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1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯

 1806年戦役の開戦理由について調べていると、1805年戦役(ウルム・アウステルリッツ戦役)で、当時中立であったプロイセンの領土であるアンスバッハをベルナドット軍団が通過して、プロイセンが憤激したという話が出てきます。



CIMG2966.jpg

 ↑『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』MAP47より作成
   (灰色の囲みが、オーストリア軍の配置)


 ベルナドットのみならず、マルモンやダヴーも通過しているみたいですが……。

 なぜこのアンスバッハを通過したかというと、ウルムにいたオーストリア軍のマック将軍が過去の事例からフランス軍が中立であるプロイセン領アンスバッハを通過するとは思っておらず、その裏をかく形になるからだった……という話をR/Dさんが紹介しておられます。

 ウルム戦役
 黒い森と中立領


 これはこれで非常に興味深い話ですが、私としてはこの事件に関するプロイセン側(特にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世)の反応が気になるので、色々と他の資料も探していますと……。

 R/Dさんのエントリにもありますように、中立であったプロイセンのアンスバッハを軍事的に必要だからと侵犯することはかなりはばかられたようで、どの資料でもフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は激怒したとあります(もちろん、プロイセン国内の戦争派である王妃ルイーゼやブリュッヒャーも激怒しました)。ただ、「なぜナポレオンは中立領を侵犯させたか」や「プロイセンがそれにどう対応したか」については、諸資料で色々解釈の違いや異同がありました。

 例えば、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』(MAP47の解説)。

 10月3日、ベルナドットがプロイセンの飛び地領土であるアンスバッハの国境に達した時に、危機の可能性が生じた。その領土の中には南北に大きな街道が通っていた。ナポレオンはプロイセンが憤激するリスクを最初から承知の上で、そこを通っての行軍を命じた(オーストリア軍が1800年にやったように)。プロイセン政府は抗議したが、ベルナドット軍団の戦力の大きさのために何もできなかった。報復として、プロイセンは(10月6日に)ロシア軍にシュレジエンの通過を許可した。



 「(オーストリア軍が1800年にやったように)」というのは何を指しているのか分かりません……。ロシア軍に通過を許可したというのは、当時オーストリアやロシアは第3次対仏同盟を結んでフランス軍に対抗しようとしており、ロシア軍の一部は中立であったプロイセン領シュレジエンをやむを得ず侵犯か、あるいはせめて通過させて欲しいとしていたからです(と、これも解釈の一種ですが)。

 例えば、『アレクサンドル1世』にはこうあります。


 ロシアの2箇軍団が、西部国境に結集した。一方は、ミハイール・ゴレニーシチェク=クトゥーゾフ将軍率いる5万の兵で、オーストリア軍に合流する予定である。他方、ミヘリソン将軍率いる9万の兵は、必要とあればプロシャ攻略に進軍するはずである。……
 あの強情なプロシャ、麗しき王妃ルイーゼの祖国に、自国の軍隊を進めなければならないだろうという考えに胸を痛めながら、彼はペテルブルクを出発したブレストリトウスクに到着した。彼は、気に入りの副官ピョートル・ドルゴルーキーに、フリードリヒ=ヴィルヘルム3世に色よい返事をさせるため、あらゆる手段をつくすようにと言いふくめて、彼をベルリンに派遣した。もしプロシャ国王が、対仏同盟にはどうしても参加したくないというのなら、せめてロシア軍が領土を通過することを許可して欲しい。……
『アレクサンドル1世』P154,5


 ……ナポレオンが何の前ぶれもなく、南部ドイツに侵入したのである。怒り狂ったフリードリヒ=ヴィルヘルム3世は、即座に、ロシア軍がドイツの国境を越え、共通の敵に挑むことを承知した。アレクサンドルは、ほっと胸をなでおろす。フリードリヒ=ヴィルヘルム3世の招きを受けて、彼は、いかなる反撃に出るべきか検討するために、ベルリンに駆けつける。……彼に必要なのは、万一の場合、15万の軍隊を動かしてくれるプロシャとの同盟なのだ。10月25日、ベルリンでは彼のために華やかな歓迎の宴が催された。宝冠を飾って彼のまえに現れたルイーゼは、比類なき美しさだった。彼女の優しげなまなざしに見守られて、二人の君主は、フランスをけなすことに熱中した。1805年11月3日、ポツダムにおいて、両国のあいだに条約が調印された。それによれば、プロシャは、協力の条件は明示することなく、ただ同盟側につくことを約束し、勝利のあかつきにはハノーファーを獲得することになった。
『アレクサンドル1世』P156,7



 これらの解釈によれば、「アレクサンドル1世は心ならずも中立のプロイセン領を通過しなければならなくなることに心を痛めていたが、その前にナポレオンが【軍事的必要性のために】アンスバッハを通過してくれたため、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は対ナポレオンに傾いた」ということになります。つまり、「プロイセンに対する中立侵犯は、プロイセンを怒らせ、敵にしてしまう」という解釈です。


