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リッチモンド公爵はなぜブリュッセルに来ていたのか?

 先日、リッチモンド公爵夫人の舞踏会の場所についてで触れていた、ワーテルローの戦いの直前にブリュッセルでおこなわれた舞踏会の件ですが……。


 既読の『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』をたまたまひもといていたら、「はじめに」の中にこのような記述がありました(P10)。

 経費節減のためブリュッセルへ来住していた貴族仲間に公爵が頼みこみ、馬車小屋をあわただしく模様替えして会場としたもので、ウェリントンも深夜までそこで踊って見せた。


 ところが本文の方を見てもここらへんの事情は何も書いておらず……(この本、ウェリントン贔屓であるのはしょうがないとして、索引がないのが泣けますネ。信用できるかどうかはともかくとして、記述量は多いので索引があればもっと良かったのに)。

 以前、町の本屋で見かけていたものの当時は見送っていた、イギリスの公爵家について書かれた『英国の貴族』という本をAmazonで中古で買ってみたのですが、そのリッチモンド公爵の項にはこうありました(P223:チャールズというのがリッチモンド公爵)。

 四代公爵チャールズも元気が良かったが、夫人のシャーロットも元気がよく、血の気が多かった。一八一五年六月十五日、ナポレオンの進撃によるワーテルローの戦い(六月十八日)に備え、シャーロット夫人は海を渡ってベルギーのブリュッセルに出かけ、ブランシセリ街で司令官ウェリントン将軍激励の一大パーティーを開いた。「公爵夫人主催のウォーターロー・ボール」と呼ばれたこの大パーティーは、史上最大の形容を付けて永く語り伝えられたほどの盛事であった。



 この本によるとこの第4代リッチモンド公爵チャールズは、「極めて気骨のあった人物として知られ」ていたということで、かの放蕩皇太子ジョージ(後のジョージ4世)を徹底的に批判して、その弟ヨーク公と決闘までしたとか。


Henry Hoppner Meyer10
 ↑第4代リッチモンド公爵(Wikipediaから)


 彼は軍人で、伯父から公爵位を継いだ1806年には少将であったらしいですが、その軍事的功績については諸資料にあまり触れられてません(Wikipediaに、1794~5年に、西インドやジブラルタルでフランス艦隊と戦った、とある程度)。『Children at the Battle of Waterloo』によると、リッチモンド公爵とウェリントンは「古い友だち」であったそうで、それゆえにリッチモンド公爵は彼の息子達をウェリントンの副官にしていた……と(第1章)。というのは、1806年(7年?)にリッチモンド公爵はアイルランド総督(? Lords Lieutenant of Ireland)となり、ウェルズリーはその部下にあたるアイルランド大臣(? Chief Secretary for Ireland)になっていたので、ここで少なくとも接点があったようです。

 Wkipediaによると、リッチモンド公爵は1815年戦役において、ブリュッセルに置かれていた予備部隊の指揮官であったそうで、そうであるがゆえにブリュッセルに「経費節減のために来住し」、前線指揮官であるウェリントン公爵を一生懸命夫妻ともども応援して、舞踏会を催すことになったのでしょうね。なるほど……! ようやく繋がりました(^_^;

 リッチモンド公爵はWikipediaによると、「カトル・ブラの戦いもワーテルローの戦いも見に行った(参加はしなかったけど)」と書いていると思うのですが、少し検索してみると、『Children at the Battle of Waterloo』の最初の登場人物である彼の四男であるウィリアム・レノックス(15歳)がウェリントンの副官になっていたのにちょっと前に馬から落ちて従軍できなくなっていたのを、彼が配属されていた近衛旅団長メイトランドの同僚副官(18歳)がカトル・ブラの戦いで戦死したというのを聞いて矢も楯もたまらず父親と一緒にワーテルローの戦いを見に行って……という風に複数の資料に書いてあり、カトル・ブラの戦いをリッチモンド公爵にしろ、ウィリアム・レノックスにしろ、見たという記述はないような気もします。

