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ブリュッヒャーとシャルンホルストは知り合いだった?

 38度の熱を出して静養中で頭が働かないんですが、その中でも何かできることをと探していて、以前一部を訳して冊子化していた『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』を見ていたら、ブリュッヒャーとシャルンホルストが1806年以前から知り合いだったという記述を見つけました。

 フランス革命の大きな変革は、戦争と社会と未来への目的を大量の軍事雑誌上で議論する事をもたらした。シャルンホルストはこの様な雑誌のうちの一つの発行者であり、ブリュッヒャーやリュッヘルのような1806年の戦役の高級指揮官のような様々な人物からの尊敬を獲得していた。

 ……【中略】

 【アウエルシュタットの敗戦後】混乱の中で王の司令部から離れてしまっていたシャルンホルストは、重砲兵の退却を援護しようとしているブリュッヒャーと偶然出会った。その二人はすでに知り合いであったので、ブリュッヒャーは躊躇せずにシャルンホルストをその戦役の残りの期間の助言者に任命し、その中でバルト海のリューベックへの退却戦を戦った。
『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』P60



 ただ一応このように書かれてはいますが、1806年以前にリュッヘルとシャルンホルストがお互いに尊敬する仲であったことは『広義の軍事史と近世ドイツ』で1章を割いて(第11章 リュヒェルとシャルンホルスト。P243~262)書かれているのを見つけているもののブリュッヒャーについては他に資料を見つけられておらず、「その二人はすでに知り合いであったので」の部分も、「それはそうだろうと思うけど」という感じで、なんかあまり喜べる証拠とは言えないような気がします(^_^;

 しかしまあ、見つけたことを小出しでも書いていく(そうでないと自分の中でも忘れてしまう)ということで……。




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ヴァイマール公妃ルイーゼの勇気

 ヴァイマール公関係の続きです。

 イエナ・アウエルシュタットの戦いの後、ヴァイマールの町は戦場にも近かった(また、ヴァイマールの町は両会戦の場所よりもフランス寄りですが、残ったプロイセン軍はそのフランス寄りの方向に逃げた*)ため、フランス軍によって占領されることになりました。

*これはフランス軍がよりベルリン寄りの方向にすでに侵入していたという事情もありますけども、これまでも挙げていた地図を見ると、両会戦のあった場所からベルリンに向かうとすると、同盟を強制したに過ぎなく寝返りつつある状況のザクセン国内を通ることになってしまい、それよりはいったんプロイセン領であるエアフルトに入って、そこからブラウンシュヴァイク公国、さらにマグデブルク……という経路を通った方が主に自領や同盟領内を通れるので、という事情があったのではないかと推測したりするのですが、あくまで推測に過ぎないので全然違うかもしれません(バキッ!!☆/(x_x))。しかし実際、逃げるプロイセン軍の多くはその経路を通っていったのです。


 で、その占領の時にフランス軍の誰それ将軍がどうしたとか、ゲーテの家がオージュローの司令部として提供されて、その際にゲーテの20年来の恋人の勇敢さに感動してゲーテが正式な結婚を決めたとかってな関係のことが『1806 Coming Storm』のP62に半ページほどの分量で記述されているんですが、どうもなんかあまり興味が持てないのでパスしまして(おい)。


 より興味があるのは、ヴァイマール・ザクセン公国の王族らが逃げ出す中、唯一国に残ってナポレオンを迎えたヴァイマール公妃ルイーゼについてです。

 以下、『ナポレオン大いに語る』P104~6ですが、「大公」とあるのはこの時代においては「公」の間違いではないかと思います(ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国を見ると、「1741年から1815年まで公国、1815年から1918年まで大公国」とありますので)。



 イエナの戦いののち、ナポレオンがヴァイマール入りするものと予想されたので、ヴァイマール大公の家族はブラウンシュヴァイクに避難した。ヴァイマール大公がプロイセン軍に与したことから、ナポレオンの報復を恐れたからである。ただルイーゼ大公妃のみは残留を決意した。彼女は女官たちと共に宮殿の一隅で暮らしていたが、皇帝のためには豪華な居室を準備させた。皇帝が到着した時、大公妃は質素な彼女の居室を出た。ナポレオンをしかるべき礼儀作法に基づき戸外の階段で迎え入れるためである。
「あなたはどなただ?」
 皇帝は彼女に気づきたずねた。
「私はヴァイマール大公妃です」
「それは残念だ。私はあなたのご主人を撃滅するつもりだから!」
 ナポレオンはその後は彼女に一顧も与えず、自分に用意された居室に入っていった。翌日大公妃は、すでにヴァイマール市内でフランス軍による略奪が始まったことを聞いた。彼女はその実情を質すため、ナポレオンと会うべく侍従の一人を皇帝のもとに差し向けたところ、皇帝は喜んで大公妃と朝食を共にする意向だということであった。
 皇帝は彼女に会うといつもの習慣どおり、ありとあらゆることについて質問した。
「あなたのご主人は私と戦争しようとするほどまぬけなのか?」
「主人が別の行動をとったとしたら、きっとあなたは彼を軽蔑したでしょう」
「なぜだ?」
「私の主人は30年間、プロイセンに仕えました。主人は陛下、あなたのような強敵と戦わねばならなくなったプロイセン国王を、どうして不名誉にも見捨てることができましょうか」
 この巧妙でしかも高貴な返答は皇帝の気持ちをなごませた。
「だがヴァイマール大公がオーストリアでなくプロイセンに与したのはどうしてか?」
「陛下もご存じのように、ザクセン王家の若い分枝(ヴァイマール大公も含まれる)はいずれもプロイセン選帝侯の模範にしたがっています。ザクセン王家のフリードリヒ・アウグストの政策はオーストリアよりもプロイセン寄りになっていたため、ヴァイマール大公もその例にならわざるを得なかったのです」
 二人の会談は同じような調子で、しかも同じ問題をめぐってしばらく続けられた。その際ルイーゼ大公妃は精神と魂の卓越さを示した。最後にナポレオンは言った。
「あなたは私がこれまで知り合いになったなかでも、もっとも尊敬すべき婦人だ。あなたはご主人を救った。私はご主人を許そう。しかし彼が許されるのは、まったくあなたのおかげだ」




 『1806 Coming Storm』でもいくらかこの件について触れられていますが、状況やニュアンスが幾分異なってました。

【10月15日】
ヴァイマール
 ヴァイマール公夫人はナポレオンに会うために馬に乗って出発した。道路の騒々しさに動揺しながら、彼女は話しかけた。
「陛下、我が国民をお委ねいたします」
「どうです、夫人。戦争というものが分かったでしょう」
 彼は冷たく返答した。
 午前9時、ナポレオンはアウエルシュタットの大会戦に関するダヴーの最初の報告を受け取った。その後彼はヴァイマール宮殿の彼の区画への階段を大股で駆け上がった。昼食時に彼はザクセン・ヴァイマールのアウグスト公がプロイセン軍の1個軍団を指揮していることに不満を述べた。
『1806 Coming Storm』P65

【10月16日】
ヴァイマール、午後5時
 ナポレオンはヴァイマール公夫人との夕食に同意し、ヴァイマール公に対する感情を和らげたが、しかし依然としてヴァイマール公が指揮を返上し、すぐにヴァイマールに帰還することを強く要求していた。
「夫人」
 皇帝は彼女に言った。
「あなたが私が来るのを待っていたことを、嬉しく思う。私があなたのご主人を許すのは、あなたが持っていた私に対する信頼ゆえである」(注24:Constant, Chapt.XII)
 彼はラップに言った。
「あの女性は我々の200門の大砲を恐れていないのだ」
『1806 Coming Storm』P68



 「陛下、我が国民をお委ねいたします」と訳した部分ですが、原文では"Sire, I recommend my subjects to you."で、recommendの意味が「推薦する」「提示する」辺りでは通らないと思うので悩んだのですが、『ランダムハウス英和大辞典 第2版』にあった「《古》託する、ゆだねる、任せる」が適当かなと思ってそうしてみましたが、どうなのか……。subjectsを「国民(臣民)」と訳すのが良くないかも?

 というのは、ルイーゼ公妃のWikipediaには「彼女はナポレオンと交渉し、フランス軍がヴァイマルを掠奪しないよう求めた。」とあって、そことえらく矛盾するような気がしまして。いやしかし、そういう矛盾があるものなのだと理解した方がよい……?


 あと、『ナポレオン大いに語る』にはヴァイマール公の臣下とナポレオンとの対話もあるのですが、その中にこうありました(P108)。

 ……私の最大の敵ブラウンシュヴァイク大公すら、部隊をプロイセンに派遣しなかった。ゴータ大公もそんなことは夢想だにしなかった。ところがあなたの主君は指揮を委ねられたため喜々としてプロイセン軍に協力した。



 ヴァイマール公とは?の最後で引用してましたように、ヴァイマール公国は兵775名と馬107頭を1806年戦役に提供していたようですが、ブラウンシュヴァイク公は自分の国から兵隊を提供していなかった? 両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公のコメントに書いてましたように、彼の長男は従軍して戦死しているようですが……。

 ブラウンシュヴァイク公はこの1806年戦役の指揮をとることに乗り気でなかったと諸資料にあったような気がしますから、それゆえに自国軍を従軍させなかったのでしょうか。

OCSスターターガイドから気づいたこと

 『Reluctant Enemies』に同梱にOCSスターターガイドを訳していたんですが、そこで自分のルール理解の間違いらしきもの&抜けを発見しました。以下、ご報告まで。


12.5e 12.5c(B)項で燃料を与えた司令部は、(3.2f 項で定義された)独立ユニットに“ノーコスト” で(フェイズ毎に通常1T 支払うのを無視して)燃料を与えることができます。その補給範囲は各独立ユニットが移動を始める時に判定されます。
 √√燃料を供給する司令部は各フェイズに単一の場所からのみ燃料を与えることができます。これは移動を行う司令部にも適用されるため、移動前の位置から補給を与えるか、移動後の位置から補給を与えるかを選択しなければなりません。



