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ブラウンシュヴァイク公のドイツ語資料……

 割と多忙でほとんど進んでいませんが、一応続けてブラウンシュヴァイク公の1809年戦役について調べて訳していってます。

 が、途中に出てくる「Seitersheim」という場所がどこにあるか分かりません。位置関係からすると、ドレスデンとライプツィヒの間で、おそらくはライプツィヒに近い場所だと思われるのですが……。

 色々地図上を探してたんですが、ずぇーんぜん見つからず。しかし今日、もう一つ良く分からなかったLindenauという地名が「Lindenau Leipzig」でうまく出てきたので「Leipzig Seitersheim」でも検索してみたら、たった1候補だけ、pdfがヒット。

[PDF] Die Abenteuer von Heinrich Dehnel und Carl Genderer im Corps des schwarzen Herzogs.

 おおおお……。なんか、画像でNachodの城の絵とか、ドレスデン近辺の古地図とかが載ってる……。

 ブラウンシュヴァイク公の1809年戦役に関するpdfファイルで、大元は、

Brunswiek Historica

 というサイトのもののようです。

 肝心のSeitersheimの場所に関してはこのpdfファイル上でもライプツィヒと並記されているだけで良く分からないのですが、このドイツ語pdfはなんか垂涎的資料なのかもという気も……。

 一応、ネット上の「Infoseekマルチ翻訳」で「ドイツ語→英語」翻訳させると、結構読める英文になって出てくる(他にどこか一カ所と比べてみただけですが)ので、この資料も参照するとか……ってか、読む資料増やすとどんどん遅くなるんですが……(^_^;

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1809年6月10~12日 ドレスデン周辺

 承前。6月10~12日のドレスデン周辺です。

 オーストリア軍側の圧迫によりザクセン王国の首都ドレスデンが陥落し、ティールマンは退却するのですが、『Brunswick Troops 1809-15』の書き方と、それ以外の2つの史料での書き方はかなり異なっています。

 残り2つの方でも、『The Edinburgh annual register』の方が若干文章量が少ないので、メインを『The Edinburgh annual register』の方に置いて、『An account of ....』はその追加〔+〕、あるいは置き換え〔/〕の形で併記していくことにします。


1806_1812Map02_1809_04.png

 まずは『Brunswick Troops 1809-15』です。

 ティールマンはその後ドレスデンへと退却した。

 アスペルン・エスリンクの戦い(1809年5月21、22日)の後、オーストリアのカール大公はam Endeの部隊を10,000名へと増強し(正規兵、ランドヴェアー、ブラウンシュヴァイク軍、およびヘッセン軍)、彼に、ザクセンの中に入って陽動攻撃をおこなうように命じた。1809年6月10日この攻撃は始まり、ブラウンシュヴァイク公はAussigの郊外にいた彼の部隊を動かした。

 ティールマンの部隊は以前からブラウンシュヴァイク軍と小競り合いを起こしており、ティールマンはドレスデンから退却し、彼の部隊すべてをGorbitzへ移動させた。そして翌日、1809年6月11日、am Ende将軍の混合軍はドレスデンを占領した。6月12日にブラウンシュヴァイク軍といくつかのオーストリア猟兵達はGorbitzへ前進してティールマンを圧迫し、そのザクセン軍はPennrich、Wilsdruff、Birkenhainを経由してNessenへと退却した。ザクセン軍は10名の死者と47名の負傷者を出した。



 最後の「Pennrich、Wilsdruff、Birkenhainを経由してNessen」という部分は上記地図では狭すぎるのと、地名が現代のものとはずれている……? などのこともあり表示してません。現代地図だと以下の様になると思われます(多分)。

至るNessen




 次に『The Edinburgh annual register』と『An account of ....』です。

 Zittauからのザクセン軍の退却の後、オーストリアのam Ende将軍との合流を待つ間に貴重な10日間が失われた〔/黒公爵がZittau周辺の事態に関わっている間、オーストリア軍もボヘミアへの侵攻による騒擾を嫌い、ザクセンへの侵攻を決意した。オーストリア軍の指揮を採るam Ende将軍は、ブラウンシュヴァイク軍と合同・協力してザクセン軍に対抗する為、黒公爵を訪ねた〕。この合流は6月10日、Dippoldswaldeでおこなわれた。

