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ナポレオニック本関連(ワーテルロー、アウエルシュタット)

 最近は基本的にネトゲ(Blade&Soul自ブログ)をやってるんですが(^_^;、アウエルシュタットの戦いにはかなり興味度合いが上がっていて、手持ちの洋書をちまちま読んでます。

 そんな中、たまたまAmazonの自分の「ほしい物リスト」を眺めていたら、「欲しいけど高いからなぁ……」と思っていた『Who was Who at Waterloo: A Biography of the Battle』の中古本が、最安値765円で売っているのを発見!(送料込みで1022円)



 「これは!」と思ってそれは注文したので、すでに通常の値段のものしか残ってませんが……。しかしなんでそんな安かったのか……(不良品?)。まだ届いてませんが、もしちゃんとしたものだとしたら、「安く売っているケースもまれに良くあるから、ほしい物リストに登録して時々眺めると吉」なのかも?




 あと、買い物して気が大きくなり、旧GJ42号のカードゲーム「Battlefield-Auerstadt 1806」の参考文献に挙げられていた『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』も見てみまして、なんか割と良さそうな気がしたのでこれも注文してしまいました(1868円で)。






 それから、クラッシュ・オブ・アームズの『La Battaile D'Auerstaedt』のヒストリカルコメンタリーを読もうとちょっと前から思ってたんですが、行間に訳語を書き込んで読むには行間が狭すぎてつらいので、「そうだ! スキャンして分割拡大して、冊子状態にしてしまおう!」と思いつき、やってみました。

 『In Design』を使うと割と簡単に割り付けもできて、楽でした。印刷も、先日コンビニで両面印刷が確実に簡単にできることを知って、家でやると失敗の可能性がある程度あって面倒なので、コンビニでやってきました。

CIMG2861.jpg


 で、読み始めてみると、分からない単語があんまりなく、すらすら読めて楽しい。以前『La Bataille des Quatre-Bras』のヒストリカルノートがえらい難しくて読めなかった苦い記憶があったんですが、そうでなくて非常に良かったです。あとなんか知らないですが、副官の仕事としてこんなのとかこんなのがあるよ、となんか親切に解説してくれてるのがなんだか面白いです(^_^;

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リッジウェイ将軍によるOCSの真髄?

 下鴨神社の古書祭りで入手した、リッジウェイ将軍の『朝鮮戦争』に、「これはOCSの真髄そのものでは!?」と思えるような文章がありました(P147)。




 私は各部隊指揮官に、敵部隊を撃破する時の大胆さと、自己を守る時の用心深さとの間に、均衡を保つことを学ぶ重要性を力説した。あらゆる前進行動においては、急激な成功を直ちに利用する機会が常に存在する。わが部隊が、敵の行動や天候の変化による、突然で重大な脅威に常に対処することができるように注意しながら、これらの機会をとらえることは、想像力と先見の明を必要とする問題であった。




 OCSでは、攻めながらも守りに気を配らなければならず、また守りながらも適宜攻めるべき時があるという、両面への意識、あるいはバランスが重要であるという気がしています。まさしく想像力と先見の明が足りないと、自軍を危殆に陥れてしまう可能性が高くなるような……。



 リッジウェイ将軍はマッカーサーが更迭された後に国連軍の総司令官となった人物です。この本には単なる戦記物ではちょっと触れられてなさそうな記述もあって結構面白いです。

 その中でも私が「おおおー」と思ったのは「におい」に関する記述(P17。食事中の方注意!)。私は戦場のにおいについてちょっと興味があるのですが……(ノルマンディー上陸作戦のオマハ海岸では、火薬や血のにおいの他に、内蔵や直前に食べた胃や腸の内容物のにおいなどもひどかったとか……)。

