FC2ブログ

アウエルシュタットでのシャルンホルスト


 イエナ・アウエルシュタットの戦いの時の話でもう一つ興味があったのは、

■アウエルシュタットの戦いの時、シャルンホルストは何をしていたのか?

 でした。とりあえず最初に参考文献を挙げます。『1806 Coming Storm』に関してはナポレオン関連本3冊、他をご参照下さい。





 プロイセン軍にとって新参のシャルンホルスト大佐(当時)は名目上の総司令官たるブラウンシュヴァイク公の参謀長ということになっていましたが、そもそも国王がいて、その他に司令官が3人おり(ブラウンシュヴァイク公、ホーエンローエ公、リュッヘル)、参謀長も2人いる(シャルンホルストと、ホーエンローエ公の参謀長であったマッセンバッハ)というわけの分からない状況下で、彼はこの戦役中ほとんど何もできなかったようです。

 『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』はしかも、1806年戦役当時のシャルンホルストの状況についてはかなり不明であると書いています(P188)。

 プロイセン側でナポレオンに近い能力を持っていたのはシャルンホルストだが、残念なことにまだ大佐の身分で、国王とブランズウィック公を共同議長とし、司令官、参謀将校、副官、顧問らが出席する軍議の決定事項に従うだけの一参謀長にすぎなかった。当時のクラウゼヴィッツも書いているように、シャルンホルストがどんな状況のもとで働いていたのかは想像がつきにくい。軍隊というものは一人の総司令官、一人の参謀長が指揮を取るべきであるのに、三人の総司令官と二人の参謀長でやっていたのだから、そのわずらわしさにはおよその察しはつく。他の人との意見の相違による摩擦が絶えずあって身動きが取りにくければ、せっかく才能に恵まれた人間がいてもその能力は著しく萎縮させられてしまったにちがいない。

 シャルンホルストはこの軍議に相当な発言権があったのかどうかさえ不明だが、かりにあったとしても彼がそれを行使しようとした様子はない。


 しかし『ドイツ参謀本部』では、イエナ・アウエルシュタットの戦いまでにシャルンホルストは3度(戦役中では2度)提案した、そしてそれがことごとく斥けられていた、と書かれていました(P62,3)。

 プロイセン軍の惨敗……はシャルンホルストの無能を証明するものではない。というのは、この敗戦に至るまでの彼の提案は、ことごとく斥けられていたからである。シャルンホルストは夙にプロイセンの中立政策の不可能なることを軍事的立場から洞察し、政府の外交責任者ハルデンベルク公に上申していた。……しかしこの提案は国王の容れるところとならず、ナポレオンはウルムでオーストリア軍を粉砕し、次いでアウステルリッツの三帝会戦でオーストリアおよびロシア軍を壊滅させてしまった。このいずれの戦闘においてもプロイセン軍が参加すれば、勝敗は逆になった公算が極めて大であったのである。ここで中立策をとったため、後にプロイセンはナポレオンを一手に引き受けなければならなくなった。

 1806年、いよいよナポレオンがプロイセンを相手に北上して来た時、シャルンホルストは彼我の兵力や装備を考えて、最初から相手に消耗を強いる作戦を上申して却下された。……

 その後ナポレオン軍が展開行進中、上部ファルツからジーク川に長く伸び切った時があった。シャルンホルストはここで敵の中央を断つことを上申し、また却下された。ここで彼はこの戦争における勝利の可能性を投げた感じである。


 再度『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』の続き。

イエナ、アウエルシュテット会戦の数日前、彼は過去5年間の自分の仕事が古い先入観を少しも打破出来なかったことをまざまざと実感して、すっかり気落ちしていたようだ。恐らく自分の上司らに事態の真相を知らせるには、彼らに苦い経験をしてもらう他ないと思わざるを得なくなっていたのではないだろうか。そのせいか彼は軍隊の機能が消滅しない程度の配慮しかしていない。


 「軍隊の機能が消滅しない程度の配慮」というのが具体的にどういうものかが気になるのですが……。

 
 ただ、この後のアウエルシュタットの戦い当日のシャルンホルストに関する記述は、この2つの本の間でかなり異なる印象を受けます。

 まずは『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』(P189)。

 アウエルシュテット会戦がクライマックスを迎え、プロイセンが中央の統率力欠如のため敗色濃くなりつつあったとき、シャルンホルストは左翼側の事態収拾に当るふりをして部下の将校全員を手放し、自分は数連隊を率いて局地的に善戦した。疲労困憊のその部隊もついに撤退を余儀なくされたとき、彼はすでに愛馬を失っていた国王の弟君に自分の馬を与え、マスケット銃を握って、徒歩で最後尾の歩兵隊とともに戦場を去った。


 続いて『ドイツ参謀本部』(P64)

 シャルンホルストは、戦場で負傷した。そして敗戦のプロイセン軍の兵士が民家を掠奪したり、憎まれていた将校をリンチするのを見た。彼ははじめ国王軍に合流したのであったが、馬が悪かったため落伍し、夜間、ブリュッヘルの騎兵隊と一緒になった。


