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『The Blitzkrieg Legend』の練習を再開

 フリースクールの方での全国イベントが無事終了しまして、ここ2週間忙しかったのですがようやく一息つくことができました(月火は代休でした)。

 で、お盆に『The Blitzkrieg Legend』のプレイ企画が泊まりがけで愛知の方でありまして、それに参加すべく練習しようと意識を新たに……。


 また、妹らが結婚したり父が亡くなったりで家の人数が減ってきた後、モノも少しずつ整理してきまして、この夏から家の中の一室(6畳相当くらい?)をボードゲーム専用部屋として使用できることになりました。今後はそこにウォーゲームを置きっぱなしにして継続プレイも可能になるかと思います(ただし、うちに泊まってもらって……というのは家人の関係で難しいかなと思いますが……)。

 なので、『The Blitzkrieg Legend』の練習プレイも、置きっぱなしでゆっくりできるので8月前半はそれで行こうかと(最初はVASSALでの練習も考えたのですが、狭いマップとか、慣れたゲームならともかく、ある程度の広さのある慣れないゲームはやはり、マップを広げてやった方がよいですね……)。


 この火曜日はほぼ全体を練習ゲームに費やせるかなと思っていたのですが、なんかいきなり体調が悪くて寝てたりして、セットアップと、ルールチェックと、ドイツ軍の攻勢を少し考えるくらいで今日は終わりに。


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 シナリオはとりあえず、以前パウル・Kさんとやった南方シナリオです。前回私はフランス軍を担当したのでドイツ軍側は良く分かってないのですが、前回のドイツ軍の動きを見ていると「とにかくできるだけドイツ軍は進まなければならない」という気がしていたので、どう進むかを考える……。

 『BARBAROSSA:Army Group Center』なんかでもある程度そうですが、装甲師団のうちの若干後ろにいるものを使用してオーバーランで邪魔な部隊をどかし、その後最前線にいる装甲師団で可能な限り進む……というのが一つのやり方かと思います。

 ……と考えていると、一応オーバーラン可能な部隊はある(マップ真ん中辺の、緑色のベルギー軍ユニットのいるスタックの北西のスタック)のですが、しかし進撃路的にはどうなのかという事を考えてみると、その辺よりも、ガラ空きになっている(南方シナリオの)マップ北半分を思いっきり西進して、その後セダンへと真南に延びる二級道路を南下した方がいいような気が……。だとすれば、北半分~セダンへの道を主力は進むとして、その南側は側面防御だけを考えた方がいい?


 また、MustAttackで尋ねて確認していたのですが、装甲師団の中の砲兵ユニットや専用トラックは、攻撃可能ユニットではなく、従って蹂躙、攻撃、戦闘後前進、突破には参加できない(ただし予備モードにはなれるので、突破フェイズに全移動力で移動し、砲爆撃できる)ということに気をつけて、これをいかにうまく運用していくかを考えたいと思ってます。

 あ、あと、司令部を前線と後方の両方に置くこととか、補給ポイントをいかにうまく運用するかとか、航空ユニットをどうすればよいのかとか、予め予備モードにしておいて1.25倍の移動力をどう活用するかとか、OCS特有の弱ZOCをどうするのかとか……色々練習したいことは多いです。

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1815年にブリュッヒャーが選ばれた理由

 前のエントリ『戦争と平和』(AH)のプロイセン軍指揮官達にSchaluppeさんからコメントをいただいて色々教えていただきまして、若干体調が悪いながらも少しやる気が出てきたので、1815年の戦役になぜ(その前任者で評価も高かったクライスト将軍でなく)ブリュッヒャーが選ばれたのかを調べてました。

 『1815 THE WATERLOO CAMPAIGN: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』の第5章「ネーデルラント防衛計画」の中の「クライスト転任」の項(P99~102)にある程度詳しく触れられてまして、それを自分で和訳したものを冊子化してあってそれを読んでみました。

 Schaluppeさんに教えていただいたドイツの人名辞典の記述によるとクライストは1815年初頭に病気になり、それで指揮権を返上せねばならなかったとのこと。また、グナイゼナウより序列が上の人間(クライスト)をグナイゼナウの下に配するわけにはいかなかったため、ということでした。


 『1815 THE WATERLOO CAMPAIGN: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』によるとこうです(要約)。


 ナポレオンが帰還して次なる戦いが避けられないであろう状況となった1815年3月初旬現在、クライスト将軍が指揮権を持っている下流ライン軍は、全ヨーロッパ軍の中で現在ナポレオンに対抗しうる最も大きく最も地理的に近い軍であり、その指揮官を誰にする(しておく)かは非常に重要でした。来るべき戦いで最も大きな成功を収める軍を持つ政府が、その後の平和条約に大きな発言権を持つことになるだろうからです。

 それゆえフリードリヒ・ヴィルヘルム3世はこの状況においてその指揮官の地位に誰を就けるかについて大きな注意を払っていました。王は、プロイセンと外国の両方から尊敬され、すぐしなければならない事ができる能力と経験を持っている指揮官を必要としていましたが、一方で彼はまた、プロイセン軍内部の上級将校達の間に存在する摩擦に関しても注意を払わなければなりませんでした。

