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第Ⅲ軍団直属騎兵の指揮官ヴィアランヌ

 前回、『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』のフランス軍指揮官の略歴が簡潔な記述に留まっていると書いてましたが、略歴の他にかなりの文章が付いていたのが、ダヴーの第Ⅲ軍団の直属騎兵の指揮官であったヴィアランヌの項。

※第3軍団騎兵(ヴィアランヌ)

 ヴィアランヌ将軍はマレンゴの戦いで勇気を称えられており、レジオン・ド・ヌール勲章を受け、男爵となった。1815年に病気になって休暇を出され、退役した。

 1806年11月10日の手紙で、ダヴーはヴィアランヌについて苦情を述べている。というのは、彼は10月13日と14日の夜に皇帝の命令を待つことをしなかったからである。他のすべての指揮官たちがすでに命令を受けて行軍中であったのに、彼はどこにも見付からなかった。その結果、騎兵が最初に到着せず(元帥直属の騎兵中隊を除いて)、戦場に現れたのはようやく午前9時から10時の間であった。ダヴーはまた、ヴィアランヌが略奪と馬の売買を助長しているとして非難していた。アウエルシュタット会戦の間、部下の騎兵たちが立派に戦ったのに比べて、彼の戦いぶりはあくまで並のものに留まっていた。

 これらの理由により、ヴィアランヌは竜騎兵へと配属替えとなり、スペインへ行くこととなった。

『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』P109




 『歴史群像』127号にはアウエルシュタットの戦いの記事が載っていて、その注にはこのように書かれています(P149)。

 第Ⅲ軍団の軍団直属騎兵はこの前日、指揮官自らが馬匹の調達に奔走し、部隊は散開したうえ疲労していて、ほとんど役に立たなかった。



 これだと、ヴィアランヌはあくまで馬匹が必要だから走り回っていたかのようですが、『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』にはヴィアランヌが馬を売買して利益を得るために馬を略奪して回っていたと書かれていました(^_^;

 ダヴーは解決しなければならない2つの問題を抱えていた。1つ目は、第Ⅲ軍団が川を渡ってすぐにコーゼンの間道へと登るために急峻な坂に直面することであった。そして2つ目は、軍団騎兵を成すヴィアランヌ将軍麾下の猟騎兵の大部分も、その指揮官も見付からなかったことである。後に明らかになったのは、ヴィアランヌ将軍は転売で利益を得るために馬を略奪しようと出かけていたのであり、その結果ぐっすりと眠ってしまっていたのであった。彼とその部下たちは14日の遅くになって現れたが、この出来事のためにその後しばらくしてヴィアランヌはダヴー軍団への配属を外されることになった。
『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』P69




 ダヴー軍団の戦いについては絶賛されることが多いですが、その中にはこういう指揮官もいたのだというのは、非常に面白いですね~。






 以下、2016年1月30日追記:

 と、3つの文献を挙げてみましたが、自分がこの件に関して記事を書くようになった場合、どうするのだろうかと考えますと……。

 私はとりあえずこれ以上の資料は見つけられなかったので、この3つからのみで個人的に推測するならば、3つ目の資料は一番面白い記述であるがゆえに信頼度については落ちるのではないかという気がしています(R/Dさんの言われる、史実はそれほど劇的ではないのに、劇的な記述が優秀なミームとして自己増殖していく、というやつです)。1つ目の資料が一番歯切れが悪く、信頼に値する気が……。

 『歴史群像』の記事は、参考文献に1つ目、3つ目の両方が挙げられており、その上でこの書き方になっているのは、同じように断言は避けた方が良いと考えたのかもしれません。ただ、両資料では全然触れられていない、「部隊は散開した」という記述があるので、両資料以外の資料からこの記述になった可能性もあるような気がします。
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ギュダン将軍について続報

 ダヴー元帥の「不滅の三人」で、ダヴー麾下のフリアン、ギュダン、モランの3人の師団長について書いてましたが、ギュダン将軍に関する記述をさらに見つけました。

 これ【ジュノー将軍の失態】とたいへん対照的な運命を辿ったと伝えられるのがギューダン将軍である。彼はヴァリューティナで致命傷を負った。両足をずたずたに引き裂かれ、スモレンスクのナポレオンのもとに運ばれたときにはほとんど死にかけていた。この要塞内で埋葬の時は全軍が彼の死を悼んだ。セギュールによれば、「彼はまさに温厚で有能、あっぱれな人物で、善良な人間は能力がなく、能力のある人間は道義心に欠けることが多い時代に、この二つを兼ね備えたまれな男だった」という。この遠征で初めて戦死した将軍でもあった。
『ナポレオン一八一二年』P82,3



 Wikipediaのシャルル・エチエンヌ・ギュダン・ド・ラ・サブロニエールによれば、ギュダンはブリエンヌ陸軍幼年学校時代からのナポレオンの知己であり、ナポレオンはギュダンの悼辞に「ギュダン将軍は我が軍において最も傑出した指揮官のひとりであり、その勇猛果敢さのみならず、徳の高さにおいて特筆すべきであった。」と書いたそうです(しかし、ナポレオンの言うこと書くことはあまり信用できない印象が……(^_^;)。