 「左翼側の事態収拾に当るふりをして」という記述からは、敗色濃くなってからシャルンホルストが勝手に左翼に行ったかの様な印象を受けますが、次のページに「アウエルシュテット会戦初期に……シャルンホルストは左翼軍の状況立て直しを支援し」とあり、初期からシャルンホルストは左翼に行っていたということではあります。

 で、そこらへんのことを詳しく知りたいと思って、『1806 Coming Storm』を拾い読みしていましたら(P54)。

■プロセイン司令部での議論
 2台の荷馬車がアウエルシュタットのある家の前に到着した。運転手達と運搬人達は2つの木製の収納箱を運び込んだ。当直将校達が非常に素早く行き来し、参謀将校達が小型のかばんや書類かばん、くるくると巻いた地図を運んだ。国王護衛連隊から1個小隊がこの14日のプロイセン司令部に割り当てられ、速歩でその家の玄関と通りの4つの角すべてを護るように取り囲んだ。名目上の最高司令官であるブラウンシュヴァイク公が馬に乗って幾人かの彼付きの将校らと共に到着し、言った。
「より大きな兵力でまとめて行動できるようにするため、ヴァルテンスレーベン師団の到着を待つのが賢明だろう」
 誰かが囁いた。
「王とその顧問らがこのことについて中で話し始めているのにな」

 シュメッタウ師団の歩兵らの間を抜けて大急ぎでVolksbergを移動して、シャルンホルスト大佐がすぐに司令部に戻ってきた。報告が来た。
「閣下、敵の砲火があまりにも強烈になってきたため、撃ち返す必要があります。」
 王とメルレンドルフ元帥は攻撃の開始を遅らせることを許すことができなかった。シュメッタウ自身が召喚され、Lissbach川の向こう側の、約6kmの距離のハッセンハウゼン村へと前進することが命じられた。

 ブラウンシュヴァイク公はシャルンホルストを軽蔑の目で見ており、彼に左翼へと戻るように命じた。
「行って、すぐに左翼を指揮せよ。君がそこにいる限りは、そこで起こる全てのことは君の責任であると見なされることになる。」
 シャルンホルストは、この戦いの間ブラウンシュヴァイク公の側から遠ざけられることになるのだということを理解した。司令部から彼を遠ざけたことは、深刻な事態を引き起こすことになる。


 これを読んだ感想ですが、とりあえずまず、その小説的な書き方がなんかアヤしい(^_^; また、この本には格段にいちいち参考文献があげられているのですが、この段には一つも参考文献があげられていません。

 あと、シャルンホルストはこの前のタイミングで前線に偵察に行っていて戻ってきたかのようですが、「参謀長が偵察に行くってどういうことなん?」と思ってこの本の中でこれ以前にシャルンホルストの名前が出てくるところを探した(索引がないので(T_T))のですが、そのことに関する記述は見つけられませんでした。

 ただまあ、『ドイツ参謀本部興亡史 上』(P48)に、以下のようにあります。

 ブラウンシュヴァイク老公はアウエルシュテットで瀕死の重傷を負うまで、極めて優秀な幕僚長【シャルンホルストのこと】をどう活用してよいかわからず、命令伝達に便利な副官として彼を使用した。


 伝令どころか前線偵察に使用される参謀長……。

 まあでも良く分かりません。試しにさらに、『THE JENA CAMPAIGN 1806』を参照してみましたら……(P167。この本は繋がりの分かりにくい長文が続くので、私が意味を盛大に取り違えている可能性もあります)。

 この師団【シュメッタウ師団】の配置を注視していたブラウンシュヴァイク公は、すでに増援を呼ぶために彼の将校達のほとんどを送り出してしまっており、新たな部隊を送り込んで奪取すべき方向としてハッセンハウゼンの南の丘を指し示した。ブラウンシュヴァイク公は彼の参謀長であるシャルンホルストと共に幹線道路沿いの木々のすぐ南にいたが、シュメッタウ師団の第二線の射撃を聞いて前記に注意を向け、その音が聞こえてきた方向に強い衝撃を受けて、シャルンホルストに騎乗してその原因を見つけてくるように命令し、さらに言った。
「私はそこで起こるすべてのことに関して貴官に一任する。」
 この二人の間の関係はやや緊張関係にあったから、ここ数日間に起こった出来事の結果、シャルンホルストはこの命令を、彼をブラウンシュヴァイク公のやることから遠ざけておこうという意図だと理解した。このことはすぐ後にブラウンシュヴァイク公が重傷を負った時にプロイセン軍にまったく致命的な結果をもたらすことになった。


 この本だと、(両者の仲が微妙であったことは一緒ですが)シュメッタウ師団の方向で起こったことをブラウンシュヴァイク公が気にして、そこにシャルンホルストを送り込んだ感じになっております。『歴史群像127号』P152でも、

 このとき、プロイセン軍の実質的な司令官であるブラウンシュヴァイク公は、負傷したシュメットーの代わりとなるべく自身の参謀シャルンホルストを前線に送り出すとともに、……


 となっていてこれに若干近いですがしかし、シュメッタウが負傷してその代わりにブラウンシュヴァイク公が前線に出て両目を撃たれた……という記述をこれまでに複数回見たような気も……(もう検証するのがめんどくさいのでパスします(^_^;)。