 敵を欺く為に強力な派遣軍がPeterswaldeを経由してピルナへと派遣され、その間に一挙にザクセンの首都であるドレスデンへと向かう準備がおこなわれた。

 ザクセン軍によって戦争行為を開始してザクセンを戦争に巻き込んだ〔+そのボヘミアへの侵攻が軽率で無益であることが明白になっていた〕指揮官であるティールマンは、ドレスデンの内と外に約3,000名を駐屯させていた。〔+報告によれば、ドレスデンへの攻撃があったとしても堅固に持ちこたえるだけの準備がなされていたが〕ティールマンは敵の真の意図を悟るとすぐに〔+Wilsdruffを経由して〕Altenburgに向かって退却した。

 オーストリア・ブラウンシュヴァイク混成軍は11日の晩にドレスデンに入った。オーストリア軍兵士達は市内で宿営したが、より用心深かったブラウンシュヴァイク軍兵士達は何が起こっても大丈夫なように用意して、市の周辺で野営した。最初の混乱から回復したティールマンは〔+すぐに、逃亡という不名誉が気になって〕ドレスデンへと取って返し、ドレスデン市から7マイルの位置から敵の前哨地を攻撃した。

 黒公爵は夜明けに、300名のオーストリア槍騎兵と150名のティロル猟兵の増援を得てティールマンの部隊に対して前進を開始、ティールマンが確保していた場所を午前5時に攻撃して〔+兵士達の勇敢な戦いによって〕撃退し、〔+新たな防御線を形成しようというティールマンの幾度もの試みも成功せず〕その後ティールマンが停止しようと試みたWilsdruffの峡谷からも彼を〔+損害を出しつつ〕追い出し、10マイルもの追撃をおこなった。だが兵士達が疲労困憊してしまうといけないので、黒公爵は停止を余儀なくされた〔/あまりにも激しく疲労してしまうのを避けるため、停止命令を出した〕。この戦いは午後2時までおこなわれた。

〔+両軍ともが非常に激しく戦った。黒軍の兵士達はあまりにも激高していたので、将校達は追撃を止めさせるのに非常に苦労したほどだった。また多くの狙撃手達があまりにも戦いに夢中になりすぎていて、晩遅くまで部隊に帰ってこなかった。敵の損害は甚大であり、捕虜達もそのほとんどが負傷していた。黒公爵は約1時間の休息を部隊に許した後Wilsdruffへと引き返し、その峡谷の内側で野営した。〕



 『The Edinburgh annual register』もある程度そうなのですが、『An account of ....』の方は特に、ブラウンシュヴァイク公を称揚し、一方でその周辺の人物を貶める傾向が強い様な気がします。曰く、am Ende将軍の方から黒公爵を訪ねてきただとか、ティールマンは軽率で、防御の準備が出来ていたのにすぐに退却して、不名誉が気になって戻ってくるだとか、黒公爵が停止を命令したのは兵士をおもんぱかってのことだと言わんばかりだったり。

 「敵の損害は甚大」と『An account of ....』は記しますが、『Brunswick Troops 1809-15』によれば「ザクセン軍は10名の死者と47名の負傷者を出した。」とあります。これが「甚大な損害」と言えるのか、私にはそれほど良く分かりませんが、あまりそうは見えない……。


 また、ティールマンは『Who was who Napoleonic Wars』によれば「1809年には非常に活動的に機動部隊を率いて、オーストリア軍に対してザクセンを守るのに成功した。ただし野心と昇進の為であったという評判も幾分かある。」と書かれていたり、am Ende将軍はドイツ語版Wikipediaに「1809年に彼はほとんど戦闘や損害なしに任務をやりとげた」という感じに(多分)書かれており、(時間的に1809年のもっと後のことだということかもですが)それとの違和感もかなりあります。

 『An account of ....』に書いてあることは事実なのかもしれませんが、私個人の傾向性から言えばこういう「とにかく何かを褒め称え、それ以外をけなしまくる」という内容は性格的に読むのがつらいです。ただだからといって『An account of ....』を完全に無視することもできないので、とりあえずは『The Edinburgh annual register』の方を基本にしつつ、『An account of ....』は今回の様に付け足し的に見ていくのが吉かなぁ……と思ったりしますが。