 で、このスモレンスク戦のあたりの記述をコランクールの『ナポレオン―ロシア大遠征軍潰走の記』やチャンドラーの『ナポレオン戦争 第四巻』で探してみたのですが、ギュダン将軍の死や人となりについては全然載っていませんでした(>_<)


 ただ、ちょっと『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』を眺めていると、両会戦に参加したフランス軍の指揮官について百数十人名前が挙げられてそれぞれに簡単な略歴が書かれており、その中でギュダン将軍についてはかなり褒められる言葉が入っていました。これは、他の指揮官達が本当に略歴だけで、例えばイエナの戦いで活躍したと言われるスーシェの項でさえも褒めるようなことがまったく書かれていないのに比べて、希有な状態でした。

 最も優秀な指揮官たちのうちの一人であったギュダン将軍は、他の指揮官たちが尻込みしたロシア軍の後衛への攻撃を恐れずに行い、ロシアのヴァリューティナで戦死した。シャルル・ギュダン・ド・ラ・サブロニエールはモンタルジ【パリの南120kmにある町】に生まれ、フランス王に仕えていた。レジオン・ドヌール最高勲章、ザクセン大勲章を受け、帝国伯爵となった。いくつかの戦いで大きく活躍し、アウエルシュタットでは特に主要な役割を果たした。
『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』P107



 ちなみに、モラン将軍の項には全然褒めるような記述はなし。フリアン将軍については、「Hero of Austerlitz」という記述のみが褒めている感じでした(しかしこれでも全体からすれば希有)。

 ……ところでこの本、フランス軍の指揮官についてはすごい載っているのですが、プロイセン軍に関しては同じ様なコンテンツはなし……(T_T)(まあ題名が「鷲の勝利」ともあるししょうがないかー)


OSG『1806』の訂正カウンターデータを作ってみました

 OSG『1806』にはカウンターへのエラッタが多数あると書いてました(→OSG『1806』のルールを初見で簡単にまとめてみました)が、訂正カウンター用の印刷データを作ってみました。

 Photoshop上で切り貼りして割と簡単にできました。

 ↓画像を保存して、印刷する時に解像度が「300PPI」になるように調整して印刷してもらえれば。ただ、1ユニット毎に切り離した後にさらに1mmくらいずつ四方を切った方が貼りやすかったです。

『1806』訂正カウンター


 ↓訂正カウンターを貼るべき場所です(画像上はすでに修正されたものになってますのでご注意)。

『1806』カウンターシート訂正場所


 Milhaud(ミロー)の騎馬哨兵についてですが、エラッタで「Milhaudの軽騎兵旅団は1つのみの連隊を持っていたので、1つのみの騎馬哨兵を持ちます。」とあって、「カウンター上には2つ騎馬哨兵があるのかな~?」と思ったら、どうも1つもないという(^_^;

 ので、ちょうどミローのユニットの二つ右にデータの書かれてない騎馬哨兵ユニットがあるので、そこに貼るように作ってみました(その真下には完全なブランクカウンターがあるのですが、印刷したものを少し小さくカットして貼る以上、四方が少し空くので、騎馬哨兵のところに貼った方が良いと思われます)。

 その際、他の騎馬哨兵に連隊名が書いてあるので、ミローの連隊名についても調べてみたところ、『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』(1993年初版)だと13Chasseursと1Hussardsがミロー麾下であったと書いてあって、「ええ~? どうしたら?」と思ったのですが、OSGの『1806 The Coming Storm』(2010年発行)で見てみると、13Chasseursのみがミロー麾下であったように書かれていました。戦闘序列に関しての知見が修正されてきたということでしょうか?


 具体的なエラッタの内容については、↓Ver1.10からのコピペをご覧下さい。一番最後のものは、2つ上の修正に関する説明だろうと思います。

• Bila—his strength numbers on the "R" counter are correct for full strength and vice-versa.
• Bogulsawski—subtract "one" from both his strength and initiative values on his reduced strength counter.
• Jerome—his reduced strength counter should have 5 SPs.
• Rudorff—Light troops (not cavalry)
• Grouchy—2(5)7 reduced values.
• Change Sahuguet’s Movement Allowance to 5.
• Milhaud’s light cavalry brigade has only one regiment and therefore only one vedette.
• Sahuguet’s dragoon division actually walked on foot behind the Guard. (They were nicknamed "l'épée de bois.")

小規模OCSの2ゲームの新版が発表!

 MustAttackを見ていたら、こかどさんがウォーゲーム武芸帳OCSの新作について書かれているのを発見しました。


 ↓トップページのみへリンクだと、のちのちどこにそのOCSの新作の記事があるのか分からなくなるでしょうから、一応その記事への直リンクも貼っておきます。

 『ビヨンド・ザ・ライン』のデザイナーズノート
 『チュニジア2』が発売予定です
 『シシリー2』も発売予定です


 新作と言っても過去に出版されたものの新版ですけども、それでも全然嬉しいもののように思います。

 『Tunisia』は私は持ってますけども、ユニットはかなり改訂されているようです。個人的に嬉しいのは、質にばらつきがもっとあったらしいということでフランス軍のアクションレーティングが下げられている(といっても、高いものもかなりある……)こと。というのは、「フランス軍強すぎぃ!」ということがかなりあるので(^_^;