 ただ、『Children at the Battle of Waterloo』にしても、そこらへんの事情は全然書いておらず、同書にいきなりメイトランドに会いに行ったと書いてあるのを読んで私は「なんでメイトランドのところに行くのん?」と思ったのですが、そういう事情なら当たり前ですねぇ(^_^;

 この本、登場人物である子ども達の行動を描写するだけでなく、ワーテルローの戦いにまつわる大小のことごとを詳述していてそういう意味でも面白いのですが、もしかしてその分、途中の事情説明が省かれていたりする? ウィリアム・レノックスが包帯巻いて片目が見えないというのも、第1章には出てこず、第5章になっていきなり触れられててびっくりしましたし(しかし見逃してるのやもしれません←※2016/11/30追記。読み直していたところ、第一章に書いてありました。案の定見逃してました(T_T))。

 同書で特に面白かったのは、ウィリアム・レノックスとリッチモンド公爵がワーテルローの戦場に朝着いて、ウェリントンに挨拶しに行った時、ウェリントンは、

「ウィリアム、君はベッドに入ってなきゃダメだろう。公爵も、ここに用事はあるまい?」

と冗談めかして言ったとかって話で、同書によるとこの朝ウェリントン公爵は見通しは明るいとして上機嫌であったそうです(私が今まで読んだ本では、緊張していた、というのが多かった印象でしたが、色々な説があるということでしょうか)。



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ランジュロン将軍について

 ナポレオン戦争時代のロシア軍の将軍で、フランス人のLangeron(フランス語読みならランジュロン? ドイツ語読みならランゲロン?)という人物がいるということを、『The Hussar General』を読んでちょっと前から認識してはいました。


Langeron A F
 ↑「Louis Alexandre Andrault de Langeron(Wikipedia)」から


 1813年と1814年の戦役でブリュッヒャーの部下の複数の軍団長のうちの一人となっていたのですが、ブリュッヒャーとは仲が悪かったようです(というか、他にもヨルク軍団長も頻繁にブリュッヒャーに噛みついていた……)。

 『Blücher : Scourge of Napoleon』の序文を読み始めた時に、このランジュロン将軍によるブリュッヒャー評がまず最初に載っていて、それが『The Hussar General』にも載っていたものと一部同一であったのが目を引きました。

 「シレジア軍を任されていたブリュッヒャー将軍は70歳を越えていたが、その精神力と肉体は力強さをまったく失っていなかった。彼は完全に、老ユサールそのものだった。暴飲暴食など、彼は若者がやる悪いことを全部やっていた。だが彼は多くの美点によってそれらを埋め合わせていた。恐れを知らない兵士であり、激しい愛国者であり、正直で誠実で、軍人にもとめられる像を持っていた……彼は兵士達に大きな自信をいかに持たせるかを知っており、兵士達からの愛情を勝ち取っていた。プロイセン兵達から敬愛されているように、彼はすぐにロシア兵達からも敬愛されるようになるだろう。

 彼の行動力は並外れており、彼は常に馬に乗っていた。戦場において、彼は経験豊かで型通りのヴェテラン兵士であった。彼の戦術的な洞察力は卓越しており、彼の英雄的な勇敢さは兵士達を支えるものであったが、将軍としての彼の才能の欠落はそれらを大いに制限するものであった。彼の欠点は多面にわたり、もし彼が参謀らに助けられていなかったならば、まったくどうにもならなかった。彼は戦略を見通すことにかけてはほとんど無能力で、地図上で自分自身のいる場所を見つけることもできず、戦役の計画を立てるだとか、部隊の配置を割り振るだとかは彼には手の余ることであった。彼を補佐すべく配属されていた3人(グナイゼナウ、ミュフリンク、ゴルツ)に彼は全ての軍事的、および政治的な細かいことを任せっきりであった。」
(『Blücher: Scourge of Napoleon』XI、およびP453)