 ところが、それと真逆、「中立にこだわるプロイセンを自分の同盟に引き入れるために、プロイセンの中立領を侵犯しようとする」という解釈をとる資料もありました。

 その最も極端なものが、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』。

 ロシア、オーストリアとフランスとの間に新たに一戦ありそうな気配が募る中で、フランスはプロイセンを味方につけたがっていた。その見返りとしてナポレオンが差し出したハノーヴァーを、プロイセンは喉から手が出るほど欲しかったが、国王とハルデンベルク外傷はプロセインの中立政策の放棄は断った。1805年9月、戦争の火蓋は切られた。
 ところがその後間もなく、ロシア軍がプロイセンに進駐し、プロイセンと強引に同盟を結ぶ下工作をしていることがベルリンに伝えられた。ロシアとの衝突は避けられないと見たフランスは、10月初旬、スウェーデン軍ベルナドット麾下の一軍団をオーストリア軍のバヴァリア集結阻止のため急行させ、その折、プロイセン領内を通過させることによって、ベルリンに中立政策の再考をせまった。
 国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ロシア軍の進駐をひそかに許しておいて、プロイセン軍をハノーヴァーに進めた。名ばかりの駐屯部隊としてここに残っていたフランス軍は巧みに彼らとの衝突を避けた。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P170



 ただし、この本には大きな事実誤認も含まれています。「スウェーデン軍ベルナドット麾下の一軍団」という記述は相当おかしい(^_^; 1813年戦役においてならこの記述も正しい可能性がありますが、1805年においてはベルナドットはれっきとしたフランス軍の元帥の一人であり、かつスウェーデン軍はこの時第3次対仏同盟側にありました。また、「オーストリア軍のバヴァリア集結阻止のため」というのも、時系列的にはちょっと前のことであり、ベルナドット軍団のアンスバッハ通過の際にはすでにオーストリア軍はバイエルン(バヴァリア)への集結を終わらせていたような……?

 なんかこういう間違いがあると資料の信憑性が薄れてしまうのですが、他のネット上の資料にも、少なくともアレクサンドル1世がプロイセンを自陣営に引き入れるために軍事的圧力をかけていたと解釈するものがあります(Welcome to the Animated Map of Napoleon's 1805 Ulm to Austerlitz Campaign)。

 9月22日、ナポレオンはベルナドットに対してプロイセン領アンスバッハの横断を命じた(第Ⅰ軍団と第Ⅱ軍団は両方とも10月3日にアンスバッハに入った)。アンスバッハを横断することには軍事的にもっともな理由があった。というのは、そうしなければベルナドット軍団は位置を外れてしまうことになっていたであろうから。しかしこのことはプロイセンを第3次対仏同盟側に近づけるという政治的な痛手ともなり、多くの評者はこの決断を政治的に失敗だったと見なしている。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、あらゆる面での圧力を感じていた。ナポレオンは自らとの同盟にプロイセンを引き入れようとしてきたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はフランスに対してよりもロシアの方をより怖がっており、中立でいたかったのである。皇帝アレクサンドル1世は、フリードリヒ・ヴィルヘルムを対仏同盟に加わらせるのを強要するためにロシア軍をプロイセン国境に置くようにしていた。だが、ナポレオンによるプロイセン領の侵犯という決断は、彼がそうしなかった場合よりもフリードリヒ・ヴィルヘルム3世を、第3次対仏同盟の方へと追いやってしまったと思われる。(Kagan,324-7,535-47)



 Kaganというのは、↓だと思われます。




 一方、『補給戦』で有名なクレフェルトは、ウルム戦役におけるフランス軍の各軍団は補給のために距離をとって進軍しなければならなかったことを示唆しています。クレフェルトによると、ベルナドットがアンスバッハを侵犯したのは「混雑を避けるため」だったとなります(^_^;

 一方ナポレオン自身はストラスブルクに着くと、軍の兵站担当将校を譴責し……前進と補給の細目に没頭した。……各軍団はナポレオンのいつものやり方に従って、別々のルートを進むことになった。マルモンとベルナドットも進軍命令を受け、ベルナドットは混雑を避けるため、中立地帯であるプロシャ領アンスバッハで渡河を命じられた。だがベルナドットは、初め35日間の通行期間を認めていたプロシャが急にその許可を撤回し、そのためにまだハノーバーに立往生したままの大行李隊との連絡が絶たれた時、困難に陥った。
『補給戦』P92

 不平が来たのは最左翼の2軍団からだけだったが、その原因は恐らく、ヴュルツブルクでビスケットを焼くべしとのナポレオンの命令が、ごく一部しか守られなかったことから発生した。と同時に、プロシャ軍が、その領土内を通るベルナドット隊に対し物を売るのをすべて拒否したからだった。
『補給戦』P96



 『補給戦』によると、「初め35日間の通行期間を認めていた」とありますが、これは何を意味しているのか……。

 このアンスバッハの中立侵犯に関してある程度以上詳しい洋書を探し出せば分かるのかもしれませんが、1806年戦役についてまとめようとしている時にこういうことばかりしているのは賢明とは言えないですよね(^_^;

