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『ビルマ 絶望の戦場』読了:ビルマ戦末期にラングーンの上級将校達が芸者遊びしていたことについて

 ようやく『ビルマ 絶望の戦場』を読了しました。


 途中、ビルマ戦末期にラングーンの上級将校達が芸者遊びしていたことについて結構詳しく書かれていまして、とりあえずその場所が気になったので調べてみてました。



 ラングーンの上級将校が芸者遊びに励んでいた場所が、先述した料亭「萃香園(すいこうえん)」である。萃香園は、もともと福岡県久留米市にあった高級料亭が、芸者ら数百人をつれて、ラングーンに出店。上級将校専用の慰安施設となっていた。
『ビルマ 絶望の戦場』P167



 ラングーンの中のどこにあったのかですが、最初は「ペグークラブ」という洋風の建物の中で営業していたそうですが、1943年末に「雰囲気が合わない」という理由で、ヴィクトリア湖畔に移された(P175)のだとか。


 ↓OCS『South Burma』(仮)のラングーン周辺。ラングーンの北東に「Pegu」という町がありますが。

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 ペグークラブの場所は、↑で言えばラングーンの港湾マークの上の頂点あたりでしょうか。

 ヴィクトリア湖というのはラングーン市内に描かれている湖です。当時萃香園は、ビルマ方面軍司令部が接収して使用していたラングーン大学の隣にあったそうで、ラングーン(ヤンゴン)大学は湖の南西にあるようなので、その辺という感じでしょうか。



 上級将校らがどれくらい遊んでいたかについて、「自動車が常に二、三十台は集り賑を極めている」(P169)とあったので、なるほどなかなかかと思いました(営業時間は夜9時から午前2時)。芸者さんは「久留米から約100名、大牟田と福岡を合わせて約30名」がビルマへ行ったそうですが、そのほとんどは家が借金を抱えていて、ビルマへ行けば借金が返せるという話で行った人達だろうとのことです(P173)。

 また、ある芸者さんの話としてこういうのが挙げられていました。

「自分を美化していう訳ではありませんが、私は軍人なら誰かまわず寝るような芸者ではありませんでした。そのためには、パトロンを持つのが大事なのです。あの芸者は誰々の彼女だ、となると他の軍人さんは手を出さない。それに私達には入らないような煙草などの品物も差し入れてくれるんです」
『ビルマ 絶望の戦場』P174




 前線の兵士達が言語に絶するほどの苦難に喘いでいたビルマ戦末期にも、この萃香園で上級将校達が享楽にふけっていたことが、当時の方面軍上層部の退廃の象徴として、この本で描かれていました。



 ただ、この本だけを読んだ人(あるいは、このNHKスペシャルを見た人)は、「こういう慰安所はラングーンだけにあって、上級将校らだけの特権であった」という風に思うのではないかなぁと思ったのですが、実際にはそうでなくて、兵士向けの慰安所がビルマ各地(あるいはインドや中国領内にまで)にあったわけです。しかも、こういう慰安所にものすごく反対したのが、あの悪名高い辻政信だったのですが、まあ話がややこしくなりすぎるのでそこらへんの話には触れなかったのでしょうね~。


 あと、当然ながらビルマ戦における英連邦軍側にも慰安婦はいました(上級将校専用とかって枠があったかどうか、興味のあるところですが……)。

インパール戦洋書をちょっと読んだ感想(慰安婦、日本軍兵士の強さへの記述等) (2020/03/06)



 ビルマでどこらへんに日本軍の慰安所があったかについては、↓のような地図がありました。

日本軍慰安所マップ ミャンマー連邦共和国




 あの玉砕した拉孟にも慰安婦はいて、一緒に玉砕しているので、ものすごく悲劇的なわけです……。

 木下中尉の報告により、とりのこされた女性部隊の約二十名も戦禍にまき込まれたことが判明した。彼女らは髪を下ろし、軍服を着用して男姿に身をやつし、准看護婦 (?)となって、傷病兵の看護に、弾丸運びに、あるいは炊事にと、かいがいしく働き、最後は大部の者が玉砕部隊と運命を共にしていったことが明らかにされて、なんとも痛ましく聞くにたえなかった。
『回想ビルマ作戦 第三十三軍参謀痛恨の手記』P237



 第33軍(北ビルマと雲南が戦区)の参謀となっていた辻政信が前線の慰安婦を全員引き上げさせるべきだと主張して、最終的に第33軍ではそのようにしたという経緯が興味深いので、長いですが引用してみます。

 現在、慰安婦のことが大問題になり、にぎにぎしく報ぜられているが、あの当時は公娼制度があったので、いまのような罪悪感は比較的少なく、必要悪ぐらいに考えている者が多かった。戦場は、男性の戦う場で、女性はいないはずであったが、事実は慰安婦と称して多くの女性が進出していた。彼女らはたくましく、じつに勇敢で、どんな辺鄙なところでも、どんな危険なところでも、軍隊の征くところにはどんどん進出していた。
 拉孟のような最前線で危険なところにも、日本人、朝鮮人あわせて約二十名の慰安婦が進出していたが、敵の総反攻時に取り残されて戦火にまき込まれた彼女らの大部が、玉砕した将兵と運命を共にしたことは、すでに述べたところである。
 その衝撃は大きかった。なかでも辻【政信】参謀の受けたショックは大きかった。
 辻参謀の女嫌いは有名で、戦場に女性を連行するなどもってのほかと大反対であったが、南京では料理屋征伐のため、料亭の焼き打ち事件までひき起こしたことは有名で、その噂は遠いビルマの涯(はて)のわれわれの耳にも入っていた。ラングーンの方面軍では、翠香苑という料亭を抱えており、軍【第33軍】でも翠明荘という料亭をかかえていた。辻さんは、ここに絶対に足を踏み入れたことはなく、かねてからこれを白眼視していた。拉孟守備隊が玉砕したとき、慰安婦たちが将兵と運命を共にしたことを知って、婦人部隊は即時かつ全面的に後方に送り返すべきだと強く主張した。
 辻参謀の論拠は、「戦局は今後ますます深刻苛烈となり、第二、第三の玉砕部隊が出ることも予想される。戦闘員でもないか弱い女性を戦火のまき添えにすることは、余りにも残酷だ。犠牲はわれわれ軍人だけで沢山だ。今さら女にうつつを抜かしているときではあるまい」ということであった。

 これに対して、山本【清衛。第33軍】参謀長は絶対に反対だった。参謀長は、酸いも甘いもかみ分け、人情の機微にも通じた豪放磊落の将軍で、酒を愛し、みずからもよく遊んだが、
「戦局が苛烈になればなるほど婦人部隊が必要なのだ。明日をも知れぬ運命にある将兵に、せめて一時なりとも苦しい戦いを忘れさせて、安らぎの場を与えてやりたいものだ。この戦争は国家総力戦で、戦闘員も非戦闘員もない。老若男女がことごとくその分に応じて、力を尽くさなければ勝ち目はないのだ。婦女子といえども戦力だ。
 いよいよというときは軍属として処遇し、准看護婦その他の面で戦力化すればよい。死なせることは気の毒だが、戦死した場合は、後の救恤、栄典の授与、遺族の生活の補償など、軍人に準じて取り扱ってやればよい。靖国神社にもまつり、その遺烈を顕彰してやればよいではないか」と主張した。
 こうして二人の意見の対立はエスカレートして、ついに感情的なものにまで発展した。辻参謀は、山本参謀長に "祇園藤次〟というニックネームをつけて、軽蔑の色をあらわにした。“祇園藤次"とは、当時広く読まれていた吉川英治原作の小説『宮本武蔵」に出てく酒と女に身をもち崩した遊蕩児である。
 一方、山本参謀長は、「辻の顔は北面の鬼瓦だ。あの御面相では女にもてないので、僻(ひが)んでいるのだろう。辻は人情の機微がわからない朴念仁だ。しかし、子供が五人もいるところを見れば、満更でもないね」と、冷笑していた。
 こうして二人の対立は高まるばかりであった。私も、二人の論争にまき込まれて、少なからず迷惑した。この問題は、後方主任参謀の所管だということで、その尻ぬぐいをさせられる羽目になり、後方主任参謀の筆者をはさんで、二人の間に綱引きがはじまったからである。
 辻参謀からは、「早く後方に送り返せ」と、毎日のように矢の催促があった。一方、参謀長はこれに反対して、「野口参謀は辻の参謀でないから、辻の言うことを聞く必要はない」とまで極言されて、要求を拒否するように言われた。
 参謀長の言うように絶対必要とも思われないが、その考え方にも傾聴すべきものがある。辻参謀の意見にも一理があるが、あまりにも潔癖すぎる。ただし、正面切って争うとなると、辻参謀の意見に分があった。私は考え抜いたすえ、辻参謀の意見に同意して、全部の女性を後方に退げることに決心した。
 それは、直接作戦に関係のない事柄で論争をつづけて部内の対立を深め、エネルギーを費消してはならぬ、女性が存在する限り、この論争は片づかないと思ったからであった。
 私はまず翠明荘を後退させるとともに、第一線の部隊にも全部の女性を後退させるように指導した。
 しかし、私のとった処置に対しては、山本参謀長をはじめ一部の者から、
「野口参謀はなんと無粋な奴だ」と陰口をたたかれている声を耳にして、後味が悪かった。
 また、私の指導に対して面従腹背で、陰でひそかにコソコソと温存していた部隊もあった。遠くて近きは男女の仲とかで、この問題は理屈どおりに割り切れないものがあった。
 私のとった処置が適切であったかいなかは別として、その後の敗戦につぐ敗戦での敵中突破や、終戦後の混乱の中で、女性を抱えていなかったので、面倒くさいことに煩わされなかったのは事実であった。
『回想ビルマ作戦 第三十三軍参謀痛恨の手記』P238~241




 ビルマ方面軍でもし、辻政信が主張したような方策が実現していたら、美談になっていたかもですけども……。





 
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牟田口廉也が非難する三人の師団長にも問題はあった?

 今回『都道府県別 陸軍軍人列伝』を読んでいて、もう一つ「ほお?」と思ったことがありました。


 著者の藤井非三四(ひさし)氏が、「牟田口廉也が非難する(インパール作戦時の)三人の師団長にも問題はあった」と書かれていたことです。これまで読んできた本では、とにかく牟田口廉也が非難される超悪役であり、罷免された3人の師団長は皆「善人」側とされるのが当たり前であったと思われましたので。

 司令官の牟田口廉也は、戦後の回想を見ても、それほど悲劇だとは感じていないようだ。すべての責任は、隷下三人の師団長にあり、もう少しで勝てた作戦であったと強弁し、あれほど凝り固まる人は佐賀県人でも珍しいと評された

 もちろん、牟田口廉也が非難する三人の師団長にも問題はあった。抗命して独断退却した第31師団長の佐藤幸徳(山形、25期)は政治色が濃く、自分が東條英機(岩手、17期)の後釜に座るという妄想にかられていた。作戦中に作戦中止を具申した第33師団長の柳田元三(長野、25期)は、陸大恩賜の秀才だが、本来は情報畑育ち。第15師団長の山内正文(滋賀、25期)は、駐米武官もした米国通だが、どう見ても野戦向きではないし病気がち。そんなことで三人とも作戦中に罷免されるという珍事となった。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P611




Kōtoku SatōGenzou YanagitaMasafumi Yamauchi

 ↑佐藤幸徳(第31師団長)、柳田元三(第33師団長)、山内正文(第15師団長)(Wikipediaから)




 3人についてそれぞれ詳細を調べるのは大変なので、これまで収集していた情報から、3人の「悪い面(?)」と思われるような記述だけを抜き出してみようと思います(もちろん、「良い面」の記述も大量にあるわけですが)。

 佐藤幸徳の場合は、その性格の激しさにおいて、牟田口と四つ相撲を引き分けるほどのものを持っていたのだから、意見が合えばその力は2倍になるが、そうでないときは、逆に大変なマイナスに転ずる危険性が潜在していたのだ。コヒマの戦闘では、後者の方が悲運を招来してしまったのであった。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P360,1

 偶然、この師団【張鼓峰事件での第19師団】には長【勇】、佐藤幸徳、田中隆吉と札つきの荒武者が連隊長にいたため、日本軍の徴発か陰謀と疑われたが、これはヌレギヌだったようだ。
『昭和史の軍人たち』P196

 高野手記に出てくる佐藤幸徳は、のちにインパール作戦で抗命退却を強行した異色の人物だが、このころは広島連隊付として統制派の拠点づくりに熱中、福山連隊にいた皇道派の相沢中佐を孤立させ、あわよくば統制派に引きこもうと工作していた。
『昭和史の軍人たち』P468

 中【永太郎参謀長】は佐藤を「豪放と小心とを兼有する人物であり、政治に興味を持ち、よく大言壮語したものである」と手厳しい。
『牟田口廉也とインパール作戦』P265

 中佐時代に始まる牟田口との関わりからか、佐藤には上司指揮官を指揮官とも思わない発言や、命令を軽く見る兆しが見られた。後の危機存亡の中、これを更迭することは、むしろ牟田口が軍紀を守ったという見方もできる。
『牟田口廉也とインパール作戦』P293

土門周平によるとインパール作戦時には、上司の牟田口中将とだけでなく、部下の第31歩兵団長である宮崎繁三郎少将とも折り合いが良くなかった。宮崎は、食糧が十分でない前線部隊にまで佐藤が慰安所を設けようとしたことや、宴席で率先して猥談をしたこと、公然とインパール作戦の失敗を予言していたこと、テント暮らしの兵士を尻目に数寄屋造の豪華な師団長宿舎を造らせていたことなどを不快に感じていた。
日本語版Wikipedia「佐藤幸徳」





 第33師団長の柳田元三中将と参謀長田中鉄次郎の激しい反目がそれであった。そもそも二人の性格は氷炭相容れなかった。柳田はすべてに慎重で消極的にさえ見られるのに対して、田中は猪突猛進の積極型であった。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P359

 彼【中永太郎参謀長】は柳田を生一本の「正義の士」と表現する。理屈に合わないことが大嫌いと言い、時に柳田は偏狭とさえ見られると心配する。ソ連関係の権威だけに、物量に重点を置き過ぎると警鐘も鳴らす。
『牟田口廉也とインパール作戦』P264

 そして、インパール作戦となる。柳田ほどの情報センスがあれば、インパール作戦の行く末も予測できる。そのため、「危ない、危ない」と及び腰になっているから、思いもよらぬ錯誤を犯す。
 敵の頭を押さえていた第一線から、「玉砕覚悟で奮闘す」との報告が来ると、「大変だ玉砕させてはならぬ」と包囲を解かせてしまった。それからはさらに慎重になり、インパールに向けての突進を渋り
、軍司令部に「即刻、作戦中止」の意見具申をするまでになった。
 インパール作戦と言えば、牟田口廉也ばかりに非難が集中して来たが、彼が柳田元三に激怒する気持ちもわかる。猛烈な譴責電が発信されるが、柳田も負けてはおらず、作戦構想そのものを批判し、ほかの二個師団に同じ過ちをさせてはならないとまで言い切った。
 こうして柳田元三は、師団長に着任してからわずか二ヵ月、しかも作戦中に更迭された。理路整然と説けば、だれでも納得するはずとの信州人の思い込みが、こまた偏屈で理屈が多く、しかも感情激発型の佐賀県人には通じなかったということになる。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P292,3





 中【永太郎参謀長】は山内を「実に穏やかな人柄」と言い、真面目な米国通で中国語も堪能と評価する。山内は「うちの兵団(第15師団)はご承知のとおり、支那戦線から押っ取り刀で駆けつけてきたので、様子も皆目わからず準備も未だ十分ではない」と正直に話す。【……】山内はご命令通り一生懸命やると言うが、自信はあまりなさそうだったと中は感じている。参謀長の岡田菊三郎少将は往々夫人を亡くしたばかりだったが、そんな素振りは一切見せず、張り切って作戦準備に専念していた。山内が岡田を信頼しきっている様子も看守されたという。
 後日のことだ。メイミョーの兵站病院に重篤となった山内中将を中参謀長は見舞った。その時でさえ、山内は自分が既に罷免されたことを知らされていなかったらしい。後送されて床にいることもわからず、死相も呈していた。顔面を緊張させ、頻りに「申し訳ない」と繰り返す。また高熱にうなされ、うわごとのように戦場の地名を呼び、何やら命ずるように言ったかと思うと、眠ってしまうという状態だった。この数時間後に山内は絶命した。中は「自分が山内に最後にあった知己ではなかったか。実に見上げた人格であった」と述懐している。
『牟田口廉也とインパール作戦』P265



 私は、どんな人物も長所と欠点の両方を持っているものだと思うので、いわば「善人」側だとされていたであろうこの3人の欠点についても、検証されなければ牟田口廉也に対して不公平だという気はします。

牟田口廉也は上司の河辺正三への反骨心でインパール作戦に突き進んだ?

 以前、大戦中を通じて南方軍総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥について (2023/10/27)で書いてました『都道府県別 陸軍軍人列伝』で、牟田口廉也と、その上司であった河辺正三(まさかず)についてどう書かれているか、読んでみました。






Lieutenant General Reiya Mutaguchi, Commander of the 15th Army of the Imperial Japan ArmyMasakazu Kawabe

 ↑牟田口廉也と河辺正三(Wikipediaから)



 私はこの二人は、「仲の良い」、いわばインパール作戦に関する「共犯関係」のように今まで本を読んできて思っていたのですが、『都道府県別 陸軍軍人列伝』著者の藤井非三四氏は、むしろ牟田口廉也は河辺正三に対する反骨心を持っていたのだろうという書き方をされていて、興味深く思いました。

 例えば、↓では、牟田口と河辺は「仲が良い」という見方で書かれていると思います。

インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理 本当に、牟田口ひとりの責任だったか 広中 一成

日本語版Wikipedia「河辺正三」



 以下『都道府県別 陸軍軍人列伝』の中の文を引用していきますが、それぞれの県(地方)人性に関する分析の文は偏りがあるかも……。でも、この本はそこらへんが売りであるのでしょうね(^_^;

【盧溝橋事件の時】夜間に部下を展開させていた牟田口廉也は、すぐさま攻撃の命令を下した。報告を受けた河邊正三は、「なにっ、攻撃するっ」と不快感を表したとも、牟田口を叱責するかのように無言のままだったとも言われる。
 夜襲が成功して一帯が静穏になったとき、河邊正三はこだわりなく「それはよかった。これで安心しました」と牟田口廉也に語った。しかし、牟田口は数時間前の叱責じみた河邊の言動が忘れられなかった。
 河邊正三は北陸人のためか、秀才のためか、その性格は暗い。報告を受けたとき、「適当なところで切り上げて」となり、暖かい一言があればこじれることもなかったろう。
 牟田口廉也は一見豪放そうだが、佐賀県人の性か気が小さく、いつまでも根にもつ。それにしても、この廬溝橋での悪感情が昭和19年3月からのインパール作戦にまで持ち越されるとは、人間関係のむずかしさを痛感させられる。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P232,3

 それなのに牟田口廉也は、軍司令官になると積極的になった。インドに攻め入り、その独立を促し、戦争終結の糸口をつかむという夢みたいな話へと衝き動かしたものは、彼の奇妙な責任感であった。
 牟田口廉也は、支那駐屯歩兵第1連隊長として盧溝橋事件の渦中にいた。だから、この戦争のはじまりに責任があり、終結の決め手を演じるのは自分の責任だと思い込んだ。しかも当時、上司であった支那駐屯歩兵旅団長の河邊正三(富山、1期)は、今度も上司のビルマ方面軍司令官だ。
 二人してやるんだと言うよりも、あのとき、冷たかった河邊正三に見せてやるんだと、牟田口廉也は気負い立ったのである。【……】
 そんな責任を感じる必要はどこになかったし、戦線の西端で3個師団ぐらい動かしたところで大勢が決まるはずがない。ところがひとたび思い込むと、それに凝り固まる性格の牟田口廉也は、その道理に納得できなかったのだろう。この偏執的で頑固な性格を見て、なるほど佐賀県人と思う人は多いはずだ。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P612



 この見方の論拠については書かれていませんが、この本はそもそも論拠を挙げる性質のものではないので……。

 県人性への見方と共に、単なる著者の推測かもですけども、私は「色んな見方がある方が面白い」と思う人間なので、かなり興味を持った次第です。



 河辺正三については、私は少し前に読んだ『戦慄の記録 インパール』で、かなり印象深かった彼のセリフがありました。

 1937年の盧溝橋事件以来、直属の上司と部下という関係から労苦を分けあってきた河辺中将と牟田口中将。強固な信頼関係によって、インパール作戦をともに推し進めた二人の戦後は、あまりに開きがあった。
 軍事研究家の大田嘉弘氏は、戦後、この二人にそれぞれ面会している(大田嘉弘「インパール作戦」)。牟田口中将は「感情の高ぶるままに絶句落涙することが少なくなかった。一方、〔略〕河辺大将に対しては一言も加えるところがなかった」。しかし、河辺中将は、牟田口中将について、「牟田口はまだそんなことに悩んでいるのか」と述べていたという。
 大田氏は、「あれほど許し合った両将軍の仲を冷却させた原因は、陸軍中央部が、河辺中将に対しても、インパール敗戦の責任をとらせなかったことに因る」と述べている。
『戦慄の記録 インパール』P241,2


 河辺正三のいう「そんなこと」とは、たぶん「インパール作戦で多くの将兵を犠牲にしたこと」だと思ったので、私はこのセリフにある意味「戦慄」したんですが、あるいはそうではない?

 しかし今回、『都道府県別 陸軍軍人列伝』を読んでいると、河辺正三はどうも「将兵の犠牲」とかを気にしない人物であったかのように思え、そこらへん自分の中では整合性がとれたような気がしたんですが、どうなんでしょう。

 そして、河邊正三が表面に出てくるのは、作戦がどうにもならなくなった昭和19年6月、とうとう悲鳴を上げた牟田口廉也が攻撃中止の場合、後退する線について意見具申したときであった。これを受けた河邊は、「消極的意見を具申するのは意外とする所なり」と冷たく突き放した。そうしておいて南方軍には、ウ号作戦【インパール作戦】中止を要請しているのだから、そこに河邊の老獪さ、抜け目なさを感じさせる。
 【……】
 昭和19年8月、河邊正三は激戦がつづくビルマ戦線を離れて、参謀本部付として内地に帰還した。インパール作戦の責任を痛感して自決するのではないか、予備役編入を申し出るのではないかと周囲は心配したが、そんな憂慮はこの人には無用であった。
 すぐに河邊正三は中部軍司令官に就任し、同軍が第15方面軍に改編されてからの昭和20年3月9日、大将に進級した。まったく時期が悪く、東京大空襲が3月10日、13日から14日にかけては河邊が所在していた大阪がB29【、】280機の大空襲を受けた。そこで、「戦さに負けると大将になれる」と公然と語られた。
 そんな下々の声を気にするような河邊正三ではない。
堂々と新設された航空総軍司令官に就任し、杉山元の自決後には第1総軍司令官に就任した。インパール作戦という大悲劇の当事者が、これらの要職に平気で就任するとは、超エリートの心境というものは並の人間には推し量れない。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P234,5





 河辺正三の能力や人となりについては、これまで収集していたものも含めてこんなのがありました。彼は教育畑でしたが、ともに陸大恩賜であった弟の河辺虎四郎は作戦畑で、非常に賢くて勤勉で実力があったそうです。

 この【関特演の】とき、牡丹江正面の第3軍が独断専行して日ソ戦の口火を切るのではとささやかれた。その理由はさまざまあろうが、河邊が司令官では、部隊を統制できないのではないかと憂慮されていたのだ。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P233

 河邊も皇道派との距離の近さが中国への転任に影響したと言われていた。彼は学究肌で野戦の将に相応しいとは思えなかった。また、強烈な個性の持ち主にも見えなかった。
『牟田口廉也とインパール作戦』P81

 河邊の【ビルマ方面軍司令官】就任の辞は、将兵と聖戦の目的達成に邁進し、天皇の懸念を取り除くことを期す、という簡単なものだった(河邊正三「陸軍中将河邊正三就任の辞」)。虚飾を嫌う河邊らしいと言える。また、ここで言う「天皇の懸念」とは西陲(西端)の守護であるのは論を俟たない。これも作戦に重大な影響を与えることになる。
『牟田口廉也とインパール作戦』P147

 後世における評価は、ビルマ方面軍の長であった河辺、木村【兵太郎】両者に対してはなはだ厳しいものになっている。 すなわち河辺については、牟田口が提唱し河辺が承認したインパー ル作戦の失敗に対して、木村についてはラングーン撤退戦の不首尾に対して、かれら最高責任者の判断が問題とされている。
 このような対照的な結果は、飯田【祥二郎】の在任した期間が幸運にも日本有利の時期であり、その後の両者の時代が不利な時期であったという点だけでなく、両方面軍司令官の実戦指揮官としての適性にも関係しているものと思われる。
 戦後数十年の年月を経ていた昭和の末年に到っても、将官としての河辺正三を仰慕する人の数は少なくなかった。陸軍教育関係のキャリアも長く、かれの感化を受けた人も多かったものと思われる。飯田とは陸大同期で軍人としてはやや小柄であるが、その端正な風貌と品位に満ちた立居振舞いは、人をして自然に畏敬の念を呼び起させるものであった。河辺については詳しい伝記も出版されている(「軍事研究」臨時増刊、昭和四十六年刊)。
 かれはまた漢詩をよくし、多くの作品が平成に入って刊行された私家版の漢詩集「興観集」に収録されている。この漢詩の中で特に目を引くのはやはり盧溝橋事件について詠んだ数編の作品である。華北の一点から起きた暗雲がやがて全大陸に拡大し、運命の太平洋 戦争開戦に到ったことに対して、幾度か感懐をこめて振り返っている。
今後も同じ上下関係 河辺正三-牟田口廉也のコンビが関係した二度の出来事、盧溝橋事件とその拡大ならびにインパール戦は、日本の歴史の上で忘れられることはないであろう。
『隠れた名将飯田祥二郎』P210,212

大戦中を通じて南方軍総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥について

 OCSで『Luzon: Race for Bataan』(1941~2)を作り、今『South Burma』(仮)(1942/1945)を作れないかなと悪戦苦闘しているわけですが、その間ずっと、それらの軍部隊の上級司令部であった南方軍の総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥というのはどういう人なのだろうというのが気になってました。


Hisaichi Terauchi 2

 ↑寺内寿一元帥(Wikipediaから)



 で、この春にゲームマーケット東京に行った時に神保町で『元帥寺内寿一』という本を見つけて買ってみたんですが、まだ全然読んでいません バキッ!!☆/(x_x)






 それはともかくとして、最近本屋に行っていると光人社NF文庫で『都道府県別 陸軍軍人列伝』という本が出てまして、悩んだものの買ってみました。




 藤井非三四氏の本で、東西2分冊で以前出ていたものが今回1冊の文庫本になって出たもののようです。

 「はじめに」を読んでますと、「人物を中心に歴史を見る」方が興味が持てるじゃないか、戦国時代なんかはそうなっているのに、近現代史ではそういうのが排斥されている傾向にあるのではないか、なので「人物」というものに興味を持って見られる一助となるかもと思って書いてみた……というようなことでした。

 もちろんこれは賛否両論あると思います。例えば、『大いなる聖戦』なんかは、北アフリカ戦の流れはロンメルとかモントゴメリーとかって人物とは何の関係もなく、それぞれの時期の大戦全体の状況から来る投入戦力と補給によってすべて説明できる、というようなことを書いてました(^_^;




 まあそういう方向性の見方もあるかとも思いますけども、私は個人的に歴史や戦史における「人物(キャラクター)」に関心がかなりある方で、藤井非三四氏の主張?には大いに共感するものがありました(個人的には、指揮官のキャラクターによって歴史が動いている割合は結構高いのではないか、と以前より思うようになっている感があります)。

 ただそこで問題になってくるのは、「人物評」というのは著者によるバイアス・偏見が大きくなりがちだということで、ロンメルなんかも「天才!」説もあれば、「単なる無謀な指揮官」評をしている著名戦史家もいるそうです。

 しかし逆に、「偏っているかもしれない短い人物評」でストンと腑に落ちる……ということもあるなぁと最近思ってまして、「石原莞爾は、その特異な終末思想が時代にアピールした。軍人というよりも宗教家としての才能に溢れていた」という評で「なるほどなぁ!」と思ったりしました(『大東亜戦争の謎を解く』P41,2)。





 で、前置きが長くなりすぎましたが、寺内寿一元帥に関して、『都道府県別 陸軍軍人列伝』(P510~516)をメインとして今回まとめてみようと思います。




 そもそも、寺内正毅と寺内寿一が「親子で元帥」という世界的にも珍しいケースなのだそうです(他の例が知りたいです。皇族とか王族とか以外で)。

 父親の寺内正毅は出征していないそうですが、陸相在任期間の記録を作ったり朝鮮総督などとして日韓併合を成し遂げたので元帥になったのだろうといいます。

 寿一の評価はまったく二分されるそうで、「軟弱な二代目、武人どころか単なる遊び人」という酷評と、「勉強こそしなかったが頭脳明晰で、なにより出世欲がないのが素晴らしい。」という絶賛?があるそうです。

 陸軍内での評判が良かったのは、人にご馳走するのが好きで、軍の多人数を料亭に招いて支払いを全部自分で持ったこと(が多かった?)に行き着くそうで、例えば昭和8年の「ゴーストップ事件」の時に大阪第4師団長であった寺内寿一はなかなか強硬に軍の立場を訴えて陸相の荒木貞夫が「寺内を見直した」と言ったそうですが、それより軍と警察の話がついた後、警察や大阪府の役人を多数料亭に招待して自分もちで大盤振る舞いをやったそうです。

 父親が超エリートであっただけに、金持ちだったから可能だったのでしょうか。

 能力の方はというと、「成績や能力については注目されなかった。ただ関東大震災のとき、近衛師団参謀長であり、てきぱきと処置をして、「さすがは東京育ち、地理に明るい」とされたぐらいであった。【……】将官演習旅行の成績が悪かったようで、ここで予備役に編入【……】」されるところを何とか現役にとどまることができたものの、中将となれてそれで終わり……と思っていた(中将まではかなり多くがなれるが、大将はなかなかなれない)のが、無欲が幸いしたか人に引き立てられて大将に。これらには軍内部人事における「父親への義理」という側面もあったようです。

 その後、二・二六事件後に親子二代で陸相となり、徹底した粛清人事を断行(ただしこれは冷徹な能吏梅津美治郎が次官にいたからだとか)。

 昭和16年に南方軍司令官となったのは、海軍の山本五十六よりも先任が望ましいという条件で7人ほどに絞られ、その中で手が空いている軍事参議官かつ最先任者が寺内寿一であったからとか。あるいはまた、東條英機(長州閥が大嫌い)と寺内寿一(父が長州閥のボスだった)とは仲が悪く、東條が寺内を東京に置いておきたくないという気持ちがあったのではなかろうかとも書いてあります。

 寺内寿一の方でも東條英機に対して不満を募らせており、東條が占領地視察に訪れても出迎えすらせず、大本営とは喧嘩状態であったとか……。

 また、降伏の儀式の時に、名刀がないと格好が付かないからと、わざわざ日本本土まで飛行機で刀を取りに帰らせたそうです。




 以上の見方は割と悪い方に偏っているとは思います。試しに『元帥寺内寿一』をパラパラと見てみたら、こっちはこっちで戦後に寺内寿一と関係のあった軍人達の筆による寺内寿一顕彰のための本であるらしく、中立的な、あるいは研究的な本では全然ないようでした(中を見ずに買った感があります……1500円くらいだったと思うのでまあいいのですけど)。



 他の資料で寺内寿一に関する短い評伝を探してみたのですが、数冊持っている日本軍人の列伝形式の本には寺内寿一は取り上げられていませんでした。

 一方、英語による第二次世界大戦中の世界中の軍事司令官等に関する百科事典形式の本を3冊持っているのですが、その3冊にはすべて寺内寿一の項目がありました。




(上段真ん中の『Who Was Who In World War II』の和訳本が2種類あり、それらが下段になります。が下段右側は反戦主義的な研究者が軍事用語に知識がない中で翻訳されたかのようで、個人的にはお勧めしません。左側は元軍人の軍事研究者が監修であり、記述も丁寧ですし、兵器関係のコンテンツも含んでいるので非常にお勧めします。)


 上段左の『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』は記述が最も簡潔であり、真ん中の『Who Was Who In World War II』の少し短い版的な内容であったので省略します。

 真ん中の『Who Was Who In World War II』には寺内寿一の写真が載っており、キャプションには「日本軍の指揮官の中でもかなり無慈悲【more inhumane】な人物であった。」と書かれています(P203)。また、「彼【寺内寿一】は【……】現地人に対しあまりに寛大な政策を施したとして今村均を非難した。」という風にも書かれていました。まあ今村均は陸軍の当時の主流派のほぼ全員から非難されていたのでしょうけども。


 一番右の『The Biographical Dictionary of World War II』には、「この老貴族【伯爵】は有能な行政官であり、ロジスティシャンであったが、無能な戦略家であった。優秀な部下の作戦を台無しにした彼の多くの失敗については、「山下【奉文】」で詳しく取り上げている。」とありました(P558)。

 「山下【奉文】」を見ると、寺内と山下は政敵であったそうで(山下が主流派から嫌われまくっていた?)、フィリピン防衛戦において「日本の最も偉大な軍人【山下】は、日本で最も無能な将軍の一人である寺内の深刻な妨害にもかかわらず、精力的に行動した。」(P626)とありました。



 あと、今回見つけたものとしては、「寺内寿一」というウェブサイトの一番下の記事には、インパール戦やフィリピン戦の最中にもサイゴンの贅沢な公館で優雅な生活を続けていたとか、日本本国から自分の妾(芸妓)を軍用機で総司令部の官舎に連れ込んでいたというようなことが書かれていました。


 まあ、さすがに悪いことだらけだと前述の『元帥寺内寿一』なんていう本も作りようがないでしょうし、良い面も色々あったんだけども、悪い面もいっぱいあったということではなかろうかと想像しますけど、どうなんでしょうか。



 しかしやはり、「短い人物評」は、偏っているとしても興味関心を持つには非常に優れていると改めて思いました。また折に触れて『都道府県別 陸軍軍人列伝』等を紐解ければと思います。

『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』の全5章の内容

 『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』を読み始めてみましたら、「はじめに」に全5章の内容が書かれていて、それだけで非常に興味深かったので引用してみます。





 この本は5章で構成されている。第1章では、バトルアクス作戦における連合軍地上部隊の限界と、第4インド師団が西方砂漠部隊【第8軍の前身の組織】の他の構成部隊と共にそれらをどのように克服しようとしたかを分析する。空軍と野砲の、歩兵との不十分な協調は、西方砂漠部隊の作戦を特徴づけるものであった。イギリス軍の機甲部隊はそれぞれがバラバラに戦闘を行い、諸兵科連合戦術によって防御された枢軸軍の陣地に対し、バラクラヴァのような無益な突撃を行ったのである。

第2章では、バトルアクス後に第8軍がどのような教訓を得たのか、そしてそれらの教訓がクルセイダー作戦の時期に連合軍によってどこまで反映されたのかを描いている。第8軍の学習過程は不完全だった。その結果、ロンメルは敗北したものの、彼の部隊は壊滅しなかった。連合軍の歩兵部隊と機甲部隊はバラバラに戦った。第8軍は諸兵科連合戦術の必要性を認識していたが、実行はできなかったのだ。その一因は、大英帝国軍が異質な性格と伝統を有する様々な連隊を集めて戦っていたことにあった。また大英帝国軍のさまざまな兵科における島国根性は非常に強く、諸兵科連合戦術は訓練マニュアルや情報分析で繰り返し強調されていたにもかかわらず、実践されることはなかった。

 第3章では、1942年半ばの砂漠での大失敗の理由を説明しようと試みている。ドクトリンの混乱はオーキンレック、ニール・リッチー中将、A.H.ゲートハウス少将、メッサーヴィー、トゥーカーら第8軍の指揮官達の不和を招き、第2次ガザラの戦いでの連合軍敗北の重要な要因となった。アフリカ装甲軍が繰り広げた流動的な機動戦に対して、連合軍の指揮官達は開けた砂漠で堅固な直線的防御を行ったが、それは不適切だということが証明された。リッチーは、連合軍の機甲部隊は高速で分散して走るドイツ軍の装甲部隊にはかなわないことに気付いていた。その反動で、静的で防御重視の旅団「ボックス」が登場した。だが、オーキンレックによる革新的なコンセプトであった旅団サイズの「ボックス」をジョックコラムと共に使用する方策は、アフリカ装甲軍に対しては効果がなかった。しかし一方で、この「ボックス」は1943年から1944年にかけてのビルマ戦で軽武装の日本軍に対して有効であることが証明された。つまり、すべての戦術的革新がすべての戦場で効果を発揮したわけではないのである。技術革新には、有効な地域や、有効な敵というものがあったのだ。第1次アラメインの戦いでの連合軍の勝利は、補給問題に悩まされていたロンメル軍の疲弊によるところが大きかった。

 第4章は、第2次、第3次アラメインの戦いにおける連合軍の勝利は、数的、物的優位に裏打ちされた高度な陣地戦戦術によるものであったと論じている。アラメインの陣地の地理的制約から、アフリカ装甲軍は側面からの突進を伴う機動戦が不可能であった。しかし、イギリス軍機甲部隊の学習スピードは十分ではなかったようだ。モンティの幕僚達は、砲兵戦術の革新、航空写真の活用、パトロールと偵察などを目撃した。しかし、機動戦を遂行するための歩兵-砲兵-機甲-地上攻撃機を含む親密な協力関係は、第8軍ではあまり発展しなかった。例えば、機甲師団と機甲旅団は、歩兵や野砲兵との密接な協力に反対していたのである。モンティの厳格な指揮システムと、ゲートハウスのような一部の師団長達の保守的な態度が、ドクトリンと戦術の分野における革新を妨げた。つまり、軍司令官と師団長達の態度が、戦場の革新のプロセスを加速させることもあれば、減速させることさえあったのだ。そして、これらの要因が、数で劣るアフリカ装甲軍のアラメインからマレトラインへの撤退を成功させたのである。

 第5章では、第8軍によるチュニジアでの戦闘が描かれる。ここでは砂漠戦のパラダイムが山岳戦のパラダイムに取って代わられた。チュニジアの地形を利用して、枢軸軍は山岳地帯を中心とした防衛線を次々と構築した。そしてインド歩兵は、イギリス歩兵に比べて山岳戦に秀でていた。マレト、アカリト、エンフィダヴィルの3つの戦いにおいて、インド第4師団は、丘陵地帯での夜間戦に関して、イギリス第50師団と第51師団に対する優位性を証明した。これは、インド師団が北西辺境でパタン族【パキスタン西北部とアフガニスタンとの国境地帯の部族】と戦いながら培った戦闘技術と、エリトリアにおいてイタリア軍と戦った経験によるものであった。技術的に後進的なパタン族や軍事的に「軟弱な」イタリア軍を相手にした山岳戦と、重火器を装備したアフリカ軍集団の冷徹なドイツ軍の「殺し屋」を相手にした山岳戦は別物だった。中東参謀学校、軍団長や師団長達、インド軍事訓練局との意見交換のおかげで、インド歩兵は荷馬車、迫撃砲、大砲を潜入や小競り合いの技術と統合することができた。第8軍のインド人部隊は、近代的条件下での山岳戦のパラダイムを開発し、それは1944年のイタリア戦で大きな効果を発揮したと断言できる。

『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P6




 北アフリカの英連邦軍がバラバラに戦っていたことに関しては、↓でも書いてました。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)

 『Fighting Rommel』では、↑とはまた違ったことも色々書かれているようで、興味深そうで楽しみです。



 前掲ブログ記事でも少し書いてましたが、OCS『DAK-II』では英連邦軍ユニットが何の縛りもなく連携して?戦えるため、強すぎるという印象を個人的に抱いています。で、↓でも少しハウスルール案を書いてましたが、うまく機能しなかった感があります。

OCS『DAK-II』7.5「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」のサマリーと改造ハウスルール案 (2021/12/02)



 そこらへん、うまく再現しているゲームはあるんでしょうかね……?



北アフリカ戦:ビル、シディ、ジェベルなどの意味

 次に読むつもりと書いていた『Inside Hitler's High Command』はとりあえずやめておきまして(^_^;、『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』を読み始めました。




 北アフリカ戦における、インド人部隊の学習をメインとした書物らしく、その点は書名からすると意外でしたが、個人的にはインド人部隊にもかなり興味があるのでよし。インド人部隊以外もバランスよく取り上げられるようです。また、自ら「これは研究論文です」という風に書いていて、色んな説が取り上げられたりするのも個人的に好きですし、またなんか、文章が読みやすくて面白いです(DeepL翻訳で読んでます)。


 その中で「へぇ~!」と思うことがあったら、小さなことでもブログに書いていこうとも思ってるんですが、早速「へぇ~!」と思うことがありました。

 砂漠を縦横に走るのはトリグ(小道)だった。これらの小道は、雨天時には路面が悪化して流され、装輪車両は泥にはまった。2本以上のトリグが交差する場所には、ビル(井戸)やシディ(イスラム聖人の墓)があった。このような交差点は、時に戦闘の中心地となった。海岸近くの砂漠にそびえ立つのはジェベル(断崖)である。ジェベルを占領することで、いくつかのトリグとバルボ街道の一部を支配することができた。そのため、戦闘は主に断崖に沿って行われた。
『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P5



 ↓英語版Wikipedia「Battle of Point 175」から

Tobruk2Sollum1941 en

 「ビル・エル・グビ」とか「シディ・オマール」とか、聞き馴染みがあるんですが、そういう風な意味だったんですね。



 今までに北アフリカ戦の地名に関して情報集積していたものを探しましたら、「ビル」の意味については少しありました。

"ビル"とは井戸を意味する言葉
『狐の足跡』上P119

 ビル・ハケイムに到着したわたしたちは、それが堡塁というよりも、戦前にアラブの遊牧民たちが交易に使っていた古代の道が交わる場所に過ぎないということを知った。ほんの少しだけ砂と石が盛り上げられた12キロメートル四方の平地。イタリアは戦争が始まる前にそこに小さな石の建物を持つ堡塁を作ったが、建物は全部崩れ落ちていた。吹きさらしの砂漠以外、何マイルもほとんど何もない場所だった。地面は固い砕石だらけで、少ない雨水を溜めるビルスと呼ばれる石の貯水槽は、かつては植民地時代の砦に水を供給していたものだが、今ではひびがはいり、砂が浮いて半ば空になっていた。……
 ……"ビル"とはアラビア語で水という意味だと聞いていた……あるのは平らな岩とコンクリートの小屋の残骸、そして一方の端にある監視所と呼ばれる小さな丘ぐらいだった。
『外人部隊の女』P147

 唯一の小さな利点は、ビル・ハケイムが砂漠の他の場所に比べ、20フィート【約6m】ほど高くなっている長方形の地形で、見張りがしやすいということだった。
『外人部隊の女』P150






 ↑この『外人部隊の女』というのは、ガザラの戦いの時に孤軍奮闘したフランス人部隊に所属していた女性ドライバーの手記で、このフランス人部隊はビル・ハケイムの地を何日間にもわたって固守し、ロンメルを怒らせたのでした。


Map of siege of Tobruk 1942


 しかしそうすると、「ビル」から始まる地名であっても、昔は井戸があったのかもしれないが、北アフリカ戦の頃にはもう涸れて、なくなってしまっていたということもあったわけですね。



<2024/03/02追記>

 北アフリカでよく見る「エル(El, el)」が気になったので検索してみたところ、Yahoo!知恵袋にこういうのがありました。

北アフリカの地名について、エル・アラメインやエル・アゲイラのようにエル〜という地名が北アフリカには多くありますがこのエルってアラビア語か何かで意味があるのでしょうか?

アラビア語の定冠詞ال。
標準的なアラビア語では、al と発音するが、
エジプトでは el と言うらしい。

たいして意味はなく、英語の the みたいなもの。


 なるほど、そうなんですね。

<追記ここまで>

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』 読了:なぜ、イタリア軍は弱かったという見方が無批判に受け入れられ続けたのか?

 ようやく、『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』を読了しました。「イタリア軍は弱かった」という見方に対して、様々な証拠や観点から再検討をおこなった本です。







 これまでにこの本関係で書いたブログ記事をまとめてみました。


『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』を注文しました (2020/01/28)

イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由、その4 (2020/03/22)

ミリタリー本なんかの脚注やPCソフトの脚注機能、それに索引とかについて (2020/05/26)

イタリア軍のメッセ将軍は、ドイツ軍に激怒して騎士鉄十字章を投げ捨てた?(が、その後も佩用し続けた) (2020/10/09)

ドイツ軍の第318歩兵連隊は、小土星作戦開始後どうなったのか?(付:OCS『Case Blue』) (2020/10/27)

オストロゴジスク=ロッソシ作戦:イタリア軍のアルピーニ軍団の「敢闘」は、誇張されたものである?(付:OCS『Case Blue』) (2020/10/29)

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍師団の評価 (2023/04/18)

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍の上級指揮官達の評価 (2023/04/20)

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍は人道的で、現地民に何も悪いことをしなかったのか? (2023/06/10)




 ↑で挙げました「東部戦線のイタリア軍の上級指揮官達の評価」なんかもそうですが、この本ではイタリア軍の上級指揮官達は無能とは言えない、むしろ有能な者も多かった(ただし、訓練された下士官クラスの人材が不足していたのは確か)とか、あるいは東部戦線のイタリア軍はそれまでの北アフリカ戦などでの戦訓も着実にフィードバックして日々改善をおこなっており、もちろん国力から来る限界は大きかったが、決して無能ではなかったと考えられる……というようなことが様々な証拠を挙げて書かれています。

 そして本の最後で、戦後における「戦中のイタリア軍」に対する見方に関して、どのような攻防があったのかが検討されています。


 大まかに言えば、戦後に「イタリア軍(上層部)は無能であった。それによって無辜のイタリア軍兵士達が犠牲になった」という言説を大いに主張したのは、

・兵士達の回顧録(自分達は何も知らない庶民で、犠牲者だった)
・政治的左派(その敵の右派は、軍を擁護していた)
・クレムリン

 だそうで、「残念なことに、これらの神話は国内および国際的な学界にほぼ受け入れられ、第二次世界大戦中のイタリアに対する我々の理解を歪めてしまった。」(P334)

 それに対して戦後、右派と軍の擁護者として孤軍奮闘せざるを得なくなったメッセ将軍は多くの記事や本を書いて、「イタリア軍は何ら悪いことをしなかった」と主張しまくったそうです。その言説はそれはそれで偏りが大きいものの、政治的左派によるメッセ攻撃の内容(例えば、チュニジアで枢軸軍が苦難にある時にメッセは自分を元帥に昇進させるようにムッソリーニに要請したとか、自分の名声を重視して元帥の位を得た直後に「鶏のように」降伏したとか、あるいは東部戦線でも敗北が予見できていたのに、十分な補給を確保することなく部下達を見捨てたとか)は、その後の裁判で事実とは認定されず、メッセの主張よりも嘘の度合いがあまりに大きかったのですが、結局はそういう風な政治的左派が広めまくった言説が世の中に広がっていってしまった……。


 私自身、1980年代の中高生だった時代には日本でも「左翼にあらずんば人間にあらず」という感じで、ほんの少しでも左派的でない言説をすれば社会から総叩きされたのを見てきましたから、「あ~、さもありなん」という気がしました(T_T)


 日本では、一時以来『AxisPowersヘタリア』という作品が流行ったりしましたが、一方でその後ミリタリー界ではイタリア軍擁護的な出版や記事も結構出てきたような気がしますから、現状ではそれほど悲観したものでもないかと思います(『AxisPowersヘタリア』も、別に悪かったというものでもなく、様々な興味関心を持つきっかけになったという点で素晴らしい作品だったのだろうと思います)。できれば、この『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』(の内容)を有名人が取り上げてくれたらとも思いますが……。


 あと、個人的にはメッセ将軍の実像的な部分に興味があるわけですが、この本で最後の方のところ(P334)に、「実際、メッセは、冷戦政治がいかにイタリア陸軍と第二次世界大戦におけるその役割に対する私たちの認識をいまだに歪めているかを示す好例であり、さらなる研究が必要であることを示すもう一つの事例でもある。メッセの学問的な伝記が出版されることが最も望ましい。」と書かれていて、とりあえず現状ではメッセに関する学問的な研究がされた出版物はまだない状態である、ということなんでしょうか。期待したいところですが……。



 とりあえず、これでようやく「特に読みたい積ん読本」の一冊を読了することができました。次は『Inside Hitler's High Command』を読みたいと思っています。その次は『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』で。




 

『戦慄の記録 インパール』読了しました & 佐藤幸徳第31師団長の独断撤退への賛否について

 『戦慄の記録 インパール』を読了しました。録画していた番組も全部見ました。






 私はこれまで、インパール関連本は3冊程度、牟田口廉也中将関連本も2冊程度読んだだけだとは思うんですが、中でも一番理性的、かつ編集の上でも様々な話にバランス良く触れて、良くまとめられた良書であるような印象を受けました。番組(2017年)以前には未発見であったような資料や証言も多く盛り込まれていましたし。


 個人的に論争的な話が好きなので、巻末近くに、「佐藤幸徳第31師団長の独断撤退への賛否について」と「牟田口中将の構想通りに(上官の河辺は禁止した)ディマプールへの突進を行っていたら日本軍は勝てたのか」ということについて、複数の人の意見が載っているのが特に興味深かったです。


 「佐藤幸徳第31師団長の独断撤退への賛否について」なんですが、OCS『Burma II』ルールブックの参考文献一覧のところ(P41)に↓のような記述があったのが、どういうことなのかずっと分かっていませんでした。

『Monograph 134: Burma Operations Record- 15 Army Operations』 アメリカ軍:この資料も戦後、米軍の依頼で日本軍の生存者が作成したものです。この資料は、著者が反佐藤派であるため、インパール作戦の失敗を彼のせいにすることに多くの紙幅を費やしているのが難点です。


 私はどうも、これまで「独断撤退して当然じゃないか」という派の本ばかりに触れてきたようなのですが、『戦慄の記録 インパール』によると、反佐藤派として「どのように合理的な理由があろうとも、命令違反は絶対に許されない」という考え方をする人が結構いたのと、それから「独断撤退において隣接する第15師団に何も知らせなかったため、第15師団の側面がいきなりがら空きとなり、多くの死傷者が出たのが許せない」という感情がどうしてもあった、ということらしいです。

 一方で『Burma II』が挙げた参考文献の場合、「インパール作戦の失敗を彼(佐藤幸徳)のせいにする」というわけですから、もしこの件で佐藤幸徳が批判されているという見立てが正しければ、佐藤師団長が独断撤退していなければインパール作戦には勝てたはず、ということなのでしょうか(そういう書き方は『戦慄の記録 インパール』にはなかったように思います)。


 ただ、もう一つの「牟田口中将の構想通りに(上官の河辺は禁止した)ディマプールへの突進を行っていたら日本軍は勝てたのか」ということについては、『戦慄の記録 インパール』は複数の人の意見を挙げて、最終的には↓の研究論文?を挙げて、ディマプールの占領など不可能だったと結論づけているように思えます。

平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書
日本の戦争指導におけるビルマ戦線--インパール作戦を中心に--
(うちのブラウザ上で開いて見ると字が崩れているのですが、完全にダウンロードしてpdfファイルを開けばちゃんと読めると思います。ちなみにこの報告書は、英語版が1万円以上で売られているのを見たのですが、日本語なら無料で読めるわけで、結構いいと思いますのでオススメです)


 しかしそうでなくとも、「命令違反は許されない」派にとって都合が悪いだろうと思うのは、ディマプールに進むことは牟田口中将の上官である河辺正三ビルマ方面軍司令官が禁じていたということです。

 『牟田口廉也とインパール作戦』という本も、「日本陸軍は任務遂行に全力を尽くせ」という型の組織だったのだから、牟田口司令官がやると決めたら部下達はそれに邁進するのが要求されることで、部下達がそうしなかったことが良くなかったのではないのか、という論だと思うのですが、だとしたらより上級の司令官の命令に沿って、ディマプールに進むことはできない。





 『戦慄の記録 インパール』によると牟田口廉也は戦後、ずっと本当に贖罪の日々を送っていたらしいのですが(それらの具体的な描写があって、結構意外でびっくりしました)、イギリスの軍人から「当時日本軍がディマプールに突進していればイギリス軍は敗北必至だった」という手紙をもらって大喜びし、その後は河辺正三がディマプールへの進撃を禁止したことが作戦の失敗をもたらしたのだと主張する録音を残したそうです。

 でも、命令違反は許されないんじゃ? 命令違反した師団長を更迭しまくったのに、軍司令官として方面軍司令官への抗命を戦後したということになるのでは。



 命令違反に対する意見や、任務遂行型組織という見方に対する意見ですが、私は個人的にゲーム理論や進化論的な見方が好きなので、「命令違反は許されない組織」「任務遂行型組織」は、それが成功する限りにおいて勢力圏を伸ばすだろうし、いくらかの勢力圏を持つのは持つだろうと思います。でも「個々の判断を尊重する組織」「任務に疑問を持ってもいい組織」ももちろん勢力圏を持つわけで、どっちが勢力圏を伸ばせるかの話だと考えます。

 でも、現今で言えばロシア軍や北朝鮮軍はまさに「命令違反は許されない組織」だと思います。旧日本陸軍の話は昔の話だと思うから、「命令違反は許されないじゃないか!」と頭で思えるとしても、じゃあそう考える人は今のロシア軍や北朝鮮軍に所属してもその中であくまで頑張るんですね、と言われたら、今の自分に当てはめて「いや、まっぴらごめん」と思ったりするのでは……。

牟田口廉也中将の「ジンギスカン作戦」に使用された牛について

 インパール作戦において牟田口廉也中将は、「歩く食糧」として牛や羊を部隊にもたせ、「ジンギスカン作戦」と自賛した……という話があります。

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいると、この時の牛の様子について複数の詳しい記述があって興味を持ったので、英連邦軍にとってのラバの件と比較しつつまとめてみようと思ったのですが、ネット検索してみると日本版Wikipedia「インパール作戦」にジンギスカン作戦についてのかなり詳しい項目がありました(^_^;

ジンギスカン作戦

インパール作戦のような長距離の遠征作戦では後方からの補給が重要であるところ、当時の第15軍は自動車輜重23個中隊、駄馬輜重12個中隊の輜重戦力を持っており、その輸送力は損耗や稼働率の低下を考慮しなかった場合、57,000トンキロ程度であった。しかしながら実際に必要とされる補給量は第15軍全体において56万トンキロ程度と推計され、到底及ぶものではなかった[注釈 6]。なお、自動車中隊は、当時のビルマ方面軍全体でも30個中隊しかなかった。

この点は第15軍としても先刻承知の上であり、事前に輜重部隊の増援を要求したものの、戦局はそれを許さなかった。第15軍は150個自動車中隊の配備を求めたが、この要求はビルマ方面軍により90個中隊に削減され[157]、さらに南方軍によって内示された数に至っては26個中隊(要求量の17%)へと減らされていた。しかも、実際に増援されたのは18個中隊だけにとどまったのである。輜重兵中隊についても、第15軍の要求数に対して24%の増援しか認められなかった。第15軍参謀部は作戦を危ぶんだが、牟田口はインパール付近の敵補給基地を早期に占領すれば心配なしと考え、作戦準備の推進につとめた[158]。

牟田口は車輛の不足を駄馬で補うために、1944年初頭から牛、水牛、象を20,000頭以上を軍票で購入[159]もしくは徴用し、荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させることとした。特にウシについては広大なチンドウィン川の渡河が懸念され、渡河中に先頭の1頭が驚いて頭を岸に回すと、他の全部が一斉に岸に向かって走り出すという習性があるので、先頭のウシについては銃爆撃に怯えないような訓練をさせた[160]。そしてウシは訓練の結果、1日13㎞の行軍が可能となった。牟田口はさらに家畜を輸送手段だけではなく、「歩く食料」として連れていくことを思い立ち、山羊・羊を数千頭購入した。これは、過去のモンゴル帝国の家畜運用に因んで「ジンギスカン作戦」などとも呼ばれた[159]。作戦計画において食糧は「各兵士7日分、中隊分担8日分、駄馬4日半分、牛2日分」を携行して輸送し、最後は輸送してきた牛を食べて3日分食いつなぎ合計25日分とされた[161]。これは既述の通り3週間以内という作戦期間に基づくものであった[162]。

牟田口はこの「ジンギスカン作戦」を自信満々に報道班員に披瀝している[40]。

インパールへ落ち着いたら、あとは現地自活だよ。だから生きたヒツジを連れていく。草はいくらでもある。進撃中でも、向こうでも飼料には不自由しない。種子も持っていく。
昔ジンギスカンがヨーロッパに遠征したとき、蒙古からヒツジを連れて行った。食糧がなくなったら、ヒツジを食うようにね。輸送の手間はかからない、こんな都合のいい食料はないよ。
その故知を大いに活用するんだ



しかし、ヒツジは1日にせいぜい3㎞しか移動せず、逆に進軍の足かせとなってしまった。モンゴル帝国は家畜を伴いながらゆっくりと進撃していたが、第15軍の部隊はわずか20日でインパールに達しなければいけないという時間的制限を課されており、ヒツジの習性を理解しないで企画した作戦であることは明らかであった。そのため、ヒツジは作戦開始早々に見捨てられることとなった[163]。また肝心のウシもチンドウィン川の渡河で消耗したうえ、もともと農耕用であったビルマのウシはいくらムチで叩こうが急峻な山道を登ろうとはしなかったため、山岳地帯の移動でも順次消耗していった[164]。第31師団を例にとると、渡河から最初のミンタミ山脈踏破でまず1/3を消耗、次のアラカン山脈でも次々と損耗し、目的地のコヒマに到着できたのはわずか4%に過ぎなかった[165]。

本作戦に第15師団に陸軍獣医(尉官)として従軍した田部幸雄の戦後の調査では、日本軍は平地、山地を問わず軍馬に依存していたが、作戦期間中の日本軍馬の平均生存日数は下記。日本軍の軍馬で生きて再度チドウィン川を渡り攻勢発起点まで後退出来たものは数頭に過ぎなかったという。

・騾馬:73日
・中国馬:68日
・日本馬:55日
・ビルマポニー:43日

また、輸送力不足は戦力的にも大きな影響を及ぼした。牟田口は乏しい輸送力でなるべく多くの食糧を輸送するため、険しい山脈を進撃する予定の第15師団(祭)と 第31師団(烈)については、火砲などの重装備は極力減らして軽装備とさせた。特に速射砲が減らされたが、これは敵が戦車をあまり装備していないという都合のいい想定に基づくものであった[166]。しかし、実際には多数の戦車が待ち構えており、対戦車火力に乏しい両師団は敵戦車に甚大な損害を被ることとなった。このように「ジンギスカン作戦」は輸送力強化にも、食料確保にも大きく寄与することはなく破綻し、結局のところ輸送は人力に頼らざるを得ず、兵士らは消耗していった[159]。

家畜を輸送力として有効活用できなかった日本軍に対してイギリス軍の場合、途中の目的地までは自動車で戦略物資を運搬し、軍馬は裸馬で連行した。自動車の運用が困難な山岳地帯に入って初めて駄載に切り替えて使用していたという。また使用していた軍馬も体格の大きなインド系の騾馬だった。これらの騾馬は現地の気候風土に適応していた。なお、田部は中支に派遣されていた頃、騾馬は山砲駄馬としての価値を上司に報告した経験があったという[167]。


 ある時点でのWikipedia上での記述らしきものも見つけました。

インパール攻略作戦において、日本陸軍第15軍司令官:牟田口廉也が、補給不足打開の切り札として考案した作戦。牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言うのが特徴。しかし近代戦においては、歩みの遅い家畜を引き連れて、迅速さを求められる拠点攻略を強行するという作戦には無理があり、実際、家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらにジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前に脱落し、たちまち破綻した。しかも水牛は味が悪く、現地の中国人でさえ食用にしないものであった。おまけに3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した。結果、各師団とも前線に展開した頃には糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、戦闘力を大きく消耗する事態を招いた。
ジンギスカン作戦



 ビルマにおける英連邦軍側のラバの使用については以前、↓でいくらかまとめてました。

チンディット部隊の荷物を運んだラバ達について(付:『Burma II』) (2021/04/26)


 ↑を見ていると英連邦軍のラバの使用については結構訓練期間などもあったということもあり、個人的に気になったのは、ジンギスカン作戦では牛や羊についての事前の訓練があったのかどうか、でした。が、やってはいたのですね。


 他にもこういう記述も見つけました。

 ビルマのコブがある牛は、こぶに棒をひっかけて荷車を引くことはできるが、荷を積むことはない。それをどうにかして荷を積む訓練を重ねた。それも急峻な地形では荷がずれて牛が進まない。三週間分の食料しか持っていないため、それまでにインパールを陥落させる必要があった。牛の歩みを待つと、食料がなくなる。仕方なく、放牧した。一石二鳥どころではなかった。
『未帰還兵』P29



Burma07

 ↑ビルマ(現ミャンマー)の牛と牛車(Wikipediaから)



 以下、『戦慄の記録 インパール』から引用してみます。

「集めた牛や羊は、何万だからね、数がすごかった。"畑やる牛から何もかも日本軍が軍票を払って持って行って、もうビルマに牛なくなっちゃって、仕事できなくなっちゃった"って、ビルマ人が嘆いていた。それぐらい、すごい数だった」
 集めた牛や羊は、兵士一人で二頭ほど引いて歩いた。1944年3月15日、目の前に立ちはだかるチンドウィン河を渡ることになった。
「雨期でないから、まだ雨はあまり降ってないもんで、チンドウィン河の水もいくらか少なかったけどね、それでも大きな川だからね。船と言ったって、そんな大きな船じゃない。板がはってあるだけで囲いなんてない。そこに、みんな牛を乗せた。もちろん、人間も兵隊も乗った。牛が嫌がって大暴れする。それを扱う我々は、みんな素人だから抑えようとしてもうまくいかない。そのうち、暴れる牛と一緒に川に落ちてしまう。牛も沈んだけど、兵隊も相当沈んでしまった。みんな流された
『戦慄の記録 インパール』P72

 【……】佐藤哲雄さん(97)は、牛や羊を引き連れての渡河を指揮した。
「とりあえず一週間、二週間分の食糧の代わりとして牛が配給になったんだわ。川の流れが強いために牛が騒ぐもんだから、鼻環切れたり、ロープが切れたり、向こうへ着くのは半分ぐらいしかなかったんだわ。日暮れからすぐ行動を開始したけども、渡りきるまでは、夜が明けるちょっと前だな、そのくらい時間かかった。
 それで今度は山越えでしょ。〔牛たちは〕食うものないから、山越えるまでには、そのまた半分ぐらいになっちまったんだ。だから、結局最後に兵隊のところに配置になった牛なんて、ほんのわずかずつしかいなかったんだわ
想像以上に牛の扱いに手こずったことを、佐藤さんは記憶していた。
みんな、こんな牛持ってって、足手まといになるから却ってダメじゃないかという意見が多かったんだけども。上からの命令である以上は連れて行ったけれども、面倒くさくなれば牛を放してしまう。そうすると牛はどこでも行ってしまう」
牟田口司令官が自ら考案した〝ジンギスカン作戦〟は、絵に描いた餅だった。
『戦慄の記録 インパール』P73,4

 牟田口司令官の思いつきで連れて行った牛も足手まといとなった。荷物を運ばせようにも、背中がコブのように突き出ていて、乗せるのが難しかった。もともと農耕などに使っていた牛が多く、性格的にも臆病で、悪路を進むのを嫌がった。兵士は牛のお尻を押したり、叩いたり、最後には尻尾に火を点けて進ませようとしたが、動かなくなった。これでは兵士の方が疲弊してしまうと、渡河から一週間ほどで放棄した部隊が多かったようである。
『戦慄の記録 インパール』P104



 ただ、『戦慄の記録 インパール』を読んでいるとすぐにすべての牛や羊を失ってしまったかのような印象も持ったのですが、Wikipediaによるとコヒマには4%が到着したということで、あんな奥地にまで4%も到着したのであれば、ジンギスカン作戦が100%ダメな考えだったとも言えないかなという気はしました。

 OCS『Burma II』でも、水牛なしでは日本軍はインパール作戦の実行は全然できない感はあります。

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 ただ、恐らくジンギスカン作戦を思いついてから実行するまでの期間が短く、訓練も少しはやったものの、細かい検証(たとえば、渡河においてはどうなのか、険しい地形ではどうなのか……等)が足りなかったのだろうし、「うまくいく」という前提で数を集めてとにかく実行させるということが姿勢として勝っていたのだろうな、という気はします。

 それに対して英連邦軍側は、ラバ等の動物を作戦に用いるにあたって、1943年から1944年にかけてかなり長い期間をかけ、検証を繰り返し、うまくいかせるための合理的努力を日本軍の何倍もやったんだろうな、と思います。


太平洋戦争自体がそもそも大博打なのだから、インパール作戦が大博打でも、それはやるのが当然だった?

