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『王妃ルイーゼとフリードリヒ・ヴィルヘルム3世』第1章を機械翻訳で読みました

 先日、ドイツ語本の『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen(王妃ルイーゼとフリードリヒ・ヴィルヘルム3世:あるプロイセンの愛)』を衝動買いしてしまったのですが、当然ドイツ語はまったく読めないので、ネット上で機械翻訳して読めるよう、スキャンなど色々準備をしてました。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世については↓などをどうぞ。
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像 (2015/02/11)
不定詞王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (2015/03/12)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の散歩とジョーク (2016/08/05)




 で、ようやく、第1章(P9~24)を全部見てみることができました。

 ちなみに、手順としてはこうしてます。

1.本をスキャンする。
2.スキャンした画像データをGoogleドライブに保存する。
3.保存した画像データを右クリック→アプリで開く→Googleドキュメント(するとOCRされる)
4.OCRされたデータをExcel互換ソフトで、原文、英訳、和訳とセルに貼っていく(英訳はGoogle翻訳、和訳はみらい翻訳で)


 読んでいて確認できた(と思われる)のは、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がそのしゃべり方とは異なり、手紙等は普通に?感情豊かに書くことができたようだということです。というのは、引用符と思われるもの付きで、手紙(まだ結婚する前にルイーゼにあてたラブレター)の内容が書かれているので。

 あと、彼は王太子時代の1792年に、フランス革命戦争に父王と共に従軍しており(総司令官はブラウンシュヴァイク公)、その時の戦争の恐ろしい様子を見て、筋金入りの反戦論者になったそうです。なるほど……。

 また、小さい頃に受けた教育が非常に虐待的なもので、それが彼の「過度の罪悪感と自信のなさ」を助長したとか。

 いくらかちゃんと訳せた、彼のキャラクター像に関する記述を挙げてみます。

 王子は恥ずかしがり屋だったが、優しい心を持ち、とても親切だった。彼は人が苦しんでいるのを見ることができず、戦争を大変嫌っていた。彼は貧しい人々にお金を分け与えたため、後の結婚式に時にベルリンの街をライトアップするお金が残っていなかった。
『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen』P18

 王太子に友達がいないのは良く知られていた。王太子の副官であったJohann Georg von Schackを除けば友達にあたるような人を誰も見たことがなかった。フリードリヒ・ヴィルヘルムは非社交的で非友好的で、弟のルートヴィヒ【ルイーゼの妹フリーデリケと結婚。1796年にジフテリアにかかって急死した。】以外には誰にもプライバシーを明かさず、自虐的な性格のためにいかなる和解も困難だった。また「いつも女性の優しさや可愛らしさに非常に影響されやすい」と思っていたにもかかわらず、信頼できるガールフレンドを見つけることができなかったようで、女性との関係を含むすべての関係において、不信感と精神的不安が広がった。
『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen』P19




 王妃ルイーゼに関してちょっと面白かったのは、彼女が姉2人のような音楽的な才能も、妹フリーデリケのような魅力もなく、4人姉妹の中で最も気まぐれであった……という風に書いている一方で、その長所として、洞察力と順応性が高いということ、素早い理解力と人間性というものに関する正しい見方を持っていた、という様な感じで書いていることでした。つまり、美しさというよりは知的な能力が高かったということでしょうか。

 また、「彼女は温かさと距離感を調和させることを理解していた(公式の代表として現れる時には、彼女は威厳に満ちて見えた)」というような感じで書いてある(ように見える)のも興味深かったです。


 ただあれですね、英訳と和訳の間に割と違いがあるようにも感じるので、ドイツ語原文のニュアンスを理解するのはなかなか難しいのかも……?

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ルイ・フェルディナント公について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍達について調べる、第3弾はルイ・フェルディナント公についてです。


 おおまかには、日本版Wikipediaを参照していただいたら。


Louis Ferdinand of Prussia
↑ルイ・フェルディナント公(Wikipediaから)


日本版Wikipedia「ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1772-1806)」



 さらに、『Who was who in the Napoleonic Wars』の記述を挙げてみます。

 【フリードリヒ大】王の甥でフェルディナント公の息子であり、「プロイセンのアルキビアデース」と評された彼はクラウゼヴィッツによれば、偉大なる将軍となり、その時代のプロイセン軍の指導的な指揮官となる潜在力を持った人物であった。その軍事的、行政的能力を買われて、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が導入した改革に関与し(そこで彼は進捗の遅さを感じていた)、ルイーゼ王妃と共に宮廷の「主戦派」の指導者となった。彼は1806年戦役における主要なプロイセン軍指揮官達の中で最も若く、中将としてホーエンローエ=インゲルフィンゲン指揮のプロイセン・ザクセン連合軍の前衛師団を率いた。その軍事的才能がどんなものであったにせよ、それはイエナ・アウエルシュタットの戦いの4日前の1806年10月10日に彼が比較的小さな部隊でランヌの第Ⅴ軍団とザールフェルトで交戦し、敗北した時に失われることとなった。フランス軍の前進を食い止めようとして騎兵突撃の先頭に立った彼は、負傷したにも関わらず降伏を拒否し、フランス軍第10ユサールの主計将校ギュアンデによって殺されてしまったのである。彼の死はプロイセン軍に重大な衝撃を与えたが、ナポレオンはこれはこの戦争を彼が促進したことに起因したのだと語った。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P194



 古代ギリシアのアルキビアデースに喩えられた、というのですが、アルキビアデースといえば私の印象はまず「裏切り者」なんですが……(^_^; しかし容姿が美しく、才能も抜群で、「将来アテネを背負って立つ」と思われていた、というのはあります。そこらへんがルイ・フェルディナント公と似ていると思われたということなんでしょうか。


 また、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』にはルイ・フェルディナント公に関してかなり詳しい記述がありました。1つ目に挙げるのは著者による評で、2つ目に挙げるのはクラウゼヴィッツが書いた論文の中の評です。

