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ナポレオン時代、オーストリア軍のカール大公の軍事指揮官としての評価

 『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の人物評のところだけつまみ食いしているのですが、カール大公のところまで来ましたので、今までに集積していた資料と共に、カール大公の軍事指揮官としての評価について。


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 ↑カール大公(Wikipediaから)。



 今回、日本語版Wikipedia「カール・フォン・エスターライヒ=テシェン」も見てみたのですが、非常に興味深い記述で、しかも結構まとまったものでした。英語版Wikipediaも見てみましたが、日本語版Wikipediaとほぼ同じ内容(というか、英語版Wikipediaから和訳されたのでしょうけども)でした。

カールは将帥としてはナポレオンに一歩及ばなかった観はあるものの、当時のヨーロッパにおける有能な軍人の一人として評価されている。またクラウゼヴィッツ、ジョミニらと並び、当時を代表する軍事思想家としても知られており、多くの著作を残している。系統的には前世代の古い思想の影響を受けているが、その影響を脱しつつある側面もあり、古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在と位置づけられている。アメリカのマハンの海軍戦略思想に影響を与えたのは、クラウゼヴィッツよりもジョミニやカール大公の方であった。

カール大公の戦略論では慎重であることを重大事として説いており、万難を排して守備に努める傾向は、受けて来た教育による偏向とも言えるが、彼は然るべき状況が来たと見てとれるまでは実行に移さなかった。それと同時に、極めて攻撃的な戦略を練って実現することも可能であり、用兵の戦術的スキル(例えばヴュルツブルクやチューリッヒで見せたような広い範囲での反攻作戦やアスペルン・エスリンクやワグラムにおける大軍の指揮)は、確実に彼が生きた時代の上位の指揮官たちに引けを取ることはない。1796年の戦役は申し分のない出来と見なされる。1809年に敗北を喫した要因の一部はフランスとその同盟軍の圧倒的な兵力の優位性であり、また一部は新たに再組織されたばかりのオーストリア軍の状態による。しかし一方で、彼がアスペルン・エスリンクの戦いの後、6週間も不活発でいたことは批判の的となってきた[10]。

軍事理論家としてのカールは、兵法の進化の過程の中で重要な存在と位置づけられており、その教えの重みは当然のごとく大きい。しかしその教義は、1806年時点においてさえ古風であると見なされていた。慎重さと「戦略拠点」の重要性は彼の学説において主眼を置かれている。彼の地理的戦略の堅実さは「原則から決して離れない」という規範意識からくるものだろう。彼は軍が完全に安全な状況に置かれているならば危険を冒すことはないと繰り返し助言しているが、このルールを無視して1796年の戦役では輝かしい戦果を挙げている[11]。「戦略拠点はその者の国の運命を決するもので、将帥は常に主に神経を配らねばならない」と彼は(敵軍を打ち負かすことよりも)重視して述べている。カール大公の著作の編集者たちは良い仕事をしているが、クラウゼヴィッツの「カール大公は敵の殲滅よりも保全に価値を置いている」との非難に対して説得力のある抗弁ができていない。戦術に関する著作においてもこの精神は顕著に見える。彼にとって予備兵の存在は「退却を援護する」ものとして意図されている[12]。

【……】

カール大公の理論と実践は、軍事史の中で最も不思議なコントラストを描いている。時には非現実的、時には勇壮、卓越したスキルと鮮やかな動きでもってして、彼は長きにわたってナポレオンの最も強固な対抗者となった[14]。


「クラウゼヴィッツの「カール大公は敵の殲滅よりも保全に価値を置いている」との非難に対して説得力のある抗弁ができていない。」の件ですが、クラウゼヴィッツによる批判は、この部分でしょうか。

『1799年のイタリア及びスイス戦役』の冒頭では、オーストリアのカルル大公が、ジュールダン将軍の率いるはるかに劣勢のフランス軍を撃滅しそこなった理由について、クラウゼヴィッツは次のように書いている。

 第一に、彼には積極性と勝利意欲が欠けている。第二に、通常健全な判断力をもっている彼も、こと戦略に関してはまったく考え方が間違っている。戦争においては、全てを敵の勢力の殲滅につぎ込まなければならないが、それには司令官がはっきりそのことを自覚している必要がある。ところがカルル大公は、然るべき場所から敵を追い払うことしか考えなかった。彼はある場所なり地域なりを占領しさえすれば勝ったと思ったようだが、これは敵の勢力を萎えさせ、味方を勝利に導く一手段にすぎない。彼が勝ったと思い込んだ何度かの会戦で、敵は大した数の捕虜も取られず、砲も失わずにすんでいる。カルル公は敵の死傷者の数の記録さえ取っていない(原註 これより数年前に書かれた「戦争論」第6篇第16章では、クラウゼヴィッツはカルル大公を「立派な歴史家、評論家であるばかりでなく、優れた司令官」と褒めている)。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P495~6


 しかし、『歴史群像』103号では軍事理論家としてのカール大公の記事が載っており、そこに書かれている「カール大公が自軍の保全の方により重きを置いている理由」は、私には結構納得できるものがありました。

 カールからすれば、劣勢兵力で優勢な敵に国家の浮沈を賭けて挑むのは、あらゆる原則から逸脱した「絶望の会戦」であった。そこでカールは、戦術的勝利によってもたらされる軍事的栄光よりも、無益に兵を損じないことを追及した。
 従来、カールの用兵思想の鍵とされてきたのは、「戦略要点(Strategische Punkte)」の概念である。「その占有が作戦に決定的な有利をもたらすとき、この地点を戦略要点という。決定的とは、その地点の占有が後方背後連絡(Communication)の安全につながるという意味である」とカールは定義している。カールの論じた戦略論は、この戦略要点と後方背後連絡を主題に展開されている。
 ナポレオンは後方背後連絡を危険にさらそうとも、猛烈な機動を行い、短期決戦を敵に強要しようとした。もし、敵が決戦に応じなければ、ナポレオンの軍隊は後方背後連絡の不備から衰弱していく。ここに目をつけたカールは、要点での持久によって、敵が継戦能力を失うまで我慢強く抵抗し、相手の疲弊を待ったのである。
 カールにはナポレオンのように損耗した兵力を容易く補充出来る徴兵制という魔法の杖はなく、一度損耗すれば、兵力の回復は絶望的だった。そうしたハンデの下で敵と戦い続け手にした勝利であった。
『歴史群像』103号P163


 カール大公とオーストリア軍を賞賛した記述にはこんなのもありました。

 一方で、オーストリア軍の兵士たちが見せた堅固な軍事的資質と総司令官の才能にも経緯を払う必要があろう。カール大公は、ナポレオンがこれまで渡り合ってきた敵のなかでも最も厄介な人物だった。カールが再建してくれたおかげで、オーストリア軍は彼自身が指揮権を預けられた1805年12月の時点よりもはるかに優れた軍隊に成長していた。しかもすべての階級の者たちが闘志にあふれていた。ナポレオンをアスペルンとエスリンクで打ち負かしたことだけでもカールの才能は評価できるが、ヴァグラムでさえも、彼は皇帝が欲していた完全なる勝利をつかませなかったのである。フランス軍は有利な和平さえ結べただけでも幸せだった。
『ナポレオン戦争 第四巻』P102