1809年5月下旬~5月31日 ザクセン・オーストリア国境

 承前。前回は5月中旬くらいまでの動きを扱いました。今回は5月下旬から、5月31日までを扱います。

 主な資料は、『Brunswick Troops 1809-15』と、ネット上の『An account of the operations of the corps under the duke of Brunswick, from the time to its formation in Bohemia to its embarkation for England』ですが、同じくネット上にある『The Edinburgh Annual Register for 1809』の第26章には『An account of ....』とほとんど同じですがちょっと変えてある文と共に、別の情報が挟まってたり前後にあったりするのを見つけたので、これも参照しようかと。


 前2者の資料は同じ戦域/同じ時間を扱っている部分でも焦点が別のところにあることが多くて、主体や日時が片方の資料で明らかでなく、同定においてミスる可能性もあるのですが、それを推測しつつまとめてみると……(誤訳もあるかと思うので、見つけられた方は教えていただければ幸いです(T_T))。なお、『Brunswick Troops 1809-15』によるものを黒字で、『An account of ....』によるものを灰色字で表記してみます。

1806_1812Map02_1809_03a.png


 フランス側陣営のザクセン国内では、ティールマン大佐が様々な新兵訓練所の兵を集めて指揮を執り、のちにそれは各1,000名ずつの8個大隊と、Leib-grenadiergarde半個大隊にまで大きくなった。

 一方、オーストリア側陣営としては、ボヘミアのTheresienstadtの中および周辺にam Ende少将指揮下のオーストリア軍部隊がいた。この部隊の一部はブラウンシュヴァイク公の国軍とヘッセン・カッセルの退位させられた公のKurhessischen Corpsから成っていた。

 これら、ティールマン大佐の部隊とam Ende少将の部隊が国境を挟んでにらみ合っていたが、ボヘミアのオーストリア軍部隊は防勢のままであり、ティールマン大佐指揮下のザクセン軍からある程度の挑発を受けるまではザクセンへは侵入しなかった。

 敵の不活動に勇気づけられて、ティールマンは1809年5月25日にボヘミアに侵入。ドレスデンとピルナの間に集められていたザクセン軍をPeterswaldeを経由してボヘミアへと前進させ、そこに駐屯していたオーストリア軍部隊を追い払って数マイル後退させ、ボヘミア側の村々を占領した。黒公爵がPeterswaldeへ派遣していたブラウンシュヴァイク軍のユサール兵10名も奇襲を受けた。

 しかしそのうちにオーストリア側の数個部隊がTheresienstadtからそれらザクセン軍部隊に対して前進を始め、現在地を維持できるほど兵力が充分でないと考えたザクセン軍部隊は大慌てで2日目に退却し、ピルナでエルベ川を渡河して公爵の部隊に対抗し、可能なら国境から追い払おうとした。

 黒公爵はそれまではザクセン部隊に対する敵対行為の全てを厳しく自制するようにと自軍に命令していたのだが、Peterswaldeでの出来事と、捕虜になったブラウンシュヴァイク軍兵士が受けたひどい扱いについての情報を受け取って、騎兵部隊をZittauへと派遣した。そこで敵から食料を調達し、まPirnaたZittauからDresden/Plaunauへの街道を監視するためであった。だが、ザクセン王国の臣民を保護し、個人財産には手を付けず、住民の通商にはなんらの阻害も制約もしないようにし、いや、それどころか勇敢で誠実なドイツ人民がその意に反して巻き込まれてしまった戦争の惨禍を軽減するように最大限の配慮をするようにという、極めて厳格な規律を部隊に課していた。

 数日の間ときどき、敵の哨戒兵がブラウンシュヴァイク軍の前衛警戒部隊をうるさがらせるということがあったが、重大なことは何も起こらなかった。だがついに5月30日、特に騎兵と砲兵において圧倒的に数的優勢なザクセン軍部隊がZittauの前哨地を攻撃してきて、ブラウンシュヴァイク軍部隊はGrafensteinの山道まで後退した。

 ザクセン軍はZittauを占領したがその日の戦果に大きく満足したものか、通常の防御態勢をとることもなく、兵士達を過ごしやすい環境に置きさえしていた。一方黒公爵の方はこの喜ばしからざる事態の報告を受けると、再び状態をひっくりかえすべく、その時司令部を置いていたGabelからGrafensteinへと急行した。敵が弛緩した状態にあるのを偵察で確認すると、同日晩にGrafensteinに歩兵、騎兵、砲兵の強力な部隊を集め、Zittauを急襲した。この攻撃は大きな成功を収め、ザクセン軍は手痛いしっぺ返しを受け甚大な損害と共にZittauから駆逐され、長い追撃さえ受ける結果となった。

