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フェルトヘルンハレに顕彰されたヴレーデ元帥


 大木毅さんの戦史エッセイ集3『錆びた戦記』を読んでいて、「なん……だと……?」と思いました(P53)。

 フェルトヘルンハレは将軍廟という訳語があることからもわかるように、三十年戦争でカトリック側の部隊を率いた伯爵ヨハン・セルクラエス・フォン・ティリーと対ナポレオン解放戦争でバイエルン王国軍の司令官をつとめた侯爵カール・フィリップ・フォン・ヴレーデ元帥の彫像を収め、彼らとバイエルン軍の功績を顕彰するためにつくられた碑である(フェルトヘルン Feldherrnは「将帥たち」、ハレ Halleは「ホール」の意)。



 「フェルトヘルンハレ」というと第二次世界大戦の末期戦で出てくるドイツ軍の部隊名で、なんか印象深いものがあります。ナチスはこのフェルトヘルンハレ(碑の方)の前で1923年に示威行進をして当局側から射撃を受けて死傷者を出したそうで、その後ナチスの聖地として扱われることになったのだとか。

 私が反応したのは下線を引いたヴレーデ元帥の方で、なぜなら以前読んでいた『バイエルン王国の誕生』でたびたびその名前が出てきて少し印象に残っていたからです。




 一番印象に残っていたのは名前の出てくる最初のページであるここ(P32)。

ホーエンリンデンの戦い
  1800年3月16日、バイエルンはイギリスと有効期間1年の補助金協定を結んで、とりあえず兵力1万2000人の補助金軍を編成することになった。補助金軍の総司令官にはマックス・ヨーゼフ【選帝侯】のいとこに当たるツヴァイブリュッケン男爵、補助金軍を構成する2つの旅団の指揮官にはドロワとヴレーデ男爵が任命された。ドロワはプファルツ軍出身の生粋の軍人であったが、ヴレーデの方は、ハイデルベルク大学で法学を学んでプファルツ選帝侯領の地方行政に携わっていたが、フランス軍がプファルツ領に侵入してきたので、これと戦うなかで軍隊に転じたという変わった経歴の持ち主であった。




 バイエルンの位置については、とりあえず1806年のライン同盟地図(ドイツ語版)を見てみて下さい(真ん中下の薄い緑色の領域)。


 「これは、ヴレーデ将軍について調べねば!」と思い、探してみるとチャンドラーの『ナポレオン戦争』にも複数箇所に出てきていました。

 しかしとりあえずまず、『Dictionary of the Napoleonic Wars』と『Who was who Napoleonic Wars』から。

 Wrede, Field Marshal Carl Philipp, Prince of(1767-1838)

 バイエルンで生まれ、バイエルン選帝侯国軍に入った彼は、1795年までに大佐となった。カール大公の下で戦い、ホーエンリンデンで敗北して退却するオーストリア軍を援護した(1800)。1805年に彼はバイエルン軍の将軍となり、フランス軍と共に1805年、1809年、1812年と戦い、続けて1813年にはイン川軍を指揮した。彼は連合軍とリート条約を結び、ライプツィヒの戦いの後、フランス軍に敵対した。ナポレオンのライン川への退却路を迎撃しようとして、彼はハーナウの戦いで手酷く打ち破られた。その後彼は、ラ・ロティエールやバール・シュル・オーブで戦った。1815年に彼はウィーン会議に出席し、7年後にはバイエルンの最高指揮権が与えられた。
『Dictionary of the Napoleonic Wars』


Wrede, Field Marshal Karl Philipp, Prince(1767-1838)