 一方、カール大公の性格上の欠点(限界)であるとか、あるいはオーストリアという国家や人材、皇帝(兄)の欠点(限界)込みの記述を挙げていきますと……。

 カール大公は外見的に印象の薄い、痩身であごの小さい(性格の弱そうな)人物で、身長はかろうじて5フィート【1.524m】しかなかった。
 【……】
 彼は自軍、ひいてはハプスブルク帝国を少しでも危険にさらすかもしれないことには用心深くなり、気が進まないたちであった。彼が書いた戦術に関する論説には彼の伝統的な、18世紀的なものの見方が反映されている。すなわち彼は、敵を撃破することよりも、機動であるとか、拠点を占領するとか、連絡線を守るということにより傾きがちであった。
 【……】
 カール大公はいろいろな面で感じの良い人物であったが、融通がきかず、物事がうまくいかなくなると他の者達を非難する傾向があった。
 【……】
 だがこの感受性の強さはまた、彼を悲観論に陥らせがちであり、ことに挫折の後ではそうであった。敗北はカール大公の神経を揺さぶり、鉄の意志で戦い続けるよりも、和平を結ぶことを進言させたのであった。
 彼は戦場において、そして危機的状況において本領を発揮した。彼は戦場の重要な地点にすぐさま駆けつけることができたし、彼の戦歴を通じて彼は、苦境を救い状況を好転させようと戦いの真っ只中に身を置いていたのである。彼がアスペルン・エスリンクでそうであったことは最も良く知られているが、Stockachとワグラムにおいても非常にそうであった。この彼の指揮の様子を見た兵士達は奮い立った。見た目に勇敢そうでないということは決して彼の欠点ではなかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P172,3

 人格・性行上の疵がなかったわけではない。1809年、ワグラムの会戦で敗北した後、二度とカールが野戦軍総司令官の職に呼び戻されることがなかったのも、多くの将軍がカールの下で戦うことを望まなかったためである。
 カールは心身のバランスを崩しやすく、たやすく精神の耗弱に陥った。そうした内気と気分の変調に加え、父が先代皇帝、兄が当代の皇帝という高貴な身分にあることもあって、他者から批判されることに弱いという性格上の弱点を持っていた。そのためカールは、率直に苦言を呈する人材を側近に配することが出来なかった。彼が取り巻きに集めたのは、オポチュニストや陰謀家、立身出世主義者といった信頼出来ない人間たちであった。彼らは、カールが自らの敗戦の責任を部下の将軍たちに転嫁しようとしても、忠告して止めさせようとはしなかった。
 カールは、1801年から05年までは軍事参議院議長、さらには陸軍大臣兼海軍大臣として、1806年から09年までは大元帥(Generalissimus)として、オーストリア軍の改革を進める責任者の地位に就いているが、改革の大半は機構弄りに終始し、見るべき具体的な実績をあげ得ていない。その理由の一端には、徴兵制の導入といった抜本的な改革の実現によって既成の社会秩序が崩壊することを怖れたカールの保守性や、ナポレオンとの戦争再開を準備不足から先延ばしにしたいと希望していた彼の無意識の避戦努力の影響もある。
 だが、より大きな原因として、質の悪いカールの側近とフランツの側近がそれぞれ暗躍し、その結果、喫緊の軍制改革が停滞したことは、指摘せざるを得ないのである。
『歴史群像』103号P161

 一方で、指導力を備えた参謀システムを充実させようとするカール大公の試みはうまくいかなかった。参謀たちは、紙の上ではいとも巧みに兵力を動かしたり維持したりすることができたのであるが、ここでもまた実戦経験の豊富な将校たちが不足していたのだ。作戦本部と前線の間をつなぐ通信システムにしても明らかに劣っていた。頼るべき上級指揮官に関しても、カール大公は頭を抱えていた。彼には帝国宮内法院に指令を出す権限が与えられていたが、無能で敵対している将軍たちを解雇する権力は備わっていなかった。このような大権はいまだに兄フランツ皇帝がしっかりと握っていたのである。このため、宿敵ともいうべきヒラーだとか、役に立たないルートヴィッヒ、ヨハン、フェルディナントといった兄弟たちを用いなければならなかったのだ。身内びいきは帝国の指令構造のすべてに広く行きわたっていた。カールらに次ぐ高位軍人たちのなかでは、自分自身の功績によって登りつめてきたのはラデツキーぐらいのものだった。ヴァンファン、グリュン、クレーナウ、ローゼンブルクといった一族の者たちは、軍人としての才能などこれっぽっちもなかったのに、みな高位高官になりおおせていた。
 それではカール大公自身はどうだったのか? ストレスがたまるとてんかん性の発作にかかりやすいというハンディーキャップを背負いながら、彼はナポレオンよりも若年で上級指揮官に登りつめていた。初めて軍隊の指揮を執ったのは25歳のときである。そこら辺の二流のフランスの将軍が相手ならば、カールもかなりの実績を上げることができていたが、いかんせんナポレオンに対しては歯が立たなかった。ふたりの将軍は、第一次対仏大同盟戦争の終わりの時期、1797年に対戦したことがあったが、カールが決定的な敗北を喫してしまっていた。とはいえ、オーストリア軍においてはカールが最も有能な軍人であることには間違いがなかった。彼は、同時代人たちに比べても、古くさい18世紀的な形式主義から感化されることがほとんどなかった。しかし、彼自身が受けた軍事教育の最後の最後の痕跡までは捨て去ることができなかったが。たとえば、彼は自身が「地理的な地点」と呼んでいる重大な地勢にこだわる固定観念をもち続けており、時としてこれが敵軍の粉砕という目的から逸脱してしまうような状況を生みだしていた。
『ナポレオン戦争 第四巻』P19,20

 【アーベンスベルク会戦の1809年4月】20日のオーストリアの軍司令官の挙動はまったく不可解で、この日彼はてんかん性の発作に見舞われて行動できなかったのではないかと言われているほどであった。21日もまた目的に向かって行動できなかったと言ってよい。
『ナポレオンとバイエルン』P210

 「積極的に、積極的に、速く」とナポレオンはあの日のマッセナ元帥宛の命令に書いた。これは軍が多分に持っている特性であるが、これを動かし、導くことが必要で、それをナポレオンは誰よりもよく知っていた。カール大公はこのような呼びかけをほとんど利用しなかった。というのは単にそれに必要な性格を持ち合わせていなかっただけでなく、また彼の個人的な能力が彼の軍の欠点を補うのにあまり適していなかったからである。従って彼が最後の瞬間までそもそも戦争にならないようにしつこく警告していたことは賞賛に値する。最初から彼は敗戦が避けられないという萎えた印象の下で行動していたように思われる。さらに健康上の問題がそれに加わった。いずれにせよ彼が優位に立っているときでもまた危機に瀕しているときでも彼が最初の二つの同盟戦争で得た名声を正当化するものでなかったことは疑いない。1809年のバイエルンにおける戦争ほど二人の司令官の間でさまさまな状況において行われた戦いで結果の差がこれほどはっきりと速く出た出兵も珍しいし、その結果が一方的であったのも珍しい。この戦役におけるカール大公よりも1805年のマックの方にもっと素晴らしい戦績が認められるとするのはまったく正当である。この司令官が同じ軍隊を指揮すれば少し後のアスペルンとヴァグラムでナポレオンを非常に困らせたはずだということに異議が出るかもしれない。実際ナポレオンはバイエルンで得た経験から彼の敵の持つ防御能力の高さに非常に驚いた。しかしここでもバイエルンの出兵における状況に決定的な違いがある。組織的な戦闘が防禦として行われるときには、オーストリア軍とその司令官の弱点は移動する戦闘や分散した戦闘の場合ほど影響が現れない。その代わりに彼らの安定性とたとえ受け身であっても疑いもなく高度に持っている勇敢さとが効果を発揮する。そういうことでアスペルンでは役回りが入れ違っていて、引き分けどころか守備側の勝利だったかもしれなかったことを見逃してはならない。
『ナポレオンとバイエルン』P213

