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c3i 33号 『Waterloo Campaign, 1815』の和訳を改訂しました & まだまだ分からず

 ミドルアース大阪でc3i 33号 『Waterloo Campaign, 1815』のまず取り組むべきらしい16日からのシナリオのセットアップをとりあえずやりまして、どうプレイしたらいいのかを考えてました(今まで経験したことがないような独自のシステムなので)。

 このゲームについては↓こちら。
c3i 33号 『Waterloo Campaign, 1815』の和訳(暫定版)を作りました (2020/11/28)



 最初の3つのステップは飛ばしてステップDの分遣隊配置ステップからなんですが、どこに配置するのが良いのかさっぱり分からないので、とりあえずルールブックに載っているリプレイと同じ場所に置いてみました(ネイのセットアップ場所が間違ってました。正しくは左上のヘクスですね)。

unit9550.jpg


 小さめのカウンターが分遣連隊で、画像左側の2つ(FrederickとPajol)と右側の2つ(LefebvreとPirch)が、リプレイ上で新たに置かれたものです。

 しかしルールを色々と見てみたのですが、なぜそこに置くと良さそうなのかが理解できず……。そこでちょっと疑問としてこのようなツイートを(たかさわさんが教えてくれないかなという大きな希望を抱きつつ(^_^;)してみましたところ。



 たかさわさん、ありがとうございます!

 それでとりあえず、いったん作ったルール和訳の私の解釈が間違っているということが分かりました。ので、今日改訂版を作りました。

c3iNr33Waterloo和訳ルール201228.pdf
c3iワーテルロープレイエイド201228.pdf


 最初に作ったやつのどこを改訂したかと言いますと、まずルールブックのD.分遣隊配置ステップの、

・司令部から、その指揮範囲のヘクス数以内で(司令部が通常モードである場合は、連絡線のすべてを道路上で引かなければなりません。この時、指揮範囲は2倍で数えることができます)。【2倍で数えられるのはこの時だけ】

 ↑打ち消し線を引いたところを削除と、移動フェイズの「軍団の移動」の列挙中の↓この2箇所、

・軍団は、自軍司令部の指揮範囲外のヘクスに入ることはできません。【指揮範囲を道路上で2倍換算は不可】→【司令部が通常モードならば指揮範囲が道路上で2倍換算できることに注意】
・移動の開始時に指揮範囲外にいた軍団は、指揮範囲内に入るまで司令部に近づくように移動しなければならず、その後自発的に指揮範囲から出るような移動は行えません。司令部がいるヘクスは数えず、そのユニットが入ろうとしているヘクスのみを数えます。【指揮範囲を道路上で2倍換算は不可】→【司令部が通常モードならば指揮範囲が道路上で2倍換算できることに注意】

 ↑打ち消し線を引いたところを、赤文字のものに変更。


  それからプレイエイドの移動フェイズ中の↓の場所

・移動時に自軍司令部を指定し、その指揮範囲【道路は2倍にならない】【通常モードなら道路2倍】外に出ることはできない。





 それでちょっと理解しやすくはなってきたのですが、まだ分からないことが。

unit9549.jpg

 VASSALの画像を持ってきてみました。赤く塗られた範囲がウェリントンの指揮範囲で、白色のイギリス連合軍ユニットはこの中に近づくようにしか移動できず、いったん範囲内に入ればそこから出るような移動はできません。しかしだとすれば、拡大表示したフランス軍の分遣隊(Pajol)がリプレイにあるように「西側からの連合軍の接近を阻止するために置いた。」というのは、どういうことなのか……?

 まだ何かルール理解が間違っているか、思いつく可能性としては、

・指揮範囲とは関係なく行われる「退却(3ヘクス)によって、イギリス連合軍のユニットがこの方向から近づいて来る可能性への対処。
・確かに厳密に考えればこのターン中の意味は乏しいけども、なんとなく広い意味で、この後のターンのことも考えて西からの接近を阻止するために置いた。

 あたり……?(BoardGameGeekの掲示板をまた探せば答が見つかるのかもですが、一回やってだいぶ疲れたので、今やる気が起きません(^_^;)


 ともかく、分からない面が多くて(ルール理解の間違いもあって)なかなか進みませんが、まあまた機会がある毎に並べてみて、チャレンジしていきたいと思っています。


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c3i 33号 『Waterloo Campaign, 1815』の和訳(暫定版)を作りました

 c3i Nr33 『Waterloo Campaign, 1815』の和訳(暫定版)を作りました。

 本ゲームは、2019年にGMTの機関誌?『c3i』の33号の付録ゲームとして出版されたゲームです。2018年の32号の付録ゲームで好評であった(らしい)『Gettysburg』のシステムで作られています。2019年のチャールズ・ロバーツ賞ナポレオニックゲーム部門と雑誌付録ゲーム部門にノミネートされましたが、受賞は逃しました。

 フルマップ1枚で、ユニットは39個、マーカーが3個です。基本的には軍団規模。

unit9565.jpg

 ↑c3i誌としては他にも色々入ってますが、『Waterloo Campagin, 1815』のコンポーネントだけを抜き出したもの。箱入りのデラックスエディションも出版されるようです。



 私は2020年初頭かにその存在を知って以来、気にはなっていたのですが、購入のふんぎりまではついていませんでした。1ユニットずつの交互手番であるという話も、肯定的に捉えて良いのか否定的に捉えて良いのか分からず……。が、(どういう理由でかは良く知りませんが)割とリアルな戦場での動きが再現されるらしいとかいう話をたまたまツイッターからのリンク先で読んで、「ままよ」と購入を決意しました(が、日本の通販先では見つからなかったので、古角さんから購入)。

 和訳がどこかに落ちてないかな~、と思って探してみたものの見つからず(どこかにあるんでしょうか?)。サマリー的なものが落ちているのは見つけたのですが、それだけではプレイできないので、ちょっと前から和訳を始めてみました。

 で、一応ほぼできてきた(実質的にはルールは4ページしかないのです。字は細かいですが)ものの、ちょっと良く分からない点もあるなと思ってエラッタを探してみたものの見つからないのでしょうがなくBoardGameGeekでの質問等のやりとりを(DeepL翻訳で)読み始めてみたら、う~ん、だいぶ分かったような、でも何か不安が残るというか……。

 OCSのルールはエラッタ(明確化を含む)がゲーム出版後4ヵ月くらいで出ますし、シリーズルールなんかはv4.3とかいう世界ですから、まだまだ全然こなれていたんだなということが実感できました(^_^;

 で、とりあえずの和訳と、BGGに落ちてた誰かが作ったらしい英語版のサマリーを参考にした日本語版のサマリーを作ってみました。その英語版のサマリーの解釈ミスではないかと思ったところは、私の解釈で作ってあります。尤も、解釈が正しいのか自信がありませんが……。

c3iNr33Waterloo和訳ルール201228.pdf
c3iワーテルロープレイエイド201228.pdf
 ↑11/28に公開した時のものではなく、12/28に改訂したものにリンクを貼っています。

 英文ルールブック(公開されてます→こちら)に16日からのシナリオの後、「プレイの例」が画像と共に挙げられており、最後には15日からシナリオとデザイナーズノートもありまして、せめて「プレイの例」はプレイの指針にもなるだろうから訳そうかと思っていたのですが、内容に色々ミスがあるらしく↓、BGGのやりとりを見てチェックしていたのに疲れ果てたので、とりあえず先延ばしで、いったん試しにプレイしてみる方向にしました。




 どなたか、一緒にプレイして下さる方希望です。基本的な概念と勝利条件をちょっと説明したら、サマリー通りにやればプレイできると思います。ただ、訳してみて分かりましたが、移動も戦闘も、可能な限り無限にできるシステムですので、だいぶ普通のウォーゲームとは異なる感じかと思います。

 下野守(しもつけのかみ)さんには以前話してまして、一緒にプレイしてもらえるという内諾はもらってあります(気が変わっておられなければ(^_^;)。下野守さんは土日に休むのは難しいということで、事前に言ってもらって私も平日に休みを取って尼崎会をしてたりしますので、平日込みでも言っていただければ。


 

ナポレオン時代、オーストリア軍のカール大公の軍事指揮官としての評価

 『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の人物評のところだけつまみ食いしているのですが、カール大公のところまで来ましたので、今までに集積していた資料と共に、カール大公の軍事指揮官としての評価について。


Thomas-Lawrence Archduke-Charles-of-Austria

 ↑カール大公(Wikipediaから)。



 今回、日本語版Wikipedia「カール・フォン・エスターライヒ=テシェン」も見てみたのですが、非常に興味深い記述で、しかも結構まとまったものでした。英語版Wikipediaも見てみましたが、日本語版Wikipediaとほぼ同じ内容(というか、英語版Wikipediaから和訳されたのでしょうけども)でした。

カールは将帥としてはナポレオンに一歩及ばなかった観はあるものの、当時のヨーロッパにおける有能な軍人の一人として評価されている。またクラウゼヴィッツ、ジョミニらと並び、当時を代表する軍事思想家としても知られており、多くの著作を残している。系統的には前世代の古い思想の影響を受けているが、その影響を脱しつつある側面もあり、古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在と位置づけられている。アメリカのマハンの海軍戦略思想に影響を与えたのは、クラウゼヴィッツよりもジョミニやカール大公の方であった。

カール大公の戦略論では慎重であることを重大事として説いており、万難を排して守備に努める傾向は、受けて来た教育による偏向とも言えるが、彼は然るべき状況が来たと見てとれるまでは実行に移さなかった。それと同時に、極めて攻撃的な戦略を練って実現することも可能であり、用兵の戦術的スキル(例えばヴュルツブルクやチューリッヒで見せたような広い範囲での反攻作戦やアスペルン・エスリンクやワグラムにおける大軍の指揮)は、確実に彼が生きた時代の上位の指揮官たちに引けを取ることはない。1796年の戦役は申し分のない出来と見なされる。1809年に敗北を喫した要因の一部はフランスとその同盟軍の圧倒的な兵力の優位性であり、また一部は新たに再組織されたばかりのオーストリア軍の状態による。しかし一方で、彼がアスペルン・エスリンクの戦いの後、6週間も不活発でいたことは批判の的となってきた[10]。

軍事理論家としてのカールは、兵法の進化の過程の中で重要な存在と位置づけられており、その教えの重みは当然のごとく大きい。しかしその教義は、1806年時点においてさえ古風であると見なされていた。慎重さと「戦略拠点」の重要性は彼の学説において主眼を置かれている。彼の地理的戦略の堅実さは「原則から決して離れない」という規範意識からくるものだろう。彼は軍が完全に安全な状況に置かれているならば危険を冒すことはないと繰り返し助言しているが、このルールを無視して1796年の戦役では輝かしい戦果を挙げている[11]。「戦略拠点はその者の国の運命を決するもので、将帥は常に主に神経を配らねばならない」と彼は(敵軍を打ち負かすことよりも)重視して述べている。カール大公の著作の編集者たちは良い仕事をしているが、クラウゼヴィッツの「カール大公は敵の殲滅よりも保全に価値を置いている」との非難に対して説得力のある抗弁ができていない。戦術に関する著作においてもこの精神は顕著に見える。彼にとって予備兵の存在は「退却を援護する」ものとして意図されている[12]。

【……】

カール大公の理論と実践は、軍事史の中で最も不思議なコントラストを描いている。時には非現実的、時には勇壮、卓越したスキルと鮮やかな動きでもってして、彼は長きにわたってナポレオンの最も強固な対抗者となった[14]。


「クラウゼヴィッツの「カール大公は敵の殲滅よりも保全に価値を置いている」との非難に対して説得力のある抗弁ができていない。」の件ですが、クラウゼヴィッツによる批判は、この部分でしょうか。

『1799年のイタリア及びスイス戦役』の冒頭では、オーストリアのカルル大公が、ジュールダン将軍の率いるはるかに劣勢のフランス軍を撃滅しそこなった理由について、クラウゼヴィッツは次のように書いている。

 第一に、彼には積極性と勝利意欲が欠けている。第二に、通常健全な判断力をもっている彼も、こと戦略に関してはまったく考え方が間違っている。戦争においては、全てを敵の勢力の殲滅につぎ込まなければならないが、それには司令官がはっきりそのことを自覚している必要がある。ところがカルル大公は、然るべき場所から敵を追い払うことしか考えなかった。彼はある場所なり地域なりを占領しさえすれば勝ったと思ったようだが、これは敵の勢力を萎えさせ、味方を勝利に導く一手段にすぎない。彼が勝ったと思い込んだ何度かの会戦で、敵は大した数の捕虜も取られず、砲も失わずにすんでいる。カルル公は敵の死傷者の数の記録さえ取っていない(原註 これより数年前に書かれた「戦争論」第6篇第16章では、クラウゼヴィッツはカルル大公を「立派な歴史家、評論家であるばかりでなく、優れた司令官」と褒めている)。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P495~6


 しかし、『歴史群像』103号では軍事理論家としてのカール大公の記事が載っており、そこに書かれている「カール大公が自軍の保全の方により重きを置いている理由」は、私には結構納得できるものがありました。

 カールからすれば、劣勢兵力で優勢な敵に国家の浮沈を賭けて挑むのは、あらゆる原則から逸脱した「絶望の会戦」であった。そこでカールは、戦術的勝利によってもたらされる軍事的栄光よりも、無益に兵を損じないことを追及した。
 従来、カールの用兵思想の鍵とされてきたのは、「戦略要点(Strategische Punkte)」の概念である。「その占有が作戦に決定的な有利をもたらすとき、この地点を戦略要点という。決定的とは、その地点の占有が後方背後連絡(Communication)の安全につながるという意味である」とカールは定義している。カールの論じた戦略論は、この戦略要点と後方背後連絡を主題に展開されている。
 ナポレオンは後方背後連絡を危険にさらそうとも、猛烈な機動を行い、短期決戦を敵に強要しようとした。もし、敵が決戦に応じなければ、ナポレオンの軍隊は後方背後連絡の不備から衰弱していく。ここに目をつけたカールは、要点での持久によって、敵が継戦能力を失うまで我慢強く抵抗し、相手の疲弊を待ったのである。
 カールにはナポレオンのように損耗した兵力を容易く補充出来る徴兵制という魔法の杖はなく、一度損耗すれば、兵力の回復は絶望的だった。そうしたハンデの下で敵と戦い続け手にした勝利であった。
『歴史群像』103号P163


 カール大公とオーストリア軍を賞賛した記述にはこんなのもありました。

 一方で、オーストリア軍の兵士たちが見せた堅固な軍事的資質と総司令官の才能にも経緯を払う必要があろう。カール大公は、ナポレオンがこれまで渡り合ってきた敵のなかでも最も厄介な人物だった。カールが再建してくれたおかげで、オーストリア軍は彼自身が指揮権を預けられた1805年12月の時点よりもはるかに優れた軍隊に成長していた。しかもすべての階級の者たちが闘志にあふれていた。ナポレオンをアスペルンとエスリンクで打ち負かしたことだけでもカールの才能は評価できるが、ヴァグラムでさえも、彼は皇帝が欲していた完全なる勝利をつかませなかったのである。フランス軍は有利な和平さえ結べただけでも幸せだった。
『ナポレオン戦争 第四巻』P102




 一方、カール大公の性格上の欠点(限界)であるとか、あるいはオーストリアという国家や人材、皇帝(兄)の欠点(限界)込みの記述を挙げていきますと……。

 カール大公は外見的に印象の薄い、痩身であごの小さい(性格の弱そうな)人物で、身長はかろうじて5フィート【1.524m】しかなかった。
 【……】
 彼は自軍、ひいてはハプスブルク帝国を少しでも危険にさらすかもしれないことには用心深くなり、気が進まないたちであった。彼が書いた戦術に関する論説には彼の伝統的な、18世紀的なものの見方が反映されている。すなわち彼は、敵を撃破することよりも、機動であるとか、拠点を占領するとか、連絡線を守るということにより傾きがちであった。
 【……】
 カール大公はいろいろな面で感じの良い人物であったが、融通がきかず、物事がうまくいかなくなると他の者達を非難する傾向があった。
 【……】
 だがこの感受性の強さはまた、彼を悲観論に陥らせがちであり、ことに挫折の後ではそうであった。敗北はカール大公の神経を揺さぶり、鉄の意志で戦い続けるよりも、和平を結ぶことを進言させたのであった。
 彼は戦場において、そして危機的状況において本領を発揮した。彼は戦場の重要な地点にすぐさま駆けつけることができたし、彼の戦歴を通じて彼は、苦境を救い状況を好転させようと戦いの真っ只中に身を置いていたのである。彼がアスペルン・エスリンクでそうであったことは最も良く知られているが、Stockachとワグラムにおいても非常にそうであった。この彼の指揮の様子を見た兵士達は奮い立った。見た目に勇敢そうでないということは決して彼の欠点ではなかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P172,3

 人格・性行上の疵がなかったわけではない。1809年、ワグラムの会戦で敗北した後、二度とカールが野戦軍総司令官の職に呼び戻されることがなかったのも、多くの将軍がカールの下で戦うことを望まなかったためである。
 カールは心身のバランスを崩しやすく、たやすく精神の耗弱に陥った。そうした内気と気分の変調に加え、父が先代皇帝、兄が当代の皇帝という高貴な身分にあることもあって、他者から批判されることに弱いという性格上の弱点を持っていた。そのためカールは、率直に苦言を呈する人材を側近に配することが出来なかった。彼が取り巻きに集めたのは、オポチュニストや陰謀家、立身出世主義者といった信頼出来ない人間たちであった。彼らは、カールが自らの敗戦の責任を部下の将軍たちに転嫁しようとしても、忠告して止めさせようとはしなかった。
 カールは、1801年から05年までは軍事参議院議長、さらには陸軍大臣兼海軍大臣として、1806年から09年までは大元帥(Generalissimus)として、オーストリア軍の改革を進める責任者の地位に就いているが、改革の大半は機構弄りに終始し、見るべき具体的な実績をあげ得ていない。その理由の一端には、徴兵制の導入といった抜本的な改革の実現によって既成の社会秩序が崩壊することを怖れたカールの保守性や、ナポレオンとの戦争再開を準備不足から先延ばしにしたいと希望していた彼の無意識の避戦努力の影響もある。
 だが、より大きな原因として、質の悪いカールの側近とフランツの側近がそれぞれ暗躍し、その結果、喫緊の軍制改革が停滞したことは、指摘せざるを得ないのである。
『歴史群像』103号P161

 一方で、指導力を備えた参謀システムを充実させようとするカール大公の試みはうまくいかなかった。参謀たちは、紙の上ではいとも巧みに兵力を動かしたり維持したりすることができたのであるが、ここでもまた実戦経験の豊富な将校たちが不足していたのだ。作戦本部と前線の間をつなぐ通信システムにしても明らかに劣っていた。頼るべき上級指揮官に関しても、カール大公は頭を抱えていた。彼には帝国宮内法院に指令を出す権限が与えられていたが、無能で敵対している将軍たちを解雇する権力は備わっていなかった。このような大権はいまだに兄フランツ皇帝がしっかりと握っていたのである。このため、宿敵ともいうべきヒラーだとか、役に立たないルートヴィッヒ、ヨハン、フェルディナントといった兄弟たちを用いなければならなかったのだ。身内びいきは帝国の指令構造のすべてに広く行きわたっていた。カールらに次ぐ高位軍人たちのなかでは、自分自身の功績によって登りつめてきたのはラデツキーぐらいのものだった。ヴァンファン、グリュン、クレーナウ、ローゼンブルクといった一族の者たちは、軍人としての才能などこれっぽっちもなかったのに、みな高位高官になりおおせていた。
 それではカール大公自身はどうだったのか? ストレスがたまるとてんかん性の発作にかかりやすいというハンディーキャップを背負いながら、彼はナポレオンよりも若年で上級指揮官に登りつめていた。初めて軍隊の指揮を執ったのは25歳のときである。そこら辺の二流のフランスの将軍が相手ならば、カールもかなりの実績を上げることができていたが、いかんせんナポレオンに対しては歯が立たなかった。ふたりの将軍は、第一次対仏大同盟戦争の終わりの時期、1797年に対戦したことがあったが、カールが決定的な敗北を喫してしまっていた。とはいえ、オーストリア軍においてはカールが最も有能な軍人であることには間違いがなかった。彼は、同時代人たちに比べても、古くさい18世紀的な形式主義から感化されることがほとんどなかった。しかし、彼自身が受けた軍事教育の最後の最後の痕跡までは捨て去ることができなかったが。たとえば、彼は自身が「地理的な地点」と呼んでいる重大な地勢にこだわる固定観念をもち続けており、時としてこれが敵軍の粉砕という目的から逸脱してしまうような状況を生みだしていた。
『ナポレオン戦争 第四巻』P19,20

 【アーベンスベルク会戦の1809年4月】20日のオーストリアの軍司令官の挙動はまったく不可解で、この日彼はてんかん性の発作に見舞われて行動できなかったのではないかと言われているほどであった。21日もまた目的に向かって行動できなかったと言ってよい。
『ナポレオンとバイエルン』P210

 「積極的に、積極的に、速く」とナポレオンはあの日のマッセナ元帥宛の命令に書いた。これは軍が多分に持っている特性であるが、これを動かし、導くことが必要で、それをナポレオンは誰よりもよく知っていた。カール大公はこのような呼びかけをほとんど利用しなかった。というのは単にそれに必要な性格を持ち合わせていなかっただけでなく、また彼の個人的な能力が彼の軍の欠点を補うのにあまり適していなかったからである。従って彼が最後の瞬間までそもそも戦争にならないようにしつこく警告していたことは賞賛に値する。最初から彼は敗戦が避けられないという萎えた印象の下で行動していたように思われる。さらに健康上の問題がそれに加わった。いずれにせよ彼が優位に立っているときでもまた危機に瀕しているときでも彼が最初の二つの同盟戦争で得た名声を正当化するものでなかったことは疑いない。1809年のバイエルンにおける戦争ほど二人の司令官の間でさまさまな状況において行われた戦いで結果の差がこれほどはっきりと速く出た出兵も珍しいし、その結果が一方的であったのも珍しい。この戦役におけるカール大公よりも1805年のマックの方にもっと素晴らしい戦績が認められるとするのはまったく正当である。この司令官が同じ軍隊を指揮すれば少し後のアスペルンとヴァグラムでナポレオンを非常に困らせたはずだということに異議が出るかもしれない。実際ナポレオンはバイエルンで得た経験から彼の敵の持つ防御能力の高さに非常に驚いた。しかしここでもバイエルンの出兵における状況に決定的な違いがある。組織的な戦闘が防禦として行われるときには、オーストリア軍とその司令官の弱点は移動する戦闘や分散した戦闘の場合ほど影響が現れない。その代わりに彼らの安定性とたとえ受け身であっても疑いもなく高度に持っている勇敢さとが効果を発揮する。そういうことでアスペルンでは役回りが入れ違っていて、引き分けどころか守備側の勝利だったかもしれなかったことを見逃してはならない。
『ナポレオンとバイエルン』P213

 宮廷が求めていたのは命じられた戦争を素直に遂行する軍人であって、政治に対して発言をする軍人ではなかった。しかしカールには、兄皇帝フランツや彼の側近が軍の人的資源の実態を把握せずに、軍事の能力を超えた遠大な目標の達成を軍人たちに要求しているように見えた。軍事力に見合った外交政策を行うには、軍事に明るい人材を配分すべきであり、戦略計画や作戦遂行に宮廷筋が無用の干渉をするのを慎むようカールは要求した。そして、これこそ宮廷が最も忌む「政治に口を挟む軍人」の行為であった。フランツはカールに複数の高級軍人を貼りつけ、彼の動静をスパイするよう命じている。
『歴史群像』103号P159~160



 カール大公は自分自身だけでなく、外部要因で様々な足かせをはめられて戦っており、ワグラム会戦で敗戦した後はまだ30代後半で公職から引退してしまったのも、本人の心の健康のためにはやむを得なかったのだろうなぁという印象を受けます(^_^;

 1813年戦役以後のオーストリアを、シュヴァルツェンベルクという非常に忍耐強い指揮官が担ってくれたのは大変有難かったでしょうねぇ……。


 ↓こちらもどうぞ。 

シュヴァルツェンベルク将軍について (2016/12/31)



 ↓今回の参考文献です。




ウェリントン公爵の人となり その2(軍事指揮や性格など)

 以前から読んで紹介していた『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』なんですが、この本だけをネタ本にしてエントリを書いていると著作権的な問題がしんどいので、他の本なんかも参照しながら紹介していこうと思います。


 今回はウェリントン公爵について。ウェリントンについては以前、↓で一度、人となりについて書いてました。

ウェリントン公の人となり (2016/12/28)




Arthur Duke of Wellington

 ↑1814年のウェリントンの肖像画(Wikipediaから)




 まずは、以前、情報を集積していた『イギリス摂政時代の肖像』から。





 ……若い副官としてアイルランド総督の随員であったときでさえ、まれに見る有望な人物であることを示したし、やがて指揮官の地位に就くと、綿密さと鋭い判断力を備えた彼の才能が明らかになってきた。……若い中佐は、糧食が乏しく装備も乏しい混乱した部隊の秩序を立て直す天才であり、彼の軍勢の戦闘能力の程度を正確に評価できる特別な才能もあった。
 彼はあるとき友人のジョン・クローカーに語った。「師団を編成し軍隊を動かす行動に入る前に、指揮官は個々の将兵の技量と活力を、次に中隊の、その次に大隊の、その次に旅団その他の軍団の技量と活力を理解しておかなければならない。私の成功の大部分は、連隊付将校として作戦の良くなかった部分につねに注意を注いできたおかげだと思っている。この問題を私以上に詳しくよく精通している人はわが陸軍にほとんどいない。これがすべての軍事的知識の基礎である。
 ……何十万頭の雄牛と現地人随行者と将兵専門の娼婦などの大群を引き連れた軍隊を、いかにうまく移動させるかが成功のカギだった。他の指揮官は膨大な数の動物と人間の群れを1時間に5マイルの速度で移動させるのは困難だった。ウェリントンはその3倍近い速度でなんとか動かせたし、それよりも速く動かしたこともあった。さらに厳しい天候と険しい地形のため通常は驚くほど多くの命が失われたのだが、彼はそのような被害もなく目的地に到着することができた。それゆえ到着した軍隊は効果的に戦う準備ができていた。
 彼の指導力には別の側面もあった。いかに騒然とした状況に直面しても、彼は異常なほど沈着だった。激しい砲撃音が雷鳴のようにとどろき、硝煙とほこりが視界をさえぎり、混乱が広がった戦闘のさなかにあっても、彼は分別を失わず、自らの立場を査定することができ、賢明な決断を下すことができた。戦闘が彼を変えたとある副官は書いた。彼は「鷲のように」なって、全員を鼓舞しつづけたので、部隊は不思議なほど勇敢になり、不死身のように見えた。……
 インドで見せた彼の際立った才能は対仏戦争で彼を成功に導いた。彼は食料と武器の供給状況について詳細に把握し、部下の将兵の正確な実力を気味悪いほどよく理解し、多勢の敵軍に対峙した際にも自軍をみごとに配置につかせた。加えて、氷のような冷静さと堂々とした勇気をもっていた。

『イギリス摂政時代の肖像』P173,4

 1815年では彼はまだかなり若く45歳であり、壮健でエネルギーに満ち、青い眼は澄み切り短く刈り込んだ褐色の髪にはまだ白髪はなかった。古代ローマ人のような横顔と細身、筋肉質の身体、節制の習慣と堅実な独立独行の雰囲気をもち、あらゆる点で彼は古典的な英雄に見えた。ただ、大声で笑うのは彼の古典的なイメージを壊した。また彼は自分自身を茶化して楽しむ傾向もあった(彼を称える崇拝者たちがぎっしり詰めかけたなかを通り抜けたとき、彼は仲間の一人に「偉人になるのはすばらしいことだ、そうではないかね?」と述べた)。
 公爵のぶっきらぼうなしゃべり方は当時語り草になったが、彼の演説の簡潔さと正確さ - 美文調が流行した時代には控え目すぎるように思われたが - は、彼が成し遂げたまことに顕著な社会的業績の評価を低めるものではない。青年時代の彼はハンサムで魅力的なきわめて女性にもてた男であり、彼はこの特徴を中年まで保持していた。……
 これらすべてを考慮すれば、名誉や自身の容姿に対する公爵の無頓着さはますます驚くべきことであった。彼は飾り気のない、素直で人を安心させるような単純な人だった。彼に尊大さがまったく見られなかったことは、自己のすばらしさを見せつけ誇示した時代にあって異色であった。彼は摂政【後のジョージ4世】の気取った愛顧をまったく受けつけず、実際、摂政のなだめるような愛想のよさにうんざりしていた。彼はそれよりはるかに価値のあるものをもっていた。ウェリントンは同時代の他の卓越したイギリス人の誰よりも、イギリス人同胞に特有の大胆さと沈着冷静さをもっていた。彼は自身がこうした特性の持ち主であっただけでなく、他の人々にそれを吹き込んだ。彼は配下の将兵に不屈の精神を植えつけた。将兵たちはそれゆえ彼のことが好きで彼を「大鼻の翁」と呼び、もし彼から言われたなら、彼のために死ぬまで戦うと誓っていた。彼の簡素な服装 - 彼は古い青のフロックコートを着るのが好きで、優雅に仕立てられた制服は軽蔑していた - とときどき発するしゃがれ声の叱声は、他の指揮官たちのこれ見よがしの残酷な懲罰よりもずっと効果的だった。
『イギリス摂政時代の肖像』P176,7

 公爵の戦場における英雄的奮戦と、幸運にも彼が負傷を免れたことは皆の口の端にのぼった。一人の兵士がウェリントンの乗馬コペンハーゲンの頭を向き変えているときに殺されたが、コペンハーゲンもその乗り手も無傷だった。他の将校がウェリントンの膝の上に腕を休ませていたとき、弾が命中しその腕を切断してしまったが、弾は公爵からそれでいたので彼は救われた。明らかに彼がこれほど命を護られていたからこそ、麾下の将兵たちは彼の激励と勧告にしたがってこの日を切り抜けることができたのである。
 彼は戦闘の中枢にいて騎乗してあちこち動き回り、将兵と銃砲のすべてに注意を払っていたようだった。補強が必要なときには、配下の軍勢が不足していても、なんとか派遣要員を見つけだした。いつも冷静で無理を言わない彼が姿を見せることで将兵を安心させ、彼の重大な仕事をつづけさせることができた。彼は求められればどこにも現れ、逃げ腰のブラウンシュヴァイク兵を再び集結させ、騎兵を適切な配置に誘導し、大砲の配置すべき場所を指示した。またあるときは、熱心な射手がちょうど射程内にいたボナパルトをねらい打ちしようとしたのを思いとどまらせるという、みごとな騎士道精神を見せた。戦後かなり後になって兵士たちは彼の声を回想した。歩兵に対し「並みいるわが若者たちよ」、騎兵に対し「さあわが紳士たちよ」という彼の呼びかけは、兵士たちが忍耐の限界近くになっていたときでも、新たな攻撃作戦に乗りだそうという気持ちにさせたのだった。
 戦後、名誉は公爵に対し雨あられのように寄せられた。ネーデルラント王ウィレム1世は彼をワーテルロー公爵に任じた。
『イギリス摂政時代の肖像』P193





 次に『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』ですが、まずは『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話 (2020/01/18) に書いていた件を再度。

 しかし最も重要なのは、落ち着いた二言三言で部下達を安心させることや、あるいは重要な場所に自分自身がいるようにするということだった。
「アーサー【ウェリントン公爵のこと】の奴は、売春婦のとこかよ?」
 イギリス兵の一人が、不安そうにウェリントンの姿を探しながら聞いた。
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xxi

 「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」ですが、1811年のアルブエラの戦いの時にウェリントンは戦場に間に合わずにベレスフォードが指揮してまして、ウェリントンは会戦の5日後にようやく到着して自分が間に合わなかったことを悔やんだそうで、そのアルブエラの会戦の最中のある兵士の言葉です(『Wellington: A Journey Through My Family』から)。
 より詳しく書けば、Cooperという兵士の回想で、
「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」
「さあな。俺は彼の姿を見てないよ」(Cooper)
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」
 で、Cooperは『私もそう思った』と書いているようです(文献によっては、その時に「俺もそう思う」とCooperは言った、と書いてありますが)。
 ウェリントン公爵は敬愛というよりは畏敬されていたそうですが、彼がいれば負けないという信頼をも得ていたそうですし、彼は戦場を縦横無尽に駆け巡り、重要な地点に自ら姿を現して自ら大隊レベルの指揮を執るというスタイルだったので、兵士達はウェリントンの姿を実際に見ることが多く、このような会話になったのかなぁと推察します。



 次に、同書のウェリントンの人物に関する項のところから。主に軍事指揮に関してを抜粋しました。

 ウェリントン公爵は、小規模な戦術レベルから長期の戦略レベルまでのすべての戦争レベルに関して優れた能力を持った、傑出した指揮官であった。
 【……】
 ウェリントンは革新的なことをやったわけではなく、既に存在していた手法や手段を用いて、まったくの個人の力でそれに無類の効果を発揮せしめたのであった。
 【……】
 ウェリントンの主力は歩兵であった。彼は1811年まで、騎兵をほとんど麾下に持ったことがなく、騎兵の力量や規律に信頼を置いていなかったが、実際には騎兵達はほとんどの場合彼の麾下で良く働いていたし、サラマンカとワーテルローでは重要な役割を果たした。同様に、彼は砲兵も初期にはほとんど持っていなかったのでそれらを歩兵のサポートとしてのみ使用し、ナポレオンのように砲兵を集中させて強力な攻撃用兵器として用いることはなかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P115

 ウェリントンの最も有名な戦術は、イギリス軍大隊を尾根の背後に隠し、フランス軍歩兵縦隊の攻撃の最後の瞬間に、射撃戦のための横隊になるいとまを与えずに急激な猛射を与えるというものであった。イギリス軍の横隊が至近距離で一斉射撃か、あるいは第二射までを与えると、銃剣突撃でフランス軍を敗走させるのであった。
 【……】
 彼は「戦いの最も重要な秘訣は予備を保持することだ」と考えていたし、彼は巧みに平穏な戦区から部隊を引き抜き、攻撃をかける地点に局所的な数的優勢を作り出した。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P116

 それゆえウェリントンは戦略的にも戦術的にも高度な柔軟性を持っており、奇襲し、機動することができた。彼のもう一つの特質は機会主義であり、計画を慎重に練りつつも、極めて実際的に、迅速に、予期していなかった戦果を拡張するのであった。
 【……】
 さらに、ウェリントンは敵軍に関する情報にも大きな関心を注いでおり、多くの場合、敵側が彼の軍について知っている程度よりも、彼が敵軍について知っていることの程度の方が大きかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P117

 ウェリントンの成功に秘密があるとすればそれは、彼が常に細部にまで自ら注意を払いつつも、大局的な見方をも失わなかったことである。彼は1811年に、信頼できない部下達について自分の見方をこのように要約している。
「私はすべての場所を見なければならなかったがそれは、私がいないと常に何かがまずいことになるからであった。【……】」

 それゆえ、彼は体調を維持し、自信を持って、断固として行動する必要があった。ある将校は述べている。
「【……】彼の戦場における命令はすべて、簡潔で迅速で明瞭で、要点を得たものであった。」
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P118


 最後の、「信頼できない部下達」についてですが、イギリスは当時売官制で、しかもウェリントンの配下を本国の人間が決めるようなシステムであったために能力が低く、ウェリントンとの信頼関係も関係なく配属されるという状況で……(T_T) 『ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者』にはこのような記述があります。



 そこで、ウェリントンはしかたなくこう記している。「この軍にいる将官数名の性格や能力を考えると、震えがくる」。
 【……】特に旅団以上の軍勢を指揮する場合、彼らの力量というのがまさにウェリントンの悩みの種だった。彼らはみな勇敢ではあった。しかし、一番欠けていたのは「戦闘時に冷静かつ鋭敏な判断を下すこと」であり、「巧みに命令を伝達し、気力と決断力をもって行動すること。それによって、兵士たちは上官を信頼するようになり、戦闘時に速やかに従うようになる」という点では能力不足だった。こうした資質の欠如により、ややましな指揮官のことでさえ、ウェリントンはこう記さずにはいられなかった。「彼らは私が現場で指揮を執っているときはまさに英雄だが、私が場を離れたとたんに子供のようになってしまう」。
 『ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者』P5,6




 また今回、Wikipediaを見てみたところ、結構面白いことが色々書いてありました。まずは日本語版Wikipediaから。

補給線を伸ばしすぎないように後退して防備を固め、守備戦で敵を撃退することが多かった将軍である。「偉大な将軍の資質は、後退が必要な時にその事実を認めて実行する勇気があることだ」と語った[68]。

ウェリントン公爵はナポレオンと違い、自らの戦勝や功績を大げさに語ることがなかった。ワーテルローの戦いの勝因も「ナポレオンが戦術らしい戦術を使わなかった。フランス軍が従来通り縦隊で進軍してきて従来通り撃退されただけ。それでも苦しい戦いだった。あと少しで負けるところだった」と謙虚な説明をしていた[204]。年老いたウェリントン公爵がハイド・パークを歩行中、身体を支えてくれた通りすがりの人にお礼を述べた際、その通行人は「この世で最も偉大な人物に手を差し伸べられる日が来るとは思いませんでしたよ」と述べたが、それに対してウェリントン公爵は「馬鹿げたことを言いなさんな」と答えたという[205]。

常にイギリス紳士たる自覚を持ち、敗者に対しても寛容であった[206]。その精神はインドの征服地や敗戦国フランスに対しても発揮された。ウェリントン公爵は「戦争が終結したら全ての敵意を忘れねばならない。敵を許さなければ戦争は永遠に続く。大英帝国の政策が些細な悪感情に影響されることがあってはならない」と語っている[207]。

しばしば略奪を働く隷下の兵士たちを「酒を飲むために応募した人間の屑」と呼ぶことがあった[208]。一方彼らの勇敢さはウェリントン公爵も認めるところであり、「粗暴だが勇敢で任務に忠実な兵士たちは、軍事的教養以外にも大事なものを持っている紳士たちに指揮されることによって戦場で大きな力を発揮する」と主張していた[209]。

ただウェリントン公爵の隷下の指揮官たちは軍事教育をほとんど受けておらず、ウェリントンも彼らの能力をあまり高く評価していなかった[210]。そのためワーテルローの戦いにおいても、彼自身が旅団・大隊ランクにまで直に命令を発していた[211]。

戦場ではあまり派手な軍服は着たがらず、全体的に控えめな格好をしていることが多かった[212]。

ナポレオン戦争後の後半生は政界での活動が多くなったが、ウェリントン公爵自身は軍務の方を愛しており、政治家や民間人と付き合うのは好きではなかったという[213]。




 最後に英語版Wikipediaからですが、すごい面白いです(^_^;。

ウェリントンはいつも早起きだった。軍が行軍中でなくても、彼は「目を覚ました状態でベッドに横になったままでいるのが耐えられない」のだった。[218] 1815年以降は民間人に戻ったにもかかわらず、快適さを求める感覚の欠如ゆえ、折りたたみ式ベッドで寝ていたという(現在それはウォルマー城に展示されている)。[219] ミゲル・デ・アラバ将軍は、ウェリントンがしばしば軍は「夜明けに」行軍を開始し、「冷たい肉」を夕食にすると言っていたので、この二つの言葉が怖くなり始めたと不満を漏らしていた。[220] 戦役中彼は、朝食から夕食までの間に何かを食べることはめったになかった。1811年にポルトガルへと撤退する際、彼は「冷たい肉とパン」を常食とし、共に夕食をとる将校達を絶望させた。[221] 尤も、彼が飲んだり人に注いだりするワインは高級なことで知られており、夕食時にはたびたび一瓶を空にした(ただし彼の時代の基準からすれば大した量ではない)。[222]

人前で感情を表すことはほとんどなく、自分よりも能力や出身階級の劣る人(つまりはほとんど全員だが)を見下しているように見えることが多かった。だが、アラバ将軍がサラマンカの戦いの直前にある出来事を目撃している。ウェリントンは小型望遠鏡を通してフランス軍の動きを観察しながら鶏のもも肉を食べていた。フランス軍の左翼が延びきっているの見て彼は、そこへの攻撃が成功するだろうことに気付いた。彼は鳥の骨を空中に放り投げ、フランス語で「フランス軍敗れたり!」と叫んだという。[223] またトゥールーズの戦いの後、側近がナポレオン退位の知らせを伝えると、ウェリントンは即興でフラメンコダンスを始め、くるくる回りながら指を鳴らした。[224]

軍事歴史家のチャールズ・ダルトンはこう書いている。スペインである激戦の後、若い将校が「私は今夜ウェリントンと食事をすることになっています」と発言したが、それが公爵が馬で通り過ぎる際に耳に入った。ウェリントンは言った。「少なくとも私の名前の前にミスターという言葉を付けて欲しい。」 「閣下」 士官は答えた。「私たちはミスター・シーザーやミスター・アレクサンダーとは言わないのに、どうしてミスター・ウェリントンと言う必要があるでしょうか?」[225]

彼の厳格な表情と過酷な規律は有名だった。彼は「私見の表明に過ぎない」として兵士の歓呼に不賛成であったと言われている。[226] だがウェリントンは兵士達を大事にしていた。彼はポルトの戦いとサラマンカの戦いの後でフランス軍を追撃することを拒否したが、それは、減少した敵を追撃するのに起伏の多い地形を通らねばならず、自軍への損害が避けられないことを予見していたからである。彼が公の場で悲しみを示したのはダバホスの戦いの後だけだった。彼は突破口で死んだイギリス人を見て泣き叫んだのである。[120] この文脈において、ヴィトリアの戦いの後に兵士達を「屑のような連中」と呼んだ彼の有名な文書は、彼らが規律を乱したことへの失望や、怒りによって感情が煽られたのだろうと見ることもできる。彼はワーテルローの戦いが終わった夜に主治医の前で、後には自分の家族に、悲しみを率直に表現した。勝利の祝いを受けたくなかったので、彼は涙を流して泣き崩れ、彼の闘志もまたこの戦いの大きな損失と大きな個人的損失によって衰えたのである。[227]


 ダバホスの戦いの後の件は、『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』に載っていました。




 バダホスの戦いは、ウェリントンの戦闘の多くがそうであったように、僅差の競り合いだった。まさに激戦で犠牲も大きく、ウェリントンは戦闘の翌朝、おびただしい戦死者を目の当たりにして涙を流した。ウェリントンが攻撃停止命令を発しようとしたときに突破口を開いて功名をあげた第3師団のサー・トーマス・ピクトンは、バダホス占領の祝いを述べようとして、総司令官が歯を食いしばって涙を堪えているのに気がつき、驚いた。ウェリントンは、政府が工兵隊と地雷工兵隊を送ってくれれば、敵の防御施設をもっと効率的に打ち破り、勇敢な兵士の任務を易しくすることができたはずだと、感情の昂ぶりのあまり、政府の怠慢を罵り、呪った。
『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』P197




 こうして見てみると、ウェリントンの人となりも非常に興味深いですねぇ……。マンガにしたらかなり面白そうだと思うのですが……(^_^;


フランス軍の騎兵部隊指揮官ラサール将軍について

 『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』から、ラサール将軍について簡単に。





 ラサール将軍はナポレオン麾下の軽騎兵部隊の指揮官で、「30歳まで生き延びた軽騎兵などクズだ」と言ったことで有名らしいです。自身はワグラムの戦いで34歳の時に戦死しました。


Antoine Lasalle


英語版Wikipedia「Antoine Charles Louis de Lasalle」


 まず最初に「ええっ」と思ったのが、彼の母親の話でした。

 1775年5月10日にある貴族の家に生まれたラサールは、北東フランスのメッツの町で育った。迷路のように入り組んだメッツの町の中、地元の子ども達の非行グループで騒ぎを起こしながら彼のリーダーシップの才能は開花していったが、ラサールが成長していく上で最も大きな影響を与えたのは彼の大好きな母親だった。彼女はある時決闘をしたが、その時に使った剣は、彼女の何人もいた恋人のうちの一人から盗んだものだった。ラサールは彼女から、その燃え上がるような気質を受け継いでいたのだった。(P57)





 ラサールについて色々と面白い話はあったのですが、全部省略しまして……(おい)。

 彼はかなり強いそううつ気質(気分が高まったり落ち込んだりを繰り返す)の傾向にあったようで、そこらへん、ブリュッヒャーと同じです(あと、足利尊氏とか)。騎兵指揮官、なかんずく軽騎兵指揮官としては、危険を恐れない気質である必要が非常に強くありますから、強いそう状態であることが非常に有利に働いたのではないかと推察……。ブリュッヒャーも元々軽騎兵指揮官でしたから、そこらへんのことが歴史を作っていく面があるのだろうと思います(私なんかは危険を恐れる傾向が強く、全然そういうのに向かないと思います)。


 個人的に非常に興味深かったのが、↓こういう話が載っていたことです。

 マルモン元帥は、25年に及ぶ革命戦争とナポレオン戦争を振り返ってこう記述している。騎兵の大部隊を扱うすべを身につけていたのは、ケレルマン、モンブリュン、それにラサールの3人のみであった、と(ミュラ元帥はより有名であるが、あまりにも不安定で、馬の扱いについても無頓着過ぎだった)。(P72)


 ほおお……。そうだったのですね。ベシェール元帥なんかも騎兵指揮官ですが、彼の名前も上がっていない……(マルモン元帥によるバイアスがあるのかもですが)。

 ケレルマンやモンブリュンについては『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話 (2020/01/18) に少し話が出てきました。


 ラサールは問題行動も非常に多かったようなのですが(まあ気質的にしょうがない)、彼の能力がかなりレアであった為に、ナポレオンは彼を許していたそうです。


 ラサールは、騎兵突撃中にではなく、騎兵を再結集している最中に、眉間を撃ち抜かれて死にました。彼は、自分が望んでいたよりは少し悪目な、しかしすごく悪くもない死に方をしたと言えるのでしょうか……。

ウジェーヌはどのように有能だったのか?