 その後のシャルンホルストについてですが、『1806 Coming Storm』で以下のものを見つけられただけにとどまっています(P62)。

 ブラウンシュヴァイク公の参謀長であったシャルンホルスト大佐は王の側近達と一緒に戦場から進んだが、彼の乗馬はそうしたくなかったようで、そのまま行くのを拒否した(Goerlitz,p.27.【シャルンホルストに関するドイツ語の伝記作者 Walter Go"rlitz?】)。シャルンホルスト大佐は追撃のフランス兵から身を守るためにマスケット銃を拾ったものの、若干の傷を負った。

 9時までにプロイセン軍の荷馬車の長い縦隊は、放棄された大砲に邪魔されて交通渋滞を起こしていた。脱走兵達は火砲やマスケット銃を投げ捨て、荷馬車が略奪される中で混乱がいや増していた。混乱が広がる中、腹を減らした兵士達は粗暴になり、荷馬車をひっくり返して食糧や飲み物を運び去り、上官の命令を無視するようになっていた。

 フランス兵のラッパの音が混乱を倍加させた。Saalfeldで戦っていた中隊長であったグナイゼナウ大尉は断言している。
「もう一度あの中で生きるくらいなら、千回死んだ方がましだ」
 グナイゼナウはヴァイマルの前のWebichtの森の端で少数の部隊を集め、それで逃亡する兵士達を退却させる時間を稼ぐことができた。だが闇夜の中でのある最後の乱雑な騎兵突撃が、最終的に彼の部隊をばらばらにさせてしまった。


 マスケット銃を拾った、傷を負った、というのは以前の本と合致しますが、馬の件に関しては資料間の違いがあるような気がします。

 あと地味に、1806年戦役におけるグナイゼナウについてここの記述しか見つけられていません……。

 この後、シャルンホルストはブリュッヒャーの率いる部隊と合流することになるのですが、その前に一度、ホーエンローエ公の参謀長となるべく配置替えされたのだが……というような記述が資料にみられます。が、その件はまた後日に。

スポンサーサイト



オラニエ公師団を分割投入したのは誰か?

 ナポレオン戦争時代のオランダ王家にも私は興味を持ってしまってまして、これまでもいくらか調べて書いてました。

オラニエ公は無能なのか?
オラニエ公の評価
オラニエ公周辺の評価
オランダ王ウィレム1世(オラニエ公)
オラニエ公やブリュッヒャーの容姿について

 で、オラニエ公(父)がアウエルシュタットの戦いに参加していたのは知っていたのですが、その戦いの中でどう活躍したのか、あるいは活躍しなかったのかについてはまだ調べることを放棄しておりました。

 で、今回も割と放棄していたのですが(^_^;、今回色々と日本語資料なども読んでいるうちに、「オラニエ公の師団をもしいっぺんに左翼に投入していればアウエルシュタットの戦いにプロイセン軍は勝ったかもしれないのに、分割して両翼に投入されてしまった」というような説明があって、印象に残ってました。


 しかしそれでもこの件はオラニエ公自身の能力に関するものってわけでもないし、調べはしていなかったのですが、色々資料を拾い読みしているうちに、以下のようなまた印象的な記述に邂逅。

■『1806 Coming Storm』の巻末付録Ⅸの「アウエルシュタットの戦いにおけるプロイセン軍戦闘序列」のオラニエ公師団につけられた注釈(P147)

 【オラニエ公の師団が】午前10:30頃に到着した時、王【フリードリヒ・ヴィルヘルム3世】はその師団全体を左翼への増援とするように命令した。その移動が始まった時、各旅団をシュメッタウ師団の両翼に配置するようにというさらなる命令が到着した。


 「おおおお……ということは、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はオラニエ公師団全体を左翼に投入しようとしていた? しかしそれを誰かが邪魔した? ということは多くの資料で無能扱いされているフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は実はそうでもなかったのか……!? あいや、でも、「さらなる命令(another order)」というのを、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世自身が出したという可能性もあるなぁ……?」

 で、また別にこの件を調べるでもなく、別の資料『戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編』を眺めてましたら、

P51
 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、1805年の一連の戦いでは戦略的に優柔不断であり、1806年のアウエルシュタットの戦いでは戦術的に無能だった。その存在はプロイセンにとって災難であり、プロイセンは多くの領土と国民を失ってしまった。幸いだったのは王に多数の有能な軍人が仕えていたことで、彼らがプロイセン軍を改革して再興させ、ナポレオンを失墜させる中核的な役割を果たした。

P52
 午前11時、両軍ともに増援隊を得た。プロイセン側には、オラニエ公ウィレム・フリードリヒが彼の師団とともに到着した。あいにく、フリードリヒ王がオラニエ公に命じたのは、師団をひとまとまりとしてフランス軍の片方の翼に大量攻撃をかけるのではなく、師団を分割してプロイセン軍の両翼に配置することであり、これによって決定的瞬間に大軍を投入する機会が失われてしまった。


 「うむむ~。この本だとフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は徹底して無能扱いで、しかも王自身が分割配置を命令したことになってるなぁ。」