 宮廷が求めていたのは命じられた戦争を素直に遂行する軍人であって、政治に対して発言をする軍人ではなかった。しかしカールには、兄皇帝フランツや彼の側近が軍の人的資源の実態を把握せずに、軍事の能力を超えた遠大な目標の達成を軍人たちに要求しているように見えた。軍事力に見合った外交政策を行うには、軍事に明るい人材を配分すべきであり、戦略計画や作戦遂行に宮廷筋が無用の干渉をするのを慎むようカールは要求した。そして、これこそ宮廷が最も忌む「政治に口を挟む軍人」の行為であった。フランツはカールに複数の高級軍人を貼りつけ、彼の動静をスパイするよう命じている。
『歴史群像』103号P159~160



 カール大公は自分自身だけでなく、外部要因で様々な足かせをはめられて戦っており、ワグラム会戦で敗戦した後はまだ30代後半で公職から引退してしまったのも、本人の心の健康のためにはやむを得なかったのだろうなぁという印象を受けます(^_^;

 1813年戦役以後のオーストリアを、シュヴァルツェンベルクという非常に忍耐強い指揮官が担ってくれたのは大変有難かったでしょうねぇ……。


 ↓こちらもどうぞ。 

シュヴァルツェンベルク将軍について (2016/12/31)



 ↓今回の参考文献です。




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ウェリントン公爵の人となり その2(軍事指揮や性格など)

 以前から読んで紹介していた『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』なんですが、この本だけをネタ本にしてエントリを書いていると著作権的な問題がしんどいので、他の本なんかも参照しながら紹介していこうと思います。


 今回はウェリントン公爵について。ウェリントンについては以前、↓で一度、人となりについて書いてました。

ウェリントン公の人となり (2016/12/28)




Arthur Duke of Wellington

 ↑1814年のウェリントンの肖像画(Wikipediaから)




 まずは、以前、情報を集積していた『イギリス摂政時代の肖像』から。





 ……若い副官としてアイルランド総督の随員であったときでさえ、まれに見る有望な人物であることを示したし、やがて指揮官の地位に就くと、綿密さと鋭い判断力を備えた彼の才能が明らかになってきた。……若い中佐は、糧食が乏しく装備も乏しい混乱した部隊の秩序を立て直す天才であり、彼の軍勢の戦闘能力の程度を正確に評価できる特別な才能もあった。
 彼はあるとき友人のジョン・クローカーに語った。「師団を編成し軍隊を動かす行動に入る前に、指揮官は個々の将兵の技量と活力を、次に中隊の、その次に大隊の、その次に旅団その他の軍団の技量と活力を理解しておかなければならない。私の成功の大部分は、連隊付将校として作戦の良くなかった部分につねに注意を注いできたおかげだと思っている。この問題を私以上に詳しくよく精通している人はわが陸軍にほとんどいない。これがすべての軍事的知識の基礎である。
 ……何十万頭の雄牛と現地人随行者と将兵専門の娼婦などの大群を引き連れた軍隊を、いかにうまく移動させるかが成功のカギだった。他の指揮官は膨大な数の動物と人間の群れを1時間に5マイルの速度で移動させるのは困難だった。ウェリントンはその3倍近い速度でなんとか動かせたし、それよりも速く動かしたこともあった。さらに厳しい天候と険しい地形のため通常は驚くほど多くの命が失われたのだが、彼はそのような被害もなく目的地に到着することができた。それゆえ到着した軍隊は効果的に戦う準備ができていた。
 彼の指導力には別の側面もあった。いかに騒然とした状況に直面しても、彼は異常なほど沈着だった。激しい砲撃音が雷鳴のようにとどろき、硝煙とほこりが視界をさえぎり、混乱が広がった戦闘のさなかにあっても、彼は分別を失わず、自らの立場を査定することができ、賢明な決断を下すことができた。戦闘が彼を変えたとある副官は書いた。彼は「鷲のように」なって、全員を鼓舞しつづけたので、部隊は不思議なほど勇敢になり、不死身のように見えた。……
 インドで見せた彼の際立った才能は対仏戦争で彼を成功に導いた。彼は食料と武器の供給状況について詳細に把握し、部下の将兵の正確な実力を気味悪いほどよく理解し、多勢の敵軍に対峙した際にも自軍をみごとに配置につかせた。加えて、氷のような冷静さと堂々とした勇気をもっていた。

『イギリス摂政時代の肖像』P173,4

 1815年では彼はまだかなり若く45歳であり、壮健でエネルギーに満ち、青い眼は澄み切り短く刈り込んだ褐色の髪にはまだ白髪はなかった。古代ローマ人のような横顔と細身、筋肉質の身体、節制の習慣と堅実な独立独行の雰囲気をもち、あらゆる点で彼は古典的な英雄に見えた。ただ、大声で笑うのは彼の古典的なイメージを壊した。また彼は自分自身を茶化して楽しむ傾向もあった(彼を称える崇拝者たちがぎっしり詰めかけたなかを通り抜けたとき、彼は仲間の一人に「偉人になるのはすばらしいことだ、そうではないかね?」と述べた)。
 公爵のぶっきらぼうなしゃべり方は当時語り草になったが、彼の演説の簡潔さと正確さ - 美文調が流行した時代には控え目すぎるように思われたが - は、彼が成し遂げたまことに顕著な社会的業績の評価を低めるものではない。青年時代の彼はハンサムで魅力的なきわめて女性にもてた男であり、彼はこの特徴を中年まで保持していた。……
 これらすべてを考慮すれば、名誉や自身の容姿に対する公爵の無頓着さはますます驚くべきことであった。彼は飾り気のない、素直で人を安心させるような単純な人だった。彼に尊大さがまったく見られなかったことは、自己のすばらしさを見せつけ誇示した時代にあって異色であった。彼は摂政【後のジョージ4世】の気取った愛顧をまったく受けつけず、実際、摂政のなだめるような愛想のよさにうんざりしていた。彼はそれよりはるかに価値のあるものをもっていた。ウェリントンは同時代の他の卓越したイギリス人の誰よりも、イギリス人同胞に特有の大胆さと沈着冷静さをもっていた。彼は自身がこうした特性の持ち主であっただけでなく、他の人々にそれを吹き込んだ。彼は配下の将兵に不屈の精神を植えつけた。将兵たちはそれゆえ彼のことが好きで彼を「大鼻の翁」と呼び、もし彼から言われたなら、彼のために死ぬまで戦うと誓っていた。彼の簡素な服装 - 彼は古い青のフロックコートを着るのが好きで、優雅に仕立てられた制服は軽蔑していた - とときどき発するしゃがれ声の叱声は、他の指揮官たちのこれ見よがしの残酷な懲罰よりもずっと効果的だった。
『イギリス摂政時代の肖像』P176,7