 ジョセフィーヌの連れ子でナポレオンの養子となったウジェーヌ・ド・ボアルネの『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の項を読みました。


EugeneBeau

 ↑Wikipediaから。



 ↓こちらもどうぞ。

日本語版Wikipedia「ウジェーヌ・ド・ボアルネ」
ウジェーヌへの高い評価、他 (2015/07/11)
『ナポレオンとバイエルン』から、ウジェーヌについて (2018/07/14)
ウジェーヌがエジプト遠征の時に買った女奴隷の話 (2018/07/15)



 読んでいて「ほぉ……」と思ったことを抜粋引用していこうと思います。

 【ナポレオンに初めて会った時】ウジェーヌはまだ14歳に過ぎなかったが、彼が人生におけるモットーとした「高潔と忠誠」という性質をすでに備えていた。(P27)

 【妹のオルタンスの回想によると】兄はまだ若かったのに、【家族の】危機的な状況での決断力と冷静さを見せた。(P28)

 【1799年】ウジェーヌはナポレオンの副官という仕事にうんざりして、通常の軍務へと戻ることを希望した。その願いを聞き入れてナポレオンは、彼を新しく創設された執政親衛隊の猟騎兵中隊(後に大隊)の指揮官に任命した。ナポレオンはまた、親衛隊の副司令官であったジャン=バティスト・ベシェール将軍を、ウジェーヌの個人指導官に任命した。(P29)

 ウジェーヌはマレンゴの戦いで自身の猟騎兵部隊を指揮し、これが彼の最初の実戦における指揮となった。(P30)

 【イタリア副王としてよりも】ウジェーヌは軍人としての栄達を望んでいた。ウジェーヌは1806年のプロイセン戦役や、2年後のスペイン戦役に従軍することを希望したが、イタリア王国副王としての義務の方が重要だとして拒絶されていた。しかし1809年戦役はイタリア半島にも及び、また多くのフランス軍元帥がスペインに貼り付けになっていたため、ナポレオンはウジェーヌを軍務から外しておく余裕がなくなってしまったのだった。
 ウジェーヌはそれまで騎兵大隊より大きい部隊を指揮した経験がなかったが、今やイタリア軍全体の指揮を任され、またナポレオンからの指令が届くには5日程度を要したため、自分自身の判断で、半ば独立して指揮をすることとなった。(P31,32)

 ウジェーヌは3日間、ヨハン大公の優勢な軍勢の前に堅実に後退をおこなっていたが、4月14日にヴェネツィアの北38マイルのサチーレへと追い詰められた。このサチーレの戦い【ウジェーヌが指揮した最初の会戦でもある】は彼の経歴における最大の敗戦となった。ウジェーヌはあまりに手柄を切望しすぎていたし、また、イタリア王国民を侵攻に晒すことを嫌がっていたのだった。(P32)

 翌日【5月8日】ウジェーヌは西方で陽動をおこなった後、ピアーヴェ川を中央と東方で渡って激しく攻撃した。奇襲を受けたオーストリア軍は反撃したが、部隊の大部分は遙か遠くの川岸にいたままだった。ウジェーヌはサチーレでの敗戦を埋め合わせる明確な勝利を得て、ヨハン大公に対する優勢を確立した。ウジェーヌの幕僚【の一人】は書いている。
「殿下は皇帝陛下の子息たるに相応しいことを証明した。私は殿下の動じなさ、冷静沈着さに感心した。殿下に唯一欠点があるとすれば、勇敢過ぎるということだ。」(P33)


 その後ロシア遠征での冷静な指揮ぶりなどで大陸軍の中でも一目置かれる存在となるも、本人は遠征のあまりの悲惨さに心を痛め、軍人としての栄達はいらないと思うようになったとか。

 ナポレオンがロシアからフランスに帰国した後の指揮権はミュラに任されましたが、ミュラも帰国するとベルティエに説得されていやいやながらもウジェーヌが指揮を執ることになり、彼はあらゆることを堅実に、また注意深く処理していったとか……。




 人物評に関してですが、ウジェーヌに他の元帥達のような貪欲さがなく、忠誠心が高めであったことはとりあえず置いておきまして……(それだけでも当時のナポレオン周辺の人物としては希有で、貴重なことですが!)。

 ウジェーヌがどう優秀であったか、という件について。

 彼の実父も将軍としてある程度は名を挙げた人物なのか、軍事大臣になったりしているので元々遺伝的な素質はあったのかもですが、実父が処刑された後、母の愛人となったオッシュ将軍(ナポレオンのライバルであり、ナポレオンも「戦争の達人」と評したとか)に学んだり、ベシェールに学んだり、ナポレオンからも色々教えられていたそうで、またウジェーヌ自身謙虚で良く学んだようです。

 最初の会戦となったサチーレの敗戦からウジェーヌは学び、実直な性格とも相まって、戦場となる場所の地形と、会戦の状況を自分自身で必ず良く見るように心がけ、また戦いの最中は常に重要な地点にいるようにし、兵士達に自分自身の勇敢な姿を見せることで勇気づけたのだそうです。

 マクドナルド元帥などはその回想録の中で、1809年のウジェーヌの指揮の失敗と臆病ぶりを誇張して、自分の方が活躍したのだと思わせようとしているらしいのですが、実際にはウジェーヌの指揮は優れていたのだとか。



 ウジェーヌは派手さはないかと思いますが、性格は誠実で、非常に冷静かつ勇敢、有能であったということで、ナポレオン麾下の将軍の中でもっと知られていい人物なんではないでしょうかね~。

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話

 先日購入した『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の、ある程度の分量がある序論(introduction)を読んでいっているのですが、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話が出てきて、非常に面白いです。





 以下、ちゃんとした和訳でなく、特に面白いと個人的に思った箇所を要約で挙げていきたいと思います。〔〕内は、どこの国の将軍かと、参考サイトです。

 まずは、「アマチュアとプロ」という章から。

 1807年戦役で当初司令官であったブクスホーデン〔露:なぽれぼ〕はアレクサンドル1世によって解任され、年下で反目していたベニグセン〔露:日W〕が司令官になり、ブクスホーデンはベニグセンに決闘を申し込んだ。

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xiv
 ……ブクスホーデンは、アウステルリッツのゲームの盤上で印象深いのですが、1807年戦役の司令官を最初やっていたという印象はありませんでした(^_^;


 「ドラマチックに無能な指揮官」として、若くて性急なオラニエ公〔英蘭:日W〕と、精神的に不安定だったアースキン【1813年に精神錯乱で自殺した】〔英:英W〕(両方ともウェリントン公の部下)が、やたらめったら目立つけども、多くの連合軍の将軍は目立ちはしないけど有能だったんだよ。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xiv

 ……オラニエ公が有能か無能か、という件は以前このブログで色々書いてました。↓

オラニエ公は無能なのか? (2011/05/14)
オラニエ公の評価 (2011/05/22)
オラニエ公周辺の評価 (2011/07/22)
ワーテルローにおけるオラニエ公の命令とオムプテーダ大佐 (2015/10/03)
オラニエ公の評価、再び (2015/11/22)

 今、R/Dさんの「祖国は危機にあり 関連blog」の去年のエントリである「ワーテルローへの道」を読んでいっているのですが、ナポレオンがエルバ島からパリに向かっている途中ですでに、オラニエ公は連合軍がフランスへ侵攻する案をさかんにまわりに呼びかけていて、まわりから「若くて性急で困る」という扱いを受けていたようです(^_^;(尤もその後準備が整ってくると、ウェリントンもグナイゼナウも、フランスへの侵攻を主張し始めたのでしたが)

 アースキンという人物は知りませんでした……(半島戦争に関して良く知らないので)。



 次に、「指揮官のタイプ」という章から。

 ブリュッヒャー〔普:日W〕は兵士達をやる気にさせる才覚がむっちゃあったタイプの指揮官。ベルティエ〔仏:日W〕はスタッフワークに才覚がむっちゃあったタイプ。
 クトゥーゾフ〔露:日W〕は会戦レベルでの戦術よりも、戦役における戦略次元とか、政治的外交的な能力に秀でていた。スールト〔仏:日W〕もそういうタイプで、彼は会戦では奇妙なほど優柔不断だった。シュヴァルツェンベルク〔墺:Biography: シュヴァルツェンベルク元帥〕は複数の国を協力させるという点で、他の指揮官にない能力を持っていた。
 行政官として有能だったタイプの指揮官もいる。ベレスフォード〔英:英W〕は兵士達の胃を満たすことに特に気を配った。
 行政官としての能力は単に兵站の問題だけではない。ダヴー〔仏:日W〕はワルシャワ公国の創設を監督したし、スーシェ〔仏:日W〕は東部スペインのアラゴン地方を、軍事的な手段だけでなく、分離派の感覚を活かして利益を増大させる形で平和な状態にした。
 ムーア〔英:英W〕やシャルンホルスト〔普:日W〕は、部隊を訓練したり、軍事的な教育の手腕で秀でていた。
 複数のカテゴリの能力を持っていたウェリントンやナポレオンのような将軍は非常に例外的な存在であった。ダヴーはそのような能力を持っていたかもしれないが、真に独立した指揮権を持たされたことがなかったため、それを発揮するチャンスがなかった。
 兵科毎の専門性もある。ナンスーティ〔仏:英W〕は重騎兵の、ラサール〔仏:英W〕は軽騎兵の専門家であった。有名な例外はセバスティアニ〔仏:英W〕で、彼は1805年戦役と1812-14年戦役では騎兵を率いたが、半島戦争では歩兵を指揮していた。バルクライ〔露:日W〕やクトゥーゾフも、多種兵科に通じていた。
 砲兵将校であったナポレオンは砲兵を重視する傾向にあった。逆にウェリントンは歩兵を重視し、重要な地点に現れて(軍司令官なのに)自分で大隊を指揮することが多々あった。ブリュッヒャーは元騎兵将校で、騎兵の戦闘に立って突撃を指揮するのが大好きだった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xvi,xvii


 こういう、タイプ別の話ってすごく興味深いですね。「戦国最強武将は誰か!?」とかじゃなく……。

 人間誰しも得意不得意、好き嫌いがあって、得意なこと、好きなことをやった方が(やらせた方が)うまくいくじゃないか……という考え方を私は昔からある程度していましたが、さらにここ数年はその傾向が強まっています(ただし、やって(やらせて)みれば何でもできる人とか、嫌いな仕事だからなるべくテキパキと片付ける人もいるとか、あるいはなんでもできることが必要な職業もある、というようなことを忘れてはならない面もある)。それに対して日本の教育界や産業界は、スペシャリストよりもジェネラリスト志向過ぎて、世界から取り残されてしまっている……(と、橘玲氏なんかが指摘されております。例えば、橘玲氏「働き方が未来の生き方をデザインする」インタビュー【第2回】)。



 次に、「勇敢な人々」という一章から。

 貪欲さと大志は最も大きなモチベーションだった。ランヌ元帥〔仏:日W〕を褒めた人にナポレオンは言い返した。
「ランヌをそんな風に言うのは間違っている。ランヌとネイ〔仏:日W〕は、もし君の腹をかっさばくことが有利になると思えばそうする奴らだ。だが戦場では、それが無上の価値なのだ」
 ベシェール〔仏:日W〕とヒル〔英:英W〕は優しさで部下達から慕われており、ワグラムの戦いの最中にベシェールが戦死したらしいという噂を聞いた時、老親衛隊の兵士達は嘆き悲しんだ。
 反対に、暴君のような指揮官がしばしば最強の部隊を作り出した。ウェリントン麾下の名高い軽師団を育成した「暗黒のボブ」ことクラウフード【規律に厳しく暴力を振るう傾向にあった】〔英:英W〕や、 ナポレオン麾下の最強第Ⅲ軍団を育成した「鉄の元帥」ダヴーなど。
 勇敢さは彼らを伝説にした。モンブリュン〔仏:英W〕はボロディノの戦いの最中、砲弾で鞍から落ちる時に「いい弾だ!」と言い、その後腹に受けていた傷で亡くなった。ラトゥール=モーブール〔仏:英W〕はライプツィヒの戦いで片脚を失ったが、従者がその姿を見て泣くのに対して言った。
「何を泣いてるんだ、この間抜けが? これでお前はブーツを一本しか磨かなくてよくなったんだぞ」

 英雄の見かけが常にヒロイックだとは限らない。ハゲでメガネのダヴーは教師のようだったし、ヒルは田舎紳士のようだった。ナポレオン麾下の抜きん出た騎兵指揮官であったケレルマン〔仏:日W〕は「不健康そうで、うだつの上がらない風采だった」という。
 外見によって忘れがたくなる人もいる。火のような赤髪のネイ、かぎ鼻で目つきの鋭いバグラチオン〔露:日W〕、ずけずけと物を言う、自ら戦う指揮官であった親衛隊のカンブロンヌ〔仏:日W〕は文字通り「傷があまりに多くてそれが入れ墨のようだった」。モルティエ〔仏:日W〕は身長が2m近くあった。
 動じなさも賞賛されるべきだろう。ヨルク〔普:日W〕は1814年3月30日のパリ郊外で、自分のすぐ側に立っていた兵士が銃弾を受けて自分に倒れてくるのを見て言った。
「なんでこいつは、俺にこんなにひっついてくるんだ?」


 ベシェールは岸田恋さんの『戦争と平和』のオサレな印象が強くて、優しさで兵士達から慕われていたというのは意外でした。

 勇敢な人達の話は「すごい……!」の一言。ケレルマンは日本語版Wikipediaの記述が賞賛の嵐で非常に印象的でした(しかし有能すぎてナポレオンに疎まれて出世できなかったとも……?)。ヨルクの日本語版Wikipediaの最後の記述も面白かったです。



 次に「統率力の秘密」という一章から。

 将軍毎に、部隊に命令を出すスタイルも違っていた。ウェリントンは短くて明瞭、シンプル、よく聞こえる声で命令を出したが、「暗黒のボブ」クラウフードは部下達に辛辣で皮肉な言葉で命令したし、粗野なウェールズ人であったピクトン〔英:英W〕は荒っぽい言葉をばらまきまくっていた。
「行け、このクズども! 行け、この悪党ども!」

 ネイは活力溢れる激励の言葉を多用した。
「躊躇するやつにのみ、死神が手を伸ばしてくる!」
 と彼は1814年のモンミライユの戦いで叫んだ。
「見ろ! 死神は俺には触ってこないぞ!」
 1年後、カトル・ブラで彼は言った。
「将軍、フランスは危機に瀕している。超人的な努力が必要だ。騎兵を率いて、イギリス軍の土手っ腹に突っこむんだ。やつらを倒せ! やつらを足下に踏みにじるのだ!」

 しかし最も重要なのは、落ち着いた二言三言で部下達を安心させることや、あるいは重要な場所に自分自身がいるようにするということだった。
「アーサー【ウェリントン公爵のこと】の奴は、売春婦のとこかよ?」
 イギリス兵の一人が、不安そうにウェリントンの姿を探しながら聞いた。
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」

 ミロラドヴィチ〔露:日W〕は激しい砲火の下でもそのウィットで部下達を笑顔にさせ、自身の存在が部下の邪魔にならないように気を配った。彼は良く言っていた。
「君が一番だと思うようにやってくれ。私のことは単なるお客さんだと思って欲しい」

 将軍達は、他の者とは超越した存在であるというイメージを作ろうとする傾向にあった。
 ネイ元帥は幕僚達と大きな距離を取っていた。行軍中も部隊の先頭よりさらに先におり、必要ない限り幕僚達に話しかけることもなかった。食事も一人で、自身の副官とさえ一度も一緒に食べはしなかった。彼は超然とした態度からのみ尊崇の念は得られると思っていたのかもしれないが、時にその度が過ぎていた。

 モルティエは1805年のデューレンシュタイン〔英W〕の戦いの時、兵士達を見捨ててボートでドナウ川を渡って逃げられるチャンスを拒絶した。
「ダメだ! 我々はあの勇敢な仲間達と離ればなれになってはならない。彼らと一緒に助かるか、あるいは一緒に死ぬかだ。」

 ブリュッヒャーは、ナポレオンを打倒しなければならないという強迫観念のゆえに、何度も敗北してもまた立ち上がることができた。

 命令に対する不服従が優れた結果をもたらすこともあった。その良い例は、1809年のアスペルン・エスリンクの戦いで、ムートン〔ロバウ伯:仏:英W〕とラップ〔仏:英W〕がナポレオンの指示を無視して、ドナウ川の北岸のフランス軍の橋頭堡の脆弱な東側面を守るため、エスリンクの村を維持し続けたことである。
 だが不服従が裏目に出ることもあった。ピクトンは1812年のバダホスの戦い〔英W〕や翌年のビトリアの戦い〔日W〕ではそれで成功したが、1814年のトゥールーズの戦い〔英W〕では不成功に終わり、重い代償を支払うことになった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xx~xxiv

 「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」ですが、1811年のアルブエラの戦いの時にウェリントンは戦場に間に合わずにベレスフォードが指揮してまして、ウェリントンは会戦の5日後にようやく到着して自分が間に合わなかったことを悔やんだそうで、そのアルブエラの会戦の最中のある兵士の言葉です(『Wellington: A Journey Through My Family』から)。
 より詳しく書けば、Cooperという兵士の回想で、
「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」
「さあな。俺は彼の姿を見てないよ」(Cooper)
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」
 で、Cooperは『私もそう思った』と書いているようです(文献によっては、その時に「俺もそう思う」とCooperは言った、と書いてありますが)。
 ウェリントン公爵は敬愛というよりは畏敬されていたそうですが、彼がいれば負けないという信頼をも得ていたそうですし、彼は戦場を縦横無尽に駆け巡り、重要な地点に自ら姿を現して自ら大隊レベルの指揮を執るというスタイルだったので、兵士達はウェリントンの姿を実際に見ることが多く、このような会話になったのかなぁと推察します。
 



 次に、「危険と罰」という一章から。

 敵の砲火に狙われやすくなる飾り立てた軍服を着ていたミュラ〔仏:日W〕をコサック兵達は感嘆の目で見ており、殺してしまうよりも捕虜にしたがっていた。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xxv


 この段では、「多くの将軍が敵の砲火に狙われるのを避けるため、平服を着ていた」とあって、その例として?ウェリントン、クトゥーゾフ(ボロディノでは灰色のチュニックと緑色のロングコートを着ていた)、そしてナポレオンが出てくるのですが、以前書いてました配色本と、軍服本 (2012/03/07) で、「きらびやかな軍服を着ている周りの幕僚や兵士達の中で、平服のウェリントン公爵は逆に目立っていた」とか「ウェリントンが平服を着ていたのは、派手な服が嫌いで、渋い服を好んだから」というようなことを読んでいまして、そちらの方がなんか説得力があるような気がします。



 「政治面」という一章から。

 将軍が他国に仕えるのは珍しいことではなかった。なぜならば18世紀においては人材が不足しており、少なからぬ国が他国からそれらを招く必要性に駆られていたからである。ナポレオン戦争期においては、特にスペイン軍とロシア軍は、自国の有能な将軍の不足により、多くの外国人指揮官に部隊を委託し続けた。最も有名なのはこの時期のロシア軍の将軍達で、ベニグセンはハノーファー人であったし、ブクスホーデンはドイツ系エストニア人、バルクライはスコットランド人を祖先に持つリヴォニア人、ランジュロン〔露:ウォーゲームで歴史に思いを馳せる〕はフランスの亡命貴族で、エカテリーナ2世に仕えた。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xxviii


 ロシア軍はナポレオン戦争期、確かにそういう感があるわけですが、その後自国の将軍で軍事強国になっていく?のか、そこらへんも興味深いです。

 あとプロイセン軍でも、シャルンホルストはハノーファー軍の出身ですし、グナイゼナウはザクセン軍の出身ですね(ドイツ人同士ではあるわけですし、ハノーファーの場合、イギリスと同君の国だったので、そこらへんの事情もありますが)。



 こういう、キャラクター性的な話は大好きです。

 R/Dさんによる、「ナポレオンによる元帥評」も興味深いですのでぜひ。

 ↓こちらなんかもあります。
Shakos『Napoléon 1806』に出てくるフランス軍指揮官の人物像まとめ (2018/08/23)


1990年代以降のワーテルロー論争と、お勧めのワーテルロー洋書

 承前。→4カ国(語)の膨大な資料から客観的に構築された最新のワーテルロー本? (2020/01/14)

 試しにその新しいワーテルロー本と、私が以前買ったものの偏向が指摘されているワーテルロー本のそれぞれの著者名「John Hussey Peter Hofschröer」(ジョン・ハシー ピーター・ホシュレー)【今回Google先生が発音は「ピーター・ホシュレー」であると表示してきましたのでとりあえずそれで】で検索してみたら、『Wellington: Waterloo and the Fortunes of Peace 1814–1852』という、ワーテルローの戦い200周年直前の2015年6月9日に出された本のBIBLIOGRAPHY(参考文献)の項に両者の名前が出てくる段落がGoogle Booksで出てきました。


 ↓私が以前買ったホシュレーのワーテルロー本。1998年刊行。




 1815年戦役は常に論争の的となってきた。フランス敗北の原因究明や、あるいはナポレオン、ネイ、グルーシーの誰がどれだけ非難されるべきなのか。逆にウェリントンと、彼の率いたイギリス軍や他の同盟国軍が賞賛されるべきなのか。さらにまた、勝利に対してのプロイセン軍の寄与度はいかほどであるのか。この最後の論点は1990年代に、ピーター・ホシュレーによる2冊の分厚い本と数多くの論文によって再び脚光を浴びることとなった。ホシュレーの著作はウェリントンを激しく非難し、プロイセン軍は本来受けるべき賞賛を今まで受けてこなかったと主張したのである。不幸なことにそれがきっかけとなった論争はすぐに過熱してしまい、その中で、ホシュレーと彼に対する批判者達(特にジョン・ハシーだが、他の多くの者も含む)の真の貢献は曖昧になってしまいがちであった。今はその混乱は終息したように思われ(と言ってしまうのは危険かもしれないが)、ホシュレーの独自の主張の多くは一般の承認を得ることには失敗したように見えるが、彼のウェリントンへの批判は、少なくともその一部は、正当なものであり、そしてワーテルローの勝利に対するプロイセン軍の貢献度に関する一般の認識は改善されたか、あるいは改善されるべきである。
『Wellington: Waterloo and the Fortunes of Peace 1814–1852』P667


 ホシュレーが史料を自説に都合の良いように切り取って本を書いた箇所が何カ所か指摘されているようです(例えばR/Dさんの「Hofschröerの問題点」を参照)。


 ただ、それじゃジョン・ハシーの新しいワーテルロー本を買えば良いのかどうかですが、この本はキャンペーン全体の戦略的および運用的側面(兵站、貧弱なコミュニケーション、相反する情報など)に焦点を当てて記述されており、戦闘に関してはほどほどらしいです(ただし新しい知見が相当に盛り込まれているらしい)。

 私個人としては論争の面とかにより興味のあるところなのですが、先ほどの引用部分の後にこうありました。

 ワーテルローの戦い200周年【2015年】に近づくにつれ、多くのワーテルロー本が発刊されるのは確実である。その流れで発刊された本の中で今まで私が読めたのは2014年10月発刊のGareth Gloverの『Waterloo. Myth and Reality』のみで、これは複数の論争点(プロイセン軍関係だけでなく)の興味深い議論を含む、公正で標準的な研究だが、学問的な取り扱いの欠如によって損なわれてしまっている。Gloverの最も有益な著作は、これまで忘れられていた、あるいは未発行であったワーテルローの戦いに関する多くの報告や手紙を『The Waterloo Archive』というタイトルで何冊も発刊したものである。
『Wellington: Waterloo and the Fortunes of Peace 1814–1852』P667,8







 ううーむ……。『Waterloo. Myth and Reality』のAmazon書評も見てみた(全部いっぺんに電子翻訳できるようになっていて便利!)のですが、毀誉褒貶が激しいですね。

 『The Waterloo Archive』の方は実は第1巻を以前、気の迷いで購入してしまったのですが、私レベルの人間が読む本ではなかった……(T_T) 実際、全然読んでません(また、手紙の類の英語は私のレベルでは読めないとも思われ……)。



 ちょっと興味深かったのが、ハシーの本のAmazon書評で、こう書かれていたことでした。

 この本はワーテルローキャンペーンの初心者が読むべき本ではありません。最初の導入としてはバルベロを試してみて、これらの戦いのより詳細な戦術的な分析のためにはアンドリュー・フィールドを試してみて下さい。しかし、ワーテルローに精通している人にとっては、この本は印象的な読書を提供し、賞に完全に値するでしょう。Kindle版ではマップが圧縮されているため、Kindle Paperwhiteの倍率機能があっても、テキストはピクセル化され、ほとんど読めません。



 バルベロというのはアレッサンドロ・バルベロで、↓この本のことでしょう。



 私は一時期、ところどころ飛ばしながら1/3くらい読んだかと思うのですが、エピソード的な面白い話のオンパレードで、確かにある意味ワーテルローの導入には最適かも。ただ、英語が簡単でない……(T_T)

 個人的には、多分子供向けに易しめの英語で書かれている『Children at the Battle of Waterloo』をオススメします。こちらは数人の子供の視点から書かれているのでワーテルロー全体を見ることはできないのですが、非常にエピソード的であり、著者が色んな本から知見を得てきて戦術的なこととかも書かれている感があって、面白く読めると思います。マップも入ってますが簡略図なので、Kindle版でも問題ないです(細かい地図が入っている本は、絶対Kindleで買ってはいけないです!)。



 この本については、例えば→ワーテルローにおけるオラニエ公の命令とオムプテーダ大佐 (2015/10/03)




 アンドリュー・フィールドの本というのは全然知らなかったのですが、↓これらのもの。




 すべてフランス側の視点で書かれているのですが、どうも、前回のエントリで挙げていた『The Battle of Quatre Bras 1815』という本が完全にイギリス側からの視点(のみ)で書かれているのですが、その著者と一緒にワーテルローの戦場巡りとかしていて、「そうだ、フランス側の視点の本があったらいいんじゃね?」と思って書かれた本? 英語で書かれているワーテルロー本はイギリス側からの視点ばかり(それから、一時期ホットであったホシュレーはプロイセン側からの視点で書いている)という傾向があると思われるので、それを埋めるために書かれた本という感じがあるのかも(日本だとむしろ、フランス側からの視点が中心になりがちな印象がありますが……)。


 ……と、色々見てきましたが、とりあえず私は新しいワーテルロー本には手を出さないでおいて、先日買った『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』を読まなければ……(ウジェーヌのところだけある程度読んだのですが、非常に面白いです)。あるいはワーテルロー本としては、とりあえずバルベロの『The Battle』に再挑戦すべきですね……(どなたか、『The Waterloo Archive Volume I: British Sources』いりませんか?(^_^;)。


4カ国(語)の膨大な資料から客観的に構築された最新のワーテルロー本?

 R/Dさんの「祖国は危機にあり 関連blog」の昨年分を印刷して読んでいってまして、「ワーテルローへの道 11」まで読みました。

 そこで書かれていたのが、史実でナポレオンがシャルルロワからワーテルロー戦役へと進発したのだけども、それを知っている後世の人間が後知恵で色々考え違いをしてしまっている……という話で、興味深かったです。


 で、R/Dさんが読んでいっているウェブページ「The campaign of 1815: a study」(のpdf)をまとめたというPierre de Witという人がどういう人なのか気になりまして……。

 どうやらオランダ人の熱狂的なワーテルロー研究家で、今までのワーテルロー研究では、参加した英仏独蘭4カ国語すべての資料は網羅されていなかったので、それを初めて網羅した資料集をウェブページ上に集積した……ということでしょうか?

 検索していってる途中で、↓の本で、de Witの資料にすごく助けられた(し、本人と色々話して楽しかった)、というような事が書かれていました(→Google Books上で読みました)。



 この2冊の本は出版年が2017年とすごく新しいですし、様々な賞も獲得しているということで、これからワーテルロー本を読もうということなら、この2冊が良さげ……ということなのでしょうか?

 私が以前買っていた(そしてまだごく一部しか読めていない)ワーテルロー本を書いたPeter Hofschroerは今回R/Dさんのエントリでも後知恵で書いていることが指摘される側になってまして、もはや読むに値しないのかも……(T_T)


 一方、なんか良くわかんないですけど「de Wit」を検索していて引っかかった「Reshaping the history of Waterloo 1815」というページには、これまた以前買っていた(そしてブラウンシュヴァイク公が戦死の前日に青白い顔だったこと以外全然読んでない)『The Battle of Quatre Bras 1815』とその著者との話が出てきてまして、この本は割と信頼できる側の本ということ?






 積ん読している内にどんどん事態が進んでいってしまっているのかもですが、研究が進むのは素晴らしいことですね!(>_<)

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像、その2

 ドイツ語本の『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen』ですが、年始に時間があったので機械翻訳の作業をしてましたところ、王妃ルイーゼフリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像に関して興味深い記述がありました。

 と、その前に、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(と王妃ルイーゼ)のキャラクター像については以前(5年前!)、色々と書いてましたので、そちらもどうぞ。

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像 (2015/02/11)
不定詞王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (2015/03/12)
王妃ルイーゼが敗戦8日後にキュストリンで王と再会する (2015/05/20)
ウォーゲームを広げたのはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世だった? (2016/02/16)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は『咲-Saki-』の野依プロであるバキッ!!☆/(x_x) (2016/05/11)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が側室を? (2016/06/04)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と音楽人形 (2016/06/08)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と鉄十字章 (2016/06/11)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の散歩とジョーク (2016/08/05)
「第九」はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に捧げられていた! (2016/09/08)


Frederick William III of Prussia

 3人の姉妹はより幸福だったり不幸だったりしたが、ルイーゼだけが姉妹で唯一、気持ちの持ち方で結婚生活を調和させることができた。彼女の夫は気まぐれで、頑固、わがままで知られていた。【……】
 【……】王は時によってまるで別人であった。あっという間に不機嫌な専制君主になったかと思えば、すぐに感情的で繊細な私人となり、【……】
 フリードリヒ・ヴィルヘルム【3世】は、王室の家庭生活が厳格な権威主義的で家父長的であった時代に生まれたのであったが、私生活と政府を調和させ、新しい精神の象徴となった。ヘルマン・フォン・ボイエンは、プロイセンの陸軍大臣として、国王を身近なところから知っていたので、優れた記憶力、思慮深さ、そして常に情報に通じている能力を証言している。彼はまた、王の個人的な勇敢さ、さらには冷静沈着さ(「私は王の身体に、危険を怖がる身体症状が出たのを見たことがない」)を強調し、彼の魅力(「アレクサンドル皇帝と比べても、王は美男子と見なされた」)について説明している。だが他方、ボイエンはその証言の中で、王の政治的判断を評価することは難しいとも述べている。むしろ王は、詳細な質問をして細部にまでこだわりすぎ、どんな決断もできなくなるような悲観論に陥るのであった。王には機知と力強さが欠けていた。一方、王妃は新しい見解にもオープンで、自分をうまく表現でき、王に欠けている決断力を持っていた。ボイエンは、王の同意は「主に王妃の寛容な振る舞いによって得られた」と書いている。
『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen』P92


 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は一般に無能視される人物ですし、こういう、長所と短所を並べて書いてくれる資料は大変素晴らしいと思います。また、王の欠点を補えるようにして王妃の長所があったことも大変興味深いです。

 以前、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像に関してエントリにまとめていたのはもう5年も前のことで、その後いくらか収集していた資料も増えているので、改めてそのキャラクター像に関して色々な本から引用をしていこうと思います。前回よりは、その長所が判明してきたように思います。

 しかしまずは短所を述べた(同じ資質であってもそれを短所と見なす)資料から引用していきましょうか。

 フリードリヒとの約束で夫の言う事に従うようにという事になったものの、ルイーゼはこのホーエンツォレルン家の家風に馴染めず、不満だった。ルイーゼは天性の自然児だったからだ。またフリードリヒにも、気まぐれな所があった。
 彼は真面目で内向的だったが怒りっぽい所もあり、時折怒りを爆発させる事があった。最良の処方箋は、ルイーゼが彼に譲歩する事だった。王太子は反論や批判に、極度に傷つきやすい面があった。
とはいえ、二人は愛し合っていた。ルイーゼの天性の明るさと優しさと感情移入の能力により、二人は仲直りした。
『プロイセン王妃ルイーゼ 上巻』P27


 この資料も、ルイーゼのある意味希少な資質により二人が仲良くできたことが書かれていて、素晴らしいです。


背が高く美男で善意そのものの顔つきだが、しっかりした性格をあらわす生気に欠けた」(マルボ男爵)フリードリヒ=ヴィルヘルム3世……フリードリヒ大王の甥の子どもで36歳のプロイセン国王は、意志が弱くて決断力に欠けるところから、つねに王妃とルートヴィヒ親王に押しまくられていた。
『ナポレオン下』P229


 外見的には非常に良かった!?


 1796年から1800年までの間にプロイセンでは支配者の交替があったが、その政策は変わらなかった。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世ほどにも活力と能力があったならば必ずや積極的な行動に移ったであろう環境においても、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は弱いと言えるほどに平和愛好に執着した。この【中立】システムの創設者であったハウクヴィッツでさえもが、自身が薦められている対仏同盟への参加を、若き王に考慮するように勧めた。しかし王は戦争に対しての強い反感を難攻不落なほどに抱いており、プロイセンを第2次対仏同盟に参加させることはなかった。
『Hanover and Prussia 1795-1803』P29,30


 この部分ですが、割と真っ向からその主張に反対する、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の方が正しかったのだという本(というか論文)もあります↓

 要するに、1797年にフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が息子に王位を譲った時のプロイセン軍は、機会主義的な中立政策を支援するのに最も適していたのだ。
 27歳にしては陰気で悲観主義的なフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、ほとんどの状況で最悪の仮定をしがちであった。ほとんどの歴史家は、フランスの脅威に際してプロイセンにおけるタカ派の助言を彼が汲むことができなかったのがまずかったと見なしている。だが実際には、フリードリヒ・ヴィルヘルムの慎重な物の見方こそが、その当時のプロイセン軍の実態に合っていたのである。

『Hubertusberg to Auerstadt: The Prussian Army in Decline?』P322


 個人的には、○×の二分法ではなく、ある面では悪く、ある面では良く……というようなことが複雑に絡み合っている、というのが実状であろうとも思うのですが。


 さて、この流れを受けて、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に割と好意的と思われる記述の本から引用をしていきます。

Frederick William III, King of Prussia (1770-1840)
 フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とその二番目の妻であるヘッセン=ダルムシュタット出身のフレデリカ・ルイーゼとの間の息子であり、彼は1797年の父の死によって王位を継承するが、その前に1792-4年の戦役に参加し、1793年にメクレンブルク=シュトレーリッツ出身のルイーゼ王妃と結婚していた。幾分優柔不断であったが、父の統治時代の非常に抑圧的な法律の一部を撤廃したり、財政状況を改善させようとした。ルイーゼ王妃にけしかけられて1806年にナポレオンに敵対することになったものの大敗北を喫し、領土の多くを失い、従属国家の役割を強制されることになった。しかしこのことが、フリードリヒの大臣であったシュタインやハルデンベルク、あるいは軍事分野ではシャルンホルストやグナイゼナウによる国家再建と愛国心への動きを促したが、1810年に王妃の早すぎる死が彼の心の支えを失わせることになった。プロイセン軍は1812年のロシア戦役でナポレオンを支援したが、ヨルク軍団の離脱が王をして連合軍陣営へと進ませることになった。民衆の感情に合わせた政策を強要されてフリードリヒ・ヴィルヘルムは「解放戦争」に全面的に参加し、そのことによってナポレオンの没落に大きな役割を果たすことになった。彼はバウツェン、ドレスデン、ライプツィヒなどの多くの戦いの戦場に身を置いていた。戦後彼はアレクサンドル1世とメッテルニヒに従属する役割を果たし、自由主義に反対していたにもかかわらず、民衆からの好意を失わなかった。プロイセンは失った領土のすべてを取り戻したわけではなかったが、プロイセンはドイツにおける指導的な国家となり、ドイツ帝国の基盤を整えた。フリードリヒ・ヴィルヘルムは1792年と1793年の戦役における自分の軍務に関する2つの報告を書いた。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P124,5


 抑圧的な法律(の一部)を撤廃したり、財政再建に努力したりしたことは褒められて良いことかと(ただし、この後に引用する『Germany at War: 400 Years of Military History』には、「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は約束していた立憲君主制への移行を実行しなかったものの、彼の財政再建は未来の繁栄を確かにする役割を果たした。」ともあり、改革に対して消極的だった面も全然あるということは理解しておくべきとは思います。

 「彼はバウツェン、ドレスデン、ライプツィヒなどの多くの戦いの戦場に身を置いていた。」の辺りも褒められるべきことかとも思ったのですが、良く考えたら1813、14年戦役の時にはロシア皇帝アレクサンドル1世や、オーストリア皇帝フランツ1世も戦場にいたのでしたっけ?(それで、総司令官のシュヴァルツェンベルクがえらい苦労するという……)


 財政再建、あるいはプロイセンの国庫財政に関してはこういう記述も。

 この王子は1797年に王位を継承した時にフランスとの中立政策という遺産を受け継いだが、同時に浪費家であった父の借金をも受け継ぐことになった。これらの問題が彼の統治を特徴づけた。フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)によって始められ、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世によって継続されていた改革は、中断されなかった。様々な努力によって国家財政は安定化されたが、必要な改造のための、あるいは過度の投資のために支払う資金がないということがよくあった。シュタインやハルデンベルクなどのこの国の改革者はさらなる変化を要求し、シャルンホルストやグナイゼナウなどの軍事改革者も多くの資金を切に必要とした。これらの要求を適切に満足させることなど不可能だった。
『Germany at War: 400 Years of Military History』P452,3



 理由の面には切り込んでいないものの、↓の説明文は、結果論的にはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は名君じゃないか、と言っている?