 当時の傑出したバイエルンの軍人であったヴレーデはハイデルベルクに生まれ、行政の分野での職業を志していたが、1799年に志願兵の軍団が編成された時にその大佐に任命された。ホーエンリンデンでは彼はプファルツの1個旅団を率いて顕著な働きを示し、リュネヴィル和約の後にはバイエルン軍の中将に任命された。彼は1805年以降フランス軍と共に従軍し、プルツスクで名を挙げたものの、バイエルン軍に対するフランス軍の態度からフランス陣営に反感を感じるようになったが、王の配慮が明確な不和を抑えていた。1809年には彼は厳しかったティロル戦役を指揮し、ワグラムではそばに砲弾が落ちて傷を負った。落下の後若干ふらふらしながら、彼はマクドナルドに言った。
「皇帝陛下に、私はあなたの為に死んだと伝えてくれ。私の妻と子ども達のことを、皇帝陛下によろしく頼む。」
 傷の様子を見たマクドナルドは笑って言った。
「君の妻は、まだこれからも君の子を産むことができるだろう!」(注1:Macdonald, vol.I,p.343.)
 その年、ナポレオンは彼を帝国伯爵に叙した(だが、ナポレオンは彼を伯爵にはすることができたが、将軍にすることはできなかったと言われている)が、ヴレーデの心情はむしろ反フランス陣営にあった。1812年戦役では彼は大陸軍の第20師団を卓越した指揮で率い、ある時にはひどい下痢で騎乗することができずに徒歩で行軍したが、生き残った。1813年のバイエルン軍の再編成後は、バイエルンが反フランス陣営に鞍替えした(彼はそれに賛成した)ため、かつての味方と戦うこととなり、ハーナウで大敗北を喫したものの、続けて1814年にも彼はラ・ロティエールやバール・シュル・オーブ、アルスィ・シュル・オーブなどでバイエルン軍を指揮した。1814年に侯爵位を授かり、バイエルンを代表してウィーン会議に出席し、モンジュラ伯爵の敵対者の一人としてバイエルン政界の中心人物となって、1817年にモンジュラの後を継ぎ、1835年の王の不在時には最高司令官および摂政議会の長として大きな影響力を持っていた。
『Who was who Napoleonic Wars』



 特に『Who was who Napoleonic Wars』の記述が面白くていいですねー。マクドナルド元帥との話も非常に面白いですが、卓越した指揮官であったこと(だからこそ後にバイエルン軍の第一人者になっていったのでしょう)、また反フランス感情を抱くようになっていったということが分かります。


 日本語版Wikipediaにはこのカール・フィリップ・フォン・ヴレーデのかなり詳しい項目がありますので、そちらも見られても良いかも。

 ↓Wikipediaから。
Karl Philipp Wrede


 こちらは『バイエルン王国の誕生』と『ナポレオン戦争』から、興味深そうなところのみを引用していこうと思います。

 まず、1806年戦役におけるヴレーデ。

 バイエルン軍はナポレオンの末弟ジェロームの指揮下にはいって作戦に加わったが、ドロワの指揮する第1師団はオーストリアに対する押さえとしてバイエルン南部に残され、ヴレーデの指揮する第2師団もジェロームとともにザクセン南西部に進んだので、イェーナ、アウエルシュテットの戦いは参加しなかった。しかし、プロイセン国王が抵抗を続けたため、11月半ば以降、両師団ともシュレージエンに進んで、要塞に立て籠もるプロイセン軍と戦うことになった。1807年2月半ば、ヴレーデの第2師団は第1師団と別れて、シュレージエンからワルシャワに移動し、皇太子ルートヴィヒを名目上の師団長としてワルシャワ北方でのロシア軍との戦いに加わった。
『バイエルン王国の誕生』P131



 「ワルシャワ北方でのロシア軍との戦い」というのはプルツスクの戦いを意味しているのだと思いますが、その中でのヴレーデの詳細については『バイエルン王国の誕生』にも『ナポレオン戦争』にも触れられていません(T_T)(『Who was who Napoleonic Wars』では「プルツスクで名を挙げた」と書いてあるのに)。


 次に、1809年戦役。この戦役でバイエルン王国(ナポレオン側について1805年に選帝侯国から王国に格上げされていた)はまず、カール大公率いるオーストリア軍に侵入され、バイエルン領内でアーベンスベルク・エックミュールの戦い(フランス軍の辛勝?)がおこなわれます。これにはバイエルン軍からドロワの師団が参加していたようです(『ナポレオン戦争 第4巻』P41)。その後ドナウ川沿いに進撃したナポレオンは、ウィーン近郊のアスペルン・エスリンクの戦いで初めて明確な敗北を喫し、しかしその後ヴァグラムの戦いで勝利します。

 ↓参考に過去のエントリブラウンシュヴァイク公、ウィーンへから引っ張ってきてみました。

Brunswick1809_001a.png


 【アスペルン・エスリンクの戦いの】その後、兵力を増強したナポレオン軍は、7月5日にふたたびロバウ島を越えて対岸に進み、翌日ヴァーグラム高地の南に布陣していたオーストリア軍とふたたび激戦となった。しかし、今度はオーストリア軍が持ちこたえられなくなり、北方へ撤退していった。ヴレーデの指揮するバイエルン軍もリンツから戦場に駆けつけて、ナポレオンの勝利に貢献した。
『バイエルン王国の誕生』P212



 『ナポレオン戦争 第4巻』ではヴァグラムの戦いの記述中にヴレーデの名前が3カ所(さらに地図中に2カ所)出てきますが、単に配置的な記述が多く、引用する価値がありそうなのはここだけ(といってもヴレーデ自身とは何の関係もない……)。