 公爵の戦場における英雄的奮戦と、幸運にも彼が負傷を免れたことは皆の口の端にのぼった。一人の兵士がウェリントンの乗馬コペンハーゲンの頭を向き変えているときに殺されたが、コペンハーゲンもその乗り手も無傷だった。他の将校がウェリントンの膝の上に腕を休ませていたとき、弾が命中しその腕を切断してしまったが、弾は公爵からそれでいたので彼は救われた。明らかに彼がこれほど命を護られていたからこそ、麾下の将兵たちは彼の激励と勧告にしたがってこの日を切り抜けることができたのである。
 彼は戦闘の中枢にいて騎乗してあちこち動き回り、将兵と銃砲のすべてに注意を払っていたようだった。補強が必要なときには、配下の軍勢が不足していても、なんとか派遣要員を見つけだした。いつも冷静で無理を言わない彼が姿を見せることで将兵を安心させ、彼の重大な仕事をつづけさせることができた。彼は求められればどこにも現れ、逃げ腰のブラウンシュヴァイク兵を再び集結させ、騎兵を適切な配置に誘導し、大砲の配置すべき場所を指示した。またあるときは、熱心な射手がちょうど射程内にいたボナパルトをねらい打ちしようとしたのを思いとどまらせるという、みごとな騎士道精神を見せた。戦後かなり後になって兵士たちは彼の声を回想した。歩兵に対し「並みいるわが若者たちよ」、騎兵に対し「さあわが紳士たちよ」という彼の呼びかけは、兵士たちが忍耐の限界近くになっていたときでも、新たな攻撃作戦に乗りだそうという気持ちにさせたのだった。
 戦後、名誉は公爵に対し雨あられのように寄せられた。ネーデルラント王ウィレム1世は彼をワーテルロー公爵に任じた。
『イギリス摂政時代の肖像』P193





 次に『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』ですが、まずは『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話 (2020/01/18) に書いていた件を再度。

 しかし最も重要なのは、落ち着いた二言三言で部下達を安心させることや、あるいは重要な場所に自分自身がいるようにするということだった。
「アーサー【ウェリントン公爵のこと】の奴は、売春婦のとこかよ?」
 イギリス兵の一人が、不安そうにウェリントンの姿を探しながら聞いた。
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xxi

 「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」ですが、1811年のアルブエラの戦いの時にウェリントンは戦場に間に合わずにベレスフォードが指揮してまして、ウェリントンは会戦の5日後にようやく到着して自分が間に合わなかったことを悔やんだそうで、そのアルブエラの会戦の最中のある兵士の言葉です(『Wellington: A Journey Through My Family』から)。
 より詳しく書けば、Cooperという兵士の回想で、
「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」
「さあな。俺は彼の姿を見てないよ」(Cooper)
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」
 で、Cooperは『私もそう思った』と書いているようです(文献によっては、その時に「俺もそう思う」とCooperは言った、と書いてありますが)。
 ウェリントン公爵は敬愛というよりは畏敬されていたそうですが、彼がいれば負けないという信頼をも得ていたそうですし、彼は戦場を縦横無尽に駆け巡り、重要な地点に自ら姿を現して自ら大隊レベルの指揮を執るというスタイルだったので、兵士達はウェリントンの姿を実際に見ることが多く、このような会話になったのかなぁと推察します。



 次に、同書のウェリントンの人物に関する項のところから。主に軍事指揮に関してを抜粋しました。

 ウェリントン公爵は、小規模な戦術レベルから長期の戦略レベルまでのすべての戦争レベルに関して優れた能力を持った、傑出した指揮官であった。
 【……】
 ウェリントンは革新的なことをやったわけではなく、既に存在してい手法や手段を用いて、まったくの個人の力でそれに無類の効果を発揮せしめたのであった。
 【……】
 ウェリントンの主力は歩兵であった。彼は1811年まで、騎兵をほとんど麾下に持ったことがなく、騎兵の力量や規律に信頼を置いていなかったが、実際には騎兵達はほとんどの場合彼の麾下で良く働いていたし、サラマンカとワーテルローでは重要な役割を果たした。同様に、彼は砲兵も初期にはほとんど持っていなかったのでそれらを歩兵のサポートとしてのみ使用し、ナポレオンのように砲兵を集中させて強力な攻撃用兵器として用いることはなかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P115

 ウェリントンの最も有名な戦術は、イギリス軍大隊を尾根の背後に隠し、フランス軍歩兵縦隊の攻撃の最後の瞬間に、射撃戦のための横隊になるいとまを与えずに急激な猛射を与えるというものであった。イギリス軍の横隊が至近距離で一斉射撃か、あるいは第二射までを与えると、銃剣突撃でフランス軍を敗走させるのであった。
 【……】
 彼は「戦いの最も重要な秘訣は予備を保持することだ」と考えていたし、彼は巧みに平穏な戦区から部隊を引き抜き、攻撃をかける地点に局所的な数的優勢を作り出した。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P116

 それゆえウェリントンは戦略的にも戦術的にも高度な柔軟性を持っており、奇襲し、機動することができた。彼のもう一つの特質は機会主義であり、計画を慎重に練りつつも、極めて実際的に、迅速に、予期していなかった戦果を拡張するのであった。
 【……】
 さらに、ウェリントンは敵軍に関する情報にも大きな関心を注いでおり、多くの場合、敵側が彼の軍について知っている程度よりも、彼が敵軍について知っていることの程度の方が大きかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P117

 ウェリントンの成功に秘密があるとすればそれは、彼が常に細部にまで自ら注意を払いつつも、大局的な見方をも失わなかったことである。彼は1811年に、信頼できない部下達について自分の見方をこのように要約している。
「私はすべての場所を見なければならなかったがそれは、私がいないと常に何かがまずいことになるからであった。【……】」

 それゆえ、彼は体調を維持し、自信を持って、断固として行動する必要があった。ある将校は述べている。
「【……】彼の戦場における命令はすべて、簡潔で迅速で明瞭で、要点を得たものであった。」
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P118


 最後の、「信頼できない部下達」についてですが、イギリスは当時売官制で、しかもウェリントンの配下を本国の人間が決めるようなシステムであったために能力が低く、ウェリントンとの信頼関係も関係なく配属されるという状況で……(T_T) 『ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者』にはこのような記述があります。



 そこで、ウェリントンはしかたなくこう記している。「この軍にいる将官数名の性格や能力を考えると、震えがくる」。
 【……】特に旅団以上の軍勢を指揮する場合、彼らの力量というのがまさにウェリントンの悩みの種だった。彼らはみな勇敢ではあった。しかし、一番欠けていたのは「戦闘時に冷静かつ鋭敏な判断を下すこと」であり、「巧みに命令を伝達し、気力と決断力をもって行動すること。それによって、兵士たちは上官を信頼するようになり、戦闘時に速やかに従うようになる」という点では能力不足だった。こうした資質の欠如により、ややましな指揮官のことでさえ、ウェリントンはこう記さずにはいられなかった。「彼らは私が現場で指揮を執っているときはまさに英雄だが、私が場を離れたとたんに子供のようになってしまう」。
 『ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者』P5,6




 また今回、Wikipediaを見てみたところ、結構面白いことが色々書いてありました。まずは日本語版Wikipediaから。

補給線を伸ばしすぎないように後退して防備を固め、守備戦で敵を撃退することが多かった将軍である。「偉大な将軍の資質は、後退が必要な時にその事実を認めて実行する勇気があることだ」と語った[68]。