 あと、イギリス軍の機甲師団のユニット数が(小規模部隊がまとめられて)削減されているのがいいですね。『Tunisia(1)』だと、イギリス軍機甲師団は十数個のユニットを持っていて、それが全部1SPで燃料供給されるので「おい~」と思ったりしたものです(^_^;

 元ページに行けば、ウォーゲーム武芸帳上に貼られているより広範囲のマップとユニットシートが見られます。マップはより見やすくなり(というか旧版は見にくい(^_^;)、ユニットシートは……公開されていないドイツ軍の色が、旧版と同じサンドイエローか、それともジャーマングレーになるかが最大の焦点ではないでしょうか……(サンドイエローのドイツ軍が、旧版見る人見る人に不評でしたので(^_^;)。

 OCSの入門用ゲームとしては『KOREA(新版)』(←なぜ『KOREA2』にしなかったのか……)が一番良いと思いますが、手持ちの中では2位は『Tunisia』だと思ってました。ユニット数が少なく、というかちょっと少なすぎるきらいがあり、しかしそれゆえに選択と決断がしびれるほど面白いです(ただしプレイが難しい)。ですので、『Tunisia』が新版として戦闘序列がさらなるリサーチのもと見直され、ルールも最新版に合わせられて出てくるのは非常に良い!

 ちなみに『Reluctant Enemies』ですが、考えてみると入門用ゲームとしてはかなり良いのかもです。ユニット密度はちょうど良いくらいであり、地形的に『KOREA』よりもさらに侵攻路が限られて戦力のスイングもしにくいので、悩む点が少なくなるでしょう。ただ、展開は割と固定化されているきらいがあって、細かい選択と決断は確かに面白いのですが、半島を横に横断する戦線全体を考える『KOREA』や、どこからどこまでが戦線かさえ定かでない『Tunisia』のように「しびれるほど面白い」とはいかないような気がする(^_^; まあただこれは個人的な感想ではあります。


 『Sicily』は持っておらず、やったこともなく、史実も良く知らないのですが、旧版がフルマップ2枚(ちょうど倍スケール)であったのがフルマップ1枚(1.5倍スケールとでもいうか、『Beyond the Rhine』と同じの1ヘクス3.5マイル)になり、しかも箱入りではなく冊子状態で発売されるので値段が安いそうです。

 カウンターシートは2枚だそうですが、うち1枚は汎用カウンターシートでしょうから、ユニットは実質シート1枚ということなんでしょう。元ページにカウンターシートが1枚分公開されてますが、連合軍と枢軸軍の両方が1枚に入っていて、量的にちょうどいい感じじゃないでしょうか……。『Reluctant Enemies』はカウンターシート1枚の中にユニットと汎用カウンターが収められてて、『KOREA』と『Tunisia』はそれぞれ、ユニットだけでシート2枚分ありましたから、『Sicily2』は確かに、その中間に位置する、非常に良好なユニット数のゲームとなります。しかも進撃路であるとか、上陸地点をどうするかなどを、まさに「選択と決断」できるゲームらしいです。

 上陸ルールや海軍ルールを使用しなければならないことが危惧されますが、上陸が終わった時点からゲームを始めることもできるそうです。もちろん、上陸ルールを使用すれば選択肢は飛躍的に広がってやばいほど面白いことになりそうです。

 確かにこれは、入門用として良いゲームなのかも……。


 『Beyond the Rhine』の場合は個人的に、戦役全体には興味があるがビッグゲーム過ぎる&各シナリオにはそれほど興味がないので、とりあえず購入は見送ったのですが、『Tunisia2』と『Sicily2』は購入したいですねー。

 もちろんOCSはビッグゲームであることが大いに魅力であると思うのですが、まだ日本(関西?)ではビッグゲームを成立させるだけのプレイヤーを揃えられないので、入門用ゲーム、それもしびれるほど面白い入門用ゲームが増えて、手に入りやすくなるのは喜ばしい限り(*^_^*) OCSは旧版を改訂して新版で出すことが多いシリーズゲームですが(っていうか『Ukraine'43』の新版が出たりとか、最近そういうのが流行?)、ルール改訂、戦闘序列改訂されて、手に入らなかったゲームが手に入る、というのは、非常に良いと思います。

 しかしこれで、いよいよ新版が出てなくて、出てもおかしくないのは『Hube's Pocket』だけになってきたのでは……? フルマップ1.5枚でユニットはたくさん使い、地形は平坦、というこのゲームは、入門用ゲームの次のステップアップ用にちょうどいいと思うので、ぜひ新版が出るのを期待したいです。

OSG『1806』のヒストリカルノートから、指揮官について

 OSG『1806』には割と多めの量のヒストリカルノートが付いていまして、(流し読み的な)和訳がしやすいように、スキャンして冊子状態にしてました。それで眺めていると、特にその中の普仏両方の指揮官について書かれた部分が面白かったので、試しにそこだけ全訳してみました。