 ただ、このランジュロンによる評の最後の「ブリュッヒャーの無能力」に関する部分に対する反論がこの『Blücher: Scourge of Napoleon』の序文でなされており、興味深いものです(この部分を個人的にまとめておきたいと思っているのですが、まだできてません)。

 『The Hussar General』を見返してみると、この「ブリュッヒャーの無能力」に関するランジュロンの意見が挙げられた後で、「ランジュロンの意見は彼の個人的な嫌悪感に一部基づいており、またブリュッヒャーもランジュロンのことを有能な指揮官だとは考えていなかった……」という風に書かれています(P102)。実際、ランジュロンは1813年戦役においてブリュッヒャーに対して何度も不服従であったようです。

 1813年戦役の開始時のブリュッヒャー麾下の状況について、『The Hussar General』は以下のように書いています(P127)。

 だが少なくともブリュッヒャーは自身の司令部の雰囲気には満足していた。彼はグナイゼナウ以下、優秀な幕僚を持っていた。ミュフリンクが彼の主計総監であり、それにもう一人のライン戦役のベテランであるゴルツが、彼の主要な副官として残っていた。彼の幕僚のうちのある一人は、その「楽しげな雰囲気や勝利への確信」が広がっていたことを述べている。
 「全員が、彼が最高の戦果を上げようと常に最善を尽くしており、最も信頼できる人物であることを確信していた。」
 ブリュッヒャーは彼の軍団長らに関して、それほど安心できないと感じていた。というのは、そのうちの一人であるザッケン将軍は、真面目で信頼に足る人物と思えたが、他の二人であるヨルク将軍とランジュロン将軍に関しては不安があった。タウロッゲンの時点でクラウゼヴィッツがヨルク将軍に関して書いているのによると、彼は「悲観的で、短気で謹厳、そして部下としては良くない」とあったが、彼はまた、傑出した勇敢さをも見せていた。ランジュロン将軍に関して言えば、ブリュッヒャーはのちに彼のことを「私が必要とし、好きになるであろう人々のうちの一人ではなかった」とコメントしている。来たるべき戦役は、非常に激しい消耗をもたらすであろう。であるからブリュッヒャーは、彼の兵士達や麾下の指揮官達の中から戦力の全ての最後の一滴まで絞り出す必要があった。


 また、カッツバッハの戦いの後の状況として(P137)、

 依然としてローバウの近辺にいたブリュッヒャーは、自分自身の問題を経験していた。ヨルク将軍が再び不平を言い、そしてブリュッヒャーはランジュロン将軍に関して不満足であった。彼のグナイゼナウへの信頼感は確実に増大しており、それでブリュッヒャーは他の将校からの不平に関しては聞く事を拒絶した。
 「私は戦争に関する会議を持たないことにする」彼は宣言した。
 彼はクネーゼベックに言っている。
 「グナイゼナウ、ミュフリンク、それにゴルツには私は同感できる。だが、その他の「安全第一」の将校達との仕事は私にとっての厄介事だ。」



(このエントリで後に書く『Who Was Who in the Napoleonic Wars』の記述の中に出てきますが、ランジュロン将軍は部下を非常に大事にする将軍であったようで、ブリュッヒャーは兵士達に愛情は注いでいたものの、兵士達への要求もまた非常に厳しい将軍であったので、その点での相違があったのだと思われます)