【『Brunswick Troops 1809-15』はこの部分を「1809年5月30日と31日にブラウンシュヴァイク公のBlack BandはZittauのザクセンの町を急襲して占領した。」とのみ表記している】



 『Brunswick Troops 1809-15』の方が(恐らく)事実関係を淡々と記述するのに比べて、『An account of ....』の方はプロパガンダ的匂いがぷんぷんするような気がします(^_^; もちろん、事実(に近いもの)を伝えている可能性もあるでしょうけども、前者が1985年発行であるのに対して、後者が1810年という依然としてナポレオン絶頂期の時期に発行されたもので、そもそもプロパガンダとして発行されたものくさいということは割り引かねばならないような気がします。多分、特に規律の部分とかは信用できないのではという気がするのですが……。「どこで、いつ、何が起こったか」はある程度信用するとしても、形容詞的な部分は話半分以下に聞いておいた方がいいような。

 また、ブラウンシュヴァイク軍はオーストリア軍のam Ende将軍の一応の指揮下にあるのだろうと思うのですが、まあ独立性は維持するという話だったのである程度独立で動くのは良いとしても、ザクセン軍の方がピルナ方面でも黒公爵のことばっかり気にしてたりするかのような書き方になっているように思います。はっ。これが主人公補正というやつ?バキッ!!☆/(x_x)



 『The Edinburgh annual register』の方も一応参照しているのですが、興味深かったこととして以下のことがありました(P622)。

 黒公爵は最初オーストリアから、オーストリアの通常の兵の提供という申し出を受けたのだけども、それを断った。というのは、独立性を維持したいということと、チャンスがあり次第【ブラウンシュヴァイク公国のあった】北ドイツに入りたい、という理由からだった。

 Nachodを出発した時点では、黒公爵は部隊の定員を集めきっていなかった。出発後にエルベ川北岸地域を掌握しようとしたのは、部隊の定員を集めきりたいという思惑があった。【ただ、それで集められたのかどうかについては、『The Edinburgh annual register』には書いてありません。『An account of ....』の方はNachodで不足があったとは書いておらず、しかしエルベ川北岸では「たいして何も得られなかった」という書き方です。ただここらへんは、単に資料を引き写しする時に起きた差異に過ぎない可能性も大いにあるような気もします。】


黒公爵と黒軍の出発

 承前。1809年4月1日に、後にその軍服が黒いことから「the Black Brunswickers」と呼ばれることになる部隊が創設されました。

 公爵やその部隊の日本語訳ですが、何か定まったものがあるのでしょうか……。昔どこかで何か良さげな語感の日本名を聞いたことがあるような気もするのですが、思い出せず……。

 ドイツ語と英語でだと、「Der Schwarzer Herzog(the Black Duke)」、「Die Schwarze Schar(the Black Band)」という記述を良く見ますが、また「the Black Brunswickers」という英語も非常に良く見ます。

 「黒公爵」はなんかかっこよさげで、検索してみたところノンフィクションでは他に用例もなさそうなのでいい感じがします。読み方は「くろこうしゃく」だと若干かっこわるいような気もしますが、「こっこうしゃく」では意味が良く分からない……?

 「黒軍」は他にいくつか用例があるようですが、「黒軍団」や「黒部隊」とかよりも良いのかも……。「the Black Brunswickers」は「ブラウンシュヴァイク黒軍」……?(微妙)

Brunswick1809_002a.png


 さて、その黒軍ですが、諸資料によると4月1日に編成された……とありますけども、『An account of the operations of the corps under the duke of Brunswick, from the time to its formation in Bohemia to its embarkation for England』というチョー長い名前の史料によると、「1809年の3月末から5月中旬にかけて」という期間をかけて編成されたようです(P7)。初めて部隊としての体裁を一度整えたのが4月1日ということなんでしょうか。

 上記史料は1810年発行であり、Googleブックスで全部読むことができます。信頼度のほどは私にはそもそも検証できませんけども、何しろ今のところ発見入手している中で一番詳しい資料なので、大変ありがたいです。