 ヒストリカルノートなのに注も大量についていて、元文献と、あとページも書かれていることがあります。ページが書かれていないことも多々あるんですが、なんでだろう……。

 ゲーム上での能力値については、OSG『1806』のルールを初見で簡単にまとめてみましたをご参照下さい。

 最も有力な将軍達が、皇帝の意図を遂行するために任命され、6つの軍団を指揮した。ダヴー、スールト、ベルナドットは通常大きめの規模の軍団を指揮し、ネイ、ランヌ、オージュローは各2個師団ずつのより小さい軍団を委ねられた(注49:F.L.Petre,『Napoleon's Campaign in Poland, 1807』)。

 ミュラに指揮されていた偵察に従事する騎兵部隊はしばしば、不完全で人を惑わせる情報をもたらした。ベルナドットはいつも半独立的な位置において作戦行動を良くこなしていたが、アウエルシュタットの戦場に登場することには失敗した。しかしそのような状況においてなおアウエルシュタットで、恐らく元帥中最も有能であったダヴーは自らの優秀さを証明したのである。ダヴーは36歳にして頭は禿げ、やや猫背であり、極度の近眼であった。彼は特別製の戦闘用の眼鏡を頭の後ろ側に留めていた(注50:John R.Elting, 『The Wars of Napoleon』)。後衛においてはネイは優れていた。というのは最前部や派遣部隊にいた場合、彼は気が動転して命令にない不必要な危険を冒してしまうことがあったのである。ランヌは非常に優秀な指揮官であるともにナポレオンの親友であり、北翼で一軍を率いて真っ先にイエナに到着した。彼の機動打撃部隊はスーシェのベテラン師団によって強化されていた。スールトは好機を掴む判断力には欠けていたが、常に効果的な計画を立てた。オージュローは部下達の自信をかき立てることに長けていたが、忍耐力は不足気味であった。"ランヌのすぐ後についていくのに"彼が失敗したことは、"自発性のひどい欠如を示している"(注51:Petre、【ザールフェルトの戦いに際して】"ランヌのすぐ後についていかなかったことに関するオージュローの言い訳は、自発性のひどい欠如を示している"P102)。

 直属の部隊に対するものを除けばナポレオンは、後に来る報告によって変更を余儀なくされるかもしれない午後から晩にかけては命令を出さなかった。彼は真夜中頃に起き出し、彼に届けられた各軍団からの報告を元に、20ヘクス(騎馬で4時間の距離)以内の部隊が夜明けまでに移動を開始するのに間に合うように、少なくとも2時間以内に命令を発行した。

 ナポレオンの周りにいる彼直属の将校達は、すぐに原稿を書き、命令を急送することができた。戦役中に移動を繰り返したその一団の中には、以下の者達が含まれていた。献身的な参謀長であるベルティエ、宮廷大元帥デュロック、馬事総監コランクール、【陸軍大臣?】クラルクなどの上位の者達。副官として、ルマロワ、サヴァリ、ラップ、ベルトラン、ムートン。それから各軍団将校へと実際に騎乗して命令を届ける当直将校達。その日の宿泊地に着くと、皇帝のための建物と執務室が必要であった。その中のテーブルに地図が広げられ、部隊の場所にピンが突き刺された。その執務室のテーブルの角に、文書保管人と秘書達が座った(注52:Chandler, 『The Campaigns of Napoleon』)。

 ナポレオンの参謀長であったベルティエは多くの副官による直属将校と、当直将校を持っていた。その中にはBruyeres、de Girardin、de Montholon、de Noaillesなど、洗練された外観で知られる者達がいた。参謀長の補佐であったAndréossyは部下達に仕事を割り振った。ベルティエから文書を受け取ると、彼は3つの部門のうちの1つにそれを渡す。最初のものはHastrel将軍の管理下にあり、命令の発送と一般通信を受け持っていた。2つ目のものはPetiet将軍の管理下にあり、司令部の保守、憲兵、病院を受け持つ。3つ目のものは副官であるBoernerが管理する、捕虜管理と軍法会議である(注53:Henry Lachouque, 『Napoleon's Battles』)。また、地形図を管理するSanson、砲兵を担当するSongis、工兵を担当するChasseloupがいた。監督官であるVillemanzyと彼の将校達は、兵站、輸送、衣服、武器、病院に対応した。



 各指揮官についての評や、組織についての言及が興味深いです。

 ネイが後衛向きであったことは、何か他の文献でも見たことがあるような気がするのですが、どこで見たかがまったく思い出せないので引っ張ってくることができません(^_^;

 ランヌはイタリア戦役とか1809年戦役とかで言及されることが多いような気がしますが、1806年戦役でこそ、最初のザールフェルトの戦い、そしてイエナの戦いで大活躍しているようです。つまり1806年戦役の主役は、ランヌとダヴーという超絶人気の高い2人であった?

