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ヘッセン=カッセル選帝侯ヴィルヘルム1世について

 1806年戦役に取りかかりたいのですが、個人的に気になってる外堀を埋めてから(^_^;

 まずはヘッセン=カッセルについてです。ヘッセン=カッセルは1806年戦役でプロイセン軍と共には(多分)戦わなかったものの、親プロイセンの立場から、ナポレオンの傀儡「連合国家」であったライン同盟加入への誘いは拒否したらしいです。


 ↓1806年当時の関係地図です。赤い太い線はライン同盟の範囲。1806年戦役はヴュルツブルク周辺の辺りからフランス軍がイエナ、ライプツィヒ、ベルリンの方向へと侵攻する形で行われました。

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 ヘッセン=カッセルについては以前、「兵士貿易」で有名なヘッセン=カッセル方伯でいくらか書きました。この時は「ヘッセン=カッセル方伯」の「ヴィルヘルム9世」と書いてましたが、1803年に「ヘッセン選帝侯国」の「ヴィルヘルム1世」と名前(称号)が変わっていたようです。ですので厳密には1806年当時は「ヘッセン=カッセル」とは呼ばないはずではありますが、慣習的にそう呼ばれていたらしくて1806年戦役の資料にもその名前で出てくるので、そういうことで(^_^;


 『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』を読んでいると、1806年戦役の開戦直前の辺りに以下のような記述がありました。

 ライン同盟の構成要素として利用できる可能性が残っていた諸邦のうち、最も重要な2つが、ザクセンとヘッセン=カッセルであった。後者については、ナポレオンが【ヘッセン=カッセル】選帝侯に対してその領土に近接している南の同盟【ライン同盟】に加入するように執拗に圧力をかけた。だが選帝侯は非常に頑固な親プロイセン主義者であったため、このフランス側の提案を謝絶し……
『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P11



 で、選帝侯ヴィルヘルム1世がなぜ「頑固な親プロイセン主義者」であったのかが個人的に非常に知りたいのですが、全然そこらへんの資料が見つけられず(^_^;


 のでまあそこらへんはとりあえず諦めまして、ヘッセン=カッセル自体、あるいはヴィルヘルム1世その人の他の面について。

 兵士貿易についてですが、Wikipedia上の「アメリカ独立戦争におけるドイツ」という項目にある程度詳しく載っていました。

 アメリカ独立戦争にイギリス側の兵士として行ったヘッセン=カッセルの兵士達は、アメリカで略奪などをしまくり、アメリカ植民地人の怒りをかき立ててそれ故に独立戦争がアメリカ側の勝利に導かれた側面があった……というようなことを歴史群像で読んだ(多分、67号の「アメリカ独立戦争 【戦史分析】最強大英帝国vs.不屈の市民軍」という記事だと思うのですが、今手元にないので確認できません(>_<))ような気がします。とすると、今アメリカ合衆国という国があるのも、当時のヘッセン=カッセル方伯であった、ヴィルヘルム1世の父親のフリードリヒ2世とヘッセン=カッセルの兵士達のおかげだということに……(おい)。


 ヴィルヘルム1世についてですが、前掲エントリで書いてました『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』から該当箇所を引用してみますと……。

Wilhelmihessenkassel


 ヴィルヘルム公の先祖は戦争で富を得た。自ら仕掛けたわけではなかったが武力を売ることで儲けたのだ。1618年以来、ヨーロッパや海外においてヘッセンの傭兵隊が巻き込まれなかった戦いはほとんどなかった。イギリス、プロシア、スウェーデン他、ヨーロッパ大陸の権力闘争に借り出された兵士一人一人が、ヘッセン=カッセル伯爵の金庫にお金をもたらした。兵士が一人殺される毎に、彼に特別見舞い金が支払われたからだ。こうやって死の取り引きで得られた利益は、王家のいくつかの政略結婚によってさらに増大し、代々の伯爵たちはカッセルを、北ヨーロッパで最も洗練された都市の一つに、公園や屋敷や画廊などのあるきらびやかな都市にすることができた。ヴィルヘルムスホーヘ宮殿は、より広く誇り高き国々を支配していた公たちにとっても羨望の的だった。それでも代々の伯爵たちは優れた実業家と同じで、収入をすっかり浪費してしまうようなことはしなかった。いくらかは投資に使った。残りは他の政府に結構な金利で貸し出された。ヘッセン=カッセル伯爵家ほど、商業組織を運営するように国を運営していった者はなかった。