 12.5c(B)というのは「補給範囲内の独立ユニットに1SPで燃料をまとめて供給できる」というルールなんですが、それはそれとして……。

 √√以下の部分は私もだいぶ気にしてまして、厳格に守るようにしてました。が、私はここを「すべての燃料を単一の場所から与えなければならない」と理解してまして、複数ユニットフォーメーションへの1SP一括支払いも、1Tずつ支払いも含まれるのだと考えてました。

 が。OCSスターターガイドの一番最後の辺りの燃料に関する細かい部分の記述を読んでいると……。

●ある司令部が独立ユニットに燃料を与えることができるのは、フェイズ毎に一カ所からのみです(OCSルール12.5e)。このため司令部が移動する場合には、移動前にいた場所から燃料を与えるのか、それとも移動後の場所から燃料を与えるのかを選択しなければなりません。その司令部自身が移動するためにも通常通り燃料が供給されねばなりませんから、複数ユニットフォーメーションの司令部は独立ユニットに対してと同じように自分自身に燃料を1T払って供給し、その後その司令部が移動してから複数ユニットフォーメーションに燃料を入れるために1SPを与えるということがあるかもしれません。



 後半、誤訳でなければ、「移動前に自分に1T払い、移動後に複数ユニットフォーメーションに1SP払う」ことが可能であるように読めます。そして前半部分に、「独立ユニットに燃料を与えることができるのは……」とあります。ということは、一カ所からのみという制限は独立ユニットに対してのみだけ適用される?

 改めて前掲の12.5eを見てみると、√√部分の前は独立ユニット関係の記述なわけで、この2つは違うことに関する言及ではなく、√√部分にはその「独立ユニット」にはという括りがかけられていた?


 こかどさんにも聞いてみたところ、「そうじゃない?」という返答でもあったので、今後一応そう理解しようかと(^_^; しかしもし誤訳でしたら、ぜひご指摘下さい>皆様


 あと、12.5eの前半部分ですが、そこだけ見ていると若干意味不明な気がするのですが、「いったんある司令部に燃料マーカーが載せられたら、各移動セグメント毎にその補給範囲内の(移動開始前の)独立ユニットには燃料が供給されていると見なすよ」ということを言いたいのだと解すれば、全然意味不明でない気がします。ただそのためには、(原文にはないですが)「各移動セグメント毎に」という語句が挿入された方が良かったような気がしますね……。

 ↑これも自分の中では「多分そうなのだろうな……」くらいの確度に過ぎないので、異論などありましたらぜひお願いします。


 それから、「抜け」に関してですが、スターターガイドにこうありました。

●気付かれにくい細則としてOCSルール13.1dというのがあります。その内容は、司令部は通常史実での指揮系統に縛られずに独立ユニットに燃料を供給できますが、師団司令部のみは自身に所属しているユニットか、あるいは同一国籍の独立ユニット(OCSルール3.2eで定義されています)にしか燃料を供給できないというものです。もしある師団司令部がこの両方をおこなうならば、その師団所属ユニット全体に1SPを払い、また指揮範囲内の独立ユニットにさらに1SPを払うわけですが、それらは同一国籍でなければならないわけです。


 これ、まったく意識してませんでした。ただ、司令部は軍団規模とか軍規模であることが多いと思うので、師団司令部がどれだけあったかというと……見てみると、今まで私がある程度以上やった、『The Blitzkrieg Legend』『TUNISIA』『KOREA』を見た限りでは存在しなかった……? ただ、『Reluctant Enemies』には結構存在するのですが、選択ルールを使用しなければ別に気にする必要はない?

 ところが『KOREA』特別ルール2.9で、中国軍の軍司令部と方面軍司令部にはこの制限を適用する……とかってあるので、そこに気をつけなければなりません。もっとも、この制限のためにユニットにカラーストライプが入れられているので「この帯ってなんのため?」と気になって気づきやすくはなってると思いました。

OCS『KOREA』中国軍第二次攻勢シナリオ

 ミドルアース大阪で私はOCS『KOREA』で中国軍が出てくる最初のシナリオを、こかどさんの突っ込みを時々もらいつつソロプレイしてました。


 ↓そのシナリオ5.8の初期配置です。

CIMG1868.jpg

 このシナリオは中国軍が突如参戦してきた10月末の第1次攻勢を扱うものではなく(そのシナリオは入ってないのです)、そのあと11月25日からの第二次攻勢を扱っています。しかしこの第二次攻勢に国連軍は耐えられず、マッカーサーは38度線までの総退却をおこなうことになりました。

 シナリオ上の勝利条件は、9ターンで平壌(と東海岸の港湾都市)を占領すれば共産軍の勝ちです(そして史実上は勝利した)。が、セットアップした感じでは、確かに共産軍の方が少し戦力的には優越している(トータルで1.3倍から1.4倍くらい?)とは思いましたが、「そこまで勝てるものなのかな?」と若干いぶかしく感じました。

 しかしまあとりあえずやってみました。第1ターンは共産軍のみで、第2ターンのイニシアティブを共産側が取ったのでダブルムーブしてみた結果が↓です。

CIMG1869.jpg

 3本の矢のうち、事前にある程度重点を置いていたのは西側の2本の矢だったのですが、実際やってみると一番東側の、米軍ではなく韓国軍の戦線を食い破るのが非常に有望そうでした。米軍は基本的に8とか10とかの戦力のユニットでいるのですが、韓国軍は3とか4のユニットなので、全然違います。

 ただ、韓国軍側の戦線には鉄道線が走ってなくて自軍の一般補給を通す上では米軍をどかさなければならないのですが、共産軍も補給範囲の長い司令部をいくつか持っていて、それをうまく運用すれば当面補給路に問題はなく、そして韓国軍の戦線が崩壊してしまえば米軍もその位置を保持できるものではないので下がらざるを得ないと思われます。

 その後、国連軍が裏、表とダブルムーブを取りまして、その結果(第3ターン表はほんの少し戦線を整理しただけでしたが)。

CIMG1870.jpg

 米軍は川沿いに戦線を張っていますが、基本的に1ヘクスに1ステップずつしかいません。韓国軍側の戦線は弱体なままです。

 プレイ途中で気付いたのですが、中国軍ユニットは1ユニットだけある騎兵ユニット以外はすべて3ステップを持つ師団ユニット(12-4-3とか12-3-3)で、そして米軍側は10-4-3とか8-3-3とかも多いですが、しかしすべてが1ステップユニットです。ということはどういうことかといいますと、1ステップ毎の損害が中国軍は4戦力であるのに対して、米軍は平均7戦力とかで、しかもユニット自体が吹っ飛ぶということ。

 ですから米軍は川沿いで守っていても、中国軍の攻勢でAo1/Do1、あるいはAL1/Do1の結果程度でその川沿いのヘクスから退却しなければならない。まして川沿いでない場所で、Ao1/DL1o1とかでも出ようなら中国軍は圧倒的大勝利、AL1/DL1o1でも大勝利ということになりましょう。

 概算で共産軍は国連軍の3~4倍のステップ数を持っていると目され、「そうか、これが砲兵とかで撃ちまくっても止まらない人海戦術の恐ろしさというものか……」と、非常に良く分かりました。しかもSP数も共産側の方がかなり多く持っています。こんなもの止められるわけがありません。確かに雪崩のごとく、平壌など保持できるわけもなく下がるしかないでしょう(もちろん、勝敗は別としてプレイは楽しめます)。

 今回やってみてとりあえず思ったコツとしては、共産軍側は敵の砲爆撃力が非常に強く数もあるので戦力を1ヘクスに集中するとそこを必ず狙われてしまうので、平均的にユニットをばらまいていくこと。それから第1ターンの攻勢で特に韓国軍の戦線を狙って計画を立てることとか。

 国連軍側としては砲兵と航空ユニットでの阻止砲撃をいかにうまくやるか。それから機甲ユニットを集めて機動防御をどれだけ成功させられるか……でしょうか。

 このシナリオの共産軍側は完全に、機甲や機械化、装軌や自動車化のユニットを持っておらず、移動は徒歩タイプ、兵科はその他タイプのユニットしかないので、できることが限られていてその意味でOCSが初めての人がとりあえず触ってみるのにも適しているのかもしれません(多分大勝利できますし……ただ、後方の補給集積所をがら空きにするのだけはやめた方がいいでしょうけども)。

ミドルアース大阪(2015/2/15)

 ミドルアース大阪に行ってきました。

 私はOCS『KOREA』をソロプレイしていたんですが、とりあえず他の方々がプレイされていたゲームの写真を。


CIMG2202.jpg

 ↑名作『パンツァー・グルッペ・グデーリアン』。私は初めて見ました……。


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 ↑GJの『信長後継者戦争』。明智光秀が勝利したそうです(^_^;


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 ↑第一次世界大戦の東部戦線のゲームで、タンネンベルクの戦いの後だと聞きました(ゲーム名覚えてません(>_<))。


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 ↑『The Battle for Hungary 1944-45』? 若い会員の方がプレイされてました。


CIMG2206.jpg

 ↑エポック『日露戦争』のリニューアル版?