 当時ランヌ麾下の師団長であったスーシェ(後に元帥)は非常に優秀な人であったようで、知れば知るほどフランス軍はスーシェをもっと有効に活用できていればよかったのに……という気がしますねー。

 ↓参考

 ナポレオニック雑文集 スーシェ外伝
 ルイ=ガブリエル・スーシェ - Wikipedia
 将軍ランキング(byナポレオン) - 祖国は危機にあり 関連blog


 副官に挙げられているルマロワ、サヴァリ、ラップ、ベルトラン、ムートンですが、副官というと上司のそばで雑用をやっている感がありますけども、今まで私が彼らの名前が上がっていた場面を思い出しますにどうもむしろ「会戦時に必要な時に必要な場所に柔軟に派遣できる予備の優秀な将軍」というものであったような感じがします。『La Bataille d'Auerstædt』(COA)のヒストリカルノートには、ダヴーの副官がどのように使用されていたかが「ドヤァ」という感じで解説されているのですが(^_^;、そこでもそのような印象がありました。

 ナポレオンの元帥たちに関してはR/Dさんや乾野実歩さんらがかなり多く紹介されているのですが、副官クラスとなるとやはりそれらよりは少ない感がありますから、彼ら副官についても情報を集められれば面白そうですね。



 次に、プロイセン軍の指揮官について。こちらはちょくちょく切ります。

 最高司令官であるカール・ヴィルヘルム・フェルディナント・ブラウンシュヴァイク公爵は、七年戦争で名を上げて有名になった。彼は1792年のヴァルミーの戦いで陸軍元帥としてプロイセン軍を指揮し、また1793年にはピルマゼンスの戦いとカイザースラウテルンの戦いでフランス軍を打ち破った。フリードリヒ大王の甥である彼はしかし、用心深い軍人であった。彼はこの1806年の戦役を生き残ることはできず、彼の息子もまた1815年のカトル・ブラの戦いで命を落とすことになる(注54:Marshal-Cornwall,p.148n)。彼は宮廷生活で陰謀を巡らせるよりも音楽の方を好み、ヴァイオリン演奏に長けていた。彼は信念によってというよりも、軍事的な義務感から指揮を引き受けたのであった。というのは、フランス側のスパイの報告によれば、彼はフランスとの戦争に反対していたのである。71歳になったばかりのブラウンシュヴァイク公は依然活力的であったが、彼は最高司令官としての決断力に欠けており、しかも嫉妬深いホーエンローエは彼の指揮に従うことを拒んだ。シャルンホルストが彼の参謀長として任命されたのは、"恐らくは彼の主導権を強化するためであった(注55:Maude,p.63)。" すべての大きな決断は最高戦争会議に委ねられていた。王の軍事的、政治的側近の一団の存在は、ブラウンシュヴァイク公の司令部を単に混乱させ、優柔不断な状態にするのに寄与しただけだった(注56:John R.Elting, 『The Wars of Napoleon』)。



 これを読んでいるとブラウンシュヴァイク公は人格的にはいい人っぽいですが、注55の部分、『The Jena Campaign 1806』のP63を見てみると、以下のようにありました(この本の英語は私には大変読みにくく、誤訳の可能性も充分にあります)。

 この公国【ブラウンシュヴァイク公国】は実は来たるべき戦争において中立をとることを主張し、要求は快くプロイセンによって最初は受け入れられたのだが、フランス軍がその国境に近づいた時に彼らによってさっさと始末されてしまった【中立がとれなかったことを指している?】。ブラウンシュヴァイク公の戦争の経験はあまり運の良いものではなく、彼の評判に深刻な影響を与えるものではなかったのだが、しかし彼は深刻にそれを気にして神経質になっていた。だが彼は宮廷において自分を不可欠な存在であると思わせてきており、彼が誰かに取って代わられるという様な考えは全く不愉快なことだと考えていたのだった。恐らく彼の主導権を強化する為に、シャルンホルストが主計総監として彼の参謀に任命されていたが、この方法はプロイセン軍にとって決して良く受け入れられたわけではなかった。なぜなら、シャルンホルストはまだ少佐に過ぎず、ハノーファー人だったからである。1813年にバウツェンで受けた戦傷が元で彼が亡くなった時、プロイセン軍は彼の真価を理解したのだったが、それはいささか遅すぎた。



 この『The Jena Campaign 1806』の書くところでは、ブラウンシュヴァイク公は少なくとも主戦派ではなく、ブラウンシュヴァイク公国自体は中立でありたいと思っていたようです。実際、ブラウンシュヴァイク公国自体は1806年戦役に対して兵士を出していないようです(『ナポレオン大いに語る』P108:「そもそも数百人の兵力しかもたない者はじたばたせぬことだ。私【ナポレオン】の最大の敵ブラウンシュヴァイク大公すら、部隊をプロイセン軍に派遣しなかった。」)。ただし、長男はアウエルシュタットの戦いに参加して戦死したらしい(『キャロライン王妃事件』P37:「彼は父と同じくナポレオン軍とアウエルシュタットで戦い(1806年10月)戦死した。」)。

 しかし、性格的には評判を気にしていたり、宮廷で自分を不可欠な存在であると思わせていて誰かにとって代わられるのを不愉快だと思っていたり……と、だいぶ性格悪そうです(^_^; ただ、この本はホーエンローエ&マッセンバッハに関してこれでもかこれでもかと悪口雑言の限りを尽くしている感じがあり、もしかして基本的に人を罵倒していく本なのかも……そして、シャルンホルストに対しては持ち上げまくり? 悪者 vs. いい者という構図で最大限に描いていくという感じなのかもしれない……。

 また、一方で気になるのは、『The Jena Campaign 1806』ではそのような人となりで描いているのに、「主導権強化」の件では『The Jena Campaign 1806』を引用しながら、ブラウンシュヴァイク公をいい人ちっくに描く『1806』です。これはブラウンシュヴァイク公が悪い人であるという『The Jena Campaign 1806』の記述はウソであるが、主導権の件に関してはそうらしいと思ってそこを引用したということ……?


