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OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマで中国国民党軍が極度に消極的だった理由と、イギリスが中国軍をビルマに入れたくなかった理由

 本屋でたまたま、『インテリジェンスで読む日中戦争』という本を見つけまして、1942年のビルマ戦線における中国、イギリス、アメリカに関しても記述があるようなので買って読んでみてました。

 すると、ビルマ戦線で中国国民党軍が極度に消極的だった理由と、イギリスが中国軍をビルマに入れたくなかった理由が書かれていて、「なるほど……!」となりました。


 中国国民党軍の消極的な姿勢というのは、たとえば↓のようなものでした。

 3月19日、激しい議論ののち、スティルウェルはようやく、トングーの危機に陥っている第200師の救援のために第22師をビルマに移動させるという了解を取りつけた。- 少なくとも取りつけたと考えた。彼はさっそく、中国第5軍の司令官杜聿明に必要な命令を出した。ところが杜も、フランスで教育を受けたインテリだという第22師の師長廖耀湘少将も、怠慢ということにかけては大の達人だった。くる日もくる日も彼らは、何かと口実を見つけては第22師を戦闘に参加させずにすませようとした。鉄道輸送に問題がありすぎる、途中があまりにも危険である、日本軍の戦車隊が多すぎる、廖師長としては増援部隊を待ちたい、日本軍の先遣隊が入り込んでいるので連隊の移動は不可能である、などといった調子である。スティルウェルに話しかけられそうだと見ると、杜は自分の部屋に逃げ込んでしまったり、大声をあげて部下に当たってみせたりするのである。「腰抜けども」と、スティルウェルはあとで杜と廖のことを書いている。「撃ち殺してしまうわけにもいかない。首にするわけにもいかない。……といって話をするだけでは何の効果もない」。

 アレクサンダー将軍も、前線に杜将軍を訪れ、野砲をどこに配置したかと尋ねたとき、スティルウェルが直面している問題をある程度理解した。杜は野砲は引き揚げたと答えたのである。「しかし、それでは役に立たないでしょう」とアレクサンダーは尋ねた。

 「閣下」と杜は答えた。「第5軍はわが国最良の軍隊ですが、それは第5軍だけがともかく野砲をもっているからなのです。ですから、この砲は大切に扱わなければなりません。万一壊してしまったら、第5軍はもはや最強軍ではなくなってしまうのですから」。

『中国=ビルマ=インド』P24




 『インテリジェンスで読む日中戦争』で書かれていた、中国国民党軍がビルマで極度に消極的だった理由は、↓のようなもの。

1.蒋介石は、ビルマ戦線に中国国民党軍の大軍を割いて、しかもそこで大損害を受けでもしたら、日本軍はその機に乗じて中国本土の他の前線を攻撃し、中国本土の戦域が崩壊しかねないと恐れていた(P68)。

2.外国からの軍事支援は乏しいものだった(かつ中国では軍備を生産できない)ので、装備の使用に慎重にならざるを得ない(P70)。

3.日本との戦争後に予想される中国共産党との内戦のことを考えると、装備を持っているということ自体が中共軍に対する優位になるから、外国からの軍事支援による装備を使わずに貯蔵しておきたい(P70)。


 特に↑の3が重要だと思われました。



 『中国=ビルマ=インド』の記述も探してみると、上記3も書かれていましたが、↓もありました。

4.蒋介石は自然要害と、連合軍の努力によって日本軍が弱るのを待つという戦略であり、ビルマで中国国民党軍を戦闘に参加させることに消極的だった(P18)。


 また、蒋介石にとって、ビルマルートによる中国への軍事支援は重要ではあるものの、アメリカはヨーロッパ戦線への支援を極度に重視するという政策で、アジア方面でも太平洋戦域が重視されており、しかも恣意的に中国向きの物資がヨーロッパ向けに振り替えられたりで実際に受け取れているのは微々たる量に過ぎなかったので、「ビルマルートの維持」と「中国国民党軍の維持」を天秤にかけると、後者の方が重要だという判断になった……ということだとも思われました。



 一方で、イギリス側の思惑について。

 イギリス軍のウェーヴェル将軍が「ビルマに中国軍を入れたくない」と思っていて、中国軍が入ってくるのを最初許可しなかった……というような記述は今まで何回か見ていたのですが、理由については全然分からないままスルーしていました(理由書いてあったかもですが(^_^;)。

 『インテリジェンスで読む日中戦争』によると、そもそも「イギリスは、蒋介石政権に対する支援に熱心でない」(P74)と……(アメリカ、というかフランクリン・ルーズベルト大統領は割と熱心だったけども、出先機関などの運用がうまくいかず。イギリスは、現場の人は割と熱心なのだけども、チャーチルなどが蒋介石支援に反対で却下しまくった(P80))。

 それどころか、日本を利するかのようにイギリスは1940年7月から3ヵ月間、ビルマロードを閉鎖してしまい、その間に日本の対中攻撃が激化したそうです(P74)。

 いったいどういうことかというと、こういう風なことらしいです。

 日英開戦後、蒋介石は、香港奪還のために3個軍を派遣するとイギリスに申し出ましたが、拒絶されます。蒋介石がなおも出兵を主張すると、イギリスは「防空援護をしない」と答えました。
 イギリスとしては、香港は自分のものだから自分の力で日本から取り戻したかったのです。中国軍の力を借りれば、あとで、「日本人が大英帝国から奪った植民地を中国人が取り戻した」と蒋介石に言われかねないからです。
 【……】
 【蒋介石にとって】ビルマ・ルートが重要なことに変わりはありません。日英開戦前に英中が軍事協力について協議した際は、中国側が10個軍をいつでもビルマに入れるように準備することで合意していました。
 ところが実際に日英間で戦争が始まると、イギリスはラングーンとビルマ・ロード防衛のために中国軍部隊をビルマに入れることに断固反対しました。表向きは道路状況が悪いから「安全上」インド軍を使う方が良いということでしたが、本音は香港奪還に中国軍を使いたくなかったのと同じ理由でしょう。
『インテリジェンスで読む日中戦争』P78,9


 しかもイギリスは、第二次世界大戦中に中国に対して分裂工作(中華民国内で独立性が強かった地域に独立工作を仕掛けたり、中国共産党を支援したり)を仕掛けていたそうです。つまり、日本が強くなるのも困るけども、中国が強くなるのも困る、なぜなら、ビルマや中国におけるイギリスの利権が大事なわけですから。


 それに比べるとアメリカは当時「ウィーク・ジャパン」という、「日本が弱くなればアジアは平和になってよい」と考える政策を実行していたそうで、中国を支援する方向だった。ただし、中国共産党の力を軽視しまくっており、国民党を十分には支援しきれなかったことによって、中国共産党を太らせてしまい、ここ100年における対中政策を誤ってしまったのだ、と……。


 「国民党を十分には支援しきれなかった」件ですが、スティルウェル将軍が現地で自分の恣意で国民党への軍事支援物資をねじ曲げまくっていたらしく(P54)、また、本来中国=ビルマ=インド戦域には当初別の人物が赴任することになっており、荷造りまでしていたのに、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀長が個人的な理由で、昔からの部下でずっと階級が下のスティルウェルを無理矢理ねじ込んだのだとか。マーシャル将軍は素晴らしいリーダーシップを持った人物だと通常賞賛されていますが、この点については一部から非常に批判されたりしているそうで、そこらへん興味深かったです。


<2024/04/26追記>

 『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』という本を購入して読んでいたところ、また色々と違うことが書いてあったので、そこらへんを追記してみようと思います。

 英国に対しては、帝国主義国家の筆頭、最初に中国の主権を侵害し、不平等条約の先鞭をつけた国として、中国は恐れ、嫌っていた。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P268

 中国は伝統的にビルマに曖昧な所有権を主張し、放棄したことがないので、英国はそのビルマに中国軍が入ってくるのを少しも望まなかった。彼らがいったん国境を越えたら、中国人を大嫌いな地元住民と問題を起こすほかに、居座ってしまう恐れがあった。ウェーヴェルはインド軍部隊の増援を待っており、当然、「大英帝国に属する国は、外国の軍隊ではなく、帝国の軍隊によって防衛される」ことを望んだ。おまけにビルマでは、中国からの大量の流入を養うこともできないし、移動させることもできないと知らされていた。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P270

 【日本軍がビルマへの侵攻を始めると】いらないと一度は断った中国軍が急に頼もしくみえてきた。英国はビルマ第1師団をラングーン防衛に転用するため、同師団が布陣していたビルマ東部国境地帯のシャン諸州の防衛の肩代わりを中国軍に要請した。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P279

 【中国軍が】戦意を失った原因のひとつは、日本軍とはもう十分長く戦ってきた、今度はほかのだれかが戦う番だと中国人が思っていたこと、ひとつは、地方では権力を握るため、中央政府の場合は中共との戦いに備えて、それぞれ兵力を退蔵する傾向があったためである。そして最後に、自信を失っていたからでもあった。「中国人は中国の軍隊が日本軍と戦えるなどと思っていない」とスティルウェルは書いている。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P302



 また、この本によると、イギリスがビルマロードを3ヵ月間ストップさせたのは、日本から外交圧力によるものでやむを得ずであったとありました(ただし、ストップさせたこと自体は中国側の恨みを買った)。

 それからマーシャルがスティルウェルを中国に派遣したのは、そもそもアメリカ陸軍の訓練などにおいてスティルウェルは非常に優秀で、マーシャルからスティルウェルが第一級の人物だと見なされていたことがあり、しかも中国への派遣の問題が持ち上がった時、別の人物を厄介払いするために推薦したところ、却ってスティルウェルを派遣せざるを得なくなった事情があったということでした。この本を読んでいた感じでは、マーシャルがスティルウェルを中国に派遣した時の判断としては、非難されるべきような感じは受けませんでした(その後もずっとスティルウェルをとどまらせたことに関してはどうか分かりませんが)。

<追記ここまで>

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OCSの航空爆撃で、近距離シフトが得られる条件について

 OCSの航空爆撃には、爆撃に参加するすべての航空ユニットが10ヘクス以内の航空基地から爆撃任務ヘクスに来ているのであれば、コラムが一つ良くなるという修正があります。


 このシフトについて、先日の『Tunisia II』でのプレイで疑問点が生じたので、facebookのOCSグループで質問してみました。



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 左側縦列のSpit.VとA20で爆撃に行ったとします。Spit.Vは11ヘクス以遠から来たのですが、A20は10ヘクス以内から来ていました。この2ユニットがそのまま爆撃を行えたならば、7+1で8爆撃力であり、8-11のコラムで爆撃できます。

 ところが対空射撃でSpit.Vが1ステップロスしたため、Spit.Vの爆撃力は0になりました。すると合計爆撃力は7ですから、5-7のコラムで爆撃しなければなりません。ところがここで、連合軍プレイヤーはA20は10ヘクス以内から飛んで来たのであったことを思い出しました。ここでもし、

1.Spit.Vの0爆撃力はそもそも加算されないのだから、ないものとして扱う。
2.Spit.Vの0はカウントされるが、爆撃時にSpit.Vを爆撃自体から外すと宣言できる。

 のであれば、近距離シフトを利用でき、8-11のコラムで爆撃できるでしょう。

 で、質問してみた答は、「爆撃時に一部のユニットを外すことはできず、0爆撃力のユニットは0爆撃力で参加する。ゆえにこの場合、近距離シフトは利用できない」とのことでした。



 そこで、もう1つの疑問が浮かんだので、さらに質問してみました。


unit8368.jpg

 今度は、2ユニットともが1ステップロスの状態で飛んで来ました。さっきの例と同様に、戦闘機(Bf.110)が11ヘクス以遠から、爆撃機(Ju.88)が10ヘクス以内から飛んで来ています。このまま爆撃できれば9爆撃力で、8-11のコラムで爆撃できます。

 しかし今度も戦闘機の側が対空射撃で1ステップロスし、もともとが減少戦力面であったため壊滅してしまいました。すると、Ju.88の6爆撃力のみで爆撃することになります。この場合、爆撃時には11ヘクス以遠から来たユニットはいないのだから、近距離シフトは利用できるのでしょうか?

 この質問に対する返答は、「イエス。この場合は近距離シフトを利用でき、8-11のコラムで爆撃できる。
ただし、こんなことはめったに起こらないだろうが」ということでした(^_^;


 一応、そのようなことですので、ご報告ということで。



 あと、ちょっと前に「航空阻止(Interdiction/Trainbusting)は砲爆撃の一種ではなく、別物である」という解釈の話があったのですが、今回ついで質問してみたところ、「航空阻止は砲爆撃の一種である」という返答でした(!)。ので、そちらもまた修正しておくつもりです。

ザハ氏のブログ記事「【短報・対戦写真】OCS:Crimea"Tiger by the Tail"/2024年3月」に挙げられていた疑問点をチェックしてみました (2024/04/01)

OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国軍第200師団長であった戴安瀾将軍について

 中国(中華民国)軍第200師団長であった戴安瀾(たいあんらん?)将軍についてのWikipediaを少し見てみたら、興味深そうだったで、ちょっとまとめてみることにしました。

中国語版Wikipedia「戴安澜」
英語版Wikipedia「Dai Anlan」


Dai Anlan

 ↑戴安瀾将軍(Wikipediaから)



 英語版Wikipeidaの記述より中国語版Wikipediaの方が記述は豊富ですが、勇壮な話に満ちているためにむしろ、話が装飾されているのではないだろうかという疑いも持ちます。ただまあ、英語版のみを元にすると話があっという間に終わってしまいますし、多くを中国語版を元にして一応まとめておいて、後で検証するという方向性で行こうかと思います。



 1904年に安徽省の農民の家に生まれ、最初の名前は戴揚功だったそうです。学校で優秀な成績を収め、1924年に黄埔陸軍士官学校に入り、1926年に国民革命軍の小隊長に任命されました。彼は祖国が危機に瀕していることを感じ、中国を死守する決意を表明するため、名前を「波を静める」という意味の「安瀾」に変更したそうですが、その時期について、英語版では1924年?、中国語版では1926年以降だという風に記述しています。

 北伐、済南事件で日本軍と戦います。1938年の魯南の戦いでは、部隊を率いて中愛山で4昼夜にわたって日本軍と戦い、その功績が認められて第89師団副師団長に昇進。 同年8月、武漢の戦いに参加し、35歳で第5軍第200師団長に昇進。1939年12月、広西チワン族自治区の崑崙峠で日本軍第5師団と激戦を繰り広げ、自身が重傷を負いながらも優れた指揮で崑崙峠での有名な勝利を獲得。

 太平洋戦争が勃発してビルマルートが脅かされると、国民党政府(蒋介石)はビルマ戦線に10万人の軍隊を派遣します。戴安瀾は第200師団を率いて雲南からビルマへ西進し、単独で進む危険を厭わずにトングーへと南下して、英連邦軍の守備を次々と引き継ぎました。


 ↓OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から (2023/10/15)に挙げていた地図です。

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 英連邦軍の安全な退却を掩護し、戦闘の準備を万全にするために、戴安瀾は部隊を指揮して昼夜を問わず陣地の修復を行い、敵の前進を阻止するために3つの防衛線を敷きました。妻に宛てた手紙の中で、彼はこのように書いていたそうです。
「私はトングーの守備を命じられた。上の計画はまだ決定されておらず、後方との連絡はあまりにも遠く、敵の動きが早く、今私は一人で、祖国が育ててくれた恩に報いるため、すべてを犠牲にする決意をした。祖国のための戦いで死ぬことは、極めて名誉なことだ。」

 彼は部下達にこのように告げたそうです。
「兵士が一人でも残っている限り、最後まで持ちこたえなければならない。師団長が戦死した場合は副師団長が後任となれ。副師団長が戦死すれば参謀長が、参謀長が戦死すれば連隊長のうちの一人が後任となるのだ」

 師団のあらゆるレベルの指揮官もこれに倣うことを誓いました。

 3月25日、日本軍精鋭第55師団【と中国語版Wikipediaに書かれていますが、第55師団は標準レベルではあったかもしれませんが、第33師団などと比べると精鋭とは言えなかっただろうと思います】の20,000名以上の攻撃に8,000名で抵抗し、トングー防衛の緒戦で勝利を収め、中国内外から賞賛を集めました。トングーの戦いは12日間続き、第200師団は高い戦意を持って敵と激戦し、800名が犠牲になりつつも20回以上の日本軍の襲撃を撃退し、4,000名以上の敵を死傷【原文では殲滅、全滅っぽいですが、誇張でしょう】させ、200名以上の捕虜を獲得しました。

 トングーの戦いの終盤には、右翼の英連邦軍は逃げることしか考えなかったため、日本軍の進撃を許し、結果として三方を敵に囲まれ、第200師団は包囲殲滅の危機に陥りました。最後の手段として、第200師団は北への脱出を命じられました。

 ↑の部分、文が良く分からないので大幅にはしょってます。「右翼の英連邦軍は逃げることしか考えなかったため、日本軍の進撃を許し」というのは、蒋介石がプローム方面の英連邦軍が攻勢に出て、トングーへの日本軍の圧力を弱めるように要求したのに、それがなされなかったことを意味しているのかもしれません。今後、『ビルマ 遠い戦場 上』の記述を使って調べる予定です。



 英語版Wikipeidaの参考文献を見ていると、『The Imperial Japanese Army: The Invincible Years 1941–42』という本の戴安瀾の登場する1ページがGoogle Booksで見られるので、そこを翻訳しますと……。

 ラングーンが陥落したのと同じ3月8日、中国第5軍の部隊の1つである戴安瀾少将率いる第200師団がトングー(タウングーとも表記される)に到着した。この陣地は、竹内寛の第55師団が2週間前に第17インド歩兵師団から奪取したシッタン川渡河地点から約150マイル北のシッタン川沿いにあった。

 戴の部隊がトングーでシッタン川渡河部を防衛するために掘り進むと、竹内の部隊はそれを掘り起こすために北上した。最初の交戦は3月18日に行われたが、主攻撃は3月24日に行われた。

 竹内は第112連隊で市街を正面から攻撃し、第143連隊で中国軍の陣地を包囲し、北へのアクセスを遮断し、戴の陣地を背後から攻撃した。後方の兵力が蹂躙されると、戴は過剰反応し、全指揮官をトングーの中心部の防衛境界線に撤退させた。

 3月25日早朝、竹内の2個連隊は南、西、北から攻撃を開始した。東側はシッタン川であったため、戴安瀾は1ヶ月前のジャッキー・スミス【第17インド歩兵師団長】と同じ状況、つまりシッタン川を背にした状況に陥った【スミス師団長は2月23日にシッタン鉄橋を過早に爆破してしまった咎も受けて解任されてしまっていました】。状況は、スミスのインド人部隊が農村地帯にいたのに対し、戴安瀾は都市【トングー】周辺の入り組んだ地形にいた点で異なっていた。このため日本軍は、日本陸軍が好んで用いた敵陣に潜入する戦術を比較的容易に用いることができた。一方、両軍とも大砲を使用することが難しくなったため、戦闘は多くの場合、近接戦闘となった。

 戦闘は3月26日まで続き、日本軍がトングーの西側を占領したため、大きな損害が出た。翌日には小康状態となり、両軍とも傷を癒すために後退したが、この離脱は日本軍が大砲を使用し、航空優勢を利用して空爆を行うことができることを意味するだけであった。
『The Imperial Japanese Army: The Invincible Years 1941–42』P279


 この本のこの文章、なかなかに分かりやすい感じにまとめられていて好感を抱くのですが、すでに資料が多すぎて管理能力を超えているのと、値段も割と高いので、手を出すのはやめておいて……(^_^;



 閑話休題。


 英語版Wikipeidaによると、第200師団はシッタン川を渡って北へ後退し、第22師団と合流。彼らはシッタン川を北上する日本軍の進撃を阻止し、4月25日にはビルマ中部のタウンギーを日本軍から奪ったとあります。

 その後の撤退中、5月16日に第200師団司令部が敵の待ち伏せに遭い、包囲を突破するも18日の戦闘で戴安瀾は腹部に重傷を負います。

 ビルマ北部の複雑な地形と降り続いた雨のせいで治療を受けられず、5月26日までに傷口は重度の感染症により侵食され、化膿し、穴が空いていました。死が近づいていることを感じた戴安瀾は衛兵に左右から抱き起こすよう命じ、北に向けて「反撃! 反撃! 中華民国万歳!」と叫び、モガウン【ミートキーナの西】で38歳で亡くなりました。

 遺体は火葬され、第200師団の残りの兵士達と共に中国に引き揚げられました。中国に戻った時、戴安瀾の棺を数万人が出迎え、国葬が行われました。1942年10月28日、フランクリン・ルーズベルト大統領は戴安瀾にレジオン・オブ・メリット勲章を授与し、アメリカから軍事勲章を受章した最初の中国軍人となったそうです。


ザハ氏のブログ記事「【短報・対戦写真】OCS:Crimea"Tiger by the Tail"/2024年3月」に挙げられていた疑問点をチェックしてみました

 ザハ氏が、【短報・対戦写真】OCS:Crimea"Tiger by the Tail"/2024年3月というブログ記事を上げておられまして、その中でルール上の複数の疑問点を挙げておられたので、チェックしてみました。



2.1 上陸の誤解
 上陸用舟艇からの上陸後は、海上移動と同様に移動できないと誤解していた。上陸が成功すれば、半分の移動力で移動できる。敵ZOCに不利な修整を受けて無理に上陸しなくてもよかった。ただし、補給ポイントが揚げられないので、内陸に進むと補給が届かなくなる。


 「補給ポイントが揚げられない」とありますが、これは「揚げられる(揚陸できる)」と思います。

 ここで「上陸用舟艇」とあるのは、厳密には『Crimea』に(のみ?)登場する「ソ連軍の海軍輸送船舶(Naval Transport)」のことです(これ以外の、通常の上陸用舟艇は『Crimea』には登場しません)。

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 これはOCSシリーズルールにおける「上陸用舟艇(Landing Craft)」の一種扱いだと思うのですが、『Crimea』3.5eの2つ目の「・」に、「海軍輸送船舶はユニットやSPを積載し、港湾に、または揚陸表(ALT表)を使用して貨物を陸揚げできます。海軍輸送船舶に積載されている状態のSPは、同じヘクスにいるユニットであったとしても使用できません。」とあります。

 ところが、OCSシリーズルールではLanding Craftは「SPを(積載はできるが)陸揚げできない」ですし、積載されているSPは「隣接ヘクスまでのユニットしか使用でき」ません。

 で、特に前者について気になった(というか、当時は後者の違いに気付いてなかった(^_^;)のでfacebook上のOCSグループで「OCSシリーズルールで上陸用舟艇はSPを陸揚げできない、と書かれていますが、『Crimea』の海軍輸送船舶はSPを陸揚げできるのですか?」と聞いてみたところ、端的に「Yes」とだけ答が返ってきました(OCS班長のChip Saltsman氏から)。

 その答を見た時私は「なんでやねん」と思ったのですが(バキッ!!☆/(x_x))、よく考えてみれば、シリーズルールの規定を特別ルールの規定で上書きしているだけなんだな、とハタと気付きました。






4.1 クリミア特別ルールの表記の不一致
 クリミアの特別ルールのルールブックの記載に不明瞭な点が難点かあると感じた。
 例えば、プレイブックのシナリオには"Seaborne Assault Marker"とあるが、これはおそらく"Amphibious Landing Marker"のことだと思われる。考えればわかることかもしれないが、ルールには"Beachhead Marker"もあるため、混乱しないよう用語を統一が望まれる。


 これはその通りだと思います。

 あと、私が和訳の時にえらく悩んだのは、シナリオ2の「Kerch Strait Condition:」が「Open」と書かれていることで、「Openってなんやねん?!」と最後まで悩んだのですが、「(ケルチ海峡氷結進行表における、凍結の最初のターン)」という括弧書きがあるので、もうそれに従って「凍結#1」と意訳?してしまいました(が、どうなんでしょう?(^_^;)。




3.1 航空阻止(Train Busting)について
 ソ連軍プレイヤーは、枢軸軍が補給ポイントを鉄道で前線に運ぶのを妨害するために、航空阻止(Train Busting)を試みようかと考えていた。ソ連軍に、航続距離が194ヘクスの爆撃機があるからである。この航続距離であれば、警戒空域を避けて飛んで後方の鉄道を爆撃できると考えたためである。しかし、忘れていて一度も実施できなかった。
 ところで、1942年の途中まで、ソ連軍は制空戦闘と砲爆撃を飛行場から20ヘクス以内でしか行えない(クリミア特別ルール3.2b)が、航空阻止は砲爆撃ではない(シリーズルール14.2eで、「砲爆撃」と「航空阻止」は別に列挙されているため)ので、この影響を受けずに実施できると考えられる。


 これを読んで私は、「え、マジ? 航空阻止は、砲爆撃の一種に決まっているのでは……」と思ったのですが、OCS 14.2eを見るとまったくその通りで、しかも、『Crimea』3.2dには「制空戦闘、航空阻止、およびあらゆる種類の砲爆撃任務」という風に記載されていたので、疑いの余地もなくなったという……(^_^;

 この件、まったく想像もしてませんでした……。気付かせて下さったザハ氏に大変感謝します!(T_T)



<2024/04/08追記>

 ↑の件ですが、別件の質問のついでに質問してみたところ、「(対施設)砲爆撃結果表を使用する航空任務はすべて、砲爆撃の一種であり、航空阻止も砲爆撃の一種である」ということでした(!)。ルールの記述上、どこにそういうことが書いてあるのかとか、なぜ砲爆撃と航空阻止は別々にリストに挙げられているのかとかは良く分からないのですが(さらに質問しても答が返ってこないので(>_<))、一応そういうことらしいです。

 とまれ、理解が深まったので良かったです(^^)

<追記ここまで>




4.2 勝利条件の疑問
 シナリオ2の勝利条件に疑問がある。手元にある英語のプレイブックでは、勝利得点(VP)をカウントする港湾は、"Crimean or Taman Peninsula"、つまりクリミアかタマーン半島の港湾となっている。ところで、後日聞いたところによると、ある和訳では、「クリミアで自軍が支配している港湾」となっているという。
 これは、翻訳ミスか、それとも公知でないエラッタが反映されているかのどちらかであると考えられるが、シナリオの流れに大きく影響すると考えられる。


 これを読んで、「うお、ある和訳とは私の訳で、まず間違いなく私のミスだろうな……」とすでに観念したのですが(おい)、確認してみたところ、やはり私のミスでした(; ;)ホロホロ

 シナリオ1の文をコピペしてしまってそうなったのだと思います。一応、和訳のシナリオ2のVP一覧にはタマン半島側のVPも入っていたのですが……。



 今回判明した和訳ミスと、明確化的事項について、↓に追記しました。また今後も、疑問点やミスなど見つけられましたら、どしどし報告していただけると大変ありがたいです!

OCS『Crimea』の現時点で判明しているエラッタ&明確化 (2024/01/07)


OCS『South Burma』(仮)製作のために:『遠い戦場』から、中国第200師団とトングー戦について

 『ビルマ 遠い戦場 上』を読み返していて、1942年のビルマ戦における中国国民党軍最強と言われる第200師団について少し詳しいことが書いてあったので、抜き出しておこうと思います。



 ↓以前、適当に作ってみた第200師団ユニットと司令部(上段が戦闘モード、下段が移動モードです)。

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 「師団」なのに3個大隊から成っているのは、中国軍の師団は日英両軍の連隊規模くらいだったからです。

 3個大隊すべてをAR4にしてましたが、これはやりすぎで、4と3の混在かな、という気もしてます(^_^;


 中国第200師団(載安瀾中将)は兵力8500名で、第5軍の各6000名、第6軍の各5700名前後の他師団よりはるかに多かった。しかしこの数字はまやかしで、これには労務者や輸送用苦力(クーリー)も含まれていたのである。師団は自動車化され、その一部には装甲部隊もあった。またこの中には武器貸与法による75mm榴弾砲を持った砲兵隊や、105mm砲の自動車化大隊も含まれていた。しかし医療班はなく、イギリス軍と接した場合の通訳もいなかった。これは作戦期間を通じて障害になった。
『ビルマ 遠い戦場 上』P81,2


 ここに書かれていることが本当であるとすると、移動モードは自動車化で、機甲中隊?や砲兵大隊、自動車化砲兵大隊のユニットも必要だということになるかもしれません……。

 しかし、それらの部隊番号が全然分からないので、もし将来それらが分かったら……ということにならざるを得ないですね:p



 その後少し、この第200師団によるトングー防御戦に関する記述があるので、それらも引用しておきます。

 第1ビルマ師団長ブルース・スコット少将が、トングーを載安瀾中将の中国第200師団に引き継いだ時、通訳がいないし中国側に地図がなかったために、状況を説明するのはほとんど不可能だった。結局スコットはあきらめて、自分の師団司令部だけを予定どおり脱出させた。中国軍はトングーの町のほかの建物とともに、司令部にも火を放った。これが町を守る最善の方法だというのである。杜【聿明。中国第5軍司令官】は第1ビルマ師団に退去を命じたが、スティルウェルは中国第22師団が南下してくるまでそのまま残ってくれと頼み込んだ。
 3月24日、トングーは竹内中将の第55師団の攻撃を受けた。載安瀾の中国第200師団は激しく反撃したが、飛行場を奪われ、27日には町は包囲された。至近距離の友軍は廖耀湘の中国第22師団で、ピンナマの北96キロの地にいた。しかし蔣総統はアレクサンダーに、イラワジ河流域の日本軍を攻撃し、トングーへの圧力を弱めるよう要求した(スティルウェルは中国第200師団の対決している日本軍は増強されつつあると誤認していた)。スリムは自分の兵力を集中している最中に、攻撃に出たくはなかった。いずれにしてもトングーから日本軍を反らせうるとは思えなかった。【……】
『ビルマ 遠い戦場 上』P82,3

 結局トングー戦は無意味だった。スティルウェルは中国第22師団にピンナマ出動を迫り、師団長は3月28日に攻撃すると約束したが、何も起こらなかった。苦闘10日、中国第200師団は包囲を突破してエダッセに達した。しかしその退去にあたってシッタン川上流の橋の爆破を忘れたため、日本軍にモチや南シャン州に通じる道路を無傷で渡してしまった。【……】
『ビルマ 遠い戦場 上』P85



 以前まとめてました↓では「中国第22師団は3月26日までにはピンナマに到着していた」とあったのですが、まあ、師団の先鋒が到着していたとか、そういうことかもとも思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:トングー戦の時期の中国軍の動き (2023/11/02)


<2024/04/01追記>

 ミト王子さんから第200師団について、コメントを頂きました。情報ありがとうございます! 今後ユニット数値改訂の参考にさせていただきます~。

 忘れない様に、こちらに引用しておきますね。

 Xで拝見しまして第200師について

>師団は自動車化され

 第200師が属した第5軍自体が機械化軍で、軍直轄の汽車(自動車)兵団は元々は第200師に属していましたが軍直轄にされてしまいました。概ね1個歩兵師の輸送力があったようですから、本来は軍所属の3個歩兵師を適宜自動車輸送するのが任務の筈ですが、もしかしたら殆ど第200師に配属したままだったのかも知れませんね。HJ「日本の進撃」でも第200師を機械化歩兵師としていました。

 
>武器貸与法による75mm榴弾砲を持った砲兵隊

 これはソ連製76.2mm野砲が正しいと思われます。崑崙関の戦いでも第200師の砲兵営が装備していました。
「抗戦時期陸軍武器装備 野戦砲兵篇」を見る限り米国の75mm山砲が装備されたのは戦争後半のようです。
 独立砲兵第18団の1個営もビルマ防衛戦に参戦していますが、この部隊もソ連製76.2mm野砲装備だったと思われます。


>105mm砲の自動車化大隊
 独国製105mm軽榴弾砲装備の独立砲兵第13団から1個営がビルマ防衛戦に参加しているのでこれのことでしょう。


>機甲中隊?