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいましたら、↓という記述が出てきてハッと思い出したことがありました。

 河辺中将は、ビルマ方面軍司令官としてラングーンに赴任する直前に、東條首相に面会していたのである。その席で、東條首相から切り出されたのが、インド進攻であった。
 東條首相は、「日本の対ビルマ政策は対インド政策の先駆に過ぎず、重点目標はインドにあることを銘記されたい」と語った。
『戦慄の記録 インパール』P44




 思い出したというのは、そもそも太平洋戦争は勝算がほとんどない「大博打」であることが日本側にも(程度の差はあれ)明らかだったわけですが(連合国側は、そもそも勝算がないのだから日本側が宣戦してくるとは思っていなかったし、最終的に日本を敗北させられるのは明らかだったのでまずは対ドイツ戦に集中して太平洋戦域は後回しにした)、薄い勝算の中でも少しでも可能性があるものとして目指されていた一つの方策が、「イギリスの戦争からの脱落」であった……という話をここ1年くらいの間に複数の資料で読んでいたことでした。イギリスを戦争から脱落させることができれば、即勝利とは言わずとも講和などの点でかなり有利に運ぶことが見込めるということでしょう。

 そのために、インドやインド洋戦域で勝利を挙げることが初期には一応目指されたものの、さまざまな要因で(やっぱり)それがとりあえずうまくいかなかった……。

 一方でイギリス側はどうだったかというと、少なくともインド統治に関してはマジにやばい状況で、対日戦が始まっているにもかかわらずインド(人)を抑えておくことのためにものすごい大部隊をインドに駐留(あるいは警備?)させておかなければならなかった……というのもどこかで読んでいました。具体的に100の桁の部隊を張り付けておかなかったというような記述を見たような気がしてまして、ものすごく驚いた記憶があるのです。100個大隊だとすると、10個師団くらい? ちなみに1942年にビルマで戦った英連邦軍は、総計2.5個師団くらいでしょうか。

 以前、↓で書いてましたような理由で、インド東部を日本軍が支配すれば、少なくともイギリスのインド統治はガタガタになって天秤がガタッと傾く……という可能性はあったのかもです。

1942年のビルマ戦で、なぜインド軍部隊は日本軍を歓迎せずにイギリス側に立って戦い続けたのか? (2023/06/22)



 とすると、太平洋戦争自体がそもそも大博打であったことを考えると、ガダルカナルなどで太平洋戦域の敗勢が明らかになってきたならば、日本(東條首相)としては当然、他のいくらかでも可能性のある場所(ビルマ・インド戦域)で大博打をせざるを得ない、というか大博打をするのが当然、という考え方は、それはあるだろうかなと。

 命がかかった麻雀(その時点で大博打)で、点数的にかなり負けてきているのに役満を狙わないのか、いやそりゃ狙うでしょ、という話だと考えれば分かりやすいような……。


 『戦慄の記録 インパール』の記述だと、「イギリスを屈服させるために」という表現なんですが、「屈服」というのは具体的な程度が分かりにくいとも思います。東條首相などが具体的に狙っていたのは、インド侵攻作戦という大博打にもし勝てれば(もし役満が出れば)、イギリスが現在四苦八苦しているインド統治を崩壊させて少なくとも対日戦から脱落させられ、負けがこんできた(麻雀の)点数をもしかしたら五分以上に戻せるかもしれない、という感じの話だったのではないかと思いました。


 もしそうだとすると、東條首相がこの時期にインパール作戦の実行を望んだのは、結構納得がいくなと(もちろん、そもそも太平洋戦争という大博打を始めるべきでなかったのでしょうけども)。


 ただ、例えば配牌時に手牌がバラバラでもはや役満なんか狙えるはずがないのに「できるできる!」と主張しまくったり、もうおりるべき局面に入ったのにズルズルとおりる決断ができずに最終的に超高めに振り込んでしまう……とかってのが牟田口廉也中将のやったことなのではないでしょうか。

 そう考えると、東條首相にしても牟田口廉也にしても、麻雀マンガにおけるダメな一般人(私なんかも全くその内の一人ですね)の代表という感じとも言えるのでしょうか……。



日本軍とイギリス軍の「ラングーン放棄」の違いは、言霊信仰のあるなし?

 先日、↓で日英両軍の「ラングーン放棄」の比較について書いていましたが、両者の大きな違いの要因として日本人の「言霊信仰」があるのではないかということに思い至りました。

ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」についての、初見的考察 (2023/09/04)


 「言霊信仰」とは、「言葉には現実に影響を及ぼす力が宿っており、良い意味の言葉を発すれば良いことが起こり、悪い意味の言葉を発すれば悪いことが起こると信じる」というようなことで、日本社会では無意識にもこれが信じられているといいます。

 日本語版Wikipedia「言霊」によれば、

山本七平や井沢元彦は、日本には現代においても言葉に呪術的要素を認める言霊の思想は残っているとし、これが抜けない限りまず言論の自由はないと述べている[4]。山本によると、第二次世界大戦中に日本でいわれた「敗戦主義者」とは(スパイやサボタージュの容疑者ではなく)「日本が負けるのではないかと口にした人物」のことで、戦後もなお「あってはならないものは指摘してはならない」という状態になり、「議論してはならない」ということが多く出来てきているという[5]。


(脚注にある井沢元彦『言霊の国解体新書』は昔読みましたし、山本七平・小室直樹 『日本教の社会学』も多分読んだのではないかなぁと思うのですが、処分してしまって今手元にありません(>_<))





 例えば、↑これらの本に書いてあったことだと思うのですが、欧米では結婚の時に、「もし離婚することになった場合にはこうこう」とあらかじめ決めておくというのです。日本では、結婚の時に離婚する場合のことを話し合うなんて、まったく考えられないでしょう! 欧米での結婚でホントにそんなことをするのか、私は信じがたいのですが、もしホントにするのだとすれば、私もまったく言霊信仰の支配下にあると言えそうです。



 1942年3月初旬の英連邦軍による「ラングーン放棄」ですが、日本軍のビルマ侵攻が始まった時点(1月20日)で、ビルマ方面軍司令官となっていたハットン中将はラングーンが陥落した時に備えて、ラングーンにあった大量の補給物資をビルマ北部へと移す作業を開始しました。ビルマは、イギリス軍の策源地であるインドと繋がっている良好な陸路がなく、海路はラングーンとしかほぼ繋がっていなかったので、補給物資の移送なしでラングーンが陥落した場合、即時にビルマ全土の英連邦軍が干上がってしまうという理由もありました。そしてこの作業のお陰で、ラングーンが陥落した後も在ビルマの連合軍があっという間に全崩壊することはなかったのです。

 また、その上級司令官であったウェーヴェルは徹頭徹尾、日本軍を阻止できると考えており、日本軍がラングーンに近づいた時でもラングーン保持を(ハットンを解任して新たに司令官とした)アレクサンダーに命じましたが、確か「ただしやむを得ない場合にはラングーンを放棄してもよい」という一文を入れていたと思います。


 一方1945年4月下旬の日本軍の「ラングーン放棄」ですが、私自身まだ資料を詳しく読み込んだわけではないですが、「あらかじめラングーンを放棄せざるを得なくなった場合について考えておく(準備しておく)」ということを、ビルマ方面軍司令部自体がやっていなかったのではないでしょうか(これまで読んでいた限りでは、そのような行動があったという記述は見ていないと思います)。もし幕僚の一人がそんなことを言い出したら敗北主義者のそしりを受けたことでしょう。「そんなことを言うから負けるのだ」あるいは「そんなことを思うだけでも、負けに繋がる」というわけです。

 4月13日の時点で、第28軍司令官であった桜井省三中将が木村兵太郎中将に対して「どうぞ早くモールメンに下がって下さい」と意見具申していますが、この意見具申はかなり悩んだ上でなされたものらしく、「誰かが言ってあげないと」いけないだろうということがあったようです。当時の日本軍であらかじめラングーン放棄について考慮してそれを言葉に出して木村中将に伝えたのは、桜井中将しかいなかったということが、非常にありそうな気がします(桜井中将は、先を見通す能力に長けていたという印象もあります)。

 また、日本兵や日本人民間人においても、「やばそうだ」とは思っていたとはしても、あらかじめラングーン放棄について口に出したり準備したりすれば敗北主義者として容易に糾弾されることが分かりきっている中ではそれに順応して、ラングーン放棄を考えもせずに奮励努力していたということが想像できるような気がします。



 このようなことは別にラングーン放棄についてだけでなく、日本軍や日本社会全体がそうであった(今もそう)でしょう。

 最近、日本軍や日本軍兵士について「うまく行っている時はいいが、予期しないことをされると弱い」という指摘を複数見て、「いや、そんなの、どんな軍隊でもそうなんじゃ? 逆に、予期しないことをされても強い軍隊って具体的にどこの軍隊?」とか思っていたのですが……。

 例えば↓。

一方、日本兵の短所は「予想していなかったことに直面するとパニックに陥る、戦闘のあいだ常に決然としているわけではない、多くは射撃が下手である、時に自分で物を考えず「自分で」となると何も考えられなくなる」というものであった。
日本人は知らない、米軍がみた日本兵の「長所と弱点」 米軍報告書は語る


 また、ビルマ戦に勝利したスリム将軍は著書(『Defeat into Victory』?)の中でこう書いているそうです。

「日本軍は意図がうまくいっている時はアリのように冷酷で、勇敢だ。しかしその計画が妨げられたり、退けられたりすると - 再びアリのように - 混乱に陥り、順応し直すのが遅く、必ず最初の構想に長くしがみつきすぎた」
(引用は『戦慄の記録 インパール』P131から)



 あるいは、日本軍のマラリア対策に関する新聞記事で↓こういう記述がありました(2020年8月3日。読売新聞)。

「日本の組織には、うまくいっている時には緻密さや几帳面さがあるが、いったん狂い出すと、修正がききにくくなる側面があるのではないか。方向性を途中で変えにくい空気が、今もあるように思う」


 これらの指摘に関して、今まで得心がいってなかったのですが、言霊信仰のことを考え合わせてみると「なるほど……!」と納得できた気がしました。

 日本社会や日本軍は、悪い結果になった場合にどうするか、考えない傾向が強い。悪い結果になるということを考えたり、口に出したり、備えたりしてしまえば、それが敗北に繋がると信じられており、また周りの人達に敗北主義者だと非難されるから。それに対して欧米社会や欧米の軍は、悪い結果になった場合について考えておいたり、準備したりしておくことができる……。

 もちろん、悪い結果になった場合のことを考えないからこそ「強い」だとか、余計なことを考えずにひたすら勝利に向かって前進できる、ということもあるとは思います。

 ただ、プロイセン軍に端を発する参謀組織というのは、あらかじめあらゆるケースに関して考え、準備しておく(おける)ということに強みがあったはずなのに……。


<2023/09/14追記>

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいたら、牟田口司令官がまったくそのように思っていたことについて書いてあったので、追記してみます。

 この作戦【インパール作戦】をどう終わらせるか、牟田口司令官は想定していなかった。その理由について、「回想録」にこう書き残している。
「万一作戦不成功の場合、いかなる状態に立ち至ったならば作戦を断念すべきか。このことは一応検討しておかねばなるまい。作戦構想をいろいろ考えているうちに、チラっとこんな考えが私の脳裡にひらめいた。
 しかし、わたしはこの直感に柔順でなかった。わたしがわずかでも本作戦の成功について疑念を抱いていることが漏れたら、わたしの日ごろ主張する必勝の確信と矛盾することになり、隷下兵団に悪影響を及ぼすことを虞【おそ】れたのである
『戦慄の記録 インパール』P189



<追記ここまで>




ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」についての、初見的考察

 1945年のビルマ戦線の崩壊局面における、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」という話は、今までいくらか見たことがありました。

 連合軍がラングーンに迫るのに対して、木村兵太郎中将は独断でさっさと逃げ出し、指揮や士気において大混乱をもたらした……ということのようでした。


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 ↑戦後、1947年の木村兵太郎。A級戦犯として死刑の判決を受け、絞殺刑に処されました。



 ただまあ、詳しいいきさつに関して読んだことはなかったのですが、新たに購入した戦史叢書の『シッタン・明号作戦―ビルマ戦線の崩壊と泰・仏印の防衛』の途中から読み始めると、その「敵前逃亡」についてある程度詳しい記述がありました(P231~5)。そしてそれを読んだ感じでは、木村中将がラングーンから撤退したのはむしろ妥当ではなかろうかという印象を受けたのです。






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 1945年4月22日に、英連邦軍の大規模機械化部隊群がトングーを南下していったことが判明します(現地の小規模日本軍部隊はただそれを離れた場所から眺めるだけで何もできませんでした)。ラングーンの失陥が目前に迫っていることが明らかになって、ビルマ方面軍の各参謀達が集まって検討した結果、ラングーンから撤退もやむなしという空気となります。地形的に考えて、ラングーンに留まるとラングーンだけで孤立することになるのに対し、ビルマ方面軍司令部をモールメンにすぐに移動させれば、シッタン川やシャン高原の線での抵抗を指揮するのに適当な位置を持つことになるためです。

 反対意見も出なかったため、撤退の命令案をまとめて木村中将に提出すると、すでに撤退の決意を固めていた木村中将は命令案にあっさり署名します。

 ところが翌日に方面軍の田中新一参謀長が司令部に帰還して撤退のことを知ると、これに猛然と反対。結局意見の一致を見ることなく(手続き上、別に参謀長の了解を取る必要はなかった)、23日夕方から25日朝にかけて木村中将と方面軍司令部の幕僚達は空路モールメンへと撤退したのでした。

 個人的には、地形上の問題としてモールメンへ司令部を移すというのはごく当たり前の判断のように思えます。OCSでは司令部が敵に踏まれたり孤立したりしないようにうまい位置に置いておくということはかなり重要であるため、そういう感覚に共感を覚えやすいということはあるかもです。



 ただし、モールメンへの方面軍司令部の撤退について、上級司令部や現地部隊に対して充分告知したり、撤退後にどうすべきかについての指示を与えずにいたため、その後現地が大混乱に陥ったということはあり、その面についての責めは確かに負うべきなのだろうなとは思われました。

 また木村中将は、あらかじめ4月13日に第28軍司令官の桜井省三中将から「早めにラングーンから撤退しておいた方が良い」と声をかけられたのに対して「撤退はしない」と返答しており、ビルマ方面軍全体としては(当時の日本軍の根性論的あり方からしても)撤退するなどあり得ないという空気でもあったのだろうとも想像できますから、いきなり撤退という判断になったのは「唐突」ではあったでしょう(実際、この時から撤退を準備し始めていれば、後世の責めを負う度合いはだいぶ低くなったと思われます)。

 ただ、1942年の連合軍側のラングーンからの撤退にしても、上級司令部のウェーヴェル将軍はラングーン保持を命令していたのに、ビルマ軍司令官アレクサンダーはいきなり撤退命令を出したのですから、単に木村中将を非難するだけでなく、アレクサンダーと比較してどうだったのかというようなことを検討した方が、戦後70年以上経つ現在としては建設的ではないかと思いました(その結果として、木村中将のやり方の方が悪かった、ということは大いにありそうだと思います)。1942年の時は、連合軍側がペグーで日本軍を阻止できると思い込んでいた(実際、そこでは連合軍側が勝っていました)ら、実はその北西を別の部隊に迂回されていてラングーンが北から攻められそうなことが判明して「もうダメだ」となった……という面があったのだろうと思います。1945年においては、トングーでいくらかでも抵抗できると思っていたのがまったく不可能で、大規模機械化部隊がラングーンに突進してくるようだということが明らかとなって「もうダメだ」となったのかもしれないと思います。


 あと、木村中将は『アーロン収容所』によれば、非常に根性論的なことを兵士達に言う人であったらしく、その面では「なんでやねん」という印象になるのはやむを得ないとは思います。

 私たちの小隊長は学徒出身兵で、二十年はじめにビルマの土を踏んだのだが、そのときの様子をこう話した。自分たち学徒出陣兵が、候補生となりビルマにやってきたとき、方面軍司令官K【木村兵太郎】大将【当時は中将だと思いますが、最終階級は大将】に引見された。その席の訓辞はこうであった。
「生っ白いのがやってきたな。前線は貴様らの考えているような甘ちょろいものではないぞ。お役に立つためには覚悟が必要だ。行け、立派に死んでこい」
 19年秋、病院に入っていた私たち兵隊は、ともかく歩行にたえるものはいっせい退院を命ぜられ、前線に向った。私と同行した右手を失った兵士もそうだった。私たちが驚いて、どうしてこんな障害者に前線復帰命令が出たのだろうと噂をしていたら、軍医が大喝した。
「片手で銃は持てなくとも馬のたづなはひける。すこしでもお役に立つものは前線へ行くのだ。K【木村】閣下のご命令なのだ」
 このK閣下はラングーンに敵が迫ると、一般市民を兵役に徴発して守備させ、自分たちは飛行機で脱出した。残された日本人は、一般市民といわず看護婦といわず、英軍の包囲下にほとんど全滅した。私たちの最後の戦闘場所、シッタン河の陣地で、私たちは髪をふり乱して流れてくる赤十字看護婦さんの屍体を毎日見た。「死んでこい」という言葉のつぎには「おれは飛行機で安全地帯へ逃げるから」と補足して述べるべきだったのだ。
『アーロン収容所』P171,2






 あと2つ、気になることがあります。日本語版Wikipedia「木村兵太郎」には、↓のように書かれていいるのですが、この記述に対してはいくらか別の視点を提供できるのではないかと。

4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシャン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言したが、木村はこれを却下した。同様に田中新一方面軍参謀長も「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各方面で破綻に瀕しつつある方面軍統帥の現実的かつ精神的中心たるの存在を、方面軍自らラングーンを確保することにより明らかにすべき」と主張していたが、司令部の撤退が田中参謀長の出張中に決定された。



 桜井省三中将が「方面軍司令部を速やかにシャン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と言っていたというのは、『シッタン・明号作戦―ビルマ戦線の崩壊と泰・仏印の防衛』のP237にも書かれていました。

 しかし、『ビルマの名将・桜井省三』では、違ったニュアンスで書かれているように思いました。



方面軍司令部が戦闘の渦中に巻き込まれてはまずい。今のうちならまだ整斉と後退できるので、どうぞ早くモールメンにさがって下さい。そして速やかにシャン高原に戦闘司令所を推進するのが適当だと思われます。ラングーンの防衛は第28軍で引き受けますから
『ビルマの名将・桜井省三』P216


 ここでは「モールメンに下がって欲しい」としていますし、「シャン高原に戦闘司令所を推進する」というのは木村中将がそこにいるべきだというのではなく、適当な指揮官を任命してシャン高原に司令所を置くべきだ、という意味である可能性もあるのではないでしょうか。ただし、同書P220には「(作戦指揮所は)戦闘司令所ではないので軍司令官はいない」という記述があり、この記述からすると戦闘司令所には軍司令官がいるのが普通かもしれません。ただだとしても、シッタン川の東岸に木村中将がいた方がいい、ということではあるかとは思います。



 それから、田中新一参謀長についてです。Wikipediaの記述では、田中参謀長の方がまともなことを言っているように感じられるかもしれませんが、田中新一という人は日本陸軍の最強硬派で、参謀本部第1(作戦)部長として対米開戦を主張して開戦に導いた人物であり、ガダルカナル撤退を頑として認めず乱闘騒ぎを起こし、ビルマ方面軍参謀長としてもインパール作戦失敗後、防御態勢を取った方が賢明だと他の幕僚達が考えているのに積極的攻勢論を主張しまくって周りの人々を困らせていた人物なのです(ただし、ビルマに来て最初に指揮を執った第18師団長としては、非常に優秀であったと思われます)。

 正直、私自身、田中新一がビルマ方面軍参謀長としてビルマ戦線に与えた悪影響というのはかなりあったのではないかという印象を持っています。GameJournal誌16号P24で上田洋一氏は「連合軍が野戦指揮官としての田中を高く評価していることを考えると配属される部署【ビルマ方面軍参謀長のこと】が誤っていたと思えてくるのは筆者だけであろうか?」と書かれているのですが、私も田中新一が師団長にとどまっていた方が遙かに良かったのではないかと思えます(もちろん、反対意見もあることでしょう)。


 また、ガダルカナル撤退に田中新一参謀本部第1(作戦)部長が反対していた時、木村兵太郎は陸軍次官でその席におり、田中新一に対してその言動を詰問して「なにッ!」と反抗してやりとりがあったりしたそうです(『ビルマの名将・桜井省三』P221)。その後、彼等は方面軍司令官と参謀長という関係になるわけですが、その間ずっと「ただならぬ空気」だったそうです。そこらへんの悪影響もあったのではないでしょうか。



 しかし特に、木村兵太郎の人となりや能力については、私はまだまだ知識がないので、そこらへん詳しく知ってくると、意見も変わってくるかもしれません。とりあえず、今の時点での、私なりの「論争的」なものを提示してみました。


『リデルハート 戦略家の生涯とリベラルな戦争観』を読了しました

 古本屋でたまたま見つけて買ってみた『リデルハート 戦略家の生涯とリベラルな戦争観』を読了しました。





 この本、記述の姿勢が個人的に非常に好みでした。

 リデルハートについては今までに読んだ記事等などでも賛否両論がある(自分の功績を大きく見せようとしたとか)ことは少し知ってましたけども、この本はリデルハートに関してその功績を語るものではありながら、その欠点も事細かく大量に挙げていて、むしろ欠点に関して割かれた分量の方が多いのではないかと思われるほどでした。

 私は、人間には長所も短所も両方あるのが当たり前だと思いますし、長所しかないとか短所しかないとする記述には胡散臭さを非常に感じるタチではないかと思われます(ごくまれに、長所しかない、短所しかない人間もいるでしょうけども。大谷翔平とか、短所あるんでしょうか?(^_^;)。

 なので、牟田口廉也の長所に関して非常に気になり続けていますし、あるいは、GameJournal誌で児玉源太郎には長所しかないかのような連載記事(そうでもなかったでしょうか?(^_^;)があったのに対して、「ホンマかいな」という印象を抱いたりしました。



 ミリタリーからはずれますが、『人新世の「資本論」』というベストセラー本を買って読んでみていた時に、著者が晩年のマルクスの論について褒めまくりどころか、現代の思想家の色々な論と比べても必ず勝っているかのような記述を繰り返すのに、私は超絶胡散臭さを感じて途中で読むのをやめてしまいました……。環境問題に関して劇的な変革をしなければどうにもならないでしょという著者の方向性に、私はかなり一致する(ただし、すでに手遅れである可能性の方が遙かに高いと私は思っていますけども)のですが、晩年マルクスに対するあまりの傾倒ぶりとか、変革ができる・できて当然と思っているかのような姿勢には個人的に違和感を感じています(尤も、私なんかは世の中を変えることはできない人間で、この著者のように「傾倒性」が高く「楽観的」な人間が、世の中を変えるのでしょう)。






 閑話休題。

 リデルハートについての後世からの論評は、大木毅さんが短く触れていたものの他は『戦略の世界史(上)』での数ページの記述が私が読んだ今までの上限だったと思うのですが、この400ページを越える本で細かくその長所にも短所にも細かく触れ得たというのは大変ありがたかったです。

『戦略の世界史(上)』で個人的に価値のあった部分(付:OCS『The Third Winter』ネタ) (2022/01/05)



 中でも白眉は、「リデルハートがグデーリアンに戦前から影響を与えていた」という説に関して、戦後ある研究者が否定した後、別の研究者がやっぱり与えていたということを明らかにした……という話でした(もちろん、それがまた否定されるとか、議論が継続している可能性もあるでしょうけども)。

 あと、索引があるのが偉いです。参考文献一覧は当然あります。


 この本の個人的に良くなかった面も書いておきますと、同じ内容の繰り返しが多いです。繰り返しをうまく編集すれば、分量は半分近くになったのではないでしょうか。また、間接的アプローチがうまく実戦に適用できないという話とか、西側流の戦争方法とかに関するもっと具体的な例をいくつも挙げてくれると、個人的にはもっと良かったと思いました。

 この本が書かれた時期が2008年で、リデルハートに発する西側流の戦争方法が良いものであるという主張はまあ別にいいと思うのですけども、個人的には、その後のロシアによるクリミア併合やウクライナ戦争というような「権威主義国家による戦争方法」に対して西側流の戦争方法がどうしていけるのだろうか、というようなことが非常に気にかかっています。

#あなたの周りのインパール作戦:ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー

 『戦慄の記録インパール』の「おわりに」をまず読んでみたところ、NHKスペシャルの放送後に、「#あなたの周りのインパール作戦」というハッシュタグが登場して、今現在の日本人が日常の中で直面したインパール作戦的な経験をつぶやく人が急増したという話が載ってました(文庫版P267)。






 その種別としては、「上司への忖度、曖昧な意思決定、現場の軽視、科学的根拠に基づかない精神論、責任の所在の曖昧さ……」などということなんですが、今話が大きくなっている「ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー」も、私が思うにインパール作戦的な要素がいくらかあるのではないかと思い至りました。

 たとえば、

1.「つきあい(人間的結びつき)」が優先されて「人道的公正性(フェアネス)」が徹底的に閑却されたこと。

2.「迫力」で反対意見を黙らせるリーダーに、まわりが沈黙していったこと。



 特に1は、日本社会全体の問題である可能性が高そうな気がしています。あ、でも公(おおやけ)よりも個人的結びつきの方が遙かに重視される中国やイタリアとかもそうかも……?

 それに比べて欧米(イギリスやアメリカ?)なんかは、フェアネス(社会的に公正であること)が重視され、人間的結びつきがあるからかばうとかって度合いが少ないらしいと、昔何かで読んだ気がします。


 『アーロン収容所』を読んでいても、当時イギリス人はむちゃくちゃ人種差別的なわけですが、約束を守ること(これも一種のフェアネス?)に関してはむちゃくちゃ大事にしていて、約束が守られなかった時には人種差別の対象である日本人捕虜に対してさえも真摯に謝ったものだった、という話が何カ所か出てきていました。


 日本社会の道徳性は、「みんながそうしているから(同調圧力)」という、人と人との間的なもので維持されるのですが、欧米ではそういうのはほとんどなく、むしろ「フェアネス」(あるいは法律)という概念でもって各人(あるいは裁判所)が判断している。もちろん何が「フェアネス」であるかとか、どこからが「フェアネス」になるかとかは各人で違っていったりもするから、その辺についての議論が活発だったり、訴訟が活発だったりする。


 日本社会が、今日から欧米社会になれ、と言われても無理だと思いますし、欧米社会がばら色というわけでもないと思いますけども、「ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー」は別にメディアだけが悪者になるべきものではなく、そもそも日本社会ってそういうことが起こりやすい社会構造らしいね、インパール作戦とか、というような理解の方が、「マスゴミ」論よりも、私は個人的に好みです。


台湾有事に関わらない(戦争に関わらない)ことで日本が何を失うことになるか考えるべきだと思っています

 ツイートで↓のように書いてました。





 ここらへんのことで、もうちょっと詳しく自分の思っていることを書いておこうと思います。


 最初の↓ですが……。

「報道特集」が左の立場からどういう風に台湾有事を語るか気になって見てました。

最後のまとめとして、台湾側が過激なことをしない限り習近平が戦争をしかける可能性は低いという総括でしたが、これはツッコミどころだらけだと思います。
【「過激なこと」というのは、独立派が政権を取るなどのことです】


 しかし私が思うに(というか、日本の左翼以外の衆目の一致するところ)、習近平が戦争をしかけるタイミングは、↓のような場合でしょう。

1.台湾侵攻が成功するだけの条件が整った時
2.(条件は完全に整ってはいないが)習近平の権威が危険に晒され、大きな功績を示す必要が出てきた時
3.習近平の任期延長のために功績が必要なタイミング
4.上記3つにも合致しなくても、習近平が「今だ」と思い込んだ時(習近平が寿命を意識した時など)


 ロシアのウクライナ侵攻は、4の時に行われたように見えます(3も少しあるでしょうし、またプーチン自身は1だと思っていたでしょう)。


 日本の左翼は長年、「戦争を起こすのは日本やアメリカである(中国やロシアは平和勢力だ)。平和のために日本は軍備を増強すべきではなく、日本が軍備を増強するから戦争が近づく」と主張してきましたし、そうすると「報道特集」のように言うしかないのでしょう。



 2つ目の↓ですが……。

ただ、「日本民間人の犠牲者に関して考えるべきだ」という話に関しては同感で、日本国内の軍備増強派もそこの話から逃げるべきでないと思います。

数万人の犠牲が出ても台湾有事にコミットするのか、犠牲には耐えられないから台湾が中国に占領されることになってもコミットしないのか考えるべきだと。


 「べき」だとは思います、思いますけども、それは今の日本ではまだ、極度に難しいでしょうね……。

 というのは新聞などを読んでいても、戦争体験者や戦争について考える若い人によって「戦争は絶対にしてはいけない」というフレーズが何度も何度も繰り返されており、日本社会の(考え直すことなど不可能な)ドグマとなっている感があるので。


 それに対して私は、日本社会は「戦争をしないことのデメリット」について考えたり、話題にするべきだと思っています。それが禁忌でなくなって初めて、冷静な議論が可能になる。現状では冷静な議論が可能な条件は全然整っていないでしょう。


 中国に台湾が侵攻された際に、日本が「在日米軍基地の使用を許さない」であるとか、「自衛隊の出動を見送った」場合、どういうことが起こるか。

 メリットとしては、日本人の犠牲は少なめですむでしょう。日本は戦争には関わらないですみます。

 デメリットとしては、シミュレーションによればその場合、台湾は中国に占領される可能性が高いとされています。台湾は香港やウイグルのようになるでしょう。台湾の民主主義は完全に壊滅し、人権抑圧も頻発するでしょう。台湾人は日本(人)を恨むかもしれませんが、元々台湾人は日本が立ち上がってくれるとは期待できていないという話も聞きます。

 それ以外のデメリットとして(素人の)私が思いつくのは、同盟の信頼関係が傷つくということです。特にアメリカと韓国による、日本への同盟の信頼感は地に落ちるでしょう。結果として、アメリカは東アジアへのコミットを減らし、韓国はアメリカよりも中国の傘に入ることを選択する可能性が高まるのではないでしょうか。つまり、中国の影響圏が広がることになるということです。

 そうすると次に、中国は沖縄に対する影響力を増大させようとすると共に、日本が(韓国のように)中国の言うことを何でも聞く(アメリカの影響力を削ぐ)ように要求をエスカレートさせるでしょう。まさに、「太平洋は中国とアメリカの両国が勢力圏を分けあう広さがある」のであり、太平洋の西側は中国の勢力圏に入るべきなわけです。


 ……と、私は思っているのですが、そうでもない? ここらへんの予測に関して、識者の意見も見たことがないので個人の勝手な憶測にとどまってます。

 私の予測がある程度正しければ、こういうことが言えると思っています。「台湾有事に日本がコミットしなければ、将来的に日本(特に沖縄)は香港やウイグルのようになる可能性がかなりある」。

 「日本が将来香港にようになってもいいから、戦争をしたくない」のも一つの意見だと思います。その認識のある非戦主義者となら、議論ができると思う。しかし「日本は戦争をしない。そして今の民主主義も当然、享受し続けることができる」というのは見通しが甘すぎるのではないかと。



 今回のツイートに市川さんのコメントをもらいまして、そのリンク先のブログ記事にこうありました。

特に、台湾在住の日本人が避退できないうちに有事となった際、中国側から「中国の船舶で在台日本人を避難させてあげるから、台湾や米軍に協力しないように」と交渉される可能性も挙げられているのもなるほどなと。そのように交渉されたら、昨今のウクライナ情勢でも見受けられるように「日本人の生命を優先して、戦争には関わるな」と主張する人たちも出てくるだろう。


 中国の認知戦、ヤバいですね……(>_<)。本当にそうだと思います。そういう人は恐らく、50%を越えるのではないでしょうか。

 それらの結果として、中国が台湾侵攻に成功する可能性もある程度あるのではないかと私は思います(中国が数百万台のドローンを活用するとか、アメリカの国内政治の状況が悪化するなどの条件が重なって)。


 日本社会に広くはびこる「空想的平和主義」が健全な程度まで減るためには、私は、一回本当にひどい目に会うしかないのではないかとも思っています。


第二次世界大戦前のインド等でイギリス人(白人)が人種的優越感を持っていた理由を探して

 ↓でイギリス人の人種的優越感らしきものについて書いていましたが、どうやってそういうものが醸成されたのかが気になって最近本を探したりしてました。


『アーロン収容所』から:ビルマ人が日本軍に好意的であった理由について (2023/06/28)


 そんな中で、↓という本を見つけていくらか参考になるかもと思って買って読んでみまして、少し理解が深まった気がしました。





 1810~1820年代以降は、ヨーロッパ文明の絶対的な優越性と、インド社会の後進性がさらに強調されていく。この背景には、他のヨーロッパ諸国を排斥しイギリスがインドで独占的な地位を占めたこと、産業革命の進展による一等国としての自信などが働いていたであろう。さらになによりも、数千マイル離れた国土を支配する状況を正当化する必要性があった。ここに、「文明化の使命」がインド支配を正当化するイデオロギーとして登場し、【……】
『イギリス支配とインド社会』P10


 これは「マニフェスト・デスティニー」的な考え方なわけですけども、それで「人種的優越感」を持ってインド人を支配することには直結しないかと思います。

 しかしその後、インド人の中に英語知識を持つ者が増えてきつつ、1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるようになると……。

 イギリス直接統治への移行がもたらした心理的影響として重要なのは、インドが一介の商社【東インド会社】の領土としてではなく、イギリス国家の所有物としての位置づけが与えられたことである。インド統治は、イギリスの国威に直結するという意識が生まれたのである。インド総督カーゾン卿によるつぎの発言は、こうした意識を明確に示している。「インドを支配するかぎりわれわれは世界最強の勢力である。インドを失うならば、われわれはただちに三流の勢力に転落するであろう」。帝国支配の永続が暗黙の了解事項となるとともに、当初の「文明化の使命」イデオロギーは後退していった。マコーリが望んだような英語知識をもつ現地人中間層が台頭してくれば、当然のことながら「文明化」の意義は色あせてくる。19世紀後半以降は、むしろ支配「人種」としての優越性、インド社会を構成するさまざまな集団の利害を「公平に」調停するアンパイアとしてのイギリスの存在の意義が、支配を正当化する論理として利用されるようになる。また、インド人知識人層からの、統治への一層の参加要求にたいしては、彼らはインドの「一般民衆」を代表していない、むしろイギリスこそが、インド大衆の擁護者であるという主張によって対抗するようになるのである。
『イギリス支配とインド社会』P14,15




 そして、むしろ「人種差別意識」「人種的優越感」が必要とされ、それが強められていく……。

  「人種」問題は、ことに1883年に起きたイルバート法案をめぐる論争で表面化した。この法案は、刑事訴訟法に修正を加え、インド人判事にもヨーロッパ人犯罪者を裁く権限を与えることを内容としていた。これにたいして、インド在住のヨーロッパ人コミュニティから予想をはるかに上回る反対があり、最終的な法律は、ヨーロッパ人には、過半数をヨーロッパ人が占める陪審員による審理を受ける特権を残したかたちで落ちつくことになる。この論争の過程で、ヨーロッパ人系の新聞・雑誌では歯止めのない「人種差別」的な言論が繰り広げられた。19世紀後半、「ニガー」といった蔑称がヨーロッパ人コミュニティのあいだに浸透した事実に明らかなように、ヨーロッパでの人種理論の発達と平行して、「人種差別」意識は19世紀をつうじてむしろ強まったのである。イルバート法案をめぐる議論を典型とする、露骨な人種的優越性の誇示は、イギリス支配の善意、ヨーロッパ思想文化の「啓蒙性」を信じる知識人の意識に冷や水をかけることになった。
『イギリス支配とインド社会』P59



 ここらへん、もし日本という国家(例えば豊臣政権とか?)がイギリスと同じようなことをしていったとしたら、同じ様な経過をたどった可能性も……?



 他にも、『黒人と白人の世界史――「人種」はいかにつくられてきたか』という本の著者は、人種差別意識が元々あったから黒人が奴隷にされたのではなく、黒人を奴隷としていこうという経済的必要性から人種差別意識が必要になったのだ、というようなことを言っているらしいです。






 もちろん、他にも色々な要因があるだろうこととも思えますけども、個人的にはこういう、「誰でもがそういう風になる可能性がある」という理由付けは割と好みです(誰でもが牟田口廉也のようになりうる、というような)。

牟田口廉也の失敗は、誰にでも起こりうる。ただし、そうなりやすい人と、なりにくい人がいる? (2023/01/28)




<2023/07/13追記>

 もう一冊、『帝国主義と世界の一体化』という本も買ってまして、こちらにも参考になりそうな記述を見つけました。





 すなわち、デカルト的合理主義に象徴される西洋近代のアイデンティティはじつは「大航海」以来搾取し、従属させてきた他の世界の「野蛮の発見」をつうじて形成されたのであった。このことは16世紀から19世紀までヨーロッパ人がもっぱら奴隷として接触したアフリカ黒人との関係でとくにきわだっており、そこでは白人は生まれながらの主人であるのにたいし、黒人はあらゆる否定的な性質を集めた下僕、いや家畜並みの存在であった。
 これにたいし、古い文明と「静止」した政治・社会制度をもつ褐色ないし黄色のアジア人ははじめ、「文明化」され、改善・再生が必要にせよ、まったく異質で、下等な人種と見下されていたわけではない。たとえば18世紀にインドに長期滞在する東インド会社のイギリス人社員がインド人の妻をめとるのはごくあたりまえであったし、もしラジャ(藩王・貴族)の娘とでも結婚できればもうけものであった。同様に18世紀、王侯貴族をはじめヨーロッパ人は中国や日本の華麗な陶磁器に熱中し、その背景となる東洋文化の豊かさにあこがれをいだいた。東洋は西洋と別の世界ではあれ、まだ「野蛮」ではなかったのである。
 しかし19世紀にはいって西欧が産業革命の結果近代工業を発展させ西と東の技術=生産力格差が開くにつれ、またヨーロッパ人が進歩や変化を善しとする価値観になじむにつれ、停滞するアジアはしだいに「野蛮」視され、西洋の「文明」によって救済されねばならない哀れむべき存在に変わったのであった。とくに19世紀半ばイギリスがインドで支配を確立し、また中国が阿片戦争やアロー戦争の敗北をつうじ従属的な条件で「世界システム」に組み込まれるにつれ、西洋の東洋蔑視は普遍的な確信の域に達した。そしてこの蔑視での、「進歩」対「停滞」、「文明」対「野蛮」、「男」対「女・子ども」、「白」対「有色」といった割り切りはヨーロッパ人のアイデンティティを支える柱となり、それは相手の価値や要求に一切眼を閉ざす傲慢を育てるとともに、己の側の実態や欠陥を真剣にかえりみる謙虚さを失わせた。

▼「白」対「有色」 人間を皮膚の色で差別する偏見はヨーロッパ人だけのものではない。たとえばインド(ヒンドゥー教)のカーストにおける四姓(ヴァルナ)はもともと肌の色を意味し、バラモン(白)、クシャトリア(赤)、ヴァイシャ(黄)、シュードラ(黒)と明るい色が暗い色より優位にたった。またある人種の肌色をどうみるかもときと事情によって変わり、ヨーロッパ人は中国人や日本人を18世紀には「白」とみていたが19世紀後半には「黄」とみなすようになった。
『帝国主義と世界の一体化』P54~56

 この変化【進化論を根拠として、白人の生物学的優位を強調する社会ダーウィニズムが代表的思潮になったこと】の背景には当時、世界分割競争の激化にともない、列強の国民のあいだに対抗意識が強まり、それとともにジンゴイズム【自国の国益を保護するためには他国に対し高圧的・強圧的・好戦的な態度を採り脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)も厭わない、あるいは自国・自民族優越主義的な立場を指す言葉】やショーヴィニズム【熱狂的愛国感情が生み出す排他的思想態度のこと】と呼ばれる偏狭な愛国心や白人と有色人種の差異を決定的なものとする人種差別がヨーロッパ人の心に深く根をおろすようになった事情があった。

 たとえば、上述のように19世紀中葉まで - 1857年の「大反乱」(セポイの反乱)後もなお - イギリス本国では、インドの「文明化」とその後に訪れる自治ないし独立の可能性を漠然とではあれ予想する人びとがかなりいた。しかし【18】80年代以降、列強の通商や植民地の拡大を求める動きが活発になり、イギリスの覇権がゆらぎはじめると流れが変わり、インドの「文明化」よりも統治の強化を求める声が主流になった。すなわちイギリス=ヨーロッパ文明の普遍性への信頼、その結果としてインドの「文明化」への期待ではなく、インド人の癒しがたい後進性・弱さが強調され、帝国主義的支配の強化・継続が主張されたのであった。
『帝国主義と世界の一体化』P59,60


 確かに、幕末(1850~60年代)頃の外国人との接触が結構描かれている『風雲児たち』というマンガを読んでいると、(ジョン万次郎がアメリカ本土で差別されたという話もありましたが)日本人が差別されているという感じは受けません。

 しかしその後、欧米では人種差別意識が強まっていって、インド人やビルマ人、日本人らにとってもそれらが堪えがたくなっていったという流れがあったわけですね。


 あるいはまた、太平洋戦争の終盤にはそれまでよりも日本人に対する欧米人の差別意識が強まり、極限にまで達したというような話もあったようです。現在進行形で戦争している相手ですからある意味では当然ではありますけども、ドイツ人やイタリア人に対する見方に同じ様なことがあったかというと……ではありますね。




<追記ここまで>


『アーロン収容所』から:ビルマ人が日本軍に好意的であった理由について

 『アーロン収容所』から、ビルマ人が日本軍に好意的であった理由についてについても書いておこうと思います。


 実は、著者はその理由について「分からない」と何度も書いており、事実その理由を述べていません(おい)。また、日本軍は(負け戦の中で)ビルマ人達に色々ひどいこともしたのは確かであったと書いていて、実際に日本軍にひどい目にあったビルマ人は日本軍を恨んでいたらしいと述べていますし、あるいは著者らが使役していたビルマ人青年に関して、

 まことに申しわけないが、私たちはこのよく働くビルマ人を可愛がっていたというものの、何もわからぬ上等な家畜のようにしか考えていなかった
『アーロン収容所』P160


 とも書いています(ところがこの青年は日本敗戦となって著者らが餞別などを渡してもう帰るといいよと伝えると、仏教の流転的な所感を述べて、絶望的になっていた著者ら日本兵達を心の底から感動させたのです)。


 ただ、著者の接したビルマ人がどのように日本兵捕虜らに好意を示したかについての記述は、何回も出てきます。日本兵のいる場所に密かにタバコや食べ物を置いておいてくれたり、また著者らがイギリス軍の命令で汚物を処理させられている時にでさえ、そこにタバコなどをくれたこと。ビルマ人のある老人などは日本兵捕虜に出会うといつも道に土下座して手を合わせ頭を下げてくれたため、兵隊一同はありがたいよりは恥ずかしくて閉口したとか(P166)。


 一つには、ビルマ人がインド人やイギリス人を非常に嫌っていたので、それへのあてつけということもあったもののようです(ビルマ人は穏やかで、当時の日本人がよく人を殴ったりするのとは全然違っていたそうですが、インド人とは集団で喧嘩したり、ひどいイギリス人の役人の宿舎を夜ごと襲ったりすらしていたとか)。

 それにも絡むところですが、私は著者の書いている↓のエピソードが、「理由」の部分ではなかろうかと思いました。著者が作業の休憩中にビルマ人達に無理矢理招かれ、食事を出された時の話です。

 私の飯には匙をつけてくれたが、手で食べる方が礼儀なのだということは私も知っていた。しかし自分は捕虜だという気持は抜けきらない。手で食べることが何かおもねるような気がして、しばらくためらった。しかし、この人たちはそんな私の気持には気がついていないらしい。戦争中とおなじように、何か期待して好奇心に満ちた目でにらんでいる。仕方なしに手で食べ出した。
 とたんにみんな、ワッという喚声をあげ何かしきりにしゃべりだした。やはりニッポンのマスターはえらい。イギリス人は自分たちと食事など絶対にしない。手で食べるのは野蛮人だなどと言う。日本人は自分たちをおなじように取扱ってくれるというようなことを言っているらしい。はっきりとはわからないが、幾度もおなじ手まね足まねで、イングリはいかん、いかん、ということをしきりに言って憤慨する。
「戦争は本当に負けたのか。負けても日本のマスターがたくさんいてくれるので自分たちは心強い。どうか帰らないでくれ。武器はどこにかくしてあるか。いざというときは一緒に戦おう。また勝つさ」話はたいへん景気がよい。
 ビールのような泡がでる、アルコール分のうすい、昔なつかしい椰子酒をしきりにすすめてくれる。すこし甘酸っぱくて冷たくてとてもうまいものだ。しきりにいろんなことを言ってくれるが、はっきりしたことはわからないし、それに内容もこんな調子なのでなんとも答えにくい。「帰らないでくれ」と涙まで浮かべ、手を握って頼まれたのにはどうにも答えようがなかった。
『アーロン収容所』P168


 つまり、(当時の)イギリス人はビルマ人を対等などとは絶対に考えないし、そういう振る舞いも絶対にしない。しかし日本人は自分達ビルマ人のやり方を尊重し、対等の人間として接してくれる、ということではないかと。


 今読んでいる途中の『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』という本は、白人による人種差別を糾弾する方向に偏った本だとは思います(ただし、日本人による残虐行為がまったく記述されていないわけではないです)が、その中のマレー人の項にも↑を敷衍するような印象深い記述がありました。




 【マレーで】イギリス人は、国王様のような生活をしていた。「8000人弱の白人が、白人でない者の上に、君臨して」いた。海軍軍人の家庭では、イギリス人の少年にまで給仕(ボーイ)や召使いがいた。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P266

「白人で、自分たちを対等に扱ってくれる者はいなかった。我々先住民が怒りを感じ、日本軍を歓迎したのは、対等に扱ってくれたからだった。日本がついに我々を解放してくれると、思った」【……】
 彼【シンガポールに移住していたインド人】が大英帝国を支持しなかったのは、「イギリス人はアジア人に対して優越感(スーペリアー・フィーリング)を持っていた。我々を差別した」からだった。「インド人は、イギリス人の奴隷だった。それが全てのインド人の思いだった」と、語った。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P269

 彼ら【マレー人の軍隊】は新たな教官である日本人に、訓練を受けることになった。日本人はイギリス人と比べ、はるかに好感が持てた。訓練には40マイル【約64km】の行軍もあった。マレー人にとって感動的だったのは、【日本軍の】将校も、教官も、一緒に行軍したことだった。イギリス人の将校だったら、車で移動しただろう。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P268




 ただし、私の今まで読んできたビルマ戦線での話としては、日本の軍人などは当時の日本では当たり前であったビンタを頻繁にビルマ人に対してもし、そしてビルマ人にとってビンタをされるというのは恐ろしく屈辱的なことであったため、大きな反感を買っていたという話もありました。

 あるいはまた、「男尊女卑(男性が女性を対等だと思わずに差別的に扱う)」にかけては日本は現在進行中で先進国ぶっちぎりですから、「日本はすばらしい」と言うわけにもいきません。しかし、当時のイギリス人や白人の振るまいが、多くのアジア人に当時現在進行形で屈辱を与え続けていたのだろうということは、一応知識としてはあったものの、こういう具体的なエピソードで、ようやく理解が深まってきたかなという気がします。

 もちろん、相反する証言や意見こそを、積極的に集めなければならないと思います。


『アーロン収容所』から:イギリス軍の士官と、下士官・兵の差について

 『アーロン収容所』を読んでいて、イギリス軍の士官と、下士官・兵の差について書かれているのが少し興味深く、今後もイメージを持っていく上で有用かなと思われるので、ブログに書いてみようと思います。


 しかしまず私自身、「士官(=将校?)」と「下士官(および兵卒)」の間の断絶について、まだまだ良く理解もできておらず、実感も持てていない感があります。実際のところ長い間私は、字面的にも「士官」というカテゴリの中の下半分が「下士官」ということなんだろうなぐらいに思っていただろうとも(いや、そういう人多いのでは!?)。

 しかし、士官というのは士官学校を出た、(上級)指揮官になっていく人達で少尉(小隊長?)以上、下士官というのは兵卒から上がっていった人達で最高で曹長(あるいは特務曹長とか准尉とかってのもあるとか)で、あくまで指揮官たる士官の指揮の下で戦う兵隊である……?(という理解で合ってます? 例外はあったというのは一応把握してます)


 これが何か、イメージしやすいものに喩えられないか考えてみたのですが、土佐藩の「上士(山之内家の家来出身)」と「下士(長宗我部家の家来出身)」とか……一般的ではないか(^_^; あるいは、第二次世界大戦前・戦中だと「大卒なら士官相当」というような話も見たのですが、それは大卒が数%の状況においての話で。(私はしかし、大学に行く人間は社会の数%程度というのが本来のあるべき姿ではないかなぁ、という気もしますけど)

 ともかく、少なくとも私には想像しにくいのですが、士官と下士官(兵卒)の間にはものすごい断絶感があったようなのです。これがどうも、イギリス軍においてはその差がものすごかったようで……。

 イギリス兵の服装は、日本のように士官と下士官・兵のような劃然とした区別はない。士官であるかどうかは腕にある階級章で区別できるだけである。この点はアメリカ兵と同じである。ところがそのうち私たち【日本兵捕虜】は遠くからでも一見して区別できるようになった。動作や態度とか、そういうものからではない。【……】
 【……】それは、体格、とくに身長である。五尺七寸余(1.75メートル)の私より背の高いのは下士官や兵ではすくない。五尺四寸【1.63メートル】くらいのものがすくなくないのである。しかし士官は、大部分が六尺【1.82メートル】以上もあると思われる大男で、私より低いものはほとんどいなかったのである。
 体重も下士官や兵には見事なものは多くない。かえって貧弱だなあと思うような男もすくなくなかった。しかし士官は老人以外はほとんどが堂々たる体躯で私たちを圧倒した。【……】しかも体格だけではない、動作が生き生きとして自信にみち、しかも敏捷であるのが目立つ。

『アーロン収容所』P109,110


 その理由らしきものとして、著者は↓のようなものを挙げています。

 士官たちは学校で激しいスポーツの訓練をうけている。フェンシング、ボクシング、ラグビー、ボート、乗馬、それらのいくつか、あるいは一つに熟達していない士官はむしろ例外であろう。そして下士官・兵でそれらに熟達しているものはむしろ例外であろう。士官の行動は、はるかに敏捷できびきびしているのである。
 考えてみれば当然である。かれらは市民革命を遂行した市民(ブルジョア)の後裔である。この市民たちは自ら武器をとり、武士階級と戦ってその権力を奪ったのだ。共同して戦ったプロレタリアは圧倒的な数を持っていたが、そのあとかれらが反抗するようになると市民たちは力で粉砕し、それを抑えてきたのである。私たちはこの市民の支配を組織や欺瞞教育などによると考えて、この肉体的な力にあったことを知らなかった。
『アーロン収容所』P112,3


 後段については「本当かなぁ……?」とも思うのですが、一応見聞の例としてはそういう感じであったらしいのでしょう。ただ、著者らが見たのは恐らく下級の士官達(尉官とか、高くても佐官?)であって、イギリスの上級将校(将官)は貴族で占められていたとか、あるいは背が低い将官も結構いた(オコーナーやハーディングなど)という印象も私は持っています。

WW2のドイツ軍、イギリス軍、イタリア軍の上級指揮官は貴族閥によって占められていた……? (2021/06/26)
コンパス作戦の準備(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/01)



1942年のビルマ戦で、なぜインド軍部隊は日本軍を歓迎せずにイギリス側に立って戦い続けたのか?