 ……主力攻撃はしばらく停止となった。まだまだ完全なる勝利はつかめない。すると軍団がわずか1500人にまで減ってしまったマクドナルドが怒り狂って、兵力増強を望んできた。ナポレオンはこれに応えた。現在ヴァグラムを攻撃中のウジェーヌ軍を呼び戻し、新鋭親衛隊とヴレーデ隊を編成し直して、援軍に仕立てたのである。ナポレオンがヴレーデの宛てた指令がこのときの興奮を物語っている。「マクドナルドの劣勢を見よ。急げ! 彼らを助け、敵を粉砕せよ。とにかく、最善を尽くせ」。
『ナポレオン戦争 第4巻』P93




 1812年戦役では、ボロディノの戦いにはバイエルン軍では騎兵だけが参加したそうです(『バイエルン王国の誕生』P216)。

 撤退中の記述としては、11月第3週辺りのこととして、「北部の側面では、グルボコエ近辺のヴレーデがなおヴィトゲンシュタインの包囲網を逃れていたものの、ウディノとヴィクトールの両軍は徐々にロシア軍の術中に陥りつつあった。」とあります(『ナポレオン戦争 第4巻』P220)。これはヴレーデが有能であったことを示しているのでしょうか……?

 その後の動きとしては、『バイエルン王国の誕生』から(P216)。

 ドロワが戦死したあとバイエルン軍を指揮していたヴレーデは、ほかのフランス人将校の指揮下にはいることを拒否して、西に向かった。12月3日、ブレーデの部隊はベレジナ河を越えて撤退中のナポレオン軍本体を発見し、3日後に本体に合流した。ヴレーデの部隊はナポレオン軍の後衛に配属されて、撤退を続け、12月12日にようやくニエメン河に到達した。この時ヴレーデのそばには若干の将校と78人の兵士しかいなくなっていた。



 ヴレーデの元々の兵力に関しては、『ナポレオン戦争 第4巻』P236に、「時を同じくして、ヴレーデ将軍はグルボコエを放棄し、ヴィルナの東で皇帝と合流すべくドクチーツィへと退いた。だが彼の兵力1万1000は、主力軍とほぼ同様に激減した。」とあり、1万1000名が100名程度に減ったということなのでしょう……。


 ロシア遠征以降のバイエルン軍の動きについての記述が面白いので、ちょっと長めに引用してみます。ロシア遠征から帰ってきたバイエルン兵が1200人とありますが、これはヴレーデが指揮していた以外の側面防御部隊などからのもの?

 ロシア遠征軍崩壊の知らせを受けて、バイエルンでも軍隊の再建が始まっていたが、バイエルン政府は、新たに編成した部隊をナポレオンに供出することを渋るようになった。4月17日にロシア遠征部隊1200人がバイエルンに戻ってきた。これと引き換えに、バイエルンは新しい部隊をナポレオンに提供することになっていたが、口実を設けて出発を引き伸ばし、ナポレオンからマックス・ヨーゼフ【バイエルン国王】への直々の要請を受けて、ようやく新しい部隊8000人をテューリンゲンへ送り出した。この部隊はナポレオン軍の最右翼としてバウツェンの戦いに加わった。

 マックス・ヨーゼフも、モンジュラ【バイエルンを改革した政治家】も、すでに5月には長期的にはナポレオンは持ちこたえられないとみていた。しかし、いつナポレオンを見限るのか、その判断は難しかった。リュッツェンとバウツェンにおけるナポレオンの勝利をみて、マックス・ヨーゼフの迷いは一段と大きくなった。
『バイエルン王国の誕生』P218




 その後オーストリアが8月12日にフランスに宣戦。

 翌8月13日、バイエルン政府は、オーストリアを牽制することを口実にして、ヴレーデの指揮する部隊をオーストリア国境のブラウナウへ移動させた。これに対抗して、オーストリアも部隊をバイエルン国境に移動させたが、バイエルン側は内密にオーストリアに対して攻撃の意図がないことを連絡した。
『バイエルン王国の誕生』P219



 モンジュラはこれまで深くフランスとかかわってきたことを考慮して自ら表舞台に立つことを避け、国境でオーストリア軍と対峙していたヴレーデを仲介役としてオーストリア側と接触し、10月4日に対仏同盟への鞍替えについての交渉を開始した。