 国王【フリードリヒ・ヴィルヘルム3世】とフェルディナント公【フリードリヒ大王の末弟】の長子ルイ【・フェルディナント】との間が気まずくなったのもこのころである。いくつかの革命戦争を闘ってきたこの二十歳の将軍貴公子は、すでにマインツ攻防戦で砲火をくぐりぬけ、 負傷したオーストリアのマスケット銃兵を救出するなど気概のあるところを見せ、カリスマ的行動志向があった。だが、彼は国のためにつくしたいという意欲にあふれていたのに、重要な軍事、政治問題の圏外に置かれていたのである。
 戦争が一段落すると、彼は地方の駐屯地を転々として無為に日を送り、次々に愛人を囲って財政に窮するという有様で、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世やその後継者の現国王との間に金銭や結婚問題をめぐっていざこざが絶えず、裁判沙汰にまでなったこともある。しかし、彼が自堕落な生活を送っているという噂はやや誇張で、当人は政治、経済の諸理論や軍事問題の知識を広め、シュタインやシャルンホルストのような人たちに教えを請いたいと心から願っていた。彼は多才でしかも努力家であり、作曲もすればピアノも弾いた。ベートーベンは彼のピアノ演奏を聴いて、「殿様芸の域を脱している」と言い、シューマンは彼の作った曲について、「古典派の中のロマン派」と評し、音楽に新時代を開いたシューベルトのようなひらめきを感じさせたと後年書いている。
  19世紀に入ってから、ルイ・フェルディナントはまだ適職には恵まれないものの、定期的にベルリンにやって来ては長期滞在するようになり、芸術や社会問題に関心を持つ人たちのグループに仲間入りしてたちまち注目を浴びた。彼は軍事協会のメンバーでもあり、 ベルク伯爵夫人の家にもしばしば出入りし、ここでシュタインをはじめとする閣僚達や、 ゲンツ、ヨハネス・フォン・ミュラー、アレクサンドル・フォン・フンボルトらの作家、学者たちとも定期的に会合をした。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P164~5

 彼はアテネの将軍アルキビアデスの生まれ変りのような人物だった。人間として成熟しきれなかったのは私生活の乱れも災いしている。彼はあたかも軍神マルスの長子の如く勇敢で大胆不敵 、決断力に富んだ男だったが、旧家の家長にありがちな、富を鼻にかけ、世事に無頓着な人間で、教育によって自分の精神を高め知的世界を広げようと真剣に考えたことがなかった。
 フランス人は彼のことを"されこうべ"と皮肉るが、もし彼らが"頭は空っぽだが熱しやすい"という意味でそう呼ぶなら、誤解もはなはだしい。彼の勇気はいわゆる向こう見ずとはちがって、偉大さ - つまり真の義侠心の飽くことない追求から出たものである。子ども時代からそうで、戦争で危険に身をさらすことがなければ、じゃじゃ馬に跨がり、激流を突っ切って狩りに出たがる。
 猛烈に頭が良く、身ごなしは洗練されていて、ウィットに富み、読書家で多才。とりわけ音楽に秀でていた。彼のピアノの腕前は名人級である。
 ……フリードリヒ大王の甥で、勇敢で大胆、なかなかの遊び人でもある若くてハンサムなこの貴公子将軍は、まもなく兵隊や若手将校たちのアイドルになった。しかし、古参の頭がこちこちの将軍たちはこういうタイプの青年紳士には首を傾げ、フレッシュな才能など無用な軍隊の日課や規則にがんじがらめにしてその芽を摘んだ。
 ……彼は仕方なく放埒な生活に浸って多額の借金を作り、そのエネルギーのはけ口をひたすら享楽に求めた。とりまきも立派な人たちばかりだったとは言えない。 それにもかかわらず、彼は決して自堕落に陥らなかった。頭は常に水面に出し、精神は高貴な領域に住まわせておいた。国家、祖国の重大事から目を離すことはなく、栄光と名誉に憧れ続けた……ところが結果的にはこれが政府関係者から煙たがられた。国王はとにかく彼とかかわり合うまいとした。 真面目な王は、 彼の放縦な生活ぶりが気に喰わなかった。独裁国の君主なら無理もないことではあるが、国王は彼の野心をのさばらせまいと警戒もした。彼の才気煥発さがかえって王を懐疑的にした(『破局を迎えたプロイセン』)。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P166~168


 この最後のところの分析は「なるほどなぁ」と思います(クラウゼヴィッツ自身がその後、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世からひたすら疎まれてひどい目に合わされ続けるというのも……(T_T))。

 クラウゼヴィッツが書いた論文である『破局を迎えたプロイセン』ですが、おそらく↓がその英訳だと思われます。

EXCERPTS FROM NOTES ON PRUSSIA IN HER GRAND CATASTROPHE OF 1806
by CARL VON CLAUSEWITZ Translated by COL [US Army] Conrad H. Lanza


 ただ、一部の抜粋だそうで(それでもかなりの量ですが)、私は(ルイ・フェルディナント公に関してあったように)色々な将軍の人物評があれば読んでみたいと思ったのですが、ざっと眺めてみた感じではそれはなさそうで、ずっと戦役に関する分析が続いている感じでした。いくらかタウエンツィーンの名前が出てきて見ていると、「この時タウエンツィーンがもっとこうしていれば……!」と書いてあるような気がしました(>_<)。あと、クラウゼヴィッツはルイ・フェルディナント公の弟であるアウグスト親王の副官であったのですが、10月28日にプレンツラウで勇戦空しくフランス軍の捕虜となってしまったので、その時のくだりのことが書いてある論文も最後に付いていました。



 ウェブサイト「祖国は危機にあり!」を書かれているR/Dさんもそのブログでルイ・フェルディナント公に関して書いておられ、大変面白いです。

ルイ=フェルディナント



 また、ウェブサイト「プロイセンの王妃達」を書かれている霧野智子さんもルイ・フェルディナント公について書かれています。

ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン

 霧野智子さんはルイ・フェルディナント公に関する同人誌?も出しておられて私は持っているのですが、今は販売されていない?