 ↓で書いてました、「1942年のビルマ戦で、なぜインド軍部隊は日本軍を歓迎せずにイギリス側に立って戦い続けたのか?」ということが問いとして頭の中にありました。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ進攻の要約 (2023/03/08)

 ↑から再度引用しますと……。

 この輝かしい成果【ビルマ攻略作戦の大成功】を前にして、二つのことが日本軍を驚かせた。一つは、なぜインド陸軍がこれほどまでに戦い続けたのかということである。同じアジア人なのだから、表向きは「残虐な主人」から自分たちを解放するためにやってきた人たちを歓迎するものと日本軍は思っていた。しかし、そのようなことはなかった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P338





 最近、(昔読んだ)『アーロン収容所』を読み返していたのですが、その中の記述でこの件に関してだいぶ分かってきた気がしました。






 以下、引用等は戦後の日本兵捕虜収容所まわりの話なわけですが、そこで見聞されたことは戦前、戦中でもほぼ同じことだっただろうと推察されます。



1.インド人はイギリス人を極度に恐れていた。

 イギリス本国兵は新兵でさえ、インド人に対しては士官であろうが下士官であろうが、まったく無視するような様子を見せていた。無理に軽蔑しているのでもなく、腫物にさわるようにふれないようにしているのでもない。インド兵の存在を全然認めないような態度である。私たち日本人にもイギリス兵が話しかけることは絶無に近かったが、インド兵とイギリス兵が、何かの公的な交渉以外に話を交わしているのも見たことはない。よくまあインド人はこのような最高の侮辱に耐えられるものだと感心するよりほかはない。
 【……】
 インド人はみんなイギリス人を「イングリ」といって極端に恐れる。黙って【日本兵捕虜の作業の】監督をしている【インド兵の】男でも、その付近にイギリス人が現れると途端に顔色が変る。その「イングリ」が自分の直接の上官であろうが、兵隊であろうが、それはどうでもよい。認めるやいなや「イングリ」とかれらは叫ぶ。それから「イングリ、イングリ、カモン、カモン」の連発である。近くに来て作業でも見ようものなら狂ったように私たちを督励しはじめる。立ち去ってしまうとやれやれという風に座りこんでしまうといった調子である。
 【……】
 インド兵はこちらの文句に対し口ぐせのように言った。
「自分はそうは思わないのだが、イギリス人がそうせよと言うのだ。仕方ない。やってくれ」
 私たちは捕虜である。仕方がない。しかしインド兵が心からそう思っているらしいのはまことに淋しかった。インド軍はイギリスから協力を要請されて戦ったのではないか。対等のはずではないか。インド人、それはイギリス人に対するとき、どうにもならないほど弱々しく、卑屈で不安気であった。
『アーロン収容所』P122,3


 最後の「インド軍はイギリスから協力を要請されて戦ったのではないか。対等のはずではないか。」という部分ですが、実際にはまったくそうではなく、完全に強制だったのだということなのではないでしょうか。そしてそれは、(当時の)イギリス人にとっては別にやましいことでもなんでもなく、インド人達を使役するのは自分達に「神によって与えられた権利」であり、インド人達(というか有色人種全体)を自分達と対等と見ることなどあり得ないという感覚だったのではないかと。

 というのは、『アーロン収容所』の最初のあたりにこういう記述があるからです。以下はイギリス人女性兵士に関する記述ですが、イギリス人男性兵士だったらよりマシだったということはなかったと思われます。ただし、スコットランド人部隊兵士がイギリス人の中ではいちばん紳士的だったというような話もあります(P85)。

 【……】私は捕虜の全期を通じ、たしかに私用だと思われる仕事をしたことがあっても、イギリス人からサンキューということばは一度も耳にしなかった。おそらくこのことばを聞いた【日本の】兵隊はいないであろう。
 しかも、【私用の礼としてたまにタバコを一本か二本くれる時でも】タバコを手渡したりは絶対にしない。口も絶対にきかない。一本か二本を床の上に放って、あごで拾えとしゃくるだけである。【……】
 この女たちの仕事で癪にさわるもう一つのことがある。足で指図することだ。たとえばこの荷物を向うへ持って行けというときは、足でその荷物をけり、あごをしゃくる。よかったらうなずく、それだけなのである。
 その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女【イギリス人女性兵士】が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化も起こらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終ると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸い始めた。
 入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。

 【……】
 もちろん、相手がビルマ人やインド人であってもおなじことだろう。そのくせイギリス【人男性】兵には、はにかんだり、ニコニコしたりでむやみと愛嬌がよい。彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうしてもそうとしか思えない。
 はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうかとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである。私はそういうイギリス兵の態度にはげしい抵抗を感じたが、兵隊のなかには極度に反撥を感じるものと、まったく平気なものとの二つがあったようである。もっとも私自身はそのうちあまり気にならなくなった。だがおそろしいことに、そのときはビルマ人やインド人とおなじように、イギリス人はなにか別の支配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいたのである。そうなってから腹が立つのは、そういう気分になっている自分に気がついたときだけだったように思われる。
 しかし、これは奇妙なことである。なぜ私たちは人間扱いにされないのか。しかも、なぜそのような雰囲気にならされてゆくのであろうか。もうすこし、いろいろの経験から考えてみる必要がありそうである。
『アーロン収容所』P47~51


 我々がたとえば(若い頃に)教室で水着にでも着替えていて、虫だとか鳥だとかウサギだとかが教室に入ってきても、恥ずかしいとは思わないでしょう。仮に猿が入ってきても、驚きはするでしょうが、恥ずかしいとは思わないでしょう。しかし、人間の異性(人種に関係なく)が入ってきたら「やべえ」と思うはずです。

 当時のイギリス人(白人全体?)にとって、有色人種は「猿」と同じような、裸を見られても恥ずかしい対象とは見られていなかったということなのでしょう。同書P46には、「イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。」とすらあります。


 戦前の日本は白人の植民地となることを免れていましたから、白人(イギリス人)による人種差別の話を色々聞いて普段から憤ることはあっても、実際に白人に支配された状態とはどういうことなのかは理解できていなかったということなのではないでしょうか(今の我々にとっては、当時の人よりも想像が困難であるだろうと思います)。


 この人種差別の感覚について、著者は下記のような推察をしています。ヨーロッパは土壌が痩せていて穀物だけでは生きていけないため、家畜を飼ってそれを屠殺したりして冬を越してきたこと等に関する話が関わっています。一方で東~東南アジアは、米の収穫量も栄養価も高いために動物をそれほど食べる必要はなく、むしろ大事にされてきました。

 かれらは多数の家畜の飼育に馴れてきた。植民地人の使用はその技術を洗練させた。何千という捕虜の大群を十数人の兵士で護送して行くかれらの姿には、まさに羊や牛の大群をひきいて行く特殊な感覚と技術を身につけた牧羊者の動作が見られる。日本にはそんなことのできるものはほとんどいないのだ。
 【……】
 しかし、生物を殺すのは、やはり気持ちいいものではない。だからヨーロッパではそれを正当化する理念が要求された。キリスト教もそれをやっている。動物は人間に使われるために、利用されるために、食われるために、神によって創造されたという教えである。人間と動物の間にキリスト教ほど激しい断絶を規定した宗教はないのではなかろうか。
 ところでこういう区別感が身についてしまうと、どういうことになるだろう。私たちにとっては、動物と人間との区別の仕方が問題となるだろう。その境界はがんらい微妙なところにあるのに、大きい差を設定するのだから、その基準はうっかりすると実に勝手なものになるからである。信仰の相違や皮膚の色がその基準になった例は多い。いったん人間でないとされたら大変である。殺そうが傷つけようが、良心の痛みを感じないですむのだ。冷静に、逆上することなく、動物たる人間を殺すことができる。
『アーロン収容所』P68,9



 インドは第二次世界大戦の頃までに、300年くらいイギリスに植民地支配されていたのでしょうか。その間に、イギリス人に対する反抗精神を多くのインド人が失っていたのではないかと思えました。

 一方で、インド国民軍(日本軍に協力してインド独立を目指したインド人兵士部隊)に所属していた士官がイギリス側の理不尽な扱いに頑として応じなかったり、戦後も依然としてイギリスと戦っていたという話も同書に出てきました。ですから、インド人の中にはインド独立のためにイギリスと戦うということに命を賭ける覚悟を固めた人達もいたけども、「英連邦軍のインド人部隊」に加わったインド人兵士達は、「イギリスに逆らうことはできない」という感覚の中でいたのでしょうか。






2.日本軍がインド侵攻にまで成功したらインド軍部隊が寝返る可能性もあったかもしれないが、ビルマ侵攻成功だけでは無理だった。

 自動車部隊のあるインド人中尉は、水道工事をしている私たちに近よって来て言った。
「日本はよく戦った。えらい。ビルマからイギリスを追い払ったことで、私たちインド人もイギリス人と対抗できることを教えられたのだ」
 私は苦笑した。
「それならどうして君たちは日本と戦争したのか」
「それは君たちがあまりに自分の力を頼みすぎたからだ。君たちがビルマを征服したとき、すぐにインドへ来ればよかった。しかし君たちは傲慢になってラングーンで寝ていた」
 このインド士官は話がうまく、ここでいびきをかいてみせた。
「すぐ来たら私たちもイギリスに反抗したろうに。もうおそかった。
日本は世界中を敵にした。USA、イギリス、フランス、濠州、カナダ。私たちも勝つ方に参加する。そうしないと独立は得られない。【……】
『アーロン収容所』P150


 戦後の著者らの捕虜生活の中でさえも、インド人(ただしシーク教徒は除く)が日本人に友好的なことは、考えられないほどであったそうです。それはどうも、世界の支配者たることが当然なのであろうと自分達が諦めていた白人に対して、日本人は自分達で武器も飛行機も軍艦も作って一時はイギリス軍をさんざんに撃ち破ったとか、あるいは日本兵捕虜にしても何かを作ったり様々な技術を持っていたりすることに関して、感嘆の念を持っていた……ということにあるようです。

 ただそのような感嘆よりも、イギリスに対する恐怖が打ち勝っていたのでしょうね。


 また、もう一つ私が重要だと思うのは、インド人がビルマ人から非常に嫌われていたという話です。ビルマがイギリスによって征服された後、数十万のインド人がビルマ国内にやってきて色々あこぎな商売をやって金持ちになっていたりして、ビルマ人から蛇蝎のごとく嫌われていたそうです(それは「分割して統治せよ」というイギリスの政策であった側面もあったでしょうし、またビルマ征服の際の部隊もインド人部隊だったりしたのかもですね)。

 だとすると、ビルマ人は日本軍を歓迎していたけども、日本軍がビルマの領域に留まっている間は、インド軍部隊が日本軍側に立つのは極度に難しいでしょう。それこそ、引用したインド人中尉が言っていたように、もし日本軍がインド国内にまで入ってイギリス軍を散々に撃ち破っていれば、その時はインド人部隊が日本側に立つ可能性が、あったのかもです(後にビルマ独立義勇軍が、日本側から離れてイギリス軍側に立ったように)。




 一方で、戦中のインド人兵士がどのような気持ちで日本軍と戦っていたのだろうかとか、実際の作戦中のインド人兵士とイギリス人士官との関係性はどうだったのだろうかとか、そういうことに興味も湧くのですが、そこらへんが分かるような本が出てたりしないものでしょうかね……? インドのAmazonで検索したりしたら、そういう本が見つかったりするのでしょうか。


奈良県立図書情報館に、日本軍の部隊史本などが大量にありました

 先日、日本陸軍の「第○○聯隊史」のような部隊史本をネット検索で探しているうちに、奈良県立図書情報館という図書館にそれらが大量に蔵書されているということに気付きました。


 蔵書検索で、1942年のビルマ戦に関して記述がありそうなものを探しただけでこんなにありました(「聯隊」で検索して出てきたものと、1942年のビルマ戦の戦闘序列を見比べてチェックしました)。

歩兵第百十四聯隊史
歩兵第百十四聯隊の将兵達
火砲と共に : 山砲兵第五十五聯隊戦史
山砲兵第55連隊行動表
菊歩兵第五十六聯隊戦記
従軍回顧 : 輜重兵第三十三聨隊第四中隊(弓第六八二八部隊)(杉山隊), [ビルマ編]
砲煙 : 龍野砲兵第五十六連隊戦記
ビルマ戦線の追想 : 龍工兵第五十六連隊第二中隊
戰車第十四聯隊戰記
工兵第三十三聯隊戦記
私 (達) の歩いて来た道 : 第三十三師団 (弓部隊) 歩兵第二百十三聯隊第二大隊第七中隊 (及各隊) の戦跡
独立工兵第二十聨隊戰史, 第1編
独立工兵第二十聨隊戰史, 第2編
菊花清冽たり : 菊歩兵第五十五聯隊死闘のドキュメント
追憶 : はるけき戦場を偲んで


 図書館蔵書のコピーに関しても調べてみると、一冊の半分程度までなら許されるということで、1942年のビルマ戦に関してしか必要でないのでとりあえず問題なさそうでした。


 で、行ってみました。以前利用した大阪市立図書館の経験からすると、書名を検索してプリントアウトしたものを係の人に渡して出してきてもらうのだろう……と思い込んでいたのですが、これらすべてが本棚に並んでいました(「戦争体験文庫」というコーナーが割合としてかなり広く取られており、そこにありました)。しかも、同じ本が3冊ずつあったりとか。

 (一般的に?)コピーは係の人にやってもらう的な情報も見ていたのですが、ここは自分でやるという形でした。「本を出してきてもらう、コピーもしてもらう」だと結構時間がかかるような気がしていたので、そうでなくて良かったです。



 周辺には飲食店などは何もないのですが、館内にカフェがあってカレーやピラフなどが食べられ、また自動販売機で菓子パンなども売ってました。

 私は3時頃までに何とか、事前にチェックしていたもののコピーを取り終え、その後2時間ほどは実際に本棚を見回ってみて見つけた関係資料をコピー。

 すでに大枚はたいて購入してしまっていた部隊史本もあったりしましたが、一方でぜひ読みたい『第百四十三聯隊史』(第55師団所属で、ビルマ進攻作戦に最初期から参加しました)などはありませんでした(徳島県立図書館にあるのは確認しています)。


 また、「野戦重砲兵第○○連隊/大隊」や「独立自動車第○○大隊」というのが1942年のビルマ戦の戦闘序列に第15軍直轄として出てきまして、その戦闘序列に載っていた部隊の本はたぶん蔵書になかったと思うのですが、それ以外のそれらの部隊史の本をコピーはせずとも目を通して、「だいたいどういう部隊だったのか、編制はどうだったのか」を知る必要があるのかな、という気がしてます。他にも今回はチェックできなかったもので関係ありそうな本があるでしょうから、再度行くかもです。


 関西の人で部隊史本などに興味がある方は行ってみても良いのでは。私にとっては「1942年のビルマ戦に関してだけ情報が欲しい」ので、1冊の本に占めるページ数が少ないそれらを何冊もの本からコピーできるという点で大変ありがたかったです。

 なお、ヨーロッパ戦線に関する本は、古い本がほんの少しあるかな、という程度で、そちらに関しては大阪市立図書館の方がよほど充実していたと思いました。


『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍は人道的で、現地民に何も悪いことをしなかったのか?

 『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』を再びDeepL翻訳で読み進めてました。






 以前、『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』を読んでブログ記事を書いていた時に、「この本では、東部戦線のイタリア軍は現地民に(ドイツ軍がひどいことばかりしたのに対して)人道的なことばかりして、ひどいことはほとんどしなかった……という感じで書かれているが、本当だろうか?」ということが気にかかっていました。

 ↓そこらへんについて書いていたもの。

『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14)

東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17)

東部戦線でのイタリア軍兵士のソ連市民への残虐行為はあったか? (2017/10/31)

メッセ将軍率いるイタリア軍のロシア戦線派遣軍団(CSIR:~1942年春)の人道的な態度まとめ(付:OCS『Case Blue』) (2019/10/06)



 『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』にはそこらへんの分析も載っているということで楽しみにしていたのですが、ようやくそこまで辿り着きました。結論としては、イタリア軍兵士がひどいことを全くしなかったとは(当然ながら)言えないものの、そもそもイタリア軍にはどちらかと言えば人道的に振る舞う十分な理由があったということでした。

 ジュスティは、ドイツ軍とイタリア軍の行動の違いの説明として、占領の概念の違いを指摘した。ドイツ軍のレーベンスラウム【生存圏】・モデルが人種階層に基づく完全な【現地民の】服従と絶滅を想定していたのに対し、イタリア軍のスパツィオ・ヴィターレ【生存圏】は現地民を含めようとするものだったのだ。つまり、これは「文明化作戦」であり、「野蛮な」暴力が組織的に用いられたのでは、 うまくいかないというのである。 スコトーニとヴァーチュは、イタリア軍の占領政策における残虐性の低さについて同様の理由を挙げている。すなわち、イタリア軍の占領地域はそれほど広範囲ではなく、イデオロギーの影響は小さく、そしてプロパガンダによりイタリア軍兵士達はソ連国民(特にウクライナ人)を「概して肯定的に見るようになった」。要するに、兵士達の人間性がというよりは、イタリア軍の意図と目標が彼らの行動の基調となったのだと。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P244

それでもなお、イタリア軍は一般的に「戦争中にひどい略奪者とみなされることはなく」、また強姦をしがちともみなされていなかった(同様の証言はルーマニア軍とハンガリー軍に関しても見られる)。とはいえ、ドイツ軍は、長い冬の休息を終えて東に移動した第35軍団(旧CSIR)による「市民住民に対する行動に関して、かなり不快な事例」を報告しており、イタリア軍兵士は村を焼いたり、 罪のない人々を射殺したり、売春を強要したり、略奪をしたりなどの暴虐的な行動に関与したりもしていたのである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P246,7

 イタリア軍兵士達はヒトラーの兵士達のように犯罪行為への白紙委任を受けることはなかったし、ドン河での敗北後も「イタリア軍兵士が現地民に対してより暴虐になることはなかった」。実際、彼らを聖人君子と見るべきでないが、撤退時に襲撃するジャガーノート【恐ろしい犠牲を強いる絶対的な力や存在】でもなかった。ベルクホフによれば、「1943年夏に再びウクライナを通過した時でさえ、イタリア軍兵士達はドイツ軍が分け与えることを拒否したドイツ軍側の食料を略奪し、現地民のために仕事をして食糧を分けてもらい、食糧をもらうために歌ったり(このため、「やってくるテノール達」と呼ばれた)、ソ連軍側のビラを配布したり、あるいは自分達の武器まで売ったりしていた。都市住民は、自分達もほとんど食糧を持っていなかったのに、イタリア軍兵士達に食糧を分け与えたのだ。」という。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P248,9

 【イタリア兵の】回想録は、驚くべきことではないが、イタリア兵と原住民との間の友好的な関係の話で溢れている。しかし、学者がこうした文書を額面通りに受け取ることには注意が必要である。手記だけでなく、ソ連軍が捕獲した手紙であったとしても、資料としての有用性には疑問符を付けねばならない。民間人への虐待や、捕虜の射殺は、故郷の愛する人達との話題としては相応しいと言えないであろう。だが、スコトーニはロシア軍側の資料に基づき、アルピーニ軍団がヴォロネジ周辺の占領地で過度な強制による支配を行わなかったことを実証している。イタリア兵達は防御陣地を作るために民間人から物資を奪い、強制労働に従事させたが、【占領地での】日常生活を大過なく送るためには、現地の自治体との協力が不可欠だった。このやり方は、イタリアの占領地で一般的に行われており、代表者の選出、司法権の強化、衛生的・精神的な援助が含まれていた。実際、解放後のヴォロネジ行政区の市民に対するソ連側の聞き取りによると、市民、捕虜、パルチザンに対する略奪と暴力事件約175件のうち、イタリア軍の犯行はわずか5%だった(ドイツ軍が60%、ハンガリー軍が35%)。これにより、イタリア兵は戦争犯罪を犯さなかったわけではないが、同じ地域のドイツ兵やハンガリー兵よりもはるかに少ない頻度であったことが改めて明らかになった。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P249,250


 イタリア軍の補給状況は、ドイツ軍のみならず、もしかしたらより本国に近いハンガリー軍やルーマニア軍よりも悪かったのではないかとも思われるので、そんな中での難しさもあったのではないかと思ったりも。

 東部戦線のイタリア軍が現地民に対して基本的に人道的であったことに関して、手放しで褒めるわけにはいかないものの、しかし頻度においてそういう違いがあったということに関しては、より知られるべきではないかなと思います。

ウクライナ戦争における今のロシアよりも、日中戦争当時の日本の方がはるかにダメダメだった2つの点

 先日、↓というのを書きました。

『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』読了:日中戦争はウクライナ戦争とよく似ている? (2023/05/17)



 その後、『図説 日中戦争』という本を読み返していたら、ウクライナ戦争における今のロシアよりも、日中戦争当時の日本の方がはるかにダメダメだった2つの点が目に付いたので、今度はそこについて書いておこうと思いました。






1.軍部が勝手に戦争していて政府がそれを止められないのみならず、陸軍も全体を統括できず、推進派の将軍が勝手に作戦を行っている。

 今のロシアも、ワグネルの存在だとか、当初全体を統括する司令官が設定されていなかったとかありましたが、当時の日本よりははるかにマシだったろうと思います(T_T)




2.占領地を放棄して態勢を立て直した方が良いにも関わらず、「英霊に対して申し訳ない」という理由で占領地を寸土も放棄できない。

 今のロシアは、キーウの占領が無理だとなった後、そちらから全面撤退しました。あるいはまた、ヒトラーが「一歩も下がるな」と命令して戦争後半により状況を悪化させたことに関して私も「ああ、愚かしい……」と思ってましたが、日中戦争当時の日本軍も同じだったのですね(; ;)ホロホロ


 この件に関して、『図説 日中戦争』にはこのような記述がありました。

 それ行け、やれ行け、一撃すれば蒋介石は手を挙げるに決まっている、勇ましかった参謀本部の作戦課が、こうした“中南支放棄案”を作成するほど、ほんとうは困っていたのだ。【……】
 しかし、撤収案は陸軍省の反対で日ならず立ち消えとなった。一度占領したところを放棄するなどとは、とんでもないというのである。
 【……】阿南(惟幾。陸軍省)次官は顔面朱をそそぎ『君は部下を率いて戦場に立ったことがない。それだからそのような暴論を吐き得る。君には数万、数十万英霊に対する感謝も責任も持ち合わせはない。君の意見は一顧にも値しない』というのであった【……】“撤収するのは英霊に申し訳ない”という反論は、いわば殺し文句で、軍人はこれに弱かった。
『図説 日中戦争』P139

「この【撤収の】提案に対して、岩畔(豪雄。陸軍省)軍事課長から後刻もたらされた回答は『皇軍(天皇の軍隊)将兵の血を流した土地を手離せるか』の一言であって【……】
 あまりにも戦争賛美の思想・言論しか許さなかったから、戦争が拡大しきって収縮させる必要がある段階になっても、支持者がいないことに初めて気づいたのである。完全な世論のミスリードだった。
 陸軍は、すでに戦争のために戦争を戦っているにすぎなかった。“英霊のために”を根拠に戦いをつづけようとしていた。いや、戦わざるをえなかった。

『図説 日中戦争』P146



 実は個人的に、この二人に関してはかなり興味を持ってます。阿南惟幾は、終戦時に自決して陸軍のクーデタを防いだということで最も有名らしいのですが、日中戦争での軍事指揮官としての能力はどちらかと言えば低かったようで、実は今テストプレイされているOCS『長沙』(第一次長沙作戦)の時の軍司令官なのです。

 岩畔豪雄の方は様々な謀略で有名らしいのですが、私が興味を持っているのはビルマ戦線の第28軍(アラカン方面)の参謀長であったという側面です。OCS『South Burma』(仮)で、一番最後の1945年の撤退戦がシナリオ化可能なら、第28軍も出てくると思います……(OCS『Arakan』(仮)はどうも製作がかなり難しそうだという理由で放棄されましたので(>_<) →第1次、第2次アキャブの戦いは、OCSには向かない? (2022/06/27)




 それはともかくとして、この「はるかにダメダメだった2点」に関して思うのは、これは日本社会の特性から来る欠点なのじゃないかということです。


 日本社会は、ある程度狭い範囲の「空気」や対人関係(和を以て貴しとなす)が極めて重要で、同調圧力によって(本来あるべき指揮系統とは離れて)物事が推進されていきやすい。この「ある程度狭い範囲」が、戦前戦中であれば陸軍なり、海軍なりであって、縦割りで陸軍が勝手にやりたいようにやる。しかも陸軍の中でも細かく分かれて勝手にやったりする。

 「英霊に対して申し訳ない」というのも、空気こそが超重要で、空気の前には合理的判断などそれこそ「一顧の価値もない」ということでしょう。



 このような日本社会の各組織は、欧米でのような「機能のための組織」(ゲゼルシャフト)ではなく「人間関係のための組織」(ゲマインシャフト)という側面が非常に強く、うまくいっている間はものすごくうまくいくのだけど、うまくいかなくなってきてもどうにもそれまでのやり方を変えることができない……。

 欧米はなぜそういう社会でないのかというと、唯一絶対の神との契約だとか、そういう考え方に基づいているらしく、日本社会がそういう風になるのは将来においても難しいだろうと思うので、まあちょっとどうしようもないんじゃないでしょうか……。


核廃絶がほぼ不可能だと私が考える理由

 試しに「核廃絶」という言葉で検索をかけようとしたら、一番上に「核廃絶 不可能」という検索ワードの組み合わせが出てきました。それで、悩んでいたんですがブログ記事として書いてみる意味はありそうだと考えました。


 私は、核廃絶はほぼ不可能だと考えています。その理由は、

1.核廃絶した後で、実は核を隠し持っていた国がいたら、核の脅しに対抗できない。
2.核廃絶した後で、核兵器を作った国がいたら、核の脅しに対抗できない。

 ということです。

 核廃絶したいなら、この問題を何とかしないといけない。しかし、これが解決できるシステムを作り、維持するのは極度に困難でしょう。一応可能性としては、例えば日本がガンダムのような?超兵器を開発し、その力によって世界の核保有国に核廃絶や非戦を強要し、そしてその力関係を維持し続ける……というようなものが、ないわけではないですけども。

 やむを得ずの次善の策が、相互確証破壊戦略なわけです。

 一応、「核廃絶 不可能」で出てきたページをほんの少しチェックしてみたんですが、この件に触れられているものは見つけられず、しかしこの件の方が遙かに重要だと私には感じられます(もちろん、私の考えが間違っているのかもしれません)。



 以前、平和主義の教え子に説明してみたら「なるほど……」と納得してもらえた説明方法として、↓のようなものがありました。これは、軍備廃絶ができない理由ですけども。

「10の村があって、ひたすらそれらの間で戦争しまくっていました。あまりにも戦争の惨禍が酷すぎて、その10の村は相談して武器を全部捨てることにしました。それでしばらく平和な時期が来ましたが、ある時、1つの村が、この平和な状態がチャンスじゃないかと、再び武器を作り始め、そしてその武器ですべての村を征服してしまいました……」


 進化生物学およびゲーム理論の重要な概念である、「進化的安定戦略(evolutionarily stable strategy:ESS)」によれば、平和主義者が増えると、好戦主義者の利益が大きくなり、逆に好戦主義者が増えすぎると今度は平和主義者の利益が大きくなり……ということが常に繰り返され、ある一定の均衡に落ち着いたり、バランスが崩れたりします。昔読んだ『利己的な遺伝子』に挙げられていた数字では、確か好戦主義者の方が少し多めで均衡するとあったと思います(式にどんな値を入れるかによって変わるようです。ちなみにこれは、個体単位の話に限るものではなく、ある一個体の中に好戦的な面と平和主義的な面があって……の総体的なバランスでもあります)。


 重要なのは、「まわりに平和主義者が多ければ多くなるほど、好戦主義者が戦争に訴えることの利益は、言わば幾何級数的に増大し、そしてそうすることへの誘惑はとてつもなく大きくなる」ということです。軍備廃絶や核廃絶が100%に近づけば近づくほど、隠れて、あるいは協定を無視して、軍備を持つことや核兵器を持つことの実利と誘惑がどんどんどんどん大きくなっていきます。「善意の人しかいない世界」は無法者にとっても楽園であり、無法者の数はナッシュ均衡に至るまで増大することをやめません。

 また、「被爆の悲惨さを全世界の人が知れば、核廃絶が当然になるはず」という考え方もありますが、サイコパスという、他人に対して共感する気持ちを全く持つことがない人が全人口の数パーセントもおり、しかもサイコパスは魅力的で有能で権力を握りやすいという、言わば「不都合な真実」を無視していると思います。サイコパスの実例としてはスティーブ・ジョブズが有名ですが、ヒトラーやスターリンもサイコパスであったと見られています。サイコパスは競争社会のアメリカでは全人口の4%ほどを占めると見られていますが、日本社会はサイコパスにとってそれほど有利な環境ではなく、1%を切ると見られています。無法や裏切りが当たり前のロシアや中国では、アメリカよりもサイコパスが占める割合は高いのではないでしょうか。



 核兵器をなくすことはできるの?わたしたちにできることというページを見ていると、

核兵器廃絶に有効なのは『人道アプローチ』です。『核兵器を持つことは恥』『核兵器では人の安全は守れない』というイメージを人々の中に作っていくこと。

とありました。

 これは無意味ではないと思いますけども、十分条件には全然なり得ないと思います。無法者、裏切り者、サイコパスにとっては、評判や人道などは何の意味も持ちません。彼らに対して効果を持つのは、彼らを制することができる実力と、そしてその際の自分への被害も厭わない覚悟でしょう。

 今、ロシアが「核の脅し」をしていますけども、核を使用させないためにアメリカはかなり上のレベルでロシアに「核を使用したらひどい目にあうぞ」と何度も伝えているそうです。内容は、私の想像では例えば、「アメリカは報復の核を使用しないが、あらゆる通常兵器でNATO各国と共に全力でロシアを攻撃して全土を支配し、プーチンとその仲間達もどこまでも追い詰めて裁判にかけ処刑する。そして旧ソ連の領域をNATO各国によって支配し続ける体制を確立する。それまでにどれだけ、アメリカやNATO各国が核攻撃されて何千万人の死者が出ようともだ」というようなものではないかと思っています。

 つまり、「自分にどれだけ被害が出ても、お前を決して許さない」ということです。最終的にはこういう、「俺も死ぬがお前も絶対殺す」というような覚悟と、そして実力がなくては、無法者には響かない。


 核廃絶は、無法者、あるいは裏切り者をどうするか、という問題に向き合わなくては、どうしようもない、と私は思います。

『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』読了:日中戦争はウクライナ戦争とよく似ている?

 『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』という、去年出た本を読了しまして、その中で今私が最も興味あるところの、「日中戦争≓ウクライナ戦争」という見方はやはり、ある程度当てはまりそうだという気がしました(もちろん、異なる面も多数あるわけですけども)。





 この本で紹介されている、当時の日本のインテリ層が日中戦争(そしてまた、太平洋戦争も)の意義をどう主張していたかなのですが……。

 中国は、東アジアの国として生き残る道に気づかず、日本を顧みずに、背後のアメリカや背後のソビエトに騙されている【……】
『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』P125

 中国の民族主義はアジア経済の秩序原理とはなれない。そして欧米の帝国主義はその中国の民族主義を利用しているので、二つとも日本の軍事力で打倒する必要がある【……】
『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』P124



 もちろん実際の日中戦争の理由は、それまでに獲得していた満州だけでなく、まずは華北圏を日本のブロック経済圏に編入してしまいたいという実利的なものだったわけですが、さらにそこには対抗者との間の時間的制約もあった。

 そういう流れでみると、アメリカが大きな力を持ちつつある時代に、いち早く中国を自らのブロックに収めてしまいたいというのが、日本が日中戦争に進んでいった最大の動機だったということになりますね。一方アメリカはそれを阻止しようとする。その対立がついに日米戦につながっていく。
『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』P131



 ここらへん、ウクライナ戦争(特別軍事作戦)に関してプーチンが主張していたり、あるいはその背後に隠されているであろう動機と、かなり似通っているのではないかなぁ、と個人的に思うわけです。

 その前に満州事変→満州国建国がある程度以上うまくいっていたという話もあり、それはクリミア併合と「成功体験」という点で似ている気がしますし、プーチンが「ウクライナは一撃で制圧できる」と思ったように、日本の軍部も「中国は一撃で倒せる」と思っていた。


 そしてまた、日中戦争が長期化した理由についても……。

奥泉 日中戦争はもっと早く終わらせるはずだったけれど、うまくいかなかった。一撃で倒せると侮っていた中国は非常に強くて、むしろ日本軍は弱いというイメージさえできてくる。といっても、点と線とはいえ一定の勝利は得て日本軍は進撃する。しかし、この戦争を当事者はどうしようと思っていたのでしょうか。いろいろな立場の人がいろんなふうに考えていたとしか言いようがないんでしょうけど、出口といいますか、ようするにどう決着しようと思っていたんですかね。

加藤 とにかく、中国の対外政策を日本に都合のよいように変えさせる、中国の国家や社会を成り立たせている基本的秩序を変えようとした戦争でしたので、中国側からの絶対的な反発があるのは当然なのです。しかし、日本側にも同情すべき点はあって、中国を相手にして戦争をしていると思っていると、1937年12月1日には、ソ連から中国に飛行機が供与され、また操縦士もやってくる。そして英米からは借款というかたちで、資金援助もなされるようになるのです。以前の中立法では戦争をしている二国に差別的な振る舞いはしてはいけないはずですね。それが、中国の後ろにはソ連、英国、米国がついているという戦いになりました。中核となる軍隊の三割が死傷すれば、戦争は終局に向かうはずです。しかし、蒋介石は日中戦争に各国を巻き込む、いわば、戦争を国際化しましたので、なかなか終わらないのです。

奥泉 日本は軍事作戦を進める一方で、傀儡政権を打ち立てたり、政治的な打開をはかるが、うまくいかない。日中戦争から日米開戦までの過程を見ていくと、日本はいろいろな政治工作をするんだけど、ほとんど効を奏さない。交渉の相手側の反応や思考をうまく捉えられない。錯誤が重なっていった気がします。

加藤 やはり道理のない戦争、満州奪取が元にあるので、相手国の人心を収攬できないのですね。

『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』P142,3



 蒋介石≓ゼレンスキー大統領で、彼らはうまく「二国間だけの戦い」ではなく、外国からの援助を得られるように持っていった……。

 そして日中戦争の場合、蒋介石を支援するためのルート(援蒋ルート)が結構限られていたので、日本はそれらをすべて閉じようとし、その延長線上にビルマ侵攻作戦もある。ウクライナ戦争の場合には、これは全然当てはまりませんけども。




 当時、日本はアメリカ(「背後のアメリカ」も含む)を相手に色々やって、最終的に失敗しました。今、ロシアと中国は「背後のアメリカ」相手に色々やったり、やろうとしてますが、日中戦争と太平洋戦争の時のように、アメリカが最終的にそれらに勝利できるかどうかは、予断を許さないだろうと思います。


『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍の上級指揮官達の評価

 『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』を続けて読んでましたら、次の項目が「GERMAN RATINGS OF ITALIAN OFFICERS」であり、ドイツ軍側からのイタリア軍の上級指揮官達の評価が載っていました。

 私は個人的に、おおむね師団長以上くらいの指揮官の能力やキャラクター像に関して非常に興味がありまして、国籍に関係なくそこらへん好きですが、イタリア軍のそういう情報は希少で、「キター!」となりました(^^)


 とりあえずまず、東部戦線のイタリア軍の編成ですが、当初の「イタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR)」(司令官はメッセ)が1942年5月に拡充されて「イタリア第8軍(「ロシア戦線イタリア軍(ARMIR)」とも)」(司令官はガリボルティ)となり、その麾下に3個軍団を持つようになります。しかし、1942年の12月中旬からの小土星作戦、1943年1月中旬からのオストロゴジスク=ロッソシ作戦で大打撃を受け、1943年3月に残余の兵士達はイタリアへ帰還することになりました。


 細かい部隊を除いて師団クラス以上だけ記すと、↓のような戦闘序列です。

第35軍団(元のCSIR)
 アオスタ侯アメデオ皇太子快速師団
 パスビオ(自動車化可能)歩兵師団
 トリノ(自動車化可能)歩兵師団

第2軍団
 スフォルツェスカ歩兵師団
 ラヴェンナ歩兵師団
 コッセリア歩兵師団

アルピーニ軍団
 トリデンティーナ山岳歩兵師団
 ジュリア山岳歩兵師団
 クネーンゼ山岳歩兵師団
 ヴィチェンツァ守備歩兵師団


 ↓OCS『Case Blue』の上記師団や司令部ユニット。

unit8613.jpg




 まずは、第35軍団の司令官であったメッセと、その後任のツィンガレスについてです。


Giovanni MesseGenerale Francesco Zingales

 ↑左がメッセ、右がツィンガレス(Wikipediaから)


 メッセは、東部戦線のイタリア軍将兵の中で最も有能であったと評されている。彼は、理解が速く、明確な命令を下し、自分が責任を負うことや、任務に適さないと思われる将校を追い出すことを避けない人物として描かれている。それ故、ある報告書はこう結論付けた。 「ドイツ軍の軍服を着ていれば、誰もが彼をドイツ軍の将軍と信じただろう。」 彼がイタリアに呼び戻された【1942年11月1日?】後、ドイツ軍の連絡将校は、彼の強い性格と統率力を部隊の者達が恋しがっていると指摘した(注205:付け加えて言えば、彼の参謀長や他の多くの経験豊富な将校も部隊を去ってしまっていたのである)。メッセの後任のフランチェスコ・ツィンガレスは野心家であったが「軍事能力は平均的」で、あまり親独的ではない人物であると見られていた。実際、1942年3月のイタリア軍の昇格審査会は彼を昇格させることに全会一致で反対票を投じていたのであり、ドイツ側も同様の結論に達したというわけである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P220


 メッセ将軍については以前、↓なども書いてました。

東部戦線におけるイタリア軍のメッセ将軍 (2017/05/22)
イタリア軍のメッセ将軍は、ドイツ軍に激怒して騎士鉄十字章を投げ捨てた?(が、その後も佩用し続けた) (2020/10/09)


 メッセ将軍は東部戦線からイタリアに帰った後、北アフリカ戦線で指揮し、最終的にはロンメルの後任(軍司令官)となりました。OCS『Tunisia II』で言うと、マレトラインの戦い以後の、リビア方面からの部隊を率いていたことになります。

 またツィンガレスの方は、最初に東部戦線に向かうイタリア軍の司令官となるはずだったところが病気になってその職をメッセに譲り、一時北アフリカで第20軍団を指揮して「イタリアのグデーリアン」と呼ばれたらしい(『砂漠のキツネ』P132)ですが、その後東部戦線でのメッセの後任となり、イタリアに帰って今度はシチリア島の戦いでイタリア第12軍団の司令官として戦ったそうです。今までゲームをプレイしていた時に、割と軍団長としてゲーム上にいたことになりますね……(^_^;





 次に、イタリア第8軍の司令官であったガリボルディと、その参謀長ブルーノ・マラグーティについてです。ガリボルディは北アフリカ戦線で初期にイタリア軍側の司令官を務めており、その頃のことを↓で書いてました。

イタリア軍のガリボルディ将軍とメッセ将軍とテレーラ将軍 (2017/05/27)
イタリア軍のガリボルディ将軍の解任の理由、その2 (2017/07/08)

ItaloGariboldiGen. Bruno Malaguti

 ↑左がガリボルディ、右がブルーノ・マラグーティ(Wikipediaから)

 ガリボルディは北アフリカ戦線で非常に非協力的なパートナーであったという評判を得ており、それはロシアでも追認されたが、以前の経験がドイツ軍の見方に影響を与えた可能性もある。1942年12月20日にカヴァッレーロは、イタリア軍内でさえも【小土星作戦による?】敗北をガリボルディのせいにする傾向があると指摘している。イタリア軍の撤退後、マラス将軍は1943年3月に戦線との間を訪問した。ドイツ軍のフォン・マッセンバッハ大尉が彼に同行しており、後にイタリア軍上級将校の印象を書き留めた。彼はガリボルディを「年老いた、白髪【原文はwhite-hearedだが、hairedだと理解して】の紳士で、非常に寡黙で、活気が全くなかった。完全に無気力で、諦めたような印象だった」と評している。しかし、彼の参謀長であるブルーノ・マラグーティは、非常に肯定的に広く評価されており、それは撤退後でさえも同じだった。マッセンバッハは彼を、誠実かつ非常に有能(重要な命令はすべて自分で起草する)であり、常に情報を集め意見を聞く、軍の人的管理の中心であったと評した。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P220,1







 次に第2軍団関係の指揮官ですが、Wikipedia上の項目は軍団長のジョヴァンニ・ザンギエリと最後に出てくるミケーレ・ヴァッカロのみのようで、Wikipedia上では写真は全然見つかりませんでした。

 第2軍団の司令官や幕僚は、あまり好意的な評価を受けなかった。軍団長のジョヴァンニ・ザンギエリは、悲観的な王政主義者で、無能な軍人だと思われていた。フォン・ティッペルスキルヒ【ドイツ軍側の連絡将校】は、彼を「まったく役に立たない、価値のない人物」とまで評した。ガリボルディも、ザンギエリの命令は分かりにく過ぎると考え、実際に実行されたかどうかを確認しなかったと言われている。ザンギエリはドイツ国防軍に対して協力する意志がなく、それは彼の参謀長であったウーゴ・アルミーチ大佐も同様であった。アルミーチはドイツ国防軍に対して「非常にイライラして」おり、ほとんど「敵対的」な態度をとっていると描かれている。第2軍団麾下の師団長達はより良い評価を受けていた。ラヴェンナ歩兵師団では、師団長のエドアルド・ネビアは非常に敏腕であると報告されており、彼の参謀長(後には師団長となった)であるフランチェスコ・デュポンは、このように評された。「活発、有能、意欲的な性格。優秀で思慮深い、まとめ役となる指揮官であり、ロシアでの他のイタリア軍師団長に比しても優秀であり、また彼はドイツ軍に特に積極的に協力する姿勢を示した」。非常に批判的なティッペルスキルヒでさえも、イタリア軍の撤退後(!)に他のドイツ軍将校達との話の中で、デュポンを「東部戦線で最高のイタリア軍師団長」と呼び、彼が兵士達の面倒をよく見たことを強調した。【……】

 スフォルツェスカ歩兵師団の師団長であったカルロ・ペッレグリーニ将軍は、軍人および植民地での将校として経験豊富であり、広く尊敬され、部下達にとって必要な存在であると賞賛された。彼の参謀長であるジョバンニ・フィオーレは、ファシスト四天王の一人であるチェーザレ・マリア・デ・ヴェッキの義理の息子であったが、あまり良い印象を持たれていなかった。ドイツ軍は、(砲兵出身であった)彼の歩兵部隊の扱いにある種の欠陥があることに気づいていたが、危機的状況において彼が堅固であったことを指摘している。【スフォルツェスカ歩兵師団の暫定指揮を執った】ミケーレ・ヴァッカロ将軍は、怠惰で肥満していたが、それでも勇敢な軍人であり巧みな戦術家であると見られていた。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P221~3






 最後に、アルピーニ軍団関係の指揮官です。最後のマリオ・カルローニは快速師団隷下の連隊長だと思いますが、アルピーニ軍団と共に撤退戦を行ったのでここに書かれているのでしょうか。

Nasci GabrieleReverberi don gnocchi

 ↑左がアルピーニ軍団長のナッシ、右がレヴェルベリ(Wikipeidaから)


unit8611.jpgMario Carloni

 ↑左がバッティスティ、右がカルローニ(Wikipediaから)


 アルピーニ軍団の指揮官達は、評価の平均値がさらに高かった。【アルピーニ軍団長の】ナッシ将軍は、極めて有能で、兵士達とも身近に接し、1月の作戦【1943年1月13日からのソ連軍のオストロゴジスク=ロッソシ作戦】時の戦いは見事であったと評価された。レヴェルベリ将軍(トリデンティーナ歩兵師団長)は優秀な軍人として賞賛され、クネーンゼ歩兵師団長であるエミーリオ・バッティスティ(1889-1971)は模範的な指揮官であると評価された。彼は退却に際して騎乗して軍の先頭に立ち、その落ち着いた統率によって兵士達に自信を広めたのである。これは、兵士達がその将校達を全面的に信頼していたという主張を裏付けるものであろう。ナッシ、レヴェルベリ、バッティスティは、飛行機で脱出するのを拒んで兵士達と共に前線にとどまり、争奪戦の舞台となった村での反撃の指揮を自ら執った。マリオ・カルローニ大佐(当時)は、勇敢で優れた指揮官であると繰り返し言及されており、ドイツ軍に非常に協力的で、絶望的な状況においてさえ練達した指揮振りを見せた。カルローニが指揮するベルサリエリ第6連隊(快速師団隷下)は12月中旬から後衛を形成し、その後多くのアルピーニ部隊と共に戦った。撤退は混乱し、多大な損失を受けていたにもかかわらず、カルローニの部下達はドイツ軍部隊と共にまとまった部隊として戦い続け、秩序を維持したままゴーメリ(Gomel)まで辿り着いたのである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P223,4


 ナッシ将軍については、同書の少し前でも言及されていましたので、それも。

 1月の【ソ連軍の】攻勢前、アルピーニの防御施設は良好か非常に良好とみなされ、ナッシ中将は、 前線視察、戦術的なスキル、ドイツ軍との密接な協力で高く評価されていた。ドイツ軍の事後報告書には、1日12~15時間の行軍、300キロメートルにも及ぶだだっ広い地域、ほとんど食料も避難所もない退却中の苦しみが生き生きと描かれている。ナッシは、部下達を安全な地域に下げようとする行動と、ニコライエフカの戦いでのリーダーシップが評価された。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P216



 ナッシやレヴェルベリについては、以前↓で書いてました。

OCS『Case Blue』で見る、イタリア軍アルピーニ軍団トリデンティーナ師団の包囲環突破 (2019/08/30)
『雪の中の軍曹』で見るイタリア軍アルピーニ軍団の将軍3人+ドイツ軍の横取り行為について(付:OCS『Case Blue』) (2019/09/18)





 色々、優秀な指揮官がいたことが分かりますが、この本もまた、世界中で有名であるらしい「ヘタリア神話」に対抗して書かれた一冊であることもあり、最後にこのように書かれていました(なお、私は別に、『Axis Power ヘタリア』という作品等が悪いとは思ってません)。

 要するに、ドイツ軍の事後報告書やその他の多方面の評価書は、ガリボルディと第2軍団司令部を否定的に捉えているだけであり、上級指揮官達に関する他のほとんどの評価は肯定的であった。それにもかかわらず、イタリア軍の将軍達は堕落して、想像力に欠け、現実(および前線)から遊離していたという風刺的な見方が、いまだに神話的に語り継がれている。多くの場合、イタリア軍が軍事的に役に立たないピエロであったという「面白い」描写が、出典をきちんと検討することもなく、容易に額面通りに受け取られているのである。したがって、イタリア軍が軍事的に無能であったという主張は、それがドイツ軍側によるものであれ、イタリア人の回顧録によるものであれ、あるいは真面目な学者によるものであれ、再考されるべきである。【……】
 連絡将校達の事後報告書にあるように、イタリア軍の大隊長、連隊長、師団長達に対するドイツ軍側の見方は非常に好意的であった。一方で、イタリア軍の下士官や下級将校達はあまり好意的に評価されていなかった。実際、経験豊富なドイツ軍将校は【イタリア軍の】退却時の混乱した行動を1940年のフランス軍になぞらえており、退却時に規律を破る下士官や下級将校の多さをしきりに訴えていた。では、戦訓を学ばず、兵士達を失望させていたのは、これらの者達ではなかったのか。【……】
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P224,5


 この本によると、イタリア軍の師団長クラスは優れた人物が多く、(私の印象では)軍団長は半々くらいで、しかし下士官クラスの質が悪かった……ということであるようです。なぜそうだったのか、ということに興味が湧くところですが、そのことに関する説明はまだ見つけていません。

『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』読了しました:印象深かった記述

 『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』を読了しました。1942年のビルマ侵攻作戦のみを扱った、読みやすい戦記ものとして非常に良くて興味深かったです。個人的にお勧めします。



 購入を検討される方は、Amazonのはバカ高い(4万円台)ので、↓からどうぞ。

日本の古本屋



 著者は第33師団(桜井省三師団長)の第215連隊の連隊本部付の下士官で、本部業務も色々やるのですが、徒歩行軍も戦闘行動もやったりしていてそこらへんの苦労も書かれていますし、色々楽しかったことがあるのも書かれています(食べ物とか、イギリス人邸宅を接収して美術品を見たりとか、故郷の踊りとか)。勝っている時期なのでということもあるとも思いますけども、ビルマ侵攻作戦は現地の人達を味方にするのにかなり成功した戦いであったのだということもありそうです。


 以前、↓でこの本での気付きについていくらか書きましたけども、読了後ということでまた書こうと思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』のパアン戦の記述より (2023/03/06)




 まずは、(捕虜にした)イギリス本土兵が刺青をしまくっていたというような件について。

 また、私の顔を見て、にやりと笑って行く白人兵もいた。見ると、白人兵は誰もが破けたシャツの間から、刺青を覗かせている。若い女の顔、赤いハートなど様々だが、日傘をさした日本の舞妓を腕に刺している者がいた。私を見て
「シガレット、シガレット」
 と、煙草を要求する。
「貴様たちはニュージーランド兵か?」
「ノー、英国本土だ」
 と誇らしそうに答える。赤茶けてよごれた、うす汚い頭髪と碧い眼が、憎々しい。捕虜の行列は、一進一退灼熱の丘を下りて行く。倒れたまま動かない英兵の肌に、たちまち蠅が黒く群がる。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P194


 印象として「偉そうだなぁ」という気がしますけども、「支配(側の)民族」であるからとか「白人優越主義」からとか……? あるいは、イギリスは貴族階級と庶民階級は全然違うらしく、貴族階級が刺青しているかなぁという気もするので、庶民階級の中で兵士になるようなやんちゃ?な人達だったとか、あるいは統治対策用の部隊とかでなく第7機甲旅団の中の兵士だったとかで士気が高いとか……?

 尤も、「偉そう」で言うと、著者の言動も基本的に偉そうだとは思いました。「東亜の新秩序」の理想に燃えて、それに邁進している日本軍下士官としては、当時それがまったく普通のことであったのだろうなぁ、とは思います。


 ビルマにおける支配層であったイギリス人(家族?)が現地に構えていた邸宅が、取るものも取りあえず逃げ出して贅沢なものがごっそり残っている状態で日本軍側に接収されるという話も複数出てきます。「世界の支配層である白人、なかんづくイギリス人」対「東亜の新秩序ということを信じて戦う日本兵」「支配者が変わっていくだけに過ぎないとしても、それを喜ぶ現地民」という構図が強烈にあったのだろうな、という気がします。


 イギリス兵用の設備と、インド兵用の設備について懸隔の差があったという件も書かれていました。

 駅に廻ると、救急列車が放置されて、おびただしい量の衛生材料が散乱していた。
 車内に入ってみると、英兵用とインド兵用との設備に、はなはだしい差別があり、むらむらと憎しみが湧く。病院らしい建物には、負傷者やコレラに罹ったインド兵、中国兵が無残な姿で置き去られて、既に屍となっていた。悪臭が鼻を突く。大きな蠅が群れて集まり、ぞっとするほどの鬼気を感じる。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P225








 あと、英連邦軍が退却していく時に現地の村を略奪していった例が2、3出てくるのですが、中国軍が退却する時にはその程度が比べものにならなかったらしく……。

 中国軍の退却した道路沿いの部落を通過するとき、実に憤慨に耐えないものがある。略奪し尽くすと必ず、その部落を焼き払っていくのだ。その上井戸水には、汚物が投げ込まれている。罪もない住民に対して、このような非道を行う彼らは全く鬼畜に等しい。焦土戦術と、彼らは誇っているのかも知れないが。
 そして、コレラ、ペストなどに罹った者や落伍した者は、持ち物を全部奪われて路傍に捨てられていた。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P229,230


 尤も極力客観的に考えれば、勝っている側としてはこれらはもちろん許せないことですけども、ボロボロに負けて退却する側としてはやむを得ない&合理的ではあるだろうとは思います……。後に日本軍がビルマから撤退する際にはどうだったのか、気になります(拉孟・騰越戦の前の頃の日本軍の非人道的行為についてはいくらか見つけてましたけども、ビルマからの退却期にそういうことがあったというのは私はまだ見つけてない気がします)。

 一方で、このビルマ進攻戦の終盤に捕虜にした中国軍の青年下士官が、著者が中国で戦っていた中国軍師団に所属していたことが分かり、懐かしさを覚えて筆談などをしている中で、「なぜ日本軍が戦争をするのか」という大義の問題であるとか、その青年が「人生最大の目的如何」とか「現在、世界の大勢および将来の予想如何に」などの質問をしてきてたじたじするとか、結局その青年を著者が帯同させることにして、色々機敏に働いたり、その青年が病気にかかった時に他の日本兵が見捨てろというのに著者がかくまって数日して回復してものすごく感謝されたとかって話があり(P238~)、そこらへん面白いなぁと感じました。


ブリュッヒャーがスウェーデン軍からプロイセン軍に移った経緯 & 欧米では専門性で組織間を横に移動する?

 ツイッター経由で、Haruichiさんの↓のブログ記事を読みまして……。


Haruichiban0707のウォーゲームのおと 『コマンドマガジン』169号(2023/01/20)を読んでみた



 その中で、このような書き込みがありました。

p.28 復讐を誓う老虎 アウエルシュタットのブリャッヒャー 大木毅

ブリャッヒャーのアウエルシュタットの戦いまでの半生。1742年ポンメルンの貴族の家に生まれ、1758年スウェーデン軍シュパルレ軽騎兵連隊に入隊。1760年捕虜となるが親戚が敵軍の連隊長だったためプロイセン軍に引き取られる。7年戦争後プロイセンのフリードリヒ大王の逆鱗に触れ軍を退いた。1787年大王死後、軍に戻る。1795年バーゼル和約が結ばれると軍を退いた。

フランス革命が起こると軍に戻り、イエナ=アウエルシュタットの戦いでは苦戦するが一番難しい退却戦で主力の後退を助け、リューベックで降伏し捕虜となる。

その後、ライプツィッヒ会戦やワーテルローの戦いで活躍する。

なんと浮き沈みの激しい人生だろう。スウェーデン軍に入隊し、プロイセン軍に移る、という点は、現代の国民軍の感覚からは、当時のヨーロッパの感覚がよくわからない。。


 「確かに」と思いました。それで、以前ブリュッヒャーの伝記である『The Hussar General』を訳したことがあったので、それをパラパラ見返してみて、↓のようにコメント付けてました。




 自分で書いた「「専門性」が大事で横の繋がりで移動する」という言葉なんですが、その後自分の中でじわじわと「そうか……! だから欧米人は自分のスキルを自分で上げて、どんどん会社を変わっていくということをするのか……!」と(ようやく)分かった気がしましてそして再度『The Hussar General』をじっくりひもといてみたら、話はそんなに単純ではありませんでしたバキッ!!☆/(x_x)




 ↑この本の信頼性については難があるということで、詳しくは↓こちら。

ブリュッヒャー本の評価 (2014/08/09)



 以下、『The Hussar General』をうまく訳しきれない面もあって確実な確認なしでだいたいで書いていきます。

 ブリュッヒャーは10人兄弟の末っ子?で、兄が8人、姉が1人だったようで、育った環境は当時スウェーデン領であった島に近いドイツ語圏だったもののようです。上の兄達の多くが軍隊に入っていて、彼らがプロイセン軍、ロシア軍、デンマーク軍などに入っていたのでしょうか。

 ブリュッヒャーの父は「もう息子を軍隊に入れるのはやめておこう」と考えたものか、ブリュッヒャーのすぐ上の兄とともに、彼らの姉が嫁いでいたスウェーデン領の島の義兄のところに送り、農場経営か何かを学ばせようとしたようです。ところが、身の回りで戦争が行われている中でこの2人も軍隊に惹かれ、反対されたものの、ブリュッヒャーはこう言ったと書かれています。

「自分は遅かれ早かれ軍隊に入るだろうし、そして早く軍隊に入った方が失う時間が少ないだろう」

 その後の地の文で、大略こう書かれていました。

 彼ら(ブリュッヒャーの兄弟達? あるいはこの時代のこの地域の人達?)は忠誠心の変わりやすさという事で特徴的である。どの軍に所属したかや、あるいはどういう理由で軍隊に入ったかにかかわらず、すべての者が専門性に憧れていた。ところが逆に、ナポレオン時代の激動が始まろうとしており、人々が激烈な愛国心を通して動機付けられる様になる時であったのだ。


 とすると、「専門性を持って、別の組織に移動する」というのは恐らく、この時代や今でも欧米では(日本よりもはるかに)あるんでしょうけども、フランス革命からナポレオン時代にかけて「国民国家」や「国民皆兵」というものが強烈な強さを発揮するようになり、むしろ軍隊というものにおいては国を移るということはそれ以後、それまでよりも少なくなっていく時期だったということかなぁ? と……。



 ブリュッヒャーがプロイセン軍の捕虜になって、プロイセン軍側に移った経緯ですが、『The Hussar General』では、ブリュッヒャーを捕虜にした連隊の連隊長(von Belling)が常に新しい兵士を探しており、そしてブリュッヒャーが兵士として非常に優れた人材であると思ったので説得したのだけどもブリュッヒャーは躊躇し、スウェーデン王への忠誠宣誓に縛られていると言ったものの、von Bellingは(ブリュッヒャーが捕虜であることに言及せずに)フリードリヒ大王にブリュッヒャーを準大尉として任命してもらえるように依頼書を送り、フリードリヒ大王から承認が来たのをブリュッヒャーに見せ、それでブリュッヒャーは最終的にいやいやながら従った……と書かれていました。

 しかしながらこのvon Bellingという人物は有能な人物で、ブリュッヒャーはこの人物から大いに薫陶を受け、それゆえに大成したという面が大きかったそうです。




 それはそれとして、「「専門性」が大事で横の繋がりで移動する」という話なんですが、良く考えてみると「横の繋がりで」というのはそうでもないかなと思ったので、「(日本以外の欧米とかでは)専門性が大事で、スキルアップしていって、その身に付けたスキルでもって最も自分の意向に合う(高給とか、やりたい仕事だとか)方向にどんどん組織を移動する」ということかな、と思いました。

 ところが日本社会は(私が好きな作家さんの一人である橘玲氏によると)「専門性」を持つ人物(を育成すること)が非常に嫌いなのだそうです。考えてみると、集団内での同調圧力で事を運ぶ日本組織は、外部から専門性を持つ人物がやってきて、その人物がまた別の組織に行ってしまうだろうに、その専門性で色々とくちばしを入れられるのは、イヤでイヤでたまらないことだろうなぁ……と想像が付きました(T_T)

 もちろん、日本の同調圧力ばりばりの組織にも長所はあり、それは目標が明らかで同調圧力がうまく機能している時には集団の力がものすごいパワーを発揮する、ということなわけです。しかし逆に、その組織のやり方がうまくいかなくなってきても、以前のやり方を変えることがなかなかできない……。

 ビルマでも、日本軍の迂回包囲戦術が、英連邦軍の円筒陣地戦術(円形になって包囲に耐えつつ空中補給を受け、内部と外部から包囲側を崩壊させる)によって破られてしまったことが第2次アキャブの戦いで明らかになった後も、インパール作戦で依然として迂回包囲戦術でうまくいくと思われていた……(尤も、うまくいくと思っていたのは牟田口中将だけだったとか、あるいはまた第2次アキャブの戦いとインパール作戦との間の時間が短すぎて、戦訓を受けて方向転換するのは無理すぎたとかというのはあるとは思います)。


どうしても縦割りになる日本は開戦せざるを得なかったし、どうしても独裁になるロシアは開戦せざるを得なかった

 最近、『世界史としての「大東亜戦争」』という新書と、『中央公論』誌(特集は「独裁が崩れるとき」)を読みました。





 それでいくらか、「なるほど……!」と思う文章があったのですが、そこらへん自分の中で簡潔にまとめようとして「どうしても縦割りになる日本は開戦せざるを得なかったし、どうしても独裁になるロシアは開戦せざるを得なかった」という表現を思いつきました。


 なぜ日本は対米開戦したのか。それは、縦割り組織が並列して足を引っ張りあう中で、対米開戦を避けるならば自ら(の組織)が、例えば「中国からの撤兵」「帝国主義的経済を諦めて国内だけで生きていく」というような(当時としては)最悪で、どうにもならないと思われる決断の旗振りをしなければならなくなるのに耐えられなかったからだと。それに比べれば、各組織にとって「対米開戦」はまだ、よりましな方向性だったのだ(『世界史としての「大東亜戦争」』P71)。

 なるほど……それは今の日本社会でも、同じ様な状況になったらまた同じようになるのでは……トホホ(T_T) 今度は逆に、もはや参戦を決断すべきなのに縦割り組織の中で参戦が決断できず、より悪い状況になるとかでしょうか。


 「縦割りの日本社会」ということに関して書かれた『タテ社会の人間関係』をパラパラと読み返してみたのですが、今の日本社会はまだ依然として縦割りのままだと思いました(いくらか変化の兆しはあるとはいえ)。属している「集団」がとにかく大事で価値があるのであって、集団は「機能」のための組織に過ぎないという感覚ではない。欧米とかでは、組織は機能のためにあるのであって、その機能をよく果たすために上部組織が作られて調整するのは当たり前だし、有能な将軍を一時的に抜擢して終わったら元の階級に戻すこともできる。でも日本社会ではそんなことはできない。





 別に当時の陸軍と海軍だけが縦割りで足を引っ張っていたわけでなく、日本社会はずっと同じ様であったし、今でも同じ様であるのだろうと思いました。




 一方でロシアは(あるいは中国とかも)、多民族からなる帝国を皇帝のカリスマ性で支配するという構造で、この論理で統治する以上、皇帝が率いる帝国は大国でなければならず、戦争にも常に勝たなければならない(中央公論2023年3月号P75)。

 『タテ社会の人間関係』に書かれていましたけども、こういう社会構造性というのは、他の面がどんどん変わっていってもなかなか変わらないそうで、日本社会もそれほどむちゃくちゃ変わったわけではないし、ロシアや中国もその傾向性がむちゃくちゃ残っていると見ることができるのでしょう。




 日本が縦割りの中で非戦の決断ができず戦争に突入してしまった件ですが、これは日本ではどれくらいメジャーな見方なんでしょうか? 一応、NHKスペシャルを本にしたやつ(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』)でもそんな感じで書かれていた記憶はあるのですが……(あるいは、こういう見方は異端であるとか?)。

 洋書をDeepL翻訳で読んでいると、昔の本だけでなく、ごく最近出版された本でも、「東條英機や昭和天皇が侵略戦争をしたくて、それで日本は戦争を始めたのだ」という風に解説しているのを見ます。思うに、日本人でも「縦割りの中で非戦の決断ができず戦争に突入してしまった」という理屈はかなり分かりにくいですし、欧米人とかでそんな理屈はまったく理解の外なのではなかろうかと思ったりも……。


ビルマ攻略戦の第15軍司令官として、略奪行為などを禁じた飯田祥二郎中将について

 以前、↓というのを書いたのですが……。


日本軍は中国戦線での失敗に学んでビルマでは略奪を禁止した? (2023/01/13)


 後になって、文からして略奪を禁じたのは第15軍司令官であった飯田祥二郎中将(最終階級も中将)だったのだろうなと思い至りました(^_^;

 中隊長から【ビルマに侵攻する予定の】15軍の厳しい命令の詳しい説明があったのは、タイ・ビルマ国境を通過したときだった。このとき、特に注意されたのは、中国での地域住民との愚行と失敗を繰り返さないよう、ビルマでは慎重に自重して行動せよということだった。そのため、日本兵が単独でビルマ人の家に入ることは禁止、住民からの食料と資材の購入は曹長以上の指揮のもとに行われ、略奪・収奪は厳禁だった。
『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』P21





 飯田中将については、これまで読んでいた本では大した情報を得られていなかったのですが、『隠れた名将飯田祥二郎』という本があるのを認識し、検索していたら大阪市立図書館にあるのが分かったので借りてきてみました(古本が高すぎたので。他に『ビルマ 遠い戦場』(中)(下)の古本も高すぎ、図書館にあったので一緒に借りました)。







 この本は飯田中将を褒める立場から書かれている(そうでない記述も少しはありましたけども)ことが明らかなので、そこらへんは少し割り引いて考える必要があるかもしれませんけども、これを機会に飯田中将についてとりあえずまとめてみようと思います。



Iida Shojiro

 ↑飯田祥二郎中将(Wikipedia「飯田祥二郎」から)




 まずは、以前収集できていた他の資料からの記述。

 日本軍の侵攻部隊の中心である飯田第15軍の第55師団は、1942年1月20日早朝にミャワディとパウクでビルマへの国境を越えた。飯田は歩兵畑で、地味ではあるが安定した評価を受けていた。彼は第4近衛連隊と第2近衛師団【実際には第2ではない近衛師団】の指揮官を経て、台湾やインドシナでの軍務経験があった。辻【政信】は彼を「真面目な人物で、(1941年7月からの)マレー作戦の【準備の】最初の2ヶ月間の計画の責任者だったが、山下と交代させられ、代わりに第15軍でのビルマ攻略というより地味な任務を与えられた」と評している。陸軍省は、山下の優秀さはマレーとシンガポールでより必要とされ、飯田の劇的でない資質はラングーン攻略の任務には十分であると考えたのだ【注23:出典は辻政信の『シンガポール攻略』の英訳版】。しかし実際には、飯田のビルマへの素晴らしい歩兵電撃戦と敵である英軍の急速な敗走は、後から考えると彼の才能が実際に与えられたよりもはるかに高く評価されるべきであることを保証するものであった。
『The Generals: From Defeat to Victory, Leadership in Asia 1941-45』P112,3








 辻政信による評は、『隠れた名将飯田祥二郎』では褒めていることになっています(^_^;