 で、その編成には多くの困難が伴ったようです。というのは、当時プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はナポレオンへの恐怖から中立維持を堅く決心しており、黒公爵がエールス公国内に集めさせていた装備などを編成地であるNachodなどに運ぶのに邪魔が入ったんですね。

 地図には書けてませんが、当時ザクセン王国もワルシャワ公国もフランスの衛星国となっており、ザクセン王国にはベルナドット元帥が、ワルシャワ公国にはポニアトフスキー将軍が軍隊を置いてにらみをきかせています。黒公爵の故国ブラウンシュヴァイク公国は解体されてナポレオンによって新しく創設されたヴェストファーレン王国(国王はナポレオンの弟のジェローム・ボナパルト)の一部になってしまっており、もちろんその地域で募兵や装備集めなどもできなかったでしょう。

 エールス公国はプロイセン王国の一部とはいえいくらか黒公爵の命令は効いたようで、軍服や装備、それにポーランドとの国境近くで馬も買い集めさせていたようです。本来ならばプロイセン王国も対仏大同盟に入っていれば苦労はなかったはずなのですが、あにはからんやどちらかと言えばフランスへ好意的な中立を維持している(フランスの同盟国扱いというわけではない……?)ので、黒公爵はせめてエールス公国になるべく近い、NachodやBraunauで編成作業をおこなうことになったのでしょうね。で、エールス公国からそれら軍服、装備、馬(あるいは新兵も)などを編成地へ運ばせたのですが、これらがシレジア内やボヘミアとの境近くで止められたり、通行を拒否されたり、部隊を置かれてそれを迂回するのにえらく悪い道を通ったりせねばならず、大変苦労したとか……。

 ただ、『A Full and Circumstantial Account of the Memorable Battle of Waterloo』という本(これもGoogleブックスで全文が見られます。構成とか項目とか、かなり面白い本のような気がします)によると「プロイセンによって与えられた困難にも関わらず、彼は非常に短い期間で規定された数まで集めることに成功した」と書いてあるので、この一ヶ月ちょいで2300名の兵とその装備などを揃えるというのはかなり早い方だったのかもしれません。

 と、ともかく5月中旬までに編成を終え、5/12にBraunauとNachodを出発。Turnauで合流します。黒公爵はそこで4日とどまり、その後ボヘミアのエルベ川北岸地域(黄色で塗った領域)を掌握しようとします。というのは、ひとつには今後向かおうと思っていたザクセンのオーバーラウジッツ地方への足がかりとするため、もうひとつにはこの地域で更なる新兵を得て軍団を強化できるのではないかと考えたからでした。

 ところが、この地域で黒軍はほとんど何も手に入れることはできず、むしろザクセンからボヘミアへとフランス軍側が侵入してきたり……という展開になるようです。以下続きます。

ブラウンシュヴァイク公、ウィーンへ

 その後、体調があまり良くない中、ブラウンシュヴァイク公(黒公爵)の資料を探したり翻訳したりしておりました。

 ブラウンシュヴァイク公の話が面白そうだというのもありますが、「体調が悪いのでOCS関連ができない」「ブリュッヒャーの新しい伝記本が来るまでブリュッヒャー関連もできない」ので、じゃあその間ブラウンシュヴァイク公の件で記事が書けたら書いてしまおう、と。


 しかし記事を書くのは後回しにして、まずは地図を作ってみようと思います。というのは、地図を作らないと何が起こっているのか私自身さっぱり分からないというのがありまして(^_^;

 ブラウンシュヴァイク公関連のいつの地図を作るかという問題もあるのですが、1809年の「the Black Brunswickers」の創設と戦い、その後のドイツ北岸への逃避行をとりあえずは地図にしようと考えました。


Brunswick1809_001a.png

 ↑まず1809年1月から3月にかけての地図ができました。うー、疲れました……。

 Wikipedia上のライン同盟の記事にある1808年の地図を一番大元にしてますが、他にもいろんな地図を重ね合わせながら見ていると、そもそもこれらの地図の国境線や河川の線とか、結構いい加減だなぁ……と思います。まあそれらを元に作る私もそれほど厳密でなくてもよい(というか厳密になどできない)ので、敷居が下がって良いとも思います(^_^;