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
 やや憂鬱質の人物で、歴史上彼はひ弱な君主と見なされているが、しかし彼は歴史上最も過酷な悲劇の時期を通してプロイセンを導き、ヨーロッパの列強の位置へと引き上げた。
『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』肖像画下の説明



 同書には、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が1815年の対ナポレオンのプロイセン軍総司令官にブリュッヒャーを選んだ理由がある程度詳しく述べられているのですが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は様々に考慮すべき諸事情の中から、かなり悩んだ末に、恐らくかなり賢明であろう選択肢を選んでいる(ただし、逆の選択肢だとうまくいかなかったという証明はできませんが)ように見え、そこらへんを見るだけでも、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は単なる暗君ではないと言えるのではないかとも思います。

 ↑の件については↓に書いてます。

1815年にブリュッヒャーが選ばれた理由 (2013/07/13)


ナポレオン戦争期のイギリス軍騎兵は統制が難しかった?

 ワニミさんの購入された『Cavalry from Hoof to Track: The Quest for Mobility』ですが、ナポレオン戦争期のところも読んでみていて、イギリス軍騎兵の「統制が難しかった」点について書かれているのに興味を持ちました。

 というのは、以前『GameJournal No.41』(付録ゲーム「ワーテルローの落日」)に寄稿したヒストリカルノートの中で、私自身以下のように書いていたからです。




 【フランス軍の第Ⅰ軍団がイギリス軍の守る尾根に近づいてきて】ここで完璧なタイミングでの騎兵突撃を命令したのはアクスブリッジ卿であった*3(*3:通説ではウェリントンによる命令とされることが多いが、ウェリントンは騎兵をまったく指揮していなかった)。【……】
 【……】1500騎の英軍騎兵が全力で追撃をかける。
 だが実は、彼らは前線の場所を越えて突撃することは禁止されていたのだ。彼らの価値は戦線に存在することであり、またイギリス軍騎兵は突撃するとコントロールが効かなくなってしまう傾向があった。騎兵将校達は皆、騎兵達を押しとどめようと精一杯努力した。しかし、逃げる敵の背中を追いかける事ほど騎兵にとって爽快なものはなく、その誘惑は強烈だった。イギリス軍騎兵達は大波の様に丘陵を南へ走破して戦線後方に800mも進出し、その過程で手に届く限りの何もかもを滅多斬りにした。
 だがもちろん、これは危険な行為だった。彼らは自分達が15分前におこなった「完璧なタイミングの騎兵突撃」を、自らが受ける順番になろうとしていた。今度はフランス軍騎兵が彼らに対して、突撃をおこなったのである。その中でも特に恐ろしいほどの大ダメージをイギリス軍騎兵部隊に与えたのはフランス第Ⅰ軍団の右端にいたジャキノーの槍騎兵部隊(第1騎兵師団)である。彼らがいた場所はイギリス軍騎兵部隊の側面に突撃をかけるには絶好の場所であり、そしてジャキノーは完璧なタイミングでもってそれを命じたのだった。ジャキノーの槍騎兵部隊を含め全体で2400騎のフランス軍騎兵が、疲弊し混乱した状態のイギリス軍騎兵に突撃した。それはまったく戦いとは呼べない、一方的な殺戮になった。イギリス軍側の騎兵指揮官であるポンソンビー少将も槍騎兵の槍に突き刺されて戦死した。だがジャキノーは経験豊かな指揮官であり、深追いにならないうちに引き上げを命じた。
 時刻は2:30になっていた。ウェリントンは重騎兵2個旅団を失った。しかしナポレオンは勝利を意図した本格的な主攻撃を撃退されてしまったのである。
『GameJournal No.41』P22



 もちろん、この「イギリス軍騎兵は突撃するとコントロールが効かなくなってしまう傾向があった。」ということについて、何かの資料で読んだから記事に書いたわけですが、どの本でそれを読んだのかは全く覚えていません(^_^; 『The Waterloo:Companion』で読んだ可能性が一番高いような気がしたのですが、文の量が膨大なので目視検索は諦めました(T_T)

 ↓『The Waterloo:Companion』の、くだんのイギリス軍騎兵突撃(とフランス軍騎兵突撃)の地図。

unit9865.jpg



 私が買った時は6300円ほどだったのですが、2倍以上の値段に……。


 あと、映画『ワーテルロー』を見られた方は、イギリス軍騎兵の突撃シーンと、フランス軍槍騎兵にやられてしまうポンソンビー少将のシーンは結構印象深いのではないかと思います。



(ある程度以上ナポレオン戦争を詳しく知った後だと、映画の表現は色々とおかしいのですが、その主たる要因は砲兵の砲弾が跳ねて兵士の頭や腕が吹っ飛んだり、騎兵のサーベルで兵士の頭や腕がスイカのように斬られていくようなシーンは、当時(1970年?)の技術では無理だったからに違いありませんね……)



 まあそれはともかく、『Cavalry from Hoof to Track: The Quest for Mobility』の記述。

 イギリス軍の騎兵はヨーロッパでも最も優秀であるとみなされていたが、統制がきかないという問題があった。【……】それぞれの連隊は勇敢で、過度なほど猛烈な突撃をおこなったが、コントロールが難しかった。多くの歴史家はウェリントンの辛辣な言葉を引用してイギリス軍騎兵を厳しく批判している。「我が軍の騎兵将校達はあらゆるギャロップのやり方を身に着けていて、敵に対して全力疾走するのと同じ速さで後退する……人は、イギリス軍騎兵はウィンブルドン・コモン【ロンドンにある公園】以外の場所ではまともに機動もできないのだと思うことだろう」 だが歴史家のイアン・フレッチャー【半島戦争におけるイギリス軍について何冊も本を出している】は果敢にも弁護の論陣を張り、ウェリントンの皮肉とそれを根拠にした歴史家達の反応は「イギリス軍騎兵に対して公正でないばかりか、完全に間違っている」と指摘している。
 ワーテルローの戦いにおけるイギリス軍騎兵の効果はウェリントンの示唆した「輝かしさから激しい失望まで」というものとは矛盾している。いくつかの素晴らしい活躍があったにもかかわらず、ウェリントンは自軍の騎兵に完全な賞賛を与えたことはなかった。「我々の騎兵は1個中隊がフランス軍の2個中隊に匹敵するとは思うが、統制が取れないという意味でフランス軍騎兵に相当劣るとも思う……私は我が賞賛すべき歩兵部隊がフランス軍騎兵を戦場から一掃し終わるまで、騎兵を使用することはできなかった。」 イアン・フレッチャーはこう分析している。

 (ウェリントンは)騎兵への不信感を増大させていた。だがこの不信感がイギリス軍騎兵が実力を発揮するのに悪影響を与えていたことも恐らくは確実であろう。なぜなら、イギリス軍騎兵が輝かしい勝利を得た実際例の多くは、ウェリントンがいない場所で勝ち取られたものだったからである。

 慎重なドクトリンにもかかわらず、イギリス軍騎兵の突撃は狂的なものになるのが常で、突撃の成功は戦術の精緻さよりはその力を誇示する態度によるところが大きかった。当のイギリス軍騎兵達自身さえもがが自分達のことを「桁外れなほどの凄まじさと勇敢さも、しばしば無分別さと制御不能さによって減ぜられる」のが常であったと認めていた。
『Cavalry from Hoof to Track: The Quest for Mobility』P73,74


 ウェリントンも随所でイギリス軍騎兵を褒めているような気もしますし(ツンデレ?)、結局のところ自分達はコントロールが効かないとイギリス軍騎兵が認めているんじゃん、とも思うのですが(^_^;、しかし、「ウェリントンがいない場所で活躍した」という分析は結構面白いなと思いました(注に書いていたように、ワーテルローの戦いではイギリス軍騎兵はすべて、アクスブリッジ卿が指揮していたということもあり)。

 「過度なほど勇猛である」ということも騎兵の強みであったようで、フランス軍の騎兵指揮官であったラサール将軍は「30歳まで生き延びた軽騎兵などクズだ」と言ったらしいです。自身は34歳の時にワグラムの戦いで、不必要な突撃をして戦死したとか……。

『王妃ルイーゼとフリードリヒ・ヴィルヘルム3世』第1章を機械翻訳で読みました

 先日、ドイツ語本の『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen(王妃ルイーゼとフリードリヒ・ヴィルヘルム3世:あるプロイセンの愛)』を衝動買いしてしまったのですが、当然ドイツ語はまったく読めないので、ネット上で機械翻訳して読めるよう、スキャンなど色々準備をしてました。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世については↓などをどうぞ。
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像 (2015/02/11)
不定詞王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (2015/03/12)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の散歩とジョーク (2016/08/05)




 で、ようやく、第1章(P9~24)を全部見てみることができました。

 ちなみに、手順としてはこうしてます。

1.本をスキャンする。
2.スキャンした画像データをGoogleドライブに保存する。
3.保存した画像データを右クリック→アプリで開く→Googleドキュメント(するとOCRされる)
4.OCRされたデータをExcel互換ソフトで、原文、英訳、和訳とセルに貼っていく(英訳はGoogle翻訳、和訳はみらい翻訳で)


 読んでいて確認できた(と思われる)のは、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がそのしゃべり方とは異なり、手紙等は普通に?感情豊かに書くことができたようだということです。というのは、引用符と思われるもの付きで、手紙(まだ結婚する前にルイーゼにあてたラブレター)の内容が書かれているので。

 あと、彼は王太子時代の1792年に、フランス革命戦争に父王と共に従軍しており(総司令官はブラウンシュヴァイク公)、その時の戦争の恐ろしい様子を見て、筋金入りの反戦論者になったそうです。なるほど……。

 また、小さい頃に受けた教育が非常に虐待的なもので、それが彼の「過度の罪悪感と自信のなさ」を助長したとか。

 いくらかちゃんと訳せた、彼のキャラクター像に関する記述を挙げてみます。

 王子は恥ずかしがり屋だったが、優しい心を持ち、とても親切だった。彼は人が苦しんでいるのを見ることができず、戦争を大変嫌っていた。彼は貧しい人々にお金を分け与えたため、後の結婚式に時にベルリンの街をライトアップするお金が残っていなかった。
『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen』P18

 王太子に友達がいないのは良く知られていた。王太子の副官であったJohann Georg von Schackを除けば友達にあたるような人を誰も見たことがなかった。フリードリヒ・ヴィルヘルムは非社交的で非友好的で、弟のルートヴィヒ【ルイーゼの妹フリーデリケと結婚。1796年にジフテリアにかかって急死した。】以外には誰にもプライバシーを明かさず、自虐的な性格のためにいかなる和解も困難だった。また「いつも女性の優しさや可愛らしさに非常に影響されやすい」と思っていたにもかかわらず、信頼できるガールフレンドを見つけることができなかったようで、女性との関係を含むすべての関係において、不信感と精神的不安が広がった。
『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen』P19




 王妃ルイーゼに関してちょっと面白かったのは、彼女が姉2人のような音楽的な才能も、妹フリーデリケのような魅力もなく、4人姉妹の中で最も気まぐれであった……という風に書いている一方で、その長所として、洞察力と順応性が高いということ、素早い理解力と人間性というものに関する正しい見方を持っていた、という様な感じで書いていることでした。つまり、美しさというよりは知的な能力が高かったということでしょうか。

 また、「彼女は温かさと距離感を調和させることを理解していた(公式の代表として現れる時には、彼女は威厳に満ちて見えた)」というような感じで書いてある(ように見える)のも興味深かったです。


 ただあれですね、英訳と和訳の間に割と違いがあるようにも感じるので、ドイツ語原文のニュアンスを理解するのはなかなか難しいのかも……?

Shakos『Napoléon 1806』初プレイと和訳ルール改訂など

 ミドルアース大阪に行ってきまして、Shakos『Napoléon 1806』を初めてプレイできました。今回、イチローさんとわむさんも同じ会場で同ゲームをプレイされており、色々分からないことを聞いたり、ギークによるQ&Aを聞けたり、プレイの指針を聞けたりしてすごくありがたかったです(*^_^*)



 ↓まずユンカースさんとこかどさんにインスト

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 ↓イチローさんとわむさんのプレイ。哨戒騎兵使用の自由配置で、戦場の霧を最大限にするプレイをされておられました。
   あと、白いトレーがいいですね。ぜひ私も調達しようかと。

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 ↓こかどさんと私で初プレイ中。画像上の方で、イチローさんとわむさんがプレイ中。

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 ↓私はプロイセン軍を担当し、エアフルトでランヌ軍団を崩壊させたものの、スールトにするっとライプツィヒへと突破されており……。

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 ↓最終的にライプツィヒの戦いで3個軍団によってネイを攻撃した(戦闘カードは5:3)ものの敗北するという……。

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 この後、『Paths of Glory』のプレイが早く終わったN川さんとFRTさんも一度やってみようということでプレイされて、一時期はプロイセン軍を担当したN川さんが20点を取ってサドンデス勝ちか? と思われたものがどんどん状況が変わって最終的にVP残り1点でN川さんの辛勝、白熱した戦いとなって、2人とも「面白かった!」と仰ってました。

 イチローさんとわむさんはこの日までで計7、8回くらいプレイされたそうですが、陣営毎の勝率は五分五分だそうで、ゲームバランスは取れてそう、とか。



 で、私がShakos『Napoléon 1806』の和訳ルール (2018/08/31)で公開していました和訳に(案の定)色々間違いがあったことが今回判明しまして、改訂版を今日作りました。すでに印刷等された方には申し訳ないです……。

『Napoléon 1806』和訳ルール06.pdf(ver2)

 特にイチローさんに教えて頂いたギークからのものは細かく色々あるんですが、大きいミスとしては、以下のもの。

・ドローフェイズ
 まったく同一の効果を持つ強制的なカードが複数枚引かれた場合には、それを引いたのが同じプレイヤーであってもなくても、2枚目以降のカードは効果無しで捨てられます。
 ↓
 片方のプレイヤーが、あるいは両プレイヤーで合わせて、強制的なカードが複数枚引かれた場合には、それらの強制的なカードはすべて効果無しで捨てられます。


Confusion (混乱:フランス軍/プロイセン軍)
 敵スタックが少なくとも3つの接続路を通って係争中でないエリアに入った時にのみ、イベントとしてプレイできます。そのスタックは持っている移動力の大きさにかかわらず停止しなければならず、《活性済み》面にならなければなりません。
 ↓
Confusion (混乱:フランス軍/プロイセン軍)
 敵スタックが少なくとも3つの接続路のある係争中でないエリアに入った時にのみ(その瞬間に)、イベントとしてプレイできます。そのスタックは持っている移動力の大きさにかかわらず停止しなければならず、《活性済み》面にならなければなりません。



 あと、プロイセン軍が弱小戦力をフランス軍スタックに突っ込ませて戦闘し、フランス軍スタックを《活性済み》にしてしまうという戦術が非常に効いてしまうそうで、↓の改訂ルールをデヴェロッパーが発表しているそうで、それも和訳ルールver2に織り込みました。

攻撃可否の判定:この時点で攻撃側のカード数が0に達した場合、攻撃はキャンセルとなり、攻撃側スタックは《活性済み》となります。判定には移動攻撃におけるペナルティ(-1カード)も含まれます。





 あと、イベントカード用の印刷シールですが、「Confusion(混乱)」と「Cannon Sounds(砲声)」のもの計4枚が間違っていました。改訂した全体のもの(両方ともシールの1枚目でした)、すでに印刷してしまった人のためのシール4枚分だけの2つのデータを用意してみました。(「エレコム ラベルシール FBAラベル 出品者向け きれいにはがせる 24面 100枚入り EDT-FBA24100」用のものになってしまってますのでご了承下さい)

イベントカード用印刷シール(ver2)
シール4枚分だけのもの



 しかしまだ間違いが全然あるのではないかとも思います。見つけられた方はご連絡いただけるとありがたいです(>_<)

ルイ・フェルディナント公について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍達について調べる、第3弾はルイ・フェルディナント公についてです。


 おおまかには、日本版Wikipediaを参照していただいたら。


Louis Ferdinand of Prussia
↑ルイ・フェルディナント公(Wikipediaから)


日本版Wikipedia「ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1772-1806)」



 さらに、『Who was who in the Napoleonic Wars』の記述を挙げてみます。

 【フリードリヒ大】王の甥でフェルディナント公の息子であり、「プロイセンのアルキビアデース」と評された彼はクラウゼヴィッツによれば、偉大なる将軍となり、その時代のプロイセン軍の指導的な指揮官となる潜在力を持った人物であった。その軍事的、行政的能力を買われて、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が導入した改革に関与し(そこで彼は進捗の遅さを感じていた)、ルイーゼ王妃と共に宮廷の「主戦派」の指導者となった。彼は1806年戦役における主要なプロイセン軍指揮官達の中で最も若く、中将としてホーエンローエ=インゲルフィンゲン指揮のプロイセン・ザクセン連合軍の前衛師団を率いた。その軍事的才能がどんなものであったにせよ、それはイエナ・アウエルシュタットの戦いの4日前の1806年10月10日に彼が比較的小さな部隊でランヌの第Ⅴ軍団とザールフェルトで交戦し、敗北した時に失われることとなった。フランス軍の前進を食い止めようとして騎兵突撃の先頭に立った彼は、負傷したにも関わらず降伏を拒否し、フランス軍第10ユサールの主計将校ギュアンデによって殺されてしまったのである。彼の死はプロイセン軍に重大な衝撃を与えたが、ナポレオンはこれはこの戦争を彼が促進したことに起因したのだと語った。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P194



 古代ギリシアのアルキビアデースに喩えられた、というのですが、アルキビアデースといえば私の印象はまず「裏切り者」なんですが……(^_^; しかし容姿が美しく、才能も抜群で、「将来アテネを背負って立つ」と思われていた、というのはあります。そこらへんがルイ・フェルディナント公と似ていると思われたということなんでしょうか。


 また、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』にはルイ・フェルディナント公に関してかなり詳しい記述がありました。1つ目に挙げるのは著者による評で、2つ目に挙げるのはクラウゼヴィッツが書いた論文の中の評です。

 国王【フリードリヒ・ヴィルヘルム3世】とフェルディナント公【フリードリヒ大王の末弟】の長子ルイ【・フェルディナント】との間が気まずくなったのもこのころである。いくつかの革命戦争を闘ってきたこの二十歳の将軍貴公子は、すでにマインツ攻防戦で砲火をくぐりぬけ、 負傷したオーストリアのマスケット銃兵を救出するなど気概のあるところを見せ、カリスマ的行動志向があった。だが、彼は国のためにつくしたいという意欲にあふれていたのに、重要な軍事、政治問題の圏外に置かれていたのである。
 戦争が一段落すると、彼は地方の駐屯地を転々として無為に日を送り、次々に愛人を囲って財政に窮するという有様で、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世やその後継者の現国王との間に金銭や結婚問題をめぐっていざこざが絶えず、裁判沙汰にまでなったこともある。しかし、彼が自堕落な生活を送っているという噂はやや誇張で、当人は政治、経済の諸理論や軍事問題の知識を広め、シュタインやシャルンホルストのような人たちに教えを請いたいと心から願っていた。彼は多才でしかも努力家であり、作曲もすればピアノも弾いた。ベートーベンは彼のピアノ演奏を聴いて、「殿様芸の域を脱している」と言い、シューマンは彼の作った曲について、「古典派の中のロマン派」と評し、音楽に新時代を開いたシューベルトのようなひらめきを感じさせたと後年書いている。
  19世紀に入ってから、ルイ・フェルディナントはまだ適職には恵まれないものの、定期的にベルリンにやって来ては長期滞在するようになり、芸術や社会問題に関心を持つ人たちのグループに仲間入りしてたちまち注目を浴びた。彼は軍事協会のメンバーでもあり、 ベルク伯爵夫人の家にもしばしば出入りし、ここでシュタインをはじめとする閣僚達や、 ゲンツ、ヨハネス・フォン・ミュラー、アレクサンドル・フォン・フンボルトらの作家、学者たちとも定期的に会合をした。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P164~5

 彼はアテネの将軍アルキビアデスの生まれ変りのような人物だった。人間として成熟しきれなかったのは私生活の乱れも災いしている。彼はあたかも軍神マルスの長子の如く勇敢で大胆不敵 、決断力に富んだ男だったが、旧家の家長にありがちな、富を鼻にかけ、世事に無頓着な人間で、教育によって自分の精神を高め知的世界を広げようと真剣に考えたことがなかった。
 フランス人は彼のことを"されこうべ"と皮肉るが、もし彼らが"頭は空っぽだが熱しやすい"という意味でそう呼ぶなら、誤解もはなはだしい。彼の勇気はいわゆる向こう見ずとはちがって、偉大さ - つまり真の義侠心の飽くことない追求から出たものである。子ども時代からそうで、戦争で危険に身をさらすことがなければ、じゃじゃ馬に跨がり、激流を突っ切って狩りに出たがる。
 猛烈に頭が良く、身ごなしは洗練されていて、ウィットに富み、読書家で多才。とりわけ音楽に秀でていた。彼のピアノの腕前は名人級である。
 ……フリードリヒ大王の甥で、勇敢で大胆、なかなかの遊び人でもある若くてハンサムなこの貴公子将軍は、まもなく兵隊や若手将校たちのアイドルになった。しかし、古参の頭がこちこちの将軍たちはこういうタイプの青年紳士には首を傾げ、フレッシュな才能など無用な軍隊の日課や規則にがんじがらめにしてその芽を摘んだ。
 ……彼は仕方なく放埒な生活に浸って多額の借金を作り、そのエネルギーのはけ口をひたすら享楽に求めた。とりまきも立派な人たちばかりだったとは言えない。 それにもかかわらず、彼は決して自堕落に陥らなかった。頭は常に水面に出し、精神は高貴な領域に住まわせておいた。国家、祖国の重大事から目を離すことはなく、栄光と名誉に憧れ続けた……ところが結果的にはこれが政府関係者から煙たがられた。国王はとにかく彼とかかわり合うまいとした。 真面目な王は、 彼の放縦な生活ぶりが気に喰わなかった。独裁国の君主なら無理もないことではあるが、国王は彼の野心をのさばらせまいと警戒もした。彼の才気煥発さがかえって王を懐疑的にした(『破局を迎えたプロイセン』)。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P166~168


 この最後のところの分析は「なるほどなぁ」と思います(クラウゼヴィッツ自身がその後、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世からひたすら疎まれてひどい目に合わされ続けるというのも……(T_T))。

 クラウゼヴィッツが書いた論文である『破局を迎えたプロイセン』ですが、おそらく↓がその英訳だと思われます。

EXCERPTS FROM NOTES ON PRUSSIA IN HER GRAND CATASTROPHE OF 1806
by CARL VON CLAUSEWITZ Translated by COL [US Army] Conrad H. Lanza


 ただ、一部の抜粋だそうで(それでもかなりの量ですが)、私は(ルイ・フェルディナント公に関してあったように)色々な将軍の人物評があれば読んでみたいと思ったのですが、ざっと眺めてみた感じではそれはなさそうで、ずっと戦役に関する分析が続いている感じでした。いくらかタウエンツィーンの名前が出てきて見ていると、「この時タウエンツィーンがもっとこうしていれば……!」と書いてあるような気がしました(>_<)。あと、クラウゼヴィッツはルイ・フェルディナント公の弟であるアウグスト親王の副官であったのですが、10月28日にプレンツラウで勇戦空しくフランス軍の捕虜となってしまったので、その時のくだりのことが書いてある論文も最後に付いていました。



 ウェブサイト「祖国は危機にあり!」を書かれているR/Dさんもそのブログでルイ・フェルディナント公に関して書いておられ、大変面白いです。

ルイ=フェルディナント



 また、ウェブサイト「プロイセンの王妃達」を書かれている霧野智子さんもルイ・フェルディナント公について書かれています。

ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン

 霧野智子さんはルイ・フェルディナント公に関する同人誌?も出しておられて私は持っているのですが、今は販売されていない?


 それから、ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク(あるいはドゥセック)という作曲家とルイ・フェルディナント公が非常に仲が良かったという話があります。日本版Wikipediaには、

ドイツでは、初めはリストを予告するような、最初の美男のピアニストだった。ルイ・シュポーアによるとドゥシークは、「淑女たちが彼の美しい横顔を愛でることができるように」、舞台上にピアノを横向きに置いた最初のピアニストだった。だが間もなく、プロイセン王子ルイ・フェルディナントに仕官するようになり、王子には使用人としてよりもむしろ友人や同僚として遇されるようになった。2人は時おり一緒になって、「音楽の饗宴」と呼ばれた乱痴気騒ぎに興じもした。ルイ・フェルディナント王子がナポレオン戦争で戦死すると、ドゥシークは感動的な《ピアノ・ソナタ〈哀歌〉》作品61を作曲する。


 とあり、また、第120回しばざくらコンサートの解説pdf?には「そしてハンブルクからさらにベルリンに向かい、彼はそこで音楽にただならぬ見識を持っていたプロイセン王国のルイ・フェルディナントの知遇を得て、1804年からその宮廷楽長を務めました。フェルディナントは自ら楽器を演奏するだけでなく(ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は彼に捧げられています)、作曲もたしなんだので、ドゥセックはその助言も行ったようです。フェルディナントはドゥセックを片時も手放さず、戦場への遠征にも同行させるほどでした」とありまして、以前この作曲家がどういう風にザールフェルトの戦場に同道していたかの文をどこかで見たことがあるような気がするのですが、今回見つけられませんでした(>_<)


 あと、「ルイ・フェルディナント」で検索すると、クラシック曲の動画が結構ヒットしますから、それでルイ・フェルディナント公の曲を聴くことができます。




 さて、1806年戦役の時なんですが、『1806:Rossbach Avenged』10月8日~10日セットアップなど (2016/03/22) で、OSGの同ゲームにセットアップをしていた画像があるのでそれに地名等を上書きしたもので説明してみます。

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 セットアップは10月8日(早朝?)のもので、この領域にはフランス軍はまだ全然いません。ユニットがいくつか見えているのはすべてホーエンローエ麾下のもので、ルドルシュタットに青い□で囲んだユニットがスタックしています。マップの西側にはブラウンシュヴァイク公のプロイセン軍主力がおり、元々そこから南西の方向へ向かってフランス軍(およびその補給源)への攻撃を企図していたのですが、フランス軍が思っていたよりも東にいるらしいことを知って、より東に移動中という感じです。

 矢印で示したのは史実のその後1806年戦役の流れであり、青い矢印は一番左がランヌとオージュロー、真ん中がベルナドットとダヴー、一番右がスールトとネイのそれぞれの軍団の進路で、黒い矢印はブラウンシュヴァイク公のプロイセン軍主力の進路です。

 さて、ルイ・フェルディナント公ですが、OSGの『1806 Coming Storm』P21によれば彼はこの前日(10月7日)の夜にルドルシュタットにてカロリーヌ・ルイーゼ公爵夫人の舞踏会に出席しており、公爵夫人の求めに応じてそのピアノの素晴らしい腕前を披露していたとか。そこで公爵夫人はこのように言ったそうです。
「あなたはこれから他のピアノも演奏しなくてはなりませんわね、殿下」
 それに対して彼は陽気にこのように答えたとか。
「そう、しかしもっと耳障りなピアノをですけどね」(Bauer, Frank, Saalfeld 1806, p.30.)


 その後のルイ・フェルディナント公の動きについて、参照した資料では「ルイ・フェルディナント公が悪い」説と、「ルイ・フェルディナント公は悪くない」説の2つがあるようでした。

 まず「悪い」説。これは『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』(MAP60)にあるのですが……。

 【10月9日、】ホーエンローエの前衛軍を指揮していたプロイセンのルイ・フェルディナント公は、ブラウンシュヴァイク公の前衛と交代するまで、ルドルシュタットを保持し、ルドルシュタットとザールフェルトの間でザーレ川を渡るように命じられた。ルイはその後ペスネックを通過して東進し、ホーエンローエ軍に再び加わることになっていた。
 だがそうする代わりに、ナポレオンの敵たることを公言していたルイ公は、即座にザールフェルトに部隊を派遣し、10日には彼の指揮する全軍で続いた。この一見衝動的な行動の理由は、未だ不明である。

 【10月10日、】ランヌは彼の先導師団をルイの右側面に回り込むように機動させ、ルイをザーレ川に追いこんだ(この間、ルイはホーエンローエからの2つ目の命令を受けとっていた。その内容は、ルドルシュタットに留まり、ザーレ川とイン川の間の領域をカバーし、正常状態を保てというものだった)。しかし、ルイがそれを実行しようとしたとしても、ランヌの側面攻撃はあまりに迅速すぎるものだった。そのザーレ川の橋は1300時ちょっと過ぎに確保された。ルイは、土壇場で彼の騎兵を率い、絶望的な突撃を実行したが、あるフランスユサール軍曹によって斬り殺された。


 ザールフェルトに行く必要もザールフェルトにこだわる必要もなく、ペスネックへ向かえば良いのを、なぜかルイ公はザールフェルトへ向かったことになっています。


 一方、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』とチャンドラーの『ナポレオン戦争 第3巻』は、上官であるホーエンローエの命令が曖昧であったため、ルイ・フェルディナント公が勘違いしてしまったことが原因である(すなわちどちらかというホーエンローエが悪く、ルイ・フェルディナント公は悪くない)、という立場を取っていました。

 両部隊とも相手の位置や出方の見当がつかない。そんな中で、10月10日、プロイセン軍前衛部隊を率いるルイ・フェルディナント公はフランス軍最左翼軍団に襲撃された。命令が不徹底だったため、彼はあらゆる犠牲を払ってフランス軍を阻止せねばならないと思い込んだ。多勢に無勢の上、位置的にも不利な彼の軍団は惨敗し、フェルディナント公は戦死した。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P189


 ↑こちらは非常に短いですが、チャンドラーの方はえらく長めに説明しているので、ザールフェルトの戦い中のフランス軍の描写に関しては省略して引用してみます。なお、チャンドラーはルイ・フェルディナント公を「ルートヴィヒ・フェルディナント王子」と書いています。

 その間【10月9日】、プロイセン軍の幕営ではいつものように紛糾が頂点に達していた。アウマの近郊で混乱に陥った自分の部下、つまりタウエンツィーンの失策という知らせにより、ホーエンローエは彼の支援のため、ザーレ川を越えて全軍を前進させる準備をした。9日と10日の夜の間にルートヴィヒ・フェルディナント王子が、ザールフェルトから先のグラーフェンタールへと数多くの敵の露営火が連なることを報告してきた。そこで彼の上官【ホーエンローエ】は、渡河の用意のためにルドルシュタットとカーラの間に即時プロイセン軍を集結させるべきだとの確信を強めた。不幸にしてルートヴィヒ王子に対するホーエンローエの指示が曖昧だったため、結果として前衛の司令官【ルートヴィヒ・フェルディナント王子】は、その使命がザールフェルトの細道を保持し、かつホーエンローエが彼の主力軍をアウマへと移動させる間(タウエンツィーンを支援するため)、さらにはブラウンシュヴァイクが王子軍の左翼の空白地帯を埋める目的で彼の軍隊を連れて来る間、時間稼ぎをすることであると勘違いしてしまった。その結果、ブラウンシュヴァイク軍は躊躇しつつエルフルト近郊にとどまっていたため、ルートヴィヒ王子はだんだんと孤立していったのだ。翌朝までに、ホーエンローエも、提案したザーレ渡河の是非について考え直してしまった。事実、ブラウンシュヴァイクは無遠慮にも移動を禁じてしまっており、したがって彼も前進を撤回したのであった。この新しい命令は10日午前11時に不運なルートヴィヒに届いたに過ぎない。彼はいまや、ルドルシュタットを堅持してランヌ軍の攻撃を耐えしのぐよう指示されていた。しかしそれはあまりに遅かった。午前10時以来、既にザールフェルトでは交戦状態に突入していたのである。
 ルートヴィヒ王子は、自分の任務がホーエンローエのアウマ進撃を覆い隠すと同時に、予想されるランヌ軍団の介入に対してブラウンシュヴァイクのルドルシュタット進軍を保護することにもあると堅く信じて努めてきたが、午前7時……彼の軍勢を、グラフェンタールへと続く細道からの出口を押さえるため、ザーレ川の左堤に布陣すべく移動したのであった。
『ナポレオン戦争 第3巻』P49,50


 「ザーレ川の左堤(左岸:上流から見て左側)」というのは、ザールフェルトの位置においては川の南西側になります。

 ↓はOSG『1806 Rossbach Avenged』で生起したザールフェルトの戦い。

スクリーンショット_160107_025

 真ん中の「SAALFELD」(街ヘクスはルイ公のユニットの下で見えません)の左横に「Wolsdorf」や「Schwarza」の村が描かれていますが、(ゲーム上とは異なり)実際にはザールフェルトの戦いはザールフェルトの街の西側の数ヘクスでおこなわれていました。

 『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』にはザールフェルトの戦いの地図が2枚載っているのですが、2枚目の方だけ挙げさせてもらうと……(この本、一番すごいのは軍装と軍旗がフルカラーで多数収録されていることで、地図も細かいのが充実しています。あと、フランス軍の将校について詳しいです)。

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 このようにルイ・フェルディナント公がザーレ川を背にして戦っていたことについて、チャンドラーの書き方は「その必要があったからそうした」という感じに響くような気がしますが、英語版Wikipediaは「フランス軍は高地を占め、一方プロイセン軍は背後にザーレ川があり、退却は難しかった。」と書いており、フランスの歴史家(というか1871~3年のフランス大統領)のティエールは、「ルイ公は退却が非常に難しい、軍事的によろしくない配置をおこなっていた。もし彼に慎重さというものがあり、そして虚勢を見せて急行する必要がなかったならば、彼は可能な限り素早く退却すべきだったのだ……」というようなことを書いているようです(OSG『1806 Coming Storm』P25:Thiers, p.266)。

 ザールフェルトの戦いの推移については、たいしてルイ・フェルディナント公の人物像が見える感じの記述も見つけられなかったのでスルーしたいのですが、今回資料を読んでいてびっくりしたのが、この戦いにあのグナイゼナウが参加していたと書かれていたこと。グナイゼナウが1806年戦役の時にどこにいたのかはずっと気になっていたのですが、今まで分かっていませんでした。前掲の地図にも「Gneisenau」とあり、中隊長であったことはOSG『1806 Coming Storm』にも『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』にも書かれていたのですが、階級については書かれていません。改めて「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」のグナイゼナウのページを見てみたら、確かにグナイゼナウはザールフェルトの戦いに参加したと書いてあり、しかも脚を負傷しつつ強力なフランス騎兵の突撃を何度も受けたにもかかわらず、戦列を維持し続けて名を挙げたと書かれていました。さすがグナイゼナウ……。

 さらにもう一人気になるのが、ミュフリンク連隊長?というのが出てくる(記述にも、地図上にも)ことで、このミュフリンクが偉大なるプロイセン陸軍参謀総長様だったとわ……! (2012/08/10) ミュフリンクについて再点検 (2013/03/23) で書いていたミュフリンクと同一人物であるかどうかが気になり調べたのですが、よく分からないままです……。



 さて、ルイ・フェルディナント公は「麾下の部隊が混乱し始めるのを見たルイ・フェルディナントはフランス軍の騎兵に対して突撃をおこなった。ルイ・フェルディナントは降伏勧告を拒否し、フランス軍第10ユサール連隊の主計将校ジャン=バプティスト・ギュアンデを負傷させたものの、その後の戦いで討ち取られてしまった。」(英語版Wikipedia)のですが、その戦死の際の詳細について諸資料を見ると、色々と違いがありました。


Heldentod der Prinzen Louis Ferdinand bei Saalfeld

 ↑「ザールフェルト近郊におけるルイ・フェルディナント公の英雄的な死」という絵(Wikipediaから)


 まずOSG『1806 Coming Storm』P25には、ティエールの本からの引用としてこのように書かれていました。

 (ルイ公の)2人の副官は彼の側で討ち取られてしまった。あっという間に囲まれそうになってしまったルイ・フェルディナント公は逃げようとしたが、彼の馬が生け垣で動けなくなり、止まるしかなくなった。第10ユサール連隊のある主計将校が、まさか王族だとは思わなかったものの階級の高い人物だとは思って、馬を駆け寄らせながら叫んだ。
「将軍、降伏して下さい!」
 この降伏勧告に対してルイ・フェルディナント公は剣を突き出して答えた。(Thiers, p.267)


 ここまでがティエールからの引用らしく、次の文は地で書かれています。「剣でのやりとりが続き、ルイ公は6ヶ所を負傷したが、うち2ヶ所が致命傷であった。彼は乗馬の足下に崩れ落ちた。」

 非常に具体的に書かれていますが、ティエールが歴史家としてどれくらい信用できるかというと、怪しいものがあるそうです。R/Dさんの「祖国は危機にあり 関連blog ティエール」を読んでいただくと……。個人的には、あまりにもいきいきと描かれていて、それゆえにちょっと信用できない気がします(^_^;


 霧野智子さんの『ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン』にもある程度詳しくこの戦死の時の様子が書かれています。その記述では、ルイ公の前後を少数のフランス軍騎兵が取り囲み、降伏せずに(降伏勧告があったとは書かれていない)ルイ公は戦い続け、そのうちに下士官のグウィンディ(他の資料では主計将校、あるいは軍曹のギュアンデとあることが多いです)が進み出た、と。彼はルイ公の格好からプロイセン軍の元帥の一人らしいと考えた。彼のルイ公への攻撃はまず肘、胸、そして後頭部へと当たり、後頭部へのものが致命傷となった……とあります。そして、フランス兵達はルイ公の遺体に群がって金目の物を略奪し始めたそうです。

 霧野さんはドイツ語のルイ・フェルディナント公に関する本を含め、複数の文献にあたっているようです。



 また、ドイツ語版Wikipedia「Louis Ferdinand von Preußen (1772–1806)」にはルイ公の戦死の時の状況についてある程度詳しい記述があったので、ドイツ語をGoogle翻訳で英語にして、重訳してみました。

 プロイセン軍の前衛部隊の指揮官であったルイ・フェルディナントは1806年10月10日、イエナとアウエルシュタットの戦いの4日前に、ザールフェルトの戦いで戦死した。ルイ公はフランス軍第10ユサール連隊の主計将校であったジャン=バプティスト・ギュアンデ(1785-1813)によって討たれた。これによって彼はレジオン・ド・ヌール勲章を授与したが、昇進はしなかった。ナポレオンが、ルイ公を捕虜にした方がより良かったと発言し、それゆえ昇進はならなかったのである。ただ後にギュアンデは連隊副官補佐へと昇進した。
 ギュアンデが一人でルイ公を倒したのか、あるいは戦友の助けもある中で倒したかについては、現在の歴史家の間でも論争がある(有名なRichard Knötelによる「ザールフェルト近郊におけるルイ・フェルディナント公の英雄的な死」という絵は後者の説を採っている)。しかし恐らくは、一人で倒したというのが正しいのではないだろうか。なぜならギュアンデの報告では、ルイ公が馬を翻して逃げるのに対してギュアンデがまず追跡し、ルイ公の馬が柵を越えようとジャンプしたもののひっかかってよろめいた時に、ギュアンデがルイ公の後頭部を傷つけた、となっているからである。ルイ・フェルディナント公はこの時、致命傷を負いながらも戦い続けたそうで(!)、そこでギュアンデはルイ公の胸を突き刺したのであった。しかし、背後からの後頭部への一撃だけでも、ルイ公はすでに正常な能力を失い、死んでしまっていたことであろう。とはいえ、正面からの「名誉ある」一撃によってとどめをさしたことは、ギュアンデをより英雄的にしていると言える。



 引用文中の「(!)」は元の文にあるもので、私が付け加えたものではありません(^_^; 

 様々な説があるらしいわけですが、個人的には非常に興味深く感じます。

オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍について調べる、第2弾です。

 いわゆる「Württemberg(ヴュルテンベルク)」と呼ばれる、予備としてハレにいる指揮官を取り上げるのですが、そもそもこのヴュルテンベルクという名前自体が、当時あった公国の名前です。


 ↓1806年9月初旬のプロイセン軍配置 (2016/03/17) で作っていた地図。

1806年戦役用03Map57用02

 左下の紫色の領域です。

 1806年戦役の時、この地図で色で塗った国はプロイセンに味方をした国なんですが、しかしブラウンシュヴァイク公国、ヘッセン=カッセル公国、ヴュルテンベルク公国は兵力は出していなかったのではないかと……(ヘッセン=カッセルは将軍も出してない?)。

 ちなみに赤い線は、ナポレオンが糾合して手下としていたライン同盟の領域ですから、ヴュルテンベルク公国はライン同盟に属していながらプロイセンに味方を……?