 飯田の人物と力量に対しては、上司上官などに対して遠慮会釈のない批判を浴びせている名物参謀辻政信も、かれ飯田が謹厳実直で職務に忠実な将官であったと高い評価を与えている。また飯田の下でビルマ進攻時の参謀をつとめ、のちに大本営参謀に転じた竹下正彦も、飯田に対して、冷静・合理的で名を求めず勇気をもって是と信ずることを主張した知将であったという印象を述べている。
 竹下はまた飯田の後姿の中に、日露戦争当時の名将・乃木希典の姿に共通するものを見ている。これは決して偶然のことではない。というのは飯田の父飯田俊助は乃木の率いる第3軍麾下の師団長として日露戦争の奉天会戦を戦った経歴をもち、同郷人ということもあって、乃木と個人的に親しかったことが知られているからである。
 飯田とコンビを組んで一時期15軍参謀長を務めた片倉衷は、切れ者で政治家肌の軍人として知られているが、飯田に対して軍司令官としてはやや重厚さと威厳に欠けていると評している。しかしこの批評は、片倉がみずから恃むところはなはだ強い大変な自信家であったことを考慮せねばならない。また比較した相手が名将として広く知られている山下、今村両将軍なので、これもまた相手が悪かったと考えるほかない。
『隠れた名将飯田祥二郎』P11~13



 片倉衷による評に関しては、原文らしきものがこの本の後ろの方にありました。

 片倉は飯田と対面したときの印象として、「幕僚型の将軍で人物がよく智謀多いが、将に将たる大雅量の風格なく寺内【寿一大将】板垣【征四郎大将】山下【奉文大将】の諸将に及ばず。しかし同期【陸士20期】の吉本【貞一大将】木村【兵太郎大将】と比較すれば同期中の俊才」と冷静な判断を書き遺している。
『隠れた名将飯田祥二郎』P179



 ↑この片倉衷による文が、2022年に出版された『牟田口廉也とインパール作戦』(牟田口廉也をかばう(褒める?)という趣旨で書かれたと思われます)では、飯田将軍をけなす意味合いで引用されています。



 飯田軍司令官と牟田口師団長は熊幼の先輩と後輩の仲だったが、歳は同じだった。熊幼、陸軍士官学校では飯田が二期先輩に当たる。飯田は山口県出身で、父は飯田俊助陸軍中将男爵である。騎兵隊に入り、戊辰戦争で戦い、日露戦争では奉天会戦において第一師団長として指揮を執り、勇名を馳せた。そんな父を持ちながら、飯田は将たる器ではなく、「幕僚型の将軍」などと言われていた(片倉衷『インパール作戦秘史-陸軍崩壊の内側』経済往来社)。
 牟田口はそんな飯田とは反りが合わなかった。特に第18師団を率いてビルマへ転進、マンダレーへ進撃した際には、飯田が第18師団に替えて第56師団を先に前進させ、しばしば軍司令部の位置が相前後する事態も起きた。このため、牟田口は軍司令官の督戦、すなわち攻撃進展が遅いと非難されたと感じた(読売新聞社編『昭和史の天皇9』読売新聞社)。これはもともとあった感情的な疎隔をさらに招くことになり、牟田口は飯田のことを信用できなくなっていた。この二人の仲がうまく行っていないことは当時、南方軍でも有名な話だった(片倉『インパール作戦秘史』)。
『牟田口廉也とインパール作戦』P138,9


 まあ↑の文だけ読むと、飯田将軍が悪者で牟田口将軍は被害者であるかのように思われますが、この件に関して、『隠れた名将飯田祥二郎』ではこのように書かれていました。

 【仏印進駐の時期の飯田の日誌に】のちのビルマ進軍以降に密接な関係となる牟田口廉也の名前もしばしば現われるが、両者の信頼関係はこの時期から今ひとつだったようである。
『隠れた名将飯田祥二郎』P118

 新来の18師団はその後ラシオからシャン高原方向に進攻の矛先を向け、一時ケンタンへ進出しようとした。 師団長牟田口廉也は、従来から積極論者として知られていたが、飯田は日録において、この師団の動きを「やや積極的に過ぎる」 と書き記して懸念をあらわにしている。飯田のもった懸念は、当時同盟関係にあったタイ軍がケンタンからマンダレー方向への進出を図りつつあったので、これとの干渉がおきることを心配したためもあろう。また進攻作戦の途中で、軍とこの師団との間で行き違いがあったことが記録されている。
 日華事変中からマレー半島進撃、さらにビルマに転職してからの牟田口の豪勇ぶりとそ の勝ち方には定評のあるものであった。かれがこれらの経験からいささか神憑り的な「必勝の信念」をもつに到ったのも故なしとしない。
『隠れた名将飯田祥二郎』P167,8

 ビルマの中心部にあり、しかも王宮があるなど歴史が古く重要な都市であるマンダレーには、5月1日に18師団とともに55師団の一部が進攻し占拠した。飯田が同日夕刻に同市に入ったとき、ちょうど現地の水祭りの日に当たり市民たちの歓迎を受けたことが記録に残されている。このときも飯田は師団長牟田口と会見してその労苦をねぎらった。ただし牟田口は軍司令官自身が督戦のため来たのではないかと思ったという。
『隠れた名将飯田祥二郎』P171


 もちろん、どちらかの本の方が正しくて、片方は間違っているというものでもないものだと思います。


 また、飯田将軍がビルマのバー・モウアウンサンから評価されていたことも書かれています(飯田将軍はアウンサンの結婚式の仲人をしたそうです。その娘がアウンサンスーチー氏となります)。

 飯田のいま一つの大きな貢献は軍政面において見られる。かれはビルマ民族自身による独立を早期に達成すべきであると考えていた。これは一つにはかれが中国戦線において現地住民の「敵性」に悩まされた経験によるものであった。また一部日本人の利権漁りの行為にも批判的であった。それだけに、ビルマの軍政においても現地人指導者を活躍させることに意を用いた。このようなかれの軍政に対する姿勢は、戦後もビルマ側の指導者であるバー・モウ、アウンサンらによってもある程度評価されている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P18


 バー・モウによる評については、その文が引用されていました。

 バー・モウのこの著書【回想録『ビルマの夜明け』】の中には、飯田についてつぎのような記述がみられ、しばしば引用されている。
「幸運にも私は、軍司令官飯田と親密で暖かい関係にあった。かれは日本軍人の中では独特の性格をもち、人間的・父親的で理解に富んでいた。見かけは軍国的であるが、中身はそうではなかった。少なくともかれは相手側の立場からも物事を見ようとした。この点でかれは他の軍人たちと異なっていた。戦争の勝ち負けには多くの原因があるにせよ、全人民の敵意と抵抗をわき起こすことが、もっとも確実に敗北につながるということを充分わきまえていた。かれ飯田は、天皇と軍とその規律と国家に対して神秘的とも言える献身の点では武士であった。しかしかれのこのような献身は、同時に他の人々の同様な献身を理解し得るものであった」
『隠れた名将飯田祥二郎』P196





 あとは時系列で、飯田将軍のキャラクターが垣間見える文を引用してみます。

 その後飯田は、いったん仏山に帰還したのち昭和14年9月近衛師団長に任命され帰京することになった。近衛師団は、通常宮城 ― 皇居の警護を任務としていたもので、将校はもとより兵士に到るまでこの師団に選ばれることを名誉としていた。それだけに規律は厳正で、礼儀や服装などについても他の陸軍部隊より厳しく律せられていた。
 飯田がこの師団を預かる事になったのも、かれに対する信頼が然らしめたものであろう。かれは在任中に、当時の皇太后陛下 ― のちに貞明皇后と呼ばれた大正天皇の皇后・昭和天皇の生母 ― の信任を得て、度々陪食の機会を得るなど宮中の信頼は厚いものであった。
『隠れた名将飯田祥二郎』P96

 【1941年】10月に入って情勢は一段と緊迫することになった。10月1日岩畔豪雄 (30期)、辻政信両参謀が飛来した。 岩畔は以前は対米交渉にあたっていたが、開戦当時は近衛師団の連隊長として飯田の麾下にあって、全軍のさきがけとなってタイ国へ進駐することになった。のち25軍に転じてシンガポール攻略戦に参加して負傷し、そのあと対インド諜報機関 (光機関)の長となり、戦争末期には28軍参謀として桜井省三とともに戦争の最終段階でシッタン渡河作戦において活躍した。
 飯田は岩畔、辻両名から日米交渉が難航していることを聞いて落胆した。がしかし同時に両者が携えてきたマレー半島への進攻計画をみて、そのあまりの勇壮さに驚きを隠せなかった。しかしシンガポール攻略という破天荒な作戦を成功にもって行くためには、辻が中心となって基本案を作成し、のち実際に具現されたような放胆きわまる計画を採用して強力に推進するほかないであろうというのが、結局、飯田も同様に抱くようになった結論でもあった。ちなみにこの時点では、飯田はまだマレー作戦を担当する軍司令官であり、飯田が辻の持参した原案に対してかなりの修正を施したことが記録されている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P119

 【1941年】11月9日、当時の著名な少女小説作家・吉屋信子が飯田を訪れ30分ほど対談を行ったことが日録に記されている。その折の会話の内容は、吉屋の随筆「仏印・泰国の十二月 八日前夜」のなかで紹介されている。吉屋は軍の飛行機でハノイからサイゴンに飛んでいるが、ハノイは肌寒かったのに対してサイゴンは暑く、町中が日本軍の車両や兵隊で満たされていたと書き留めている。
 飯田は会談のとき、「白人種の中で日本軍が威風を増すためには、当方の毅然とした態度が大切である」旨を語ったと伝えている。それまでアジア人がヨーロッパ人の支配下に甘んじていた植民地にあっては、このような態度も必要と感じられたのであろう。
『隠れた名将飯田祥二郎』P124

 飯田が南方軍編成を正式に知らされたのは【1941】11月5日のことであった。 日録には「予期されしことなるも感無きにしもあらず」とそのときに受けた強い感懐について述べている。11月6日に、開戦の暁にはタイ・ビルマ方面の作戦を担当するため15軍が創設され、飯田が軍司令官に親補された。それまでかれの隷下にあった第25軍はマレー方面の作戦を担当することになった。その新任の軍司令官は言うまでもなく山下奉文 (18期)である。山下と参謀長鈴木宗作 (24期) ― のちレイテ島で戦死し大将に昇進 ― は11月中旬にサイゴンに到着した。
 しかし公式には15軍の存在は秘密とされ、表向きには従前通り25軍が活動していることになっていた。従って山下と鈴木は、飯田と同一の司令部に起居していたが、表面上は飯田が用事もないのに司令部に出勤して指揮を装い、内実では山下らが隠れるように建物に閉じこもって、密かにマレー作戦の計画を練るという奇妙な姿がしばらくの間続いた。飯田は、自分の指揮下から離れた部隊に通うことにいささか後ろめたさを感じたりしていて、この頃のことを案山子出勤とやや皮肉をこめて表現している。
 この時点で、飯田の率いることになった15軍麾下の2個師団は、はるか遠くの華北・徐州と四国・善通寺から移動中であり、近衛師団もやがては25軍に配属されることが決定していた。従って15軍は南部仏印進駐以来の諸部隊はいずれも他軍に転属されて、 徐州にあった33師団を除くと、55師団を始め新たに編成された部隊から成っていた。参謀辻政信は、かれの立てた作戦計画に対して飯田が示した高い評価に感謝するとともに、飯田がマレー作戦という重要で名誉ある任務を淡々として山下に譲ったことに対して感銘を受けている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P125,6

 しかしマレー方面の戦局が予想以上に順調に進展するのを見て、大本営の意向は急速に変化し、南方軍や15軍に対して、ビルマへの早期進出を指示することになった。そのさきがけとして開戦論者の一人であり、かつビルマ作戦についても積極論者として知られる大本営参謀服部卓四郎が早くも12月21日にバンコクにあった飯田の下に赴いてこのような方針を伝達した。
 この時期から、飯田をはじめとする15軍の態度は、参謀本部や南方軍からしばしば積極性を欠くと見なされ始めていた。また本人も認めているように、飯田はいったん決心すると容易に変更せず、上級指揮系統に対しても正論を主張する傾向があると見られていた。このような飯田の姿勢が、積極論が通りやすかった当時の陸軍統帥部において低い評価につながり、結局は方面軍司令官や大将への昇任が見送られる理由になったのであろう。
 戦史やあるいは飯田の日録をみて印象付けられるのは、上級司令部と15軍の間の見解の齟齬についての記述である。参謀本部と南方軍はしばしば早期の攻勢開始司令部の前方進出を指示し、それに対して15軍は現実に即して慎重論を唱えた。

『隠れた名将飯田祥二郎』P148

 飯田もこの【ビルマ侵攻作戦の序盤の】時期、ビルマ国境に近いタイ国内のラーヘンに軍の戦闘指揮所を前進させた (【1942年】1月17日より2月2日まで)。この移動はビルマ進攻を呼号する南方軍の意向を受けたものであろう。ラーヘンは山間にある人口三千程度の現地ではかなり大きな町であったが、 しかし前方のみならず後方にも難路を控え、通信連絡などの施設も整備されない村落で充分な指揮が執れないのも当然なことなので、やがてバンコクに戻ることになった。
 しかしその翌日の2月3日には南方軍 ─ 前述の通り当時はまだサイゴンにあった ─ が電報によって、軍司令部のモールメンへの進出を促した。その後もこのような事でしばしば上級司令部と意思の円滑な疎通を欠いて、飯田も度々憤慨する破目に陥ることになる。
『隠れた名将飯田祥二郎』P153,4

 シンガポール攻略戦が完了したので (2月15日)、ほぼこの時期から航空勢力がビルマに移動して制空権を確保することができ、日中の行動が可能になった。それまで攻撃部隊は、昼間は密林の中に隠れて夜間に行動することを余儀なくされていた。
 この時期の飯田について、時の15軍参謀竹下は次のように回想している。
「兵力我に倍する英印支の連合軍に対して決して生易しい戦をしていたわけではなかった。当時制空権はまだ敵側にあったので、日中は深いジャングルの中に隠蔽・分散してテントを張りその日を送っていた。軍司令官飯田は副官と二人で起臥していたがいつも平常心をもって全軍を統率していた」
『隠れた名将飯田祥二郎』P156

 当時の陸軍の中国戦線あるいは南方進攻にあたって、しばしば現われたのは「一番乗り」争いであった。飯田はこのようなことから起きる弊害をも配慮してラングーン入城にあたっては、両師団から代表的な部隊を同時に入らせることを指示した。しかしある33師団の将校子田市郎の著書によれば、それでもかなりの競争があって、結局33師団の方が先着したという。
 また飯田は大部分の兵員を都市に入れずに郊外に留め置いたが、これは次の北方に向けての進撃に備えるとともに、中国戦線における住民とのトラブルなどの苦い経験から来たものであった。ラングーンにおける入城式が陸軍記念日の3月10日に行われたという記録もあるが、これは正式なものでなく小部隊行進とビルマ総督官邸への日章旗掲揚といった程度のものであろうと考えられる。
 飯田は3月9日夕方、日本軍の進出の翌日にラングーンに到着した。その日に市内を巡視しているが、その翌日の「入城式云々」についての記述は日録には見当たらない。ラングーン市内はそれまでの日本側の爆撃によってかなり破壊されていたが、飯田はこのとき被爆した市街地の惨状を視察して、無差別的な爆撃に対して批判的な意見を吐いている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P157,160,161

 しかし以後の戦局は、あたかもこのような時間的制約にあわせたかのように順調に展開することになった。地図に示すように、55師団は鉄道と街道に沿ってトングーを経て最大の目標地マンダレーに向かい、33師団はプロームを経て最大の油田地帯エナンジョンに向かって進軍した。
 ここで55師団の向かった要衝トングーにおいて、正面に立ちはだかったのは中国から派遣された軍勢であった。杜聿明【トイツメイ】(1905-1981)に率いられた中国第5軍下の200師団は、蒋介石直系の精鋭部隊であり、当時重慶軍と呼ばれていた中国国府軍の中で、もっとも装備が良好で志気も高かった。
 飯田の日録にも中国軍の抵抗により55師団が難戦を続けたことについての記録とともに、師団の指揮ぶりにも問題ありとしている。同様な不満は、ラングーン攻略以前から 同師団が消極的で進攻速度が鈍いことなどについての記述が散見されているが、やがて参謀長・連隊長などが交代し、最後には師団長も代ることになった。
 これに対して33師団に対する感想が日録に記されている回数は少ないが、 これはその戦闘ぶりに満足していたためと考えられる。しかし桜井もラングーン陥落の直後、戦車にはほとほと閉口したと飯田に報告したことが日録に見える。桜井はその後に戦史に残る対戦車戦を経験することになるが、それまでの戦車相手の痛切な経験が役立ったものであろう。
 トングーにおいては3月26日から4日間にわたって激戦が続けられた。中国軍の戦意は非常に高く、中国大陸戦線ではほとんど経験したことのないものであったことが当時の参謀の残した記録 ― 前述の竹下のほか55師団参謀河内稔(42期)などの手記 ― からも読み取れる。味方の攻撃は先方の頑強な守備と反撃によって停頓していた。飯田も相手方の抵抗は敵ながら天晴れとその健闘ぶりを讃えている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P165

 飯田は、7月6日になって軍司令部を再びラングーンに移した。これはビルマ全土の攻略が終了したので、全土の軍政を有効に図ることを目的としたものであったが、しかしまたもや、はるか怒江対岸に退却した中国軍に対して加える圧力が減退することを憂えた南方軍の不興を招いたという。
 【……】
 それまでの戦局があまりに順調に進行していたために、陸軍首脳部の間でも戦局が峠を越したという楽観論がはびこりはじめていた。しかし飯田は決して楽勝ではなかったここまでの戦闘の経過と、連合国側の実力を知悉している人間の一人として、このような安易な考え方に対して強い警戒感を抱かざるを得なかった。

『隠れた名将飯田祥二郎』P167,7

 飯田、桜井【第33師団長】両者間の個人的な関係を裏付ける資料は不足している。日録をはじめとした 諸記録にも桜井の名前は頻出するが、感想あるいは批評に類するものは見当たらない。桜井の伝記(上条彰著)にも両者がともに戦った時期の記述は短いものとなっている。しかしいくつかの傍証から、両者の間に密な信頼関係があったことが窺われる。桜井は飯田より陸士の三期後輩であったが、「聖将」と仰がれることの多かった人格者の桜井に対して、飯田がある種の距離感をもっていたのではないかと感じられる節が見られる。
『隠れた名将飯田祥二郎』P184

 しかしよく知られているように、【占領国を独立させるかどうかについて】日本側にもいろいろの考え方があった。中には中国戦線などにおいてしばしば見られたように、「粛然とした軍政」の下に現地官民が一致して皇軍に全面協力するのがあるべき姿と考える人々もあった。
 この中にあって、飯田のとった立場は、当時の陸軍将官の中にあっては、もっとも現地人側の立場を尊重したと思われる種類のものであった。飯田は、事実上の敵地と化してしまった中国本土における経験から、現地住民の支持を得ることが戦争遂行の上に如何に重要なものであるかということを充分に承知していた。かれはまた、満州あるいは華北において進められていた日本人による開発方式に対して批判的な立場をとっていた。
 飯田のもっていたこのような意見は、いくつかのかれの書き遺したものの中に含まれ、その多くが戦史叢書はじめ多くの書物に引用されている。その代表的な部分を一ヶ所だけ ここに引用したい。
「軍政の実施にあたり心配したことは、満州や中国で行なったやり方を、根本において違うところがあるビルマにそのまま持ち込みはせぬかということであった。ビルマではそれまでの町村制を復活させねばならなかったのに、軍人で頭の転換ができない者がいるのはまだしも、司政官として来た人が満州式や支那式で占領行政をやるつもりでかかるので嘆ぜざるを得なかった。日本がビルマの資源活用を図るのは当然としても、ビルマ人に譲りえるものは移譲する方針の下に準備したかった。たとえばシャン州を日本に割譲させようという考えを持つ人には強く反対した」
 飯田の現地人に対する態度は、そのほか例えば敵性華僑の取り扱いにおいて現われている。シンガポールにおいては、大本営からの指示と称するものに従って厳正な処断が行われたが、ラングーンなどにおいては逮捕した敵性華僑をビルマ・中国国境から中国領内に向けて放逐するなどの方法を採っていた。相手側の「敵性華僑」からしてみれば、これは正に歓迎さるべき措置であったろう。

『隠れた名将飯田祥二郎』P188,9

 この時期に、陸軍部内の大異動が行われ、飯田は【1943年】3月付けで参謀本部付になり帰国することになった。この異動は二十一号作戦をはじめとしてインド進攻を狙いとした作戦に対する飯田の消極的態度が陸軍中枢部の不興を招いたものと考えられている。もとより飯田が引き続いて在職していれば、のちのインパール作戦についても最大限反対したであろうが、当然ながらこれは当時の中枢部の容れるところとならなかったのであろう。
 片倉はその著「戦陣随録」のなかに、方面軍の新編成についてのいきさつを簡潔に記している。それによるとこの方面軍編成は片倉の建言によるもので、3ヶ軍10個師団を構想したものであった。しかし河辺の赴任はまさに東条人事であると指摘し、全陸軍がこれによって東条一色となることを憂えている。まさに河辺【正三】とこの次の木村【兵太郎】の着任はこのような現われの典型といえるものであった。
 【……】
 新たに編成されたビルマ方面軍の司令官には、前述の通りそれまで中国派遣軍総参謀長であった河辺正三が親補されて、15軍司令官の飯田の後任には牟田口廉也が着任した。これとほぼ同時に33師団長の桜井は機甲本部長に転じた。飯田・桜井両者は同一の飛行機に乗り合わせて内地に帰任したという。ここで桜井の転任には栄転の意味があったが、飯田の場合にはそれとは異なった意味で離任することになったものである。
『隠れた名将飯田祥二郎』P207,8



 今後も飯田将軍に関する記述(特に貶す方向のもの)が見つかれば追記していこうと思います。

 とりあえず今の感想としては、恐らく飯田祥二郎将軍は良識のある優れた司令官であったと思われるのに、とにかく積極果敢であることを求める(積極果敢であれば何でも許され、そうでなければ何でも非難される)陸軍中央部の意向に合わず、実質左遷されたらしいことは残念という他……。



 あと、飯田中将が第15軍司令官であった間は、ビルマでの日本軍の軍規はある程度以上厳正であったんだろう(尤も、残虐行為が皆無であるという保証はもちろんないわけです)と思うのですが、飯田中将がビルマから離任した後の拉孟・騰越戦の時期には日本軍兵士による結構な残虐行為が発生していたことをとある資料で知りました。そこらへんはまた、(最初に挙げていた)↓に追記するつもりです。

日本軍は中国戦線での失敗に学んでビルマでは略奪を禁止した? (2023/01/13)


牟田口廉也将軍のキャラクター像について

 承前。牟田口廉也将軍のキャラクター像についてです。


牟田口廉也の失敗は、誰にでも起こりうる。ただし、そうなりやすい人と、なりにくい人がいる? (2023/01/28)



 ↑で挙げてました、↓がまず一つ。

 藤原【岩市】少佐が後年、牟田口の性格を評して「驍将の如く見える反面、気の弱い面があり、自意識過剰で思考が単純な嫌いがあった」と述べた
【驍将……①たけだけしく勇ましい大将。②中心になって力強く事を推進する人。】
『インパール作戦において牟田口廉也がインド進攻を主張し続けた要因 -ヒューリスティックとバイアスによる分析-』P46




 それから最近知ったのが、↓という牟田口の発言で、個人的には結構衝撃的でした。


 以下、(グロいため)閲覧注意です!

 【ビルマの拉孟では捕虜を生きたまま麻酔なしで生体解剖していたという記述の後】
 拉孟での生体解剖は一回きりではなかった。インパール作戦の最高責任者、牟田口廉也は「勇敢な兵士に仕立てあげるには、早く精神異常にすることだ」と言っている(品野前掲書、181-184頁)。
『「戦場体験」を受け継ぐということ - ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』P122


 この「品野前掲書」というのは『異域の鬼 拉孟全滅への道』という本で、購入して見てみたところ、↓のような記述でした。

 異常なほど捕虜をいろいろ工夫して殺すサディスティックな見習軍医もいた。高いところから落としてみたり、大きな石を落としかけたりして、致命傷の具合をみるというようなこともした。戦陣医学としては役立つデータが得られたかも知れぬが気違い沙汰としかいいようがない。牟田口中将がいった「勇敢な兵に仕立てあげるには、早く精神異常にすることだ」(後述)どおりに実践されたわけだ。その見習軍医は、学生時代に風呂屋をさがしては下宿し、番台に上がらせてもらって女風呂を覗き見するのが楽しみだったと噂されていた男だ。彼は騰越全滅で消えた。
『異域の鬼 拉孟全滅への道』P182


 で、「後述」というのでその後をいくらか探してみたのですが、関係記述を見つけられず……。細かい字で全414ページあり、全部見ていくとなると大変なので、また今後見つけたら追記するということで……。









 以下、これまでに収集していた牟田口廉也に関する記述を引用してみます。

 元来、帷幄にあって、沈思黙考するといったようなタイプではなく、勇猛果敢、孤軍重囲を破って還ってくるといった猛将タイプの牟田口は、このインパール作戦の戦場担当司令官として、自らの体験に裏付けられた戦術的結論を引き出し、断然、不退転の攻勢主義に全精魂を打ち込むに至っていた。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P356

 私はこの演習に参加して危惧の念をいだき、第18師団の池田参謀に、
牟田口さんは師団長としてはよいかも知れないが、軍司令官としては失格だ。何となれば、現代戦の要件である後方が全然わかっていない」と極言した。池田参謀もまったく同感であった。
 池田さんは、牟田口中将が第18師団長時代の後方主任参謀であったが、「中将は後方が無理解で、無理難題を幾度も押しつけられて泣かされたことがある」と述懐していた。
『回想ビルマ作戦』P70










 児島襄は、牟田口を「小心な性格」と分析したうえで、次のように述べた。
「小心な性格は、小心なるがゆえにしばしば果敢な行為を好み、著しい克己心をはっきし、また、自己にたいすると同様に他人にも厳しさを求め、性急な行動を好み、偏執的な思想傾向をもちやすい」(児島1971)。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P4,5

 軍歴のほとんどを陸軍中央で過ごした牟田口は、作戦部隊の実務に疎かった。そのため、牟田口は河邊から聯隊長としての心構えを一から丁寧に教わった(「ああ! 河邊正三-座談会-」)。牟田口は河邊を慕い、河邊もまっすぐに接する牟田口をかわいがった。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P84

 【中国第29軍との交渉で】牟田口の言動は、まるで勝者のような振る舞いであった。
 【……】
 中国人はメンツを重んじるという特徴があるといわれる。交渉での牟田口の尊大な態度や、中国人将兵らを並ばせて謝罪させるという行為は、彼らのメンツを著しく損なうものであった。また、中国人を軽んじて見ていた牟田口の中国観も、この交渉のやりとりから明らかとなった。
 【……】
 いちど許した相手から思わぬ反撃を受けると、とたんに冷静さを失い敵意を剥き出しにする。この牟田口の反応は、彼のプライドの高さに起因していたといえよう。この牟田口の特徴的な性格は、その後の彼の人生に決定的影響を与えていくことになる。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P87,8

 第18師団のある参謀は、牟田口から叱責されて不満を持った佗美に対し、「牟田口師団長は焦って来ると、気が狂った人のように怒鳴る癖があるから、あのような場合は急いで師団長の見えぬ所まで離れてから、処置すれば良いのだ」と語った。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P151,2

 牟田口は、マンダレー一番乗りを目指して師団将兵らに昼夜兼行で前進させた。前線部隊を率いたある中隊長によると、そのときの様子は「まるで牟田口師団長とのマラソン競走のようで、むしろ師団長乗馬の健在が恨めしかった」(伊藤1984)であったという。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P174

 人々の牟田口への批判は、彼の人格面にも及んでいるが、牟田口の一生を丹念にたどると、彼はきわめて恣意的で不合理な人事によって、望まない職責を負うことになっても、正しいかどうかはともかく、彼なりの職責を果たそうとしたことがわかる。このような点で、牟田口は一見無謀なようで、実はまじめで忠実な性格の人物であったといえよう。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P261







 むしろ牟田口はそれまで「常勝将軍」と呼ばれ、多大な戦果を挙げていた。かつては陸軍を代表する勇将、あるいは猛将の誉に相応しい人物と思われていたのだ。
『牟田口廉也とインパール作戦』P4,5

 ここ【1927年、陸軍省軍務局軍務課】で牟田口は、柳田元三少佐と一緒に勤務する機会を得る。後のインパール作戦における牟田口の隷下師団長の一人である。柳田は陸軍士官学校を優秀な成績で卒業しただけではなく、陸軍大学校では恩賜の軍刀組の一人であり、エリートとして将来を嘱望されていた。柳田は要領も良く、合理主義者だった。周りの参謀たちからは、牟田口とは全く正反対の軍人だと見られていた。一方の牟田口は不器用だが実直に職務を遂行する、つまり合理主義を嫌う軍人だと考えられていた。
『牟田口廉也とインパール作戦』P63

 【庶務課長の】牟田口のところに人物評価が集約される。その結果、牟田口は人物の好き嫌いがはっきりした。さらには参謀の更迭も日常的に行われていたため、資質の劣る参謀には特に冷淡だった。それにより、恨まれることもあったという。
『牟田口廉也とインパール作戦』P68

 牟田口は皇道派の一人と目されていた。
 ただ、庶務課長に就くということは、牟田口は能吏であることに加え、軍閥に極端に身を置かず、さらに微に入り細に入りよく気が付く、気配りができる軍人だと考えられていたことの証左に他ならない。彼は本格的な補佐道を目の当たりにして育ったのである。
『牟田口廉也とインパール作戦』P70

 牟田口は陸軍大学校を卒業した後、陸軍省や参謀本部での勤務が長かった。そのため、指揮、作戦、後方支援などの部隊運用の基本的事項を、身をもって学ぶ機会を逸していた。また部隊勤務といっても、近衛連隊の大隊長であり、閑院宮参謀総長の庶務課長という点からも、典型的な軍人官僚の道を歩んできたと言える。それは実兵指揮や訓練指導能力の欠如となり、平時は良いが、有事になると部隊感覚を身につけている指揮官とは期待度が異なると思われた。
『牟田口廉也とインパール作戦』P71

 では部下たちは牟田口連隊長をどのように見ていたのか。ある中隊長が次のように語る。 昭和十二年の天長節、交民巻練兵場で閲兵式が行われた時のことだった。 牟田口は軍旗中隊長に「練兵場との往復は、なるべく支那人が少ない通りを通行せよ」と命じた。中隊長は それに従い、大街路を避け、裏通りを進んだ。すると牟田口は「中隊長、軽便主義をするんじゃない!」と一喝した。 中隊長はこれに承服しかね、連隊本部前でしばし佇立、その後も中隊長室で連隊長の心中を推し量って時間をつぶしていた。
 ほどなくすると、将校宿舎にいる大隊長から「連隊長が貴官に話があると言って来ておられるが、まだ帰らぬか」と電話があった。中隊長は急いで帰宅し、大隊長に問うと、 「連隊長は二十分ぐらい待っていたが、今さっき帰った。その際、『貴官を叱ったが、考えてみれば俺の方が思い違いをしていた。誠にすまんことをしたのでお詫びに来た』と伝えてくれ」 とのことだった。これを聞いた中隊長は「日本軍が創設されてから将校は十万にも及ぶほど生まれたであろうが、その中で連隊長が自らの非を詫びにわざわざ部下中隊長の宿舎まで出かけたというのは牟田口連隊長唯一人ではないか」と牟田口の誠意に胸をうたれるのだった。連隊長時代の牟田口は、将兵一人ひとりを大切にする指揮官だったという(支駐歩一会編 『支那駐屯歩兵第一聯隊史』)。
『牟田口廉也とインパール作戦』P78,9

 意外に思われることだが、この頃まで牟田口は「ムタさん」などと呼ばれ、気さくな一面も見せる陽気な性格だったと証言する者までいた。
『牟田口廉也とインパール作戦』P95

 【シンガポール戦で】牟田口は、そんなことがあっても少しも怯む様子はなかった。武田寿参謀長と二人きりで現地視察を行うこともしばしばで、多くの将兵は勇ましい将軍だと喜んだ。
『牟田口廉也とインパール作戦』P103~105

 『戦史叢書15 インパール作戦』の編纂官の一人である不破元大佐は、牟田口が自己の信念に捉われたことを次のように推測する(『戦史叢書15 インパール作戦』)。

 第一に、牟田口中将は信念の人であり、気性は積極果敢、ひとたび思い込めば、どこまでもやり通す性格である。第二に、牟田口中将は河邊中将の意図には服従するが、幕僚に言うことには深く心にとめない。
『牟田口廉也とインパール作戦』P303







<2023/04/15追記>

 『四人のサムライ』という本で取り上げられている4人のうち1人が牟田口廉也であったことを思い出したので、キャラクター像に関する記述を探してみました。著者はコヒマで戦った経験を持つイギリス人ジャーナリストです。

 彼は知的であろうなどと考えてもみず、物事を白か黒かに判断した。彼は本能で動き、しかも恐るべき速さで動いた。彼は反対者を憎悪した。そういう奴を跳ねとばすためならなんでもやった。彼の食欲、とくに酒と性は強かった。彼には粗い動物的な魅力があった。彼は兵たちとの神がかりの仲間としての連帯の中で、武士道への深い信仰をもっていた。近代性や西欧化は彼の軽蔑するところであった。彼に近い将官や参謀に限っていえば、彼を好くものよりも嫌ったもののほうが多い。しか全体的にいえば彼は尊敬されていた。
『四人のサムライ』P130





<追記ここまで>



 個人的な感想についてですが、こうしてまとめてみると、「後方の補給軽視」や「幕僚軽視」や「怒鳴る」や「自意識過剰」や「思い込みが強め」などはロンメルと似ているという気もしますが、しかしロンメルは(エル・アラメイン以後のしばらくの、重病を抱えながらの時期を除けば)「気が弱い」ということはなく、前線指揮能力に関しては抜群であったので、そこらへんは「比較することなどあり得ない」ほどだとも言えます(^_^;

 しかしまた、牟田口廉也は師団長としてまではギリギリ「アリ」の人物だったかもしれないけども、軍司令官になって「ピーターの法則」(ある人材はその組織内で昇進できる限界点に達する。人は昇進を続けてやがて無能になる)で無能、あるいは破滅をもたらしてしまった「真面目で小心な人物」だったのかもとも思いました(ロンメルもギリギリ師団長までだったということは言われますが、牟田口よりは遙かにマシだったのではないでしょうか)。


 私も、自分が40代になって「組織を指揮する立場はまったく自分の性格には向いてなくて、下っ端か、一番下から一つ上あたりが一番自分に向いているのだな」と気付いたような人間なので、まかり間違っていたら牟田口廉也のような大失敗をした可能性は全然あったのかも……。

牟田口廉也の失敗は、誰にでも起こりうる。ただし、そうなりやすい人と、なりにくい人がいる?

 たまたま↓という論文がPDFでネット上にあるのを見つけました。


インパール作戦において牟田口廉也がインド進攻を主張し続けた要因 -ヒューリスティックとバイアスによる分析-
(下の方にある「このアイテムのファイル:」という灰色のボックスの左下の「1-2.pdf」をクリックすると見られます)


 牟田口廉也がインド侵攻作戦を主張し続けたことを、心理学的に分析できる「思考の癖」や、そのような思い込みに陥りやすい状況や性格から読み解くというもので、今までいくらか牟田口廉也関係の本を読みましたけども、このアプローチは個人的に非常に好みで、また有益なものであると思われ、より広く知られて欲しいと思いました。

 こういうアプローチは、そういえばアリだなぁと思いましたが、私は全然思いついてませんでした(^_^; バイアスだとか、「脳は楽をしたがる」とかって関係の話も結構好きでそういう本も読んでいたのに……。


 「ヒューリスティック」という概念は全然知らなかったのですが、検索していくらか見ていると、「(時間や労力をかけないようにするために)過去の経験則から、ある程度以上正しそうな解答を素早く選択する」というようなことで、どちらかというと「わざと」利用するもののようです。

 一方「バイアス」は「(すべての人が持っている)認識の偏り」のことで、たとえば「確証バイアス(自分の直感に沿うような情報ばかりを採用し、逆の情報を無視してしまう)」とか「内集団バイアス(自分の属している集団の方が優れていると考える)」とか、他にもものすごくいっぱいありますが、意識せずそうなってしまうものです。ただし、自分にそのようなバイアスがあることに気付いてそれを修正することもできます。


 牟田口はインパール作戦を主張するにあたって、ヒューリスティック(経験則)を利用しようとしてバイアス(認識の偏り)にハマってしまった(と分析される)、ということがこの論文の要旨ではないかと思います。そして、そのようなことになりやすい状況についてこう書かれています(P45,6)。

 カーネマンは次の条件において、人間は利用可能性ヒューリスティックに基づくバイアスにかかりやすいとしている。
① 努力を要する別のタスクを同時に行っている。
② 人生の楽しいエピソードを思い出したばかりで、ご機嫌である。あるいは落ち込んでいる。
③ タスクで評価する対象について生半可な知識を持っている。
④ 直感を信じる傾向が強い。
⑤ 強大な権力を持っている。


 ①はつまり、やらなければならない他のことをたくさん抱えていると余裕がなくてヒューリスティックを利用しようとしてバイアスにハマる、というわけです。

 ②は「成功体験」に包まれている、あるいは「失敗体験」で落ち込んでいると、その体験にものすごく影響されやすくなってしまう、ということだと思います。

 個人的には、①はそれほど牟田口に影響を与えたとは感じないのですが、②は、牟田口はウィンゲート将軍の後方浸透作戦(チンディット作戦)をやられて、それが「失敗体験」となるも、それを自分も逆用できるという方向性に考えすぎたような気がします(論者はそういう考え方は書いてなくて、シンガポールやビルマで牟田口が成功していたから、という成功体験だけを挙げています)。

 この「失敗を成功に」という方向性は、「日中戦争を開始させてしまった」という(本人の中での)失敗体験があるから、「インパール作戦で成功しなければならない」という考え方になったのとも同一だと考えることもできると思い、個人的には牟田口の考え方として顕著なものであるような気がしています(同論文では、日中戦争を開始させた件に関しては当時としては的確な処置だった、と分析していました)。


 同論文にはかなり個人的にかなり興味深い、牟田口の性格に関する評が取り上げられていました(P46)。

 藤原【岩市】少佐が後年、牟田口の性格を評して「驍将の如く見える反面、気の弱い面があり、自意識過剰で思考が単純な嫌いがあった」と述べた
【驍将……①たけだけしく勇ましい大将。②中心になって力強く事を推進する人。】



 「自意識過剰で思考が単純」だから、自分の失敗を気にして、敵にある作戦をやられるとその成功を過剰に評価し、自分もそれをやる(やれる)のだと思い込み、思考が単純だからそれ以外のことが考えられなくなる……。

 ……うっ! ……ウォーゲームで自分もそんな風になっていることがあるなと思います……(. . ;)



 恐らく、誰しもが牟田口のこういう状況に大なり小なりなる可能性があるのではないでしょうか。ただし、「そういう失敗例がある」ということを知ればそれを避けやすくなるし、また、知識だけでなく性格によっても、牟田口のように非常になりやすい人もいれば、非常になりにくい人もいるのでしょう。



 「④ 直感を信じる傾向が強い。」に関連するのではないかとも思うのですが、個人的にはインパール作戦中の牟田口の「神懸かり的」「神頼み的」行動が気にかかっています。つまり牟田口の宗教的側面とも言うべきものですが、当時の大日本帝国は「天皇は神であり、日本は神国である」としており、かなり(結構?)多くの日本人がそれを信じていたのでしょうから宗教的であったのは牟田口に限らないのだろうとも思いますし、例えば第55師団の歩兵団長であった桜井徳太郎少将や、同師団隷下の第112連隊長であった棚橋真作大佐はかなり宗教的な考え方や雰囲気をまとっていたものの、両人ともかなり優れた軍人であり人格者であったように思われます。ところが牟田口はその宗教的側面が「神懸かり的」「神頼み的」な方向に行くばかりで、「優れた軍人」「人格者」となるにはバランスを崩しすぎていたように思われる……。そこらへん、どうだったのか。



 前述の「驍将の如く見える反面、気の弱い面があり、自意識過剰で思考が単純な嫌いがあった」という牟田口評の他に、個人的にかなり興味を引く牟田口の発言を先日見つけたこともあり、次は牟田口廉也の人物像に関する記述について、一回まとめようと思ってます。


北アフリカや東アフリカで戦争犯罪に関わり、コンパス作戦の時に戦死したマレッティ将軍について

 北アフリカ戦におけるイタリア軍の指揮官について。

 今回は、北アフリカや東アフリカで戦争犯罪に関わり、コンパス作戦の時に戦死したマレッティ将軍についてです。





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 ↑マレッティ将軍(1940年以前)(Wikipediaから)



 マレッティ将軍はロンメルが北アフリカに来る前に、(英連邦軍による)コンパス作戦の時に戦死したのでロンメルとの関わりはないのですが、この企画はむしろ北アフリカ戦の最初から最後までを扱うという意図にしていますので……。

 一方、一部で有名っぽい人物としてバルボ将軍という有能らしい人も北アフリカに赴任していましたが、この人は北アフリカ戦が始まる前に事故死(暗殺死?)したので、私としては調べないでおこうと思ってます。

 ただ、OCS『DAK-II』ではバルボ将軍も指揮官ユニットになっており、「もしバルボ将軍が生きていたら」というオプションで使用できます。バルボ将軍を除けば、同ゲームでイタリア軍の指揮官ユニットになっているのはマレッティ将軍だけです。


 ↓OCS『DAK-II』のイタリア軍指揮官ユニット。

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 資料としては『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』の他、Wikipediaと、OCS『DAK-II』のヒストリカルノートは様々なマイナーな複数の項目を扱っているのですが、その中にマレッティの項目があるので、それを参照しています。








 ピエトロ・マレッティは志願してイタリア陸軍に入り、6年後に士官学校に入りました。第一次世界大戦中にリビアに送られ、1934年までの多くの期間、リビアの抵抗勢力の鎮圧戦に従軍します。1931年のグラツィアーニ将軍が指揮したクフラオアシス(リビア南東)の征服にも加わって戦功を挙げていました。

 1935年にはイタリアによるエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)に参加し、ソマリランド方面から進撃するグラツィアーニ将軍の軍の指揮下で自動車化部隊を指揮します。マレッティは退却する敵を追跡中、壕にこもったエチオピア軍部隊に出くわし反撃を受けます。マレッティは急遽撤退し、L3軽戦車3両を失いました(そのうち2両は河原で泥にはまって動けなくなったのでした)。エチオピア軍側も指揮官が負傷したため後退していました。グラツィアーニはこの戦闘を勝利だと主張しました。

 エチオピアが征服された翌年の1937年2月、グラツィアーニは公式行事の出席中に手榴弾を投げつけられて負傷しました。その報復としてグラツィアーニは調査途中の曖昧な文書に基づき、同年5月にエチオピアで最も神聖とされていたコプト正教会(東方正教会の一つ)の修道院に部隊を送って修道士達を射殺するように命じます。命令を受けたマレッティは部隊を「いつもの熱心さで*」指揮してその修道院他の施設に赴き、修道士達や巡礼に来ていた一般人など恐らく1500~2000人を射殺し、略奪の後火を点けたそうです(*はイタリア語版Wikipedia「Massacro di Debra Libanòs」にあった表現です)。マレッティは1938年6月、その功績により少将に昇進しました。

 またマレッティは、負傷していた捕虜の治療を拒否するなど、他の戦争犯罪でも告発されていたそうです(彼の部下達が、まだ生きていた捕虜達をわざわざ殺したというケースも少数報告されているのだとか)。


 1939年にはイタリアに戻り、シチリア島のパレルモで第28歩兵師団「アオスタ」の師団長となります(1939年4月24日から1940年6月9日まで)。


 ↓OCS『Sicily II』に登場するアオスタ歩兵師団ユニット。

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 イタリアは1940年6月10日に英仏に対して宣戦布告し、マレッティはリビアで、自身の名前が付けられた自動車化歩兵と戦車からなる戦闘団(イタリア語でラグルッパメント)を指揮することになりました(一般的には「マレッティグループ」という風に表記されるようなので、以下「マレッティ集団」と表記することにします)。


 同年7月8日に編成されたマレッティ集団は下記のような構成であったそうです。その時点では、リビア大隊の約半数は、訓練が不十分で士気も低い状態でした。

・リビア歩兵大隊7個(1, 3, 4, 5, 17, 18, 19)(第1および第5リビア連隊に統合されていました)
・サハリアノラクダ大隊1個
・Cannone da 65/17砲兵部隊(12門)
・Cannone da 75/27砲兵部隊(8門)
・M11/39戦車の1個中隊
・CV35豆戦車の1個中隊
・Da 47/32対戦車砲の2個中隊
・20mm対空砲の2個砲兵部隊
・工兵中隊2個
・ラクダ160頭
・車輌500輌


 ↓下記も参照していただければ。

OCSユニットで見る「リビア人部隊」と「サハリアーノ大隊」 (2017/03/29)
OCS『DAK-II』の「サハリアノラクダ大隊」ユニット(再) (2017/03/31)



 リビア総督に任命されていたグラツィアーニ元帥は再三のムッソリーニの命令に抗しきれず、1940年9月13日にエジプトへの侵攻を命じます。マレッティ集団はエジプト侵攻軍の最も南に配置され、主力の南側面を警戒しながら進むことになっていました。


 ↓『Beda Fomm』P42にあった地図を元に、OCS『DAK-II』のマップ上にこのグラツィアーニ攻勢の進撃を描いてみたもの。矢印の灰色の最も色の薄いものが14日、次の濃さのものが15日、最も濃いものが16日の動きです。

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 ↑いわゆる「第二次世界大戦ブックス(赤本)」のシリーズの、和訳されなかった一冊です。




 ↓OCS『DAK-II』のマレッティ集団の構成ユニット。

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 このいわゆる「グラツィアーニ攻勢」については、↓でいくらかまとめていました。

1940年9月北アフリカのイタリア軍グラツィアーニ攻勢について (2017/08/06)



 ↑でまとめていたものから、マレッティ戦闘団の動きについて抜粋してみますと、こうなります。

 当初、彼【グラツィアーニ】は内陸の砂漠から「砂漠の古狼」とあだ名されたマレッティ将軍率いる機甲集団を迂回させて英軍を包囲する作戦計画を意図していたのだが、肝心のマレッティ集団はリビア領内にいるうちから道に迷ってしまい、水も底をついたため、グラツィアーニはこの作戦をあきらめて正面攻撃に切り替えた。
『コマンドマガジン日本版 vol.44』地中海日報P47

 空を飛ぶイギリス軍パイロットはそこかしこに、ソルームへと向かって収束していく砂煙を見ることができたが、マレッティ集団がエンジンのオーバーヒートに苦しめられ、そもそも道を間違えていたことに気付くことはできなかった。行動を起こすはるか以前の、シディ・オマールの戦闘開始前のポジションに向かう時点で彼らは砂漠の中で迷子になっており、その遅延ゆえに、主攻撃のスタート - イタリア放送によって、全世界とイギリスに知らされることになっていた - を切るのが遅れることになった。
『Beda Fomm』P38


 ただしこれは「マレッティ(達)が無能だったから」とかではなく、そもそも砂漠の奥深くで活動するために必要な地図やナビゲーション機器を調達することができなかったからだったようです。そのため、イタリア軍は航空機を発進させ、部隊を所定の位置に誘導しなければなりませんでした。

 しかし一応17日までにシディ・バラーニ付近に集結し、マレッティ集団の進撃中の損失は軽微(12名)だったそうです(そもそも英連邦軍は大きく抵抗せずに後退していたのですが)。

 その後2ヶ月の間にマレッティ集団は、編成替えによる部隊の出入りを繰り返しつつ、トラックに乗ったイタリア軍部隊と、イギリス軍装甲車や軽戦車からなる襲撃部隊との間で小規模な戦闘を行っていました。


 そして1940年12月9日早朝に、英連邦軍によるコンパス作戦が実行されます。


 英連邦軍側から見たコンパス作戦については、↓を見ていただければ。

コンパス作戦の準備(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/01)
コンパス作戦の実行と、トブルク陥落まで(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/04)




 ↓OCS『DAK-II』のコンパス作戦シナリオにおけるマレッティ集団。

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 コンパス作戦で英連邦軍の襲撃を受けた時、マレッティは(多くの資料によれば)「驚いてパジャマ姿のまま、手にマシンガンを持って壕から出てきたところを撃ち殺された」という風に記述されています。

 ただし、Mario Montanariという人は、1985年に書いた『Sidi el Barrani, giugno 1940 – febbraio 1941』という本(論文?)の中で、↓のように書いているそうです(英語版Wikipedia「Pietro Maletti」から)。

 12月8日、マレッティはすでに近くのリビア第2師団にイギリス空軍による異常な低空飛行はおそらく機甲部隊の動きを隠すためであると正しく警告しており、12月9日の朝6時半(実際の本攻撃開始よりかなり前)には、マレッティはすでにリビア第1、2 師団両方の師団長と連絡を取っており、イギリス軍の準備の動きを報告していた。マレッティが死んだのは、ニベイワ陣地の北側の戦区で47/32対戦車砲の砲撃を指示している午前9時頃のことであったというのが真相である。



 ニベイワ陣地では砲兵隊とサハリアノ大隊が最後の一人まで戦って戦死しましたが、マレッティの死後、リビア大隊は戦意を喪失し、午前11時には戦闘が終了しました。

 コンパス作戦で勝利した英連邦軍は国境を越えてエジプトへと進んでいきますが、1940年12月24日にはマレッティ集団の生き残りを集めてデルナで第34リビア自動車化大隊が編成されたそうです。


 ↓OCS『DAK-II』の第34リビア自動車化大隊ユニット。

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 マレッティは戦死後、武功金賞を授与されました。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年初頭の在ビルマ部隊の実情その1

 OCS『South Burma』(仮)の初期用のユニットを作ってみようと思ったのですが、そのために過去に集積した情報を読んだりしていると、まだちょっと「情報のまとめ」とかをして自分の中での理解度を増しておいた方がいいような気がしました。


 まずは、1942年初頭の在ビルマ部隊の実情について。

 ↓は前回のブログ記事に挙げていたものですが……。

 ビルマの人口は1941年に約1700万人で、その3分の2はビルマ族、残りはシャン族、カレン族、チン族、カチン族など、さまざまな少数民族で構成されている。イギリス植民地時代には、イギリス人が最上級の支配階級を占め、その下の支配層に中国人華僑やインド人、さらにその下の郵便局員や巡査などにカレン族などの少数民族を使った。経済活動においても、地主や金貸しはほとんどインド人が占め、流通業は主に華僑が握っていた。こうして多数民族のビルマ人は最下層の百姓と労働者に抑えこまれ、少数民族と対立させる分割統治が厳格に行われていた。英国傘下の現地軍(開戦時のビルマ師団)は少数民族やインド出身のパンジャブ族が主となって構成され、ビルマ族は兵員の2%に過ぎなかった。
『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』P9



 ビルマ人(全般)に関してこのような記述も見ていまして、興味深いところです。

 我々のようにビルマから帰還した者や、その後ビルマの国を初めて訪れた人々の中で、ビルマ人に接触の機会が多ければ多いほど、ビルマ人の人情のこまやかさ、暖かさに触れ、いちように懐かしい想い出を抱き、深い感銘を受けて、いわゆるビルキチ(ビルマ気違い)とか、ビルマメロメロになってしまうというように、実に不思議な魅力に取りつかれてしまうのである。
 【……】
 まず挙げられることは、おおらかで明朗快活な国民性にあるだろう。
 次に考えられるのはビルマ人の義理堅さかもしれない。【……】
 彼らはプライドがいたって高いが、誠意をもって接すればどこまでも親切で、時には身を犠牲にしてでも協力してくれる誠実さと熱意をもっている。ひとたび恩義を受ければ、いつの日かはお返しをせねばという律儀さを持っている。

『ビルマ戦とビルマ -ビルマを愛する一兵士の記-』P2,3




 ↑この本にはビルマ史についてもある程度書かれており、イギリス支配期の記述で目に付いたビルマ人側の独立運動としては1930~32年頃の「サヤー・サンの反乱」というものがありました。

 僧侶の前歴を持ち、医者で星占い師のサヤ・サンは民衆に叛乱を説いて歩いた。タラワディへ行くと、農民は叛乱する寸前で、同調者が集まっていた。だが村の長老は武器も持たぬ彼らの旗上げを危惧し、税金の棒引、できぬなら納税延期を交渉するから、起を待てとさとした。長老達は懸命に嘆願したが、取りつく島もないような返事しか帰ってこなかった。
 サヤ・サンはビルマ王を名乗り、刀や棍棒で武装した農民と、英政庁の出先機関を襲った。最初のうちは一笑に付していた英国側も、事態の重大さに気付き、軍隊を出動させて鎮圧に当らせ、村を焼き村民を射殺し、サヤ・サンを逮捕したが、叛乱は燎原の火のように拡大し、下ビルマ、中ビルマ、上ビルマ、シャン諸州へと拡がった。軍隊などに殺されたビルマ人は1万人にのぼり、投獄された者は9000、絞首刑に処せられた者はサヤ・サンを含めて128名と記録されている。サヤ・サンの弁護人はバ・モウ博士であった。
 悲しいことに英国はこの叛乱の原因が何であったか、知ろうともしなかった。叛乱は絶望のための叛乱である。坐するも死、叛乱するも死という農民の切実なる気持など、全く察するすべもなく、英国人は討伐に行き農民を射殺して、ラングーンに帰ると享楽にふけるという有様で、全く真相を知ろうともしなかった。
『ビルマ戦とビルマ -ビルマを愛する一兵士の記-』P80




 この治安問題のためにイギリス軍部隊が駐屯しており、またビルマ族から部隊を編成するにも積極的になれないという状況であったようです。

 【ビルマ人が独立を視野に入れた自国の運営を望むようになり、1937年にビルマ行政がインドから分離されると】同時に、ビルマ人は国政においてより大きな力を持つようになった。その結果、政治的な問題への関心が高まり、ナショナリズムが高まった。若いビルマ人の中には、教育を受けた優秀な者もいて、独立を主張するようになった。後述するように、日本軍はこの動きにいち早く乗じた。一方、イギリスは潜在的に内在するこの治安問題をよく認識していた。この問題に対処するため、ビルマにはグロスタシャー連隊第1大隊(1st Glosters)とキングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵【連隊】第2大隊(2nd KOYLI)の二つのイギリス軍正規部隊が配備されており、ラングーンとマンダレーにそれぞれ駐屯していた。

 ビルマには小さな軍もあった。このビルマ軍の将校は、イギリス軍とインド軍から出向してきた将校が務めた。しかし、ビルマは長い間、軍事的な僻地とみなされていた。ビルマへの赴任は、野外スポーツや楽しい生活に興味がある人には好都合だが、キャリアアップに興味がある人には何の価値もないと考えられていたのだ。そのため、野心的な陸軍士官でビルマに行くことを選択する者はほとんどいなかった。ビルマ軍総司令官への任用は、定年退職を控えたインド陸軍将校のお偉方の最後の赴任先となるのが通例であった。しかし、1938年から1941年後半にかけて、イギリス政府からビルマで戦争が起こる可能性は非常に低いと何度も聞かされていたにもかかわらず、ビルマで何が起こるかわからないと考え、最善を尽くした人々がいたのである。4個あったビルマライフル大隊を8個に拡張する合意が得られ、ビルマ工兵中隊が創設され、一方政治的圧力に応えて中央ビルマのビルマ族も採用されるようになった。人口の大部分を占めるこれらの低地出身者は、それまで入隊していた丘陵地帯の人々ほど忠誠心や信頼性があるとは考えられていなかったが、それが証明されることになった。これらの新しい部隊の将校や教官は、以前からあったビルマライフル大隊や2つのイギリス軍大隊から抽出された者達であった。1940年11月には、ビルマ補助軍【Burma Auxiliary Army】(植民地軍に似たもの)への入隊が、軍歴のあるヨーロッパ系イギリス人に義務付けられ、この国と言語に関する知識を持った経験豊かで有能な若者の貴重な供給源となった。

 この軍のほかに、市民統制下で強力な憲兵隊であるビルマ憲兵隊があり、その一部は後に分割されてビルマ国境部隊と呼ばれる部隊が編成された。後者の部隊は、ビルマに居住するインド人とグルカ人が中心となって構成されていた。平時の憲兵隊は評判がよく、ビルマ国境部隊は有用な情報源であり、前哨部隊として多くの場合に役立った。しかし、正規部隊を持つ敵との正式な戦闘のための訓練は受けておらず、当然ながらあまり役に立っていない。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P37,8


 ビルマで上級司令部や師団長に選任されたイギリス人将校達は、一流の相手と戦うにはほど遠い編成と部隊を与えられ、日本軍の攻撃からこの植民地を守るために必要な強さ、装備の規模、何よりも訓練に大きく欠けるものであった。1941年、複数の戦域の需要が競合していたため、極東地域はイギリス本国の防衛、中東の保持、ソビエト連邦への戦争物資の供給という差し迫った必要性の陰で、最後になってしまったのだ。マレー司令部は、極東におけるイギリスの植民地支配の主要な盾として、利用可能な援軍の大部分を依然として指揮しており、ビルマ軍は、日本軍からの「脅威」の高まりにもかかわらず、信頼できる防衛を行うのに十分な人員と物資が決定的に不足していた。この植民地【ビルマや極東地域?】での軍事活動のテンポは徐々に速くなり、1940年から1941年にかけては幾分煮え切らないながらも、深刻な資金不足にもかかわらず、工兵2個中隊の追加措置等の、守備隊を戦時態勢にするための措置が取られた。ビルマライフル4個大隊が追加で編成され、連隊の兵力は倍増したが、これはイギリス軍部隊から将校と下士官を引き抜き、ビルマ人と在ビルマインド人を入隊させたものだった(1939年には、ビルマ防衛軍にはビルマ族472人と、カレン族、チン族、カチン族の3,197人だけだった)。ビルマ国境部隊の戦力も増強され、テナセリムとシャン州の部隊が軍の指揮下に置かれ、小さな快速部隊や分遣隊(馬に乗ったものもある)に編成されて、飛行場の警備、要所の守備、正規部隊の側面の保護、侵入部隊への対処などの任務に就いた。残念ながら、これらビルマ人守備隊の急速な拡大は、短期的には軍事的効果を低下させ、武器、弾薬、装備の不足が訓練の妨げになった。武器、弾薬、車両、医療品、その他の防衛のための備品、なかんづく大砲、対空砲、対戦車砲の在庫は存在しないままであった。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P17,8





 とりあえず今、OCS『South Burma』(仮)の最初の5ターンを再現するために必要な英連邦軍側の部隊ユニットとしては以下のものがあります。部隊名の下の数値等はユニット案で、「戦闘モードの能力」「名称」、そして括弧内が「移動モードの能力」です。

第16インド旅団(ジョーンズ准将:第17インド師団所属)
 第7グルカ連隊第1大隊【国境沿いに配置】
  2-1-3 1-7 Gu Inf Bn (1-1-4)
 第4ビルマライフル大隊【稜線上に配置。マラリアで2/3。警官を集めたもので、まったく訓練されていない】
  1-0-2 4 Bu Inf Bn (0-0-3)
 第9ロイヤルジャート連隊第1大隊【コーカレイに配置】
  2-1-3 9 Ja Inf Bn (1-1-4)
 第12国境部隊連隊第4大隊【モールメンを守備する第2ビルマ旅団に配属されなおしていた】

 第2ビルマ旅団【モールメン守備:第17インド師団所属】
(元々、モールメン、タボイ、メルグイ地区守備)
  第3ビルマライフル大隊(2個中隊欠)【3個中隊で1個大隊?だとすると、存在しないに等しい?】
  第7ビルマライフル大隊(第16インド旅団から?)
   2-0-2 7 Bu Inf Bn (1-0-3)
  第8ビルマライフル大隊(最初からモールメンにいた)
   2-0-2 8 Bu Inf Bn (1-0-3)
  第12国境部隊連隊第4大隊(第16インド旅団から)
   2-1-3 4-12 FF Inf Bn (1-1-4)


 個人的には、8個のビルマライフル大隊の民族構成が気になるのですけども、上に上げた引用でも、

「1939年には、ビルマ防衛軍にはビルマ族472人と、カレン族、チン族、カチン族の3,197人だけだった」
「英国傘下の現地軍(開戦時のビルマ師団)は少数民族やインド出身のパンジャブ族が主となって構成され、ビルマ族は兵員の2%に過ぎなかった。」

 とある程度で、しかもその2つは数値的には整合性がどれほどかという気もします……。ただ、OCS『Burma II』の例に倣えば、これらのビルマライフル大隊はビルマ軍(人)ユニットの緑色ということになるでしょう。


 ↓OCS『Burma II』のビルマ部隊ユニット。

unit8686.jpg




 一方で今回、国境部隊(Frontier Force)について認識を深められたのは良かったです。第12国境部隊連隊第4大隊というのはOCS『Burma II』でも第17インド歩兵師団の中に存在しているのですが、ビルマ戦の最初の時のそれと同じ部隊なのでしょうか……?