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『Jena - Auerstaedt』をちらっと読んでみました

 以前、続・ナポレオニック本関連(ワーテルロー、アウエルシュタット)で書いてました、『Jena - Auerstaedt: The Triumph of the Eagle』ですが、でっかいフルカラー本で、軍装、旗、イラスト、地図は多めだったのですが、ページ数が120ページと、値段から想像していたのに比べると1/3くらいしかなく(^_^;




 個人的には文字数が多い本が好きなのでけっこうがっかりしたのですが、しかし地図情報など、ものすごく詳しいので、値段分は取り返していきたいものです。

 で、文の方は読み始めてもいなかったのですが、ちょっと読み始めてみました。が、その前に、出版社がパリにある「Histoire & Collections」とかいう会社らしく、検索してみるとフランス語本の他(上?)に英語本も結構出していることが分かりました。

 ↓そのリスト。
 Livres en anglais

 見ていると、ある程度興味を惹かれる本もありますが……とりあえず、『Jena - Auerstaedt: The Triumph of the Eagle』がここのリストにないのはどういうわけなのか(^_^;

 試しに、『Leipzig』という本のAmazon評を見てみると、「ハイライトを理解するにはいいね」とか基本的に好評である一方で、「ページ数少なすぎ!」という悪評もあります。





 リストの中には、先日本屋で見つけて「欲しいなぁ」とは思ったものの、手を出さないでおいた『フォト・ドキュメント女性狙撃手: ソ連最強のスナイパーたち』の元になった本もありました。




 個人的に最も興味を惹かれたのは、『DICTIONNARY OF THE CUIRASSIER OFFICERS, 1804-1815』というどマイナーなテーマを扱った本ですが、これまた値段高い! しかし評者は全員が★5を付けてますね。




 さてさて、『Jena - Auerstaedt: The Triumph of the Eagle』の文の方ですが、先頭から読み始めてみると、内容的には一応すでに読んだことがあることかもだけど、インパクトを持って分かりやすく書かれているのではと思える良い文があるような気がしました。曰く(以下、直訳でなく簡約にしてます。原本P3~4)、

「ナポレオンは1回の決戦が10月16日に起こるだろうと予測していた【実際にはイエナ・アウエルシュタットの会戦は14日に起こりました】。しかしプロイセン軍はこっそり立ち去ってしまっており、彼が見つけたのは【主力軍の退却の側面を援護するために残っていた】ホーエンローエ軍だけだった。」

「イエナでは、最初にいたフランス軍は4個師団だけだった。……しかし最終的に5個師団が新たに到着し、勝利を得たのだった。」

「プロイセンにおける主戦派は、王妃ルイーゼを筆頭に、ルイ・フェルディナント、ホーエンローエ公、リュッヘル、ブリュッヒャー。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とその相談相手であった風見鶏のプゥールは躊躇中。ブラウンシュヴァイク公は和平派の筆頭で、それにカルクロイトとシャルンホルストも属していた。」


 実は、文の量が多くて詳しくて良いということで言えばネット上で全てが読める『Napoleon's Conquest of Prussia-1806』がかなり良いなぁということが分かってきたのですが、いかんせん英文がちょっと読みにくい……(『The Jena campaign, 1806』ほどではないにしろ。この本はもう、半分地獄のように読みにくいっす)。

 それに比べると『Jena - Auerstaedt: The Triumph of the Eagle』は相当読みやすいし、面白いです。『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』もまあまあなので、現在体調がやや不良なので、そういう時にはここらへんを流し読みするのが良いなと思いました(流し読みできる能力があるとか、流し読みできるほどに優しい英文だという意味ではなくて、精読とは反対の意味の、時々分からない文があってもまああまり気にしないで読み飛ばして、分かるところだけ読んでいくという意味合いで)。




 ただし、そういう流し読みをやっていると、どこに何の情報があったかがごちゃごちゃになって忘れがちなので、積極的にブログに書いていってしまうのが吉かもしれない……。

OSG『1806』のルールを初見で簡単にまとめてみました

 GJ友の会に行ってきました。今回はルールを理解できていない『1806』(OSG:未切断)を持っていって、ルールを理解しようとしてみました。ゲーム会の会場でなぜそういうことをやるのかというと、家では他に誘惑も多くてそういう作業が出来ないので……(^_^; 前回カセリーヌ峠シナリオをやった後、熱が再燃しまして家ではOCS『Tunisia』のマレトの戦いシナリオのセットアップを完了させてみたので、家ではとりあえずそちらをやろうかと(腕が痛くてネトゲができない時とかに……(^_^;)。