 しかし味方といっても何をしたか、何をしなかったか私は良く分かってません。ただ、ヴュルテンベルク公の弟がイエナ・アウエルシュタット戦役に参加しており、それがゲームでも将軍として出てきており、今回取り上げるオイゲン・フォン・ヴュルテンベルクなわけです。

 ……といっても、このオイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公なんですが、私が今まで集めてきた資料の中には、「どんな人物か」ということは書かれていませんでしたし、頼みの綱の「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」にも項目がないようです。が、なぜか日本版Wikipediaにはある程度情報があります。一応英語版とドイツ語版も見てみたのですが、記述がまったく一緒のようなので、どうやら重訳されていったもののようです。


Eugenwuerttemberg1822
 ↑オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822)(Wikipediaから)


オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822)


 このオイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公はイエナ・アウエルシュタット戦役(とハレの戦い)に出てくるわけですからそれらにユニットとして出てきますが、それで軍歴は終わりで、しかし彼の同名の長男の方がロシア軍の将軍としてその後のナポレオン戦争で活躍し、ロシア戦役やライプツィヒの戦いでユニット化もされていておかしくないようです(私はそこらへんのゲームを持ってないので、ユニットの画像とかはパスで(^_^;)。

オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1788-1857)


 日本版Wikipediaの記述がある程度詳しくて、私にはそれ以上調べられそうにないので、もうそちら任せということで……。


 ただ、ヴュルテンベルク公(父)の項に「当時、オイゲンの駐屯していた地域は17世紀に枝分かれしたヴュルテンベルク家の分家が治めるエールス公爵領が存在していた。」という話が出てきます。

 このエールス公領は後にブラウンシュヴァイク公(子)の方に相続されるので、そこらへんのみ付け足しを。


 ↓ブラウンシュヴァイク公、ウィーンへ (2014/04/12) で作った地図。

Brunswick1809_001a.png

 「エールス公国」とあるのが、推測によるエールス公領の領域です。

 日本版Wikipedia「オレシニツァ公国」には、「公国は長くボヘミア王冠の属領であったが、シュレージエン戦争の結果、1742年にプロイセン王国に征服された。しかしヴュルテンベルク家の公爵達は領主として同国を領有し続け、1792年に公国はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯カール1世の息子の一人フリードリヒ・アウグストに相続された。」とあります。

 この相続された「フリードリヒ・アウグスト」というのは、ブラウンシュヴァイク公(父)の弟で、事績とか分かりませんがある程度長く存命した唯一の弟であったようですね。

 ただ、この人物も子供を残さずに1805年に65歳で亡くなり、後継者がいなかったのでブラウンシュヴァイク公(子)が継いだのでした。


タウエンツィーン将軍について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍について、今まで調べていなかった人を調べようという企画、第1弾はタウエンツィーン将軍について調べてみました。


 いくつかの資料を参照したんですが、彼の外交的な仕事やなんかについてはいくぶんか省略しています。


Graf-tauentzien.jpg
 ↑タウエンツィーン(Wikipediaから)


 タウエンツィーンは1760年生まれ。がフリードリヒ大王に仕えた将軍であったことから、彼自身もプロイセン王家と密接なかかわりを持ち、1775年にプロイセン軍に入った後、フランス革命前の時期には王子(ハインリヒ?)と一緒にフランスを旅したりし、1791年に父が死んだ時には王(フリードリヒ・ヴィルヘルム2世)から従者に任命されました。その数ヶ月後に伯爵位を受けているのは父親の爵位を継いだもの? 1793年には王族の副官としてフランス革命戦争に参加し、その後ロシアへの外交任務に派遣され、1795年には大佐になりましたが、彼自身は軍人としてよりは外交の方に精通していたようで、1813年までに多くの外交的任務を任されました。

 ですが1800年3月には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に、外交的な任務でなく連隊長のポストが得られるように頼んでいます。しかしすでに外交的任務などで?年功のあった彼にちょうど合った連隊長職を見つけることは非常に難しく、そのうちに病気にかかって所領で養生していたようです。

 しかし少将に昇進後の1801年9月にようやく希望が叶えられ、アンスバッハに駐屯するある連隊の長となり、訓練に励みました。アンスバッハというのは当時のプロイセンにとって南西の方にあった飛び地で、1805年のフランス対オーストリアの戦役の時にプロイセンは中立であったにもかかわらずフランス軍がアンスバッハを通過し、大問題となりました。

 アンスバッハの位置についてはプロイセン王国の国土の拡張という画像が分かりやすかったです。

 なぜ当時フランス軍がアンスバッハを通過したのかに関しては、1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯 (2015/12/29)に以前いくらか考察を書きました。

 この時タウエンツィーンは、フランス軍の通過を止めるためにはあまりにも少ない兵力しか持たなかったので、現実的な対応をしました。つまり、フランス軍は通過させ、しかし南ドイツにおいてフランス当局に対して激しい外交キャンペーンをおこなったのです。1806年にブリュヒャーがアンスバッハにやってきて指揮を執り始めると、ブリュッヒャーとタウエンツィーンはひどく仲たがいし、タウエンツィーンは辞任を願い出ましたがフリードリヒ・ヴィルヘルム3世はそれを却下しました。

 1806年の戦役の時にはタウエンツィーンはホーエンローエの率いる軍勢の中の左翼の前衛を担当し、資料により色々ですが大体8,000から9,000名程度の兵を持ち、うち1/3~2/3はザクセン兵であったかのようです。

 10月9日にタウエンツィーンの部隊はシュライツで、この戦役で初めてフランス軍との戦闘となりましたが、これは本格的な戦闘ではなく、小競り合い程度でタウエンツィーンの部隊は撤退しました。タウエンツィーンはシュライツでの戦闘でそもそも会戦を意図しておらず、小規模な砲撃や騎兵戦闘だけで時間稼ぎをして撤退したようなのですが、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」はこの戦闘を敗北とし、この時のタウエンツィーンの行動は批判されていると述べています(敗北が非難されているのか、あるいは可能性として、この撤退によって東の側面をフランス軍に明け渡したのみならず、その後のフランス軍の東側面における行動も監視下でなくしてしまったということが非難されるのかもしれません)。

 一方、英語版Wikipedia「Bogislav Friedrich Emanuel von Tauentzien」はこの後の退却について、「タウエンツィーンは部隊を上手くMittel-Pöllnitzへと退却させ、プロイセン軍主力と合流させることができた。」と述べています。

 タウエンツィーンはイエナへと撤退し、イエナの戦いでは再度前衛として戦いました。イエナでの敗北の後の退却については『ナポレオン戦争 第3巻』P92にこう賞賛されています。「それでもなお、イエナから北へ向かう退却の間に見られた、タウエンツィーンの首尾よい援護行動は立派であった。特に、その同じ朝に彼の部隊は手荒に扱われたのであるから。」

 タウエンツィーンはホーエンローエの軍勢と一緒に退却したようで、ホーエンローエが大軍を持ちながらプレンツラウであっけなく降伏した時に一緒に捕虜となったようです(10月28日)。その後釈放されたのですが、ナポレオンは1805年のアンスバッハにおけるタウエンツィーンの振る舞いに立腹していたことから1806年12月23日に罪状もないままに彼を逮捕し、フランスの要塞に拘留しました。この後、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」による記述は時系列が良く分かりませんが、タウエンツィーンはアンスバッハとバイロイト(これもプロイセンの飛び地であったところ)で非常に大きな賞賛と歓迎で迎えられ、これが再度ナポレオンをイライラさせることになり再度逮捕され、最終的に1808年11月20日まで投獄が続きました。

 解放された後、タウエンツィーンはベルリンのブランデンブルク旅団の指揮官に任命され、またフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に同行してサンクトペテルブルクのロシア宮廷に赴きました。

 1806~7年の戦役における数々の失態によってプロイセン軍の多くの将官が解任されましたが、タウエンツィーンは解任されることはありませんでした。しかし、タウエンツィーンは保守派の者達の中でも特に伝統的な考え方を重んじる人物であったため、シャルンホルストや改革派の者達からこころよく思われていませんでした。タウエンツィーンは長年外交畑で活動していたためその人物像について良く知られておらず、多くの者達が彼が戦場指揮官として残る能力があるのかどうかに疑いを抱いていました。また彼はドイツのナショナリズムを大いに支持しており、フランスの秘密警察の重要な監視対象となっていました。

 1809年にプロイセン軍の将校シルがドイツ北部で反乱を起こし、すぐに鎮圧されましたが、シルはタウエンツィーンの指揮下にいた人間であったため(再びナポレオンの主張により)タウエンツィーンは逮捕されました。逮捕後、再びタウエンツィーンは辞職を願い出ましたが再び却下されました。裁判の結果はいかなる共謀も認められないというものでした。1811年10月にタウエンツィーンはブリュッヒャーの後任としてポメラニアの総督となりました(ナポレオンがそこの総督であったブリュッヒャーの解任を要求していたため)。

 1812年3月にタウエンツィーンはベルリン総督となり、1813年3月にはオーデル川とビスワ川の間のすべての軍の総督となりました。タウエンツィーンは戦闘部隊の指揮官となることを願い出て、拒否されて再び辞表を出しましたがいつものように拒否されました。

 タウエンツィーンはロシアのクトゥーゾフ将軍の下でシュテッティンの町を封鎖するように命じられました。クトゥーゾフはシュテッティンの町を取ろうとしてはいけないと警告していましたがタウエンツィーンは従わずに襲撃をおこなって敗北しました(と、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」にはあるのですが、英語版Wikipedia「Bogislav Friedrich Emanuel von Tauentzien」には「タウエンツィーンはシュテッティンの攻囲に成功した」とあります)。

 1813年7月にタウエンツィーンは主に義勇兵(ラントヴェーア)からなる第Ⅳ軍団の指揮を任されました。彼の任務は、オーデル川とエルベ川の要塞を支配し、またブリュッヒャーとベルナドットの軍と協力することでした。8月22日にタウエンツィーンはBlankenfeldでの小競り合いに勝利し、それによって翌日のグロスベーレンの戦いにおける連合軍の勝利に大きく貢献しました。8月28日にはLuckowを占領し、その後9月5日にデンネヴィッツで攻撃を受けました。当初タウエンツィーン軍団は単独で圧倒的兵力からの攻撃に耐えねばなりませんでしたが、ビューロー将軍の第Ⅲ軍団が到着するまで義勇兵達は耐え抜き、両軍団はネイの軍団を打ち破ってベルリンへの接近を阻止しました。デンネヴィッツの戦いの戦いの日の正午、タウエンツィーンの幕僚の一人が退却して軍団の損害を避けるようにと進言しましたが、その時彼はこう言ったそうです。
「一人の将軍が他の将軍に何かを言った際には、それを疑ってはならない。一歩でも後退するよりも、私は麾下の全部隊と共にここで死ぬことを選ぶ。」

 10月中旬、タウエンツィーンはナポレオンが3万の兵力でベルリンに進撃中であると聞き、ベルリンを守るためにエルベ川を越えて北に撤退しました。これは戦略的な誤りであったため、タウエンツィーンは多くの批判を受けました。なぜなら、タウエンツィーンが10月15~16日の夜の間に急いでベルリンへと向かっている間、ナポレオンは反対の方向であるライプツィヒに軍を集中しているところであったからです。このため、第Ⅳ軍団はこの大会戦に参加することができませんでした。

 1813年12月26日にタウエンツィーンはトルガウ要塞を奪還し、1814年1月12~13日(Wikipedia上では13~14日)の夜にヴィッテンベルクを占領しました。この占領の功績の大半は彼の予備部隊の指揮官であったドープシュッツ中将にあったのですが、ヴィッテンベルクの勝利はタウエンツィーンのものとして賞賛され「von Wittenberg」の称号と紋章それに大鉄十字章を授与されました(この時代に大鉄十字章を授章したのは、ブリュッヒャー、ビューロー、ベルナドット、ヨルク、タウエンツィーンの5人だけ)。ヴィッテンベルクのある通りには当時タウエンツィーンの名前が付けられたものの、今はドープシュッツの名前で知られているそうです。

 タウエンツィーンの軍団はその後マクデブルクを封鎖し、マクデブルクはナポレオンが退位した後の1814年5月24日になってようやく降伏しました。

 またこの頃、タウエンツィーンはデンネヴィッツの勝利の戦功を主張してフォン・ビューロー将軍との間で大きな論争となったそうです。

 『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』P100によれば、タウエンツィーンはこの頃のプロイセン軍保守派の一人であり(他にはクネーゼベック、カルクロイト、クライスト、ヨルクなどがいた)、またタウエンツィーンはビューローから軽視されていると考えていたそうです(デンネヴィッツの戦いの戦功に関する論争がその原因だったのかもしれません)。

 1815年3月23日にタウエンツィーンは第Ⅵ軍団司令官となっており、ワーテルロー戦役に向かいましたが、彼がフランスに入った頃にはワーテルローの戦いは終わっていました。

 戦後は第Ⅲ軍団を指揮し、タウエンツィーンは1824年2月20日にベルリンで亡くなりました。





 感想ですが、調べていて意外に、非常に面白い人だなと思いました(^_^; ナポレオンに投獄されまくったり、辞表を出しまくったり、ブリュッヒャーやビューローとケンカしたり、誉められたりけなされたり。



 今回の資料は、文中にもいくらか示しましたが、↓とOSGの『1806 Coming Storm』です。他にもいくらか参照しましたけど、収穫なしだったりしたので(あと、英文が私にとって分かりにくい資料は今回パスしてます(^_^;)。




Shakos『Napoléon 1806』の和訳ルール

 Shakos『Napoléon 1806』ですが、性格的&能力的に和訳を作ってからでないとプレイできないので和訳を作っていたのですが、なんとか一応できたかと思います。

 ただ、こういうのはミスを避けがたいので、誤字脱字やミスを見つけた方はご連絡いただければ。

(※2018/09/10追記:案の定、色々間違いが発見されたので、改訂版をShakos『Napoléon 1806』初プレイと和訳ルール改訂など (2018/09/10) で公開しました。混乱防止のためにこのエントリ上の旧版へのリンクは外しておきますのでご了承下さい。)



Shakos『Napoléon 1806』和訳ルール


 そのあと作っていた、「エレコム ラベルシール FBAラベル 出品者向け きれいにはがせる 24面 100枚入り EDT-FBA24100」用に作ったカード和訳データも置いておきます(カードの順番が一部おかしくなってますが……)。

カード和訳データ


 プレイまだなんですが、プレイしていただける方募集です。


Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍指揮官に関する今までのこのブログ上のエントリまとめ

 先日、Shakos『Napoléon 1806』に出てくるフランス軍指揮官の人物像まとめ (2018/08/23)というのを書いていましたが、プロイセン軍指揮官に関してやりたいと思います。個人的にはプロイセン軍指揮官の方がメインです。

 ただ、今までにある程度はプロイセン軍指揮官についてこのブログ上で扱っており、まずはその過去のエントリのまとめを作ってみようと思います。過去のものである程度以上人物像について分かるものは、それで良いということで……。


 順番はゲーム上の戦闘序列の順で。



・フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像 (2015/02/11)
不定詞王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (2015/03/12)
王妃ルイーゼが敗戦8日後にキュストリンで王と再会する (2015/05/20)
1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯 (2015/12/29)
ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか? (2016/01/03)
ウォーゲームを広げたのはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世だった? (2016/02/16)
プロイセンが対仏戦争を決断(1806年8月7日) (2016/03/03)
1806年9月初旬のプロイセン軍配置 (2016/03/17)
1806年のプロイセン軍は腐敗していなかった? (2016/04/05)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は『咲-Saki-』の野依プロであるバキッ!!☆/(x_x) (2016/05/11)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が側室を? (2016/06/04)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と音楽人形 (2016/06/08)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と鉄十字章 (2016/06/11)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の散歩とジョーク (2016/08/05)
「第九」はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に捧げられていた! (2016/09/08)



・ブリュッヒャー
ブリュッヒャーとフリードリヒ大王の喧嘩 (2012/07/28)
『ブリュッヒャーとプロイセン』第1回 (2012/10/08)
『ブリュッヒャーとプロイセン』第2回:スウェーデン軍の兵士となる (2013/03/22)
1815年にブリュッヒャーが選ばれた理由 (2013/07/13)
ブリュッヒャーはなぜ最高司令官になれたのか? など (2014/01/23)
『The Hussar General』をやっと完訳 (2014/03/27)
オラニエ公やブリュッヒャーの容姿について (2014/03/31)
続・シャルンホルスト、ブリュッヒャーと合流 (2015/02/08)
ブリュッヒャーとシャルンホルストは知り合いだった? (2015/02/22)
カルクロイト元帥が降伏しようとする (2015/03/25)
ブリュッヒャー元帥のパイプ (2016/06/01)


・ブラウンシュヴァイク公
『ブリュッヒャーとプロイセン』第3回:1757年のブリュッヒャーとカール (2013/03/23)
ブラウンシュヴァイク魂と新しいブリュッヒャー本 (2014/04/01)
両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公 (2015/01/18)
戦場を脱出するブラウンシュヴァイク公 (2015/01/23)
アウエルシュタットでのシャルンホルスト (2015/01/30)
ブラウンシュヴァイク公(父)の性格 (2015/12/07)
ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか? (2016/01/03)
ブラウンシュヴァイク公(父)の息子達について (2016/02/11)
1806年9月初旬のプロイセン軍配置 (2016/03/17)
ブラウンシュヴァイク公(父)の中年の頃の評判 (2016/04/03)
ブラウンシュヴァイク公(父)がプロイセン王に服従するワケ (2016/05/02)
1805年~1806年にかけてのブラウンシュヴァイク公(父) (2016/05/19)
ブラウンシュヴァイク公が両目を負傷した場所 (2016/06/21)
ブラウンシュヴァイク公(父)が亡くなる (2016/06/25)
ルイーゼ王妃がブラウンシュヴァイク公に頼んだのか? (2016/06/28)



・ホーエンローエ公
『戦争と平和』(AH)のプロイセン軍指揮官達 (2013/06/30)
「プロイセンに付きまとう悪魔」マッセンバッハ (2015/02/08)
ホーエンローエについて、まとめ (2016/03/05)
リュッヘルはイエナ会戦の敗北の責任を負うべきなのか? (2016/03/10)



・カルクロイト
1815年にブリュッヒャーが選ばれた理由 (2013/07/13)
カルクロイト元帥が降伏しようとする (2015/03/25)



・ルイ・フェルディナント
プロイセン王妃ルイーゼの自費出版本を発見 (2012/09/16)
ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか? (2016/01/03)



・リュッヘル
リュッヘルはイエナ会戦の敗北の責任を負うべきなのか? (2016/03/10)



・タウエンツィーン
カルクロイト元帥が降伏しようとする (2015/03/25)



・ヴァイマル公
ヴァイマール公とは? (2015/02/11)
イエナ会戦前後のヴァイマール公の動き (2015/02/15)
ヴァイマール公妃ルイーゼの勇気 (2015/02/20)
『コンサイス外国人名事典』で諸公を調べてみました (2016/03/02)



・ヴュルテンベルク
(特になし)




 ……とりあえず、ルイ・フェルディナント、タウエンツィーン、ヴュルテンベルクについては新たに調べないといけないかと思います。リュッヘルとカルクロイトについても一応はまとめた方がいいのかも……。

 ブリュッヒャーは資料が多すぎてまとめられません(^_^;






Shakos『Napoléon 1806』に出てくるフランス軍指揮官の人物像まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』のルール和訳がようやく終わりました……。

 和訳が終わったらやりたいと思っていた、このゲームに出てくる指揮官に関する調べ物をしたいと思います。やりたいメインはプロイセン軍でまだ情報をまとめたことがなかったタウエンツィーンやヴュルテンベルクで(マイナー……(^_^;)、フランス軍の指揮官の情報は放っておいてもとは思うのですが、手持ちの日本語資料で人物像についてだけまとめられそうだったので、それをやってみようと。

 資料は↓のものと、OSG『1806』のヒストリカルノート(OSG『1806』のヒストリカルノートから、指揮官について (2016/01/05) )と、Wikipediaです。



 『歴史群像』はこの2号連続で有坂純さんによる「ナポレオンの元帥たち」という記事があり、素晴らしいものでしたが、元帥全員が取り上げられていない……(T_T)


 『Napoléon 1806』に出てくるフランス軍指揮官はナポレオンを除いて8人で、同梱の指揮官ボードではアルファベット順に並んでいます。


Charles Pierre Francois Augereau

 ↑オージュロー

 果物商と家政婦のあいだに生まれたオージュローは、生まれついての野心家で、その点ではかなり成功したといえる。貪欲かつ強引なうえ、第1級の日和見主義者でもあったが、1796年カスティリオーネの戦いでは、名声への執着から猛烈な戦いぶりをみせ、ナポレオンの全面的信頼を勝ち取った(これは皇帝としては異例のことである)。
オスプレイ『ナポレオンの元帥たち』P5

 ……プロイセン軍の優れた下士官として経験を積み……1806年、征服したプロイセンで自分のかつての連隊の戦友たちと再会した彼は、感極まって中隊長以下全員に贈り物をしている。
 ……戦略的な才覚には欠けていたが、彼は一流の軍団指揮官であった。……
 戦術と集団の統率に優れ、剣術の達人で、粗野で無教養、大言壮語し、辛抱が足りず、政治にかぶれて笑いものにされ、磨き抜いた軍靴や金ピカの財宝を好み、将校たちも乱暴者揃いというこの将軍は、夜盗の如き略奪者でもあった。しかし彼の本性は残酷でも貪欲でもなく、立派な教養こそ身につかなかったが、地位と財産を得て落ち着くとともに人柄は丸くなっていった。友人や部下、地元の住民らには気前よく情け深く、大金を使い込んだランヌに同額を無条件で貸して助けたりしている。
『歴史群像』No.123 P9

 オージュローは部下達の自信をかき立てることに長けていたが、忍耐力は不足気味であった。"ランヌのすぐ後についていくのに"彼が失敗したことは、"自発性のひどい欠如を示している"(注51:Petre、【ザールフェルトの戦いに際して】"ランヌのすぐ後についていかなかったことに関するオージュローの言い訳は、自発性のひどい欠如を示している。)
OSG『1806』ヒストリカルノート


 オージュローはヤンキーというか海賊というか劉邦というか、なんかまあそんな感じの人物像っぽい感じを受けます。ザールフェルトの戦い(イエナ・アウエルシュタットの戦いの数日前に起こった前哨戦)で彼がどうだったのか良く理解しておらず、この戦役で活躍した感じもしませんが、それよりはプロイセン軍兵士時代の戦友に会って感激するオージュローの人物像に惹かれますね~。






Jean-Baptiste Jules Bernadotte

 ↑ベルナドット

 ベルナドットは、堅実かつ断固とした非常に有能な人物で……
オスプレイ『ナポレオンの元帥たち』P6

 ベルナドットの第1軍団は足場の悪い森の中を北東に向けて120kmにわたり行軍しており、ナポレオンから遠く離れていたため作戦変更に即座に反応しづらい状況だった。ナポレオンはイエナで全プロイセン軍と対峙していると想定し、決戦の日を当初の予定の10月15日ではなく14日に突如変更した。全元帥の中でベルナドットただ一人が、その変更を直接知らされなかった。……悪路に阻まれイエナの戦いには間に合わなかったが、軍団をアポルダ高地に布陣させることで、プロイセン軍の退路を脅かすことに成功した。
 後年ナポレオンは、ベルナドットがアウエルシュタットにてプロイセン軍の主力と遭遇したダヴーの援軍要請を嫉妬心から拒んだと非難し、彼を軍事裁判にかけるため執行令状にサインをしたもののジョゼフやジュリー、デジレの事を思い取りやめたと述べているが、この見解に対して、むしろナポレオン自身に過失があったと異論が唱えられている。実際のところ、ナポレオンは作戦立案を総司令部に集中させすぎたあまり、元帥たちは作戦の全体像を把握できていなかった。ベルナドットはあくまでも皇帝の指示通りに行動したのであり、ナポレオンと参謀長のベルティエが敵主力の位置を読み間違えるという深刻なミスを犯したことのスケープゴートとしてベルナドットが槍玉にあがったという見方もされている
日本版Wikipedia「カール14世ヨハン (スウェーデン王)」

 ベルナドットはいつも半独立的な位置において作戦行動を良くこなしていたが、アウエルシュタットの戦場に登場することには失敗した。
OSG『1806』ヒストリカルノート


 『Napoléon 1806』のヒストリカルノートでもベルナドットはダメ人間扱いされていましたが、R/Dさんの1806年10月14日 ドルンブルクにもあるように、私は「ベルナドットは悪くない派」だと思います。






Bessieres

 ↑ベシェール

 皇帝の古くからの親しい友人ベシエは有能な騎兵司令官であった。部隊指揮官としては凡庸だったが、人の上に立つ者としては、慎重でむしろ強靱であった。
オスプレイ『ナポレオンの元帥たち』P7


 イエナ・アウエルシュタットの戦いでベシェールが何をしたか、私は今記憶がないのですが、調べれば色々出てくるのでしょうか……。オシャレで髪の毛に粉をふっていたらしいですね。






Louis-Nicolas Davout

 ↑ダヴー

 皇帝に仕えた将校のうち最も優秀な一人。過剰な厳格さと粗野は万人に嫌われたが、細部に目が届き、有能で、物に動じず、ライオンのように勇敢なダヴーは、真に偉大な軍事指導者であった。
オスプレイ『ナポレオンの元帥たち』P9

 貴族でありながら彼には礼儀も婉曲もなく、任務の遂行においては一片の容赦も見せず、自分にも部下にも常に最高度の状態であり続けることを要求し、無能と不服従は無慈悲に罰せられた。ために将校たちには恐れられたが、厳正な軍紀で兵士たちを縛り付ける一方で、その補給と給養が充分であるよう配慮したので、兵士には愛された。同様に、作戦行動に必要とあれば一地方を軍税で丸裸にしたが、その実施は公平で、略奪は厳禁されていたので、住民には憎まれなかった。
『歴史群像』No.124 P10

 極度の近眼のため、分厚い眼鏡をかけ、背が低い上に若禿げで、外見は冴えなかったと言われるものの、ナポレオン麾下で最優秀と評価される事の多い将軍であり、生涯不敗とされるその軍歴は勝利の栄光で満たされている。その才覚は単なる前線指揮官に留まらず、ナポレオンの戦略を高次元で理解し、独自に一軍を維持し指揮することのできる数少ない人物であり、行政官として組織を管理統率する手腕にも優れていた。ナポレオンへの忠誠心は信仰に近いものがあったという。ただし、ナポレオンの方は、ダヴーの有能さは評価しつつ、その才能への嫉妬もあったのか、複雑な心情を抱いていたらしく、後にはかなり辛辣な評も残している。
 人柄はやや問題があり、言動は粗野で非常に冷淡、特に士官以上に対しては異常なまでに厳しく、部下の多くからは嫌われた。規律にやかましく、公私混同を忌み嫌う厳格な人物でもあり、俗物が多い同僚達からは煙たがられる事が多かったという。また、身だしなみを気にしない悪癖があったため、服から悪臭が漂っていることもあったという。よって友人も少なく、元帥の中で親しかったのはウディノ、ネイ、グーヴィオン=サン=シールぐらいのものだった。逆に忌み嫌っていたのはミュラ、ベルナドットの両名という。
日本版Wikipedia「ルイ=ニコラ・ダヴー」

しかしそのような状況においてなおアウエルシュタットで、恐らく元帥中最も有能であったダヴーは自らの優秀さを証明したのである。ダヴーは36歳にして頭は禿げ、やや猫背であり、極度の近眼であった。彼は特別製の戦闘用の眼鏡を頭の後ろ側に留めていた(注50:John R.Elting, 『The Wars of Napoleon』)。
OSG『1806』ヒストリカルノート


 イエナ・アウエルシュタットの戦いにおける最高のヒーローといえばダヴーということになるでしょうし、私もダヴーを尊崇していますが、身近にいたらイヤかもしれませんね……(^_^;






Julie Volpelière (d'après Gérard) - Le maréchal Lannes (1769-1809), 1834

 ↑ランヌ

 「フランスのアイアス(ギリシア神話のトロイア戦争で活躍した英雄にちなむ)」と仇名されたランヌは、大胆な兵士であり、とくに優れた司令官であった。ただし、ときには勇猛さが冷静な判断を上回ることがあったかもしれない。執政政府時代、駐リスボン大使を務めたが、そのあいだにかなりいかがわしい方法で莫大な金を手にしている。
オスプレイ『ナポレオンの元帥たち』P12

 ランヌは独立の将ではなく、全軍の前衛として戦うのを常とし、また幾度も凄惨な攻囲戦を最前線で指揮した。……
 ランヌは勇気と独学の人である……熱心に軍事を学んだのみならず、階級と地位の上昇に伴い、ふさわしい見識と教養を身につけようと努力し、毎夜数時間の勉強を怠らなかったという。皇帝は「私は彼を剣士として見出し、騎士として失った」と、彼の不断の成長を回想している。
 ……エジプト遠征でミュラの陰謀を告げ口したのが、皇帝の『身内』(そしてミュラと、その弟分ベシエールの仇敵)となった契機であろう。彼は皇帝に“tu(私的な親しみの二人称)”で呼びかけるのを許された唯一の人間だった。信じられぬほど勇敢で、粗野で直情的で、きわめて嫉妬深く、金銭にルーズなランヌを、同い年のナポレオンは友人と言うよりは愛人を扱うかのように、親愛と信頼に時々のきつい叱責を織り交ぜて接した。
『歴史群像』No.123 P11

 ランヌは非常に優秀な指揮官であるともにナポレオンの親友であり、北翼で一軍を率いて真っ先にイエナに到着した。彼の機動打撃部隊はスーシェのベテラン師団によって強化されていた。
OSG『1806』ヒストリカルノート


 ランヌはザールフェルトの戦いで、「もしかしたらプロイセン軍で最優秀だったかもしれない」と言われるルイ・フェルディナント公を戦死させ、イエナの戦いでも非常に重要な役回りで堅実に勇猛に役割を果たしており、イエナ・アウエルシュタット戦役におけるダヴーに次ぐ2番目に活躍した将軍のように思えます。






Murat2

 ↑ミュラ

 ミュラは、とくに炎のような統率力と騎兵隊司令官としての勇猛さ、華美な服の好みで知られる。確かに彼は国の主よりは騎兵に向いていたし、勇敢ではあっても王者としては誉められた人物ではなかった。
オスプレイ『ナポレオンの元帥たち』P17

 恐らく同時代に類を見ないほど優秀な騎兵指揮官であり、ナポレオンの戦いには欠かせない貴重な戦力だった。素晴らしい騎手にしてサーベルを扱わせれば天下無双、勇気胆力全く欠ける所が無く、どんな乱戦にも真っ先に飛び込み平然と生還する勇者でもあった。長身で威風堂々とし、甘いマスクと気の利いた弁舌を備えた大変な伊達男で、自らデザインした派手な軍服に身を包み戦場を疾駆するその姿は、敵味方問わず感嘆の的だった。
 しかし彼の能力は完全にそこまでで、馬を降りれば優柔不断で軽薄で浅はかであり、大軍を指揮する能力も戦略眼も政治外交能力もなかった。……元帥同士の人間関係では、上述のベシェールとは親友同士の間柄であったが、ジャン・ランヌやルイ=ニコラ・ダヴーからは忌み嫌われていた。
日本版Wikipedia「ジョアシャン・ミュラ」

 ミュラに指揮されていた偵察に従事する騎兵部隊はしばしば、不完全で人を惑わせる情報をもたらした。
OSG『1806』ヒストリカルノート


 ミュラは、ヒロアカの青山くんみたいな……?(^_^; ベシェールと兄弟分というのを良く分かっていなかったのですが、騎兵伊達男兄弟分ということですか。






Marechal Ney

 ↑ネイ

 ミシェル・ネーは、とくに最悪の状況下で能力を発揮する異例の兵士で、いみじくも「勇者の中の勇者」「不屈の男」と呼ばれた。その勇気はよく知られるが、自分の職務を知り抜いた熟練の司令官でもあった。
オスプレイ『ナポレオンの元帥たち』P18

 「勇気を振り絞って突き進む - ないし踏みとどまる」と言うのが彼の唯一の戦争の原則であり……
 彼は素晴らしい軍団指揮官であったが、一軍を率いる戦略的洞察力と判断力はなかった。
『歴史群像』No.124 P13

 大陸軍ではナポレオン自身に次いで将兵に人気のあった指揮官で、不屈の闘志と人間離れした勇気で名高い国民的英雄だった。人となりは実直で努力家、同僚の多くと違って世俗的欲求にも恬淡としており、気前もよく部下達を物心両面で援助する事を惜しまなかった。ただ武人としての名誉には非常にこだわり、侮辱には黙っていることができず、卑怯未練な態度をひどく嫌った。戦場では極めて厳格かつ冷徹であり、部下の死にも表情を変えることがなかったが、それは「軍人が戦場で倒れるのは当然の運命である」と受け止めていたからだという。……短気で激情家でもあったが、冷静に戻ると自らの非を認め率直に謝罪することもできる度量も備えていた。戦場での勇猛さと裏腹に、平時は気弱で優柔不断な面も見られ、「彼は馬上では半神だったが、馬を降りればまるで子供だった」とも評されている。
 生まれた環境からフランス語とドイツ語を流暢に話し、命令書などに残された筆跡から非常に達筆だったことも知られている。また、フルートとクラリネット演奏を得意とし、チェスの名手でもあったという。
 指揮官としては特に粘り強さを身上としており、防御退却戦で後衛を率いて数々の伝説的武勲を挙げた。ロシアからの退却戦では自ら銃を取って、ロシア兵と戦った。攻撃においても個人的勇気と敢闘精神に富んでいたが、大軍を組織的に運用する事は不得手で、猪突して孤立するという失敗もしばしば犯している。たとえばワーテルローではウェリントンの後退を退却と誤認して騎兵すべてを投入してしまい、予備兵力を失っている。戦略的な視野は持たなかったが、残された命令書などは非常に簡潔明瞭に纏められており、部隊の統率者としては熟達していたようである
日本版Wikipedia「ミシェル・ネイ」

 後衛においてはネイは優れていた。というのは最前部や派遣部隊にいた場合、彼は気が動転して命令にない不必要な危険を冒してしまうことがあったのである。
OSG『1806』ヒストリカルノート


 人間味的にはネイが一番いいような気がします。有坂さんも書いていましたが、ネイがその力量を発揮できるような状況でだけ彼を使い続けていられれば、もっと良かったでしょうに……。人間向き不向きっていうものがあるんだよ、ということの非常に大きな例であるように思えます。






Jean-de-Dieu Soult

 ↑スールト

 スルトは慎重かつ明敏な司令官で、組織づくりと戦略の才に恵まれていた。……元帥たちのなかで最も有能な男の一人だったのはまちがいない。マセナと一、二を争うほど金が好きで、衛星国家からの年金や略奪によって莫大な金を蓄えた。
オスプレイ『ナポレオンの元帥たち』P22

 スールトは不仲のネイと正反対の性格といわれる。知的で、冷静で感情を出さず、最前線には赴かず後方で指揮を執った。……管理と数字に精通し、将兵には週に3回、日に12時間もの猛訓練を課し、その軍団はダヴーの軍団と並び最も整っていた。
『歴史群像』No.123 P9

 ナポレオン麾下でも指折りの優秀な将軍であり、特に機動戦に優れた野戦指揮官だった。しかし戦略的視野には欠け、また組織を管理統率する手腕にも問題があった。冷静沈着だが冷酷なまでに非情な人物でもあり、大変な俗物で地位、名声、金銭など非常に貪欲だった。スペイン戦線での略奪、虐殺は後々まで語りぐさとなっており、ウェリントンも「スールトはマッセナ以下である」と断じている。しかしながら結局ナポレオンの麾下で最も功成り名を遂げたのは、スウェーデン王(カール14世ヨハン)となったベルナドットを除けば彼である。
日本版Wikipedia「ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト」


 確か岸田恋さんかが「元帥たちの中で最もつまらない人物」というような書き方をしていたと思うのですが、実際ここまで様々な資料から人物像を抜き出していっていて、まったくその通りだという気がします。というか、スールト(と人物像を良く知らないベシェール)以外の人物像が面白すぎ!(^_^; 誰も彼もが『ワンピース』に出てくる濃い人物達のようです。これで他にもマッセナとかルフェーブルとサン・シールとかもいるわけですから……。

 『ナポレオン~覇道進撃~』という、それほど史実に忠実ではないらしい、『魁!!男塾』か『ジョジョの奇妙な冒険』みたいなマンガがあり、それぞれの将軍名で画像検索するとそのマンガのシーンが結構大量にヒットしてかなり面白そうなのですが、個人的には史実にできるだけ忠実な作品が欲しいです(『風雲児たち』とか『泥まみれの虎』とか大好きです)。



 ところで今回一番びっくりしたのは↓これでした。

不敗の元帥ダヴー ヴァルキリーサーガ



Shakos『Napoléon 1806』の地名読み画像を作りました

 Shakos『Napoléon 1806』ですが、和訳を進めてます。

 思いついて、マップの地名の読み方の画像を作ってみました。どうせなら読み方が分かってゲームができた方がいいでしょうから……。和訳冊子に一緒に入れて印刷しようと思います。


unit00289.jpg


 ネットで出てくるような綴りとは異なるものも結構あったのですが、ゲーム上でのものを尊重してあります。

 あと、アイゼナッハは「アイゼナハ」の方が普通らしいのですが、銀英伝世代によかれと思いまして……(^_^;


Shakos『Napoléon 1806』のフランス・プロイセン軍シールを自作しました

 ありがたいことにShakos『Napoléon 1806』をギリギリで手に入れていたのですが、性格上&能力上和訳を作った上でないとプレイできず、まだ和訳途中なのでプレイできていません。


 ↓参考
(Shakos)Napoléon 1806 ...YSGA第347回定例会でお披露目された最新ゲームその➋

 積木に貼るシールですが、↑の最後にあった画像のようなものですが、公式ページの一番最初の写真ではフランス軍とプロイセン軍のシールがよりかっこよかったような気がしていて、それに似た感じでできれば自作したいと思っていました。

 ↓公式ページ。
Napoléon 1806


 で、今日自作してみました。


 ↓できあがった自作シールと、同梱のシール。

unit00283.jpg



 ↓切り出して積木に貼ってみました。

unit00284.jpg



 画像の元データは、Wikipedia上にSVGファイル(『Illustrator』でデータとしてそのまま扱える)でキレイなのがあったので大変ありがたかったです。参考にWikipediaへの直リンクを貼っておきます。

Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892)

Drapeau du régiment de Joseph Bonaparte

Emblem of Napoleon Bonaparte


 もしかしたら欲しい方がいるかもなので、自作したデータのpdfへのリンクも貼っておきます。

both flag.pdf



ロシア皇弟コンスタンティン大公の性格

 だいぶ以前にロシア皇帝アレクサンドル1世の性格とかについて参考になることが書いてないかなぁと思って購入した『アレクサンドル一世時代史の研究』が積ん読になっていたのですが、最近引っぱり出してきて時々読み進めていました。





 アレクサンドル1世の性格について結構記述があり、その点良くてまたまとめようと思うんですが、その弟のコンスタンティン大公の性格についても結構詳しく書いてあるところがあって、「おおっ」となりました。


Grand Duke Constantine Pavlovich of Russia

 ↑コンスタンティン大公(Wikipediaから)