 しかし、ライプツィヒの戦いの頃(18日)には、ランジュロン将軍も諦めたのか、ブリュッヒャーの命令に従うようになっているかのような記述が(P158)。

  ブリュッヒャーは彼の馬に乗り、ランジュロン将軍の部隊が再編成をおこなおうとするのを見ていた。彼はシュテッフェンの方に向き直った。
 「教授殿」彼は言った。
 「すぐにランジュロン将軍のところに行ってくれ。あの村を攻撃するための命令を彼に届けて欲しい。増援を期待させることはできないが、敵はすぐに取り除かれなければならない。」
 シュテッフェンはランジュロン将軍を最も外側の家々の間で見つけ、その命令を届けた。
 「我が兵士達はすでに長い時間戦っている。」ランジュロン将軍は答えた。
 「兵士達はもういくらも残っていないし、疲弊しきっている。援軍なしではあの敵に抵抗できない。」
 シュテッフェンは彼に、援軍はないと伝えた。将軍は一瞬黙ったがその後、突然振り返って命令を与えた。彼の兵士達はゆっくりと立ち上がり、銃剣が固定されていることを確認し、綻びを見せ始めている戦線に突っ込んでいった。


 ライプツィヒの戦いに勝利した直後、ブリュッヒャーらは市民から筆舌に尽くしがたいほどの歓迎を受けましたが、その時の様子をランジュロン将軍はこう書いています(P162)。

「我々は上半身を花でいっぱいにされながら、多くの死体が足元にそのままになっていた。」


 1814年戦役中にブリュッヒャーは激しい体調悪化で指揮を執ることが不可能な状態になったことがありましたが、その頃にはランジュロン将軍はブリュッヒャーをある程度認めていたかのような逸話が(P195)。

 病気療養中の元帥に代わって誰が立ちうるかの話し合いが、ブリュッヒャーには内密でおこなわれた。プロイセン軍の規則によれば、もし司令官が正常な職務を果たし得なくなれば、次に最も上級の将軍が指揮を引き受けるべきとされていた。だとすればこの場合のその立場はロシア軍に仕えるランジュロン将軍であったが、彼はロシア軍の規則に従って参謀長、つまりグナイゼナウが指揮を引き継ぐべきだと主張した。しかしグナイゼナウも、ミュフリンクも、ノスティッツも、たとえブリュッヒャーが兵士達を鼓舞するための名前だけのリーダーに過ぎないのだとしても、誰もブリュッヒャーの代わりにはなれないという意見で一致した。ランジュロン将軍でさえもがこう断言した。
 「閣下が半死半生だとしても、閣下をどうか我々に担がせてくれ!」
 それゆえブリュッヒャーは、実際にはベッドに伏しており、額からは汗が吹き出し、意味不明の言葉をうめいているにも関わらず、名目上の指揮官であり続けたのだった。


 ……という感じで、1813~1814年のランジュロン将軍に関してはある程度認識していたのですが、『アレクサンドル1世』を読んでいたら、アウステルリッツの戦いにロシア軍の第2梯団(恐らくフランス軍における「軍団」とほぼ同様の組織)の指揮官として参加していて、その回想録で色々と面白いことを書いているのが書かれていました(P158)。

「我々の部隊が皇帝(アレクサンドル1世)を迎えるときに示した冷淡さ、不機嫌な沈黙には、ほかの将軍たち同様、わたしも驚かされたものだった。」
「彼(アレクサンドル1世)は、士官たちにはほとんど気を遣わなかった」
「彼ら(士官たち)を招くことはたまにしかなく、ほとんど言葉さえかけず、五、六人の気に入りの若者たち……だけに、愛嬌をふりまいていた。皇帝が彼らに馴れ馴れしくふるまう様子を見ると、それだけで昔からの将軍たちを軽んじているように思われたし、その上、すべてに影響力をもつこの子供っぽい連中は、その素振りや態度で、明らかに老将たちをからかっていた」
「皇帝の側近の青年たちは、クトゥーゾフをからかって、のろま将軍と呼んでいた。彼は権力もなく、尊敬もされなかった」


 アウステルリッツでのランジュロン将軍……というのは私は全然認識してませんで、GameJournal誌付録になった『アウステルリッツの太陽』も何度かプレイしていたのですが、指揮官チットにはなってなかったので記憶に残らなかったか……。しかしヒストリカルノートや、歴史群像のアウステルリッツの記事などにはもちろん名前が載っていました。

 『アレクサンドル1世』におけるランジュロン将軍の記述で非常に興味を惹かれたので、手持ちの他の資料でランジュロン将軍について調べてみたのですが、『Dictionary of the Napoleonic Wars』には項目がなく、『Who Was Who in the Napoleonic Wars』にはありました。その『Who Was Who in the Napoleonic Wars』の項目を読んでみたら、とんでもなく面白い記述が!