 第200師に当初配属された部隊は「中日装甲兵全史1938-1945」では第5軍騎兵団の摩托车(オートバイ)1個連、戦車防御砲2門、騎兵1個連、工兵団、戦車防御砲営(4個連37mm砲16門)があったとされます。
 同書によると恐らく後に装甲車4輌も配属され、代わりに戦防砲営のうち半分の2個連が別の師に回され、また更に当初新編第22師に配属されていた戦車2個連の増強を受けているように読めます。
 この戦車2個連は第5軍直轄の装甲兵第1団第3営第10連のルノーZB戦車9輌、第2営第6連のCV35機銃戦車7輌です。
 4月末頃には装甲兵第1団第3連のT-26軽戦車6輌とCV35機銃戦車5輌が投入されますが、このT-26は昆明からラシオに分解輸送され組み立てられた10輌の一部でした。
 作戦中のT-26の損失は10乃至11輌なので、他の4~5輌も後に投入されたか撤退時に放棄されて失われたことになりますね。



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:モールメンも港湾にしてみようかと……

 OCS『South Burma』(仮)ですが、今まで港湾扱いにしていなかったモールメン(とマルタバン)を港湾扱いにしてみようかと考えました。


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 モールメンが元々港湾都市であったことは分かっていたのですが、ゲーム上、港湾がない方が史実を良く再現できるかもと思って、今までは港湾扱いを避けていたのです。というのは、モールメンに港湾があると……。

・英連邦軍や日本軍が、(史実では記述の見られない)海上輸送でモールメンに部隊やSPを入れてしまえる
・日本軍はラングーン攻略まではタイから一般補給を引いていた(あるいはまったく補給を受けなかった)と思われるので、モールメンが港湾能力を持って一般補給源となるのは史実と異なる

 などなど……。


 ところがその後、ゲーム上は日本軍がモールメンとマルタバンを占領できれば、そこを補給源とできるということにしていました(そうでないと、タイ国境からエクステンダーで一般補給を引くなどということになり、めんどくさいので、簡略化のため)。

 そしてまた、今日になって、「モールメンを港湾扱いにする(そして一般補給源となる)が、両軍ともそこに海上輸送はできない」ということにすれば、懸念がなくなることに気付きました(^_^; そしてまた、そうすれば、ルールの分量を減らせるということにも(マルタバンを補給源にできるようにとか、上陸用舟艇への積載に関して特別ルールを書いていたのですが、それらを削除できると)。


 また、通常そういうことはないですが、モールメンとマルタバンの間のヘクスサイドに港湾があるかのようにして、両方に港湾がかかっているのだと扱うことにしようと思います。それで、両岸にとっての一般補給源になれると……。




 それから、ラングーン港についてもこれまでのテストプレイで悩んでいたことがありました。

 OCSの港湾は、1ヒットで80%、2ヒットで60%、3ヒットで40%、4ヒットで20%の港湾能力になることになっていて、ラングーン港もそのようにしていたのですが、テストプレイしていると0ヒットか4ヒットかのどちらかに振れてしまい、その中間点でぐらぐらしてくれないことが多いのです。で、0ヒットだと英連邦軍に有利すぎ、4ヒットだと日本軍に有利すぎる……

 そこで、0ヒットと4ヒットの間での差をそれほどなくして、しかし両軍にとってはそのヒット数が重要である……という辺りにしておきたい。今回、試しに適当な数値でもってそのような感じにしてみました。

OCSなどのシリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏が亡くなりました

 OCSなどのシリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏が亡くなったとアナウンスがありました。







BoardGameGeekのディーン・エスイグ氏に関するページ


 エスイグ氏は様々なシリーズゲームを作成されましたが、私にとってはなんといってもOCSのシリーズデザイナーであり、またゲームデザイナーでした(↓で、『The Third Winter』までのデザイナー等をまとめてありました)。

OCSの各タイトルのデザイナーやデベロッパー等を一覧にしてみました (2020/08/16)



 私は中学生、大学生の時にいくらかヘクスゲームをプレイしていましたけども、「ドハマリ」と言えるほど何かのゲームにハマっていたわけではありませんでした。

 が、30代の頃に『激闘! マンシュタイン軍集団』にハマり、ウォーゲーム業界に出戻り。でも「ドハマリ」とまでは言えなかったのだろうと思います。


 その後、経緯をまったく覚えていませんが、OCS『The Blitzkrieg Legend』(2012年)の和訳をやることになり(OCSは憧れのゲームではありました)、同ゲームのプレイもいくらか始めていましたが、まだまだその頃は手探りでした。

 転機は、ワニミさんと出会って、ワニミさんちでOCS『Tunisia』を練習プレイさせてもらった時のことでした。ゾクゾクするほどの面白さを感じ、当時すでに売り切れであった『Tunisia』を手に入れるため、セカイモン(eBay)で中古のものを注文。

 ↓その頃のプレイ時の写真がこちらなどにあります。

『TUNISIA』キャンペーンの最初の5ターン (2014/02/02)



 OCSに「ドハマリ」した瞬間でした。


 その後、ワニミさんとは8年くらいにわたってひたすらOCSのみをプレイし続け……。ワニミさんは2022年10月に亡くなられましたが、今でもOCSは私にとってはとにかく面白く、「OCSであれば、どんなシチュエーションであっても必ず面白い」のかも?とまで思ったり。


 エスイグ氏は私にとっては最初から「神様」みたいな人でしたから、「ワニミさんが生きておられたらなぁ……」と今でも時々思うのとはまた全然違うと思うのですけども、こんなにも「ドハマリ」できるものを与えて下さった、恩人というか、ありがたい方というか……。


 エスイグ氏は、チャールズ&ロバーツ賞において、(以前数えたところによると)最も多く賞を獲得しているデザイナーであったと思います。エスイグ氏が賞をもらったゲームはOCSが最も多く、OCS作品だけを取り出すと『Enemy at the Gates』、『Tunisia』、『DAK』、『Sicily』、『Case Blue』となります(その後チャールズ&ロバーツ賞自体が休止したので受賞もなくなりましたが、賞が継続していたら他の継続作品も受賞し続けたのではないでしょうか)。


 『Crimea』で20作目となっているうちの12作目の『The Blitzkrieg Legend』でOCSを始めたというのは、「もっと早く始めてられればなぁ……」とは思うものの、まあそこらへんはしょうがない。それよりは、現在作ろうとしているOCS『South Burma』(仮)の作業をまた続けて(うまくいけば良いのですが……)、可能ならばOCS『Leyte』とかも作ろうとしてみて、エスイグ氏の遺産を拡張していければ……。


 BCSやOCSは(他のシリーズは良く知らないですが)、様々なデザイナーによってこれからも多くの新作が出版される予定になっていますから、まだ長くにわたって、エスイグ氏のシリーズゲームが出版され続けるはずです。


 ありがとうございました。多くの人達と同様に、私はあなたに多くのものを与えてもらいました。

OCS『DAK-II』で、英連邦軍が諸兵科連合効果を使用できないようにするハウスルール案まとめ

 以前いくらか、OCS『DAK-II』で、英連邦軍が諸兵科連合効果を使用できないようにするハウスルール案について書いていたりしてました。

 で、ちょっと『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』という、北アフリカ戦の英連邦軍が学習していく過程を書いた本を再び読み進めていくことにしたら、そこらへんに関係する記述が出てきたので、ハウスルール案をまとめておこうと思います。



 まず、↓ということがありまして……。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)



 で、「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」において使用するハウスルール案として↓のようなのを出していました。
OCS『DAK-II』「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」3回目をハウスルール付きで開始しました (2021/10/21)から)

・(セットアップを除き)英連邦軍は各フェイズ終了時に、兵科マークが歩兵、機甲の2種類の異なる兵科ユニットを一緒にスタックさせておくことはできない(ゆえに、一緒に防御することもできない)。
・歩兵と機甲は、同じ攻撃に参加できない。
・砲兵ユニットや航空ユニットによってDGになった敵ユニットに対して、陸上ユニットは攻撃できない。
 ただし、独自の砲爆撃力を持つ支援グループ(歩兵)や旅団グループ(歩兵や機甲)等の、砲兵以外の砲爆撃によってDGになった敵ユニットに対しては、陸上ユニットは攻撃できる。
・これらのルールは、史実でモントゴメリーが就任したターンに廃止される。
【理由は北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)の辺りから】

・ゴットとキャンベルの能力を3から4に変更にする(つまり1悪くする)。
【オコーナーは優秀な指揮官であると思われ、3のままでいいと思うのですが、ゴットとキャンベルは戦術的には優秀とは言えない単なる勇猛な指揮官に過ぎないと考えた方がいいと思うので】

・英連邦軍のセットアップのSPの量を半分にする(端数切り上げ)。
【元のままでは、SPが有り余って困るほどでした】

・シナリオ7.5のメルサ・ブレガ周辺の英連邦軍の自由配置ユニットは、以下のように処理する。
1.塩沼には置けない。
2.移動モードでDGである。
【史実ではメルサ・ブレガ周辺の英連邦軍はシナリオが始まってすぐにダメージを負って撤退したのですが、シナリオの指定のままでは数ターンにわたってその周辺で粘れてしまいますし、枢軸軍はそこに手を出すことができません】

・イギリス第2機甲師団の訓練度は(「Training #2」ではなく)「Green」で7.5を開始する。つまり、第2ターン(4月1日ターン)には「Training #1」となる。
【どの本を見ても当時の第2機甲師団の訓練度はひどいものでしたが、ゲーム上では第2ターンには訓練が満了して強力な部隊になってしまいます】



 ↑ではゴットとキャンベルの能力値を4としていますが、↓では5が良いのではないかとしていて、今私は5が良いかと思います(また、↓の指揮官ハウスルールは使用しないとおかしなことになると思っています)。

OCS『DAK-II』の指揮官死傷チェックの改造ハウスルール案 (2021/06/13)



 また、イタリア軍の諸兵科連合効果も少し良くなかった面があるらしいので、イタリア軍への改造ハウスルール案も考えていました。

北アフリカ戦で英連邦軍は諸兵科連合できない(しない)……でもじゃあ、イタリア軍は諸兵科連合できるのか?(付:OCS『DAK-II』改造ハウスルール案) (2021/11/02)







 で、ここ以降で、『Fighting Rommel』で新たに見つけた記述とハウスルール案を追記していこうと思います。

 タッカーはバトルアクスの失敗の原因として、訓練不足、不十分な航空支援、装甲予備兵力の不足、歩兵の要塞意識の存在という4点を指摘しました。タッカーが、空軍はCAS【Close Air Support:近接航空支援】にさらに注意を払わなければならないと指摘したのも一理あります。シュトゥーカの急降下爆撃機が連合軍の野砲を無力化するのに効果的であったという彼の主張は正しいでしょう。英国の歴史家デビッド・フレンチは、RAF【イギリス空軍】はCASに関心がなかったと書いています。地上部隊に近接航空支援を提供することは、航空機の損失という点でコストがかかりすぎると考えていたからです。さらに、RAFは独立した航空機関として自らの存在を正当化するために、戦略爆撃という選択肢を全面的に採用していました。そのためRAFは、高速で移動する戦闘中にCASを提供するのに適した航空機も訓練されたパイロットも持っていませんでした。対照的に、ドイツ空軍は1939年までに、枢軸国地上軍にCASを提供するためのドクトリンと兵器(特にスツーカ)を持っていました。
『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P29

 ドイツ空軍は別部門でしたが、CASに重点を置いていました。イギリス空軍が地上部隊から航空支援の要請を受けてから3時間かかったのに対し、ドイツ空軍はDAKから要請を受けてから30分後に目標上空に現れました。このことは、アーサー・カニンガム空軍元帥の作戦シナリオの評価にも表れています。彼は、砂漠における空軍の独立した役割を視野に入れて軍事情勢を見ていました。カニンガムが求めていたのは、空軍の独立した戦略的役割でした。
『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P57



 この記述からすると、『DAK-II』の英連邦軍の爆撃機は、戦術爆撃機であっても対施設砲爆撃しかできない、ということでも良いのかもしれません。あるいは、通常の砲爆撃任務を行うことができるユニットや任務数をかなり制限するとか……?





OCS『Beyond the Rhine』のマップ上にBCS『Arracourt』のマップを重ねてみました

 アメリカ軍戦車が活躍して、アメリカ人のミリタリーファンにとっては非常に有名らしい「アラクールの戦い」について私は何も分かってないので(多分、日本ではそれほど有名ではないのでは……一応、ドイツ軍の装甲旅団というのがうまくいかなかった話だというくらいの知識です)、ふと思いつきまして、OCS『Beyond the Rhine』のマップ上にBCS『Arracourt』のマップを重ねてみました。



 「アラクールって、ルール工業地帯の周辺あたりなのかなぁ~」と思って探していたら、全然違いました(>o<)


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 ↑が『Beyond the Rhine』のフルマップ4枚全景で、その南の方に赤い□で囲んだ部分がBCS『Arracourt』の範囲です。
(両作品とも北が上ですが、『Arracourt』のマップを少し傾けた方がより地形に一致しそうだったので傾けました)




 ↓BCS『Arracourt』のマップ周辺をより拡大したもの。

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 メッツ(Metz)、ナンシー(Nancy)などが近くにあります。

 見ていて気付いたのが、プランサンセット5号のOCS『Beyond the Rhine』の記事に書いていた、日系2世アメリカ軍部隊の第442連隊戦闘団が苦闘した「ブリュイエール(ブリエア)」や「失われた大隊(Lost Battalion)救出作戦」の場所が近いのではないかということで、確認してみたら前者がB、後者がLの場所でした。おおおお……。

 前者が1944年10月20日、後者が10月30日の話で、一方で「アラクールの戦い」は9月18日頃からの話らしいので、それより前の話だということになります。





 ↓BCS『Arracourt』のマップ部分をアップにしたもの。

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 BCS『Arracourt』マップの南側にリュネヴィル(Luneville)の街がありますが、そこしかOCS『Beyond the Rhine』に地名が記されている場所がなかったので苦労しました(>_<) BCS『Arracourt』のマップ中央より少し上あたりにヘクスが赤く囲まれているのがアラクールの小村で、その北の方にシャトー・サラン(Château-Salins)の町、またマップ北東端にデューズ(Dieuze)という村があります。

 OCS『Beyond the Rhine』は1ヘクス3.5マイル(約5.6km)で1ターン3.5日ですが、BCS『Arracourt』は1ヘクス1kmで1ターン1日です(9月18日ターンから30日ターンまで)。




 手持ちの資料で、アラクールの戦い周辺の事情についてある程度記述のあるものを探してみた(アラクールの戦いだけを扱った本は当然ながら持っていないので(^_^;)ところ、『Atlas of the European Campaign 1944-45』に1ページ弱ほど、周辺事情について書かれていました。

 で、それを和訳してみつつ、数ページある関係地図に目を通していて、気付いたのが……。

「あれ、アラクールの戦いって、OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンゲームが始まって割とすぐの戦いじゃないか!?」

 ということ(気付くの遅すぎ……?)。


 OCS『Beyond the Rhine』は1944年9月5日ターン(メッツの攻略戦が始まった日)から始まります。しかも……。

 9月5日ターン(メッツ攻略戦開始)
 9月8日ターン(ナンシー周辺へのアメリカ軍攻勢)
 9月12日ターン(アメリカ軍のナンシー包囲への動きに対して、ヒトラーがマントイフェルに反撃を命じる)
 9月15日ターン(マーケット・ガーデン作戦開始/アラクールの戦い開始)
 9月19日ターン(アラクール周辺でのドイツ軍装甲旅団による反撃、そして失敗)
 9月22日ターン(マーケットガーデン作戦中止/米軍はアラクール周辺で防御しやすいラインまで撤退)
 9月26日ターン
 9月29日ターン(アラクール周辺の戦いが終わる)



 って、完全にマーケット・ガーデン作戦と同時期の戦いだったのですね……! 私はもっともっと後の、もしかしてバルジの戦いより後の話だと思ってました(^_^;(だって、アメリカ軍戦車部隊がパンター部隊に対して大活躍っていうし……)


 でもそうすると、OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーン開始すぐの目玉として、北方ではマーケット・ガーデン作戦、南方ではメッツ攻略戦とアラクール周辺の戦いというのが、完全にあったわけですね(アメリカ人大歓喜!?)。私はメッツ攻略戦というのは一応ある程度理解していたものの、アラクールの戦いというのはまったく理解していませんでした……。


 しかも、以前少しやったOCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンで、私はまさにメッツやナンシー周辺のパットン第3軍を指揮していたという……(そして、ナンシー周辺で戦っていたのですが、ライン川近くへ米軍戦車部隊を突進させてドイツ軍装甲旅団に壊滅させられかけていたのです……バキッ!!☆/(x_x))。

 例えば……
OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第2ターン後攻 (2019/05/04)
OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第4ターン先攻連合軍 (2019/06/23)

 当時のキャンペーン序盤プレイへのリンク集は↓こちら。
OCS『Beyond the Rhine』6.1 キャンペーンゲーム





で、OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンのセットアップ画像に、『Atlas of the European Campaign 1944-45』のマップ画像による戦線や地名を記入したものを作ってみました。

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 9/5?が実線、9/15が少し破線(突破されてて戦線に隙間あり)、9/20がかなり破線(同前)、9/25は戦線が下げられた状態で濃紺でむっちゃ破線になってます。


マップ82:ナンシー周辺での第12軍団橋頭堡 1944年9月

 【麾下のアメリカ第3軍の】北側のメッツ近郊での戦いに苦戦していたため、パットンは【第3軍麾下の南側の】第12軍団にナンシー近郊での渡河を試みるよう指示。9月10日から11日にかけて、米第35歩兵師団がナンシーの南でモーゼル川を越える足掛かりを得たため、独第15装甲擲弾兵師団が反撃。米第4機甲師団の戦闘司令部Bはバイヨン(Bayon:『Beyond the Rhine』のB25.09?)運河の浅瀬を発見。この地域のモーゼル川の流れは戦車を押し流すのに十分なほど浅く、戦闘司令部Bはすぐにこの橋頭堡から移動しました。9月11日夜、米第35師団隷下の第137歩兵連隊は戦闘司令部Bと合流し、橋頭堡から押し出し始めました。ナンシーの包囲を完成させるため第4機甲師団は9月13日早朝、米第80歩兵師団が以前に占領したデュールアール(Dieulouard:『Beyond the Rhine』の38.11? )橋頭堡で川を渡河。この橋頭堡はドイツ軍の激しい攻撃を受けていましたが、戦闘司令部Aはドイツ軍の攻撃を撃退し、ナンシーの北、シャトー・サラン(Château-Salins:BCS『Arracourt』マップ北端)方面への進攻を開始しました。

 米第4機甲師団によるナンシー包囲の可能性はベルリンで大きな警戒を引き起こし、ヒトラーは独第5装甲軍にパットンの先鋒を粉砕するよう命令。これは、ヒトラーの計画したヴォージュ県(ナンシー南部の、エピナル(Epinal)を中心とする県)への装甲攻勢のために蓄積されていたリソースを利用したものでした。この攻勢に投入されるはずだった2個旅団は、すでにこれまでに米第3軍に対する局地的な反撃で浪費されていました。第108装甲旅団は9月8日のメイリー(Mairy:場所特定できず)近郊での第90師団との戦闘で、第112装甲旅団は9月13日、ドンペール(Dompaire:EpinalとVittelの中間地点。20.11辺り)近郊でフランス軍第2機甲師団との戦闘で。9月18日、第5装甲軍はリュネヴィル(Luneville)近郊で第4機甲師団の側面を攻撃するために3個装甲旅団の一部を派遣。第111装甲旅団はその市街への進路中で米第42騎兵中隊と衝突し、他の2個旅団が目標に到達できなかったため、攻撃は頓挫。

 9月19日、第113装甲旅団はアラクール周辺で第4機甲師団戦闘司令部Aへの攻撃を開始しましたが、この攻撃は大きな損害を出して撃退されました。翌日も戦闘は続き、第111装甲旅団は一連の激しい戦車戦に参加。アラクール周辺の戦闘司令部A部隊を制圧することができず、9月22日にはデューズ(Dieuze:BCS『Arracourt』マップの北東端)方面に攻撃の焦点を移しましたが、結果は芳しくありませんでした。これらのバラバラな攻撃はこの2個装甲旅団を焼き尽くし、攻撃が再開されたのは9月24日のことで、独第11装甲師団が南東から、独第559歩兵師団が北からアラクールを攻撃しました。

 9月23日、ブラッドレーはパットンに、補給の問題から米第3軍は守勢に転じざるを得ないので、これ以上ザール方面(独仏国境地帯)への進攻を中止するよう指示。その結果、9月25日、第4機甲師団戦闘司令部Aはアラクールに近い、より防御しやすいラインまで撤退。ドイツ軍の攻撃はアラクール周辺に沿って数日間続きました。9月29日、アラクールの東の丘陵地帯で戦闘が激化する中、G軍集団の新司令官ヘルマン・バルク大将はバート・クロイツナッハ(Bad Kreuznach)の司令部にフォン・ルントシュテット西方総軍司令官を訪問。バルクはルントシュテットに、少なくとも140両の戦車とより多くの砲兵の増援を受けなければ、ロレーヌ地方(メッツ、ナンシー、エピナルなどを含む地方)でパットンに対する攻勢行動を継続することは不可能であると告げました。フォン・ルントシュテットは、いかなる増援も問題外であると答え、ヒトラーの目的を達成することなくロレーヌ地方の装甲攻勢が終了することを黙認。2300時、バルクは第5装甲軍に攻撃中止を通達。ボロボロになった第11装甲師団は戦線から離脱し、防御陣地を確保。

 その結果、アラクールの戦闘は膠着状態に終わり、ヒトラーのヴォージュへの装甲攻勢のために蓄えられたリソースの大半は、パットン率いるアメリカ第3軍に対するバラバラの攻撃のために浪費されてしまったのです。
『Atlas of the European Campaign 1944-45』P180





OCS『Crimea』のシナリオ3「鉄十字勲章」について

 ミドルアース大阪で、古角さんとOCS『Crimea』のシナリオ3「鉄十字勲章」をプレイしてみることができました。

 クリミア戦の後半に入り、1943年9月から1944年1月にかけて(全36ターン)、ソ連軍の攻勢に対して枢軸軍はクバン橋頭堡から撤退するも、クリミア半島は保持しようとします。







 結論から書きますと、このシナリオもまた素晴らしく面白そうな出来になってました。

 しかも、OCS『The Third Winter』などの「オストフロントセット」*をプレイする上で重要になってくる、ソ連軍の正面軍司令部の「攻勢態勢」「再編態勢」を非常に分かりやすく、楽に習得できる「練習シナリオ」にもなっていると思いました。そういう意味で、『The Third Winter』などへのステップアップのためにも非常に有用でしょう。

*「オストフロントセット」:アントニー・バーケット氏デザインによる、OCSの中でも1943年9月~1944年4月にかけての東部戦線を再現するゲームセット。ウクライナ戦区を扱う『The Third Winter』(2021年)、クリミア戦区を扱う『Crimea』(2023年)、中央軍集団戦区を扱う『The Forgotten Battles』(2024年プレオーダー開始)、北方軍集団戦区を扱う『The Hero City』(デベロップ中)の4作で、一部、または全部を連結してプレイ可能となります(『Crimea』以外の3作はフルマップ4枚の作品です)。


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 このシナリオ3「鉄十字勲章」で最も重要なのは、ソ連軍の「上陸拠点(Beachhead)マーカー」の再使用サイクルだと思われます。

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 シナリオ開始時に「Ready」(使用可能)となっており、第1ターンにソ連軍プレイヤーは枢軸軍前線の後方に上陸作戦を行い、そのヘクスに置いてその機能「1SP分の港湾として使用できる(補給源になれる)」「10ヘクス以内の正面軍司令部の下(あるいは周囲)にあるSPを2倍のコストで上陸拠点から受給できる」を使用すべきなのでしょう。


 恐らく↓の画像の左端に上陸拠点マーカーを置いてあるあたりとか(史実ではそことかと、タマン半島の北側にも上陸作戦を行っていたようです)。

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 で、上陸拠点マーカーはソ連軍プレイヤーの任意で取り除けるので、数ターンで取り除き、再使用のための準備期間9ターンのサイクルに乗せます。このシナリオは全36ターンなので、例えば、

 第1ターンから2ターン使用、9ターン準備期間
 第12ターンから2ターン使用、9ターン準備期間
 第23ターンから2ターン使用、9ターン準備期間
 第34ターンから2ターン使用

 と、4回、枢軸軍前線の後方に上陸作戦を行える可能性が理論上ありますが、まあ毎回「2ターン使用」はさすがに短すぎるので、上陸作戦は3回が現実的でしょうか


 また、↑で2回目の上陸作戦が可能になる第11~14ターンあたりにダイス目チェックで、ウクライナに第4ウクライナ正面軍が「攻勢態勢」で到着します。その最初のターンの到着場所と戦力は↓で、2ターン目にも同じ程度が来ます(ただし2ターン目はSPはなし)。

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 そして第4ウクライナ正面軍は、到着の2ターン後(3ターン目)に戦車部隊が退出し、さらに「再編態勢」にさせられて攻勢するにはものすごく不向きな状態(攻撃時のアクションレーティング-2とか)になって、SPは基本的に来ません。

 ↑この第4ウクライナ正面軍が攻勢ができる2ターンとほとんど同時に、ケルチ半島方面で上陸作戦を行うことが重要だろうと思われます(古角さん説。私は最初、上陸作戦は4ターン目や5ターン目まで待った方がいいのではないかという説を出したのですが、最終的に古角さん説に敗北しました(^_^;)。



 第4ウクライナ正面軍ですが、ソ連軍プレイヤーが補充のダイス目で11か12を出すと活性化されて1ターンだけ「攻勢態勢」になり、SPとユニットが補充されるので、上記の2ターンが終わった後も枢軸軍プレイヤーは気を抜くわけにはいきません

 そしてソ連軍プレイヤーはその後も、1回程度は後方に上陸作戦を行えますから、ぜひとも最後の上陸作戦の機会まではプレイを継続したいでしょう(^^)


 また、ソ連軍の正面軍は「攻勢態勢」と「再編態勢」(攻勢には向かないが、防御時にはアクションレーティング+1とか、防御用の戦闘補給がノーコストとか、防御がむっちゃ楽)を数ターンおきに繰り返すことになるのですが、「再編態勢」の時にはできることが少ないのでプレイ感覚はかなり楽になるでしょう(再編態勢かどうかは枢軸軍プレイヤーにも明らかにされるので、枢軸軍プレイヤーもひと息つけます)。シナリオ開始時からいるのは「沿岸正面軍(Coast Front)」だけで、あとは前述の第4ウクライナ正面軍が途中から入ってくるだけです。



 枢軸軍プレイヤーは、セットアップ時点ではそのクバン橋頭堡の前線に陣地や川があり、その線を保持したくなりましたが、史実を見ると数ターンでクバン橋頭堡(タマン半島)を放棄してケルチ半島側へ引っ込んだようなので、できるだけ整然と、すぐに撤退すべきなのだと思われました。

 勝利条件的には、枢軸軍はフェオドシヤ(ケルチ半島の根元南岸)を保持できていればよく、ケルチ半島全部を取られても勝利できますから、ケルチ半島全域も無理に守る必要はありません。

 一方、ソ連軍はシナリオ終了時に「セヴァストポリから10ヘクス以内に、一般補給下のソ連軍攻撃可能ユニットが1ユニットでも存在」すれば勝利できます。ですから、クリミア半島内への入り口(ウクライナ方面と繋がる2箇所、ケルチ半島の根元)をなんとかこじ開けて、その状態を維持したいところです。枢軸軍はそれをなんとかして阻止せねばならないわけです。




 このシナリオは恐らく、OCS『Crimea』の中で使用、習熟しなければならないルールが最も多く、期間も最長なのですが、もしかしたら最も面白そうな出来なのではないかと思いました。『Crimea』はそれぞれのシナリオが非常によく出来ていて面白そうで、入門用シナリオも複数あるなど、単純に「OCSでクリミア戦域の全体を再現してみました」というものを遙かに超えた傑作ゲームになっているのではないかと思い始めています(^^)



エスイグ作品とシモニッチ作品との大きな傾向性の違い?

 昨日のミドルアース大阪で、エスイグ作品(というかOCS)とシモニッチ作品との大きな傾向性の違いについて話が出て、ある程度「なるほど……?」と思いました。


 私はシモニッチ作品を、複数持っていたこともあったのですが、プレイしたことは残念ながらほとんどありません(『The Legend Begins』を少し、一度だけ?)。でも興味を持っていないわけではなく、楽しめそうならやってみたい気持ちは持っています(特に『Ukraine 43' Second Edition』とか『North Africa 41'』あたりは気になってます)


 エスイグ作品とシモニッチ作品の「大きな違い」ということで話が出たのは、シモニッチ作品は「ルール(の精緻度とか?)がすごい」ということで、少し見方を変えて言うと「ルールの規定による度合いが高い(あるいは非常に高め)。細かい違いをルールを増やして(変えて)再現する」であるとの説(仮説)でした。

 それに比べると、エスイグ作品は「ルール上によりも、カウンター上に書いてある度合いが高い」? そしてルールは、シリーズルールで一般的な部分のみを規定する(そもそもエスイグ氏は主にシリーズルールを作る人で、個別のゲームのルールは別のデザイナーが特別ルールとしてくっつけるわけです)。



 そういう話が出て、隣のテーブルに広げられていた『North Africa 41'』のユニットを見に行ってOCSと比べて「なるほど」と思ったのは、

・『North Africa 41'』では、歩兵の移動力は3。戦車部隊は5、機甲偵察で6とか。しかし、道路では歩兵は移動力+5(で8)になるのに対し、戦車部隊は4倍で20になったりする。

・OCSでは、歩兵の移動力は3、移動モードでは5とか。戦車部隊は8、移動モードで16とかって、カウンターの表と裏を見ると書いてある。


 そして戦闘においても、シモニッチ作品はルール上の規定で複数の特別な強さを表す傾向性がある?(本当にそうなのかどうか私はちゃんと見ていません(^_^;)のに対して、OCS(やBCS)なんかはアクションレーティングという数値が全ユニット上に書かれてそれで強さのほとんどが規定されている(他にも機甲・機械化ユニットは平地で攻撃力2倍とかもありますけど、効果はそれほどでかくはない)。



 そうすると、シモニッチ作品というのはテキスト(ルール)の組み合わせの妙とかに真髄があり、喩えて言うなら村上春樹作品みたいな?(全然違う?(^_^;) それに対してエスイグ作品というのはテキストの妙とかはあまりなくてもっと大ざっぱに見た目で「このユニットつえー!」という感情を引き起こす、喩えて言うならアメコミ作品みたいな?(私はアメコミ作品全然知らないですけど……)


 まあ、以上はまったく仮説に過ぎないので、「全然違う!」とかってツッコミと共に色々教えていただけるとありがたいです(^^)

OCS『Crimea』のシナリオ2「虎の尾を踏む」について

 ミドルアース大阪で、OCS『Crimea』のシナリオ2「虎の尾を踏む」をプレイしてみたので、このシナリオについて書いてみようと思います。









 史実では、ソ連軍はまずケルチ周辺に第一次上陸を行い、数日後にフェオドシヤ(ケルチ半島の根元南岸)に上陸。その戦域を守備していたフォン・シュポネック将軍は独断で撤退し、投獄されました。

ケルチ半島から独断撤退して投獄され、のちに処刑された伯爵ハンス・フォン・シュポネック中将について (2024/01/27)




 シナリオは、非常に良くできてるなと思いました。

 初期配置ではケルチ港の北東隣接ヘクスのコロンカ港のヘクスが空いており、ソ連軍が第1次上陸を仕掛けるには好都合です(港湾能力を使用して上陸してすぐに一般補給を引けるので。ただし、その港に海上輸送するためには、移動フェイズ中に敵ZOCがかからないようにしなければなりません)。


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 第1ターンの先攻・後攻に関しては、「枢軸軍プレイヤーがイニシアティブを持っており、先攻・後攻を選択できる」となっており、枢軸軍は先攻を取ってコロンカ港にユニットを入れることもできます。

 ところが、シナリオ特別ルールで「ソ連軍プレイヤーはシナリオ中に1回、「大攻勢」を宣言でき、宣言したならば、枢軸軍のリアクションフェイズはスキップされ、次のターンのイニシアティブをソ連軍が獲得する(つまり、ダブルターンが確実にできる)」とされています。そうすると、枢軸軍プレイヤーとしては第1ターンで先攻を取ると、ソ連軍プレイヤーに「大攻勢」される可能性があるわけです(まあシナリオ中いつかはされるでしょうけども、可能な限りソ連軍に先攻を取らせた方が、枢軸軍にとって良いのは確かでしょう)。



 また、ソ連軍は『Crimea』独自の海軍輸送船舶(Naval Transport)というユニットを使用して上陸作戦を行うのですが……。

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 輸送船舶ユニットは、シナリオ開始時に6ポイント(6RE分)あります。が、第1ターンから第10ターンまでの毎ターン、ソ連軍プレイヤーは密かにダイスを1個振って、5か6が出たならば輸送船舶1ポイントを獲得します。そしてその存在は枢軸軍プレイヤーには秘密にされます。

 輸送船舶ユニットは上陸作戦に使用したら(このシナリオでは)使い捨てなのですが、賢明なソ連軍プレイヤーであれば最初の数ターンにいきなり最初の6ポイント分を使い切ってしまうのではなく、2ポイント分とかを使わずに置いておくと、枢軸軍プレイヤーとしては「まだ上陸作戦がどこかに行われるのではないか」と考えざるを得ません。そして、輸送船舶ユニットは第10ターンまでに、新たに3ポイント程度は獲得されている可能性があるわけです。


 また、OCSで上陸用舟艇による「揚陸(ALT*)」を実行したことのある方なら、「揚陸自体でダイス目が悪ければ全滅もあるなど結構リスキーで、またSPを陸揚げできないなど、結構制限がキツイ」という印象があるのではないかと思います。ところが『Crimea』の輸送船舶ユニットによる揚陸は、最悪でもユニットの半分は上陸に成功し、またSPを陸揚げできる(輸送ユニットに積んだ状態でも)など、かなり制限が緩くなっています。

*:敵ユニットのいないヘクスへの上陸作戦。敵ユニットのいるヘクスへの上陸作戦は、海岸強襲(BA)という別のルールを使用します。



 さらにさらに。『Crimea』プレイノートの「ゲームプレイに関する考察」を読んでいると、こう書いてあります。

 ソ連軍側の上陸作戦【3.5a】の「脅威」は、実際の上陸と同じくらい厄介です。マップ上で、ドイツ軍プレイヤーの前で例えばクラスノペレコプスク(Krasnoperekopsk:F17.23)【クリミア半島とウクライナの間の地峡部にある村】に上陸作戦を行うために必要なヘクス数を仰々しく数えてみてください。そうすれば、枢軸軍は部隊をもっと広げて配置せざるを得ないでしょう。


 実際にクラスノペレコプスクへのソ連軍の上陸作戦が成功し、その周辺に対応できる枢軸軍部隊がいないとなると、クリミア半島の枢軸軍全体が補給切れでとんでもないことになる可能性があります。




 全体としてこのシナリオは、「(1941~42年の冬期反攻の一環として)ソ連軍側が、クリミア半島各地への上陸作戦をチラつかせながら、最大限の戦果を挙げようとする」のに対し、「枢軸軍側はなんとかしてそれに対処しようとする(が、地上戦力も空軍力もSPも乏しい)」というものになっていると思いました。そういうシナリオは、OCS全体でもかつて見たことがないようなものなんじゃないでしょうか。

 20ターンというのは結構長いですし、当時行われていたセヴァストポリ攻略(と守備)のためのユニットも出てきますから全体のユニット数はまあまああるのですが、セヴァストポリ周辺のユニットを動かしてしまうのは両軍にとってリスキーだと思います(そこから戦力を抜くと、やられてVPを献上することになります)し、また各地にある港湾に置かれている枢軸軍ユニットは守備隊として実質上動かせないなど、実際に動かせるユニットはだいぶ少ないです。そしてまた、両軍とも1ターンに来るSPが1SP程度しかなく、華々しいことをやるのは難しいですから、ターン自体は割とスイスイ進むと思います。


 冬期反攻の一環として、ソ連軍側はクリミア半島の各地への上陸作戦を自由に考え、そして枢軸軍側はそれを何とかして阻害しようとするという構図は、なかなかに魅力的なのではないでしょうか。かなりプレイして面白そうなシナリオだと思いました。


OCSのプレイ中にやり直しを許容するプレイ流儀について

 facebook上の「Operational Combat Series」グループで、「OCSのプレイ中にやり直しを許容するプレイ流儀について」の話題(スレッド)が立っていて、私も大いに賛成なのでそこらへんについてちょっと書いてみます。


 最初の投稿は、例えば「移動のやり直しを許容する」とか「補給のミスの修正を許容する」、「再建、脱出、移動、補給チェックなどのタイミングが巻き戻されたりしてやり直されるのを許容する」というようなプレイ流儀で自分達はやっているのですが、他にもそのようなやり方をしている人(グループ)はいますか? というようなものでした。


 私は↓のように返信しました。

 あなた達の流儀に、私は全面的に賛成します!