 コンスタンティン大公と言えば、アウステルリッツの戦いでロシア軍の近衛軍団司令官として出てくるのでウォーゲーマーにはお馴染みではないでしょうか。彼に関する話としては、生まれた時に祖母エカテリーナ2世が、「(トルコの)コンスタンティノープルの征服者」となるという意図をもってその名前を付けたというのは、何回か読んだような気がします。しかしそれ以上は何も分かってませんでした。

 ↓今回見つけたもの。

 ……スマッカーはコンスタンティンの性格を次のように描写している。
かれは驚くべきほどせっかちで、風変りであり、しかも残忍で激情的であった。かれの振舞は非常に荒々しく、兇暴ですらあった。その行為の偏奇で狂っていた点、および人間としてのいやらしさの点では他の皇子達のいずれよりも、もっとも父親パーヴェルに似ていた。青年時代のかれの性向は放蕩気ままで、兇暴的であり、成人後のかれは何時も非常に残酷であった」。
 またサヴァリは次のように記している。
「コンスタンティン大公はまったくのフランスびいきであるように思われる。ピョートル3世の血を引いたのか熱狂的な軍隊好きである。ストレーリナのかれの居城は要塞のようである。かれの居室は兵器庫で、図書室にはあらゆる種類の兵書がいっぱいである。……庭にはフランスの捕虜に命じてブーローニュの兵舎の模型を造らせている。……しかしかれはその狂的な性格のために、軍隊では評判が悪い。またその皇室内における地位にもかかわらず、われわれをペテルブルグの上流社会へ導き入れる適当な人物とは思われない……」(概要)。
 この最後の一節は、皇位継承の予定者であったにもかかわらず、ロシア社会では重きをおかれていない、と観察したのであろう。
『アレクサンドル一世時代史の研究』P218,9



 だいぶ評判が悪いです(^_^; ただ、その「軍隊好き」のところだけを読んでいると、まるで我々ウォーゲーマーみたいですね。同じくすごく軍隊好きであったらしい父親のパーヴェル1世(エカテリーナ2世の息子)と合わせて、現代にいたら一緒に喜々としてウォーゲームをプレイする仲間になったんじゃないでしょうか(バキッ!!☆/(x_x))。



 他に資料がないかと思って探してみたら、Wikipediaの記述が非常に面白かったです。以下、日本版ですが、英語版の和訳のようでした。

 コンスタンチンは帝位を獲得しようとはしなかった。1801年に父帝が暗殺された後は、乱脈な独り者の生活を謳歌した。コンスタンチンは政治には関わろうとしなかったが、軍隊には外面を気にしてではなく心から親近感を覚えていた。1805年の戦役では近衛軍の司令官を務め、アウステルリッツの戦いではロシア軍の敗因の一端を作った。1807年の戦役でも、相変わらず軍人としての無能ぶりと運のなさを晒した。
 ティルジットの和約締結後、コンスタンチンはナポレオン1世の熱烈な崇拝者になり、露仏同盟の支持者となった。このため、フランスとの同盟は破滅も同然だと考える兄アレクサンドル1世の信頼を失ってしまった。コンスタンチンにはこうした兄の気持ちが理解できなかった。1812年にモスクワがフランス軍によって陥落させられた後ですら、コンススタンチンは早急にナポレオン1世との早急な同盟締結を主張した。そしてミハイル・クトゥーゾフ元帥と一緒になって、ロシア軍は国境を越えてまでフランス軍を追撃しない方がよいと意見した。
 戦役の間、ミハイル・バルクライ・ド・トーリ将軍はコンスタンチンによる支離滅裂な指揮で軍を敗北に追い込まないよう、2度もコンスタンチンを戦闘指揮から外す必要に迫られた。ドイツとフランスでの戦いにおけるコンスタンチンの役割もまるで無に等しかった。1813年8月26日のドレスデンの戦いでは、コンスタンチンは軍事に関する知識のなさから肝心のところで失敗を犯したが、ラ・フェール=シャンプノワーズの戦いでは勇敢なところを見せて称賛を勝ち得た。パリでは、コンスタンチンは大した戦功もないのに名将ぶって人々の嘲笑の的になった。大公がパリで最初に訪れた場所は厩舎であり、また彼は自分の宿舎でも軍隊を並べて行進や訓練を行わせていたと言われる。
日本版Wikipedia:コンスタンチン・パヴロヴィチ



 なんかもう、どうにもならない感じですが、それ故になんか非常に興味深いですね~。

 こういうことまで調べて書いてくれるWikipediaに感謝です。


ウジェーヌ本が届きました

 以前、『ナポレオンとバイエルン』から、ウジェーヌについて (2018/07/14) で書いてましたウジェーヌ本が届きました。

 想像していたよりも分厚くて、びっくりしました。

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 中を見てみると、目次のところは少しかすれていて見にくかったのですが、基本的にはキレイな感じでした。

unit00274.jpg


 肖像画などが結構入ってましたが、地図はまったくありませんでした(まあ、別にいいかと思います)。索引はちゃんとありました。索引のあるなしは重要だと思うので、日本の歴史系の本も必ず索引を付けて欲しいものだと思います(出典や参考文献も)。

 積ん読にならないよう、見ていきたいと思います。


ウジェーヌがエジプト遠征の時に買った女奴隷の話

 承前、ナポレオンの義理の息子(ジョセフィーヌの連れ子)のウジェーヌ将軍の件ですが、以前のエントリで「どこで読んだか分からない」と書いていた、ウジェーヌがエジプト遠征の時に買った女奴隷の件がどこに書いてあるのかを見つけました。


Andrea Appiani 003

 ↑1800年代のウジェーヌ・ド・ボーアルネ(Wikipediaから)


 「ナポレオニック雑文集」の中の、≪エジプト遠征軍ハーレム事情≫という記事です。

 リンクしましたが、ウジェーヌのくだりだけ引用します。

ウージェーヌも女奴隷を買っており、彼女を金銀宝石で飾り立てていました。Bernoyerによるとウージェーヌは以前、(パリでは)ジョゼフィーヌは自分が何をしてもとがめなかったし、(エジプトでは)ボナパルト将軍は何の仕事も与えてくれない、と言ってこぼしたことがあったそうです。Bernoyerによると、ウージェーヌはパリとつながりのある商人から一万フランを借りたそうです。Bernoyerが、自分も女奴隷を買うところだったと言うと、ウージェーヌはこう答えました「ムシュー、今まででこんなに有意義な散財をしたことはありません。すでに6,000フランを費やして彼女を女王様のように飾り立てました。どうにもならないくらい惚れているんです。彼女の奥ゆかしい心栄えと明朗な人柄のおかげで、涸れることのない楽しみの泉を見つけることができたのです」



 当時の1フランが何円くらいなのか気になりますが、検索したところYahoo! 知恵袋で「レ・ミゼラブルの頃の1フランは2000円くらい」とあるのを見つけました。とすると、ウジェーヌがその女奴隷の娘にかけたお金は1200万円くらいだということになります。うおお(^_^;

 現代日本のスマホアプリゲームでは、1つの衣装欲しさに70万円くらい課金するという話は聞いたことがあって(『デレステ』の例。ガチャでゲットするので、宝くじと同じようなものなのです)、ウジェーヌの件もそれに似た感じかなと思ったりしていたのですが、しかし桁が違った(^_^;

 あ、尤も、私も『Blade&Soul』というゲームで、800円~2500円くらいの衣装を何着も課金して買ってます(→4k:Blade&Soul)ので、桁は全然違いますが、似たようなものかもしれません(*^_^*)(ただし私は、絶対にガチャ系の衣装には手を出さないと決めていて、ゲットしているのは無料か、定額出せば手に入るものだけで、衣装に使った総額は2~3万くらいじゃないかと……)


 『Napoleon and his adopted son: Eugene de Beauharnais and his relations with the emperor』でそこらへん書かれているかどうかちょっと見てみようかなと思ったんですが、ちと探すのが面倒そうなのでやめておきました。ただ、見出しだけ見ている限りでは、「ウジェーヌの初恋」という見出しがあってそれはエジプト遠征より後の時代なので、この女奴隷の件は書かれていないか、あるいは書かれていたとしても恋ではないという扱いなのでしょう。

 バイエルン王女アウグステの結婚の件はすぐに場所が特定できそうだったのでちょっと目を通してみたのですが、アウグステにすでに婚約者がいたのに、という件が数ページにわたって書いてあり、ウジェーヌの髭の件がちらっと。で、アウグステと初めて会った時ですが、「その時のウジェーヌの感想については何も残っていない。だが、ウジェーヌに関して書いた歴史家はいずれも、この時ウジェーヌはアウグステに一目惚れしたと書いており、しかもそれは永続的な愛情となった」という風に書かれていました。

 で、アウグステ側がどう思ったかについて探してみたのですが、なんかぱっと見つけることができなかったので、とりあえず諦めました(^_^;

『ナポレオンとバイエルン』から、ウジェーヌについて

 承前、『ナポレオンとバイエルン』から、ウジェーヌについても。

 なぜ『ナポレオンとバイエルン』にウジェーヌの話が出てくるのかといいますと、ウジェーヌはナポレオンによる政略結婚で、バイエルンの王女アウグステと結婚したからです。


Auguste Amalia Ludovika von Bayern1

 ↑ウジェーヌの妻アウグステ(Wikipediaから)


 この政略結婚の最初の知らせについては、このように書かれています。時期的にはアウステルリッツの戦いの少し後ということになります。

 【1805年の】クリスマスの夜、皇帝の官房長官デュロックがナポレオンの手紙を持って到着した。それには単刀直入にアウグステを義理の息子【ウジェーヌのこと】の嫁に欲しいとあった。【バイエルン国王】マックス・ヨーゼフは直ちに病気になり、こともあろうに父として願う手紙を【息子の】ルートヴィヒに持たせてアウグステのところにやった。その中で彼は、国の未来の邪魔をしないで欲しいと懇願した。アウグステは自分を抑え、了承した。
「愛する父の安寧と国民の幸せがそれに懸かっているのなら、どんなことでも我慢します。
しかしウジェーヌ皇太子が和約を結び、イタリア王として承認されるまでは、手を与えません。私は自分の運命を貴方に託します。でもそれがどんなに酷いことであっても、私は祖国のために犠牲になったのだという思いがそれを和らげてくれるでしょう…」。
 王女よりももっと打ちひしがれていたのは母のカロリーネで、その心臓はジョゼフィーヌの「血筋の悪さ」と「我々の運命を決める暴君の専政」への「怒りのために締め付けられた」。
『ナポレオンとバイエルン』P122



 しかしそれから2週間くらいした1806年1月8日頃に、ナポレオンは(バイエルンのどこかで?)アウグステの母カロリーネと会い、「好意的な印象を与えることに成功した」そうです(P125)。

 日時不明ですが、その日か次の日かぐらいに?ナポレオンはアウグステと初めて会いました。

 その間に婚礼の最後の準備が進められていた。ナポレオンがミュンヘンに到着して数時間後にアウグステ・アマリエが紹介された。皇帝は王女の美しさに感銘し、義理の息子ウジェーヌに彼を待っている運命についてついに説明することにした。「私はミュンヘンに到着してお前と王女アウグステとの結婚をまとめた。このことは公表された。今朝王女は私を訪ねた。かなり長時間私は彼女と話をした。彼女は大変美しい。彼女の絵が同封の皿に描かれているが、実物はもっと良く見える」。
『ナポレオンとバイエルン』P126



 この書き方からすると、ナポレオンはこの時点ではまだウジェーヌに、アウグステとの政略結婚の件を伝えていなかったようです。ところがその1日か2日後とみられる1月10日にウジェーヌはミュンヘンに入り、13日には結婚式を挙げるのです(はやっ! ものすごく急いでいた印象を受けますが、どうなんでしょう)。ということは、さすがにまったく何も知らせてないということはなく、「ミュンヘンに来るように」という命令は出し、また「何らかの王家と政略結婚することになるだろう」ということは伝えてあったんでしょうかね?

 ウジェーヌとアウグステが会うと、二人はすぐに惹かれ合ったようです。

 【1806年】1月10日ウジェーヌはミュンヘンに入った。彼がイタリアで伸ばしていた口ひげはたちまちナポレオンの不興を買い、ウジェーヌは花嫁に見せる前に床屋に送り込まれた。あらゆる騒ぎをものともせず、アウグステとウジェーヌは急速にお互いが気に入り、この結婚が間違いなく幸せなものになるだろうと思われた。
『ナポレオンとバイエルン』P127



 口ひげの件がカワイイです(^_^;

 Wikipediaによると夫婦仲は円満で7子が生まれました。

 その後のウジェーヌについて、『ナポレオンとバイエルン』から。

 しかしすぐあとにナポレオンを見捨てたミュラと違って、ウジェーヌは類い稀な無私の純潔さを示した。
『ナポレオンとバイエルン』P289

 彼は妹のオルタンスと同様にナポレオンの忠実な支持者であり、ボナパルト派と連絡を取っていたにもかかわらず、常に控えめな態度を取ったが、それは彼の舅に対する忠誠心がそうさせた。
 ……
 それ【ナポレオンの死】から3年も経たない1824年2月21日ウジェーヌはミュンヘンの宮殿で心臓発作のため死んだ。……墓の上の扉の上には実際に彼の生涯をよく表しているウジェーヌのモットー"Honneur et Fidelite"「栄誉と誠実」と書かれている。
『ナポレオンとバイエルン』P309



 日本版Wikipedia「ウジェーヌ・ド・ボアルネ」によると、こうあります。

ウジェーヌ・ド・ボアルネは1824年2月21日、ミュンヘンにて脳卒中のため42歳で没した。彼の葬儀は荘厳に行われ、義父であるバイエルン王は個人的に喪に服した。彼の性格、そして知性に率直に魅了されていた妻オギュスタ=アメリーの家族とバイエルン国民は、心から彼の死を嘆いた。彼の子供たちのそれぞれの結婚によって、ウジェーヌはノルウェー、スウェーデン、デンマーク、ギリシャの各王家の先祖となっている。




 ウジェーヌに関しては、その高い評価に関して何回か書いてましたが、ますます興味を持ちます。

ウジェーヌへの高い評価、他 (2015/07/11)
『歴史群像 No.147』 ヨハン大公とウジェーヌが素晴らしい! (2018/02/15)


 ウジェーヌに関して英語で読める伝記は、『Napoleon and his adopted son: Eugene de Beauharnais and his relations with the emperor』というのがあるようで、1917年出版の本で、Internet Archiveで読めるようです(Amazonでペーパーバックになったやつを買うこともできます)。

『Napoleon and his adopted son: Eugene de Beauharnais and his relations with the emperor』




 ↑複数ありますが、一番原典に忠実そうなもの(ペーパーバック版では一番値段が高い)。

 買うかどうか悩むところですが、Web上で見出しだけ見てるとかなりワクワクするので、買ってみようと思います(本になっている方が読みやすいので)。本文はやはり、見出しほど読みやすい英文ではないようですが……。

『ナポレオンとバイエルン』から、ヴレーデ元帥について

 もう1年半も前に買っていた『ナポレオンとバイエルン』という本をようやく読了しました。




 横長でけっこう重さがあり、持ち運んで読むのが非常にやりにくい形の本でもあったので……それで、最近年のせいか夜中に目が覚めるのですが、その時に寝付くためにキリン・ザ・ストロング ハードコーラを飲みながら読み進めてました。




 この本、ナポレオン時代のバイエルンについて書いてあるわけですが、1809年戦役でバイエルンが戦場になっている辺りは軍事的な記述が詳しく、また巻末にはバイエルンにナポレオンが来た時に庶民とかがそれを見に寄せた時の話とかが詳しく書かれていて興味深かったです。

 バイエルン軍の最高司令官的な人物はヴレーデ将軍(のちに元帥)という人で、以前、フェルトヘルンハレに顕彰されたヴレーデ元帥というエントリにある程度調べて書いてましたが、『ナポレオンとバイエルン』にも出てきて活躍するので、その人物像に関する記述を拾い抜きしようと思います。

 まず、フランスの配下という状態にあったバイエルン時代のヴレーデについて。

 ヴレーデはその並外れた行動意欲によってフランス軍の注目を浴びていたが、決戦の間ナポレオンの大陸軍の背後を守るように命じられていた。一日中続く執拗な小競り合いになったあと、12月5日孤立しているバイエルン軍は遙かに優勢なフェルディナント大公率いるオーストリア軍のボヘミア隊に攻撃され、必死の抵抗のあと押し返した。バイエルン軍は今回の出兵でかけ離れて多い、ほぼ1000名を失った。
『ナポレオンとバイエルン』P100

 ……ナポレオンが高く評価しているヴレーデ……
『ナポレオンとバイエルン』P203

 【バイエルンで嫌われていたルフェーヴル元帥に関して】ヴレーデだけは皇帝に好かれていたので自説を主張した。
『ナポレオンとバイエルン』P238


 これらによるとヴレーデはナポレオンから高く評価され、好かれていたようです。その理由については明示されてないんですが、「その並外れた行動意欲」ともあった部分がその理由かもしれないと個人的に思います。というのは、この本にはナポレオンとカール大公の差異についてこんな記述があったりするのです。

「積極的に、積極的に、速く」とナポレオンはあの日のマッセナ元帥宛の命令に書いた。これは軍が多分に持っている特性であるが、これを動かし、導くことが必要で、それをナポレオンは誰よりもよく知っていた。カール大公はこのような呼びかけをほとんど利用しなかった。というのは単にそれに必要な性格を持ち合わせていなかっただけでなく、また彼の個人的な能力が彼の軍の欠点を補うのにあまり適していなかったからである。
『ナポレオンとバイエルン』P213



 別の本ですが、『Blundering to Glory:Napoleon's Military Campaigns』という本(の前書き)には、ナポレオンはワーカホリック(仕事中毒)であるという特性があり、その恐るべき行動力によって、戦役前にあらゆる情報を取得し、考え抜いておくということをしていたし、また戦役の途中で自分の失敗が分かっても、それをまた恐るべき行動力によって帳消しにし、大勝利に繋げることができた……というようなことが書いてありました。

 ナポレオンがそのような特徴を持ち、またその特徴を大事なものだと考えていたならば、似たような傾向を持っていた(かもしれない)ヴレーデをナポレオンは高く評価し、好んでいた可能性があるのかも……(尤も、よく指摘されているように、ナポレオンは麾下の元帥達を単に自分の命令を遂行するだけのロボットのように扱い、独自の判断力を殺していった……という話もありますが)




 しかしナポレオンによってバイエルン(軍)が理不尽な扱いを受けまくり、ヴレーデは反ナポレオン感情を増大させていき、バイエルンの反ナポレオン派においても最も行動的な人物となりました。

 モンジュラが裏で用心深く動いている一方で、ヴレーデは大臣の了解のもとに非常に活発な推進役を務め、独断の危険にもひるまなかった。かれは反ナポレオン陣営の代弁者となり、これによって王太子の変わらない賞賛と感謝を獲得した。イン川にある彼の司令部は時にはオーストリアとの交渉使節となった。
『ナポレオンとバイエルン』P274

 ヴレーデの指導力のお陰でバイエルンは軍事的決着が付く前にナポレオンと訣別した唯一のライン連邦国であった。
『ナポレオンとバイエルン』P285

 こうしてヴレーデは【ハーナウ会戦のあった1813年】10月末に完全に孤立した状態で、ハーナウでライン川への退却を防ぐためにナポレオンの主軍に立ちはだかることになった。戦いの中に身を置いてやっと現実の状況が明らかとなった。ヴレーデはどんなことがあってもこの会戦に勝とうと奮戦した。というのも政治的状況が、バイエルンの同盟変更が真剣なものであることの証明を必要としていたからである。「どんな犠牲を払っても、勝って敵を阻止しなければならない」とヴレーデは10月29日に言った。「我々は血を流してでも真剣であることを証明しなければならない新参者である」。
『ナポレオンとバイエルン』P286

 ハーナウの戦闘でバイエルンとオーストリアは合計9000名を失ったが、フランス軍の損失はこれよりもかなり少なかったものの、会戦の前後で約1万名の捕虜を出した。「可哀想なヴレーデよ、私は彼を伯爵にしてやったが、よい司令官にはしてやれなかった」とナポレオンは勝利のあと語ったが、それには明らかにバイエルンの「裏切り」に対する怒りの響きも混じっていた。
 ヴレーデは明らかに敗北したが、会戦の政治的目的を達することができた。同盟国の君主たちが負傷したバイエルンの将軍を見舞いに訪れたことがそれをはっきりと物語っている。ネルトリンゲンの画家ミヒャエル・フォルツがその場面を描いている。ヴレーデは椅子に座って、ロシア皇帝(左)、オーストリア皇帝(中央)、プロイセン国王を迎えている。バイエルンはこれで反ナポレオン同盟の一員として受け入れられ、その後のヨーロッパの平和秩序における居場所を確保したのである。
『ナポレオンとバイエルン』P287

 皇帝の失墜で終わった出兵の結果に関してバイエルンは少なからぬ貢献をした。特にブリエンヌおよびアルシ=シュル=オーブで同盟軍が危うく敗北しそうだったのを救うのに彼らは決定的な働きをした。ヴレーデは主軍の司令官たちの中で最も活動的で、最も攻撃的であった。国王は同年のうちに彼を元帥に任命し、侯爵の爵位を与えた。一方バイエルン軍は4月2日パリに入城し、ブラヴァール・オスピタルをパレードしたが、4月10日にはもう首都を離れてロートリンゲンに向かい、6月に最終的に故郷に向けて行軍したが、ヴレーデはパリに残った。彼は先年リート条約締結の際に素晴らしい働きをしたので、これから同盟変更に伴う領土交渉においても信頼されていた。彼がこの課題に対して選ばれたのは、間違いなく彼が同盟国に対してバイエルンの新しい地位を代表するのに最も信頼できると思われたからであった。
『ナポレオンとバイエルン』P292



 最後の「ヴレーデは主軍の司令官たちの中で最も活動的で、最も攻撃的であった。」という箇所は、(良く知らないながらも)ブリュッヒャーの方が狂ったように攻撃的であったのではないのかな~と思ったりもするのですが、ブリュッヒャーは「主軍」の中の司令官ではない……とか?

 ハーナウの会戦についてはフェルトヘルンハレに顕彰されたヴレーデ元帥でも書いていましたが、そちらでは「ヴレーデごとき」が判断を誤ってナポレオンの前に惨敗したかのようになっていましたが、『ナポレオンとバイエルン』ではヴレーデの必死さが伝わって男泣きできる内容であり、ハーナウの戦いをテーマにしたゲームがあればプレイしたくなってしまう感があります(Vae Victisのゲームがあるようですが、OSGで予定?されているコンポーネントの方がはるかに好みですね……)。


ワグラム会戦に間に合わなかったヨハン大公

 以前、『歴史群像 No.147』 ヨハン大公とウジェーヌが素晴らしい! (2018/02/15) でヨハン大公について書いてましたが、その後も継続してヨハン大公について情報収集をしてました。


 日本版Wikipedia ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒで挙げられている参考文献『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』がAmazonで安く買えたので、それを入手してみまして……。




 基本的にはヨハン大公の恋愛話なんですが、ヨハン大公の人となりや、カールやフランツ関係の記述を。

 ヨーハンは容貌の面からいえば長兄【フランツ2世】と酷似していた。中背ですらりとした体格、輝くように青い目、髪は淡いブロンドだったが、内面的には、すでに軍事の面で異彩を放っていた兄カールに、深い親愛感を抱いていた。カールは外観からいえば、髪も目も黒く、あまり見栄えがしなかった。しかし彼は将軍としては並はずれた天分を発揮し、皇帝である兄の影を薄くさせた。フランツが弟に遠く及ばなかったのは言うまでもない。それでもフランツは、自分で軍隊を指揮する立場になかったことから、カールを頼りにするしかなかった。そのため彼には、末弟ヨーハンに対したようには、ひどい扱いをしなかった。
『ハプスブルク 愛の物語』P186

 ヨーハンが1809年のチロルの暴動に際しては、自由を愛し自由を求めるチロル人の側に立ち、それによって兄に対する反乱者となったのは、彼にとっては当然のことだった。そんな彼は皇帝フランツによって絶えず、敗北を喫するような立場に追いこまれた。かなりの大部隊を指揮するには未熟だったにもかかわらず、ヨーハンは戦術的にははるかに優勢なナポレオン軍と戦えという指令を受けた。彼はミュンヘン近郊のホーエンリンデンで壊滅的な敗北を喫した。
 ヨーハンはひどく意気消沈し、これほど多数の勇士たちを戦死させた責任は、ひとえに自分の無能にあると考えた。本性からいって彼は、戦争には向いていなかった。一瞬に得られる輝かしい勝利よりは、国家の幸福の方が彼の心には適っていた。彼は注意深く世界を見て歩き、オーストリアと王朝の諸州にとって、現在何が最も必要なのかを考えた。新しい領地を獲得する必要はなかった。重要なのは、ごくふつうの住民の生活水準を高めることだった。そして最後には彼らもまた、過去数世紀における有産階級のように、悠然と暮らせるようにすることだった。
『ハプスブルク 愛の物語』P189

 大公は穏やかな、むしろ控えめな人だった……
『ハプスブルク 愛の物語』P199





 前回のエントリで取り上げた『歴史群像』の次の号148号は、ワグラム会戦の直前までの話でした。




 ウジェーヌもヨハン大公もウィーンの方向へ向かい、生起したラープの戦いでヨハン大公は敗北しますが、まああまり記述も多くないですしスルーで。それよりはその後、ウジェーヌ軍もヨハン大公軍も自軍主力と合流する/しないのあたりで色々動きがあり、そこらへんの話が興味深いです。

 『歴史群像』148号ではこうなっています。

 オーストリア軍もまた、ヨハンの軍がプレスブルクへ到達し、カールとの合流が可能となった。だがカールはこのとき、フランス軍がプレスブルク方面からドナウ河を渡るかもしれないと警戒し、ヨハンに同市の防衛を命じた。
『歴史群像』148号P158

 彼【カール大公】はもともとロボー島の陣地強化自体が陽動だと考えていて、ナポレオンはプレスブルク方面から攻撃に出ると考えていた。しかしこの方面のダヴー軍団が移動したとの知らせを受けると、カールはやはり攻撃はロボー島からだと判断、ヨハンにドナウ河に沿って北上して本隊に合流せよと命じた。
 ところがこの命令は悪天候に遮られて到着が遅れ、さらにプレスブルク正面に広く展開していたオーストリア軍は集結に手間取ってしまい、相対するダヴーのように迅速には行動できなかった。結局、ヨハンの1万3000を超える軍勢は7月5~6日の【ワグラムの】会戦に間に合わなかったのである。
『歴史群像』148号P162




 これが、『Who was who in the Napoleonic Wars』のヨハン大公の項では、ヨハン大公とカール大公の間の仲が悪くなったことが原因であるかのような匂わせ方になっているのです。



 彼の軍事的地位は、その能力や経験からのものというよりは、その生まれによるものだった。実際、サチーレの戦いにおける彼の成功は、敵側がより多くのミスを犯したものによるのだと言われている。……1809年には彼は内オーストリア軍を率いて、4月16日にはサチーレにおいてウジェーヌ・ド・ボーアルネに対して勝利を収めたが、その後ラープでウジェーヌに敗北し、この間にヨハンと兄カールとの関係は緊張したものとなった。このことが原因でワグラムの戦いの時に影響を与えたのかもしれない。なぜならばカールによる、主力軍にヨハンの軍を合流させるようにという命令に対してすぐに反応せず、到着があまりにも遅すぎたものになったからである(カールは、ヨハンの軍がきちんと前進して早くに到着していれば、決定的なものになったであろうと主張しているが、あくまでも推測に過ぎない)。ナポレオンがロシアで敗北した後には、ヨハンはオーストリアが対仏戦争に再度踏み切るべしという一派の先頭に立ったし、ティロルの反乱を支援していたのでもあったが、この時のオーストリアは準備ができておらず、参戦には早すぎたのであった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P164



 尤も、どういう風に「緊張」したのかとか、全然分かりません。ただ、もともとヨハン大公は兄のカール大公に憧れていたと前掲エントリで引用していましたが、カール大公の性格には色々と弱点があり、それが要因であったのかもとは思います。たとえば……。

 人格・性行上の疵がなかったわけではない。1809年、ワグラムの会戦で敗北した後、二度とカールが野戦軍総司令官の職に呼び戻されることがなかったのも、多くの将軍がカールの下で戦うことを望まなかったためである。
 カールは心身のバランスを崩しやすく、たやすく精神の耗弱に陥った。そうした内気と気分の変調に加え、父が先代皇帝、兄が当代の皇帝という高貴な身分にあることもあって、他者から批判されることに弱いという性格上の弱点を持っていた。そのためカールは、率直に苦言を呈する人材を側近に配することが出来なかった。彼が取り巻きに集めたのは、オポチュニストや陰謀家、立身出世主義者といった信頼出来ない人間たちであった。彼らは、カールが自らの敗戦の責任を部下の将軍たちに転嫁しようとしても、忠告して止めさせようとはしなかった。
『歴史群像』103号P161





 ↑『歴史群像』103号。軍戦略家としてのカール大公に関する記事が載ってるのです。




 『歴史群像』148号でも、ヒラー将軍がカール大公に対して軍務放棄したと書かれていました。

 【ワグラム】会戦直前の7月4日、これまでに作戦方針で事ある毎にカールと対立してきた第Ⅵ軍団司令官ヒラー将軍が、体調不良を理由にここにきて軍務を放棄してしまったのである。
『歴史群像』148号P163





 あとチャンドラーの『ナポレオン戦争』ですが、索引でヨハン大公を引いてみると以下のような記述が。



 軽い怪我に顔をしかめ、1万3000の新手を引き連れてくるはずの弟に絶望し、戦闘中ずっとビッサムあたりで無駄に使っていた第5軍団の8000人をいまさら投入しても遅いだろうと痛感させられたカール大公は、既に漸次退却を命じていた。
『ナポレオン戦争 第四巻』P93

 ナポレオンはヨハン大公が現れると最後まで【その戦力を撃破できると考えて】期待していたが、彼の軍団がめちゃくちゃな命令とぐずぐずした行軍のおかげで、その日の大半は極めて遠い場所にいたことに気づいていなかった。午後4時頃になってようやくヨハンはジーベンブリュン近くに姿を現した程度だったのだ。短いパニックの後、近くにいたフランス軍が召集され、この新参者たちに新たなる戦いを仕掛けようとしていた。ところが、ナポレオンが第三日目の戦闘はないとようやく気づいたのは7日のことだったのだ。結果的に、カールはオーストリア軍の大半を何の邪魔だてもなく激戦地からさっさと逃がすことができたのである。
『ナポレオン戦争 第四巻』P94



 この記述からいくと、ヨハン大公はぐずぐずしていたために、カール大公の役には立ちませんでしたが、一方で、ナポレオンに撃破されてしまうというピンチからも逃れることができたっぽく、もしかしたら麾下の兵士の命を守るという点では100点満点の行動になったのかもしれませんね(^_^;

『歴史群像 No.147』 ヨハン大公とウジェーヌが素晴らしい!

 買ってからだいぶ経ってますが、ようやく『歴史群像 No.147』の「ナポレオン戦争」を読みました。




 今回は1809年戦役のイタリア方面に関してで、ヨハン大公とウジェーヌの激突ということでした。両者とも弱冠28歳で、「防御的でいろ」と命令されていたにもかかわらず、できれば攻勢をかけたいと思っていたとか。

Leopold Kupelwieser 001Eugene de Beauharnais by Shtiller

 ↑Wikipediaから、ヨハン大公(1828年頃?)とウジェーヌ(1810年頃)


 ヨハン大公に関して、どんな人物か良く分かっていなかったのですが、今回その人物像について記述がありました。

 オーストリア皇帝フランツ1世や、カール大公の弟に当たり、1800年のホーエンリンデンの戦いでは弱冠18歳で軍を指揮するが、モロー率いるフランス軍に敗れている。

 【1809年戦役の時】
 ……ヨハン大公は弱冠27歳、軍人としては経験不足で方面軍を指揮するのも初めてだった。彼自身は兄カールに憧れを抱いていたようだが、武人よりも文人に向いているというのが周囲の評価だった。
 ……
 だがヨハン自身はチャンスがあればフランス軍に大きな打撃を与えて北イタリアの支配を取り戻すか、あるいは少なくとも優勢に戦いを進めて全体の戦略に寄与したいと考えていたのである。
『歴史群像 No.147』P157,8



 記事中ではヨハン大公は最初は攻勢をかけて進撃・勝利するものの、ドナウ方面の退却とフランス軍の増援を受けて退却し、本国が無茶な要求をしてくるのに対してもそれを無視して無理をしないでいるという、穏当な感じがして好感が持てます。


 他の記事でヨハン大公について調べてみますと、ますます好感を持ちました。ヨハン大公についていきます!(おい)

 彼ら【ハプスブルクの12人の王子達】は優れた君主と賛えられた父【レーオポルト帝】の血をうけて、いずれもが異才を発揮し、それぞれが独自の道を歩んでいった。ところが12人の中で最年長のフランツだけは、弟たちとはちがってごく凡庸で狭量な、よくいえば従順、悪くいえば無能な兄だった。
 ……
 しかもフランツの弟たち、たとえば一つ違いの次弟フェルディナントや、三歳年下のカールそしてヨーハンなどは、少年時代から有為の王子としてすでに大器の片鱗をあらわしていた。やがてカール大公は、天下無敵を誇っていたナポレオンを、初めてウィーン郊外のアスペルンで破ったし、ヨーハン大公はチロルやシュタイアーマルク州で、市民や山岳地帯の農民たちと親しく交わり、「アルプス王」として地方文化の振興につとめた。
『ハプスブルク家』P200~208


皇帝フランツ2世は平凡な人物であり、有能なヨハンを疎んでいた。特に軍人向きではないヨハンを戦場へ送り出し、ヨハンは多くの兵士を死なせたことに深く傷ついたという[3]。また、平民出身の兵士らと接触したことで宮廷や貴族の生活を嫌うようになる[4]。

貴族社会よりも山岳を愛し、スイス出身の芸術家の影響でスイスに傾倒するが、やがて自国のチロル地方にも同様に美しい風景があることに気づく[5]。非常に活動的でまた庶民的な人柄であり、シュタイアーマルク州の農業、鉱工業、林業を繁栄へと導き、その他にも学校や病院の開設を進めた。1809年のチロル動乱のおりには民衆の味方でもあった。1811年には、自然科学の研究と技術教育を目的としたグラーツにヨアネウムを設立した。
 ……
この時代に活発化した産業教育や社会福祉の遠大な先覚者として広く知られ、民衆から慕われた。山登りで鍛えた健脚もありおおむね健康であったが、大公の加齢につれアンナが領地の管理を引き受けるようになった。1859年、大公は77歳で死去した。大甥にあたるフランツ・ヨーゼフ1世やエリーザベト皇后らもその死を惜しんだという。アンナも1885年に死去し、南チロルのシェーナに2人揃って埋葬されている[12]。

大公の死後、地元の人たちが大公を偲んでいつともなく歌いだしたといわれている歌に「ヨハン大公のヨーデル」(Erzherzog Johann Lied)がある。この歌は日本においても大変有名で、この歌が入っているかどうかでレコードの売れ行きが全く違ったほどである。
Wikipedia ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ



 「ヨハン大公のヨーデル」は、↓これ? 知ってるような、知らないような……(^_^;







 
 ウジェーヌに関しては、『ナポレオン一八一二年』がものすごくよかったです (2014/08/29) で書いてましたように、ロシア遠征でものすごい活躍していて、Wikipedia ウジェーヌ・ド・ボアルネでも絶賛されていますね。1814年にはナポレオンに対して「一般的には反逆」と取られてもしょうがない行動をしたということですが、まあ1814年のナポレオンは見捨てられてもしょうがないとは思いますので、いいですかね(おい)。

 ウジェーヌと言えば、記憶によれば、エジプト遠征の時(20歳になるかならないか)に現地の女性を手に入れて、着飾らせるのに夢中になっていて、なんかもう自分を制御できないんだとか何とか言っている……というのをどこかで読んだ気がするのですが、どこに書かれていたのかが思い出せません(ちょっと調べてみたのですが、分からなかった……)。

 ウジェーヌは次号で活躍するらしく、期待大です。



 今号タイムリーにありがたかったのが、「サウーの騎兵師団」という記述があったこと。

 実は最近また1806年戦役に興味が再燃してきてまして、『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』のP9に10月8日のすごくいい戦況図があって、ぜひ真似したいと思っているのですが、その地図の中にフランス軍の騎兵指揮官として「Sahuc」というのがあって、「これって何て読むんだろう?」と疑問だったのです。同一人物かちゃんと付き合わせたわけではないんですが、まあ多分間違いないでしょう。ありがたやありがたや……。




フランス軍のジュノー将軍とその夫人ロールについて

 承前、フランス軍のジュノー将軍とその夫人ロールについてです。


Marguerite Gérard - La Duchesse Abrantes et le General Junot
↑ジュノーとロール(Wikipediaから)


 ジュノーはナポレオンの2歳年下で、法律を勉強していましたが革命が起こって志願して従軍し、トゥーロンでナポレオンと知り合ったそうです。

 その時のエピソードとして、こんなことがあったとか。

 ジュノーは、トゥーロンで軍曹として口述筆記をしている時に、ナポレオンの注目を引くことになった。砲弾が土を巻き上げて紙を土まみれにした時に、ジュノーは言ったのだ。
「やあ、砂を(インクを拭い取るために)使う必要がなくなったぞ」
 砲火の下でのこの冷静さの故に、彼はイタリアでナポレオンの副官となったのだった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 その後、ナポレオンとジュノーは「親友」となったそうで、いくつかの資料でナポレオンがジュノーを「親友」呼ばわり?しているのが出てきます。


 ジュノーが16歳のロールと結婚したのは1800年のことで、その時のエピソードが、ナポレオニック雑文集の「ジュノ将軍の結婚騒動」の項に書かれています(ずっとサイト閉鎖されていたのですが、復活したのですね! サイト上でCtrl+Fして左下に出る検索窓で「ジュノ将軍の結婚騒動」と入れて検索してみて下さい)。

 ロールについて、『Who was who in the Napoleonic Wars』はこう書いています。

 ロールは美人と機転、それに浪費で名高く、それ故にジュノーは常に金の心配をしなければならなかったが、彼自身もまた同じように浪費家であった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 で、新刊の『ナポレオン時代』に書かれていたジュノーとロールの話なんですが、ナポレオンの居城となったマルメゾンにジュノー夫婦が間借りしていたものか、こんな風に書かれていました(ロールの信頼性に欠けると言われる回想録にあるものでしょう)。

 【マルメゾンの】二階の寝室のむき出しの赤いタイルの冷たさをぼやきながらも、ナポレオン配下の【ジュノー】将軍(嵐(ラ・タンペット)の異名を取った、当時のパリ知事)の妻で、17歳のロール・ジュノーは「私たちは楽しく日々を送っていた。けれども楽しい夏はあっという間に過ぎ去った」と記録している。要するに、未来の皇帝に言い寄られるまでは楽しかったということだ。ジョセフィーヌの目を盗んで、そしてラ・タンペット【ジュノーのこと】がパリに戻っている隙を突いて、ナポレオンは夜明けの訪問を始め、彼女の足の指をつねるなどしてその気にさせようとした。三日目の晩、彼女は内側から施錠しておいたが、ナポレオンにはマスターキーがあった。そこで、ロールは夜が明けきるまで一緒にいてほしいと夫に懇願した。翌朝、ナポレオンはロールのベッドで朝食をとるジュノーを見て驚いたが、平静を取り戻すとこう言った。わが将軍は「私よりよほど優秀な目覚まし時計だな!」「そのとおりであります。それでこそあっぱれな男というものでございましょう!」と、愚直そのもののジュノーは応えた。マルメゾンの居づらさに耐えきれず、ロールはパリに逃げ帰った。その後ジュノーが元帥に昇進することは決してなかった。
『ナポレオン時代』P47



 ここで私は吹いたのですが(^_^;、この原因に関する分析は合っているのでしょうか? ただ、1804年に18人が元帥号を受けた時、元帥になれなかったジュノーは不満であったっぽいですし、元帥になってしかるべきだったという議論もあるようです。一応、他の元帥を見ると、最も若いダヴーが1770年生まれで、ジュノーはそれより1年後の1771年生まれなので、年齢を言い訳にできなくもない……?

