著作も十分評価されずじまいだった。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P142



 また、急進的すぎた故の悲劇が……(『歴史群像』から)。

 だが、ビューローは急進的でありすぎた。彼が既存のプロイセン王国の軍隊を徹底的に排撃して、「独立独行の戦士(Einzelkämpfer)」からなる大衆軍の優位を説いた議論を「超理想主義者の御伽の国」と切り捨てる声もある。というのはビューローの議論の筋に忠実に従う限り、プロイセンからありとあらゆる封建的な残滓が拭い去られたときになって漸く彼の夢に見た軍隊が誕生するからだ。

 社会ないし国家のなかに存在する頸木が捨て去られない限り、高い軍隊的効果を発揮する軍隊 - 自由な個人からなる大衆軍は成立し得ないと主張するビューローは、実際にプロイセンの軍制改革を考えている人間たちにとって傍迷惑な存在であった。もしビューローの一味と見なされてしまえば、国王以下の支配階級から既存の社会秩序の転覆を目論む反逆分子との烙印を押されることにもなりかねず、そうなってしまうと一切の軍事改革はご破算になってしまうからだ。コルベルク要塞の指揮官として、待遇面などそれなりの配慮をしたことについて証言は残っているが、改革派将校たちが全体としてビューローの悲運に対して奇妙にも冷淡であったのは、ここに原因がある。



 同記事にはグナイゼナウに関して画像付きで囲み記事的に紹介文があり、その中ではこう書かれています。

 彼がバルト海に面するコルベルク要塞に派遣されたのは1806年末で、翌年7月までフランス軍から要塞を守りきった。当時収監されていたビューローの釈放に尽力したが果たせなかった。



 また、ビューローの最期に関してこのように。

 ……フランス軍がベルリンに迫ったとき、ビューローは国事犯としてコルベルク要塞に移送された。さらにコルベルク要塞をフランス軍が囲み、逃亡の恐れがあるとの理由から、クールラントでビューローは「韃靼人」と恐れていたロシア人の手に引き渡された。ビューローが獄死したのは、ロシア人看守の虐待の結果と伝えられている。




 この『歴史群像』の記事でまた興味深いのは、このビューロー弟の理想が実現したのは、モルトケによってだったという話でした。

 ビューローが夢見た「当初から秩序を織り込んだ無秩序」という用兵思想を実現したのは、モルトケの訓令戦術である。……モルトケの訓令戦術(Auftragstaktik)のバックボーンにあるのは、不必要に各級指揮官を拘束せず、可能な限り現地にいる指揮官に行動の自由を与え、自主性に任せるという思想である。



 ただこれは、『歴史群像』119号の「ドイツ統一戦争」の記事によると、普墺戦争が広く広がる外線作戦であり、当時の有線電信では野戦軍にまで命令を届かせるのは難しかったため、ある意味やむを得ずに大まかな目標を指示したらあとは現地軍に任せることにした……ということでもあったらしいですが(^_^;

 しかし第二次世界大戦におけるドイツ軍の優秀さについても、この自由と自主性(目標は指示されるが、どのようにしてその目標を達成するかは現地指揮官に任され、そのために平時から自主的にそれらを判断・実行する訓練がなされていた)の側面から説明されることがあり、私なんかはかなり「かっこいいなぁ……」と思ってたりしました。その淵源(のある程度の部分)がこのビューロー弟にあるとしたら、なかなか興味深いです。

ワーテルロー2015年祭の動画

 来週から一週間程度入院しなきゃいけないので、入院中に鑑賞できそうな動画を漁ってまして、その中でワーテルロー2015年祭(200周年記念)の動画で良さげなのを見つけました。





 他にも色々あったのですが、他のが1つの遠めの視点からずーっと撮影されてて散漫だったり、撮影者が喋っている声が入っていたりするのに比べて、上の2つはイメージビデオ的で視点が色々変わるし、撮影ポイントが近いし、音楽が入っていていい感じだな、と。

 じっくりとは見てなくてとりあえず早送りで見ただけですが、当時の女性や一般市民の格好をした人達が集団でいたり、特に女性はあちこちにいて、当時そういう感じだったのかなぁと興味深かったです。

 あと、横隊?で前進してくる部隊に対して時々銃をぶっ放しながら下がっていくバラバラの人達がいるんですが、あれが散兵戦術なのかしら……?

 ただ、人を傷つけるわけにはいかないのであくまで模擬戦闘的なものに留まっていて、それはやむを得ないかと。映画「ワーテルロー」でも、実際に人を斬ったり薙ぎ倒したりはしてないですし……(ポンソンビーが槍で刺されるとかを除けば)。


 銃に撃たれて当たった一部の兵士達が倒れていったり、大砲の砲弾が跳ねて兵士たちを薙ぎ倒すさまに関しては、↓の動画(映画の1シーン)が参考になるのかな?