Langeron, General Louis-Alexandre-Arnoult de, count(1763-1831)

 ロシア軍の優れた指揮官の一人で、彼はツァーリの軍の中で高い官位を得た多くの外国人の中の一人であった。古くから続くフランス貴族の一人で、アメリカ独立戦争に参加した後、自国を離れてスヴォーロフ麾下のロシア軍に入った。中将の位を得て彼はアウステルリッツで第2梯団を指揮し、またトルコ軍と戦ったが、恐らく最も有名なのは彼の回想録に描かれた1812-14年の従軍である。1812年に彼はチチャゴーフ軍の1個師団を指揮したが、最も良く知られているのは1813-14年にブリュッヒャーのシレジア軍で1個軍団を指揮したことで、中でもライプツィヒの戦いと1814年戦役において目覚ましい戦功をあげた。ブリュッヒャーとランジュロンはお互いに高い評価を与えておらず、ランジュロンがプロイセンの指揮に従うにおいて様々な軋轢があったが、彼は有能な軍団指揮官であることを証明した。彼は典型的なロシア将軍とは異なり、その長いロシア軍での軍務でロシア語を理解しているにも関わらず非常にきついフランス語訛りを維持し、そのフランス流の流儀と、外見と、ウィットとで有名であった(彼はしゃれを言うことと謎かけとが大好きであった)。彼は麾下の者達に大きな思いやりを持って接し、それゆえ部下達から愛された。いくぶん風変わりでうっかりしている人物だと見なされてはいたが、経験豊かで戦いの時にも冷静な態度を崩さない、有能な指揮官であった。
(『Who Was Who in the Napoleonic Wars』P179)


 「しゃれを言うことと謎かけ」と訳したのは「puns and riddle」で、「うっかりしている」と訳したのは「absent-minded(英辞郎によると「【形】〔人がいつも〕上の空の、うっかりしている◆考え事など他のことに注意を奪われて、いつもぼんやりしたり、おっちょこちょいなことをしたりすること。」)」で、ニュアンスが違う可能性もありますが、しかしえらい面白いキャラクターだと思いました。 

 『Who Was Who in the Napoleonic Wars』で今までに調べた人物でこんなにも面白いこと(というか人物像について)を大量に書いている例はなかったのではないかと思い、最近他の本で出てきて若干興味を持っている人物達についてひもといてみると、ベニグセンはほぼ人物像に触れられておらず(パーヴェル1世の暗殺に関わったり、1807年戦役に登場したのが代理的なものからだったなどということが『アレクサンドル1世』に描かれていて、面白そうだったのですが)、バルクライはまあまあな程度に触れられていて、驚きはバグラチオンが記述の半分以上が彼の人物像についてだったことでした。ということはこの本は、安定的に同じ様な記述なのではなく、人物ごとに略歴のみであるとか、人物像についてもかなり触れられているとか、かなり差があるようです。人物像について今一番知りたいのはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世についてなのですが、この本では略歴のみでした……。





1801年、プロイセンがハノーファーを占領

 前エントリで書いていた『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』ですが、そのP91に1801年にプロイセンがハノーファーを占領したことが触れられていました。