 さて、ヒストリカルノートの続きです。

 気まぐれなフリードリヒ・ルードヴィヒ・フォン・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン公はフリードリヒ大王に高く評価され、フランス共和国に対する戦いで非常に有名になった。彼は"いくらか軍事的な才能を持っていたものの、無分別でせっかちな決定をしがちで想像力に乏しかった(注57:Chandler,p.455【『ナポレオン戦争 第三巻』P32】)。"

 一方、プロイセン軍将校達の中にはシャルンホルスト、ミュフリンク、あるいは若きクライストなどのように、のちに解放戦争でプロイセン国家を解放することになるような者達もいた。カルクロイトは1793年のマインツ攻囲戦で名を上げ、1807年にはダンツィヒを頑強に防衛して尊敬された。シュメッタウは当時60歳で、"現場に戻ることを主張する退役戦士であった。……ブリュッヒャー(その一団のなかで最も有能な人物)にしても既に64歳だった(注58:Chandler,p.455【『ナポレオン戦争 第三巻』P32】)。" リュッヘルは62歳だった。大佐の平均年齢が50代半ばだったのである。

 "その将軍達の過ちはその多くが、彼らの軍隊が、フリードリヒ大王の時にあったような戦術的優位をフランス軍に対して持たないことに起因していた。軍事機構体制は機能しなくなっており、戦いにおける長所を失ってしまっていた。若く大胆なフランス軍指揮官達に対し、年を取って衰え、決断力のないプロイセン軍指揮官達は抵抗する能力を持たなかった。……ダヴーやランヌ、ミュラ、スールト、ネイらが36歳や37歳であったのに対して、60歳のホーエンローエや69歳のカルクロイト、70歳を越えるような将軍たちに、どうやって同じような疲れ知らずの活発さを期待できようか?(注59:Petre,p.167)"

 参謀長のプゥール将軍は彼の下に、3人の"主計副総監(Lieutenant Quartermasters-General:army chiefs of staff)"を持っていた。それぞれの主計副総監はその下に、2人の主計官と2人の主計副官、および小さな測量組織を持つ。このそれぞれの主計副総監の下の3つの組織が、3つの軍に割り当てられていた。ナポレオンの将校団にはこれに相当するようなものはなく、軍団のためのそのような組織も存在しない。プロイセン軍には一般幕僚の機能も、指揮系統の繋がりも、軍団の司令部も存在せず、師団という組織形態は新しいものであり、未経験のものであった。"プロイセン軍最高司令官の命令は14個の師団に別々に届けられなければならなかった一方で、ナポレオンの作戦命令書はわずか6つの軍団指揮官に届けられれば良かった(注60:Marshal-Cornwall,p.157)。" "それゆえにプロイセン軍総司令部から発行される命令書は異様なほど詳細なものにならざるを得ず……将軍達はしばしば、麾下の連隊指揮官達に自ら要点を説明する必要に迫られた(注61:Chandler,p.455 【『ナポレオン戦争 第三巻』P32:「これらの人々のもとで初歩的な指揮系統さえ存在していなかったのだ。軍団の司令部はなく、師団の参謀さえ充分に組織されていなかった。それゆえ総司令部から出される指令は信じがたいような細部にまでわたらなければならず、下級の司令官たちの側に遅延や誤解、混乱が起こる余地をたっぷり残したのであり、将軍たちはしばしば自分の連隊長に、じかに戦闘概況を説明し、指令を与えることが必要だと感じていた。そのような指揮下の軍隊は、見事に調整され冷酷なまでに能率的なナポレオンの戦争マシーンにほとんど比べるべくもなかった。」】。"



 この最後の段のところは非常に興味深かったです。

 ナポレオンの指揮に関しては、「元帥たちはナポレオンの指示を守るだけの存在であることを求められ、自発性は低下していった」というような書かれ方がされているのも良く見ますが、逆に現場での柔軟性に関してはかなり任されていたというのを読んだりすることもあります。しかし少なくともナポレオンは各軍団(軍団長)に対して命令書を発行したのであり、師団単位に命令書を発行したのではなかったでしょう。それに対してプロイセン軍の側は、総司令官が各師団に対して詳細な命令書を送っていたのですね。そういえば、フランス軍の側は「軍団」という表記を見ますけども、プロイセン軍の方はあまりそういう感じではないです。

 で、そこらへん非常に面白くて、各師団に詳細な命令書を書いて、それを運んでいくようなゲームというような感じであればそこらへんが良く再現されるのかも(そういうナポレオニックゲームとか南北戦争ゲームがあるようです。まったくやったことないですけど)とも思いましたが、かなりめんどくさいですね(^_^; そしてまた、このOSG『1806』はむしろ普仏両軍の指揮系統が同じような感じでルール化されているので、そこらへんどうなんだと思ったりもしましたが……(^_^;