 ↓『1806』に関する参考エントリ(このブログ内のもの)
 オランダ王ウィレム1世(オラニエ公)
 アウエルシュタットのゲームの縮尺を比較してみた

 『1806』のルールは、NAWシステムが基本だとは言われているものの、結構な量がありました。いっぺんに理解するのは無理っぽいので、まず大まかに理解した上で、だんだんと細かく理解していこうと思います。そのため、まずは大まかなルールをまとめる作業をして、挙げておこうと思います(下記にはまだ全然理解間違いが含まれている可能性がありますので、盲信はしないで下さい(^_^;)。ルールはどなたが訳されたVersion 1.06の和訳版(うちには印刷したやつがあったのみで、現在データがネットのどこにあるかないか、不明……)を参考にしましたが、ネット上にはVersion 1.10(英文)も存在しています。

■フルマップ2枚。カウンター280個。1ヘクスは1770m。1ターンは6時間(1日が朝、昼、夕、晩に分かれている)。ターントラックには10月7日~10月18日が印刷されている(史実では最初の衝突であるザールフェルトの戦いが10月10日、イエナ・アウエルシュタットの戦いが10月14日であった)。1戦力はフランス軍歩兵は650~825名、その他はほぼ1000名。

■シナリオは9つ。ザールフェルト、アウエルシュタット、イエナ、イエナ・アウエルシュタットの各会戦を扱うシナリオがおのおの3ターン。キャンペーンシナリオは10月7日からだが、10日~14日のそれぞれ日の朝からという5つの開始点を選ぶこともできる。他の4つはifシナリオで、プロイセン軍がキャンペーンで早期に移動していたら、イエナ会戦で早期に攻撃を始めていたら。そしてフランス軍がプロイセン軍の予想した通りの進路で来た場合というもの、およびフランス軍が自由な場所から登場できるというもの。

■強ZOC、マストアタック。CRTは1:1.5や1.5:1が存在する戦闘比方式1D6解決で、1:1~4:1辺りはExが2つ程度あってブラッディ。2~4ヘクス退却するような戦闘結果や、片方が1/2の戦力を失うような戦闘結果なども存在したり、諸兵科連合でダイス目修正があったり、少々細かい。

■すべてのユニットの裏は陣営マークになっており、戦闘時以外は戦力等が分からないように常に裏返して置かれる。しかしダミーユニットはなし。ステップは減少戦力ユニット(兵科マーク上に®とマークされている)で表される。削られた戦力は再編成の過程を経て再び戦場に戻ってくる可能性がある。

■指揮系統を確立し、部隊を指揮下にする必要がある。指揮範囲は地形により2~4ヘクスに変化する。非指揮下の部隊は移動のために統率チェックが必要になり、戦闘後前進できない。司令官(Commander:フランス軍には4名、プロイセン軍には2名)は指揮系統の開始点に立つが、ナポレオン以外の者らは全員が軍団長を兼ねていて麾下の軍団の戦闘ユニットを管理しつつ、かつ将校(Officer:後述)や麾下軍団以外の戦闘ユニットを指揮下に置くことができる。司令官はユニット左下[ ]内の「指揮値」の数字分だけの将校及び麾下軍団以外の戦闘ユニットを指揮下に置ける([3]ならば、将校3名と戦闘ユニット3つを同時に指揮下に置けるということ)。

 フランス軍の司令官は、ナポレオン[3]、ダヴー[1]、ランヌ[1]、ミュラ[1]。
 プロイセン軍の司令官は、ブラウンシュヴァイク[1]、ホーエンローエ[1]。

 将校(Officer)は、司令官ではない軍団長に当たると思われる。ユニット左下( )内の「統率値」以下のダイス目を出すことにより、管理する麾下の軍団を指揮下にしたり、指揮下にすることに失敗した場合でも移動を可能にしたりする。

 フランス軍の将校は、ベシェール(4)、スールト(4)、ネイ(4)、オージュロー(3)、ベルナドット(3)。
 プロイセン軍の将校は、リュッヘル(4)、ヴァイマル(3)、ツェツシュヴィツ(3)、カルクロイト(2)、ヴュルテンベルク(2)。

 将校が捕獲された場合に使用できる補充指揮官もおり、ランダムに置き換えられる。

 フランス軍の補充指揮官は、ラップ(4)、サヴァリ(3)、ルマロワ(3)。
 プロイセン軍の補充指揮官は、シャルンホルスト(4)、マッセンバッハ(2)。


■道路移動や橋を渡るためには、道路行軍(Road March)にならなければならない。

■移動中の部隊は5:1の戦闘比を確保できれば(いわゆる蹂躙のようにして)排撃(Repulse)を行える。

■騎馬哨兵(Vedettes)ユニットにより、偵察と遮蔽をおこなう。

■スタック制限あり(割と複雑なので詳細は省略)。

■各軍団の永久除去ユニットが定められた数以上になると、その軍団は士気阻喪する。

■夜間ターンには補給状況をチェックし、非補給下の場合にはその戦闘ユニットは士気阻喪する。

■軍用行李縦列と橋梁縦列のルールあり。

■諸兵科連合、騎兵の戦闘前退却、フランス軍親衛隊、重騎兵などのルールあり。

■残念なことに、ユニットにエラッタ多数。チャートやマップにもエラッタあり。


 各会戦を扱う3ターンのシナリオならば、使用するルールがだいぶカットできてプレイできるのではないでしょうか。エラッタだけなんとかして、とりあえずはそれをやってみるというのが良いかもしれません。修正ユニットを『Illustrator』で作ってみるとか……?(まるまるユニットを作ると裏面の時に特定のユニットだとバレバレになるので、むしろ表面だけを作って印刷して貼るだけにする……?)