 一八○一年三月、プロイセン軍はハノーヴァーに進軍。ここをフランスおよびロシアの侵略から守り、フランケンの橋頭堡をめぐる外交上の敗北の埋め合わせをするつもりだった。ところが、十月には軍隊に帰還が命じられた。イギリス、ロシア、フランスが手を結んでこれに対抗するのではないかと政府側が懸念したためである。



 1803年のフランスによるハノーファー占領は今までにも何度も記述を見ていて、ブリュッヒャーについて1800年頃から書けないかと『The Hussar General』や『Blücher: Scourge of Napoleon』でその辺りを見ていると1803年の件については両作品ともに触れていまして、ブリュッヒャーが怒りまくり、動きまくったことが書かれています(占領軍指揮官のモルティエ元帥のところにまで言って何か話したらしいですが、内容は不明)。

 ところが1801年にプロイセン軍がハノーファーを占領した、などということは両作品とも全く触れていませんでした。ブリュッヒャーとは関係がないから触れなかっただけかもしれない、というか多分そうなのでしょうけども、単純に「ナポレオンが横暴だ」では済まされないような背景がハノーファーを巡って存在していたらしい……ということに非常に興味をそそられました。

 で、ネット上でちょっと検索して探してみましたら、真っ先に引っかかったのがこの「Prussia and the Armed Neutrality : The Invasion of Hanover in 1801」という論文?のティーザー広告(ちょい見せして、新発表される商品やサービスの期待値を上げる広告の手法)?らしきもの。

 第二次武装中立同盟下においてプロイセンに条約上課された義務に従い、1801年4月1日にフリードリヒ・フォン・クライスト中将麾下の20,000のプロイセン軍部隊がハノーファー選帝侯国に進駐した。歴史家達はこのハノーファーへの侵攻によって、プロイセンはより強力な隣国であるフランスとロシアに屈する道をたどることになったと主張している*1。プロイセン政府には北方の同盟国からのみからではなくフランスからもイギリスに対する軍事的行動をとるようにとの圧力がかけられていたし、ロシア皇帝パーヴェル1世はこの侵攻の直前にベルリンに対して「最後通告」を発してさえいたという事実によって、この主張は補強されてもいる。しかしこの稿では、プロイセン側の動機について再検討し、ハノーファーを占領するという決定は単に外国からの政治的圧力に屈したり、外国からの軍事的脅威に恭順しておこなわれたわけではないという証拠を示す*2。


 そしてその注1では、かのランケが「プロイセンはパーヴェル1世にそそのかされてハノーファーを占領した」と書いていることを筆頭として、その他の書物で「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はいやいやながらも、フランスとロシアによるハノーファー占領の要求に屈した」、「パーヴェル1世からの圧力の結果、プロイセンはイギリスとの衝突を引き起こすことを余儀なくされた」などと書いていることを紹介していますが、一方で、これらの傾向の例外として、ある本で「プロイセンの門前というこのハノーファーの占める領域をロシアやフランスが取ってしまうことを、もしプロイセンが阻止したいと思うならば、これはそのための対策としてやむを得ないことであった」と書かれているということを書いています。

 で、もしこの論文?を読むならば43ドルが必要だというのですが……4ドルだったら払ってみてみたかもしれませんが、さすがに43ドルも……また、「ちょっと興味を持った」ことであって、「ぜひ知りたい」というわけでもないので、ここは冷静に自重してみまして……。

 しかしかなり面白い、興味深い話であることも確かです。そこで、さらにネットで検索をかけてみました。そしたら、結構たくさんの本が、GoogleBooksなどでひっかかりました。プロイセン関係のことはなかなか検索でひっかからないのに、ハノーファーは当時イギリスと同君連合であり、イギリス王ジョージ3世と大いに関わりのあることであったので、英語文献が豊富にあるのでしょうね……。

