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フェルトヘルンハレに顕彰されたヴレーデ元帥


 大木毅さんの戦史エッセイ集3『錆びた戦記』を読んでいて、「なん……だと……?」と思いました(P53)。

 フェルトヘルンハレは将軍廟という訳語があることからもわかるように、三十年戦争でカトリック側の部隊を率いた伯爵ヨハン・セルクラエス・フォン・ティリーと対ナポレオン解放戦争でバイエルン王国軍の司令官をつとめた侯爵カール・フィリップ・フォン・ヴレーデ元帥の彫像を収め、彼らとバイエルン軍の功績を顕彰するためにつくられた碑である(フェルトヘルン Feldherrnは「将帥たち」、ハレ Halleは「ホール」の意)。



 「フェルトヘルンハレ」というと第二次世界大戦の末期戦で出てくるドイツ軍の部隊名で、なんか印象深いものがあります。ナチスはこのフェルトヘルンハレ(碑の方)の前で1923年に示威行進をして当局側から射撃を受けて死傷者を出したそうで、その後ナチスの聖地として扱われることになったのだとか。

 私が反応したのは下線を引いたヴレーデ元帥の方で、なぜなら以前読んでいた『バイエルン王国の誕生』でたびたびその名前が出てきて少し印象に残っていたからです。




 一番印象に残っていたのは名前の出てくる最初のページであるここ(P32)。

ホーエンリンデンの戦い
  1800年3月16日、バイエルンはイギリスと有効期間1年の補助金協定を結んで、とりあえず兵力1万2000人の補助金軍を編成することになった。補助金軍の総司令官にはマックス・ヨーゼフ【選帝侯】のいとこに当たるツヴァイブリュッケン男爵、補助金軍を構成する2つの旅団の指揮官にはドロワとヴレーデ男爵が任命された。ドロワはプファルツ軍出身の生粋の軍人であったが、ヴレーデの方は、ハイデルベルク大学で法学を学んでプファルツ選帝侯領の地方行政に携わっていたが、フランス軍がプファルツ領に侵入してきたので、これと戦うなかで軍隊に転じたという変わった経歴の持ち主であった。




 バイエルンの位置については、とりあえず1806年のライン同盟地図(ドイツ語版)を見てみて下さい(真ん中下の薄い緑色の領域)。


 「これは、ヴレーデ将軍について調べねば!」と思い、探してみるとチャンドラーの『ナポレオン戦争』にも複数箇所に出てきていました。

 しかしとりあえずまず、『Dictionary of the Napoleonic Wars』と『Who was who Napoleonic Wars』から。

 Wrede, Field Marshal Carl Philipp, Prince of(1767-1838)

 バイエルンで生まれ、バイエルン選帝侯国軍に入った彼は、1795年までに大佐となった。カール大公の下で戦い、ホーエンリンデンで敗北して退却するオーストリア軍を援護した(1800)。1805年に彼はバイエルン軍の将軍となり、フランス軍と共に1805年、1809年、1812年と戦い、続けて1813年にはイン川軍を指揮した。彼は連合軍とリート条約を結び、ライプツィヒの戦いの後、フランス軍に敵対した。ナポレオンのライン川への退却路を迎撃しようとして、彼はハーナウの戦いで手酷く打ち破られた。その後彼は、ラ・ロティエールやバール・シュル・オーブで戦った。1815年に彼はウィーン会議に出席し、7年後にはバイエルンの最高指揮権が与えられた。
『Dictionary of the Napoleonic Wars』


Wrede, Field Marshal Karl Philipp, Prince(1767-1838)

 当時の傑出したバイエルンの軍人であったヴレーデはハイデルベルクに生まれ、行政の分野での職業を志していたが、1799年に志願兵の軍団が編成された時にその大佐に任命された。ホーエンリンデンでは彼はプファルツの1個旅団を率いて顕著な働きを示し、リュネヴィル和約の後にはバイエルン軍の中将に任命された。彼は1805年以降フランス軍と共に従軍し、プルツスクで名を挙げたものの、バイエルン軍に対するフランス軍の態度からフランス陣営に反感を感じるようになったが、王の配慮が明確な不和を抑えていた。1809年には彼は厳しかったティロル戦役を指揮し、ワグラムではそばに砲弾が落ちて傷を負った。落下の後若干ふらふらしながら、彼はマクドナルドに言った。
「皇帝陛下に、私はあなたの為に死んだと伝えてくれ。私の妻と子ども達のことを、皇帝陛下によろしく頼む。」
 傷の様子を見たマクドナルドは笑って言った。
「君の妻は、まだこれからも君の子を産むことができるだろう!」(注1:Macdonald, vol.I,p.343.)
 その年、ナポレオンは彼を帝国伯爵に叙した(だが、ナポレオンは彼を伯爵にはすることができたが、将軍にすることはできなかったと言われている)が、ヴレーデの心情はむしろ反フランス陣営にあった。1812年戦役では彼は大陸軍の第20師団を卓越した指揮で率い、ある時にはひどい下痢で騎乗することができずに徒歩で行軍したが、生き残った。1813年のバイエルン軍の再編成後は、バイエルンが反フランス陣営に鞍替えした(彼はそれに賛成した)ため、かつての味方と戦うこととなり、ハーナウで大敗北を喫したものの、続けて1814年にも彼はラ・ロティエールやバール・シュル・オーブ、アルスィ・シュル・オーブなどでバイエルン軍を指揮した。1814年に侯爵位を授かり、バイエルンを代表してウィーン会議に出席し、モンジュラ伯爵の敵対者の一人としてバイエルン政界の中心人物となって、1817年にモンジュラの後を継ぎ、1835年の王の不在時には最高司令官および摂政議会の長として大きな影響力を持っていた。
『Who was who Napoleonic Wars』



 特に『Who was who Napoleonic Wars』の記述が面白くていいですねー。マクドナルド元帥との話も非常に面白いですが、卓越した指揮官であったこと(だからこそ後にバイエルン軍の第一人者になっていったのでしょう)、また反フランス感情を抱くようになっていったということが分かります。


 日本語版Wikipediaにはこのカール・フィリップ・フォン・ヴレーデのかなり詳しい項目がありますので、そちらも見られても良いかも。

 ↓Wikipediaから。
Karl Philipp Wrede


 こちらは『バイエルン王国の誕生』と『ナポレオン戦争』から、興味深そうなところのみを引用していこうと思います。

 まず、1806年戦役におけるヴレーデ。

 バイエルン軍はナポレオンの末弟ジェロームの指揮下にはいって作戦に加わったが、ドロワの指揮する第1師団はオーストリアに対する押さえとしてバイエルン南部に残され、ヴレーデの指揮する第2師団もジェロームとともにザクセン南西部に進んだので、イェーナ、アウエルシュテットの戦いは参加しなかった。しかし、プロイセン国王が抵抗を続けたため、11月半ば以降、両師団ともシュレージエンに進んで、要塞に立て籠もるプロイセン軍と戦うことになった。1807年2月半ば、ヴレーデの第2師団は第1師団と別れて、シュレージエンからワルシャワに移動し、皇太子ルートヴィヒを名目上の師団長としてワルシャワ北方でのロシア軍との戦いに加わった。
『バイエルン王国の誕生』P131



 「ワルシャワ北方でのロシア軍との戦い」というのはプルツスクの戦いを意味しているのだと思いますが、その中でのヴレーデの詳細については『バイエルン王国の誕生』にも『ナポレオン戦争』にも触れられていません(T_T)(『Who was who Napoleonic Wars』では「プルツスクで名を挙げた」と書いてあるのに)。