 以下、ネット上で見つけた関係ページ

 1.10より後に出たアップデート情報
 机上演習場 1806 シナリオ3 & 4
 

OCS『Tunisia』カセリーヌをちょこっと

 急遽、下野守さんが拙宅に来られることになりまして、色々な雑談と共にOCS『Tunisa』のカセリーヌ峠シナリオをちょこっとやってました。

CIMG2965.jpg

 カセリーヌ峠シナリオは過去に何度もやりまして、『TUNISIA』カセリーヌの謎が解けた?がその総決算的なエントリになるかと思いますが、客観的軍事的情勢がそうであるように、枢軸軍側が勝つことはまああり得ないシナリオではあります(^_^;

 しかしそれでも色々と選択・決断を楽しみながらプレイできまして、下野守さんのダイス目も(いつものことながら)良く、写真の後、カセリーヌ峠の開削にも成功しましたが、「この後はやっぱ苦しいですよねー」と、そこまででお開きにしておきました。

 以下、雑談に出たOCS関係の話です。

 今まである程度OCS作品をやってきた中では、『Tunisia』はユニット密度が低めで、かつ一級道路も二級道路もあって部隊のスイングが容易なので、部隊の振り分けに非常に悩みます。それでいて平地で機甲・機械化部隊が攻撃を行うと戦力がx2とかx1.5とかになるので、展開が派手になります。プレイは難しいですが、挑戦しがいのあるタイトルという感じでしょうか?

 一方で『KOREA』はユニット密度がそこそこあって、地形的・道路網的にそれほどスイングは容易でないのである程度配置が固定化されるため、プレイははるかに容易という気がします。地形的に機甲・機械化部隊がその猛威を振るう局面も限定されます(なるほど米軍が戦争前、韓国軍に戦車は不要だと判断したわけです)。


 以前、『Enemy at the Gates』のリトルサターン作戦を並べてみたのですが(OCS『Enemy at the Gates』マップ4枚リトルサターンを並べてみました)さすがにこの規模をソロプレイでやるのは無理だなぁ……と思って、やってみたい気持ちはあったのですがとりあえず今回は片付けてしまいました(^_^; しかしOCSプレイヤーがたくさんいて、3人対3人とかでプレイするなら、別に全然できて、かなり面白いことでしょう。

 思うに、アメリカではOCSプレイヤーもたくさんいて、マップを置きっぱなしにできる場所にも困らないために、OCSのフルマップ4枚以上というようなプレイも割と容易にできるのでしょう。しかし日本ではOCSプレイヤー自体が少なく、住環境的な難しさもあります。一応拙宅(尼崎会)ではフルマップ4~5枚を置きっぱなしにはできるので、やはりOCSプレイヤーを増やすということが重要ですね……ということが再確認されました(^_^;

 一方逆に、ソロプレイや1対1対戦が充分可能な『KOREA』や『Tunisia』、『Reluctant Enemies』などのアイテムは日本でも充分以上に楽しむことができます(『DAK』もプレイ環境を整えれば、ユニット数は全然大したことないはずなのでできるはず)。

 最近私はネトゲをかなりやっていてOCSに全然力を割いてなかったのですが、ちとOCSに力を割くか……でも、1806年戦役の調べ物もしたいので、まあそこらへんと兼ね合いで(^_^;


プロイセン史好きを増やすための……

 ここのところ、1806年戦役についてまとめる為に洋書を四苦八苦して読んだり、以前読んだドイツ史関係の本を読み返したり、ネット検索してみたりしているのですが、そんな中たまたま、プロイセン史上の人物を簡潔に面白く紹介したページを見つけました。

神は我らと共に_『プロイセン的エリュシオンにて』bot取扱説明書

 所々を拾い読みしてみた感じでは私の知っている内容とほとんど反することもなく(*)、むしろ「そういうの読んだことあったかもだけど知識として定着してなかった」というようなことが理解しやすく面白く書かれているので、良いなぁ、と。

*ただし、ブリュッヒャーに関して「メクレンブルクのロストック生まれ(ちなみに当時はスウェーデンの統治下だった)」とありましたが、メクレンブルク自体はスウェーデン統治下ではなかったのではないかなぁ……と思います。そうではなくて、ブリュッヒャーが14歳とかの時にスウェーデン統治下のリューゲン島に嫁いでいた姉夫婦のところに行って、その後スウェーデン軍に入隊したということではないかと。→『ブリュッヒャーとプロイセン』第1回『ブリュッヒャーとプロイセン』第2回:スウェーデン軍の兵士となる