 私は日本で友人達とOCSを頻繁にプレイしていますが、私達の仲間の間では、「無限にやりなおしをして良い」という考え方でプレイしています。

 まあ、大きく勝っている側が自分に有利な方にやり直しをするのは心証が良くないですが、どちらが勝っているか分からない状況なら、お互いに「どんどんやり直しをしましょう」と言い合っています。

 OCSはかなり複雑で、そして不確実性が非常に高いゲームなので、やり直しを認めないプレイでは、私達はストレスで倒れてしまうでしょう! お互いがOCSを楽しむために、やり直しを認めることは大変良いことだと思います。



 特に、多分日本人は謙虚になりがちだと思うので、私は積極的に「尼崎会では“無限やりなおしOK”ですから!」と何度も何度も言って、「あっ、しまった」と言ったプレイヤーがいたら、「おー、それ、やり直しして下さい。尼崎会では“無限やりなおしOK”ですから!」と言い、「いや、いいです……」と固辞されると、「いや、ぜひやり直して下さい。あなたがやり直ししないと、私もやり直しできない雰囲気になります。お互い幸せになりましょうよ」と言ったこともありました(^_^;

(もちろんこれは、グループやプレイヤーによっては嫌いなやり方かもしれませんし、皆がどう思うかは確認する必要があるでしょう)



 ある方の書き込みで、「素晴らしい!」と思ったのは、↓のような文章でした。

 私達の目標は、OCSのプレイを向上させ、素晴らしい体験をすることであり、「勝つ」ことではありません。私たちはいつも、ミスを修正することを認めています。また、私たちは完了までに1、2年かかるモンスターゲーム(GB2/CB)をプレイする傾向があります。些細な問題にこだわっていても仕方ありません。



 私はカードゲーム(遊戯王とか)でも、いわゆる「エンジョイ勢」(楽しむことを優先し、勝率にはそれほどこだわらない人達)であり、「ガチ勢」(勝率をとことん追及する人達)ではありませんでした。カードゲームでも、私は対戦相手に無限にやり直しOKという姿勢でやってました(自分はそれほどやり直さずとも)。

 ウォーゲームでも、ガチ勝負こそが面白いゲームもあり、プレイヤーもいて、それは全然それでいいと思います。ただ恐らく、OCSは「ガチ勝負」にはかなり向かないシステムであり、それよりは(割と起こりがちな)ミスの修正や、後から判明した決断ミスをやり直すことを大いに許容することによってこそ、お互いに楽しい時間を過ごすことのできるシリーズゲームなのではないかと思っています。

OCS『Luzon: Race for Bataan』の予想外に良かったこと3つ

 OCS『Luzon: Race for Bataan』ですが、OCSのVASSALチームの一人であるHerman Wu氏から、製品版のVASSALモジュールが送られてきました(今まではテストプレイ版でした)。

 モジュールの一般公開は製品版の出版と同時に行われるので、まだまだなんですが、ミスとかバグとかあったら教えて欲しいということで、早速1つ気付いたので報告したらすぐ修正されてまた送られてきました。機会があればチェック込みでプレイできればとも思うので、プレイ(あるいはインスト希望でも!)してくれる方募集です。




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 良く分かってなかったのですが、ヘクス径が大きいので、(元々クォーターマップ2枚=ハーフマップ1枚分の広さなのですが)フルマップ1枚とかの大きさで提供されるのかもです。





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 テストプレイ版ではエル・フレイル島ルバング島(小野田少尉で有名)が無視されていたのですが、ちゃんと描かれててありがたいです(>_<)




 あと、これまでfacebook上のOCSグループの書き込みを見ていたりして、OCSルソンがウケている点が予想外だったりしたことが3点ほどあったので、そこらへん書いてみようと思います。


 元々は、日本人ウケが良いように、日本軍が勝っている戦いをテーマにするという狙いがありまして、アメリカ軍は負ける側なのでそちらにはウケが良くないかなと思っていたんですが……。



1.OCSの初の「Pacific Theater(太平洋戦域)」ゲームである

 ということが結構、興奮を引き起こしていたようです。日本人ならば、「いや、太平洋戦争ものとしてはOCS『Burma(II)』があるじゃん」と思うところですが、ビルマ戦というのはアメリカ人にとっては「China Burma India (CBI) Theater(中国・ビルマ・インド戦域)」というくくりに入り、全然別のもののようです。

 「1945年のルソン島の戦いもOCSゲーム化できないか」という書き込みも多く見まして、一応戦史を調べてみたのですが、戦線の動きがかなりゆっくりとしていて、どうも作ってみようという気になりませんでした。というのは、OCSは機動戦向けだという思いがあったからなんですが、OCS『Crimea』でセヴァストポリ攻略戦シナリオをやってみると、機動戦でなくても結構面白いなと思ったので、実はありなのかもしれませんバキッ!!☆/(x_x)

 尤も、史実を詳しく知らないので、どうなのか分かりませんが……。

 太平洋戦域のOCSゲームとしては他に、レイテ島の戦いはありじゃなかろうかとは思ってます。







2.攻撃側奇襲が非常に起こりやすいのが面白かった

 というテストプレイヤーの方の意見を見まして、「あぁ、なるほど……」と思いました。


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 OCSルソンは、日本軍のアクションレーティングが4が多く、フィリピン軍(青いユニット)のアクションレーティングは0が多くなっています。そうすると、2D6の奇襲チェックは+4修正で、戦闘では6以上の目、オーバーランでは5以上の目で攻撃側奇襲が成立し、さらにダイスを1個振った目の分、攻撃側有利な方向に戦闘比がコラムシフトします。

 これはかなりの確率でして、私はOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』が一番攻撃側奇襲が起こりやすいOCSゲームだと思っていたのですが、もしかしたらOCSルソンはそれを超えているかもしれません(特に序盤は)。

 私は特にそれを狙ったわけではなく、史実を調べた結果としてこれくらいのレーティングかな……と思っていただけなので、そこに面白さがあるという視点が抜けてました(^_^;




3.最終ターンの最終フェイズの最後の一振りまで勝敗が分からない

 ……という風に、OCS班長のチップ・サルツマン氏がテストプレイ時のことを何度も書いてまして、私は「いや、それはそういうプレイが1回あったかもしれないけど、毎回そうなるわけはないし、何度もそう書くのは誤解を与えるのでは……(..;)」とずっと怯えておりました。

 ところがその後、知り合いとOCSルソンをプレイしていてまさに、「最終ターンの最終フェイズ(突破フェイズ)の最後の一振りまで勝敗が分からない」という状況になりまして、「あ~、なるほど」と思いました。


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 OCSルソンの日本軍は、バターン半島の「Japanese Victory Line」を超えてユニットを進入させれば勝利、「US-Philipino Victory Line」を超えられなければ敗北します(その中間領域まで入れれば引き分け)。

 OCSは他のゲームよりも選択肢が非常に広くて不確実性が高く、防御側が「これで大丈夫じゃないか……」と思った防御線が破られることが頻発します。逆に言えば、攻撃側は「何とかあそこまでユニットを突っ込ませれば勝ち」という状況では、結構そのための案を考えることが可能です。

 まあ、ややゲーム的ではあるんですが(^_^;、そこらへん考慮に入れると、確かに「最終ターンの最終フェイズの最後の一振りまで勝敗が分からない」という風になる可能性は結構あるのかなぁ、と思いました。もちろん、そうならないこともたくさんあるわけですけども、勝利条件の設定がたまたま、そういう最後まで勝負がもつれこみやすいものになっていたと言えるとは思え、これも非常に予想外のことでした。


 ちなみに,最初に考えた勝利条件は、「バターン半島に入れた米比軍ユニットの数」によって決まるというものだったのですが、この勝利条件だと、日本軍プレイヤーはバターン半島に入ることなど考えずにひたすら米比軍ユニットを壊滅させることに奔走するので、早々にその勝利条件はお蔵入りしました(^_^;



 OCS『Luzon: Race for Bataan』はそのデザイン過程でも、2回ほど設定をガラッと変更したとかってことはありましたが、それ以外は微調整のみですっとうまくいった、非常に運良く安産であったゲームじゃないかと思ってます。

 一方、今OCS『South Burma』(仮)は、テストプレイが始められるまででもものすごい苦労して、テストプレイが始まってからも優に100以上の改訂点が出る苦労さ加減で、大変です……(>_<)

 一応、死ぬまでにOCS『South Burma』(仮)が作れればとは思っていて、いつ死ぬか分かりませんから、急がなければと思っております……(と言いつつ、ちょっと今バタイユ第3版のサマリー作りをやろうとしてまして、その後でまた再開ということで……)。

OCS『Crimea』のミニシナリオ2「シュトルファング(チョウザメ捕獲)作戦」について

 OCS『Crimea』のミニシナリオ2「シュトルファング(チョウザメ捕獲)作戦」についてです。

 1942年6月5日ターンから7月5日ターンの10ターン。史実でフォン・マンシュタインがセヴァストポリ要塞攻略に成功した戦いです。












 ↓初期配置。

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 ↑だけが実質的に使用するプレイエリアです。このプレイエリア外にも航空基地が複数置かれていて使用しますが、プレイエリアと航空基地との間の距離をメモっておいたりして抽象的に、最低限のスペースだけ使用してプレイすることも容易だと思います。

 ユニット密度が若干高くてスタックが崩れがちかもなので、プレイエリアのみを拡大コピーしてプレイするとか、VASSALでプレイするとかした方が楽かもしれません。


 私は陣地が好きでなく、またこのシナリオは10ターンで、ミニシナリオ1「立ち退き通告(トラッペンヤークト作戦)」の4ターンに比べてかなり長いので「どうかな……?」という気持ちもあったのですが、古角さんも書かれていたようにほとんど移動がないので非常にサクサク進んでいい感じでした。



 陣地関係のルールをまとめておきます。慣れてくればスイスイ進められます。

1.重AT効果(攻撃力2倍を1.5倍にする)を持ちますが、このシナリオではどうせ攻撃力2倍になる地形上に陣地は一つもないので、まったく無視してOKです。
2.砲爆撃表のコラムを1つ左にします
3.奇襲チェックのダイス目に-1修正
4.戦闘結果のダイス目に陣地レベル分のマイナス修正
5.特別ルール1.1cにより、レベル4と3の陣地が占領されるとレベル2になり、レベル2と1の陣地が占領されるとレベルが1下がります(枢軸軍側が陣地を持っている時に、ソ連軍の防御砲爆撃で砲爆撃表のコラムが1つ左になるので、陣地が存在していることは重要です)
6.ドーラの砲撃でステップロスの結果が出ると、ユニットをステップロスさせると同時に、同じ数だけ陣地レベルを下げます(12の目が出ると、2ステップロスさせた上で陣地レベルを2下げるわけです)

 ドーラの砲撃は、2D6の6と7の結果の時に[1/2](もう1回ダイスを1個振って、4-6なら1ステップロス)となります。この結果は、3レベル以上の陣地があるか、観測ユニットがない時には単なるDGになることに注意が必要でしょう。


 ↓ドーラ、オーディン、トールのユニット。ドーラの砲爆撃力は「*」になってますが、実質的には「69-116」です。

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 ドイツ軍側としては、セヴァストポリ要塞の北側から攻めるか、南側を重視するかという選択肢があり得ます(史実では北側から攻めました)。ターンが進んでくるとソ連軍側は弱くなった場所を強化するために戦力をスライドさせる必要にせまられ、その結果防御の薄い所が出てくる感があったので、ドイツ軍側は途中で攻勢箇所を変えるとかってのもありだと思います。

 ソ連軍側はノヴォロシースクボックスからセヴァストポリ港に戦力やSPを運ぶのですが、何を選択するかが重要になります。最初からPaxが10個分あるので、とりあえずは戦場で壊滅したARの高いユニットを優先するのが良いのではないかと思いました。


 また、両軍とも「増援セット」が2つずつあり、任意に投入できます。投入した数だけ、勝利条件ターンが移動します(ドイツ軍が増援セットを1つ入れると、ドイツ軍勝利となるターン期限が1ターン分短くなる)。割と早い内から投入するとか、戦況を見ながら投入するとか、色々あり得るでしょう。ソ連軍側は、海上輸送力が足りなくて投入しても運べない気がしましたが、戦艦セヴァストポリを含む増援セットを投入すると、艦砲射撃で結構いやがらせができるかもです。


 ↓戦艦セヴァストポリのユニット。1ターンに1回のみ、どの砲爆撃セグメントでも撃てます。

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 このシナリオはプレイしやすさ(悩まなさ)という点ではミニシナリオ1よりもよほど簡単かもしれません。ドイツ軍は豊富な空軍力と、ドーラ、オーディン、トールなどの列車砲でひたすら暴虐な砲爆撃を行えます。ソ連軍側はできることは多くないですが、うまく防御砲爆撃などを行って、ドイツ軍のセヴァストポリ攻略を史実よりも遅らせられれば勝利できます。

 OCS『Crimea』のミニシナリオは、1も2も、かなり良い、手軽な、あるいは入門のシナリオであろうと思いました。


1943-44年にクリミアで指揮をとるも、クリミア放棄を何度も進言していたエルヴィン・イエネッケ将軍について

 今回も、OCS『Crimea』の1943-44年シナリオに絡めまして。1943-44年にクリミアで指揮をとるも、クリミア放棄を何度も進言していたエルヴィン・イエネッケ将軍についてです。


Erwin Jaenecke

 ↑エルヴィン・イエネッケ将軍(Wikipediaから)



 イエネッケは1911年に士官候補生として陸軍に入り、その軍歴の大半を工兵部門で過ごしました。最初に注目されたのはスペイン内戦中のゲルニカ爆撃(「史上初の都市無差別爆撃」(異論あり)とも言われます)に参加し、下記のような報告をしたことによるものと書かれています。

「ゲルニカはそれ自体、ドイツ空軍にとって完全な成功であった」


 ポーランド戦では第8軍の兵站主任参謀、1940年5月1日(フランス戦の10日前)から1942年1月31日までベルギーとパリで兵站主任参謀(ドイツ語版Wikipediaによります。『ドイツ軍名将列伝』には第2軍や第9軍の兵站参謀であったと書かれています)。

 1942年2月1日から、イエネッケ中将はプラハにあった第389歩兵師団の師団長となります。同年4月に同師団は東部戦線へと移送され、第17軍麾下で同年5月の第2次ハリコフの戦いに参加しました。


 ↓OCS『Case Blue』の第389歩兵師団ユニット。

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 その後、同師団はイエネッケ中将の旧友であったフリードリヒ・パウルス装甲兵大将(イエネッケの方が数ヶ月だけ早く生まれています)が指揮する第6軍の麾下に編入され、同年9月に第8軍団麾下でスターリングラード市街戦へと投入されます。第389歩兵師団と第305歩兵師団から編成されたイエネッケ戦闘団は1942年10月14日のトラクター工場への大規模攻撃に投入され、成功を収めました。

 1942年11月1日、パウルスが第4軍団長のシュヴェドラーを解任し、旧友のイエネッケを後任に任命しました。しかし11月19日に開始された天王星作戦の結果、スターリングラードの第6軍は包囲環に閉じ込められてしまいます。


 ↓OCS『Case Blue』の第4軍団司令部ユニット。

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 イエネッケはこれまでの軍歴から兵站について詳しかったため、空輸のみでの補給は現実的ではないと考えていました。ヒトラーによるスターリングラード放棄を禁じる命令に対して、イエネッケはパウルスに、行動を起こすように何度も必死で頼んだそうです。

 ドイツ語版Wikipediaには、イエネッケはこのように言ったと書かれています。
「無線機を集めて、独立した行動を起こそう。君はスターリングラードの獅子にならなければならない。君の首など、多くの兵士達の命に比べれば大したことはない。」

 『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』には、「君の首など、多くの兵士達の命に比べれば大したことはない。」というセリフだけが書かれていました。


 一方、『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』のアルトゥール・シュミット(第6軍参謀長)の項には下記のように書かれており、「獅子」の件などはザイドリッツ将軍が言ったかのようです。

 11月27日、第6軍の各軍団長は軍司令部でフリードリヒ・パウルスとその参謀長【シュミット】と会談し、全員一致でパウルスに、【ヒトラーの】命令に反する脱出を促しました。ザイドリッツはパウルスに「獅子の道を歩め」と迫りました。これはカール・フォン・リッツマン将軍のことで、彼は第1次世界大戦中、同じような状況で命令に反して脱出し、その結果、危うくロシア軍の捕虜になるところから司令部全体を救ったのです。片腕のハンス・フーベ将軍は総統のお気に入りで、最近第14装甲軍団長に昇進したばかりでしたが、こう言いました。「ここに残って死ぬわけにはいかない!」。カール・シュトレッカーは懇願したと言います。親ナチ派の第8軍団司令官のハイツ将軍でさえ、死傷者がどれだけ出ようとも即時の脱出を要求しました。パウルスの個人的な友人で第4軍団司令官のエルヴィン・イエネッケ将軍は、パウルスの恩師の亡霊を呼び起こしました。「ライヒェナウ元帥ならすべての疑念を一蹴しただろう。」

 パウルスは答えました。「私はライヒェナウ元帥ではない」

ヴァルター・フォン・ライヒェナウ元帥は、親ナチ、勇猛果敢な将軍でパウルスの後見人のような立場にありました。パウルスの前に第6軍司令官でしたが、1942年1月12日に極寒の森の中を歩いていて心臓発作を起こし、死亡。後任に参謀長であったパウルスが任命されたのでした。】

 イエネッケは第6軍を救うため、旧友に対してさらなる説得を続けました。しかもザイドリッツは、長期の行軍に耐えられない装備はすべて破棄するよう、すでに第51軍団に命じたことを明かしました。ザイドリッツは、自分が着ていた軍服以外はすべて燃やし、自らその手本を示したとも言いました。すべての軍団長が熱狂的に賛成を表明。ナチスと見なされていた者たちでさえ、ヒトラーの命令に背く脱出を呼びかけました。

 しかし残念なことに、シュミットが最後の決定権を握っていたのです。「我々は総統の命令に従わなければなりません。」

 パウルスは言いました。「私は総統の命令に従うのが当然だ」


『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』P90





 その後、戦闘指揮をとり続けていたイエネッケは、1943年1月17日にソ連軍の砲弾が近くに命中して傷を負い、23日に担架に乗せられて(最後の?)輸送機で包囲環の外部へと後送されました。『Hitler's Commanders』によるとこの件には2つの説があるそうです。1つは、16個の破片を身体に受けて本当に重傷を負ったのだというもの。もう1つは、破片が落下してイエネッケの頭を直撃し、実際に血が出たものの、その後イエネッケは電光石火の如く行動し、ほとんどギリギリのタイミングで医療避難【後送?】に成功し、回復するまで隔離された病院に閉じこもったのだ……とするものです。後者の説では、ヒトラーや総統の司令部の取り巻き達が、イエネッケの傷がいかに軽傷であったかを知っていたら、彼はスターリングラードから後送されることはなかったのではないかと指摘されているそうです。


 イエネッケは1943年3月までに現役復帰し、4月1日にはフランス南西部の第86軍団長に就任しました。
(第86軍団という数字は『Hitler's Commanders』、『ドイツ軍名将列伝』、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によります。Wikipediaでは独英日版すべて第82軍団長となっていますが、『Unknown Generals』の第82軍団長のリストにイエネッケの名前はありませんでした)。

 2ヵ月後の同年6月、イエネッケはタマン半島のクバン橋頭堡を守る第17軍司令官に任命されました。


 ↓OCS『Crimea』の第17軍司令部ユニット。

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 クバン橋頭堡は、例えばOCS『Case Blue』の1943年1月の時点では↓のようになっていました。

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 OCS『Crimea』の後半(1943-44年)の最初のシナリオであるシナリオ3:「鉄十字勲章」は1943年9月26日ターンから始まり、↓のような初期配置となっています(44年1月22日ターンまでの36ターン)。

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 ちなみに、なぜシナリオ名が「鉄十字勲章(Cross of Iron)」であるのかというと、『Cross of Iron』(邦題:『戦争のはらわた』)という映画がこの1943年のクバン橋頭堡での戦いが舞台であったからのようです。





 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーにはこう書かれています。

 新しいドイツ第17軍の司令官はエルヴィン・イエネッケ将軍でした。イエネッケはスターリングラードで師団を率いて重傷を負ったものの、任務に復帰してきたところでした。彼の麾下部隊の大半はケルチ海峡の向こうのタマン半島におり(ドイツ軍はそれを、クバン橋頭堡または、Gotenkopfstellung(ゴート人の頭の位置)と呼んでいました)、いつか再びカフカスへ攻撃を仕掛けることを考えていたのです。しかしクルスク以降のソ連軍の反攻にドイツ軍はよろめき、新たな兵力を必要としていたため、ヒトラーはしぶしぶブリュンヒルト作戦(クバン橋頭堡からの避難)を許可しました。ソ連軍はこの作戦を妨害することができず、わずか38日間で239,000人の枢軸軍部隊が撤退。クバン橋頭堡に進攻するソ連軍を指揮したのは、前年にセヴァストポリ防衛を指揮したペトロフ将軍でした。

 撤退部隊の大半はクリミアに残りませんでした。OKHはイエネッケからドイツ軍10個師団のうち8個師団を剥奪し、彼に4万人の戦闘部隊だけを残したのです。残りは2個師団のドイツ軍に加え、ルーマニア軍7個師団と少数の枢軸同盟軍とオスト部隊でした。ルーマニア軍の山岳部隊と騎兵部隊は優秀でしたが、スターリングラード以降、ドイツ軍はルーマニア軍の大半の部隊の能力を疑わしいものとみなしていました。『クリミア』のシナリオ3のマップ上には、イエネッケに残されていたユニットのみがあり、撤退の途中からスタートします。この撤退は続行され、1943年10月9日までに完了しました。



 後のイエネッケ自身の証言によると、橋頭堡からの撤退の期間、上層部からの命令で、その地域を経済的に麻痺させるために焦土戦術を実行しました(この時期、ドイツ軍はウクライナから撤退する際に焦土作戦を実行しており、イエネッケだけが特別なことをしたわけではないと思います)。フォン・クライスト元帥の命令によってパルチザン殲滅の措置を実行したとも証言しており(後にフォン・クライストはこれを否定しました)、イエネッケはすべての村を焼き払う「死の地帯」の設置を命じたり、ケルチ地域の採石場の洞窟でパルチザンをガス処刑したりしたそうです。



 イエネッケは当然ながらスターリングラードの再現を望んでいませんでした。『ドイツ軍名将列伝』によると彼は、早い段階からウクライナ本土への脱出計画を研究していたそうです。しかし、ヒトラーは同盟国ルーマニアに対する政治的影響を重視し、クリミア半島の死守を命じていました。ソ連軍がクリミアに押し寄せるにつれて、イエネッケはますます激しく半島からの撤収を主張し、自らの主導で半島を放棄する準備さえ整えました。このため、1943年10月下旬にはフォン・クライスト元帥によって指揮権を剥奪されそうになったそうです。

 10月になるとソ連軍がペレコプ地峡へ進撃してクリミア半島が孤立。11月、イエネッケは軍集団司令部、OKH、総統司令部に対して第17軍を海路で避難させるよう要請します。しかしスターリングラードと同様、ヒトラーはこれを拒否しました。

 1944年1月30日(シナリオ3「鉄十字勲章」の直後から始まるシナリオ4「ダモクレスの剣」の2ターン目)にイエネッケは上級大将に昇進しています。シナリオ4「ダモクレスの剣」の時期はクリミアでは軍事行動がほとんどなかったため、OCS『The Third Winter』と連結してのプレイ以外の単独でのプレイは推奨されていません。



Generałowie niemieccy i generał rumuński po wyjściu ze stanowska dowodzenia na półwyspie Kercz (2-835)

 ↑1944年1月、ケルチ半島におけるイエネッケ将軍(一番右? Wikipediaから)




 1944年4月7日(シナリオ5「解放攻勢」は4月8日ターンから5月12日ターンまでの11ターン)、ソ連軍のクリミア半島への総攻撃が開始されました。

 ↓OCS『Crimea』のシナリオ5「解放攻勢」の初期配置。

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 戦力不足のイエネッケは4月9日、数時間の逡巡の後、OKHに報告することなくケルチ地区の陣地を放棄してセヴァストポリ港への撤退を命令(『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P449)。4月12日にヒトラーは、イエネッケに対してセヴァストポリ要塞をそのまま保持するよう命令を下しました。

 イエネッケの麾下部隊はひどく打ちのめされ、日々損害は増大していました。彼は、クリミアの部隊を撤退させようとしないヒトラーや、セヴァストポリが要塞ではなく罠であることを認めようとしないヒトラーに苛立っていました。それでもイエネッケは総統の方針に従い続け、4月24日には麾下部隊を鼓舞するための大げさで不正確な布告を発しています(『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P461)。

 イエネッケは4月27日にヒトラーに対して「さらなる増援がいつ到着するのか」を問い合わせ、またソ連軍が全面的な攻撃を開始した場合の「行動の自由」を要求したテレタイプを打電。これにはヒトラーもたまりかねたのか、翌日、イエネッケをベルヒテスガーデンに召還し、直接報告するよう命じます。

 この時の出来事として、『Hitler's Commanders』はこのように書いています。

 【……】ヒトラーは「豊富な」増援を約束。しかし、それがまだ訓練を終えていない新兵の4個大隊を意味することを知ったイエネッケは、第17軍をOKH(ヒトラーが総司令官)の直属軍にするよう要求することで、差し迫った惨事の責任をヒトラーに負わせようとした。
『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』P98



 『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』にはこう書かれていました。

 ヒトラーの面前でイエネッケは、第17軍の残りを直ちに撤退させなければ壊滅すると主張。ヒトラーは将軍がこのような言い方をすることに激怒し、彼に叫び始めた。

 イエネッケはヒトラーの補佐官の横を通り過ぎると、「総統に伝えてくれ、私は帰ったと」と言い残し、飛行場へと走り去った。ヒトラーはルーマニアで飛行機を止めさせ、イエネッケ上級大将を逮捕するよう命じた。
『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P464



 イエネッケは拘束され、軍法会議にかけられることになりました。彼は5月1日に罷免され、クリミア失陥の責任者として責任を問われることになったのです。しかしグデーリアン上級大将は捜査を遅らせることで裁判を長引かせ、イエネッケを有罪から救うことに成功しました。結局軍法会議は開かれなかったようです。


 イエネッケは1945年1月、ドイツが破滅的な状況に陥ると見てヒトラーに私信を送り、帝国の立場を説明し、ヒトラーは適切な結論を出すべきだとほのめかしたそうです。その結果、イエネッケは1月31日に除隊処分となりました。

 イエネッケは1945年6月11日(『Hitler's Commanders』)、あるいは12日(Wikipedia)にソ連軍の捕虜となりました。ソ連の軍事法廷は当初、自白に基づいて死刑を宣告しましたが、その後、判決を25年の強制労働に変更しました。1955年10月、ドイツ人捕虜の返還に関するモスクワでのアデナウアー首相の交渉の後、イエネッケは釈放されます。

 イエネッケは1960年7月に亡くなりました。

ケルチ半島から独断撤退して投獄され、のちに処刑された伯爵ハンス・フォン・シュポネック中将について

 OCS『Crimea』のシナリオ2に関連して、ケルチ半島から独断撤退して投獄され、のちに処刑された伯爵ハンス・フォン・シュポネック中将について調べてみました。


Hans Graf von Sponeck

 ↑ハンス・フォン・シュポネック(Wikipediaから)



 資料としては、主に『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』のP59~64と英語版Wikipedia「Hans Graf von Sponeck」を使用しました。それ以外の資料を使用する時はソースを記すことにします。




 軍人であった伯爵エミール・フォン・シュポネックの第4子として生まれたハンス・エミール・オットー・フォン・シュポネックは士官学校で学び(カールスルーエ士官学校は首席で卒業しました)、1908年に士官に任命されました。サッカーと体操に秀でた優秀な将校であった彼は女性にももて、1910年に結婚(一回目)して2人の男の子を授かっています。

 第一次世界大戦ではフランスとロシアで戦い、3度負傷。1915年秋には、通常の戦時教習課程(短縮課程)を受けることなく参謀本部に入ることを許されるという名誉を得ました。

 戦後も軍に残ることができ、昇進を重ねます。1934年から1937年まで歩兵第48連隊長を務め、この時期に離婚しています。

 1937年12月にフォン・シュポネックは空挺部隊設立のためにドイツ空軍に転属しました(ドイツ空軍は事実上ゼロの状態から拡大しており、優秀な将校を必要としていました)。1938年2月には少将に昇進。

 1938年に起こったブロンベルク罷免事件*の軍法会議(1938年1月?)においてフォン・シュポネックはフォン・フリッチュ上級大将の無実を主張し、この軍法会議の議長であったヘルマン・ゲーリングの逆鱗に触れています。彼は同年に再婚し、翌年に新しい妻との間に男の子が生まれました。
*:国防相であるヴェルナー・フォン・ブロンベルク陸軍元帥と、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将に関するスキャンダルが相次いで発生し、両者が罷免された。冒険的な外交政策に反対する陸軍の上層部を一掃する目的による、ナチスの謀略事件であるとされる。


 一方、1938年に彼は第22歩兵師団(空輸歩兵として訓練を受けたことから一時期第22空輸師団とも呼ばれました)の師団長に任命されているようなのですが、その経緯について資料間でいくらか差異があると思われます。私なりに一番ありそうな所だけを抜き出しますと恐らく、1938年7月に陸軍に再転属(ドイツ語版Wikipedia)、そして10月か11月に第22歩兵師団長に任命。

 『German Airborne Divisions: Blitzkrieg 1940-41』は任命を1938年1月としていますが、ミスか、あるいは非公式の引き継ぎ時期か何かかもです。同書は同師団の編成過程を詳しく記していますし、空軍と陸軍の軋轢があったこと、特に、第22歩兵師団が「第22空輸師団」という名前となって空挺作戦の一部に投入され、かつそれがドイツ空軍に移管されないことをドイツ空軍側は認めざるを得なかったということを書いています。

 同書はフォン・シュポネックについて、「才能(talents)」があり、また、第22空輸師団は通常の歩兵師団よりもスポットライトを浴びるものであったため、彼はその役職に不満はなかった、と書いています(P25。わざわざそう書くだけの傍証があるわけでしょうか)。また、クルト・シュトゥデントとフォン・シュポネックは、最前線に立つべきという考えの点で志を同じくしていたというような記述もありました(P14)。


 フォン・シュポネックが第22空輸師団長に任命されたのは、彼が空軍にいた経験によるものであろうと『Hitler's Commanders』は記しています。

 1939年のポーランド戦には師団の1個連隊のみが参加しただけでした。1940年5月からのオランダ攻略戦では、空軍の第7航空師団の空挺降下に続いて、第22空輸師団は占領された航空基地へ空輸されて戦いました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第22空輸師団ユニット。

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 師団長のフォン・シュポネックも部隊と共に首都ハーグへ飛びましたが、この時、戦勝パレード用の馬を一緒に積んでいったそうです(『German Airborne Divisions: Blitzkrieg 1940-41』P29)。しかし、ハーグにおいて第22空輸師団は苦戦し、彼自身が危うく捕らえられそうになったり、負傷したりし、王家を捕らえるなどの3つの任務すべてに失敗しました。尤も帰国後、彼はヒトラーから騎士十字章を授与されています。




 バルバロッサ作戦で同師団は南方軍集団に加わり、通常の歩兵師団として作戦に参加しましたが、元々特殊な作戦のために訓練されていたため兵士達の質は高く、クリミア攻略作戦においてフォン・マンシュタインは同師団を最高の部隊として信頼して運用したといいます。


 ↓OCS『Crimea』の第22歩兵師団ユニット。

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(OCSで、ドイツ軍の通常の歩兵師団でARが5というのは珍しく、他にぱっと思いつくのは『Guderian's Blitzkrieg II』の第78歩兵師団くらいです)




 ↓OCS『Crimea』のシナリオ1「通過儀礼」の初期配置。

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 画像中央下あたりにある、ARが5の3ユニット(4ステップ)が第22歩兵師団です。

 フォン・マンシュタインが赴任する前の時期の、クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したリッター・フォン・ショーベルト将軍について (2023/12/27)で書いていた、ドニエプル川北岸のベリスラウ(Berislav/Beryslaw:F17.35の北側のヘクス)に最初に到達したのは第22歩兵師団だったそうです。

 そしてフォン・マンシュタインが赴任した後のシナリオ1の時期の最初の数ターン(9月下旬~10月初旬)、第22歩兵師団はクリミア半島方向ではなく、東のメリトポリ方向とその南岸を押さえる任務を負っており、その任務に成功します。

 ただしOCS『Crimea』のシナリオ1ではその戦いはオミット(除外)されており、第22歩兵師団は初期配置位置から動けず、第4ターン(10月5日ターン)に1/6の確率、次のターンには2/6の確率……と確率が上昇して制限が解除されるようになっています。ここらへんのメリトポリ周辺やその向こう側ではこの時期、かなり激しい戦いが行われていたそうなのですが、デザイナーズノートによると、シリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏からユニット数を少なめにするようにアドバイスされており、デザイナーはここの戦いをオミットすることを決断したのだということでした。




 一方、この時期にフォン・シュポネックと同師団はその地で、ユダヤ人大量殺戮に加担していました。

 以下、英語版Wikipedia「Hans Graf von Sponeck」から引用してみます。

 1941年10月7日、伯爵フォン・シュポネックは自分の師団に、ユダヤ人市民を検挙し、見つけだし、引き渡すことによって、保安警察(SiPo:ズィポ)および親衛隊保安局(SD)と緊密に協力するように命じました。1941年10月に第22歩兵師団に占領された直後のヘニチェスク【F27.24】とメリトポリでは、ズィポとSDのアインザッツグルッペン【特別行動部隊】Dの部隊によるユダヤ人の大量射殺が記録されています。メリトポリだけで、2,000人のユダヤ人男性、女性、子供が虐殺されました[6]。後にイギリスのトレントパーク収容所に収監された、フォン・シュポネック将軍の部下の上級将校の一人であったディートリッヒ・フォン・コルティッツ大佐(後に将軍)【ヒトラーのパリ破壊命令を無視して降伏したことで有名です】は、収容所内で密かに録音された会話の中で、ドイツ軍のソ連侵攻の間、ユダヤ人を殺す作業に積極的に参加したことを率直に認めていました[7]。

 坐骨神経痛と腸の不調のため、フォン・シュポネック将軍は1941年10月14日に師団から病気休暇を取得。1941年12月3日にシュポネックが帰還すると、マンシュタインはクリミア最東端のケルチ半島を占領していた第42軍団(麾下に第46歩兵師団)の指揮権を与えました。フェオドシヤ【↓の画像のF33.08】では、シュポネックの指揮区域内で1941年12月10日前後に、1,052人のユダヤ人がアインザッツグルッペンDの部隊によって殺害されました。1941年12月10日、フォン・シュポネック将軍は、自分の指揮区域内で発見されたすべてのユダヤ人を原則として「パルチザン」として扱い、ダビデの星印をつけ、「労働力として配備する」ように命じました。彼はまた、捕らえられた赤軍兵士は、たとえ軍服を着ていたとしても、直ちに射殺するよう命じ、地元での反ドイツ活動や妨害行為に対する民間人への報復行動を承認しました[8]:




 ↓OCS『Crimea』のシナリオ2の初期配置のケルチ半島。フォン・シュポネックの第42軍団司令部がパルパチ地峡部にあります。下のノヴォロシースクボックスには、シナリオ2の開始時期(42年12月26日ターン)からケルチ半島へ上陸作戦を行うためのソ連軍ユニットや艦船が置かれています。

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 歴史家のエリック・グリマー=ソレムは次のように述べています。

「フォン・シュポネック将軍のケースは単純ではありません。彼は麾下の部隊が壊滅の危機にさらされた時、ヒトラーからの命令を拒否する道徳的勇気を持ち、そのために軍法会議にかけられ、後にナチスによって処刑されました。一方で、彼は犯罪的なコミッサール指令の遂行を拒否しませんでした。フォン・シュポネックは厳密な意味でのナチではありませんでしたし、彼自身、体制のいくつかの側面に批判的でさえありましたが、彼の命令と彼の軍隊の行動は、彼が反ユダヤ人種主義を内面化していたことを疑う余地はありません。シュポネックは、ナチス政権の大量殺戮政策を実行するためには、イデオロギー的なナチスである必要はなかったことを示しています。ナチズムの下で、戦争の状況下では、被害者と加害者、英雄と追従者の境界線は、一人の人間の中で渾然一体となってしまったのでしょう。」[9]。





 1941年12月初旬からのソ連軍の冬期反攻の一環として、クリミアでもケルチ半島への上陸作戦が12月26日に開始されました(OCS『Crimea』のシナリオ2はその時点から始まります)。この上陸作戦は、フォン・マンシュタインにとって最悪のタイミングで実行されたものになりました。第11軍がセヴァストポリ攻略戦の最中で兵力を集中しており、延びきった態勢にあったためです。ケルチ半島を守備するフォン・シュポネックの第42軍団の麾下には、たった1個師団(第46歩兵師団)しかありませんでした。

 最初の上陸はケルチ【F45.10】付近へのもので、28日までにフォン・シュポネックはケルチ市近郊の2つの主要な上陸拠点のうちの1つを全滅させましたが、すべては掃討できず、しかもいくつかの上陸地点は戦線の後ろ側にあってソ連海軍によって補強されつつありました。フォン・シュポネックは最終的には孤立して壊滅させられてしまうだろうことを予見して、フォン・マンシュタインに撤退の許可を求めました。ケルチ半島を放棄し、その付け根であるパルパチ地峡まで下がれば、ソ連軍の攻勢を封じられると考えたのです。

 この部下の状況判断に、マンシュタインはまったく同意しなかった。ひとたびソ連軍がクリミアに強力な拠点を構えたならば、それを撃退するのは極度に困難になり、大規模な反撃作戦が必要となろう。そんな事態(正しく、それは現実となった【OCS『Crimea』のミニシナリオ1「立ち退き通告」(トラッペンヤークト作戦)はその作戦を扱っています】)を恐れたのだ。ゆえに、マンシュタインは、「上陸直後で、敵がまだよろめいているうち」に「[敵を]海に追い落とせ」と、シュポネックに命じた。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P387



 一方、『Hitler's Commanders』や英語版Wikipediaでは、フォン・マンシュタインが拒否したというよりは、この冬期反攻の時期にヒトラーが撤退が禁じる命令を出していたため、それに(フォン・マンシュタインが)従って撤退が禁じられたのだという感じの書き方になっています。

 また『Hitler's Commanders』は、フォン・シュポネックによるより強い2回目、そして必死の3回目の撤退許可要請も拒否されたと書いています(『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』には2回目までだけが書かれています)。


 12月29日までに、フォン・シュポネックの前方部隊(第46歩兵師団と少数の部隊)は1万人にまで減少していました。その日、新たなソ連軍部隊(2個師団)がフェオドシヤ(F33.08)付近に上陸したという知らせが届きます。フォン・シュポネックは予備兵力をすべて投入してしまっており、ケルチ半島内に留まるのが不可能なことは明らかでした。フォン・シュポネックは30分考えて決断を下したといいます。ヒトラー/フォン・マンシュタインの命令に背き、パルパチ地峡まで後退するよう、麾下の部隊に命じたのです。

 恐らくこの時のこととして、ドイツ語版Wikipediaは「シュポネックは上級指揮官であるエーリヒ・フォン・マンシュタイン指揮下の第11軍に相談することなく、ケルチ半島からの撤退を命令。命令を迅速に実行し、無線機を破壊することで、第11軍が命令を撤回することも不可能にしました。」と書いています。この無線機の件はOCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーにも挙げられているのですが、私が今回参照した他の資料には言及されていません。
(私が大好きな「大陸軍 その虚像と実像」のR/Dさんの考え方からすると、「無線機の破壊」なんていう非常に面白いエピソードは、それが面白いがゆえに史実である可能性は低そう(虚説がミームになったものだという可能性が高い)ということになりそうですが……?