 それから、ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク(あるいはドゥセック)という作曲家とルイ・フェルディナント公が非常に仲が良かったという話があります。日本版Wikipediaには、

ドイツでは、初めはリストを予告するような、最初の美男のピアニストだった。ルイ・シュポーアによるとドゥシークは、「淑女たちが彼の美しい横顔を愛でることができるように」、舞台上にピアノを横向きに置いた最初のピアニストだった。だが間もなく、プロイセン王子ルイ・フェルディナントに仕官するようになり、王子には使用人としてよりもむしろ友人や同僚として遇されるようになった。2人は時おり一緒になって、「音楽の饗宴」と呼ばれた乱痴気騒ぎに興じもした。ルイ・フェルディナント王子がナポレオン戦争で戦死すると、ドゥシークは感動的な《ピアノ・ソナタ〈哀歌〉》作品61を作曲する。


 とあり、また、第120回しばざくらコンサートの解説pdf?には「そしてハンブルクからさらにベルリンに向かい、彼はそこで音楽にただならぬ見識を持っていたプロイセン王国のルイ・フェルディナントの知遇を得て、1804年からその宮廷楽長を務めました。フェルディナントは自ら楽器を演奏するだけでなく(ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は彼に捧げられています)、作曲もたしなんだので、ドゥセックはその助言も行ったようです。フェルディナントはドゥセックを片時も手放さず、戦場への遠征にも同行させるほどでした」とありまして、以前この作曲家がどういう風にザールフェルトの戦場に同道していたかの文をどこかで見たことがあるような気がするのですが、今回見つけられませんでした(>_<)


 あと、「ルイ・フェルディナント」で検索すると、クラシック曲の動画が結構ヒットしますから、それでルイ・フェルディナント公の曲を聴くことができます。




 さて、1806年戦役の時なんですが、『1806:Rossbach Avenged』10月8日~10日セットアップなど (2016/03/22) で、OSGの同ゲームにセットアップをしていた画像があるのでそれに地名等を上書きしたもので説明してみます。

unit00308.jpg


 セットアップは10月8日(早朝?)のもので、この領域にはフランス軍はまだ全然いません。ユニットがいくつか見えているのはすべてホーエンローエ麾下のもので、ルドルシュタットに青い□で囲んだユニットがスタックしています。マップの西側にはブラウンシュヴァイク公のプロイセン軍主力がおり、元々そこから南西の方向へ向かってフランス軍(およびその補給源)への攻撃を企図していたのですが、フランス軍が思っていたよりも東にいるらしいことを知って、より東に移動中という感じです。

 矢印で示したのは史実のその後1806年戦役の流れであり、青い矢印は一番左がランヌとオージュロー、真ん中がベルナドットとダヴー、一番右がスールトとネイのそれぞれの軍団の進路で、黒い矢印はブラウンシュヴァイク公のプロイセン軍主力の進路です。

 さて、ルイ・フェルディナント公ですが、OSGの『1806 Coming Storm』P21によれば彼はこの前日(10月7日)の夜にルドルシュタットにてカロリーヌ・ルイーゼ公爵夫人の舞踏会に出席しており、公爵夫人の求めに応じてそのピアノの素晴らしい腕前を披露していたとか。そこで公爵夫人はこのように言ったそうです。
「あなたはこれから他のピアノも演奏しなくてはなりませんわね、殿下」
 それに対して彼は陽気にこのように答えたとか。
「そう、しかしもっと耳障りなピアノをですけどね」(Bauer, Frank, Saalfeld 1806, p.30.)


 その後のルイ・フェルディナント公の動きについて、参照した資料では「ルイ・フェルディナント公が悪い」説と、「ルイ・フェルディナント公は悪くない」説の2つがあるようでした。

 まず「悪い」説。これは『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』(MAP60)にあるのですが……。

 【10月9日、】ホーエンローエの前衛軍を指揮していたプロイセンのルイ・フェルディナント公は、ブラウンシュヴァイク公の前衛と交代するまで、ルドルシュタットを保持し、ルドルシュタットとザールフェルトの間でザーレ川を渡るように命じられた。ルイはその後ペスネックを通過して東進し、ホーエンローエ軍に再び加わることになっていた。
 だがそうする代わりに、ナポレオンの敵たることを公言していたルイ公は、即座にザールフェルトに部隊を派遣し、10日には彼の指揮する全軍で続いた。この一見衝動的な行動の理由は、未だ不明である。

 【10月10日、】ランヌは彼の先導師団をルイの右側面に回り込むように機動させ、ルイをザーレ川に追いこんだ(この間、ルイはホーエンローエからの2つ目の命令を受けとっていた。その内容は、ルドルシュタットに留まり、ザーレ川とイン川の間の領域をカバーし、正常状態を保てというものだった)。しかし、ルイがそれを実行しようとしたとしても、ランヌの側面攻撃はあまりに迅速すぎるものだった。そのザーレ川の橋は1300時ちょっと過ぎに確保された。ルイは、土壇場で彼の騎兵を率い、絶望的な突撃を実行したが、あるフランスユサール軍曹によって斬り殺された。


 ザールフェルトに行く必要もザールフェルトにこだわる必要もなく、ペスネックへ向かえば良いのを、なぜかルイ公はザールフェルトへ向かったことになっています。


 一方、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』とチャンドラーの『ナポレオン戦争 第3巻』は、上官であるホーエンローエの命令が曖昧であったため、ルイ・フェルディナント公が勘違いしてしまったことが原因である(すなわちどちらかというホーエンローエが悪く、ルイ・フェルディナント公は悪くない)、という立場を取っていました。

 両部隊とも相手の位置や出方の見当がつかない。そんな中で、10月10日、プロイセン軍前衛部隊を率いるルイ・フェルディナント公はフランス軍最左翼軍団に襲撃された。命令が不徹底だったため、彼はあらゆる犠牲を払ってフランス軍を阻止せねばならないと思い込んだ。多勢に無勢の上、位置的にも不利な彼の軍団は惨敗し、フェルディナント公は戦死した。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P189