 その前段なんですが、1806年戦役においてアウエルシュタットの戦いに参加した(らしい)後、後の黒公爵はブリュッヒャーに付き従って?(ここらへん現状確認できてません)、1806年戦役におけるブリュッヒャーの最後の戦いの地、リューベック市にたどり着きます。11月6日、リューベックでフランス軍との戦いとなりますが、ここで後の黒公爵フリードリヒ・ヴィルヘルムは作戦ミスをし、翌7日には認識ミスで間違ってブリュッヒャーを降伏に追い込んでしまった様です。……というようなことがOSGのスペシャルスタディシリーズを買ってみましたで「間違って買ってしまった」と紹介してました『SPECIAL STUDY NR.2 1806 The Autumn of No Return』に載ってました。やりました! 役に立ちました!

 しかしこのブリュッヒャー関連のことは新しく注文したブリュッヒャー本にも書いてあるかもしれず(『The Hussar General』には全く触れられてませんでした)、1806年に関してはまた後でやろうと思ってます。

 で、その後ブラウンシュヴァイク公爵位を継ぐも1807年にブラウンシュヴァイク公国自体がなくなってしまったフリードリヒ・ヴィルヘルムは、妻の実家であるバーデン大公国のBruchsalに主に住むことになります(妻はバーデン大公の孫娘だった)。ところがこの妻は、1808年4月20日に、3度目の出産の産褥熱で亡くなります。

 1809年にオーストリアがフランスに対して立ち上がる気配が濃厚になり、フリードリヒ・ヴィルヘルムはウィーンに赴いて自らの部隊を作るべく交渉します。このウィーンに行った時期が「1月」であるというのは、フリードリヒ・ヴィルヘルム(ブラウンシュヴァイク公)のドイツ語版Wikipediaにのみ載っていて、現状他の資料では確認できてません。

 そして2月25日にオーストリアとの契約が成立した、と『Brunswick Troops 1809-15』には書いてあるのですが、これもこの資料単独っぽく、またその場所がウィーンでだったかどうかが分かりません。

 この時フリードリヒ・ヴィルヘルムは、1805年に叔父の死で相続していたエールス公国を担保にして彼の部隊への資金にした……と複数の資料にあるのですが、「エールス公国」の場所はともかくとして、その大きさが分からず……。見つけた3種類の地図を頼りに、適当に作図しました。ので、これがそのエールス公国の実際の大きさなんだ、と思わない様にお願いします(^_^; あと、エールス公だけでなく、彼はまたBernstadtという町の支配権も持っており、それも担保にしたとする資料が複数あるのですが、このBernstadtという町を検索すると、複数候補が挙がってきます。が、(検索に引っかからない?)エールス公国内かあるいは隣かにBernstadtという町があるっぽいので、それがそうである可能性が一番高いのだろうかと思ってそれに一応してあります(が、Zittauの北にあるBernstadt auf dem Eigenがそうである可能性が微レ存(微粒子レベルで存在している)の様な気も……。

 で、4月1日にNachod(とBraunau)で部隊を編成する……というのは、多くの資料が伝えております。


 黒い■の中に書いたのは、フランス軍とオーストリア軍のその後の大きな戦いを予め示しておいたもので、黒公爵はこれらの大きな戦いにはまったく参加せず、ザクセン国内などで戦います。が、タイムテーブル的にこれら大きな戦いの場所と時期は分かっておいた方がいいかと思って書いておきました。

ブラウンシュヴァイク魂と新しいブリュッヒャー本

 続けて『イギリス摂政時代の肖像』を読んでおりました。その中で大きく印象的だったのが、前の前のエントリでオラニエ公との婚約を破棄してのち、ザクセン・コーブルク・ザールフェルト家のレーオポルト公(同書によると「美青年であり、均整がとれた身体(P199)」だった)と結婚した、ジョージ4世(まだ王になってないけど)の娘シャーロットのお産の時の記述。

 シャーロットは武人のように勇敢に振るまい、激しい苦痛を「ブラウンシュヴァイク魂で」耐え、その意志とプライドが強かったので、泣き出すこともなかった。付き添いの看護婦はその忍耐力に敬服した……(P216)