 この撤退は摂氏-7度の氷雪の中で行われ、何千人もの凍傷患者が発生し、車両が動かなくなってしまう中で行われたと『Hitler's Commanders』には書かれています。

 パルパチ地峡にたどり着いた彼らはフォン・マンシュタインが差し向けた増援の力も借りて、追撃してきたソ連軍部隊による1942年1月1日の戦車部隊の攻撃を、大きな損害を出しながらも撃退することに成功します。しかし同日のうちに、フォン・シュポネックは第42軍団の指揮権を剥奪され、マッテンクロット歩兵大将に譲るように命令されます。

 この解任を誰が命じたかについても、資料によってバラバラで困ってしまいます(T_T) ↑の英語版Wikipedia「Franz Mattenklott」なんかは「フォン・マンシュタインが激怒して解任した」と書いてますが、他の資料には誰が解任したか書かれていないですし、フォン・マンシュタインが激怒したなんてことも書かれていません。

 一方、『Hitler's Commanders』などは、このソ連軍の冬期反攻の時期にドイツ軍将官の不服従が相次いでおり、それらへの「見せしめ」としてフォン・シュポネックの解任と軍法会議が、スケープゴートとして必要とされたのだ、という風に書いています。


 この軍法会議の開催について、『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』にはこう書かれています。

 死に至るまで【……】、シュポネックは、第46師団に撤退を命じたのは正しい行動だったと主張しつづけた。あとになって、マンシュタインも相当程度それに同意したとみられる。1941年12月29日の事件【独断撤退】の結果としてシュポネックを軍法会議にかけるのではなく、第72歩兵師団長だったフランツ・マッテンクロット歩兵大将と交代させることを、マンシュタインは望んだ。けれども、軍法会議は開かれた。マンシュタインは、その期日も知らされず、かつての部下のために正式に意見表明する機会も与えられなかった。1942年1月23日、職務怠慢と戦場における不服従の罪で、シュポネックは死刑を宣告された。一ヶ月後、ヒトラーは、この判決を6年間の「要塞禁固」に減刑している。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P388



 解任されたフォン・シュポネックは、軍法会議のためにベルリンに出頭し、裁判は1月23日に開始(同日判決?)されました。軍法会議の議長は、かつてフォン・シュポネックに激怒したゲーリングでした。この軍法会議では重要な証人の陳述は認められず、被告は裁判中ずっと起立していなければならなかったといいます(ドイツ語版Wikipedia)。フォン・シュポネックは「プロイセン軍将校として、部下達を救うために戦術的な状況から必要とされれば、上官の命令に反してでも独断で行動するように教えられてきた」と主張。この抗弁は一蹴され、「現場での過失不服従」の罪で有罪、死刑判決を受けます。

 ヒトラーが刑を減刑したいきさつについても資料間の食い違いがあり、英語版Wikipedia他ではフォン・マンシュタインが減刑を提案したからだとしてたりしますが、『Hitler's Commanders』は「フォン・マンシュタインは彼を助けるために指一本動かさなかった」と書いてたりします。
(この件では、より記述において慎重であろう書籍となっている2つのソースがフォン・マンシュタインの減刑提案を否定していることからすると、フォン・マンシュタインは減刑提案してないのではないでしょうか)




 フォン・シュポネックはゲルマースハイム(フランス国境近くの街)の軍事刑務所に送られ、囚人としては恵まれた生活を享受しました。時々街に出て、本やタバコを買うことも許されました。妻(二人目の)は1ヵ月につき7日の頻度での面会が許され、末の息子(1942年に3歳になっていました)とも面会できました(一方、ドイツ語版Wikipediaは、家族は拘留され、財産は没収されたとしています)。

 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の後、治安当局者のハインリヒ・ヒムラーはフォン・シュポネックの処刑を命令しました。その背後には、ゲルマースハイムを含む管区の長であり、ナチ党の初期からのメンバーであったヨーゼフ・ビュルケルの圧力があったとWikipediaにはありました。

 7月23日午前7時13分にフォン・シュポネックは銃殺刑に処されました。彼は聖餐を受けることを許され、拘束も目隠しもされないという彼の要求は尊重されました。フォン・シュポネックの妻は前妻も含めて2人とも処刑に立ち会い、共同で彼の遺体の引き渡しを求めました。遺体はゲルマースハイムの墓地に埋葬され、彼の墓で弔辞を述べたり演説したりすることは禁じられましたが、主の祈りは捧げられました。


 フォン・シュポネックの長男は戦闘機パイロットとしてノルウェーとドイツ上空で戦い、大尉で終戦を迎えました。次男は騎兵部隊で大尉となっていましたが1943年、東部戦線のドン川戦区で戦死。

 二人目の妻との間の末の息子であるハンス・クリストフ・フォン・シュポネックは西ドイツにおける最初の良心的兵役拒否者の一人となり、外交官としてキャリアを積みます。彼は国連事務次長補およびイラク担当国連人道調整官を務め、国連内でも非常に尊敬されている人物であるそうです。


 戦後の西ドイツでは、ヒトラーに反抗して兵士達の命を救ったとして伯爵フォン・シュポネックを記念してゲルマースハイムの街の空軍基地、通りなどに彼の名前が付けられました。しかし、2014年に発表されたエリック・グリマー=ソレムの論文でフォン・シュポネックが数多くの戦争犯罪を犯していたことが明らかになり、市民の抗議活動が起こり、空軍基地などは改名されました。



 実は、以前書きました第90軽師団で後衛を指揮して活躍するも、チュニジアで降伏したテオドール・フォン・シュポネック将軍について (2022/09/23)で、このテオドール・フォン・シュポネックは今回のハンス・フォン・シュポネックの弟であると、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』の著者であるミッチャム氏が書いていたためそれを信じてそのように記述していたのですが、今回調べてますと二人は親の名前も全然違うし、ミッチャム氏以外の資料でこの二人が兄弟、あるいは親戚関係にあるとの記述さえ見つけられませんでした。なので、苗字は同じですけども基本的に二人は無関係なのだと思われます。当該ブログ記事は訂正しました。


 ミッチャム氏の著作は今までも、推測が先走っていると思われたり、本が違うと記していることが違ったりと、信頼性が低い気がビンビンにしてはいたのですが、またもや大きな問題が発見されてしまいました(T_T) ロンメル麾下の指揮官関係で興味深い本を書いてくれる大変ありがたい方なんですが……。

 また、ハンス・フォン・シュポネック関連にしても、資料によっては出てくる「無線機を壊して撤退した」「撤退にフォン・マンシュタインが激怒した」「フォン・マンシュタインが減刑を提案した」などの、ある意味興味深い記述は、どうも信頼できないのではないかということが明らかになったのではないかという気がしています。


OCS『Crimea』のシナリオ1「通過儀礼」についてと、明確化

 先日のミドルアース大阪で、OCS『Crimea』のシナリオ1「通過儀礼」をプレイできました。古角さんが枢軸軍、私がソ連軍を担当しました。



 ↓初期配置。

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 先日書いてました、クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したリッター・フォン・ショーベルト将軍について (2023/12/27)の後の、フォン・マンシュタインが指揮を引き継いだ後のクリミア半島攻略の最初の段階を扱っています。

 1941年9月26日から12月26日までの3ヵ月間(28ターン)ですが、フォン・マンシュタイン麾下の部隊はわずかしかなく、史実では開始1ヵ月後にようやくペレコプ地峡(ウクライナとクリミア半島の間の地峡)を抜け、シナリオ終了時にはセヴァストポリ周辺の陣地帯以外を制圧していました。

 勝利条件は、クリミア半島(ケルチ半島を含む)の港湾をどれだけ支配しているか、セヴァストポリ周辺の陣地帯をどれだけ支配しているか、それに戦艦セヴァストポリ(この時期の艦名はパリジスカヤ・コンムナになっていました)の損傷具合です。



 プレイしてみると、ペレコプ地峡北側の最初の陣地帯はあっという間に抜けてしまうのですが、その後の地峡の南側の陣地帯の手前でしばらく止まってしまうようです(主にSP不足により)。でもまあ、それが史実通りです。

 ソ連軍側は、最初の2ターンはユニットのほとんどが動かせない設定になっており、できることが少ないのでプレイしやすいです。

 全体的にユニット密度が低いので、OCSのシナリオの中でもプレイしやすいだろうと思います。ただし、陣地関係の処理(たいしたことないですが)が必須なのと、ソ連軍の戦艦と軽巡艦隊ユニットが出てくるので、艦砲射撃したり、艦船に航空ユニットで攻撃したりするとそこらへんの処理のルールを読んでやることになるでしょう。



 ↓今回のプレイの終了時。

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 今回のプレイではペレコプ地峡の南側の陣地帯のところまででしたが、その後の展開を予測すると、ソ連軍側はクリミア半島の南側(ケルチ半島を含む)にたくさんある港湾の、どれだけは放棄するか、遅滞するか、固守するかの決断を迫られますが、勝とうとすればなるべく多くを守りたいわけで、そうすると防御ラインが薄くなって枢軸軍側に弱点を突かれる可能性が高まる……というジレンマに悩まされるのではなかろうかと思います。

 ドイツ軍側としては、セヴァストポリ周辺の陣地帯のいくつかを占領できれば勝利に近づくので、ソ連軍側の不意や見落としを突ければ面白そうです。あと、空軍力はものすごいので、それを活用して、戦艦を沈めたり、ヒップシュートしてのオーバーランをしたりでアクションレーティングが低めのソ連軍ユニットを吹き飛ばしていければ……。

 このシナリオ1は、直後のシナリオ2(20ターン:42年3月1日ターンまで)へと継続してプレイすることもできます。シナリオ2ではソ連軍側が逆襲を試みて、ケルチ半島を占領しようとします。その後、ミニシナリオ1(42年5月の4ターン)でケルチ半島のソ連軍を枢軸軍が追い出し、ミニシナリオ2(42年6~7月の10ターン)でセヴァストポリが攻略されます。それで42年までのシナリオは終了です。


 フォン・マンシュタインのクリミア半島攻略戦については、一応これまでに3種類ほど読んだことがあった(コマンドマガジンの海外翻訳記事と、大木毅氏の記事と、フォン・マンシュタインの伝記)のですが、頭に入っているとは全然言えませんでした(^_^; が、やはりゲーム上でプレイしてみると、ものすごく良く理解できますね……。






 それから、今回のプレイで2点ほど疑問点が出たのでfacebook上で質問してみました。OCS『Crimea』の現時点で判明しているエラッタ&明確化 (2024/01/07)には追記しておきましたが、その2点はこのシナリオに深く関わってくる部分なので、ここにも書いておきます。


■ルールブック

共通再建表
「2Paxを消費するユニット」の一覧に、「(ソ連軍の1ステップユニットの)騎兵師団」を追加します。


■プレイブック

明確化:
5.1 シナリオ1 および ドイツ軍増援到着表
シナリオで使用できる分遣連隊ユニットの数は、セットアップ情報で制限されています。一方、ドイツ軍増援到着表の1941年10月5日ターンに分遣連隊ユニットとして到着すると指定されている増援があります。この増援はセットアップ情報で個数が制限されている分遣連隊プールの中から出します(分遣連隊プールに追加される形で到着するのではありません)。

OCS『Crimea』のミニシナリオ1「立ち退き通告」(トラッペンヤークト作戦)についてと、明確化

 OCS『Crimea』のミニシナリオ1「立ち退き通告」(トラッペンヤークト作戦)を、富山のKさんとプレイしました。古角さんとプレイしたのと合わせて2回目です(その間に一度ソロプレイもしました)。








 このミニシナリオは1942年6月に行われたマンシュタインのセヴァストポリ港攻略作戦(ミニシナリオ2:「シュトルファング(チョウザメ捕獲)作戦」)の直前の5月に、ケルチ半島にいたソ連軍を追い出したトラッペンヤークト(野雁狩り)作戦(を包含?)を扱っています。

 トラッペンヤークト(野雁狩り)作戦は、パルパチ地峡での攻撃のコードネームでした。これはマンシュタインらしい、大胆な作戦でした。彼は、自軍の2倍以上の19個師団と数個戦車旅団からなるソ連軍を攻撃するために、実戦経験のない第22装甲師団と5個歩兵師団、それに数個ルーマニア軍師団しか持っていなかったのです。マンシュタインは1942年5月8日の攻撃開始において、最も警戒の薄い場所を攻撃することによって作戦上の奇襲性を確保するという、1940年のフランス戦のアプローチを再び用い、敵の強力な戦線を突破したのです。

 結果は、第2次世界大戦で最も一方的な勝利の一つとなりました。ソ連軍はドイツ空軍に攻撃され、ドイツ軍の快速部隊が後方に侵入し、司令部が混乱に陥って崩壊してしまいました。ケルチ半島全域は2週間で掃討され、ソ連軍25万の部隊の70%が死亡または捕虜となりました。元々トラッペンヤークト作戦の見通しは確実ではなかったのですが、すべてのカードがドイツ軍に有利に働いたのでした。
OCS『Crimea』ヒストリカルコメンタリーPage23



 このミニシナリオはかなりプレイしやすいと思いました。OCS初心者の方にもオススメでしょう。

 シナリオ特別ルールで、第1ターン先攻ドイツ軍の移動フェイズ中(のみ)は燃料があらかじめ全部入れられている、というのが非常に重要です。あと、南岸で1回だけ戦闘のダイス目を+2できますが、これはあんまり効果が大きい気はしませんでした(^_^;

 古角さんと私は「このルートがドイツ軍の進撃路だろう」と思われるものを考えましたが、富山のKさんはそことは違うルートを通って大勝利されてました。ドイツ軍側も色々選択肢や、考えるべきところがあると思います。とりあえず重要なのは、ヒップシュートしてオーバーランする、という流れです。

 ソ連軍側はドイツ軍側よりも一層チャレンジングですが、色々とあがく案が思いつくので、個人的には非常に面白いと思っています。


 『Crimea』の特別ルールはまあまあ量がありますけど、このミニシナリオ1をプレイする上で必要な特別ルールの量はそれほど多くありません。プレイしやすくするために、以下に挙げておきます。

1.ドイツ軍の航空ユニットはすべて、ヒップシュート可能です。
2.ソ連軍の航空ユニットはすべて、ヒップシュートできません。
3.ミニシナリオではランダムイベント表は使用しません。
4.ドイツ軍がケルチ港(あるいはケルチに隣接する2つの港湾)を占領しても、そこはドイツ軍の補給源にはなりません(1.1d項により)。
5.乾燥湖(Dry Lake)は基本的には中障害(Very Close)ですが、砲爆撃の対象となる時はオープン扱いです。



 それから、細かく考えていくといくつか疑問点があったので念のためにfacebook上で質問してみました。その件と合わせて、さらにルール解釈について書いておきます(OCS初心者の方は、↓のあたりは考えずにプレイしてOKだとも思います)。

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5.ケルチ港に隣接する2つのヘクスにも、元々の港湾能力が2Tと1Tの小さい港湾があります。特別ルール1.1d項の書き方は「元々1SP以上の港湾」でなければ補給源にはならないかのような文とも受け取れるのですが、確認したところ、元々1SP未満の港湾でも1.1d項に従って、1T港湾は2RE、2T港湾は4REだけを一般補給できます(厳密には、打ち消された敵ZOCにある場合にはそれがさらに半分になる?)。
 ですから、「ドイツ軍がケルチを占領した」だけでは、ソ連軍は一発KOにはなりません。あと、ケルチとその右上の港湾ヘクスの間には進入禁止ヘクスサイドがありますが、OCSでは補給路における最後の+1ヘクス、それにZOCはどんな地形でも通すので、その進入禁止ヘクスサイドも通ります。
 それから、ソ連軍プレイヤーのSPは自由配置で、タマン半島側にも置けます。普通の人はケルチ半島側に置いた方がいいと思いますが、OCSの超玄人であればタマン半島側にSPを置いても、それを「1.4a ケルチ海峡を渡る常設フェリー」や、海上輸送力1SP分や、タマン半島の鉄道輸送力1SP分で運んだりして、何か良からぬことを考えるという選択肢はあると思います(むちゃくちゃ有効というわけではないと思いますが(^_^;)。

6.F35.09とF36.08の間のヘクスサイドは通行可能です(非常に重要だと思います)。(facebook上で確認しました)

7.シナリオ特別ルールを読んでいると、私はノヴォロシースクボックスは使用不可だと思っていたのですが、facebook上で確認したところ(ソ連軍プレイヤーにとって)使用可能なのだそうです(シナリオ特別ルールに「マップ外ボックスの航空基地は使用できません」とありますが、この文言をとりあえず無視して下さいと言われました)。ソ連軍のSPは極度に少ないので、ノヴォロシースクボックスでノーコストで航空ユニットを整備するという選択肢は重要だろうと思います(そうした方がいいかどうかはともかく)。

8.ソ連軍ユニットのかなりの数が第1ターンで包囲されてしまう可能性もあるので、脱出(Breakout:OCS 12.8e)のルールを活用するという選択肢はあるかもしれません。念のためfacebook上で質問してみましたが、ミニシナリオ1(と2)でも脱出はできるということでした。脱出を活用する場合、ソ連軍プレイヤーは司令部ユニットを港湾に退避させた方がいいでしょうね(3.1bにより、一般補給下の司令部にいきなり帰ってくるので)。

9.シナリオ特別ルールには「追加のSP……はありません」と書かれています。OCSで「追加のSP」と書かれている場合は普通、マップ外ボックスからSPを空輸するとか、無限のSPがある場所から海上輸送するとかってのを指すと私は思っていました。だとすると、「補給表」による毎ターンの補給は得られるのか……? と思ったのですが、補給表を見てみると、そもそもミニシナリオ1(と2)の時期は補給表の時期表示に入ってないので、やっぱり補給表による補給は得られないと思います。ミニシナリオ1はドイツ軍は7SP、ソ連軍は4SPをセットアップ時に持っていて、それ以上びた一文もSPを得られないので、かなり大変です。LOWやExhstd上等ということになるでしょう。



 ソ連軍側は、まずは自由配置の4SPをどこに置くかが非常に重要で、様々な選択肢があると思います。恐らく大事なのは、「ドイツ軍にSPを踏まれないこと」と「SPを何に使わないかを厳選すること」でしょう。防御戦闘に2Tをほいほい入れていくことすら、オススメしません(いわんや、砲兵砲爆撃においておや)。セットアップ時に予備モードにするユニットの選定も重要です。





<2024/01/15追記>

 それから、恐らく非常に重要なテクニックとして、第1ターンの先攻枢軸軍プレイヤーターンのリアクションフェイズ中に、ソ連軍側が司令部方式(OCS 12.5cのC)で1SPを消費して、支給範囲内のすべての独立ユニットに給油してしまうという方法があると思います。

OCSでのリアクションフェイズ中の給油(移動できない、させないユニットにも給油できるか?)について (2021/09/13)

 ↑に書いてましたように、予備マーカーを乗せているかどうかにまったく関係なく、司令部ユニットは給油できます(この時、その司令部ユニット上に給油済みマーカーを置きます)し、各独立ユニットは給油されます(もちろんこの時、予備マーカーが乗っていなかった独立ユニットは移動はできませんが、予備マーカーが乗せられていたユニットは給油されて移動できるわけです)。そして、この司令部の給油済みマーカーは後攻ソ連軍プレイヤーターンのクリーンアップフェイズまで有効となります。

 ただし、この司令部の給油済みマーカーによって続く後攻ソ連軍プレイヤーターンの移動フェイズ、および突破(拡張)フェイズに再び給油されるためには、それらの各独立ユニットがその司令部の支給範囲内にいなければなりません(12.5eに従い、その判定は各独立ユニットが移動を開始する時に判定されます。フェイズ開始時に一斉にチェックされるのではありません)。ですから、例えば一部のソ連軍ユニットが枢軸軍ユニットによって包囲されており、ソ連軍側の給油済みマーカーの乗った司令部から支給ができない場所にいた場合、包囲下のユニットは給油状態にはなれません、が、そのフェイズ中に包囲を解除できれば、支給できるようになる可能性はあります。

 この方法によって、うまく行けばソ連軍側は、戦車ユニット、オートバイユニット、砲兵ユニット(移動モードが自動車化)、司令部ユニットのほとんど(あるいはすべて)を、第1ターン後攻ソ連軍プレイヤーターン中に移動させられる可能性があります。

 枢軸軍プレイヤーはこれを防ぐためには、単にケルチ周辺の港湾を押さえるだけでなく、ある程度のソ連軍部隊に対して第1ターン先攻枢軸軍プレイヤーターン中に包囲環を作っておく必要がある、ということになるかもしれません。

<追記ここまで>

<2024/02/12追記>

 あと、枢軸軍は最初の移動フェイズ中に、がら空きのケルチを占領してしまうという作戦があり得ると思います。その場合、ケルチの航空基地にSPを空輸できるので、ケルチを占領したユニットがLow/Exhstdにならないよう、空輸した方がいいだろうと思います。Exhstdになると防御力が半分になりますから(ただし、すぐにやられてしまった場合SPが無駄になるとか、SPを取られてしまうというデメリットはあるでしょう)。

<追記ここまで>



 OCSには色々な小さいシナリオがありますが、このシナリオは両軍がかなりチャレンジングで面白い、ある意味で教育的な、能力を試される好シナリオなのではないかと思いました。

OCS『Crimea』の現時点で判明しているエラッタ&明確化

 OCS『Crimea』ですが、現時点で判明しているエラッタと明確化がいくらかありますので、書いておこうと思います。今後順次、加筆することにします(明確化は、facebook上で質問したものです)。

 サンセット版和訳は2024/01/26時点までのエラッタ&明確化だけが含まれています。その後明らかになったエラッタ&明確化に関しては、赤字で表示します。



■サンセット和訳のエラッタ

◇ルールブック上

Page3 1.4c 氷結 の6行目
「3ターン続くする必要が」とありますが、正しくは「3ターン続く必要が」です。

Page11 3.3d 再編態勢 のB)の3つ目の◇
「砲兵砲爆撃【3.4】は行えません。」とありますが、正しくは「砲兵による砲爆撃は行えません。」です。
【私はここのArtillery Barragesは3.4のArtillery Barrage(マーカーのルール)を意味すると解釈していたのですが、そうではなく、通常の「砲兵による砲爆撃」を意味すると解釈すべきようです(>_<)】

Page13 3.6c オデッサ(1941年)の項の後ろから6行目
「退出させることができます」とありますが、正しくは「退避させることができます」です。
【「退出」という用語を訳者は、「ゲームプレイから取り除かれる」という意味で使用するようにしていました。3.6cの件はそうではないので、誤解を招かないように修正しておいていただけると幸いです。】


◇プレイブック上

Page4 シナリオ2の「勝利条件」の2行目
「クリミアで自軍が支配している」とありますが、正しくは「クリミアとタマン半島で自軍が支配している」です。

Page10 シナリオ3の「最後のターン:」
「1944年6月22日ターン」とありますが、正しくは「1944年1月22日ターン」です。

Page11 勝利条件 の4つ目
「枢軸国の戦略的勝利:」とありますが、正しくは「枢軸軍の戦略的勝利:」です。

Page23 右の列の最後の見出し部分
「第4ウクライナ正面軍ユニットが配置される任意のターンに(第4ウクライナ正面軍ユニットと一緒に配置します)」とありますが、正しくは「第4ウクライナ正面軍ユニットが活性化されたターンに(第4ウクライナ正面軍ユニットのいるヘクスに配置します)」です。
【サンセット和訳を作成した時点ではこの見出しの部分は「第4ウクライナ正面軍が到着した時」のことだと解釈していたのですが、正しくは「第4ウクライナ正面軍が到着して2ターン目に再編態勢に移行した後、増援表で11以上の目を出すなどして条件を満たして活性化されて攻勢態勢になった時」という意味でした】





■マップ

 天候表(Weather Tracks)の「15-29 Nov」の「Freeze」のコラムが「5-6」となっていますが、正しくは「3-6」です。


 ケルチ海峡氷結進行表(Kerch Strait Ice Development)の右側の説明文の2つ目の最後に「一番左(leftmost)のボックスまで」とありますが、正しくは「一番右(rightmost)のボックスまで」です。


明確化:
ヘクスF10.03は荒地です(ヘクスのほとんどが丘ですが、ヘクスの右上の方に荒地が少しあるので、荒地となります)。


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明確化:
F46.08は全海ヘクスであるとみなします。ソ連軍のBBやCL等は通常、海岸ヘクスには入れませんが、全海ヘクスであるF46.08、F45.09を通って、Kamysh Burun港とKerch港に入ることができます。また、KerchのあるF45.10は「港湾のある海岸ヘクス」なので、そこを通ってKolonka (F46.10)に入ることができます。
(F46.08にほんの少しだけ陸上が入っているように見えるのは校正ミスだということです)


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明確化:
↑の画像で、例えばケルチ港とカミシュ・ブリュン港がドイツ軍ユニットに占領されていて、ケルチ半島にいるソ連軍が使用できるのはコロンカ港だけだとします。その場合、ケルチ半島で一般補給を供給されるのは1Tのみ(2RE分)になります。その場合、下記のようになります。
1.脱出(Breakout:OCS 12.8e)判定時、2RE分のユニットには一般補給が供給され、それ以外のユニットは一般補給が引けないとして脱出の対象となります。
2.戦略移動は、一般補給が引けるヘクスで移動を終了しなければなりません。2RE分のユニットにしか一般補給が引けないため、戦略移動が可能なのは2RE分のユニットのみです。
3.上記1、あるいは2で、「一般補給が引ける」として「脱出の対象とならなかったユニット」/「戦略移動をしたユニット」は、続く補給チェックの際に、一般補給が入れられるのでなければなりません(別のユニットに一般補給を入れるのは許されません)。






■カウンター

ドイツ軍のHe.111Hのカウンターの内の1つには、「1/2T」と2箇所に書かれています。右下の方の記載は無視して下さい。

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ドイツ軍の第22装甲師団の師団砲兵(第140自動車化砲兵連隊)ユニットの移動モード面の移動力が間違っています。白色の3となっていますが、黒色の16が正しい数値です。
【『The Forgotten Battles』にて訂正カウンターが提供される予定です。】

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注意事項:
ドイツ軍の歩兵師団ユニット(複数ステップユニット)のうち、第50歩兵師団と第73歩兵師団は1941-42年のシナリオと、1943-44年のシナリオの両方に登場し、前者では20-4-3で後者では16-4-3となっていますので、注意して下さい。
(この項、facebook上での質問から。歩兵師団については今回、他にもないか私はチェックしてみましたが、見つかりませんでした。しかし歩兵師団以外でも同様の例があるかもです)

【この件ですが、とは言っても実際にプレイする時には忘れてしまっていてユニット名だけで選別してしまいやすいので、プレイブックの当該師団の項に蛍光ペンを引いておくとかするのが良いと思います】

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明確化:
カウンターの裏に「One Sided」あるいは「Static」と書かれているユニットで、戦闘モードの移動力が0であるもの(沿岸砲兵ユニット、セヴァストポリ砲兵ユニット、UR旅団に付随するMG旅団と野戦工兵旅団ユニット)は、いかなる手段によっても移動できません(フェリーや海上輸送等でも)。ただし、パルチザンユニットは裏に「One Sided」と書かれているものの戦闘モードの移動力が1なので、戦闘モードであれば移動できます(ただし、移動モードにはなれないので、移動モードでなければ不可能なフェリーや海上輸送等はできないでしょう)。






■ルールブック

1.1b 大都市として「メリトポリ」の名前が挙げられていますが、正しくは「マリウポリ」です。


明確化:
1.4a 「ケルチ海峡を渡る常設フェリー」を使用できるのは、移動フェイズ中のみです(突破フェイズやリアクションフェイズ中には使用できません)。このフェリーの能力を使用した上で、通常の海上輸送をまったく別に使用できます。
 また、その「2ユニット」という規定は、文字通りであり、例えば4ステップを持つ複数ステップユニットでも1ユニットですし、5SPのカウンターでも1ユニットですし、1T輸送トラックでも1ユニットです。



明確化:
1.4c 氷結
ケルチ海峡が氷結している時には、そこを「ソ連軍の海軍輸送船舶(Naval Transports)」は通ることができません。
(また氷結している時、タマン半島北岸にあるTemryuk等のアゾフ海の港湾は、1.1dの「アゾフ海の港湾」にあるように、使用できません)


明確化:
1.5a ソ連軍の「歩兵」でなければならない、とありますが、ここでの歩兵とは□に×の兵科マークのみを持つものを指し、山岳歩兵や海兵、UR旅団などは含まれません。

明確化:
1.9cの3) ドーラでステップロスの結果が出た場合、陣地のレベルを下げるというのは、「ユニットのステップロスを与え、同時にそれと同じだけ陣地レベルも下げる」という意味です(陣地レベルを優先的に下げ、ユニットのステップロスは後回しにされる、というような意味ではありません)。

明確化:
2.2b 3つ目の「・」の最後に「(そして、上記の「・」の項目はそのまま適用されます)」とあるのは、「OCS『The Third Winter』と連結している場合に「クリム航空艦隊以外のいずれかの航空艦隊司令部マーカーから60ヘクス以内でしか行えないようになる」」という意味です。






明確化:
3.3d 再編態勢
 再編態勢の正面軍司令部を、例えば前線から大幅に後方へと移動させると、前線の多くのユニットは再編態勢の特典/制限を受けなくなり、攻撃や砲撃を行えます。これは「いかがわしい(ゲーム的)」ではなく、許される行為です。この件についての、OCS班長チップ・サルツマン氏の記述を引用しておきます。

 いかがわしくはありません! 正面軍ルールは『The Third Winter』のもので、正面軍が攻勢を行うか、あるいは部隊を再建、訓練、あるいはより活動的な戦線に転属させる間、手ごわい防御を構築するというソ連軍のやり方を反映したものです。ローマ軍が行軍の終わりに砦全体を建設するのと同じように、彼らはこの変更を素早く行うことができました。戦争のこの時点では、枢軸軍はソ連軍が攻勢を行っている場所で機動力(衰えつつありましたが)を必要としていたため、再編態勢の正面軍を攻撃しませんでした。私は、『The Third Winter』において、独創的なプレイヤーの一人が、再編態勢の特典を受けながら、再編態勢の正面軍のユニットを前進させるのを見たことがあります。それはローマの「テストゥード」陣形のようなもので、防衛線にぶつかるまでは有効だと思います。私はこれを "消極的戦略"と考えています。正面軍司令部を後退させるのは賢いアイデアですが、それでもユニットが攻撃するためにはSPを前進させる必要がありますし、ソ連軍の輸送手段には限りがあります。私は、このアイデアは「システムと協力するのではなく、システムと戦おうとしている」と考えます。それよりも、再編期間を利用してSPを蓄積し、攻勢態勢に移行した時に、重く、決定的な一撃を与えられるようにしたほうがよいでしょう。そのほうが、毎ターンSPを消費して限定的な作戦を行うよりも効果的なことが多いのです。




明確化:
3.5a 上陸作戦
 上陸作戦の「準備中(Preparing)」とは、ノヴォロシースクボックスに必要なターン数の間、ユニットを置いておくことを意味しています。つまり、「いったん上陸作戦を行ったら自動的に「準備」期間に移行し、ノヴォロシースクボックスに何も置かれていなくても3/5ターンが経過したら準備完了(Ready)となる」のではありません。
 言い換えれば、そのユニット毎に「準備中(Preparing)」から「準備完了(Ready)」になるのだと言えるでしょう。例えば、海軍歩兵ユニットだけが置かれた状態で2ターンが経過し、3ターン目に通常の歩兵ユニット1個がノヴォロシースクボックスに追加されたとすると、元いた海軍歩兵ユニットは3ターン経過した時点で「準備完了(Ready)」となりますが、3ターン目に追加された通常の歩兵ユニットは、3~7ターン目の間ノヴォロシースクボックスに留まらなければ、「準備完了(Ready)」とはなりません。




明確化:
3.5b 上陸拠点マーカー
4番目の「・」に「ユニットは正面軍司令部から受給するのと同じようにして、上陸拠点マーカーからSPを受給できます。」とありますが、
1.この機能は、上陸拠点マーカーが正面軍司令部ユニットから10ヘクス以内にある時にのみ使用できます(ルール上その点は明確に書かれていませんが)。
2.この機能は、「上陸拠点マーカーの下(あるいは周囲)にSPがなくても、10ヘクス以内の正面軍司令部の下(あるいは周囲)にあるSPを、上陸拠点マーカーに対して受給できる」というものです。
3.上陸拠点マーカーは、正面軍司令部の持つ「10ヘクスの指揮範囲」をも持つわけではありません。ですからユニットは、上陸拠点マーカーに向かって5移動力+1ヘクスで受給する必要があります。


明確化:
3.5e ソ連軍の海上輸送船舶
通常は揚陸(ALT)でSPは陸揚げできませんが、海軍輸送船舶(Naval Transport)はSPを陸揚げできます。



3.6c オデッサ(1941年)
 3.6cで「オデッサに置かれているソ連軍ユニットは、枢軸軍の陸上ユニットがxx.21ヘクス列の南側に移動したターンに活性化され、その後4ターンの間退避させることができる」という風に書かれています。
 一方、1.3e オデッサボックスでは、「オデッサボックスは1941年10月22日ターンまではソ連軍の支配下にある」と書かれています。
 すると、例えば枢軸軍の陸上ユニットがxx.21ヘクス列の南側に移動したターンが10月19日ターン(22日ターンの前のターン)だった場合、「4ターンの間の退避期間」はどうなるのか不明確でした。
 エラッタとして(次のエラッタに掲載予定)、枢軸軍のxx.21ヘクス列の南側への移動が遅れた場合も、その後の「4ターンの間の退避期間」は確保されます(10月22日ターンより後もソ連軍支配が続きます)。そして、もしその5ターン目にオデッサボックスに依然としてソ連軍ユニット(航空ユニットも含めて)がいた場合、それらはデッドパイルに置かれます。



共通再建表
「2Paxを消費するユニット」の一覧に、「(ソ連軍の1ステップユニットの)騎兵師団」を追加します。

明確化:
再建において、マップ上にいてステップロスしている複数ステップユニットのステップを回復させたい場合には、その複数ステップユニットが(一般補給下の工兵能力を持つ)司令部の2ヘクス以内にいる場合のみ可能です(司令部から3ヘクス以上離れていてはいけませんし、また、司令部と同じヘクスにいなければならないわけではありません)。この件は、Paxだけでなく、「特別(Special)」の適用においても同様です。




■プレイブック

明確化:
5.1 シナリオ1
枢軸軍プレイヤーは1ターンにつき2ヘクスをゲージ変換できます。【BoardGameGeekでのやりとりによる明確化:鉄道工兵ユニットは必要ありません。ただし、敵ZOCは変換できません】

明確化:
5.1 シナリオ1 および ドイツ軍増援到着表
シナリオで使用できる分遣連隊ユニットの数は、セットアップ情報で制限されています。一方、ドイツ軍増援到着表の1941年10月5日ターンに分遣連隊ユニットとして到着すると指定されている増援があります。この増援はセットアップ情報で個数が制限されている分遣連隊プールの中から出します(分遣連隊プールに追加される形で到着するのではありません)。