 ↑こちらは非常に短いですが、チャンドラーの方はえらく長めに説明しているので、ザールフェルトの戦い中のフランス軍の描写に関しては省略して引用してみます。なお、チャンドラーはルイ・フェルディナント公を「ルートヴィヒ・フェルディナント王子」と書いています。

 その間【10月9日】、プロイセン軍の幕営ではいつものように紛糾が頂点に達していた。アウマの近郊で混乱に陥った自分の部下、つまりタウエンツィーンの失策という知らせにより、ホーエンローエは彼の支援のため、ザーレ川を越えて全軍を前進させる準備をした。9日と10日の夜の間にルートヴィヒ・フェルディナント王子が、ザールフェルトから先のグラーフェンタールへと数多くの敵の露営火が連なることを報告してきた。そこで彼の上官【ホーエンローエ】は、渡河の用意のためにルドルシュタットとカーラの間に即時プロイセン軍を集結させるべきだとの確信を強めた。不幸にしてルートヴィヒ王子に対するホーエンローエの指示が曖昧だったため、結果として前衛の司令官【ルートヴィヒ・フェルディナント王子】は、その使命がザールフェルトの細道を保持し、かつホーエンローエが彼の主力軍をアウマへと移動させる間(タウエンツィーンを支援するため)、さらにはブラウンシュヴァイクが王子軍の左翼の空白地帯を埋める目的で彼の軍隊を連れて来る間、時間稼ぎをすることであると勘違いしてしまった。その結果、ブラウンシュヴァイク軍は躊躇しつつエルフルト近郊にとどまっていたため、ルートヴィヒ王子はだんだんと孤立していったのだ。翌朝までに、ホーエンローエも、提案したザーレ渡河の是非について考え直してしまった。事実、ブラウンシュヴァイクは無遠慮にも移動を禁じてしまっており、したがって彼も前進を撤回したのであった。この新しい命令は10日午前11時に不運なルートヴィヒに届いたに過ぎない。彼はいまや、ルドルシュタットを堅持してランヌ軍の攻撃を耐えしのぐよう指示されていた。しかしそれはあまりに遅かった。午前10時以来、既にザールフェルトでは交戦状態に突入していたのである。
 ルートヴィヒ王子は、自分の任務がホーエンローエのアウマ進撃を覆い隠すと同時に、予想されるランヌ軍団の介入に対してブラウンシュヴァイクのルドルシュタット進軍を保護することにもあると堅く信じて努めてきたが、午前7時……彼の軍勢を、グラフェンタールへと続く細道からの出口を押さえるため、ザーレ川の左堤に布陣すべく移動したのであった。
『ナポレオン戦争 第3巻』P49,50


 「ザーレ川の左堤(左岸:上流から見て左側)」というのは、ザールフェルトの位置においては川の南西側になります。

 ↓はOSG『1806 Rossbach Avenged』で生起したザールフェルトの戦い。

スクリーンショット_160107_025

 真ん中の「SAALFELD」(街ヘクスはルイ公のユニットの下で見えません)の左横に「Wolsdorf」や「Schwarza」の村が描かれていますが、(ゲーム上とは異なり)実際にはザールフェルトの戦いはザールフェルトの街の西側の数ヘクスでおこなわれていました。

 『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』にはザールフェルトの戦いの地図が2枚載っているのですが、2枚目の方だけ挙げさせてもらうと……(この本、一番すごいのは軍装と軍旗がフルカラーで多数収録されていることで、地図も細かいのが充実しています。あと、フランス軍の将校について詳しいです)。

unit00309.jpg

 このようにルイ・フェルディナント公がザーレ川を背にして戦っていたことについて、チャンドラーの書き方は「その必要があったからそうした」という感じに響くような気がしますが、英語版Wikipediaは「フランス軍は高地を占め、一方プロイセン軍は背後にザーレ川があり、退却は難しかった。」と書いており、フランスの歴史家(というか1871~3年のフランス大統領)のティエールは、「ルイ公は退却が非常に難しい、軍事的によろしくない配置をおこなっていた。もし彼に慎重さというものがあり、そして虚勢を見せて急行する必要がなかったならば、彼は可能な限り素早く退却すべきだったのだ……」というようなことを書いているようです(OSG『1806 Coming Storm』P25:Thiers, p.266)。

 ザールフェルトの戦いの推移については、たいしてルイ・フェルディナント公の人物像が見える感じの記述も見つけられなかったのでスルーしたいのですが、今回資料を読んでいてびっくりしたのが、この戦いにあのグナイゼナウが参加していたと書かれていたこと。グナイゼナウが1806年戦役の時にどこにいたのかはずっと気になっていたのですが、今まで分かっていませんでした。前掲の地図にも「Gneisenau」とあり、中隊長であったことはOSG『1806 Coming Storm』にも『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』にも書かれていたのですが、階級については書かれていません。改めて「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」のグナイゼナウのページを見てみたら、確かにグナイゼナウはザールフェルトの戦いに参加したと書いてあり、しかも脚を負傷しつつ強力なフランス騎兵の突撃を何度も受けたにもかかわらず、戦列を維持し続けて名を挙げたと書かれていました。さすがグナイゼナウ……。

 さらにもう一人気になるのが、ミュフリンク連隊長?というのが出てくる(記述にも、地図上にも)ことで、このミュフリンクが偉大なるプロイセン陸軍参謀総長様だったとわ……! (2012/08/10) ミュフリンクについて再点検 (2013/03/23) で書いていたミュフリンクと同一人物であるかどうかが気になり調べたのですが、よく分からないままです……。



 さて、ルイ・フェルディナント公は「麾下の部隊が混乱し始めるのを見たルイ・フェルディナントはフランス軍の騎兵に対して突撃をおこなった。ルイ・フェルディナントは降伏勧告を拒否し、フランス軍第10ユサール連隊の主計将校ジャン=バプティスト・ギュアンデを負傷させたものの、その後の戦いで討ち取られてしまった。」(英語版Wikipedia)のですが、その戦死の際の詳細について諸資料を見ると、色々と違いがありました。