 この事業の経営責任者の地位を継ぐことになっているのが - ロスチャイルドが力を入れて取り入ろうとした男 - この地位を占めるに見事に相応しい人物、ハナウ公ヴィルヘルムなのだ。マイヤー・アムシェル【ロスチャイルド家の創始者】より一歳年長になるが、精力的で意志が固く、無鉄砲で貪欲な男だった。成年するにつれ、あらゆることに情熱を注ぎ込んだ。売春であろうと(彼は70人以上もの私生児を作った)、伝統文化の研究であろうと、軍隊の教練であろうと(彼は兵士のボタンの磨き具合まで一人一人チェックする鬼教官で、下げ髪の長さを測るため特製の物差しを持ち歩いていた)、彼には同じことだった。古銭の蒐集も例外ではない。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P27,28


 戦争【フランス革命戦争のこと】のせいでヘッセン=カッセル家のヴィルヘルム9世は、以前にも増して銀行家を必要とするようになっていた。彼は連合軍のために未曾有のスケールで軍を集め、養っており、そのため現金を必要としていたのだ。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P40


 【1795年の】バーゼル条約後、ヘッセン=カッセルは戦争から退いたが、金融上の前線ではヴィルヘルム伯爵が一層の努力によって、早くもヨーロッパ随一の金貸しになっていた。フランクフルトの「ラート」【フランクフルト市当局のこと】からオーストリア皇帝にいたるまで、ほとんどあらゆる権威が、ヘッセン=カッセルからの借り物であるかのようだった。これらの取り引きはむろん、フランスからの報復を恐れて、公然と行うわけにはいかない。ヴィルヘルムは仲介者を使った。その中にロスチャイルド家があり、かくして彼らは莫大な量の事業を扱うこととなったのだ。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P46


 ヨーロッパの支配者となったナポレオンは今【1807年】、積年の恨みを晴らそうとしていた。ヘッセン=カッセル公(オーストリア皇帝が1803年に「選帝侯」の名誉を授けている)への彼の恨みは例を見ないほど激しかった。ヴィルヘルムが何年もの間、中立を装いながらナポレオンの敵を援助していたことを、ナポレオンはとうの昔に知っていた。総力を結集して復讐する時が、ついにやってきたのだ。皇帝ナポレオンは戦場指揮官モルティエ将軍に命令を下す -

「あらゆる財宝、食料を封じ込め、ラグランジュ将軍をこの国の総督に任命せよ。税金を上げ、判決は余の名をもって下すべし。完璧な成功を期するため、秘密厳守、迅速行動を肝に銘じること。余の目的はヘッセン=カッセル家を支配階級から除外し、権力の外へと追いやることである。」

 しかし「秘密厳守、迅速行動」は何もナポレオン側だけの専売特許ではない。ヴィルヘルムはすでに危険を察知していた。数週間というもの、彼の家来たちは何箱もの金塊を、台帳や札束や抵当証券と一緒に、輸送したり隠したりする、とてつもない仕事に没頭していたのである。その中には、もしも征服者の手に落ちたら最後、選帝侯の多角的事業経営がすっかり暴露されてしまうような抵当証文もあった。