 あと、Wikipedia英語版「イエナ・アウエルシュタットの戦い」を見てみると、

 オラニエ公師団は午前10:30頃に到着し、王はこの日唯一の彼の決断をしたが、それはオラニエ公の部隊を半分に分割し、それを両翼に配置することだった。


 とかって書いてありました。おおう(^_^;

 その後、恐らく『1806 Coming Storm』を詳細に読むのが良さそうだとは思ったのですが英語で文章量が多いので敬遠しまして(^_^;。とりあえず『歴史群像127号』を見たのですが、オラニエ公師団の分割配置については詳細が書いておらず、しかしむしろブラウンシュヴァイク公が負傷した後、「前線でのこの出来事は、なかなか国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世のもとへ届かなかった。」(P152)とあって、「あれー、割とすぐに国王はこのことを知ったような印象を私は持っていたけどなぁ?」と思って、そこらへんがなんか詳しく書いてあったような記憶があったR/Dさんのブログ(の冊子)を調べてみましたら……(国王と王妃)。

  フランス軍側の話ばかり書いたので、多少はプロイセン側についても言及しておこう。漫画ではブラウンシュヴァイクの負傷後に「次の指揮官は……」「いません、死にました」という台詞が入っているが、これは史実ではない。史実では一応、ブラウンシュヴァイクの後を継いだ人物はいた。プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世"http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_William_III_of_Prussia"その人である。

  ……と、少なくともHo"pfnerは主張している。彼によればオラニエ師団がアウエルシュテットを通過し、後送される負傷したブラウンシュヴァイク公を目撃した「直後、国王が訪れ、師団がもっと近くに移動していないことに対する多大な怒りを表明し、戦闘中の兵の左翼を全大隊で強化するよう命じた」(Der Krieg von 1806 und 1807, Erster Theil. Erster Band."http://books.google.co.jp/books?id=ZAcKAAAAIAAJ" p453)。またその後になって「国王からの2つ目の命令が来た。ヴァルテンスレーベン師団がハッセンハウゼン右側をもっと長期間保持できるよう、戦っている兵の両翼を強化せよ」(p454)とも書かれている。



 もちろんこの記述は読んでいたのですが、しかしあまり良く分かっておらず、今回初めて良く理解できた気がしました。

 つまり、

1.ブラウンシュヴァイク公が負傷する。(が、それが国王に伝わるには時間がかかった?)
2.オラニエ公師団が後方から到着する。
3.国王はオラニエ公師団全体で左翼を増援するように一度命じた。
4.その後国王から2つ目の、両翼へ師団を分割するようにという命令が来た。

 一応これでもって、ここまで引用した資料の全てが矛盾のない状態になるように思います。

 とすると、結局フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はダメダメだったか……? 私は割と、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は「結果的には名君だったと言えるのでは?」派なのですが(^_^; というのは、国王が無能だから部下達に権限が委譲されざるを得ず、結果として領土は増えたのだから、という感じでですが。『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』での引用部分で「時代の曲がり角に立つ凡庸な指導者たちが国家を存続させるためには、国民の才能を自由に開花させ、これを利用するしかなかった。」と書いてある辺りですね。

 あと、オラニエ公自身は命令に振り回されているだけで、自身が有能か無能かってのは判断できないようだなあ……と今回も思いました。もっと詳しい資料を見ていくといくらか分かってくるのかもですが。


 あと、「ブラウンシュヴァイク公の負傷を国王はすぐに知ったか」の件ですが、R/Dさんのブログ(国王と王妃)のその後に、

  Ho"pfnerとは逆のことを書いている人もいる。Maudeによればブラウンシュヴァイクの負傷により「彼の幕僚は散り散りとなり、公の機能を行使するための配置ができる唯一の人物である国王にその情報が伝えられなかった」(The Jena Campaign, 1806"https://archive.org/details/jenacampaign180600maud" p168)という。おまけにようやくそのニュースが届いた時、国王は後継者を指名しなかったのみならず、自ら指揮を取ることもなかった(同)というのがMaudeの主張だ。
  残念ながらMaudeが論拠を示していないため、どちらが正しいかの判断は難しい。取りあえず割と詳細な話を書いているHo"pfnerの方がもっともらしいように思われるが、最終判断はもっとはっきりとした史料があるかどうかを見てから下すべきだろう。


 とありました。Höpfner氏の記述でも別に「国王はすぐ知った」と書いてあるわけではないので、どちらかと言えば国王は割と長い間、ブラウンシュヴァイク公の負傷を知らなかった、ととりあえず判断しても良さそう? ううーん、私全然ちゃんと理解して記憶してないですねぇ。トホホ……(T_T) 




(1/26追記)

 『歴史群像127号』を読み返してましたら、分割投入の判断はブラウンシュヴァイク公がしたという風に書いてあるのを見つけました。ページが前だったので見つけていなかった……(T_T)

 ブラウンシュヴァイク公はこのとき、自軍の右翼側で味方が優勢となっていることに気づいていなかった。そのため、すべての方面で兵力をかさ上げするべく、オラニエ公の師団を二つに分け、一方をシュメットーの後方、もう一方をヴァーテンスレーベンの背後へ進出させた。(P151)