 といっても、この戦いや映画に関して何も知らず、ニコニコ動画でこの動画をたまたま見つけていたに過ぎませんが……。


ビューロー将軍について、まとめ

 調子が悪い中で、ちょっと息抜き的に1806年戦役とはほとんど関係のないビューロー将軍に関して洋書を調べてましたら、結構面白くハマりました。

 ある程度色々な資料を参照したのですが、それぞれの資料で記述に特徴はありながらも矛盾する点はほとんどなかった(資料間で相互に矛盾していることはままあるのに)ので、各資料を並べるよりもまとめてしまった方がよさそうだと思い、そうしてみました。

 参照した資料は、以下になります。

『Who was Who at Waterloo』P55
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(ネット上)
『Who was who in the Napoleonic Wars』P49,50
『Dictionary of the Napoleonic Wars』P72
『Waterloo:Companion』P112
『コンサイス外国人名辞典』P718
『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』P62,99
Friedrich Wilhelm Freiherr von Bülow(英語版Wikipedia)


Friedrich Wilhelm Freiherr von Bulow


フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ビューロー、デンネヴィッツ伯爵
(1755-1816)

 1755年2月16日、アルトマルク地方のファルケンベルクにて名高い家柄であったビューロー家に生まれた。軍事理論家として知られるディートリッヒ・フォン・ビューローは彼の弟である。

 17歳の時に士官学校生となり、1768年にプロイセン軍の歩兵連隊に入隊、その後順調に少尉から少佐まで昇進する。1772年に将校となり、数学、歴史、地理学などの高度な教育を受けた。

 彼は1778年にバイエルン継承戦争で中尉として初めて戦闘に参加し、その後科学や芸術分野の習熟に没頭した(彼はあらゆる芸術や科学分野に大いに興味を持っていたのである)。ビューローは人生を通じて音楽に身を捧げたが、若きビューローのその優れた音楽家としての才能が、フルート演奏者でもあったプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に知られるようになった。そのようにして彼は1790年頃にベルリンで最も有名な宮廷サークルに入り、社交界で有名になった。しかし、彼はプロイセン軍の連隊付きの将校という本来の職務を辞めることはなかった。

 1792年にはルイ・フェルディナント公の軍事家庭教師に任命され、同時に大尉となった。1793-4年の戦役に従軍しマインツ攻囲戦で砦の一つを襲撃する指揮を行ったことでプール・ル・メリット勲章を受章し、少佐へと昇進。その後ビューローはソルダオ(現在のポーランドのジャウドボ)に駐屯することとなった。1802年にフォン・アウアー大佐の娘と結婚し、翌年ソルダオに駐屯したままで中佐に昇進。だが弟ディートリッヒの予測の付かない行動と不幸が、彼の人生にも暗転を与えた。弟の受けた苦難が彼自身にも苦痛や金銭的損失をもたらした(ガラスをアメリカ合衆国へ輸出するという投資の試みが不成功となった)だけでなく、彼の子どもが二人とも亡くなり、次に1806年には彼の妻が亡くなって彼は極度の打撃を受ける。さらには1806年戦役でナポレオン軍に向かう部隊から彼の連隊は外されてしまった落胆の中、プロイセン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いでたった一日で壊滅させられてしまったのである。

 だがこの軍事的大敗北が、彼を発奮させた。逃げ惑う兵達の間から抜け出て、ビューローはレストック将軍の下で1806~7年のポーランド戦役に従軍し、大佐としてフュージリア連隊を指揮し、ヴァルタースドルフ近郊の戦いでマスケット銃弾を腕に受けて負傷するも、その活躍が認められるようになった。最終的に彼はブリュッヒャーの部隊で旅団指揮官に任命されたのである。1808年に彼は18歳であった亡くなった妻の妹と結婚、少将となり、軍事理論の研究に打ち込んだ。すぐにビューローはプロイセンの軍事改革委員会の指導者の一人となり、フランスへの復讐に燃える軍の改善に努力。彼の強烈な愛国心はブリュッヒャーとの間にさえ衝突を引き起こし、彼は一時的に退役したものの、1811年に再び軍務に復帰した。彼は改革派と保守派/国王の間の立ち位置におり、シャルンホルストやグナイゼナウによる軍の近代化には協力していたが、個人的にはグナイゼナウを嫌っていた。1812~13年には東プロイセン臨時総督を務めた。

 1813年にプロイセンが第6次対仏同盟に参加することになる重要な数日の間、ビューローはその決定がなされるまで、麾下の部隊が取り返しの付かないような行動を取らないようにし続けた。1813年3月14日に中将に昇進し、ナポレオンがロシアから戻った後の1813年の解放戦争で彼はチャンスを得る。ビューローはこの戦役中に旅団指揮官としてツェーデニックにおける交戦で勝利し(2級鉄十字章を得る)、続けて初めて師団指揮官となり6月6日にベルリンの南南東70kmのルッカウにおける小規模な会戦で麾下のロシア・プロイセン連合軍でウディノ麾下のフランス軍を打ち破りベルリンを防衛した。夏には彼はスウェーデン皇太子となっていたベルナドットの指揮下に入った。