Heldentod der Prinzen Louis Ferdinand bei Saalfeld

 ↑「ザールフェルト近郊におけるルイ・フェルディナント公の英雄的な死」という絵(Wikipediaから)


 まずOSG『1806 Coming Storm』P25には、ティエールの本からの引用としてこのように書かれていました。

 (ルイ公の)2人の副官は彼の側で討ち取られてしまった。あっという間に囲まれそうになってしまったルイ・フェルディナント公は逃げようとしたが、彼の馬が生け垣で動けなくなり、止まるしかなくなった。第10ユサール連隊のある主計将校が、まさか王族だとは思わなかったものの階級の高い人物だとは思って、馬を駆け寄らせながら叫んだ。
「将軍、降伏して下さい!」
 この降伏勧告に対してルイ・フェルディナント公は剣を突き出して答えた。(Thiers, p.267)


 ここまでがティエールからの引用らしく、次の文は地で書かれています。「剣でのやりとりが続き、ルイ公は6ヶ所を負傷したが、うち2ヶ所が致命傷であった。彼は乗馬の足下に崩れ落ちた。」

 非常に具体的に書かれていますが、ティエールが歴史家としてどれくらい信用できるかというと、怪しいものがあるそうです。R/Dさんの「祖国は危機にあり 関連blog ティエール」を読んでいただくと……。個人的には、あまりにもいきいきと描かれていて、それゆえにちょっと信用できない気がします(^_^;


 霧野智子さんの『ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン』にもある程度詳しくこの戦死の時の様子が書かれています。その記述では、ルイ公の前後を少数のフランス軍騎兵が取り囲み、降伏せずに(降伏勧告があったとは書かれていない)ルイ公は戦い続け、そのうちに下士官のグウィンディ(他の資料では主計将校、あるいは軍曹のギュアンデとあることが多いです)が進み出た、と。彼はルイ公の格好からプロイセン軍の元帥の一人らしいと考えた。彼のルイ公への攻撃はまず肘、胸、そして後頭部へと当たり、後頭部へのものが致命傷となった……とあります。そして、フランス兵達はルイ公の遺体に群がって金目の物を略奪し始めたそうです。

 霧野さんはドイツ語のルイ・フェルディナント公に関する本を含め、複数の文献にあたっているようです。



 また、ドイツ語版Wikipedia「Louis Ferdinand von Preußen (1772–1806)」にはルイ公の戦死の時の状況についてある程度詳しい記述があったので、ドイツ語をGoogle翻訳で英語にして、重訳してみました。

 プロイセン軍の前衛部隊の指揮官であったルイ・フェルディナントは1806年10月10日、イエナとアウエルシュタットの戦いの4日前に、ザールフェルトの戦いで戦死した。ルイ公はフランス軍第10ユサール連隊の主計将校であったジャン=バプティスト・ギュアンデ(1785-1813)によって討たれた。これによって彼はレジオン・ド・ヌール勲章を授与したが、昇進はしなかった。ナポレオンが、ルイ公を捕虜にした方がより良かったと発言し、それゆえ昇進はならなかったのである。ただ後にギュアンデは連隊副官補佐へと昇進した。
 ギュアンデが一人でルイ公を倒したのか、あるいは戦友の助けもある中で倒したかについては、現在の歴史家の間でも論争がある(有名なRichard Knötelによる「ザールフェルト近郊におけるルイ・フェルディナント公の英雄的な死」という絵は後者の説を採っている)。しかし恐らくは、一人で倒したというのが正しいのではないだろうか。なぜならギュアンデの報告では、ルイ公が馬を翻して逃げるのに対してギュアンデがまず追跡し、ルイ公の馬が柵を越えようとジャンプしたもののひっかかってよろめいた時に、ギュアンデがルイ公の後頭部を傷つけた、となっているからである。ルイ・フェルディナント公はこの時、致命傷を負いながらも戦い続けたそうで(!)、そこでギュアンデはルイ公の胸を突き刺したのであった。しかし、背後からの後頭部への一撃だけでも、ルイ公はすでに正常な能力を失い、死んでしまっていたことであろう。とはいえ、正面からの「名誉ある」一撃によってとどめをさしたことは、ギュアンデをより英雄的にしていると言える。



 引用文中の「(!)」は元の文にあるもので、私が付け加えたものではありません(^_^; 

 様々な説があるらしいわけですが、個人的には非常に興味深く感じます。

オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍について調べる、第2弾です。

 いわゆる「Württemberg(ヴュルテンベルク)」と呼ばれる、予備としてハレにいる指揮官を取り上げるのですが、そもそもこのヴュルテンベルクという名前自体が、当時あった公国の名前です。


 ↓1806年9月初旬のプロイセン軍配置 (2016/03/17) で作っていた地図。

1806年戦役用03Map57用02

 左下の紫色の領域です。

 1806年戦役の時、この地図で色で塗った国はプロイセンに味方をした国なんですが、しかしブラウンシュヴァイク公国、ヘッセン=カッセル公国、ヴュルテンベルク公国は兵力は出していなかったのではないかと……(ヘッセン=カッセルは将軍も出してない?)。

 ちなみに赤い線は、ナポレオンが糾合して手下としていたライン同盟の領域ですから、ヴュルテンベルク公国はライン同盟に属していながらプロイセンに味方を……?