 でもこれもどこかの資料に書かれていることのはずで、参考文献には5冊本が上げられているのですが、私が持っているのはそのうち2冊だけです。残り3冊のどこかにブラウンシュヴァイク公が判断し、命じたと書いてあるんでしょうね。

戦場を脱出するブラウンシュヴァイク公

 続けてイエナ・アウエルシュタットの戦い(の後)の興味を持っていることについて少しずつ調べていっているのですが、色んなことを細切れに見ていて、少しずつでも書いておかないと忘れていってしまいそうなので、ブログの方で細切れになっても書いておこうと思います。

 先日両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公で書いていた「2人の擲弾兵が失明したブラウンシュヴァイク公の乗馬を引いていた。」という件ですが、佐藤俊之氏によるナポレオン戦争の連載でアウエルシュタットの戦いについて載っている『歴史群像127号 2014年10月号』を見返したら、まさにそのシーンのイラストが載っていました(P152)。

Doppelschlacht bei Jena und Auerstadt

 ↑そのイラストと同一の、Wikipedia英語版「イエナ・アウエルシュタットの戦い」上のイラスト。ただしこのイラストの説明は単に「両会戦から負傷し、敗走するプロイセン軍兵士達」という感じになってますし、イラスト自体の下にあるドイツ語の説明も単に「イエナ・アウエルシュタットの両会戦」と書いてあるだけっぽいです。ドイツ語版や日本語版のWikipediaにはこのイラストは貼られていません。

 まあでも『歴史群像』上で「擲弾兵に守られて戦場を後にする、重傷のプロイセン軍司令官ブラウンシュヴァイク公。【中略】公は戦場を脱出するも、脳の傷が悪化し11月10日に落命。」とこのイラストの説明にありますし、『1806 Coming Storm』にあった説明とも合致するので、ブラウンシュヴァイク公を描いたものだと思ってOK……?

 擲弾兵二人が馬を引いているのみならず、一人の兵士が一緒に馬に乗ってブラウンシュヴァイク公を後ろから支えてますね。ブラウンシュヴァイク公一人だけで馬に乗せられて二人の擲弾兵がそれを引いているというのはなんかちょっと無理っぽい構図に感じていたので、「なるほど」という感じがしました。


 あと、前エントリの両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公のコメントにはSchaluppeさんがドイツ語版Wikipediaのブラウンシュヴァイク公のその後の記述を書いて下さったり、『キャロライン王妃事件』という本に載っているブラウンシュヴァイク公の息子達や死に際に関する記述も書いてあるので、興味のある方はそちらもどうぞ。

OCS『KOREA』6ターンまで

 2015/1/18にミドルアース大阪でプレイしたOCS『KOREA』について。

 といってもまたいつものごとく、こかどさんに基本的にプレイしてもらって、私は若干韓国軍を動かしたり、補給を運んだり、茶々を入れたりしてただけで勉強させてもらってました。

 ↓が第1ターン表(北朝鮮軍)終了時の状態です。ソウル市街地の北東のヘクスを北朝鮮軍が占領しており、残り2ヘクスには何も置かれていませんが、本当は韓国軍がある程度の戦力を置いています(左の方にあるソウル市街地ヘクスボックスに置いてあるのです)。

CIMG1856_20150119113109515.jpg

 ○囲みの数字があるのは、韓国軍ユニットがいたけども壊滅させたヘクスです。こかどさんは、まず①を機甲ユニットでオーバーラン(平地なので機甲ユニットは戦力2倍となる)して戦闘後前進。戦闘フェイズに②を周りの複数ユニットで高オッズでボコ殴りにして突破の結果を獲得。続く突破フェイズに③をオーバーランし、開いた穴から歩兵をソウル方向へ流し込んでソウル市街地の北東ヘクスを戦闘で壊滅させ、戦闘後前進しました。

 ④は壊滅はさせたものの自軍が退却した(Ao1 DL1o1)もので、こかどさん的には本当はここでも突破の結果を獲得してここからもソウル方向へ突進するつもりだったのだけどもサイの目が悪くて失敗されてました。

 感心したのは、すでに以前から聞いていたものですが「戦闘フェイズに高オッズで殴って突破の結果を獲得し、突破フェイズに再度移動(オーバーラン)して戦闘する」というこかどドクトリン?の有効性でした。

 私はグデーリアンばり?に「どうしても必要な進路上にいない敵部隊は放っておいて、戦闘は最小限にしておき、なるべく遠くまで前進することを重視する」べきかと思ってました。ので、②の韓国軍ユニットは殴らなくても良いのではないかと思ってました。ところがそういうやり方だと、自軍の懐の位置に敵ユニットが残って、それが自軍の補給線を脅かすので、それに対処するために自軍補給路上にユニットを置いておかねばならなくなってむしろ前進できなくなってしまってました。

 その様子が↓です(『KOREA』開戦シナリオやってみましたの最後の写真と同一です)。

CIMG1890.jpg

 こかどドクトリンによると、むしろ自軍の懐の位置にある敵ユニットはそれゆえに高オッズで殴ることができるので、突破の結果が出やすくなり、「踏み台」「ジャンプ台」として有効活用できる、と考える。