ウェリントン公爵はナポレオンと違い、自らの戦勝や功績を大げさに語ることがなかった。ワーテルローの戦いの勝因も「ナポレオンが戦術らしい戦術を使わなかった。フランス軍が従来通り縦隊で進軍してきて従来通り撃退されただけ。それでも苦しい戦いだった。あと少しで負けるところだった」と謙虚な説明をしていた[204]。年老いたウェリントン公爵がハイド・パークを歩行中、身体を支えてくれた通りすがりの人にお礼を述べた際、その通行人は「この世で最も偉大な人物に手を差し伸べられる日が来るとは思いませんでしたよ」と述べたが、それに対してウェリントン公爵は「馬鹿げたことを言いなさんな」と答えたという[205]。

常にイギリス紳士たる自覚を持ち、敗者に対しても寛容であった[206]。その精神はインドの征服地や敗戦国フランスに対しても発揮された。ウェリントン公爵は「戦争が終結したら全ての敵意を忘れねばならない。敵を許さなければ戦争は永遠に続く。大英帝国の政策が些細な悪感情に影響されることがあってはならない」と語っている[207]。

しばしば略奪を働く隷下の兵士たちを「酒を飲むために応募した人間の屑」と呼ぶことがあった[208]。一方彼らの勇敢さはウェリントン公爵も認めるところであり、「粗暴だが勇敢で任務に忠実な兵士たちは、軍事的教養以外にも大事なものを持っている紳士たちに指揮されることによって戦場で大きな力を発揮する」と主張していた[209]。

ただウェリントン公爵の隷下の指揮官たちは軍事教育をほとんど受けておらず、ウェリントンも彼らの能力をあまり高く評価していなかった[210]。そのためワーテルローの戦いにおいても、彼自身が旅団・大隊ランクにまで直に命令を発していた[211]。

戦場ではあまり派手な軍服は着たがらず、全体的に控えめな格好をしていることが多かった[212]。

ナポレオン戦争後の後半生は政界での活動が多くなったが、ウェリントン公爵自身は軍務の方を愛しており、政治家や民間人と付き合うのは好きではなかったという[213]。




 最後に英語版Wikipediaからですが、すごい面白いです(^_^;。

ウェリントンはいつも早起きだった。軍が行軍中でなくても、彼は「目を覚ました状態でベッドに横になったままでいるのが耐えられない」のだった。[218] 1815年以降は民間人に戻ったにもかかわらず、快適さを求める感覚の欠如ゆえ、折りたたみ式ベッドで寝ていたという(現在それはウォルマー城に展示されている)。[219] ミゲル・デ・アラバ将軍は、ウェリントンがしばしば軍は「夜明けに」行軍を開始し、「冷たい肉」を夕食にすると言っていたので、この二つの言葉が怖くなり始めたと不満を漏らしていた。[220] 戦役中彼は、朝食から夕食までの間に何かを食べることはめったになかった。1811年にポルトガルへと撤退する際、彼は「冷たい肉とパン」を常食とし、共に夕食をとる将校達を絶望させた。[221] 尤も、彼が飲んだり人に注いだりするワインは高級なことで知られており、夕食時にはたびたび一瓶を空にした(ただし彼の時代の基準からすれば大した量ではない)。[222]

人前で感情を表すことはほとんどなく、自分よりも能力や出身階級の劣る人(つまりはほとんど全員だが)を見下しているように見えることが多かった。だが、アラバ将軍がサラマンカの戦いの直前にある出来事を目撃している。ウェリントンは小型望遠鏡を通してフランス軍の動きを観察しながら鶏のもも肉を食べていた。フランス軍の左翼が延びきっているの見て彼は、そこへの攻撃が成功するだろうことに気付いた。彼は鳥の骨を空中に放り投げ、フランス語で「フランス軍敗れたり!」と叫んだという。[223] またトゥールーズの戦いの後、側近がナポレオン退位の知らせを伝えると、ウェリントンは即興でフラメンコダンスを始め、くるくる回りながら指を鳴らした。[224]

軍事歴史家のチャールズ・ダルトンはこう書いている。スペインである激戦の後、若い将校が「私は今夜ウェリントンと食事をすることになっています」と発言したが、それが公爵が馬で通り過ぎる際に耳に入った。ウェリントンは言った。「少なくとも私の名前の前にミスターという言葉を付けて欲しい。」 「閣下」 士官は答えた。「私たちはミスター・シーザーやミスター・アレクサンダーとは言わないのに、どうしてミスター・ウェリントンと言う必要があるでしょうか?」[225]

彼の厳格な表情と過酷な規律は有名だった。彼は「私見の表明に過ぎない」として兵士の歓呼に不賛成であったと言われている。[226] だがウェリントンは兵士達を大事にしていた。彼はポルトの戦いとサラマンカの戦いの後でフランス軍を追撃することを拒否したが、それは、減少した敵を追撃するのに起伏の多い地形を通らねばならず、自軍への損害が避けられないことを予見していたからである。彼が公の場で悲しみを示したのはダバホスの戦いの後だけだった。彼は突破口で死んだイギリス人を見て泣き叫んだのである。[120] この文脈において、ヴィトリアの戦いの後に兵士達を「屑のような連中」と呼んだ彼の有名な文書は、彼らが規律を乱したことへの失望や、怒りによって感情が煽られたのだろうと見ることもできる。彼はワーテルローの戦いが終わった夜に主治医の前で、後には自分の家族に、悲しみを率直に表現した。勝利の祝いを受けたくなかったので、彼は涙を流して泣き崩れ、彼の闘志もまたこの戦いの大きな損失と大きな個人的損失によって衰えたのである。[227]


 ダバホスの戦いの後の件は、『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』に載っていました。




 バダホスの戦いは、ウェリントンの戦闘の多くがそうであったように、僅差の競り合いだった。まさに激戦で犠牲も大きく、ウェリントンは戦闘の翌朝、おびただしい戦死者を目の当たりにして涙を流した。ウェリントンが攻撃停止命令を発しようとしたときに突破口を開いて功名をあげた第3師団のサー・トーマス・ピクトンは、バダホス占領の祝いを述べようとして、総司令官が歯を食いしばって涙を堪えているのに気がつき、驚いた。ウェリントンは、政府が工兵隊と地雷工兵隊を送ってくれれば、敵の防御施設をもっと効率的に打ち破り、勇敢な兵士の任務を易しくすることができたはずだと、感情の昂ぶりのあまり、政府の怠慢を罵り、呪った。
『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』P197




 こうして見てみると、ウェリントンの人となりも非常に興味深いですねぇ……。マンガにしたらかなり面白そうだと思うのですが……(^_^;


フランス軍の騎兵部隊指揮官ラサール将軍について

 『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』から、ラサール将軍について簡単に。





 ラサール将軍はナポレオン麾下の軽騎兵部隊の指揮官で、「30歳まで生き延びた軽騎兵などクズだ」と言ったことで有名らしいです。自身はワグラムの戦いで34歳の時に戦死しました。


Antoine Lasalle


英語版Wikipedia「Antoine Charles Louis de Lasalle」


 まず最初に「ええっ」と思ったのが、彼の母親の話でした。

 1775年5月10日にある貴族の家に生まれたラサールは、北東フランスのメッツの町で育った。迷路のように入り組んだメッツの町の中、地元の子ども達の非行グループで騒ぎを起こしながら彼のリーダーシップの才能は開花していったが、ラサールが成長していく上で最も大きな影響を与えたのは彼の大好きな母親だった。彼女はある時決闘をしたが、その時に使った剣は、彼女の何人もいた恋人のうちの一人から盗んだものだった。ラサールは彼女から、その燃え上がるような気質を受け継いでいたのだった。(P57)