 ↓OCS『Burma II』の第12国境部隊連隊第4大隊ユニット。

unit8685.jpg



日本軍は中国戦線での失敗に学んでビルマでは略奪を禁止した?

 最近、ビルマ戦関係の本を読んでいて、日本軍のビルマでの軍律に関する記述が興味深かったので、ちょっと書いておこうと思います。


 私は基本的に、日本兵は(というか、他のあらゆる国の兵士達も)「ひどいこと」もしただろうし、「良いこと」もしただろう、どちらかだけなんてことはないだろう、と思っているのですが……。

 【人類学の調査のために1954年にコヒマを訪れた中根千枝】氏は土地の青年によってかつての激戦地に案内される。ナガ族の青年は途々賞賛をこめて語りかけるのである。日本兵が勇敢であったこと。彼らは英印軍の圧倒的に優勢な武器をものともせず、戦車に銃剣一つで立ち向かっていった。死を少しも恐れていなかった。そして、なかんずく軍律が厳しかったという事実を。
 戦後しばしば聞かされていた日本陸軍の、中国大陸やフィリピン、マレーでの非人間的な戦争犯罪の話を思いだし、思わず「軍律が?」と中根氏は尋ねた。青年は答える。
「日本の兵隊は私たちの婦女子にけっして悪いことをしませんでした。……英印軍のなかには私たちの婦女子にずいぶんひどいことをしたのも少なくありませんでした。私たちは、敗けたとはいえ、日本軍のあの勇敢さと軍律の厳しさを、今でも尊敬しているのです」と。
『列伝・太平洋戦争(下)』P9,10



 余談ながら、中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』は、日本社会がなんでこんな社会なのか(だったのか)ということに関して本当に示唆的で「……なるほど!」と思わされる本なので、興味のある人はぜひご一読されることをお奨めします。(ただし、出版からかなり経って、日本社会も結構変化しているとも思いますが、まあ日本社会の古い面の分析として)






 それはさておき。

 この『列伝・太平洋戦争』という本は、日本軍に批判的な半藤一利氏が(若い頃に)書いたもので、そういう意味で上記のような記述はやや意外という感を受けるのですが、この文は列伝(形式)の中の(コヒマに突進した)宮崎繁三郎将軍の項にあるもので、読み進めていくとこのような記述も。

 宮崎少将の指揮は厳格であり、「後退は一歩もならぬ」というのが少将の信念であった。しかし、原住民に対しては細かく心をくばった。集落を発見すれば、ただちに宣撫班をやり、進軍の意図や心配のないことを説明させ、村の入口には歩哨を立てた。
『列伝・太平洋戦争(下)』P15


 とすれば、あくまで宮崎繁三郎将軍が(例外的に?)軍律に厳しかったかのように受け取れなくもありません。






 しかしその後、『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』という本を読んでいて「なるほど」と思いました。

 中隊長から【ビルマに侵攻する予定の】15軍の厳しい命令の詳しい説明があったのは、タイ・ビルマ国境を通過したときだった。このとき、特に注意されたのは、中国での地域住民との愚行と失敗を繰り返さないよう、ビルマでは慎重に自重して行動せよということだった。そのため、日本兵が単独でビルマ人の家に入ることは禁止、住民からの食料と資材の購入は曹長以上の指揮のもとに行われ、略奪・収奪は厳禁だった。
『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』P21

(ちなみにこの体験談は、ビルマに最初期に入った第33師団所属の兵長のもので、宮崎繁三郎将軍はこの師団と関わりはありませんでしたし、まだビルマに入っていませんでした)



 ↑ビルマ戦線における日本兵など(看護婦も含む)の体験談61話(全部違う人の?)を時系列で並べて記述したもので、玉山和夫という方がまず英語版をイギリス、そしてアメリカで出版して好評を得て、その後日本語版も出版されたというものだそうです。



 「中国での地域住民との愚行と失敗を繰り返さないよう」という話を読んで思ったのですが、そういえば何かの本に日本兵の各戦場での振る舞いが数ページ羅列されていて、その中では中国戦線では日本兵は結構ひどいことをしているのですが、その他の戦線ではそれほどではないなぁ……という印象を受けたことがあったのです。


 また『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』には、こういう解説文(体験談でなく)もありました。

 ビルマの人口は1941年に約1700万人で、その3分の2はビルマ族、残りはシャン族、カレン族、チン族、カチン族など、さまざまな少数民族で構成されている。イギリス植民地時代には、イギリス人が最上級の支配階級を占め、その下の支配層に中国人華僑やインド人、さらにその下の郵便局員や巡査などにカレン族などの少数民族を使った。【……】こうして多数民族のビルマ人は最下層の百姓と労働者に抑えこまれ、少数民族と対立させる分割統治が厳格に行われていた。英国傘下の現地軍(開戦時のビルマ師団)は少数民族やインド出身のパンジャブ族が主となって構成され、ビルマ族は兵員の2%に過ぎなかった。
『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』P9



 これもまた興味深い話で、イギリス人がビルマで現地人に対してどういう態度だったのかも色々知りたいですし、あるいは在ビルマの英印軍の詳細について今後調べていく時に、それぞれの部隊が何族でどこから来ていたのかもより詳しく知りたいものだと思いました(日本軍の各連隊がどこの都道府県出身だったかとかも含めて)。



 ともかく個人的に以前から、特にビルマ戦線で日本兵が現地人に対してどうだったのかということに結構興味を抱いていまして、そこらへんまた、ブログ上でとりあえずまとめ始めて追記とかしていきたいと思っています。


<2023/02/14追記>

 先日、ビルマ攻略戦の第15軍司令官として、略奪行為などを禁じた飯田祥二郎中将について (2023/02/13)に書いたのですが、「中国戦線での失敗に学んでビルマでは略奪を禁止した」のはどうも、ビルマ侵攻時の第15軍司令官であった飯田祥二郎中将であったように思われました。

 この中にあって、飯田のとった立場は、当時の陸軍将官の中にあっては、もっとも現地人側の立場を尊重したと思われる種類のものであった。飯田は、事実上の敵地と化してしまった中国本土における経験から、現地住民の支持を得ることが戦争遂行の上に如何に重要なものであるかということを充分に承知していた。かれはまた、満州あるいは華北において進められていた日本人による開発方式に対して批判的な立場をとっていた。
 飯田のもっていたこのような意見は、いくつかのかれの書き遺したものの中に含まれ、その多くが戦史叢書はじめ多くの書物に引用されている。その代表的な部分を一ヶ所だけ ここに引用したい。
「軍政の実施にあたり心配したことは、満州や中国で行なったやり方を、根本において違うところがあるビルマにそのまま持ち込みはせぬかということであった。ビルマではそれまでの町村制を復活させねばならなかったのに、軍人で頭の転換ができない者がいるのはまだしも、司政官として来た人が満州式や支那式で占領行政をやるつもりでかかるので嘆ぜざるを得なかった。日本がビルマの資源活用を図るのは当然としても、ビルマ人に譲りえるものは移譲する方針の下に準備したかった。たとえばシャン州を日本に割譲させようという考えを持つ人には強く反対した」
 飯田の現地人に対する態度は、そのほか例えば敵性華僑の取り扱いにおいて現われている。シンガポールにおいては、大本営からの指示と称するものに従って厳正な処断が行われたが、ラングーンなどにおいては逮捕した敵性華僑をビルマ・中国国境から中国領内に向けて放逐するなどの方法を採っていた。相手側の「敵性華僑」からしてみれば、これは正に歓迎さるべき措置であったろう。

『隠れた名将飯田祥二郎』P188,9



 一方で、たまたま見つけたネット上の論文に、ビルマにおける日本軍側からの残虐行為について書かれているのを見つけました。

「戦場の社会史 ビルマ戦線と拉孟守備隊」の検索結果

 ↑直リンクを貼るのが難しかったので、検索結果のページを貼りました。一番上のリンクが「後編」で、二番目が「前編」になっていると思います。


 N村さんが探してくれた書誌情報のあるページへは↓こちら(ありがとうございます!)。

戦場の社会史 : ビルマ戦線と拉孟守備隊1944年6月-9月(前編)
戦場の社会史 : ビルマ戦線と拉孟守備隊1944年6月-9月(後編)



 この論文は遠藤美幸氏という女性研究者の方が戦場体験者からの聞き取りなどから書かれたもので、この論文の後、『「戦場体験」を受け継ぐということ - ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』という本も出されていて、その中にも日本軍側の残虐行為について(ほぼ論文内と同様に)書かれています。





 論文の方は無料で読めますので、興味のある方はぜひ読んでいただければと思いますが、具体的な残虐行為についてここに引用しておけば、例えば以下のようなことが書かれていました(もちろん、信憑性については色々議論があろうと思います)。

 松山(拉孟)付近で陣地構築が開始された1942年5月以前から,日本軍は現地住民を松山付近から強制的に退去させようとした。中国史料によると, 731部隊が細菌を松山付近の竹子坡村で散布し,その後現地で「鳥の巣病」と呼ばれる風土病が流行し, 多くの部落民が死亡したという記録が残されている。 「鳥の巣病」の症状は,ハルピンでのペスト菌による症状と酷似していたので,後に「ペスト」だと断定された。1942年5月から9月までの5ヶ月間,拉孟陣地に最初の観測所を形成した野砲兵の関昇二中尉によれば,「拉孟の周辺には人気のない廃屋はあったが, 住民の姿はなかった」と証言していることから,日本軍は陣地構築以前から現地住民を強制的に退去させていたと考えられる。 品野によれば, ペスト菌などによる汚染の諜略は,日本軍撤退後の混乱を狙うために用いられたが, 陣地構築前に実施された可能性が指摘されよう。 伊香によるペスト被害の事例では,「撤退時に日本軍に敵対的であった村人にはペスト菌入りの黒い注射をし, 維持会のメンバーで日本軍に協力的な村人には白い注射をした。 黒い注射をされた者の9割はペストの伝染病で死亡した」とある。
 松山周辺の竹子坡村の場合は,1942年に日本軍が突然村にやって来て怪しい行為を行っている。 ある者は土地を測量すると言ってやって来て, 村の山の上に簡単な旗を立てただけで実際に測量はしなかった。また別の者は,肩に大きな箱を担いで木製の人形劇をすると言ってやって来たが,彼らは何のためにやって来たのか,本当の目的がわからなかった。日本軍は1942年5月から竹子坡村の周辺にある山, つまり松山に拉孟陣地を構築したが,そこは以前に怪しい者がやって来て旗を立てた場所であった。
 日本軍は進駐後の1942年9月から1943年3月頃まで、拉孟の周辺部で敗走できなかった中国軍の残兵に対して大規模な掃蕩活動を展開した。この期間に現地住民に対する集団虐殺や村全体を焼却するなどの行為も度々行われたようである。
戦場の社会史:ビルマ戦線と拉孟守備隊1944年6月-9月(前編) 106(540),107(541)


 最後の文の1943年3月というのは飯田祥二郎中将がビルマから離任した時期なので、だとすれば飯田中将が司令官であった時期にも集団虐殺はあったということになりそうです(なかったとも考えにくいわけですけども。また、現地指揮官が勝手にやったことで、飯田中将はそれを禁じていたという可能性ももちろんあるでしょう)。


 あるいは例えば、『回想ビルマ作戦 第三十三軍参謀 痛恨の手記』という本には、著者とその上官が拉孟・騰越地区で作戦行動中に奇襲を受け、「これはあの村が糸を引いたに違いない」と早合点して村を焼き払って帰って来たら、実はその村は苦心惨憺懐柔して情報収集の拠点としていたところで、参謀長に散々叱られたという話が出てくるのを見つけていました(P41,2)。




<追記ここまで>



ロンメルの強さの理由について

 承前。


ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について (2023/01/05)
ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について (2023/01/06)
ロンメルが北アフリカで強かったのは、英連邦軍の上級指揮官達が無能すぎたからである? (2023/01/07)
ロンメルの(細かい)軍事的短所は? (2023/01/08)



 今回のまとめの最後として、「ロンメルの強さの理由について」まとめようと思います。

 対比的な記述で分かりやすいのは、↓の文じゃないかと思います。

 近代的機械化部隊の戦闘は、指揮官のねらいによって、ちがった展開をみせる。食うか食われるかの肉薄戦に勝敗をかける指揮官もいれば、一撃、全軍の戦闘行動をマヒさせてしまうような、敵の中枢への攻撃をいどむものもいる。この二つの戦法をたくみに組み合わせるのが統帥の妙である。
 ロンメルは、経験的にも、本能的にも後者をえらび、アフリカ軍団のクルーウェル将軍は、勝つためには撃破しなければならないから、物量的勝利をめざした。まことにおそるべきコンビであった。
『ロンメル戦車軍団』P67

 古来名将といわれた人は、戦場の地形および相互に関連のある状況、個々の戦況と全般状況との関連を即座に把握するきわめてすぐれた能力を持っていた。ロンメルはこの点においてもずばぬけた才能を持っていた。北アフリカの戦場においては、戦況が迅速に推移する機甲部隊の戦闘の特質、および同戦場にあった部隊の大きさがほどよいスケールのものであったことから、このような指揮官の能力は大きな意味を持っていたのである。
 【……】奇襲的な方策を考案し、敵が予想すらしなかった行動に出ることによってその心理的なバランスを崩すという【……】
 指揮官たる者は敵のバランスを崩すにあたり、かえって自己の側のバランスを崩すようなことになってはならない。【……】「実行の可能性についてのセンス」つまり、戦術的、戦務的に実行可能なことと、不可能なことをはっきりとわきまえる能力が必要である。
『ドキュメント ロンメル戦記』P15



 私なりの理解でより付け加えていきますと……(これがまた、OCSのようなシステムでなければなかなかロンメルのようなプレイは不可能ではないか、とも思われるのですが)。

 ロンメルは、前線の敵部隊を撃破するよりも、敵戦線の後方へと突破機動したり回り込んだりして、敵が襲撃を予測していないような敵の中枢(司令部など)を突いて制圧してしまって敵を麻痺させたり、あるいは敵の大半を恐慌状態に陥らせたりして勝利を掴むということを狙ったし、またそれに長けていた。

 ということではないかと。
(OCSで、地形の特質をうまく利用しつつ、敵の意表を突いて司令部を踏んだり補給集積所を踏んだり、あるいは後方へと進撃して相手プレイヤーにパニックを起こさせるようなプレイが非常に得意な人……という感じでしょう。私もやられまくりましたし、あるいは私自身これを可能な限り狙っている面はあります(^_^; OCSのシリーズデザイナーであるディーン・エスイグ氏は、OCSを北アフリカ戦ゲームのために作ったかのような面もあります(未確認情報)。OCSに不慣れだと守備隊等を置かずにプレイして、相手にロンメル的なプレイをされて投了する可能性は高いだろうと思います。)

 これは、ロンメルが第1次世界大戦の後半に、大隊程度の部隊指揮官として大戦果を挙げてプール・ル・メリート勲章を得ることになった戦いなどで成功した戦い方であり、ロンメルはこの方法論で(もちろん色々修正しつつも)その後も戦っていったわけです。


 ただしその短所として、前線で即興でそれをやる傾向が強く、部隊を分割させてしまいがちだった(マンチネッリの意見)。また、特に第1次攻勢のトブルク攻略戦などで、スピード(タイミングの早さ)さえ早ければ敵を制圧できると思い込むあまり、情報収集がおろそかだったり、部下達への要求が苛酷で、失敗の原因を部下やイタリア軍のせいにして(後知恵からすれば)拙劣な襲撃を何回も繰り返させることになることもあった……。



 以下、収集していた他の、ロンメルの強さに関する記述を挙げていきます。

 ロンメルは、機械化部隊の戦闘というものは、たえず動いていることが必要である、という信念をもっていた。そして守勢にあるときでも、全般的な防御というワクのなかでなら、局地的な攻撃行動もゆるされるものである、と信じていた。
『ロンメル戦車軍団』P16


 ドイツは冷厳にして有能な将軍を、数多く生みだしているが、その間に伍してロンメルがひときわ目立っていたのは、彼がドイツ軍人精神に固有な剛直さを克服し、機に臨み変に応じる才能のひとだったためである。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P3

 【……】予想される危険を無視して、情況をぎりぎりのところまで利用する、ロンメルの臨機応変の巧妙さを示している。この特性は彼をたびたび思いもかけず危険な立場においたが、それでいながら、ことに不決断な敵に対して、徹底的に彼を有利にしたものである。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P41,42

 彼はこの【ポーランド戦の】実地教育で現代戦の技術について学ぶのを忘れなかった。地上部隊と空軍との密接な協力、低空飛行による〈地上攻撃〉の重要性を知った。【……】また後方地区に混乱を拡大することが、死傷者を与える以上に、しばしば敵の士気を阻喪させるのを学んだ。機械化戦ではしゃにむに急進し、敵地深く浸透に成功することが必要で、たとえ切り離されたり、敵の抵抗拠点を素通りして、その敵を後続する歩兵部隊にゆっくりと処理させるように残したりしても、さしつかえないのを学んだ【……】
 戦車は集団として使用し、"細かに"分散してはならないのを知った。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P79

 ロンメルは指揮官として、大胆不敵になる理由のない場合には、きわめて慎重だった
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P93

 もしロンメルが顕著な特性にめぐまれているとしたら、それは弾力性であった。おきあがり小法師のように、彼は倒れるや否や、またも立ち上がっていた。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P146

 決断こそはロンメルのものであって、優柔不断はそのとるところではなかった。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P159


 フリッツ・バイエルラインは戦後、イギリスの軍事評論家B・H・リデル=ハートとの対談で、砂漠の兵士には「身体的能力、知性、順応性、度胸、けんか早さ、大胆さ、冷静さ」が必要だと述べている。指揮官は、これらの資質すべてにおいてさらに優れていなければならず、「精神的に強く、部下に愛情を持ち、地形と敵を判断する本能を持ち、反応が早く、意気込みがある」ことも求められる。ロンメルはバイエルラインが知るどの将校よりも高いレベルでこれらの特徴を併せ持っていた、と彼は断言している。ロンメルはまた、クルセーダー作戦の際に師団から師団へと飛び回っていたのとは対照的に、この【ガザラの】戦闘ではエネルギーを一点に集中し、参謀には自分の居所をほどよく知らせておき、前線にいるときはほとんどいつもひとつの部隊、マルクス戦闘団にとどまっていた。
『パットン対ロンメル』P247


【バイエルラインの証言】「われわれはこう攻撃するつもりだったのです。ラムケのパラシュート旅団、第90軽師団、イタリア第20機械化軍団が、扉の翼のようにアラメイン戦線から北方へ進出する一方、DAK各機甲師団の任務は敵第8軍を包囲し、背後から戦車で殲滅することでした。これがロンメル得意の戦術です。トブルク、マルサ・マトルー、ガザラでもこれで勝ってきました。アラメインでも成功するはずだった。心理的効果の狙いもかなりありましたね。戦線が突破されてドイツ軍が背後にいるとなると、これまでの経験では敵は恐慌を来たしたものです。もちろんDAK機甲師団は戦いながら大きく迂回するのですから、大量の燃料がいります。そればかりでなく、奇襲と急進撃が必要だった。敵にこの作戦に対応して移動するひまを与えないために。つまり成功は燃料と奇襲とにかかっていたのですよ」
『砂漠のキツネ』P249



 また、フォン・メレンティンの証言によると、ロンメルによる状況把握能力、決定の速さ、そしてまた命令を出しておく能力も驚異的であったそうです。

 ロンメルは幕僚達と連絡の取れない日が何日にもなることがあり、毎日のブリーフィングに間に合うように司令部に戻ってくるのは稀だった、とフォン・メレンティンは言った。「彼は戦場から埃と汚れにまみれて到着すると、司令部に乱暴に入ってきてぞんざいに「Wie ist die Lage?」(状況はどうか?)と言う。ヴェストファル(作戦参謀)と私(情報参謀)はすぐに簡潔で明瞭な5分間の要約でそれに答えたものだった。砂漠の狐は、事実を分析し、それに基づいて行動を決定するのに30秒とかからなかった。そして、1週間分もの服すべき方針と命令を出すことも往々にしてあったが、それに修正が必要になることはほぼなかった」と彼は驚嘆と共に語った。
「Portrait of a German General Staff Officer」『Military Review 70(April 1990)』P74,75




 改めて書きますと、OCSでもこういう戦法を「狙えばできる」というものでは全然なく、経験、あるいはセンス、能力が非常に必要だと感じます。もしロンメルばりの能力を持った人とOCSを対戦するとなれば、ボコボコにやられまくって「(ロンメル)恐怖症」になるんじゃないでしょうかね……。


ビルマ戦線:ABDA総司令官ウェーヴェルから、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官マウントバッテン卿への流れ

 以前から何度か触れていました、第二次世界大戦の日英戦についての研究報告書をまとめた「平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書」に再び目を通し始めました。(OCS『South Burma』(仮)の作業に再び取りかかり始めるため&パソコン作業していると目がしんどいので、少しでも楽な印刷物に逃避するため)


平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書



 その中で、良く分かっていなかった、ビルマ戦線の連合軍側の最高司令官であった「ABDA総司令官ウェーヴェルから、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官マウントバッテン卿への流れ」ということについて、分かりやすく書いてあったことを再認識したので、そこの部分だけ抜き書きし、また他の情報も探して付け加えておこうと思いました。

General Archibald Wavell

 ↑ウェーヴェル(Wikipediaから)


Lord Louis Mountbatten Visits Malayan Contingent, Kensington Gardens, London, England, UK, 1946 D28023

 ↑ロンドン・ケンジントン宮殿のマレー人の兵士を閲兵するマウントバッテン卿(1946年)(Wikipediaから)



 その会談【アルカディア会談:1941年末から42年初頭】では、世界的な戦時意思決定機関を設立することも同意された。それを受けて、合同参謀本部(CCS)が設立され、日々の戦争行動が調整され、連合国の戦略の調和が図られた。アジア・太平洋地域に関しては、日本の攻撃の脅威にさらされる地域全体を対象とする米・英・蘭・豪軍の包括的な司令部として、ABDA(米、英、蘭、豪の略)を設立することが同意された。英米とも、日本がその戦域を自由に占領し、連合軍がさらなる危機に陥ることを認識していたので、報われないABDA の司令官に自国軍人を推薦しようとはしなかった。結局、インド駐屯軍司令官であった陸軍大将(のち元帥)アーチボルド・ウェーヴェル卿がその任に就いた。そして、予想されたとおりウェーヴェルは、オランダ領東インド諸島、マレー、シンガポール、ビルマで連合軍の一連の敗北を目撃し、ABDA の司令部はその目的を完全に失ったのである。1942年3月始めにABDA は解散し、派手で議論好きな米国のダグラス・マッカーサー大将の下、南西太平洋方面連合軍司令部として1942年4月に再構成された。
『サキ・ドクリル 対日戦に関する英国の大戦略』P47(平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書)



 日本語版Wikipedia「ABDA司令部」には↓のような記述もありました。

 ABDA司令部の総司令官には、マーシャル米陸軍参謀長の推薦により、イギリス人でインド駐留軍司令官のアーチボルド・ウェーヴェル陸軍大将が任命された。副司令官にはアメリカ陸軍航空軍のジョージ・ブレッド将軍が任命された。この南西太平洋方面連合最高司令部の設置はアメリカが主導権をもっており、「敗戦の責任をとりたくないので、アメリカ人以外を最高責任者に据えた。」という見解もある。 実際、アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官はニミッツ提督(太平洋艦隊長官)に「第一優先事項:アメリカ大陸~ハワイ諸島~ミッドウェー島の補給線を確保せよ(ハワイの維持)」「第二優先事項:アメリカ大陸~サモア諸島やニューカレドニアを確保する(オーストラリアの維持)」を命令しており、アジア方面は二の次であった。彼等はアジアの連合国軍が崩壊して日本軍が同方面を全て占領することを計算にいれており、ABDA部隊は「全滅するまでに、少しでも日本軍の進撃速度を遅らせる」ことを期待されていた。

 イギリス軍とアメリカ軍を指揮することになったウェーヴェル最高司令官は「赤ん坊を引き取る羽目になった男の話は聞いたことがあるが、これは双子なんだからね」と躊躇したが、チャーチル首相の説得に応じて任務を引き受けた。1942年1月7日、ウェーヴェル総司令官はシンガポールに到着した。



<2023/07/06追記>

 ウェーヴェルがABDA司令部を引き受けた時の軍の同僚の感想などの興味深い記述を見つけたので、追記しておこうと思います。

 12月29日、チャーチルはデリーにいるウェーベルにこう電信した。「これほど多くの戦場を一度に扱える経験を持つのは君だけだし、我々も君を支援する。君は最善を尽くすことだろう。この状況がいかに暗く困難なものかは誰もが知っている」。ウェーベルが赴任の知らせを受けたとき、軍の同僚はこう日記に書いた。「彼(ウェーベル)がこれまでに与えられた不公平な扱いや、魔法の杖も振らずに奇跡を起こすよう求められてきたあらゆることの中でも、このABDA司令部は最悪の例だ。」
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P49



<追記ここまで>




 ウェーヴェルの役職の細かい期間は、日本語版Wikipedia「アーチボルド・ウェーヴェル(初代ウェーヴェル伯爵)」によると、

1941年7月11日~1942年1月16日:インド駐留軍司令官
1942年1月15日~1942年2月25日:ABDA司令部司令官(2月25日に司令部が解散)
1942年3月6日~1943年6月20日:インド駐留軍司令官(再任)
1943年10月にインド総督リンリスゴー侯爵が退任すると代わってインド総督に就任

 1942年のビルマ攻略戦は1月20日頃に開始され、5月頃に終わっています。その後、1942年9月21日から第1次アラカン作戦が始まり、1943年5月頃までに終わりました(共に、雨季が始まるため)。ですから、ウェーヴェルはビルマ戦を、最初は(数日前に任命された)ABDA司令部司令官として指揮し始めたものの、1ヵ月後くらいにはABDA司令部自体が解散され、その後再任されたインド駐留軍司令官として指揮し、第1次アラカン作戦(また、第1次チンディット作戦も)をその立場で指揮したということになりそうです。


 ↓そこらへん関係の過去ブログ記事です。

ビルマ戦におけるウェーヴェル将軍について (2022/05/11)
『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』による、第1次アキャブ戦の総括と分析 (2022/05/03)
インド人300万人を死に追いやったチャーチルvs.ウェーヴェル将軍の戦い (2018/05/13)





 一方、こっちはまだ全然調べたこともない、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官マウントバッテン卿について。

 マウントバッテン卿は、それまでに例えば、ディエップ港奇襲作戦を指揮したりしていました。

 1942年8月19日にはノルマンディー上陸作戦のリハーサルとも言うべきディエップ港奇襲作戦を指揮。作戦そのものは大損害を蒙ったものの、後年「ディエップでひとりが戦死したために、Dデーでは10人が助かった」と回想している。
日本語版Wikipedia「ルイス・マウントバッテン」


 英国は、対日戦における目的の真摯さを米国に示し、東南アジアにおける英国のイメージを回復させるために、1943年の夏に海軍提督ルイス・マウントバッテン卿が率いる東南アジア連合軍(SEAC)を設立することを提案した。マウントバッテンの任務は、ビルマ、マレー、および東南アジアのその他地域から日本軍を一掃し、ビルマ北部を通って中国に至るルートを再開させることであった。
 キングジョージⅥ世の従兄弟であり、英海軍最年少の中将であったマウントバッテンは、1943年8月に東南アジア連合軍の総司令官の任に就いたときは42歳であった。副総司令官にはスティルウェル中将が就任した。SEACに派遣された米軍将校の多くは、居心地の悪さを感じた。アジア人からは、東南アジアの大英帝国を取り戻す活動にアメリカ人が手を貸していると見られる可能性があったからである。米軍将校たちは、SEACを「Save England's Asiatic Colonies―イギリスのアジア植民地を救え」と呼んだ。SEACは、連合軍の優先順位リストの比較的下位に位置していた。マウントバッテンは、その軍事目的の達成に必要な資源と兵士を何度も奪われた。恐らく、東南アジア戦域は、英米が共同で戦った戦域のなかで、最も失敗が多く、政治的に分断されていた戦域であった。
『サキ・ドクリル 対日戦に関する英国の大戦略』P54(平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書)




 また今後、ここらへんのことに関して理解が深まったら、追記していこうと思います。


ロンメルの(細かい)軍事的短所は?

 承前。


ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について (2023/01/05)
ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について (2023/01/06)
ロンメルが北アフリカで強かったのは、英連邦軍の上級指揮官達が無能すぎたからである? (2023/01/07)




 今回は、ロンメルの軍事的短所についてです。

(あらかじめ書いておきますと、私は「人間は長所も短所もあるのが当たり前」「完璧な人間など存在しない」と思います)



 ロンメルの欠点としては、「戦略的見地のなさ(軍団長以上としては不適格)」「補給の軽視」「自己顕示的」あたりが有名だと思いますが、そこらへんは山崎雅弘さんや大木毅さんの著作に詳述されていますので、今回メインにしたいのはそれら以外のより細かい短所についてです。以下、引用の都合で短所だけでなく長所も混じっていますが……。

 マンチネッリによれば、ロンメルの戦術指揮所はよく管理され、機動性があり、迅速な作戦のために訓練されており、数分で(時には前触れもなく)実行に移るのであった。また時にそれは、ロンメルの車の後ろに付き従っていた者達だけによって行われたという。これらの動きは、常に戦闘の展開と効率的に関連していた。しかし、ロンメルとイタリア軍司令部との間の緊急連絡を繋ぐことを唯一の任務としていたマンチネッリにとっては、この指揮スタイルは常に絶望感を生み出すものだったし、また「ロンメルの軍事的欠点の一つ」となっていた。

 ロンメルは、戦闘の経過を追うために、常に参謀長やマンチネッリらを同行させ、適切なタイミングで適切な措置を取れるようにしていたのである。このような状況化で、ロンメルは、まさに「死を恐れず、獲物を逃したら怒る巨大な狐」のような存在だった。

 防衛戦では、ロンメルはまた異なった様子であったとマンチネッリは言う。ロンメルは軍団司令官達に敵を封じ込める防衛策を作らせ、自分は敵の作戦計画を確認し、攻撃の重心を見極め、反撃の判断を下すのであった。マンチネッリの指摘によると、ロンメルはせっかちな性格なので、頻繁に前線に出て自分の目で状況を確認していた - 1個軍を指揮する将軍のようにではなく、あたかも特殊部隊の指揮官のように - という。

 マンチネッリは、ロンメルは防御側になった場合、攻撃側とおなじような能力を発揮できなかったと述べている。しかし、ロンメルは防御する場合でも砂漠の広い空間を利用して、常に機動的に行動しようとした。また、ロンメルは圧倒されそうになったその端から、常に反撃を開始する用意ができていた。マンチネッリによると、ロンメルは「……危険に対する絶妙な感受性」に支えられた無自覚な勇敢さという個人的特徴を持っていたが、適切な航空支援がない場合には無力さを感じ、イギリス空軍の空襲がロンメルの決断の一部に影響を与えていたという。

 【……】

 マンチネッリの意見では、ロンメルの北アフリカでの「指揮の技巧」には、議論の余地のある要素が1つだけあった。具体的には、ロンメルは戦闘を即興で行うことに頼り、ドイツ軍が連携して一緒に戦う訓練を高度に受けていたにもかかわらず、小さな、相互に代替可能でないような混成の孤立した集団に分けてしまうことで、砂漠の軍全体の戦闘効率を低下させたというのである。ロンメルの指揮スタイルにおけるこの傾向は、一時的な状況、つまり攻撃的または反攻的な状況を解決するものではなかった。
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P67,8

 それにロンメルは完璧ではなかった。恐らく彼が犯した最も大きな過ちは、彼が命令に従わなかったことだった。ロンメルはソ連との戦いが近いことを知らなかったが、彼の行動はその後2年以上にわたってドイツ軍の力を減じさせ、理念的政治的な観点から言って「真の戦争」であった対ソ戦からヒトラーの注意をそれさせたのである。だが、ロンメルがドイツ国民の英雄となったのは、彼の不服従がもたらした結果のひとつであった。
 もう一つのロンメルの欠点は、陸海空の統合作戦を理解しなかったことであった。例えば、彼は1941年初頭に彼が有していた小規模な空挺部隊や、陸海空軍共同能力をまったく活用しなかった。彼の欠点として、部隊を集中運用しない傾向にあったことも挙げられる。北アフリカ戦役中にロンメルは何度か、部隊を非常に遠い距離に展開させてしまい、集中することができずに勝利を逃していたのである。彼が士官学校の出身ではないということが、北アフリカ戦において最も重要であった補給将校との密接な連携ができない要因となっていたのかもしれない。後にドイツ軍を指揮して地中海戦域で指揮したケッセルリング元帥は、ロンメルは短気すぎ、イタリア軍との連携する方法を学ぼうとしない、と感じていた。それゆえ我々はこう言えるであろう。ロンメルは並外れた戦術家であり、兵士達に熱狂的に尊敬されたが、戦略家としては無能であり、またこの非常に重要な戦域で彼が望んだ、あるいは必要としていた支援を受けることは決してあり得ないことであった、と。
『Rommel's North Africa Campaign』P47

 彼の一層明確な欠点と思われるものは、戦略の執行面を無視する傾きがあったこと、および細かなはしばしに至るまで完全ではなかったということだ。同時に彼は権限を委譲する方法を知らず、それが彼の部下の指揮官達を非常に悩ませたのである。彼は万事を悉く自分でやろうとしただけでなく、すべての場所へ自分で行こうとしたために、度々司令部からの連絡がつかなくなって、何か大事な決定のために参謀が探している時に、彼は戦場を自ら乗り廻しているというようなことがあった。
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P48,9



 ウォーゲームのプレイにおいても、「即興での細かい部隊運用で相手を翻弄する」のが得意、あるいは好きという人はいるかと思います(特に、OCSのようにユニットが多め細かめで移動力も大きくできるゲームにおいてはそれがかなり可能でしょう)。

 一方でクリューヴェルなどはむしろ「敵を撃破できるチャンスで部隊を集中運用して撃破してしまう」ことに重きを置いた指揮官であったようです。これらは個々の指揮官が「どこに重きを置くか」「好きか」というような話にすぎないのではないかとも思うのですけども、ただ、マンチネッリらが思うのは、「集中するのも良い(時もある)だろうと思うのに、ロンメルは分割運用に偏っていた」ということなのでしょうね。



 上陸作戦については、ガザラの戦い時にロンメルは、計画・準備はしたのですが、結局実行されなかったようです。

OCS『DAK-II』:ガザラ戦で敵後方に上陸しようとしていたヘッカー戦闘団 (2018/07/30)



 空挺作戦も、1942年7月にイタリア軍の「青年ファシスト」部隊によって行われたという話があるようなのですが、これはロンメルが指示したものではなかったということなのかもです。

 1942年の夏にはこの師団はエジプトのシワオワシスを占領したが、その目的はエル・アラメインを攻撃する枢軸軍の部隊の南にイギリス軍からの軍事行動の可能性を阻害するためであった。実際、1942年7月にはドイツ軍のJu.52輸送機がこの戦略的に重要なシワオワシスを攻略するために「青年ファシスト」の1個大隊を輸送し、アフリカにおいて枢軸軍による最大規模の空挺降下作戦をおこなった。師団の残りもすぐに駆けつけ、来なかったのは第4対戦車大隊の2個中隊だけであった。シワオワシスは連合軍の長距離砂漠挺身隊がリビア国内に襲撃するための中間準備地域になっており、今や枢軸軍側がやり返す機会が来たのであった。イタリア軍の計画立案者達はナイルへ繋がる道を切望していた。
英語版Wikipedia「136th Armoured Division Giovani Fascisti」



ロンメルが北アフリカで強かったのは、英連邦軍の上級指揮官達が無能すぎたからである?

 承前。


ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について (2023/01/05)
ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について (2023/01/06)



 この後、ロンメルの軍事的長所と短所についてまとめようと思っているのですが、その前に「ロンメルが北アフリカで強かったのは、英連邦軍の上級指揮官達が無能すぎたからである?」という説について(^_^;

 ロンメルが輝いて見えた理由の一つは、英連邦軍の質が低かったからであった。活力的な枢軸軍およびロンメルと相対した英連邦軍にとって、砂漠はためになる学習体験であった。多くの並外れた英連邦軍部隊が存在したにも関わらず、オコーナー将軍が捕虜となった後の英連邦軍のトップのリーダーシップは貧弱なものであった。多くのイギリス軍将官の無能さが際だったものであったために、それがロンメルをして良く見せることに繋がったのである。イタリアの歴史家Emilio Faldellaは述べている。
「ロンメル伝説は、イギリス軍によって作られた。彼らは彼らの敗北の原因を、敵陣営の側に並外れた将軍がいるからだとして正当化し、ドイツ軍やイタリア軍の将官達の方が質的に優秀であることを認めることを拒んだのである。」
『Rommel's North Africa Campaign』P46,47

 第8軍の指揮環境はといえば、これら【ドイツ軍の指揮環境】すべてからほど遠かった。上級将校は互いを嫌って信用しないのが普通で、命令がもとで議論が始まったり、協力したとしてもその場限りということが多かった。
『パットン対ロンメル』P257

 【……】アフリカ軍団はしっかりと組織された戦闘部隊であり、その指揮官達は共通の戦術ドクトリンと、規律の高さを誇っていた。対照的に、幾人かのイギリス軍の指揮官達の間の人間関係 - 特に機甲師団の間での - が最悪であることは皆が知っていることであり、しかも議論を元に命令を出すという一般的な傾向があった。
-南アフリカ軍公式戦史
『Rommel's North Africa Campaign』P150

 ガザラの戦いは北アフリカにおけるロンメルの最も偉大な勝利であった。彼の手綱さばきと、彼がイギリス第8軍に加えた執拗な圧力が、彼を傑出した機甲指揮官となさしめたのであった。対照的に、リッチー中将は優勢な戦力を持ちながらイニシアティブをまったく握ることも、アフリカ装甲軍に打撃を与えることもできなかった。この戦いは、ロンメルの機動にイギリス軍の将軍達が振り回される形で戦われたのである。
『GAZALA 1942』P14

 ロンメルは、フランスで機甲部隊を扱った経験を多く持った状態で北アフリカ戦域にやってきた。彼は大胆な機動と痛烈な攻撃を会得しており、大胆さと戦場における決断が常に敵の平衡を失わせるのだと考えていた。ロンメルは砂漠で相対したイギリス軍指揮官達が機甲戦術において劣ることにすぐに気付いた。彼らはめったに危険を冒そうとせず、敵をすり潰せるほどの圧倒的な戦力が集積できるまで待つ傾向があった。
『GAZALA 1942』P17

 彼【ロンメル】の勝利は戦車のみでなく、兵器と部隊の特長を把握し、それらを有効に組み合わせることにより成しとげられた。彼の戦術により、アフリカ軍団は常に優勢な敵と戦いつづけることができたのである。
 彼は機動戦というより攻勢防御の専門家であった。彼の部隊の移動は非常に早かった。そのスピードは、攻撃のためよりも、むしろ戦いに有利な場所に位置するために発揮された。敵が攻めなければならない位置に移動して守りを固める。これが彼の得意な戦法だった。イギリスの将軍たち、特にゴットやニームたちは、ロンメルの陣地に正面から攻撃をかけ、敗れ去っていった。彼らは、ロンメルに対し、中途半端な見敵必戦主義が役に立たないことが理解できなかったのである。
 ロンメルに対抗するためには、2つの極端なパーソナリティのうち1つを持たなければならない。
 1つは、ロンメルが有利な場所に移動する前に攻撃する。
 もう1つはロンメルが守りを固めても攻撃に出ない。そして、自分に有利な条件がそろうまで、じっくり待つ。
 この2つである。前者がパットン、後者がモントゴメリーを表している。ロンメルは北アフリカ戦の最後で、最もやりにくい相手と戦ったのである。
『アフリカンギャンビット』P18,9


 今回まとめてみたのは、英連邦軍の「指揮官」についての記述ですが、英連邦軍の「戦術」が良くなかった件については以前、↓でまとめてました。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)




 ただ、英連邦軍の上級指揮官が良くなかった件ですが、一番上の「中東戦域軍司令官」であったウェーヴェルオーキンレックは決して無能ではなく、(欠点はもちろんあったにしても)むしろ有能であったと評されていると思います。しかしこの中東戦域軍司令官というのは、エジプトとリビアの戦場だけでなく……どころか、中東を中心とするものすごく広大な戦域を統括する役職であったので、北アフリカ戦にだけ関わっていることはできませんでした。

 で、そのすぐ下の、いわゆる「第8軍」(初期は時期によって「西方砂漠部隊」「第13軍団」「キレナイカ地域守備軍」などがそれに当たると思われます)の司令官が、超絶優秀なオコーナーが捕虜になってしまって以降、モントゴメリーが就任するまで皆無能だった……。

 全員並べるとこういう面々になります。

オコーナー
ニーム
ベレスフォード=ピアース
カニンガム
リッチー
オーキンレック(直接指揮)
ゴット(実質的な指揮期間はゼロですが)
モントゴメリー


 それ以外でも、ゴットと並んでイギリス軍兵士達に人気のあった「ジョック」キャンベルも上級指揮官としてはロンメルにまったく敵わなかったであろうと目されていますし、軍団長、師団長クラスでも優秀な人物がいなかった(何ならほとんどみんな能力が劣っていたし、連携も全然取れていなかった)ようです。

 師団長の中では、第9オーストラリア歩兵師団長のモースヘッドや第2ニュージーランド歩兵師団長のフレイバーグなどはかなり優秀であったと思われますが、イギリス本国軍を率いていなかった(というか、イギリス本国軍指揮官達から蔑視されていたオーストラリアやニュージーランド軍部隊の指揮官であった)ことから、昇進できなかった面があるようです。


 結局、モントゴメリーが就任した後、それまで北アフリカで戦っていた上級指揮官達のほとんどがモントゴメリーによって解任され、モントゴメリーが連れてきた参謀や指揮官達によって、(もちろん物量もあって)ようやく最終的な勝利が勝ち取られたのでした。


ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について

 承前。


ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について (2023/01/05)


 今回は、「ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について」です。



 例によって、マンチネッリの記述から。

 ロンメルは、ケッセルリング、カヴァレロ、バスティコの各陸軍元帥に非難されると激しく反応を示したし、他の誰でも(イタリアの将軍を含む)に反論されると手に負えなくなった。しかし、イタリアの将軍達を祝福する時の彼は大いに人間味があった。ただ、恥ずかしがり屋で、また決して言葉を飾り立てたりはしないことでその人間味は分かりにくくなってはいたが。

 ロンメルは、戦場では大いに柔軟性を発揮したのに、自分の見解に疑問を呈するような発言には柔軟に対応することができなかった。マンチネッリ自身は、ロンメルとは良き友人であったし、お互いに尊敬し合っていたと主張している。

 彼はロンメルと何度も議論する機会があったが、マンチネッリはそのような状況の中では、「ロンメルが自分の堅固な要塞に引きこもって、1ミリたりとも動かない」のを目の当たりにした。

 一方ロンメルが並はずれて高く評価したのは、彼に個人的な献身を示し、「疑問を持つことなく行動する確固たる意志を持って」彼の命令に従ったイタリアの将軍達だった。

 マンチネッリによれば、この中にはイタリアの将軍達の大半も含まれていたという。ロンメルは、ドイツ軍のであれイタリア軍のであれ、部隊指揮官達にこれらの条件が欠けていれば、その代わりを見つけることに執念を燃やした。

『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P65


 これを読んだ感じでは、今の日本社会の感覚からすると「とんでもない中間管理職」という感じがしますが……(^_^;


 ↓こういう記述もあります。

 【ロンメル】将軍はその姿を見せる至るところで、全将兵の熱意と気力を、ふるい立たせた。彼は自己と同じような熱意と行動力を欠く部下を、黙認しておくことができなかったし、率先してことに当る勇気のないものは何ぴとといわず、仮借なく取り扱った。出て行け! 即刻ドイツへ送り返されてしまった。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P52

 彼【ロンメル】はまた、部下ひとりひとりが彼の切迫感を共有すれば、いかなる問題でも順調に解決すると考えていた。その心構えを受け入れて自分のものにしなかった者が重要な地位に長く残ることはめったになかった。ロンメルはおそらく自分が参謀としての訓練を欠いていたことを反映してか、参謀とは用心深いものだと考えていた。鉛筆をとがらせて作戦上の問題点を述べ、好機ではなく問題点ばかりに目をやりがちだというのである。指揮官は管理部門の判断を鵜呑みにするのではなく、独自に兵站業務上実行可能な見積もりを作り、それにしたがって要求を示すべきだ、とロンメルは反論した。
『パットン対ロンメル』P220,1

 アフリカ装甲軍のロンメル以外の司令官も、優秀な者が多かった。ロンメルは自分と波長の合わない者の代わりに、彼が望む機動戦を理解する者を部下に据えた。このことにより、アフリカ装甲軍は、非常にスムーズに作戦を遂行することができた。というのも、ロンメルがベルリンなどへ飛んで不在の時でも、彼の部下と参謀たちは、ロンメル流の機動戦を展開することができたからである。あるいは、そのような部下や参謀たちだったからこそ、ともすれば粋すぎるロンメルの行動に、歯止めをかけることもできたのだった。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP28



 実際、ロンメルの第一次攻勢でトブルクの攻略に失敗した時期にはロンメルの部下達の多くがロンメルに反発し、彼らはその後ロンメルによって更迭されています。しかしその後、ロンメルの求める条件に合うような部下が揃ってくると、第一次攻勢の時よりも高いパフォーマンスが出るようになってきたようです(ある意味、当たり前の話ではありますが(^_^;)。

 ただし、ロンメル自身が自分に厳しい人物であり、部下(部隊指揮官)にもそれと同等の水準を要求した、ということであります。

ロンメルが兵士達に好かれた理由について (2022/08/01)



 ところがイタリア軍は、貴族出身者が上級部隊指揮官となって贅沢し、責任逃れするというのが常態であったため(ドイツは第一次世界大戦敗戦時に貴族制度が廃止。貴族出身者への優遇やサークル意識はそれ以後も続いたものの、イタリアは第二次世界大戦時も依然として王国であったので、貴族優遇の度合いが強かったのだと思われます)、イタリア軍の下級指揮官達や兵士達にロンメルはものすごく敬愛されたのでした。

 また彼は活動的な若干の将校に、彼らの真価を発揮する機会を与えたのであるが、それは年功序列制で固まっている将軍達では、到底やれないようなことであった。そのため、彼は若手から非常な尊敬を受けた。この感情は、実は多くのイタリヤ将兵にも感染した。彼らは安全第一主義の、耄碌したような自国の司令官に較べて、なんと決定的に違うものなのかと感じたのである。
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P48,9

ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について

 北アフリカ戦のロンメル周辺の指揮官について、今度はイタリア軍指揮官についてまとめていこうということで、以前ざっと目を通していた『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』の情報をまとめる作業に入っていたんですが、その中でイタリア軍のマンチネッリという独伊軍間の連絡将校がロンメルについて書きのこした文章が面白く、ロンメル関係のそこらへんについて一度まとめておこうと思いました。






 まずは、マンチネッリの主張する(?)「ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた?」ということについて。

 彼【マンチネッリ】が思い出すのは、軍事教育しか受けていないロンメルとの会話は、いつも非常に堅苦しく、軍事的な話題から外れることはなかったということであった。マンチネッリは、ロンメルが夜も昼も(おそらく寝ている間も)考えていることは、部隊への気遣い、戦況の解釈、敵の研究、将来の作戦の計画などに関係することだと確信していた。

 マンチネッリ自身の言葉によると、

「私が北アフリカでの軍務に就き始めて間もない頃、ロンメルが思わず発した感嘆の言葉にひどく驚愕したことを覚えている。私達はマルマリカ【トブルク周辺のリビア東部地域】の荒涼とした風景の前にいたのだが、ロンメルは私に『君達は素晴らしい植民地を持っている!』と言ったのだった。私は彼の顔を見て、皮肉を言っているのかと思ったが、彼の様子は真剣なものだった。ロンメルの目にはあの広大な砂漠が、機械化軍団で機動戦を行うのに理想的な場所と見えていたのだ。そしてその景色は彼にとって、地球上の他のあらゆる誘惑よりも素晴らしいものだったのだ。」
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P64




 この説を補強するような逸話として思いつくのは、ノルマンディー戦の前段階の準備を色々しているある時フランス貴族の邸宅かどこかで、参謀長のガウゼが素晴らしい芸術的な陶器を見つけ、「ほら、これ素晴らしいですよ!」とロンメルに見せたらロンメルは「陶器か、素晴らしい! 陶器を地雷にするという方法もあるな!」と叫んだとか、ガウゼの後に参謀長になったシュパイデルが、司令部にしていた邸宅で交響曲のレコードを大音量で流していたのだけどロンメルはそれに腹を立てていた(が、シュパイデルが言うことを聞かないので諦めていた)とか、連合軍がノルマンディーに上陸した後も参謀将校達は卓球をしたりして気晴らしをしていたのだけど、ロンメルは寸暇も惜しんで部隊を回っていた……とか。

 一方で、反証として思いつくのは、ロンメルは自宅が爆撃を受けるかもしれないと荷物を避難させる時に、日本大使からもらった日本刀をその中に含めるように指示したとか、フランスで(国民的英雄であったので)女性達からものすごくちやほやされた時喜んでいたとかいう話もあります(恐らくすべて、『狐の足跡』に挙げられていたエピソード)。




 それから、そこらへんに付随して、ロンメルの北アフリカでの外見(身なり)に関して。ここでも割と、実際の有効性が重視されていたのかなという印象を受けます。

 ロンメルは、頑丈で素朴な覆いのない車に乗っているところを、毎日のように戦場のあちこちで目撃されていた。マンチネッリによれば、ロンメルは夏でも冬でも決して脱がなかったという黒革のレインコートを着ていた。ロンメルは、戦場では妙に目立つ黄色いチェックのスカーフ[1]を首に巻いていた。彼が述べる、ロンメルの典型的な姿とは、頭からつま先まで砂ぼこりにまみれ、風や日差しで唇が荒れ、砂漠の風景の一部として溶け込んでいるというものだった。しかしひとつだけ例外があり、危機的に重要な状況においては枢軸軍の部隊に対してより目立つように、ロンメルは大きくて派手な緋色の将官用カフスを身につけており、少し遠くからでも彼だとはっきり分かった。

[1]この印象的なサフランイエローのスカーフは、ロンメルが愛称として「トゥルーデ」と呼んでいた娘のゲルトルート【ルーシーの前につきあっていた女性との間の子】が、ロンメルのために作ったものだった。
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P66



 ここで書かれている「黄色いチェックのスカーフ」の写真を探してみたのですが、例えば↓の最初のロンメルの写真とか?

Revealed: Desert Fox Erwin Rommel was given his legendary goggles by a British PoW in return for retrieving a stolen hat





 それから、北アフリカにおけるロンメルの食事や睡眠について。

 マンチネッリによるとロンメルの戦場での生活は、テントや自動車の中で一人で寝て、イワシ缶やソーセージ缶、パンなどの下士官用の糧食を食べ、煙草も吸わず酒も飲まず、できることなら毎日日没とともに眠りにつくという、原始的で最大限にシンプルなものであったという。
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P65

 ロンメルそのひとは食事に関して控え目で、食べものにも不平をこぼさなかった。彼は兵隊と同じ割当てで生活しているものと思っていた。だいたい、食卓に出るものは、罐詰のイワシ、まずい罐詰のソーセージ、パン、それから例の「おいぼれ【MA】」のほかには、ほとんど何もなかった。唯一のぜいたくといえば、交際上特別の場合に、一杯のブドウ酒を飲むぐらいのものだった。煙草は全然吸わなかった。事実、彼とその好敵手モントゴメリイとは、質実剛健な生活態度の点で、不思議なほど相似ていた。
 ロンメルは好んで早寝をしたが、いつも早起きで、そして仕事に打ちこんでいた。狩猟が好きで、時々、気晴らしに、砂漠でカモシカ猟をやった。そういう時、感情を表にださない彼の外観の下から、狩猟本能が鋭くほとばしりでるのを、ひとは知った。さもなければ彼はもう一つの休養をとっていた。- 蠅叩きである。毎日昼の食事時間に、できるだけ数多くこの害虫を退治するため、規則正しくこの仕事に励んでいた。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P89

 それ以外の身体的環境も同じく質実剛健で、汚れた靴の将軍を尊敬する兵たちは、彼にあこがれを抱いた。オーキンレックはロンメルを見習い、参謀が厳しい環境におかれるような司令部を故意に作って彼への敬意を表したが、不必要なほど質素に抑えるロンメルの生活様式が、砂漠という外界の過酷な状況よりも彼の健康を損ね、彼の能力を低下させたのはほぼ間違いない。モントゴメリーの言葉を借りれば、「どんな大馬鹿野郎でも体を壊す」のだ。
 ロンメルの専属スタッフたちは、できる限り出しゃばらないようにしながらも、新鮮なタンパク質を用意するために釣りや狩りに出かけたり、卵や鶏をもらってきたり、果物や野菜を飛行機で届けてさせたりして彼の面倒を見た。それでもやはりロンメルは誰が見ても弱っており、本人もひとしきり耐えていたので、このときには参謀長として任務に戻っていたガウゼが徹底的な健康診断を受けるよう主張した。ヴュルツブルク大学の消化器専門医で、ロンメルが長年にわたって健康の問題を打ち明けていた医師は、ロンメルは消化器系の病気と低血圧で衰弱しており、次の攻撃を指揮する健康状態にないという診断を下した。勧告された治療は長期療養だった。……ロンメルのような人物にとって、生まれて初めて体がいうことを聞かなくなると、終生強靭な体力を誇ったことのない人間よりも、心に与える影響は大きかった。増えつつある凶兆に、新たに加えられた一項目だったのである。
『パットン対ロンメル』P265,6




 ただし、ロンメルは兵士達に隠れてパスタを食っていた、という話(説?)もあります。

ロンメルは隠れてパスタを食っていた!? (2013/12/11)





 北アフリカ戦後期における「ロンメルの病気」というのはどの本にも書かれていますけども、症状としては(痛みのために?)気絶するほどのものであったそうで、そこらへんまではほとんど書かれていないわけですが、その辺りの具体性は個人的に重要な気がしています。

 ところが北アフリカ戦の前半においては、ロンメル以外の参謀や指揮官達が次々に黄疸など(今調べてみたところ、症状としては発熱、重度の腹痛、血の混じった嘔吐、血便などだそうで……)でドイツ本国に療養の為帰らざるを得なくなったのにロンメルはピンピンしていて寸暇を惜しんで前線をまわっており、とにかく人生においてずっと健康と体力に自信のあったロンメルは、健康が悪化しても限界まで我慢した挙げ句、(第3次エル・アラメインの戦いの前の時期に)いったんドイツに帰って療養せざるを得なくなったということだったんでしょうね。

 そしてエル・アラメインから退却する間中ずっと、ロンメルは超絶悲観的な考えに支配され続け、(過度に)楽観的なケッセルリングや、退却することがイタリア(ムッソリーニ)にとって政治的ダメージになることを恐れるイタリア軍上層部から非難されまくります。ここらへんも、「ロンメルの自信の崩壊」(あるいは、ヒトラーへの信奉の崩壊も?)と関係があるのではないかと個人的に思っているんですが……(ただし、何の裏づけもありません(^_^;)


北アフリカや東部戦線で戦い、最後のドイツアフリカ軍団長として降伏、捕虜となった後、ドイツへ送還されカレー上陸作戦という欺瞞情報をヒトラーに伝えることになったクラーマー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、北アフリカや東部戦線で戦い、最後のドイツアフリカ軍団長として降伏、捕虜となった後、ドイツへ送還されカレー上陸作戦という欺瞞情報をヒトラーに伝えることになったクラーマー将軍についてです。




Bundesarchiv Bild 146-1977-134-13, Hans Cramer

 ↑1941年のハンス・クラーマー(Wikipediaから)



 ハンス・クラーマーは第1次世界大戦が始まると士官候補生として陸軍に入隊して数多くの戦いに参加し、鉄十字章を受勲しています。1918年にイギリス軍の捕虜となりましたが、翌年釈放され、軍に志願して合格。1923年には歩兵科から騎兵科に転属し、1927年から1929年にかけて参謀本部の訓練を受けました。また、1930年代には第1騎兵師団参謀や騎兵学校の教官などを務めています。

 第二次世界大戦勃発時には騎兵訓練実験隊の指揮官で、この部隊を率いてポーランド侵攻に参加し、二級と一級の鉄十字略章を受勲しています。その後フランス戦にも参加。

 1940年11月には装甲連隊の指揮を割り当てられることになり、この任務に備えて陸軍人事部はクラーマーを第10装甲師団の参謀に任命し、非公式にこの任務のための指導期間を設けました。そしてその後1941年3月22日(英語版とドイツ語版Wikipediaでは25日)、ダルムシュタットで第15装甲師団の第8装甲連隊の指揮を執り始めます。第15装甲師団は北アフリカに送られることになったため、まずイタリア、そして船に乗ってトリポリへと向かいました。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団ユニット。「I-8」「II-8」を合わせたものが第8装甲連隊となります。

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 1941年5月のブレヴィティ作戦時には、クラーマー第8装甲連隊を率いて奇襲攻撃を仕掛け、イギリス軍の重要拠点であるシディ・アゼイズを占領、間髪入れずカプッツォ砦に向かいそこも制圧。その後、ハルファヤ峠の攻略にも大きな役割を果たします。ロンメルと第15装甲師団長のノイマン=ジルコウから推薦されて6月27日に騎士十字章を授与されましたが、その直前の6月24日にソルームへの攻撃を指揮している時に重傷を負っていました。

 英語版・ドイツ語版Wikipediaによると1941年9月には第8装甲連隊の指揮に戻ることができたとあり、ドイツ語版Wikipeidaでは10月頃から指揮官教育の一環として第10装甲師団(当時タイフーン作戦に参加していた)で装甲連隊の連隊長を務めたとありますが、パウル・カレルの『砂漠のキツネ』では1942年1月のロンメルの第2次攻勢に参加したことになっています。一方、『Rommel's Desert Commanders』上の記述ではこの間ずっと入院していたかのような感じです(資料間のバラバラ度がひどすぎ(^_^;)。


 1942年4月1日にクラーマーは陸軍最高司令部の機動部隊(Schnellen Truppen:詳細はよく分かりませんが、ベルリン近くに置かれていた予備部隊?)の参謀長に任命され、11月には少将へ昇進しました。

 一方、この1942年11月にスターリングラードを包囲するソ連軍の天王星作戦が開始され、ソ連軍に北側からの突破を許してしまった第48装甲軍団長ハイムが職務怠慢で逮捕されることになり、クラーマーはその軍団長代理として派遣され、できる限りのことをしました(1942年11月20日~11月25日)。11月26日にはエーバーバッハと交代しましたが、彼が12月1日に重傷を負ったため、その後任の正規司令官とされたフォン・クノーベルスドルフが到着する12月10日までの間、再びクラーマーが代理指揮を執りました。


 ↓OCS『Case Blue』の第48装甲軍団ユニット。

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 『Rommel's Desert Commanders』によればその後、1943年2月までのクラーマーの居場所は明確でないものの、フォン・マンシュタインのドン軍集団の特務に就いていたのではないかとのこと。また、少将になってから2ヵ月程度の1943年1月22日に中将に昇進しており、非常に早い昇進だったそうです。

 その同日、クラーマーはドニェツ川流域でボロボロになっていた戦区を担当するクラーマー軍支隊の司令官に任命されましたが、2月10日にはその司令官職をエアハルト・ラウスに譲って総統予備となりました。


 ↓OCS『Case Blue』のクラーマー軍支隊司令部ユニット。

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20日間ほどしか存在しなかったクラーマー軍支隊の司令部ユニットがちゃんと入っているとはさすが『Case Blue』……。後継のラウス軍支隊司令部ユニットも入っています)




 短い休暇の後、クラーマーはチュニジアに派遣され、1943年2月28日頃(『Rommel's Desert Commanders』による。英語版Wikipediaでは「2月」。『Unknown Generals』と『砂漠のキツネ』によれば3月5日、日本語版とドイツ語版Wikipediaによれば3月13日。)にドイツアフリカ軍団の指揮を執り始めました。この直前の時期、前任のドイツアフリカ軍団司令官であったツィーグラーはマレトラインの東のメデニーヌへ向けてイギリス第8軍に対する一撃を企図しており、クラーマーはそれを受け継いで攻勢を指揮することになったようです。


 ↓OCS『Tunisia II』のドイツアフリカ軍団司令部ユニット。

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 ↓OCS『Tunisia II』のマレトラインシナリオのメデニーヌ周辺のマップ。
カセリーヌ峠の戦いの序盤でアメリカ軍機甲部隊に大打撃を与えるも、その他でそれほどぱっとしないツィーグラー将軍について (2022/11/03)から)

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 この時のこととして、『砂漠のキツネ』にはこのような記述がありました。