 そのsummaryのページを見てみると、「制作者は「このbotを見て史実に興味を持って、プロイセン史を好きになってくれる人が増えたらいいなぁ」という意図をもって制作しました。プロイセン好きがいっぱい増えますように!」とありました。

 プロイセンは、ヘタリアのキャラとしてのプロイセンというのがそれはそれで人気があるみたいですが……、史実としてのプロイセン史は、確かにもっと人気が出て、少なくとももっと日本語の本が出てくれると個人的に非常に嬉しいですね(^_^; あと、ドイツ語でしか出てない本が英語本として出てくれるとかしてくれると嬉しい……。シャルンホルストとグナイゼナウの伝記とかがあったら読みたいのですが、ドイツ語では出ているっぽい(先日見つけたフランス革命戦争からナポレオン戦争へという、プロイセン軍制改革専門の方のPDFファイルに書いてありました)のですが、英語では出ていない……?

 プロイセン好きということで言えば、私もプロイセン好きはプロイセン好きなのでしょう……。手持ちのノートパソコンのすべてや、あるいは3DSなどに、プロイセンの紋章のステッカーを貼ってあります(→http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g152358789とかのようなやつで、多分同じ出品者さんのものを購入しているのだと思うのですが、デザインがなんか違うやつです)。できれば痛ノートパソコンとかにしたかったのですが、そこまでの勇気はなく、しかし何か貼りたかったので、じゃあプロイセンの紋章がいいじゃん、と。


 まあそれはともかくも、前掲の人物紹介ページ、結構良いなと思ったので、印刷してじっくり読もうと思います。

 印刷に関して言えば、R/Dさんの「祖国は危機にあり!」のページの「背景」のところを今までちゃんと読んでなくて、ちょっと見たら「素晴らしい!」と思ったので印刷して読み始めてます。というか、ここのすべてのコンテンツも印刷して読んだ方がいいよなぁ……。

 R/Dさんのところの関連ブログのナポレオニック関係のところは1月1日にそれまでの1年分を印刷して読むようにしはじめているので、この年末年始に「祖国は危機にあり!」のページのすべてのコンテンツも印刷させてもらおう……。

ブラウンシュヴァイク公(父)の性格

 アウエルシュタットの戦いについてまとめようと思っていたのですが、資料を読んでいるとやはりその前段階の普仏両軍の機動が気になり、それ以前に開戦の理由においてハノーファーの帰属がなんでそこまで重要視されたのかということが気になり、じゃあザクセンについてはどうだったのかということも気になって……例によって作業がますます進まなくなっております(^_^;

 まあそれはそれとして資料を読み返してますと、1806年戦役で最高司令官であったブラウンシュヴァイク公(父)に関しての記述がある程度あるのを、まとめておいた方がいいなと思いました。


カール・ヴィルヘルム・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)


BraunschweigLKWF



 ブラウンシュヴァイク公(父)に関する評価は、ヴァルミーで負け、アウエルシュタットで負け、ということで、表層的には高くなりようがありません。ただ、もうちょっと詳しく見てみると、ヴァルミーでは「攻撃を命じなかった」だけで、負けたわけではない……? とか、1806年戦役の時でも、嫌々指揮を執らされたあげく、指揮システムや他の将軍・参謀達に足を引っ張られたことがでかく、彼自身の判断は悪くなかったという見方もあるかも……? と、若干同情的な評価もあり得ます。


 ブラウンシュヴァイク公(父)に関する人物評は、私が今までに見つけられたものはごく短いものに留まります。曰く、

 この悪名高い「ブラウンシュバイク宣言」は亡命者たちの起草した草案を、非政治的なブラウンシュヴァイク公が無思慮にうけいれたものなのである。
『ドイツ史2』P133,134

 ……彼は嫉妬深いホーエンローエの抗議を無視できるほど決断力に富んではいなかった
『ナポレオン戦争 第3巻』P35

 フライブルクへの道を強行突破するためこれらの部隊に奇襲をかける代わりに(相手方は歩兵1個大隊と騎兵2個大隊を数えるだけであった)、慎重なブラウンシュヴァイクは、とりわけナポレオン自身がナウムブルクにいると信じていたため、いかなる作戦をも避けるように決定し……
『ナポレオン戦争 第3巻』P73


 慎重、かつ無思慮? まあ無思慮というのは政治的に無思慮ということなので、軍事司令官としては慎重ということが一番なのかもしれません。



 しかし、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』のフランス革命戦争のくだりで出てくるブラウンシュヴァイク公に関する記述からは、慎重ではあるものの色々考えた上で慎重、というか乗り気でなかったということが結構分かります。

 対仏戦に動員された軍隊の大将だったブラウンシュヴァィク公は、ルイ16世を救うには、連合軍をすみやかに進軍させるしかないという点では国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と意見が一致したものの、この大胆な企てにも、それを率いる自分の役回りにも疑問を抱いていたから、結果は思わぬ方向に展開した。