 ラサールについて色々と面白い話はあったのですが、全部省略しまして……(おい)。

 彼はかなり強いそううつ気質(気分が高まったり落ち込んだりを繰り返す)の傾向にあったようで、そこらへん、ブリュッヒャーと同じです(あと、足利尊氏とか)。騎兵指揮官、なかんずく軽騎兵指揮官としては、危険を恐れない気質である必要が非常に強くありますから、強いそう状態であることが非常に有利に働いたのではないかと推察……。ブリュッヒャーも元々軽騎兵指揮官でしたから、そこらへんのことが歴史を作っていく面があるのだろうと思います(私なんかは危険を恐れる傾向が強く、全然そういうのに向かないと思います)。


 個人的に非常に興味深かったのが、↓こういう話が載っていたことです。

 マルモン元帥は、25年に及ぶ革命戦争とナポレオン戦争を振り返ってこう記述している。騎兵の大部隊を扱うすべを身につけていたのは、ケレルマン、モンブリュン、それにラサールの3人のみであった、と(ミュラ元帥はより有名であるが、あまりにも不安定で、馬の扱いについても無頓着過ぎだった)。(P72)


 ほおお……。そうだったのですね。ベシェール元帥なんかも騎兵指揮官ですが、彼の名前も上がっていない……(マルモン元帥によるバイアスがあるのかもですが)。

 ケレルマンやモンブリュンについては『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話 (2020/01/18) に少し話が出てきました。


 ラサールは問題行動も非常に多かったようなのですが(まあ気質的にしょうがない)、彼の能力がかなりレアであった為に、ナポレオンは彼を許していたそうです。


 ラサールは、騎兵突撃中にではなく、騎兵を再結集している最中に、眉間を撃ち抜かれて死にました。彼は、自分が望んでいたよりは少し悪目な、しかしすごく悪くもない死に方をしたと言えるのでしょうか……。

ウジェーヌはどのように有能だったのか?

 ジョセフィーヌの連れ子でナポレオンの養子となったウジェーヌ・ド・ボアルネの『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の項を読みました。


EugeneBeau

 ↑Wikipediaから。



 ↓こちらもどうぞ。

日本語版Wikipedia「ウジェーヌ・ド・ボアルネ」
ウジェーヌへの高い評価、他 (2015/07/11)
『ナポレオンとバイエルン』から、ウジェーヌについて (2018/07/14)
ウジェーヌがエジプト遠征の時に買った女奴隷の話 (2018/07/15)



 読んでいて「ほぉ……」と思ったことを抜粋引用していこうと思います。

 【ナポレオンに初めて会った時】ウジェーヌはまだ14歳に過ぎなかったが、彼が人生におけるモットーとした「高潔と忠誠」という性質をすでに備えていた。(P27)

 【妹のオルタンスの回想によると】兄はまだ若かったのに、【家族の】危機的な状況での決断力と冷静さを見せた。(P28)

 【1799年】ウジェーヌはナポレオンの副官という仕事にうんざりして、通常の軍務へと戻ることを希望した。その願いを聞き入れてナポレオンは、彼を新しく創設された執政親衛隊の猟騎兵中隊(後に大隊)の指揮官に任命した。ナポレオンはまた、親衛隊の副司令官であったジャン=バティスト・ベシェール将軍を、ウジェーヌの個人指導官に任命した。(P29)

 ウジェーヌはマレンゴの戦いで自身の猟騎兵部隊を指揮し、これが彼の最初の実戦における指揮となった。(P30)

 【イタリア副王としてよりも】ウジェーヌは軍人としての栄達を望んでいた。ウジェーヌは1806年のプロイセン戦役や、2年後のスペイン戦役に従軍することを希望したが、イタリア王国副王としての義務の方が重要だとして拒絶されていた。しかし1809年戦役はイタリア半島にも及び、また多くのフランス軍元帥がスペインに貼り付けになっていたため、ナポレオンはウジェーヌを軍務から外しておく余裕がなくなってしまったのだった。
 ウジェーヌはそれまで騎兵大隊より大きい部隊を指揮した経験がなかったが、今やイタリア軍全体の指揮を任され、またナポレオンからの指令が届くには5日程度を要したため、自分自身の判断で、半ば独立して指揮をすることとなった。(P31,32)

 ウジェーヌは3日間、ヨハン大公の優勢な軍勢の前に堅実に後退をおこなっていたが、4月14日にヴェネツィアの北38マイルのサチーレへと追い詰められた。このサチーレの戦い【ウジェーヌが指揮した最初の会戦でもある】は彼の経歴における最大の敗戦となった。ウジェーヌはあまりに手柄を切望しすぎていたし、また、イタリア王国民を侵攻に晒すことを嫌がっていたのだった。(P32)

 翌日【5月8日】ウジェーヌは西方で陽動をおこなった後、ピアーヴェ川を中央と東方で渡って激しく攻撃した。奇襲を受けたオーストリア軍は反撃したが、部隊の大部分は遙か遠くの川岸にいたままだった。ウジェーヌはサチーレでの敗戦を埋め合わせる明確な勝利を得て、ヨハン大公に対する優勢を確立した。ウジェーヌの幕僚【の一人】は書いている。
「殿下は皇帝陛下の子息たるに相応しいことを証明した。私は殿下の動じなさ、冷静沈着さに感心した。殿下に唯一欠点があるとすれば、勇敢過ぎるということだ。」(P33)


 その後ロシア遠征での冷静な指揮ぶりなどで大陸軍の中でも一目置かれる存在となるも、本人は遠征のあまりの悲惨さに心を痛め、軍人としての栄達はいらないと思うようになったとか。

 ナポレオンがロシアからフランスに帰国した後の指揮権はミュラに任されましたが、ミュラも帰国するとベルティエに説得されていやいやながらもウジェーヌが指揮を執ることになり、彼はあらゆることを堅実に、また注意深く処理していったとか……。




 人物評に関してですが、ウジェーヌに他の元帥達のような貪欲さがなく、忠誠心が高めであったことはとりあえず置いておきまして……(それだけでも当時のナポレオン周辺の人物としては希有で、貴重なことですが!)。

 ウジェーヌがどう優秀であったか、という件について。

 彼の実父も将軍としてある程度は名を挙げた人物なのか、軍事大臣になったりしているので元々遺伝的な素質はあったのかもですが、実父が処刑された後、母の愛人となったオッシュ将軍(ナポレオンのライバルであり、ナポレオンも「戦争の達人」と評したとか)に学んだり、ベシェールに学んだり、ナポレオンからも色々教えられていたそうで、またウジェーヌ自身謙虚で良く学んだようです。

 最初の会戦となったサチーレの敗戦からウジェーヌは学び、実直な性格とも相まって、戦場となる場所の地形と、会戦の状況を自分自身で必ず良く見るように心がけ、また戦いの最中は常に重要な地点にいるようにし、兵士達に自分自身の勇敢な姿を見せることで勇気づけたのだそうです。

 マクドナルド元帥などはその回想録の中で、1809年のウジェーヌの指揮の失敗と臆病ぶりを誇張して、自分の方が活躍したのだと思わせようとしているらしいのですが、実際にはウジェーヌの指揮は優れていたのだとか。



 ウジェーヌは派手さはないかと思いますが、性格は誠実で、非常に冷静かつ勇敢、有能であったということで、ナポレオン麾下の将軍の中でもっと知られていい人物なんではないでしょうかね~。

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話

 先日購入した『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の、ある程度の分量がある序論(introduction)を読んでいっているのですが、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話が出てきて、非常に面白いです。