 次に、1809年戦役。この戦役でバイエルン王国(ナポレオン側について1805年に選帝侯国から王国に格上げされていた)はまず、カール大公率いるオーストリア軍に侵入され、バイエルン領内でアーベンスベルク・エックミュールの戦い(フランス軍の辛勝?)がおこなわれます。これにはバイエルン軍からドロワの師団が参加していたようです(『ナポレオン戦争 第4巻』P41)。その後ドナウ川沿いに進撃したナポレオンは、ウィーン近郊のアスペルン・エスリンクの戦いで初めて明確な敗北を喫し、しかしその後ヴァグラムの戦いで勝利します。

 ↓参考に過去のエントリブラウンシュヴァイク公、ウィーンへから引っ張ってきてみました。

Brunswick1809_001a.png


 【アスペルン・エスリンクの戦いの】その後、兵力を増強したナポレオン軍は、7月5日にふたたびロバウ島を越えて対岸に進み、翌日ヴァーグラム高地の南に布陣していたオーストリア軍とふたたび激戦となった。しかし、今度はオーストリア軍が持ちこたえられなくなり、北方へ撤退していった。ヴレーデの指揮するバイエルン軍もリンツから戦場に駆けつけて、ナポレオンの勝利に貢献した。
『バイエルン王国の誕生』P212



 『ナポレオン戦争 第4巻』ではヴァグラムの戦いの記述中にヴレーデの名前が3カ所(さらに地図中に2カ所)出てきますが、単に配置的な記述が多く、引用する価値がありそうなのはここだけ(といってもヴレーデ自身とは何の関係もない……)。

 ……主力攻撃はしばらく停止となった。まだまだ完全なる勝利はつかめない。すると軍団がわずか1500人にまで減ってしまったマクドナルドが怒り狂って、兵力増強を望んできた。ナポレオンはこれに応えた。現在ヴァグラムを攻撃中のウジェーヌ軍を呼び戻し、新鋭親衛隊とヴレーデ隊を編成し直して、援軍に仕立てたのである。ナポレオンがヴレーデの宛てた指令がこのときの興奮を物語っている。「マクドナルドの劣勢を見よ。急げ! 彼らを助け、敵を粉砕せよ。とにかく、最善を尽くせ」。
『ナポレオン戦争 第4巻』P93




 1812年戦役では、ボロディノの戦いにはバイエルン軍では騎兵だけが参加したそうです(『バイエルン王国の誕生』P216)。

 撤退中の記述としては、11月第3週辺りのこととして、「北部の側面では、グルボコエ近辺のヴレーデがなおヴィトゲンシュタインの包囲網を逃れていたものの、ウディノとヴィクトールの両軍は徐々にロシア軍の術中に陥りつつあった。」とあります(『ナポレオン戦争 第4巻』P220)。これはヴレーデが有能であったことを示しているのでしょうか……?

 その後の動きとしては、『バイエルン王国の誕生』から(P216)。

 ドロワが戦死したあとバイエルン軍を指揮していたヴレーデは、ほかのフランス人将校の指揮下にはいることを拒否して、西に向かった。12月3日、ブレーデの部隊はベレジナ河を越えて撤退中のナポレオン軍本体を発見し、3日後に本体に合流した。ヴレーデの部隊はナポレオン軍の後衛に配属されて、撤退を続け、12月12日にようやくニエメン河に到達した。この時ヴレーデのそばには若干の将校と78人の兵士しかいなくなっていた。



 ヴレーデの元々の兵力に関しては、『ナポレオン戦争 第4巻』P236に、「時を同じくして、ヴレーデ将軍はグルボコエを放棄し、ヴィルナの東で皇帝と合流すべくドクチーツィへと退いた。だが彼の兵力1万1000は、主力軍とほぼ同様に激減した。」とあり、1万1000名が100名程度に減ったということなのでしょう……。


 ロシア遠征以降のバイエルン軍の動きについての記述が面白いので、ちょっと長めに引用してみます。ロシア遠征から帰ってきたバイエルン兵が1200人とありますが、これはヴレーデが指揮していた以外の側面防御部隊などからのもの?

 ロシア遠征軍崩壊の知らせを受けて、バイエルンでも軍隊の再建が始まっていたが、バイエルン政府は、新たに編成した部隊をナポレオンに供出することを渋るようになった。4月17日にロシア遠征部隊1200人がバイエルンに戻ってきた。これと引き換えに、バイエルンは新しい部隊をナポレオンに提供することになっていたが、口実を設けて出発を引き伸ばし、ナポレオンからマックス・ヨーゼフ【バイエルン国王】への直々の要請を受けて、ようやく新しい部隊8000人をテューリンゲンへ送り出した。この部隊はナポレオン軍の最右翼としてバウツェンの戦いに加わった。

 マックス・ヨーゼフも、モンジュラ【バイエルンを改革した政治家】も、すでに5月には長期的にはナポレオンは持ちこたえられないとみていた。しかし、いつナポレオンを見限るのか、その判断は難しかった。リュッツェンとバウツェンにおけるナポレオンの勝利をみて、マックス・ヨーゼフの迷いは一段と大きくなった。
『バイエルン王国の誕生』P218




 その後オーストリアが8月12日にフランスに宣戦。

 翌8月13日、バイエルン政府は、オーストリアを牽制することを口実にして、ヴレーデの指揮する部隊をオーストリア国境のブラウナウへ移動させた。これに対抗して、オーストリアも部隊をバイエルン国境に移動させたが、バイエルン側は内密にオーストリアに対して攻撃の意図がないことを連絡した。
『バイエルン王国の誕生』P219



 モンジュラはこれまで深くフランスとかかわってきたことを考慮して自ら表舞台に立つことを避け、国境でオーストリア軍と対峙していたヴレーデを仲介役としてオーストリア側と接触し、10月4日に対仏同盟への鞍替えについての交渉を開始した。

 10月7日、ヴレーデがオーストリアと締結する条約の最終案をもってミュンヘンに戻ってきた。マックス・ヨーゼフ、モンジュラ、ヴレーデの3人がボーゲンハウゼンのモンジュラの別荘に集まり、この条約案について協議を行った。マックス・ヨーゼフは条約案に強く反対したが、結局はヴレーデとモンジュラに説き伏せられて同意せざるをえなくなった。翌10月8日、国境近くのリートで、ヴレーデがバイエルンの代表として条約への調印を行った。

 このリート条約によって、バイエルンはライン連邦から離脱し、対仏同盟に3万6000人以上の軍隊を用意して参加することになった。……バイエルンは10月14日にフランスに宣戦した。翌10月15日、国境で対峙していたバイエルン軍とオーストリア軍は合流して、ヴレーデの指揮下にはいった。
『バイエルン王国の誕生』P220



 その翌日の10月16日から19日にかけて、ライプツィヒの戦いがおこなわれ、ナポレオンは敗北して退却します。

 10月22日にナポレオン敗北の知らせがバイエルンに届くと、ヴレーデは2万5000人の兵力を率いてマイン河畔のハーナウに向かい、ナポレオンの退路を断とうとした。しかし、10月30日、6万人の軍勢を率いてハーナウに現れたナポレオンはヴレーデ軍を一蹴してフランスに戻っていった。ハーナウの戦いはヴレーデ軍に9000人の損害をもたらし、ヴレーデも腹部に傷を負ったが、バイエルンがナポレオンと戦ったという実績をつくることになった。
『バイエルン王国の誕生』P221



 ハーナウの戦いについて、『ナポレオン戦争 第4巻』は1ページほどを割いて詳しく描写していますが、バイエルン軍側に関わる部分のみ引用してみます(P344)。


 新たに連合国側についたヴレーデ将軍指揮下のバイエルン軍とオーストリア軍4万3000が、フランス軍の退却ラインを封鎖するためドナウ川からフランケンへ北上していた。やがてこの軍勢は、ナポレオンの次の避難所であるフランクフルト・アム・マイン近郊の東数マイルにあるハーナウに到着した。ヴレーデは戦況の判断を完全に誤り、皇帝と彼の主力軍がもっと北寄りの道路に沿いコブレンツへ撤退しつつあり、自軍はせいぜい気落ちした2万の側面縦隊に向かい合うに過ぎないだろうという結論に達したのである。勢いのよい数日の小競り合いの後、成功を確信したこのバイエルンの将軍は、30日に彼が急いで選定した場所に部隊を配置した。つまりキンツィッヒ川を背に軍の中央部分を配し、右翼を南方に孤立させて置き、これをただ一本の橋で主力軍と結びつけたのである。