 朝鮮には、すべての戦闘員が今でも記憶していると思われる一つの特徴ある臭いがあった。それは、地味を肥やすために下肥として使われる人間の排泄物の臭いである。桶や樽、漏れ落ちやすい下肥用荷車で田畠に運ばれるので、悪臭ぷんぷん、まさに耐えがたいものがある。
 ……
 村の道路の両側にある溝は、蓋のない下水溝なので、それは強い悪臭を放った。主な家畜である豚は、名状しがたい汚物をつけて歩き回っている。飢えて用心深い犬は、ひどく汚い料理屑さえ、がつがつと食べてしまう。小さな子供達は小屋の外で遊ぶが、幼児達のズボンは丁度臀部の所が必要に応じて開くようになっているので、どこでも生理的要求に応えることができる。



 朝鮮(史)に批判的な執筆者であるとか、あるいはネトウヨの様な人達が、朝鮮半島(平壌とかソウルも)は非常ににおいのひどい、不潔なままに放っておかれている文化であった……というようなことを書いているのを見るのですが、それはそれとして、人糞を農家が肥料としていたのは日本も大いにそうだったはずなので、戦国時代とか戊辰戦争とかの時の日本の戦いって、そういうにおいがすごかったのかなぁ……と疑問が(というか、別に平時においてもそうだったのかどうか)。あるいは、ヨーロッパにおける戦いって、そういうにおいとかないんでしょうか?


 あと、マッカーサー元帥が多くの人が反対した仁川上陸作戦を成功させた為に誰もマッカーサーに反対できなくなり、その後で中国軍の参戦の時にマッカーサーが数々の証拠にも関わらず都合の悪い情報を無視して突き進んで国連軍を危機に陥れてしまったことに関して、(他の朝鮮戦争関連の本でもですが)非常に興味深かったです。

 第二次世界大戦とナポレオン戦争の本を今まで読んできて、ヒトラーとナポレオンが最終的に没落せざるを得なかったのは、前半における成功による思い上がりのためではないかと私は最近考えてまして、この時のマッカーサーも若干そういう感じがする(しかしマッカーサーにしてもヒトラーにしてもナポレオンにしても、基本的には思いあがる系の性格であったかも……)。逆にスターリンが最終的に勝てたのは、独ソ戦初期に色々とやらかして、自分よりも部下に任せた方がよいことがあることを学んだからではないか……とか。

 でもそうすっと、チャーチルは思いあがった人物ではなかったのかどうかとか、疑念もありますね(^_^;

OCS『KOREA』リッパー作戦シナリオ

 先日のミドルアース大阪で、OCS『KOREA』の1枚でできるシナリオ4つのうちの3つ目である、リッパー作戦シナリオを並べてみました(1つ目は釜山橋頭堡シナリオで、2つ目は仁川上陸作戦)。

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 中国軍の攻勢でソウルを取られてしまった後、少し押し戻して、いよいよソウルを奪還しようとするという戦いです。勝利条件は左側ののソウルと、右側のの春川(チュンチョン)を国連軍が両方とも取れば勝利、そうでなければ共産軍の勝利。


 頭が働かないので、こかどさんにやってもらいまして、その結果の国連軍ターン終了時↓。

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 共産軍にはもっと手こずるかなと思っていたのですが、意外にすでに押し込んでしまってます。

 共産軍側はリアクションを割とテキトーにやっていたのですが、史実で負けた側なので「負けた側はテキトーではまずいよな」ということが分かりました(^_^;

 あと、こかどドクトリン(戦闘フェイズに突破の結果を獲得して、突破フェイズにさらに進む)をさせないためには、戦闘フェイズにおける戦闘で突破の結果を獲得させないために、予備の砲兵や予備の歩兵を充分に活用しなければならないですね~。

 基本的にOCSは予備をいかにうまく用いるかのゲームである……ということがまた明らかになったということか……。

 この日は体調悪くて、ここで終わって帰って爆睡しました(^_^;


ワーテルローにおけるオラニエ公の命令とオムプテーダ大佐

 以前に買っていた『Children at the Battle of Waterloo』という本、途中4割くらいのところで読むのが止まっていたんですが、先日ようやく読み進むことができました(9割方まで進みました)。




 この本については↓などにもいくらか述べています。

ワーテルローでの女子ども
リッチモンド公爵夫人の舞踏会の場所について


 ワーテルローの戦いに関わった何人かの子どもが出てきまして、その中にはキングズ・ジャーマン・レギオンのオムプテーダ大佐の甥っ子2人が、叔父の部隊で戦いに参加するというのもありました。

 で、読み進めているうちに、そのオムプテーダ大佐の甥っ子の話の部分で、以前から興味のあったオラニエ公による自殺的命令のシーンが……!(そういえば自殺的命令を下された相手はオムプテーダ大佐だったか……!)