 クラーマー将軍が、第21機甲師団の戦闘指揮所へ行くと、師団長ヒルデブラント少将が予備戦車隊の横で砲火を浴びながら心配そうな顔をしていた。「進めないんだ」 クラーマー自身も前方は一面火のかべであることを知っていた。イギリス軍砲兵は進撃する戦車に気が遠くなるほどの砲弾を見舞った。
『砂漠のキツネ』P343

 3月6日16時になると、ロンメルにもその将軍たちにも、メデニーヌ=メタミュル地区でもはや勝利は得られないことがはっきりしてきた。クラーマー将軍は戦闘を打ち切ろうと提案し、ロンメルも同意した。これでドイツ=イタリア機甲軍最後の大攻勢も終わり、アフリカ戦の最期も重苦しくせまってきたのであった。
『砂漠のキツネ』P344




 その後、チュニジアとフォン・アルニム将軍と共に戦いますが衆寡敵せず補給も途絶し、1943年5月12日に降伏のやむなきに至ります。

 5月12日午後フォン・アルニム大将は兵団とDAKの本部を代表して降伏した。DAK最後の司令官クラーマー将軍は最後の無線連絡を行った。
「最高作戦司令部へ。弾薬を撃ち尽くし、兵器、装備類を破壊す。DAKは命令どおり、戦闘能力をうしなうまで戦えり。ドイツ・アフリカ軍団の再興を祈る。クラーマー」

『砂漠のキツネ』P352



 イギリス軍の捕虜となったクラーマーは、イギリスのトレント・パーク収容所に収容されました。

Bundesarchiv Bild 146-2005-0132, Trent Park Camp

 ↑1943年、英国の捕虜収容所トレント・パークに到着したハンス・クラマー将軍(中央)とハンス ・ユルゲン・フォン・アルニム将軍(左)(Wikipediaから)


 トレント・パーク収容所では盗聴が行われており、その内容や分析を記した『兵士というもの』の中の、ドイツ軍の高級将官達の間での勲章に関する悲喜こもごもについての章で、このように記述されています。

 アルニムとともに最後までチュニジアで戦ったハンス・クラーマー大将についても、トレント・パークのひそひそ話では、「彼[も]柏葉付を」もらえなかったことを「ひどく気に病んでいた」とされた。「すでに〔受章のための〕書類は提出されていたのだが、彼はそれを受け取れなかった。もらえないと分かったとき、彼は激怒した。それを何とかして手に入れようとして、彼はあらゆる手段を講じた」という。そしてゴットハルト・フランツ中将が1943年8月、チュニジアでのクラーマーの功績にたいして騎士十字章を授与されたという情報をもってトレント・パークにやってきたとき、国際赤十字を通じて勲章が送られてくる前であるにもかかわらず、すぐさま首のところに第一級鉄十字章を佩用した。この姿をふたたび家族にも見せたいものだ、と誇らしげに彼は書き送っている。
『兵士というもの』P319




 約1年後、クラーマーは(恐らく)持病の喘息が悪化したため、スウェーデンの赤十字を通じてドイツへの送還が認められることになりました。しかしこの際、連合軍は彼をノルマンディー侵攻に先立つ欺瞞作戦(フォーティテュード作戦)に利用したのです。

 送還前、クラーマーには「連合国軍がカレーへの上陸を計画している」という情報が断片的に与えられました。またモントゴメリーの第21軍集団がヨーロッパ侵攻の準備をしているのを見ることを許されましたが、それはパットンが指揮するアメリカ第1軍集団でありイングランド南東部を経由すると(カレーへ上陸するのであると示唆されるように)説明され、さらに、そのパットンとの夕食会にも招かれたのです。クラーマーはこの情報を信じ込んだままドイツへ帰国し、ヒトラーにも直接会ってこのカレー上陸作戦に関する一連の情報を個人的に報告。ヒトラーの思い込みを強化する役割を果たすことになってしまったのでした。


 その後、クラーマーはフランス戦線の西方装甲集団に特別要員として配属されました。部隊指揮は任されなかったものの、ロンメル元帥と連絡を取っていたそうです。1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件が起きると、クラーマーは元捕虜であったことから共犯の疑いをかけられ、7月26日から8月5日までベルリンのゲシュタポ収容所で尋問を受けます。その後、ラーフェンスブリュック強制収容所の付属収容所に移され、9月14日にはドイツ国防軍から除隊されました。

 9月末からはベルリンの病院に入院し、12月24日からは自宅軟禁状態とされます。連合軍がドイツを占領した後、1945年5月から1946年2月15日まで、クラーマーはドイツ北部のホルシュタイン地方で捕虜となったすべてのドイツ軍の統括する役割をイギリス軍から与えられました。

 クラーマーは1968年に亡くなりました。




 ブログ記事としてずっと書いてきました「北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について」ですが、一応これでドイツ軍の将軍については終わりにしようかと思ってます(気が付いて追加で書くこともあるかもですが)。

 次は北アフリカ戦におけるイタリア軍の将軍について書いていくつもりなのですが、イタリア軍の将軍は私が手に入れられる情報が非常に少なく、どんな感じになるか分かりません。かなり断片的な情報のみになるかもです。

 その後は、北アフリカ戦における英連邦軍の将軍についてに移るつもりです(すでにクルセイダー作戦直前くらいまではある程度書いたので、その後がメインとなります)。

ドイツ海軍・陸軍・空軍を渡り歩き、降下猟兵に転属してエル・アラメインからの撤退やブレスト要塞戦で活躍したラムケ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ドイツ海軍・陸軍・空軍を渡り歩き、降下猟兵に転属してエル・アラメインからの撤退やブレスト要塞戦で活躍したラムケ将軍についてです。




Bundesarchiv Bild 101I-548-0725-28, Nordafrika, Bernhard-Hermann Ramcke (cropped)

 ↑北アフリカにおけるラムケ将軍(Wikipediaから)



 今回主な資料としたのは、ラムケに関する単独項目のあった
『German Commanders of World War II(2)』
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』
『Knights of the Reich: The Twenty-Seven Most Highly Decorated Soldiers of the Wehrmacht in World War II』
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』
の4冊です。








 ラムケ家は15世紀に北ドイツに定住した一族で、代々農業を営んでいたそうです。ヘルマン・ベルンハルト・ラムケ少年は身体は丈夫でなく細身であったらしいですが、小学2年生の時に教師からどんな職業に就きたいかと問われて、「提督か将軍」と答えたとか。

 ラムケは1904年に16歳でドイツ海軍に入隊し、巡洋艦や古い戦艦などに乗り組みました。第一次世界大戦が起こると海軍の陸戦隊に転属、西部戦線に従軍して大いに活躍し、二級と一級の鉄十字章に加え、イギリス軍の攻撃を3回にわたって防いだ功績により、プロイセン金十字章(下士官にとって最高の勲章で、士官におけるプール・ル・メリット勲章に当たる)をも受勲します。

 戦後、義勇軍に加わってバルト海沿岸でボルシェビキと戦いましたが、義勇軍がドイツ陸軍に編入され、そのままラムケは陸軍内で昇進。参謀本部での研修や、大隊長など様々な経験を積みました。

 ラムケが陸軍から空軍に転属し、降下猟兵を目指した理由について、『Defenders of Fortress Europe』でミッチャム氏はこう記しています。

 ラムケは、1940年1月、北ヴェストファーレンのソエストにある第69歩兵補充連隊長に任命された。1940年2月29日に大佐に昇進したが、ラムケは自分の昇進の程度に満足していなかったし、ノルウェーとフランスでの作戦に参加できなかったこと、ポーランドでもオブザーバーとして参加しただけであったことにも満足していなかった(ラムケ自身の気難しい性格と、部下としては要求が多すぎたことが一因であった。ロンメルは1942年の北アフリカでラムケの能力には満足していたが、降下猟兵部隊への特別待遇に対する彼の飽くなき要求に何度も苦言を呈した)。陸軍での昇進の見込みがほとんどないと考えたラムケは、1940年7月に降下猟兵部隊に転属し、51歳で空挺学校に通い、【……】
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P183




 フランス戦終了後の1940年7月19日にラムケはシュトゥデント将軍の空軍第7航空師団司令部に参謀として配属され、空挺学校に入学してパラシュート降下の訓練を受けました。ラムケは同年8月11日に正式に空軍へ移籍し、23日から第1降下猟兵連隊に参謀として配属されます。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第7航空師団ユニット。

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 1941年1月1日にラムケは第7航空師団の上位司令部である第11航空軍団の降下猟兵補充大隊に所属することになり、その後昇進して大隊長になっていました。また、シュトゥデント将軍が部隊の視察に行く時に同行を命ぜられ、一緒に部隊指揮官らと話したりすることもあったようです。

 シュトゥデント将軍麾下の部隊によるクレタ島降下作戦は1940年5月20日から行われましたが、早々に困難な状況に直面します。シュトゥデントは、ラムケが断固とした積極的な指揮をとる人物であることを知っていたため、彼を臨時の地上作戦指揮官に任命しました。翌日に降下するというスケジュールのため、ラムケは自分の用意をととのえることができず、降下用のブーツではなく乗馬ブーツを履き、膝用のプロテクターもヘルメットもなかったといいます。緊急でかき集められた500人の増援部隊と共に、5月21日にパラシュートでクレタ島に降り立ったラムケは自ら多くの攻撃を指揮し、5月27日にクレタ島西部のカニアの町の占領に成功しました。

 このクレタ島での戦いの時の事としてラムケは、ニュージーランド軍が「(ラムケの考えによれば)野蛮な」マオリ族を使用したことや、クレタ島の住民が負傷したドイツ兵に対して行った残虐行為や身体切断について、辛辣なことを書いているそうです。一方でラムケは、降下猟兵の身体が切断された遺体が発見された村に対して報復を行ったことを認めているものの、民間人が行う残虐行為に対しては冷酷でなければならないとして、自分の行動を正当化しているのだとか(『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P122,3)。

 6月18日にはラムケは元の部隊に戻り、空挺学校と補充部隊に対してクレタ島作戦の戦訓を教えて回りました。そしてクレタ島作戦での功績により8月(『German Commanders of World War II(2)』と『Knights of the Reich』によれば21日、『Hitler's Enforcers』によれば23日)に騎士十字章を授与されます。



 1942年3月、ラムケはイタリア軍に短期間所属してイタリア軍の「フォルゴーレ」空挺師団の訓練を支援しましたが、すぐにベルリンに呼び戻され、マルタ島侵攻作戦に投入するために新たに編成されることになったドイツ空軍の降下猟兵旅団の指揮官に任命されます。

 しかしマルタ島侵攻作戦は中止されることとなり、シュトゥデントには北アフリカのドイツ軍を強化するために旅団規模程度の降下猟兵を派遣することが命じられました。シュトゥデントは特殊な作戦に使用すべき貴重な降下猟兵を、砂漠で歩兵として使用することに抗議しましたが受け入れられず、派遣部隊の指揮官にラムケを選任しました。

 ラムケの部隊は1942年7月から8月にかけて北アフリカに到着し、エル・アラメインの枢軸軍前線の南部に配置されます(ラムケ自身は9月8日~17日の間、一時的に第90軽師団の師団長代理を務めたこともあったそうです)。


 ↓OCS『DAK-II』のラムケ降下猟兵旅団の構成ユニット。

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 『Hitler's Enforcers』P223によれば、Krohの第2連隊第1大隊とHubnerの第5連隊第2大隊は両方とも以前東部戦線で戦っていた一方で、ブルクハルトとフォン・デア・ハイテ(vdH)の戦闘団は訓練中の兵士で構成されていたものの、将校や下士官達はベテランの者達でかためられていたそうです。

 8月初旬になると、空軍の精鋭部隊のひとつである第1落下傘旅団がロンメルの指揮下に入れられた。その旅団長のヘルマン・ラムケ将軍は身のこなしが柔軟で、けんか早い人物で、クレタ島攻略作戦の経験者であった。落下傘の事故で歯を失い、その歯のほとんどが金属の義歯であった。彼の率いる落下傘部隊は装備および訓練ともにすぐれていたが、空軍の部隊であって、陸軍ではなかったので、ロンメルはこの部隊のために時間を割いたことはほとんどなかったし、親しみを感じていなかった(第164軽師団の各部隊と同じように、ラムケの部隊にも、固有の輸送機関がなかった。第164軽師団は実際には自転車を持って来たが、それはすぐに放棄された)。しかし、彼らはドイツ軍であり、軍紀も厳正であったので、この頃、次第に濃密な配備ができあがりつつあった海岸から大凹地に至る防御陣地内に配置された。
『狐の足跡』上P280,1



 ロンメルの回想録には、ラムケ旅団との軋轢について書かれています。

 この旅団は何度もわれわれ【ロンメル達】を怒らせた。空軍の慣習に従い、ソーセージの追加配給を要求してきたからである〔降下猟兵は、おおむね空軍に所属している。ただし、この当時には空挺作戦に投入されることは、ほとんどなくなり、一種のエリート歩兵として運用されていた〕。空軍はまた、この特別な部隊を温存するために、一部を陣地から引き抜きたいと望んでいた。退却に際して、ラムケ旅団に自動車を与えなかったときには、空軍はかんかんに怒ったものだ。だが、そうはできない理由があった。一つには車両がなかったからであり、さらには、イタリア軍を放置しておきながら、ドイツ軍部隊のすべてを車両輸送で撤退させるわけにはいかなかったからである。
『「砂漠の狐」回想録』P323




 1942年10月23日にモントゴメリーによってエル・アラメインの大攻勢が開始されます。ラムケ旅団はイギリス軍の進出を一時的に阻止するのに成功したものの、11月4日にロンメルは総退却命令を発しました。ラムケの部隊の撤退は11月2日から始められていたものの、車両を持たないまま戦線の南方に配置されていたため、撤退するにしてもまずは北方の海岸道路まで、徒歩で移動しなければなりませんでした。


 ↓OCS『DAK-II』の第3次エル・アラメインの戦いからのキャンペーンの初期配置。

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 赤い○がラムケの部隊の配置ヘクスで、赤い□は後で地名の出てくるフカです。


 ラムケ旅団は最も近いドイツ軍陣地まで約25kmでしたが、11月3日にイギリス軍の戦車部隊がイタリア軍の戦区を突破してしまったため、後退距離はさらに長くなりました。その後送られてきた命令によると、ラムケ旅団はフカ峠に向かい、その海岸道路の両側に陣取るべしということでした。つまり、ラムケ旅団はイギリス軍部隊がうようよいる地域を120km、徒歩で突破していかねばならないのです。

 ラムケと彼の部隊の兵士達は、慎重に撤退しました。兵士達は太陽と砂のためにすぐに疲れ果ててしまうのでしたが、新しい陣地を掘ってイギリス軍戦車や装甲車を撃退し、行進し、掘り、そしてまた行進しました。敵は後ろにも前にもいました。他の枢軸軍部隊はすでにフカの位置から撤退してしまっていました。

 『Knights of the Reich』によれば、ある夜、彼らから数百メートル離れたところにイギリス軍のトラックの隊列が止まりました。降下猟兵達は3、4人の分隊になり、静かにトラックに忍び寄って乗組員を制圧し、その車両に乗って走り去ったといいます。ラムケは窪地に来ると停車を命じ、兵士達にトラックを調べさせました。トラックには水、食糧、燃料、それにタバコ他の贅沢品なども満載されていました。

 朝になるとスピットファイアが現れましたが、兵士達はそれに向かって手を振りました。車両にはイギリス軍のマークが描かれており、疑われることはありませんでした。

 撤退中に別のイギリス軍の隊列が向かってきたことがありました。降下猟兵達は飛び出して、彼らを捕虜にしましたが、そのイギリス軍の隊列はドイツ軍とイタリア軍の兵士を捕虜にしていたのです。ラムケは「ドイツ兵とイタリア兵が運転して、イギリス兵は降りろ」と命じました。イギリス兵は水だけを与えられて置き去りにされました。降下猟兵達は、解放されたドイツ兵とイタリア兵を連れて、さらに西へ西へと走り続けました。


 11月7日、ラムケはロンメルに追いつきました。

 午前10時近く、ラムケ将軍〔ヘルマン=ベルンハルト・ラムケ(1889~1968年)。当時、空軍少将で、第1降下猟兵旅団長。最終階級は、降下猟兵大将〕が、その旅団の将兵600名とともに到着の申告を行った。なにぶん、イギリス軍が、後退中のイタリア第10軍団を迂回し、フカ高地における短期間の戦闘ののちに、その将兵を捕虜としたという報せが入ったあとだったから、ラムケが部下たちとともに砂漠から現れようとは、そもそも信じられなかったのだ。降下猟兵の行軍は、素晴らしい戦功にひとしかった。彼らは、ごく少数の自動車しか装備していなかったが、イギリス軍の車両縦隊を襲撃し、奪った自動車を使ったのである。その際、ラムケが卓越した指揮を示したことはたしかだ。
『「砂漠の狐」回想録』P323

 ただひとつだけ喜ぶべき出来事は11月7日、思いがけなくラムケ将軍がロンメルのバスのところへ再び姿を現わしたことであった。ラムケはきびきびした動作でロンメルに敬礼すると、彼とその部下の落下傘部隊の将兵800名 - ロンメルによって11月4日、敵に撃滅されたものとみなされていた ― はイギリス軍のトラックの縦隊に待伏せ攻撃を加え、トラックを奪って敵中を突破し、ロンメルのもとへ戻って来たと、辛辣ないい方をした。ラムケの不気味な薄笑いを浮かべた顔には、喜びとともに、敵意が見られた。
『狐の足跡』下P48,9



 とはいえラムケ旅団の受けた損害と疲労は大きく、旅団は大休止ののち、休養・再編のために後方に送られていきました。


 一方で、恐らくこの後のラムケの告げ口によりロンメルが激怒していたことが『「砂漠の狐」回想録』の大木毅さんの注釈に書かれています。

 ロンメルはおそらく、ラムケに対して、いくばくかの偏見を抱いていた。彼が、ゲーリングを通じて、理由もはっきりしないまま、自分の旅団には自動車が与えられなかったとか、ロンメルが撤退に際して巨大な補給品集積地を放棄したなどと、ヒトラーに告げ口したからである。ラムケがこのように根拠のない誹謗をしたことに、ロンメルは激怒した。
『「砂漠の狐」回想録』P374




 しかしともあれ、この偉大な武勇伝によりラムケはドイツに呼び戻され、ヒトラーによって1942年11月15日に騎士十字章に柏葉が付与されます。12月にはラムケは中将に昇進しました。

 ラムケ旅団はアフリカから撤退した後、フランスのブルターニュ半島南岸の町オレーに送られます。ここでの再編成でラムケ旅団の生き残りや他の降下猟兵部隊などから1943年2月2日に第2降下猟兵師団が編成され、ラムケはその師団長に任命されました。この地域での住民との関係は良好で、ラムケはある日オレーの町長に、まだドイツ軍に捕虜として捕らえられている大家族の父親のリストを作らせ、それを国防軍総司令部の参謀に渡して解放を依頼したそうです。

 1943年5月に同師団はフランスのアヴィニョンに送られ、イタリアのドイツ第10軍の予備となります。9月8日にイタリア政府が連合国に無条件降伏すると、同師団はイタリアに送られてローマに移動し、イタリア占領作戦に参加しました。しかし、ラムケは乗っていた将校用の車がイタリア軍の戦闘爆撃機に轢かれて重傷を負い、ドレスデンに医療搬送され、5ヵ月間現役に戻ることができませんでした。

 英語版Wikipedia「2nd Parachute Division (Germany)」の歴代師団長のリストによれば、9月13日に第2降下猟兵師団は別の師団長に率いられ始めたことになっています。


 ↓そのリスト。ドイツ語版Wikipedia「2. Fallschirmjäger-Division (Wehrmacht)」では○月~○月という書き方になっていますが、ほぼ同様です。

February 2, 1943 Generalmajor Hermann-Bernhard Ramcke
September 13, 1943 Generalmajor Walter Barenthin
November 14, 1943 Generalleutnant Gustav Wilke
March 17, 1944 Generalmajor Hans Kroh
June 1, 1944 General Hermann-Bernhard Ramcke
August 11, 1944 Generalmajor Hans Kroh
November 15, 1944 Generalleutnant Walter Lackner



 ただし、「5ヵ月間現役に戻れなかった」のであれば、1944年2月頃には現役に戻ったということでもありましょうが、このリストではその頃にラムケが師団長に復帰したという形になっていません。色々な資料を見ているとラムケは少なくとも1944年2月には東部戦線には行って第2降下猟兵師団を指揮しているものの、その期間が細切れで短かったようです。


 ↓OCS『The Third Winter』の第2降下猟兵師団ユニット。

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 『Defenders of Fortress Europe』にはこう書かれています。

 【1944年】2月17日、彼【ラムケ】は第2降下猟兵師団の指揮に復帰したが、この師団はその時東部戦線にあり、ブークへの撤退作戦に従事していた。ラムケはこの作戦中に病気になり、師団の指揮をハンス・クロー中佐に譲り、3月17日にドイツに戻った。1944年5月5日か6日に任務に復帰した。この時、師団はケルン近郊のヴァーン作戦地域に駐屯していたが、翌月、Dデイ上陸作戦に伴いブルターニュに派遣された。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P184


 この本にはハンス・クローの略歴についても項目があり、そこではこう書かれていました。

 彼は1944年4月6日に正規の大佐になった。クローは同時に1943年11月20日から12月11日までと、1944年3月17日から5月初旬まで第2降下猟兵師団長代理を務めた。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P186


 一方、『Hitler's Enforcers』にはこう書かれていました。

 第2降下猟兵師団が東部戦線に移された時、その師団の構成部隊の多くは1943/44年の冬にキエフの西側で繰り広げられた激しい戦闘で使用された。東部戦線での数週間の戦闘の間、ラムケは最前線の陣地にいる部下を訪ね歩くことに多くの時間を費やした。同師団の損失は甚大で、ラムケはほとんどの部下を個人的に知っていたため、悲しみは痛烈であった。彼は2回ほど短期間師団を離れたが、彼が戻ってきた1944年3月に赤軍の反撃が始まった。彼がこの戦場で第2降下猟兵師団を率いるのは、もう長い期間ではなかった。彼はベルリンに呼び戻され、そして恐るべき損失を被って戦線から離脱した彼の旧師団を再編成し、訓練する任務を与えられた。1944年5月末に第2降下猟兵師団がケルン郊外の訓練地に到着すると、彼は再び第2降下猟兵師団の作戦指揮を執るようになった。
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P125,6




 ↑に挙げましたように、資料により異なりますけども、1944年5月初め~6月1日の間にラムケはフランスで第2降下猟兵師団長に復帰したようです。

 1944年6月6日当時、第2降下猟兵師団は再建途上でまだ訓練を終えていませんでしたが、6月13日の命令により、ブルターニュ半島西部に移動して、連合軍がその地域に空挺降下してきたり、二次上陸してくる可能性に備え、また敵がブレスト(ブルターニュ半島西端の重要な港湾都市)の都市と港を占領するのを阻止することになりました。前線に向かう途中、ラムケはかつて再編作業を行っていたオレーの町を訪れ、そこで住民達から暖かい歓迎を受けました。彼らは、ラムケが依頼して解放された元捕虜達の家族でした。

 8月に入ってアメリカ軍がアヴランシュ(ノルマンディー地方からブルターニュ半島に入る箇所にある町)を突破すると、ラムケは分散配置させていた第2降下猟兵師団を迅速にブレストへと移動させるため、フランスの民間車両を徴用することにしました。しかし、その数は非常に少なく、師団は前線にいて徒歩行軍するグループと、雑多な車両の分遣隊に分けなければなりませんでした。

 アメリカ軍がブレストに接近すると、ヒトラーはブレスト周辺の地域にいたドイツ軍部隊に対し、最後の一兵まで戦うように命じました。8月8日までにアメリカ軍の先遣部隊がブレストの北西の飛行場にまで到達し、アメリカ第8軍団司令官ミドルトン将軍はブレスト要塞の降伏を要求しましたが、ブレスト要塞司令官のフォン・デア・モーゼル大佐はこの要求を拒否します。その後ラムケの師団がブレスト要塞に入ると、上層部の命令でより上位の階級であったラムケ中将がブレスト要塞の指揮を執ることになり、フォン・デア・モーゼルはその参謀長に、第2降下猟兵師団の師団長代理にハンス・クローが就任しました。この時、ブレスト要塞の中には第2降下猟兵師団の残余の他に、第343歩兵師団と海軍部隊など、計3万5千名がいました。

(余談ですが、ブレスト要塞の話で出てくるアメリカ軍の第8軍団司令官のミドルトン将軍は、有能であったそうですがこのブルターニュ半島での戦いの時期には上官であった第3軍司令官のパットン将軍が側面の危険を顧みずにミドルトンを飛び越して勝手に機甲師団などに命令を与えるのにあたふたしてブラッドレーに泣きついたり、パットンは進撃速度のみを重視したためドイツ軍戦力を撃滅するチャンスをふいにしてブレスト要塞にあたら戦力を逃げ込ませていたため、ミドルトンがその攻略に苦労することになってしまったり、あるいはバルジの戦いの時にはドイツ軍の攻勢を受ける軍団になってしまったりと、「気の毒」な将軍というイメージを私は持ってしまってます(^_^;)


 ブレストの町に住んでいた民間人は半分がすでに町を離れていましたが、ラムケは要塞を巡る戦いが迫っていることから、残りの4万人の住民も避難させようと考え、ミドルトン将軍と停戦の交渉を始めました。アメリカ軍側も同意し、ブレストの住民は4日連続で、ドイツ軍の車両で安全な場所まで運ばれました。

 ミドルトンはブレスト攻略のために、第2、第8、第29歩兵師団を呼び寄せました。ラムケとその部下達は、敵の大規模な部隊を拘束すべしという命令を遂行すべく、戦い抜く決意を固めていました。

 ブレストの戦いは熾烈を極めた。アメリカ軍は地上部隊の犠牲を最小限にするため、数で勝る大砲と航空優勢を存分に利用した。ミドルトンとパットンの間には摩擦が生じ、パットンはすでに深刻な補給問題を抱え、前線から200マイルも離れた守備隊に対して弾薬を使用するのを惜しむようになった。しかしミドルトンは、パットンが必要最小限の補給を保証するまでは攻撃を拒否し、最終的にはパットンが折れた。ブレストを制圧するためには、3万トンの弾薬(ほとんどが砲弾)が必要であった。
 ドイツ軍は強い決意を持って戦った。特に第2降下猟兵師団は、すでに素晴らしい評判を獲得していたドイツ軍降下猟兵部隊の評価をさらに高めていた。もちろん第343歩兵師団とモーゼルの雑多な部隊(何も期待されていなかった)は、ラムケの精鋭部隊と同じレベルには達しなかったものの、予想を大きく上回る善戦をした。このため、ハンス・フォン・デア・モーゼルは9月1日に少将に昇進した。ラムケはその2週間後に降下猟兵大将に特別昇進した。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P186,7


 9月1日にはブレスト要塞の全区域が包囲され、遮断されました。

 ある日、アメリカ軍の医療チームが道を間違えてドイツ軍の陣地に入り込んでしまった。ラムケ将軍はこの困惑しているテキサスの少年達を捕虜にせずにミドルトン将軍のもとに送り届け、ミドルトン将軍は無線でラムケに、人道的な扱いに感謝した。
 戦いは続いた。ブレストの守備隊は、圧倒的な優勢な敵の航空爆撃の波状攻撃、パルチザン活動、大砲の砲弾に対して要塞を守り抜いていたが、その間、他のドイツ軍から切り離されることを意識していた。1944年9月13日、ミドルトン将軍は3人の将校を使者として送り、ラムケ将軍に書簡を渡した。


 ブレストのドイツ軍司令官、ラムケ将軍へ宛てて
 ブレスト前面のアメリカ軍指揮官より

 戦争では常に、軍事的状況は、指揮官がこれ以上の血の損失と部下の犠牲を正当化できない地点に到達するものです。
 我々はブレストのドイツ軍部隊の状況について、我々によって捕らえられたあなた方の将校や兵士達と話をしました。全員が、現在の軍事的状況は希望が少なく、戦闘を長引かせても何も達成できないことを確信していました。したがって、ブレストの守備隊にはこれ以上戦いを長引かせる正当な理由がない、というのが我々の意見です。
 あなたの兵士達はよく戦いましたが、すでに約1万名が捕虜になっています。あなた方は自らの損失を知っています。さらに、あなたは多くの重要な軍事的装備を失っており、あなたの軍は小さな、限られた地域に包囲されています。すでに、あなた方は祖国に対する義務を完全かつ完璧に果たしているのです。
 以上のことから、私は一人の職業軍人として、あなたがこの一方的な戦いを終わらせてくれることを提案します。あなたが、立派に任務を果たした、責任ある指揮官として、この提案を好意的に考慮してくれることを望みます。

署名:トロイ・H・ミドルトン


 この手紙に対するラムケの返信は、簡潔なものだった。


 アメリカ第8軍団司令官 トロイ・H・ミドルトン将軍に宛てて

 あなたの提案を拒否します。

 署名:ラムケ

『Knights of the Reich: The Twenty-Seven Most Highly Decorated Soldiers of the Wehrmacht in World War II』P251~3

 3日後の9月16日、ラムケは司令部を【後方の】ラ・クロゾン半島に移すことを余儀なくされ、18日にはついにアメリカ軍の攻撃が要塞に押し寄せた。激しい戦闘は19日の午後まで続き、アメリカ軍第8歩兵師団の歩兵がカプサン岬にあったラムケの壕に到達した。この時の様子を、第8歩兵師団の史料は次のように記録している。

 完璧な英語を話す一人のドイツ人医師が、ラムケ将軍が司令部にいて、アメリカ軍側の将校と降伏条件について話し合うことを望んでいると伝えてきた。しばらくして、第8歩兵師団長代理のカンナム准将が、数人の将校と兵士と共に到着した。彼らは、ラムケ将軍が待つ深い壕の中に案内された。ラムケは通訳を介して准将に言った。
「私はあなたに降伏しなければなりません。信任状を見せてもらっていいですか。」
 カンナム准将は、部下の兵士達の銃剣を指さして答えた。
「これらが私の信任状です。」
 9月19日の午後8時、抵抗は終わった。
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P127,8



 ドイツ本国との最後の無線交信を行った時、ラムケの騎士十字章に剣が付与されることが伝えられていました。また、『Defenders of Fortress Europe』には、カンナム准将はドイツ軍の降下猟兵にうんざりしており、この時怒って返答した……という風に書かれています。

 ラムケは捕虜収容所に入るために、すでに複数のスーツケースに荷物を詰め込んでいており、その中には釣り道具もあったとか。その後ラムケはアメリカ第8軍団司令部に連れて行かれ、ミドルトン将軍と話をしました。最後にミドルトンは、捕虜達のために何かできることはないかと尋ねました。ラムケは、「私の兵士達が、捕虜として良い待遇を受けられるようにして欲しい」と述べたそうです。

 ラムケは、最後に部下の兵士達に、彼らの忠誠心と勇気ある行動に対して感謝の言葉を述べました。彼が別れを告げた時、1000名のドイツ兵達が、「ラムケ親父! ラムケ親父!」と叫んだといいます。

 降伏後の9月21日、自身の騎士十字章にダイヤモンドが付与されていたことをラムケは知りました(全軍で20人目)。柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章は最終的にもわずか27名しか受勲しておらず、(ルーデルが受勲した黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を除き)実質上最高の勲章でした。捕虜収容所でラムケは、捕虜仲間のドイツ軍人達に対して、第一次世界大戦でも第二次世界大戦でもそれぞれ最高ランクの戦功勲章を受章していたことを自慢げに告げることができました。



 ブレスト攻略戦が連合軍側にもたらした影響について、第二次世界大戦ブックスの『猛将パットン』にはこう書かれています。

 結果として、【このブルターニュ半島攻略という】北西ヨーロッパ初の大規模な作戦で、パットンは広大な地域を確保したが、ドイツ軍の残存兵力がこの作戦の主要目的地ブレストに逃げこむまえに撃破できなかったために、米陸軍は1万人の犠牲をはらって、ようやく9月の第3週目、すなわちパットンがとっくに東にむかったあと、この港町を陥落させたのであった。
 この包囲戦で、第8軍団はとうぶん戦闘に参加できないほど痛手をおい、しかもパットンが補給物資の欠乏から、確実なエモノ - ライン川への進撃 - がとれないと苦情をいっているときに、ガソリンや重砲弾などの重要物資は、第8軍団に最優先で配分されていたのであった。
 さらにつけくわえておかなければならないのは、9月19日のブレスト陥落後、アイゼンハワーは、兵員の損失があまりに大きいのに驚き、パットンがまだ陥落させていなかった【ブルターニュ半島南岸の】2つの港町、サンナゼールとロリアンはそのまま放置するよう命令したことである。
 この両港は、けっきょく終戦まで降伏せず、それぞれ米軍1個師団と、かなりの自由フランス軍をクギづけにしたのだった。
『猛将パットン』P79




 ラムケはアメリカの捕虜収容所に入れられましたが、彼のミドルトン将軍への依頼はほとんど効果がなく、アメリカではドイツ軍の降下猟兵出身の捕虜達が非常に粗末に扱われていることを知りました。彼らの猛烈な闘いぶりから、降下猟兵達は熱狂的なナチ一派に違いないと広く受け止められていたのです。

 1945年のクリスマス前の頃、ラムケはアメリカの上院議員二人がこの問題の正当な解決に賛成していることを知りました。ラムケはこの二人の上院議員に手紙を書き、部下達が受けている状況を伝えようとしました。しかし彼らの送る郵便物は検閲されており、上院議員らにこの手紙は届かないだろうと考えたラムケは、収容所を脱走して民間の郵便箱から投函することを考えました。

 収容所の二人の兵士が協力してくれ、鉄条網をすり抜けることができましたが、郵便局が閉まっていて切手を手に入れることができませんでした。ラムケは自分が耳が遠く言葉が不自由であるかのように振る舞い、親切な人が金曜日に開いている薬局を案内してくれ、切手を手に入れ投函することができました。そして気付かれないうちに捕虜収容所に戻り、ちょうど夜の点呼に間に合わせることができたのです。

 ラムケはさらに、もう一度捕虜収容所を脱走して南米に向かうことを計画しはじめました。ところがその間に収容所の所長が、ラムケが件の二人の上院議員に手紙を出したのを知ったのです。ラムケは別の収容所に移されることになりました。アメリカからイギリス、ドイツ、そしてフランスの捕虜収容所に入れられ、そこで「ブレストの虐殺者」として戦争犯罪人として訴追されてしまいます。

 そしてラムケはフランスの捕虜収容所からも脱走して西ドイツにまで戻った後、自発的に捕虜収容所に帰ってきたのです。この脱走で5年の禁固刑を言い渡されましたが、わずか3ヵ月後に釈放されます(その理由は資料によって、「控訴して」「国際的な抗議を受けて」「捕虜として過ごした年月を刑期から差し引いて」など、様々に異なって書かれていました)。彼の脱獄と帰国は、フランスで捕虜になっていたドイツ兵達を解放するという、意図した結果をもたらしました。

 釈放後は、工業会社の主要な従業員として活躍し、1968年に死去しました。ラムケは2冊の自伝を執筆し、1冊は戦争中に、もう1冊は1951年に出版されたそうです。

 英語版Wikipedia「Hermann-Bernhard Ramcke」にはこう書かれています。

 1943 年に、ラムケは「キャビンボーイから空挺部隊の将軍にまで」というタイトルの回顧録を完成させました。この本は、ナチ党の報道機関であるFranz Eher Nachfolgerによって出版され、宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは、すべてのドイツ国内の市長に購入するよう命じました。この本は計40万部売れ、ラムケだけでなく、出版社の大きなシェアを所有していたヒトラーも大いに潤いました。



 英語版Wikipediaには、ラムケが捕虜時代や釈放された後にナチスを公然と支持した発言をしたり、ブレストを破壊したことを自慢したりして警戒され、物議を醸したことなどが詳述されており、これらも興味深いものではありますが、このブログ記事としては割愛することにします(そろそろ力尽きましたし、あまりに長すぎても良くないので(^_^;)。

1806年戦役の審判制ゲームのマップ案:1ヘクス4マイルで60度傾けた場合

 1806年戦役(イエナ・アウエルシュタット戦役)の審判制ゲームが欲しいとずっと思っているのですが、以前のマップ案データを見ていて、スケールを少し変えてみようと思いました。


 ↓以前の、1ヘクス5マイルのマップ案等があります。

1806年戦役の各軍団の1日毎の移動距離を調べてみました&審判制ゲームが欲しいです (2022/08/03)



 これまで、1ヘクス5マイルと、1ヘクス3.5マイルというものを作ってみていたのですが、どうもその中間が良いのではないかと思い、1ヘクス4マイル(約6.4km)に調整してみました。また、これまではマップを傾けていませんでしたが、60度傾けてみました。


unit8728.jpg



 これで、北東の方ではライプツィヒとハレ(プロイセン軍にとって重要な後方拠点)を含み、西の方ではプロイセン軍の一部が一時進出していたフルダの辺りまで入ります。一方で、フランス軍の一部が最初(10月6日を想定)はマップ上にいないことになりますが、全体として結構良いマップ割ではなかろうかと思いました。



 で、前掲ブログ記事でやっていた「各軍団の1日毎の移動距離」をこのマップ上でも調べてみました(数字は大まかな「移動ヘクス数」です)。

unit8727.jpg



 構想では、日中ターンを2~4ターン程度に分けたいと思っていたのですが、↑の数値を見ていると、移動が遅くなっている時の移動ヘクス量が1~3程度、移動が早い時の移動ヘクス量が4~6程度になっているような気がしたので、日中を3ターンに分けるとちょうど良さそうではないかな、と思いました(つまり、1ターンの移動量が1か2ヘクス程度になる)。

 で、OCSのように戦闘モード(会敵を前提に、戦闘力を重視してその分移動力が減少した状態)と、移動モード(戦闘力を犠牲にして、移動力を増した状態)を設ければ、「史実での、移動量が多い日と少ない日」をうまく再現できるかな? と……(それが史実と比べて妥当なシミュレーションになっているかどうかはイマイチ良く分からないのですが、夜間ターンにモードを全軍指揮官が指定するというのは「コマンドコントロール」としてありだと思いますし、ジレンマとしては面白いんじゃないかと思います)。


 具体的には……。

 例えば、フランス軍の軍団指揮官に↓のような「移動値」を持たせます。()内は2D6してその数値以下が出る確率です。

ダヴーは10(91.6%)
ランヌは9(83.3%)
ネイ、スールト、ベルナドットは8(72.2%)
オージュローは7(58.3%)

 で、各ターンの移動チェックで「移動値」以下を出せば、戦闘モードならば1ヘクス、移動モードならば2ヘクス移動できる、と(移動モードの時は、チェックに失敗しても目の差が1なら、1ヘクス移動できる)。


 プロイセン軍は全指揮官が移動値8とか……。プロイセン軍は史実では、いつどこでフランス軍に攻撃されるか分からなかった(&移動力より戦闘力を重視していたと想定して)ので、ずっと戦闘モードでいたのだと考えてもいいような気がしました。

 あと、OCSでは移動モードの戦闘力は、戦闘モードの半分か端数切り上げなのですが、このゲームにおいては1/3くらいにするのがちょうど良いかもと思いました。移動モードで移動するのは、かなりリスクを抱えているのだという風に。


 また、戦略移動モードにすれば移動値+1とか、山や森では移動値にー修正が来るとか。



 あと、各軍団の戦力値ですが、↓のようなマーカーで管理しようかと(画像はBCSのステップマーカーですが、他のゲームでもこういうのは最近見ますね)。

unit8726.jpg


 裏面は「5 6 7 8」となってます。で、例えばある軍団の戦力がその時点で8だったら、指揮官ユニットに8の辺が「接する」ようにしてマップ上に置こうと。「下に」置くのが普通ですが、審判制ゲームなので対戦相手にステップマーカーを隠す必要はないし、常に見られる方が一覧性が良くていいし、このゲームの密集度であれば、指揮官ユニットの4辺のどれかに接するので良いのであれば若干ごちゃごちゃしてきても何とかなるでしょう(まじで密集してきたら、下に置いてもよいし)。

 で、戦力値が減少したら、残りのステップ数を表示するようにする。「9」以上「16」以下用のマーカーを作れば、それらの戦力でも容易に管理できるでしょう。



 あと、日中の3ターンを例えば「朝」「昼」「夕」に分けるとすると、「朝」ターンに戦闘が始まってもそれは全面的激突ではなく、お互いの戦力のごく一部しか投入されない。また、この時点で周辺の軍団は砲声を聞いて戦場に駆けつけようとするでしょうが、そうしない指揮官もいるでしょう(その判定には「イニシアティブ値」を導入すべきかもしれません)。「昼」になるとお互いかなりの戦力が投入できるようになり、「夕」がその日の最後の戦闘ターンとなります。


 それから、初期配置が史実通りか、そこからあまり離れないようだと結構「なるようにしかならない」と思われるので悩んでいたのですが、ゲームマーケットで買った『キングダム 盤上大戦』が、お互いの初期配置を見えないようにして自由にセットアップするようになっているのを見て、「あ、そうか! 1806年戦役でも、完全フリーセットアップもありくらいに思いきればより面白いのではないか」と吹っ切れました。もちろん、ある程度の(史実的)制限はかけるとしても、結構フリーセットアップに近いようにして審判制で相手の部隊の位置も意図も分からないようにしてプレイするというのは面白いのではないかと(史実も、というか、史実こそがそんな感じだったのです)



<2023/01/02追記>

 さらにいくつかルール案を思いついたので、追記しておこうと思います。


1.1ターンに1ヘクス移動にする。

 前述の案だと、1ターンに2ヘクス移動ということがあり得ましたが、それだと両軍が会敵するタイミングの処理が難しくなってしまうことに気付きました。なので、いっそ日中を6ターンに分けてしまった方がいいなと。それで、戦闘モード(日中に最大3ヘクス移動できる)の場合には、そもそも2ターンに1回の割合で移動可否をチェックする、と。

 あと、両軍が1ヘクス挟んだ位置にいて、同時に間のヘクスに入るような場合には、指揮官の移動値が高い方に優先権があるとか。



2.川越しで戦闘は不可

 第二次世界大戦だと川越しで守ると有利だったりしますが、ナポレオン戦争においては「川を挟んで守る」とかって存在しないような気がします。川を渡って部隊を展開させるのが難しくてどうこう、というのはありましたけども(アスペルン・エスリンクの戦い)。

 1806年戦役では、ザールフェルトの戦いでプロイセン軍はわざと川向こうで(町を避けて平原で)戦いましたし、イエナとアウエルシュタットの戦いでは両方ともフランス軍は渡河に成功してから川向こうで戦っています。そこらへん考えると、少なくとも1806年戦役では川越しでの戦闘は不可にして、ただ渡河移動にはマイナス修正が来て渡りにくい(街道の橋があればマイナス修正なし)ということにすれば良いかな、と。

 渡河点は自軍が先に押さえた方が得、ということにはなると思います。



3.テューリンゲンの森の中では戦闘不可

 1806年戦役では、初期配置のフランス軍とプロイセン軍の間にテューリンゲンの森が横たわっています。

 これも、第二次世界大戦ゲームの感覚だと地形効果が強くて、テューリンゲンの森の中の街道を小部隊で押さえてしまうのが良い、ということになりそうですが、1806年戦役の本を読んでいると、「敵が森から出てきたところで勝負する」という感覚だったらしく、森の中で足止めなんていうことは考えにないし、そもそもこの時代にはそういうことは不可能だったのかもです。

 これもどうしたら良いか悩んでいたんですが、森の中では戦闘不可ということにして、もし両軍が森の中で出会ってしまったら単純に兵力のでかい方が押し出していくということにでもしたら良いかな、と。兵力の小さい方はいくらか距離を取って離れられる処理は必要かもしれません。


<追記ここまで>


装甲部隊の理論家であり、東部戦線や北アフリカで主に軍団長として活躍したネーリングについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、装甲部隊の理論家であり、東部戦線や北アフリカで主に軍団長として活躍したネーリングについてです。



Bundesarchiv Bild 101I-784-0203-14A, Nordafrika, Bayerlein, Rommel, Nehring

 ↑1942年4月、トブルク攻略について話し合うロンメル達。右からネーリング、ロンメル、ヴェストファルバイエルライン。(Wikipediaから)



 ネーリングの著作は『ドイツ装甲部隊史: 1916-1945』として大木毅氏によって和訳されており、もしかしたらこの本の中にネーリングの経歴について書かれているのかもですが、私はこの本を持っていません。





 私が今回使用した資料は、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』と『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』が主なものになります。




 


 ネーリングの一家は、17世紀に宗教迫害を逃れてドイツに移住したオランダ人の子孫の家系だったそうです。ヴァルター・クルト・ヨーゼフ・ネーリングは西プロイセンで生まれ、幼い頃に一家がダンツィヒに移住しました。父親は教師でしたが軍の予備役でもあり、ネーリングは1911年に士官候補生として父親が所属していた第152歩兵連隊に入隊しました。

 第一次世界大戦でネーリングは主に東部戦線で戦い、二級、一級鉄十字章などを受勲しましたが、何度も負傷し、従軍期間よりも病院にいた期間の方が長かったそうです。

 大戦後は義勇軍に入り、1921年に軍に採用されました。軍の試験で高得点を取ったネーリングは参謀将校となるコースに進み、またゼークト将軍の「すべての帝国軍将校には専門分野を持たせる」という指示に従い、装甲部隊の編成と運用を専門とすることにします。この決断には、急速に個人的に親しくなったハインツ・グデーリアン少佐の影響がありました。

 1929年にネーリングは車両訓練部隊の第6大隊に配属され、ここで自分が培ってきた理論を実践する機会を得ました。同年秋に行われた演習でネーリングの戦術理論は非常な成功を収め、軍は他のすべての自動車化大隊に同様の訓練を行うように命じています。

 装甲部隊の創設に理解のあったルッツ将軍が1931年に自動車化部隊の長(*1)に任命されたことにより、ネーリングのキャリアはさらに大きく前進しました。グデーリアンが参謀長(*2)、ネーリングが作戦主任参謀となり、両名は多くの研究論文を書くと共に、装甲部隊の創設を精力的に提唱していくことになります。

(*1:『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』による訳語では「交通部隊監督局長」。 *2:同、「幕僚長」)





 グデーリアンの活動に比べて、ネーリングの活動はより、諸外国に赴いての視察と、理論的な研究に重きがあったようです。『戦車将軍グデーリアン』には、ネーリングが当時執筆した論文の具体的な内容が、「第二次世界大戦で実現されることになる構想に、すでにたどりついていた」ものとして紹介されています。

「装甲団隊の特徴は、強大な火力と装甲による掩護、路上および路外での高速性と機動性といったことの結合である。その移動能力は、機械にのみ頼っている。……装甲団隊は、戦争遂行を機動的にし、戦線膠着を防ぐのに適した、最高度の戦闘力を有する戦争手段を表している。」
「敵の側面および後背部に対する包囲的な行動こそ(他の緩慢な諸団隊は無視される)、装甲団隊の主任務となる。追撃に投入されれば、退却する敵の潰滅をみちびくことも可能だ。一方、獲得した土地を、引き続き保持することは不得手である。その任については、多くの場合、砲兵を有する自動車化歩兵の配属が必要となろう。」
『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』P135,6



 日本語版Wikipedia「ヴァルター・ネーリング」には、このような記述がありました。

1932年に少佐に昇進して国防省に復帰し、自動車部隊監察部作戦課長に就任、グデーリアン中佐の配下となった。以後3年間、装甲部隊育成に従事する。1932年末、兵務局教育部の要請により、「騎兵軍団運用における装甲旅団」をテーマとする研究をまとめ、装甲部隊の敵軍包囲や敵前線突破における重要性、防御における脆弱性と他兵科との協同の重要性、短期決戦での優位と長期戦での不利を指摘した。




 ネーリングは、1936年のスペイン内戦時にはスペインへの部隊装備の輸送と補給を担当しました。

 1937年10月にネーリングは、第3装甲師団隷下であった第5装甲連隊の連隊長に任命されます。この時、同じく第3装甲師団隷下の第6装甲連隊の連隊長であったのがクリューヴェルで、後に北アフリカでも同僚となります。

 1939年7月1日に、ネーリングは第19自動車化軍団の参謀長に任命されました(と、私が使用したメインの2つの資料は日付について一致して書いています)。グデーリアンはその2ヵ月ほど後の同年8月26日付けで同軍団の司令官になっており、『戦車将軍グデーリアン』P167の記述からするとグデーリアンは、独ソ不可侵条約が結ばれる8月下旬になってからヒトラーの意向の元、対ポーランド戦のために急遽この軍団司令官に任命されたかのように思えます。

 ところが一方、『Rommel's Desert Commanders』の著者ミッチャム氏は「グデーリアンはヨーロッパでの戦争が近いことを強く意識し、自分が軍団司令官となっていた第19軍団にかつての最も優秀な補佐役であったネーリングを参謀として異動させるよう手配した」(P84)という風に書いているのですが、時期的な問題や、他の資料の記述からすると、ミッチャム氏は「推測で筆が滑った」かのように思われるのですが、果たして……?(「推測で思い込んで筆が滑る」ことは大小ままあり、根絶はそれはそれで難しいとも思うのですが、ミッチャム氏はそれを疑わせることが多いような気がしています。あと、複数の自著の中で書いている細かい経緯が一致しないとか)


 1939年9月1日からのポーランド戦、1940年5月10日からのフランス戦の両方でネーリングは、グデーリアンの第19自動車化軍団の参謀長として装甲部隊の運用にかかわり、大きな成果を上げます。同年6月1日には3つの軍団を統括する「グデーリアン装甲集団」が編成され、ネーリングはこの時もグデーリアンの参謀長を務めます。フランスはその3週間後に降伏しました。

 続いて1940年10月25日にネーリングは、新たに編成された第18装甲師団の師団長に任命されます。この時点での第18装甲師団は武器、車両、装備等がいずれも不足しており、ネーリングが陳情してイギリス本土上陸作戦のために集められていた潜水戦車部隊が編入されることになったそうです。

 また、第18装甲師団長に任命されてそれほど経たない頃にネーリングは北アフリカへ赴任するように命じられたものの、その命令は取り消されたそうです。ミッチャム氏はこの件について、「クリューヴェル【前述のように1938年頃には第3装甲師団隷下の第6装甲連隊長を務めており、同第5装甲連隊長であったネーリングとは同僚で、この当時ドイツアフリカ軍団長になっていました】がネーリングを北アフリカで師団長の一人として呼びたいと考えていたのは間違いないし、彼はロンメルに大きな影響力を持っていたので、おそらくロンメルがネーリングの北アフリカ招致を要請したのであろう。しかしOKHのメンバー(もしかしたらヒトラーも)は、ネーリングをより重要な作戦であるバルバロッサ作戦に参加させたいと考えたのだ。」と書いています(『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P85)。

 第18装甲師団はソ連侵攻作戦において、グデーリアンの第2装甲集団の一員としてミンスク、スモレンスク、キエフ、ブリャンスクなどの包囲戦で大きな役割を果たします。1942年1月のソ連軍の反攻時には、包囲された第216歩兵師団の救出を命じられ、これに成功しました。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第18装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第18装甲師団ユニット。

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 ネーリングはそれから間もなくして北アフリカに赴き、ドイツアフリカ軍団長に就任することになりました。参照した2つの資料にはその理由等について何も書かれていないのですが、当時北アフリカではロンメルの第2次攻勢が成功した頃で、それに伴ったものかアフリカ装甲集団がアフリカ装甲軍に改編されており、役職の動きを見ると、

ロンメル:アフリカ装甲集団司令官 → アフリカ装甲軍司令官
クリューヴェル:ドイツアフリカ軍団長 → アフリカ装甲軍副司令官

 となっているので、空いたドイツアフリカ軍団長のポストに(今度こそ)ネーリングが連れてこられた、ということではないかと思います。そしてまた私が推測するに、これこそ「推測で思い込んで筆が滑る」かもしれませんが、独ソ戦開始前まではOKH(陸軍総司令部)が全戦線を担当しており、OKHのハルダー参謀総長はロンメルを嫌い、独ソ戦にこそ集中すべきであると考えて人事も行っていたようなのですが、独ソ戦が開始されるとOKHは独ソ戦のみを担当することになって他の戦線はOKW(国防軍最高司令部)の担当になったのでハルダーらの人事権が弱まったこと、それにロンメルが成功を収めるとロンメルやクリューヴェルの意向が通りやすくなったとか、そういうことが背景にあるのではないでしょうか。

 また、

 また、新たな攻撃に先立ち、指揮官の人事異動も行われた。体調を崩したクリューヴェルに代わって、ドイツ・アフリカ軍団長は、3月9日から元第18装甲師団長ヴァルター・ネーリング中将が努めることとなり、ロンメルの参謀として活躍したビスマルクは、2月11日付で第21装甲師団長に就任していた。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P275

という記述もあり、クリューヴェルは重大な責任がかかるドイツアフリカ軍団長の職から、責任の軽いアフリカ装甲軍副司令官に(一時的に)異動され……という理由もあったかのようです。


 第18装甲師団長からの離任の日時に関しては、次の師団長(フォン・テュンゲン)の就任が1942年1月26日としているのが『Rommel's Desert Commanders』と『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』で、『Hitler's Enforcers』は2月1日としています。

 ネーリングのドイツアフリカ軍団長への就任は、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によると3月8日、『ドイツ軍名将列伝』によると3月9日です。


 ↓OCS『DAK-II』のドイツアフリカ軍団司令部ユニット。

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 このすぐ後、クリューヴェルの誕生日パーティーが催され、ネーリングらが祝ったことについてクリューヴェルに関するブログ記事で書いていたので、再掲します(『砂漠のキツネ』P155に詳しい描写があります)。

 1942年3月20日はクリューヴェルの50歳の誕生日で、彼は以前自分が司令官であったアフリカ軍団司令部を訪れました。この人気の将軍のために、元パン屋の兵士達が何とかクリームとチョコレートタルトをこしらえ、ロンメルとネーリングが大きなバースデイケーキをしつらえさせたのです。隠されていた本物のフランス製シャンパンが持ち出され、将校と兵士達が一緒になって主賓に乾杯し、砂漠には幸せなお祝いの音楽が響き渡ったといいます。





 1942年5月26日からのいわゆる「ガザラの戦い」(「テーゼウス作戦)に関してネーリングは、ロンメルの「南から回り込んで北上する」という作戦案に対して、北上中にイギリス軍の反撃によって自軍がガザララインの東側に閉じ込められ、西側の補給基地から切り離されてしまうことを懸念していたといいます(『Rommel's Desert Commanders』P86)。しかしロンメルはその作戦案を強行し、そしてネーリングの懸念は的中してしまいます。

 この混乱の初期にネーリングの前線での指示が危機的状況を救った件について、『砂漠のキツネ』に詳述されています。その周辺を引用してみます。

 27日の夕刻、事態は由々しき様相を帯びるにいたった。北では戦車部隊が行きづまり、東では第90軽機甲師団が囲まれている。兵たちは疲れていた。補給はない。水もない。負傷者の手当ても後送も出来ない。彼らは砂漠に横たわったままであった。どうすればいいのか? 幕僚長ヴェストファールは、前線の戦闘部隊のところにいるロンメルと連絡がとれなかったので、無線班もろともネーリングのDAKに赴き、二人で事態の収集【ママ】につとめた。
 【……】
 こういう情況で全軍が壊滅した例はよくある。しかし、たった一つの大胆な用兵が敗北を救いそれどころか勝利に導いた例もないわけではない。この大胆な考えを思いつき戦史に新しい戦術例を加えた男はヴァルター・K・ネーリング、それを実行に移したのがアルヴィン・ヴォルツであった。
 ネーリング将軍と第135高射砲連隊長ヴォルツ大佐は視察の途中いきなりドイツ軍輜重隊の列にまぎれ込んでしまった。イギリス軍戦車を逃れてきたもので、方々の本部もまざっている。ヴォルツ大佐はこう話してくれた。「【……ドイツ軍の補給部隊やDAK司令部等がごちゃごちゃになってしまっているところにイギリス軍戦車部隊が何度も攻撃をかけてきて……】
『高射砲列だ』 ネーリング将軍が叫びましたよ。『ヴォルツ、砲をかきあつめて対戦車用高射砲列を作れ』 まことに時機【ママ】にかなった思いつきでしたな。さいわいなことにギュルケ少佐がもう一大隊を連れてきました。30分すると軍【アフリカ装甲軍?】の副官もロンメルがみずから率いていた高射砲1個大隊とともに到着。私は夢中で敵戦車前面に3キロにわたる高射砲列を築くことができました」
 【……】夜のとばりが降りると、高射砲列の前面では2ダースほどの敵戦車が炎々と燃えさかっていた。高射砲隊の指揮官【ヴォルツ?】が自分の部隊をまとめて対戦車戦に投入したのは、戦史上これが最初である。【……】
 ネーリングは高射砲列の後方1キロほどに戦闘指揮所を設け、この戦線の重要性を示した。【……】ここを突破されたらDAK全体がどうなるかわかったものでなかった。ついに天佑の砂嵐が吹きだし、すべてを砂のヴェールでおおい隠してくれた。
『砂漠のキツネ』P167~9


 「戦史上これが最初」というのは、88ミリ砲の対戦車砲としての使用についてロンメルが最初だとか最初でないとかって話があったりしますが、それとはまったく異なる、高射砲連隊がその指揮官の命令によってまるごと(3キロの)高射砲列を作ったという話なんでしょうか?