5.3 ミニシナリオ1
シナリオ特別ルールに「マップ外ボックスの航空基地は使用できません」とありますが、この文言を無視します(ソ連軍はノヴォロシースクボックスを使用可能です)。

明確化:
ミニシナリオ1で、枢軸軍は自由配置のSPをプレイエリア外に配置することもできます(航空基地に置いて、空輸する等)。また、ソ連軍はプレイエリア外に航空任務を行えません(ですから、プレイエリア外の枢軸軍航空基地を爆撃したりはできません)。
【後者は、シナリオ特別ルールに「プレイエリア外からプレイエリア内に航空任務を行える」と書いてあるが、逆は書かれていないからです。そうすると、厳密に考えると、枢軸軍が航空ユニットをプレイエリア内からプレイエリア外に「基地移動」することもできない、ということにはなりそうです。ただし、プレイエリア内から出発した航空ユニットが、プレイエリア外の航空基地に「帰還」することは許されるのではないでしょうか。】



5.4 ミニシナリオ2
勝利条件の2つ目 「42年6月26日ターンから7月29日ターン」とありますが、後者は正しくは「6月29日ターン」です。


明確化:
5.5 シナリオ3
枢軸軍の陣地で、Tamanの南西ヘクス、Feodosiyaの北東ヘクスに配置されるものがありますが、この配置は間違いではありません(Taman、Feodosiyaのヘクス自体に陣地を構築すべきだったろうと意見はありますが)。


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枢軸軍増援到着表
第22歩兵師団のいる場所について、「F24.26, F20.25, and F24.27」と6箇所に記載されていますが、このヘクス番号は誤りです。正しくはシナリオ1に記載されているように、「F20.26, F24.26, and F27.24」です。

1941年12月19日
20-4-3 Inf Div (73) を 6-4-3 Infantry KG (Hitz)と交換します(状態マーカーはそのままで)。第73歩兵師団に必要な残りステップは1ステップです。【facebook上での回答による明確化:第73歩兵師団が2ステップ以上あった場合、それらのステップは失われます。第73師団がデッドパイルにあった場合は、デッドパイル上で 6-4-3 Infantry KG (Hitz) と交換します】




■両軍のTables Display

「Replacements」と「Supply」の縦の真ん中のコラムの見出し
「June 1942」とありますが、正しくは「June - July 1942」です。


ルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人であったというラドゥ・コルネについて

 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーを訳していますと、クリミア戦最初期に編成された「ツィーグラー支隊」の中にルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人であったラドゥ・コルネ大佐という人がいたということで、調べてみるとその後結構重要な戦いで師団長などを務めたということで、OCSゲームでどういう部隊を指揮していたかを調べてみました。


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 ↑ラドゥ・コルネ大佐(Wikipediaから)



 またぞろ、日本語版Wikipeida「ラドゥ・コールネ」が簡潔で分かりやすかったので、引用してみます。

ラドゥ・コルネ(Radu Korne, 1895年12月13日 - 1949年)は、ルーマニア王国の軍人。最終階級は少将。

ブカレストのボイヤー(貴族)出身。本来の姓の表記はCorneaだが、ラドゥは年代記にて記されていたKorneを好んで名乗った。

1913年、トゥルゴヴィシュテの騎兵士官学校に入学し、15年卒業。騎兵第4連隊「マリア王妃」第703機関銃分隊長として第1次世界大戦に従軍。7月31日〜8月13日にかけてタラパン高地にて行われた第二次オイトゥズ会戦で砲撃に巻き込まれ負傷するものの、8日後に護送されるまで前線を引かず指揮し続けた。この勲功により、3等ミハイ勇敢公勲章(英語版)を受章。ハンガリー・ルーマニア戦争では第2機関銃大隊長。

戦後、上級戦争学校を経てフランスに留学。帰国後はシビウの騎兵特別学校教官に就任し、以後長らく教育畑を歩んだ。

第二次世界大戦勃発当時、第5騎兵旅団隷下の第6騎兵連隊長であった。1941年6月22日独ソ戦が始まると第6騎兵連隊はかねてよりソ連に支配されていたモルドバに進軍。要所を次々と陥落させた。

1941年7月22日、第6騎兵連隊隷下の山砲3個大隊を分離再編させ「コルネ」自動車化騎兵集団(2個自動車化騎兵連隊規模)を編成。8月上旬までにブグル(Bugul)を経てドニエプル川まで進軍を果たした。

9月25日、ソビエト赤軍第9軍および第18軍は大規模な反攻作戦に転じた。第5騎兵旅団はアキモフカにて深刻な打撃を受け撤退を余儀なくされるが、第6騎兵連隊は戦線を維持し続けた。これにより2等ミハイ勇敢公勲章を受章。

翌1942年、かねてよりセヴァストポリ攻略に苦悶していた第11軍司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、コルネ大佐にクリミア半島への転進を命じた。第6騎兵連隊および第10騎兵連隊、第54砲兵師団、一個対戦車大隊および二輪車部隊から編成されたコルネ支隊は、3月5日半島南部のフェオドシヤに上陸。ただちにグロデック旅団の指揮下に編入された。ケルチ郊外の戦いにおいて、重要な役割を果たし、16万人以上を捕虜にした。

1942年に第3騎兵旅団、1942年から1943年に第8騎兵師団を指揮した。1943年10月、第8騎兵師団は第8装甲騎兵師団に改編される計画であったが、実際は1944年8月まで装甲化されてはいない。同旅団はマンシュタイン指揮下のドン軍集団ルーマニア第4軍の下で作戦行動を行い、スターリングラードで包囲されたフリードリヒ・パウルス将軍の包囲解除を試みた冬の嵐作戦に参加した。1942年12月18日、騎士鉄十字章を授与された。

1944年4月から第1装甲師団の司令官に親補された。敗戦の濃くなった8月20日、バフルイ川南部にソ連軍の大規模な部隊が押し寄せた。第1装甲師団はスコブルツェニにて戦闘を展開。これは連合軍との最後の大規模な戦闘となった。23日、宮廷クーデターによりイオン・アントネスク政権が崩壊。

1944年9月、予備役に編入され、間もなく逮捕された。1946年に釈放されたが、1948年に再逮捕され、軟禁の上で病死した。







 マンシュタインは大きな装甲部隊を持っていなかったため、即席の「ツィーグラー支隊」(ハインツ・ツィーグラー大佐は、ドイツ軍第42軍団の参謀長でした)を、第190突撃砲大隊やルーマニア軍のコルネ旅団(ラドゥ・コルネ大佐は、ルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人でした)、その他の雑多な自動車化部隊によって編成します。彼らは素早く前進し、わずか2日でシンフェロポリ(F18.08)郊外に到達しました。
『Crimea: Conquest & Liberation Playbook』P22



 ↓OCS『Crimea』の「ツィーグラー支隊」と思われる構成ユニット。右側がコルネ旅団です。

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 英語版も含めて、Wikipedia上に書かれているコルネが指揮したという部隊の名称が、OCSゲーム上に見つからないことが多いのですが、とりあえず……。




 ↓OCS『Case Blue』のコルネ連隊。

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 ↑これは『Case Blue』の扱う前半の時期のものなのかもです。





 スターリングラード攻略戦、および冬の嵐作戦の時にはコルネは第8騎兵師団の指揮を執ってそれらに参加していたというのですが、OCS『Case Blue』には第8騎兵師団のくくり(複数ユニットフォーメーション)でユニットが入っていません(第7、第9騎兵師団は複数ユニットフォーメーションで入っているのですが!)。

 OCSでは、割とばらばらに使用されていた師団などではそういうことがあって(例えば、イギリス第6歩兵師団は枢軸国の情報機関を欺くために第70歩兵師団へと改称された(付:OCS『Reluctant Enemies』、『DAK-II』、『Burma II』) (2021/06/06))、それ自体はいいのですが、じゃあ具体的に第8騎兵師団の隷下のユニットがどれであるか、調べようとしてみたのですが……。


 ↓OCS『Case Blue』の冬の嵐作戦シナリオの初期配置。

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 ↑ルーマニア軍の騎兵ユニットが4つほど見えています。この中に第8騎兵師団と、第5騎兵師団があったらしいです。


 ところが、手持ちの資料で(楽をしようと)戦闘序列の表を探してみたのですが、見つけられず。文の中を探せば隷下の部隊は分かるのかもですが、面倒なのでパスで(^_^;

 とりあえず見つけられたのは、以下の2つの記述でした。もしどなたか分かりましたら教えて下さい!(>_<)

・Group Popescu (General Korne's 8th Cavalry Division, two regiments of 5th Cavalry Division, and Group von Pannwitz)
『Companion to Endgame at Stalingrad』P319

5th Cavalry Division Col. Dumitru Popescu
8th Cavalry Division Br-Gen. Radu Korne
『Stalingrad Battle Atlas Volume IV』P94








 OCS『The Third Winter』の期間においてコルネは、ずーっと第8騎兵師団長、そして最後の最後で第1装甲師団長かと思われます。

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 OCS『Case Blue』の時にはアクションレーティングが4で頼りになりましたが、OCS『The Third Winter』の時期にはアクションレーティング2が基本で、なかなかつらいものがありますね……(T_T)


クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したリッター・フォン・ショーベルト将軍について

 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーを訳していまして、クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したというリッター・フォン・ショーベルト将軍(ドイツ軍の将軍で第二次世界大戦中に最初に(前線で?)死亡した。また、その後任がフォン・マンシュタインでクリミアを攻略した)について興味を持ったので、調べてみました。


Eugen von Schobert

 ↑リッター・フォン・ショーベルト将軍(Wikipediaから)


 簡潔で分かりやすかったので、日本語版Wikipedia「オイゲン・フォン・ショーベルト」の記述をまず挙げてみます。

ヴュルツブルクにバイエルン王国軍少佐の息子として生まれる。1902年7月にバイエルン王国軍に入隊。1904年に少尉に格別の優秀な成績によりルイトポルト・フォン・バイエルン王太子に賞されて任官。第一次世界大戦では全期間を通じて西部戦線に従軍、塹壕戦や浸透戦術に格別の能力を示し、負傷すること数回。その功によりバイエルンの最高軍事勲章であるマックス・ヨーゼフ勲章 騎士章を受章し、騎士(Ritter)の称号を叙された。第一次世界大戦終了後もヴァイマル共和国軍に留まることができた。1929年にベルリンに転属となり、高級参謀教育を受ける。1933年12月に歩兵総監に就任。第17歩兵師団、第33歩兵師団(ドイツ語版)長を経て、1938年2月に歩兵大将に昇進し、直後に第7軍団司令官に任命された。

1939年9月のポーランド侵攻時には南方軍集団に所属した第7軍団を指揮し、フランス侵攻時にもA軍集団の第16軍に所属した同軍団を指揮した。1940年6月29日に騎士鉄十字章を受章。1940年9月に第11軍の司令官に就任した。1941年6月のバルバロッサ作戦では第11軍は南方軍集団に所属した。

しかし、作戦偵察中に搭乗していたシュトルヒ偵察機がソ連軍の地雷原に墜落し、パイロット共々戦死した。1941年9月15日に葬儀が執り行われた。

フォン・ショーベルトはナチズムの信奉者として知られており、第11軍司令官当時にはソ連軍の政治将校や政治活動をする占領地の民間人を即時処刑するよう命じた「コミッサール指令」を下達している。


 ドイツ語版Wikipedia「Eugen Ritter von Schobert」によると、ナチズムの信奉者として活動していたことから恩恵を受けて出世が早くなったそうです。ただし、1939年10月に第16軍の司令官に同輩のエルンスト・ブッセが任命された時に、挫折を味わったとか(ブッセも同様にナチズムの信奉者でしたが、フォン・ショーベルトの方が先任?であったので)。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第7軍団司令部ユニット。

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 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーンの初期配置上の第7軍団司令部の位置。

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 バルバロッサ作戦中にフォン・ショーベルトの第11軍司令部は、ルーマニアの名目上の最高司令官アントネスクの参謀として機能したとかなんとか……ってことも少し興味深いのですが、そこらへんはOCSでゲーム化されていないので無視しまして(おい)、OCS『Crimea』のマップ上の出来事としましては……。


 ↓OCS『Crimea』のシナリオ1の初期配置。

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 8月12日、フォン・ショーベルトはドニエプル川に向かって進撃し、クリミアへ入るためにそこに橋頭堡を確立するようにという新たな命令を受け取りました。ソ連軍とは後衛との局的な小競り合いがあっただけで、ドニエプル川北岸のBerislav(Beryslaw)にはすぐに到達することができました。

 Berislavは赤い○のF17.35の北側のヘクスだと思われます。スターリンはドニエプル川の線を何としてでも保持するよう命令していたため、8月30日から9月5日までこの地域で激しい戦闘が展開されましたが、その間にフォン・ショーベルトはドニエプル南岸に橋頭堡を形成することに成功します。そして9月10日までにはソ連軍をメリトポリ方面に押し返しました(赤い破線の矢印)。

 さらにフォン・ショーベルトが投入した第54軍団の偵察部隊はクリミア半島への入り口にあたるペレコプ地峡まで進みました(赤い実線の矢印と、赤い□)が、そこで激しい抵抗に会い、小兵力の急襲だけでは突破できないと思われると報告します。

 その同じ9月12日、フォン・ショーベルトはフィーゼラー・シュトルヒに乗り込み、先遣師団の司令部へと飛びました。理由は不明ですが、おそらくはソ連軍の機関銃による対空射撃のために着陸せざるを得なくなってソ連軍の地雷原に突っ込み、直後に機体は爆発。フォン・ショーベルトとパイロットの両名は死亡したのです。

 1941年9月16日、ブク河口の軍港ニコラエフの第11軍司令部では、前任司令官リッター・フォン・ショーベルト上級大将の葬儀が執り行われていた。ショーベルト将軍は、空中偵察の際にソ連軍地雷原に不時着、爆死してしまったのだ。葬儀はしめやかな弔意にみちていた。
 しかしその一方で、参謀長ヴェーラー大佐の以下の第11軍首脳部は不安を禁じ得なかった。新任司令官【フォン・マンシュタイン】は第11軍の担当している東部戦線の南端、最右翼の部隊という重圧に耐え得る人物だろうか? 前任者のショーベルトはバイエルン人らしい率直さで軍の信頼を勝ち得たものだった。プロイセン人だという新任司令官はうまくやれるか? 第11軍の指揮下には山岳猟兵(ゲビルクスイェーガー)が多い。彼らの多くはバイエルン人なのである。
『灰緑色の戦史 ドイツ国防軍の興亡』P162

 ショーベルトが干渉しないタイプの司令官だったのに対し、マンシュタインはすぐにあらゆる作戦立案の中心となっていった。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P352,3


 ショーベルトは第二次世界大戦で亡くなった最初のドイツ軍の将軍であり、ヒトラーの命令によってドイツ国内で盛大な葬儀が営まれたそうです。

 東部戦線における処刑などに関するフォン・ショーベルトの関与等も、前掲ドイツ語版Wikipediaには色々記載されていました。




 フォン・ショーベルトの死後5日目の9月17日に、フォン・マンシュタインは第11軍司令部に到着しました。

 攻撃に先立ち、【第11】軍司令部はロストフとクリミヤの両正面の指揮がしやすいアスカニア・ノヴァ【赤い☆印の湿原地帯】に移っていた。ここには有名な動物園【広大な野生動物保護区】があり、多くの動物が放し飼いにされていた。作戦主任参謀のテオドル・ブッセ大佐が作戦立案に熱中していると、迷い込んだ鹿に突きとばされたなどという珍事も起こったのである。
『灰緑色の戦史 ドイツ国防軍の興亡』P166


(ただしゲーム上では第11軍司令部はヘルソンの方に置かれています)



 OCS『Crimea』の(時期的にも)最初のシナリオであるシナリオ1:「通過儀礼」は、41年9月26日ターンから始まります(12月26日ターンまでの28ターン)。史実では攻撃自体は9月24日に始まり、きわめて激しい戦いで、数百年前にタタール人によって築かれた壕まで前進。そして、26日のその壕と壁への強襲が始まったもののようです。

OCS『KOREA』12「リッパー作戦」シナリオのバランス改造案

 この土日、OCS『KOREA』のシナリオ12「リッパー作戦」をVASSAL対戦してました。

 史実で国連軍が勝利した戦いなのですが、プレイしてみた感じ、国連軍が楽勝すぎる(共産軍がどうしようもなさすぎる)気がしたので、今後プレイする際のためにもバランス改善案を考えてみました。



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 ↑全9ターンで、国連軍がソウルの3ヘクスと春川(チュンチョン)を占領していれば勝利します。共産軍はソウルの1ヘクスと春川(チュンチョン)を占領していれば勝利します。それ以外は引き分けです。

 史実では、国連軍が3月15日(第5ターン)にソウルと洪川(ホンチョン)を占領、22日(第7ターン)に春川(チュンチョン)を占領し、作戦自体は3月いっぱい続いたのだとか。

 しかしゲーム上では、国連軍側が兵力も多く、アクションレーティングも高く、しかも航空兵力が暴威であるのに対し、共産軍側は貧弱な戦力しかなく、洪川(ホンチョン)などは第1ターンに一撃で陥落しますし、ソウルや春川(チュンチョン)の陥落も史実のスケジュールなどあり得ないだろうと見込めました。


 ただしシナリオ改造前に、できるだけの努力として共産軍側が最初のリアクションをかなりうまくやることが必要だろうと思います。

 その場合恐らく重要なのは、ソウルの東4ヘクスの場所にある12-3-3の歩兵で、これが戦闘フェイズ中に抜かれるとひどいことになります。なので、予備マーカーをうまく設定して、ステップをこのヘクスに入れたり、攻撃側に砲爆撃すべきだと思われました(ただし、国連軍側がここを狙わないとか、ここを狙うと見せかけて別の場所を狙うということは当然あり得ます)。

 当然、春川(チュンチョン)側の戦線でも予備を重々うまく設定すべきです。初期配置ではこちらにアメリカ海兵隊(アクションレーティングが高く、ヒップシュートの観測もできる)がいますし。



 もしシナリオ改造するなら、その時に使えそうな案を複数考えてみました。

1.初期配置での共産軍側のステップロスマーカーをすべて除去する。

2.国連軍のうちイギリス連邦軍と「その他の国連軍(薄いグレー)」は、移動で自ら敵ユニットに接することができない(最初から接している、あるいは敵から接してくる、退却で接するのは問題ない)。

3.国連軍のうち韓国軍も、以下同文。

4.シナリオ設定では両軍とも増援を(5SPずつのみしか)出さないことになっているが、キャンペーン用の増援を両軍ともに補給源に出す。この場合、シナリオ初期配置では共産軍に航空基地がないが増援で航空ユニットが出てくるので、シナリオ5.11にピョンヤンにレベル2航空基地があるのに倣って置く。
(シナリオの期間である51年3月中、共産軍は大量の増援が出てきますが、国連軍側は1ユニットしか出てきません)


 ただし、4は即効性が低い割に労力が非常に増えるので、せっかくの1マップで手軽にできるシナリオなのによろしくない気がします。個人的には、1と2を導入して試してみたいところです。3も入れると、国連軍プレイヤーにとっては結構チャレンジングになる……といいなぁ。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団の連隊長と参謀長の更迭について

 トングー戦の時期に、日本軍の第55師団は連隊長と参謀長の更迭が行われたそうで、その件について戦史叢書『ビルマ攻略作戦』に述べられていました(P299,300)。


 ↓現状の第55師団ユニット。

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 連隊長というのは第112連隊長であった小原沢幸蔵大佐で、これまでの戦闘で多数の死傷者を出して神経衰弱気味であり、爾後の行動に積極性を欠いていたそうです。それで3月19日にピユ付近の敵(中国軍)を撃破して占領した日に、連隊副官から「連隊長の神経衰弱が昂じ、部隊の指揮がとれなくなった」と報告がありました。

 師団の方でも連隊長の更迭を考慮していた際でもあったので、先任大隊長に指揮をとらせて連隊長はラングーンの兵站病院に後送することにしたそうです。

 後任には棚橋真作大佐が任命され、4月3日に着任しました。


 私は以前、洋書か何かで「第55師団のいずれかの連隊長が積極性を欠いていたとして、後に更迭された」という記述を読んでいたような気がしていたのですが、これなんでしょうね。私は「指揮官の性格が積極性を欠いていた」あるいは「戦果の課題報告」とかからと思っていたのですが、そうではなくて心労のためだった?

 また、新たに連隊長となった棚橋真作大佐は、後に第2次アキャブの戦いでその時第55師団長であった花谷正中将から督戦されるも独断撤退し、終戦後割腹自殺したことで知られ、高木俊朗氏の『戦死 インパール牽制作戦』で詳しく扱われています。





 『戦死』を読んだ印象では、棚橋真作大佐は立派な人であったと私は思いましたし、指揮能力も高かったように思われました。



 閑話休題。

 第55師団の参謀長の方の話ですが、師団司令部内では出征以来(第55師団はタイ、ビルマ方面が初の出征)、「師団長と参謀長をはじめ高級副官その他幕僚との間はとかく折り合いが悪く、特に参謀長とはことごとに反発し合っていたといわれる。その結果師団がトングーに向かって北進中、師団長(竹内寛中将)はついに参謀長の更迭を上申するに至った。」とのこと。

 新たな参謀長は久保宗治という人でしたが、特筆されるようなことはなし? 更迭された参謀長の名前は記されていませんでした。



 第55師団の2つの連隊のアクションレーティング(AR)なんですが、現状私は第112連隊をAR3とし、後から来る第143連隊をAR4としています。最初は両方とも3にしていました。一方、第33師団の先に出てくる連隊2つはAR5です(後で追いついてくる連隊1つはAR4)。

 最初に第55師団の連隊2つをAR3にしていた理由なんですが、「(日本軍をひいきし過ぎて)あんまりぽんぽんARを高めにしたくない」「ARが低い部隊があったり高い部隊があったりした方が良いじゃないか」という思いがあり、第33師団のARは高めにせざるを得ないとしても、第55師団のARを低めである3にできないか……という思いがあったのでした。

 ところがその後、ツイッター上で英語圏の日本軍マニアだという人から「第55師団のARが低すぎるのではないか。第55師団は出征前にジャングル戦の訓練を受けていたのだから、もっと高くすべきだと思う」というような指摘をいただきまして、悩んだ挙げ句、少し遅れて登場する第143連隊の方を、「ゲーム登場前にマップの南方域ですでにいくらか戦闘を経験していたから」という理由を頭の中でむりやり付けて、AR4に上昇させました。が、第112連隊の方は「ARが低いユニットもあった方が面白い」という理由にしがみついてそのままにしていたのでした。

 ところがここに来て、第112連隊のARが低めであるべき理由が見つかって、「よっしゃ」となりました(バキッ!!☆/(x_x))


 しかし逆に、連隊長がこの頃更迭され、指揮能力が高めかもしれない棚橋真作大佐が新連隊長になったとすると、「AR4とかの差し替えユニットを用意して、差し替えすべき」という説が頭をもたげてくるかもしれません。

 まあそれはそれでもしかしたらアリかもしれないので、今後考えていくということで……(反論としては、連隊長のみでARが決まるものではないでしょ、というのもあると思います(^_^;)。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:トングー戦の時期の中国軍の動き

 トングー戦の時期の中国軍の動きについて、主に陸戦史集『ビルマ進攻作戦』に記述があったので、地図にしてまとめておきたいと思います。


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 ↑は、OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から (2023/10/15)で作っていた中国軍の配置図を元にして、そこからの移動を記したものです(第200師団の表記位置はトングーに移動させましたが、他の部隊の表記位置は元のままです)。



 以下、OCSのターン(3.5日毎)を最後に付けて記します。


 日本軍は3月15日以降にトングーへの北進をはじめます。17日に最初の戦闘があり、18日、19日と続きましたが、この3日間の敵は英印軍(第1ビルマ師団隷下?)でした。(3月15日ターン~19日ターン)

 20日にニャングチダウクで初めて中国軍(第200師団隷下の第598連隊)と衝突します。(3月19日ターン)

 22日にトングーのすぐ南のオクトウィンにあった中国軍陣地で激戦となり、ようやく24日にこれを占領。(3月22日ターン)

 26日からトングー戦が始まりましたが、中国軍の陣地は固く、また守備する中国軍第200師団約3000名の戦意は高く、日本軍の第55師団はその攻略に手こずります。(3月26日ターン)

 この頃、ラングーン港に日本軍の増援の第56師団が到着し始め、その第56捜索連隊、およびこの方面に配属を受けた重野戦砲兵第3連隊、航空爆撃隊の協力により、30日にトングー攻略に成功したのでした。(3月29日ターン)


 OCSのターン的には、トングー戦の南での北進しながらの前哨戦が3ターンあり、トングー戦自体は3月26ターンのものが失敗して、戦力を追加して次の3月29日ターンのものが成功した、という感じでしょうか。








 中国軍側の動きは以下のように書かれていました。

 3月22日、スチルウェルはトングーの第200師団を救援するために、第6軍の第55師団(55T)主力にカレン山地からの移動を命じます。この移動命令が実行されたかどうかまでは書かれていないのですが、この頃だったかにモチ(Mawchi)に中国軍の連隊が入ったという記述をどこかで見た気がします(またもや、今回どこにその記述があったか見つけられず! トホホ……)。

 この頃、第22師団はピンマナに、第96師団はマンダレー方面に移動。

 日本軍の一部がトングー北西のトングー飛行場を占領したのに対し、3月24日にスチルウェルは第5軍の訓練部隊の第1、第2予備連隊をトングー北方地区に進出させ、飛行場を奪回するように命じます。ただし命令は受領されたものの実行されず。

 3月26日までに第22師団はピンマナに着いており、列車輸送でトングーに前進させようとしたのですが、地方官憲の連絡ミス等で鉄道運行が不能になったそうです。

 3月30日に第200師団はトングーの陣地を放棄して、エダッセ以北で陣地を守備していた第22師団を超越して撤退しました。






 中国軍については、今回のような「ミスで動けなかった」という話以外にも、中国軍の軍司令官や参謀達が、蒋介石による「部隊温存」の意向から部隊を移動させようとしなかったという話もありますし、師団毎に「移動チェック」をして失敗すると動けない、とかってルールを織り込むと良いのかも?

 あと、私は個人的にOCSにおける「反陣地主義者」であることもあり(おい)、これまでのOCS『South Burma』(仮)では「両軍とも陣地は建設できません」というルールを入れていたのですが、今回のトングー戦の記述を見るに、陣地を出さなければならないですね……(^_^;

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の連合軍の新作戦態勢

 これまで、陸戦史集『ビルマ進攻作戦』から、ラングーン陥落後の日本軍、英印軍、中国軍の作戦計画についてまとめてました。





 同書で続けて、「連合軍の新作戦態勢」(P109~111)というのがあって、割と重要そうだなと思ったのでまとめておきます。というか、OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の英印軍の作戦計画 (2023/10/24)に描いてました第1ビルマ師団の推測の後退路は間違ってました(^_^;


 ↓その間違っていた地図。「1 Burma Div」から延びる赤い矢印の経路は間違いでした。

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 ↓今回作った地図。「1 Burma Div」はエダッセ(Yedashe)にまず撤退し、3月21日頃にそこで集結、その後タウンギー(Taungdwingyi)へ鉄道で移動したそうです。

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 3月19日までに中国軍の第200師団の前進部隊(戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P292によれば第598連隊)がピユ(Pyu)方面に進出しており、19日に日本軍から攻撃を受けてトングー周辺の主陣地に下がったそうです。


 時間的に遡りますが、第1ビルマ師団の3月11日~17日の動きは、『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』の地図からです。諸資料によると、ラングーン陥落後の第2段階での最初の戦闘は3月17日にキョクタガ(Kyouktaga)で起こったようです。


 画像には東西にまたがるようにして2本の赤線が引かれていますが、実はこれはマップ割(案)でして、上の線は一番南のマップの北端の線、下の線は真ん中のマップの南端の線です。前者は単純に、一番南のマップの南東端を決めた後のOCSのマップのヘクス数から自動的に決まった線なのですが、後者は「第2段階はプロームとトングーの少し南から始まったのだろうから、マップ間を1ヘクスだけ重ねるのではなく、南端をもっと南にずらしておいて、マップ2枚で第2段階全体を再現できるようにできれば」と思ってずらしておいたのでした。

 今回調べたことからすると、まさにその南端のキョクタガ(Kyouktaga)で第2段階が始まったわけですが、あまりにもギリギリすぎて困惑してしまいました(^_^; 本当にキョクタガ戦から始めるならば、さらに数ヘクス南にずらしておかないとダメなんじゃないでしょうか。しかし、ここらへんの戦いは小競り合い的なもので割とすぐにトングーに近づき、しかし3月22日にトングーの1ヘクス南のオクトウィン(Oktwin)で予想外の中国軍の抵抗にぶつかったということなので、マップ2枚シナリオ上では最初の数日分は省略するという方向性はあるだろうと思います。

 より重要なのは、プローム方面での(省略できなさそうな)戦いがどこらへんから始まったかでしょうか。そこらへん、今後見ていくということで。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の中国軍の作戦計画

 承前、ラングーン陥落後の中国軍の作戦計画についてです。今回も要約します。



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 これは3月中旬ころに中国軍が考えていた全般作戦計画だそうですが……(日本軍第15軍が入手していたもの。『ビルマ進攻作戦』P106~9)。

1.有力な一部でタイ・ビルマ国境(画像の右側)を守備する【タイ北部から日本軍が侵入する動きを見せていたため:赤色破線矢印】

2.別に一部でトングーおよびマンダレー街道【トングーからマンダレーへ通じる道】を守備し、要所を固守し、逐次日本軍を撃滅する。主力はマンダレー付近に置き、日本軍を誘引して深入りさせ、その後方の交通路を遮断し、爾後攻勢に転じて日本軍を捕捉撃滅する。

3.日本軍がもしマンダレー街道沿いに北進してくれば、ピンマナ(Pyinmana)、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)の各守備隊【水色破線】は、各陣地を固守し、日本軍に重大な打撃を与える。その際、トングー東北方の山岳地帯を根拠として遊撃戦法により敵後方に侵入し、連絡路を遮断して日本軍の前進を妨害する。

4.日本軍との会戦において万一不利に陥った時でも、必ずトングー、サジ、マンダレー以東の山岳地帯を確保し、ロイレム(Loilem)およびメイミョー(Meymyo)の両拠点【緑色破線】を核心としてこれを固守し、新国際路線【インドルートのこと?】を確保する。

5.【この項、かなり省略】日本軍がタイ・ビルマ国境から進出した時は、山地で頑張る。日本軍が英印軍方向に主力を向けた時は、そちらの方向に進出して英印軍と協力する。

 で、この計画は、「中国軍得意の<誘致導入、消耗撃破、遊撃ゲリラ>の戦法を基調とするものであった。」そうです。


 「山岳地帯からの遊撃」は、画像の水色の矢印で、確かにこれをやられたらイヤだと思います。逆に日本軍から見れば、この山岳地帯(の道路)を押さえることが重要であったとも言えますね。



 今回、個人的に非常に気になったのは、ピンマナ(Pyinmana)、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)の3箇所が固守地点に選ばれた理由についてです。固守地点に選ばれるにはそれなりの地形的な理由があるはずですから。

 というのは実は以前、1945年のビルマ戦について調べていた時に、日本軍はマンダレー街道を南進してくる英印軍をトングーで止めるということを意図したらしいのですが、その時に自分の作っていたマップを見てみたら、「トングーで止めるよりも、他の場所で止めようとした方が明らかにいいじゃん!」と思えるものだったのです(^_^;


 ↓その頃のマップのトングー付近。トングーより、その南の隘路で止めた方が良さそうです(平地ではありますが)。

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 ↓現状のトングー付近。トングーを小都市にし、荒地を隣にまで延ばしました(両方とも中障害)。

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 で、各地点に関して見てみます。まず、ピンマナ。

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 道路の結節点であるという意味においては非常に重要な場所だと思いますが、守りやすいとは思えません(^_^; むしろ、その南の隘路で敵を阻止した方がいいでしょう。今後資料を読んでいって、修正したいと思います。




 次に、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)について。

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 まだここら辺は平地を設定していないのですが、守りやすそうな気はしません……。あえていえばピヨベの方は、結節点だらけになる北方のサジやメイクテーラ(Meiktila)の前で止めるという意味では、重要な気はします。しかしサジの方は、メイクテーラの方や東方の道路からでも回り込みやすいでしょうから、すごく守りにくそうな……。

 ここらへんもまた、今後資料を読んでいく中で、検証・修正していこうと思います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の日本軍の作戦計画

 承前、ラングーン陥落後の日本軍の作戦計画についてですが、『ビルマ進攻作戦』(P96~103)上の記述が結構長いので、要点のみ記します。


 まずは基本的に、援蒋ルートのうちの「インドルート」というものが大きく関わっていたようです。


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 日本陸軍は「すぐに終わる」と考えて日中戦争(支那事変)を始めましたが、英米ソが蒋介石を援助し始めたこともあってズブズブの泥沼にはまっていきます(プーチンが「すぐ終わる」と考えてウクライナ戦争(特別軍事作戦)を始めたものの、欧米の援助で終わらなくなったのと同じです(>_<))。

 この軍事援助のルート(援蒋ルート)は複数ありましたが、次々に遮断、あるいは機能しなくなり、残っていたのは「ビルマ公路」だけになっていました。

 「ビルマ公路」は、ラングーン港に陸揚げした物資を鉄道でラシオ(Lashio)まで運び、あとは道路で中国国内に運ぶというものでした。が、これもラングーン陥落によって使えなくなります。そこで唯一残されたのが「インドルート」で、インド国内のインパールからビルマ中部のマンダレー、ラシオを経由し、中国国内に運ぶというものでした。が、ラングーン港と鉄道を使用するルートよりはかなり輸送量は少なくなっていただろうと思います。

(なお、その後このルートも使えなくなった連合国は、一時期ヒマラヤ山脈を空路越える「ハンプ越え」ルートを使用しましたが損耗が甚大で、1942年からビルマ北部を通るレド公路を作り始め、1944年後半に完成しました。……尤も個人的には、「他にもルートがあり得るのでは」と思ってOCS『Burma II』のマップを見てみたら、インドウ(Indaw)を経由するルートは一応あるのではないかと思いました。しかしそれ故、1942年の日本軍はインドウ辺りまでは一応行っておかねばならなかったのだろうと思います。まあ、すでにメインの戦いは終わった後の掃討戦でですけども)


 で、↑の事情を勘案すると、ラングーン陥落後の連合軍にとってはマンダレー(赤い□で囲みました)を保持することが「超重要」だということになります。地理的にも一番南ですし、ビルマ中部における最大の町でしたし。そのため、日本軍側は「連合軍はマンダレー周辺を保持しようとし、そこで大会戦が起こるだろう」と推測しました。

 そしてこの推測の未来の「マンダレー付近会戦」を「マン会戦」と呼んだそうです。『ビルマ進攻作戦』P99には「マン付近(マンダレーを中心とする中部ビルマ地方を広く包括する)」というような記述もありますが、「マン」という呼び方がそもそもあったというよりは、この頃に「そういう風に短縮して呼ぼう」としたということなんでしょうか……??




