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1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯

 1806年戦役の開戦理由について調べていると、1805年戦役(ウルム・アウステルリッツ戦役)で、当時中立であったプロイセンの領土であるアンスバッハをベルナドット軍団が通過して、プロイセンが憤激したという話が出てきます。



CIMG2966.jpg

 ↑『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』MAP47より作成
   (灰色の囲みが、オーストリア軍の配置)


 ベルナドットのみならず、マルモンやダヴーも通過しているみたいですが……。

 なぜこのアンスバッハを通過したかというと、ウルムにいたオーストリア軍のマック将軍が過去の事例からフランス軍が中立であるプロイセン領アンスバッハを通過するとは思っておらず、その裏をかく形になるからだった……という話をR/Dさんが紹介しておられます。

 ウルム戦役
 黒い森と中立領


 これはこれで非常に興味深い話ですが、私としてはこの事件に関するプロイセン側(特にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世)の反応が気になるので、色々と他の資料も探していますと……。

 R/Dさんのエントリにもありますように、中立であったプロイセンのアンスバッハを軍事的に必要だからと侵犯することはかなりはばかられたようで、どの資料でもフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は激怒したとあります(もちろん、プロイセン国内の戦争派である王妃ルイーゼやブリュッヒャーも激怒しました)。ただ、「なぜナポレオンは中立領を侵犯させたか」や「プロイセンがそれにどう対応したか」については、諸資料で色々解釈の違いや異同がありました。

 例えば、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』(MAP47の解説)。

 10月3日、ベルナドットがプロイセンの飛び地領土であるアンスバッハの国境に達した時に、危機の可能性が生じた。その領土の中には南北に大きな街道が通っていた。ナポレオンはプロイセンが憤激するリスクを最初から承知の上で、そこを通っての行軍を命じた(オーストリア軍が1800年にやったように)。プロイセン政府は抗議したが、ベルナドット軍団の戦力の大きさのために何もできなかった。報復として、プロイセンは(10月6日に)ロシア軍にシュレジエンの通過を許可した。



 「(オーストリア軍が1800年にやったように)」というのは何を指しているのか分かりません……。ロシア軍に通過を許可したというのは、当時オーストリアやロシアは第3次対仏同盟を結んでフランス軍に対抗しようとしており、ロシア軍の一部は中立であったプロイセン領シュレジエンをやむを得ず侵犯か、あるいはせめて通過させて欲しいとしていたからです(と、これも解釈の一種ですが)。

 例えば、『アレクサンドル1世』にはこうあります。


 ロシアの2箇軍団が、西部国境に結集した。一方は、ミハイール・ゴレニーシチェク=クトゥーゾフ将軍率いる5万の兵で、オーストリア軍に合流する予定である。他方、ミヘリソン将軍率いる9万の兵は、必要とあればプロシャ攻略に進軍するはずである。……
 あの強情なプロシャ、麗しき王妃ルイーゼの祖国に、自国の軍隊を進めなければならないだろうという考えに胸を痛めながら、彼はペテルブルクを出発したブレストリトウスクに到着した。彼は、気に入りの副官ピョートル・ドルゴルーキーに、フリードリヒ=ヴィルヘルム3世に色よい返事をさせるため、あらゆる手段をつくすようにと言いふくめて、彼をベルリンに派遣した。もしプロシャ国王が、対仏同盟にはどうしても参加したくないというのなら、せめてロシア軍が領土を通過することを許可して欲しい。……
『アレクサンドル1世』P154,5


 ……ナポレオンが何の前ぶれもなく、南部ドイツに侵入したのである。怒り狂ったフリードリヒ=ヴィルヘルム3世は、即座に、ロシア軍がドイツの国境を越え、共通の敵に挑むことを承知した。アレクサンドルは、ほっと胸をなでおろす。フリードリヒ=ヴィルヘルム3世の招きを受けて、彼は、いかなる反撃に出るべきか検討するために、ベルリンに駆けつける。……彼に必要なのは、万一の場合、15万の軍隊を動かしてくれるプロシャとの同盟なのだ。10月25日、ベルリンでは彼のために華やかな歓迎の宴が催された。宝冠を飾って彼のまえに現れたルイーゼは、比類なき美しさだった。彼女の優しげなまなざしに見守られて、二人の君主は、フランスをけなすことに熱中した。1805年11月3日、ポツダムにおいて、両国のあいだに条約が調印された。それによれば、プロシャは、協力の条件は明示することなく、ただ同盟側につくことを約束し、勝利のあかつきにはハノーファーを獲得することになった。
『アレクサンドル1世』P156,7



 これらの解釈によれば、「アレクサンドル1世は心ならずも中立のプロイセン領を通過しなければならなくなることに心を痛めていたが、その前にナポレオンが【軍事的必要性のために】アンスバッハを通過してくれたため、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は対ナポレオンに傾いた」ということになります。つまり、「プロイセンに対する中立侵犯は、プロイセンを怒らせ、敵にしてしまう」という解釈です。


 ところが、それと真逆、「中立にこだわるプロイセンを自分の同盟に引き入れるために、プロイセンの中立領を侵犯しようとする」という解釈をとる資料もありました。

 その最も極端なものが、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』。

 ロシア、オーストリアとフランスとの間に新たに一戦ありそうな気配が募る中で、フランスはプロイセンを味方につけたがっていた。その見返りとしてナポレオンが差し出したハノーヴァーを、プロイセンは喉から手が出るほど欲しかったが、国王とハルデンベルク外傷はプロセインの中立政策の放棄は断った。1805年9月、戦争の火蓋は切られた。
 ところがその後間もなく、ロシア軍がプロイセンに進駐し、プロイセンと強引に同盟を結ぶ下工作をしていることがベルリンに伝えられた。ロシアとの衝突は避けられないと見たフランスは、10月初旬、スウェーデン軍ベルナドット麾下の一軍団をオーストリア軍のバヴァリア集結阻止のため急行させ、その折、プロイセン領内を通過させることによって、ベルリンに中立政策の再考をせまった。
 国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ロシア軍の進駐をひそかに許しておいて、プロイセン軍をハノーヴァーに進めた。名ばかりの駐屯部隊としてここに残っていたフランス軍は巧みに彼らとの衝突を避けた。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P170



 ただし、この本には大きな事実誤認も含まれています。「スウェーデン軍ベルナドット麾下の一軍団」という記述は相当おかしい(^_^; 1813年戦役においてならこの記述も正しい可能性がありますが、1805年においてはベルナドットはれっきとしたフランス軍の元帥の一人であり、かつスウェーデン軍はこの時第3次対仏同盟側にありました。また、「オーストリア軍のバヴァリア集結阻止のため」というのも、時系列的にはちょっと前のことであり、ベルナドット軍団のアンスバッハ通過の際にはすでにオーストリア軍はバイエルン(バヴァリア)への集結を終わらせていたような……?

 なんかこういう間違いがあると資料の信憑性が薄れてしまうのですが、他のネット上の資料にも、少なくともアレクサンドル1世がプロイセンを自陣営に引き入れるために軍事的圧力をかけていたと解釈するものがあります(Welcome to the Animated Map of Napoleon's 1805 Ulm to Austerlitz Campaign)。

 9月22日、ナポレオンはベルナドットに対してプロイセン領アンスバッハの横断を命じた(第Ⅰ軍団と第Ⅱ軍団は両方とも10月3日にアンスバッハに入った)。アンスバッハを横断することには軍事的にもっともな理由があった。というのは、そうしなければベルナドット軍団は位置を外れてしまうことになっていたであろうから。しかしこのことはプロイセンを第3次対仏同盟側に近づけるという政治的な痛手ともなり、多くの評者はこの決断を政治的に失敗だったと見なしている。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、あらゆる面での圧力を感じていた。ナポレオンは自らとの同盟にプロイセンを引き入れようとしてきたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はフランスに対してよりもロシアの方をより怖がっており、中立でいたかったのである。皇帝アレクサンドル1世は、フリードリヒ・ヴィルヘルムを対仏同盟に加わらせるのを強要するためにロシア軍をプロイセン国境に置くようにしていた。だが、ナポレオンによるプロイセン領の侵犯という決断は、彼がそうしなかった場合よりもフリードリヒ・ヴィルヘルム3世を、第3次対仏同盟の方へと追いやってしまったと思われる。(Kagan,324-7,535-47)



 Kaganというのは、↓だと思われます。




 一方、『補給戦』で有名なクレフェルトは、ウルム戦役におけるフランス軍の各軍団は補給のために距離をとって進軍しなければならなかったことを示唆しています。クレフェルトによると、ベルナドットがアンスバッハを侵犯したのは「混雑を避けるため」だったとなります(^_^;

 一方ナポレオン自身はストラスブルクに着くと、軍の兵站担当将校を譴責し……前進と補給の細目に没頭した。……各軍団はナポレオンのいつものやり方に従って、別々のルートを進むことになった。マルモンとベルナドットも進軍命令を受け、ベルナドットは混雑を避けるため、中立地帯であるプロシャ領アンスバッハで渡河を命じられた。だがベルナドットは、初め35日間の通行期間を認めていたプロシャが急にその許可を撤回し、そのためにまだハノーバーに立往生したままの大行李隊との連絡が絶たれた時、困難に陥った。
『補給戦』P92

 不平が来たのは最左翼の2軍団からだけだったが、その原因は恐らく、ヴュルツブルクでビスケットを焼くべしとのナポレオンの命令が、ごく一部しか守られなかったことから発生した。と同時に、プロシャ軍が、その領土内を通るベルナドット隊に対し物を売るのをすべて拒否したからだった。
『補給戦』P96



 『補給戦』によると、「初め35日間の通行期間を認めていた」とありますが、これは何を意味しているのか……。

 このアンスバッハの中立侵犯に関してある程度以上詳しい洋書を探し出せば分かるのかもしれませんが、1806年戦役についてまとめようとしている時にこういうことばかりしているのは賢明とは言えないですよね(^_^;

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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