オラニエ公の評価

 オラニエ公による自殺的命令については↑にも書いたのですが、割と短いので、もともと自分が『Waterloo:Companion』から要約してMustAttackに書いていた文を見つけてきたので、それ(2010年05月12日の日記。『Waterloo:Companion』だとP365の辺りがメインで、他色々なページから)。

 『Waterloo Companion』を読んでいるのですが、ネイの騎兵突撃が残念な感じですね。

 のっけに?「ウェリントン公爵に、今まで見た中で最も勇気のある行動は何でしたか? と聞いた時彼は言った。「ワーテルローの時のネイの騎兵突撃だ」」

 という事だったので、「勇敢な良い話なのかな?」と思っていたら、むしろ読めば読むほど、ウェリントン公爵は皮肉たっぷりに「いやおめえそんなタイミングで騎兵突撃とか効かねぇから、常識的に考えて」という意味で言ったんだろうなぁ、という事が分かって来ました(いやまぁ、分かってはいたんですが……(^_^;))。

 なにしろ、

1.ネイの騎兵突撃は8000程度で行われたが、その時イギリス軍側はそこに18000程度の兵力を展開させ(られ)ていた。攻撃側3倍の原則はどこに?

2.方陣が組める(混乱してない)歩兵に騎兵突撃は、そもそもできずに、睨み合いにしかならない。ってか、このネイの騎兵突撃の時間帯にイギリス軍に最も損害を与えたのは砲兵射撃で、むしろ騎兵が来るとイギリス兵達は砲兵射撃が途切れるのでほっとしたというのだからどうにもならない。

3.いわゆる「13の方陣のうち7つまでが潰された」は伝説で、この時作られた20数個の方陣のうち潰れた方陣は1つもない。いや、1あるいは2個の方陣は潰れる寸前までいったが、それも砲兵射撃によるものだった(T-T)

 しかもイギリス軍側はずっと方陣を組んでいたわけではなく、臨機応変に横隊を組んで火力を増したりとかしていたらしい。そこらへんの話で、ある時、アルテン将軍がKGLのオムプテーダ旅団長に対して隊形変換の命令を下したらオムプテーダが異議を唱えたのだけど、そこにオラニエ公がやってきて「命令通りにしろ!」と言ってオムプテーダは前進したよ……という話が出てきました。

 私は以前から「このオラニエ公ってどんな人だったんだろう?」と思っていたので、「おおっ、これはもしかして、オラニエ公のこの命令ですごい戦果を上げたよって話?」と思って、伝記記事や地図の説明なども読んでみたら、「アルテンが隊形変換してラ・エイ・サントに向けて攻撃を行うように命令した時、オムプテーダは稜線の向こうにフランス軍騎兵がいるのが見えていたので方陣を崩すのは危ないと思って反対したのに、オラニエ公がいらん事を言ったために(彼は実はカトル・ブラの戦いでも同じミスをした)、オムプテーダは突っ込まざるを得なくなり、当然騎兵に蹂躙されてオムプテーダは戦死し、軍旗までが奪われました。ウェリントン公爵はオラニエ公(23歳)を「彼にあるのは勇気だけだ」と評し、彼に広範な指揮権を与えていたのはただ、彼がネーデルラント共和国の元首の息子であるという全くの政治的な理由でやむを得ずそうしていたのだった。」という事が分かって来ました。