 しかし味方といっても何をしたか、何をしなかったか私は良く分かってません。ただ、ヴュルテンベルク公の弟がイエナ・アウエルシュタット戦役に参加しており、それがゲームでも将軍として出てきており、今回取り上げるオイゲン・フォン・ヴュルテンベルクなわけです。

 ……といっても、このオイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公なんですが、私が今まで集めてきた資料の中には、「どんな人物か」ということは書かれていませんでしたし、頼みの綱の「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」にも項目がないようです。が、なぜか日本版Wikipediaにはある程度情報があります。一応英語版とドイツ語版も見てみたのですが、記述がまったく一緒のようなので、どうやら重訳されていったもののようです。


Eugenwuerttemberg1822
 ↑オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822)(Wikipediaから)


オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822)


 このオイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公はイエナ・アウエルシュタット戦役(とハレの戦い)に出てくるわけですからそれらにユニットとして出てきますが、それで軍歴は終わりで、しかし彼の同名の長男の方がロシア軍の将軍としてその後のナポレオン戦争で活躍し、ロシア戦役やライプツィヒの戦いでユニット化もされていておかしくないようです(私はそこらへんのゲームを持ってないので、ユニットの画像とかはパスで(^_^;)。

オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1788-1857)


 日本版Wikipediaの記述がある程度詳しくて、私にはそれ以上調べられそうにないので、もうそちら任せということで……。


 ただ、ヴュルテンベルク公(父)の項に「当時、オイゲンの駐屯していた地域は17世紀に枝分かれしたヴュルテンベルク家の分家が治めるエールス公爵領が存在していた。」という話が出てきます。

 このエールス公領は後にブラウンシュヴァイク公(子)の方に相続されるので、そこらへんのみ付け足しを。


 ↓ブラウンシュヴァイク公、ウィーンへ (2014/04/12) で作った地図。

Brunswick1809_001a.png

 「エールス公国」とあるのが、推測によるエールス公領の領域です。

 日本版Wikipedia「オレシニツァ公国」には、「公国は長くボヘミア王冠の属領であったが、シュレージエン戦争の結果、1742年にプロイセン王国に征服された。しかしヴュルテンベルク家の公爵達は領主として同国を領有し続け、1792年に公国はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯カール1世の息子の一人フリードリヒ・アウグストに相続された。」とあります。

 この相続された「フリードリヒ・アウグスト」というのは、ブラウンシュヴァイク公(父)の弟で、事績とか分かりませんがある程度長く存命した唯一の弟であったようですね。

 ただ、この人物も子供を残さずに1805年に65歳で亡くなり、後継者がいなかったのでブラウンシュヴァイク公(子)が継いだのでした。


タウエンツィーン将軍について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍について、今まで調べていなかった人を調べようという企画、第1弾はタウエンツィーン将軍について調べてみました。


 いくつかの資料を参照したんですが、彼の外交的な仕事やなんかについてはいくぶんか省略しています。


Graf-tauentzien.jpg
 ↑タウエンツィーン(Wikipediaから)


 タウエンツィーンは1760年生まれ。がフリードリヒ大王に仕えた将軍であったことから、彼自身もプロイセン王家と密接なかかわりを持ち、1775年にプロイセン軍に入った後、フランス革命前の時期には王子(ハインリヒ?)と一緒にフランスを旅したりし、1791年に父が死んだ時には王(フリードリヒ・ヴィルヘルム2世)から従者に任命されました。その数ヶ月後に伯爵位を受けているのは父親の爵位を継いだもの? 1793年には王族の副官としてフランス革命戦争に参加し、その後ロシアへの外交任務に派遣され、1795年には大佐になりましたが、彼自身は軍人としてよりは外交の方に精通していたようで、1813年までに多くの外交的任務を任されました。

 ですが1800年3月には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に、外交的な任務でなく連隊長のポストが得られるように頼んでいます。しかしすでに外交的任務などで?年功のあった彼にちょうど合った連隊長職を見つけることは非常に難しく、そのうちに病気にかかって所領で養生していたようです。

 しかし少将に昇進後の1801年9月にようやく希望が叶えられ、アンスバッハに駐屯するある連隊の長となり、訓練に励みました。アンスバッハというのは当時のプロイセンにとって南西の方にあった飛び地で、1805年のフランス対オーストリアの戦役の時にプロイセンは中立であったにもかかわらずフランス軍がアンスバッハを通過し、大問題となりました。

 アンスバッハの位置についてはプロイセン王国の国土の拡張という画像が分かりやすかったです。

 なぜ当時フランス軍がアンスバッハを通過したのかに関しては、1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯 (2015/12/29)に以前いくらか考察を書きました。

 この時タウエンツィーンは、フランス軍の通過を止めるためにはあまりにも少ない兵力しか持たなかったので、現実的な対応をしました。つまり、フランス軍は通過させ、しかし南ドイツにおいてフランス当局に対して激しい外交キャンペーンをおこなったのです。1806年にブリュヒャーがアンスバッハにやってきて指揮を執り始めると、ブリュッヒャーとタウエンツィーンはひどく仲たがいし、タウエンツィーンは辞任を願い出ましたがフリードリヒ・ヴィルヘルム3世はそれを却下しました。

 1806年の戦役の時にはタウエンツィーンはホーエンローエの率いる軍勢の中の左翼の前衛を担当し、資料により色々ですが大体8,000から9,000名程度の兵を持ち、うち1/3~2/3はザクセン兵であったかのようです。

 10月9日にタウエンツィーンの部隊はシュライツで、この戦役で初めてフランス軍との戦闘となりましたが、これは本格的な戦闘ではなく、小競り合い程度でタウエンツィーンの部隊は撤退しました。タウエンツィーンはシュライツでの戦闘でそもそも会戦を意図しておらず、小規模な砲撃や騎兵戦闘だけで時間稼ぎをして撤退したようなのですが、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」はこの戦闘を敗北とし、この時のタウエンツィーンの行動は批判されていると述べています(敗北が非難されているのか、あるいは可能性として、この撤退によって東の側面をフランス軍に明け渡したのみならず、その後のフランス軍の東側面における行動も監視下でなくしてしまったということが非難されるのかもしれません)。

 一方、英語版Wikipedia「Bogislav Friedrich Emanuel von Tauentzien」はこの後の退却について、「タウエンツィーンは部隊を上手くMittel-Pöllnitzへと退却させ、プロイセン軍主力と合流させることができた。」と述べています。

 タウエンツィーンはイエナへと撤退し、イエナの戦いでは再度前衛として戦いました。イエナでの敗北の後の退却については『ナポレオン戦争 第3巻』P92にこう賞賛されています。「それでもなお、イエナから北へ向かう退却の間に見られた、タウエンツィーンの首尾よい援護行動は立派であった。特に、その同じ朝に彼の部隊は手荒に扱われたのであるから。」