 まあそれはともかく、マン会戦までの作戦計画としては、おおまかに↓のようでした。

1.主攻撃は、英中両軍のうち中国軍の方に指向し、これに対しては戦機を構成捕捉して決戦を強要し、特に徹底的な打撃を与え、その再起企図を完封する。

2.マン会戦に先立ち、エナンジョン(Yenangyaung:油田があった)・マグエ(Magwe)付近【こちらは英印軍】の戦闘を一兵団で行わせ、務めてこれを殲滅して、爾後の会戦参加に支障がないようにする。

3.マン会戦の発起点は、エナンジョン、メイクテーラ(Meiktila)、タウンギー(Taunggyi)の線と見込む。

4.マン会戦に当たっては、重点を右翼に保持し、まず、すみやかに広くかつ深く連合軍の諸退路特に自動車道を遮断し、大包囲圏の完成を図るとともに,連合軍を分断し、その後随所にこれを撃滅掃討し、地形の利とあいまって完全に連合軍を殲滅する。
 遠大迅速な機動、要点の急襲占領確保、見敵必滅の意気の3つをもって、本作戦完成の要件とする。


5.半自動車化されている第56師団は、上陸後ラングーン~トングー道を経てタウンギーに向かい、務めて企図を秘匿して前進し、4月上旬までに同地付近に進出してタウンギー飛行場群を確保し、その北方または東北方に向かう爾後の作戦を準備する。




 ゲーム上でも、地形から見て第56師団が敵後方に回り込めるかどうかが重要な気がしますが、史実を知っているプレイヤーはそうはさせじとその道路上をより大きい兵力で守ろうとするかもしれません。

 あるいはまた、キャンペーンゲームや自由配置シナリオの場合には(現状アクションレーティングが最強にされている)第33師団をマンダレー方面に向けたりというようなこともあるかもですが、それはそれでバランスの問題として、英印軍をある程度以上撃滅できないとダメなようにすべきなのでしょうね……。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の英印軍の作戦計画

 陸戦史集『ビルマ進攻作戦』を読んでましたら、ラングーン陥落後の日本軍、英印軍、中国軍の作戦計画についてまとめられていたので、それぞれを引用し、地図にしておこうと思います。まずは、英印軍の作戦計画について。






 ↓今回、記述から作った地図。トングーとプロームは赤い□で囲ってあります。その北方にマンダレーやエナンジョンがあります。

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 このような状況をみたアレキサンダー大将は、日本軍の引き続く大規模攻勢を可能かつ必然と考えた。攻勢に対し、果たして連合軍がいつまで中北部ビルマを持ち得るかの見とおしを立てることが、アレキサンダー大将の目下の問題であった。

 当時連合軍がビルマに持っていた兵力は、手傷を負った第17師団、第1ビルマ師団、第7機甲旅団の計7個旅団基幹の英印軍と、中国2個軍(実兵力約2個師団相当)の実質総計約四個師団で、これを支援する航空機は約150であった。しかも、中国第6軍は連合軍の左翼を掩護するため、タイとの国境付近に張りついており、自軍を犠牲にしてまで、中部ビルマで生起する次の作戦に直接参加しそうになかった。結局劣勢の3個師団で日本軍に当たることになり、ビルマを保持できる期間は、一に日本軍が集中使用する兵力のいかんによって決まるであろうと思われた。

 そこで、アレキサンダー大将は、カルタッタでウェーベル大将から受けた口頭指令を念頭におきながら、日本軍を最大限遅滞させることによって、日本軍が他の方面に使用するかも知れない兵力と資源を、なるべく多くかつ長く、ビルマに吸いつけておき、できる限りそこで消耗させようと考えた。

 このため、ラングーンからエナンジョンおよびマンダレーに通ずる2つの河谷を掩護するように、イラワジ河谷には英印軍を、またシッタン河谷に中国軍を使用し、中国軍はそのままシャン州方面の左翼掩護に当てることにした。

 ところが、中国第5軍は、それがいかなる理由によるかアレキサンダー大将には当時分らなかったが、やはりトングー以南に前進することを強く拒んだ。種々努力はしたが致し方のないアレキサンダー大将は、全般の戦線をそろえるため、ラングーンからプロームに至る約200キロの地域をむなしく捨て、プロームとトングーを結ぶ東西の線を一般防御線として選ばなければならないと考えた。

 このことは、同大将が、ビルマを利用して日本軍を引きつけ、かつ、消耗させようとした作戦目的と、そのため広く地域を利用して時間をかせぐという戦いの原則に照して考えるとき、約200キロの地域を利用する縦深遅滞の時の利は失われ、逆に日本軍に、より早くエナンジョン油田や、マンダレー等の緊要な地点に迫る可能性を与えることになると思われた。すなわち、トングーの早期失陥の可能性は大きく、そこを失えば、トングーからシャン州に通ずる作戦路を日本軍に開放し、その結果、日本軍のこの方面からの迂回前進を許し、包囲される態勢になるからである。

 また、多量の貯蔵米があるカレン地区を早く放棄する結果、米を主食とする中国軍は一層苦しくなり、その持久がむづかしくなって、結局連合軍の持久日数を減らすことになろうと予測された。

 しかし、中国軍と連合を政戦略上の前提とし、かつ、当時状況が差し迫っていたので、アレキサンダー大将には何とも方法がなかった。そこで、シッタンで中国第5軍の南方にいた第1ビルマ師団と、サラワジー付近で集結中の英印第17師団とを、中国第5軍の第200師団がトングー付近の陣地に着き次第、西方のプローム方面に移動転進させるように決定した。結局第17師団、第1ビルマ師団および第7機甲旅団等の英印軍はイラワジ河谷で、また、中国第5軍はシッタン河谷で、作戦することに最終計画が決定された。

『ビルマ進攻作戦』P104~6



 まずびっくりしたのが、「航空機が150機であった」という記述。15機で1ユニットにしているので、10ユニット程度ということになりますが、現状ユニット化してあるのは5ユニット程度しかありません(^_^; まあ、可動機が150機あったのかどうか分かりませんが……。今後また情報収集で。


 それから、トングーとプロームを結ぶ線から第二段階が始まったということに関して、おおまかには知っていたものの、その詳しい理由については理解していなかったので「なるほど」と思いました。

 「カレン地区(カレン州)」というのは調べてみると薄く緑色で塗った領域で、カレン諸族が住んでいる地区のようです。この近くであれば中国軍の一般補給は楽なのだけども、そこから離れていくと苦しくなってくるということですね。


 それから、英印軍はイラワジ川沿いの線を守ることになり、第1ビルマ師団は西へ移動したわけでしょうけども、その際、トングーからプロームへ通ずるような道(小道)が、これまで見てきた地図には描かれていなかったようですし、マップ上にも描いてませんでした。ただ、その少し南に、赤い矢印で描いたようにして小道があるので、たぶん第1ビルマ師団はこの道を通ってイラワジ川沿いに移動したのではなかろうかと想像しました。

 多分史実でもそうであったように、ゲーム上で英印軍と中国軍は一緒には戦えないようにすべきでしょうし、そうすると、もし本当にトングーとプロームの間にまともな道がなかったならば、第二段階が始まる前に第1ビルマ師団は西に移動しなければならないでしょうし、また英印軍と中国軍とで戦区を完全に分けることが切実に必要だということになるだろうと思われました。そこらへんから考えると、現状のマップはこれはこれで良いと思われました。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第18師団の編成

 前回↓に続いて、第18師団の編成についてです。第18師団長はあの牟田口廉也中将であり、進撃を督励しまくったそうです。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第56師団の編成 (2023/10/19)



 第18師団の編制・編成は諸資料(主に陸戦史集『ビルマ進攻作戦』P239)によると以下の通りであったそうです(旅団司令部もありましたが、ゲームには出さない予定なので略します)。

第18師団
 歩兵第55連隊
 歩兵第56連隊
 歩兵第114連隊
 歩兵第124連隊(ビルマ戦には欠:川口支隊)
 騎兵第22大隊
 山砲兵第18連隊
 工兵第12連隊
(『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P371によれば、戦車第1連隊が第18師団隷下であるかのように書かれていますが、とりあえず無視?)


 歩兵連隊は3個大隊からなり、歩兵大隊は4個中隊からなります(ということは、第33師団と同様に7戦力となります)。

 騎兵大隊は乗馬2個中隊、機関銃1個中隊からなります。一方で、すでにゲームに登場している騎兵第55連隊は、乗馬中隊2、機関銃中隊1、戦車中隊(軽戦車2、装甲車6)1、速射砲中隊1からなっていたという話もあります。現状騎兵第55連隊は「テストプレイの結果、ゲーム序盤で英印軍後方に進出しまくってゲームを壊す可能性が高い」という理由から(^_^;、元々5戦力(5-4-5)であったのが1戦力減らされ(4-4-5)、しかも再建不能にされています。これを踏襲すると、第18師団の騎兵第22大隊は3-4-5の再建不能というところでしょうか……。


 山砲兵連隊は3個大隊からなり、うち2個大隊は山砲、1個大隊は野砲編成であったそうです。『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P372によると、「第18師団の山砲兵連隊は、各12門の2個大隊と、75mm野砲12門を持つ1個大隊からなっていた。キャウクセ(Kyaukse:マンダレーの少し南)でそれ(it)は、第3重砲兵連隊(1個大隊欠)の150mm砲8門を増援された。」そうです。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:砲兵部隊の具体的な砲の種類と門数 (2023/06/18)
OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第56師団の編成 (2023/10/19)

 ↑の計算とおまけの付け方からすると、

 山砲は0.257×12=3.084×3=9.252で9ですがおまけして、11くらい。
 野砲は第56師団のものそのままで、最終的に11くらい。

 「150mm砲8門」という話は、マンダレーのすぐ南あたりでの話ですから割と最終盤なので、そこらへんまで資料を読み進むまで棚上げにしておきます。


<2023/10/21追記>

 ミト王子さんからコメントいただきました!

 やはり「支那事変、大東亜戦争間の師団の編制」では、この師団の山砲兵連隊は改造三八式野砲12、九四式山砲18となっています。
 「日本騎兵史」によるとこの師団の騎兵大隊は恐らく昭和17年内のある時期に徒歩編制に改編されたようですが、恐らく進攻作戦後の話だと思われます。

 アジア歴史資料センターのレファレンスコードC14111053300によると、S14年9月14日時点では山砲大隊2、野砲大隊1で、山砲中隊は九四式山砲3、野砲中隊は三八式野砲3、としていますから、もしかしたら野砲は9門であったかも知れませんね。


 この場合、九四式山砲9門で1個大隊、九四式山砲9門で1個大隊、改造三八式野砲12門で1個大隊でしょうか。だとすると山砲大隊は火力が少し下がりますし、野砲大隊は射程が1に下がると思います(これは矛盾がないので、そうしてしまっていいのでしょうけど)。この微妙な差異……(^_^;

 『日本騎兵史』は私もコピーしてきていたので見てみると、P443に確かにそれらしき記述がありました。どうなんでしょうね。ここらへんも、他の資料の情報集積待ちで……。

<追記ここまで>




 第18師団がラングーンに到着したのは、4月7日夕だったそうです。

 が、これもまた全部がいっぺんに到着したわけではなく、歩兵第56連隊第3大隊基幹の部隊は、主力とは別にアンダマン作戦に参加しており、その作戦終了後、ビルマに追及して師団に復帰したとか。これは戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P241によると「4月17日夕刻にラングーンに到着」であったそうです。



 とりあえずユニット化してみました。

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 師団ストライプはもちろん、菊の花の黄色で。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第56師団の編成

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』で、第56師団の編成についての話が出てきました(P239)ので、その件についてまとめようと思います。


 第56師団はシンガポールでの捕獲車両により半自動車化されていたという話があり(全員は車載できないが、ピストン輸送する)、実際ものすごい大進撃をしたらしいので、移動力設定が問題となります。OCS的には、完全自動車化で無茶苦茶早いやつだと18とか20移動力、ドイツ軍の自動車化歩兵師団なんかは14移動力です。「半自動車化」ということを重視するなら10移動力とかって感じなんですが、マップ上を動かしてみると16とか18とかでないと史実通りにならない、ってことはあるかもと思います。



 その編制・編成は以下の通りでした。

第56師団
 歩兵第113連隊
 歩兵第146連隊
 歩兵第148連隊
 野砲第56連隊
 捜索第56連隊(実質大隊規模)
 工兵第56連隊
(『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P371の戦闘序列によれば、戦車第14連隊も第56師団隷下となっていますが……?)

 歩兵連隊は3個大隊、歩兵大隊は3個中隊よりなります。すると、基本的には6戦力となります。

 捜索連隊は3個中隊からなり、全員車載。


 野砲兵連隊は3個大隊、うち2個大隊は野砲、1個大隊は十榴【91式10センチ榴弾砲?】編成(後述の坂口支隊は野砲第1大隊を含んでいたというので、第1大隊が野砲でしょうが、第2、第3は不明。でもまあ、第2が野砲で第3が榴弾砲でしょうか?)。

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P372によれば、2個大隊が75mm野砲【90式75mm野砲?】、1個大隊は105mm砲であり、各大隊は12門を持っていたそうです。

 90式75mm野砲は最大射程14km程度で、1ヘクス8kmなので射程は2ヘクス? 機械化牽引用の機動90式野砲というのもあったようですが、日本語版Wikipedia「九〇式野砲」を見ている感じでは、この時期に投入された感じは受けません。尤も、機械化牽引用でなくても、自動車で無理矢理引っ張ったのでしょうか。第56師団は野砲も含めて完全自動車化の特別部隊を作って運用したらしいです(詳細はまた今後出てくるでしょうからその時に)。

 91式10センチ榴弾砲は最大射程10~11km程度で、射程は2ヘクスでしょうか。105mmだとすると38式というのと14年式というのがあったらしいですが、非常に重かったとか、後者は少数しか作られなかったとかって『第2次大戦事典②兵器・人名』にあって、その可能性は低そうだと素人考えでは思います。戦史叢書の方を信用してみようかと思います。


 各大隊が12門、ということに関しては信頼すると(おい)↓の計算方法からしますと……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:砲兵部隊の具体的な砲の種類と門数 (2023/06/18)

 75mm砲の係数0.257×12門=3.084。3倍スケールなので3倍して、9砲爆撃力。ですが、↑では少しおまけしている感があるので、10か11。

 100mm砲の係数0.3辺り×12門=3.6。3倍して、10.8。11砲爆撃力でしょうが、これもおまけして、12か13。


<2023/10/21追記>

 ミト王子さんからコメントいただきました!

 前に言及した「支那事変、大東亜戦争間の師団の編制」によると、第五十六師団の野砲兵連隊はこの時期、改造三八式野砲18、九一式十榴9とされています。

 アジア歴史資料センターのレファレンスコードC14060236100によると、S16年12月22日の編成完結時の野砲兵連隊の火砲は27門としています。(砲種記載なし)


 改造三八式野砲だとすると、射程は1が穏当っぽいですね……。また、門数が1個大隊につき9門ということになりそうです。そうすると火力が少し変わってきます。

 英語資料より日本語資料を信用した方が良いような気もしますけど、今後他の資料でもそこらへんの記述が出てくる可能性もあるかもですので、そこらへん期待したいと思います。

<追記ここまで>






 第56師団のラングーンへの海路での到着は3月25日とあります。



 が、第56師団も全部がいっぺんに到着したわけではないようです。

 坂口支隊(歩兵第146連隊、野砲兵第1大隊基幹)というのがあり、ジャワ攻略作戦に参加。ジャワ攻略後第56師団に復帰することになりましたが、当時東部ボルネオのサンガサンガの警備に任じていた久米支隊(歩兵第146連隊第1大隊基幹)を残して3月31日にジャワ島を出発してラングーンに航行、4月19日にラングーンに到着したそうです(『ビルマ進攻作戦』P239では「4月下旬、シャン州において師団に帰り、追撃作戦に参加した」)。

 坂口支隊はラングーンに到着するまでに合計158名の損害を出していたとか。ただ、これは連隊全部での損害でしょうから、計算しても各大隊の戦力を減らしておくほどではなさそうです。

 久米支隊は3月31日の南方軍命令により、同地の警備を海軍側に委譲し、その後連隊主力に追及してビルマに転進したとのこと(到着日時は書かれていません)。



 とりあえず、適当にユニットを作ってみました。

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 師団ストライプの色は、青龍っぽい感じで……。


<2023/10/20追記>

 工兵連隊が抜けていました……(T_T)

 上記のリスト上に追加しておいたのと、↓がユニットです。

unit8509.jpg


<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:第2段階開始時(3月19日)の英印軍の戦闘序列から

 ラングーン陥落後の第2段階開始時(3月19日)の英印軍の戦闘序列がある(*)ので、それ以前の戦闘序列や現状のユニットと見比べてみてました。

*:『The War Against Japan Vol.2』P454、『ビルマ進攻作戦』P245



 とりあえず、その戦闘序列にある部隊でまだユニット化していないものをユニット化してみました。前回の日本軍のものも一緒に。

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 それから、以前にOCS『South Burma』(仮)製作のために:1941年12月末時点でのビルマの英連邦軍の配置とその後の移動 (2023/03/30)で作っていた配置図と見比べてみました。

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 すると、3月19日の戦闘序列にはある「F.F.6」という部隊が↑にはないことに気付きました。それだと、ゲーム上でF.F.6がどこから登場すれば良いのか分からないので困ってしまいます。

 で、その前回の資料や、その元になったのであろうとも思われる『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』の戦闘序列も見てみたのですが、どうにも見つかりません……。

 まあ、困るのは困るのですが、「だって資料にないんだから」ということで、適当な場所に適当な時期に湧かせるということでいいのかもしれません。尤もその判断が困るのですが……。

(↑ここに書いておくことによって、この件について忘れないようにするということで)


 あと気付いたのが、この戦闘序列で「Line of Communication Troops」と書かれている一覧の中に、2 KOYLIやビルマ小銃大隊の3、4、6などの、ユニット化してある部隊が含まれていることでした。「Line of Communication Troops」というのは、OCS『Burma II』では後方連絡線を守備する弱体な部隊であるかと思います。史実でだいぶ弱体化していて、後方に回されていたのかもしれません。

 そこらへん、ルール化する可能性も考えましたが、まあそれらの部隊はデッドパイルにあるということで、よほど必要でなければそういう部隊をユニット化しない方向でいくということで……(ルールを増やしたくないので)。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:第33師団が中支に残してきた第213連隊と砲兵2個大隊の主力への追及時期

 第33師団は↓のようにユニット化していましたが、これらとは別にビルマ戦開始時には中支(徐州)に残置してきた部隊があり、3ヵ月遅れで主力に合流しました。
(ちなみに、第55師団も隷下の第144連隊が南海支隊として別行動していましたが、こちらはポートモレスビーでほぼ壊滅したそうです)


unit8525.jpg


 その遅れて追及してきた部隊は、↓のものになります(まだユニット化していません)。

第213連隊第1大隊
第213連隊第2大隊
第213連隊第3大隊
山砲兵第33連隊第1大隊
山砲兵第33連隊第2大隊


 これらがいつ主力に追いついたかが分からないといけないわけで、今回、少し調べてみました(今後また情報を見つけたら追記していきます)。

 以下、戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P243から(抜粋)。

 3月6日~8日の間にバンコクに上陸。【その後、陸路をラングーンに向かう】
 師団主力の前進開始【3月中旬】までにラングーンに到着したのは、歩兵団長荒木少将および先頭の第213聯隊第1大隊(長有延厳少佐)だけであった。



 以下、『私(達)の歩いて来た道 第三十三師団(弓部隊)歩兵第二百十三聯隊第二大隊第七中隊(及各部隊)の戦跡』から。

 私達第3梯団は3月13日列車にて泰緬国境に向かう【P134:第3梯団がどういう内容か不明】

 3月18日【頃?】【……】これより「ビルマ」領だという所につく。【P135,6】

 夜行軍を初めて4日目だったろうか、徒歩から軍用車(トラック)で一気に「ビルマ」の首都「ラングーン」に到着する。【P141:日にち不明】



 まあ、ほとんど何も分からないのと一緒です(^_^; が、今後情報集積ということで……。




<2023/10/19追記>

 その後、『歩兵第二百十三聯隊戦誌』というのをコピーしてきていることに気付きました(^_^;

 この本による記述を参考に、地図を作ってみました。第2大隊は少し遅れて追及していたようです。


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 前掲の戦史叢書『ビルマ攻略作戦』では、第1大隊は3月19日頃にはラングーンに入っていたかのようなので、やや合わない面もあります。

 が、とりあえずこの地図に挙げた『歩兵第二百十三聯隊戦誌』の記述に従うならば、登場の仕方は例えばこんな感じでしょうか?

「第213連隊(第2大隊以外)は、4月1日ターンに他の第33師団ユニットのいる道路/小道ヘクス(あるいはその隣の道路/小道ヘクス)に自由に到着させます。到着ヘクスには敵ユニット、あるいは敵ZOCがあってはいけません。また、到着ヘクスからラングーンまでの間の道路/小道ヘクスに敵ユニット、あるいは敵ZOCがあってはいけません。」


 第2大隊は、その一部(約250名)がアキャブ(『South Burma』(仮)の範囲外)へ派遣されたので、戦力が少し減った状態で登場することになります。以前、↓で計算していたやり方に従いますと……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団と第33師団の歩兵大隊の戦力について (2023/03/01)


 とりあえず、810名で6戦力であると仮定します。すると、810÷6=135で、1戦力は135名となります。

 第2大隊は990名から約250名が抜かれているので、990ー250=740。740÷135=5.48で、四捨五入すれば5戦力となります。

 尤も、990名とか810名とかってのは司令部要員103名を含んでいるので、戦闘要員だけ見れば四捨五入したら6戦力であろうとは思いますが、まあ、戦力が抜かれているのが分かりやすいのでとりあえず5戦力ということにしてみます。


 それで調整したユニット↓。

unit8512.jpg



 第2大隊ですが、「4月15日ターンにラングーンに登場」でしょうか。


<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍のラングーン占領の頃の兵力増強命令

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでましたら、第15軍がラングーンに突入する直前(3月4日)に、第15軍への兵力増強に関し大本営が命じた命令が載ってました(P181)ので、ゲーム上で関係してくる可能性がある部隊を抜粋引用しようと思います(工兵は今回、除いておきます。また、カタカナをひらがなに直しました)。


 前回の分は↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落あたりまでの第15軍麾下の独立部隊について (2023/10/14)



2 第25軍戦闘序列より除き第15軍戦闘序列に編入する部隊
 第18師団(歩兵第35旅団司令部、歩兵第124聯隊欠)(筆者注 その欠部隊は川口支隊である)
 第56師団
 独立速射砲第1大隊(留守近衛師団)
 独立速射砲第6中隊(留守第6師団)
 独立速射砲第11中隊(留守第5師団)【この部隊はすでに前の段階で送られていました】
 戦車第1聯隊(第56師団)
 戦車第2聯隊の軽戦車中隊(留守近衛師団)【この部隊はすでに前の段階で送られていました】
 戦車第14聯隊(第23軍司令官)
 野戦重砲兵第3聯隊(甲)(筆者注 15榴)(留守第3師団)
 野戦重砲兵第18聯隊(乙)(筆者注 10加)(第61独立歩兵団)
 野戦重砲兵第21大隊(1中隊欠)(筆者注 15榴)(留守第3師団)【前の段階の、独立混成第21旅団砲兵隊 (第21師団から)と同一か?】


 ゲームに関係してきそうなのは以上ですが、(甲)とか(乙)とかって何でしょう? 甲が優秀な部隊で、乙はそれに次ぐ部隊ってことでしょうか。また、(留守~)とかってのは元の部隊のことかもですが、「戦車第1聯隊(第56師団)」とあるのは、第56師団が前線に来るのですが、いやそれでも元の部隊は第56師団だったってこと?

 色々全然分かってません(^_^; (分かる方、教えていただければ幸いです~)


OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から

 先日、中国軍の初動について地図付きで書いてましたが、その前に一度文字のみでまとめていたものがありました。

先日の:OCS『South Burma』(仮)製作のために:1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について (2023/10/10)
より前の:OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマで戦った中国国民党軍について (2023/03/31)

 より前の記事を読み返していますと、中国軍は英印軍から補給を受けていたようです。あ~、OCS的に問題なさそうで良かった(^_^;



 で、少し手持ちの資料で他に探してみたら、『中国=ビルマ=インド』(ライフ第二次世界大戦史)という本に、かなり面白く中国国民党軍の初動について、スティルウェルを中心にして書かれていました。





 ↓後述の本の地図を元に関連地図を作ってみました(P82の次のページのMAP 3から)。

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 ラングーンは陥落しており、一番南に3月19日時点での前線(赤い破線)があります。英印軍はプローム(Prome)から北の軸を防衛し、中国軍はトングー(Toungoo)から北の軸を守るという風に役割分担されていました。

 前回の地図で私は中国第5軍はプーアル?方面からかのように描いていましたが、今回の地図を見てると(ミト王子さんから教えてもらった話からしても)ビルマロード沿いに昆明方面から来たのかもです。

 紫色の破線のラインは後の資料に出てくる、蒋介石の考えていた防衛ラインです。


 その弱点だらけの防御線を日本軍の意のままにさらしておくよりはと、もともとが攻撃的なタイプの司令官であったスリムとスティルウェルは、ラングーンに向けて反攻に出ることを考えた。しかしこのような作戦行動に出るためには、スティルウェルは、配下の中国軍を移動させる必要があった。彼は蒋介石から第5軍、第6軍および第66軍の3つの部隊を与えられていた。それぞれアメリカ軍の1個師団にはほぼ相当する規模である。このうち第66軍は、ビルマ公路がサルウィン川の峡谷を渡るあたりのビルマとの国境を守るために、中国にとどめておくことになっていた。残る2軍のうち、第5軍の第200師だけが防御線の東端のトングー付近で実際に日本軍に対峙する位置にいた。しかもそこは、そのときすでに敵に包囲される危険にさらされていた。第5軍の残る第22師および第96師の2個師はまだ中国を発進していなかった。補給物資が到着するまで待つ必要があるというのが重慶側の説明であった。たとえ準備が整って前進したとしても、中央部のマンダレー付近までしか出てはならないことになっていた。スティルウェルは、トングーの第200師を救助するためにこの2個師をただちにビルマに移動する許可を求めたが、蒋介石はこれを拒否した。スティルウェルに与えられた中国軍のうち、残る第6軍は確かにビルマに入りはしたものの、ビルマ公路を東北部のシャン州まで下ってきただけだった。

 彼らがその地点にとどまって動こうとしないのは、タイ北部から国境を突破して日本軍が進入してくるのを阻止せよという、蒋介石の命令があったからであった【ちなみにこの時、日本軍はタイ軍と合同で、タイ北部国境からビルマへと侵入しようとするかのような囮作戦を行っていました】。

 3月19日、激しい議論ののち、スティルウェルはようやく、トングーの危機に陥っている第200師の救援のために第22師をビルマに移動させるという了解を取りつけた。- 少なくとも取りつけたと考えた。彼はさっそく、中国第5軍の司令官杜聿明に必要な命令を出した。ところが杜も、フランスで教育を受けたインテリだという第22師の師長廖耀湘少将も、怠慢ということにかけては大の達人だった。くる日もくる日も彼らは、何かと口実を見つけては第22師を戦闘に参加させずにすませようとした。鉄道輸送に問題がありすぎる、途中があまりにも危険である、日本軍の戦車隊が多すぎる、廖師長としては増援部隊を待ちたい、日本軍の先遣隊が入り込んでいるので連隊の移動は不可能である、などといった調子である。スティルウェルに話しかけられそうだと見ると、杜は自分の部屋に逃げ込んでしまったり、大声をあげて部下に当たってみせたりするのである。「腰抜けども」と、スティルウェルはあとで杜と廖のことを書いている。「撃ち殺してしまうわけにもいかない。首にするわけにもいかない。……といって話をするだけでは何の効果もない」。

 アレクサンダー将軍も、前線に杜将軍を訪れ、野砲をどこに配置したかと尋ねたとき、スティルウェルが直面している問題をある程度理解した。杜は野砲は引き揚げたと答えたのである。「しかし、それでは役に立たないでしょう」とアレクサンダーは尋ねた。

 「閣下」と杜は答えた。「第5軍はわが国最良の軍隊ですが、それは第5軍だけがともかく野砲をもっているからなのです。ですから、この砲は大切に扱わなければなりません。万一壊してしまったら、第5軍はもはや最強軍ではなくなってしまうのですから」。


 杜がこうした態度に出たのは、あらゆる可能性から考えて蒋介石の指示によるものと思われた。蒋介石は当初、自説である縦深防御理論を固守して、第200師を増援するというスティルウェルの案に難色を示したのであった。スティルウェルは蔣総統からビルマ戦線の指揮をまかされていたとはいえ、文書による辞令ではっきり司令官として任命されたわけではない。それで彼の指揮下に入った中国軍の将官たちも、いちいち重慶の指示を仰がないでは、スティルウェルの命令に従おうとはしなかったのである。

 蒋介石はビルマ作戦に関しては終始、しばしばスティルウェルを通り越して直接杜やその他の将官たちに指令を出すことをやめなかった。蔣は、2500キロも遠く離れたところから連隊レベルにいたる作戦命令まで自分で出そうとしたものである。しかもその命令は、「情勢の些細な変化を根拠として、行動と戦備を根本的に変更するといった具合のものであった」とスティルウェルは書いている。時には遠くからの指令が前線に届いたころには、時機を失して命令そのものがばかげたものになってしまっている場合もあった。全作戦を左右する重大な局面で中国軍が絶望的な戦いを続けていたとき、スティルウェルは総統閣下から次のような命令を受け取った。「兵士がのどがかわいているときは、士気回復に西瓜がよい。4人当たり1個ずつ、西瓜を配給せよ」。

 結局、第22師はトングーの戦闘には最後まで参加しなかった。第200師は孤軍奮闘を余儀なくされ、そのため、ラングーンに迫ろうというビルマ作戦中唯一の連合軍側の攻撃も、行動開始前に内部から混乱し、責任のなすりあいになって崩壊してしまった。
『中国=ビルマ=インド』P23,4



 これを読んで、「そういえばスティルウェル関係の本は何も買ってないけど、スティルウェル関係の洋書から攻めるという方法はあるなぁ……」と思ったので、少しそこらへんの洋書がないか調べてみました。その中で、『Stilwell's Mission to China』という本がネット上でPDFで提供されているのが分かり、見てみたらいくらか関係のことが描かれていました(前掲の地図は、その本の中にあった地図から作ったのですが、しかしその地図は以前に他のどこかで見た記憶があるものでした。が、今回探してみたものの見つからず)。

 輸送手段が乏しかったため、部隊の移動はゆっくりと行われた。中国軍第93師団(第6軍)の残りをビルマに移動させることは、1月19日にビルマ軍司令部からの要請でウェーベル将軍が同意した【ウェーベルは中国軍をビルマ戦に参加させることに反対であったため、許可を取る必要があった?】。

 その2日後、彼は第49師団にも同意した。中国陸軍省は2月3日、第6軍の3個師団の最後のもの【第55師団?】を移動させる命令を出した。

 ビルマ軍総司令官T.J.ハットン中将は、総統【蒋介石】がインドを訪問した際にこの問題について協議し、合意に達した。1月31日、ハットンは第5軍がビルマに入ることの許可をウェーベルに要請し、2月3日に総統はこれに同意、2月28日に移動が開始された。ウェーベル将軍の行動は、チャーチルとルーズベルトの介入に先立つものであった。ルーズベルトは、ビルマ防衛に中国が参加することを政治的、行政的な問題で妨げることは許されないと考えた統合参謀本部に促され、自らチャーチルにこの問題を提起した。こうして、中国の第一次ビルマ作戦への参加が始まった。第93師団の到着は予期されていたため、その補給に支障はなかった。

 第49師団は何かと問題が多かったが、3月中旬には快適に宿営できるようになっていた。臨時第55師団は、第6軍の中で最後に到着した新しい部隊で、統率が悪く、装備も貧弱で、訓練も不十分だった。
『Stilwell's Mission to China』P85

 3月6日の最初の会談で、総統はビルマで作戦する計画はないとはっきりと述べた。その後の会談で、彼はスティルウェルに自分の見解を明らかにしようとした。これらの会談で明らかになったのは、第5軍と第6軍が彼の持つ最高の部隊であり、彼らは日本軍を攻撃すべきではなく、もし彼らが日本軍に攻撃されて撃退したのであれば、攻撃に移ってもよい、と総統は考えているということであった。彼はイギリスに対する極度の不信感をあらわにした。より具体的には、総統は次のように述べたのである。「私の最終的な考えは、中国軍がマンダレーを防衛するべきなのであれば、サジ【ミイトキーナのすぐ東】を東西に貫く線を保持するということである。この場合でも、もしプロームから英軍が撤退すれば、その時は我々はマンダレーを中心としてミイトキーナからラシオに至る斜めの線を保持し、インドと中国の間の連絡線を途切れさせないように鉄道と幹線道路を守ることにする。」 翌日、彼はこう言った。「イギリス軍がプロームを保持する限りにおいて、我々はトングーを保持するのだ。」 

 戦術に関しても、総統はスティルウェルを厳しく制限した。スティルウェルは、部隊を約50マイル離して師団を縦に配置することになった。第5軍の第200師団は、イギリス軍がプロームを保持する限り、トングーに留まることになっていた。第6軍はシャン州を頑として保持する。第5軍の残りの2個師団は、補給が十分に整えられた時点でビルマに入り、マンダレーまで前進することになっていた。防御が繰り返し要求され、警告されていたにもかかわらず、スティルウェルはラングーン奪還のための攻勢を主張した。スティルウェルの心には、3つのことが渦巻いていた。すなわち、インドへのルートをカバーするためにビルマ北部を保持すること以外の総統の禁止令と、おそらく5月15日ごろから始まるであろうモンスーンの雨の接近と、マンダレーから北側のビルマの地形(マンダレーのすぐ東の平原から急峻な断崖が劇的にそびえ立っている)である。スティルウェルのビルマにおける作戦意図は、ラングーン奪還を目指すことであった。なぜなら彼は、日本軍は実際には弱いのではないかと思い、大胆な作戦が大きな利益を生むかもしれないと考えたからである。この計画が失敗した場合には、中国軍は北方へ後退し、マンダレー東方の高地に陣取り、日本軍の北上に対して側面からの脅威を与えればよい。モンスーンの雨は、日本の任務を非常に複雑にすると予想された。
『Stilwell's Mission to China』P97

 スティルウェルの説得により、総統は戦術に関する制限をいくらか緩和した。緊急時には第5軍第22師団が第5軍第200師団をトングーで助けるかもしれないが、第5軍第96師団はマンダレーに留まる。総統の態度は極度に防御的であり、アレクサンダー将軍【英印軍】を支援するのは緊急時にのみだった。さらに3個師団(第66軍)が約束され、うち1個師団はマンダレーに、2個師団は国境に留まることになっていた。総統は、日本軍1個師団に対抗するには中国軍3個師団が必要であり、日本軍の攻勢時には中国軍5個師団が必要であると見ていた。
『Stilwell's Mission to China』P99


 最後の1:3とか1:5の比率ですが、中国軍の1個師団は他国の1個連隊相当なので、実際には1:1とか1:1.5くらいの比率かとも思われます。ウォーゲームの種類によっては1:1なら攻撃側はビシバシやっても大丈夫、というようなものもありますが、OCSや『激マン』シリーズなんかは4:1か5:1の戦闘比は欲しいところなので、そっちの感覚でなら理解できる気はします。



 この『Stilwell's Mission to China』のP103以降には、この後の中国軍の動きも書かれているようでしたが、とりあえず今回はこの辺で。戦史叢書とかでも書かれているかもですが……。


<2023/10/16追記>

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでいたら、日本軍側の諜報による中国軍の初動についての記述がありましたので、追記しておきます。2月中旬頃までに南方軍が入手していた情報だそうです。

2 蔣軍の入緬状況
(1) 滇緬公路【ビルマ公路のこと】方面
 ビルマ進入を企図しある蔣軍は第5、第6軍にして、第200師(第5軍)は12月27日下関(筆者注 龍陵東北方200粁)を通過せるが如く、新編第22師(第5軍)も移動中にして、2月上旬ビルマに進入せしものの如く、第49師(第6軍)は2月15日ラシオに在るが如し。
 第5軍長は2月10日には未だ昆明に在りたること確実なるも、既に移動を開始し、2月15日第6軍長、第49師長とラシオにおいて会見しあり。現在ラシオ附近に集中しありと判断せらるる蔣軍兵力は第5軍の第200師、新編第22師、第6軍の第49師にして合計2万6千乃至3万にして、近く増加し或は既に到着しあらんと判断せらるるもの第96師(第5軍)暫編第55師(第6軍)計1万8千乃至2万、総計4万4千乃至5万なり。
(以上A情報、確度甲)(筆者注 A情報は無線諜報)
 マンダレーよりの帰還住民報によれば、ラシオより鉄道によりマンダレー附近に南下し、其の一部はトングー附近に進出しあるが如し。(確度甲)