 なぜ「ブラウンシュヴァイク」なのかというと、ジョージ摂政皇太子(後のジョージ4世)の妻のキャロライン(つまりシャーロットの母)は、かの1806年戦役でプロイセン軍の指揮を執ったブラウンシュヴァイク公の娘なんですね。イエナの戦いでそのブラウンシュヴァイク公は傷を受けて亡くなったため、キャロラインの弟のフリードリヒ・ヴィルヘルムがブラウンシュヴァイク公を継ぎましたが、フランス軍に対してずっと戦って、1815年カトル・ブラの戦いの時に戦死しました。

 ↓左が父、右が息子(失われた故国に喪を服して黒い軍服を部隊に着用させ、「黒公爵」と呼ばれた)

BraunschweigLKWFHerzog Friedrich Wilhelm von Braunschweig-Oels, der Schwarze Herzog


 しかしシャーロットはイギリス皇太子の娘なわけなのに、イギリスよりもブラウンシュヴァイクの方が優先されるのはなぜなのかというと、父と母が非常に非常に非常に仲が悪く(というか父側が一方的に母を嫌った?)、母側についていたシャーロットは、よりブラウンシュヴァイク的なあり方に惹かれていた?ということでしょうか。

 ブラウンシュヴァイク公の二人に関しては私もかなり興味があるんですが、「ブラウンシュヴァイク魂」という表現は初めて見まして、興味を持ちました。『イギリス摂政時代の肖像』の訳者さんの著作である『キャロライン王妃事件』を続けて読んで(読み直して)いると、こんな記述がありました。

 【ブラウンシュヴァイク公国は】三○年戦争をへて一八世紀になると、台頭してきたプロイセン王国に従属する公国となり、公爵率いるブラウンシュヴァイク軍はオーストリア継承戦争や七年戦争で活躍し、武人公爵、武人公国として知られるようになった。(P36)

 ブラウンシュヴァイク【公国】は武勇で知られただけでなく、避難民や亡命者のたまり場にもなっており……(P38)



 父の方はヴァルミーの戦いで負けたり(実態は「攻撃を命じなかった」だけで、負けたわけではないらしいけど)、1806年戦役で負けたり(といっても嫌々指揮を執らされたあげく、指揮システムや他の将軍・参謀達に足を引っ張られたことがでかく、彼自身の判断は悪くなかったという見方も?)と、あまり勇壮ではないですけども、息子の方は祖国を失ってもひたすら戦い続け、戦死してしまう勇壮さに惹かれます。

 ただ、シャーロットはこのお産で母子共に亡くなってしまうんですよね……(1817年)。まだ21歳で、その父の兄弟らが全部まとめて不品行だったり祖父の国王が精神を病んでたりという状況の中でイギリス国民からの期待を一身に受けていたそうで、その死をイギリス中が嘆き悲しんだそうです。しかしその2年後にシャーロットの叔父ケント公の娘として生まれたヴィクトリアはシャーロットの生まれ変わりと信じられ、かのヴィクトリア女王時代へと続いていく……。


 『キャロライン王妃事件』の方には、息子の方のブラウンシュヴァイク公の容姿についての記述がありました。

 ヴィルヘルム公は優雅でハンサムと言ってよい男性だが、眉が深くやや陰気な風貌の持ち主であった。(P135)



 この本ではシャーロットに関しても一章が設けられていて、オラニエ公(あ、これもこの時はオラニエ公になってないので、ウィレム公子と書くべきでしたか)とシャーロットの出会うシーンなどもありますが、『イギリス摂政時代の肖像』とは違って、ウィレム公子が醜男だからシャーロットが嫌った、という様な話には全然なっておりません。シャーロットはまずウィレム公子の父親のオラニエ公と出会ったのだけど、この時オラニエ公にいい印象を持たなかった。その後シャーロットの侍女がウィレム公子を見に行って、褒め言葉をシャーロットに書いて送ったのでシャーロットの気持ちはやわらいだ。その後二人が引き合わされ、シャーロットは父から「いやなのか」と問われ「そうではない」と答えたので、父は婚約を承諾したと思い込んだ……。という書き方になっております(P138~9)。

 婚約を破棄する理由としては、ウィレム公子は将来オランダ王になると見られ、しかし当時ほぼ唯一のまともな王位継承者であったシャーロットは、イギリスを離れるわけには行かず、そうすると将来別居の夫婦ということになってしまう。また母キャロラインのことも心配で、そういう意味からもオランダに行くことはできない……などなど。