 ↓『Waterloo:Companion』P378から、その時の地図。「C」というのがその場所。

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Ompteda BomannMuseum@20150903
 ↑オムプテーダ大佐(ドイツ語版Wikipediaから)


 さて、オムプテーダ大佐に対するオラニエ公の自殺的命令ですが、『Children at the Battle of Waterloo』では以下のように描かれていました(第8章 The Von Ompteda Boys and the Fall of La Haye Sainte。クリスティアンとルイズというのがオムプテーダ大佐の甥っ子達)。

 彼【オラニエ公】は、近づきつつある歩兵に対して前進するようにという命令を副官に持たせてオムプテーダに送った。クリスティアンとルイズはこのやりとりに耳を研ぎ澄ませており、騎兵の支援なしで麾下の大隊を前進させるのは非常に気が進まないと彼らの叔父が答えるのを聞いた。彼はまた、前方のくぼみにいくらかの胸甲騎兵が潜んでいる峰も指摘した。その副官はその伝言を持って去って行ったが、するとすぐにオラニエ公自身がやってきた。

 オラニエ公が命令を繰り返した時、フォン・オムプテーダは怒りで顔を青ざめ、少年達は彼が限界に近い忍耐力でもって自分を抑えていることに気付いた。彼は答えた。
「そのような前進は失敗することになると私は考えます。なぜならば、我が大隊はそこのくぼみにまさに見えているフランス軍騎兵によって攻撃されることになるでしょうから。」
 オラニエ公は【フランス軍胸甲騎兵達の】ヘルメットの先端がたくさん見えているのを見渡したが、次に言ったのは、
「彼らは我がオランダ軍部隊の者達だ。」
という言葉であった。この言葉は、あまりにもオムプテーダ大佐をしてオラニエ公に反抗心を持たせるものであった。オラニエ公は言い返されることに慣れておらず、また言い返されることを好まなかった。自分の間違いを認めることもいやだった。それゆえ彼は傲慢な態度で胸を張って言った。
「私は今なお、一列になり銃剣突撃せよという私の命令を繰り返さねばならない。これ以上貴官の意見を聞くつもりはない。」

 少年達は愕然とした。彼らの叔父はどうなってしまうのだろう? もし叔父がこの命令に従わなければ、不服従か臆病のゆえに罰せられてしまうだろう。フォン・オムプテーダは一瞬口ごもった後、大声で言った。
「よろしい。そうしましょう!」
 彼は反抗的にそう答えたが、その時点で彼も、彼の大隊の兵士達も、またクリスティアンとルイズ達も、皆、自分達が死なねばならない命令を受けたのだということを分かっていた。フォン・オムプテーダは抜刀し、部下達に向き直って、一列になるように命令した。彼の最後の言葉は、彼の甥っ子達に関してであった。【自身の副官である】リンシンゲンの方を向いて彼は言った。
「二人の甥っ子達を頼む。守ってやってくれ。」
 そして彼は馬首を巡らせ、一騎でゆっくりと部下達の前に馬を走らせた。



 ここのくだり、なかなかに面白いのですが、とりあえず2つ疑問点がありました。

1.直属の上官であるアルテンが命令したのではなく、徹頭徹尾オラニエ公の命令だったのか?(この文にはアルテンがまったく出てこない)

2.オムプテーダやオラニエ公の内心が描かれているが、これは何を根拠に作者は書いているのか?


 他の資料も探してみようと思って、探して訳してみました。まず『Who was who Napoleonic Wars』。

OMPTEDA, Colonel Christian Frederick William von, Baron(1765-1815)