 またその結果として、懐の敵軍を壊滅させつつ、自軍部隊の相当数を敵地奥深くに流し込むことができ、それによって敵の補給線を切るように機動できるので、敵は邪魔な機動もできずに下がるしかなくなる、と……。最初の写真で、ソウルの北側に3ヘクスに渡って戦闘モード(つまりZOCがある状態で)でユニットを並べることができ、それゆえに韓国軍がソウルの北側ではもう何もできなくなってしまっているのが痺れました(というか、これらは当然のことなんでしょうね~(^_^;)。

 最初の写真でソウルの北東に残った韓国軍は矢印のようにソウル市街ヘクスに入ることもできましたが、私のやり方の場合「もうどうやっても死ぬしかないから、損耗チェックで生き残るわずかな可能性にかけて敵への嫌がらせだけするよ」ってなことになってしまいがちのようなこともないわけで、そういう意味でも良いですね。


 で、第1ターン裏(韓国軍ターン)ですが、私もそれはありではないかと思っていたのですが、こかどさんはソウルを捨てて退却することを選択。

CIMG1857_2015011912563179b.jpg

 ソウルに1ユニットだけ足止め部隊を置いて、下がれるだけ下がりますが、移動力が足りなくて防衛線など張れず。一応次の防衛線はで囲んだ天安(チョナン)ではないかとの見立て。



 第2ターン、イニシアティブの権利を韓国軍が取り、北朝鮮軍に表を渡すか、韓国軍が取るか悩んだ結果、韓国軍が表を取ることを選択。天安を防衛線とする形を取ります↓。

CIMG1858.jpg



 第2ターン裏、北朝鮮軍が天安まで占領↓

CIMG1859.jpg



 第3ターン表を韓国軍が取ってさらに下がります。大田(テジョン)がMinor Cityで中障害地形なので防衛線にしたいところですが、まわりに大した地形がないので大田には犠牲部隊を置くも基本はその後ろの永同(ヨンドン)周辺を防衛線にするか……という感じ。

CIMG1861.jpg


 第3ターン裏の北朝鮮軍は、前線に部隊を送り出すのがメインになりました。

CIMG1862.jpg


 第4ターン表も韓国軍。ここまで3連続で韓国軍がイニシアティブの権利を取ってました。大田(テジョン)、永同(ヨンドン)はそのままにして、それ以外の防衛線を少し下げただけ。まだ北朝鮮軍には距離があり、永同(ヨンドン)より防衛線を下げるのは地形的にないかな、というのがあったのですが……。

CIMG1863.jpg



 第4ターン裏の北朝鮮軍。大田(テジョン)を陥落させます。

CIMG1864.jpg



 第5ターン表。ついに北朝鮮軍がイニシアティブの権利を取り、北朝鮮軍がダブルムーブを選択します。そして……永同を完全包囲!(↓は戦闘フェイズ直前)

CIMG1865_201501191459490cc.jpg

 永同にいた韓国軍の5ユニットはリアクションの砲撃のサイの目が悪く(私が振りました)、攻撃側をあまり混乱させられず、すべて壊滅させられてしまいました……。

 サイの目が悪かったのも全滅の一因なのですが、何ができたかというと、永同にハイスタックさせていたのをもう少し横に置くべきだったかな……とか。もちろん、それまたメリットデメリット両方ある話なので絶対そうだとは決しがたいのですが、研究しがいのあるところだと思います。


 その後、第6ターン裏(韓国軍)終了までやりましたが、北朝鮮軍が完全に補給ポイント不足であと3ターンくらいは攻撃ができないだろうことなどから、ここでプレイ終了としました。

CIMG1866.jpg


 あと、第7ターン(7月15日ターン)の韓国・国連側の増援が↓のようなもので、「えっ……空母バレー・フォージの艦載機、強すぎ……!?」 しかもこの艦載機らはヒップシュートもできるという……。

CIMG1867_201501191514554bd.jpg

 今後北朝鮮軍は、攻勢を発動しても国連軍の航空優勢や砲兵によって5~6スタックはDGにさせられることが見込まれ、今回は北朝鮮軍側が有利に進んだように思われますが、それでもサドンデス(釜山周辺の数ヘクスのみまで国連軍を押し込めばサドンデス勝利)はさすがになく、押し返すだろうと思われました。


 今回数ターンの展開が見られて非常に良かったです。勉強になりましたし、『KOREA』をぜひ今後もプレイしてみたい意欲が非常に湧きました。『KOREA』はユニット密度といい、半島で戦線の端が分かりやすくて迷いが少ない(『TUNISIA』はそこらへんが非常に掴みにくい)とかで非常にプレイがしやすくて良いです。OCSを初めてプレイしてみる方にも本当にオススメできるような気がします(マップがフルマップ2枚は置ける場所がないとつらいというのが一番のネックでしょうか)。

(2/9追記:↑Den of The Gamersの『Korea』のページを見てもらうと分かりますが、シナリオ13個のうち5つがマップ1枚でできるので、マップ1枚しか置ける場所がないという場合でもかなり優秀なパフォーマンスであるようです。訂正しておきます(>_<))

ミドルアース大阪(2015/1/18)

 ミドルアース大阪に行ってきました。守口の方で数回開かれていたのに初めて行ったのですが、今回で守口の会場は終わりだったそうです(^_^;