 以下、ちゃんとした和訳でなく、特に面白いと個人的に思った箇所を要約で挙げていきたいと思います。〔〕内は、どこの国の将軍かと、参考サイトです。

 まずは、「アマチュアとプロ」という章から。

 1807年戦役で当初司令官であったブクスホーデン〔露:なぽれぼ〕はアレクサンドル1世によって解任され、年下で反目していたベニグセン〔露:日W〕が司令官になり、ブクスホーデンはベニグセンに決闘を申し込んだ。

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xiv
 ……ブクスホーデンは、アウステルリッツのゲームの盤上で印象深いのですが、1807年戦役の司令官を最初やっていたという印象はありませんでした(^_^;


 「ドラマチックに無能な指揮官」として、若くて性急なオラニエ公〔英蘭:日W〕と、精神的に不安定だったアースキン【1813年に精神錯乱で自殺した】〔英:英W〕(両方ともウェリントン公の部下)が、やたらめったら目立つけども、多くの連合軍の将軍は目立ちはしないけど有能だったんだよ。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xiv

 ……オラニエ公が有能か無能か、という件は以前このブログで色々書いてました。↓

オラニエ公は無能なのか? (2011/05/14)
オラニエ公の評価 (2011/05/22)
オラニエ公周辺の評価 (2011/07/22)
ワーテルローにおけるオラニエ公の命令とオムプテーダ大佐 (2015/10/03)
オラニエ公の評価、再び (2015/11/22)

 今、R/Dさんの「祖国は危機にあり 関連blog」の去年のエントリである「ワーテルローへの道」を読んでいっているのですが、ナポレオンがエルバ島からパリに向かっている途中ですでに、オラニエ公は連合軍がフランスへ侵攻する案をさかんにまわりに呼びかけていて、まわりから「若くて性急で困る」という扱いを受けていたようです(^_^;(尤もその後準備が整ってくると、ウェリントンもグナイゼナウも、フランスへの侵攻を主張し始めたのでしたが)

 アースキンという人物は知りませんでした……(半島戦争に関して良く知らないので)。



 次に、「指揮官のタイプ」という章から。

 ブリュッヒャー〔普:日W〕は兵士達をやる気にさせる才覚がむっちゃあったタイプの指揮官。ベルティエ〔仏:日W〕はスタッフワークに才覚がむっちゃあったタイプ。
 クトゥーゾフ〔露:日W〕は会戦レベルでの戦術よりも、戦役における戦略次元とか、政治的外交的な能力に秀でていた。スールト〔仏:日W〕もそういうタイプで、彼は会戦では奇妙なほど優柔不断だった。シュヴァルツェンベルク〔墺:Biography: シュヴァルツェンベルク元帥〕は複数の国を協力させるという点で、他の指揮官にない能力を持っていた。
 行政官として有能だったタイプの指揮官もいる。ベレスフォード〔英:英W〕は兵士達の胃を満たすことに特に気を配った。
 行政官としての能力は単に兵站の問題だけではない。ダヴー〔仏:日W〕はワルシャワ公国の創設を監督したし、スーシェ〔仏:日W〕は東部スペインのアラゴン地方を、軍事的な手段だけでなく、分離派の感覚を活かして利益を増大させる形で平和な状態にした。
 ムーア〔英:英W〕やシャルンホルスト〔普:日W〕は、部隊を訓練したり、軍事的な教育の手腕で秀でていた。
 複数のカテゴリの能力を持っていたウェリントンやナポレオンのような将軍は非常に例外的な存在であった。ダヴーはそのような能力を持っていたかもしれないが、真に独立した指揮権を持たされたことがなかったため、それを発揮するチャンスがなかった。
 兵科毎の専門性もある。ナンスーティ〔仏:英W〕は重騎兵の、ラサール〔仏:英W〕は軽騎兵の専門家であった。有名な例外はセバスティアニ〔仏:英W〕で、彼は1805年戦役と1812-14年戦役では騎兵を率いたが、半島戦争では歩兵を指揮していた。バルクライ〔露:日W〕やクトゥーゾフも、多種兵科に通じていた。
 砲兵将校であったナポレオンは砲兵を重視する傾向にあった。逆にウェリントンは歩兵を重視し、重要な地点に現れて(軍司令官なのに)自分で大隊を指揮することが多々あった。ブリュッヒャーは元騎兵将校で、騎兵の戦闘に立って突撃を指揮するのが大好きだった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xvi,xvii


 こういう、タイプ別の話ってすごく興味深いですね。「戦国最強武将は誰か!?」とかじゃなく……。

 人間誰しも得意不得意、好き嫌いがあって、得意なこと、好きなことをやった方が(やらせた方が)うまくいくじゃないか……という考え方を私は昔からある程度していましたが、さらにここ数年はその傾向が強まっています(ただし、やって(やらせて)みれば何でもできる人とか、嫌いな仕事だからなるべくテキパキと片付ける人もいるとか、あるいはなんでもできることが必要な職業もある、というようなことを忘れてはならない面もある)。それに対して日本の教育界や産業界は、スペシャリストよりもジェネラリスト志向過ぎて、世界から取り残されてしまっている……(と、橘玲氏なんかが指摘されております。例えば、橘玲氏「働き方が未来の生き方をデザインする」インタビュー【第2回】)。



 次に、「勇敢な人々」という一章から。

 貪欲さと大志は最も大きなモチベーションだった。ランヌ元帥〔仏:日W〕を褒めた人にナポレオンは言い返した。
「ランヌをそんな風に言うのは間違っている。ランヌとネイ〔仏:日W〕は、もし君の腹をかっさばくことが有利になると思えばそうする奴らだ。だが戦場では、それが無上の価値なのだ」
 ベシェール〔仏:日W〕とヒル〔英:英W〕は優しさで部下達から慕われており、ワグラムの戦いの最中にベシェールが戦死したらしいという噂を聞いた時、老親衛隊の兵士達は嘆き悲しんだ。
 反対に、暴君のような指揮官がしばしば最強の部隊を作り出した。ウェリントン麾下の名高い軽師団を育成した「暗黒のボブ」ことクラウフード【規律に厳しく暴力を振るう傾向にあった】〔英:英W〕や、 ナポレオン麾下の最強第Ⅲ軍団を育成した「鉄の元帥」ダヴーなど。
 勇敢さは彼らを伝説にした。モンブリュン〔仏:英W〕はボロディノの戦いの最中、砲弾で鞍から落ちる時に「いい弾だ!」と言い、その後腹に受けていた傷で亡くなった。ラトゥール=モーブール〔仏:英W〕はライプツィヒの戦いで片脚を失ったが、従者がその姿を見て泣くのに対して言った。
「何を泣いてるんだ、この間抜けが? これでお前はブーツを一本しか磨かなくてよくなったんだぞ」

 英雄の見かけが常にヒロイックだとは限らない。ハゲでメガネのダヴーは教師のようだったし、ヒルは田舎紳士のようだった。ナポレオン麾下の抜きん出た騎兵指揮官であったケレルマン〔仏:日W〕は「不健康そうで、うだつの上がらない風采だった」という。
 外見によって忘れがたくなる人もいる。火のような赤髪のネイ、かぎ鼻で目つきの鋭いバグラチオン〔露:日W〕、ずけずけと物を言う、自ら戦う指揮官であった親衛隊のカンブロンヌ〔仏:日W〕は文字通り「傷があまりに多くてそれが入れ墨のようだった」。モルティエ〔仏:日W〕は身長が2m近くあった。
 動じなさも賞賛されるべきだろう。ヨルク〔普:日W〕は1814年3月30日のパリ郊外で、自分のすぐ側に立っていた兵士が銃弾を受けて自分に倒れてくるのを見て言った。
「なんでこいつは、俺にこんなにひっついてくるんだ?」