 結果から言えば、公の努力は部分的にしか成功しなかった。このことは彼以外の誰の責任でもない。偏執的とも言えるほど狭量で猜疑心が強かった彼は、緊急事態においても代理人たちに全面的信頼を寄せることができなかったのである。銀の大半がカッセルで足止めをくう結果となった。川から海を経て荷をイギリスへと運ぶのに船を借りる際、船長の言い値に彼が同意できなかったためだった。このとき争議のもととなった額はわずか50ターレル。フランスの手に落ちた金塊は何百万ターレルだった。まさに、財宝を手元から離すのを渋るあまり、ほとんど身の自由を失うほどに高くついてしまったわけだ。彼の馬車は6人の従者を連れ、ある門を抜けてどうにかこうにか逃れた。その時もう一つの門にはナポレオン部隊が入りつつあった。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P62~64


 ヘッセン=カッセルの占領は、『ナポレオンの元帥たち フランス帝国の群雄伝』(オスプレイ・メンアットアムーズ・シリーズ)のP17によるとこうなっています。「1807年 【モルティエが】グラン・タルメ第8軍団を指揮し、ヘッセンおよびハノーファーを征服、ハンブルクおよびブレーメンを占領」

 また、50ターレルというのはいくらぐらいなのかという問題ですが、『ゲーテとその時代』のP98によると「当時の「中流」の市民の年収は二百~四百ターラーであった。職人や小学校教師はせいぜいが百ターラーである」とあるので、今の日本円にすると、1ターレルは2万円くらい……? とすると50ターレルは100万円、100万ターレルが200億円なので、「何百万ターレル」というとまあ、600億円から1500億円とかくらい?


 デンマークの町ゴットロープに亡命中の身で、残された財産を直接動かすこともできず、彼【ヴィルヘルム1世】は自暴自棄になるほど経済的困窮に陥っていた。……「我々は今はなはだ惨めな境遇におります。すぐにも金銭的援助をいただきたい。他に手の施しようがないのです。カッセルからは一文も得られないのですから。ああ、なんという変わりようか。」……プラハは亡命した選帝侯が1807年に居を定めたところだった。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P67,8


 1809年の春、ヴィルヘルム9世が彼ら【フランスのスパイ】に【ロスチャイルド家への疑惑を暴かせるような】その機会を、まさに皿に載せて差し出すようなことをしでかした。彼はヘッセン=カッセル内で起きた、準備もろくに整わないような反乱に財政援助したのだ。
『ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語』P71,2


 この反乱というのは恐らくデルンベルクの起こした反乱のことではないでしょうか(あるいはその前のカッテ大尉の試みである可能性も)。デルンベルクとその反乱については1809年のDörnbergをご参照下さい。


 親プロイセン的立場についてですが、最初の引用のところに「精力的で意思が固く」とあり、そもそもフランス革命戦争の頃からずーーーっと反フランス陣営を援助し続けていたようですから、1806年の時点でナポレオン側につくということはまあ、あり得ないような気がします(^_^;

 一方で、ある程度以上親プロイセンであった他の家系、たとえばブラウンシュヴァイク公だとかオラニエ公だとかは、プロイセン王家と婚姻関係で非常に強く結びついていました(しかし両家系はイギリス王家とも婚姻関係で非常に深く結びついていたので、プロイセンべったりという感じでもないですが)。ヴァイマール公とは?で書いていたザクセン・ヴァイマール公国のカール・アウグスト公の場合には、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(3世の父)と妻が姉妹同士(ヘッセン=ダルムシュタットの出)で(今回資料をひっくり返していて気付きました(^_^;)、つまり一応は義兄弟の関係?にあったわけで、1806年戦役の時にその息子の3世の側に立つのは当たり前だったでしょう。

 なので、ヴィルヘルム1世がプロイセン王家となんらかの婚姻関係にあるのか……ということを探したのですが、ぱっとは見つけられませんでした。うーむ。

 あと考えられるとしたら、当時少しずつ醸成されてきていた「ドイツ国民」という繋がりの意識の存在で、そこらへんからあくまでドイツ側を支援し、フランス側を敵とした……という可能性もあるかもですが、何の資料的裏付けもありません(^_^;

 まあとりあえずわかんないということですかねー(^_^;

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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