 10月7日、ヴレーデがオーストリアと締結する条約の最終案をもってミュンヘンに戻ってきた。マックス・ヨーゼフ、モンジュラ、ヴレーデの3人がボーゲンハウゼンのモンジュラの別荘に集まり、この条約案について協議を行った。マックス・ヨーゼフは条約案に強く反対したが、結局はヴレーデとモンジュラに説き伏せられて同意せざるをえなくなった。翌10月8日、国境近くのリートで、ヴレーデがバイエルンの代表として条約への調印を行った。

 このリート条約によって、バイエルンはライン連邦から離脱し、対仏同盟に3万6000人以上の軍隊を用意して参加することになった。……バイエルンは10月14日にフランスに宣戦した。翌10月15日、国境で対峙していたバイエルン軍とオーストリア軍は合流して、ヴレーデの指揮下にはいった。
『バイエルン王国の誕生』P220



 その翌日の10月16日から19日にかけて、ライプツィヒの戦いがおこなわれ、ナポレオンは敗北して退却します。

 10月22日にナポレオン敗北の知らせがバイエルンに届くと、ヴレーデは2万5000人の兵力を率いてマイン河畔のハーナウに向かい、ナポレオンの退路を断とうとした。しかし、10月30日、6万人の軍勢を率いてハーナウに現れたナポレオンはヴレーデ軍を一蹴してフランスに戻っていった。ハーナウの戦いはヴレーデ軍に9000人の損害をもたらし、ヴレーデも腹部に傷を負ったが、バイエルンがナポレオンと戦ったという実績をつくることになった。
『バイエルン王国の誕生』P221



 ハーナウの戦いについて、『ナポレオン戦争 第4巻』は1ページほどを割いて詳しく描写していますが、バイエルン軍側に関わる部分のみ引用してみます(P344)。


 新たに連合国側についたヴレーデ将軍指揮下のバイエルン軍とオーストリア軍4万3000が、フランス軍の退却ラインを封鎖するためドナウ川からフランケンへ北上していた。やがてこの軍勢は、ナポレオンの次の避難所であるフランクフルト・アム・マイン近郊の東数マイルにあるハーナウに到着した。ヴレーデは戦況の判断を完全に誤り、皇帝と彼の主力軍がもっと北寄りの道路に沿いコブレンツへ撤退しつつあり、自軍はせいぜい気落ちした2万の側面縦隊に向かい合うに過ぎないだろうという結論に達したのである。勢いのよい数日の小競り合いの後、成功を確信したこのバイエルンの将軍は、30日に彼が急いで選定した場所に部隊を配置した。つまりキンツィッヒ川を背に軍の中央部分を配し、右翼を南方に孤立させて置き、これをただ一本の橋で主力軍と結びつけたのである。

 ……【フランス軍の】威勢のよい連続砲撃は、すぐにヴレーデ軍の28門の大砲を沈黙させ、それからフランス軍の騎兵たちが、左翼を守っているヴレーデ軍の騎兵を一掃した。バイエルン軍は猛攻撃の前に後退した。旋回するフランス軍の騎兵よって側面を攻撃されたため、ヴレーデ軍の中央部は左手に血路を開かねばならず、キンツィッヒ川の岸辺を通り、その過程で多くの死傷者を出すという犠牲を被った。彼の右翼は、たったひとつの橋を渡ろうとして手をつけられぬほど混乱してしまい、主戦闘の行方に影響を及ぼすことができなかった。ヴレーデがランボイ橋からハーナウの街区に至る線上で自軍の残りを再結集できるようになる前に、何百もの兵がキンツィッヒ川で溺死した。翌日、フランス軍はハーナウ自体を難なく占領した。

 ナポレオンには、ヴレーデごときのためにさらに時間を浪費するつもりはなかった。



 ヴレーデごときと言われてしまいましたが……(^_^;


 1814年戦役では、2月1日のラ・ロティエールの戦いでヴレーデはフランス軍の左翼を崩壊させ(『ナポレオン戦争 第4巻』P36)たものの、直後の2月3日にはヴレーデはアルシ・シュール・オーブ近くでマルモンに裏をかかれた(『ナポレオン戦争 第4巻』P39)。その後3月20日には同じくアルシ・シュール・オーブを保持していたヴレーデの部隊が脆弱であることを知ったナポレオンがこれを攻撃しようと前進しようとした(『ナポレオン戦争 第4巻』P76)……というようなことが短く記述されているのみでした。


 ナポレオン退位後、ウィーン会議にも出席したヴレーデでしたが、「ヴレーデは外交官としての能力を欠いていたので、1815年2月末にナポレオンがエルバ島を脱出したのを機に軍務に戻り」(『バイエルン王国の誕生』P221)、その後バイエルン軍最高司令官として国内で重きをなしたようです。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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