 ただ、ここでは「愚直そのもののジュノー」と書いてありますが、ナポレオニック雑文集のロールの回想録によると「ジュノも空気を読む才能にたけていたので、適切な話題を選び」と書いてあったりします。


 その後ジュノーは、ナポレオンの妹カロリーヌ(ミュラの妻)との不倫で左遷されます。

 カロリーヌの方は、田舎の小国【ベルク大公国】ぐらいでは我慢できなかった。この不満を解決すべく、1807年、カロリーヌはついに陰謀を企てる。
 戦場に立つナポレオンには、常に戦死の危険がつきまとっていた。その身に万が一のことがあった場合、次の皇帝として夫ミュラを即位させようと考えたのである。
 皇位継承順位を無視してミュラを担ぎ出すためには、クーデターが必要だった。そのためにカロリーヌは、パリ駐屯軍の指揮権を握っている総督ジュノを抱きこんだ。
 1807年6月、フリートラントでの戦いを勝利におさめたナポレオンは、その月末にティルジットに入り、7月7日平和条約に調印する。この最中に、妹とジュノの不倫の噂を耳にした。7月27日午前6時、宮殿サン・クルーに帰り着いたナポレオンは、まずカロリーヌを呼びつけて叱責、その後ジュノを左遷する。
『人はなぜ裏切るのか ナポレオン帝国の組織心理学』P44,45




 この左遷の先がイベリア半島だったのか、ジュノーは1807年の秋にポルトガル遠征の最高司令官となります。

 元帥杖がジュノを待っていた。首尾よくポルトガルに侵入して国王一家を拘束し、イギリス船の商行為をとめればよい。カロリーヌ・ミュラとの火遊びを帳消しにするため、ジュノは最善をつくした。猛烈な速度でイベリア半島を横切ったため、彼と一緒にリスボン郊外に到着したのは数百人にすぎなかった。残りの兵士は消耗しきって次々と倒れていったのだ。だがジュノの努力は報われなかった。ポルトガル貴族たちは、サーベルをがちゃつかせていたランヌのことを思い出して大急ぎで荷造りをするとイギリス船に乗りこみ、船隊はすでに出港していた。もう少しだけ運がよかったら元帥杖を手にしていただろう。ジュノをとり巻く状況が一筋縄でいかなかったことを考えれば、彼はなかなかよくやった。だが結局、この戦争から得たものは【アブランテス】公爵の称号だけだった。
『ナポレオンの元帥たち』P167,8



 『ナポレオンの元帥たち』ですが、さきほどの「ナポレオニック雑文集」のところで読めます。ぜひどうぞ!

 ロールの英語版Wikipediaによると、ロールは半島戦争の時にいくらかジュノーと同行していたらしいですが、リスボンで得た戦利品でも満足しなかったそうです。


 この後1808年、ジュノーはアーサー・ウェルズリー(後のウェリントン公爵)を相手に、ヴィメイロの戦いで敗北を喫します。『歴史群像 138号』の連載「ナポレオン戦争」でこのヴィメイロの戦いが扱われており、改めて目を通してみたんですが、ジュノーのせいで負けたわけではなく、しょうがなかったような印象を受けました。ただ、このフランス軍の敗北は全ヨーロッパに大きな衝撃を与え、ナポレオン自身が半島にやってきて事態を収拾することに。ジュノー自身は再び軍団指揮官などとして半島で戦うのですが……。

 かつてこの地で元帥になる機会を逃したジュノは、頭に受けた傷のせいでわけのわからない言動をするようになっていた。
『ナポレオンの元帥たち』P213

 彼は半島へと戻って軍団指揮官を務め、短期間サラゴサの攻囲を指揮した(ここで、ルジュヌの意見では彼の尊大さと嫉妬深さがますますひどくなり、精神の不安定さが深刻な状態となった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 1812年のロシア遠征にもジュノーは参加したのですが……。

 楽しいことが大好きだったロールは……ジュノーは荒涼たるロシアの地で命を賭けて戦って次第に精神を病んでいったというのに、家を離れて新しい愛人とエクス・レ・バン〔フランス南東部の都市〕で気晴らしをしていた。
『ナポレオン時代』P230



 そして、スモレンスクでジュノーは、絶好の機会に動こうとせず……。

 8月19日、ネイ軍はヴァリューティナ【スモレンスクのすぐ東にある村】に到着、ジュノー軍は北岸に渡ってネイ軍のやや前方に出た。暗闇の中で自軍ともども道に迷ったバルクライはそのちょうど中間をうろついていた。ネイ元帥はジュノー将軍のところへ駆けつけ、「さあ、一挙に片付けましょう。栄光と元帥杖が待っておりますぞ」と勇んだ。ところがネイ軍は敢然と攻撃に出たのに対し、ジュノーは、ヴュアテンバーク公の騎兵隊が突撃を拒否したとか、自分はナポレオンから河を渡って待てと命令されているとか言って動かない。ナポレオンは……「ジュノーがロシア軍をみすみす逃した。この遠征を台無しにしたのは彼だ」と容赦なく叱責した。ミュラーはもっとかんかんに怒って、「お前なんかナポレオン軍の騎兵のどん尻にさえくっついて来る資格はない」と詰った。
『ナポレオン1812年』P82


 ナポレオンによると「……彼はもはや以前と同じ人間ではない。大失敗をしでかし、我々に大きな代償を払わせることになってしまった。」
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 ジュノーはそのまま、ボロディノの戦いにも参加し、大陸軍の主力と共にフランスへ帰ってきました。

 1812年のクリスマス直前、愛人に見限られたロール・ジュノーはアヘンチンキ〔アヘンを主成分とする鎮静剤〕を過剰にあおって自殺しようとしたが、首尾を果たせなかった。かつては意気盛んで、ハンサムで若くしてパリ知事を務めたこともある夫のジュノーがロシアから戻った。往年のラ・タンペット【嵐という異名】は「よれよれの軍用コートをだらしなく羽織り、腰は曲がり、杖がなければ歩きづらそうな下卑た年寄りとなり」、戦争のせいで精神を病んでいた。
『ナポレオン時代』P232



 その後イリュリア総督に任命されるも、

 彼のだらしのない生活の結果、梅毒が進行し、精神的な不安定さが極度に酷くなり、職を免ぜられ……彼は1813年7月29日、窓から飛び降りて死亡した。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 ロールの方ですが、こんな風に書かれてました。

 彼の妻はいささかスキャンダラスな生活を続け、ローマの社交界で多くの時間を過ごし、破産を免れようと面白くはあるが信頼性に欠ける回想録を出版したが、無駄であった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168



 「無駄であった」というのは、結局のところ貧困のうちに亡くなったからのようですが、しかし浪費家なんだったらしょうがないですかね……。
 

 1828年以来彼女の恋人であるバルザックの励ましと監督を受けて、彼女は魅力的ではあるが悪意に満ちた回顧録を書いた。
 ゴーティエが「アブラカダンテスの公爵夫人」と揶揄し、貧困に陥った彼女は、1838年にパリの老人ホームで亡くなった。
Laure Junot, Duchess of Abrantès(英語版Wikipedia)





 今回使用した資料です。




イギリスのフランス史家による『ナポレオン時代』が新書で

 もう一カ月ほど前に、『ナポレオン時代』という新書が出るのをたぶん新聞広告で知りまして……。




 試しに店頭で立ち読みしてみたんですが、「アウステルリッツの戦いの後、別にフランスは湧いていなかった」とあるのを見つけて面白いなと思ったので、買ってきました。

 序文や改題を読んでみると、著者のアリステア・ホーンというのはイギリスのフランス史家であり、様々なフランス史の本を書いている人らしいんですが、なんと、この人の1940年のフランス戦に関する本『To Lose a Battle: France 1940』を私は買って持っていました。尤も、持っているだけで読めてはいないんですが(^_^;




 ただ例えば、OCS『The Blitzkrieg Legend』のデベロッパーズノートで「1969 年のAlistair Horne 氏の『To Lose a Battle』は少し古くなってしまったかもしれないものの、素晴らしい本でした。」と書かれてました。

 新書でこういう史家の本の翻訳が読めるというのは非常にありがたい話で、こういう風なことはどんどんやってもらいたいなぁと思います。元々2004年に書かれた本らしいです。


 で、途中まで読んでいて、フランス軍のジュノー将軍とその夫人ロールについての話が出てきて(P47)、それがあまりに面白くて電車の中で吹いてしまいました(^_^;

 そういうわけでジュノーとロールについて興味を持ちまして、手持ちの資料で調べてみたので、次回、その件で書いてみたいと思います。

 


ウルム戦役のマック将軍はナポレオンを窮地に陥れるはずだった?

 ナポレオニックに関して非常に興味深い記事が読めるR/Dさんのサイト「祖国は危機にあり!」とその関連Blogなんですが、関連Blogの方は年が明けてから「ナポレオニック」カテゴリの一年分をまとめて印刷して読むようにしております。

 今回もそのようにしてみたところ、ウルム戦役でのマック将軍について詳細が描かれておりまして、大変興味深かったです。

 「ウルムで後方を包囲されるに任せた無能な将軍」という印象が巷間流布しているマックですが、詳細を読んでいるとむしろ他のオーストリア軍の将軍が懸念するほどに、電撃戦的に急進撃してフランス軍の後方補給線を脅かそうとしていたのだとか。


 この件について、Maudeという第一次世界大戦前のナポレオン関連本の著作家は、「マックの姿勢こそが正しく、むしろマックは有能だったのに、それを他のオーストリア軍の指揮官達(特にフェルディナント大公)が邪魔したのだ!」と主張しているそうで、R/Dさんはその説をBlog中で検証しておられますが、「Maudeの言っていることは無理筋だろう」という感じで書いておられます。

 興味を持ったので、他の本をちょっと見てみたのですが、以前に新たなナポレオン関係洋書をポチってしまいました (2014/06/25) で書いてました『Blundering to Glory』という本は、ナポレオン側の失策とそれを驚異的な努力で勝利へと持っていってしまうのをテーマとした本だからかもですが、マック将軍はナポレオンを危機に陥れる寸前で、それを無能なフェルディナント大公が無にしたのだ、という書き方になってました。ナポレオン側は、元々マックが後退するだろうと推測していたのに、後退していなかったのに気付き、「やべえ」となったものの、それを修正したのだと。

 この本の見方(特にマック)については、『歴史群像 111号』のP16で有坂純さんが詳述しておられるので、持っておられる方はぜひ見てみて下さい。




 あと、マック将軍個人については R/Dさんの勇将(?)マックの冒険も面白いかも。



 歴史群像では、佐藤俊之さんがナポレオン戦史を連載中で(いつも買って読ませてもらってます!)、122号でウルム戦役が扱われていて見てみたのですが、(R/Dさんや『Blundering to Glory』がマックの意図や機動について詳述しているのに比して)記述は簡素で、巷間流布している説にほぼ沿った書き方のようでした。

 まあ、Maudeや『Blundering to Glory』の見方はかなり異端の説に留まっているということなのかもしれません(^_^; が、面白い説だと思います。

 R/DさんはBlog中でMaudeの主張や資料の扱いの粗雑さも指摘しておられるんですが、私実は、Maudeの書いたイエナ戦役本(『The Jena Campaign - 1806』)を持っているんですが、この本、英文が私にはすごく読みにくいということもあるので、もしかしてこの本読まなくてもいいですかね……?(^_^;


 あと、『Blundering to Glory』なんですが、以前ちらっと読んだ時にはナポレオニックファンなら知ってるような流れの記述が割と延々と続いて、面白い論争のあるところの論が出てこないのに飽きて読むのをやめてしまったんですが、今回改めて読んでみると「知ってるような話は斜め読みして、論争のあるところは精読」すれば充分楽しめそうだと分かりました。個人的には論争になるところだけ扱ってくれればいいのにと思うのですが、まあそうもいかないのか(^_^; 私の持っているのは「THIRD EDITION」と書いてあって、それほど版を重ねているならやっぱ読む価値はあるのではないかと思い、ちょっとまた読んでみようと思います(他にも色々同時並行で読んでいるのですが……)。


『最小スケールのウェリントンの勝利』:歴史を歪めようとするのは誰か?

 だいぶ前に何かの折に買った、ウェリントン将軍の子ども向け伝記洋書を読み始めてみました。





 で、良くやるのですがふと思いついて「あとがき」の部分を読んでみたら、「ウェリントンについてオススメの本や史跡としてはこんなのがあるよ」というようなのが書いてある中に、以下のような記述がありました。

 ロンドンでは、チェルシーの国立軍事博物館に、ウィリアム・シボーン(William Siborne)によって作られた巨大なワーテルローの戦いのミニチュアがありますから、それを訪れるのも良いでしょう。このミニチュアに関する舞台裏の話はPeter Hofschröer【どなたかこの名前の発音教えて下さい(^_^;】によって書かれた『Wellington's Smallest Victory』で語られています。
『Who Was the Duke of Wellington』あとがき



 SiborneとHofschröer! Siborneと言えばワーテルローの戦いに関しての膨大な証言を集め(1844年に出版)、現在巷間流布しているワーテルロー象を作った、ワーテルローに関する(過去の)歴史家としては最も重要なんじゃないか?と思われる人物です。

 一方、Hofschröerと言えば、(1999年頃から?)ドイツ語資料や証言を駆使してこれまでの「ワーテルローの勝者はウェリントンであり、イギリスである」説に異論を唱え、プロイセン軍や、ウェリントンの率いた軍隊の中のドイツ語圏の兵士達の貢献に光をあて、またウェリントンやそのシンパによる自己宣伝による歴史記述の歪みを糾弾した人物として印象深いです。ただし、彼もまた、自説のために証言を歪めていると非難されたりもしています(→R/DさんのHofschröerの問題点)。


 ↓『Wellington's Smallest Victory』





 巨大なワーテルローの戦いのミニチュアという話は全然知らなかったのですが、「Model of the field of Waterloo」で検索すると画像が色々出てきます。ワーテルローの戦いの開始時のミニチュアではなく、その最終盤の時点(19:45)におけるミニチュアらしいです。

 公的な紹介ページは↓こちら?

Model of the field of Waterloo with troops positioned as at 19.45 hours, 18 June 1815.


 このページやWikipedia英語版William Siborne、あるいは大英図書館所蔵「ワーテルローの戦い」関連文献集成というpdfファイルを見ていると……大略。


 シボーンはワーテルローの戦いの時には兵士として18歳でパリにいましたが、その後の人生で何冊かの本を出版。1830年にイギリス軍最高司令官であったローランド・ヒル卿から、ワーテルローの戦いのミニチュアの製作を命じられました。彼は大規模な調査を開始し、当時のフランス陸軍省にも資料を提供してもらえるように丁寧にお願いしたもののそれは完全に無視され(フランス側にしてみれば負けた戦いですからね)、しかしオランダのオラニエ公からは親切にオランダ軍に関する資料をもらえたとか。

 彼は8ヶ月間ワーテルローの古戦場を調査し、またイギリスに生き残っていた当時の将校達に手紙を出して当時の様子について詳細に聞き取りをおこないましたが、当時のフランス軍やプロイセン軍の将校達にはその聞き取りはおこなわれませんでした。

 さて、ここからがややこしいのですが、公的ページによると、「このミニチュアモデルには、前進するプロイセン軍がいるべき領域がカットされてしまっており、明らかにイギリス側の立場から見るようにして作られていた」。一方Wikipediaによると、「Hofschröerの主張によると、ミニチュアモデルの建設中にシボーンはウェリントン公から敵意をもたれるに至ったが、それはシボーンがワーテルローの戦いにおけるウェリントン公の(巷間伝えられる?)出来事の一部に疑問を呈したからであった」。と。

 で、集められた資料はまとめられ、1844年から出版され始めましたが、Wikipediaによると「客観性の欠如は依然として議論の源です。」だとか。


 歴史を歪めようとしたのは、シボーンか、ウェリントンか、Hofschröerか? その全員であるというのが答えなのでしょうか。いや、そもそも我々人間は誰しも、「歴史を歪めようとする無意識から逃れられない」と言うべきなのかもしれませんが(脳科学的にそもそもそうであるようですね(>_<))。

ホーエンローエの方が悪かったのにリュッヘルがバカにされ、ナポレオンの方が悪かったのにグルーシーがバカにされ

 前々回のエントリで、R/Dさんの「祖国は危機あり 関連blog」の2016年分を印刷する話を書いてましたが、印刷はできて目を通していってます。

 その中に、「イエナのリュッヘル」という、リュッヘルがイエナ会戦に遅参したかどうかに関する検証記事がありました。私の方でもリュッヘルはイエナ会戦の敗北の責任を負うべきなのか? (2016/03/10) というエントリを書いていたので、大変興味深く読みました。

 結論としては、やはりリュッヘルは悪くないと思われるということです。ピーター(Petre)の『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』は私は参照できてなかったのですが、かなりリュッヘルを非難していたのですね……。

 リンクにあるドイツ語文献は著作権切れでか無料で全部読めるのでしょうか……? しかしドイツ語→英語ウェブ翻訳とかでも手を出すのは私はやはり苦しいのでやめておきます(^_^;



 あとR/Dさんのblog記事では、「グルーシーの2日間」が読み応えがありました。グルーシー可哀想……(T_T)

 ホーエンローエの方が悪かったのにリュッヘルがバカにされ、ナポレオンの方が悪かったのにグルーシーがバカにされ……歴史は「不当な非難」に満ちているのか……しかしこういう風に名誉が回復されていくのは良いことだと思いますし、その過程が興味深いですね~。

ヴィアランヌはアウエルシュタット会戦の日に馬を調達しようとしていたのか?

 もう1年ほど前ですが、アウエルシュタット会戦の日にダヴー麾下の騎兵指揮官であったヴィアランヌに関して書いてました。

第Ⅲ軍団直属騎兵の指揮官ヴィアランヌ (2016/01/18)

 このエントリに関して、R/Dさんが詳しく調べられていたエントリがありました(これまたもうすでに1年くらい前のものでしたが(^_^;)。

祖国は危機にあり 関連blog ヴィアランヌ

 なるほどです。私も、なんでこんな危ないタイミングでそういうことをするのか疑問には思っていました(^_^;

 ただ、なぜヴィアランヌがその時間いなくなったのかに関しては分からないままですね……。『歴史群像』の記事による「馬匹の調達」というのは、何か別の資料があってのことなのでしょうか。



 祖国は危機にあり 関連blogの方は数年前に、それまで存在していた記事をまとめて印刷させてもらい、その後は正月のタイミングで1年分まとめて印刷させてもらってました。2016年分は忙しくてまだだったのですが、別件が落ち着いてきそうなので、データをまとめるのを着手し始めました。

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シュヴァルツェンベルク将軍について

 今回はオーストリアのシュヴァルツェンベルク将軍について。1813~14年の戦役で有名で、特に1814年の時には連合軍側の最高司令官でした。この時期のゲームには必ず出てくるはずです。


Karel Filip Schwarzenberg
 ↑英語版Wikipedia Karl Philipp, Prince of Schwarzenbergから


 今回、彼に興味を持った最初のきっかけは先ほどのエントリと同じ『ナポレオンとバイエルン』からでした(P85~86)。

 シュヴァルツェンベルク将軍がバイエルンに見事にだまされるという面白い部分があったのです。

 1805年のウルム・アウステルリッツ戦役が始まる前の話です。オーストリアは以前からの宿願であるバイエルン併合をもって対ナポレオン戦争を有利に運ぼうと、シュヴァルツェンベルクをバイエルンに派遣しました(本文では「元帥」となってますが、元帥になったのは1813年になってからっぽいですね)。

 ……オーストリアの陸軍元帥シュヴァルツェンベルク侯爵が百騎の軽騎兵および竜騎兵の先頭に立ってニンフェンブルクに現れた。兵士が宮殿を取り囲んでいる間にシュヴァルツェンベルクは【バイエルンの選帝侯である】マックス・ヨーゼフに皇帝フランツII世の手紙を渡し、また皇帝の名において、バイエルン軍を遅滞なくオーストリア軍に合流させ、ナポレオンに向かって進軍させること、中立はいかなる形でも認められないこと、もし逆らうのであれば武力が行使されるが、従うのであれば国の無傷は保証する、と要求した。


 選帝侯は翌日まで待ってくれるように頼み、翌日の夜にシュヴァルツェンベルクに曖昧な内容のメモを渡しました。

 シュヴァルツェンベルクは行間に隠された二重の意味を見逃し、ゴールに来たと信じた。


 このメモをシュヴァルツェンベルクから受け取ったバイエルン大臣は二重の意味を理解して、相手が楽観的な気分になるようにしむけました。そして3日後に、

ぼんやりとではあるが視野に入ったバイエルンとオーストリアの部隊の統合のあり方について話し合うことで合意し

たのです。
 約束の3日後、オーストリアに友好的であることで知られたバイエルンのノガローラ将軍が送られてきたのですが、

ノガローラのはっきりしない使命に不安になっていたシュヴァルツェンベルクは、翌【9月9日】朝マックス・ヨーゼフ【選帝侯】のメモを手にしたとき大変驚いた。それには突然の出立の理由は彼を襲った健康状態によるものとし、次の言葉で終わっていた。「ご機嫌よう、我が友よ。お暇なときに貴方を心から愛する者を思い出して下さい」。バイエルンの交渉使節が……シュヴァルツェンベルクとマックに単刀直入に、バイエルンの軍隊は合流せず、武装解除もしないこと、武器使用もあり得ると説明したとき、ようやく彼も目が覚めた。

 ……【バイエルンは】二重の罠をオーストリアに仕掛けた。一つには前向きの結果を期待させることによって集結しつつあるバイエルン軍の進軍を襲撃させないことであり、もう一つは会談の場所の選択によってマックは国境を越えてしまっており、それによってオーストリアが先制攻撃の汚名を被らなければならないように最初から仕組んだことであった。



 チャンドラーの『ナポレオン戦争』のこの部分のは私は持っていないので、『歴史群像』のナポレオン戦争の連載で当該部分を探したところ(122号P157)、

オーストリア軍は、9月13日に先手を打ってバイエルンへ侵入した。

という感じで書いてありました(他にもいくらかありますが省略)。『ナポレオンとバイエルン』における記述はまああくまでバイエルン側からの視点が強いものなのかもしれないですが、詳しい話として面白いですねー。


 シュヴァルツェンベルクに改めて興味を持ったので、日本語版Wikipediaを探してみたのですがないようで、それへの不満から作られた「Biography: シュヴァルツェンベルク元帥」というページがありました(^_^; このページから目次ページに戻ると、ウォーゲーマーでもあるらしい作者の方の他の軍事関係のページへのリンクがあり、アイラウ会戦の騎兵のページとかバルクライ・ド・トーリィのページとかも含め、印刷させてもらいました。またじっくり読もうと思います。


 でもって、定番の『Dictionary of the Napoleonic Wars』と『Who was who in the Napoleonic Wars』のシュヴァルツェンベルクの項目を訳してみました。

Schwarzenberg, Field Marshal Karl Philip, Prince(1771-1820)
 ウィーンで生まれ、1788年にオーストリア帝国軍に入隊。17世紀後半に家名の高まったフランケン地方の一族の子孫であったこの公子はまずトルコに対する戦役で名を上げ、その後オーストリア領ネーデルラントでフランス軍のデュムーリエ、そしてピシュグリュの部隊を相手に戦った。1796年に少将となり、1800年から師団を指揮。1805年にはウルムにおけるマックの絶望的な被包囲下の軍から脱出し、生き残った者達を再結集した。1806~1809年にかけてサンクト・ペテルブルクでオーストリア公使として務め、ワグラムの戦いとシェーンブルン和約の後、パリへと遣わされてマリー・ルイーズとナポレオンとの結婚の交渉を補佐した。1812年にはロシア遠征における大陸軍の最右翼に配されたオーストリア軍団の指揮を執り、難局を事前に予測して多数の兵士を連れ帰り、ポーランドへと退却した。1813年8月にオーストリアがフランスに対して宣戦布告すると、彼は第6次対仏大同盟の連合軍における最高司令官に任命された。ドレスデンで敗北した後、ライプツィヒでの勝利をもたらし、翌年のフランス侵攻の際にはボヘミア方面軍を率いて幾度かの勝利を収めた。1815年6月にはオーストリア軍を率いて再度ライン川を越えようとするところであったが、彼が大軍を率いて駆けつける前にワーテルローの戦いで決着がついた。高等軍事評議会の一員に任命された後、1817年にまひ状態となり、その3年後に亡くなった。対仏大同盟連合軍の指揮官として彼は大きな諸問題に直面したが、どんな時にもその共通の利益を維持することをからくもやり遂げたのであった。
『Dictionary of the Napoleonic Wars』


Schwarzenberg, Field Marshal Karl Philipp, Prince zu (1771-1820)
 彼は、1670年に相当な地位を得たフランケン地方を起源とする古く高名な一族の出身であり、この一族の中には帝国のAdolf von Schwarzenberg(1547-1600)将軍や、ルターの友人で法学者であったJohann, Freiherr von Schwarzenberg und Hohenlandsberg(1463-1528)も含まれている。カールは1788年にオーストリア軍に入隊しトルコ軍を相手に従軍したが、最初に誰もが認める活躍をしたのは1794年のネーデルラントにおいてであった。その若さにも関わらず、彼はランドルシーの解囲を試みようとするフランス軍を撃退するための連合軍騎兵部隊の指揮官に任命され、ル・カトー=カンブレシやボーモンにおける戦闘(4月26日)で目覚ましい成功を収め、その功績を称えてマリア・テレジア勲章を授けられた。アンベルクとヴュルツブルクで従軍した後、彼は1799年に中将の位を得て、ホーエンリンデンの戦いにおける敗北からオーストリア軍右翼を救い、1805年には師団指揮官としてウルムで包囲されたマック麾下の部隊から脱出した一群の中にいた。1808年にロシア皇帝への大使として遣わされ、帰国してワグラムで騎兵師団を指揮し、和平後はマリー・ルイーズとナポレオンとの結婚の交渉のためにパリへと送られた。Rue de Montblancにある彼の自宅のある舞踏会で火事が起きて多数の客が亡くなったが、その中に彼の義理の姉妹であるポーリーヌ・シュヴァルツェンベルクもいた。彼女は娘を探して火の中に急いで戻ろうとした時に落ちてきた床によって亡くなったのだった(ポーリーヌの娘はアルフレッド・ヴィンディシュグレーツ(1787-1862)の妻となり、1848年のプラハでの革命騒ぎの時に殺された)。ナポレオンによって高く評価されたシュヴァルツェンベルクは1812年のロシア戦役においてオーストリア予備軍団の指揮を執った。元帥となり、1813年に彼はボヘミア方面軍の指揮官に任命される。1813~14年の戦役で彼は最高司令官となったが、そこでかなりの優秀さと共に、非難される臆病さをも示した。彼の職務は様々な同盟国間の意見の衝突によって困難なものとなり、特にライプツィヒにおいては3人の君主が同席したことが彼の軍事行動を曇らせることとなった。戦後は大きな名誉が与えられ、宮廷軍事局の長に任命されたが、1817年に脳梗塞で倒れた後は身体の一部に麻痺が残り、彼の最も偉大な功績であったライプツィヒを訪問中に再度の発作が起こって1820年10月15日に亡くなった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』


 訳していてまず思ったのは、シュヴァルツェンベルクの生まれた年の1771年というのは私の生年である1971年のちょうど200年前なんですよね。で、彼が最高司令官であった1814年というのは年齢的に43歳という年で、私だったらその年齢で3君主の調整役しながら最高司令官とか無理だし、イヤだなと思いました(^_^; そいでもって彼は1817年の46歳の時に脳梗塞を起こして3年後に亡くなるわけですね。ううーむ、身につまされる……。


 それから、『ライプチヒ戦場哀話』には会戦前日にシュヴァルツェンベルクが妻にあてて書いた手紙が載っているのですが、その前段の、将軍に関する部分を引用してみます(P19~20)。

 シュヴァルツェンブルク侯(1771-1820)という人は、1813年以来、同盟軍の最高司令官の地位に就いていたのだが、そんな彼が、今日では、たとえばブリュッハー、グナイゼナウ、あるいはヨルクのような将軍ほどには知名度が高くはない。どうしてであろうか?

 一つには、彼は名目上は最高司令官だったとはいえ、実際は、しばしば、ロシアのアレキサンドル1世、オーストリーのフランツ1世、そしてプロイセンのヴィルヘルム3世に干渉され、ひいてはまた、これらの君主の軍事顧問らにまで干渉されたことである。(ブリュッハーは、この会戦での勝利のあとで、シュヴァルツェンブルクに捧げた乾杯の辞のなかで、「お三方の君主を司令部に擁しつつ、それでも敵を屈服させた総司令官殿に捧げます」と述べている。)

 いま一つには、この人は、たしかに、たとえばグナイゼナウのような猛将に匹敵する資質が欠けていたといえよう。それだけに、この最高司令官があのような難局を切り抜け、しかも、うぬぼれないで謙虚であったことは、まことに見上げたものである。

 それはともかくとして、以下に載せる彼の手紙は、この貴族と夫人とが固いきずなで結ばれていたことを物語っているばかりでなく、きわめて高潔で誠実な心情をも示している。- ちなみに、この時機での総参謀長は、軍隊行進曲でも有名になったラデツキ(1766-1858)であった。

 後日談になるが、シュヴァルツェンブルクは、1820年に、中風のために半身不随になった身で、ライプチヒ近郊の古戦場を訪れた。その滞在中に病気が再発して、ついに、その生涯で最大の勝利を得た場所で永眠したのだ。遺体がその故郷に移送されるに際しては、ライプチヒ市も、おごそかな式をもって弔意を示したのであった。……




 他にも色々資料はあるでしょうけども、アクセスしやすくまとまっているのはこれくらい……?

 最後に、全訳してあって検索とチェックが容易な『The Hussar General』から。色々と面白い話があっていいです。

 シュヴァルツェンベルクは【1813年】8月17日にバルクライから総司令官の任を引き継ぎ、慎重であまりにも几帳面すぎたが、彼は王達の扱いが巧妙であることを見せつけた。
-P126辺り


 だが連合軍の方でも、直近の成功にも関わらず、より大きな反目の様相を見せていた。ベルナドット、シュヴァルツェンベルク、アレクサンドル皇帝、フリードリヒ・ヴィルヘルム、ブリュッヒャー ー の全員がお互いに、その部下達と共に反目していたのである。フリードリヒ・ヴィルヘルムは依然としてベルリンを心配し、その地域における行動を主張しており、その要請はビューローによって極めて優れた才気と勇敢さによって答えられた【6月6日のルッカウの戦いのことだと思われます。ビューロー将軍について、まとめを参照】。だがビューローは、ベルナドットの考え方によって絶えず邪魔されていることに気づくことになった。すぐにブリュッヒャーも、この皇太子による同様の躊躇を経験することになる。だがベルナドットと、連合軍総司令官であるシュヴァルツェンベルクは、追撃がおこなわれるべきであるという一般戦略には同意し続けていた。これはシュヴァルツェンベルクの参謀長であるヨーゼフ・ラデツキー将軍によって描かれたものであり、「不適当な苦闘は避け、敵を疲れさせ、敵の弱まった部分を優越した戦力で攻撃を挑み、全体として敵を打ち破る」というものであった。
 原則として、そのような戦略はよさそうに思える。ところが実際にやってみると、その達成は極端に困難であることが分かり、特にシュヴァルツェンベルクは様々な王侯や国際的な利害からの実に多くの異なった圧力の影響下にあったのだった。ブリュッヒャーは、自身はこの連合軍総司令官に対して不賛成でありながら、シュヴァルツェンベルクの困難な状況を充分理解していた。というのは、後に彼は「司令部に3人もの王侯を抱えながら、それでもなんとかして勝利を勝ち取った最高司令官」への乾杯を提案したのだった。王侯のうちにの一人はオーストリア皇帝フランツで、シュヴァルツェンベルクとの関係は困難がなかったが、他の2人は彼に絶えず心配を与え続けた。
「ロシア皇帝は良い人だが弱く、」シュヴァルツェンベルクは書いている。「(プロイセン)王はおおざっぱで下品で、思いやりがなく、私にとっては、その哀れで勇敢なプロイセン人達が愉快だと思うのと同じくらい不快であった。」

 ……
 フリードリヒ・ヴィルヘルムの副官であったクネセベックは、連合軍司令部の混乱をこのように描いている。

「ここで我々が何をなすべきであったかを語るのは大変に難しい。なぜならば、我々は戦争の会議を仕上げたことが一度もなかったからである。シュヴァルツェンベルクは良識のある人であったが、彼は君主達の信頼や、自分自身への信頼を持っていなかった。それゆえ、延々と議論が続いた。ロシア軍の将軍達は命令に従おうとしなかった。皇帝は時折、自分自身で命令を出した。その結果、ある命令の後に別の命令が出され、誰も、誰が料理人で誰が執事であるのかを知らなかった。」
-P136辺り


 ラデツキー将軍による戦略というのは、いわゆる「ライヘンバッハ・プラン」のことですね。ライヘンバッハ・プランの立案者についてはR/Dさんの1813年7月12日 トラッヘンベルクに詳しく、非常に興味深いです。『The Hussar General』は「文学創作的な点が多すぎて、事実とフィクションの境界が曖昧」という評価(→ブリュッヒャー本の評価を参照)で、ブリュッヒャーを主題としているからにはシャルンホルストをライヘンバッハ・プランの立案者にしてしまいそうな感じですが、意外でした(^_^;

 ライプツィヒは65km南に位置していた。ブリュッヒャーはナポレオンの態勢が整っていない状態にしており、それに24時間以内にベルナドットがエルベ川を渡ってブリュッヒャーの右側面に位置する。彼らの軍勢を合わせれば総計140,000名にも達した。ライプツィヒの南ではシュヴァルツェンベルクの連合軍主力が220,000名で前進している。10月5日には先頭の部隊がライプツィヒから78kmのZwickauに到着したが、その最後尾は70km後方のKomatauまで伸びていた。この連合軍の環はブリュッヒャーとベルナドットが5日に南へ進軍し始めた時に確実に狭まり、ブリュッヒャーはMulde川の右岸を、ベルナドットは左岸を進んだ。だがすでにこの2人の指揮官の間での不一致が起こっていた。というのは両方ともが、他方の軍がMulde川を渡るべきだと主張したのである。主力軍からの知らせもブリュッヒャーを怒らせた。シュヴァルツェンベルクはあまりにもゆっくりとした前進で、ナポレオンに攻撃のチャンスを与えたのである。
-P141辺り


 【1814年戦役の作戦計画について】 スイスの迂回路を通るという軍事的根拠は乏しいものに見えた。このルートはラングルの高い高地へのアクセスを与えるものであり、ラングル自体の周辺からいくつもの大河川が発していた。この計画の提案者は、軍がこれらの川を渡る時、その川が発する辺りで渡った方が、下流で渡るよりもより容易であると主張した。ラングルの高地は、フランス国内戦役における「指揮のための場所」との言い回しをされたが、この計画への批判者達にとってはその様な専門用語は、ナポレオン戦争の発展によって時代遅れとなってしまっている戦争方法であるように感じられた。例えば、クラウゼヴィッツは、大量動員における新しい柔軟な戦争形式よりも「代数的な行動」を信じるような古い方法論的な将軍を非難している。クラウゼヴィッツが「軍事的博学の聖遺物」を崇拝するそれらの人々を批判する時、彼は恐らくシュヴァルツェンベルクのことを念頭に置いている。クラウゼヴィッツの教育に欠けたブリュッヒャーは、自分自身のことをもっと力強い方法で表現した。彼はラングル高地を取ることで彼が見ることのできる唯一の利点は、それはまたフランスの水源にもなっているわけだが、もし彼がその頂に立って排尿したとしたら、半分は地中海に注ぎ、半分は大西洋に注ぐだろうことだ、と言った。

 ……

 それゆえ、ブリュッヒャーと彼の支持者達は、その軍事的目標 ー 敵主力の撃滅 ー が最初になされるべきであり、それは政治上の配慮よりも優先されるのだとさえ信じていた。だが、シュヴァルツェンベルクは、大勢の国王達や大臣達や政治的助言者達に囲まれて、それらの他の政治的要素を回避するチャンスを失っていたのであった。

「私が耐えなければならないものは、本当に非人間的なものであった。」と、シュヴァルツェンベルクはいつものおだやかな態度ではあったが、大声で言った。
「私は愚かな人々や、あらゆる種類の間抜け達や、頭がおかしい計画者達や、陰謀者達や、馬鹿者達、大口をたたく者達に囲まれていた……私はかなりの頻度で、私は彼らの重みでつぶれてしまうのではないかと思った。」
-P171辺り


 ブリュッヒャーとグナイゼナウは激しく不同意であった。
「もし主力軍が接合に効果を及ぼせるほど充分に遠くまで前進したなら、」ブリュッヒャーはシュヴァルツェンベルクに書いている。
「我々は絶対的に決定的な打撃を与えるのに充分なほど強力になるに違いないと私は考えている。」
 だが、その主力軍はラングルで無駄に過ごしていた。シュヴァルツェンベルクは血気にはやるプロイセン元帥と、それに負けず劣らず性急な彼の参謀長を罵った。彼は妻に向けて怒りの手紙を書いている。

「ブリュッヒャーと、その上にグナイゼナウは……戦争の一つ一つのルールすべてを足下に踏みにじるような、完全に子供じみた怒りで、パリへの進軍を強く要求している。ChalonsからNancyへの街道を守る為に相当の部隊を置くこともなく、彼らは狂った様にBrienneへ突進しているのだ。彼らの後方と彼らの側面に関わらず、彼らはパレ・ロワイヤルでの【plan parties fines?】以外の何もしていない。それは、このような重要な瞬間にあっては、本当に浅はかなことだ!」

 ブリュッヒャーとグナイゼナウは、戦争のルールを曲げることの方を好み、シュヴァルツェンベルクの教本を固守する厳正さの方を疑わしく思い続けていたのである。さらに言えば、彼らは後方を無視するというよりはむしろ、彼らの為に主力軍がその機能を果たしてくれることを当てにしていたのである。だが、ラングルでの議論は致命的に重要なほぼ2週間の間続いた。それで、ブリュッヒャーはChalonsへと押し進み続けたのではあるが、彼の前進には支援がともなっていなかった。
-P176【ライン川渡河の辺り】


 シュヴァルツェンベルクは行動を起こさなかった。その代わりに彼はブリュッヒャーの攻勢主義を批判し続けた。

「我が老ブリュッヒャーはあまりにもまた再びパレ・ロワイヤルを望みすぎており(彼はその日のうちに妻に向けて書いている)、目の前の敵が確かに弱かったのだとしても、敵は彼の側面にもいるのだということを考えることなしに、狂った様に前進し続けているのだ。彼が戦力を放縦にもてあそぶことが彼の破滅に繋がらなかったとしたら、それはまさに奇跡だろう。」

 ブリュッヒャーを孤立無援のままに放っておき、連合軍部隊を分割するということを通してより多くの戦力の喪失をもたらしたという事に関してシュヴァルツェンベルクは罪を負ってはいたものの、彼の批判にもいくばくかの正当性があった。ブリュッヒャーはいつも通りに、戦う為に前進することを決めたのだった。特に、捕虜としたあるフランス人が彼に、ナポレオンは今やパリを守る為に首都へと引き返したということを保証した時に。
-P182辺り【6日間戦役の辺り】


大量動員の軍隊は外国を犠牲にしてのみ戦争ができる

 『ナポレオンとバイエルン』をちょっとずつ読んでいってます。

 フランス革命戦争の中で翻弄されるバイエルンのところで、非常に印象に残る部分がありました。

 1796年にバイエルンに対して進軍したフランスが和約の条件として多額の占領費分担を負わせる条約を結んだところの話です。

 これはフランス軍の敵国におけるまったく典型的なやり方であった。というのは共和国の軍事的優位は一般兵役義務により国民戦場に狩り出す「大量動員」の巨大な軍隊に依存しているが、それを自力で維持するのはまったく不可能だったからである。フランスの将軍たちは占領費分担金を取り立てることができる外国でだけ戦争を遂行することができた。個々の兵士も指導者のお手本に見習って振る舞った。共和国の速成の巨大軍隊は必要に迫られて従来の兵舎生活を諦め、隊を田野に宿営させた。このことは軍隊に優れた機動性を与え、将軍たちは従来の戦法とは異なる柔軟な作戦を行うことができた。しかしこの新しい、しかしずっと以前にはそうであったシステムは隊の規律維持にはまったく役立たず、特に市民を困らせた。バッタの大群のように革命の旗手たちは徴発する場所を見つけるため移動し、分担金を巻き上げた。正規の軍隊というよりは盗賊団に似た共和国の兵士の姿は住民を不安と恐怖に陥れるのにふさわしかった。
『ナポレオンとバイエルン』P27



 こういうシステム面の話には大変興味があります。

 似たような話を他の本やウェブ上で見たことがないかと思ってちょこっと探したところ、R/Dさんのフランス革命戦争の「背景」の「軍国主義」のページにありました。

 そこだけ引用してみます。

 Paddy Griffithは革命期の大量動員によって成り立った巨大な軍隊が、戦争を再生産する原因になったと見ている。あまりに数の多い軍を養うことができないフランス政府は、軍自身が自らを扶養することを求めた。つまり、「現地調達」という名の略奪をするよう仕向けたのだ。そのためには軍隊は国境外への侵攻を続けるしかなかった。国内で略奪はできないし、国外でも一定期間軍隊が駐留した場所はやがて経済的に力尽きて軍隊を養えなくなった。軍隊が存在し続けるためには、新たな戦争を立て続けに起こし、次々と戦場を拡大するより他になかったのだ。戦争を終わらせることは、財政の均衡維持のために軍隊の動員を解除することを意味しており、それは失業と国内の分裂と混乱につながることが明らかだった。

 戦争のために軍隊が必要になり、その軍隊が今度は戦争を必要とする。そうした循環に巻き込まれたフランスは「現地調達」ができる地域を求めてはるか彼方まで遠征し、挙句の果てにロシアの奥地まで出かけて行って力尽きた。ここでは戦争そのものが目的と化してしまうシステムの存在が窺える。



 Paddy Griffithという人物が挙がっていることに関してですが、Amazon上で見られる彼の著作のページの中の、『The Art of War of Revolutionary France, 1789-1802』にそういうことが書かれているのだと思います。ってか、彼の著作の『French Napoleonic Infantry Tactics 1792-1815』という本を私持ってました(^_^;(が、私は詳細な歩兵戦術とかには興味があまりなかったみたいで、積ん読状態になってます)。

 『French Napoleonic Infantry Tactics 1792-1815』の著者紹介の文を読んでみると、戦術面に関する多数の著作がある一方でウォーゲームもやっているとのこと。実際、実際、Amazonの著作のページの最後にはナポレオニックミニチュアゲームに関する本がありました。





ウェリントン公の人となり

 『Children at the Battle of Waterloo』の読み直しは大して進んでいない(体調悪くて読めませんでしたし)のですが、ウェリントン公に関して非常に興味深いと思った記述があったのでそれを。

 カトル・ブラの戦いの前に、彼が兵士達(やその妻と子どもたち)の前を馬に乗って通り過ぎる時の描写です。

 【ウェリントン】公爵は兵士達が彼を歓呼するのを好まなかったが、兵士達は彼が通り過ぎる時に立ち上がって敬意を表した。【兵士の】ジョン・アドウィックは【6歳になる娘の】メアリーを持ち上げ、メアリーがこの偉大な人物が馬上で姿勢良くぴしっとしている様子が見えるようにした。
『Children at the Battle of Waterloo』17%

 「歓呼されるのを好まなかった」というのが非常に面白く感じました。この本がどれくらい信用できるかは良く分からないですが、少なくとも良く調べてあるという感想は持つので、なんらかの資料にそう書いてあるのだと思います。


 また、この記述もなんか面白かったです(^_^; カトル・ブラの戦いの終わりの頃。

 夕刻6:30に、聞きなじみのあるラッパの合図が聞こえた。前進の合図だった。メアリーでさえもが、ウェリントンは勝利を手中にした時でなければ決して前進しないということを知っていた。
『Children at the Battle of Waterloo』19%

というのは、ウェリントンは「守って勝つ」タイプの将軍だからでしょうけども……。


 他の探しやすそうな本でもウェリントン公についての記述を調べてみました。まずは『Waterloo:Companion』。

 彼はまた馬のゼーゼーという咳にもたとえられるような特有の笑い方をし、一度でもそれを聞いた者は決して忘れられなかった。
『Waterloo:Companion』P92



 ↓こういう感じでしょうか?(^_^; ゲームでウェリントン公の立場になる人はぜひマネしてみて下さい(おい)。





 ナポレオンは彼の兵士達に熱狂的に好かれ、あがめられ、崇拝されていた。それに対して、ウェリントンは兵士達に尊敬されていた。彼の兵士達は彼の将軍としての能力に最大限の信頼を置いていた。戦いの最中に危機的な状況に陥った時に、煙を通して彼らのよく見知ったウェリントンの横顔が見えたならば、無意識のうちに、すべてが好転し始めるのだった。しかし、彼が近づいてきた時の平均的な中隊の反応というのは、帽子を振って「公爵万歳!」と叫ぶというものよりは、一軍曹が「しっ! お前らの前に……公爵がいるぞ」とささやくというものだった。彼は厳格であり、あまり人を寄せ付けず、冷たい感じで、高飛車で、あまり人を褒めなかった。例えばワーテルローでは彼は会戦後に、Colonel Colbourneの勇敢な行為と、第52【歩兵連隊?】が親衛隊を撃退した腕前に関して言及することをしなかった。ナポレオンが賞賛、報奨、名誉を与えることに関して物惜しみをしなかったのに対して、ウェリントンは反対の極の方向に過ちを犯していたと言えるだろう。後にウェリントンは、「今までにもっとこうできただろうに、という事はありますか?」と尋ねられて答えた。「そうですね。私はもっと人を褒めるべきでした。」

 砲火の下での彼の勇敢さと冷静さに関しては、まったく疑いを差し挟む余地はない。彼の危険な状況における冷静さと、動じなさは、夕方の早い時間にラ・エイ・サントが落ちた時にもはっきりと示された。Ompteda将軍が幹線道路近くで撃たれて死亡し、De Lancey(ウェリントンの主計総監であった)が至近距離での大砲で致命傷を負い、同様に彼の最も信頼する副官であり、かつ個人的な友人でもあったSir Alexander Gordonが右翼に行っている間にオレンジ公とAlten将軍の両名が倒れた。残っている幕僚たちが叫び声でウェリントンに命令を求めた時、彼はまったく表情を変えずに言った。「最後の一人になるまで断固として立ち続けよ。それ以外に命令はない。」
『Waterloo:Companion』P94





 人物の逸話に関する本を買ってあったのを見つけたので、それらからも(特に面白そう?なのだけ)。

 ワーテルローでナポレオンを破ったウェリントン公は約束の時間をきちんと守るので知られていたが、彼はいつも時計を六つも持ち歩いていた。
『西洋人物こばなし辞典』P33


 ウェリントンは頑固一徹で、あまり兵士たちに好かれていなかった。あるとき運河に落ち、一人の兵士に助けてもらったが、兵士はこのことを誰にも話さないでもらいたいと頼んだ。そのわけはウェリントンを助けたことが知れると、仲間たちに運河に投げ込まれるのではないかと思ったからであった。

 ウェリントンは脚部をズボンの下に入れてはく足首の上までくるゆるい長靴を愛用したが、これがノージーというあだ名の由来となる大きな鼻とともに、彼のトレードマークとなった。今ではウェリントン(ブーツ)というのは広く長靴を表わすことばとして使われる。

 ウェリントンの部下の兵士にトマス=アトキンズという男がいたが、この兵士が勇敢な戦闘ののち致命傷を受けた。ウェリントンはこの人物の名を忘れず、その後国務大臣として陸軍法規に兵士の代表名としてこれを使うことに決めた。これ以後イギリスの陸軍兵士は、あだ名としてトミー=アトキンズまたはトミーとよばれている。
『世界人物逸話大辞典』P133


 運河の話が一番面白いですね(^_^;

 「トミー」の逸話も面白いですが、英語版Wikipediaの「Tommy Atkins」によると、あくまで複数ある説のうちの一つのようです。またその戦闘というのは、ナポレオン戦争期間中の話ではなく、1794年のベルギー・オランダ戦線におけるボクステルの戦いというのの中での話だそうです。

民間人の服でワーテルローにいた4人の有名人

 このブログの過去のエントリを見ていて、「あれっ、おかしいゾ?」と思う記述に出会いました。

ウェリントンとヒル卿のユニット (2012/03/27)

 の中の、以下の部分。

 ワーテルローの戦場で彼【ウェリントン公】以外に民間人の服を着用していた有名人として知られるのは、彼の息子のRichmond公爵と、シルクハットに銃弾を受けて死亡したピクトン将軍だけであった。
『Waterloo:Companion』P93


 「えっ、リッチモンド公爵がウェリントン公の息子ってことに?!」

 上記エントリは2012年に書いていたもので良く分かっていなかったわけですが、その後2014年に『Children at the Battle of Waterloo』を読んで、リッチモンド公爵について結構分かってきました。例えば↓ですとか。

リッチモンド公爵はなぜブリュッセルに来ていたのか? (2014/09/20)

 改めて簡単に書いておきますとリッチモンド公爵というのはウェリントン公の元上司にあたるような人物で、ワーテルローの戦いの時にはブリュッセルに置かれていた予備部隊の指揮官という地位にあり、またリッチモンド公爵夫人が戦役直前に開いたブリュッセルでの舞踏会は映画『ワーテルロー』でも描かれた有名なものでした。そいでもってリッチモンド公爵の四男であるウィリアム・レノックス(15歳)が以前からウェリントンの副官になっていたのにちょっと前に馬から落ちて怪我して従軍できなくなっていたのを、もともと彼が配属されていた近衛旅団長メイトランドの同僚副官(18歳)がカトル・ブラの戦いで戦死したというのを聞いて矢も楯もたまらず父親のリッチモンド公爵と一緒にワーテルローの戦いを見に行って……という流れになっておりました。


 で、原文を見てみると、こうなってました。

 The only other senior personages at Waterloo known to be in civilian clothes were the Duke of Richmond, his son, and General Picton who died with a ball through his top hat.


 これはまあ、事情を良く知っているのでなければ間違ってもしょうがない感じの文だった……?(^_^;


 聞いた話として、スペイン半島戦役に登場するイギリス軍のサー・ジョン・ムーア将軍という人物がいますが、なんらかの作品では彼のことが「ムーア人【モロッコ・モーリタニアなどアフリカ北西部に住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々】」と訳されていたそうです。事情を知らなければそういうことって起こりますよね~(ただし綴りはMoore将軍とMoor人とで、異なるっぽいですが……)。


 一応、件のエントリは訂正しておきました……。

脚に被弾したアクスブリッジ卿に、ウェリントン公はなんと言ったのか?

 『Children at the Battle of Waterloo』を読み返してましたら、ヨーク公がアクスブリッジ卿が副司令官になるように無理矢理押し込んだ……という話が載ってまして、そこらへん興味を持って調べようとしてましたら、むしろアクスブリッジ卿が片脚を失った(失うきっかけとなった被弾の)時の会話の話が出てきたのが気になって、そちらを調べてました。


 とりあえずまず、ウェリントンとアクスブリッジの関係に関して。

 ウェリントンはまた、摂政王子とヨーク公に贔屓されていた比較的経験の浅いアクスブリッジ卿に、騎兵指揮の全権を与えざるを得なかった。彼はまた、ウェリントンの弟の妻と駆け落ちした人物で、それが恐らく彼の応対の冷たさの一因となっていた - 戦場では反目は明らかには見えなかったけれども。
- 『Waterloo Companion』P26 -



 脚を被弾した時の大体の状況に関して。

 戦いはほとんど終わった。プロイセン軍はパペロットとラ・エイ・サントで戦場に現れた。そして、その夕方七時半ごろ、ウェリントンは英語の新しい表現をもう一つ生み出した。彼は全軍による進撃を決意し、「さあ、始めたからには、最後までしろ(In for a penny, in for a pound.)」と。フランス陣営に向かって帽子を三回振って合図をすると、騎兵も歩兵も、目の前の平原に向かって斜面を駆け降りた。それが最後だった。ネイはなおも猛り狂いながら、捕まれば、どうせ絞首刑だ、とデルロンに向かって叫び、ナポレオンは予備の近衛軍をすべて投入して、総崩れになったフランス軍を押し止めようとしたが、その努力は空しかった。ウェリントンが愛馬コペンハーゲンを駆って、アクスブリッジと並んで前進中、敵の流れ弾がその乗馬の首筋をかすめてアクスブリッジの膝にあたったのはこのときである。
『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』P287



 『Children at the Battle of Waterloo』には以下のように書かれています。

 実際には負傷したのはウェリントンではなくて、気の毒なアクスブリッジであった。ブドウ弾が彼の膝を打ち砕き、その後ウェリントンの乗馬の首筋を通り過ぎた。ウェリントンが退却するフランス軍を望遠鏡で見ている時に、アクスブリッジが叫んだと言われている。
"By God, Sir, I've lost my leg."
ウェリントンは望遠鏡を目から外しながら言った。
"By God Sir, so you have."
『Children at the Battle of Waterloo』78%の辺り



 これを何と訳すのか……? なんですが、「so you have」とかって基本的に出てこないのです。

 「by God」に関しては英辞郎で見てみると、

【1】神によって
【2】神かけて、絶対に、きっと、必ず
【3】おや、くそっ、ちぇっ

 とあります。ありそうなのとして、アクスブリッジは「くそっ」という意味で言ったのだけども、ウェリントンは「神によって」という意味で返したとか……?


 映画『ワーテルロー』にもこのシーンがあるのですが、恐らくこの"By God, Sir, I've lost my leg.""By God Sir, so you have."でもって、「片脚 失いました」「片脚……しっかり……」という風に和訳されていて、これはかなり有力な訳なのでしょうか?

 ↓2:08辺りから。





 The Battle of Waterloo: is this the most British conversation ever to be held on a battlefield?というサイトを見ていますと、ウェリントンが冷静であるということもあるかもしれないけども、8人も子どもをもうけた妻を捨ててウェリントンの弟の妻と駆け落ちし、決闘するなどという大スキャンダルを巻き起こし、無能な摂政王子とヨーク公から無理矢理押し込まれたアクスブリッジに対して冷淡であったからという可能性が……というような事が書いてあり、「冷淡な返し」であることが可能性としてあり得るっぽいです。


 一方、『The Battle』にはこうありました。

 公爵がその突撃を承諾した時、アクスブリッジ伯爵はそれを自ら率いるつもりであった。だがまさにその瞬間、砲弾の破片が彼の右膝を打ち砕いた。アクスブリッジは叫んだ。
"By God! I've lost my leg!"
 ウェリントンは冷静に返答した。
"Have you, by God?"
 この逸話は作り話かもしれないが、名誉の規範を忠実に守る彼らジェントルマン達は、危険に直面した時の平静さと自尊心を何よりも大事にした。このことは、この2人の指揮官から遠くない場所にいた第18ユサールのDuperierの目撃証言からも裏付けられる。彼はアクスブリッジ伯爵が突然ヴィヴィアンと握手をし、その後歩いて自分の馬をひきつつ後方へ向かうのを見た。Duperierはアクスブリッジが負傷したのかと気付いたが、
「だが、彼は誰からもそう見えないように非常にうまく行動していた。」
 その後すぐ、ワーテルロー村のある家で軍医がアクスブリッジ伯爵の片脚を切断し、伯爵はそれを庭に埋め、称賛されたのであった。
『The Battle A New History of Waterloo』P280


 この本は意味がとりにくいので、誤訳も全然あるでしょうがとりあえず。この本では「冷淡」ということではなく、「平静さ」ということが重視されているようです。

 で、この会話文を見ていて、う~ん、こう……かな? と思ったのは……。

"By God! I've lost my leg!"(「神よ! 脚が一本なくなった!」)
"Have you, by God?"(「神がそうなさったのか?」)


 で、ここらへんまで見たところで、ネット検索してみてたらなんと、英語版Wikipedia上に“Lord Uxbridge's Leg”という項目が! すごい(^_^;

 ……アクスブリッジはこの戦いの残りの間、イギリス軍の軽騎兵部隊による繰り返しの突撃を率いており、乗馬を撃たれて8~9回失っていた。

 1815年6月18日の最後の砲弾のうちの1つが彼の右脚に当たり、膝から上の切断手術を余儀なくされた。伝えられるところによると、恐らく作り話ではあるが、この負傷の時に彼はウェリントン公爵の近くにいて、
"By God, sir, I've lost my leg!"
と叫び、それに対してウェリントンはこう答えたという。
"By God, sir, so you have!"

 恐らくより真実に近いやりとりは、ウェリントンの友人であったJ.W.Crokerが1818年12月8日の日記に書いたもので、そこには戦場から負傷したアクスブリッジを運んだHorace Seymourとの間の会話が書かれている。Seymourはこう言っていたそうだ。
 アクスブリッジが撃たれた時、彼は叫んだ。
"I have got it at last,"
 それにウェリントン公は答えて言った。
"No? Have you, by God?"
Wikipedia“Lord Uxbridge's Leg”


 で、結局どう訳すかの壁にぶち当たります。無理くり「こんなんどうです?」的に訳してみると、

"By God, sir, I've lost my leg!"(「くそっ、脚を一本失いました!」)
"By God, sir, so you have!"(「神が君にそれを与えたのだから!」)

"I have got it at last,"(「ついにやらかした」)
"No? Have you, by God?"(「いや? 天罰じゃないか?」)

 とか……。

 ウェリントンの発言の原文は、分かりにくいことが多いです。英語できる人に教えてもらいたいです……。


 アクスブリッジですがその後、脚の切断手術(当時は麻酔なし)を平然と受けたそうで、これまた賞賛されているようです。

「第九」はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に捧げられていた!

 適当な思いつきで「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」で検索していたところ、タイトルのようにベートーヴェンの交響曲第九番「合唱付き」はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に捧げられていたということが載っていてびっくり!

 まさかの……。「第九」といえば、クラッシックの中でも最も王道?的な交響曲の中でも最も有名とも言える曲ですよ?(日本でだけ?) 私も一時期、なんちゃってクラッシック好きであった頃があり、フルトヴェングラーの第九とかを聴いてました。


 「第九」の正式名称は、

「シラー作、頌歌『歓喜に寄す』を終末合唱にした、大管弦楽、四声の独唱、四声の合唱のために作曲され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世陛下に最も深甚な畏敬をもって、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって奉呈された交響曲、作品125番」

 だそうです。

 「最も深甚な畏敬をもって」とあるところを見ると、ベートーヴェンがフリードリヒ・ヴィルヘルム3世にどんな感情を持っていたのか気になるところですが、しかしWikipediaの「交響曲第9番 (ベートーヴェン)」によると、

この作品は、当初はロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈される予定だったが、崩御によりフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈された。


 とあって、「へなへなへな……」という感じです(^_^;



 他にも見つけたものとしては、「こんなものにも税金? 世界の税金事情」というサイトに、

ドイツ 犬税
 1810年当時は犬を飼う人はお金持ちだったそうで、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がぜいたく税として導入しました。
 犬種は問わず1頭ごとに課税します。
 金額はドイツ内の各自治体ごとに異なり、高いところで約23000円/年もするそうです。


 とあったのが面白かったですね。1810年といえば、前年にオーストリアが2回目の撃破をされていてドイツがボロボロ真っ盛りの頃。この法律は今でもドイツ国内で有効だそうです。


 それから、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がアウエルシュタットの戦いについて自分で書いた覚え書きの話が「戦争史における兵力について ~軍事史の巨人ハンス・デルブリュックの著作から~ 」というブログ記事に載っていて、凄かったです。

 何も誇張されたイメージに対する一般的な指向や、数量感覚の欠如、自慢癖、恐怖、弁解といった人間の弱さだけがとてつもない誇張を引き起こすのではない。熟練した観察者にとってさえ大軍を正しく見積もることは、完全に自由に観察できる味方の軍においても、非常に困難である。そして敵軍の場合は不可能も同然であり、このことにも十分注意する必要がある。それについて良い例を示してくれるのが、つい最近公刊されたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の、自ら指揮をとって被ったアウエルシュタットの敗北に関する、覚え書きである。この王は、戦闘の間優勢な兵力によって悩まされたことについて、思い違いしたなどありえないと言い、フランス軍は歩兵の優勢な兵力のおかげで、戦闘中の大隊を何度も新しい部隊によって交替させることができたとする。プロイセン軍50000は強かったので、フランス軍はおよぞ70000~80000と推測されたに違いないが、実際には27000であった。そしてフリードリヒ・ヴィルヘルムは敗北を言い繕うつもりだったのではなく、実際に思い違いしていただけであり、このことはこの王がすぐ後に付け加えた補遺によって知ることができる。彼は、そこでフランスの広報やその他の知らせから「恥ずかしいことだが、敵は30000を超えない兵力で我々に対していた」と納得した、と語っている。


 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が、能力は乏しかったかもしれないけども、基本的には真面目な人物であったらしいことが分かるエピソードですねぇ……。

 この文は「近代的な軍事史研究の基礎を作った偉い人」であるハンス・デルブリュックという人の『政治史の枠組みにおける戦争術の歴史』の原文(ドイツ語)からこのブログを書いた人が訳したものからで、興味深くありがたいです。

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の散歩とジョーク

 『愉しいビーダーマイヤー』6回目。

 ベルリン訛りの快活なご婦人、デュティートル夫人との絡みでフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の件が載っていました。

 当時の国王はベルリン子に善き王様として人気があったフリードリヒ・ヴィルヘルム3世だった。王がうっかり夫人の敬礼に気づかず通りすぎたところ、夫人はいきなりその袖を捉えて、「ねえ、陛下、あなたは平気で税金をおとりになるのに、女には挨拶もなさらないのですか?」と抗議した。また王妃ルイーゼが亡くなったとき【1810年】、さっそくお悔みに行ったはいいが、「ああ、陛下、ほんとうにお気の毒ですこと。だって、きょう日、7人も小さな子どものいる人のところに誰がお嫁に来るでしょう!」とやらかした。だが王は夫人の無邪気で竹を割ったような気性を愛し、避暑先のシャルロッテンブルクでも夫人と親しく交わった。
『愉しいビーダーマイヤー』P307



 2つ目のエピソードの時、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の子ども達が何歳ずつだったかを調べてみると、

長男 15歳 フリードリヒ・ヴィルヘルム(4世)……次の国王。子どもはなく、弟が後を継いだ
次男 13歳 ヴィルヘルム(1世)……ビスマルクを首相としてドイツ統一を成し遂げ、ドイツ皇帝となった
長女 12歳 フレーデリケ・ルイーゼ・シャルロッテ・ヴィルヘルミーネ……ロシア皇帝ニコライ1世妃。アレクサンドル2世の母
(次女は生後1年で亡くなった)
三男 9歳 フリードリヒ・カール・アレクサンダー……聖ヨハネ騎士団長
三女 7歳 フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ・アレクサンドリーネ・マリー・ヘレーネ……メクレンブルク=シュヴェリーン大公妃
(四男は生後2年で亡くなった)
四女 2歳 ルイーゼ・アウグステ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエ……オランダ王子フレデリック(オラニエ公(子)の弟)妃
五男 1歳 フリードリヒ・ハインリヒ・アルブレヒト……上級大将

 王家というのはそういうものなんでしょうけど、そうそうたる子ども達という感じですね(^_^; 尤も、長女はかのロマノフ家へ嫁いだため?息子のアレクサンドル2世は暗殺、ひ孫のニコライ2世は死刑ということになりますが……。


 1つ目のエピソードがいつのことなのか知りたくて、デュティートル夫人(Madame Dutitre)で検索してましたら、ドイツ語版Wikipediaには項目がありましたが、英語に変換して読んでみたもののあまり大したことは書いてない? しかし、『Monarchy, Myth, and Material Culture in Germany 1750–1950』という英語の、2011年に出版された本にデュティートル夫人との話が載っているとGoogle Books先生が教えてくれました!




 しかもGoogle Books上で見ていってると、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の時代の彼のことについて何ページもあるっぽい。ドイツ語本ではフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の本は何冊かあるみたいですが、英語で詳しい本は望み薄だと思っていたので大変ありがたい! しかもほとんどのページがGoogle Books上で読めてしまう!(Amazonの中身検索で抜けているページを1ページ分補完できたりもしました) 早速印刷しまして、目を通していこうと思ってます。


 まあとりあえず、『Monarchy, Myth, and Material Culture in Germany 1750–1950』上でのデュティートル夫人との話について。

 1820年代のある日、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が日課の散歩でベルリンの大通りであるウンター・デン・リンデンを散策していると、デュティートル夫人に出会った。彼女はその風変わりな言動で良く知られており、王は彼女の快活なウィットをよく楽しんだものだった。この時、王はデュティートル夫人の手を取って彼女に騎士のようにしてお辞儀をした。王が彼女の手袋に触ったのを喜んだデュティートル夫人は、その手袋を「大切な思い出」としてガラスケースの中に収め、「王が私に迫ってきて掴んだの!」と説明書きを付けたが、その際どい含意は信心深い王を困惑させることになった。
『Monarchy, Myth, and Material Culture in Germany 1750–1950』P23,24


 まあ確かになんかおもろいです(^_^;

 せっかくなので、不定詞王 König Infinitivさんから、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の散歩とジョークについて抜き出してみますと……。

 まず散歩について。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム三世が一人でティーアガルテンを行くときは、散歩する人々は王に挨拶するのであった。ある旅の大学生が何も気づかず、高貴なお方を無視して行き過ぎた。王はこの若者に次のような言葉で話しかけた。「何者である?」 「学生である!」と屈託のない答え。口まねされた王は腹を立てて「バカである!」と言った。「ご自身がである!」と答えが返ってきた!
Paulus Potter: Die Spree-Laterne. Berliner Geist, Witz und Humor. (Hamburg 1970)

 ドイツ諸侯の中で、現在の卓越したプロイセン王ほど飾らない方はほとんどいない。陛下の姿はポツダムから、あるいはポツダムへ向かう道で見られるが、その時には非常に簡素で古風な馬車に乗られており、あるいはウンター・デン・リンデンを歩かれている時には、プロイセン軍の下級将校ほどの装飾も付けておられない……
FRASER'S MAGAZINE FOR TOWN AND COUNTRY, VOL.XVI (1837)



 ジョークについては……。

 ……何事にも優柔不断、つねに寡黙でようやく口を開けば、主語を省き人称を無視して動詞を不定詞のまま使用するという話し方だったのである。
 フリードリヒ・ヴィルヘルムは時折のジョークを好んだが才知は無かった。家族の体を成さない家で育った幼少の境遇が彼の心を萎縮させてしまっていた。内面の不如意が言葉にも現れた。誰に話しかけているのかの呼称を省くだけでなく、自分という主語も言わずに済ませた。

 あるとき王は従僕を驚かせたことがあった。食卓の用意をしていた従僕がこっそり赤ワインのボトルから中身をぐびぐびと賞味していた。そこへ王が姿を見せたものだから驚いてボトルをテーブルに置いたが、チョッキに血のように赤い液をこぼしてしまった。従僕がその場に平伏しようとすると、王はつかえつかえ言った、「こんどはもっと気をつける! 白ワインを飲む!」と。


 つまらないギャグをつかえつかえ言うという萌えキャラかぁ……結構いいかも?(*^_^*)


 さてさて、『Monarchy, Myth, and Material Culture in Germany 1750–1950』の方にはルイーゼ王妃の話題もありました。

 1810年に、ルイーゼ王妃の馬車が道路で遊んでいた2歳の男の子をすんでのところで轢きかけたことがあった。その男の子の家に伝わる話によると、王妃は馬車を止めさせて男の子を抱え上げ、抱きしめ、キスしながら道路端の安全なところまで運んだという。男の子の母親は、王妃のこの優しい行動の思い出に男の子の髪の房をチョキンと切って、その髪の房はその家の家宝になった。
『Monarchy, Myth, and Material Culture in Germany 1750–1950』P23



 この本はこの前のところでフリードリヒ大王の話も挙げていまして、それはフリードリヒ大王自身が望まなかった結婚の15周年(1783年)に「金の節約のためにも何も祝うな」と国中にお触れを出したのだけども、ある民間の業者が勝手に、すごくできのいい記念切手シートを作った。しかしそれは没収されてしまった……という話で、これら3つの時系列順の話が、プロイセン王家がお堅い状態から、だんだん軟化していく様子を象徴しているだとかなんだとか。

 確かにその通りで、例えば『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』を読んでいると1806年までのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は権威的に振る舞う感じでした。しかし『Monarchy, Myth, and Material Culture in Germany 1750–1950』にあるように、1810年という国難の時期には国民と共にという感じになって、1820年代には王はむしろ愛されつつもからかわれる対象になっている? なかなか面白いですね。

ルイーゼ王妃がブラウンシュヴァイク公に頼んだのか?

 以前、1805年~1806年にかけてのブラウンシュヴァイク公(父)の最後で書いてました、「1806年のプロイセン軍の指揮をブラウンシュヴァイク公が執るように、ルイーゼ王妃が頼んだ」という件ですが、確か2箇所で見たと思っていたのですが、その数分だけ見つけたので報告しておきます。

 1つは、『Who was who in the Napoleonic Wars』におけるブラウンシュヴァイク公に関する記述の中。

 カールは父の後を1780年に継いでブラウンシュヴァイク公となり、「啓蒙」君主の模範となったが、彼が最も評価されたのは軍人としてであった。彼は軍人としての経歴を1757年にカンバーランド公の下で始め、その後叔父であるFerdinand of Brunswickの下で戦った。ウェールズ公フレデリックの娘と結婚し、叔父であるフリードリヒ大王の下で仕えた後、陸軍元帥として1792年のフランス侵攻のための連合軍の司令官に任命された。だが彼の自由主義的な見解は非常に良く知られており、同じ年にフランス軍の指揮も提示されていたのだった。彼の指揮はプロイセン王が陣内にいたため困難な状態にされており、ヴァルミーの敗戦後には王の存在によって制限され、また連合軍内での連携の難しさのために彼は辞任し、所領へと戻った。1803年にはロシアへの政治的任務に成功し、1806年にはルイーゼ王妃の依頼で再びプロイセン軍の指揮を執るように説得されたが、今度も王や顧問らによって彼が自由に軍事行動を執ることは難しかった。彼はアウエルシュタットで重傷を負い、1806年11月10日にハンブルクの近くで亡くなった。彼の息子で跡継ぎとなったフリードリヒ・ヴィルヘルム公はフランスに対する戦いを続け、カトル・ブラで亡くなった。




 もう1つは、英語版Wikipedia上の記述(日本語版Wikipediaにはこの記述はありませんでした)。

Despite being over 70 years old, the Duke of Brunswick returned to command the Prussian army at the personal request of Louise, Queen of Prussia.[3]



 ここには注釈[3]が付いていて、その先はこうなっています。

Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Brunswick, Karl Wilhelm Ferdinand, Duke of". Encyclopædia Britannica (11th ed.). Cambridge University Press.



 『ブリタニカ百科事典』の第11版が出典? 調べてみるとこの第11版は、1911年出版だそうです。


 と、一応出してみましたけども、これ以上のことは分からずで何とも言えません(^_^; ただまあ、これ以外の資料ではこの件は見たことがない(見つけてないだけという可能性は全然ありますが)ということも言えます。

ブラウンシュヴァイク公(父)が亡くなる


 承前。今回はブラウンシュヴァイク公(父)が亡くなる+αまでです。

 ↓ブラウンシュヴァイク公の足取りに関する地名等を入れた地図を作ってみました。ブラウンシュヴァイク公はアウエルシュタットの戦場からハンブルクにまで至り、そこで亡くなります。薄い黄色い範囲がブラウンシュヴァイク公国です。

1806年戦役用02ブラウンシュヴァイク死用2



 まずは、両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公へのコメント欄で、Schaluppeさんに教えて貰ったドイツ語版Wikipediaでの記述を引用してみます。

 1806年10月14日のイェーナ・アウエルシュタットの戦いで、ハッセンハウゼン近郊において側面から飛来した銃弾が彼(公)の両目を打ち砕いた。彼は担架に乗せられて10月20日にブラウンシュヴァイクに辿り着く。視力に障害を負う年長の息子たちの断念を経て、公は最も若いフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・エールスを後継者に指名した。ナポレオンへの手紙の中で公は自らの中立国への寛大な処遇と、彼自身のためにはただ安らかに死ぬに任せてくれるよう願っている。ナポレオンがそれを拒んだため、公は10月25日に再びブラウンシュヴァイクを去るとツェレとハーブルクを経由してアルトナ、すなわち中立国デンマークの領域に至った。彼はオッテンゼンの、アム・フェルデ5番地にある宿屋に泊った。そこで1806年11月10日、負傷のため71歳で没する前に妻、妹と最年長の息子たち二人に別れを告げることができた。ひとまずオッテンゼンのクリスティアンス教会に埋葬されたが1819年、最後の安息の地をブラウンシュヴァイク大聖堂の地下に得ている。



 アルトナとオッテンゼンは両方とも、ハンブルクの一地区にあたります。

https://www.google.co.jp/maps/@53.5637684,9.9725797,11.5z


 ↑を見てもらって、「ハンブルク」と書いてあるのの左上の辺りに両方ともの地名があります。

 「視力に障害を負う年長の息子たちの断念を経て、公は最も若いフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・エールスを後継者に指名した。」の件ですが、視力障害があったとすればそれは三男のはずで、長男はすでに亡くなっていたので「たち」というのは次男を含んでいるのでしょう。後継者となったのは四男でした。

 死ぬ直前に別れを告げることができた「最年長の息子たち二人」というのは、普通に解釈すれば次男と三男でしょうか。後継者となっていた四男(黒公爵)は(後述のOSGの本によると)11月7日の時点で、リューベック(ハンブルクから50kmほど北東)でまだ抵抗を続けていたブリュッヒャーの近くにいて何やら接点を持っていたらしいのですが、事情をちょっと私もまだ把握しきれてませんのでそこらへんパスで。



 次に、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』から引用してみます。

 彼は惨めな状態で戦場から退却したが、その夜にHartz山脈を越えて遠くブラウンシュヴァイクへと向かうことを決断した。彼に一言の不満を漏らす者もなく、彼にかけるべき言葉もまた見つからなかった。彼は【軍医の】Folgerに言った。
「私は以前から、盲目になって当然だったのだ。よいよい。この老齢なのだから、盲目も悪くはない。」
 ブラウンシュヴァイク公国では大臣達が、フランス軍が24時間以内に来るだろうからと、ブラウンシュヴァイク公に公国に留まらないようにと懇願した。
「それは予想以上に早いな。」ブラウンシュヴァイク公は返答した。
「だが、彼らから逃げ出して何の利益があろうか?」
「殿下はどれほどの危険に御身をさらしているかご存じないのです」
 ブラウンシュヴァイク公に対して、征服者が個人的に激怒しているとの噂が存在していたのである。
「私はフランス人達を、君達よりも昔から知っている。彼らは戦場で負傷した老将に敬意を表するだろう。将校達は舞踏会を開いたり劇場へと足を運んだり、兵士達は女の子達と少しばかりいちゃつきたいだけだ。兵士用宿舎に心を配れば、彼らはそれ以上を望むまい。私がどんな状態かを知るために、フランス皇帝の使者が途上にあるに違いないのだ。」
 ……ブラウンシュヴァイク公は、1793年当時に彼の参謀長であった老Wolfradtから、彼が公国にいると軍事的占領の恐怖をさらに悪化させる口実になるだろうという説得を受けてようやく折れた。彼はどこか他の場所へ移ることに同意したのである。
「思うに、」彼は言った。
「私は長い旅に耐えることができないほど弱ってしまっている。だが、私がここにいることで私の臣民達への災難が大きくなりそうだということならば、私はここを去らねばなるまい。もはや躊躇すまい。」
 イギリスへ渡ることができるかもしれないということで、彼はLuneburger Heideを越えてHamburgへと運ばれた。公国から出発する前に、彼は家族と臣民達への慈悲を請う手紙を征服者へと送った。その返事は、今やナポレオンの所有に帰したベルリンで発行された官報である『Gazette』【ガゼット・ナシヨナルール・モニトール・ユニベルセル(大陸軍公報)】の声明に含まれていた。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P125~127



 青文字にした箇所はOSGの『SPECIAL STUDY NR.2 1806:The Autumn of No Return』のP13にも少し英文が違った形で書かれており、それを見て若干和訳を修正してあります。

 OSGの同書P15によれば、ブラウンシュヴァイク公の手紙がナポレオンの元に届いたのは11月3日でした(ドイツ語版Wikipediaの記述では、公からの手紙がナポレオンによって拒否されたので10月25日にブラウンシュヴァイクの町を去った、とありましたが、辻褄が合いにくいですね)。この手紙を読んでナポレオンは激怒したそう(というか前記引用ですでに、ナポレオンが激怒しているという噂があったと書かれていましたが)ですが、その激怒の理由はブラウンシュヴァイク公が1792年7月25日に発した「ブラウンシュヴァイク宣言」にありました。

 この辺のことを『ドイツ史 2』から引用してみます。

 戦争が始まると亡命者たちはみずから軍団を組織してプロイセン・オーストリア軍と行動をともにした。もちろんその行動に軍事的価値はない。しかしこの戦争が革命対反革命のイデオロギー戦争となるうえでは、ほとんど決定的な役割を果たしたのであった。それを象徴するのが、連合軍総司令官ブラウンシュヴァイク公が7月25日にコーブレンツで発した宣言であって、この悪名高い「ブラウンシュヴァイク宣言」は亡命者たちの起草した草案を、非政治的なブラウンシュヴァイク公が無思慮にうけいれたものなのである。なかんずくその結びの部分は草案そのままであったとされている。もし国王一家にほんの少しでも危害や侮辱がくわえられたなら、もしその安全、生命、自由のための対策がただちに講じられなかったなら、「永久に忘れられない復讐がなされ、パリ市は軍事的執行と完全な破壊にゆだねられ、犯罪者は当然の報いとして死刑に処せられるであろう」。この宣言がパリに届いたのが7月28日、民衆がテュイルリ宮殿の国王一家をおそったのが8月10日である。
 こうして悪循環のリレーが始まった。ヴァルミで形勢が逆転したのち、92年の11月に今度はブリソがいっている。「われわれは全ヨーロッパが炎に包まれるまで休むことはないでろう」。そしてショメットはこう予言した。「パリとペテルブルク、パリとモスクワのあいだの地域はまもなくフランス化され、コミューン化され、ジャコバン化されるであろう」。
『ドイツ史 2』P134,135




 で、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』では先ほどの引用の後に「大陸軍公報」の内容が来ています。

「ブラウンシュヴァイク公はなんと言うだろうか」 公報は続ける。
「もし私がブラウンシュヴァイクの町を破壊すれば、15年前のように彼は、私が支配する偉大な国民の首都を攻めると脅迫したのか? ブラウンシュヴァイク公は1792年の無慈悲な宣言【ブラウンシュヴァイク宣言】を否定していた。それはそのうち、理性が激情を上まわるようになれば信じられるようになるのかもしれない。しかしそれにもかかわらず、再び彼は自らの高名を浅はかな若者達の愚行に貸し、侵攻してきた。そしてそれがプロイセンを破滅させたのである。だが彼が成すべきは、ご婦人方や廷臣達、それに若き将校達に自分達の収まるべき場所を自覚させ、また自らの年齢に伴う権威、広い博識、高邁な精神、高い地位の義務を自覚することであった。彼はこれらを成すことができる強さを持たず、プロイセン王朝は打ち倒され、そしてブラウンシュヴァイク公国は我が所有に帰した。"ブラウンシュヴァイク将軍"に伝えよ。あなたは一人の将校としては、充分な待遇を得ることになるであろう。だが、私は"プロイセン軍"の将軍のうちのある一人の中に、統治者という地位を認めることはできない。」
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P127


 ↑この内容は「なかなか読ませるものがあるなぁ」と私は思いました。「浅はかな若者達の愚行」というのの「若者」には、王や王妃達が含意されているのではないかと思いましたがどうでしょう。

 ですが、恐らく、この「大陸軍公報」が届く前に、ブラウンシュヴァイク公は亡くなったのだろうと思われます(↓下記引用の2つ目の文がそういう意味ではないかと)。

 そのようにして、ライン同盟の中のこの小さな公国の併合の布告が発令されたのである。だがそれが届く前に、彼は賞賛も非難も届かないところにいた。彼の北への旅は最初のうちは桁外れの身体的頑強さを示し、受けた傷の苦痛の大きさにも関わらず、よく耐えていた。
「もし神が」彼は言った。
「両目のうち片方でも残しておいてくれるなら、満足せねばなるまい。」
 だがこの旅路の2日目に激しい炎症が傷を襲い、彼の脳にまで影響を及ぼすようになった。この様な状況の中、彼は29日に、Altonaの近くにあるOttensenに到着した。
「彼がその町へ運ばれていく様子は、」ブーリエンヌが書いている。
「運命の浮き沈みに関する興味深い実例を提供した。彼は10人ばかりが担う惨めな担架に乗せられており、将校達もおらず、メイドたちもおらず、物珍しさに惹きつけられた乞食達と子供達の一群が付き従っていた。彼はある一軒の粗末な宿に宿泊したが、あまりにも激しい疲労と両目の激痛のために極度に消耗し、彼が到着した翌日には彼の死の知らせが広く知られることとなった。見舞う者もないまま、彼はその月の10日に息を引き取った。」
 最期はMetzner大佐の腕に抱かれてであった。彼はOttensenにある、ちょっと前の1804年に亡くなっていたklopstockと同じ墓場に埋葬された。Klopstockは1792年に彼の指揮を辞任するように彼に求めていた人物である。その墓場にはまた少し後になって、ハンブルクにおけるダヴーの厳しい圧政から真冬に逃げ出さざるを得なかった犠牲者達が葬られた。この地は1806年以降の抑圧と暴政の数年間において愛国的ドイツ人達の聖地となり、リュッケルトの愛国的な詩にうたわれた。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P128,129