 『Rommel's North Africa Campaign』の巻末には割と詳しい戦闘序列が載っているので見てみたところ、ガザラ戦の時の第135高射砲連隊について、ドイツアフリカ軍団麾下の先頭に記載がありました。

第135高射砲連隊司令部(ルフトヴァフェ)
 第18高射砲連隊(ルフトヴァフェ)の第1大隊(88ミリ対空/対戦車砲4門を3個中隊と、20ミリ高射砲12門を5個中隊)
 第33高射砲連隊(ルフトヴァフェ)の第1大隊
 第617軽高射砲大隊(20ミリ自走対空砲12門を3個中隊)
 第605対戦車大隊
『Rommel's North Africa Campaign』P256







 OCS『DAK-II』でそれらの大隊を探してみたところ、全部ありました。

 ↓OCS『DAK-II』の第315高射砲連隊の構成部隊ユニット。

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 『DAK-II』は1ヘクス5マイル(約8km)なので、1ヘクスの半分以下にこれらの部隊が集中して……ということになりましょうか。かなり強力ではあります。



 ガザラの戦いの3日目にクリューヴェル将軍が捕虜になってしまったため、ネーリングが実質的にロンメルに次ぐ高位の指揮官ということになりました。ネーリングはその後のガザラの戦いにおいて重要な役割を果たし、6月22日にトブルクの攻略に成功します。

 この日、ネーリングとバイエルラインが海水浴をして危ない目にあったことが『砂漠のキツネ』に書かれています。

 地中海で泳ぐということは兵卒から将軍にいたるまでアフリカに戦うすべての者の夢であった。それでDAK司令官ネーリング将軍、その参謀長バイエルライン大佐は1942年6月22日、トブルクでのドイツ軍勝利の仕上げとして海水浴をやったのである。ところがとんでもない結果になるところであった。フォラー軍曹が乗用車を、見たところ無人の小さな石造家屋の前に停めると、二人のイギリス兵がとび出してきたのである。疲れきり餓死寸前の態だったが二人ともピストルを持っている。トブルクを脱走してここにかくれていたのだ。将軍も大佐も曹長もこの遊山に武器を手もとに置いてなかった。しかしネーリングはうろたえず、トミーたちに話しかけ、危険な瞬間を乗り切ったのである。話しているうちに無線車がやってきた。いつも将軍から離れないのだが、このときはゆっくりと来たのだ。ネーリングとバイエルラインはせっかくの遠足を、《捕虜護送》で台なしにするのはいやだったので、トミーからピストルを取りあげ、町へ行って捕虜収容所に申告せよと命じた。しかしイギリス兵は虜囚の恥をうけまじと決心しており、中途から砂漠にはいってしまった。こうしてイギリスの戦史は、海沿いに38日間歩きつづけたあげく友軍戦線にもどったベイリー少尉とノートン軍曹の冒険を載せることが出来たのである。
 話をトブルク海岸にもどそう。 ネーリングとバイエルラインの海水浴がすむかすまないうちに、二人は伝令によっ司令部へ呼びもどされた。元帥からすぐ出頭せよと連絡がはいったという。そこに待っていたのは、議論と賞賛と非難のまとにされていたロンメルの決断であった。トブルクの勝利後、息も入れずにアレクサンドリアへ進むのであった。
『砂漠のキツネ』P220



 トブルク占領の功績によりネーリングは7月1日に装甲兵大将へと昇進。ロンメルは自分が以前付けていた装甲兵大将の階級章をネーリングに贈ったそうです(『砂漠のキツネ』P196)。


 その7月1日からはエル・アラメインでの枢軸軍の最初の攻勢(第1次エル・アラメインの戦い)が行われましたが成功せず、8月8日にはイギリス第8軍の司令官にモントゴメリーが任命され、英連邦軍の戦力は日増しに増強されていっていました。この8月の頃のロンメルの判断について、ネーリングはこう語っています。

「ロンメルは」とネーリング将軍は私【パウル・カレル】に語った。「ロンメルはより大きな優位と注意をもって実施されるこの【モントゴメリーの】攻勢をじっと待つべきだったのか? それとも先手を打つべきだったのか? または有利な場所まで後退するべきだったのか? たとえば1941年にもちこたえたイタリア=エジプト国境まで? 今になってみれば、補給に有利な防衛空間に後退することが正しい解決であったと言わなければなりますまい。しかし、それは、《退却》とされたでしょう。ベルリンとローマはご存知のように退却を《政治的理由から好ましからず》とみなしていましたからね。だがこの種の決定とロンメルの機動的用兵に最も適い、その戦術的優位を発揮させたはずです」
 偏見のない情勢判断でしばしば他を怒らせてきた冷静なネーリングはこう回想している。
『砂漠のキツネ』P244,5



 1942年8月30日からは、枢軸軍の再度の攻勢(第2次エル・アラメインの戦い、あるいはアラム・ハルファの戦い)が開始されましたが、その2日目にネーリングは負傷してしまいました。

 夜半は過ぎた。8月31日になった。各師団は守りも固い広大な地雷原で戦いつづけ、 こうこうと照らし出された空からは重い爆弾が降ってくる。敵機は慎重に作戦中のドイツ軍機械化部隊に機銃掃射を加えて回っていた。その一機がタカのように明るい地表に急降下した。ネーリングの指揮車をめがけて。戦隊の火器はそれを迎えて火を吐いたが、トミーはかまわず、低空から爆弾を投下した。それは前車軸の横で爆発し、近くにいた将兵をなぎ倒した。破片が装甲板を砕き、ネーリングは血に染まって倒れた。バイエルラインとほかの乗員は無線機が盾になって無事だった。車の外では連絡将校のフォン・ブルクスドルフが致命傷を受け、軍団の古手計理将校ヴュルツブルク出身のヴァルター・シュミットもやられた。フランツ・フォラー軍曹が装甲連絡車をとばしてきて将軍を引きずり込むと包帯所に運んだ。こうして戦いの開始とともに四人の将軍のうち三人までが倒れたのである。バイエルラインは別の装甲車に乗りかえ、フォン・フェールスト将軍が来るまで軍団の指揮をとった。
『砂漠のキツネ』P251,2


 ネーリングはこの時に頭、腕、胴体に傷を負い、後方の病院からドイツに空輸されることになりました。


 ネーリングが本国で治療を受けている間に北アフリカの情勢はさらに悪化し、ロンメルはモントゴメリーの攻勢(第3次エル・アラメインの戦い)を受けてエル・アラメインからの撤退を11月2日に開始しました。そして11月8日に連合軍はトーチ作戦でモロッコとアルジェリアへの上陸を開始したのです。

 ヒトラーとケッセルリングは急いでチュニジアに、ドイツ軍部隊を送り込み始めます。

 一方、ドイツ本土では11月9日、ネーリング大将に電話が入った。
 将軍はエル・アラメイン戦で受けた傷をベルリンに近いヴュンスドルフの病院で治療していた。相手はガウゼ少将。彼もまたアフリカで負傷し、ベルリンの自宅で療養していた。ガウゼ宅での会談にはロンメルの連絡将校ベルント予備役大尉も同席した。
 ドイツ・アフリカ装甲軍の参謀長だったガウゼは、後退しているロンメル軍を受け入れる陣をトリポリタニアとの境に近いマルサ・エル・ブレガに構築する任務をネーリング【に】引き受けて欲しいと語った。ネーリングは【腕の傷が】完治していなかったが、これを受け入れ、11日にはローマに飛んだ。
 しかしそこで【南方軍総司令官の】ケッセルリングから受けた命令は、ロンメル支援のリビア行きではなく、チュニス行きであった。元帥は将軍に、兵をできるだけ西に進め、望むらくはチュニジアとアルジェリアとの国境線を確保して欲しいと告げた。さらに将軍には第90軍団が与えられると知らされた。名前は軍団でも兵力は一握り、司令部要員は作戦参謀のモル少佐以下数名という有様であった。
 14日、ネーリング大将はラ・マルサ飛行場に降り立った。従ったのはモル少佐、空軍の連絡将校ヒンケルバイン少佐、そして将軍の護衛将校のゼル予備役中尉であった。チュニスを視察後、将軍はビゼルタにも回った。13日、チュニジアの独伊軍はネーリングの指揮下に置かれた。【……】
 師団戦力にも満たない部隊の司令部として「軍団」を置いたのは、敵を欺瞞する目的だった。それが効を奏したのかは不明だが、ネーリングのチュニス一家はその役割を良くはたした。
『チュニジアの闘い:1942~43[上]』P6~9


 チュニジアでの最初の頃の移動は「チャーターしたフランス人のタクシーによるというありさま」だったそうです(『ルビコンを渡った男たち』大木毅 戦史エッセイ集2 二つの残光:「チュニスへの競争」とカセリーヌ峠の戦い P21)。

 また、「当初、ネーリングが持っていたのは自分と、副官と、運転手だけだった。1日ほどしてから、彼はケッセルリングの司令部中隊の一部を手に入れた。彼はチュニジア人のタクシー【複数】を押収して、臨時の輸送隊を編成した。」(『Rommel's Desert Commanders』P88)という記述もありました。



 OCS『Tunisia II』は、チュニジアで最初に連合軍と枢軸軍の衝突があった1943年11月16日を含んでいる「11月15日ターン(15日~18日)」から始まります。


 ↓OCS『Tunisia II』の第90軍団司令部ユニット。

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 ↓OCS『Tunisia II』のマップ上の、チュニジアでの最初の戦いの頃の戦場地域(キャンペーンの初期配置。赤い線はおおまかな両軍の戦線)。

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 チュニジアでのネーリングの動きに関して、前掲の大木毅氏の「二つの残光」という記事が非常に分かりやすいので、抜粋引用してみます。

 11月9日、アルジェに到着したアンダーソン【イギリス第1軍司令官】は【……】慎重すぎた。枢軸軍の戦力を過大評価したばかりか、自軍右翼が弱体であるのを危惧し、主力の集結が終わるまで、前進を手控えると決めたのである。
 こうして生じた貴重な時間を無駄にするネーリングではない。まず、手持ち兵力を、2個戦隊にまとめ、それぞれチュニスとビゼルトの守備にあてる。ただし、ネーリングは、連合軍は二筋の街道沿いにこれらの地点の占領にかかるだろうし、テベサ経由で東海岸に突進し、退却中のロンメルへの補給路を遮断することを試みるにちがいないと読んでいた。こうした企図をくじくには、攻撃しかない。
 枢軸軍は、増援部隊の到着と集結を待たず、大胆にも、少数の部隊のみを以て、橋頭堡の拡大にかかる。最初に叩くのは、連合軍の到着を待って、枢軸軍と決別することを考えていたヴィシー・フランス軍。彼らは、急降下爆撃機に支援された降下猟兵によって早々に退却に追い込まれる。つぎなる段階で、連合軍との最初の接触が起こった。11月17日、ルドルフ・ヴィツィヒ少佐の降下工兵を基幹とする戦隊が、 英第36歩兵旅団の前衛とぶつかったのだ。この戦闘は、双方ともにかなりの損害を出したものの、いずれも、さしたる戦果を得られずに終わる。けれども、南方では、連合軍戦力が手薄であったこともあり、スース、スファックス、ガベースといった、ロンメルの退路を確保する上で重要な地点の占領に成功した。きわめて弱体な、ぎりぎりの戦力しか持たぬ部隊によって支えられた、糸のごとき戦線ではあったにせよ、枢軸軍の橋頭堡は確立されたのである。
『ルビコンを渡った男たち』大木毅 戦史エッセイ集2 二つの残光:「チュニスへの競争」とカセリーヌ峠の戦い P21,22



 余談ながら、OCS『Tunisia II』をプレイしてみると、連合軍側は右翼が弱体すぎて「一体どうしたらよいのか」と途方に暮れるので、アンダーソン将軍の気持ちが良く分かります(^_^;

 一方で、右翼以外での連合軍の戦力は優勢(というか、枢軸軍の兵力が少なすぎる)で、枢軸軍プレイヤーがネーリングと同じような成果を獲得するのも、またなかなかに難易度が高いと感じます。

 それでも、優勢な連合軍部隊の突進を止めることはできなかった。25日の午後、米軍の先遣戦車隊がジェデイダ飛行場を急襲、地上にあった20機の航空機を炎上させる。高射砲部隊の防御射撃により、これは撃退できたものの、側面と後方をおびやかされたネーリングは、プロトヴィルからジェデイダを経てサンシプリエンにいたる線、すなわち、チュニス周辺部まで橋頭堡を縮小することを決意せざるを得なかった。この撤退は、支障なく実行されたが、 ケッセルリングは、かかる措置が取られたことに激高する。28日、自らチュニスを訪れたケッセルリングは、あらたに歩兵1個連隊を増強するとした上で、 時間をかせぐことの重要性を強調、「軍事的措置のみならず、持ちこたえようとする将兵の意志を鼓舞することこそが重要なのだ」 と、ネーリングを叱責した。
 ここまで言われては、ネーリングも橋頭堡の再拡大のために、反撃を実行せざるを得なくなる。砂漠の「古ギツネ」である彼の計画は周到なものだった。南で、装甲車を中心とする部隊に攻勢防御を実行させる一方、動かせるすべての部隊を投入して、西に向かって攻勢をかけ、テブールバを奪う。この主攻を担う部隊には、到着したばかりの第10装甲師団の一部が含まれており、戦車64両を使用することができた。
 12月1日、午前7時5分、攻撃は開始された。急降下爆撃機が、テブールバ北西チュイギ峠の連合軍陣地を叩く。前進を開始したドイツ軍は、たちまちジェディダ前面の敵を駆逐、連合軍機甲部隊の反撃をしりぞけて、橋頭堡を拡大した。 連合軍は、攻撃の成功に気をよくし、戦果を拡大しようとするあまり、分散しすぎていて、ドイツ軍の好餌となってしまったのだ。かかるドイツ軍の進撃は、12月10日にメジェズ・エル・バブ東方で、アメリカ軍部隊に阻止されるまで続く。9日に、解任されたネーリングの後任として - 一時的ではあったにせよ、チュニス周辺への後退を命じたことにより、ケッセルリングの不興を買ったのだ - チュニジアの枢軸軍最高司令官となったハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将は、防御態勢への転換を命じた。事実、攻撃を継続する必要はなかった。この日までに、ドイツ軍は、メジェズ・エル・バブの東12キロの地域まで主戦線を推し進めていたのである。
『ルビコンを渡った男たち』大木毅 戦史エッセイ集2 二つの残光:「チュニスへの競争」とカセリーヌ峠の戦い P23



 ネーリングに対する「不興」についてですが、諸資料によるとケッセルリングの他にベルント、ゲッベルス、ヒトラーなども不興を感じていたという話が出てくるのですが、その理由付けとしては『Rommel's Desert Commanders』にあったこの話が説明能力が高いように思われました(『Hitler's Enforcers』の方にはこの話は出てきません)。

 しかしヴァルター・ネーリングは、チュニジアを防衛するという考えにそもそも公然と疑問を呈していたのだ。彼は、アングロサクソンの空軍力と海軍力がいつの日か枢軸軍の補給線の崩壊させ、第90軍団とアフリカ装甲軍の壊滅をもたらすことを予見していた。道徳的な臆病者でなかったネーリングは率直に、自分の意見をナチスとOKWに伝えたのである。彼はすぐにヒトラーから敗北主義者の烙印を押され、ゲッベルス博士【ゲッベルスは哲学博士号を持っていた】からは特に激烈な糾弾を受けた。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P88



 恐らくこのネーリングの意見表明に対して、ゲッベルスの北アフリカの代理人であるアルフレート・ベルントが彼を「あからさまな悲観主義者」と呼んだ、ということが『Hitler's Generals』(C.Barnett)のフォン・アルニムの項に書かれています(P341。注によるとその原典はゲッベルスの日記のP281)。そのすぐ後には「ケッセルリングは【……】11月26日の連合軍によるジェデイダ飛行場襲撃からネーリングが「最も暗い結論を引き出した」と不満を述べた。」と書かれていて、ケッセルリングの方はむしろネーリングの軍事的退却の方に不満があったかのようです(注によるとその原典はケッセルリングの『ある兵士の記録』P169)。


 一方で、チュニスに近づいてきた連合軍を撃退するのに、ネーリングの判断が功を奏したという話もあります。

 だがここでもネーリングの冷静な頭脳が事態を救った。第20高射砲師団の88ミリを2門、町にはいる道路わきに配置しておいたのだ。これがネーリングの希望だった。2門はアメリカ軍偵察隊を撃ちすくめ、さらに本隊を猛砲火で迎えた。戦争の経験のないボーイたちにこれはこたえわれた【ママ】。しかし危険が去ったわけではない。
『砂漠のキツネ』P317




 また、ネーリングの方は自分が解任されることを知らされておらず、フォン・アルニムらが到着してその件を知らされた時にショックを受けたそうです。

 フォン・アルニムツィーグラーは、フラスカティ【ローマ近郊】からさらに旅を続け、12月8日にチュニジアに到着した。チュニス周辺の防御ラインを、空挺部隊とシチリア、イタリア、ギリシャに駐留していた部隊の断片を寄せ集めたわずかな兵力で作っていた第90軍団司令官ネーリング将軍と会談したのである。この二人の指揮官の到着は、交代を知らされていなかったネーリングに衝撃を与えた。ネーリングはすでに防衛線の面積を広げるための攻勢を計画しており、その戦闘計画をこの二人に見せた。二人はこの戦闘計画に同意し、詳細を確認した。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P27

 12月9日、ネーリング大将は指揮権をロシアから着任したフォン・アルニム上級大将(12月3日付昇進)に引き渡し、帰国して病院にもどった。将軍【ネーリング】は妻に、チュニジアを持ちこたえることは不可能であろうと語り、残してきた運転手と側近のことを心配していたという。
『チュニジアの闘い:1942~43[上]』P75




 ネーリングはドイツ本国に戻されましたが、この1942年の11月から1943年の1月末にかけて、東部戦線ではスターリングラード包囲戦が起こっており、優秀な彼をそのままにしておくことはできなかったと思われます。ネーリングは1943年2月10日に、第24軍団司令官に任命されました。この直前、第24軍団はソ連軍の攻勢(オストロゴジスク=ロッソシ作戦)を受けてイタリア軍のアルピーニ軍団と共に苦難の後退戦を戦っており、その司令官が次々に戦死したりして1週間に4人代わった後でした。

 → オストロゴジスク=ロッソシ作戦時のフェーゲライン戦闘団について(付:OCS『Case Blue』『GBII』) (2019/07/11)の最後をご覧下さい。


 ↓OCS『Case Blue』の第24装甲軍団司令部ユニット。

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 『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によると、1942年6月までは「第24軍団」で、6月から「第24装甲軍団」と名称変更されたようです。



 ネーリングは第24軍団を指揮してドニエプル川東岸の橋頭堡を確保し続け、フォン・マンシュタインによる「後手からの一撃」(第3次ハリコフの戦い)が成功したこともあり、ひと息つくことができました(当時同軍団はボロボロになっていたと思われ、「後手からの一撃」の攻撃自体には参加していないようで、守備部隊として留まっていたのではないでしょうか)。


 OCS『Case Blue』に入っているシナリオ/キャンペーンで最も時期の遅いものは1943年1月29日ターンから始まる「後手からの一撃」で、5月29日ターンまで続きます。


 ↓OCS『Case Blue』の「後手からの一撃」キャンペーンのセットアップにおける第24装甲軍団の位置周辺。

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 1943年7月5日からのツィタデレ作戦では、第24装甲軍団はフォン・マンシュタイン麾下で南側からの攻勢に参加することになっていました。しかし突破口は開かれず、それどころか南方のミウス川戦線に危機が訪れて同軍団はそちらに回されます。この戦闘でネーリングは負傷したものの、軍団司令官の職は継続したようです。

 ソ連軍のその後の反転攻勢においてネーリングの軍団は消防隊として使用され続けます。



 ドニエプル川の戦いでは、ブクリン橋頭堡を拡大しようとする1943年9月24日からのソ連軍の空挺作戦が移動中のネーリングの第24装甲軍団の真上に行われ、この空挺降下による橋頭堡確保の試みを失敗させました(結局ソ連軍は、ここからの突破を諦め、キエフの北に作ったリュテジ橋頭堡からの突破に成功しました)。


 OCS『The Third Winter』キャンペーンは、まさにこのカニェフへの空挺降下の時期(1943年9月26日ターン)から始まります。


 ↓OCS『The Third Winter』キャンペーンのセットアップ上の、第24装甲軍団司令部周辺。

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 ↓OCS『The Third Winter』の第24装甲軍団司令部ユニット。

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 その後の戦いでも、両翼の軍団が抜かれてしまっても第24装甲軍団の正面は抜かれずに維持し続けたことを、ネーリングは誇りに思っていたそうです。壊滅的な前線を塞ぎ続けるネーリングへの評価は高まり、ますます頻繁に救援を要請されるようになります。

 1943年末の短い停止期間にネーリングは短い休暇を取ることができ、クリスマスの少し前に前線に戻りました。彼が戻って間もなくソ連軍が攻勢を開始し、ドイツ軍の戦線に幅20kmの隙間ができてしまいます(場所が判然としませんが、ジトーミルとヴィニッツァの間の辺り?)。ネーリングは反撃部隊を編成し、この穴の突破を狙うソ連軍戦車部隊に対抗して激しく打ちのめして、戦線を再確保することに成功。この功績により1944年2月8日、騎士鉄十字章に柏葉を付与されました。


 さらに1944年春、ネーリングの第24装甲軍団はフーベ包囲戦(カメネツ=ポドリスキー包囲戦)で包囲環に閉じ込められてしまいましたが、何とか脱出に成功します。


 ↓OCS『The Third Winter』の「フーベ包囲戦」シナリオの初期配置上の第24装甲軍団司令部周辺。

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 その後、ネーリングは第4装甲軍の司令官代理に任命されましたが、麾下の装甲部隊はバグラチオン作戦で崩壊の危機に瀕した中央軍集団に引き抜かれてしまっていました(ネーリングの第24装甲軍団司令官の離任は『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によれば6月27日、第4装甲軍の司令官代理就任は『ドイツ軍名将列伝』によれば6月28日、『Rommel's Desert Commanders』によれば7月2日)。ソ連軍の第1ウクライナ正面軍は第4装甲軍と第1装甲軍の接合部に攻勢をかけてきましたが、ネーリングは麾下の歩兵部隊を駆使して牽制します。

 1944年8月にネーリングは再び第24装甲軍団の指揮を命じられました(『Rommel's Desert Commanders』によれば8月8日頃、『Hitler's Enforcers』によれば8月下旬、『ドイツ軍名将列伝』と『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によれば8月20日)。しかし病気のために新しい任務に就くことができず、10月中旬になってようやく指揮を執り始めます。その時には同軍団はスロバキアに入っていました。

 この秋から冬にかけてネーリングは第1装甲軍司令官ハインリーチと協力して、第4ウクライナ正面軍の西方突破を牽制します。そして第24装甲軍団はポーランドへと北上し、A軍集団の予備となりました。しかし1945年1月、A軍集団司令官ハルペ上級大将は予備の第24装甲軍団を後方に配置するつもりであったのに、ヒトラーが戦闘地域近くに移動させるように命じてしまいます。


 1945年1月12日にソ連軍のヴィスワ=オーデル攻勢が開始され、前線から10マイル(約16km)後方に位置していた第24装甲軍団麾下の2個装甲師団の多くの部隊が反応する前に蹂躙されてしまいました。


 ↓ヴィスワ=オーデル攻勢の地図(クリックしていくことで拡大できます)。第24装甲軍団は第4装甲軍グレーザー上級大将(地図で真ん中少し下に「FOURTH」「GRAESER」とある場所)の麾下でした。

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 同じく第4装甲軍の麾下であった第48装甲軍団と第42軍団は壊滅状態となり、キエルツェ(Kielce)【前述の「FOURTH」の右下の場所に地名あり】周辺に陣地を築いていたネーリングの第24装甲軍団は、必至になってソ連軍の大軍を止めようとしました。

 1月12~13日の夜の間に、ネーリングは早くも麾下の部隊の掌握を回復させます。1月13日、ネーリングはキエルツェ~フミエルニク(Chmielnik)【前掲地図に地名なし。Kielceと、その下の方にある青字の「Vistula」との中間地点あたり】地区で巧みな防御を行い、ソ連軍の前進を大幅に遅らせました。これは第1ウクライナ正面軍の司令官であるコーネフ元帥を怒らせ、14日に彼は予備部隊を投入します。この日、ネーリング麾下の2個師団はソ連軍の第13軍、第4戦車軍、第13親衛軍に攻撃されました。翌日、第24装甲軍団の防御線はついに破られ、ネーリングは撤退を開始。周囲はソ連軍に囲まれ、ネーリング指揮下の部隊は「流浪のポケット」を形成しつつ、西への退却戦を続けることになったのです。

 この時のネーリングの退却について、アントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落 1945』に次のような記述があります。

 車載部隊を基幹とするドイツ軍大縦列もまた、本国めざして撤退し、ソ連軍集中地域の突破をこころみた。車両を横取りして走らせ、二度と使えぬよう火砲や装備を容赦なく破壊しながら、つぎつぎに包囲をすり抜け、一戦を交えて強行突破しようとする、いわゆる「移動する台風の目」である。なかでもいちばん手ごわく、有名だったのは、ネーリング将軍の装甲軍団を基幹とする一群で、敗残兵や敗残部隊を糾合し、故障あるいは燃料切れの車両を破壊し、戦車二両を犠牲にして橋を支え、橋が崩れ落ちるまえに軽車両をすばやく渡らせるという芸当までやってのけた。はからずもジューコフ軍とコーネフ軍の作戦地域の境界線にほぼ沿ったルートをえらんだことがさいわいして、ネーリングは大規模戦闘をなんとか回避できた。ネーリングは短時間の無線連絡でフォン・ザウケン中将のグロスドイチュラント軍団が合流をこころみると聞き、1月21日、濃霧にまぎれて合流に成功した。この混成軍団はその後1月27日にオーデル川西岸の安全地帯に撤退した。
『ベルリン陥落 1945』P95,6



 この時のネーリングと、ネーリング麾下の部隊の様子に関しては今回主要文献とした2つの資料にも詳しく書かれています。

 包囲を逃れた数少ない装甲軍団はネーリングの指揮下で「さまよえるポケット」を形成し、多数の歩兵部隊とともにドイツ主戦線へと復帰するための戦いを開始した。このポケットの戦いが成功したのは、ネーリングが指揮下の部隊をしっかりと把握したことに加え、兵士達に自信を持たせたからである。この「さまよえるポケット」はポーランド東部にいて、その行軍は当初クラクフ市から東北東に向かい、ウッジ市を目指した【クラクフ(Cracow)は前掲地図で、前述のVistulaの文字の南西に地名あり。ウッジ(Lodz)はそのはるか北方で、「NINTH」とある少し下に地名あり】。スタフカはこのポケットの存在とその方向に気付いており、脱出路を遮断するために部隊を移動させた。ネーリングはピリツァ川に架かる橋を思い出し、行軍路を北から西に変更して、その橋に到達した。この方向転換とドイツ軍の必死の攻撃がソ連軍のバランスを崩し、さまよえるポケットは赤軍の包囲環に穴を開けた。ネーリングはソ連軍の包囲環から脱出すると、再び突進路を変更し、再びウッジに向かって北上した。この11日間続いた250kmの行軍は、鬱蒼とした森を真冬に抜けるというものであり、夜は濃霧で兵士や部隊が互いの連絡が途絶するほどであった。

 1月22日、ポケットの先頭部隊は「グロスドイッチュラント」部隊と接触した。1月22日の夜に出されたネーリングからの命令書には、その行軍の緊張、困難、恐怖が短い文章で記録されている。「休息はほとんど、あるいはまったく取れず、弾薬と燃料は不足し、ひどい霜と雪の中、道路は凍り、強力で迅速な敵に囲まれつつ、困難な地形を横断し、橋のない川を渡っていく……これらのいずれもが、いつどこで敵と出会おうともそれを粉砕するという我々の決意を止めることはできず、我々は成功をつかみ取ったのだ。これらのことはすべて、我々の団結と連帯の精神によって可能になったのである……」。ネーリングはこの「さまよえるポケット」での指揮の功績により、柏葉付騎士鉄十字章に「剣」を付与された。
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P116,7

 前線の全てに渡って、A軍集団は崩壊していた。ネーリングの北側面では、レクナゲル将軍が第42軍団の結集を図っていたが、1月15日にソ連軍の砲弾で死亡し、軍団の残骸は無秩序に散っていった。南側面の第48装甲軍団はほとんど消滅していた。1月17日の時点で、ネーリングは赤軍の最前線から何マイルも後方におり、ロシア軍の十数個の軍に囲まれていたのである。

 他のほとんどの将軍ならば、この時点で終わりであっただろう。しかしヴァルター・ネーリングは、この絶望的な状況を自分のテクニックと経験を総動員して克服した。彼は「流浪のポケット」を形成し、その境界線を維持しながら北西に退却していき、その間に散り散り、粉々になっていた師団、無傷の部隊、そして民間人を拾っていった。

 民間人は当然のことながら恐怖に怯えていた。赤軍は、望むままに強盗、殺人、強姦を繰り返していた。恐怖におののく両親の前で娘を輪姦した後にその娘を殺し、そして両親を拷問して死に至らせることも頻繁にあった。レイプの被害者には、12歳の子供や70代のおばあさんも含まれていた。このような運命から自分や家族を救おうと、パニックに陥った何万人もの市民が、ヴァルター・ネーリングに救いを求めたのである。追い返された人は一人もいなかった(ネーリングは、彼らの気持ちを理解していた。自分の家も連合軍の空襲で焼け落ち、家族は西のどこかにいて、家のない難民になっていたのだから)。 やがて、この流浪のポケットの中には、兵士の数よりも多くの民間人がいるようになった。

 ソ連軍は、ネーリングが持っていた防御のための師団数よりも多い数の軍で、この流浪するポケットを攻撃していた。ネーリングは毎日、数個軍から攻撃を受けた。彼はすべての攻撃を阻止した。赤軍はネーリングを停止させようとして、彼の退却路の先の西と北西にある橋を同時に爆破しようとしたものの、失敗した。一方、これまた信じがたいほど勇敢な装甲部隊指揮官であったディートリヒ・フォン・ザウケンが、グロスドイッチュラント装甲軍団を率いて西からネーリングに向かった。彼もすぐに包囲されたが、東に向かって進み続けた。1月22日、彼は第24装甲軍団と合流し、直ちに自らネーリングの指揮下に入った。この時ネーリングは、第24装甲軍団、グロスドイッチュラント装甲軍団、第56装甲軍団、第42軍団を指揮しており、その中には第291、第88、第72、第342、第214、第17歩兵師団、第45、第6国民擲弾兵師団、第16、第17装甲師団、第20、第10装甲擲弾兵師団が含まれていた。スターリンはこの流浪のポケットを壊滅させるよう命じた。7対1以上の戦力比があったにもかかわらず、赤軍にはそれに失敗した。

 補給も得られない厳冬の中、ネーリングはこの「さまよえるポケット」を北西に移動させ、その輪を守り続けた。彼はついにオーデル川まで戦い抜き、1月末にドイツ軍の前線へと到達した。彼は赤軍の真ん中を150マイル(約241km)も走り抜けたのだ。ハインツ・グデーリアンは、「ネーリングとフォン・ザウケンの両将軍は、この数日間、クセノフォン【敵中に孤立したギリシア人傭兵達の脱出行を描いた『アナバシス』の著者】が新たにペンを取ったのでなければ十分に表現できないような軍事的妙技を披露した」と感嘆の声を上げた。【……】 私の意見では、このキャンペーンはヴァルター・ネーリングが第二次世界大戦のドイツ軍指揮官達 - グデーリアンやロンメルをも含めて - の中で最高の装甲部隊指揮官であったことを証明している。これが少数派の意見であることは承知しているが、これが私の考えである。

 ヒトラーでさえもネーリングの偉業に感激した。ヒトラーは、ネーリングの【柏葉付】騎士鉄十字章に「剣」を付与し、ザウケン(すでに剣を持っていた)には「ダイヤモンド」を付与した。ヒトラーは少なくともある程度、ネーリングへの勘気を解いてプロフェッショナルだと認め、彼に上シレジアの第1装甲軍の指揮権を与えた(3月20日、司令官に就任)。しかし、ネーリングは上級大将への昇進はされなかった(し、生涯されなかった)。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P91,2



 その第1装甲軍司令官への就任の前に、↓のようなこともあったことが書かれていました。

 敗戦間近のドイツ軍の軍事情勢は、部隊や指揮官に休む暇を与えなかった。この「ポケット」の流浪が終了してから2日後の1月25日、ネーリングと第16装甲師団の司令部グループは、オーデル川沿いのグローガウ(Glogau)【前掲地図の左の方の、上下では真ん中あたりに地名あり】に送られ、進撃するロシア軍に対する街の防衛を準備することになった。グローガウへの移動は、赤軍の戦車が突破してきており、田園地帯を徘徊していたため砲撃を受けるなど、衝突必至であった。ネーリングの第24装甲軍団の守備範囲は、シュタイナウ(Steinau)【Glogauの南東。前掲地図に地名なし。GlogauとBleslauの中間あたり】からノイザルツ(Neusalz)【Glogauの北西。前掲地図に地名なし。】までのオーデル川沿いであった。この時「グロスドイッチュラント」はオーデル川の東岸にある重要な橋頭堡を守っていたが、ネーリングの指揮下に入れられることになった。

 ネーリングはまたもや困難な任務に直面した。「グロスドイッチュラント」に属する大量の車両とその装甲軍団の部隊を、この時まだ失われていなかった数個の橋で渡し、連れ戻さなければならないのだ。困難にもかかわらず、ネーリングは2月初めまでにこの不可能と思われた任務を達成した。ある場所では後退が攻撃に変更され、新たに第39装甲軍団と第57装甲軍団、および多数の歩兵師団からなる装甲集団が編成されてネーリングの指揮下に置かれた。彼はラウバン(Lauban)【現Luban。前掲地図に地名なし。左下の「A(CENTER)」とあるあたり】を奪還し、戦略的に重要な鉄道路線を再開通させよという命令を受けたのである。第二次世界大戦中のドイツ軍戦車部隊による最後の攻防戦となったこの作戦で、師団は目標の両側から突き進んだ。その進撃は町を保持していたロシア軍を罠にはめて包囲し、短時間の激戦の末に撃破した。
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P117



 『ベルリン陥落 1945』のP209には、恐らくこのラウバン占領の少し前に、レリュシェーンコの第4親衛戦車軍の補給線と後方部隊をグロスドイッチュラント軍団とネーリングの第24装甲軍団が襲撃し、2日間の戦闘でドイツ軍が後退したことが書かれています。また、その次のページにはラウバンの占領によってゲッベルスが驚喜し、町に乗り込んで祝賀演説を行ったりしたことが書かれていました。


 その後、ネーリングは上シレジアで第1装甲軍の指揮を執り始めました(『Hitler's Enforcers』によれば3月21日)。ネーリングの主な目的は、できるだけ多くの民間人を西へ逃がし、できるだけ多くの兵士をソ連軍ではなく西側連合軍の捕虜にするということでした。ネーリングはできるだけ多くの部隊を訪問し、部下に自分の姿を見せて戦意を高揚させたといいます。

 最後のソ連軍の攻勢は4月16日に始まりました。あまりにも強力で迅速な攻勢であったため、第1装甲軍がドイツに入る前にチェコで追い詰められてしまいました。ネーリングの司令部とわずかな部隊のみが、なんとかアメリカ軍に降伏することができました。


 1947年に捕虜収容所から釈放されたネーリングはデュッセルドルフに引退し、質素なアパートに住んでいました。1983年に死去しました。

 日本語版Wikipedia「ヴァルター・ネーリング」には、このような記述がありました。

ガルミッシュ=パルテンキルヒェン、ついでマールブルク・アン・デア・ラーン近郊のアレンドルフの捕虜収容所に収容されている間に、ネーリングはアメリカ軍の公刊戦史編纂に協力して文章を著した。1947年からはグデーリアンとともに戦史を執筆している。1948年5月に釈放される。1949年に西プロイセンの追放ドイツ人団体に加入し、西プロイセンについての論文を著した。デュッセルドルフの自動車会社に就職し、また趣味の狩猟の団体を組織した。1964年以降戦史に関する著書を著し、ドイツ国防軍関連の書類管理権がまだ西ドイツに無かった当時、軍事史学および軍事問題の第一人者とみなされるようになった。1955年には再軍備に備えたドイツキリスト教民主同盟の防衛委員会の顧問に就任している。これらの功績により、1973年7月にドイツ連邦共和国功労勲章第1等十字章を受章した。デュッセルドルフで死去した。




 今回使用した資料で、途中にリンクを挙げていなかったものを挙げておきます(私が持っている『ベルリン陥落 1945』は古い方なので、ページが異なっているかもしれません)。




『歴史群像』176号「比島攻略作戦」記事の感想

 『歴史群像』を毎号買ってまして(ナポレオン戦争に関する佐藤氏の連載目当て)、家で開けてみましたらメイン記事が「錯誤の戦場 比島攻略作戦」となってまして、『あ~、1944年からのアメリカ軍のフィリピン攻略作戦の話かなぁ』と思っていたら、1941年~42年の、日本軍によるフィリピン攻略作戦の記事でした(^_^;






 この戦い(の一部)に関しては、OCS『Luzon: Race for Bataan』を作る時に結構色々本を読んだので、その時に自分なりに考えたことを念頭に記事を読んでみました。そしたら、結構執筆者さん(長南政義氏)と私は見方が違うなぁ、と思いました。


 ↓OCS『Luzon: Race for Bataan』の制作中の頃のマップ。

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 もちろん長南氏はプロの方であり、私は素人に過ぎません。が、私自身の傾向として「ものの見方には色々なものがあるだろう(あるいは、あるべきである)」「色々な意見があるということが明らかになっている方がよい」とも思うので、せっかくなので本記事に関してどう思ったかを書いておこうと思いました。



 本記事で特徴的だなぁと思ったのは、フィリピン攻略作戦を指揮した第14軍司令官本間雅晴の「能力不足」という指摘でした。「野戦軍司令官としての本間は、戦局の推移を精確に予測する洞察力、状況の変化に即応できる柔軟性、決断力に欠ける将帥であったと評せざるを得ない。(P42)」「作戦期間を通じ、敵情判断を誤り続けたのみならず、強力なリーダーシップや作戦能力を発揮できなかった。(P49)」とし、フィリピン攻略作戦における失敗面の主因とされている感を受けました。

 ある程度それはあっただろう、と私も思います(特にバターン半島での戦いではそうかも。ゲームには関係のない部分なので、その時期のことは私はほとんど追いかけていないのですが)。

 しかし私の印象では、本間雅晴の能力・性格の問題はもっと小さいように感じています。以下、私の印象はあくまで「バターン半島の戦いより前の戦い(ゲームで再現した1941年12月22日~1942年1月7日まで)」に偏ってはいますが……。


 本記事では書かれていませんが、開戦前に杉山元参謀総長からフィリピン攻略を命じられた時、本間雅晴は「与えられた兵力で指定された期限内に攻略することは保証できない」として参謀総長に文句を言ったというような話があります(ただし、この話が実際にあった話なのか、もしかしたら作られた話なのかという問題はあるかも)。それでいて、マニラ攻略の期日とされた日よりも遙かに早くマニラ攻略に成功しているのです。

 本間雅晴は中国大陸における作戦でも、作戦立案能力は非常に高いが、慎重に過ぎる面があるという評価だったらしいです。頭の良さはすごい(陸大3位)わけですが、性格が優しすぎ、非情さが必要な軍人には向かず、教師などになった方が良かったと言われています。これは本記事にも書かれてますが、第48師団に急遽バターン半島攻略を命じるというのは師団長の土橋勇逸が「承知しないだろう」(ジャワ島作戦にすぐに向かう予定になっていたので)と本間雅晴が言っていた……というのは、私も「本間将軍優しすぎる……(T_T)」と思います。(本間雅晴の他の優しすぎる具体例について、『憎悪の世紀』読後感想(人種差別について+本間中将の逸話) (2020/06/08)の最後の部分をぜひ読んで下さい)。

 私が色々調べていた時の印象からすると、本間雅晴が責められるべきは、この「優しすぎる」面ぐらいだと思われました。しかし性格の問題をどうこうするのは無理でしょう。また、「マニラか、急遽目標を変えて敵撃滅か」が議題となった時、本間雅晴は「急に方針を変えて戦力を分割することは良くない」としてマニラ攻略を優先させたのですが、その判断は真っ当なものだったように私には思えます。

 土橋勇逸の「敵撃滅を優先すべし」という判断は正しかったようにも思えますが、我々は後知恵があるから「本間は無能で土橋は有能だった」と判断しているに過ぎないのではないか、という疑念が私には拭えません。土橋勇逸の言う通りにしていて虻蜂取らずの結果になった可能性は、マニラは無防備都市宣言されていたのでないのですが(おい)、言う通りにしていてさえいればうまくいったという保証があるのかといえば、どうだろうかと思います。

 運の要素も結構あったと私は思っていまして、山下奉文のマレー攻略戦は運が良かった面が強かったという話を読んだりしますが、フィリピン攻略戦も運が良かった面がかなりあったのです。劈頭の航空撃滅戦で大戦果を挙げたこと、リンガエン湾の上陸地点が南にずれてむしろ良かったこと、ラモン湾に第16師団が上陸したタイミングが米比軍にとって最悪だったことなど。また、マッカーサーがフィリピン軍が頼りにできると考えすぎていたことや、補給集積所を後方に移す決断ができなかったことなども、日本軍にとって運が良かった。逆に運が良くなかった面を考えるとすれば、部隊の上陸に予定よりもかなり手間取ってしまったとか、北部ルソン部隊司令官のウェーンライト将軍の指揮が極めて優れていたとか、マニラが無防備都市宣言と宣言されるも(当時はまだ無防備都市というものに米比軍側も慣れておらず)実際にはまだ抵抗活動が行われていることが偵察活動で判明しており、マニラ攻略に手を抜くということができなかったとかでしょうか。

 でもトータルとしては多分、予想外に運が良い面が多く、本間雅晴は「もっともっと手こずるはず」と考えていたと思われるので、性格的にも慎重を期したのはもう、しょうがないと私は思います。私の感覚では、これは本間雅晴が「無能」なのではなく「しょうがなかった」ことだと思われるのです。

 あるいは、能力がオールAの将軍が人材プールの中に豊富にいるのであればいいのですが、そんなことは実際上あり得ず、当然ながら凸凹の能力値ばかりの人材のプールの中から、なるべく良さそうな人を持ってこざるを得ないわけで、この時期の日本軍の南方攻略戦で山下奉文、本間雅晴、今村均という、人材プールの中では全体としてかなり優秀な人達を用意できたというのはむしろ幸運だったという見方もあるようです(なぜ彼らを用意できたかというと、彼らがある意味まともな人間で、すでに偏りまくっていた陸軍の本流から外れてしまってドサ回りをさせられていたのですぐ呼び出すことができたのだ、と『陸軍人事』という本に書いてありました(>_<))。




 本間雅晴に「戦局の推移を精確に予測する洞察力、状況の変化に即応できる柔軟性、決断力」を要求するというのは、例えば、ブラッドレーにパットンの要素を要求するようなものではないでしょうか。ブラッドレーは精密機械にも喩えられるような細かい処理能力に定評があって、それ自体が非常に得がたい能力であったためノルマンディー上陸作戦の時のアメリカ軍総司令官に選出されたのでした(→なぜブラッドレー将軍がノルマンディー上陸作戦時のアメリカ軍司令官に選ばれたのか?(付:OCS Normandy) (2019/05/31))。兵士の命を大事にした点だけでなく、処理能力の高さという点でもブラッドレーと本間雅晴は結構似た感じがあるような気がします。ブラッドレーはファレーズ包囲戦の時に果敢さに欠けてあたらドイツ軍を逃してしまったと批判されたりするようで、もしブラッドレーにパットンばりの決断力があればうまくいったのかもですが、ブラッドレーとパットンを合わせたような人材というのは、そりゃ、いたらすごいけど、実際問題としてはあり得ない、高望みに過ぎないのではないでしょうか。



 また、本間雅晴は「人間として運が悪すぎる」という話もありまして、ベタ惚れして結婚した最初の奥さんがとにかく奔放で浮気しまくりで、我慢して耐えたものの結局は離婚ということになったり、「バターン死の行進」の責任をひっかぶされて死刑になったのも、その行進自体を本間雅晴は知らなかったとか、死の行進ということ自体が言いがかりだとか、マッカーサーが自分を敗北に追い込んだ本間雅晴を絶対に許すまいと東京裁判の前に無理矢理死刑にしてしまったとか、「本間雅晴は本当に運が悪い。気の毒すぎる」と言われていたりするのを見ます。フィリピン攻略戦の失敗の責任を担わせられるというのも、その「運が悪い」の内の一つのような感じがします。

 フィリピン攻略戦の失敗面の責任の一端を本間雅晴が担わなければならないのは、その役職的にもしょうがない面はあるとは思いますが、私が思うには、本間雅晴以外の要因を十分以上に併記して、本間雅晴が要因である部分はその内のあくまで一部である、とするのが良いように思えます(本記事でも他の要因が色々併記されているのですが、本間雅晴の無能が主因であるという風に誘導されているという印象です)。



 ただ、「雑誌記事」ということからすると、本間雅晴を主因に持って来るのはやむを得ない、という気もします。何かを主因に据えなければ記事としては分かりにくいですし、「戦局の推移を精確に予測する洞察力、状況の変化に即応できる柔軟性、決断力」がもっと必要だったのだ、というのは記事として魅力的でしょう。また、実際その指摘が的を外しているとも私も思いません(ただ、本間雅晴に酷だよね、というだけで)。

 私の好みからすれば「結論は出さずに、可能性を併記するだけ」というのの方がいいのですが、それでは記事としてダメなのでしょう。また、米比軍側の錯誤であるとか、判断の良さとかってことももっと書くべきではなかろうかとは思いますが、今回の記事では紙幅的にそこまでは無理だった、というだけのことかもしれません(長南氏は日本軍のことが専門っぽいので、米比軍のことを調べて書くとしたら別の人になるかもですが)。


 実はOCS『Luzon: Race for Bataan』を作った時に、「ヒストリカルノートも書いておかないと、テストプレイを頼むにしても、史実なんて知らないんだけどと言われそうだ……」と思ってヒストリカルノートも書いてまして、そこに私なりの視点で、米比軍と日本軍を半々くらいで書きましたので、ゲームが出版されればそちらで読んでもらえれば、とも思うのですが、いつ出版されるのかなぁ(T_T)(冊子に同梱の形で出版されるという話になっているのですが、ゲームは完成しているのですが冊子に載せる記事が集まっていない状態らしいです)。


1940年のフランス戦の時、フランス軍の最高司令官であったガムラン将軍は梅毒による精神神経障害だった?

 個人的に、歴史上の人物がサイコパスだったりナルシストだったり双極性障害(いわゆる躁鬱)だったりした可能性についての話に興味があります。


 たとえば、↓ですとか。

『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』読了。南北戦争や第二次世界大戦のリーダーに興味のある人にも超オススメです! (2021/03/03)


 そこらへんの本として、『現代史を支配する病人たち』という本を見つけたので入手して読んでいましたら、1940年のフランス戦の時のフランス軍の最高司令官であったガムラン将軍は梅毒による精神神経障害だった、ということが書いてありまして、興味を持ちました。





Maurice Gamelin

 ↑ガムラン将軍(Wikipediaから)






 この本の、まずは梅毒による精神神経障害についての記述を引用してみます。

 ここでもまた、彼の言行の秘密を解く鍵は医療カルテである。ベニト・ムッソリーニと同じく、ガムラン将軍は神経梅毒患者だった。
 たぶん、彼もまた、全身的な動脈硬化にかかっていたのだろう。アルヴァレス病の弱い脳発作にもつぎつぎに見舞われていた模様である。こんなわけで、知力が失せ、分析が甘くなり、枝葉末節ばかりまわりくどく言い、判断力をなくし、評価を誤り、ペタンを頼りながら彼を批判し、記憶が混乱していたのである。ともかく確実なことが一つある。彼が死んだのは、医者が「P=G」と呼ぶ、梅毒末期の進行麻痺のためだった。1958年だった。
 【……】何年も前にペニシリンの使用が普及してからというもの、梅毒の重症患者はいなくなったので、教壇でも重症例は教えなくなっている。だが、前世紀末から今世紀初頭にかけて、梅毒は幻覚性脳病の筆頭だった。
 当時の梅毒患者たち(ガムラン将軍のように)の症状は、手遅れになった重い神経障害だった。精神障害も一緒だ。変則的な動作、トーヌス(筋の緊張)の消失、責任回避、性格の変化、多幸症、偏執、活動過剰(時々)、誇大妄想的贅言(常時)、批判力の喪失、支離滅裂な行動。
これら全体を称して医者は「進行麻痺」と言っている。
『現代史を支配する病人たち』P148,9



 1939~40年当時のガムランの状態に関してもこの本に色々書いてありますが、最もそれらしいところを2箇所ほど引用してみます。

 1939年当時69歳。やせて小柄な、物腰のやわらかな男である。彼は権謀術数に長けていた。フランス随一の戦術家だと評判だった。1914年マルヌ戦の成功した作戦計画にしろ、ジョフル元帥の下で実際に立案したのはガムランだった。ジョフル元帥から、その教義や才幹や経験を受け継いでいた模様である。明敏精緻な国粋主義者ガムランが、1935年から参謀本部の頭に立っていた。彼の秘密の手は、自分を孤立させておくことだった。「将官は些事雑事から遠ざかっているべきだ。そうでなければ、どうして責任重大な事をゆっくり考え抜けるだろう?」と彼は言った。ダラディエ首相は唯々諾々とそれを認めた。そしてフランスは従(つ)いて行った。
 しかし、仕事のことでガムランの部屋に入った者はぞっとした。外観の下に別の顔があるように思えた。ガムランはもう意志も考えもない人のようだったのである。「活動するとはどんなことかまだわかっているのだろうか? 身動きしない海馬(たつのおとしご)を見ているような気がした」と、その軍人たちは記している。
『現代史を支配する病人たち』P130,1

 やっとのことでガムランに会うところまで行った人々は、彼の言行の中の異様な断層を指摘している。身体のコンディションはよいようだった。が、話をすると、決して文章を最後まで言わない。言葉が考えに追いつかない人々が、よくこんなふうである。ガムランの場合は、意想散逸症でこうなっていたのだ。考えをまとめることもできなければ、明晰で精密な頭の働きにも無縁になっていた。絶えず矛盾したことを言い、色々なことを忘れ、支離滅裂な印象を与えた。ガムランに近づいた医者はごくわずかだったが、彼らはすぐに途方もない知的不全を見破った。
『現代史を支配する病人たち』P145



 1940年のフランス戦における、フランス軍上級司令部(特にガムラン)の無能ぶりについては関係書籍で色々触れられているので、それらで見ていただくとして……。結局ガムランは、ドイツ軍の侵攻開始(5月10日)からわずか10日目の5月19日に解任されてしまいました。


 個人的には、「なんであんなにも1940年のフランス軍はダメダメだったのか?」という疑問に対する一つの説明として、「最高司令官ガムランが梅毒による精神神経障害の状態にあり、まともな思考判断ができる状態ではなかったのだ」というのは、説明能力が高く、思わず惹きつけられる面が強いと感じます。

 一方で、この説に対する反対意見も必ずやあるであろうとも思われ、検索してみたら日本語のブログ記事でぱっと出てきました。

ガムラン将軍梅毒説の虚像


 私自身は「論争的なもの」が好きで(自分が論争したいわけではないです)、あらゆる言説は仮説であり、論争に開かれているべきだと考えています。

 が、今回の両論を読んだ感じでは、個人的には「反対論」の方の「さすがに梅毒症状が明らかな人物を軍のトップに据えておくほど、第三共和政の政治家たちが無能だったとは思えません。」とかは「いや~、別にそんな例は史上いくらでもあるような……?(日本軍の杉山元参謀総長とか、イギリス軍のイギリス大陸派遣軍司令官のゴート卿とかって、かなりやばいダメな言行が多かったと思う)」「あと、当時のまわりの人達はガムランが梅毒による精神神経障害だとは知らなかったのでは?」と思ったり、フランス語の論拠の方のガムランの回想録上の「5月19日に解任されるまでのフランス戦の準備と指揮の愚かなやり方に対して、そのすべてがよく考え抜かれ、理詰めで書かれているようで、読者を驚かせる。」なんかは、「だったら当時実際の行動として愚かだった(とされている)ことに関してはどう説明するのだろうか……?」とか、よりツッコミどころが多い様に感じました。


 ガムランは若い頃にマルヌ会戦を勝利に導いたように、もともと将軍としての能力は非常に高かったらしいです。

 私はOCSルソンを作った時に、ルソン戦で第48師団の師団長であった土橋勇逸の回想録を読んだのですが、彼はフランス大使館付武官を務めた時(1939年)にガムラン将軍と知り合って、その素晴らしい人物であることに感銘を受け、後に1940年のフランス戦でガムランが非難されまくったことに回想録中で異を唱えていました。もしガムランが梅毒による精神神経障害であったならば、土橋勇逸が会っていた時とは様変わりしていたことに対する説明能力が高いとも言えますが、果たして……?





 恐らく、フランス国内での最新の研究や論争こそを探してみるべきなんでしょうけども、まったく手に余る話なので、「そういう説もあるらしいが、論争があるようだ」ということで、それでもガムラン将軍に対する興味が深まるでしょうから、それは良いことではなかろうかと思いました。


カセリーヌ峠の戦いの序盤でアメリカ軍機甲部隊に大打撃を与えるも、その他でそれほどぱっとしないツィーグラー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、カセリーヌ峠の戦いの序盤でアメリカ軍機甲部隊に大打撃を与えるも、その他でそれほどぱっとしないツィーグラー将軍についてです。



 写真は、↓ですとか。

General der Artillerie Heinz Ziegler



 ハインツ・ツィーグラーは1912年に士官候補生として軍に入り、第一次世界大戦では砲兵隊長として活躍して二級、一級鉄十字章などを受勲しました。

 戦後も軍に残ることができ、参謀将校や砲兵部隊指揮官、それに1925年から31年までは陸軍司令部の将校も勤めていました。ミッチャム氏は、「ツィーグラーは処世術に長けており、その才能を最大限に活かして自分の地位を高めた。また、重要な友人を容易に作ることができた。」と書いています。

 ポーランド戦の始まった1939年9月1日に陸軍補充局の参謀に任命されます。その局長は後にヒトラー暗殺事件との関わりで処刑されることになるフリードリヒ・フロム将軍であり、ツィーグラーはこの時からフロムと親密になって後に彼のために証言することになります。

 すぐ後の9月13日には第4軍管区の参謀長となり、1940年2月1日に第42軍団の参謀長に任命されましたが、同軍団はフランス戦では大きな役割は果たさず、その後ドーバー海峡沿岸で占領任務を務めました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第42軍団司令部ユニット。

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 1941年8月に同軍団は東部戦線に送られてレニングラード包囲戦に参加しましたが、秋(10月?)には同軍団はフォン・マンシュタインの第11軍の麾下へと移管され、クリミア征服に参加することになりました(フォン・マンシュタインが、それまでの麾下部隊だけでは兵力が足りず、追加の1個軍団をただちにクリミアへ投入すべきだと意見具申したため。『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P361)。





 ↓近々出版される予定のOCS『Crimea』の公開された画像。
開発中の様々なOCSタイトルなどの「OCSに関する現状報告(2022年3月30日)」を機械翻訳しました (2022/03/31)から)

unit9018.jpg

 ドイツ軍側のユニットの左上から2番目に、第42軍団司令部ユニットが見えています。



 ドイツ軍は苦闘の末ペレコープ地峡を抜けイシュンの防衛線をも突破しましたが、使用できる快速師団がなく、フォン・マンシュタインはやむを得ず雑多な部隊を集めて快速部隊を編成しました。その指揮官に任命されたのが第42軍団の参謀長であったツィーグラー大佐であったのです。

 【1941年】10月28日、彼ら【ドイツ軍】の対手【ソ連軍のイシュン陣地】はついに撃破された。いまや、ドイツ軍のクリミアへの追撃が可能となったのだ。

 LAHが去るとともに、マンシュタインは、ソ連軍が回復する前にクリミアに突入、戦果拡大を行う際に、すぐに使えるような決定的手段を無くしてしまった。よって、以前、フランスで第38軍団に関して使った、古い手立てをまた用いることになった。第22歩兵師団の捜索大隊、増強されたルーマニア軍の自動車化連隊、他の種々雑多なドイツ軍自動車化部隊から成る尖兵支隊を編合したのだ。マンシュタインは、この臨時編成の機動支隊をハインツ・ツィーグラー大佐にゆだね、南方、アルマ川に向けて猛進せよと命じる。 10月31日、ツィーグラー支隊は、セヴァストポリ・シンフェロポリ間の道路を遮断、翌日、このクリミアの政庁所在地[シンフェロポリ]を占領した。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P364




<2023/12/28追記>

 OCS『Crimea』が出版され、ツィーグラー支隊について調べてみたところ、その構成ユニットは↓のもののようでした。

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 マンシュタインは大きな装甲部隊を持っていなかったため、即席の「ツィーグラー支隊」(ハインツ・ツィーグラー大佐は、ドイツ軍第42軍団の参謀長でした)を、第190突撃砲大隊やルーマニア軍のコルーネ旅団(ラドゥ・コルーネ大佐は、ルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人でした)、その他の雑多な自動車化部隊によって編成します。彼らは素早く前進し、わずか2日でシンフェロポリ(F18.08)郊外に到達しました。
『Crimea: Conquest & Liberation Playbook』P22



<追記ここまで>



 ↓OCS『Case Blue』のクリミア半島マップ上の「イシュン」と「シンフェロポリ」。シンフェロポリの南東を走る川がアルマ川。

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 ツィーグラーは1942年春にベルリンに戻って再び陸軍補充局に務めることになりました。そして同年の年末に、彼の軍歴にもう一つの転機が訪れたのです。

 ヒトラーはフォン・アルニム大将とツィーグラー中将を東部戦線から呼び寄せた【ツィーグラーはベルリンにいたのだと思われますが】。アルニムより少し早く到着したツィーグラーは、すぐヒトラーに迎えられた。総統の話はこうだった。チュニジアに第5機甲軍を新たに作り、フォン・アルニム大将を司令官に予定している。ツィーグラーには《常任全権代理》になってもらいたい――。この《常任全権代理》という新顔の役目を説明したヒトラーの言葉はおもしろい。つまり、ロンメル元帥の轍を踏むようでは困るというのである。すべてが一人の司令官にかかってしまってはまずいのだ。軍司令官は同等の高級将校と話しあえるべきである、と言うのだ。それにこの新官職の第一の狙いは軍司令官が前線を視察中の場合――なにしろアフリカではヨーロッパの戦場と違って距離が膨大だし、もともと戦線というものがはっきりしていないので――いつも全権を持った代理が要るということなのであり、その結果いかなる場合でも決定をチュニスの総司令部から発せられるようになる――。
 ツィーグラー将軍は有能な軍人かつ冷静な現実家だったので、新機甲軍にはどんな部隊が加わるのかとたずねた。同席していたカイテルが答えた。三個機甲師団、三個機械化師団がチュニスに向かいつつあり、空軍の精鋭《ヘルマン・ゲーリング》師団もいる――。ツィーグラーは、さらに、それほどの大軍に地中海を越えて補給をつづける見込みはあるのかとたずねた。「もちろん」というのがヒトラーの答えであった。それならば北アフリカで攻勢に出ることも可能であろうとツィーグラーは考え、その計画をうちだした。ビゼルタ=チュニス地区から西進、可及的速やかにチュニジア=アルジェリア国境の山脈に達してボーヌ、フィリップヴィル両港を占領したうえ、その西のアルジェリア諸港に進む――。ツィーグラーはアラブ人がドイツ側について反乱を起こすことをあてにしており、この面からの支援があればオランまで進出できようと考えた。これは北アフリカ最後かつ最重要の港であり、ここを取られればアイゼンハワー軍も捕虜になるか、海路退却するかを選ばされることになる。しかし――とツィーグラーは強調した――そのための絶対的前提条件は補給が絶えないという保証であり、それにはふたたびマルタの占領が問題になる。とにかく今までからもわかるとおり、この島を奪うことが海上輸送のためのアルファでありオメガであるのだ。これは大胆な言説であり、大胆な計画であった。
『砂漠のキツネ』P323,4



 この《常任全権代理》という役職はドイツ軍に通常存在しないもので、その点でも珍しいものであったそうですし、また「装甲軍」の《常任全権代理》に、旅団より大きい部隊を指揮したことがない人物が就任するという面においても奇異なことではあったようです。


 フォン・アルニムとツィーグラーの関係性について、『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P27には「ヴォルフスシャンツェ【総統大本営】で出会ったフォン・アルニムとツィーグラーはその日の内にすぐに打ち解け、ローマ近郊のフラスカティにある南方最高司令官ケッセルリングに飛行機で会いに行った時には、お互いの信頼関係はより強固なものになっていた。」と書いてあります。

 一方で、『Rommel's Desert Commanders』P168でミッチャム氏は、「フォン・アルニム将軍は彼【ツィーグラー】があまり役に立たないことを知った。」と書いており、ドイツ語版Wikipedia「Heinz Ziegler」には「新司令官であるハンス・ユルゲン・フォン・アルニム将軍は、それまで旅団より大きな部隊を率いたことのないこの副官を高く評価していたわけではない。」と書かかれていました。



 1943年2月のいわゆる「カセリーヌ峠の戦い」で、フォン・アルニムの第5装甲軍側の攻勢作戦であった「フリューリングスヴィント (春風)」 作戦について、『砂漠のキツネ』にはこのように書かれています。

 フォン・アルニム大将、ツィーグラー将軍、およびフォン・クヴァスト大佐とポムトウ大佐を筆頭とする有能な軍本部は、計画を練った。【……】
 【……】《春風》作戦の指揮はツィーグラー将軍が第5機甲軍本部に支援されてとった。本部長はポムトウ大佐であった。
 ツィーグラーとポムトウがラ・フォーコネリーの戦闘指揮所で最後の準備に熱中していたうちに、ロンメル元帥から連絡をつけてきた。
『砂漠のキツネ』P333




 いわゆる「カセリーヌ峠の戦い」の最序盤にツィーグラーは、シディ・ブ・ ジッドの東側で米第1機甲師団の部隊を待ち伏せし、米軍戦車98両を撃破しました。この件について彼は大きく評価されているようであり、騎士鉄十字章を受勲しました。ただしその後のツィーグラーの動きは緩慢であり、『Hitler's Generals』(C.Barnett)には「ツィーグラー中将は装甲部隊の扱いに長けていたわけではなかった。」と書かれています(これを書いたのも『Rommel's Desert Commanders』と同じく、ミッチャム氏ですが)。


 その後の動向については『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』が詳しく、すでにフォン・アルニムのブログ記事で挙げていたのを再掲してみます。

 アルニムの副官であるハインツ・ツィーグラー将軍が、この【春風】作戦の指揮官であった。ツィーグラーは米軍の反攻を予期して、この【2月14日の】夜は部隊をシジ・ブ・ジッド近郊に止めることにした。ツィーグラーのこの細心な用心深さは、ロンメルの怒りに火を点けた。ロンメルはアルニムに電話を入れ、この成功を拡大するために今夜中にスベイトラに向けて進撃する旨、ツィーグラーを焚き付けるよう説得した。だが、アルニムはツィーグラーの慎重なやり方に同意しており、「クックックスアイ」作戦【フォン・アルニムが1月30日に発案していた、ピションから北西へ向かって向かって進撃する作戦案】の原案にある通り、ピションとさらに北へ向かう作戦とに備えて、兵力の温存を望んでいたのである。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P49

 【2月15日の】これほどの決定的な大勝にもかかわらず、ツィーグラーは勝利の拡大を図ろうとはしなかった。将軍はスベイトラへ向けて斥候隊を出し、米軍がもう一度反攻を実施するのか否かを探った。これを耳にしたロンメルは、せっかくの好機がみすみす失われていくことに激怒した。だがこの日、ケッセルリングは東プロイセンの総統大本営へと出頭していたので、仲介の労をとる人物がいなかった。アルニムは燃料の消耗を気にかけており、のちのフォンドゥーク【Fondouk:ピションの南】戦のために節約を図っていた。しかも当初の作戦目標であるA戦闘団の殲滅は達成されていたのである。
 ケッセルリングはアルニムの大勝利を2月16日になってようやく知った。ケッセルリングはイタリア軍最高司令部を経由して、アルニムに対しスベイトラを攻略するよう命じた。アルニムはなおも躊躇を続け、斥候隊に少数の戦車を付けて米軍が「カーンの十字路」【ファイドとスベイトラの間】と呼んでいた地点の近くにまで進ませるにとどまった。この逡巡により米軍は防備を固める時間を得ることができた。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P51,2