 当時、プロイセン軍内部は2つの派閥に分かれて争っていました。一つはグナイゼナウを中心とする改革派で、彼らは近年の改革や近代化に大きな役割を果たし、プロイセン軍の中で最も優秀な人材であったかもしれませんが、彼らはまた比較的若く経験のない者達でした。

 もう一つの派閥はより年長で上級の将校達による保守派でした。彼らは保守的で、あまりにもラディカルな変化に対して抵抗していました。

 その中間派も複数おり、これら3つの立場の者達はそれぞれの考え方や気質の違いから、様々な関係を複雑に構成していました。

 その状況をまとめてみたのが↓です。

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 上図で赤い線はマイナスの感情を、青い線はプラスの感情を表しています(逆の方が良かった……?)。「~派」の枠に矢印が接しているものは、その「~派」全体への感情を表します。


 改革派、特にその中のグロルマンやボイエン(戦争大臣)は、クライストを退任させてグナイゼナウに代える様に主張し続けていました。一方で保守派のうちのカルクライトは自身の立場を守るために陰謀を企てており、またクネセベックはクライストの参謀長になることを望んでいました。クライストはと言えば、彼自身非常に有能な指揮官であり、王からも好まれ、将校達や兵士達から尊敬され、軍人としても外交家としてもその力量を示した人物でした。また、生粋のプロイセン出身でもありました(グナイゼナウはザクセン出身で、改革派にはプロイセン以外のドイツ諸邦出身者が多くいました)。明確に書かれてはいませんが、恐らくクライストは自分が下流ライン軍の指揮官にふさわしいと考えていたのでしょう(また、この本のここ以前の記述からも、クライストが自分の任務を果たすために多くの努力を払っていたことが窺えます)。

 決定権を持つフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、自分自身の感情としては当然保守的な立場に引かれていたのですが、理性の方では改革派の方を選ぶべきだということも分かっていました。最終的な分析では、保守派の方が有効性が低いことが明らかでした。なぜなら、改革派は政治的目標が明らかであったのに対して、保守派の方は単に、自由主義的な動きに対して自分達の影響力を維持するために努力しているだけだったからです。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はクネセベックやクライストに好意的な態度を寄せ、改革派を「mad Jacobins(ジャコバン狂い?)」と呼んでいましたが、それにもかかわらずグナイゼナウとブリュッヒャーを最上位において信頼していました。

 3月15日から17日にかけて、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はブリュッヒャーを最高司令官とし、グナイゼナウを参謀長とすることに決しました。王は難しい立場の中にいました。確かにどちらの党派もブリュッヒャーの任命に反対することはできませんでした。なぜなら、ブリュッヒャーは有能な指揮官達のうち最も上級の指揮官であったし、その地位につく正当な資格も持っていたからです。しかし、もしブリュッヒャーがその指揮を拒絶したら、他の者達の中でクライストとビューローがその地位を受ける事が予期されました。グナイゼナウは次候補として最も人気のある将校であったかもしれませんが、彼のライバル達はより序列が上で年長でした。

 王はクライストへの償いとして、クライストを北ドイツ連邦の指揮官とし、その決断によって保守派をなだめようとしました。

 しかしクライストは3月末に転任の知らせを受け取った時、「外国から来た成り上がり者のグナイゼナウが、司令部から私を取り除くために送られてくるのだ」と罵ったそうです。彼は自分を陰謀の犠牲者だと考えました。

 しかし、王の決断に背くことはできなかったのでしょう。4月初旬にグナイゼナウは下流ドイツ軍の司令部に到着し、4月11日にはブリュッヒャーも到着しました。




 この記述によれば、クライストは病気を患ったわけではなさそうです。しかしだからといって病気にならなかったという証明ができるわけではないので、もっと色々資料を見てみないと……(といっても、力量的に無理ですが(^_^;) 『The Hussar General』をひもといてみたのですが、クライストの転任についてはまったく触れられていませんでした)。


 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は無能な(少なくとも有能ではない)王として描かれることが多いのですが、ここらへんの決断は優れていたと言える様な気もします。尤も、クライストの方がブリュッヒャー&グナイゼナウよりも上手くやったという可能性を捨てきることは出来ませんし、Hofschröer氏によれば「ワーテルロー戦役において最も活躍したのはプロイセン軍だった」のに、その手柄をまんまとウェリントンに取られてしまった(ブリュッヒャーやグナイゼナウは、そういう外向的手腕に乏しかった)のですから、むしろ、1815年戦役はクライストにやらせた方が良かったのではないかという風に考えることもできるかもしれません。

 あー、尤も今度は逆に、クライストが軍事的にも外交的にも勝利したとしたら、ドイツ参謀本部は誕生しかけたところで潰されてしまい、普墺戦争、普仏戦争などの「プロイセンによるドイツ統一」もなくなったかもしれませんね……。

 
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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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