 人数は少なめでしたが、自分ところ以外のプレイの写真だけでも。

CIMG2094.jpg

 ↑SPIのアウステルリッツだそうで、私は初めて見ました。クワドリよりも小さいマップが可愛い。



CIMG2121.jpg

 ↑アド・テクノスの『アウステルリッツの太陽』のGJ再版のもの。



CIMG2120.jpg

 ↑先日デザイナーさんが亡くなったらしい『スターリングラード』ですが、それが契機というわけではなくプレイされていたそうです。


 私はOCS『KOREA』をやっていた、というか眺めていたのですが、それはまた稿を改めまして。

両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公

 年末からずっと体調が悪くて長期休み中何もできず、ネトゲ(→Blade&Soul)だけをやっていた感じで、しかも長期休み明けにインフルエンザにかかってネトゲさえできないでいたのですが、ここ数日体調が良くなってきて、「イエナ・アウエルシュタットの戦いの後」のことを翻訳したい熱に浮かされてむしろネトゲもまったく触ってない状況です。で、これだけ熱に浮かされる様な状況は(残念ながら長くは続かないであろう)慶賀すべき状態かと思って、その流れに身を任せようかと思ってます。

 イエナ・アウエルシュタットの戦いの後の資料をいくらか集め、興味のあるところを抜き出してちまちま訳し始めていたのですが、メインの部分は時系列に沿ってそのうち書くとして、とりあえずまずはアウエルシュタットの戦いまっただ中に目を撃たれて指揮が執れなくなった最高司令官ブラウンシュヴァイク公について。

 そもそも「目を撃たれて重傷になった」「しばらくしてその傷がもとで亡くなった」という辺りは知ってはいたのですが、「一発で両目を貫通するように撃たれたのか?」とか「失明はするとしてその後割とすぐに亡くなるのではなく、しばらくは存命だったような撃たれ方ってどんなの?」とか色々疑問がありました。

 で、手持ちの資料からそこらへんも一緒に探していたのですが、いくらか載っていたのはOSGのザッカー大先生による『1806:Coming Storm』(→ナポレオン関連本3冊、他)による記述で、以下のもの(P56)。

【10月14日】午前11時、ブラウンシュヴァイク公が撃たれる
 ブラウンシュヴァイク公はシュメタウ将軍が負傷して後送された後、彼の叔父であるフリードリヒのように、擲弾兵達を鼓舞するために前方へ出てきていた。その攻撃が始まるか始まらないかの瞬間に一発の銃弾が公爵の両目を貫いた。このことを秘匿する試みはなされたが、総司令官が指揮不能となったことが63,000のプロイセン兵達全体に狼狽を広げることになった。


 と、大した記述量ではなく「これ以上は分からないか……」と諦めていたのですが、先日書いてましたR/DさんのBlogまとめ(→祖国は危機にあり関連blogの2014年末までを冊子に)を読んでましたら、R/Dさんが超詳しい記述をすでにドイツ語資料から探し出しておられました(#^.^#)

 元のブログは「二重に見えた?」で、抜き出すと以下のような感じです。

 「公がヴァルテンスレーベン師団の左翼にいるハンシュタイン擲弾兵大隊に[ハッセンハウゼン]村を奪うよう要請した時、彼は両目を撃たれ馬から落ちた」「【弾丸は】頭の右側から左側へと貫通し、右目の上端から指の幅分上を通って左目の眼角の内側を通った」


 おおおおおお……。で、このドイツ語資料はネット上で読めるというので、私も別件で色々知りたいこともあるし、かつてドイツ語→英語ネット翻訳である程度読めたことがあったので、元資料を見てみたのですが……アルファベットの形が昔のドイツ語の非常に判別しにくい形で、「これは無理!」と諦めました(T_T)

 あと、 『The Hussar General』上(P63周辺?)に、

 今や突然ブラウンシュヴァイクは両目を撃ち抜かれて絶叫して倒れた。彼の血にまみれた体は運び去られた。


 とか、前記OSG本で

P60
アウエルシュタット
 ……ぼろぼろになったプロイセン軍の生き残りの兵士達はフリードリヒ・フォン・カルクロイト元帥麾下の2個の予備師団に守られつつ、秩序を保って退却し、重傷を負ったフォン・メルレンドルフ陸軍元帥を運んでいた。2人の擲弾兵が失明したブラウンシュヴァイク公の乗馬を引いていた。


 とかもありました。

 で、まあアウエルシュタットの戦い当日のことはもういいかな、とある程度気が済んだのですが、気になるのは以前読んだ気がするブラウンシュヴァイク公に関する記述。絶対確実とは言えないですが確か日本語の本で、ブラウンシュヴァイク公が亡くなるちょっと前(ベルリンなどへの追撃戦が一息ついた頃?)に自領に戻ってきていて、ナポレオンによるお取り潰しを恐れる部下に向かってブラウンシュヴァイク公が「ナポレオンはこれぐらいのことでそんなことをしたりはしない寛大な人間だ! お前らは知らないだろうが、私は会ったことがあるから分かる!」というような意味のことを怒鳴っていたのだけども、その後割とすぐにブラウンシュヴァイク公は亡くなってしまった……というな内容だった、という記憶がかなりはっきりあるのです(ちなみにその後きっちりブラウンシュヴァイク公国はお取り潰しされ、彼の四男が復讐に燃えた「黒公爵」となって1809年とか半島戦争とかワーテルロー戦役で戦いますが、カトル・ブラの戦いでこれまた銃弾に当たって戦死します)。