 この時代のハノーファー将校のうちの最も著名な一人で、彼は1777年にハノーファーでRoyal Corps of Pagesに入り、ハノーファー近衛兵の将校へと昇進した。彼は1793-5年にネーデルラントで従軍し(この時はヨーク公の従卒であった)たが負傷し、初めて精神疾患をわずらった。King's German Legionの初期メンバーの一人として彼は第1戦列大隊を指揮し、1807年にオランダの海岸で難破した後に交替された。1808年に半島戦争へと赴いたが、精神的な感情の起伏が大きくなる発作がひどくなり、退役することになった。その後彼はしばらくの間ドイツに居住し、1812年にLegionに第1軽大隊指揮官として復帰できるまで、友人であったシャルンホルストが彼の回復を手助けした。そしてその後半島戦争の残りの期間をそこで従軍した。百日戦争においては彼は第2K.G.L旅団を指揮し、その中には彼自身の第5戦列大隊も含まれていた。ワーテルローでは、オラニエ公とアルテンによって自殺的な攻撃を命令され、彼は静かに抜刀し、友人の一人に甥っ子達の保護を依頼して、部下達の先頭に立って馬で走り去った。彼が認識していたように、オラニエ公らが下した命令は彼の大隊を壊滅同然の結果に追い込んだが、彼はためらうことなくそれを遂行し、最後にはフランス軍部隊によって包囲されるのが見えた。彼の首を弾丸が貫き、遺体が取り戻されるとラ・エイ・サントの門の近くに埋葬された。彼の一族はナポレオンに対する戦いで多くが倒れた。彼の兄弟であるFerdinand中佐はK.G.Lでの軍務で健康を害し、1815年に亡くなった。兄弟のAugustus大尉は1811年にポルトガルで亡くなり、従兄弟のFerdinand大尉は1809年に半島戦争中にかかった病気のためにブリテンで亡くなった。また彼の兄弟であったLouisの養子であったCount Carl zu Solms-Sonnenwaldeは第1プロイセン軍近衛の将校であったが、バウツェンで2回負傷し、Montmartreで頭を弾丸が貫通して戦死した。

 Ompteda, Baron. In the King's German Legion:Memoirs of Baron Ompteda...London, 1894




 また、『Waterloo:Companion』にはオムプテーダの略歴はなかったのですが、アルテンの略歴のところにオムプテーダへの命令に関することが書いてありました(P101)。

 午後6:30分頃にラ・エイ・サントが陥落したすぐ後に、アルテンは彼のKGL旅団の指揮官であるオムプテーダ大佐に、ラ・エイ・サントの奪還の為の攻撃を命じた。オムプテーダは騎兵がすぐ近くにいるとして、疑問を表明した。不幸なことにこの論争は軍団長のオラニエ公に聞こえてしまい、オラニエ公は上官の命令に従うようにオムプテーダに要求した。オムプテーダはそれに従ったが、これによりそのフランス軍騎兵にオムプテーダは殺され、彼の第5戦列大隊は壊滅し、その王の軍旗も失われたのであった。




 Google Booksで探してみると、『A Hanoverian-English Officer: A Hundred Years Ago; Memoirs of Baron Ompteda』という、甥っ子のうちのクリスティアンの方が書いたらしい?本にある程度詳しく、自殺的命令に関する情景が描かれていました(『In the King's German legion: Memoirs of Baron Ompteda, colonel in the King's German legion during the Napoleonic wars』という本も出てくるけど、中身は見られないっぽい?)。

(P311)
 オラニエ公の副官であるソマーセット卿が、この歩兵を撃退せよとの命令を持ってオムプテーダ大佐のもとへと、馬を全速力で駆けさせてやってきた。大佐は答えた。
「それは不可能だ。なぜなら、これまで我が大隊の後方にいたイギリス軍近衛騎兵は左翼へと向かうようにと命令されてしまっており、それゆえあそこの低地にはっきりとそのヘルメットが見えているフランス軍胸甲騎兵が、大隊が現在の安全地帯から移動して展開した途端に、攻撃をかけてくるだろうから。」
 副官は馬に乗って戻っていった。ところがすぐに、公位を受け継いでいたオラニエ公がフォン・アルテン将軍と共に現れた。アルテンは命令を繰り返したが、それでもオムプテーダは自分の意見を述べた。
「どんな場合であっても、我々は騎兵による支援を得ているべきです」
 オラニエ公は言った。
「あの高台の後に見えている騎兵は、オランダ騎兵だ。」
 この若き指揮官はしかし、自らの見解の不当性と非現実性に気付いたのか、有無を言わせない鋭い声で、自らの軍事的無能をさらけ出す致命的な命令を下した。
「私は今なお、一列になり銃剣突撃せよという私の命令を繰り返さねばならない。これ以上貴官の意見を聞くつもりはない。」
 大佐はただ、大声で答えた。
「よろしい。そうしましょう!」
 抜刀した彼は自身の確信に反して、彼の部下達を確実に、そして無益に破滅に導くことを知りつつも、大隊に横隊を組むように命じた。そして彼はリンシンゲン中佐に言った。
「二人の甥っ子達を頼む。守ってやってくれ。」
 そして彼は単騎で部下達の前に馬を進めた。