 1792年1月、ブラウンシュヴァィクはまず、フランス全軍を向こうに回すプロイセン軍の総司令官を依頼されると、これを拒否し、パリからの密使には、自分の独断で、すぐには戦闘を仕掛けないつもりだと次のように告げている。「なんで勝ちめのない戦争をする必要がありますか? フランス軍が勝てばわが国は滅びる。かりにフランスがここで負けても、まだ余力をお持ちだ。私は貴方との国境地帯にわが方の大軍を集結し、そこに長期間にわたって駐屯させ、難攻不落の構えをとる予定です。そして、貴方が内政のつまずきや資金難で敗退するのを待ちます」。

 最初は攻勢に出たプロイセン軍が、ライン河流域まで後退したあと実際にとった戦略は、まさにこのブラウンシュヴァィクの遠謀による。

『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P38



 1792年の戦争は、本気の攻撃というより一種の示威行動だった。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世にせき立てられたブラウンシュヴァィクは、亡命貴族たちの安易な勝利信仰に乗せられて、自分の賢明な判断を覆したものの、はなからひどい反撃を喰って、やはり自分の最初の確信が正しかったことを思い知らされた

 9月中旬、アルゴンヌの森の西端【引用者注:ヴァルミーのことを表している】に集結した敵の大部隊にパリへの進軍路を塞がれたプロイセン軍は、敵の翼側へ回り込んで連絡路を脅かすことによりこれを追い払おうとした。この戦法は、のちにナポレオンも、うまく計画して実行に移せばなかなか優れた作戦であると認めている。だが、ブラウンシュヴァィクはパリ進軍の気構えはあったものの、勝ちめの少ない大会戦はしたくなかった。フランス軍が大胆に抵抗する様子を見せると、これは敵わないと、さっさと諦めてしまったので、この示威行動は失敗に終わった。

『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P40


 ↑の引用の2段目がヴァルミーの戦いのことであるとして、1段目の「ひどい反撃を喰って」というのが、ヴァルミーの戦いのことを指しているのか、それ以前にそういうことがあったのかが若干気になるのですが、調べるのは放棄(^_^;



 悪天候、伝染病、補給の途絶などで、プロイセン軍の撤退はみじめそのものだった。用心深く追撃するフランス軍は、やがてドイツ領に進入、マインツとフランクフルトを占領した。こうなるとブラウンシュヴァィクは何より先にこの二つの都市を奪回し、ライン河の支配権を取り戻すことが急務となる。コブレンツとハイデルベルク間の航行可能な河川と主要道路を使って、広域にわたる作戦基地を樹立すれば、当初の攻撃目標だった南部に限定攻撃をかけることも出来そうだった。そうすれば、自国を守るのに役立つ一方、フランス革命政府に圧力をかけるにも都合がよい。パリへの進軍よりも、この任務のほうが、自分の裁量でやりやすかった。麾下の軍勢は再編成しても全プロイセン軍の三分の一にも満たなかったからである。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P41


 ↑の部分を理解するのに分かりやすい地図を探したのですが、なかなかない……。

 とりあえず、https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/71/db/87/71db87f04556df58fe800e8468d0bf3e.jpgとか。

 パリの右の方に最初に出てくるのがValmyで、その右上の方を見ていくとマインツ(フランス名Mayence)があります。フランクフルトはそのすぐ東側にあるはずですが、描かれてない。ライン河下流に行くとコブレンツ(フランス名Coblence)もあります。



 この本は(なぜか)この後、両軍の軍隊の性格などの話が挟まってくるのですが、そこにブラウンシュヴァイク公がなぜこういう戦い方をしていたかのヒントもあるような気がします。例えば……。

 軍隊の訓練には時間がかかり、フランスのように人口が多い国でも、十分な人数を確保することは容易ではなかったので、彼らに長期間服役してもらうには、危険度の高い軍隊の作戦配備を避けざるを得なかった
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P42

 当時は、ある地域の征服もしくは防御、あるいは交渉の切り札にするための国境地帯の占領などの限定戦争により国家間の勢力均衡を図るのが常だった。相手国を壊滅させるような、もっと大々的な目的を遂行するには、特に相手が大国であればあるほど、当時の軍隊だけでは手に負えないことが多かった。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P45

 道が悪く、輸送車の数も限られている所で機動作戦を行なうには、補給所や貯蔵庫の有無が大きな問題になる。軍隊は補給所から2、3日分の距離しか安心して行軍出来ない。かりに迎撃されず、ただ前進するだけであっても、そこで一旦停止し、補給所や野外製パン所が移動して来て、次の進軍のための基地作りをしてくれるまで動くことが出来ないのである。おまけに、進めば進むほど補給路が断たれたり、敵の斥候に塞がれたりする確率も、不測の事態に遭遇する可能性も大きくなる。旧体制(アンシャン・レジーム)時代の将軍たちはとりわけこれを恐れた。……