 タウエンツィーンはホーエンローエの軍勢と一緒に退却したようで、ホーエンローエが大軍を持ちながらプレンツラウであっけなく降伏した時に一緒に捕虜となったようです(10月28日)。その後釈放されたのですが、ナポレオンは1805年のアンスバッハにおけるタウエンツィーンの振る舞いに立腹していたことから1806年12月23日に罪状もないままに彼を逮捕し、フランスの要塞に拘留しました。この後、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」による記述は時系列が良く分かりませんが、タウエンツィーンはアンスバッハとバイロイト(これもプロイセンの飛び地であったところ)で非常に大きな賞賛と歓迎で迎えられ、これが再度ナポレオンをイライラさせることになり再度逮捕され、最終的に1808年11月20日まで投獄が続きました。

 解放された後、タウエンツィーンはベルリンのブランデンブルク旅団の指揮官に任命され、またフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に同行してサンクトペテルブルクのロシア宮廷に赴きました。

 1806~7年の戦役における数々の失態によってプロイセン軍の多くの将官が解任されましたが、タウエンツィーンは解任されることはありませんでした。しかし、タウエンツィーンは保守派の者達の中でも特に伝統的な考え方を重んじる人物であったため、シャルンホルストや改革派の者達からこころよく思われていませんでした。タウエンツィーンは長年外交畑で活動していたためその人物像について良く知られておらず、多くの者達が彼が戦場指揮官として残る能力があるのかどうかに疑いを抱いていました。また彼はドイツのナショナリズムを大いに支持しており、フランスの秘密警察の重要な監視対象となっていました。

 1809年にプロイセン軍の将校シルがドイツ北部で反乱を起こし、すぐに鎮圧されましたが、シルはタウエンツィーンの指揮下にいた人間であったため(再びナポレオンの主張により)タウエンツィーンは逮捕されました。逮捕後、再びタウエンツィーンは辞職を願い出ましたが再び却下されました。裁判の結果はいかなる共謀も認められないというものでした。1811年10月にタウエンツィーンはブリュッヒャーの後任としてポメラニアの総督となりました(ナポレオンがそこの総督であったブリュッヒャーの解任を要求していたため)。

 1812年3月にタウエンツィーンはベルリン総督となり、1813年3月にはオーデル川とビスワ川の間のすべての軍の総督となりました。タウエンツィーンは戦闘部隊の指揮官となることを願い出て、拒否されて再び辞表を出しましたがいつものように拒否されました。

 タウエンツィーンはロシアのクトゥーゾフ将軍の下でシュテッティンの町を封鎖するように命じられました。クトゥーゾフはシュテッティンの町を取ろうとしてはいけないと警告していましたがタウエンツィーンは従わずに襲撃をおこなって敗北しました(と、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」にはあるのですが、英語版Wikipedia「Bogislav Friedrich Emanuel von Tauentzien」には「タウエンツィーンはシュテッティンの攻囲に成功した」とあります)。

 1813年7月にタウエンツィーンは主に義勇兵(ラントヴェーア)からなる第Ⅳ軍団の指揮を任されました。彼の任務は、オーデル川とエルベ川の要塞を支配し、またブリュッヒャーとベルナドットの軍と協力することでした。8月22日にタウエンツィーンはBlankenfeldでの小競り合いに勝利し、それによって翌日のグロスベーレンの戦いにおける連合軍の勝利に大きく貢献しました。8月28日にはLuckowを占領し、その後9月5日にデンネヴィッツで攻撃を受けました。当初タウエンツィーン軍団は単独で圧倒的兵力からの攻撃に耐えねばなりませんでしたが、ビューロー将軍の第Ⅲ軍団が到着するまで義勇兵達は耐え抜き、両軍団はネイの軍団を打ち破ってベルリンへの接近を阻止しました。デンネヴィッツの戦いの戦いの日の正午、タウエンツィーンの幕僚の一人が退却して軍団の損害を避けるようにと進言しましたが、その時彼はこう言ったそうです。
「一人の将軍が他の将軍に何かを言った際には、それを疑ってはならない。一歩でも後退するよりも、私は麾下の全部隊と共にここで死ぬことを選ぶ。」

 10月中旬、タウエンツィーンはナポレオンが3万の兵力でベルリンに進撃中であると聞き、ベルリンを守るためにエルベ川を越えて北に撤退しました。これは戦略的な誤りであったため、タウエンツィーンは多くの批判を受けました。なぜなら、タウエンツィーンが10月15~16日の夜の間に急いでベルリンへと向かっている間、ナポレオンは反対の方向であるライプツィヒに軍を集中しているところであったからです。このため、第Ⅳ軍団はこの大会戦に参加することができませんでした。

 1813年12月26日にタウエンツィーンはトルガウ要塞を奪還し、1814年1月12~13日(Wikipedia上では13~14日)の夜にヴィッテンベルクを占領しました。この占領の功績の大半は彼の予備部隊の指揮官であったドープシュッツ中将にあったのですが、ヴィッテンベルクの勝利はタウエンツィーンのものとして賞賛され「von Wittenberg」の称号と紋章それに大鉄十字章を授与されました(この時代に大鉄十字章を授章したのは、ブリュッヒャー、ビューロー、ベルナドット、ヨルク、タウエンツィーンの5人だけ)。ヴィッテンベルクのある通りには当時タウエンツィーンの名前が付けられたものの、今はドープシュッツの名前で知られているそうです。

 タウエンツィーンの軍団はその後マクデブルクを封鎖し、マクデブルクはナポレオンが退位した後の1814年5月24日になってようやく降伏しました。

 またこの頃、タウエンツィーンはデンネヴィッツの勝利の戦功を主張してフォン・ビューロー将軍との間で大きな論争となったそうです。

 『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』P100によれば、タウエンツィーンはこの頃のプロイセン軍保守派の一人であり(他にはクネーゼベック、カルクロイト、クライスト、ヨルクなどがいた)、またタウエンツィーンはビューローから軽視されていると考えていたそうです(デンネヴィッツの戦いの戦功に関する論争がその原因だったのかもしれません)。