 この本では、アルテンはオラニエ公と一緒にやってきてから命令を述べています。パターンとして、

1.最初の命令がアルテンで、オラニエ公だけが来た。
2.最初の命令もオラニエ公で、オラニエ公だけが来た。
3.最初の命令はオラニエ公で、アルテンとオラニエ公が来て、アルテンもその時に命令はした。

 とかって色々ある……?

 また、二人の内心についても少し述べられていますが、『Children at the Battle of Waterloo』ほどではない……。


 まず最初にアルテンが命令を下したのであって、それをオラニエ公が押し通させたという風に書いている本は他にないのかな、と思って調べてみると、例えばThe King's German Legion (2)という本にはそう書かれていますが、しかし何が典拠らしいとかまでは全然分からない……。アルテンがほとんど関係ないっぽい説に関しては、クリスティアン・オムプテーダの本によるような気がしますが、しかし彼はKGLの大隊内にいたので、アルテンがまずその命令を出したのだという経緯については知らず、アルテン側の事情を他の史料で知っている研究者は、アルテンがまず命令を出したのだ、と書いているということでしょうか……?

 もっと詳しく調べることもできるのかもしれませんが、体調がいまひとつなので今日はこれくらいで(^_^;

 あと、『Children at the Battle of Waterloo』におけるオラニエ公やオムプテーダの心理的描写ですが、オムプテーダが感情の起伏が激しかったっぽい事情とかから類推とかあるかもしれませんが、基本的には作者による「盛り」「類推」「創作」であって、客観的事実としての認定はできないと思った方がよさそうですよね。


 オムプテーダの最期に関してもある程度興味のあるところでしょう。再度、『A Hanoverian-English Officer: A Hundred Years Ago; Memoirs of Baron Ompteda』から(P312,3)。

 目撃者である彼はこのように言っていた。
「地面がぬかるんでいる中で、オムプテーダ大佐について行くためにできる限り急いだ。私は大佐と敵との両方に目を配っていた。フランス軍がマスケット銃を大佐に向けていたが、彼らは撃たなかった。将校達が剣で、兵士達の銃身を制止していた。彼らは大佐が単騎で落ち着きはらって近づいて来るのにひどく驚いていたようで、大佐の帽子の羽根飾りが敵には高級将校に見えていたのだろう。彼はすぐに敵歩兵の戦列に至り、その後庭園の生垣に到着した。彼はジャンプして中に入り、彼が剣を振り回して円筒帽をいくつも打ち倒すのが私にははっきり見えた。最も近くにいたフランス軍将校は攻撃を止めようともせず、感嘆の目で大佐を眺めていた。私が回りを見回すと、私は一人になっていた。再び敵の方に目を戻すと、オムプテーダ大佐が敵歩兵と騎兵の大軍の真ん中で、騎馬から落ちて消え去るのが見えた。」
 ……
「彼の死体は、その栄光の、しかし恐るべき流血の日の深夜に、ラ・エイ・サントの庭園の生け垣のすぐそばで副官のフォン・ブランディスによって発見された。死体は略奪を受けてはいたが、服はそのままだった。彼のコートの襟に焦げた弾痕があり、大量の敵の真っ只中の最後の絶望的な戦いの最中にすぐそばから首に放たれた弾が致命傷になったのだろうと思われた。」

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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