 この、フォン・アルニムとツィーグラーの消極的態度に業を煮やしたケッセルリング、あるいはロンメルの要請を受けたヨードルは、ツィーグラーの部隊をロンメルの指揮下に入れてしまいます。


 ツィーグラーの方は、ドイツ・アフリカ軍団(DAK)の司令官になったという話がこの時期に関して諸資料に出てくるのですが、その時期と理由、人名などがバラバラで困ってしまいます。一応羅列しておきますと……。

 1943年1月15日に【DAK司令官であった】フェーン将軍が瀕死の重傷を負った後、ツィーグラーはこのアフリカ軍団を指揮する司令官の地位に就いた。ツィーグラーは、1943年2月28日にフェーン将軍の後任であるハンス・クラーマーがロシアから到着してDAKを指揮を受け継ぐまで、このポストを務めた。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P168

 1943年2月20日、ツィーグラーは負傷したグスタフ・フェーン将軍に代わってドイツ・アフリカ軍団の指揮を執り、3月初旬にはアフリカ軍集団の下に移された。
ドイツ語版Wikipedia「Heinz Ziegler」

 【……】代理としてDAKの指揮をとっていたツィーグラー将軍【……】
 【……】3月6日【……】DAKの指揮はその前日【つまり3月5日】に、もと第8機甲連隊長の古強者クラーマー将軍が受けついだ。
『砂漠のキツネ』P342

ドイツ・アフリカ軍団司令官
【……】
フェーン装甲兵大将         42年11月19日~43年1月16日
フォン・リーヴェンシュタイン少将  43年1月16日~43年2月17日
ツィーグラー中将           43年2月17日~43年3月5日
クラーマー中将→装甲兵大将   43年3月5日~43年5月12日
『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』P162




 ↓OCS『Tunisia II』のDAK司令部ユニット。

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 カセリーヌ峠の戦いの後、ロンメルは東へ振り向いて、東からやってくるモントゴメリーのイギリス第8軍に対処しようとしました。その2月下旬から3月初旬にかけて、マレト防衛線の東にあったメデニーヌへの攻撃計画をツィーグラーが、DAK司令官として主張したことが『砂漠のキツネ』に書かれています。


 ↓OCS『Tunisia II』のマレトラインシナリオの初期配置(多くが数ヘクス以内自由配置となっています)。関係地名を赤い□で囲ってあり、またマレトライン沿いに赤線を引いてあります。

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 こういったことを考えあわせると、第8軍の大攻勢の場合、マレト陣地では抵抗が長つづきしそうもない。そのためにロンメルは、モントゴメリーを進軍中に叩こうと決心したのである。代理としてDAKの指揮をとっていたツィーグラー将軍は、敵の攻撃を探知せよとロンメルから命令された。
 準備をすすめるうち、攻撃方法について意見がはげしく分かれた。今日にいたるまでそれは論議の的で、「もしもああしていたら..…」という文句が絶えない。
 ツィーグラーは西からメデニーヌを襲い、マレト・ラインの南に布陣する敵を叩こうと主張した。この計画の弱点は敵の制空権下で機甲師団の進撃路が長すぎるということであった。ツィーグラー将軍の話によるとこうなる。「ガベス=マレト街道沿いの旅宿で重要会議をひらいたのです。ガウゼ少将を同伴して出席されたロンメル元帥は、かなり難色を示しはしましたが、メデニーヌを主要目標とする西方よりの攻撃に同意しました。元帥の希望する北からの攻撃が無理だということを、納得してもらうのは大変でしたね。さかんに意見が戦わされ、派手な一幕になりかけたこともありました。メデニーヌ攻撃方法そのものについても一悶着ありましたな。ロンメル元帥はメデニーヌの南に主力を向けることは危険が多すぎると考えていました。そこに投入される兵力は南から敵予備軍が急進してくれば後方との連絡を絶たれるかもしれないし、少なくとも釘づけにされるというのです。そういった危険を犯すつもりはなかったので、機甲兵力翼の主力をメデニーヌの北におき、メタミュル北の高地にあると推察される敵砲兵部隊に向ける計画をさらに検討するよう命令されました。この際、第10機甲師団もメデニーヌ北方のメタミュルを衝くことになっていました。この調査は3月3日にまでのばされ、それに第10機甲師団の進撃路が長く、また悪条件であることも加わり、またまた攻撃時期を延期しなくてはならなくなったのです。はじめの予定では3月4日だったのに、それが6日に延期され、これが悪い結果を生んだのですな」
 もやのかかった3月6日払暁、第15、21、10各機甲師団は行動を開始した。掩護はクラウゼ少将の砲兵隊、第90および164アフリカ師団、それにイタリア軍アリエテ機甲師団である。DAKの指揮はその前日に、もと第8機甲連隊長の古強者クラーマー将軍が受けついだ。
『砂漠のキツネ』P342



 OCS『Tunisia II』のマレトラインシナリオは1943年3月5日(5日~7日)ターンの枢軸軍プレイヤーターンから始まりますので、この攻勢作戦から始められます。尤も、過去にちょっとこのシナリオをプレイした時には兵力差が大きくて枢軸軍側が攻撃をかけるのは難しいと考え、第1ターンに攻撃などかけずにあくまで防衛的にのみ行動したものでしたが……(^_^;



 DAK司令官の職から離れたツィーグラーはその後、アフリカ軍集団の幕僚として責任の軽い仕事に携わっていたそうです。

 アフリカ軍集団の崩壊が近づくと、フォン・アルニムは口実を設けてツィーグラーをヨーロッパに送り返しました(あるいは、ツィーグラーの方が逃げ出したのかもですが)。


 チュニジアで壊滅した師団の中に第334歩兵師団がありました。5月24日にツィーグラーは、この第334歩兵師団を再編するためにフランスに到着します。

 1943年10月21日、ツィーグラーは今度は東部戦線の第3装甲軍団の司令官代理に任命されましたが、1ヵ月を少し過ぎた11月25日にフリードリヒ・シュルツ歩兵大将が彼の後任となりました(就任の日は、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』P125によれば10月20日)。

 1944年2月にツィーグラーはOKWで、経済参謀(恐らく占領地の物資の疎開、破棄、破壊などを管轄する仕事)に任命されます。

 1944年7月20日の暗殺後に知古のフロムが逮捕された後、ツィーグラーはフロムに有利な証言をしました(しかしフロムは1945年3月12日に銃殺刑に処されました)。

 ツィーグラーは最後にイタリアの第14軍の司令官代理を1944年10月24日から11月22日まで務めます。

 イタリアから帰ってきた後ツィーグラーは総統予備となり、復職することはありませんでした。戦争末期にはソ連軍の捕虜になるのを免れた(『Rommel's Desert Commanders』)そうですが、連合軍の捕虜にはなった(Wikipedia)ということなので、英米軍の捕虜になったのでしょう。戦後はゲッティンゲンに住み、1972年に亡くなりました。


東部戦線で活躍しチュニジアで指揮を執るも、ロンメルの邪魔をしたと批判されたフォン・アルニム将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、東部戦線で活躍しチュニジアで指揮を執るも、ロンメルの邪魔をしたと批判されたフォン・アルニム将軍についてです。



 資料としては、単独項目として最もページ数が多く詳しかった『Hitler's Generals』(C.Barnett編)を中心としており、その記述をこのブログ記事の主な地の文として採用しています。






Jurgen von Arnim

 ↑ハンス=ユルゲン・テオドール・フォン・アルニム(Wikipediaから)




 フォン・アルニム家は1388年に初めて歴史書に記録されて以来、ほぼすべての世代で将校を輩出した家系であったそうです。第二次世界大戦でも家系から10人以上が従軍し、4人が将軍になりました。

 ハンス=ユルゲンは1908年に士官候補生としてプロイセン軍に入隊。第一次世界大戦では西部戦線と東部戦線で戦い、歩兵大隊指揮官にまでなります。彼は参謀将校と前線指揮官の両方で信頼に足る働きをし、二級、一級鉄十字章を含む多数の勲章を授与されました。

 戦後、4000人の陸軍将校の一人として軍に残り、部隊指揮官や参謀将校として、あるいは国防省などで働きます。これらの勤務を経てフォン・アルニムは、有能で精力的な指揮官兼幕僚であり、温厚な性格で勤勉、そして決然とした考え方と行動力を持つ人物として軍関係者から高い評判を獲得し、また将来役に立つであろう多くの貴重な人脈を得ることができました。

 ハンス=ユルゲン・フォン・アルニムは、軍事的に名高い家系の末裔にふさわしく、気が強く、しかし部下に対しては極めて公平で、強い絆で結ばれている人物だった。彼は上官と議論をすることを好まなかったが、避けることもしなかった。意欲的で責任感が強く、冷静沈着で、決して取り乱すことのない人物であったと、軍歴時代の間ずっと評価されていた。ワイマール共和国軍に入隊した当初は、勤勉さと思考力、決断力のある人物と評された。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P19



 1935年に第23歩兵師団隷下の精鋭第68歩兵連隊長となり、その後(1938年か39年頃)、退任することになった師団長の後を継ぐことになっていましたが一転、兵站部への事実上の降格人事をされてしまいます。これは、上級指揮官(『ドイツ軍名将列伝』によると第2集団軍司令官?)であったフォン・ヴィッツレーベン将軍(反ナチであり、後にヒトラー暗殺計画に加担して処刑されました)が反ナチ派の人物を任命したがっていたのに対し、フォン・アルニムが非政治的な立場を取っていたためであったようです。ただし『Hitler's Generals』(C.Barnett編)でフォン・アルニムの項を執筆したミッチャム氏は、「フォン・アルニムはナチスには反対であったが、【当時のドイツ軍人が皆そうであったように】ヒトラーに忠誠を誓わされていたし、陰謀を図れるような人物ではなかった」という風に書いています。

 フォン・アルニムは新しい任務について不満を持っていなかったものの、OKHにいた彼の友人達は、彼が不当な扱いを受けたと感じていたそうです。1939年5月1日に彼は余剰将校としてベルリンに呼び戻され、ポーランド侵攻が始まるまでそこで待機させられました。同年9月1日にポーランド侵攻が始まると、12日にフォン・アルニムは編成中であった第52歩兵師団の師団長職を命じられます。しかし同師団は結局ポーランド戦には参加せず、フランス戦においても師団の一部が参加しただけでした。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第52歩兵師団ユニット。

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 その後1940年秋、フォン・アルニムは依然として第二次世界大戦中にまだ実戦経験がなかったにもかかわらず、第17装甲師団の師団長に任じられました(『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば10月5日)。ところが彼はそれまで装甲部隊の訓練を受けたこともなく、装甲部門に関係もなかったのです。ミッチャム氏は「彼の任命は、彼の普段の有能さと、ベルリンの友人達によるものとしか説明できない」と書いています。

 第17装甲師団の編成と訓練中の1941年2月2日、第9軍団司令官であったヘルマン・ガイアー将軍はフォン・アルニムについて「バランスの取れた、冷静な人物。慎重で、組織作りと訓練においても思慮深い。」と報告しており、2月25日にはマクシミリアン・フォン・ヴァイクス将軍は「第17装甲師団はまだ編成を完了していないが、フォン・アルニムの“堅実で、自信に満ちた手腕”によって、基本的状態は良好である」とコメントしたそうです。

 第17装甲師団はバルバロッサ作戦に参加して大きな進撃を見せますが、6月27日(グデーリアンの『電撃戦』上P242によれば26日)にストルプツェ(ミンスクの南西)での戦闘中にフォン・アルニムは重傷を負い、急遽リヴォフ(現リヴィウ)に搬送されます。さらにより良い治療を受けるためにベルリンに送られ、療養期間を経て9月17日(『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば9月15日)に第17装甲師団長に復帰しました。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第17装甲師団ユニット。

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 フォン・アルニムはキエフ包囲戦の終盤で師団を率い、さらにタイフーン作戦序盤で第17装甲師団はブリャンスクの攻略に成功し、勝利に大きく貢献します。

 第17装甲師団(また、ネーリングの第18装甲師団も)を擁する第47装甲軍団司令官であったヨアヒム・レメルセン将軍はフォン・アルニムについて「精力的で、堅実で、積極的」「指導的人格」「絶え間ない危機的状況において、彼は決して休むことはなく、怖じ気づくこともなかった」「部下達を鼓舞し」「勇敢で恐れを知らない人物」「常に戦闘の中心にいて、連携が巧みであった」と述べているそうです。また、ヴァルター・モーデル将軍やエルンスト・ブッシュ将軍もフォン・アルニムについて「精力的で、自ら責任を引き受ける。将校達に良い影響を与え、部隊との関係も強固……予備にある時も、最も困難な状況な時も、彼は冷静で強い神経を保っている」と評価していたとか。



 11月初旬には装甲軍団長に就任することになり、11月11日にレニングラード南東で激戦中の第39装甲軍団司令部へ向かいました。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第39装甲軍団司令部ユニット。

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 天候不良と吹雪のため、彼が司令部へ到着したのは11月15日でしたが、その2日後にソ連軍の大規模な反撃にあいます(ドイツ語版Wikipedia「Schlacht am Wolchow」)。援軍を得られず、壊滅必至の圧倒的な逆境の中、フォン・アルニムはチフヴィンで頑強に抵抗した上でヴォルホフまでの撤退を成功させました。これは彼の能力を上層部に認識させる事となります。

 1942年3月下旬に第39装甲軍団は戦線から離脱して短い休息を取りましたが、フォン・アルニムは今度はホルムで包囲されていたドイツ軍守備隊の救援を命じられました(日本語版Wikipedia「ホルムの戦い」)。彼は作戦を良く練った上で、5月9日に計画的に攻撃を開始し、激しい抵抗にもかかわらず同軍団の先鋒は包囲された守備隊に到達します。第16軍司令官エルンスト・ブッシュ将軍や北方軍集団司令官ゲオルク・フォン・キュヒラー将軍はフォン・アルニムの作戦を称賛し、彼を「ホルムの戦いで証明されたように、精力的で意志の強い性格の持ち主」だと評しました。


 ホルムを救援した後も第39装甲軍団はその戦線に留まっていましたが、1942年夏には戦争の焦点がスターリングラードやコーカサス方面に移ったため、比較的静かな状態になっていました。フォン・アルニムはこの状態に飽き足らず、友人の多い陸軍人事局に他の戦区への赴任を働きかけます。1942年11月30日、陸軍人事局長のルドルフ・シュムントから電話がかかってきて、フォン・アルニムは東プロイセンにあるラステンブルクの総統大本営に呼び出され、重要な新しい任務を任されることになりました。



 ラステンブルクに到着したフォン・アルニムは、チュニジアで編成中の第5装甲軍の司令官に任命されたことを告げられます。チュニジアでの戦いは11月中旬にすでに始まってヴァルター・ネーリング将軍が指揮していたのですが、ネーリングについてアルフレート・ベルントは「あからさまな悲観主義者」と呼んでおり、ケッセルリングは11月26日の連合軍の攻勢によってネーリングが「最も暗い結論を引き出した」(一時的にチュニス橋頭堡周辺まで撤退して、ジェデイダ(Djedeida)までも明け渡したことを指す)ことに不満を表明していたのです。ヒトラーはこれらの見方に同意し、ホルム救援作戦などで優れた指揮振りを見せたフォン・アルニムをネーリングの代わりに送り込むことにしたのでした。

 この時の任命に関して、軍事史家のデニス・ショウォルター氏はこう書いています。

 彼は気鋭の新人であるばかりか、プロイセン人とドイツ人の軍人一族という、ライバルたちの羨望の的となる家系の出身だった。客観的に見ると、土壇場の保衛作戦【ママ】には彼の方がロンメルよりもうまくやれそうであったし、上層部の命令にも反抗せず従う可能性が高いと考えられた。
『パットン対ロンメル』P282





 フォン・アルニムの主要な任務は以下の3つでした。

1.(まずは)英米軍によるチュニス占領を阻止する。
2.連合軍がチュニジア南部の海岸に到達するのを阻止し、エル・アラメインの敗北から撤退してくるロンメルのドイツ・イタリア装甲軍と切断されないようにする。
3.チュニジアの橋頭堡をできる限り拡大して、不足している縦深を確保する。


 新編成の第5装甲軍は雑多な部隊から成っていましたが、12月9日にチュニジアでの指揮とネーリングの反撃計画を引き継いだフォン・アルニムは重要な焦点となっていた290高地(連合軍は「ロングストップ・ヒル」と呼ぶことになります)を奪取し、そして維持し続けることに成功します。しばらくして天候が悪化する時期に入り、連合軍総司令官アイゼンハワーは「苦渋の決断」でクリスマス頃に攻勢を中止します。


 ↓OCS『Tunisia II』のマップにおける290高地(「ロングストップ・ヒル」)のヘクスの位置。ゲーム上でも非常に重要であり、史実では最終攻勢までここは抜けませんでした。ネーリングが一時的に連合軍に明け渡したジェデイダ(Djedeida)はチュニスからわずか3ヘクスの場所です。

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 その後、1943年1月中旬から2月初旬にかけてフォン・アルニムは、数的に優勢な相手に対して主導権を握ります。まず「アイルボーテ(急使)Ⅰ」作戦で1月18日からチュニス南方のフランス軍部隊を打ち破り、ポン・デュ・ファス(Pont du Fahs)から南方に至る高地帯を制圧することに成功。続けて1月31日からの「アイルボーテ(急使)Ⅱ」作戦でさらに南方のピション(Pichon)を狙いましたが、その占領にまでは至りませんでした。

 またそれとは別に、ロンメルのドイツ・イタリア装甲軍から先遣してチュニジア戦域に送られてきた第21装甲師団が1月17日から第5装甲軍に配置替えとなっており、フォン・アルニムは彼らにファイド(Faid)峠の確保を命じ、1月30日から開始されたこの作戦は成功裏に終わります。


 ↓OCS『Tunisia II』のマップに見る、(北から)「アイルボーテ(急使)Ⅰ・Ⅱ」作戦の進撃路と、ファイド峠攻撃作戦。

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 フォン・アルニムはこれらの作戦で重要な(決定的ではないものの)局所的勝利を収め、東部戦線でに引き続いて優れた指揮官であることを証明したのです。


 ……とミッチャム氏は書いていますが、この時期の攻勢について『カセリーヌ峠の戦い 1943』には、やや否定的に(?)こう書かれていました。

 ケッセルリングとイタリア軍最高司令部は、アルニムに対して大攻勢を発起して、ファイド峠を制して、ガフサ【Gafsa】盆地を占領、さらにテベサ【Tebessa】の米軍策源を攻略することを望んでいた。しかし期待に反してアルニムは1943年1月24日付で、より限定的な妨害攻撃の実施を命じた。それ以上の攻勢を実施可能な兵力が無いというのがその理由であった。アルニムの作戦構想では、第5戦車軍のいくつかの小規模な戦闘団をもってファイド地区のフランス軍守備隊を攻撃することにのみ限定し、これをもってこの緊要な峠を通過してのスファクス【Sfax:海岸の港町】を目指す連合軍の攻勢発起を阻害するものとされていた。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P31



 しかし個人的には、上の文における「大攻勢」案は、2月14日からロンメルの部隊も参加して行われたいわゆる「カセリーヌ峠の戦い」の経過と結果から考えると、第5装甲軍の部隊だけで行うにはあまりにも遠大に過ぎ、フォン・アルニムの判断の方がより穏当だったのではないかと思います。ただしフォン・アルニムはロンメルに比べれば作戦構想が「保守的」(ミッチャム氏の表現)であったというのも、その通りだろうという印象ではあります。



 2月になってロンメル麾下の部隊がチュニジアに入ってくることになりましたが、それまでフォン・アルニムとロンメルは両者の行動を調整するために会うということをしておらず、ケッセルリングの強い希望で1943年2月9日にガベー(Gabès:チュニジア南部の海岸の港町)の空軍基地で両者の初会談が行われました。

 両者がその前に最後に会ったのはその18年前で、共に大尉でしたが、その時点でもお互いに好感を抱いていなかったといいます。フォン・アルニムは北ドイツの名門貴族の家系出身でしたが、ロンメルは南ドイツの教師の息子であり(しかもロンメルの生まれ育ったシュヴァーベン地方の人というのはドイツの中でも特異な、ケチで頑固な田舎者ということで今なお有名だそうです)、そしてロンメルは貴族階級を嫌っていました。(→ロンメルが参謀将校や貴族を軽蔑し嫌っていたことと、その背景について (2022/07/25)

 どうしてロンメルはその地位に執着したのであろうか。その理由のひとつに、彼がフォン・アルニムを非常に嫌っていたという事実がある。フォン・アルニムはすべての点においてロンメルと異なっていた。彼はシュレージエンの貴族で、将軍の息子であり、濃い口ひげをはやし、他から尊敬され、穏やかな口調で話すタイプの人物であった。
『狐の足跡』下 P83,4

 ロンメルが最後にアルニムと会ったのは18年前であった。そのときは両人とも陸軍大尉であった。彼はそのときアルニムが好きではなかったし、今では嫌っていた。
『狐の足跡』下 P85





 フォン・アルニムの側から見た場合、そもそも彼の周辺の生粋のプロイセン将校達はロンメルを、「職業的素養を欠いた成り上がり者にすぎないとみており、その賑々しい昇進ぶりはひとえにヒットラーの寵愛を得たことにより獲得できたのだと考えていた。」(『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P10)

 また、こういう事情もあったようです。

 ロンメルのドイツ=イタリア装甲軍がチュニジア南東部に到着すると、同軍と第5装甲軍の担当区域をどこで分けるかという問題が生じたが、第17装甲師団や第39装甲軍団を率いて東部戦線で数々の死闘をくぐり抜けた猛者のアルニムは、ヒトラーから直々にチュニジア防衛という任務を付与されたのは自分だという自負があり、たとえ階級が自分より上であっても【ロンメルが元帥でフォン・アルニムは上級大将】、ロンメルに対して譲歩する必要性を感じていなかった。
 そして、ドイツ本国から新たにチュニジアへと派遣された、アルニム麾下の装甲部隊指揮官の中には、エジプトからほうほうの体で逃げ帰ったロンメルを嘲笑する態度を示す者も存在したが、そうした話が間もなくロンメルの耳に入ったことで、ロンメルとアルニムの間には早くも指揮権をめぐる確執と、感情的な溝が形成されてしまった。
 そのため、2個装甲軍のさらに上位の司令部である南方総軍の司令官ケッセルリング空軍元帥は、なんとかこの二人の関係を取りなすよう努力を重ね、チュニジアに展開するドイツ軍部隊が分裂状態にならぬよう気を遣い続けなくてはならなかった。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P327



 この後のフォン・アルニムとロンメルの連携の取れなさについて、一般的にはフォン・アルニムの方に対する非難の方が強いようであり、恐らくはロンメル贔屓であろうミッチャム氏は「チュニジアの絶望的な状況にもかかわらず、アルニムはより有名なライバルと協力する気になれなかったのだ。この失敗は北アフリカでの枢軸軍の敗北に大きく寄与し、彼の軍事的名声に永久的な汚点を残すことになった。」と書いています(ただし、同記事の最後でミッチャム氏はフォン・アルニムを庇うようなことも書いています。後述)。




 ↓OCS『Tunisia II』のマップによる、この後出てくる関係地名。

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 この2月9日の会談については、資料によっていくらかの差異があるように感じられます(↓で1つ目の資料では「燃料がない」ことを、2つ目の資料では「兵力がない」ことをフォン・アルニムは理由としていたりとか。まあ、どっちもなのかもですし、あるいはそれらは単に言い訳に過ぎなかったのかもしれません)。

 ケッセルリングの計画はまさに、チュニジアにいるアメリカ軍を完全に壊滅させるというものであった。ロンメルが南のオアシスの町ガフサのアメリカ軍を攻撃し、機動部隊の大部分を率いるアルニムがスベイトラ【Sbeïtla:カセリーヌ峠の東】に同じことを行うことを提案したのである。山岳地帯を抜けたならばドイツ軍は北のボーヌ【Bône:チュニジア北岸】港に向かい、ロンメルの右翼への脅威を排除し、もしかしたらその北にいるアンダーソン【イギリス第1軍司令官】の後背を断つことすらできるかもしれない。ロンメルもアルニムもこの計画に熱心だったが、アルニムには重要な留保事項があった。ケッセルリングが想定しているような大規模な作戦を遂行するだけの十分な燃料がない、と言うのだ。重要なのは、フランス軍とアメリカ軍に大きな損害を与え、撤退させることだと彼【引用者注】は言った。彼は、自身の攻勢を12日に開始することを申し出た。ロンメルはその2日後に自陣での攻撃を開始すると約束したが、人差し指を立てて特徴的なジェスチャーをしながら、「重要なのは我々が得る土地ではなく、敵に与える損害だ」 と付け加えた。アルニムはこれに対して何も言わなかったが、これは含蓄のある沈黙であり、アルニムの保守的な性格がこの最初の時から現れていた。そしてロンメルではなくアルニムの方こそが、戦車の大部分を持ち、主たる任務を帯びていたのだ。ロンメルもケッセルリングも、アルニムの考え方や心中の留保がこの計画を脅かし、この2つの軍【第5装甲軍とドイツ・イタリア装甲軍】の作戦を危うくすることを(少なくとも当面は)理解していないようであった。
 次にケッセルリングは驚くべきことを言った。もしこの作戦が彼が思っていた通りに成功すれば、ロンメルをチュニジアの全軍の司令官にすることを約束する(彼はアルニムが、ライバルの離任を切望していることを知っていたのだが)。その後ケッセルリングが内緒でアルニムに話したのは、ロンメルの主治医であるホルスター教授に以前相談したところ、教授は元帥に対して2月20日にヨーロッパでの休養に出発するよう勧めていた、ということだった。「ロンメルがアフリカを離れる前に、最後の栄光のチャンスを与えよう」。ケッセルリングはアルニムにそう言った。
 「はい」。アルニムは笑顔で答えた。「栄光のラストチャンスだ……」と。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P344,5

(引用者注:ここの「彼(he)」がフォン・アルニムだとすると、後でロンメルが言ったこととまったく同じことを言っているので、文脈がおかしいような気がします。原文でこの「he」の前にある最も近い人名はケッセルリングなので、もしかしたらケッセルリングが言ったのかもと思い、GoogleBooksで検索などもしてみたのですが分かりませんでした。
 あと、ここらへんの逸話は『Kasserine: The Battlefield Slaughter of American Troops by Rommel's Afrika Korps』(Charles Whiting)という本から引かれたもののようで、同じ著者の『Disaster at Kasserine: Ike and the 1st (US) Army in North Africa 1943』P125にも載っているのをGoogleBooks上で発見しました。この本の他のページも眺めてみていると会話文があまりにも多くて違和感を感じます。もしかしたらこの会話文はこの著者の創作的なものである可能性もあるのではないかという気も……?

 2月9日、ケッセルリングは合意に達することを期待して、ガベーにおいてアルニムとロンメルに会談した。アルニムは在チュニジアのドイツ軍には、ロンメルの野心的な攻勢案に割く兵力の無いことを強調した。さらに限定的な攻勢を続けることにより、米軍を出血させ、英第1軍を脅かし続けることができると主張した。ケッセルリングとの議論の末、アンブローシオ【イタリア軍参謀総長】は2月11日に妥協案を差し出した。妥協案は、ロンメルの指揮する作戦のみに努力を傾注することをやめ、南北においてアルニムとロンメルが相互に補完する個別の作戦を実施するというものであった。アルニムはファイド峠の成功を、「フリューリングスヴィント (春風)」 作戦により、シジ・ブ・ジッド【Sidi Bou Zid:ファイド峠の西】へと打って出て米第1機甲師団のA戦闘団を殲滅することで拡大する。ロンメルはふたつ目の妨害攻撃となる「モルゲンルフト (朝のそよ風)」を発起して、96キロメートル南のガフサを奪取することで、マレト防衛線後背の憂いを断つというものであった。ロンメル軍は増援無しではこのような作戦を実施しえなかった。そこでアルニムの第5戦車軍は攻撃開始後、第21戦車師団をロンメル軍に戻し増援とすることとされた。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P41




 フォン・アルニムがロンメルやケッセルリングの考える大規模な攻勢に乗り気でなかった理由については、このような記述を見つけてまして、個人的には結構フォン・アルニムの考え方に同情的になってしまったりするのですが……。

 フォン・アルニムとロンメルは、それぞれの立場について異なる見解を持っていた。フォン・アルニムは、橋頭堡を維持し、将来の作戦の拠点となる占領地を提供することが自分の任務であると考えた。その橋頭堡が破壊されるのを防ぐのが任務であり、そのために限定的な目標の攻勢を取ることで満足していた。ロンメルはより大胆な指揮官であった。階級的にはフォン・アルニムはロンメルより下ではあったが、自分の軍である第5装甲軍を率いているのであり、その権限と自分が指揮する装甲師団に対する支配権を失いたくないと考えたのだろう。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P30

 アルニムは、第5装甲軍には実質的な攻撃兵力が2個装甲師団(第10、第21)しかないことを鑑み、両師団で米軍の脆弱な箇所を突破した後、チュニス正面の英軍部隊に南から攻撃を仕掛け、チュニスに対する敵の圧力を排除するという比較的堅実な計画を構想していた。アルニムは、東部戦線での豊富な実戦経験から、敵の戦車部隊による機動的な反撃を警戒し、自軍の側面が脆弱となるような作戦は、最初からとるつもりがなかった。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P328




 いわゆる「カセリーヌ峠の戦い」の最中のロンメルとフォン・アルニムの齟齬については、『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』に結構書かれています。

 アルニムの副官であるハインツ・ツィーグラー将軍が、この【春風】作戦の指揮官であった。ツィーグラーは米軍の反攻を予期して、この【2月14日の】夜は部隊をシジ・ブ・ジッド近郊に止めることにした。ツィーグラーのこの細心な用心深さは、ロンメルの怒りに火を点けた。ロンメルはアルニムに電話を入れ、この成功を拡大するために今夜中にスベイトラに向けて進撃する旨、ツィーグラーを焚き付けるよう説得した。だが、アルニムはツィーグラーの慎重なやり方に同意しており、「クックックスアイ」作戦【フォン・アルニムが1月30日に発案していた、ピションから北西へ向かって向かって進撃する作戦案】の原案にある通り、ピションとさらに北へ向かう作戦とに備えて、兵力の温存を望んでいたのである。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P49

 【2月15日の】これほどの決定的な大勝にもかかわらず、ツィーグラーは勝利の拡大を図ろうとはしなかった。将軍はスベイトラへ向けて斥候隊を出し、米軍がもう一度反攻を実施するのか否かを探った。これを耳にしたロンメルは、せっかくの好機がみすみす失われていくことに激怒した。だがこの日、ケッセルリングは東プロイセンの総統大本営へと出頭していたので、仲介の労をとる人物がいなかった。アルニムは燃料の消耗を気にかけており、のちのフォンドゥーク【Fondouk:ピションの南】戦のために節約を図っていた。しかも当初の作戦目標であるA戦闘団の殲滅は達成されていたのである。
 ケッセルリングはアルニムの大勝利を2月16日になってようやく知った。ケッセルリングはイタリア軍最高司令部を経由して、アルニムに対しスベイトラを攻略するよう命じた。アルニムはなおも躊躇を続け、斥候隊に少数の戦車を付けて米軍が「カーンの十字路」【ファイドとスベイトラの間】と呼んでいた地点の近くにまで進ませるにとどまった。この逡巡により米軍は防備を固める時間を得ることができた。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P51,2

 16日の朝、アルニムは第21装甲師団の引き渡しを拒否した。ロンメルは第21装甲師団なしでガフサを占領したし、同師団はまだシディ・ブ・ジッド近辺で交戦中であるという理由であった。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P347

 米第1機甲師団のここ数日間【2月14~17日】の無様な戦いぶりを目にしても、アルニムには戦果拡張の意欲がわかなかった。2月17日の晩、将軍は攻撃軍の分割を決心し、第10戦車師団を北のフォンドゥークとピション峠へと向かわせ、第21戦車師団をスベイトラに残した。同晩のロンメルとの電話の中で、アルニムは燃料と軍需品の補給が思い通りにならないことを難じた。みすみす好機が放置されたことに怒ったロンメルは、2月18日、ケッセルリングに対して書簡を送り、アルニムの戦闘団を自分に引き渡してくれれば、カセリーヌ峠を進発して連合軍の主補給センターのある要衝テベサを攻略し、爾後はボネ【ママ。前出のチュニジア北岸のボーヌ港】の海岸まで達してみせると豪語した。ケッセルリングはアルニムよりもずっと、こうした大作戦に乗り気であったが、このような部隊と指揮権の大幅な組み替えを実施するには、その前にイタリア軍最高司令部となによりもムッソリーニとの会談の機会を持ち、正規の承認手続きを経ることでイタリアの面目を立ててやる必要があった。ロンメル案への認可が下りたという一報がチュニジアに届いたのは、18日から19日にかけての深夜のこととなり、こうした【ママ】また一日が無駄に費やされたのである。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P56

 枢軸軍高級司令部内の反目とコンセンサスの欠如により、スベイトラ陥落後、兵力は分散された状態にあった。【……】
 2月19日、ケッセルリングはアルニムにロンメル攻勢の支援を確約させるために、チュニジア入りした。驚いたことにアルニムは対案をもって迎えた。それは、ピション近郊の現在の陣地から第10戦車師団を出撃させて、チュニジアで全域攻勢を実施するというものであった。しかし、ケッセルリングはテベサ攻略をめざすロンメル案に同調的であり、またロンメルならば必ずこの大胆な作戦をやってのけてみせると確信していた。アルニムは「フリューリングスヴィント【春風】」作戦の完遂に確たる熱意を持っておらず、とりわけシジ・ブ・ジッド周辺から米軍を追い払ったあとはそれが顕著であった。ケッセルリングはロンメルが全権を掌中にし、テベサ攻略に邁進することを望んでいた。だが、ケッセルリングは訓令の中でそのことを明示していなかったので、ロンメルは、イタリア軍最高司令部がスビバ【Subiba:スベイトラの北】に向けて主攻勢を発起し、続いてル・ケフ【Le Kef:スビバの北】へ向かうことを望んでいると理解したままでいた。いずれへと攻勢目標が定められるにせよ、ロンメルはその暴露された左側面を、テベサを発した連合軍に衝かれることを防ぐために、カセリーヌ峠を抑えなければならなかったのである。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P57

 2月20日の午後、ケッセルリングはローマに戻る前にチュニスに立ち寄った。ケッセルリングはアルニムとの会見で怒りをあらわにし、アルニムが第10戦車師団の主力を手元に置いたままにしておくことで、命令を無視していると糾弾した。アルニムは当該部隊がなおも前線にあって戦場離脱が困難であると、やくたいも無い言い訳をした。しかもアルニムは、ロンメルがその軍による牽制攻撃が計画されているル・ケフではなく、テベサを狙っているのではないかという疑いを明言した。ケッセルリングはこの攻撃の必要を繰り返して説いた。ついにはアルニムも不承不承この案を受け入れたものの、攻撃開始を2月22日へと延期するとした。アルニムの反抗的態度に業を煮やしたケッセルリングはローマに戻ると、アルニムの第5戦車軍も含めた在チュニジア枢軸軍指揮の全権をロンメルに与えるよう上申した。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P62,3

 2月22日午後、ロンメルは今後の作戦計画に関し、決断を下さねばならなかった。カセリーヌ峠への攻撃は当初はうまく進んだものの、断固たる抵抗に直面し、頓挫する結果となった。【……】この数週間の戦闘における独伊軍の人的損失は比較的軽微であったものの、貴重な燃料と弾薬の消費は多かった。前線の戦車部隊用の燃料備蓄は航続距離250から300キロメートル分にまで落ち込み、弾薬備蓄も少なくなっており、マレト防御線を守る部隊の燃料備蓄はさらにこれを下回った。一連の攻勢作戦を前にしてアルニムが繰り返し主張したとおり、兵站能力こそが攻勢作戦に制約を課す基本的要素であった。【……】
 【……】ケッセルリングは未熟な米軍に対する戦術的勝利については満足していたが、その指揮下にある上級指揮官連中、なによりもアルニムの反抗的態度にいまもってなお腹を立てていた。ケッセルリングはイタリア軍最高司令部の承認を得て、枢軸軍の指揮機構の変革を処断した。在チュニジアの全枢軸軍はアフリカ軍集団の指揮下に置かれ、2月23日付でロンメルがその司令官となった。ケッセルリングはこれで上級指揮官の間に続いた反目と論争に終止符が打てるものと信じた。だがこの望みも長続きしなかった。ロンメルは病気療養のために、3月9日にチュニジアを離れることになったのである。
 アルニムが2月22日の実施を約束した、北部での攻勢が実現されることは無かった。英第5軍団がタラ【Thala:カセリーヌの北】へとあまりにも多くの部隊を派出していたので、アルニムは英軍防御が手薄となったこの機会を利用して、2月26日に攻撃をかけることを提案した【後述の「オクゼンコプフ(雄牛の頭)作戦」】。攻撃は急遽立案、実施されたが、英軍により手ひどくはねつけられた。ドイツ軍は戦闘と機械故障により戦車の大半を失ってしまった。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P69,70


 この「オクゼンコプフ作戦」について、別の本ではこう書かれていました。

 ところが翌日、ロンメルは正式にイタリア軍最高司令部よりアフリカ軍集団の司令官に任じられる。フォン・アルニムではなかったのだ。するとフォン・アルニムはすぐさま、自分がかつてやられたのと同じようにロンメルへの仕返しに出た。オクゼンコプフ(雄牛の頭)の意)という暗号名の由来となった動物なみの単純な作戦で、勝手に攻撃を開始したのだ。だがこれも、英米軍の決然たる防御の前に、あっさり攻撃停止に追い込まれた。
『パットン対ロンメル』P283




 ともあれ1943年3月9日、ロンメルの離任に伴ってフォン・アルニムは、アフリカ軍集団の司令官となりました。しかしその行く末は最初から絶望的でした。フォン・アルニムが持っていた兵力は12万でしたが、連合軍は25万以上を有していました。また必要な物資量は一カ月に14万トンでしたが1943年1月には4万6千トンしか到着せず、翌月には3万3千トンにまで落ち込んでいたのです。

 フォン・アルニムはアフリカ軍集団司令官となる2週間前にロンメルとメッセ(マレト防衛線方面のイタリア第1軍を指揮していたイタリア軍の名将)に状況報告を送っており、その中で「連合軍が攻撃しなくても、もし我々に補給が届かないなら、7月末までにチュニジアでのすべてが終わってしまうだろう」と書いていました。

 アルニムはチュニジアでの最後の戦いを、いつも通りの優れた戦術的手腕で指揮した。彼は、橋頭堡を可能な限り元の大きさのまま保持しようとした(それは北アフリカでの枢軸軍の崩壊を加速させる非現実的な決意であった)と非難されている。しかし、これはまったく事実とは異なる。この決定の責任は、ロンメルが言っていたように「バラ色のメガネですべてを見」ていたケッセルリングに主としてあるのだ。駐イタリアドイツ軍大使のフォン・リンテレン将軍も、ケッセルリングがチュニジアでの作戦について過度の楽観主義に陥り、判断を鈍らせたという意見を持っていた。一方アルニムは、連合軍の次の攻撃はマレト線の手前で停止していたモントゴメリーの第8軍が海岸沿いの平野で開始するであろうと正しく予見していた。それとほぼ同時に今や有能なジョージ・S・パットン中将に率いられるようになったアメリカ軍部隊が攻勢を開始し、アルニムの予備部隊を動けなくさせ、アフリカ軍集団を二つの塊に分断しようとするだろう。アルニムは北部の戦線を縮小すると同時に【メッセの指揮する】イタリア第1軍を海岸沿いに撤退させて橋頭堡の大きさを縮小することを望んでいたが、ケッセルリングがアルニムと激しく議論した後でもこれを許可しなかったのだ。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P349


 この状況について、ロンメルはこう書いています。

 戦略的な配置は絶望的だったから、ナポレオンといえども、なすすべはなかったであろう。楽観主義や無思慮なエネルギーなど、何の役にも立たないからだ。将兵は撃って、車行しなければならない。そのためには、弾薬とガソリンが必要なのだ。フォン・アルニムが置かれた状況は、とても羨むべきものではなかった。彼は、上層部の理性を取り戻すために、人間に可能なあらゆることを試みたが、それも無駄だったのだ。
『「砂漠の狐」回想録』P405

 その注にはこうありました。

 ロンメルは、第5装甲軍司令部宛の覚書で、その司令官のフォン・アルニム上級大将を批判したものの、彼を、人間、そして軍人として高く評価していた。ロンメルが解任されたのち、フォン・アルニム上級大将は、イタリア軍最高司令部ならびに総統大本営と争うだけの勇気を示した。そのことに、ロンメルは深い感銘を受けたのである。
『「砂漠の狐」回想録』P409



 ロンメルはフォン・アルニムの部隊の撤退を助けるべく、3月12日に「OKWもイタリア軍最高司令部も撤退を認めないだろうが、ヒトラーは自動車化部隊以外のイタリア軍部隊をマレト線の北のワジ・アカリト陣地に撤退させることは認めるだろう」と書き送ったそうです。フォン・アルニムは3月14日にそれらの部隊の撤退を命じましたが、2日後にそれを知ったアンブロジオ将軍は怒り心頭でこれを禁じます。しかしその直後の17日、アメリカ軍が攻勢を開始したのです。

 モントゴメリーも3月20日に攻勢を開始し、メッセは3月28日までにマレト防衛線の完全な撤退を余儀なくされます。一方フォン・アルニムは絶えず物資の補給を要求していました。29日、彼はイタリア軍最高司令部に、1日か2日分の弾薬しかなく、中型榴弾砲など特定の兵器の在庫ももうない。燃料の残りに関しても同様であり、大規模な移動はもはや不可能だ、と連絡しています。

 同日、ケッセルリングとアンブロジオは激しい議論を交わしました。アンブロジオは撤退許可に傾いていましたが、ケッセルリングは事前の退却承認がフォン・アルニムをして「退却志向」にさせるかもしれないという理由で反対しました。ムッソリーニがアンブロジオに同調し、アンブロジオはその命令をアフリカ軍集団司令部に伝達したので、ケッセルリングは自分の参謀長ジークフリート・ヴェストファルをチュニジアに派遣し、フォン・アルニム将軍にこの命令を「説明」させることにしました。

 このアルニムとヴェストファルとの会談は、何ら前向きの成果をもたらさなかった。アルニムは、ケッセルリングが提案した一連の反撃作戦を検討することを拒否した。ヴェストファルは率直に、アフリカ軍集団は常に「後方を振り返って、目を細めているのですよね」と言った。そうだ、その通りだ。彼らは到着しない補給船を待って地平線を見つめ続けているのだ、とアルニムは答えた。「以前のロンメルの軍と同様に、我々にはパンと弾薬がない。結果は必然的なものだ」。彼はこう言って会議を閉じた。その日のうちに、彼はシルヴィオ・ロッシ将軍(アンブロジオの作戦部長)に、ワジ・アカリト陣地がいつまで保持できるかを決めるのはイタリア第1軍ではなく敵であると、ありのままに報告した。彼は歯に衣着せずに、最高司令部は作戦を直接指揮しようとするよりも、北アフリカへの物資の輸送に専念するよう勧めた。翌日、彼は重要でない人員をすべて避難させるように命じた。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P350,351



 ワジ・アカリトへの連合軍の攻勢は4月5日に始まり、7日にはモントゴメリーとパットンは合流を果たします。フォン・アルニムは最終橋頭堡へ退却しました。4月13日にケッセルリングは、ヒトラーとムッソリーニからの、最後まで持ちこたえるようにという命令を伝達。また、援軍を約束しましたが、どのように送るか、いつ到着するか、どのように食糧を供給するかは明言しませんでした。

 4月22日、チュニジアの連合軍は最終攻勢を開始しました。アフリカ軍集団は激しい戦闘で燃料と弾薬をほとんど使い果たし、5月1日には砲弾は1発もなく、補給集積所は空っぽになっていました。補給担当官は、チュニジアで手に入った低級なワインや酒からなんとか燃料を抽出していたそうです。

 このとき彼が行った多くの人道的行為の一つは、枢軸国の航空機が戦闘任務に就くことを禁じ、そうしなければ消費するはずのガソリンを節約することであった。フォン・アルニムはその燃料を自分の軍集団の病人や負傷者の輸送に使ったのである。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P33



 またフォン・アルニムは何らかの口実(主として病気という理由)をつけて、マントイフェルや参謀長のガウゼなどの有能な人材を本国に送り返しました。一方で、チュニジアを離れる機会を与えられたにもかかわらず残ることを選択した者達もいました。第5装甲軍司令官フォン・フェールスト、第164軽師団長フォン・リーベンシュタイン、フォン・ブロイヒ男爵、第90軽師団長フォン・シュポネック、第15装甲師団長ボロヴィーツなど……。

 アルニムの長年の副官で、アルニムの一人娘エリザベートの婚約者であったハリー・フォン・カテン少佐は、最も厳しい強制的な命令でもって、渋々脱出を承諾した青年将校である。カテンは、1941年末にプファルツ地方のリーツに移住させたアルニムの妻と娘の世話をするためにドイツに戻るよう指示された。結局、カテンはほとんど体ひとつで飛行機に乗せなければならなかった。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P352



 5月6日朝、連合軍は最終攻勢の第二段階を開始しました。フォン・アルニムは抵抗を続けましたが、5月7日午後に重要な港を擁するチュニスとビゼルタの両方が陥落し、大量の兵士達の降伏が始まりました。第5装甲軍はこの日のうちに降伏します。


 ↓OCS『Tunisia II』のマップ上のチュニス、ビゼルタ、Ste Marie zu Zit(後述)の位置。

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 5月7日のこととして、このようなエピソードが伝えられています。

 チュニスのラ・グレット波止場に5月のはじめごろ、イタリアの補給艦〈ベルーノ〉が、700人のイギリス軍、アメリカ軍の捕虜を乗せて停泊していたところ、イギリスの爆撃機に襲われた。イタリアの乗員は退避し、港湾長ケラーは兵団司令部に電話して〈ベルーノ〉のために戦闘機を求めた。だが、友軍部隊を守るにもこと欠くというのに、連合軍捕虜を自国の爆撃機からまもってやる戦闘機などあるはずがない。ケラー大尉はポムトウ大佐に泣きついた。ポムトウはフォン・アルニムに残酷な情況を説明した。「アレクザンダーに連絡して、爆撃をやめさせるのだ」 フォン・アルニムは情報将校モル少佐に命じた。こうしてアフリカ兵団から平文の電文がチュニジア派遣イギリス軍総司令官でアイゼンハワーの代理アレクザンダー将軍にとどいた。「チュニス港の空襲を中止させられたし。被攻撃船中に英米軍捕虜700名あり」 アレクザンダーはすみやかに反応し、爆撃機は無線で呼び返された。
『砂漠のキツネ』P345



 5月9日、最後の3機のドイツ軍機がチュニジアに到着してドラム缶数本分の燃料と軽機関銃の弾薬を届け、負傷した兵士達を乗せて再び飛び立ちました。このドイツ軍機は、ヒトラーからの命令を置いていっていました。「アフリカ軍集団は最後の一発まで戦うべし」。フォン・アルニムは部隊に対し、「最後の一発」とは戦車攻撃の場合の最後の砲弾と解釈されるべきであり、それを撃った後武器を破壊し、各師団は敵に降伏すべし、と布告します。

 5月12日、Ste Marie zu Zitでフォン・アルニムはもはや無意味となったこの戦いを終わらせることを決意した。彼はイギリス軍司令部に使者を送り、その使者はイギリス第1軍司令官アンダーソン将軍の司令部に連行された。その使者の帰還を待つ間、ドイツ軍は残っていたロンメルの時期からの車両群を破壊する準備をし、ロンメルの最後の指揮戦車2輌はワジ(枯れ谷)に放り込まれた。フォン・アルニムは、ヒトラーからのドイツへの空輸の申し出を断っていた。何があろうと、自分が指揮する兵士達と運命を共にするつもりだったのだ。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P34



 5月12日、ついにフォン・アルニムはアフリカ軍集団司令部と共に捕虜となりました。彼は、部下と連絡が取れないという理由で、軍集団全体の代表としての降伏を拒否します。しかし翌13日の午後には残りのイタリア軍部隊等も降伏しました。その一時間後、連合軍の地中海方面軍司令官ハロルド・アレクサンダーはチャーチルに、チュニジアでのすべての戦闘行動が終わったことを知らせました。「我々が北アフリカ沿岸の支配者となったのです」と。

 【……】捕えられたフォン・アルニムを、アレグザンダーは迎えて - アイゼンハワーは会うのを拒んだ - たずねた。「閣下、ご希望がありますかな?」 アルニムには一つあった。「あのときの700名の埋めあわせをしていただきたい。わが軍の重傷者を700名、病院船でイタリアへはこんでいただければ幸いです」 アレクザンダー将軍は一瞬ためらったが、うなずいた。「承知しました」 そして実行した。
『砂漠のキツネ』P345




 捕虜になった後のことを、ミッチャム氏はこのように総括しています。

 フォン・アルニムは捕虜になった当時、西側の手にあるドイツ人捕虜で(ルドルフ・ヘスに次ぐ)第2位の高位の人物であった。彼は当初、大きな注目を浴びたが、すぐに歴史の表舞台から静かに消えていった。軍事史家達はこれまで、アルニムを厳しく批判してきた。1943年2月、特にカセリーヌにおいて、ロンメルがこの戦争で最も大胆な電撃作戦の一つをものにするチャンスを、アルニムが柔軟性に欠ける保守的な態度で台無しにしたのであり、この時の決定的な失敗の故に、チュニジアでの彼の指揮全体も失敗と判断されなければならないというのだ。しかし、歴史家は概してアルニムに対して厳しすぎるというのが、少なくとも筆者の見解である。確かに彼はロンメルではなかったが、多くの優れた将軍はロンメルほどの才能は無くても、アルニムほど厳しく扱われてはいないではないか。彼は戦略レベルでは確かに失敗したが、戦史上の記録は彼が優れた軍事指揮官であったことを証明している。実際、人間としての彼は失敗したわけではなかった。プロイセン最後の騎士の一人として期待されるような高潔な人格でもって彼は戦争を戦ったのであり、後に戦争犯罪で裁判にかけられたような多くの親ナチ派の将軍達とは異なっていた。この事実認識により、イギリスは彼を「ハンプシャーの美しい邸宅」に捕虜として収容した。1943年10月5日、彼の一人娘がプファルツ地方のグロッセ・リエッツの別荘でフォン・カテン少佐と結婚した時、イギリスはこの捕虜に、無線でお祝いのメッセージを送ることを許したのである。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P353



 捕虜収容所に関してですが、↑では「ハンプシャーの美しい邸宅」となっていますが、実際には(あるいは時期的にずれて?)盗聴器が仕掛けられていた「トレント・パーク収容所」にフォン・アルニムは入れられて、そこで、継戦派のクリューヴェル将軍に担ぎ上げられ、非継戦(敗北主義)派のフォン・トーマ将軍一派に対抗させられることになったことが、大木毅氏の『収容所のなかの戦争』という記事に書かれています(恐らく『ドイツ軍事史――その虚像と実像』に収録されています)。その中から特にフォン・アルニムに関する部分のみを抜粋してみます。



 かかる対立に際し、クリューヴェルは、「敗北主義」を押しとどめ、トーマ派の勢力を削ぐために、捕虜中、もっとも階級が上の、アフリカ軍集団総司令官ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将をかつぎだした。アルニムも、それを受けて、1943年7月9日、捕虜たちに演説する。収容所内にあっても団結を維持し、他の戦友たちを困らせるような、悲観的な主張は控えよと要求したのだ。
 しかし、アルニムの演説は逆効果だった。トーマ派の多くは、かえってナチスに批判的な書物をおおっぴらに読むようになったし、BBC放送【イギリスの公共放送】を聴くなというクリューヴェル派の意見にも耳を貸さなかった。【……】こうした事態を打破しようと、アルニムは、8月15日と16日の二度にわたり、敗北主義的な話をするのは止めよと要求したが無駄であった。
 結局のところ、アルニムは、たしかに捕虜のなかで、最上級者ではあったけれども、おおかたの戦友たちから、チュニジアの敗戦の責任者とみなされており、作戦的な能力についても、腕のよい師団長程度と判断されていたのだ。なれど、しだいに多数派になりつつあったトーマ派が指示に従わないのをみたアルニムは、自らラジオをいじり、BBC放送からドイツの放送に周波数を合わせようとして阻止されるという小事件を起こし、孤立することになる。以後、捕虜に許された運動である屋外散歩の際、アルニムに同行しようというものはおらず、やむなくクリューヴェルは、自派のものに命じて、お供をさせる始末だった。やがて、アルニムは、ほとんどの時間を自室で過ごすようになり、将校食堂で食事をするのもまれになっていく。
『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』P31



 捕虜としてイギリスで過ごした後、アメリカに送られたらしいですが、アメリカでは仲間が看守からひどい扱いを受けないように介入したそうです。その後、捕虜としてドイツでも過ごし、計4年の捕虜生活の後釈放されました。東ドイツにあった領地や資産はソ連に没収されていたので西ドイツで新しい家を建て、年金を支給されて過ごします。1962年に老人ホームで73歳の生涯を閉じました。

 ヴェストファル将軍は告別の辞でこう述べたそうです。「ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム将軍は、軍の上級将校としてあるべき姿を体現していました。すなわち、人間であり、人格者であり、そして紳士だったのです。



 ただし、一応見つけていた、フォン・アルニムの人物像に対する批判的な見方も紹介しておかねばならないと思います。『The Battle for North Africa 1940-43』という本を書いた元イギリス軍将校であったSir W. G. F. Jacksonという人はフォン・アルニムについて「気難しく、協調性がなく、笑顔のない、気難しい、秘密主義的な人物」(Jackson, 324, 333)と書いていたそうです(『The Biographical Dictionary of World War II』P14の引用文から)。




 また、パウル・カレルはこのように記しています。

 プロイセンの軍人フォン・アルニム - 《古いタイプの最後の軍人の一人》とポムトウ大佐が私【パウル・カレル】に語ってくれたが - は、みごとにその責をはたした。深慮と、勇気と、味方にも敵にも忘れられない人間性とをもって。
『砂漠のキツネ』P345





 ↓今回使用したその他の資料はこちらです。





『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』を購入してみました

 ツイッターで↓と書いていた本が買えるようになっていたので、買ってみました。








 目次はこうなっていました。

1. Bernard Montgomery: Before 'Monty'
2. Bernard Freyberg: A question of intelligence
3. Francis Tuker: The pattern of war
4. Orde Wingate: Barking up the wrong.iungle?
5. Bill Slim: No withdrawal
6. Omar Bradley: The GI General
7. George S. Patton: American man of war
8. Alastair Pearson: Go to it!
9. Percy Hobart: Funnies
10. Peter White: To the very end



 中身はまだ読み始めてないのですが、もっと細かい指揮官達も取り上げられているのかな、と思っていたのですが、この10人だけということなんでしょうか(それはそれでOKですけど)。


 モントゴメリー、ブラッドレー、パットンあたりは良く知られているとして……。

 フレイバーグは第2ニュージーランド歩兵師団の師団長として北アフリカで戦った人物で、クレタ島やイタリアでも戦った名将のようで、私はまだ詳しいことを分かってませんけども、詳しく調べるのを楽しみにしています。

 オード・ウィンゲートは敵後方に潜入、あるいは降下して攪乱する戦い方を創始した独創的な人物で、ビルマ戦でチンディット部隊を率いて第1次、第2次の作戦を指揮しました(第2次作戦を開始直後に墜落死)。第2次の作戦はOCS『Burma II』に含まれています。兵士達には非常に慕われていましたが、同僚の将軍達には非常に嫌われていたそうです。

 ビル(ウィリアム)・スリムはビルマ戦で日本軍に敗北した英連邦軍を率いつつも、兵士達を鼓舞して訓練し、最終的にビルマで連合軍に勝利をもたらした将軍で、「モントゴメリーよりも優秀で、第二次世界大戦中のイギリスの将軍で最も偉大な人物」と目されています(ただ、先日ツイッターで、戦後に少年に対するセクハラで問題になったとかいう話が出ていました……)。





 パーシー・ホバートはイギリス軍で少数であった戦車主義者で、北アフリカで第7機甲師団を鍛え上げた後解任されるも、その後第79機甲師団で様々な改造戦車などを開発したりしました。

戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)



 しかし、その他の指揮官については全然知らないので、少しだけ調べてみました。


 フランシス・チューカーは北アフリカ戦やイタリア戦で第4インド歩兵師団の指揮を執り、モンテ・カッシーノの戦いに参加した人物のようです。

 アラステア・ピアソンは空挺降下兵として、シチリア島侵攻作戦やノルマンディーの戦いで空挺大隊を率いて活躍した人物のようです。

 ピーター・ホワイトという人は、資料がほとんど出てこなくて良く分からないのですが、西部戦線で下級指揮官として戦い続け、自分の体験をスケッチと詳細な記録として残した人物……?


 また、必要に応じて読むようにしたいと思います(すでに手持ちの資料が結構あってわけが分からなくなっており、必要に応じて調べた方がいい感じになっています(^_^;)。

最後の第15装甲師団長としてカセリーヌ峠の戦いなどで活躍したボロヴィーツ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、最後の第15装甲師団長としてカセリーヌ峠の戦いなどで活躍したボロヴィーツ将軍についてです。


 写真は、↓ですとか。

Willibald Borowietz




 ヴィリバルト・ボロヴィーツは1914年に士官候補生として入隊し、西部戦線で従軍しました。戦後の軍には残れず、警察に入ります。

 1935年に再び軍に入り、1937年には装甲部隊部門に転属します。彼の妻はユダヤ人で、夫と3人の子供を「非ユダヤ化(アーリア人化)」するために1938年に自殺したそうです。

 ポーランド戦では第4軽師団隷下の第50対戦車大隊の指揮を執りました。第4軽師団は第9装甲師団に改編され、ボロヴィーツは引き続き第50対戦車大隊を指揮してオランダとフランスで戦いました(同大隊はOCS『The Blitzkrieg Legend』ではユニット化されていないようです)。

 さらにボロヴィーツはユーゴスラヴィアへの侵攻作戦で活躍し、1941年4月12日に戦場での優れた功績により陸軍総司令官表彰状を授与され、ドイツ国防軍の報告書にその名が記されました。

「4月6日と7日のウスキュブでの装甲師団の進撃の際、狙撃兵旅団長のアペル大佐と装甲猟兵部隊のボロヴィーツ中佐の活躍が際立っていた。」



 ボロヴィーツは1941年6月1日に第9装甲師団隷下の第10狙撃兵連隊長に任命され、ウーマニ、キエフ、ブリャンスク包囲戦、モスクワへの進撃で活躍します。1941年夏には彼の所属する旅団(第10狙撃兵連隊と第11狙撃兵連隊+αだと思われます)は一度の戦闘で敵の戦車92輌、砲12門、高射砲12門を破壊したそうです。この功績によりボロヴィーツは7月24日に騎士鉄十字章を授与されました。(またこの時期、前回扱ったテオドール・フォン・シュポネックが第11狙撃兵連隊長だったわけですね)


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第9装甲師団ユニット。

unit8789.jpg



 1942年に入るとヴォロネスク、オリョル、オルシャ、ルジェフ突出部などで戦います。1942年10月5日に指揮権を放棄し、いったん総統予備に編入されました(理由は書かれていませんが、休暇であったというのがありそうな事に思えます)。


 1942年11月に第10装甲師団に転属し、同師団隷下の第10装甲擲弾兵旅団長に任命されます。同旅団はイタリアに駐留しており、連合軍のトーチ作戦(1942年11月8日)で風雲急を告げるチュニジアに向けて出発することになっていました。ところが、エル・アラメインで戦っていた第15装甲師団長のフォン・フェールストが離任したため、ボロヴィーツは同月中に第15装甲師団長に就任します。
(この辺り、細かい日付やフォン・フェールストの離任の理由等が資料間で色々食い違いがあってどうにもならないので、↑の文はどの資料でもおかしくない範囲で記述したものになってます)

 ボロヴィーツはエル・アラメインからの第15装甲師団の退却を指揮し、チュニジアで戦い、同師団の最後の師団長となりました。1943年2月のカセリーヌ峠の戦いで活躍し、3月10日に騎士鉄十字章に柏葉を付与されています。チュニジアでの戦いについて、ドイツ国防軍はこのような報告文を出していたそうです。

「アフリカ戦域では、伯爵シュポネック中将が率いるアフリカ軽師団と、ボロヴィーツ少将が率いる第15装甲師団が特に際立っている。」



 ↓OCS『Tunisia II』の第15装甲師団ユニット。

unit8787.jpg





 チュニジアの枢軸軍が降伏してボロヴィーツはアメリカ軍の捕虜になり、ミシシッピ州の捕虜収容所に送られましたが、ドイツが降伏した後の1945年7月1日に浴槽で感電死して自殺したそうです。

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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