 1815年3月23日にタウエンツィーンは第Ⅵ軍団司令官となっており、ワーテルロー戦役に向かいましたが、彼がフランスに入った頃にはワーテルローの戦いは終わっていました。

 戦後は第Ⅲ軍団を指揮し、タウエンツィーンは1824年2月20日にベルリンで亡くなりました。





 感想ですが、調べていて意外に、非常に面白い人だなと思いました(^_^; ナポレオンに投獄されまくったり、辞表を出しまくったり、ブリュッヒャーやビューローとケンカしたり、誉められたりけなされたり。



 今回の資料は、文中にもいくらか示しましたが、↓とOSGの『1806 Coming Storm』です。他にもいくらか参照しましたけど、収穫なしだったりしたので(あと、英文が私にとって分かりにくい資料は今回パスしてます(^_^;)。




Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍指揮官に関する今までのこのブログ上のエントリまとめ

 先日、Shakos『Napoléon 1806』に出てくるフランス軍指揮官の人物像まとめ (2018/08/23)というのを書いていましたが、プロイセン軍指揮官に関してやりたいと思います。個人的にはプロイセン軍指揮官の方がメインです。

 ただ、今までにある程度はプロイセン軍指揮官についてこのブログ上で扱っており、まずはその過去のエントリのまとめを作ってみようと思います。過去のものである程度以上人物像について分かるものは、それで良いということで……。


 順番はゲーム上の戦闘序列の順で。



・フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像 (2015/02/11)
不定詞王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (2015/03/12)
王妃ルイーゼが敗戦8日後にキュストリンで王と再会する (2015/05/20)
1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯 (2015/12/29)
ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか? (2016/01/03)
ウォーゲームを広げたのはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世だった? (2016/02/16)
プロイセンが対仏戦争を決断(1806年8月7日) (2016/03/03)
1806年9月初旬のプロイセン軍配置 (2016/03/17)
1806年のプロイセン軍は腐敗していなかった? (2016/04/05)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は『咲-Saki-』の野依プロであるバキッ!!☆/(x_x) (2016/05/11)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が側室を? (2016/06/04)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と音楽人形 (2016/06/08)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と鉄十字章 (2016/06/11)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の散歩とジョーク (2016/08/05)
「第九」はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に捧げられていた! (2016/09/08)



・ブリュッヒャー
ブリュッヒャーとフリードリヒ大王の喧嘩 (2012/07/28)
『ブリュッヒャーとプロイセン』第1回 (2012/10/08)
『ブリュッヒャーとプロイセン』第2回:スウェーデン軍の兵士となる (2013/03/22)
1815年にブリュッヒャーが選ばれた理由 (2013/07/13)
ブリュッヒャーはなぜ最高司令官になれたのか? など (2014/01/23)
『The Hussar General』をやっと完訳 (2014/03/27)
オラニエ公やブリュッヒャーの容姿について (2014/03/31)
続・シャルンホルスト、ブリュッヒャーと合流 (2015/02/08)
ブリュッヒャーとシャルンホルストは知り合いだった? (2015/02/22)
カルクロイト元帥が降伏しようとする (2015/03/25)
ブリュッヒャー元帥のパイプ (2016/06/01)


・ブラウンシュヴァイク公
『ブリュッヒャーとプロイセン』第3回:1757年のブリュッヒャーとカール (2013/03/23)
ブラウンシュヴァイク魂と新しいブリュッヒャー本 (2014/04/01)
両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公 (2015/01/18)
戦場を脱出するブラウンシュヴァイク公 (2015/01/23)
アウエルシュタットでのシャルンホルスト (2015/01/30)
ブラウンシュヴァイク公(父)の性格 (2015/12/07)
ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか? (2016/01/03)
ブラウンシュヴァイク公(父)の息子達について (2016/02/11)
1806年9月初旬のプロイセン軍配置 (2016/03/17)
ブラウンシュヴァイク公(父)の中年の頃の評判 (2016/04/03)
ブラウンシュヴァイク公(父)がプロイセン王に服従するワケ (2016/05/02)
1805年~1806年にかけてのブラウンシュヴァイク公(父) (2016/05/19)
ブラウンシュヴァイク公が両目を負傷した場所 (2016/06/21)
ブラウンシュヴァイク公(父)が亡くなる (2016/06/25)
ルイーゼ王妃がブラウンシュヴァイク公に頼んだのか? (2016/06/28)



・ホーエンローエ公
『戦争と平和』(AH)のプロイセン軍指揮官達 (2013/06/30)
「プロイセンに付きまとう悪魔」マッセンバッハ (2015/02/08)
ホーエンローエについて、まとめ (2016/03/05)
リュッヘルはイエナ会戦の敗北の責任を負うべきなのか? (2016/03/10)



・カルクロイト
1815年にブリュッヒャーが選ばれた理由 (2013/07/13)
カルクロイト元帥が降伏しようとする (2015/03/25)



・ルイ・フェルディナント
プロイセン王妃ルイーゼの自費出版本を発見 (2012/09/16)
ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか? (2016/01/03)



・リュッヘル
リュッヘルはイエナ会戦の敗北の責任を負うべきなのか? (2016/03/10)



・タウエンツィーン
カルクロイト元帥が降伏しようとする (2015/03/25)



・ヴァイマル公
ヴァイマール公とは? (2015/02/11)
イエナ会戦前後のヴァイマール公の動き (2015/02/15)
ヴァイマール公妃ルイーゼの勇気 (2015/02/20)
『コンサイス外国人名事典』で諸公を調べてみました (2016/03/02)



・ヴュルテンベルク
(特になし)




 ……とりあえず、ルイ・フェルディナント、タウエンツィーン、ヴュルテンベルクについては新たに調べないといけないかと思います。リュッヘルとカルクロイトについても一応はまとめた方がいいのかも……。

 ブリュッヒャーは資料が多すぎてまとめられません(^_^;






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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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