 で、最後の部分。「プロイセンに付きまとう悪魔」と揶揄されたマッセンバッハについて。

 ホーエンローエの参謀長であった無能なマッセンバッハは、自分の職務だけでなくシャルンホルストの職務をも果たそうと努力しており、体制順応者達の中の独創的な人物であったシャルンホルストは、"軍の上司達全員から距離を取られていた(注62:Maude,p.95)。" ホーエンローエは体調を崩しており、彼の過敏な神経は大破局の衝撃に耐えられる状態にはなかった。彼は視野の広さが不足しており、あまりにもマッセンバッハに信頼を置き過ぎていた。そしてマッセンバッハはホーエンローエによってその不幸な影響力を拡大させ、それがプロイセンを破滅に追い込む大きな原因となったのである。



 「無能なマッセンバッハ」というのは言い過ぎではないかとも思うのですが……(^_^; 渡辺昇一さんの『ドイツ参謀本部』を読んだ印象から受けるマッセンバッハ像というのは、むしろ頭が良すぎると思われるくらい頭がいいという感じがします。しかしまあ、それは平時においてのことであって、実際に戦時になるとまったく役に立たないどころか恐ろしく有害であった、というのは確かにそうかもしれません……。

 「マッセンバッハがシャルンホルストの職務を果たそうとしていた」の件ですが、読み方によっては「いい人」っぽくも見えますが、恐らくここで言いたいのは、マッセンバッハがシャルンホルストの職務を奪い、シャルンホルストの存在の意味がなくなるように努力していた、ということではないかと思います。

ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか?

 先日、『Jena - Auerstaedt』をちらっと読んでみましたの中で、ブラウンシュヴァイク公は対仏平和維持派であったという引用をしていました。

 プロイセンにおける主戦派は、王妃ルイーゼを筆頭に、ルイ・フェルディナント、ホーエンローエ公、リュッヘル、ブリュッヒャー。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とその相談相手であった風見鶏のプゥールは躊躇中。ブラウンシュヴァイク公は非戦派の筆頭で、それにカルクロイトとシャルンホルストも属していた。
『Jena - Auerstaedt』P4



 他にも、OSG『1806』のヒストリカルノートにはこうありました(Prussian Commandersの項)。

 彼【ブラウンシュヴァイク公】は信念によってというよりも、軍事的な義務感から指揮を引き受けたのであった。というのは、フランス側のスパイの報告によれば、彼はフランスとの戦争に反対していたのである。




 ところが、他の本も見てみると、ブラウンシュヴァイク公は主戦派であったという記述が。

 愛国的な上級士官の一団が、ブラウンシュヴァイク公爵とホーエンローエ公爵に率いられ、美しく好戦的な王妃の周りにすぐに集まり、フリードリヒ・ヴィルヘルムと取り巻きの大臣たちに対して宣戦への圧力が徐々に強く加えられるようになってきた。
『ナポレオン戦争 第三巻』P28


 だが、それは王の美しく気の強い妻である王妃ルイーゼには全く受け入れがたいものだった。彼女は宮廷におけるいわゆる“主戦派”の筆頭であり、その一派の中にはフランス嫌いのカール・ハルデンベルクと2人の上級指揮官、年老いたカール・ヴィルヘルム・フェルディナント・ブラウンシュヴァイク公爵とフリードリヒ・ルードヴィヒ・フォン・ホーエンローエ公爵が含まれていた。
『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』P9


 【1806年の】6、7、8月の3ヵ月の間に、国王のところに、陸軍総司令官ブラウンシュヴァィク公、ルイ・フェルディナント公をはじめとする古参将校らから、ハウクヴィッツとロンバルトを罷免し、フランスに反旗をひるがえせという要求が何十通も突きつけられた。山のような手紙の束をかかえて、シャルンホルスト、プフゥールらの兵站幕僚クラスに加わったのはマッセンバッハ大佐である。彼もまた、軍部の改革ばかりでなく、君主制政治機構の抜本的変革を唱えた。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P178,9


 ↑この引用の後半によるとシャルンホルストとプゥール(プフゥール)とマッセンバッハも主戦派のように見える……かもしれませんが、『Who was who Napoleonic Wars』のマッセンバッハの項には、

 その名声から彼はホーエンローエの参謀長となったが、フランスとの戦争が始まった(彼はそれに反対していた)1806年戦役においてさらにいっそう有害な影響力を振るうことになった。


 とありますから、彼は単に「兵站幕僚クラス」というくくりであって、主戦派というわけではないでしょう。むしろ、シャルンホルストとマッセンバッハは「改革派」ということなのだと思われます。プゥールも……かなぁ。


 『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』のその後にはさらに、対仏戦が決定された後も国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と軍部との間でとんでもない衝突がずっと続いていたことが書かれていますが、これは「主戦派」対「平和維持派」の戦いというよりは、プロイセンの国制に対する「改革派」対「非改革派(国王)」との争いのことだと思われ(ちなみに、「平和維持派」の筆頭は平和大好きの国王その人らしく、1795年からの中立政策を主導したハウクヴィッツ伯爵も基本的には平和維持派でしたが、途中からやや開戦派に傾いていたものの、国王がそれを受け入れなかったという感があるようです。しかしハノーファー返還問題でさすがの国王も憤激し、開戦が決定された模様)。

 プロイセンの「改革派」に関して、(どうやら一部で日本のプロイセン史ファンからえらい受けているらしい)『プロイセンの歴史』には面白いことが書かれています(P142~3)。曰く、「プロイセンは1806年まで何の改革もせず、1806年の敗北で改革を始めたように思われている。しかしその見方はまったくの間違いで、プロイセンの改革の努力の試みはフランス革命(1789~99)の頃からすでに始まっていた。」と。






 タイムスケジュール的には、8月5日あるいは6日に「ナポレオンがハノーファーをイギリスに返還するつもりである(らしい)」という報告がベルリンに到着し、大荒れの会議を経て7日にはすでに秘密裏にプロイセンが対仏戦をおこなうことが決定され、10日に動員が開始。9月6日には、ザクセンがナポレオンの影響下のライン同盟に入らないようにするために、プロイセン軍(ホーエンローエの軍)が進駐することになります。

 ところが、

 軍隊動員の最中というのに、国王と軍部とのこうしたぎくしゃくした関係はいっこうに改善されなかった。王はいっさいの対応を拒否したばかりでなく、かんかんに怒って自分の権威を振りかざしたため、さらに過激な手段が【改革派によって】取られた。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P179



 というのは9月2日に、草書段階の上申書が充分な根回しなしに手違いで国王に手渡されてしまったのですが、

 覚え書の主旨そのものは特に目新しくはなかったが、この文書には国王の政策を非難する複数の署名者がいたことは注目に値する。国王に改革をせまる人たちが、堂々と名乗りをあげて、手を結んで行動に踏み切ったのである。

 ブラウンシュヴァィク公の支持状の添えられたこの覚え書には、国王の弟ヴィルヘルムとハインリヒ、義弟でのちのオランダ王になるオレンジ公、ルイ・フェルディナントと弟のアウグストの5人の親王の署名もあった。王室外では、シュタイン、ラーヘル将軍、プフゥール将軍らが署名した。クラウゼヴィッツら当時の人たちはシャルンホルストも署名したと思っていたらしいが、これはちがう。

 国王は態度を硬化した。いきりたった彼はこの覚え書を見て、「これは謀反だ」と叫んだ。署名者たちには王のことのほかの立腹ぶりが伝えられ、似たようなグループの活動はいっさい禁止された。……

 ……皇后【王妃ルイーゼのこと】は、「革命のお先棒をかついで夫をこれほど激怒させるようなことをよくもしてくれた」と憤慨したという。……

 9月6日の夜、ルイ【・フェルディナント公】は……今準備中の国王への新しい上申書にぜひ賛同してくれるようシェメタウ【アウエルシュタットの戦いで師団長として戦ったシュメッタウ将軍のことか】を説得した。国王の厳重な禁令が出ていたにもかかわらず、このような方策が着々ととられていたという事実ほどフリードリヒ・ヴィルヘルムの威信の衰退を如実に物語るものはない。

 ……9月中旬にはいよいよ戦争は避け難いことはだれの目にも明らかになった。過去数ヶ月の【平和維持】反対派の努力は無用だったわけだ。……だが、反対派の他の基本方針は中ぶらりんのままだった。主戦派は、国王顧問官らの罷免もし損ない、国王の統治法を改めさせることも出来なかったため、司令官たちはどっちつかずの気持のまま出陣した。ルイ・フェルディナント公と同じように、これでは早晩悲惨な結果は免れ得ないと感じていた者も少なからずいた。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P180~2



 この部分によると、オラニエ公やプゥールも改革派であり、一方で王妃ルイーゼはこの改革派の覚え書きによって国王が激怒してしまったことに関して、改革派に憤慨しています。長くなるので引用は避けましたが、シュタインが国王の激怒に対してさらに強烈な覚え書きを出そうとしたことに対し、ハルデンベルクとブリュッヒャーが「戦争状態の中で分裂状態を作り出すのはよくない」ということでそれを止めた、というような話も出てきます。


 つまり、「主戦派 vs 平和維持派」の他に「改革派 vs 非改革派」の戦いもあり、また王妃も王をあまりに怒らせるような動きには憤激したり、あるいはシュタインという人はもう破滅的に(その改革が実行可能かどうかを考えずに)突っ走る人であったらしいのですが、それを改革派の間でも止める人がいたり、シャルンホルストは(割と当時、諦めの感情が支配していたらしいという洞察がある)割と中途半端な位置にいたりとか、いろいろと複雑で、単純にカテゴリ分けすることなどできない?

 とは言っても、ブラウンシュヴァイク公は主戦派であったのか平和維持派であったのかは、中でも分析しにくく、資料間で相反し過ぎのような気はします。

 割とブラウンシュヴァイク公(父)には興味あって、これを機会に今Amazonで検索してみたところ、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』という本があるっぽいのですが、非常に謎い……。米Amazonでも書評が1つもない……。ただ、中身検索で見られたやつを見た感じでは悪くなさそうで、最安で1500円くらいで買えるので、1500円くらいならと注文してしまいました(^_^;




 それにしても、資料間で相反するのはもう、見るのは慣れっこですが、まとめていく(できうれば発表していく)においては非常に困った問題です。また今回の件のように、細かく見ていくと単純に割り切れなくて細かい相克が大量にあるというようなことに関しても……。

 まあ、捨象して書くということなんでしょうけどねー。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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