 拾い読みしてますと、印象的なワードとして「vulnerability(脆弱性)」というのが複数箇所に出てきました。1714年にハノーファーから遠縁の王を迎えたイギリスは、それ以来ハノーファーと同君連合であり続けて来ましたが、もしヨーロッパのいずれかの国がイギリスと敵対するならば、当然ハノーファーを占領してイギリスに痛手を与えようとするに決まっています。七年戦争では初期にハノーファーがフランスに蹂躙されたもののすぐにそれを取り戻し、幸いなことにその後はハノーファーは安泰であり続けました。しかしまさにその七年戦争の結果としてイギリスは海外に多くの領土を獲得し、それらの重要性とハノーファーを比べたならば、位置的に非常に脆弱性の高いハノーファーなんて別にどうでもいいのでは……? という疑いさえもたれるに至ります。

 1801年のハノーファーへの危機的状況に対して、ハノーファーからの大使は、ハノーファーを守るために、対イギリスの武装中立同盟に加入することさえ示唆しましたが、言下に断られ、そしてプロイセンによって占領されることになります……(『The Hanovarian Dimension in British History,1714-1837』)。


 1801年の占領と撤退に関して、諸資料では以下のように記しています。

 第二次対仏大同盟(1799-1802)の期間中に、ナポレオン・ボナパルトはブランデンブルク・プロイセンが大陸のイギリス領土を占領するように要求した。1801年、24,000名のブランデンブルク・プロイセン軍にいきなり侵攻されたハノーファーは、戦うことなく降伏した。1801年4月にはそのブランデンブルク・プロイセン軍はブレーメン・フェルデンの首都であるシュターデにまで到達し、同年10月までそこに留まった。イギリス王ジョージ3世は当初ブランデンブルク・プロイセンの敵対行為を無視していたが、デンマーク、ノルウェー、ロシアなどが加入する親仏の武装中立同盟にプロイセンが参加すると、イギリスはブランデンブルク・プロイセンの船舶を拿捕し始めた。コペンハーゲンの戦い(1801)以後、この同盟は解体し、ブランデンブルク・プロイセンはその部隊を引き上げた。
(Wikipedia「Electorate of Brunswick-Lüneburg」)


 1801年4月、長らくハノーファーの支配を望んでいたプロイセンは、ロシアのパーヴェル1世とナポレオンによって刺激され、ハノーファーの行為ではなく、バルト海沿岸諸国の武装中立同盟に対するイギリスの行為を口実として、ハノーファーを占領した。だが、バルト海へのイギリス艦隊の侵入によって促されていたパーヴェル1世の外交政策は、パーヴェル1世の暗殺後その息子アレクサンドル1世によってくつがえされ、10月にプロイセンはジョージ3世にハノーファーの支配権を返上した。
(『GEORGE Ⅲ : America's Last King』P325)



 資料によって、侵攻する理由も、撤退する理由も、微妙に色々異なって記述されております。面白いですが、どうしたものやら。

 パーヴェル1世の対イギリス外交政策に関しては、今読んでいる『アレクサンドル1世』には次のように書かれていました(P86)。

 パーヴェルの外交政策は、国内の政治よりさらに支離滅裂だった。エカテリーナ二世が始めた対ペルシャ戦を集結させたのち、彼は、ボナパルトによるマルタ島占領に腹を立て、みずからマルタ騎士団の総指揮官を名乗り、ただちにフランスに宣戦を布告して、三つの部隊を、それぞれイタリア、オランダ、スイスの各地に送り出した。イタリアでは、スヴォーロフが華々しい戦果をあげたものの、全体として遠征は失敗に終わった。怒り狂ったパーヴェルは、同盟軍オーストリアと縁を切り、フランス革命の申し子と戦うという構想も捨ててしまった。さらにもう一度、彼は態度を豹変させる。憎むべきボナパルトは、彼にとって第二のフリードリヒ二世、つまり師と仰ぐべき人物、親交を結ぶべき友となったのだ。クーデタにより第一執政となったナポレオンは、サン=キュロットどもの手綱を引きしめているという話ではないか……。いっぺんにのぼせあがったパーヴェルは、かつて保護を与えていたブルボン王朝の亡命貴族を、ミタウから追放して、フランスに接近し、イギリスが約束に反してマルタ島を騎士団に返還しなかったという理由で、今度はイギリスと仲たがいした。ロシアの領海に迷い込んだイギリス船は捕えられ、乗組員は牢に投げ込まれた。だがそれでもまだ、腹の虫がおさまらない皇帝は、あの思いあがったイギリス野郎をやっつけるために、軍隊に対し、気が狂ったとしかいいようのない命令を下した。オレンブルク、ブハラ、ヒヴァと進み、何千キロにわたる乾燥した草原を越えて、英領インドを征服するように……。