 さらに8月23日にはグロスベーレンの戦いで諸軍団の先頭に立ってレイニエ将軍を撃破したが、この勝利はほとんどが彼のリーダーシップによって勝ち取られたものであった(1級鉄十字章を得る)。すぐ後の9月6日にはネイ元帥をデンネヴィッツの戦いで大きく撃ち破り、これによってナポレオンが再度ベルリンに接近しようとするのを阻止した。このプロイセン軍が主力となって勝ち取られた大勝利でプロイセン国内は激しく熱狂し、ビューローはブリュッヒャーとほとんど並ぶほどの人気を獲得した。これらの成功により彼は自身のプール・ル・メリット勲章に「柏葉」を授与された。

 ビューローの軍団はナポレオンを最終的に打ち破ったライプツィヒの戦いでも顕著な働きを示し、次に彼はフランス軍をネーデルラントとベルギーから撃退するという任務を与えられた。ほぼ成功となる戦役の中で彼はホーフストラテンにおいて大きな勝利を勝ち取ったが、そこで彼はウェリントン卿の副司令官であったトーマス・グラハムによって大いに助けられた。

 1814年戦役ではビューローは北西方面からフランスに侵攻してブリュッヒャーと合流し、3月のランの戦いでブリュッヒャーが一歩も引かずナポレオンを撃退し大勝するのに彼の軍団が貢献した。ビューローは大将に昇進し、デンネヴィッツ伯爵の称号も得た。彼は1814年6月に連合軍の君主達がイギリスを訪問したのにも参加している。

 1814年から1815年の間の短い平和期間にビューローはケーニヒスベルクにてプロイセン軍の最高司令官を正式に務めた。だがすぐに1815年戦役のために戦場へと呼び出され、30,000名を越える第Ⅳ軍団を指揮。だがこの戦役では多くの将官がグナイゼナウより序列が上にならないようにするために外されていて、ビューローは唯一のグナイゼナウより序列が上の指揮官として1個軍団を指揮するも、グナイゼナウがビューローの機嫌を損ねないように命令を丁寧に書きすぎて意図が良く伝わらず、ビューロー軍団の行動が遅れリニーの戦いに間に合わなかった。しかしそれが後に幸いしてワーテルローの戦いにビューロー軍団を振り向けることができたのであった。

 ワーテルローの戦いにおいてナポレオンの右翼に駆けつけるという極めて重要な役割を果たし、プロイセン軍の中でも非常な貢献をなした指揮官となった。彼の軍団は、その先導部隊が午後4:30頃までボワ・ドゥ・パリ【パリの森】から出られなかったものの、軍団の全員が戦闘に参加した唯一のプロイセン軍団となった。その戦いはプランスノアを陥落させようとして激しく、長く続いた。到着した時、当初ロバウ将軍によって守備されていた脆弱なフランス軍右翼に対して彼らは投入された。プランスノアを巡る戦いは死に物狂いのものとなり、その多くが教会と狭い石畳の道の周辺で銃剣によって行われたのであった。ビューロー軍団の兵士達は最初ロバウ軍団、次に青年親衛隊、さらには老年親衛隊の2個大隊と戦った。プランスノアを巡る激戦は何度もその所有者が入れ替わった、ワーテルローの戦いの中でも最も激しく(その激しさにおいてウーグモンやラ・エイ・サントを上まわるものがあった)、長く続いた戦いであった。

 ワーテルローの戦いの後ビューローはフランス国内へ侵攻、パリでの戦勝パレードに参加した。その後ケーニヒスベルクのプロイセン軍最高司令官の地位に復帰したが、1ヵ月後の1816年2月25日にケーニヒスベルクにて彼は急逝した。王は彼の44年間の軍務と特にプランスノアにおける激闘での彼の指揮に敬意を表すため、軍の全将校に3日間喪章を付けることを命じた。彼を顕彰するために大理石像が1816年にベルリンに建立された。


 彼はまたいささか短気な将校であり、上司に対してさえもためらうことなく怒りをあらわにした。その軍歴を通して彼はどんな階級の者に対しても率直で歯に衣を着せないことで知られ、時に階級が遙かに上の将官とも論争が長引く結果になることがあった(ブリュッヒャーともそうなったことがあった)。だが彼は音楽を好む軍人として、芸術を保護するパトロン貴族でもあった。


 

 ある程度注意深く、時系列や階級などを矛盾が出ないように調整しましたが、そこらへんとか、あるいはそれ以外でも間違いが含まれてないということはないと思うので、盲信はしないで下さい(^_^;

 次回以降、軍事理論家である弟ディートリヒのことにも触れておいた方が良いかなと思います。

 あるいはブリュッヒャーに関する最新で分厚い伝記である『Blücher:Scourge of Napoleon』の索引を見るとビューローが出ているページがかなりあり、そこの記述を抜き出してみるのも面白いかと思っています。

ウォーゲームを広げたのはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世だった?

 先日、地下鉄玉出駅近くにある古本屋さんに入ったところ、『歴史群像』のバックナンバーが豊富にあって、しかも一冊216円! 早速、持ってない号を探して買って帰りました(バックナンバーをお探しなら、行ってみることをオススメします。(有)福永書店 住之江玉出店ってとこです)。

 すでに持っている号を3冊も買ってしまってましたが(^_^;、今も続いている佐藤俊之氏のナポレオン戦争とフランス革命戦争の連載の持ってない号を完全に埋めることができました。

 で、その中の119号の「ドイツ統一戦争」という記事を読んでいましたら……フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がウォーゲーム(の元祖たるクリークスシュピール)を広げたのだという記述があってびっくり!

 以前、偉大なるプロイセン陸軍参謀総長様だったとわ……!で、ミュフリンク将軍がクリークスシュピールを考案したという内容の引用をしてましたが、考案したのはライスヴィッツという親子で、ミュフリンクはそれを評価し推奨したということらしいです。

 以下、『歴史群像』119号P68、69から。

 プロイセンで近代的な兵棋を完成させる立役者となったのは、陸軍将校のライスヴィッツ父子であった。ライスヴィッツの「クリークスシュピール」では、二人の対戦者が敵対する軍隊の指揮官となり、色分けされた磁器製や金属製の隊標を、さまざまな地形を模した立体的な地図の上で、実際の移動速度に沿った距離だけ移動させ、敵味方の部隊が衝突したら統裁官がダイスを振って戦闘の勝敗を判定する。この時、戦力が大きい側は、勝利を得る確率が高くなるようにダイスの出目に修正が加えられる。

 1824年に、ライスヴィッツによる兵棋を使った演習の展示を見たミュフリンク参謀総長は、兵棋の高い教育効果を見抜き、参謀本部が編集に携わる『軍事週報』誌上で「兵棋は単なるお遊びではない。戦争を教える手段として有益である。小職は全軍に推奨する」と述べた(この時、モルトケは陸大の二年生であった)。

 ほどなくして、国王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世はすべての連隊に兵棋セットを揃えるよう命じ、第3軍団長のヴィルヘルム・フリードリヒ・ルートヴィヒ親王(注:のちの初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)も兵棋演習を行うようになった。やがて各地に兵棋クラブが設立され、大きな駐屯地のある都市では複数のクラブが互いに勝敗を競い合うまでになる。




 「Kriegsspiel」で画像検索するといくらか当時の様子っぽい画像が出てきます。

 第1回 ウォーゲーム前史というページも参考になります。この中には、1780年にブラウンシュヴァイク公に仕えたヘルヴィヒという人がチェスを大きく発展させたゲームを作った、とあります。ブラウンシュヴァイク公の名前も出てくるとは……。


 英語版WikipediaのKriegsspiel (wargame)だと、ライスヴィッツはそもそも国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のためにクリークスシュピールを作ったという説明になってましたが、その後名前は出てこないっぽい……。

 しかしまあ、ナポレオン戦争中いいところがないことで有名な?フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がウォーゲームを広げたのだということはなかなかに面白く、また重要なことではないかと思いました。

 ミュフリンク将軍もナポレオン戦争中はそれほどいいところはない(こともないけど……)ので、そこらへんも面白いです(^_^;


ブラウンシュヴァイク公(父)の息子達について

 以前(2016-01-03)、ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか?で注文したことを書いてました、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』が結構前に届きまして、少し中身を見ています。



 中身なんですが、元の本をスキャンしてそのままプリントして本にしたような感じでした。

 「そのままプリント」なんですが、解像度が若干低くて、時々元の文字が判別しにくいケースがあります(T_T)

 ただ、だいぶ前に買ってみた『Blucher and the Uprising of Prussia Against Napoleon, 1806-1815』のリプリント版?のように、「OCR(Optical Character Recognition:光学文字認識)した文字データを、べたーっと凝縮してプリントし、元のページ割も無視だし、OCRの文字認識率が低くて誤字が多い」のよりはマシだと思いました(^_^;



 で、注文した時には精査してなかったんですが、本を見ていると1901年出版らしいので、ネット上で全公開とかが充分あり得ます(^_^; 調べてみると……。Google Books上では公開されてないっぽいですが、Internet Archive上で全公開されてました。あちゃー(>_<)

https://archive.org/details/charleswilliamfe00fitziala

 ただまあ、このデータから印刷するとなるとまた手間も経費もかかります。特にこのデータは元の紙の茶色がかなり濃いので、その分のインク代はバカにならないような……。まあ印刷しないで読むという方法もあるのですが、やはり印刷された状態で斜め読みした上で、必要なところは精読というのが良いような気がするので、今回リプリント版を1000円ちょっとで買ったのは悪くなかったということで……(^_^;

 残念なのは、元データにしろ、索引がないことで、しかし本の広告らしきものが何十ページも巻末についています(^_^;


 で、眺めてみた印象なんですが、割と良さそうだと思いました。恐れていたのは1806年の辺りの分量がほんのちょっとしかなくて、私の興味のない時代の分量が多い……という可能性だったのですが、全体的に割とバランスのとれた配分になっており、むしろ1806年のくだりは全体の中でもちょっと多めのバランスになっている印象。また、アウエルシュタットの戦い当日の動きについて、ブラウンシュヴァイク公の幕僚の一人として参加していたボイエン(シャルンホルストの優秀な弟子のうちの筆頭とも言える人物で、ナポレオン戦争終結の頃にプロイセンの軍事大臣を務めた)の手記だとか、あるいはシャルンホルストの手記だとかも参照して書かれているようで、割と細かい動きが書かれているっぽいのです。

 またぜひ、読み込んでみたいと思うのですが、今回はとりあえず、たまたまこの本の中で見つけた、ブラウンシュヴァイク公(父)の息子達について。

 1806年戦役が10月あたりから始まる少し前の記述に、こうありました(P107)。

 この時にあたって、個人的な悲嘆が彼の心を暗くした。公爵の長男が【1806年】9月20日に子どものないまま亡くなったのである。次男には知的障害があった。三男は目が不自由【blind。自己抑制ができない人物、という解釈もありうるかも】であった。イギリスではキャロライン王妃に関するトラブルがあった【公爵の次女カロリーネが、嫁いでいたイギリス王太子ジョージ4世からスキャンダラスにいわれのない非難を受けていたことを指している】。公爵自身は71歳であり、いつ何時戦場で生命の危険にさらされるとも分からなかった。そのため、次男と三男の継承権を放棄させ、四男【後にカトル・ブラの戦いで戦死する黒公爵】とその血筋に継承権を譲渡させることが必要となった。だがこの四男と公爵との関係は幸福なものではなかった。なぜなら、王子は父親と軍事的なこと以外では、様々なことに対する考え方や物事に対する好悪の感情で一致するところがほとんどなかったからである。



 この内容は、かつて両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公のコメント上で紹介(^_^;していた、『キャロライン王妃事件』上の記述とは大変異なります……。

 再掲します(『キャロライン王妃事件』P37,8)。

 男子は4人いて、長男カール・ゲオルク・アウグストゥス(66年2月生まれ)は体力、知力ともにやや劣り、ジュネーヴの陸軍学校にしばらく入校したが、軍隊指揮官には適さなかった。彼は父と同じくナポレオン軍とアウエルシュタットで戦い(1806年10月)戦死した。戦いに敗れ重傷を負った父フェルディナント公は今後中立を守るとしてナポレオンに慈悲を請うたが、プロイセン軍とのかかわりを断つことを拒否したため和睦は成立しなかった。ブラウンシュヴァイクはフランス軍に占領されて解体され、ナポレオン配下の傀儡国家ウェストファリア王国に編入された。公爵も一ヶ月後に他界したが、愛人が付き添っていたという。弟のゲオルクはさらに無用の人物であり、テューターの監督のもと邸内で暮らしていた。次の弟アウグストゥスは軍人志向が強くハノーヴァーの軍隊に入ったが、短気を起こしその軍隊から除隊させられた。ただ一人まともだった末弟フリードリヒ・ヴィルヘルム(71年10月生まれ)は指揮官の資格を備えており、父の死後公爵を継いだ。だがこの弟も、1815年に復活したナポレオン軍の攻撃を受け、カトル・ブラの戦いで戦死した。小公国ブラウンシュヴァイクは破竹の勢いで東進するナポレオン軍に二回も蹂躙されたのである。フェルディナント公爵の子どもには、いま一人オーガスタとの結婚前の愛人が産んだ息子フォルステンブルクがいた。彼は優れた軍人となり父の配下で活躍したが、やはりナポレオン軍との戦いで戦死した。


 次男と四男に関する記述はそれほど異同はなさそうですが、長男の死因や三男についての記述がかなり異なっているような……。

 そこで、Wikipedia様にお伺いを立ててみましたところ……(^_^;

日本語版

 息子4人のうち、末息子で4男のフリードリヒ・ヴィルヘルムだけが身体的にも知的にもずば抜けて恵まれていて、1806年には父の後継者となった。

 長男カールは父の死の直前に亡くなり、次男のゲオルクと3男のアウグストは知的障害のために継承権を放棄していた。このため、ヴォルフェンビュッテルはフェルディナントの弟フリードリヒ・アウグストからエールス公領を相続していた末息子のフリードリヒ・ヴィルヘルムが継いだ。


英語版

 フェルディナントの長男で相続人であった、カール・ゲオルク・アウグスト(1766-1806)は、ウィレム5世(オラニエ公)とヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン【プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の妹】の娘であるオラニエ・ナッサウ家のフレデリカ・ルイーズ・ヴィルヘルミーネと1790年に結婚した。彼は彼の父の死の少し前、1806年9月20日に子どもがないままに亡くなった。

 彼の相続人となったフリードリヒ・ヴィルヘルム(1771-1815年6月16日)はナポレオンによるドイツ支配における最も苦々しい敵のうちの一人となり、1809年にはパルチザン部隊を率いて参戦、ワグラムの戦いの後にイギリスに逃れて1813年にはブラウンシュヴァイク公国に帰還し、新しく部隊を編成。カトル・ブラの戦いで戦死した。

 残りの2人の息子、ゲオルク・ヴィルヘルム・クリスティアン(1769-1811)とアウグスト(1770-1822)は資格剥奪を宣告され、継承権の血筋から除外された。両者とも結婚はしなかった。長女のアウグステ・カロリーネ・フリーデリケ(1764-1788)はヴュルテンベルク王フリードリヒ1世【その弟であるオイゲン・フォン・ヴュルテンベルクが、1806年戦役で後方のマグデブルクで部隊を指揮していた】と結婚。次女のカロリーネ(1768-1821)はいとこにあたるイギリスのジョージ4世と非常に不幸な結果となる結婚をした。



 ううーん、分かんないですが、『キャロライン王妃事件』の記述はそれほどには信用できないと判断した方がよいのかなぁ……。少なくとも長男の死因については、「アウエルシュタットで戦死」とはしない方が良さそうな気はします。アウエルシュタットの戦いは10月14日であり、9月20日とは差がありますし、また『キャロライン王妃事件』以外でブラウンシュヴァイク公の息子がアウエルシュタットで戦死したという記述を見たこともないので。


プロイセン軍のプゥール将軍について調べてみました

 プロイセン軍のプゥール将軍について調べてみました。

 プゥール(プフュールとかプフルとか、色んな書き方がされてます)将軍というのは、1806年のちょっと前(1803年?)からのプロイセン軍の3人の参謀の一人で、たとえば以下のように書かれています。

 ……三人もの人物が参謀長の責務を共同で担っていた。プフル将軍、シャルンホルスト将軍、そして「プロイセンの奇才」マッセンバッハ大佐である。彼らの考えはしばしば一致せず、自分たちの個人的な野望のためにお互いによく正面衝突した。
『ナポレオン戦争 第三巻』P32


 この新構想の下に編成された兵站幕僚部は、同じくマッセンバッハ・プランに従って三班に分けられた。東方班はヴィトラ川右岸を担当して班長はフォン・プゥール少将(von Phull)、南方班はマッセンバッハが班長で中央ドイツ、南ドイツ及びシュレージェンを担当した。そして第三班、つまり西方班が西ドイツを担当し、班長がシャルンホルストである。
『ドイツ参謀本部』P60、1



 偉大なるシャルンホルストについてまとめることなんてとてもできませんが、マッセンバッハに関しては「プロイセンに付きまとう悪魔」マッセンバッハで一応一度まとめました。で、プゥールについても気になっていたので調べようと思ったのですが……。

 しかし、彼について見つかる記述が少ない少ない(^_^;

 とりあえず、例えば、

 フォン・プゥール少将は改革の必要こそ認めてはいたものの、元来は知識をひけらかすのを好むタイプで、いつも機嫌の悪い人間だった。
『ドイツ参謀本部』P61


 とか、

 プロイセンにおける主戦派は、王妃ルイーゼを筆頭に、ルイ・フェルディナント、ホーエンローエ公、リュッヘル、ブリュッヒャー。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とその相談相手であった風見鶏のプゥールは躊躇中。ブラウンシュヴァイク公は和平派の筆頭で、それにカルクロイトとシャルンホルストも属していた。
『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』P4



 とかがありましたが、しかしその程度。そもそも実際に1806年戦役が始まってしまうと、彼の名前は全然出てこないのです。

 むしろ彼の名前が出てくるので目に入るのは、1812年のロシア戦役における、皇帝アレクサンドル1世の助言者としてでした。

 例えば……

 こうした机上の戦術家のなかで、もっともツァーリの信頼を得ていたのは、衆目の一致するところプロシャのプフュール将軍で、彼は、ジュリアス・シーザーとフリードリヒ大王の戦法から学んだというふれこみだったが、ロシアの政治軍事情勢にはまったく無知で、公には何の地位もなく、兵士たちの言葉を話すことさえできなかった。
『アレクサンドル一世』P261


 年功と能力に関するリストの最後を飾るのは、プロイセン士官のプフル将軍である。彼は不幸にもこの時期皇帝(ツァーリ)の特別な恩寵を受けておらず、臨時顧問の肩書きで従軍していた。名残惜しくもない1806年の戦闘におけるプロイセン参謀の一員として、彼の能力はとりわけ傑出したものではなかった。だがロシア軍の「陰の助言者(エミナンス・グリーズ)」として、その影響力は過分かつ分不相応なまでの重要性を備えており、1812年のロシア戦略が具現化される際に、このプロイセン人は大きな役割を果たしたのである。
『ナポレオン戦争 第四巻』P124


 確かにドリッサ駐屯地の大要塞化(プフルお気に入りの案である)は完了していたが、同地は戦略的な理由からまったく当てにならなかった。
『ナポレオン戦争 第四巻』P139



 ドリッサというのは一体どこかということなんですが、

Russia 1812 - The Road to Moscow

 の地図が分かりやすかったです。地図上で、ナポレオンやバルクライ・ド・トーリィが最初に北上した辺りにあります。


 ところがこれらの本にはこれ以上(多分)彼の名前が出てこないので、それでいったいどうなのか、どうなったのかということが分からないのですが、『ナポレオン一八一二年』にはかなり分かりやすい記述がありました。

 ……アレクサンドルは故意にナポレオンを広大なロシアの領土に引きずり込んで、本土から引き離すことによって彼を破滅に導こうとしているわけではなかった。西部地区をそう簡単に明け渡しては、皇帝(ツァーリ)の作戦は意気地がないと激しく抗議されるにきまっている。彼は出来るだけ西に拠点を置くことに決め、ドリッサの要塞を基地にしてドヴィナ河沿いの防衛線を12万の軍隊で固めさせた。
 だが、どんな要塞なら敵の機動作戦に対応出来るのか? 時代はもはや中世ではない。要塞を包囲する必要はなく、これを迂回して孤立させることだって可能だ。ドリッサ要塞を皇帝(ツァーリ)に提案したのはプロイセン人の軍事顧問プフール大佐だった。彼はこの防衛施設の建設に2000人を投じ、6ヵ月かかって完成させた。この要塞は離れ島が堅固という意味でなら確かに守りは堅かったが、島と違って果てしない陸に囲まれている。視察に来たベニグセン参謀総長は、馬鹿なものを造ったと思った。これでは敵を遮断するどころか逆に味方から遮断される。要塞の裏手にはドヴィナ河の支流、ドリッサ河が流れていた。これは防衛になるか、それとも撤退時の障壁になるか? ベニグセンは「選りにも選ってこれほど不利な地点に建設された要塞を見たことはないと愕然とした」と報告している。かりに戦略上ここを保持する必要があるにしても、「位置的に極めてやりにくい。」味方同士は支援しにくく、敵は茂みやくぼみに隠れながら接近出来る。砦の両翼には浅瀬もあった。フランス軍なら砦の背後に回ることも、これをまったく無視することも出来るであろう。当時ロシア軍に従軍していたクラウゼヴィッツもベニグセンに同意した。プフールは理論家に過ぎず、戦闘というものを書物でしか知らないばかりか、ロシアについての知識もなく、ロシア語すらしゃべれなかった。
 ドリッサ要塞の放棄、それに引き続くプフールの不面目は、ロシアの無策と、皇帝の総司令官としての不適正を露呈した。アレクサンドルは有能な軍人ではなかった。
『ナポレオン一八一二年』P58,9



 ここまで見てくると、プゥール将軍はかなりダメダメな人物に見えます(^_^; 尤も、ロシア語が喋れないということはそこまで問題なのだろうかという気がするのですが、どうなんでしょう……?(同じくロシア軍に参与していたクラウゼヴィッツとか、あるいはヨルク将軍とかってロシア語が出来たのでしょうか? ヨルクはブリュッヒャーと同様、ドイツ語を読み書きすることさえ問題があったらしいですが……)


 ところが、英語版Wikipediaを見て驚愕! そこにはプゥールがロシアの焦土戦術の提唱者(であるかもしれない)というようなことが……。

Karl Ludwig von Phull
 カール・ルードヴィヒ・フォン・プゥール(あるいはPfuel)(1757年11月6日~1826年4月25日)はプロイセン王国とロシア帝国に仕えたドイツ人の将軍。プゥールはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の参謀総長であった。ロシア軍に仕えた時には、ナポレオンのロシア侵攻に対して焦土戦術を首尾良く主導した。

 プゥールはブランデンブルクのPfuel家のヴュルテンブルク系統で、Ludwigsburgに生まれた。彼はシュヴァーベンの将軍であったCarl Ludwig Wilhelm August von Phull(1723-1793)とAuguste Wilhelmine von Keßlau (1734-1768)の息子である。

 プゥールの最初の結婚は1790年5月2日にポツダムで、Henriette Luise Charlotte von Beguelin (1763-1810)の間で行われたが、彼らは1800年に離婚した。彼らの間には一人の娘、Emilie Hernriette (1792-1864)が生まれていた。プゥールは1801年9月18日にCharlotte Poths (1766-1808)と再婚したが、この2回目の結婚も1803年に破局。プゥールとPothsの間には一人の息子、Eugen (1801-1857)が生まれた。プゥールは1810年10月4日にベルリンで、Sabine Henriette von Wedel (1773頃-1840)と3度目の結婚をしたが、この結婚も最終的には離婚に終わった。

 プゥールは1777年にプロイセン軍に入り、フリードリヒ2世の近くで仕え、1781年にプロイセンの幕僚の一員となった。第1次対仏同盟の1793年のライン戦役に参加し、1798年には大佐、1805年には少将へと昇進した。1804年以来、参謀事務次官【? the Departementschef of the General Staff】として、1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いの時にはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の参謀総長であった。

 第4次対仏同盟におけるプロイセンの破局の結果、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はプゥールをロシア皇帝アレクサンドル1世に仕えさせることにした。プゥールはこのロシア皇帝の信頼を勝ち取り、ロシア軍少将となり、アレクサンドルに軍事戦略を指導した。

 ナポレオン・ボナパルトのロシア侵攻に対してロシアが焦土戦略で挑むということに関して、プゥールがどう関与したかには議論がある。1812年9月14日にナポレオン・ボナパルトがモスクワを撤退した後、プゥールはロシア将校達からの突き上げによりスウェーデンを経由してイギリスへと逃げざるを得なかった。1813年12月12日のプゥールへのアレクサンドルからの手紙にはこうある。「神の導きによりて、ロシアのみならずヨーロッパ全体を救う結果になったかの計画を着想されたのは、あなたでした。」[注1:Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Bd. 26, Leipzig 1888 page 93]

 1813年にはハーグで、ネーデルラントのフレデリック王子【1806年のオラニエ公であったのちのオランダ王ウィレム1世の次男で、1815年にオラニエ公であったのちのウィレム2世の弟にあたる。母はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の妹であり、16歳の時にはライプツィヒの戦いにも参加。ワーテルローの戦いの時には18歳で約10,000名のネーデルラント軍部隊を指揮していたが、それを受け入れさせられたウェリントンの意図的にか、あるいは幸運でか、会戦から西に離れた警戒部隊の中におり、戦闘には参加しなかった。】を指導した。1814年のパリ陥落後、プゥールはハーグとブリュッセルにおけるロシア大使に任命された。彼の機知に富んだ3番目の妻であるSabine Henriette von Wedelはブリュッセルにおいて評判の高い家を作り上げた。妻が感情的に不安定になり、プゥールは1821年にシュトゥットガルトに引退し、そこで5年後に死去した。



 ううーん、焦土戦術の主導者、というこの説はどうなんでしょう……。「議論がある」とは書いてますが(^_^; アレクサンドル1世の手紙の内容が傍証ということなんでしょうけども、アレクサンドル1世はものすごく外面の良い人間であった(それでナポレオンもだまされた)らしいので、信用できるのかなぁという気が個人的にはしますが……。

 ただ、説としては面白いので、できるなら傍証をもっと知りたいですね。


 その後、プゥールの肖像画がないかなぁと思って画像検索していたら、肖像画と共に、かなり納得できる感じの記述のページを見つけました。

Weapons and Warfare History and Hardware of Warfare


Karl Ludwig August von Pfuel, (1757-1826)
 しばしば「プゥール」と呼ばれることもあるプフュールは、有名なヴュルテンブルクの貴族の家に生まれた。彼は1774年にヴュルテンブルク軍に入り、1779年にプロイセン軍へと移った。1781年初頭にプフュールはプロイセン幕僚の一員となり、対仏戦役に参加。1806年のプロイセン崩壊の後、彼は1807年1月8日にロシア軍に入り、少将の位を授けられた。
 1809年9月11日に中将へと昇進し、彼は1810~1811年にかけてロシア軍総司令部において、ドリッサ計画として知られる、フランス軍が侵攻してきた場合のロシア防衛のための戦略的計画を立案した。この計画は、第1西方軍が要塞化された野営地へと退却してそこにフランス軍を拘束し、その間に第2西方軍が敵の側面や後方へと攻撃を行うというものであった。この戦略の大きな欠陥にも関わらずプフュールを完全に信頼していた皇帝アレクサンドルは、多くのロシア軍上級将校達の反対をよそに、そのための要塞をドリッサに建設することを命じた。1812年の戦役が始まった時、アレクサンドルは自軍をドリッサに配置することの危険性を理解し、ミハイル・バルクライ・ド・トリー将軍にロシアのさらなる奥地へと撤退することを許可した。プフゥールはサンクトペテルブルクへと呼び戻され、1813-1814年戦役の間は、いかなる軍事的意思決定にも参加することはなかった。戦後、彼はオランダのロシア大使に任命され、そこで1821年に退官するまで務めた。彼は1826年4月25日に亡くなった。


 『The Russian Officer Corps in the Revolutionary and Napoleonic Wars, 1792-1815』という本を元に書かれたもののようですが、本の方も気になりますが、サイトの方がより気になりました(^_^; このサイトはなんかすごいサイトなんでしょうか……?





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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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