(2) ケンタン方面
 A情報によれば、第93師(第6軍)は2月11日既にケンタン附近に到着しあり。
 其の師部(筆者注 師団司令部)はケンタン附近に、第277団はモンパヤック附近、第278団はミヤウンダ附近、第279団はロイムイ附近に在り。
 筆者注 以上いずれもケンタン州の北部タイ国境方面

『ビルマ攻略作戦』P168,9



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の工兵部隊について

 承前。ビルマ戦緒戦での日本軍の工兵部隊について調べてみました。

 資料としては、奈良県立図書情報館でコピーしてきました、

『独立工兵第二十連隊戦史』(こちらは第15軍麾下の独立部隊)
『工兵第三十三聯隊戦記』(こちらは第33師団隷下の師団所属部隊)

 がありましたので、それで。


 独立工兵なんですが、資料を読んでいると後方での橋梁修理(敵が爆破していったやつとかを)が主で、まれに敵が来て防御戦をやったりしたようですが、基本的には後方での行動が主だと思えました。で、例えばOCS『The Third Winter』なんかはドニエプル川渡河がメインテーマでもありますし「橋梁爆破」と「橋梁修理」がかなりルールに盛り込まれているのですが、『South Burma』(仮)においてはできるだけ特別ルールは少なくしたいですし、現状では独立工兵をユニット化する必要はないかと思えました。


 それに対して師団所属の工兵の方ですが、こちらは敵前で渡河して架橋作業とが主で、時には敵が列車で逃げるのを爆破して列車内に突っ込んで戦闘とか、敵戦車が出てくると工兵の中から戦車攻撃班(地雷による対戦車攻撃の訓練を受けてきていた)が突っ込むとか、そういうことをしていたようです。

 そうするといくらか戦闘力は持っていてもいいかとは思われますが、しかし最低限の戦力ではあるべきでしょう。

 実は、OCS『Burma II』では日本軍の工兵大隊は歩兵大隊とまったく同じ戦力やアクションレーティングを持っていたりしたのですが、あれは通常スケールで各大隊が2戦力(移動モードで1戦力)なので、工兵をユニット化するならそのレーティングにしなければしょうがない、という側面があったのでしょう。しかし『South Burma』(仮)は3倍スケールで歩兵大隊は6とか7戦力を持っているので、工兵大隊の戦力は下げてもいいと思います。

 これまでは頭が『Burma II』に引っ張られていた感もあり、『South Burma』(仮)の師団所属工兵大隊は3戦力(移動モードで2戦力)としていたのですが、下げて2戦力(移動モードで1戦力)にしてみようと思います。1の0にするとか、(1)の(0)にするという案もあり得ますけども、戦力が低すぎると今度は工兵ユニットを守るために歩兵大隊がそこにスタックしなければならない、という本末転倒なことも起こったりしますし。


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 工兵ユニットのゲーム上での活用方法について考えてみたんですが、OCSでは架橋能力(戦闘モードで川に隣接するだけでOK)で河川ヘクスサイドの移動力コストを減少させることができ、また通常は橋なしでは渡河できない自動車化タイプや装軌タイプのユニットを攻撃可能にすることはできますが、戦闘において有利な修正を得られることはありません。なので、日本軍プレイヤーはどちらかというと、工兵能力を使うよりは戦闘ユニットとして使ってしまうんじゃないでしょうか……。

 ただ、架橋によって大河川(徒歩で移動力All)を小河川(徒歩で移動力+1)にするというのは、司令部の支給範囲が普通なら大河川で止まってしまうのを+1だけにしてしまうので、そこが一番でかいのではないかと思いました(『South Burma』(仮)の日本軍の司令部は『Burma II』と同様、徒歩移動コストで支給範囲を伸ばします)。



 あと今回考えたのは、大河川を渡るには工兵部隊や、舟艇をかき集めてくることが必要で、その量によって1日の間に渡れる兵士数に限界があった(特に最前線では)ようなので、そこらへん制限するべきだったりするかな? ということでした。

 例えば「1つの大河川(どのように繋がっていても)を架橋能力なしで移動できるユニットは、1フェイズに1個までに制限される。この制限には戦闘後前進も含まれる。」とか……。でもまあ、ルールは少ない方がいいですから、どうしても必要そうなら入れるとしても、そうでもないなら勿論入れないということで。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落あたりまでの第15軍麾下の独立部隊について

 現状ではOCS『South Burma』(仮)の日本軍側は、第55師団と第33師団隷下の部隊しかユニット化していないのですが、第15軍【ビルマ作戦の軍】麾下の独立部隊もいくらかあったようです。

 ゲーム中の最初の10ターンくらいはそれらは出てこない(ような)のですが、シッタン川を渡る頃(第13ターン頃)には、前線の部隊としていくらか記述が出てき始めます。そこで、それら独立部隊の投入予定に関する記述を戦史叢書『ビルマ攻略作戦』からまとめてみようと思います(ただし今回はラングーン陥落あたりまで。ラングーン陥落後はまた、結構独立部隊が投入されるようです)。


 ただし、OCSでは高射砲部隊なんかはユニット化されないのが通例ですし、他のウォーゲームでも通常ユニット化はされない輜重部隊は通信部隊なんかの情報もあるので、ユニット化されそうなものだけを抜き書きしていきます。
(「独立自動車第○○大隊/中隊」とかってのは、私は戦闘部隊かと思っていたのですが、今回調べてると兵站部隊の一覧の中にあったり、旧日本軍(陸軍)自動車第32連隊について、その役割や行動などが分かる資料を探している。から、輜重部隊なんだろうなと思いました。なので、今回のリストから抜きました)


 南方軍は、マレー作戦の予期以上の進展と同軍後続部隊の輸送状況などにかんがみ、第25軍【マレー作戦の軍】じ後の作戦に必ずしも必要としない部隊その他転用可能の兵力は、逐次第15軍方面にその輸送先を切りかえ、同軍の指揮下に入れた。
『ビルマ攻略作戦』P98


 以下、抜き書きします。

1月15日の南方軍命令による転用
 独立工兵第4連隊(甲) (第25軍から)

1月18日の南方軍命令による転用
 独立速射砲第11中隊 (第25軍から)(カムラン【ベトナム南中部?】)
 戦車第2連隊軽戦車中隊 (同右)(カムラン)
 独立工兵第20連隊(甲) (同右)(カムラン)
 独立工兵第26連隊の1中隊(2小欠) (川口支隊から)(ボルネオ)

2月14日の南方軍命令による転用
 独立混成第21旅団砲兵隊 (第21師団から)(インドシナ)

3月3日の南方軍命令による転用
 独立工兵第14連隊(丁)(1中欠) (本部、1中隊は第16軍から。1中隊は第25軍から)
 独立工兵第26連隊(丁)(1中欠) (1中隊は第16軍から。本部、1中隊は第25軍から)



 「独立工兵」部隊というのが情報的に多めです。幸いにして、↑のうちの独立工兵第20連隊の戦記『独立工兵第二十連隊戦史』の第1編と第2編を奈良県立図書情報館でコピーできており、他の独立工兵部隊の話も含めていくらか情報がありそうなので、別にブログ記事を設けて検討することにしようと思います(他に今回出てくる独立工兵部隊が蔵書にないか検索してみたのですが、ないようでした)。

 独立工兵部隊以外は、↑では3つだけですね。



 さらに、シッタン川橋梁が爆破され、シッタン川西岸からラングーンへと向かおうとする時点での第15軍命令から(P165。カタカナをひらがなに直します)。

 第55師団(川島支隊欠、戦車第2連隊軽戦車中隊、独立速射砲第11中隊、渡河材料第10中隊の一部属)は主力を以て3月3日夜「シッタン」河の渡河を開始し所在の敵を撃破しつつ其の作戦地域を先つ「ペグー」南方地区に向ひ前進すへし


 ここに、先ほどの記述独立工兵以外の3つのうち、2つが出てきています。


 この2つの部隊のユニットをとりあえず作ってみました(速射砲というのは対戦車砲のことだそうです)。


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 「戦車第2連隊軽戦車中隊」ですが、『戦車第十四聯隊戦記』P164によれば「戦車第2連隊第1中隊(九五式軽戦車装備)」です。

 タイから陸路進攻した戦車第2聯隊第1中隊 (九五式軽戦車装備)がワウ(ペグー東北方)でM3【スチュワート】軽戦車と遭遇し、その火力装甲防護力の格差から、苦闘の結果、中隊長の指揮する1コ小隊が全滅し、続いて進出してきた独立速射砲中隊も全く歯が立たず、その全火砲を蹂躙された。M3軽戦車は、ビルマ戦線の日本軍にとって最新最大の脅威になっていた。
 聯隊は、ろ獲したM3軽戦車1両を入手し、これを撃破するための研究訓練に早速取り組んだ。M3軽戦車は、アメリカ製で、その火砲は、わが九五式軽戦車と同口径の37ミリであるが、貫徹威力は著しく優れ、その装甲厚は表面硬化された10~50ミリもあり、わが徹甲弾をピンポンの球のように跳ね返し、その機動力は空冷星型エンジン (航空機用)とゴムパットを着けたキャタピラにより最高時速57キロを出しうるものである。彼我の技術、性能の差が歴然としていた。このM3軽戦車に対して、どこに勝目を見出すのかが緊急な問題となった。一応の結論は、M3軽戦車の戦力発揮が困難な地域(錯雑地)に誘致し、不意にその側背、至近距離に進出し、軌道部、砲塔回転部等を砲撃し、機動力と戦車砲火力を封ずることであった。
『戦車第十四聯隊戦記』P164




 この時日本軍がやられたイギリス第7機甲旅団の戦車部隊ユニットは、現状↓のようにユニット化しています。

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 ユニット上の総戦力では、英印軍は戦車2個大隊(12戦力)、日本軍は戦車と対戦車砲の2個中隊(4戦力)なので、そこらへんの問題でやられてしまったのだという解釈も成り立つかもとは思いますが、どうなんでしょう(^_^; また、日本軍は戦車中隊全部がやられたわけではなく、1個小隊が全滅です(対戦車中隊は全滅(T_T))。

 日本軍の戦車中隊のアクションレーティングですが、もしかしたら2もありかもですが、3はあって欲しい/あったんじゃないかという願望込みで3に(3は普通、2は劣るというレーティングです)。イギリス軍の第7機甲旅団は北アフリカ戦での歴戦の部隊であり、アクションレーティングは5はないとしても4は確実にあると思われるので、その4と3の差と戦力差でやられたという感じで……。

 またOCSの兵科マーク的に、イギリス軍戦車ユニットは日本軍戦車ユニットに対して平地で2倍の攻撃力を持ちますが、日本軍が攻撃側に回った時には1.5倍にしかなりません(防御時は両軍とも×1倍)。一方で、日本軍の軽戦車中隊が例えばインド人部隊に攻撃をかけた場合には攻撃力2倍になります。





 日本軍の独立速射砲第11中隊ですが、37ミリ砲装備だったそうです(『ビルマ攻略作戦』P167)。

 『第2次大戦事典②兵器・人名』P59によると、「94式37ミリ速射砲【……】の徹甲能力は極めて低いものであったが、ほかに高性能の対戦車砲がなかったため、ないよりましといった存在であった。」とあったので、そこらへんの性能的な劣勢から、アクションレーティングを2としてみました(1でも良いくらい?)。

 日本語版Wikipedia「九四式三十七粍砲」によれば、「運動性は繋駕(馬にひかせる)、駄載(馬にのせる)もしくは人力牽引とし」とあるので、徒歩移動タイプにしてみました(移動力が2の4であるのは適当です(^_^;)。




 あと、「独立混成第21旅団砲兵隊 (第21師団から)」というのもありますが、編制・編成が全然分かりませんし、今後また何か記述が見つかったら考えるということで……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:第55師団隷下であった、宇野支隊と沖支隊の登場ヘクス

 OCS『South Burma』(仮)ですが、最初に出てくる日本軍の第55師団は、かなり細切れに登場します。



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 ↑のうち、初期配置で置かれるのは、第112連隊の第1、第2大隊と、第55捜索連隊(実質は大隊規模)のみです。



 ↓現状の初期配置。エントリーヘクスAのあたりに日本軍がいます。

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 残りの歩兵大隊4つは、ゲーム開始時期の少し前から、マップ南端よりも南のテナセリウムと呼ばれる地域で戦闘行動をしていました。


 第143連隊(第1、第2、第3大隊)は連隊長の名前から宇野支隊と呼ばれ、ゲーム開始時期より割と前に戦闘行動を終えていました。そして第3大隊をビクトリアポイント(テナセリウム南部)に残置していったんタイに戻っており、ゲームを開始してすぐ後に第1、第2大隊はエントリーヘクスAから出てきます。第3大隊はかなり後になってからテナセリウム地域を北上し、エントリーエリアBから出てきます。

宇野支隊
 1-143-55 1月22日ターン(第2ターン)にエントリーヘクスAから
 2-143-55 1月26日ターン(第3ターン)にエントリーヘクスAから
 3-143-55 2月26日ターン(第12ターン)にエントリーヘクスBから

(↑は現状の設定であり、変更の可能性はありまくります)



 残りの第112連隊第3大隊は沖支隊と呼ばれ、2月1日にモールメンに到達したと諸資料にあります。

 で、この3-112-55が、エントリーヘクスAとB、どちらから出てくるべきなのかなのですが、戦史叢書『ビルマ攻略作戦』では本文や付図からするとBから出てくるように思えます。しかし、ちょっと前に聯隊戦記などの資料を複数入手して読んでいた時期に、沖支隊はいったんタイ国内に戻ってエントリーヘクスAから出てくるべきと思える様な記述を2箇所で見て「これは確定だな。Aからということにして、その出典やページ数は書かないでいいや」と思ったのでした。

 しかし、出典とページ数を書かないでおいたことをその後、後悔してまして、今回そこらへん確定させようと思って記述を探してみました。そしたら、Bであるべきだという記述を見つけてしまいましたバキッ!!☆/(x_x)

 沖支隊は1月26日タボイ【テナセリウム中部の海岸沿いの町】発、海岸道を北進、2月1日モールメンに進出して師団長の隷下に復帰した。
『歩兵㐧百四十三聯隊史』P78



 まあ、ある意味良かったんですが、しかし出典とページ数を書いておくというのは、後で確認するためにもやっぱりやっとかないとダメだと改めて痛感しました。ただ、ある程度の内容だとブログに書いておくかとなるんですが、細かいことだと「ブログに書くほどでもないか……じゃあメモって置かないでいいか」となりがちです。

 しかし、細かいことでもやはりブログに書いておいた方が良い感じなので、今後そういうことで……(^_^;
(メモっておけば良いじゃないかというご意見もあると思いますけども、メモはメモで訳分からなくなりがちで、ブログというのはそこらへん便利なんですよね。たまたまですが、このFC2ブログはブログ内検索ができることもあり)


 以前Aだと思ったのはなぜなのか、宇野支隊とこんがらがったのかのかもとは思いますが、あるいは、Aであるべきだという記述がやはりどこかにあったのかもです。それらももし見つけたら、追記しようと思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:迂回して一挙にラングーンを突くという作戦について

 前回に引き続いて、ラングーンへ突進するという作戦について。

 『歩兵第二百十四聯隊戦記』を読んでましたら、この作戦行動について結構印象的な記述があったので、引用し検討してみたいと思います。


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 【第33】師団は3月25日【ママ。2月25日の間違いと思われます】各部隊長をメヨンガル(シッタン東南方4キロ)の司令部に集め、ラングーン攻略に関する作戦方針を示した。
 すなわち、まず政戦略上の要地である首都ラングーンを奪取した後、北進して決戦を指導しようとするものであった。
 というのも、泰緬国境を越えるとき、すでに多数の装備を残置し、さらにその後、数次の戦闘と急速な突進で、相当の損耗を来たしているにもかかわらず補給はなく、しかも、ラングーン攻略後は、北部ビルマ作戦を遂行しなければならないので、この際、万一の場合にも軍の兵站線を海路に求めうる戦略上の要求、ならびに、すみやかに英総督府の所在地を占領するという国際政治上の効果を考慮しての重要な決定であった。
 すなわち英印軍は最近、あらたにラングーンに上陸した精鋭戦車部隊第7機甲旅団を加え、これをペグー付近に進めて、日本軍の進撃を阻止しようとする態勢であり、また北方マンダレー方向からは中国第6軍がトングー付近に集結し南下の情勢にあった。この敵両軍の間の、15キロの間を抜けて、一挙にラングーンに殺到することは、いわば戦略的挺進奇襲であり、きわめて放胆な戦略であった。
 ペグーの敵には第55師団が当たることとなり、【第33】師団は一路ラングーンに挺進、一挙に敵の指揮中枢戦略基地を占領することとなった。いま考えてもぞっとするほどの作戦計画であった。
 というのは、もし敵がラングーンまたはその周辺で2~3日の抵抗でもしたならば、【第33】師団の後方はペグー、トングーの敵に断たれ、しかも新鋭第7機甲旅団に引っ掻き回される羽目になるのは明らかであったからだ。いわんやラングーンの配備状況はまったく不明であるばかりでなく、第7機甲旅団の増援に続いて、英国はさらに有力部隊を上陸させて、あくまでもラングーンを確保しようとするかもしれなかったのだから、状況不明と錯誤の交錯するなかで、この放胆な作戦を決定する原動力となった第33師団長桜井中将の卓抜さは高く評価されるべきであろう。
 さらには、「敵にかまうな、この際ほしいのはラングーンという港だ。敵の指揮中枢だ。戦略要地だ」と徹底した作戦目的を確立したことが、敵の過早退却と相まって師団の作戦を成功に導いたのである。チャーチルはラングーン喪失後のことをその回顧録で次のように述べている。「ラングーンの失陥はビルマの喪失を意味した。したがってアレキサンダー大将に援軍を送る望みはまったくなかった。上陸させる港がなかったからである」と。
『歩兵第二百十四聯隊戦記』P318


 なかなかに燃える文章ではあるんですが、(無意識の?)誇張はあると思います。

 「15キロの間を抜けて」という文ですが、上の画像の1ヘクスは約8kmで、つまり2ヘクスくらいに相当しますが、中国軍と英印軍の間が15キロということはないかな、と。

 英印軍の部隊は画像の「3/4」とある辺りにもいたようですが、中国軍がいたというトングーは画像の北端から13ヘクス程度北にあり、いくらか南下していたとしてもそれほど英印軍と接近はしていなかったのではないかと(今のところ)思います。

 「15キロ」というのは、第214連隊と第215連隊の間の距離がそれぐらいで並進した、ということなら理解できる気がします。


 この時点での中国国民党軍の脅威について、まだ全然調べられていないのですが、今のところの印象ではそれほどでもなかったのではないかという感じで思っています。ただ、当時日本軍側は脅威に思っていたというのは確かなのでしょうし、またゲーム上でも「中国軍の脅威」はある程度あった方が良いでしょうね。


 当時の英印軍側は、「日本軍の次の狙いは、ペグーを押さえることだろう」と考え、またペグー周辺の地形は戦車戦に向いているため、第7機甲旅団をそこに差し向けて日本軍に大ダメージを与えることを狙いました。実際それは最もありそうなことだったと思いますが、史実の日本軍はある意味「その裏をかいた」わけで、そしてゲームをプレイする現代の我々は、それを知っているわけです(ウォーゲームにおいては良くあることですが!)。


<2023/10/24追記>

 陸戦史集『ビルマ進攻作戦』を読んでましたら、この時期の英印軍側(ウェーヴェル将軍)の考え方について書かれてましたので、引用してみます。

 ウェーベル大将は、シッタン河以北にはまだ大なる日本軍がいないこと、第7機甲旅団がまだ無傷であり、また、中国軍がトングーに向けて南下中である状況を確認した。同大将はビルマに来る途中、もしラングーンの撤退が必要となれば、イラワジ河下流を越え、東方の中国軍と連接して一連の戦線を構成することが必要であり、そのため、なるべく多くの部隊が必要であると考えていた。そこで、早速さきにハートレー大将が【カルカッタに反転せよと】回航処置を認可した第63旅団と砲兵1個連隊を、再度ラングーンに向けるよう手配し直した。
 それとともに、これらの増援部隊が到着するまではラングーンを確保しようと決心し、そのためには単に防勢をとるだけでなく、時をかせぐため日本軍に一撃を加えるべく、ペグー方面で攻勢をとれとハットン中将に命じた。
『ビルマ進攻作戦』P80,1


 また、同書にはトングー方面から英印軍が日本軍を圧迫しており、日本軍の側面防御部隊がそれを撃退していたことが書かれていました。もし日本軍側が撃退できなかったら、苦境に陥るわけですね。

川島支隊の右翼掩護 軍直轄で作戦を命ぜられた川島支隊は、軍主力の渡河に先立ち、3月2日夜クンゼイク北方でシッタン河を渡って前進し、3月4日にダイクを占領した。その後、北方からしばし英印軍の攻撃を受けたが、支隊はそのつどこれを撃退し、軍主力のラングーン作戦間、ダイク付近の陣地を確保してその右側背を安全にした。
『ビルマ進攻作戦』P82



<追記ここまで>



 英印軍プレイヤーは当然、ペグー北東のジャングル地帯の、少なくとも道路の結節点や小河川の南側には警戒部隊を置くことでしょうね。ただまあ、日本軍側はペグーの南側を迂回していくという方法もあるかもしれませんし、逆に全力でペグーを包囲・攻撃するというような作戦もありかもです。

 英印軍プレイヤーがラングーン周辺で半周防御のようなことをした場合は……どうなるんでしょう。確かに結構やっかいかもしれません。



 あと、ペグー北東のジャングル(「ペグー山系」と呼ぶようです)についてですが、今回見つけた記述には↓のようにありました。

 【第215】聯隊は休息をとることなく急進撃を続行した。夜明けまでにペグー山系内に潜入しなければならない。幸いにも、【3月4日の】この朝は低い霧があり、延々と続くこの大部隊は、敵機に発見されることなく平原を踏破し、山系内の樹林下に入ることができた。
 その後、聯隊は作間聯隊【第214連隊】と並列した形で、ペグー山系内の密林を南下していった。高い山はないが、起伏の多い広大なジャングル地帯であり、昼間は敵機の眼をのがれて樹間に仮眠し、夜間は南へ南へと行進する。歩く歩く、ただ南をめざして、汗と砂塵にまみれてひたすら歩きつづけた。シッタン出発以来、夜行軍の連続であり。【ママ】睡眠不足と疲労とは大なるものがあった。しかし、ただ「ラングーン占領」、これが、苦痛に耐える合言葉であった。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P159

 【第214】聯隊の行軍速度、とくに縦隊の先頭をきた第3大隊尖兵中隊長の進路選定のよさが賞賛されるべきであろう。
『歩兵第二百十四聯隊戦記』P319


 これらを見ていると、やはりずっとジャングル地帯であったようで、また進路は、少なくとも大きな地図には表示されていないようなものをある程度以上進んでいったような印象を受けました。(ただし、シッタン川西岸地域についてはずっと平地でも良さそうで、そのように修正しようと思います)


 第33師団の部隊のこの進撃の速さについては、どうも何らかの特別ルールは必要なのかも、という気が現状してます。しかしどのようなルールにしたものか……。「2ターンの間、予備モードによる移動力増加を、1/4ではなく、全移動力にできる」とか……? あんまりうまそうな気はしませんけど。


<2024/03/28追記>

 「内部備蓄を消費して」「1D6してAR値以下を出せば」「ジャングルの移動コストを1にできる」というルール案を思いつきました。

 「ルール上、メリットが得られるならば、デメリットもなければならない。」とワニミさんが良く仰ってました。

 補給フェイズ中に再備蓄もできますが、再備蓄できないならば、Low、Exhstdと2段階しか実行できず、またExhstdでは攻撃を行えないことになります。

 AR値以下を出せなければ、単にジャングルの移動コストは普通どおり?(AR5の第33師団ならばほぼ成功するでしょうが、AR3の第55師団のユニットであればうまくいかない事が多いでしょう)

 移動力が増大するのではなく、ジャングルの移動コストを1にできる、というのは、例えば二級道路で移動力が増大されては困るからです(^_^;

<追記ここまで>

<2024/03/29追記>

 ↑と書いてましたが、「内部備蓄を消費することもあるし、消費しないこともある」方がいいなと思って少し違う案を考えてみました。

1.ジャングル内強行軍を宣言する。
2.ユニット毎に(スタック毎ではなく)、そのARを参照して損耗判定表のダイスを振る。
3.「損害なし」の結果の場合、内部備蓄を消費せずに、ジャングルの移動コストを1にできる。「-1ステップ」の結果の場合、内部備蓄を1段階消費して、ジャングルの移動コストを1にできる。「-2ステップ」以上の結果の場合、内部備蓄を消費せず、ジャングルの移動コストは1にできない。

<追記ここまで>











 また、別件になりますが、「シッタン川橋梁の爆破」に関するルールは必要だろうと思っていたのですが、前回、今回と調べてみていて、「爆破のルールはなしにした方が、最終的なタイムスケジュールがうまくいくのではなかろうか」という気がしてます。もしそれでうまくいきそうなら、特別ルールは少ない方が良いですし……(^_^;

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン攻略までの3月3日~8日の経路

 資料を読んでましたら、第214連隊のラングーン攻略までの3月3日~8日の経路について割と詳しい地図があるのに気付いたので、他の資料とも合わせて地図を作ってみました。



 ↓赤色が第214連隊、オレンジ色が第215連隊の進路。矢印や文字は、元の資料ほぼそのままの位置に置いてあります(厳密にどういう意味合いか分からないのですが)。

unit8524.jpg

 第214連隊の経路は、『歩兵第二百十四聯隊戦記』P261から。第215連隊の経路は、『歩兵第二一五聯隊戦記』P153からですが、こちらは割と小さい地図なので、『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』や『Japanese Conquest of Burma 1942』の地図により近づけてあります。

(また、資料には良く出てくる「Pyinkadogon」という地名なのですが、詳しい地図資料には全然出てこず、当時の道路沿いになかったのか、位置が良く分かりません。とりあえず、https://www.tageo.com/index-e-bm-v-09-d-m638858.htmという検索結果の画像を重ねて、その位置に置いてみました)



 出発地にあたるシッタン川東岸に日本軍が突入し、英印軍によってシッタン橋梁が爆破されたのが2月23日の朝でした。

 日本軍はその後、東岸での掃討戦や戦利品の確保、そしてシッタン川の渡河のための作業をやったようですが、シッタン川西岸からの作戦を開始したのが3月3日だったようです。つまりその間、戦線としてはほぼ動きがなかったことになります。

 OCSのターン的には、

2月22日ターン(22~25日) シッタン橋梁爆破
2月26日ターン(26~28日)
3月1日ターン(1~4日) シッタン河西岸から進撃開始

 となるので、丸1ターンくらい掃討戦をやったらちょうどのタイムスケジュールでしょうか。


 で、

3月1日ターン(1~4日) シッタン河西岸から進撃開始
3月5日ターン(5~7日)
3月8日ターン(8~11日) ラングーン突入、占領

 と史実ではなるのですが、かなり早い移動であり、しかも地図に出てくるような道路を通ってない部分が結構あると思うのです。


 現状、両連隊の移動力は↓のようなものなのですが……(歩兵としては破格ですが、AR5の歩兵部隊としてこのような移動力設定はOCSの東部戦線ものにも出てくるので、OCSの枠を出ているとは言えません)。

unit8525.jpg


 仮に、ジャングルは日本軍だけは2(英印軍は3)移動力コストという今の設定で、第214連隊の先ほどの地図の移動コストを数えてみた場合……(シッタン川西岸から移動開始として)。

3月3日 2
3月4日 6
 (3月1日ターンは8移動力)

3月5日 7
3月6日 6
3月7日 4
 (3月5日ターンは17移動力)

3月8日 4
 (ここまでの総計は29移動力)

 となります。いやいや、1ターンで17移動力とか、どうすれば!


 第215連隊は日ごとやターンごとは分かりませんが、総計では25移動力となりますから、途中少し小道を通るとはいえ、第214連隊とそれほどは変わりません。


 OCSにおける移動力を増大させる方法として、予備モードになって許容移動力の1/4をプラスする方法はありますが、焼け石に水です。戦略移動モードになれば倍の12移動力になれますが、戦力0、AR0になります。うーんでも、司令部をシッタン川西岸におけば、最初の1ターンくらいはありかも……(2ターン目はどうかな……)。


 まあ、史実と同じ経路を通らなければならないこともないですし、現状ジャングルにしてあるヘクスを適当に平地にしたり、小道を増やす(例えば、後世の地図では道路がある場所など)などの方法もあり得ます。


 あるいは、史実でシッタン川東岸で丸1ターンほど止まっていたターンからシッタン川西岸にゲーム上では渡れて、史実でラングーンに入った3月8日ターンはよほど運が良くないと無理でも、3月12日ターンにはまあうまくいけば入れる……くらいでもいいのかもしれません。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでいたら、1942年1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について書かれていたので、地図を作りました。併せて引用して残しておきます。


 ↓青色が国民党軍で、実線が1月下旬の動き。点線は2月初旬に合意した動き。赤色は英印軍。

unit8526.jpg





 ハットン中将は、右のように、インドからの増援を要求したが、それと同時に中国に対しても増援を要望していた。
 当初ハットン中将の受けていた訓令は、中国第6軍の第93師以外の部隊は極東軍総司令部の許可なくビルマに使用してはならぬということであった。
 そして、1月初め、同師の1コ連隊がメコン河の線に進出し、また同師の主力がビルマのシャン州に進出して同方面の防衛に当たるよう処置されたが、1月20日、ハットン中将はウェーベル大将に対し、タイ国の北西国境の防衛にあてるため、さらに次の1コ師を使用する許可を求め、その認可をとりつけた。
 これにより、ハットン中将は、中国の第49師をラシオを経て南シヤン州に進出させ、タカオ付近サルウィン河東方地区を防衛するように処置するとともに、中国第55師をワンチン(雲南とビルマの境にある町)まで前進させて、訓練および装備を完了させることにした。
 ハットン中将は以上の処置を行なうとともに、中国第49師の主力がタカオ付近に進出するに伴い、それまでケンタン、モンパン地区にあった第1ビルマ旅団の主力をへホおよびロイレム地区に移動させ、また第13旅団をパプン付近で第17師団と連接させるため、トングー東方ボーレイク地区に移動するよう命令した。
 第48旅団は1月31日ラングーンに到着、軍予備としての再訓練を行ないながら重隊の到着を待った。
 中国軍は輜重部隊も衛生部隊も持たなかった。かれらは後方からの補給にたよらず、つねに現地補給を本則とした。
『ビルマ攻略作戦』P155,6


 ↑最後の一文は、OCS的には困った感じですね……。日本軍でさえ、一応後方からの補給はいくばくか受けて戦っていたのに、中国軍は後方輜重なし!? 「中国軍は負傷者は現地に全部置き去りにする」というのは今までにも読んでいたんですが……。


 以上の間、ハットン中将は2月3日ラシオで蒋介石総統と会見したが、この時同総統は、中国軍をハットン中将の指揮下に入れることを明言し、第6軍をもってすみやかに北部泰緬国境の防衛を引き継がせ、かつ、第22、第96および第200師から成る第5軍をビルマ公路防衛のためトングー地区に進出させることに同意した。
 右により、第6軍の第49および第93の両師を依然シャン州にとどめ、第55師をトングー東方カレン山中の国境防衛のためワンチンから南下させる協定ができた。
『ビルマ攻略作戦』P157


 中国第5軍がどこから来るのか(第6軍と同じ場所からか、あるいはビルマ公路からとか)とかは、私はまだ良く分かってません。一応『South Burma』(仮)上でもキャンペーンシナリオ上ではそこらへんは必要な情報になってきますから、今後分かったらまた追記していこうと思います。


 あと、英印軍(「英連邦軍」という呼び方よりも「英印軍」の方が良いかのようなので、今後この呼び方で)の第1ビルマ旅団は、ある資料地図では『South Burma』(仮)の初期配置時にはトングー南方にいたかのように描かれていたので、とりあえず初期配置に置いて「移動不可」にしてあったのですが、少なくともその主力はもっと北方にいたようですね。そこらへんまた、今後調整で。


<2023/10/13追記>

 ミト王子さんにコメントいただきました! 参考になります。大変ありがとうございます<(_ _)>

 ルールとしては、中国軍が米どころにいるならば……とか、わずかながらもいくらかは補給があったならば、日本軍と同様に1Tで10ユニットに一般補給できるという風にするとかいう案もありかもなのです。

 こちらに引用追記しておきますね。

 中国遠征軍は第5軍、第6軍、第66軍、直轄部隊がありますが、手元の「抗日戦争図誌」からの複写と思われる(昔過ぎて記憶が曖昧)紙片によると、中国軍増援方向という矢印が昆明から2本出ているので出所は昆明で良いと思います。
 簡単な図で矢印がどの部隊を指しているのかは記載がありませんが、1本は保山を経てビルマ深くまで侵入し、もう1本はやや南寄りルートで保山までしか延びていません。
https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BF%9C%E5%BE%81%E5%86%9B
 でも昆明からビルマ公路を経てビルマに出てきているので地図のマップの範囲にもよりますが左翼防御の第6軍も大元は昆明だったのでしょう。。


 大雑把な資料ですが「民国軍事史略稿」によると中国軍の1939年型編制だと軍に1個の輜重営がありますが師にはないようです。これは支那事変緒戦の損害による再編が原因と考えられます。
 1940年型編制だと軍に1個輜重営がある他、師にも1個輜重営が設けられています。
 衛生部隊である野戦医院は師に各1個、衛生隊は師に1個、団(連隊)にも各1個があったようです。(中国軍輜重営は、稀に第3連として自動車中隊がある)
 
 「陳誠先生従軍史料選輯 整軍紀要」によれば、輜重営(大隊)は基本的に2個連(中隊)からなり、各連は将校6、下士官兵210、駄輓馬127、輜重車66。

 日本軍師団の輜重兵連隊は任務によってかなり異なり2~6個中隊からなりますが、輓馬中隊1個が馬匹296、輜重車240(連隊本部の数を幾分含むか?)を持ちますから、馬匹で2倍、輜重車で4倍弱もの差があったことになります。
 中国軍には輜重車を約2倍上回る数の馬匹がいますから、2匹で輜重車を曳いたか駄馬で輸送力を補っていた可能性もあります。
 日本軍の基準では輓馬1匹で225kg、2匹450kg、駄馬1匹94kg、自動貨車1台1.5tの輸送力。
 中隊種別では輓馬中隊45t、駄馬中隊23t、自動車中隊45t。

 中国軍輜重連を上記基準で試算すると輜重車66×225kg+駄馬61×94kg≒20.6t。
 1個師が2個輜重連を持つと41t程度の輸送力になり日本軍の1個中隊程度です。
 日本軍師団の輜重兵連隊が多種多様の編制を持つとはいえ、多くは輓馬乃至自動車2~3個中隊ですから中国軍の輸送力はその1/2~1/3だったことになりますね。
 もっとも師団の規模が定数で2倍前後違うことも考慮の必要があります。

 日中共に現地調達を重視する軍隊ですが、ビルマ侵攻作戦での中国軍は昆明から1,400km以上のビルマ公路という長大な補給線になっていたことを考えると、やむを得ない点があるように思われます。
 陸戦史集「ビルマ進行作戦」でも、連合軍は米どころを放棄すると米を主食とする中国軍の補給を悪化させるという懸念をもっていたとの記載がありました。



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:最初の数ターンはうまくいく……今後の取り組み案

 OCS『South Burma』(仮)ですが、テストプレイで最初の数ターン(5~7ターン)はうまくいきそうだという感触が得られてきました。その後も、第11ターン(シッタン川の橋梁が爆破されたターン)あたりまでは何とかなるのではないかと思ってます。

 史実でラングーンが陥落したのは第16ターンなのですが、第12~第16ターンあたりがゲーム調整における次の難関かと思ってます。というのは、史実ではこの時期、両軍がペグー周辺で殴り合っている中、日本軍の第33師団がペグー~ラングーンの北西のジャングルの中を突っ切ってラングーンに突入したのですが、それがうまく再現できるのかどうか。ゲームなので史実通りになる必要はないのですが、史実通りの行動がまったく不可能だったらそれはそれで問題でしょうし、またゲームとしてそもそも面白いものに組み立てられるのかという……。