 「見舞う者もないまま」とここにはありますが、ドイツ語版Wikipediaでは「そこで1806年11月10日、負傷のため71歳で没する前に妻、妹と最年長の息子たち二人に別れを告げることができた。」とありましたし、『キャロライン王妃事件』P38には「公爵も一ヶ月後に他界したが、愛人が付き添っていたという。」とありました(尤も、妹や息子達がいて、愛人もいたのかというとどうかという気もしますが……)。

 ブーリエンヌはフランス側の人間ですし、その回想録の信憑性は色々と問題があるそうで、噂的に聞いたことを書きとめただけなのではないかという解釈もあり得るかもです。が、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』が他の資料でそこらへん書かなかった(書けなかった?)のはなぜかという問題もあるか……。

 ハンブルクにおけるダヴーの圧政というのは、1813年からのハンブルク防衛にあたってダヴーが、数万におよぶ市民を無理矢理追い出し、うち数千人は行くあてもなくそのまま市外にとどまって-8度という気温の中で病死して……ということを指していると思います。


 その後、1807年のことですが、こんなことがあったそうです。

 バーデン辺境伯の娘が嫁いでいるブラウンシュヴァイク大公の国土がナポレオンによって蹂躙され、大公家の私有財産も没収された。それを悩んだバーデン辺境伯夫人の依頼で、フォン・ベルクハイムはナポレオンに今は亡きブラウンシュヴァイク大公の後継者の息子たちやその嫁である辺境伯の娘に対し、多少は寛大な措置をとってくれないかと頼んだ。しかしナポレオンはブラウンシュヴァイク大公には対仏戦争の責任がある。そしてブラウンシュヴァイクが加勢しなかったらプロイセンはけっして、ナポレオンに対して挑戦しなかったろうと述べた。……
 その後再度ベルクハイムが、ブラウンシュヴァイクが実はナポレオンと戦う意志がなかったのだと言うと、彼は激怒して答えた。
「何を言うか! ブラウンシュヴァイク大公こそ、12年前(フランス革命軍が同盟軍と戦った頃)のあの低劣なマニフェスト【ブラウンシュヴァイク宣言】を書いた当の人物ではないか。彼はそのなかで、パリを破壊する、石ころ一つ残しておかないと言ったではないか! いったいパリが彼に何をしたというのだ? 数人の単純な人間がパリで何やらけしからんことを企んだからだというのか? あのマニフェストを書いた連中が私に対して行なった侮辱には報復せねばならない。私が彼らのもとに押しかけたように、もし彼らが私の領内に侵入したら、彼らは私を放っておいてくれると、あなたは本当に信じるのか? 彼らが私を放置しておくはずはないし、私もそれを望まなかったであろう。戦争においてはだれしもおのれの義務を果たすべきだ!」
『ナポレオン大いに語る』P119,120



 バーデン辺境伯の娘というのはマリー・フォン・バーデンのことで、四男の黒公爵と結婚していましたが、1808年の出産時に死去していたんですね……ブラウンシュヴァイク公(父)の子ども達の世代は基本的に不幸だと思いますわ……。

ブラウンシュヴァイク公が両目を負傷した場所

 寒暖の差が激しくなくなってきて、ようやく体調が落ち着いてきました。

 で、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』の1806年の部分を、所々飛ばしつつも、ようやく最後まで訳せました。戦いに関連する部分は今後、他の資料とも付き合わせながら見ていくとして、ブラウンシュヴァイク公が撃たれた時とその後について先に書いておこうと思います。


 ブラウンシュヴァイク公がアウエルシュタットの戦いの最中に両目に弾が当たったことについては、過去に両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公で扱ってました。

 この時のことを、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』ではこう記述しています。

 ブラウンシュヴァイク公はその時その場に残り、いつも通り自身の危険を顧みず、その村の中央への攻撃の先頭に立った。霧が晴れ、10月の朝日の中に、フランス軍の配置が見え始めた。正午までのブラウンシュヴァイク公の部隊配置により、ことは完全に成功するところであった。フランス軍は、数的劣勢の中、恐ろしく粘り強い抵抗を続けていた。だが、損害が膨大であったことはダヴー元帥の報告からも分かる。左翼へのシャルンホルストの攻撃は確実に地歩を得つつあり、また右翼の諸高地の占領も成功しつつあったまさにその時、突如ブラウンシュヴァイク公が重傷を負ったのである。ナポレオン麾下の将軍の一人であるToulongeonが語るには、ブラウンシュヴァイク公はそれまでの諸戦役において、必要な瞬間には単なる一兵士としての役割を果たす心構えが、あり過ぎるほどあったという。彼はほとんど単独か、あるいはまったく単独で、敵部隊の切っ先へと前進していったことが再三再四あったことが知られていた。そして彼はこの時、このほとんど無謀な勇敢さ故に罰を受けることになったのである。彼は自身の下の将校達全員を様々な任務のためにすでに派遣してしまっており、Hassenhausenの村の正面にいたHamsteinの擲弾兵達を鼓舞するために彼らの先頭に立ったのだが、その時一発の銃弾が彼の鼻を横切り、彼の両目をかすめて失明させた。彼はそばにあった石積みへと倒れたが、一人の兵卒に支えられながら、再度自分の馬に乗ることができた。この状態で、彼はハンカチで顔を覆い、軍の他の諸師団と一緒に馬に乗っていくのが目撃されている。だが彼はすぐに努力を放棄せざるを得なくなり、有名なFolger軍医に付き添われて、担架に乗せられて戦場を離れなければならなかった。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P121~123


 「有名なFolger軍医」というのを検索して探してみたのですが、ぱっとは出てこなかったのでパス(^_^;


 弾丸の通り方について、前掲エントリに挙げていたR/Dさんの二重に見えた?から再度引用しますと、

 ブラウンシュヴァイク公の負傷について、HöpfnerはDer Krieg von 1806 und 1807, Erster Theil. Erster Band."http://books.google.co.jp/books?id=ZAcKAAAAIAAJ"で、「公がヴァルテンスレーベン師団の左翼にいるハンシュタイン擲弾兵大隊に[ハッセンハウゼン]村を奪うよう要請した時、彼は両目を撃たれ馬から落ちた」(p450)と記している。そのタイミングは、Höpfnerの説明によれば戦闘経過を5段階に分けた3段階目。PetreのNapoleon's Conquest of Prussia"https://archive.org/details/napoleonsconque00petrgoog"に従うなら午前10時頃となる(p159)。まさに戦闘が佳境に入る頃であった。
 ちなみに最終的にブラウンシュヴァイクの命を奪うことになった弾丸は「頭の右側から左側へと貫通し、右目の上端から指の幅分上を通って左目の眼角の内側を通った」(Hoepfner, p450n)そうだ。……右目はすぐに視力を失ったが左目はなおいくらかの光を見ることができたとあるので、公は自分の症状を説明できる程度の意識は持っていたと思われる。この時代には決して珍しくないが、恐ろしい爺さんだ。



 今回、『Der Krieg von 1806 und 1807』を再度ドイツ語→英語翻訳できないものかと見てみたのですが、ひげ文字の解読がWikipediaで例を見ながらでさえできなかったのでやはり諦めまして(>_<)

 『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』で当該ページを見てみると、このようにありました。

 10時には、【フランス軍師団長の】ギュダンは恐ろしいほどの危機的状況にあった。だが彼は、右翼におけるシュメッタウの攻撃をすべて撃退した。この際にシュメッタウは瀕死の重傷を負い、王の乗っていた馬に弾丸が当たって彼の下で息絶えたほどであった。ブラウンシュヴァイク公もまた、一発の銃弾に両目を撃ち抜かれて重傷となり、戦場から運ばれていった。この傷により彼は、Altonaの近くで11月10日に亡くなる。彼が撃たれた場所はHassenhausen村とTaugwitz村を結ぶ道路の大体真ん中あたりから100ヤードほど南で、碑が建てられている。
『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P159



 なんと! もしかしたらGoogleストリートビューか何かでこの碑を見ることができるかもしれない、と思って見てみますと……。

https://www.google.co.jp/maps/@51.1276026,11.6476698,1718m/data=!3m1!1e3


 ↓その画像

スクリーンショット_160405_022

 Googleストリートビューが使用できない! トホホ……(T_T)

 しかしめげずに、碑のありそうな辺り(2つの村の間の道路の真ん中のちょっと南)を探してみますと……。

 生け垣付きの碑らしきものを発見!

https://www.google.co.jp/maps/@51.1249455,11.6456702,111m/data=!3m1!1e3

 ↓その画像

スクリーンショット_160405_023

 「いやー、これじゃね? すげぇ~(*^_^*)」

 ……と思ったものの、傍証も探すべく、とりあえずドイツ語で画像検索してたりしたのですが、この生け垣付きの碑らしきものの形で、ブラウンシュヴァイク公の碑だというものが全然見つからない!

 諦めて英語で探してみると、『Battlefields』とかいう本の、現在のアウエルシュタットの案内の最後のあたりにブラウンシュヴァイク公の負傷の地点の碑の記述があり、その下に写真もあって、これはドイツ語で検索した時によく出てきた、木の下にあるなんかでっかい碑。しかしどうも、他の資料等色々総合するとこのでっかい碑が負傷地点の碑らしい……。

 ↓Wikipediaから、その碑の画像

Hassenhausen - Denkmal für den Herzog von Braunschweig

 しかしこの、木の下の碑はどこなのか。最初に見つけた碑らしきものの右側の木の下か、あるいは道路から100ヤード(90m程度)という記述からするとその更に上の木の下か……と悩んだんですが、とあるページの写真から分かった!(ような気がする)

Europe Grand Tour 2014

 ナポレオン戦争などの古戦場巡りをしたらしき、英語のページですが、そのアウエルシュタットの部分の最後の写真(イエナの地図の直前)に、その「木の下の碑」の遠景があり、その右側に私が最初に見つけた「生け垣付きの碑らしきもの」が映っている(ような気がする)。

 この写真からすると、最初に見つけた「生け垣付きの碑らしきもの」は、なんか屋根だけで下はがらんどうっぽいですね(^_^;

 しかしともかくも、前掲の写真の「生け垣付きの碑らしきもの」の右側の木の下に、見えませんが、ブラウンシュヴァイク公が負傷した場所であるという碑があるのだと思います。この遠景の写真は道路方向から南を向いて撮影されたのでしょう。

 前掲『Battlefields』という本の地図にも、ブラウンシュヴァイク公とシュメッタウが負傷した地点が書き込まれていましたが、ちょっと東に寄ってしまっている気がしないでもない……。


 いやー、途中諦めかけたほどだったんですが、多分そこだろうというところまで行ってよかった……。しかし、前掲のEurope Grand Tour 2014というページはいいですね。戦場の辺りが全然開発されてなくて、ほとんど昔のままじゃないのかと思えるほどで、景色がすごいのもいいと思います。


フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と鉄十字章

 『愉しいビーダーマイヤー』5回目。

 読んでいると、鉄十字章の話が出てきました。1813年にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって制定されたというのは良く分かってなかった……。

 ↓1813年に制定された鉄十字章の画像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/de/d/dd/SDC11339.JPG

 ……鉄十字章は、もとは解放戦争のとき、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって怨敵ナポレオン=フランスのレジオン・ド・ヌール勲章の向こうを張って創設され、功一級と功二級とがあり、もっぱら軍人に与えられた。
 ……制定にあたり、国王自らデザインを考えたが、結局、あの大建築家フリードリヒ・シンケルの簡素で力強いデザインに決まった。鋳鉄の十字型の上にアームに王冠と国王のイニシャルFW、中央に樫の葉、下のアームに1813の年号が入っている。だが黒い鉄製では黒い制服を着たときまったく目立たないという不満の声が挙がり、倹約家の王もしぶしぶ十字架全体に銀縁をつけることに賛成した。それでも当時、1個2ターラー50ペニヒかかったという(現在では7500円ほどと考えられる)。
 ……最高位にあたる大鉄十字章は、1815年にブリュッヒャー元帥、1914年にヒンデンブルク元帥、1940年にゲーリング国家元帥が受賞している。
『愉しいビーダーマイヤー』P23,25



<2020/01/04追記>
 その後読んだ、大木毅さんの本にこうありました。これも非常に興味深い話です。

 鉄十字といえば、あらためて説明するまでもない。そのかみのドイツ騎士団の旗に由来する、プロイセン・ドイツ軍隊の象徴である。かかる意匠が、プロイセン、そしてヨーロッパで初めての、社会的出自や身分、軍の階級を問わず、戦場で勇敢な働きを示したものに与えられる勲章に採用されたのも、ある意味当然のことだったろう。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、解放戦争(ベフライウングクリーク。ドイツでは、1813年から15年にかけての対ナポレオン戦争を、このように呼ぶ)において活躍した名将グナイゼナウ宛の手紙の欄外に、こうした鉄十字章創設の意図を明白に記している。「もちろん、胸につける十字章がよろしい。それは、プロイセンの色であり、ドイツ騎士団の色である。その一致が重要だ。この十字章は、敵前で義務を果たしたものなら誰でも受けられるということになろう」。
 ルイーゼ王妃の誕生日である1813年3月10日、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、ブレスラウにて、鉄十字章創設を命じる公文書を発布した。デザインは、最初、軍事顧問官アインジーデル伯爵に委託されていたが、彼の案は国王の好みに合わず、建築家シンケルがあらためて意匠を練ることになった。
その結果、われわれが知る鉄十字章の原型が誕生したわけである。素材には鉄が選ばれた。これには、当時、戦費をまかなうために「われは鉄のために金を捧げた(ゴルト・ガープ・イッヒ・ヒューア・アイゼン)」というスローガンのもと、貴族や市民層から金装飾品の供出を求めていたという背景があり、一種の時代精神の反映だったともいえる。
 等級は一級と二級で、一級は二級を受けたものが、あらたな戦功を挙げたときに授けられることになっていた。その上に大十字章があり、これは、決定的な戦勝、もしくは重要な要塞の奪取に功績があったものにのみ授与されると定められている。ちなみに特別賞として、星付大十字章というものもあったが、それを授与されたのは、ワーテルローの勝者ブリュッヒャー元帥ただ一人だった。
 ただ、より注目すべきは、鉄十字章が「祖国のために功績をあげた臣下に与える、この戦争限りの勲功章」とされていたことだろう。つまり、鉄十字章は本来、対ナポレオン戦争、フランスの圧政からプロイセンを解放するいくさでの功績を称える勲章だったのである。事実、1864年のデンマークとの戦争ならびに1866年の普墺戦争では、鉄十字章は出されていない。
『ルビコンを渡った男たち』P50

<追記ここまで>

 鉄十字章 ー Wikipediaによれば、

 「1813年章」として知られ、章の裏面には王冠と柏葉及びフリードリヒ・ヴィルヘルムの頭文字FWと制定年度の1813が刻印されている。この刻印は、祖国解放戦争の勝利を記念して創設されたこの勲章の伝統を受け継いでいることを表すため、以後制定された鉄十字勲章の裏面にも施された。

 ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥は星章を授与された。この星章は Blücherstern と呼ばれている。


 だそうで、大鉄十字章と星章の両方を付けているブリュッヒャーのカラー画像↓
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/Bl%C3%BCcher_%28nach_Gebauer%29.jpg


 実は騎士十字章のレプリカは私も持ってます。というのは、大学時代に所属していた國學院大學シミュレーションゲーム研究会(K.G.M.C.)で学祭後に授与されたので……(創設者の方が軍装好きで、色々持っておられたり用意されたりで、我々ももらったのでした)。

CIMG3290.jpg

 K.G.M.C.のマーク(バーバリーのパクリらしい)が多分瞬間接着剤で付けられてます。下の年号が1813なのでこれが本来は裏面なのですね。反対側を見ると鉤十字と1939が刻印されてました。

 1813という数字は、確かこの騎士十字章で見たような気がしてました。そうか、これは解放戦争の年のことだったのか……。


 横に見えている生地は、確かその創設者の方が作った(あるいは見つけた?)、勲章をモチーフにしたネクタイで、これは買わせてもらったような気がします。

CIMG3289.jpg

 確か左側のが騎士十字章をモチーフにしたやつで、右側は連合国側の何かの勲章をモチーフにしたものだと聞いたと記憶していたのですが、今見ると右側の帯の部分が騎士十字章のタイ?の部分とまったく同じなのでは……。右側の方が騎士十字章がモチーフだったのかなぁ?(^_^;

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と音楽人形

 『愉しいビーダーマイヤー』の4回目。

 自動音楽人形に関する項目で、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の話が出てきました。↓の後半はオマケ。

 ドレースデンのフリードリヒ・カウフマンは父親と息子の協力をえて、多くの音楽人形を製作した。ナポレオンがプロイセンを破り、ベルリンのシャルロッテンブルクに勝利の夢をむすんだとき、プロイセン王ヴィルヘルム3世は召使いに命じて、ひそかに人形のねじをかけさせ、時ならぬ時にプロイセン騎兵隊のマーチを喨々と演奏せしめて、征服者の夢を破ったという。カウフマンの技術もすこぶる優秀で、トランペット人形は指でピストンを正しく押さえるように作られている。ドレースデンにつくられたカウフマンの「音響効果室」は、第二次大戦まで子供づれの見物客で賑わう名所となっていた。

 メトロノームの発明者でもあるヨーハン・ネーポムク・メルツェルは、自動音楽演奏機「パンハルモニコン」のためベートーヴェンに「ヴィクトリアの戦い」を作曲してもらい、のち版権問題を惹き起こしたが、楽聖のために4個の補聴器をこしらえたことはよく知られている。彼はナポレオンとマリー・ルイーズの結婚式のため、仏墺両国の騎兵隊マーチを演奏するトランペット人形をこしらえた。
『愉しいビーダーマイヤー』P177,178



 軽く検索してみたんですが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のこの件に関するずばりそのものに関する資料は見つけられませんでした。

 どういう人形であったかに関しては例えば↓とか?

Trumpet Player of Friedrich Kaufmann


 また、『Androids in the Enlightenment: Mechanics, Artisans, and Cultures of the Self』という本のP33には、

 これらの最初の大規模な人形群は、1805年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって購入された。


 と書いてありました。

 詳しい話が分かるなら知りたいところですけどもね~。

ナポレオン時代のドイツ道路事情

 『愉しいビーダーマイヤー』の3回目。

 ナポレオン時代のドイツの道路事情について。

 ……ドイツの駅馬車の有名な遅さ……の原因としてまず当時の道路事情が挙げられる。徳川幕府の政策同様、18世紀末まで西欧でも、英国以外の国では外敵の侵入や経済の混乱を恐れて、道路の整備に力を入れず、継子扱いにしていた。ローマ時代以後荒廃するに任されていた幹線道路の改善に手をつけたのが、機動力を重視する近代戦の開祖ナポレオンで、本国はもちろん、占領した国の幹線道路を拡張し、道の両側をポプラ並木にすることを奨励した。だがナポレオンのために幾度か決戦場を提供することになったドイツの道路は重装備の各国軍隊の往来のために、やっと解放戦争に勝ったものの、そのときは昔以上にひどい状態になっていたのである。たとえば1824年、大建築家のシンケルがイタリアから帰国した際、バンベルクからテューリンゲンの森を経てワイマルまで行ったが、絶えず転覆の危機にさらされ、夜間は一歩も進めず、ゴータ付近では雨のため道が泥の海と化して、それが乾くまで待機しなければならなかった。だがワイマルから北東のエッカルツベルガまでの道路は大臣ゲーテの努力によって立派に舗装されていた。

 死者や重傷者が出る転覆事故は始終起こった。たとえばE・T・A・ホフマンが1813年5月20日、ライプツィヒへ向かう途中、乗っていた満員の馬車が転覆し、妻のミーシャが頭部に重傷を負った。そのとき同乗していた某伯爵夫人は死亡している。
『愉しいビーダーマイヤー』P111,112



 ナポレオンによる道路整備についてちょこっと検索してみたのですが、たとえば↓とか。

なぜ日本の道路は左側通行なのか? 調べて分かった歴史の裏側


 Napoleon: Man of Peaceというページには、ナポレオンはフランス帝国内で20,000マイル(約32,000km)、それ以外の地域?で12,000マイル(約19,200km)の道路を完成させたと書いてありました。地球1周が40,000kmですから、それ以上の長さを整備したことになります。


 ゲーテによる道路建設については、『ゲーテとその時代』にも詳しい記述がありました。

1806_1812Map02ヴァイマル用地図01フランクフルト

 ↑参考地図。緑色の領域がザクセン・ヴァイマール公国で、ここの大臣をゲーテはやっていたのです。

 道路建設も彼が力を入れた仕事の一つである。道路建設局長としてのゲーテは、当初はとぼしい予算をやりくりして道路を補修することで満足していたが、財務庁長官になった1782年から方針を変え、赤字覚悟でエルフルト-ワイマル、およびワイマル-イェーナの幹線道路を完成しようとした。目的はエルフルトを通っているフランクフルト-ライプツィヒ間の一大通商路にワイマルとイェーナを連結し、ワイマルの経済を振興することである。この大きな目的をゲーテは局長在任中で達成することはできなかったが、ともあれ1786年に彼がイタリアに旅立った時、エルフルト-ワイマル道路は完成し、ワイマル-イェーナ線も完成に近づいていたのだった。
『ゲーテとその時代』P129,130



 イエナの町の重要度がちょっと気になったんですが、例えばこんな風に書かれていました。

 この国の主な都市にはワイマル(住民約6000人)のほかアイゼナハ(8000人強)とイェーナ(4000人強)がある。……イェーナは大学町である。……ワイマルは第一に宮廷都市……
『ゲーテとその時代』P115,117



 あと、ぱらぱらめくっていて、ザクセン・ヴァイマール公であるカール・アウグストの母がブラウンシュヴァイクの公女であったという記述が目に留まりました。

 しかしこの田舎の小宮廷都市【ヴァイマールのこと】が、実はゲーテが来る少し前から文化・学芸都市への道をすでに歩み始めていたのだった。カール・アウグストの母、アンナ・アマーリアの意向に沿って、である。彼女はブラウンシュヴァイクの公女、母はプロイセンのフリードリヒ大王の妹のフィリピーネ。……【七年戦争】戦後情勢が安定すると、およそ文化の香りを欠いていたワイマルの宮廷に……生家のブラウンシュヴァイクの宮廷にみなぎっていた学芸の雰囲気を移し替えようとしたのである。
『ゲーテとその時代』P118



 アンナ・アマーリアは我らがブラウンシュヴァイク公(父)の4歳年下の妹で、没年が1807年ですからブラウンシュヴァイク公(父)が死んだ1806年にはまだ存命で、つまりカール・アウグスト公はプロイセン元帥のブラウンシュヴァイク公(父)の甥っ子であったわけですね(あと、フリードリヒ大王の妹の孫に当たる)。そりゃー、1806年当時、プロイセンに与してもおかしくないですねー(それでもって、蹂躙されたヴァイマールにおいてカール・アウグスト公の妻ルイーゼがプロイセンに与したことをやむを得ないことだとナポレオンに言うわけです。→ヴァイマール公妃ルイーゼの勇気)。


フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が側室を?

 『愉しいビーダーマイヤー』から、2回目。

 ダンディについて扱った項でヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵という人物が出てくるのですが、まあダンディとかどうでもいいので(おい)ナポレオン戦争に関係することだけ取り出してきますと、彼は

 ……ライプツィヒ大学へ進み、ここを中退してザクセン公国の軍隊へ入り、ドレースデンで近衛将校として勤務した【1805年前後?】。……1811年、家督を継いで伯爵となる。解放戦争のときはワイマルのカール・アウグスト公【→ヴァイマール公とは?】の副官となって従軍。戦後ムスカウはプロイセン領となり、彼もプロイセン軍の大佐となった。
『愉しいビーダーマイヤー』P93


 むしろカール・アウグスト公が1813年に戦っていたことの方に驚きを覚えましたが、Wikipedia英語版によるとカール・アウグスト公は、

 この時以後、1812年のモスクワ戦役の後まで、彼の部隊は全てのナポレオン戦争においてフランス軍の旗の下で戦った。だが1813年、彼は第6次対仏同盟に加わり、1814年の最初には30,000人から成る1個軍団を率いてネーデルラントで作戦行動をおこなった。


 だそうです。


 それはともかく、戦後ピュックラー侯爵はハルデンベルクの娘と結婚しますが……。

 その後ピュックラーは、プロイセンの宰相カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクの出戻りの娘ルーツィエに求婚をくりかえし……1816年、ルーツィエと婚約が整うと、この10歳も年長で、15歳で彼を生んだ自分の母親とさほど年が変わらない花嫁を迎えるため、ムスカウにイギリス式大庭園をつくり始めた。……
 妻ルーツィエには先夫フォン・パッペンハイム伯爵との間にもうけたアーデルハイトと、誰の種かわからないヘルミーネの二人の娘があったが、世間では、ヘルミーネはナポレオンのお気に入りの元帥でスウェーデン王となったベルナドットの種であると噂していた。しかしルーツィエは、自分が使っていた馭者との火遊びの結果だと公言していたようである。いずれにせよ、この娘は絶世の美女で、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が見初め、ぜひ側室にと血道をあげたが、ハルデンベルクがかろうじて思いとどまらせた。美人に眼のないピュックラーもこの娘にはひとかたならぬ執心ぶりであったが、ルーツィエの眼が光っていたので、とうとうプラトニックな関係に終わったようである。
『愉しいビーダーマイヤー』P95


 なんかもう、色々と突っ込みどころが(^_^;

 とりあえず、ベルナドットがナポレオンのお気に入りであるという記述が一番オカシイというのは置いといて、ピュックラーが自分の妻の連れ子があまりにも美人過ぎて手を出そうとするのが当然であるかのような書き方……。「プラトニックな関係」って、プラトニックならいいのかよ!

 いや本来は、そこらへんどうでもいいのです。このエントリの本題は、宰相ハルデンベルクの孫娘(父親不明)が絶世の美人で、それを側室にしようと血道をあげたというフリードリヒ・ヴィルヘルム3世について。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、その日本語版Wikipediaにもあるように、「父王の果てしない漁色に嫌悪を感じながら育ち」、妻ルイーゼ(これもすげえ美女)一途かと思っていたのですが……。今回改めて見てみると、

1810年にルイーゼ王妃が死去したあとは独身であったが、1824年ハラハ伯爵夫人アウグステと再婚した。……王妃ルイーゼとの間には、以下の5男4女をもうけた。後妻のアウグステとの間に子供はいない。


 なのですね。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の側室について調べようとしてみたのですが、英語版までだと、記述は見つけられませんでした。あと、ハラハ伯爵夫人アウグステの英語版Wikipediaを見てみると、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はルイーゼ王妃以外には王妃を持ちたくなく、アウグステには王妃の呼称を与えなかったそうです。アウグステが美人かどうかは書かれていませんでした。

 王族は子孫を残すのが重要な仕事の一つですし、ルイーゼ王妃が早逝であったこともあって、周りもフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に再婚を促したということも考えられますが、しかしアウグステとの結婚は割と秘密であったらしいし……。時代的には側室がいるのは当然でしょうから(というか、現代ここ数十年?の「側室がいるのは異常」という感覚は、人類を生物学的に見た場合にはむしろ超異常ではないかとも私は思うのですが)、父親の漁色に嫌悪を感じながらも?、しかし美人だったらぜひ側室に欲しいという感じだったんですかねー(部下の孫ですが)。まったくこれだから男は……(おい)。

 生物学的には人類は一夫一婦制じゃないですよ的な話とかに関しては、最近出た、



 という本がなかなかオススメです。子どもの学歴は努力次第だと信じて疑わない、日本の教育関係者にもぜひ読んで欲しい……。

ブリュッヒャー元帥のパイプ

 以前紹介していました、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世について書かれたウェブページ、

不定詞王 König Infinitiv

 で、『愉しいビーダーマイヤー』という本が出てきていました。



 この本、1815年~1848年のドイツの様々な諸相について書かれた本で、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に関しても出てくるというわけですが、先日ジュンク堂に行ってこの本があったので索引を見てみると、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が出てくる箇所が6箇所あるとか、ブリュッヒャーについても2箇所で触れられていることが分かったので、Amazonにて古本を注文してみました。


 で、目を通し始めているんですが、とりあえずナポレオン時代のこととして書けそうなネタがあったのでそれを。タバコと、そのパイプの話です。

 プロイセン政府は、18世紀末から、火災予防のため、街頭で喫煙する行為を禁止していたが、1806年、フランス軍がベルリンを占領すると、勝利者の特権をもってこれ見よがしにパイプをくわえて都大路を闊歩したので、こらえきれなくなった市民たちが真似して禁止令は有名無実になってしまった。ところが1809年、フランス軍が撤退していくと、頑迷な政府は再び市街区及びティーアガルテンでの喫煙を禁じ、違反者にはパイプの没収や罰金や体罰をもって臨むことに決めたが、なにしろ当時の状況では自国の将兵の士気をも考えねばならず、軍人だけは例外としたので、市民のなかには、国民皆兵というスローガンを逆手にとって取り締まる警官に逆らうものが多く、ときには警官と組んで軍隊と小競り合いを惹き起こすものさえあった。
『愉しいビーダーマイヤー』P32、33



 1809年に一度ベルリンを撤退しているというのは意外でしたが、その後また戻ってきたりしたんでしょうか……。最終的な解放は1813年でしょうし……。


 それからこれ。

 ブリュヒャー元帥がワーテルローの決定的瞬間に、馬上で愛用の大パイプをうちふって、突撃! と叫んだという伝説が、このタイプのパイプに寄せるドイツ人の民族的愛着をいっそう高めたのであった。
『愉しいビーダーマイヤー』P34



 こういう描写を私は読んだ記憶がなく、試しに『Blücher:Scourge of Napoleon』と『The Hussar General』を軽く流し読みしてみたのですが、パイプに関する話はないっぽい感じでした(もちろん見落としている可能性もあります)。むしろ、リニーの戦いの終盤に落馬した時の傷が激痛のままであり、キツイ酒を飲んだり塗ったり?していたという描写が多いです。ただ、ブリュッヒャーは若い頃から無鉄砲な若者がやるようなあらゆる悪いことに手を出していましたし、タバコをやってないということは考えにくい(^_^; 尤も、引用に「伝説」とあるのは、「史実ではないのだが、そういう伝説が作られ」ということなのかもしれませんね。


 試しにさらに、「blucher waterloo pipe」で検索してみると、ワーテルロー戦役の時のブリュッヒャーの大パイプの写真と説明文が出てきました(ロンドンの軍事博物館での、ワーテルロー関連の品200個のうちの一つ? 200周年記念とかけてある?)。

Marshal Blücher’s Pipe

 パイプに関係するところだけを拾い出してみると、「これはブリュッヒャーのパイプである。彼はリニーの戦いの時にこのパイプをなくした。(その後?)彼は落馬して失神し、助け出されたのだが、その間にこのパイプは回収された。」ということらしいです。先ほどの引用の「ワーテルローの決定的瞬間に、馬上で愛用の大パイプをうちふって、突撃! と叫んだ」という話は出てきてません。

 史実は地味であるというテーゼの好例かもしれませんが、しかし写真の大パイプはなかなかにインパクトがあって、印象深くていいですね。この写真はレプリカとかでなく、ブリュッヒャーがワーテルロー戦役で使っていたパイプ本物だということなのでしょうか……すごいですね。


1805年~1806年にかけてのブラウンシュヴァイク公(父)

 1806年のブラウンシュヴァイク公(父)について、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』で訳していっているのですが、最近寒暖の差が激しいためかちょっと風邪気味で頭が働かないので、むしろネトゲ(Blade&Soul)をメインにやっておりますバキッ!!☆/(x_x)

 ただ、1806年のブラウンシュヴァイク公についてはかなり分量も多くなりそうなので、とりあえず1805年~1806年にかけて(イエナ戦役前)の公について、一度ブログにまとめておいた方がいいなと思いました。

 以下、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』のP97からP99あたりです。

 1805年、ナポレオンは再びオーストリアを攻撃した。そしてフランスとロシアは同時に、プロイセン領を横断する部隊を送って脅迫してきた。片方はオーストリアを攻撃するために、他方はオーストリアを守るために。ブラウンシュヴァイク公はベルリンに呼ばれたが、「ハルデンベルク回想録」は再び公が、確固とした意見を述べることができなかったことを記録している。フランス軍が故意にプロイセン領アンスバッハを侵犯した時、ベルリンにおける主戦派にとって絶好の機会が訪れた。戦争は今や確実だと思われた。しかも同盟者としてロシア軍の助力を得て。10月24日、ブラウンシュヴァイク公は軍の指揮を執り、シャルンホルストは参謀長となったが、参謀本部はそのほとんどがシャルンホルストが新しく設立された士官学校で教えてきた若き将校達から成っていた。ベルナドット麾下のフランス軍は直ちにハノーファーを明け渡すように要求された。新しい敵をもたらすことは都合が悪いと考えたナポレオンはベルナドットに、ブラウンシュヴァイク公の軍隊が前進してくる前にハーメルンとハノーファーから撤退するよう命じた。その結果は明らかなプロイセンの勝利であり、この決断と事柄全体が士気を大きく改善させ、軍事的自信を得させることとなった。シャルンホルストがこの時ブラウンシュヴァイク公に要請したのは、プロイセン軍への一般的指示はあまりにも北西方向になりすぎないべきであるということで、なぜならばフランス軍はのドナウ川の渓谷を通って前進中であり、実際の戦闘はそこで起こるものと予想されたからであった。それまでシャルンホルストとブラウンシュヴァイク公との間にはいかなる見解の相違もなかった。



 その後、『Life of Scharnhorst』という本からの引用らしい文が続くのですが、「彼」とあるのは全部ブラウンシュヴァイク公? 全体のニュアンスがいまいち分かりにくいです。

【だが?】「彼の司令部が好戦的な人物に占められると、ブラウンシュヴァイク公は別人となった。彼はプロイセン軍の行軍の容認できないほどの遅さに絶えず愚痴をこぼしていた。彼はまた、国中の引き抜けるあらゆる場所から全軍を集結させることを要求した。この全軍で」彼は言った。「遅滞なくナポレオン軍に向かい、彼の無敵という名声を剥奪し、ここ何年もの間耐えてきた恥辱からヨーロッパを解放しなければならない。彼らの全ての努力は遅すぎるようになるかもしれないという信念がすでに彼を圧倒してしまっていた。」 もしオーストリアがやられたら、と彼は繰り返している。「次は我々がやられることになるだろう。そしてそれで最終的には、フランスを当てにして、ヨーロッパの共通の利益からプロイセンを分離させることが良いことなのだと考えている者達を納得させることになるだろう。」 



 次に述べられるのは、ブラウンシュヴァイク公が果断な計画を持っていたものの、それを非戦派の王の前では言えなかったという話。

 彼はベルリンにある計画を送っており、シャルンホルストによると、それはフランス軍の左側面を突くことができるように南へ進撃して彼らの連絡線を遮断し、その間ハーメルンのベルナドットを監視するために充分な部隊を送っておくというものだった。だが、それが野営地におけるブラウンシュヴァイク公の言葉だとしても、彼はベルリンで王【フリードリヒ・ヴィルヘルム3世】の面前で同じ言葉を維持することができなかった。王は公の計画を承認していたが、ハウクヴィッツ、ロンバルド、ルッケシーニなどに取り囲まれ、可能であればいかなる代価を払っても平和を維持することを固く決心していたのだった。



 そして、ボイエンによるブラウンシュヴァイク公評が来ます。途中、ひたすらブラウンシュヴァイク公が褒められる文章が続く(そして最後にひっくり返される)のですが、あまりにも長いのでそこは途中で省略しました(^_^;

 この時の参謀将校達の中にボイエンがいた。彼は『回想録』の中で、この時の将軍がどう見えたかを詳しく書いている。
「ブラウンシュヴァイク公は」と彼は言う。「その前半の軍事経歴において優れた意志決定と軍事的洞察力を示し、確実に最も博識な君主達のうちの一人であり、これまでに存在した中で最も尊敬すべき人物であった。この人ほどに知的で魅力的な会話をすることのできる人物などほとんどいないだろう。オランダでの戦役における彼の成功と、ライン戦役における彼の指揮のいくつかは大きな名声を彼に与え、シャンパーニュでの不成功はそれを曇らせることはできなかった。彼の膨大な軍事的知識は、専門的な面での詳細さにおいても範囲の広さにおいても、卓越した融合を果たしていた。……
 だが、と彼は続ける。これらの全ての美点が、深刻な欠点によって覆い隠されてほとんど役に立たないものとなってしまっていた。……かつての名声を失ってしまうのではないかという緊張と不安、ささいなことへ愚かしいほどに気を取られてしまうこと……そして特に、王と意見が異なる際に、普段言っている自説を主張することが全く不可能であったことであった。「この人物が」ボイエンは問うている。「ナポレオンに対して指揮して勝てるのだろうか?」




 ちょっととばして、P105~106。1806年中の、戦役が始まるまでの間の話です。

「これが」ハルデンベルクは絶望しながら書いている。「これがブラウンシュヴァイク公なのだ! なぜ彼は自分の気持ちを王に話さないのか? そしてなぜ王はこれらの件について彼に要求しないのか? こうして、この過誤によって、この国に破滅がもたらされようとしている!」


「私はブラウンシュヴァイク公と会った。」Alopaeusは書いている。「我々は長い時間話し合った。彼は私が望んでいたことのすべてを語り、彼と私の意見はまったく一致した。だがそれにも関わらず、彼は1インチも動こうとはしなかった。」 そしてその間に、ブラウンシュヴァイク公には分かっていたことであったが、あの奔流【1806年戦役のこと】がやってきたのである。



 で、この本の中では1806年戦役が始まってしまったらしいですが、開始時(8月7日にベルリンにて対仏戦争が決定された)のことは何も書かれていません。かつて、ブラウンシュヴァイク公は主戦派だったのか?というエントリで公が主戦派であったのか非戦派であったのかということを書きましたが、以下を見る限りでは「戦争に対して消極的」という気がします。

 ベルリンにおいてブラウンシュヴァイク公が、ロシア軍が到着するまで宣戦をおこなうことはプロイセン軍にとって望ましくない、と主張したのは少なくとも確かであるらしい。彼は、プロイセン軍単独ではこの戦争は遂行できないという意見を表明した。彼が頼るべきだったであろう同僚達のほとんどに、彼は低い評価しか与えていなかった。メレンドルフはもうろくしており、リュッヘルは虚栄心が強く、自慢ばかりしている。カルクロイトは常に不機嫌で、あらゆることを批判してばかり。師団級の将軍達のほとんどはありふれた、才能のない人物だ、と彼は言っていたのだ。「これらの人間で、」ブラウンシュヴァイク公は、ボイエンが彼について言っていた問いを発していた。「王はナポレオンと戦って勝てと所望されておられるのか?」 プロイセンの財政状況もまた、彼を絶望させるものであり……



 ここのプロイセンの将軍達の評価は、私が後生大事にまとめていっている『ナポレオニック書籍人物評まとめ』というファイルの中にありがたく記録させていただきました(*^_^*) しかしむしろ、ブラウンシュヴァイク公がシャルンホルストについてどう思っていたかというのがかなり知りたいところなのですが、この本の中でそういう記述を見つけられていません。ただ、1806年戦役におけるやりとりを流し読みした感じでは、今回の引用箇所にもありましたが、「意見は一致している」という感じで、仲が悪いとか評価が低いという印象は受けません。

 アウエルシュタットでのシャルンホルストというエントリの中では、「ブラウンシュヴァイク公はシャルンホルストを軽蔑の目で見ており」(『1806 Coming Storm』P54)だとか、「ブラウンシュヴァイク老公はアウエルシュテットで瀕死の重傷を負うまで、極めて優秀な幕僚長【シャルンホルストのこと】をどう活用してよいかわからず、命令伝達に便利な副官として彼を使用した。」(『ドイツ参謀本部興亡史 上』P48)という資料を挙げていたのですが……どうなんでしょうね……。

 一応推測として、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』はシャルンホルストやボイエンなどの回想録等、シャルンホルスト一派の資料が使われている率がかなり高めなので、シャルンホルストに対する批判的な見方が掲載される率が低いということかもしれません。あるいはまた一方で、多くの資料では敗北した指揮官であるブラウンシュヴァイク公に対する厳しい見方(優秀なシャルンホルストを軽んじた、等)が採用される率が高くなる傾向がありそうな気もします。


 あと、いくつかの資料(Wikipediaとか? 今再度探すのがしんどいのでパス(^_^;)では、1806年戦役にあたってルイーゼ王妃がブラウンシュヴァイク公に指揮をとってもらえるように頼んだという風に書かれていたような気がするのですが、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』を見ている感じでは、すでに1792年の時点でブラウンシュヴァイク公はプロイセン軍の最高指揮官であり(一時的にほぼ同等の権威を持つ、より年長のメレンドルフがプロイセン軍を指揮したこともありますが)、1805年にも当たり前のようにブラウンシュヴァイク公は最高指揮官であり、1806年もそう、という感じで、わざわざルイーゼ王妃が頼まなければならない感じも受けないし、またそういう記述も出てきませんでした。が、だからといってその記述がウソである証明にもならないので、また今後追っかけていくということで……。なにより、面白そうな話ですし。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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