 『KOREA』についてはエントリを改めます。

イエナ会戦前後のヴァイマール公の動き

 承前。1806年戦役のヴァイマール公の件です。

 1806年戦役で、ヴァイマール公とその部隊がどこにいたかといいますと、主力とは離れて南西にいました。


23635.png

 ↑イエナ・アウエルシュタットの戦いの2日前の地図ですが、この地図上の赤字で一番西にいる(11,000)のものがそうです。


 『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』のMAP59(10月8日)の解説によりますと、

 一方その間、王が許可していた1つのプロイセン軍偵察隊(ミュフリンク大尉指揮)が7日にKonigshofenの範囲まで偵察していた。8日には、その偵察隊は、フランス軍がWurzburg地域をすでに去った後で、CoburgとKronachを通って前進しているという衝撃的な報告を送った。その脅威は明らかであったが、プロイセン軍司令部はすぐに、それに合致して採られるべき適正な方法に関する長い口論の会議を開始した。シャルンホルスト(ブラウンシュヴァイク公の参謀長)は、プロイセン軍とザクセン軍をザーレ川とエルスター川の間に集結させ、ライプツィヒへの道を塞ぐことを提案した。ホーエンローエは原則として同意したが、前進中のフランス軍への速やかな攻撃の為にさらに南のAumaに向かって集結することを要求した。この議論の間に、ミュフリンクは詳細な報告を持って帰還したが、その報告にはフランス軍の前進は彼らのMayence-Wurzburg間の兵站線があらわにされた状態であることが指し示されていた。この知らせに飛びついたブラウンシュヴァイク公は、Meiningenを通ってSchweinfurtとFuldaに前進する為にザクセン・ヴァイマール公の11,000名(彼の軍とリュッヘル軍の双方から集めたもの)を派遣した。プロイセン軍とザクセン軍の残りは、Blankenhainの周辺に集結することになった。ヴュルテンベルク軍はハレに向かって南方に移動することになった。だが、ブラウンシュヴァイク公の命令は、この集結の目的に関して述べていなかった。ホーエンローエは冷静に、これは当然彼自身の計画が実行されるのだ、つまりは反撃の為の準備がなされるのだ、と考えた。


 簡単に言いますと、「西から来たフランス軍がアッパーのようにぐわっと北上しているのが分かってげっ、やべえと思ったが、その根元の兵站線が丸出しなのでそこにヴァイマール公の部隊を送った」ということになります。

(余談ながら、「ハレに向かったよ」と書いてあるヴュルテンベルク軍に関しても「私、気になります!」ので、のちのち調べて書くかもです)

(さらに余談ながら、偵察隊を指揮していたミュフリンク大尉って、偉大なるプロイセン陸軍参謀総長様だったとわ……!に書いていたミュフリンク様? だとしたら、ワーテルローの時もですが、便利にこき使われている印象が……(^_^;)


 翌10日には(前掲書MAP60の解説)。

 ザクセン・ヴァマール公は南方へ手探りで前進し、フランス軍の兵站線をむなしく探し続けていた。ヴュルテンベルク軍は行軍に手間取り、いったん道に出た後も、ゆっくり行軍していた。プロイセン主力軍は時間と手間をかけて予定の位置に現れ、王の司令部はヴァイマールに設置されていた。多くの部隊 - 特に急いで動員されたザクセン軍 - が食料の不足により損害を被り始めていた。ブラウンシュヴァイク公とホーエンローエは伝令によって論争した。ホーエンローエがブラウンシュヴァイク公の方針に従うことにようやく納得したのは、9日遅くになってからだった。


 ここで、前回出していた地図なんですが↓

1806_1812Map02ヴァイマル用地図01b

 この10日の時点でフランス軍はイエナ南方、しかも真南よりは少し東側の、ちょうどザクセン・ヴァイマール公国の南東の国境辺りにいるので、プロイセン軍が「ヴァイマールに司令部を置いた」のもすでにして「ベルリンへの道はがら空き」な感があります。

 が、これはすでに主力がそこらへんまで進出していたのでしょうがないのと、そのへんでプロイセン軍が使用できる主要な都市がヴァイマール、あるいはエアフルトくらいであったのが大きいのではないかと勝手に推測します。いつもかわいそうなザクセン軍は、この時もプロイセンによって無理矢理同盟軍として引っ立てられてきていて士気は低く、しかも補給を軽視されていてすでに飢えかかっていたという……(T_T)


 次に12日頃(MAP61の解説)。

 リュッヘルとブラウンシュヴァイク公はヴァイマール周辺で混乱しつつ集結を実行中であった。スタッフワークが貧弱であったのだった。諸部隊は彼ら自身の間で野営地について揉め、おまけに多くの連隊が食料も薪も受け取っていなかった。司令部はフランス軍のほとんどのものの位置について全く掴んでいなかった。ザクセン・ヴァイマール公はIlmenauを通って近道をしており、彼の主張によれば、それはフランス軍の左側面を攻撃するためであった。彼の行軍は遅かったがそれは、あるいはひょっとしたら彼の派遣部隊を彼に再結合させるためだったのかもしれない。


 うおお~。プロイセン軍のダメダメさ加減が……(>_<)


 13日頃(MAP62の解説)。

 このプロイセン・ザクセン軍の集結は、幾人かのプロイセン軍上級司令官達の自信を一時的に取り戻させた。彼らはザーレ川のラインでの防御を考えていたが、10月13日に彼らは別の考えを抱いた。というのは、ダヴー軍団の位置がNaumburgでザーレ川の両端にまたがっており、その連絡線を危機にさらしていたのである。だが、ヴュルテンベルクとザクセン・ヴァイマール公の部隊なしでは、プロイセン軍は大会戦には弱体すぎた。また、士気も低かった。4日間ほとんど食料を受け取っていなかったザクセン軍はこの軍から離脱する恐れがあった。軍事会議は、ブラウンシュヴァイク公の軍を即座に撤退させ、ヴュルテンベルクの軍団を拾い上げるためにFreiburgとMerseburgを通ってザーレ川の西岸に行軍することに決定した。この機動をカバーするためにホーエンローエはイエナに、リュッヘルはヴァイマールに残ることとする。リュッヘルはさらに、ザクセン・ヴァイマール公軍を彼に再結合させるためにその位置を保持し続けるようにとも指示されていた。


 で、この後、ザクセン・ヴァイマール公に関する同書に記述が現れるのは、イエナ・アウエルシュタットの戦いが終わった翌日(15日)になります。つまり当日は何もしてなかったわけです(>_<)(位置が離れていたので当たり前ですが)

 で、翌日以降、ヴァイマール公はヴュルテンベルク軍と共に残された無傷の部隊として、敗走するプロイセン軍の希望であり続けますが、ものすごく何かをしたわけではない……(醜態もさらしてないような気もしますが)。


 続けて、15日頃(MAP67の解説)。

 0900時頃に、ナポレオンはダヴーからの最初の報告を受け、実際信じられないという衝撃を受けた。その結果として彼は、ダヴーからの第2報が届いてすべての疑念が払拭される正午まで注意深く準備状態を維持した。その間ミュラは、ザクセン・ヴァイマール公軍がすぐそばにいる状態下でエアフルト市の要塞を脅して降伏に追い込み、ザクセン・ヴァイマール公はフランス軍の増援の到着を恐れて、すぐに退却した。ナポレオンはザクセン軍捕虜全てを解放する事を命じ、それによって彼はザクセンが同盟国に変わる交渉の前置きとなした。



 23日頃(MAP68の解説)。

 アウエルシュタットの功績を認められ、ダヴー軍団はベルリンに最初に入る名誉を与えられ、その間ミュラ、ランヌ、オージュロー、および親衛隊はポツダムへ移動した。マグデブルクの南に集結していたスールトは、強力な敵隊列が彼に対して前進中であるという知らせに驚いた(10月23日)。これはザクセン・ヴァイマール公軍で、彼はそのSandauへの退却をカバーするために、Magdeburgへ前進すると見せかけたのだった。

 【中略】ナポレオンはミュラとランヌを、北方のSpandauへと急き立てた。左側面では、スールトがザクセン・ヴァイマール公軍と会敵するために転出させられたが、逃げられてしまったという事が分かった。彼は追撃したが、道を間違えてしまったのだった。


 ここでザクセン・ヴァイマール公は、スールト元帥に対して上手をいったということでしょうか(スールトがミスったに過ぎないという考えもありますが(^_^;)。

 しかし同じページで、しばらく後に、

 ナポレオンは知らなかったが、スールトは25日にTangermundeでザクセン・ヴァイマール公軍の側衛をとらえていた。


 とあるのですが、しかし、『1806 Coming Storm』でここらへんの動きについて探してみると、全然そんなことが書いてませんで(>_<) (目視検索なので見落としもあり得ますが)

 以下、『1806 Coming Storm』によりますと。

10月21日(P77)
 ヴォルフェンビュッテル
 ブリュッヒャーとヴァイマール公が - ブラウンシュヴァイクのちょうど10km南で - ついに合流し、Sandauで渡河すべくStendalを経由して東へ向かうことに決めた。

10月24日(P83)
 ツィーザル
 スールトに追撃されているヴァイマール公はまだエルベ川の手前25マイルのところにいた。

10月25日(P85)
 アルネブルク
 12,000、あるいは14,000の兵を持っていたヴァイマール公はSandauでのエルベ川渡河を避け、最終的にマグデブルクの北約50kmのTangermundeでなんとかエルベ川を渡った。スールトの第Ⅳ軍団が一日遅れでそれを追っていた。

10月28日(P89)
 【プレンツラウでのホーエンローエ公軍の降伏により】オーデル川の西にいるプロイセン軍部隊は、敗残兵達の小さい集団を別にすれば、マグデブルクのフォン・クライストの守備隊、ブリュッヒャーの後衛軍、それにヴァイマール公の軍団だけとなった。ヴァイマール公はザクセンへの恩赦を利用して軍を離れ、彼の軍団をウィニング【? Winning】将軍に預け、最もその軍を活用できるであろうブリュッヒャーに合流させるようにした。


 「ザクセンへの恩赦」と訳した部分について同書でのそれ以前の言及部分を探そうと思ったのですが、ちょっとやってみてやっぱ無理だと思って諦めました(^_^;(英文をすらすら読める能力の度合いが欠如し過ぎてます……)

 ただ、プロイセンによって同盟状態を強制されていたザクセンを味方とすべくナポレオンはザクセン軍兵士を解放したりしていたようですし、今後書くつもりのヴァイマール公妃ルイーゼによる10月15日の「凜とした対応」によってナポレオンはザクセン・ヴァイマル公国も存続させる意図を持ったらしいので、そこらへんのことからザクセンおよびテューリンゲン諸国全体とかに対する寛大な扱いを宣言したりしていたのかな、と推測。