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 それから、1942年のビルマ戦の第2段階が、北側のフルマップ2枚上で20ターンかけて(たったの!)行われたわけですが、それが今の設定でうまくいくのかどうか。

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 第2段階では、今の移動力設定や、移動タイプ設定ではうまくいかない可能性が結構あるのではないかという危惧があり、しかしもちろん、1942年戦の分は一つの設定でもってうまくいかせなくてはならないですから、結局今の設定を改変した上で、最初の数ターンに関しても調整のやり直しという事態が考えられる……。

 それを考えると、あんまり最初の数ターンでガチガチにうまくいかせてもしょうがないわけですよね。あくまで暫定的なものにしておいて、全体を構築してから最終的な調整をすべきなのでしょう。


 なので、とりあえず最初期の調整については大体良いとして、今後は第2段階の終わりまでのユニットや配置の作業をしていくのが必要だと思われます。第2段階については非常におおまかなことしか私はまだ分かってません……。



 あと、マップ割についてなんですが、facebookで『South Burma』(仮)について書いた時、ある方から「東の方の山岳地帯は戦場になっておらず、主戦線は西側にあったのだから、北の方のマップはもっと西にずらして、L字型にするのが良いのではないか?」という意見をもらってました。

 基本的には実際その通りで、ただ、マップの一番北東あたりにあるラシオ(Lashio)と、そこに繋がる南からの道は入れておかないと思いますが、しかし6ヘクス程度は西にずらせるかと思います。一方で、ゲームの開始地点が一番南東にあるわけですが、良く考えるとそこの部分だけを追加のミニマップで提供する……というのでも良いのかなと(『Case Blue』で、スターリングラードの東側の追加ミニマップがあったりしました)。1945年戦も考えると、実は一番いらないのが、この南東の部分なのです(^_^;


 1945年のビルマ戦を重視すれば、マップはもっと北西方向に寄っているべきだと思われ、そこらへんまた今後考えていこうと思います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:第46インド歩兵旅団の初期配置について

 第46インド歩兵旅団の初期配置について、かなり迷走しているのですが、考えをまとめるため&備忘録のため、ブログに書いておこうと思います。




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 ↓最初、および現状の初期配置場所(左上の2ユニット)

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 ところが、一時期はこの2ユニットを、Thaton(サトン)とBilin(ビリン)に初期配置することにしていたのでした。しかし、どうもそれは史実からするとだいぶやり過ぎ(無理)だったことに気付き、最初に設定していた状態にとりあえず戻しました。


 史実でこの部隊がどうであったかについて、引用しておきます。

【……】後者【第46旅団】はインドからビリン地区に移ってきたばかりで、輜重未着のため【1】月末まではビリンから動くことができない状態である。
『ビルマ攻略作戦』P154

 第46旅団は1月20日頃汽車にてビリンに輸送せられ、爾後サルウィン河(マルタバン及パアン対岸)の警備をなす。
『ビルマ攻略作戦』P168

第46インド歩兵旅団は、第16インド歩兵旅団の後方または北側に配置された。師団で最も古い旅団の一つで、1月末にビルマに到着した最初の増援部隊であった。第10バルーチ連隊第7大隊、第17ドグラ連隊第5大隊、第7グルカ連隊第3大隊の3個大隊からなる。第1大隊と第3大隊はインドから運ばれてきて輸送手段なしで下船し、輸送手段は1月30日まで到着しなかった。

1月16日、彼らはラングーンから鉄道で移動し、第17インド師団に合流した。その後、ビリン周辺への移動を命ぜられ、そこでKing's Own Yorkshire Light Infantry第2大隊と合流した。第17ドグラ連隊第5大隊は1月31日に到着し、翌日フニンパレ(Hninpale)地区【ビリンのすぐ南】で第46インド歩兵旅団司令部に合流した。そのM.T.【輸送手段? 輜重?】も後方に残された。旅団は経験の浅い部隊で構成され、それまで何度も何度もベテランを引き抜かれていた。個々の兵士の訓練は水準に達していなかった。新しい将校の流入と迅速な昇進は、経験豊富な将校にさらなる負担を強いていた。そのうえ訓練内容は、完了したら配属されるはずのイラク向けのものだった。ビルマに到着する前に、あと6ヶ月訓練を受ければ、はるかに優れた戦闘部隊になっていただろう。

この旅団の担当地域は、Kyauknyat、Kamamaung、Bilinで、Thaton方向へは小さな三角形の突起のようになっていた。司令部はビリンから3マイル南のフニンパレにあった。旅団の任務は、Papunを強力に保持することと、DagwinとKyauknyatのSalween川にかかるフェリーを保持することであった。第7ビルマ小銃大隊は、この目的のために一時的に旅団の下に配置された5。また、ビリン-サトンの道路をパトロールし、その地域の海からの接近を監視することになっていた。
『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』P120


 ↑この最後の、Papun保持のための任務というのは、ゲーム上では場所が離れすぎていて、この旅団のまとまりでやらせるのは無理という気がします(そもそも英連邦軍は師団や旅団隷下部隊の縛りが非常にゆるいですし)。


 現状の初期配置案では、戦闘モードでしか移動できないという制限を第3ターンまで付けてはいるものの、移動不可ではない、としています。第17ドグラ連隊第5大隊はラングーン港からプレイヤーが陸揚げし、その後恐らくプレイヤーが鉄道輸送で前線へ運ぶでしょう。

 しかし史実により忠実にするとすれば、ビリン地区周辺に数ヘクス以内自由配置で、その1月末まで(第4ターンまで)は移動不可、とした方がいいのかもしれません。その場合、第17ドグラ連隊第5大隊が1月29日ターン(第4ターン)にいきなりビリン地区に現れるべきなのでしょう。

 でも後者はどうにも、ゲーム的面白さに欠けるでしょうね……。前者は、やや史実からは逸脱するものの、ゲーム的面白さがあります。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:テストプレイでのモールメン、パアン周辺について

 OCS『South Burma』(仮)のVASSALでのテストプレイに、尼崎会のタエさんや富山のKさんに付き合っていただいてまして、大変ありがたいです。自分一人では気づけないでいた、色々重大な改善点が見つかってます(^_^;

 この土日はお二方とも多忙ということだったので、今までの知見を元にソロプレイをノロノロと進めてました。

 で、最初の重要な地理的目標であるモールメン、パアンあたりのことについて自分なりに考えてることを書いてみようと思います。


 ↓第4ターン(1月29日ターン)の日本軍移動フェイズ終了時。

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 最初の重要な考察点は、史実でモールメンが陥落した第4ターンに英連邦軍側がどうするのが良さそうか、だと思ってます。

 というのは、勝利条件として、史実より遅い第5ターン以降にモールメンが陥落した場合、英連邦軍側に勝利得点が入るようにしようと思っているからです(史実より早く陥落した場合、日本軍に勝利得点が入る)。

参考:OCS『South Burma』(仮)製作のために:前方(サルウィン川沿い)で防御すべきか、後方(シッタン川沿い)で防御すべきか (2023/03/21)



 ちなみに、日本軍が第3ターンにモールメンを陥落させるのは、英連邦軍側がモールメンをほぼ空にしたのでなければあり得ず、一方で第5ターンには日本軍の攻撃戦力が(戦闘モードになるなどして)かなり大きくなり陥落の可能性が高いはずです。そのように苦労して調整しました(^_^;


 英連邦軍側は、↓のような選択肢があるだろうと思います。

1.モールメンを守らずに明け渡す
2.第4ターンに防御撤退の方向で考える
3.第4ターンは固守し、第5ターン以降柔軟に

 1もなしではないと思います。というのは、2と3では無損害ということは難しいのに対し、1では無損害が可能だからです。ただしもちろん、勝利得点上は不利であり、また次の守備ラインであるマルタバン周辺は半島状に突き出ていて結構守備が難しいという問題があります。また、モールメンは中障害(Very Close)でかなり攻撃側に不利なので、そのような地形をあっさり明け渡すのかという話も……。


 個人的には、2が面白いと思ってます(ただし、私が「史実通りになった方が美しいよね」という思いに引っ張られているのも確かでしょう バキッ!!☆/(x_x))。というのは、第4ターンの日本軍は、モールメンの南東には戦闘モードで接敵できるのですが、北東では移動モードでしか接敵できないので、マルタバンにZOCを及ぼせないのです(上の画像でそうなっています)。


 OCSでは、

・敵ZOCに退却したらDG(混乱)になる。そしてそこに元いたユニットも全部DGになる。
・DGであったスタックが敵ZOCに退却したら1ステップロスする

 というルールがあるのですが、第4ターンにモールメンから戦闘結果によりマルタバンに退却する場合、

・モールメンのスタックがDGでない場合、マルタバンに退却する時にDGにならない
(マルタバンに日本軍ZOCが及んでいた場合、マルタバンに退却する時にDGになり、かつ元々マルタバンにいたユニットもすべてDGになる)
・モールメンのスタックがDGにさせられていても、マルタバンに退却する時にステップロスしない。
(マルタバンに日本軍ZOCが及んでいた場合は1ステップロスし、かつ元々マルタバンにいたユニットもすべてDGになる)

 という風に悪い影響を受けないで済みます。ところが3の選択肢の場合はおそらく、↑の()内のような悪い影響を受けまくるのです。


 しかも3の場合、モールメンのハイスタックを見て日本軍は第4ターンの攻略を諦め、(史実でもモールメン攻略後にしたように)マルタバン周辺への包囲環を作ろうとする可能性があると思ってます。結果として最悪の場合、モールメンとマルタバンに英連邦軍の数ユニットが閉じ込められ、壊滅させられるケースも……? そうなってしまう可能性はやや低めだとは思いますが、日本軍側にとっては恐らくそのパターンが「最高の結果」だろうとも思います。


 仮に2の選択肢を選択する場合、↓のようにするのが良いだろうと思います。

・可能な限り高いARのユニットを、モールメンで守備させてARを使用する。
(英連邦軍も、日本軍ほどではないですが結構補充でユニットが戻ってくるので、日本軍がなるべく高いARのユニットを攻撃せざるを得ないようにさせるべきです。そして、デッドパイルから補充してまた使うのです。また、ARが高い方が、ステップロスを食らわずに退却だけで済む可能性も高まります)
・自動車化タイプでしか移動させられないユニットをモールメンで守備させる場合、大河川をまたいで退却可能にさせるために、モールメンかマルタバンに戦闘モードの司令部を置いて、架橋しておく。
・現状のルール案では、3ユニット以上で守備している時に日本軍が戦闘後前進すると、「チャーチル給与」のダイス目に+2されるので、2ユニット以下で守備する。

 最高なのは、第4ターンに日本軍にモールメンを攻撃させて、それが失敗する、あるいは退却だけで済むというケースかと思います。




 それから、パアン(Pa-an)とラインブエ(Hlaingbwe)の守備ラインの話です。史実で英連邦軍は、最初このラインで防御線を引く予定でした。

 ところがこの防御ラインは、天然の防御ラインであるサルウィン川の向こう側にあり、「いやいや、サルウィン川の西側に防御ラインを作った方がはるかに有利ではないか。なぜわざわざ、川の向こう側に防御ラインを設けるのか?」と私は思ってました。

 ところがテストプレイ中をしていると、英連邦軍がサルウィン川の西側にのみとどまっていた場合、パアンの南東の地域で日本軍はユニットを戦略移動モード(戦力0、AR0になる)で置いたり、SPを載せた輸送ワゴン(防御力0)を守備隊なしで置いたりできるということが分かりました。

 ですからもし英連邦軍プレイヤーがパアンにユニットを置いたならば、日本軍プレイヤーはそのような戦力0のユニットを無防備でパアン南東に置けなくなり、その分移動が遅くなったり、守備隊を置かねばならなくなって手が縮こまることが見込めました。

 英連邦軍プレイヤーとしては、どちらかと言えば、パアンにユニットを置いて、日本軍に好き勝手されないようにした方が良いのではないかと思います。日本軍がラインブエ方向に進撃する可能性もあるのですが、その場合でも英連邦軍がサルウィン川西岸にしかユニットを置いていない時よりも、対応が容易ではないかとも……。


 現状では、ある程度面白いゲームになり得ているのではないかと思います。常に危惧しているのは「見落としている必勝法が存在してしまっているのではないか」ということです。これまでのテストプレイで、日本軍の騎兵ユニットが突進して英連邦軍の後方連絡線をカットしてしまうのが問題だということが認識できたので、マップ上で小河川や荒地や山岳を追加したり、騎兵ユニットを再建不能にしたりしました(^_^;


OCS『South Burma』(仮)製作のために:サルウィン川沿いの防御ラインの守り方

 OCS『South Burma』(仮)のVASSALモジュールを作ることができ、テストプレイが行えるようになりました。

 最初の5ターン(モールメン占領あたりまで)を何回も繰り返していて、修正点は100以上になっただろう(>_<)と思うのですが、ようやく次の、サルウィン川沿いの防御ラインを日本軍が越える辺りまでプレイできるようになってきました。


 で、そこらへんに関する史実の記述を探してみました。すると、以前は読み飛ばしていたような内容が今度はかなり深く分かってくる気がしました。


 ↓現在のマップに、記述の内容を重ねてみたもの。

unit8534.jpg




英印軍の計画 日本軍2個師団の進撃を迎える英印第17師団の新防衛地域は、南はマルタバンから、北はサルウィン河畔のカママウンに至る約100キロの正面を持ち、奥行きはサルウィン河からシッタン河にわたる約130キロもあった。右翼を海岸に、左翼をダウナ山系に託し、海岸を底辺とする不斉三角形のかっこうをした地域である。
 遅滞陣地線としては、サルウィン河、ビリン河の二線があり、その中央に、ドンサミ河とマルタバン山系がほぼ東西に走って区画をつくり、陣地正面は西に行くほど狭くなった地形である。また、兵站線はマルタバンからビリンを経て、キャクトウ、シッタンにおよび、しかも海岸線に近く走っているので、海からの脅威を受け易かった。
 スミス師団長は、マルタバン地区は出張っていて弱いからこれを捨て、サトン~クゼイクの線を確保するよう軍司令官【ハットン】に提案した。しかしハットン中将は、ラングーンに到着する増援と中国軍の来着に必要な時間をかせぐため、天然の障害であるサルウィン河を利用しようとし、第17師団に〈北はパアン付近から南はマルタバンにわたる線を防御し、理由なく土地を放棄するな〉と命じた。
 スミス師団長は示された防衛線を守ることにはしたが、手持の兵力に比し正面が広いので、結局日本軍は、各所から浸透できると考えた。そこで、第一線はその要点を保持し、中央に大きな予備兵力を控置しようと考え、第16旅団でサトン、カママウン、パアン、マルタバン地区を、第46旅団でビリン、パプン地区の第二線を、またモールメンで戦力が低下した第2ビルマ旅団をキャクトウ地区に配置し、シッタン橋梁と後方地域を守備させることに決定した。
『ビルマ進攻作戦』P38,9



 昨日、私は連合軍側でテストプレイしていたのですが、モールメンとマルタバンが連続して失陥してしまったこともあって、サトン~クゼイク線への撤退はちらっと考えました。尤も、その時は手持ちの兵力がやばいほど減少していたので、極力一目散の撤退しか現実的な選択肢はありませんでしたが……。


 一方で、サルウィン川沿いの防御ラインを守るとしても、手持ちの兵力でそのライン全体を守備できないのは確かにその通りです。ゲーム上のユニット数的にそもそもこのラインを埋められないのですから。

 すると確かに、スミス師団長が考えたように、要点にだけ戦力を置き、何か起こったことに後方予備で対処する、というのが賢いかもしれません……。これまでに見てきたクゼイク周辺での戦況図なんかでは、クゼイクに連合軍部隊は置かれているものの、その左右の川沿いに部隊が置かれておらず、むしろ後方のDuyinzeikに部隊が置かれていて、「なんでだろう?」と思っていたのですが、そこらへんに納得がいきました。

 またそうすると、これまで連合軍のビルマ人部隊は防御専用の()付き戦力にしてあって、テストプレイしてみてるとほとんど役に立たなかったのですが、攻撃もできる()無しにすれば、予備戦力として攻撃にも出られるのでその方がいいかな、と思えました。



 それから、この時期の連合軍部隊は「守備位置周辺でパトロールをしていた」という記述が今まであるのがちょっと不思議に思っていたのですが、日本軍の海岸上陸や河岸上陸を警戒していたということなんだろうと思えてきました。

 OCS『Sicily II』の揚陸(ALT:上陸作戦)結果表のダイス修正には「-1 2ヘクス以内の沿岸防衛ユニット毎に」というのがあったのですが、それを見習って『South Burma』(仮)でも「-1 4ヘクス以内の連合軍戦闘ユニット毎に」という風にしようと考えました。そしたら、パトロールという記述に合うなと。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942と1945は、マップは共通、ルールは別で

 OCS『South Burma』(仮)は、まずは基本的に1942年1月~5月の日本軍によるビルマ攻略を扱うものなわけですが、1945年1月~8月のビルマ戦線の崩壊局面も同一マップで再現できそうなら、ぜひそうできるようにしたいと漠然と思っていました。



 ↓現状のマップ割。フルマップ3枚で、一番北のマップはOCS『Burma II』のマップと一部重なります。

unit8546.jpg



 この件は、リサーチの面からも必要だと思ってました。というのは、OCS『South Burma』(仮)を作る上で最も困難なのはマップ製作の部分だと思っているのですが、ビルマ戦の往路(1942年)の資料だけでなく、復路(1945年)の資料も読めば、地形に関する記述は数倍あるだろうことが見込めるからです(1ヘクス8kmというスケールでは、単に資料の中の地図を参考にしてマップを作るのでは全然充分でなく、文字資料の部分から見つかる材料を織り込んでいかないとダメだと、ここまでの作業でも痛感してます)。


 なので、往路の最初の部分から資料を読み始めて、復路の最後の部分で重なるところが出始めたら、後者も読んでいこうと。尤も、復路の最後の方とはどういうもの(資料)なのか、実は分かってなかった(^_^;のですが、先日ようやく、「シッタン川突破作戦(日本軍の残存部隊が南部ビルマの中央部にいて、その東側が英連邦軍に阻止されていたのを突破し、シッタン川を渡河して南東ビルマに向かおうとする作戦)」が最後の作戦に当たり、戦史叢書にもその作戦を扱った本があるのだということを理解して注文したのでした(そういう作戦行動があったこと自体は知っていたのですが)。






 で、いよいよ少し復路の部分にも手を付け始めそうなので、『South Burma』(仮)のテストプレイ用ルールブックを改訂する上で復路に関しても織り込んでいかねば……と思って、しばらく考えて諦めました。「往路も復路も同一のルールで再現するなんて無理だな! 往路と復路は、別のルールやチャートを使用するということにしよう!」

 マップは同一のつもりですけども、1942年から1945年の間に橋が落とされたり架けられたり、鉄道や道路などの変遷がある可能性はあるかと思います(それらの変遷がかなりの件数あるようなら、別マップ別ゲームということにした方がいいのかもしれません)。ユニットは、1942年は3倍スケール、1945年は標準スケールのつもりですし、全然別となります。地形効果表も、1942年のはかなり移動しやすいのですが、1945年のは(『Burma II』と同様の)かなり移動しにくいものにした方がいいのではないかと思っています。


 ルールを別にするので、ルールブックにはそれぞれ「South Burma: 1942」「South Burma: 1945」とでも書こうと思っています(シモニッチ的な感じがするなぁと思いましたが、良く考えたらシモニッチなら「'42」とかですかね)。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:サルウィン川周辺の小道と、ビルマ人部隊を改訂

 OCS『South Burma』(仮)製作のために、ネット上にあった『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』を読んでいく作業をしてました。


 この本には詳しい地図がけっこう入っているのですが、その中のP119の地図は、1942年2月1日時点(モールメンを日本軍が占領した直後)の英連邦軍の配置図となっています。


 ↓今回改訂したOCS『South Burma』(仮)のマップにその配置図の一部を描いたもの。

unit8559.jpg


 以前、OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていた (2023/07/15)で書いてましたように、英連邦軍側は海岸沿いやサルウィン川上流の方も警戒してかなり広い範囲に部隊を配置しています。

 それはそれで、プレイヤーがそうしたくなるような史実に基づいた状況設定を盛り込んでいこうと思うのですが、その他に2つほど、ちょっと解決しなければならない問題が認識できてきました。

1.史実では、画像の赤い□で囲んだPa-an、Hlaingbwe、Kamamaung等を保持することが意図されていたようなのですが、これまでに作っていたマップ上では、英連邦軍がそれらを保持することに魅力を感じられないだろうこと(日本軍にとってもっと良い進撃路が他にある感じなので)。


 ↓以前のマップ。

unit8557.jpg

 小道は、資料で見つけられていたものを描いてみていたわけですが、↑だと、サルウィン川を渡る上では、モールメンのすぐ北のあたりや、Pa-an(パアン)の北にも2箇所くらい有望な場所があるように感じられます。ですから、先に書いてました史実の「Pa-an、Hlaingbwe、Kamamaung等を保持する」などという事に意味はないようになってしまうでしょう。

 そこで、よりそれらを保持することに意味が感じられるように、小道や平地を取捨選択して削ることにしたのでした。




2.Hlaingbwe、Kamamaung等に英連邦軍はどうやって一般補給を入れるのか?

 OCS『Burma II』で英連邦軍が小道を通して一般補給を入れるのは地獄のように大変なのですが、『South Burma』(仮)はそこらへんは緩和しないとどうにもならないのでそうしようとは思ってます。しかしだとしても、史実ではかなり離れた場所に英連邦軍は部隊を配置することをしており、単なる緩和ではどうにもならないと思われました。

 そこで気付いたのが、そういうかなり離れた場所への守備隊配置に使用されていたのが、ビルマ人部隊であったことです。具体的には第2ビルマ小銃大隊、第4ビルマ小銃大隊、第8ビルマ小銃大隊など。

 ビルマ人部隊は現地での食料等入手にかなり有利であっただろうと考えても良いかと思い、『South Burma』(仮)では日本軍だけが使用可能と考えていた「食糧入手表」をビルマ人部隊も使用可能であることにすればなんとかなるだろうと思いました。ただし普通にそのユニットのアクションレーティングで判定していてはやっぱりダメなので、ビルマ人部隊はアクションレーティングに+3できるという方法で。


unit8556.jpg



 ただしそうした場合、ビルマ人部隊(の一部)が攻撃も可能な戦闘力を持っていては、日本軍の後方でのゲリラ活動が可能になってしまう(史実では後に「そういう風に使った方がよかった」と報告があったものの、序盤ではそう使用するための条件が整っていなかったのでそれができなかったのです)ので、とりあえずすべての部隊に()を付けて防御専用にすることにしました。


 ↓現状のユニット。

unit8558.jpg




 『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』でサルウィン川渡河のあたりまで読んだら、テストプレイ用のセットを作ろうと思ってます。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていた

 1942年のビルマ戦の初期の一時期、モールメン攻略後(2月1日)からビリン川の線からの撤退(2月20日)あたりの期間において、英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていたことに関して複数の資料に書かれているのを発見しまして、OCS『South Burma』(仮)でもそれが可能なように配慮することが必要かと思われました。


 ↓OCS『South Burma』(仮)の現状のマップ。

unit8560.jpg


 日本軍がモールメン(Moulmein:画像の右下の赤い□)を攻略した前後、日本軍は多数の小さい船を入手していたようです。

 サルウィン川では、マルタバンとダグウィン【画像の右上の赤い□】の間に船が数隻あった。小道や道路はこれらから東【西の間違いか?】へと続いており、そのため船には注意深い監視が必要だった。海岸沿いの多くの河口や小川も同様だった。日本軍は筏、川船、大きなボートを多数所有していることが分かっていたのである。したがって、彼らは我が軍の戦線の背後で海岸上陸を試みることが十分に可能であった。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P79

 少なくともダグウィンまでは船が遡れたということであると思われ、ダグウィンに日本軍部隊が上陸すればパプンまで移動することもできるでしょうから、それが警戒されたのでしょう。


 【第17インド歩兵】師団長は【サルウィン川沿いのラインという】新しい状況に満足しておらず、シッタン川のラインへの撤退を望んでいた。しかし、彼は却下され、ハットン将軍はサルウィン川の線に固執した。マルタバン(Martaban)は確実に保持すべきであり、また部隊の配置全体はマルタバン湾からの上陸にも配慮されていなければならない。第17インド師団はマルタバン、サトン、パアン、ビリン、キャイクトー、パプンを保持し、マルタバンからシッタン橋までの主要道路と鉄道をパトロールすることになっていた。この地域は、機甲部隊の支援のない小部隊には広すぎた。お互いの連絡手段が失われてしまうほど遠く離して薄く分散配置するのがせいぜいで、横の連絡もなしではこの地域では、一つ一つの部隊が側面から包囲されてしまうだろう。そのうえ、部隊の配置は海上からの上陸に振り向けられ、より多くの部隊がマルタバンからキャイクトまでの鉄道路線に集中し、地形的に潜入が容易なビリン・パプン・パアンの三角地帯にはより小さな部隊しか配置されていなかったのである。このようにして、ラインは薄く引き延ばされた。師団長は、戦線の延長は縦深を不足させるという金言に基づき、戦線を短縮する許可を要求し、ビリン川戦線への撤退を希望した。
『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』Introduction xxix, xxx



 さらに、英連邦軍側は、ラングーンの東側の海岸に日本軍が部隊を上陸させることをも警戒していたようです。

 ウェストヨークシャー【軽歩兵大隊】はラングーンのすぐ東の海岸線を監視するために派遣された。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P75




 ところが史実で日本軍側は、サルウィン川を渡河したりするのに船を使用したものの、川を遡ったり、海岸からの上陸作戦などは行いませんでした。後者の理由については、どの資料で見たのか忘れましたが、マルタバン湾(画像の海の部分全部がそれです)の制海権はこの時期、英連邦軍側が握っており、英連邦軍側の艦船によって上陸用の舟艇が沈められてしまうのを危惧したからなのだそうです。


 しかしゲーム上では、可能な作戦として提示されるべきでしょうし、またそうでなくては英連邦軍側が最前線にばかりユニットを配置できてしまうことになってしまうでしょう。

 案としては、日本軍がモールメンを占領したら、たとえば2T分の上陸用舟艇が日本軍に与えられると。OCSシリーズルールで、上陸用舟艇は1つの移動セグメントに10ヘクスずつ移動できるので、それで上陸作戦を行えます。上陸用舟艇は陸上ユニットなどの下に隠すことができます。

 上陸用舟艇を外洋に出した場合、英連邦軍側の艦船に沈められてしまうかどうかのチェックは必要でしょう。

 OCSシリーズルールでは上陸用舟艇にユニットを載せるのは港湾でしか行えないため、モールメンを港湾にしてみましたが、色々な理由からモールメンを港湾にするのはやめて、単純にシリーズルールの例外としてどこでも載せられるようにした方がいいかもです。
(色々な理由……モールメンを港湾にすると、英連邦軍側がモールメンに増援を送りやすくなってしまう。かといって、モールメンの港湾能力をダメージで予めゼロにするようにすると、シリーズルールで上陸用舟艇にユニットを載せる際にも港湾能力が必要なので困ってしまう(>_<))


OCS『South Burma』(仮)製作のために:九七戦とP-40の航続距離について

 『Flying Tigers』を読み進めていましたら、↓のような記述に出会いました。






 指揮下の戦闘機【九七戦】を敵に近づけるため、吉岡【第77戦隊長】はラングーンからわずか200マイルのラーヘンの前方滑走路に【ラングーンから300マイル東のピサンロークから】部隊を進めた。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P103



 別の資料を読んでいると、ラーヘンとラングーン(ミンガラドン飛行場)との間などを日本軍の九七戦も、義勇アメリカ航空部隊(AVG)のP40Bも、往復して空戦したり在地機を銃撃したりしています。


 ↓OCS『South Burma』(仮)のマップを作る時参考にした地図のうちの一つと重ねているもの。

unit8563.jpg


 一番左の小さい赤い□がミンガラドン飛行場です。ナコンサワンにも飛行場があったり、その南の方にドムアンという飛行場があり、そこも連合軍航空機から攻撃を受けていたもようです。


 ところがふと、現状のP-40と九七戦(Nate)の航続距離と、ラングーン~ラーヘン間のヘクス数を確認して青くなりました。

unit8606.jpg


 ↑P-40の37ヘクス、Nateの40ヘクスに対して、46ヘクスほどあったのです!(>_<)
(ミンガラドンからマップ東端まで38ヘクス、マップ東端からラーヘンまで8ヘクス(ミンガラドンから46ヘクス))



 これはまずい……。


 で、色々調べたところ、↓のようなことが分かりました。

 九七戦の航続距離は627kmらしく、『South Burma』(仮)で使用しているOCSの標準スケールの1ヘクス5マイル(約8km)での片道でのヘクス数は39、まあおよそ40となります。

 ただこれは、翼内にのみ燃料を入れた時のものなのか、「九七式戦闘機の航続距離を教えてください。本気で知りたいのです。」というページのやりとりによると、↓という推測が書かれていました。

(1)翼内燃料のみの280Lのときは航続距離627km(燃費2.24km/L) 【39ヘクス】
(2)胴体内燃量まで搭載した330Lのときは航続距離825km(燃費2.5km/L) 【52ヘクス】
(3)主翼下の落下式増槽まで搭載した596Lのときは航続距離1710km(燃費2.84km/L) 【107ヘクス】

 ゲーム的には、「ピサンロークからではラングーンまで届かないが、ラーヘンからならラングーンまで届く」という航続距離が望ましいかと思うので、航続距離を52ヘクスに変更するのが良いかな、と思われました。ただ今後、九七戦がピサンローク他からラングーンに飛んでいる記述が多く見つかれば、考え直します。


<2023/07/13追記>

 九七戦が落下式増槽を付けていた(ことがある)ことに関する記述を見つけました。

 彼らはミンガラドンと九七戦を同時に視界に入れた。アメリカ人パイロット達が見守る中、24機の日本軍戦闘機が補助燃料タンクを落とした。「紙吹雪のようだった」とニールは回想する。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P154


 また、九七戦がナコンサワンを進発してラーヘンで給油してからラングーンに向かったという記述もあった(P158)ので、ナコンサワンを基地とできるだけの航続距離を持たせても良いのだろうと思います。

<追記ここまで>






 P-40は、これまでのOCSでは航続距離37というケースが一番多いのですが、57や60というのもあります。

OCSにおけるカーチスP-36とP-40について (2022/09/26)


 ただ、Wikipeida「P-40 (航空機)」を見ていると、航続距離は↓となってました。

P-40 2,253km 【141ヘクス】
P-40E 1,529km 【96ヘクス】
P-40L 2,213km 【138ヘクス】
P-40N 1,207km(落下式増槽装備時) 【75ヘクス】


 よく分からないですが、P-40Bの航続距離を96ヘクスぐらいにしても許されるのかもと思いました。が、37ヘクスとは何だったのかということは全然分からないままです(^_^;


 とりあえずは、ゲーム上良さそうなある程度のところの数字でやっていってみようとは思いますが、何か「それはこうですよ」とかありましたら、ぜひご教授下さい(^^)



<2023/07/10追記>

 ↑で引用していた文の直後に、参考になる記述がありました(^_^;

 義勇航空部隊のマニング大尉はヘルズ・エンジェルス【AVG第3飛行隊】に、メルグイに増援部隊を運ぶ兵員輸送船の護衛を依頼した。オーリー・オルソンは、トマホークがテナセリム上空でガソリンを確保できるのは45分と計算し、この任務を拒否した。67戦隊の足の長いバッファローはそのような問題はなかった。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P103,4




 ↓関係地図

unit8562.jpg

 今回の引用文で「テナセリウム」というのはビルマ南東部、タイ国境沿いの南北に長い地域のことで、メルグイ(Mergui)の町は現在はベイという名前に変わっています。

 「ターク」の辺りが「ラーヘン」で、画像上の各ヘクス数はラングーン(ミンガラドン飛行場)からのおよそのヘクス数見積もりです。


 ここから推測すると、P-40B(トマホーク)は、だいたい85ヘクス辺りまで行くと、残りの活動時間は45分程度となり、危険になったのでしょうか。すると、安全に活動できる限界は70ヘクスあたり……?(全然分かりません。80弱くらいでもOK?)

 一方、バッファローの方は航続距離が1600kmという数値が出てきまして、ヘクス数にするとちょうど100ヘクスとなります。


 すると、バッファローが100ヘクス、P-40Bが70数ヘクス程度、九七戦が52ヘクス、あたりでしょうか……?

<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマの英連邦軍自動車化部隊の一度の積載量について

 1942年のビルマ戦におけるイギリス人部隊、キングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵第2大隊の兵士であった人物の日記を元にしたという本があるのを発見したので、購入して読み始めてます。






 この中に、大隊の持つトラックの総積載量が非常に少ないものであったということが書かれているのに興味を持ちました。

 この大隊には6両の15cwt【約3/4t】トラックしかなかったが、これは大隊全体はおろか、6個小隊にも十分ではなかっただろう。
『Burma 1942: Memoirs of a Retreat: The Diary of Ralph Tanner, KOYLI』P40



 「15 cwt truck」というのは「CMPトラック」というのの1種であるようです。

 「6個小隊」が大隊のうちのどれだけなのかですが、『WWII戦術入門』という本によると、イギリス軍はこのような編制であったようです(P42)。





1個歩兵大隊=4個小銃中隊

1個小銃中隊=3個小銃小隊


 つまり、1個歩兵大隊は12個小銃小隊から成っていたことになります。ということは、「大隊の半分を運ぶにも十分ではなかった」ということになりましょう。


 OCSでは、ユニットの兵員すべてを乗せるだけの車両(あるいは馬)がなかった場合、移動モードにおける移動力が低めにレーティングされるようになっています。


 ↓現状のOCS『South Burma』(仮)用ユニット。今回の「キングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵第2大隊」というのは、左下から2番目の「2 KOYLI」です。

unit8566.jpg


 自動車化部隊の移動モードの移動力を「10」としてますが、実は最初全部「12」にしてあったのを、先日「少し下げた方がいいかも?」と思って10にしていたのでした。

 OCSの自動車化部隊の移動モードの移動力は通常、12か14あたりで、高いものだと18とか20とかってのもあります。10というのは記憶にはないのですが、あったかどうか……?

 ただ、OCSルソンの第48師団は自動車化部隊であったとはいうものの、師団長の土橋勇逸氏の回想録によれば実態としては1/3は徒歩、1/3は自転車、1/3が自動車であったそうで、私は歩兵連隊は8移動力、捜索大隊は10移動力としてました。


 ↓OCSルソンの第48師団の移動モード面。

unit8565.jpg



 ビルマ戦における英連邦軍全体が車両不足気味であったのか、あるいは部隊によって足りない、足りてるの差が激しかったのか等、今まで気にしていなかったこともあって良く分からないのですが(^_^;、ゲーム上の必要から設定されていく面もかなりあるとは思います。


 今後またこの件について気にして、情報を見つけたら集積していこうと思います。


<2023/07/06追記>

 他の部隊もトラックが不足していた旨の記述を見つけました(今までにも読んでいた内容とは思いますが、気を付けていなかったので……)。

 動員されたグロスターは、鉄製ヘルメットがなかったため、陸軍型の日よけヘルメットをかぶっていた。装甲ブレンキャリア、迫撃砲、トラックも不足していた。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P38

 ジョーンズの旅団【第16インド旅団】は、動物による輸送と自動車による輸送を混合して装備していた。例えば、1/7グルカは、52頭のラバ、6頭の馬、10輌の大型トラック、水タンク車、4台のオートバイを所有していた。車両は砂漠迷彩に塗られ、中東の目印のない荒野を横断するための太陽コンパスを持っていた。すべての兵員や動物を一度に運ぶには十分な数の車輛はなかったが、大隊は少なくとも自前の貯蔵品や重装備を移動させることができた。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』58



<追記ここまで>




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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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