 関係文献としては『Hanover and Prussia, 1795-1803; a study in neutrality』という本が1903年発行でネット上ですべて読めますし、扱う範囲が狭くて最も詳しそうなのですが、さすがに手を出してはいかんという自制心が……(^_^;

 ハノーファーはジョージ3世にとって、1801年初頭にプロイセンによって失われ、1801年4月?に取り戻され、1803年5月にフランス軍によって失われ、1805年の対オーストリア戦役で在ハノーファーのフランス軍部隊がいなくなるとイギリス、スウェーデン、ロシアの同盟軍がハノーファーを占領して取り戻すも、再度1806年にプロイセン軍がハノーファーを占領。しかしプロイセンが敗れるとハノーファーはフランスのものとなり、ヴェストファーレン王国の一部となります。が、これを1813年戦役で連合軍が取り戻し……となったそうで、めまぐるしいことこのうえないですね。

『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』で

 ちょっと備忘録的なものとして。



 『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』を読了してまして、自分用の索引?を作ろうとしているのですが、その途中で「おお、この文言はぜひメモっておかねば……」というのが(P148)。

 非凡なフリードリヒ大王は、臣民を隷属させることによってプロイセンをヨーロッパな一大強国にしたが、時代の曲がり角に立つ凡庸な指導者たちが国家を存続させるためには、国民の才能を自由に開花させ、これを利用するしかなかった。次第に大舞台に出ていかざるを得なかった進歩派の軍人たちの胸に新しい参謀制度の構想が芽生えるのも時勢の必然的な流れではあるが、これがまた、政治政策にも新局面を展開させた。


 最近、何で読んだのか忘れましたが、「冷戦時代に、自由主義陣営は国民の自由な発想を伸ばして、市場も広げ、成長を持続させられたが、旧ソ連は国民の自由な発想や工夫を抑圧し、その結果として成長ができずに崩壊することになった。」というようなことが書かれていました(↓で読んだ可能性が高いです)。



 やっぱ中国の未来は明るくないよな~、とか。あるいはまた、「こう考えなければならない」とかってのも、とか……。


 ところで、前述の「自分用の索引?」ですが、ナポレオニック関係、というかナポレオン時代のドイツに関係してくるような和書を色々読み散らかして、いよいよどこに何が書いてあったのか分からなくなってきまして、そのデータベースを作りたいな、と。

 最初はWikiに書いて検索とか、TXTデータ上に書いて検索とか考えていたんですが、最終的にExcel上でやるのが一番良さそうだと思うようになりました(Accessは昔やったことがあるのですが、設計とか必要な規模でないので)。

0001.png


 しかしOfficeなど買ってないので、フリーで使えるOpenOfficeのcalc上で試しにデータを入力……。ある程度たまったところでネットで調べて、それに従って「データ→フィルタ→オートフィルタ」としてみると「ワード」のところに候補が出てきて、その中から特定のものを選ぶとそのデータだけが抽出して表示されました。

0002.png

 よかったよかった……。

 でもこれでひたすら索引を作っていった場合、候補が大量に表示されて、その中から探すのがまた面倒になったりするのかしらん……(それぐらい良いか……)。
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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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