 だとするとヴァイマール公は自国の安全保障上、この恩赦を利用しないわけにはいかなかったでしょう。が、一方で彼の麾下にあった部隊を、最もそれを有効活用できるであろうブリュッヒャーに合流させるように計らったっぽく、そこらへんは「なかなかやるなぁ」と思わせますが、しかしそのことが後でバレてナポレオンからの心証を悪くすることにはならなかったのでしょうかね……?(実際、ブリュッヒャーの軍はその後ある程度フランス軍の手を焼かせることになるのです)

 『ゲーテとその時代』には、その後のこととしてこうあります(P228)。

 一時国の存続も危ぶまれたザクセン=ワイマルは、11月末にカール・アウグスト【ヴァイマール公】がベルリンでナポレオンに会い、プロイセンの軍籍を最後的に離れることを約したことによって危機を脱した。12月にはフランスとの間に講和条約が結ばれ(ワイマル自体がフランスと戦ったわけではないのだが)、同時にワイマルを含むエルネスト系ザクセン5カ国がライン連盟に加盟している。カール・アウグストは、当時のドイツ諸侯中めずらしく「ドイツ愛国者」として目立った存在で、それまでライン連盟を、フランスが「ドイツをうまく隷属させる」ための道具であるとして拒否していたのだが、ことここにいたってはやむをえなかったのであろう。なお小国ワイマルが生きのびえたことについては、公子妃マリア・パウロヴナがロシア大公女で、皇帝アレクサンドル1世の妹であったということがしばしば引き合いに出されるが、実際にはそれよりも、ライン連盟の諸侯会議の議長国であったナッサウの大臣ハンス・フォン・ガーゲルン(1848年の革命時フランクフルト国民議会議長となったハインリヒ・フォン・ガーゲルンの父)、またフランス外相タレーランが、小国取りつぶしよりもライン連盟拡大の策をとってナポレオンにとりなしたことが大きかったようである。ワイマルは多大の償金を課せられたが、参議会はフォークトの指導の下、忠実な「履行政策」をとって国の安全を図った。そしてゲーテも全面的にこれを指示したのである。



 その後1813年戦役ではまたヴァイマール公は従軍したのか(私はまだよく分かってません(^_^;)、

 ザクセン=ワイマル公カール・アウグストは、解放戦争中の軍事的功績により、ウィーン会議で大公の称号を得、領土も36から66平方マイル(約3700平方キロ、日本の埼玉県程度)にふやすことができた。
『ゲーテとその時代』P252


 とありました。

 1813年戦役についてはまだ遠い先の課題です(その前に1809年のシル少佐について調べたいので)が、興味はあるのでヴァイマール公の活躍?も調べられれば嬉しいですね~。





 ↑恐るべき値段ですが、とあるウォーゲーム仲間の方からお借りして読めてます(#^.^#) ありがとうございます~!

ヴァイマール公とは?

 ナポレオニック(ゲーム)においてWeimar、あるいはSaxe-Weimarという指揮官について、その名前から「ワイマール(最近はヴァイマール、あるいはヴァイマルと書いた方がよりよいらしい)の地と関係のある貴族か何か?」程度の認識で良く分かっておらず、ずっと気になってはおりました。


 出てくる戦場としてはとりあえずまずワーテルローの戦いの連合軍側のオランダ第2師団の第2旅団長。

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 ↑『L'Armee du Nord』のSaxe Weimarのユニット


 それから1806年戦役にも出てきますが、こちらはプロイセン軍に所属という感じになってます。ただしこのヴァイマール公はイエナやアウエルシュタットでは戦っていないので、それらだけを切り出したゲームには出てこないと思います。

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 ↑『1806』のWeimarのユニット


 また、『ナポレオン大いに語る』という本の中で、1806年戦役で公国が占領される際に気丈に踏みとどまりナポレオンと対話してナポレオンから感心され、国を守ることに貢献した話が載っていて強烈な印象を受けたのがヴァイマール公夫人でした。

 それから、ナポレオン戦争当時のドイツに関してちょっとでも情報をと思って日本語の本を探しているうちに同時代人のゲーテ関係の本に行き当たったのですが、そのゲーテが仕えていたのがヴァイマール公で、『ゲーテとその時代』という本にある程度詳しくヴァイマール公について書かれてまして、少しずつ話が繋がってきました。




 このヴァイマール公について調べつつ書いてみたいと思います。


 とりあえずまず、『ゲーテとその時代』から、ザクセン・ヴァイマール公国について。

 ワイマルは、ザクセン=ワイマル=アイゼナハ公国の首都である。この国はザクセン=ワイマルとザクセン=アイゼナハという、元来親戚筋の二つの国が合体したもので、人口はゲーテが来た頃、合わせて10万8000、面積はおよそ2000平方キロ。広さは東京都(2145平方キロ)とほぼ同じ……
『ゲーテとその時代』P114


 この後、家系に関する記述が続くのですがめんどいのでパスしまして、結局のところ、

 その後アルベルト系ヴェッティン家はザクセン選帝侯として中部ドイツに有力な地位を占めたのに対し、エルネスト系【ヴェッティン家】は南部テューリンゲンに押し込められた上、分割相続によって所領を細分化することになる。この地方にザクセン=ワイマルのほか、ザクセン=マイニンゲンとかザクセン=ゴータとか、そういう名前の小国が寄り集まっているのはそのためである(別系統の小国もあり、合わせて30近い「テューリンゲン諸国」があった)。
『ゲーテとその時代』P115


 といっても文字だけ見ていても良く分からないので、1806年当時の地図をもとに、ザクセン・ヴァイマール公国を中心とした地図を作ってみました。


1806_1812Map02ヴァイマル用地図01b

 ↑プロイセンとオーストリアに挟まれたいわゆる「ザクセン」が「ザクセン選帝侯」で、その左側の藍色のもやもやで囲んだ辺りが「テューリンゲン諸国」になります。『ゲーテとその時代』に挙げられていた他にもザクセン・コーブルクであるとか、ザクセン・ヒルドブルクハウゼンなんて国があったよーです。

 このザクセン・ヴァイマール公国に、未来の公爵位を継ぐ長男として1756年に生まれたのがカール・アウグストで、その母親はブラウンシュヴァイク公女で、母方の祖母はフリードリヒ大王の妹。このカール・アウグスト公が1806年戦役におけるWeimarのユニットになります(1815年戦役の方は彼の第7子です)。

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 ↑カール・アウグスト公(Wikipediaから)

 このカール・アウグスト公について、『ゲーテとその時代』は……。

 貴公子というよりも野生の人であったこの若い公爵は、成人前、母親のきびしい監督下にあって、かなり鬱屈した生活を送っていた。また彼をめぐって宮廷内に陰謀めいたこともあり、古い宮廷や役人に不信の念をもっていたようである。その反動もあって、公爵は8歳年上のゲーテを道連れに、古い世代の人びとの眉をひそめさせるような形で、その若さを爆発させる。『ヴェルテル』流の青い燕尾服と黄色のチョッキが宮廷内をのし歩き、『ゲッツ』流の野卑な言葉が食卓を飛び交ったばかりではない。乱行といってもよいような馬鹿騒ぎの日々があったようである。
(P123)


 1786年以降の数年間、カール・アウグストは、確かにドイツで最も注目された活動的な君主の一人であった。それはもちろんプロイセンの後楯もあってのことで、彼とプロイセンの関係は、彼が1787年にプロイセンの軍務に就いたことでさらに深まる。一国の君主が他国の軍務に就くというのは、考えれば変な話だけれど、当時はこれもめずらしいことではない。彼はワイマルからそう遠くはないアッシャースレーベンのプロイセン騎兵第6連隊をゆだねられてf、やがてフランス革命がヨーロッパに戦乱をもたらすと、その連隊を率いて対仏戦争に従軍することにもなるのである。
(P157)



 アッシャースレーベンというのはさきほどの地図でハレとマグデブルクの中間地点より少し西側の場所になります。カール・アウグスト公はゲーテと共にフランス革命戦争に従軍し、ヴァルミーの戦いの時にゲーテはかの有名な(P201)、

「ここから、そして今日から、世界史の新しい時代が始まるのだ。」

 と言ったのだと、1820年代に執筆した本の中で書いているのですが、本当にその時リアルタイムで言ったのかどうかは怪しいのではないかと、R/Dさん他が述べておられます。『ゲーテとその時代』の著者も「少しできすぎではないか」と書いてます(^_^;


 その後一度カール・アウグスト公はプロイセン軍の処遇の不満があって一度プロイセンの軍籍を離れた(P203)のですが、1806年戦役において再びプロイセン軍に復帰し、戦うことになります(P227)。

 プロイセン軍にはワイマル公カール・アウグストが将軍として復帰し、あまつさえワイマルは兵775名を馬107頭とともにプロイセン軍に提供することになったのだ。



 この後起こったことは、カール・アウグスト公自身よりも、公妃やゲーテの家関係のことの方が面白い感じがあります。書けそうだったら書きますが、もしかしたらパスするかもしれません(^_^;

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像

 最初拾い読みだけしていた『Jena to Eylau』を最初からちゃんと読んでいってみてるのですが、「おおお、なるほど……」と思う文に出くわしました。

 プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世についてなのですが、「王は平和主義者であったから、野心ある人の行動についての理解が乏しかったのだ」という感じの内容です(P7)。


FWIII

 ↑フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(Wikipediaから)

 王は勝利を得た敵に対して代表者を送ったがそれは、もう充分であろうとの明らかな許諾でもって和平条約が結べるとの希望を持ってであった。忘れてはならないのは、王は以前からナポレオンの人格について大きな信頼を感じていたということである。この戦争の始まるほんの少し前の時点でも王は、あのコルシカ人は決して私に嘘をつかなかった、と率直に述べていたものだった。かの恐るべき半神半人とでも言うべき人物に対して、王の理解のなさはどれほどのものだったか! だが心理学的には、これは簡単に説明できることなのだ。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の質素で寡黙で平和を愛する精神は、日々の政務を誠実にこなすことや人民の幸福に高い満足を見いだし、野心や栄光への渇望というものを知らず、かの征服者の戦争への強い衝動と、一つのものを得てはさらに次のものへと向かって狩り立てられる飽くことのない貪欲な衝動を理解することもできなかった。ナポレオンは、勝ち取った勝利による恐ろしいほどのアドバンテージをあっさりと放棄してくれるだろう - そしてナポレオンはそれを理解してくれるだろう - という希望は、この10月14日においてまったく荒唐無稽なものであった。


 バランスが大事だと思うので左右どちらかに偏った政治的な主張をするつもりはないのですが、「平和をあまりに愛しすぎていたゆえに、戦争で祖国を崩壊の淵に追いやった」例の一種であると理解することができるということなのかなぁと思ったわけです。その側面を考えると、今の日本に当時のプロイセンを重ねて考えることもできるのかもしれません。

 マジで重ねてみますと……。

1.日清戦争……オーストリア継承戦争(新たな領土を得る)
2.日露戦争……七年戦争(苦闘の末大国の地位を獲得する)
3.第一次世界大戦……バイエルン継承戦争(戦争自体にあまり関係しない)
4.第二次世界大戦……フランス革命戦争(ヴァルミーで敗北したのち、結局手を引く)
5.高度経済成長……1806年のハノーファー獲得までに至る領土大拡張

 で、フランス革命戦争(第二次世界大戦)後に王位を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は非常に平和主義で、リュッヘルやシャルンホルストらが軍の改革や、フランスに対する参戦を説いてもあくまで動かない……。

 集団的自衛権や有志連合とかって話も、プロイセンがオーストリアやロシアと組むってことをどう考えるか……ということと類似しているような気がします。1805年においてプロイセンはまさに、下から散々同盟関係に入るべきだと言われたのに、そして言われたが故にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は「これは反乱だ!」とかって怒って意固地になり、同盟に参加しなかったのでした。


 『プロイセンの歴史 伝説からの解放』にも以下のように書かれていました(P149)。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、彼の二人の前任者とはまったく対照的に、正真正銘の平和主義者であった。彼は自分が王位に就く直前、自分自身への教訓と自分自身を堅持するために、「統治術に関する所見」を書きとめた。それには次のように書かれている。「一国の最大の幸福は、間違いなく平和の維持にある。それゆえ、われわれの隣人たちがわれわれの平穏を脅かそうとしない限りは、つねにこの原則を念頭においた政策こそ最良の政策である。自分に関係ない他人のもめごとには決して介入してはならない……しかし、心ならずも他人のもめごとに巻き込まれることのないように、同盟には用心しなければならない。同盟は、遅かれ早かれ、われわれを巻き添えにするだろうからだ。」
 このようにして中立による平和が選ばれ、フリードリヒ・ヴィルヘルムはそれを守った。9年間、それは成功したかにみえた。


 ↑この部分、まさしく現在の日本の平和主義者が言うようなことであるとは思います。

 ただしかし、「だから現在の日本はそうすべきではない」と言うのは早計であるとは思いますが。例を1個だけ取り出してきて指針を引き出すのは良くない。本来ならば歴史上の例を(話題のトマ・ピケティのごとく)力技で調べられるだけ調べだしてきて、その全部について検討を加え、しかも私は両論併記した上でどう考えるかは読者に委ねるべきじゃないかと思います(著者自身がどう思うかを書くのは構わないと思いますが、あくまで仮説に過ぎないと断っておく……しかしこれは「ウケない」本の書き方なのかもしれません(^_^;)。


 まあそこらへんはともかくとして……。

 前から興味があったのですが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクターについて、現状私が集められた範囲でまとめておこうと思いました。

 まず、彼が褒められている例について。1814年戦役で勝利した後、アレクサンドル1世やブリュッヒャーと共にイギリスに行った時の話です。

 【イギリス人の】群衆は国王フリードリヒ・ヴィルヘルムとその息子たちが馬車であちこち移動するのを見守り、彼らの飾らぬ振る舞いと軍人らしい態度を褒めそやした。
『イギリス摂政時代の肖像』P135


 褒められている例は以上で終了です(おい)。

 あいや、最初に引用した文の中の「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の質素で寡黙で平和を愛する精神は、日々の政務を誠実にこなすことや人民の幸福に高い満足を見いだし」という部分は褒められていますね。ただ、「質素」「寡黙」(後述)「平和を愛する」は完全にその通りであると思いますし、「日々の政務を誠実にこなす」はある程度そうであると思いますが、「人民の幸福に高い満足を見いだし」は、他の資料から感じる印象では「ウソだっ!」という気がしてます。これは『Jena to Eylau』の著者であるコルマール・フォン・デア・ゴルツが帝政ドイツの軍人であり、プロイセン王のことを悪く書くことはできず、むしろ当たり前に良く書く必要があったからではないかと推測するのですが、どうでしょうか……。


 で、けなされている例が大量にあります(一番最初のはけなした後フォローが来てますが)。

 彼は父同様、性格が弱く、才能にも乏しかったけれども、生活態度は真面目でかつ質素であり、品行も決して悪くなかった。
『ドイツ参謀本部』P51


 この王は極めて経験の浅い、自信のない人物で、そのために殊勝なまでに深い信仰へと逃避していた。
『ドイツ参謀本部興亡史 上』P38


 十六歳の皇太子はすでに持ち前の気むずかしさと自己中心的な性格からだれの言うことにも耳を傾けない頑固者で……
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P154


 彼はバレーやフランス喜劇さえろくに観たことがなく、同時代の純文学者たちを「得体の知れない流行作家ども」と称して軽蔑した。なまじ教育を受けさせると妻が自分から離れて行ってしまうのではないかと恐れた彼は、ベルク伯爵夫人を「おせっかいやき」と言って毛嫌いした。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P161


 国王がこうした風潮をあざ笑い、軽蔑しているうちに十年が経ち、いつしか女官たちばかりでなくトップ・クラスの軍人たちまでもが、国王の政策、施政、人柄に何かと批判的な弟ヴィルヘルム公夫妻や、国王の大叔父フェルディナント公の子どもたちなどの他の王族のほうへなびき始めた。あっさりしていて控え目なヴィルヘルム公は、粗野な兄にしばしば面食らった。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P161


 大半の役人よりはましな国家問題意識はもっていたものの、優柔不断だった国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世についてこう書いている。「幼少の頃から彼の真面目で融通のきかない北方人種的愚直さが、進取の気性や情熱、独創性の発露を妨げていた」。ここで文章は過去形から現在形になり、次のように続く。「何事も疑わずにいられない性格で、とりわけ人の弱点や欠点は鋭く察知する。そのため人に信頼感がもてず、ほとんど人間不信に陥っている」。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P506


 シュヴァルツェンベルクは書いている。「(プロイセン)王はおおざっぱで下品で、思いやりがなく、私にとっては、その哀れで勇敢なプロイセン人達のことを愉快だと思うのと同じくらい不快であった。
『The Hussar General』P136



 ただ、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』における評は、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世から懲罰的に嫌われまくり(ここらへんマジに気の毒な話であるので、この本をお読み下さい)、また後に尊敬するグナイゼナウが冷遇されたりもしたことから決して王のことを快くは思えなかったであろうクラウゼヴィッツを主人公にした本であるので、いくらか割り引いて読んだ方がいいのかもですが。


 で、これらの記述はここ数ヶ月に集めてデータとしてスクラップしていたものなんですが、それより前にある本でフリードリヒ・ヴィルヘルム3世について書いてあるのを見て、「おおおっ!?」と思ったことがありました。

 いつも短い一言しか発しない亡き父王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世……
『ドイツ王室1000年史』P78


 これを見て私は、「おおお、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は綾波レイや長門有希のような寡黙型萌えキャラだったのか!?」と思い、しばらく脳内で萌えキャラに変換してワクワクしてたんですが、ちょっとして試しにWikipediaで「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」を検索してみて、大いにがっかりすることになりました。

 彼は父王の果てしない漁色に嫌悪を感じながら育ち、「分かる。不愉快」といった主語を欠いた横柄に響く断片的な話し方を身につけた。王は主語を欠いた動詞の人称を無視して不定詞のまま使用したので”König Infinitiv”「不定詞王」とあだ名されるようになった。



 これじゃ萌えキャラとは言えないじゃないかぁ~ジタバタ(><@)(おい)

 『プロイセンの歴史 伝説からの解放』にも同じように書かれています。セリフがちょっと違いますけど(P206)。

 彼の父【フリードリヒ・ヴィルヘルム3世】は一度も公式のスピーチをしたことがなく、「分かった。不愉快だ」というように、私的な会話においてすら、動詞と断片的な言葉のみで済ますことを好んだ。


 しかしこれ、「分かった」「不愉快だ」が別々の発言ならまあまだあれなんですが、「分かった。不愉快だ」といっぺんに発する状況がいまいち想像しにくいんですが……?(^_^;


 ところがこれ、『アレクサンドル一世』ではフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は結構長文を喋っているシーンが出てくるのですが、創作とか、セリフの改変ってことなんでしょうかねぇ……? 割と印象深くて面白い話であるのですが……。

 ツァーリは、この敗北【リュッツェン】に意気消沈し、夜宿舎を抜け出すと、プロシャ国王が劇的な一日の疲れを癒している家を訪ね、わざわざ彼を起こして、自分の結論を伝えた。われわれの軍隊が多大の被害をこうむったことを考えると、明日ふたたび戦闘を開始することは、このさい問題外だろう、と彼は言う。これを聞くとフリードリヒ=ヴィルヘルムは、腹立ちと恨めしさをあらわにして、寝台のうえに起きなおり、低い声でつぶやいた。「またしてもこれだ! はじめから後退してしまえば、エルベ河だけでなく、ヴィストゥラ河も越えることになるだろう。こんなやり方をするなら、ふたたびメーメルに追い込まれることは確実だ」。さらに、彼は寝台から飛びおりてつけ加える。「これではアウエルシュテットの繰り返しだ!」。そんなやりとりがあったにもかかわらず、政治的配慮から、リュッツェンの戦いは同盟軍の勝利とみなすことに決められた。ヴィトゲンシュタインは聖アンドレイ勲章、ブリュッヘルは聖ゲオルギー二等勲章を授かった。
『アレクサンドル一世』P311

 【バウツェンの戦いの】その日の夕方、同盟国の君主二人は、ライヘンバッハへむかう街道を、並足で進んでいた。アレクサンドルはプロシャ国王をなぐさめようとするが、国王は陰気に黙り込み、耳を傾ける様子もない。ようやくフリードリヒ=ヴィルヘルムが溜息まじりに言った。「まったく、わたしの期待とは裏腹だ。我々は西へ進むことを望んでいたのに、東に退いているではありませんか。……もし神が、われわれ共通の努力にいつの日か報いて下さるとしたら、そのときは、勝利の栄光はひとえに神に帰すべきであることを、公に発表する必要がありましょう(注1:シルデル『皇帝アレクサンドル一世』)」……馬上のアレクサンドルは、体を傾けてプロシャ国王の手をしっかりと握り、自分もまったく同意見だ、と熱意をこめて答えた。
『アレクサンドル一世』P313




 今回は最後に参考文献を貼っておきます。






「プロイセンに付きまとう悪魔」マッセンバッハ


 前々回のエントリ、シャルンホルスト、ブリュッヒャーと合流で少し書いてましたマッセンバッハについて、さらに調べてみました。


 渡辺昇一氏の『ドイツ参謀本部』には、マッセンバッハの1802年の参謀本部案が2ページにわたって書かれている(P59~60)のですが、若干長いので要約しますと、以下のようなもの。

1.平時における軍事全般にわたる計画立案センター(つまり参謀本部)の必要性を主張。
2.参謀将校に平時から、将来戦場になる可能性のあるところを旅行させる。
3.参謀将校と隊付将校を定期的に交替させる。
4.参謀総長の帷幄上奏権を主張。

 これ以前にそういう案がなかったこと、そしてこの献策が一般に参謀本部の生みの父と言われるシャルンホルスト以前に出されたものであるということを考えると、私は「すげぇなぁ」とマジで感心してました(特に1と2)。

 実際、マッセンバッハは恐るべき頭の良さと、それにまた野心を持っていたらしいのですが、1806年戦役でその上官ホーエンローエと共に「いいところなし」というか「悪いことだらけ」で、歴史の表舞台から去らざるを得なくなりました。


 で、今回チャンドラーの『Dictionary of the Napoleonic Wars』でマッセンバッハの項を見てみますと……(P276)。

 熟達した、しかし情緒不安定なプロイセン軍将校であったマッセンバッハは1806年の悲惨な戦役においてホーエンローエ公の参謀長として仕え、軍に対して数多くの見込みのない献策をおこなった。イエナ・アウエルシュタットの戦いの前夜のランヌ部隊への数的優勢での攻撃の不履行は彼のせいだとされており、またフランス軍の追撃の真っ只中でのプレンツラウでの - 妥当な理由を欠いた - ホーエンローエ公の最終的な降伏も彼の責任だとされている。彼への「プロイセンに付きまとう悪魔」というあだ名は多分におふざけ的な不公正なものだが、彼は確かに彼の上官達に対して不利益に作用した人物であった。


 ものすごく簡潔で要を得た説明文で感嘆しますし、表現が面白くていいですね~。

 ただ、4点敷衍して説明を。

 まず「プロイセンに付きまとう悪魔」と訳した部分の原文は"The evil genius of Prussia"です。検索してみるとこの言葉は同じくチャンドラーの『ナポレオン戦争("The Campaigns of Napoleon")』でも出てくるので邦訳を見てみると「プロイセンの奇才」と訳されておりました(第三巻P32)が、英辞郎によると「evil genius」は「悪い感化を与える人、人に付きまとう悪魔」とあり、『Dictionary of the Napoleonic Wars』や後述の『Who was who Napoleonic Wars』の記述から考えると「プロイセンに付きまとう悪魔」と訳した方が良さそうだと感じました。

 次に「イエナ・アウエルシュタットの戦いの前夜のランヌ部隊への数的優勢での攻撃の不履行は彼のせいだとされており」の部分なんですが、『ナポレオン戦争 第三巻』によると(P57,8)。

 ……もし13日夜にプロイセン軍が大挙して攻撃をしかけてくれば、起こりうる当面の問題を解決できなかったし……フランス軍の守備位置に対する危険は充分現実性を帯びていた。実際シュシェの師団があの朝に丘に向かって移動した時点で、ホーエンローエはまさに攻撃を命じようとするところであった。一方、このときマッセンバッハはプロイセン軍司令部に呼び出され、ウンシュトルット川を越えてライプツィヒへと向かう予定通りの退却命令を受けていた。彼が戻ったとき、ホーエンローエの軍隊が前進しようとしているのを見た。しかし彼は嫌がる上官に、プロイセン軍右翼はいまや他の行軍を防護するため守備に徹するという最終命令を受けているから、ランヌ軍へのいかなる攻撃も新たな計画に違反するであろうと説得した。それで攻撃は取り消され、軍隊はそれぞれの陣地に帰ったのである。これはナポレオンにとって幸運であった。というのは、もしプロイセン軍右翼が13日に大挙してラントグラフェンベルクを占領していたら、翌日の決戦で成功を収める見込みなどどこかに吹き飛んでいただろうから。


 とありまして、プロイセン軍ファンにとっては「うわぁ~(T_T)」と思うような話であります。

 さらに「またフランス軍の追撃の真っ只中でのプレンツラウでの - 妥当な理由を欠いた - ホーエンローエ公の最終的な降伏も彼の責任だとされている。」の部分ですが、これも『ナポレオン戦争 第三巻』から(P87)。

 ホーエンローエは、シュテッティンに辿り着けるほどの出足のよさと安全を得ることができず、一連の災厄は28日のプレンズラウで頂点に達したのである。プロイセン将軍の狼狽は非常に大きかったので、彼は、いまやフランス軍10万が包囲しているというミュラのこけ脅しをよく確かめもせずに受け入れ、またマッセンバッハが唱えていたこれ以上の抵抗は希望が持てないという助言をさっさと採用してしまった。1万のプロイセン兵と64門の大砲がフランス軍の手に落ち、翌日には4000の騎兵隊(なお馬を持っていたのはたった半数であったが)が、ミロー将軍率いるわずか700のフランス騎兵に、パーゼヴァルクで呆気なく降伏してしまったのである。


 この10月28日のプレンツラウでのホーエンローエ公軍の降伏が、プロイセン軍敗走の中で中盤の最大規模のものとなったようです。この後もブリュッヒャーは抵抗を続けますが11月7日に降伏。ブリュッヒャーの降伏はある程度以上やむを得ない状況下でだったと思われるのですが、ホーエンローエ公のそれはそうではなかったようで、その責任がマッセンバッハにあると見なされてしまうわけですね。

 ちなみに、『ドイツ参謀本部興亡史 上』(P49)では、

……マッセンバッハは、退却の途中で全く途方に暮れてしまい、それほど絶望的でもない状況下で指揮官ホーエンローエ公に降伏を強要していた。老ブリュッヘルはマッセンバッハについて、「勉強しすぎて気が変になったに違いない」と思った。


 と書かれていました(^_^;

 あと、マッセンバッハがひたすらダメダメだったのかというとそうでないっぽい例として、『ナポレオン戦争 第三巻』(P67)に、イエナの戦いのお昼頃の話として、

 ホーエンローエは、午前中にプロイセン軍が失った土地を回復する機会をたっぷりと与えられていたにもかかわらず、不幸なことに神経が衰弱してしまっていた。彼の参謀【マッセンバッハ】はフィアツェンハイリゲンを急襲して、有利な立場を活かすことを勧奨したが、彼はむしろ、全く無防備になっている村の近辺でグレーヴェルトの部隊を停止させ、そこでヴァイマールからのリュッヘル軍団の到着を待つことに決めたのである。マッセンバッハが、この増強を急がせるためにヴァイマールへの道を駆け下ったが、グレーヴェルトをとどめるというこの決定は、ホーエンローエが犯した致命的な過ちであった。マウデ大佐の有名な言葉のなかに次のようにある。「いまや二時間にわたって野原に立ち尽くし、無慈悲の状態つまりフランス散開兵からの銃撃にさらされたのだ。フランス軍は生垣の後に隠れていたので、いかなる反撃も喰らわなかった。中隊の前面では、所々で単独の兵士が装填・射撃を繰り返すのみで、彼らの仲間はみな回りで横たわって死んでいるか、死ぬ途中であった。」


 とあるのも紹介しておきたいと思います(ただ、「参謀」がマッセンバッハでない可能性もあるかも……)。

 ただあれですね、この引用でまたぞろ「うわ」と思うのが、マッセンバッハ自身が増援を呼ぶために走っていったという部分で、『Who was who Napoleonic Wars』のマッセンバッハの項ではその件らしきことに関する批判も含まれている……?(P210,1)

 シュマルカルデンで生まれてシュトゥットガルトで教育を受け、1778年にヴュルテンベルク軍に入り1782年にプロイセン軍に移籍し、そこで彼は軍事理論家および数学者としての名声を得た(彼は工業学校で数学を教え、またルイ公の家庭教師でもあった)。彼はヴァルミーと1793-4年戦役で工兵として従軍したが、彼の主たる仕事は将校組織の再編であり、その中には精巧な案ではあったがその後の戦争で結局はまったく現実的でなくなる計画も含まれていた。しかも、彼はフランスを相手とする戦争の準備をしておらず、時間のかかる部隊指揮系統や、参謀ら自身が自ら口頭で司令部に命令を受領しに行くというやり方の改善案を持っていなかった。マッセンバッハの計画というのは起こり得るすべての事態を考えておくというものであり、そこには個々の将軍のリーダーシップを尊重するであるとか、その時々の状況を考慮するというようなことがほとんどなかった。その名声から彼はホーエンローエの参謀長となったが、フランスとの戦争が始まった(彼はそれに反対していた)1806年戦役においてさらにいっそう有害な影響力を振るうことになった。彼はイエナで当初ホーエンローエに攻撃をしないように説得したが、それがホーエンローエの降伏の主要因となった。彼のこの戦争におけるプロイセン指揮への悪影響は、不忠の提案にまで至り、彼は執筆のためにプロイセン軍を退役した。「解放戦争」の際に彼は将校としての再雇用を得ようとして得られず、ヴュルテンベルク政界に進出しようとして失敗した後にフランクフルトで逮捕され、回想録で国家機密を漏らした咎でプロイセンによって14年間の投獄を宣告された。彼は1826年に恩赦で釈放された。彼が「プロイセンに付きまとう悪魔」と呼ばれていたことは恐らく不当であり、von der Golz【『Jena to Eylau』の著者Goltzのこと?】が述べた、非常に優れた風変わりで情緒不安定な人物というのがより正確であろう。彼の上官達はマッセンバッハの献策に従う時に、自身の責任でそうせねばならなかったのだ。



 『Jena to Eylau』でマッセンバッハについて調べてみるということも考えてみたのですが、ぱっと読めないので面倒なのでとりあえず諦めました(^_^; 今後読んでいく中で発見することがあったらまた書くことにします。

 それよりもマッセンバッハについてこれまで読んだことがあったので印象深いのは『THE JENA CAMPAIGN 1806』における記述で、悪口悪口のオンパレード! 辞典・辞書で「そこまで言われるのは不当」とかばっているのに対し、この本はマジでマッセンバッハが「プロイセンに付きまとう悪魔」であったという姿勢で書かれているのやも……?

 訳してある部分が全然中途半端、かつ英文が難解で訳が良くないんですが、一応引用を。

 彼ら、ホーエンローエとマッセンバッハ - この後、1つの人格だと考え、2人だとは考えない様にせざるを得ない - は、戦役における彼らの計画の提案を彼ら自身絶対正しいと考えており、彼らの遂行においてブラウンシュバイク公をして彼らを助けるように強いようと尽力したのである。(P65)

 それらの顧問達は全員、わずかな挑発行為も評議会全体の検討によることにし、戦役の提案プランは慣行により認められたある種の権利を以前から所有していると考える事をブラウンシュバイク公はより好んだ。なぜならそれは彼の責任を和らげるものだったからであるが、しかしホーエンローエとマッセンバッハはそれを激しく不快に思っていた、なぜならその当然の帰結は彼らのイニシアティブを抑えるものだったからである。この事はホーエンローエとマッセンバッハにとっては苦々しいものであり、彼らは彼ら自身を、まっすぐ戦うことによってよりも、外交と戦争のそのより優れた技術を見せる(彼は浅はかにもナポレオンは完全に無知だと信じており、この見解は彼の多くの同僚達によって非常に広く共有されていた)ことによってプロイセン王国を危険な位置から救うために神意によって選ばれたのだと考えており、彼は常日頃からその広く認められた代弁者であったのだった。(P68)

 マッセンバッハの身を立てる考えは常に、多才と外交の才能を見せつけることによって注目される様にするということであった。どんな事件も彼の他作のペンに寄与するということを逃れる事は出来なかった。それに彼は常に、革命の原則とナポレオンの経歴への非常に大きな賞賛者であり続けてきた。このような賞賛は、この時代には啓蒙的精神の印だと考えられ、尊敬の範囲内に彼を置き、良識はプロイセン王の委員へ影響を与えるある将校の為の処方となり、このような活力はその逆よりも信頼をもたらした。マレンゴの後ずっと、彼は現状の最善の解決法としてフランスとの同盟を支持しており、彼の思考の背後の考えには状況の理論に基づいて策略の技術をうまく使うという事があったようであり、上記のことがほのめかすのは(ナポレオンのいつもの習慣が明らかに彼に気付かせないでいた「戦争芸術」の2つの分岐の)、その2つの軍の充分に満足できる関係は引き起こされる可能性があるがそれは、いくらかの取るに足りない「軍の名誉のための」交戦の後でお互いの和解を正当化することによってだ、ということであった。これをお膳立てする為に、司令部からの全ての命令と提案への「non possumus(我々にはできない)」な態度に反対する事が絶対に必要であり、やがて我々が見る様に、それは彼のその態度へのこだわりとなり、その態度がイエナとプレンツラウにおける最終的な破滅をもたらすことになった。(P69)

 【クラウゼヴィッツのコメント】「ブラウンシュヴァイク公のこの計画は、私にはシンプルで自然に見えるし、常識的に響くが、ホーエンローエとマッセンバッハを完全な激怒状態に投げ入れた。彼らはすでに彼らの戦役計画を提出しており(頼んではいないが、それは善意からのものだった)、王に対して(この段階がその二人の精神と傾向を明らかにした)、それによると公の指揮は6個師団を立て、Saalfeld、Saalburg、Hof、Adorfの山道と狭い谷間に配備し、一方その間主力軍はEisenachとVacnへの大きな道に沿って移動することになっており、そこで、2つの大集団でその攻勢を継続し、wing bastions(砦)の様に、チューリンゲンの森で曲がり、一方10,000名でそれを占領した状態にしておき、右翼のフォン・リュッヘル将軍(恐らく、それゆえ、HesseかEichsfeldにいた)は積極的な防御を実行する。(注1:これは明らかにマッセンバッハによって着想された、1806年の『bericht eines Augenzeugen von dem Feldzug des Fursten Hehenlohe』という書名のRuhle von Liliensteinの本によって取られた)。マッセンバッハの激高した中枢から発したこれらの混乱した考え方は、現代の著作家達によって彼らの批判の基礎とするために、ほとんど例外なく採用されている。」(P73)

 【クラウゼヴィッツのコメント】ホーエンローエとマッセンバッハはブラウンシュヴァイク公の提案を知るとすぐに、完全に我を忘れ、彼らの最高司令官の愚行を物笑いの種にすることを彼らの将校達の誰に対しても禁ずることによって、彼らは最大限の親切と思慮を見せているのだと信じた。なぜならば彼らは、彼ら自身の計画はそう簡単に公式に受け入れられそうにないということに気づき、軍の既成事実が、ザーレ川の右岸へと彼を強制的に渡らせるだろうという方法でブラウンシュヴァイク公に関与することに決めた。
  その川の右岸の防御位置は、実際上、「防御手段」として、シンプルであると同時に自然でもあったのだが、そのブラウンシュヴァイク公の計画は攻撃が基盤となっており、それゆえ、それはその指揮官に努力させることは全く間違いであり、またそれゆえ決断の欠如の増大と混乱がすでにその軍司令部に現れていたが、その考えは双方にとってもう強迫観念となってしまっており、これ以降のマッセンバッハの全てのエネルギーは、ブラウンシュヴァイク公にザーレ川右岸への集中を強制させるための努力にすっかり奪われてしまった。(P74)




 マッセンバッハの肖像画は『ドイツ参謀本部興亡史 上』P13に不鮮明なものですが、掲載されていますので、お持ちの方は一度見られても良いかも。ネット上に転がってないかとも思って探してみたのですが、見つけられませんでした……。

続・シャルンホルスト、ブリュッヒャーと合流

 前回、シャルンホルストとブリュッヒャーの合流の件について、『Jena to Eylau』であまり触れられてないと書いてましたが、かなり詳しく書かれていました。まずそれを(P15、6)。

 ハルツ山脈の通過は、少なくともある種の秩序をこの退却にもたらした。なぜなら退却中のプロイセン軍の隊列は、ある一カ所でその狭い谷間を塞いでしまわないように4つの道沿いに縫うように進んでいかねばならなかったからである。

 10月17日に、プロイセン軍の後衛の一部がスールト元帥麾下の前進してきた軽騎兵と交戦したが、これはあくまで偶発的なものにとどまり、ハルツ山地では敵との交戦はない状態であった。だがしかしこの日に、プロイセンの歴史において特筆すべきであったと後に判明することが起こったのである。

 4つの道のうち最も西の道路は最も長いが最も通りやすい道であったので重砲の通るべき道として割り当てられていた。なぜなら、ここ数日の状況においてはハルツ山地は重砲にとっては通過不能であったからである。プロイセン軍はまだ40門の重砲を持っていた - プロイセン軍の再建にとって恐ろしく貴重な資産であり、もしそのような再建が本当に真剣に取り組まれたとしたならば、急いで間に合わせで作るなどというわけにはいかないような大事なものであった。当然ながらその行軍を援護するために部隊が割り当てられたのだったが、いや増す大混乱の中でその部隊がこの重砲隊との合流に失敗したのは驚くべきことではなかったろう。シャルンホルストは前述のように後衛と共に行軍していたが、この事を聞いて直ちにブリュッヒャーの元に走り、この重砲部隊の援護を引き受けてくれるように頼んだ。その時ブリュッヒャーは手元にほとんど部隊を持っていなかったのだが、しかしブリュッヒャーはこの当時のプロイセン軍が大量に生み出していた、このような困難な状況をもたらした鼻持ちならない者達とは別種の人間であった。ブリュッヒャーはすぐに、シャルンホルストの依頼を承知した。2人は危険な場所に自らを置いてその重砲の隊列と一緒に行軍し、その後の苦難の退却行の間に友情の絆を堅く結び、それがプロイセン軍のために大きな力を発揮していくことになるのである。これ以前からも、二人はある意味良く知られていた。かたや荒くれた威勢のよい老人でしかも無謀なギャンブラーとして、かたや学のあることをひけらかす教師として。見識ある(と自分自身を見なしていた)人々 - マッセンバッハの学校で学んだ戦略家達 - はブリュッヒャーのことを古くさいプロイセン型の硬直した兵士達の一人だと見なしており、シャルンホルストのことを新たなSalderns【Caspar von Saldern、1711~1786の政治家?】で、「頭は右へ、目は左へ」と命ずるだけの戦術家達の一人だと見なしていた。だがこの時から後、両者はその本当を力を見せることになった。

 彼らの指導のもと、命令がその行軍に行き渡った。この2人のリーダーの落ち着いた振る舞いは目に見えた影響をその部隊にもたらした。恐れや不安は消えた。



 ここを読んで、この『Jena to Eylau』という本はかなり面白そうだと再認識したんですが、ただし面白いということは信憑性が高いということとは反するのではないかという危惧もあります(^_^;


 この部分を読む前から、「シャルンホルストとブリュッヒャーはこの敗走以前に会ったことがあったのか?」ということが気にかかっていたんですが、これまで拾い読みした結果では良く分からないです。

 英語のブリュッヒャー伝として最もページ数の多い『Blücher:Scourge of Napoleon』の索引で「Scharnhorst」を引くと最初に出てくるのは、1804年頃の話として「ブリュッヒャーはプロイセン軍改革派の将校達と志を同じくした。シャルンホルストは軍事協会という改革組織を立ち上げていた。」とあるものなんですが、ブリュッヒャー自身が当時ミュンスター(オランダのアルンヘムに一番近い辺りにあるドイツ西方の町)に駐留していて、一方シャルンホルストの軍事協会はベルリンで活動していましたから、接点がない。ブリュッヒャーは時々はベルリンに帰っていたっぽいですが、その他の本でこの軍事協会についてある程度以上詳しく書いたもの(『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』、『広義の軍事史と近世ドイツ』)を見てもこの軍事協会にブリュッヒャーが参加したと書いてるのを見たことがないので、ここでの接点があったわけではないのではないかと思います。

 その他で見つけたのは、まさにアウエルシュタットの戦いの日(10月14日)のに、ブリュッヒャーがシャルンホルストに会いに行ったというもの(『The Hussar General』P63)。

 ブラウンシュヴァイクは彼に、Schmettau師団から騎兵を持っていく様に命じ、ブリュッヒャーは1個cuirassier中隊と竜騎兵4個中隊と共にキャンターで前進した。全てはこのほんのわずかな部隊にかかっていた。ブリュッヒャーの背後ではプロイセン軍主力の大集団が塞がれ、アウエルシュタットへと戻る道上でまごついていたのである。ブリュッヒャーはPoppelでさらに彼の戦力を削らねばならなかった。そこで彼は2個竜騎兵中隊を、小河川にかかる橋の護衛として残したのである。彼はブラウンシュヴァイクの参謀長であるシャルンホルストと会う為に、Kosenから約3kmのHassenhausenの村の外側に続けて向かった。シャルンホルストは確たる情報を与えることは出来なかった。霧が依然として渦を巻いて密集し、敵の移動を覆い隠していたのだが、プロイセン軍偵察歩兵の薄い線がすでにダヴーの先導部隊と衝突していた。ブリュッヒャーもシャルンホルストも知らなかったが、午前8時までにダヴーの3個師団はHassenhausenの前の平原に配置されつつあり、さらなるフランス軍部隊がザーレ川を渡って活発に動いているところだった。ブリュッヒャーは霧の中をのろのろ進んだ。



 以下、推測ですが、当時のプロイセン軍に関する本を読んでいると、(当たり前のことですが)将校同士は疎遠・昵懇の差はあれど、ある程度知り合いであるという印象を受けます。当時、シャルンホルストは名目上の最高司令官であったブラウンシュヴァイク公の参謀長であり、かたやブリュッヒャーはその前衛という感じの役割にいましたから、「それまで会ったこともなかった」ということはまあ、あり得ないでしょう。ただ、後年の伝記作家が特筆するような出会いはそれらの時点では何もなく、アウエルシュタットの戦いの後にそのパートナーシップが始まったことからそれが特筆されるようになる。と言っても、それほど劇的なものでもなかったということなのでしょうか、というのはこの『Jena to Eylau』以外ではこのような詳細を見たことがないので……(まだ見つけてないだけということも十分あり得ますが(^_^;)。

シャルンホルスト、ブリュッヒャーと合流

 アウエルシュタットの戦い以降のシャルンホルストについて。

 まず参考文献です。





 『歴史群像128号 2014年12月号』には以下のように書かれていました(P141)。

 アウエルシュタットから退却するカルクロイト隊は、前任のブラウンシュヴァイクに仕えていたシャルンホルストが参謀を務めていたが、イエナからの後退組と合流した後は、ホーエンローエが総司令官となったため、その参謀長であるマッセンバッハが主力部隊を掌握し、シャルンホルストはブリュッヒャー隊の参謀に転属となった。


 これを読んで「へぇ~、そうだったのか」と思い、洋書でその部分を探してみました。

 まず『JENA TO EYLAU』(P13)です。

 同様にあやふやであったのが、幕僚らの配置であった。シャルンホルストは、この時点では主力軍となっていたホーエンローエ公の参謀として配属されてあるべきであったし、もしずっとホーエンローエ公のもとに配属され続けていればプロイセンのために全く幸運なことであったであろう。ところが彼はノルトハウゼンでホーエンローエ公にハルツ山地を越える命令に関して大まかに述べるだけの時間があっただけで、まさにその瞬間にあちらこちらを彷徨ってきたマッセンバッハがそこに現れ、マッセンバッハは以前の彼の地位であるホーエンローエ公の参謀長の地位を主張したのであった。納得しきれない思いを大きく感じながらも、シャルンホルストはマッセンバッハの気に入るように譲歩する他なかった。将軍達の愚かでやる気のない光景に心底うんざりしつつ、シャルンホルストは後衛に行き、そこに留まったのであった(1.Max Lehmann, Scharnhorst,i.446)。


 この本、なかなか面白い書き方だなぁと思います。ただ、その後のブリュッヒャーとの合流については経緯が書かれてませんでした。(2/4追記:すみません! 見返してみたら書かれてました(T_T) 読み誤ってました……またこの件書きます)

 マッセンバッハに関してですが、彼はドイツ参謀本部の端緒を作った非常に頭の良い人物でありながらも、野望に満ちて実戦では無能であり、ホーエンローエと共に1806年戦役を大敗に追い込んだ人物として書かれていることが多いです。

 その人物像に関して、『ドイツ参謀本部』にはこうあります。

 彼は名前が示すようにヴュルテンベルクの名家の出身であったが、シャルンホルストと同じく風采はすこぶる上がらなかった。ずんぐりした禿げ頭の男で、大きな目玉を落ち着きなくギョロつかせていた。そのよく動く目が示すように、彼の精神は休まずに働き、情緒も不安定なところがあり、腹を立てやすく、何かにつけてマナーがよくなかった。同時に彼は大の野心家であり、ナポレオンの崇拝者でもあった。そして頭のよさはシャルンホルストを凌ぐものがあったと思われる。
『ドイツ参謀本部』P58

 マッセンバッハは、この改革原案を作成したぐらいであるから知力抜群の人であるが、人間としては才子タイプでその才子的限界を持っていた。情緒不安定がその欠点の最大のものであり、口ばかり達者という面が強かった。
『ドイツ参謀本部』P61



 閑話休題。シャルンホルストの配属替えについて『1806 Coming Storm』では(P69)。

10月17日、ノルトハウゼン

 意気消沈した王が到着し、ホーエンローエ公と約15,000名の兵士がいるのを見つけた。フランス軍騎兵が南から近づいていた。かつて王に戦争を勧めた者達のうちの一人の前で、王は怒りをあらわにした。全軍の指揮権が公に与えられたが、しかしそれ以上の指示は何も与えられずに、王はベルリンへと出発し、そこには目的意識も一貫性も何もなかった。

 ホーエンローエ公が軍勢にエルベ川を渡らせ、しばらくの間ベルリンを防御し、オーデル川の向こうに退却するためにはもうなにがしかの奇跡が必要であった。彼は部隊を3つにまとめることから始めた。うち2つはまだ装備と組織の再編が必要であった。残りの1つはなんら秩序のない敗残兵がほとんどであった。シャルンホルストはハルツ山地を越えていくための、山間の狭い谷間を通って遅れずに3つの部隊が分かれて進むことができるような詳細な計画を立案した。その後、2日間一人でさまよっていたマッセンバッハが現れ、シャルンホルスト大佐に取って代わった。

 ノルトハウゼンからプロイセン軍は、王国で最も強力な要塞であるマグデブルクへと到達するか、あるいはその付近でエルベ川を渡ることが必要であった。彼らは重い大砲を引き、それで歩兵の歩みは遅くなり、荷馬車と並んで道の外へと追いやられた。だがハルツ山地を重砲は通過できなかった。ブリュッヒャー将軍は2個大隊と1個騎兵師団と共に、中立化して安全だと思われるブラウンシュヴァイクへ向け、ハルツ山地の周辺で大砲を援護するために主力軍から離れて行動していた。シャルンホルストはこの隊列へ加入した。



 次に『The Hussar General』(P68)。

 情況はノルトハウゼンで改善し、そこでブリュッヒャーはシャルンホルストを見つけた。シャルンホルストは貴重な砲兵をなんとか救い出していた。この2人は今や将軍と参謀長というような形でのパートナーシップに入り、それは1813年に再びおこなわれ、それは軍事史の中で最も有名なものとなるのである。


 『1806 Coming Storm』でも後半、大砲について触れられていましたが、それをシャルンホルストが救い出したという形になっている……?

 『Blücher:Scourge of Napoleon』には大したことは書かれてません。この本はある程度大部の本であるのに、1806年戦役については記述が簡略です……(T_T)


 しかし主に、詳しめの本では「シャルンホルストは(マッセンバッハ不在のため)ホーエンローエ公の参謀長という状態から、マッセンバッハが現れたためにその地位をおわれ、何の指令もないままにブリュッヒャーと(たまたま?)合流した」という感じで書かれているように思います。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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