 ……【フランス軍の】威勢のよい連続砲撃は、すぐにヴレーデ軍の28門の大砲を沈黙させ、それからフランス軍の騎兵たちが、左翼を守っているヴレーデ軍の騎兵を一掃した。バイエルン軍は猛攻撃の前に後退した。旋回するフランス軍の騎兵よって側面を攻撃されたため、ヴレーデ軍の中央部は左手に血路を開かねばならず、キンツィッヒ川の岸辺を通り、その過程で多くの死傷者を出すという犠牲を被った。彼の右翼は、たったひとつの橋を渡ろうとして手をつけられぬほど混乱してしまい、主戦闘の行方に影響を及ぼすことができなかった。ヴレーデがランボイ橋からハーナウの街区に至る線上で自軍の残りを再結集できるようになる前に、何百もの兵がキンツィッヒ川で溺死した。翌日、フランス軍はハーナウ自体を難なく占領した。

 ナポレオンには、ヴレーデごときのためにさらに時間を浪費するつもりはなかった。



 ヴレーデごときと言われてしまいましたが……(^_^;


 1814年戦役では、2月1日のラ・ロティエールの戦いでヴレーデはフランス軍の左翼を崩壊させ(『ナポレオン戦争 第4巻』P36)たものの、直後の2月3日にはヴレーデはアルシ・シュール・オーブ近くでマルモンに裏をかかれた(『ナポレオン戦争 第4巻』P39)。その後3月20日には同じくアルシ・シュール・オーブを保持していたヴレーデの部隊が脆弱であることを知ったナポレオンがこれを攻撃しようと前進しようとした(『ナポレオン戦争 第4巻』P76)……というようなことが短く記述されているのみでした。


 ナポレオン退位後、ウィーン会議にも出席したヴレーデでしたが、「ヴレーデは外交官としての能力を欠いていたので、1815年2月末にナポレオンがエルバ島を脱出したのを機に軍務に戻り」(『バイエルン王国の誕生』P221)、その後バイエルン軍最高司令官として国内で重きをなしたようです。

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カルクロイト元帥が降伏しようとする

  『Jena to Eylau』を読んでいると、カルクロイト将軍に関して興味深い記述がありました(P8)。

 主力軍の指揮を王によって任されていたカルクロイト元帥は戦いの後、彼の部隊の一部をソメルダに集結させていた。これらの部隊と共に彼は16日の朝にノルトハウゼンに向かった王を追いかけようとしており、そのために彼は長々とした正式な書式にのっとった「作戦指令書」を書き上げた。Weissenseeにおいて約4マイル先に彼は、進路をふさいでいる少数のフランス軍騎兵師団を発見した。カルクロイトは配下に諸兵科混合の10,000名を擁しており、一方敵は2000の騎兵のみでしかもその地形は騎兵に最も適さないものであった。何という好機が彼に与えられたことか! 果敢に前進すれば輝かしい勝利が得られ、そのプロイセン軍勝利の報は全軍に新たな命を吹き込み、その知らせは瞬く間に広まったであろう! ところが、一滴の血も流されることはなかった。なぜなら休戦の旗の下で停戦の協定が結ばれ、そして結局カルクロイトは敵を迂回して進んだのである。結果としてはこのようになったにせよ、伝えられるところによれば(カルクロイト自身は否定しているが)、元帥は包囲されたのだと思い込み、降伏の話も上がっていたという。ところがこの同じカルクロイトがすぐ後のダンツィヒの防衛戦において勇敢な、我が国史の記憶に残る名誉を勝ち取ることになるのである。

 午後にもGreussenの近くで同じようなことが起こった。スールト元帥が軍団騎兵と共にプロイセン軍の隊列に出くわした。交渉が始まり、スールトはその交渉に同意したがそれは彼が手元に充分な兵力がなく、時間を稼ぎたかったからであった。この戦争がもう昔の話になってしまったかのように、カルクロイトはこのフランス軍元帥にプロイセン軍の状況について詳細に語った。たとえば、プロイセン軍はマクデブルク周辺で再集結中であるとか、ヴァイマール公 - この時までフランス軍は彼の移動について全く情報を持っていなかった - は依然としてかなりの兵力を持って後衛にいるが、それは補給状況の悪さによる、などなど、などなど。そしてスールトは充分な兵力を得るとプロイセン軍の後衛を攻撃し、大損害を与えたのであった。



 1806年戦役において降伏寸前までいっていたカルクロイト将軍は、後に1807年のダンツィヒ防衛戦において勇名を獲得することになるというのです。ですが、スールト元帥の前で再度利敵行為も……(^_^;


 カルクロイトという名前は一応見知ってはいたのですが、良く分からないので、人物辞典で調べてみました。↓肖像画はWikipediaから。Wikipeida英語版には項目がありますが、本に記述されてないような事項はなさそうなのでスルー。

Friedrich Adolf, Count von Kalckreuth

Kalkreuth, Field Marshal, Count von(fl.1793-1807)

 無名のドイツ起源のロシア兵士で、カルクロイトが最初に名声を獲得したのはフランス革命戦争における最初の大きな戦役中の1793年のマインツ攻囲戦における指揮によってであった。1807年に彼はダンツィヒの守備隊を指揮し、この重要なバルト海の港と要塞をルフェーブル元帥に対して長期間、攻勢防御によって維持し続けた。無能な同国人で若い指揮官であった小Kamenskoiが彼を助けるために突破を試みたにも関わらず、最終的に5月27日に降伏を余儀なくされたものの、寛大な条件を得て兵士や武器、荷馬車などをプロイセンが保持していたPillauへ待避させることを許された。
『Dictionary of the Napoleonic Wars』


Kalkreuth(or Kalckreuth),Field Marshal Friedrich Adolf, Graf von(1737-1818)

 1752年にプロイセン軍に入って七年戦争に従軍したが、フリードリヒ大王の弟のヘンリー王子との不和を受けて昇進は遅かった。彼は少将として1787年にオランダで、1792-4年には中将としてヴァルミー、Kaiserslauternなどで戦い、中でもマインツでの指揮が最も有名で大きく知られるようになった。1806年に彼は予備軍団を指揮し、一時はアウエルシュタットからの退却を援護したが、その後は目覚ましい働きをせず、ブリュッヒャーや他の者達の血気が降伏を思いとどまらせたのであった。だが、彼は翌年のダンツィヒ守備の時にその熟練した技術と実行力を見せ、2月中旬から5月26日まで守り通した。彼がもっと長くダンツィヒを保持できたか、救援が駆けつけたかあるいはよりありそうなこととしてフランス軍の連携がなったか、などは異論のあるところであるが、彼は有利な条件を引き出すことができたのだった(守備隊は武器を運び出し、1年は軍務に就かない)。攻囲を破る可能性のあったKamenskoi【最も有名なKamenskoiとは同名別人】の救援の試みの支援の失敗にも関わらず、その守備はカルクロイトと彼の守備隊の大きな名誉に繋がったのであった。その後元帥へと昇進し、ティルジットの交渉に参加し、ベルリン総督であった時に亡くなった。画家のGraf Stanislausとその息子Leopold von Kalkreuthは子孫である。
『Who was who Napoleonic Wars』



 試しに「Graf Stanislaus」「Leopold von Kalkreuth」で画像検索するとなかなかキレイな絵が出てきます。特に前者の方が私は好みですね。


 で、とりあえず他の資料でも、1806年戦役におけるカルクロイトの「降伏寸前」について調べてみました。

 まず『1806 Coming Storm』(P66)。

Weissensee
 ソメルダを王が出発した後、血気盛んなブリュッヒャーは自らがとる道を、やや西にあって約15km離れていたGreussenへと定めた。伯爵フリードリヒ・アドルフ・フォン・カルクロイト元帥はその後を追った。1時間の行軍の後、彼らはWeissensee村へ到達したが、そこで彼らはクライン将軍のフランス竜騎兵部隊が村を完全に占領しているのに気づいてひどく驚愕することになった。カルクロイトは麾下の2個予備師団が健在であるにも関わらず、降伏しようとした。だがブリュッヒャーはカルクロイトの降伏を抑えさせ、ナポレオンがプロイセン王に書いた和平を提案するものだという手紙を元に必死に交渉をおこなった。ブリュッヒャーは停戦が先ほど成立したばかりなのだという自らの言葉が真実であると確言した。クライン将軍はこれを信じ、このプロイセン軍中最も規律を保っていた部隊はGreussenへと、邪魔されることなく退却を続行できたのであった。



 『1806 Coming Storm』では、「カルクロイトが情けない」というよりは、「ブリュッヒャーがすげえ」という感じになっているように思います。

 次に『Napoleon's Conquest of Prussia 1806』(P197~)。えらい詳しいです。この本、古めでかつ権威ある本であるのか、参考文献として挙がっていることも多いですが、色んなことをまんべんなく記述しているというよりは、いくつかのエピソードを特に詳しく書いているという気がします。

 次に15日から16日にかけてのスールトの動きを我々は追うべきであろう。スールト元帥は夜明けに麾下の軽騎兵を送り出した後、自身は10時頃に皇帝からButtelstedtへ向かうようにと命令を受けて直ちに行軍を開始し、同地で大量の弾薬と、それに放棄された大砲や荷馬車を捕獲した。その前方にはカルクロイトの後衛がソメルダに、その西にはブリュッヒャーがいて、王は彼らに先行して集め得ただけの敗残兵達と共にいた。フリードリヒ・ヴィルヘルムがWeissenseeを出発したわずか1時間後に【フランス軍の】クラインがそこを占領し、クラインは自身がプロイセン王の部隊と、カルクロイト麾下の強力な後衛部隊との間にいることに気付いた。

 16日の朝、ソメルダから出発したタウエンツィーンが若干の騎兵と共に、カルクロイト部隊の前衛としてWeissenseeの前に到着した。タウエンツィーンはクラインの部隊がそこにいるのを見つけ、直ちにフランス軍の存在をカルクロイトに知らせるために伝令を送った。知らせを受けたこのプロイセンの将軍【カルクロイト】は、自分がスールトとWeissenseeにいる未知の戦力の間にいることを知って、脱出の望みを捨て降伏しようとした。だがそれはプロイセンのアウグスト王子【誰?】やブリュッヒャー、それにタウエンツィーンらから猛反対された。反対者達は皆、依然彼らが有している12,000のプロイセン兵で戦うこともなく降伏するなどという考えはあり得ないと憤激したのであった。結局、彼らプロイセン軍部隊の通行に関する交渉がクラインとの間でおこなわれたが、Hoepfner【1850年に『Der Krieg von 1806-1807』を書いたvon Hoepfnerのことか】によるとクラインはたった800騎を持っていたに過ぎず、またラサールがその西に来つつあったがそれとて軽騎兵2個連隊でしかなかった。クラインの側面を守る強力な部隊は存在しないということがプロイセン軍騎兵の偵察によって明らかとなった。この交渉に関するフランス側とプロイセン側の説明は異なっている。フランス側は、この時プロイセン軍の将軍達は最終的に停戦の結果を受け入れたと主張しており、一方プロイセン側の説明では、ブリュッヒャーとカルクロイトは王の停戦の提案は、ただナポレオンに好意が受け入れられるように送られたものに過ぎないと主張したのだという。

 ナポレオンが12日に書いた手紙がその目的地に着いたのは、アウエルシュタットの戦いの真っ最中であったことを思い出して欲しい。それへの返信の中で王は実際、停戦を提案していたが、その手紙が16日にヴァイマールにいたナポレオンの元に届いた時には、状況はまったく変わってしまっていた。フランス軍は2つの大勝利を得ており、プロイセン軍は破滅的状況にあった。それゆえ、ナポレオンがその勝利の果実を完全に収穫してしまう前に停戦が結ばれるというのは、ありそうにもないことであった。クラインがプロイセン軍側の説明にだまされたのか、あるいはHoepfnerの意見では、クラインは自分の持つ少ない部隊では抵抗は不可能だと考え、最大限できることとして交渉によって時間を稼ごうとしたのだというのだが、ともかく事実としてクラインとラサールはそのプロイセン軍部隊を通過させることに同意したのであった。このため彼らは非常に厳しく、Hoepfnerの意見では不当にも、ナポレオンによって譴責されることになった。確かにカルクロイトの行軍はこの交渉によって遅れ、16日の昼までにGreussenにまでしか進んでおらず、そこでスールト麾下の軽騎兵や騎馬砲兵が視界に入ってきたのであった。しかしスールトはその時歩兵の到着を待っていて、歩兵なしではあえて攻撃をおこなうことはできなかった。それゆえ彼は、時間を無駄にしてしまうのではないかと心配した。カルクロイトは再び降伏しかかったが、ブリュッヒャーの影響によりなんとか踏みとどまっていた。スールトは、彼が皇帝から通告されていないような停戦が存在するということを認めようとしなかった。だが、依然カルクロイトが停戦中であるということを強く主張し、【スールト?】元帥は条件を提案したがそのうちの一つが、もしそのような停戦が存在しないことが明らかになった場合にはカルクロイトは降伏するというものであった。スールトが予想した通り、これらの条件は拒否されたが、その頃には午後4時頃になっていて歩兵が到着しており、彼は交渉を打ち切り攻撃を開始した。Oswald麾下の歩兵の小部隊の援護の下、ブリュッヒャーの騎兵はHelde川を横切ってGreussenを通過しつつ退却した。

 スールトは今やエアフルトのミュラから派遣されたSahucの竜騎兵の増援を受けていたが、日没が追撃を妨げ、カルクロイトは少数の損害のみでノルトハウゼンへの行軍を続けることができた。

 だが17日の夜までにはスールトは再びカルクロイトを発見し、ノルトハウゼンまで数マイルの場所でカルクロイト軍の後衛を攻撃、さらに近隣の丘にカルクロイト軍が整列し、その前の平原に騎兵がいるのを見つけた。後者には第8ユサールと第22シャスールが突っ込み、捕虜と砲兵に若干の損害を出した。Legrand師団がその次に丘を攻撃し、1個旅団が左翼に彼らを引きつけた。しかしカルクロイトは再び退却しマクデブルクに到達しようとしてハルツ山脈を通過して行軍し、うち一部はHalberstadtを、一部はQuedlinburgを経由していった。これらの道路上をすでにホーエンローエが先行して通っていっており、彼の指揮下には全軍団からの敗走兵達が集められていた。スールトのこの前進や、ハレに向けてのベルナドットの進撃など、諸々のフランス軍の移動に関する情報が伝えられると、マクデブルクに到着できるということも決して確実ではなくなってきた。

 大混乱が支配した。飢えた兵士達はパン屋や火薬庫を収奪し、規律はなくなった。

 ホーエンローエは行軍を早めるために約40門の重砲を、Ellrich、Gittelde、Brunswickを経由してマクデブルクのエルベ川下流にあたるSandauへ向かうように命令していた。シャルンホルストはこの隊列に同行することになったが離ればなれになってしまったものの、最終的にブリュッヒャーの300~400の歩兵といくらかの騎兵とともに合流した。



 シャルンホルストとブリュッヒャーの合流に関して、この最後の部分で触れられています。


 で。全般にブリュッヒャーが(特に『1806 Coming Storm』の記述で)活躍していますから、1806年戦役について大した記述量のない『Blücher:Scourge of Napoleon』はともかくとして、ある程度記述のある『The Hussar General』ならば「ほら、こんなにブリュッヒャーは凄かったんだよ」という感じで記述があったのではないかと思って見返してみたら(P68)、全然ありませんでした(ぽかーん(゜Д゜))

 ブリュッヒャーは17日の夜明けに、脆弱なプロイセン軍後衛と共にソメルダを出発した。正午までに16km北にあるGreussenに彼は到着し、そこで彼はカルクロイトの軍に加わった。フランス軍諸連隊が、彼の背後にある丘を列を作って下山しているところだった。プロイセン軍は20km道を上がったSondershausenへ逆に逃げ、ブリュッヒャーは18日の早い時間にそこに着いた。二時間休んだ後、彼は退却中の部隊の残りに続いてNordhausenへと向かい、正午前にこれらの23kmをカバーした。その午後遅く、フランス軍の騎馬砲兵が非常に激しい砲撃をしてきた為、彼は騎兵指揮官にとって最もつらい決断をする事になった。ブリュッヒャーは彼の騎兵を守るために、歩兵をその運命に放り出して、歩兵を通過して退却させなければならなかったのである。状況はNordhausenで改善し、そこでブリュッヒャーはシャルンホルストを見つけた。シャルンホルストは貴重な砲兵をなんとか救い出していた。この2人は今や将軍と参謀長という様な形でのパートナーシップに入り、それは1813年に再びおこなわれ、それは軍事史の中で最も有名なものとなるのである。



 ただし、この記述の少し前、アウエルシュタットの戦いで退却が始まる直前の部分で、ブリュッヒャーとカルクロイトが王に反撃を要請したという記述を見つけました(P66)。

 フリードリヒ・フォン・カルクロイト将軍麾下のプロイセン軍の予備部隊は次の防衛地であるGernstadtに到着しており、カルクロイトが王に反撃を懇請しているのにブリュッヒャーも加わった。フリードリヒ・ヴィルヘルムは拒否した。彼は、イエナのホーエンローエとリュッヘルの側面軍は依然として無傷であると信じていた。彼は今や、退却し、彼らと合流する事を決定した。



 「ほんまかいな~?」と思って、そこらへんが一番詳しく書かれている可能性のある『1806 Coming Storm』で探してみたんですが……。P58がアウエルシュタットの戦いの最終局面で、カルクロイトの名前もいっぱい出てくるのですが、ざっと見た感じでは「カルクロイトの部隊は到着したが、フランス軍の砲撃にやられて退却しました」ということしか書いてないっっぽい……(^_^; ブリュッヒャーの名前も出てきません。……『The Hussar General』作者の創作?(T_T)

 長塚隆二氏の『ナポレオン』には、カルクロイトとスールト元帥とのやりとりが描写されています(下、P237)が、ここまでの資料とはまたニュアンスがかなり異なります(ナポレオンが出していた『大陸軍公報』に拠っているので、そっち方向にひきづられているのでしょうか)。とりあえず最初の行の「デンマーク国境に向かう」の件ですが、それは最終的にはそうであったものの、この時点ではブリュッヒャーらも北西に迂回しながらも最終目的地としてはベルリンの方向を目指していたと思われ……(そうでもないのかなぁ)。

 ……ベルナドットおよびスルト両軍は北西のデンマーク国境に向かうブリュッハーとワイマール公の部隊を追尾した。わずかな敗残兵を率いるプロイセンのカルクロイト将軍は、執拗に追ってくるフランス軍にたまりかねてスルト元帥に会見を求めた。武士の情けを請うためである。

「われわれをどうしようというのです? ブルンスヴィック公は亡くなり、わが軍の将軍たちは全員が戦死したり負傷したり、あるいは捕虜になったのです。わが軍の大部分が敗走しています。貴軍の勝利はかなりめざましいものです。わが国王は停戦を求められました。貴国の皇帝がこれに同意されないなんて、あり得ません」

「将軍、それはずっと昔からのわれわれにたいする敵の手口ですな。負けると大目に見てくれといってくるくせに、われわれがいつも示している寛大さをすぐに忘れてしまうのです。アウステルリッツの戦闘のあと、皇帝はロシア軍に対する停戦に応じられた。それなのにご存じのように、ロシアはこんにちけしからぬ態度に出ている。ロシアは雪辱戦を願っているという話です。われわれも返り討ちにあわせたくてうずうずしてますよ。彼らにもわれわれと同じような度量があるなら、われわれが勝っても寛大なところを発揮したあとでもあり、われわれをのんびりさせてくれたはずです。貴国が戦っている不当な戦争は、われわれがしかけたのではありません。あなたたちがみずからすすんで宣戦したのです。イェーナの戦闘で、戦いの帰趨が決まりました。われわれの仕事は、できるだけあなたたちを痛い目にあわせることです。武器を措きなさい。本官はその上で皇帝の命令を待ちましょう」(『大陸軍公報』第10号、10月18日)

 スルト元帥の理路整然とした論旨に、カルクロイト将軍は返すことばがなかった。




 カルクロイト将軍が活躍したという1807年のダンツィヒ防衛戦ですが、チャンドラーの『ナポレオン戦争』で記述を見つけてはいるのですが、まあまたの機会に。それほど「活躍」したのかどうか微妙のようではありますが……(^_^; それよりも、カルクロイトがどういう経緯を辿ってその後降伏せずにダンツィヒに入ることになったのかの方が、私は興味があります。


 あと、カルクロイト将軍に関して私が最初に認識したのは、ワーテルローの戦いに関して書かれた『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』からであったのですが、そこには以下のように書かれています(P99)。

 第2のグループはより年長で上級の将校達であって、クネーゼベックやカルクロイトや、クライスト、ヨルク、タウエンツィーン将軍などの以前の解放戦争指揮官達であった。これらの人々はその態度がより保守的で、彼らがあまりにもラディカルだと思う様な変化に対して抵抗していた。……カルクロイトは自身の立場を守るために陰謀を企てていた。……ベルリンにいたカルクロイトは、政治的人間関係の中心にいたのではなかったが、ブリュッヒャーと接触を取っており、ブリュッヒャーもまたプロイセンの首都にいたので、指揮権を受領する気を起こさせないようにしようとしていた。王の上級副官であるクネーゼベックは老齢のカルクロイトよりも影響力があった。



 単なる守旧派じゃないですかやだ~(T_T)

ミドルアース大阪(2015/3/21)

 ミドルアース大阪に行ってきました。

 この日の日本橋は年に一度のコスプレイベントが開催される日で、私は数年前から存在は知っていて一度行ってみたいとは思っていたのですが、今回初めてその日に行くことができました。

 が、コスプレ写真とかは撮ってないので、上から撮った写真を……。

CIMG2269.jpg

 これはまだすいている方だと思われ、もっと多い時間帯だと移動が困難なレベルでした(^_^;


 私は日本橋でいくつか所用を済ませた後、ミドルアースに入ってOCS『KOREA』のシナリオ5.9のセットアップをしていたんですが、どうにもしんどく……。

CIMG2270.jpg

 一眠りしてみたりしたんですが、どうにもダメっぽいので、諦めて帰ることにしました(^_^;

 職場で風邪が猛威を振るったりもしていて、そっち系かなと思っていたんですが、しかしむしろ花粉症が主原因ではないかという気もします。私は花粉症は目に一番つらく来る系なんですが、そっちも結構ここ1週間来ているし、のども何か気持ち悪く。花粉症対策何にもしてないんですよね(#^.^#)


 しかしそれだけではあまりにアレなので、他のテーブルの写真も撮っておきました。


CIMG2271.jpg

 シモニッチのスターリングラードの何か。


CIMG2272.jpg

 『信長後継者戦争』。多人数でプレイされていて、研究が盛んでした?

 その場の雑談で私言っていたんですが、私は対戦プレイよりも研究プレイが好きだということが最近ますますはっきりしてきました。人と争うなんて、私にはできません。戦争なんてダメです!(おい)


 で、帰りなんですが、戦車のプラモ?(塗装済み完成品)を飾る用のケースをまだ買ってなかったので、それを買おまいかと思って日本橋に繰り出したら、人数減っているかと思いきやイベント終了直後の時間に重なってしまい、初詣もかくやという動けなさにハマってしまい……。でも割とよさげで安めなケースが買えたので、よかったです。職場のフリースクールで戦車に興味を持っている子がいるので、その子(ら)向けに、私の手持ちの戦車を飾れるようにということで……。

不定詞王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世

 その後も1806年戦役のことを調べていて、ちょっと必要があって「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」で検索してたら、非常に面白いサイトを見つけました(かなり上位に出てくるのですが、全然気付いてませんでした)。

不定詞王 König Infinitiv


 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のしゃべった例が、以前フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像で書いていた「分かった。不愉快。」以外に数例出てきます。これを見ていると、『アレクサンドル1世』に出てきた長い言葉を彼がしゃべったというのは、かなり考えにくいという気がしますね~。


 また、彼の息子フリードリヒ・ヴィルヘルム4世のWikipediaの項(日本語)には、「父王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は断片的な単語と不定詞の組み合わせを吐き捨てるように発し、公式のスピーチを一度も行わなかった」とありました。「吐き捨てるように」ですか……(^_^;


 あと、その後に見つけたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に関する評を挙げておきます。

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
 やや憂鬱質の人物で、歴史上彼はひ弱な君主と見なされているが、しかし彼は歴史上最も過酷な悲劇の時期を通してプロイセンを導き、ヨーロッパの列強の位置へと引き上げた。
『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』肖像画下の説明


 不幸なフリードリヒ大王の甥の子は、抑制された孤独を好む少年から、本質的に弱く優柔不断な青年へと成長していた。1793年に対フランス戦から手を引いて以来、この王子は活発な17歳のAuguste Wilhelmine Amalie Luise of Mecklenburg-Strelitzの魅力の支配下にあった。
『1806 The Autumn of No Return』P10


あっけなく降伏したエアフルトの司令官は誰か?

 イエナ・アウエルシュタットの戦いの翌日(10月15日)におけるクライマックスは、エアフルトの降伏であるように思われます。

 地図を見るとエアフルトは、イエナ・アウエルシュタットから(ハレと共に)近い距離にある「プロイセン領内の」都市であり、未だフランス軍にとって無視できないほどの兵力を持ってはいたプロイセン軍はこのエアフルトやハレを拠点としていくばくかのことができたと考えられた……そうです。

 ↓今まであげていた地図の都市の位置が若干よくなく、修正しました。
1806_1812Map02ヴァイマル用地図01ct



 ところがエアフルトは、そこに集まってきていた8000~9000程度の兵と共にあっけなく降伏してしまったのです。しかもそのエアフルトの降伏に責任があると見なされたのは、かのオラニエ公(父。後のウィレム1世)であったらしいということを今までいくらか見てはいたのですが、詳細についてまったく分かってませんでした。

 ……というか、上掲地図の左上に少し見えているオレンジ色の部分はオランダなのですが、この当時のオランダはルイ・ボナパルトの統治によるホラント王国?(ルイ・ボナパルトのWikipediaによると「ルイは1806年6月22日にハーグに入り、バタヴィア共和国はホラント王国と名を改めて、ルイはホラント王ローデウェイク1世となった。」とありますが、その6月22日がホラント王国の成立日なのかどうかよく分からない……)

 で、Wikipediaのウィレム1世の項によると、

1795年、フランス軍の侵攻により共和国が崩壊すると、父に従ってイギリスに亡命した。1799年にはイギリス軍に加わって、フランスの属国となったオランダ(バタヴィア共和国)に侵攻したが撃退された。父ウィレム5世は亡命中の1802年にオラニエ公の称号(祖父ウィレム4世以降は名目のみとなっていた)とともに家督を譲り、1806年にドイツで死去した。

プロイセン軍に参加していたウィレムは1806年のイエナ・アウエルシュタット戦役のうちのアウエルシュタットの戦いで戦ったのち、その2日後にエアフルトをフランス軍に明け渡した。この重要な町のあっけない降伏に関して、後の調査委員会で大きな問題とされたが、義理の兄となっていたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が介入したため、処罰を免れた[1]。

 

 と、そういえば祖国を失って外国の軍に参加していたのでしたね……軽く失念していました(^_^; ドイツに来ていた経緯とか状況とかも知りたいところですが、それはともかく。


 諸資料でエアフルトの降伏について調べてみました。

 まずは『1806 Coming Storm』(P65)。

エアフルト
 ヴァイマール公爵はその時ちょうど20km東にいて、エアフルトの高地に近づいていた。その町の中は悲惨な様子だった。6000人の負傷兵がおり、そのほとんどの者は死にかけだった。それゆえここは大軍が留まるには適しなかった。メレンドルフ元帥はこの様子を見て、Langensalzaへと退却を続行することを決めた。近づきつつあるヴァイマール公の部隊は平静で堅固な状態を保っており、援護部隊として行動するために準備をしつつあった。彼の歩兵と砲兵はHarzへと向かい、その間ヴァイマール公は西方の高地に彼の騎兵を配置させた。

 プロイセン軍騎兵がGera川を渡ろうとしており、それらがフランス軍騎兵に追撃されているのが彼には見えた。彼の軽砲兵による砲撃で彼らは追い返された。彼は部隊の出発を急ぐようにと、何度も何度も町の中に伝令を送った。荷馬車は出発したが、部隊の出発は遅れていた。

 午後2:30、フランス軍のPreval大佐が停戦の旗を持ってエアフルトに到着し、即座の降伏を求めた。衛兵は彼に待つように要請した。将軍達は会議室に集まった。フォン・メレンドルフ陸軍元帥(Wichard Joachim Heinrich von Mollendorf)は依然健在である8~9,000のプロイセン兵およびザクセン兵に望みをかけることができていた。この84歳の元帥は、誰もが忘れることのできないリーダーであり続けてきた。ロイテンの教会付属の庭での彼の輝かしい指揮は50年の昔の話であった。だが誰かが降伏を提案した時、彼は激しく興奮し、何とか塞がっていたアウエルシュタットで受けた傷が開いてしまった。メレンドルフ元帥は意識を失い、部屋から運び出されることになった。この元帥が倒れるのを見て、司令官【the commandant】は彼の運命と諦めた。

 この間、ヴァイマール公は暗くなるまで町の外で待っていた。少数の敗残兵達が出てきて、降伏が差し迫っているという消息を伝えた。その後ヴァイマール公はLangensalzaへと出発した。

 その晩遅く、エアフルトは付属の強力な要塞であるPetersbergとCyriaxbergごと、大量の火薬弾薬と共に降伏した。午後10時、ネイの第Ⅵ軍団がこの町の門をくぐった。



 ヴァイマール公の健闘、メレンドルフ元帥の冗談のようなエピソードが印象的です。ちなみにメレンドルフ元帥については、『ナポレオン戦争 第三巻』においてこう書かれています(P31)。

 主席王室顧問であるフォン・モレンドルフは82歳とさらに年上であった。彼はフリードリヒのもとで素晴らしい成功を欲しいままにしたが、過去30年間は安全で用心深い方策を勧めることによって、名声を維持することにのみ汲々としていたのである。



 それはともかく、「降伏を決定した」のは誰なのか? 『1806 Coming Storm』では「the commandant」がそれに当たりそうですが、それが誰なのか明示されていません……。


 で、次に参照したのが『Napoleon's Conquest of Prussia - 1806』です(P193)。

 ミュラは騎兵予備の半分と共にエアフルトに向かい、その間残りはスールトを援護してButtelstedtへと移動することになっていた。15日の正午少し前にミュラはエアフルトの前に到着し、そこでLarisch【プロイセン軍の少将】が町の外の北へ向かう高地上に、Gera川と町を背にして整列しているのを発見した。Larischの位置は川の峡谷で町を後ろにするという悪いものであったため、フランス軍が現れると、彼は麾下の歩兵を要塞へと退却させた。彼の騎兵はその退却を援護しようとしていたが、ミュラの数に勝る騎兵に引きずられて橋で川を渡られてしまい、1個砲兵中隊が押し込まれて捕虜となってしまった。エアフルトの弱体な要塞の中に今や、10,000から12,000のプロイセン兵が集まっていた。最初に逃亡兵がエアフルトに到着した始めた時には、賢明にも彼らを中に入れないようにすることが計画された。ところが幾人かの将校が、彼らの名前は突き止められていないのだが、この命令を取り消し、それゆえエアフルトの町は混乱した部隊でいっぱいになり、この場での再編成は不可能となってしまったのだった。

 これらの逃亡兵達をこの要塞に入れるのを許可したのは、致命的な失敗であった。この状態の彼らは残念ながら、要塞化されて安全だと思われる場所に避難することだけを考えていたのである。彼らを再びそこから出発させるというのは、まったくの問題外であった。

 メレンドルフ元帥は、エアフルトが明らかに大軍がいるのに適さないと見て、適切にもLangensalzaへの退却を続行することに決定したが、それを援護するのはヴァイマル公の部隊であり、この部隊は戦いを経ておらず、形はどうあれ士気阻喪していなかった。彼は荷列に直ちに出発を命じ、騎兵には午後4時に出発し、歩兵にはその一時間後に出発することを命じた。公もまた、エアフルトから急いで離れるべきである必要性を見て取り、彼の歩兵と重砲兵を午後1時に送り出す一方で、その彼の隊列とエアフルトにいる部隊の隊列の行軍を援護するためにエアフルトの西の高台へと彼の騎兵と騎馬砲兵を移動させた。この場所から彼は、Gera川を渡って退却するLarischの騎兵を追撃してくるフランス軍騎兵に砲撃を食らわせ、それらを止めることに成功した。彼はエアフルトの中に何度も何度も、部隊の行軍を急ぐように伝令を送ったが、無駄であった。

 午後2時30分頃、フランス軍のPre'val大佐が休戦の旗を持ってエアフルトに到着し、エアフルトの降伏を求めた。最初、その司令官【the commandant】は抵抗すると言っていたのだが、すぐに彼の勇気は雲散霧消してしまい、交渉が開始された。老いて、かつ激しく負傷していたメルレンドルフ元帥は必死で自らの義務を果たそうとしたが、興奮して傷口が再度開いてしまい、彼は気絶した状態で会議室から運び出された。その夜に降伏が調印され、そのために少なくとも10,000のプロイセン兵とザクセン兵が捕虜としてミュラの手に落ちた。ネイの歩兵が到着し始めたのは午後10時よりも後であり、ミュラの騎兵の戦力はエアフルトの守備隊の戦力にまったく及ばなかったのにである。エアフルトのみならず、強力な砦であったPetersbergとCyriaxbergも降伏し、そこには膨大な火薬と弾薬とが貯蔵されていた。このエアフルトの降伏こそはその後に続いた気弱なプロイセン軍司令官達の降伏の連鎖の始まりであり、プロイセン軍の逆境を激しく増大させ、ナポレオン軍の機動を容易にさせた。もしエアフルトがたとえ数日でも保持されたならば、皇帝がマグデブルクへと追撃のために発することのできた大部隊のうちのかなりの部分を、その面前に拘束したに違いないのである。



 こちらの方が文章量が多くて詳しいのですが、これも「the commandant」と書いてあってしかもそれが誰であるのか明示されてない。ただ、エアフルトがもし降伏しなかった場合の影響について書いてあるが目を引きます。


 それと前後して参照してみたのが、英語版Wikipediaにあった「Capitulation of Erfurt」の項。

■降伏
 14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いの後、多くの避難民がエアフルトに来た。最初、彼らは入ることを拒絶されたが、のちにその複数の門は開けられ、すぐにエアフルトは少なくとも12,000名の士気阻喪した兵士達でいっぱいになった。幾人かの将校らは彼らを元の連隊に戻そうとしたが、兵士達はそれに従おうとしなかった。15日の昼までに、ミュラは彼の騎兵の先頭部隊と共にエアフルトの近くまで来ていた。von Jung-Larisch少将がエアフルトの正面の戦線に立っていた。彼の占めていた位置はGera川を背にした良くないものであったため、彼は麾下の歩兵にエアフルトに退却するように命じた。ミュラの騎兵はJung-Larischの騎兵に突撃して川向こうに追いやり、1個砲兵中隊を捕らえた。この行動の損失は記されていない[10:Petre,193]。

 ザクセン・ヴァイマール公の師団は10月14日の戦いを経ておらず、エアフルトの西にすぐに現れた。メレンドルフ元帥は北西のBad Langensalzaに向けてエアフルトから秩序正しい退却を組織することを試みて、ザクセン・ヴァイマール公にこの移動を援護するよう命じた。荷馬車列がこの退却の先頭となり、騎兵がそれに続き、その後に歩兵が続くことになっていた。だがアウエルシュタットの戦いで負傷していたメレンドルフは倒れてしまい、この行動を遂行することは不可能となった[11:Petre,194]。

 午後2:30、ミュラはフランス軍大佐Claude Antoine Hippolyte Pre'valに休戦の旗を持たせてエアフルトに赴かせた。この大佐は即座の降伏を要求したが、プロイセン軍側の要塞司令官は最初これを拒絶した。エアフルト近くに留まっていたザクセン・ヴァイマール公は多くの部隊が退却に参加することを望んでいたが、そうした者はほとんどいなかった。夜になって、ザクセン・ヴァイマール公はLangensalzaに向けて退却した。Johann Friedrich Winning将軍の派遣部隊と合流した後、彼は12,000の兵と24門の大砲を、14個大隊、30個騎兵中隊、3個砲兵中隊の中に持つこととなった[12:Petre,195]。

 メレンドルフ抜きで、この要塞司令官【the fortress commandant】の決心は弱まり、砕けた。この夜、彼は降伏文書にサインした。その条項にはPetersberg要塞と大量の弾薬と弾丸の引き渡しも含まれていた[12:Petre,195]。

 結局、オラニエ公の指揮下にあった約12,000のプロイセン兵とザクセン兵が捕虜となり、65門の大砲が接収された。



 注釈の「Petre」というのは前掲の『Napoleon's Conquest of Prussia - 1806』の著者で、基本的にそれをもとに、少し情報が追加されて分かりやすく書かれているようです。が、降伏したという「the fortress commandant」の名前がまたもや書かれていないような!? ただ、最後の行に「オラニエ公」の名前が出てきます。「どういうことやねん……」と怪しんでいたら、このページの一番上の右のまとめ的な部分の「Commanders and leaders」の項には「Prince of Orange」とばっちり書いてあるのを発見。

 『ということはやはり、ここまでの資料に出てきた「the commandant」とはオラニエ公のことなのか? しかしなぜその名前をはっきり明示しないのか???』

 と疑問だらけ……。


 ところがその後、『Clausewitz Excerpts from Notes on Prussia 1806』という資料を見つけて読んでみたら、ごく短い文であるにも関わらず、メレンドルフ元帥の代わりにオラニエ公がなっていたことが注釈に書かれていました。

 フランス軍のミュラはまだエアフルト正面におり、そこでメルレンドルフ元帥は約14,000名の兵士と共に16日の朝に降伏した(注:正式な降伏調印は15日から16日にかけての夜におこなわれた。倒れていたメルレンドルフ元帥の代わりをオラニエ公が務めていた。14,000ではなく、約10,000名が降伏した - W.D.Files,E III,64.)



 その後に『Jena to Eylau』を見たのですが、ばっちりメレンドルフ元帥の代理となっていたオラニエ公が降伏したことが書かれていたという……(P9)。

 一方その間、15日には、エアフルトが不名誉にもほとんど必然性を欠いたまま、ミュラの騎兵に対して降伏していた。敗走する部隊の中で最も階級の高かったメレンドルフ老元帥はこの地に到着し、激しい疲労のために部屋に運び込まれていた。その代理となっていたオラニエ公がエアフルトの降伏に調印したのであったが、これはオラニエ公が王と義兄弟でかつ王の将軍となっていたことに対する二重の裏切りであった。この要塞司令官は意志の弱い人物で【The fortress commandant, a weak man,】、この降伏を受け入れ、その場にいた将軍達も誰も反対しなかった。良好な状態に保持され、Langensalzaへ向かっての行軍の準備を完了して待っている部隊もあった。だがその移動は実行してみようと試みられることもなく不可能だと判断され、またその試みがもし失敗してしまったらという最悪の可能性が根拠もなく、また検討されることもなく皆に受け入れられたのであった。



 私のそれまでのもやもやを返せ~!! しかしなぜ最初の方に挙げた文献は、オラニエ公の名前を明示しないのでしょうか? フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の妹の夫だから? って、むしろそこらへんを最も斟酌しそうなドイツ帝国将校の『Jena to Eylau』の著者のゴルツがちゃんと書いてあるのに、恐らく最新の本である『1806 Coming Storm』(ただし研究本というよりはゲーム向けの面白資料本により近い可能性も……?)にも書いてないということはなんらかの意味があるのでしょうか?


 ところで、前掲書はその後次のように続きます(P10)。

 自らの軍団と共に近づきつつあったヴァイマール公も、エアフルト要塞の中や周辺に群がっている部隊を撤退させるために真剣な努力は傾けなかった。ところがそのような中、その後の18日にPletzユサールのvon Hellwig中尉はエアフルトから護送されている途中の約4000名の捕虜をGothaとEisenachの間で奪回するという非常に大胆なことをやってのけた。現在ではこの英雄の名前はほとんど忘れられてしまっているが、大きな災厄の中での偉大な行為という二重の意味で、不朽の名声を得るのに値するであろう。



 別の資料(とりあえず「エアフルトの降伏」の英語版Wikipediaにあるのは確実)で、この「捕虜を奪回される」という失態を犯したフランス軍指揮官はナポレオンに大激怒されたと書いてあったような気がします。これは確かに、プロイセン軍の中の誉められるべき例であるように思います。


 あと、メレンドルフ元帥ですが、『1806 Coming Storm』では「誰かが降伏を提案した時、彼は激しく興奮し、何とか塞がっていたアウエルシュタットで受けた傷が開いてしまった。」と非常に印象的だったのですが、『Napoleon's Conquest of Prussia - 1806』では「老いて、かつ激しく負傷していたメルレンドルフ元帥は必死で自らの義務を果たそうとしたが、興奮して傷口が再度開いてしまい、彼は気絶した状態で会議室から運び出された。」と若干トーンダウン。ところがそれが『Jena to Eylau』では「敗走する部隊の中で最も階級の高かったメレンドルフ老元帥はこの地に到着し、激しい疲労のために部屋に運び込まれていた。」と、そもそも会議に出ることもなく倒れていたかのように書かれています。Wikipediaではメレンドルフがなぜ倒れたについては言及しておらず、そこらへん用心深さを感じます。

 個人的には、メレンドルフ元帥が「降伏の提案を聞いて激しく興奮して倒れた」のであったならば、その代理となったオラニエ公が降伏を決めることはむしろ難しくなったのではないかという気がします。むしろその会議の場に出ることもできず倒れていたならば、オラニエ公としては降伏するしかないと思った、というのの方があり得るような……。また、『ナポレオン戦争 第三巻』にあるような「安全で用心深い方策を勧めることによって、名声を維持することにのみ汲々としていた」というメレンドルフ像にもその方が合致するような気がします。


ゲームマーケットで仁川上陸作戦

 ゲームマーケット大阪に行ってました。

 昼過ぎまでは中古品/新古品ゲームコーナーにいまして、体調の問題もあってだいぶ疲れたので休みながら午後から、来られていた下野守さんにセットアップを手伝ってもらいながらOCS『KOREA』の仁川上陸作戦(マッカーサーの勝利シナリオ)をやってみてました。

 仁川上陸作戦は一回やっていたものの、だいぶ忘れていて最初補給物資を揚げずにやっていたりした(^_^;のですが、やりなおしまして(それでもルールミスがまだ全然残っている可能性も)。

CIMG2240.jpg

 下野守さんのダイス目が恐ろしいほど良く、仁川上陸の後の金浦空港ヘクスへの攻撃でも突破の結果を獲得して、アメリカ海兵隊1個連隊に漢江を渡河させて鉄道線をカット。

 第2ターン表は北朝鮮軍が取ったのですが大したこともできず……。


CIMG2242.jpg

 第2ターン裏のソウルへのスカイレイダー(AD)の爆撃で守備の北朝鮮軍ユニットが1ステップロスし、すわとそこをボコ殴りにしてさらに突破の結果で残り1つのソウルの守備隊も壊滅させ、ソウル3ヘクスをすべて取ってしまいました。

 下野守さんのダイス目、良すぎ……(^_^;

 事前に戦力比などから計算していたんですが、スカイレイダーによる北朝鮮軍ユニット1ステップロスがなければ、そんなに楽に占領できる見通しではなかったです。

 あと、前回の反省を活かして強襲揚陸艦の上陸位置を変えていたり、第2ターンに司令部を上陸させていたり、空挺部隊を空輸していたりと、不利な要素を消して有利な要素を増やしていたという面はあるかと思います。


 それに対して北朝鮮軍側は何ができるのかというと、とりあえずソウルの南側に現れる戦車と自動車化歩兵ユニットを、全力でソウル市内に入れてソウル市内におけるステップ数を増やすくらいかなと……。鉄道線が敵ユニット&敵ZOCで妨害されていなければ、鉄道輸送で送り込むこともできるのですがしかしこれはさすがに国連軍側はカットしてくるでしょう。

 しかし、国連軍に不利なルールを見落としている可能性も高いです(^_^;


 ゲームマーケットでは私はゲームは何も買わず、大木毅さんの戦史エッセイ集の3と4だけを購入しました。風邪の治りかけの終盤はいつもそうなのですがふらつきがありまして(今回特にひどいです)、会場でじっくり吟味してゲームを買うということができませんでした。

 むしろ、サンセットゲームズブースでは『Reluctant Enemies』が4つも売れたとか、マッカーサーの勝利シナリオを終えた後で『KOREA』を買ってまだプレイしてないんだけど……という方が来られて色々話してたりとか、旧知の方がOCSやってみようかなと仰ってたりとか、「お、OCS広がってる?」という感じを受けたのが嬉しかったですね。

 あと、中古ゲームを出品してたんですが、『これは買いだな』と買って行かれる方々の様子を見ていて「向こうでかわいがってもらえよ~」という気持ちで嬉しかったです。
今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


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