 ところが、その本がいくら探しても見つからない! もしかして夢でも見たのか、大きな勘違いなのか、はたまた本当にその記述のある本が書棚にあるけど見つけられてないだけなのか……。もし「あー、そういう内容ならこの本で見たけど」とかって目撃情報がありましたらぜひ教えて下さい!(T_T)

 「数日後に頭に受けた傷で死ぬのに、怒鳴ったりして元気だなぁ……」というようなことも思った記憶がかなり鮮烈にあるのですが……。

 ところが、今たまたまブラウンシュヴァイク公のWikipediaの記述を見てたら、

1806年10月14日、イエナ・アウエルシュタットの戦いを指揮していた時、フェルディナントはヘッセンハウゼン(現在のバート・ケーゼン)近郊でフランス元帥ルイ=ニコラ・ダヴーと交戦、銃弾を浴びて重傷を負った。勝利したナポレオン率いるフランス軍から逃れるためフェルディナントは瀕死の状態で中立国家デンマークの領域に逃れ、11月10日にオッテンゼンにおいて、71歳で亡くなった。


 とありました。オッテンゼンという場所はハンブルク(デンマークのすぐ下辺り)にあるらしく、そうするとブラウンシュヴァイク公は自領に戻っていない? いや、「自領に戻って」というのが記憶違いである可能性もありますし、あるいはまたアウエルシュタットの戦場からデンマークに行く途中に位置関係としてはブラウンシュヴァイク公国があるので、一度自領に入っていて、その時の逸話である、という可能性もありますが……。


 ところで、色々本をひっくり返してこの記述を探していた時に長塚隆二さんの『ナポレオン』も見てみたのですが、探していた記述は(多分)なく、むしろこのような記述が(ハードカバー版の下巻のP236)。

 ブリュッハーがいくら新手の騎兵をくり出しても、つぎつぎと倒れるばかりであった。兵力をこきざみに投入するブルンスヴィック軍の作戦のまずさである。ブリュッハー自身も乗馬が殺され、重傷を負った。


 いやいや、ブリュッヒャーはアウエルシュタットの戦いで重傷は負ってませんよ? 乗馬が撃たれたりというのはあったっぽいですが……。ブラウンシュヴァイク公が重傷を負ったのと混ざってしまったのでしょうか?

 それから次のページでプロイセンのカルクロイト元帥がスールト元帥と話しているシーンがあり、そこでカルクロイト元帥は「ブルンスヴィック公は亡くなり……」と言ってますが、その内容を記しているのが大陸軍公報の10月18日発行のものらしいのですが、ブラウンシュヴァイク公が亡くなったは11月10日です。いやまあ、カルクロイト元帥が、「まだ亡くなっていないブラウンシュヴァイク公がもう亡くなったと勘違いしていた」とかって可能性はありますけど。

 ……とまあ、ツッコミどころは見つけはしましたけども、だからといって自分が偉くないのは自覚しております。というか語学力下さい。っていうか長塚さんってレジオン・ド・ヌール勲章もらってるんですよね? いいなぁ……(おい)

祖国は危機にあり関連blogの2014年末までを冊子に

 以前、R/Dさんの「大陸軍の虚像と実像」のコンテンツを自分で読んで蛍光ペンで線を引きやすくするために印刷して冊子にさせてもらった……という件を書いたことがありました。

「大陸軍 その虚像と実像」などを自分用に冊子にしてみました

 その時にR/Dさんのブログ、「祖国は危機にあり関連blog」の方も冊子にしていたのですが、その後1年半以上経ってまして、その時以来のブログのコンテンツをまたこの年明けに印刷して冊子にさせてもらいました(ブログをその都度読むよりも、じっくり読みたい内容なのでこうさせてもらった方が自分的に良い感じです(^_^;)。

 結果、138ページになりました。内容的にはナポレオニックの漫画の進展に合わせて1805年~1807年ネタが割と多かったです。私は1806年に最も興味があるので、非常にありがたい……!!

 以前冊子にさせてもらった時には、PDFデータを希望する方がおられてR/Dさんに尋ねましたら、すでに公開されているコンテンツだし問題はないとのことでした。もし今回も希望する方がおられたら、その際には一応R/Dさんの方に断りを入れまして、PDFデータをお渡しできるかと思います。


 年末ですが、連結バルバロッサから帰ってきた後は一部風邪症状がひどくて思考力もなく、基本的には寝て暮らし、ちょっとましな体調の時には5月以来ずっとやってるネットゲームである『Blade&Soul』を進めてました(→とあるMMO初心者の年末総括)。

 年明けですが、ひとつやりたいこととして1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いの後、プロイセン軍の各将軍ら(特にシャルンホルストとグナイゼナウ)がどのように行動していたのかを洋書で調べたいということがあります。すでに12月に少し着手していたのですが、進んでない……(^_^;

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR