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アウエルシュタットでのシャルンホルスト


 イエナ・アウエルシュタットの戦いの時の話でもう一つ興味があったのは、

■アウエルシュタットの戦いの時、シャルンホルストは何をしていたのか?

 でした。とりあえず最初に参考文献を挙げます。『1806 Coming Storm』に関してはナポレオン関連本3冊、他をご参照下さい。





 プロイセン軍にとって新参のシャルンホルスト大佐(当時)は名目上の総司令官たるブラウンシュヴァイク公の参謀長ということになっていましたが、そもそも国王がいて、その他に司令官が3人おり(ブラウンシュヴァイク公、ホーエンローエ公、リュッヘル)、参謀長も2人いる(シャルンホルストと、ホーエンローエ公の参謀長であったマッセンバッハ)というわけの分からない状況下で、彼はこの戦役中ほとんど何もできなかったようです。

 『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』はしかも、1806年戦役当時のシャルンホルストの状況についてはかなり不明であると書いています(P188)。

 プロイセン側でナポレオンに近い能力を持っていたのはシャルンホルストだが、残念なことにまだ大佐の身分で、国王とブランズウィック公を共同議長とし、司令官、参謀将校、副官、顧問らが出席する軍議の決定事項に従うだけの一参謀長にすぎなかった。当時のクラウゼヴィッツも書いているように、シャルンホルストがどんな状況のもとで働いていたのかは想像がつきにくい。軍隊というものは一人の総司令官、一人の参謀長が指揮を取るべきであるのに、三人の総司令官と二人の参謀長でやっていたのだから、そのわずらわしさにはおよその察しはつく。他の人との意見の相違による摩擦が絶えずあって身動きが取りにくければ、せっかく才能に恵まれた人間がいてもその能力は著しく萎縮させられてしまったにちがいない。

 シャルンホルストはこの軍議に相当な発言権があったのかどうかさえ不明だが、かりにあったとしても彼がそれを行使しようとした様子はない。


 しかし『ドイツ参謀本部』では、イエナ・アウエルシュタットの戦いまでにシャルンホルストは3度(戦役中では2度)提案した、そしてそれがことごとく斥けられていた、と書かれていました(P62,3)。

 プロイセン軍の惨敗……はシャルンホルストの無能を証明するものではない。というのは、この敗戦に至るまでの彼の提案は、ことごとく斥けられていたからである。シャルンホルストは夙にプロイセンの中立政策の不可能なることを軍事的立場から洞察し、政府の外交責任者ハルデンベルク公に上申していた。……しかしこの提案は国王の容れるところとならず、ナポレオンはウルムでオーストリア軍を粉砕し、次いでアウステルリッツの三帝会戦でオーストリアおよびロシア軍を壊滅させてしまった。このいずれの戦闘においてもプロイセン軍が参加すれば、勝敗は逆になった公算が極めて大であったのである。ここで中立策をとったため、後にプロイセンはナポレオンを一手に引き受けなければならなくなった。

 1806年、いよいよナポレオンがプロイセンを相手に北上して来た時、シャルンホルストは彼我の兵力や装備を考えて、最初から相手に消耗を強いる作戦を上申して却下された。……

 その後ナポレオン軍が展開行進中、上部ファルツからジーク川に長く伸び切った時があった。シャルンホルストはここで敵の中央を断つことを上申し、また却下された。ここで彼はこの戦争における勝利の可能性を投げた感じである。


 再度『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』の続き。

イエナ、アウエルシュテット会戦の数日前、彼は過去5年間の自分の仕事が古い先入観を少しも打破出来なかったことをまざまざと実感して、すっかり気落ちしていたようだ。恐らく自分の上司らに事態の真相を知らせるには、彼らに苦い経験をしてもらう他ないと思わざるを得なくなっていたのではないだろうか。そのせいか彼は軍隊の機能が消滅しない程度の配慮しかしていない。


 「軍隊の機能が消滅しない程度の配慮」というのが具体的にどういうものかが気になるのですが……。

 
 ただ、この後のアウエルシュタットの戦い当日のシャルンホルストに関する記述は、この2つの本の間でかなり異なる印象を受けます。

 まずは『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』(P189)。

 アウエルシュテット会戦がクライマックスを迎え、プロイセンが中央の統率力欠如のため敗色濃くなりつつあったとき、シャルンホルストは左翼側の事態収拾に当るふりをして部下の将校全員を手放し、自分は数連隊を率いて局地的に善戦した。疲労困憊のその部隊もついに撤退を余儀なくされたとき、彼はすでに愛馬を失っていた国王の弟君に自分の馬を与え、マスケット銃を握って、徒歩で最後尾の歩兵隊とともに戦場を去った。


 続いて『ドイツ参謀本部』(P64)

 シャルンホルストは、戦場で負傷した。そして敗戦のプロイセン軍の兵士が民家を掠奪したり、憎まれていた将校をリンチするのを見た。彼ははじめ国王軍に合流したのであったが、馬が悪かったため落伍し、夜間、ブリュッヘルの騎兵隊と一緒になった。


 「左翼側の事態収拾に当るふりをして」という記述からは、敗色濃くなってからシャルンホルストが勝手に左翼に行ったかの様な印象を受けますが、次のページに「アウエルシュテット会戦初期に……シャルンホルストは左翼軍の状況立て直しを支援し」とあり、初期からシャルンホルストは左翼に行っていたということではあります。

 で、そこらへんのことを詳しく知りたいと思って、『1806 Coming Storm』を拾い読みしていましたら(P54)。

■プロセイン司令部での議論
 2台の荷馬車がアウエルシュタットのある家の前に到着した。運転手達と運搬人達は2つの木製の収納箱を運び込んだ。当直将校達が非常に素早く行き来し、参謀将校達が小型のかばんや書類かばん、くるくると巻いた地図を運んだ。国王護衛連隊から1個小隊がこの14日のプロイセン司令部に割り当てられ、速歩でその家の玄関と通りの4つの角すべてを護るように取り囲んだ。名目上の最高司令官であるブラウンシュヴァイク公が馬に乗って幾人かの彼付きの将校らと共に到着し、言った。
「より大きな兵力でまとめて行動できるようにするため、ヴァルテンスレーベン師団の到着を待つのが賢明だろう」
 誰かが囁いた。
「王とその顧問らがこのことについて中で話し始めているのにな」

 シュメッタウ師団の歩兵らの間を抜けて大急ぎでVolksbergを移動して、シャルンホルスト大佐がすぐに司令部に戻ってきた。報告が来た。
「閣下、敵の砲火があまりにも強烈になってきたため、撃ち返す必要があります。」
 王とメルレンドルフ元帥は攻撃の開始を遅らせることを許すことができなかった。シュメッタウ自身が召喚され、Lissbach川の向こう側の、約6kmの距離のハッセンハウゼン村へと前進することが命じられた。

 ブラウンシュヴァイク公はシャルンホルストを軽蔑の目で見ており、彼に左翼へと戻るように命じた。
「行って、すぐに左翼を指揮せよ。君がそこにいる限りは、そこで起こる全てのことは君の責任であると見なされることになる。」
 シャルンホルストは、この戦いの間ブラウンシュヴァイク公の側から遠ざけられることになるのだということを理解した。司令部から彼を遠ざけたことは、深刻な事態を引き起こすことになる。


 これを読んだ感想ですが、とりあえずまず、その小説的な書き方がなんかアヤしい(^_^; また、この本には格段にいちいち参考文献があげられているのですが、この段には一つも参考文献があげられていません。

 あと、シャルンホルストはこの前のタイミングで前線に偵察に行っていて戻ってきたかのようですが、「参謀長が偵察に行くってどういうことなん?」と思ってこの本の中でこれ以前にシャルンホルストの名前が出てくるところを探した(索引がないので(T_T))のですが、そのことに関する記述は見つけられませんでした。

 ただまあ、『ドイツ参謀本部興亡史 上』(P48)に、以下のようにあります。

 ブラウンシュヴァイク老公はアウエルシュテットで瀕死の重傷を負うまで、極めて優秀な幕僚長【シャルンホルストのこと】をどう活用してよいかわからず、命令伝達に便利な副官として彼を使用した。


 伝令どころか前線偵察に使用される参謀長……。

 まあでも良く分かりません。試しにさらに、『THE JENA CAMPAIGN 1806』を参照してみましたら……(P167。この本は繋がりの分かりにくい長文が続くので、私が意味を盛大に取り違えている可能性もあります)。

 この師団【シュメッタウ師団】の配置を注視していたブラウンシュヴァイク公は、すでに増援を呼ぶために彼の将校達のほとんどを送り出してしまっており、新たな部隊を送り込んで奪取すべき方向としてハッセンハウゼンの南の丘を指し示した。ブラウンシュヴァイク公は彼の参謀長であるシャルンホルストと共に幹線道路沿いの木々のすぐ南にいたが、シュメッタウ師団の第二線の射撃を聞いて前記に注意を向け、その音が聞こえてきた方向に強い衝撃を受けて、シャルンホルストに騎乗してその原因を見つけてくるように命令し、さらに言った。
「私はそこで起こるすべてのことに関して貴官に一任する。」
 この二人の間の関係はやや緊張関係にあったから、ここ数日間に起こった出来事の結果、シャルンホルストはこの命令を、彼をブラウンシュヴァイク公のやることから遠ざけておこうという意図だと理解した。このことはすぐ後にブラウンシュヴァイク公が重傷を負った時にプロイセン軍にまったく致命的な結果をもたらすことになった。


 この本だと、(両者の仲が微妙であったことは一緒ですが)シュメッタウ師団の方向で起こったことをブラウンシュヴァイク公が気にして、そこにシャルンホルストを送り込んだ感じになっております。『歴史群像127号』P152でも、

 このとき、プロイセン軍の実質的な司令官であるブラウンシュヴァイク公は、負傷したシュメットーの代わりとなるべく自身の参謀シャルンホルストを前線に送り出すとともに、……


 となっていてこれに若干近いですがしかし、シュメッタウが負傷してその代わりにブラウンシュヴァイク公が前線に出て両目を撃たれた……という記述をこれまでに複数回見たような気も……(もう検証するのがめんどくさいのでパスします(^_^;)。



 その後のシャルンホルストについてですが、『1806 Coming Storm』で以下のものを見つけられただけにとどまっています(P62)。

 ブラウンシュヴァイク公の参謀長であったシャルンホルスト大佐は王の側近達と一緒に戦場から進んだが、彼の乗馬はそうしたくなかったようで、そのまま行くのを拒否した(Goerlitz,p.27.【シャルンホルストに関するドイツ語の伝記作者 Walter Go"rlitz?】)。シャルンホルスト大佐は追撃のフランス兵から身を守るためにマスケット銃を拾ったものの、若干の傷を負った。

 9時までにプロイセン軍の荷馬車の長い縦隊は、放棄された大砲に邪魔されて交通渋滞を起こしていた。脱走兵達は火砲やマスケット銃を投げ捨て、荷馬車が略奪される中で混乱がいや増していた。混乱が広がる中、腹を減らした兵士達は粗暴になり、荷馬車をひっくり返して食糧や飲み物を運び去り、上官の命令を無視するようになっていた。

 フランス兵のラッパの音が混乱を倍加させた。Saalfeldで戦っていた中隊長であったグナイゼナウ大尉は断言している。
「もう一度あの中で生きるくらいなら、千回死んだ方がましだ」
 グナイゼナウはヴァイマルの前のWebichtの森の端で少数の部隊を集め、それで逃亡する兵士達を退却させる時間を稼ぐことができた。だが闇夜の中でのある最後の乱雑な騎兵突撃が、最終的に彼の部隊をばらばらにさせてしまった。


 マスケット銃を拾った、傷を負った、というのは以前の本と合致しますが、馬の件に関しては資料間の違いがあるような気がします。

 あと地味に、1806年戦役におけるグナイゼナウについてここの記述しか見つけられていません……。

 この後、シャルンホルストはブリュッヒャーの率いる部隊と合流することになるのですが、その前に一度、ホーエンローエ公の参謀長となるべく配置替えされたのだが……というような記述が資料にみられます。が、その件はまた後日に。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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