 ベシェールは岸田恋さんの『戦争と平和』のオサレな印象が強くて、優しさで兵士達から慕われていたというのは意外でした。

 勇敢な人達の話は「すごい……!」の一言。ケレルマンは日本語版Wikipediaの記述が賞賛の嵐で非常に印象的でした(しかし有能すぎてナポレオンに疎まれて出世できなかったとも……?)。ヨルクの日本語版Wikipediaの最後の記述も面白かったです。



 次に「統率力の秘密」という一章から。

 将軍毎に、部隊に命令を出すスタイルも違っていた。ウェリントンは短くて明瞭、シンプル、よく聞こえる声で命令を出したが、「暗黒のボブ」クラウフードは部下達に辛辣で皮肉な言葉で命令したし、粗野なウェールズ人であったピクトン〔英:英W〕は荒っぽい言葉をばらまきまくっていた。
「行け、このクズども! 行け、この悪党ども!」

 ネイは活力溢れる激励の言葉を多用した。
「躊躇するやつにのみ、死神が手を伸ばしてくる!」
 と彼は1814年のモンミライユの戦いで叫んだ。
「見ろ! 死神は俺には触ってこないぞ!」
 1年後、カトル・ブラで彼は言った。
「将軍、フランスは危機に瀕している。超人的な努力が必要だ。騎兵を率いて、イギリス軍の土手っ腹に突っこむんだ。やつらを倒せ! やつらを足下に踏みにじるのだ!」

 しかし最も重要なのは、落ち着いた二言三言で部下達を安心させることや、あるいは重要な場所に自分自身がいるようにするということだった。
「アーサー【ウェリントン公爵のこと】の奴は、売春婦のとこかよ?」
 イギリス兵の一人が、不安そうにウェリントンの姿を探しながら聞いた。
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」

 ミロラドヴィチ〔露:日W〕は激しい砲火の下でもそのウィットで部下達を笑顔にさせ、自身の存在が部下の邪魔にならないように気を配った。彼は良く言っていた。
「君が一番だと思うようにやってくれ。私のことは単なるお客さんだと思って欲しい」

 将軍達は、他の者とは超越した存在であるというイメージを作ろうとする傾向にあった。
 ネイ元帥は幕僚達と大きな距離を取っていた。行軍中も部隊の先頭よりさらに先におり、必要ない限り幕僚達に話しかけることもなかった。食事も一人で、自身の副官とさえ一度も一緒に食べはしなかった。彼は超然とした態度からのみ尊崇の念は得られると思っていたのかもしれないが、時にその度が過ぎていた。

 モルティエは1805年のデューレンシュタイン〔英W〕の戦いの時、兵士達を見捨ててボートでドナウ川を渡って逃げられるチャンスを拒絶した。
「ダメだ! 我々はあの勇敢な仲間達と離ればなれになってはならない。彼らと一緒に助かるか、あるいは一緒に死ぬかだ。」

 ブリュッヒャーは、ナポレオンを打倒しなければならないという強迫観念のゆえに、何度も敗北してもまた立ち上がることができた。

 命令に対する不服従が優れた結果をもたらすこともあった。その良い例は、1809年のアスペルン・エスリンクの戦いで、ムートン〔ロバウ伯:仏:英W〕とラップ〔仏:英W〕がナポレオンの指示を無視して、ドナウ川の北岸のフランス軍の橋頭堡の脆弱な東側面を守るため、エスリンクの村を維持し続けたことである。
 だが不服従が裏目に出ることもあった。ピクトンは1812年のバダホスの戦い〔英W〕や翌年のビトリアの戦い〔日W〕ではそれで成功したが、1814年のトゥールーズの戦い〔英W〕では不成功に終わり、重い代償を支払うことになった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xx~xxiv

 「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」ですが、1811年のアルブエラの戦いの時にウェリントンは戦場に間に合わずにベレスフォードが指揮してまして、ウェリントンは会戦の5日後にようやく到着して自分が間に合わなかったことを悔やんだそうで、そのアルブエラの会戦の最中のある兵士の言葉です(『Wellington: A Journey Through My Family』から)。
 より詳しく書けば、Cooperという兵士の回想で、
「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」
「さあな。俺は彼の姿を見てないよ」(Cooper)
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」
 で、Cooperは『私もそう思った』と書いているようです(文献によっては、その時に「俺もそう思う」とCooperは言った、と書いてありますが)。
 ウェリントン公爵は敬愛というよりは畏敬されていたそうですが、彼がいれば負けないという信頼をも得ていたそうですし、彼は戦場を縦横無尽に駆け巡り、重要な地点に自ら姿を現して自ら大隊レベルの指揮を執るというスタイルだったので、兵士達はウェリントンの姿を実際に見ることが多く、このような会話になったのかなぁと推察します。
 



 次に、「危険と罰」という一章から。

 敵の砲火に狙われやすくなる飾り立てた軍服を着ていたミュラ〔仏:日W〕をコサック兵達は感嘆の目で見ており、殺してしまうよりも捕虜にしたがっていた。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xxv


 この段では、「多くの将軍が敵の砲火に狙われるのを避けるため、平服を着ていた」とあって、その例として?ウェリントン、クトゥーゾフ(ボロディノでは灰色のチュニックと緑色のロングコートを着ていた)、そしてナポレオンが出てくるのですが、以前書いてました配色本と、軍服本 (2012/03/07) で、「きらびやかな軍服を着ている周りの幕僚や兵士達の中で、平服のウェリントン公爵は逆に目立っていた」とか「ウェリントンが平服を着ていたのは、派手な服が嫌いで、渋い服を好んだから」というようなことを読んでいまして、そちらの方がなんか説得力があるような気がします。



 「政治面」という一章から。

 将軍が他国に仕えるのは珍しいことではなかった。なぜならば18世紀においては人材が不足しており、少なからぬ国が他国からそれらを招く必要性に駆られていたからである。ナポレオン戦争期においては、特にスペイン軍とロシア軍は、自国の有能な将軍の不足により、多くの外国人指揮官に部隊を委託し続けた。最も有名なのはこの時期のロシア軍の将軍達で、ベニグセンはハノーファー人であったし、ブクスホーデンはドイツ系エストニア人、バルクライはスコットランド人を祖先に持つリヴォニア人、ランジュロン〔露:ウォーゲームで歴史に思いを馳せる〕はフランスの亡命貴族で、エカテリーナ2世に仕えた。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xxviii


 ロシア軍はナポレオン戦争期、確かにそういう感があるわけですが、その後自国の将軍で軍事強国になっていく?のか、そこらへんも興味深いです。

 あとプロイセン軍でも、シャルンホルストはハノーファー軍の出身ですし、グナイゼナウはザクセン軍の出身ですね(ドイツ人同士ではあるわけですし、ハノーファーの場合、イギリスと同君の国だったので、そこらへんの事情もありますが)。



 こういう、キャラクター性的な話は大好きです。

 R/Dさんによる、「ナポレオンによる元帥評」も興味深いですのでぜひ。

 ↓こちらなんかもあります。
Shakos『Napoléon 1806』に出てくるフランス軍指揮官の人物像まとめ (2018/08/23)


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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