 この『キャロライン王妃事件』は、歴史書においてさえゴシップ的に悪い面を特筆大書されてしまったキャロラインの実像を丁寧においかける本という側面があり、このウィレム公子とシャーロットの件に関しては、単に醜男だから嫌だったとしてしまう『イギリス摂政時代の肖像』よりもより信頼性があるのではないかなぁ……と個人的には思いました。




 ブラウンシュヴァイク公(親子)への興味がこれでまた火が付いてしまいまして、『Brunswick Troops 1809-15』という本は持ってはいるのですが、改めて見ても記述量が少ない。実質15ページくらいしかなく、性懲りも無く、その15ページをちゃんと全部読んだわけでもないのにアメリカAmazonで、ブラウンシュヴァイク公関係の本を検索してみたら……。



 な、なに……!? 新たな英語のブリュッヒャーの伝記本が2014年1月に発行されていた……だと……?

 LOOK INSIDEしてみると……ううーん、割と英語が読みやすい様な気がするし、『The Hussar General』には載っていなかったブリュッヒャーの兄弟について詳しいことも書いてあるじゃないか……なにしろページ数も多いしなぁ……(『The Hussar General』が251ページだったのに対して536ページ)。

 Kindle版なら安く、しかも今すぐ買える(書籍版だと1ヶ月くらいはかかる)ので、先日見つけてたイタリア軍戦車師団の本(大木さんの参考文献にあった)がKindle版しか手に入らないっぽいのも併せて、Kindle端末を買うべきかどうか悩んだのですが……(というか、今見たらペーパーブック版が買えますね。先日見た時はなかったような気がしたのですが)。




 (分からない単語の訳語の)メモが書き込める、アンダーラインが引ける機能もあるらしく、その点ではなしではないのかもしれないのですが、やはりどうも一覧性の問題がでかくて、結局ハードカバー版(ペーパーブック版はまだない)を注文してしまいました。

 『The Hussar General』を全部訳して印刷してあって大きな流れは分かっているので、この『Scourge of Napoleon』の方は全訳はしないで参照しながらってことができれば……(できるのか?(^_^;)。しかし実際、『The Hussar General』の分量でも記述が簡潔すぎて?意味が良く分からないことなどがあったりしたので、そういう意味でも助かると思われ……思いたく……。

サイフォンさんがWW2ミニゲームを!

 数日前からブログ上でちょっと情報出されてたんですが、いよいよこの4月1日(エイプリルフールでなく……のはず)、サイフォンさんから「デジタル端末上でミニウォーゲーム」という「こまあぷ」企画を発表されました。

こまあぷサイト

 「デジタル端末上でだけど、アナログウォーゲームを、サイコロを振ってやる」というのが大きな特徴であるようです。

 個人的にこの方向性は大歓迎してまして、というのはミリタリー系のデジタルゲームを色々探してはみるものの、どうしてもアナログウォーゲームほど惹かれるものがなくて……という感じでしたので。

 VASSALと同様にソロプレイや対戦プレイもできるけど、VASSALとは違ってAIも付けるので対CPU戦もできるよ、というのもすばらしい!

 あと個人的に何より嬉しいのは、第二次欧州大戦陸戦ものがラインナップに入ってくること。個人的に第二次欧州大戦陸戦ものか、あるいはナポレオニックにのみ範囲を絞っていたので、今までもそのアプローチ方向に興味を持っていたけども手を出せ(さ)ないでいたサイフォンさん提供のゲームがようやくできることに!


 まずAndroidで『ガザラの戦い』ということなんですが、私のスマホはAndroid2.3なので動作環境を満たしていなかった……しかしこれはまあ予想されていたことではあり(^_^; Windows版を購入したいです。

 中ではVita版も出るというのに注目してます。というのは、私はVitaは持ってないんですが、持っている3DSやPSPだと暇な時にダウンロードゲームを総ざらえで見て回ったりということを良くするんですよね。Vitaがどういう状況かは詳しくは知らないんですが、3DSやPSPのように、AndroidやiOSほど提供されるアプリが大量でないならば総ざらえでチェックしてみる人はまあまあいるんではないかと思われ、そしてそういう人は無料体験版なんかは興味を持ったらかなり敷居が低い状態でダウンロードしてみると思いますし、有料でも300円とかなら払ってみる人はある程度いると思います。しかしここはぜひ、機能限定で全然いいので、Vita用には無料体験版を出して欲しいです。


 
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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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