 国土や住民を踏みにじり、命がけで敵陣深く急進し、相手を徹底的にやっつけるようになるのは、国家間の政治折衝がこれまでになく冷厳になり、規範となる戦略の概念も様変りしてからのことである。偶然にまったく左右されないことこそ司令官の大事な役目であった時代は終り、偶然を積極的に利用することが勝敗の分かれ道になる。流動的な状況のもとでは、思いがけない機会が事態に決着をつけることがある。その好機を利用して惜しみなく大軍を投じるのである。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P47


 ↑最後の段落の部分は、まさに1806年戦役において、フランス軍がやった新しい戦い方を描写しており、それにプロイセン軍は対応できずに、ブラウンシュヴァイク公は旧体制下の将軍に留まっていたように感じられます。
 


 1792年12月、フランス軍のライン河右岸への侵入は食い止められ、フランクフルトは間もなく解放された。フランス軍総司令官キュスティーヌは、ライン西岸のプファルツまで退却した。だが、マインツには、冬の間に2万3千人に達するはずの強力な守備隊がいて、モーゼル、ザール両河の谷間で戦った「ライン軍」の支援を受けてあらたにライン共和国と宣した一帯を守ることが出来るはずだった。

 一方、プロイセン軍は部隊を再編成してマインツの攻略準備に取りかかっていた。……3月31日、プロイセンの主力部隊はマインツの北でライン河を渡った。しかし、数では劣勢のキュスティーヌ軍の撲滅は意図せず、いくつかの限定戦のみでフランス軍を数日分の行軍距離だけ西へ追い払い、容易に町に近づけないようにしただけでブラウンシュヴァィクは満足した。……

 ……それから数週間の激戦で、プロイセン軍は残りの外堡も占領した。7月23日、フランス軍守備隊はマインツを明け渡し、自らフランスに戻る自由のほうを選んだ。

 こうなるとプロイセン軍は、オーストリア領ネーデルランドにいるイギリス=オーストリア連合軍と協力してザール河方面に進軍したかった。しかし、危険にさらされやすい北方領土に関心を失い始めたオーストリアは、代りにアルザスの攻撃を決意する。ここでブラウンシュヴァィクは仕方なく南西に進軍してオーストリア軍の翼部を守ることになった。

 その年いっぱい、プロイセン軍は……敵を探し回ったものの、遭遇した好機を積極的に利用する意欲はなかった。ブラウンシュヴァィクは二回ほど自軍を集結させてフランス主力軍の攻撃をかわしたが、大会戦をする気がなかったため、ピルマーゼンスとカイゼルスラウテルンの勝利もその後の戦いに道を拓くことにはならなかった。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P49



 まさにブラウンシュヴァイク公は好機を積極的に利用するつもりはなかったということなわけですが、この2つの戦勝というのが何かを調べてみると、1793年の、

Schlacht bei Pirmasens(Wikipediaドイツ語版)
Battle of Kaiserslautern(Wikipedia英語版)

 らしいですが、さすが読もうとするのはもう放棄(^_^;

 ただ、後者はブラウンシュヴァィク公が総司令官であったようですが(そしてこの戦いでホーエンローエが活躍した、とナポレオン戦争 紳士録 他国将軍に書いてありました)、前者はクービエールという人が指揮官として戦ったらしく、その日本語版Wikipediaがえらい充実していて、1806年戦役後もがんばった人のうちの一人だったらしい……全然知らなかった……(^_^;

ヴィルヘルム・ルネ・ドゥ・ロム・ドゥ・クービエール



 この後、ブラウンシュヴァイク公は総司令官の地位をメレンドルフに譲ります。ネット検索してると、ヴァルミーの敗戦の責任を取って(直後に?)降格されたというような記述を読んだような気がしますが、そこらへんこの本には書いてないし、時期も違うので、どうなのかなぁ……。

 メレンドルフは、以前あっけなく降伏したエアフルトの司令官は誰か?で言及していたエアフルト降伏の際に倒れていた将軍です。

 彼は「安全で用心深い方策を勧めることによって、名声を維持することにのみ汲々としていた」とチャンドラーによって描かれていますが、この後、国王に無断で停戦交渉していたそうです。それって用心深いのかなぁ……?

 1794年1月、ブラウンシュヴァィクの後任となったメレンドルフも、オーストリア領ネーデルランドにいる連合軍と提携してザール河沿いに防衛戦を敷しき、ラインラントを守る以上のことは考えていなかった。……一方、メレンドルフは国王も知らない間に、プロイセンとフランスの戦争を終結させる交渉をパリで始めていた。ネーデルランドでのフランスの勝利、プロイセンの財政の困窮、連合国間の利害関係の対立で、第一次対仏同盟は決裂しつつあった。国王自身も意気消沈していた。その秋遅く、フランスとプロイセン両政府は公式交渉に入り、1795年春、バーゼル講和条約が結ばれた。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P50




 ブラウンシュヴァイク公も、独断でパリからの密使に返事していたりするし、1812年にはヨルク将軍がタウロッゲンで国王に無断でロシアと同盟するし、「慎重」とか「用心深い」とか書かれつつ、プロイセン軍の将軍って割と勝手なことやってるなぁという印象を抱いたりしましたが……(^_^;

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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