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退却するイタリア軍兵士を助けてくれたソ連の現地住民達の話その1

 『On a Knife's Edge』を読んでいまして、退却するイタリア軍兵士を助けてくれたソ連(ロシア)の現地住民達の話が少し出てきました。

 退却中の【イタリア軍】兵士達が通り過ぎていった多くの村はパルチザンの集団によって守備されていたが、他の村は完全に放棄されてしまっていた。まだ住民が住んでいる村では、この戦役中にあったあまりにも多くの無慈悲で残酷な出来事にもかかわらず、素晴らしい思いやりと親切な行為が見られた。Vittorio Trentiniというあるイタリア軍兵士は手袋をなくしてしまい、凍傷になりかけていた。彼が寒さから逃れようとして入った丸太小屋にいた一人のロシア人女性は、彼の変色した手を見ると黙って床に敷いてあった羊の毛皮を取り、その部屋を出ていった。彼女が戻ってきた時、その手にはその兵士のための作りかけの手袋が握られていた。

 彼女は優しくその手袋を私に試させ、微笑むと、サイズをちょうどに合わせてくれました。私は今でもその手袋を大事に持っています。この手袋が私の手を守ってくれたんです……私はこの手袋を見るといつも、私が大好きなお母さんに抱きついていた時のことを思い出します……それから、この手袋を作ってくれた彼女に、限りない感謝の気持ちを抱くのです。

 他にも多くのイタリア軍兵士達の古着に包んだブーツが擦り切れて役に立たなくなってしまって、凍傷になっているのを、地元の農夫達が見て同情し ー 彼ら自身がほとんど何も持っていないのに ー 同じようにしてくれたということがたくさんあったという。1942年後半には、イタリア軍兵士達が親切で、品行方正であることが地元の住民達の間に明らかに広く知れ渡っていたのである。ある中尉が後に書いている。

 この退却の間のことだった。我々はロシアの農夫達の、その質素な丸太小屋や、彼ら自身わずかしか持っていない食べ物をいつでも提供してくれる、本当の暖かい心に触れたのだ。その後だいぶあとになっても、彼らは我々を侵略者としてではなく、お互いに同じ災厄を受けた者同士であるかのように、親切にしてくれたのだった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P243,4



 もう、読んでいるだけでウルウル来るんですが……(T_T)


 この引用部分(イタリックの部分)は注を見るとどちらも『Sacrifice on the Steppe』からの引用で、ちらっとそちらも見てみたのですが、同書はやはりイタリア軍アルピーニ軍団の退却行をメインとした本であるだけに記述量も膨大なようなので、今回は同書を見るのはやめておいて、『On a Knife's Edge』の読後にゆっくり読みたいと思います。

 『Death on the Don』の方も一応、これ系の話が書かれていないかなと思ってぱらぱらと見てみたのですが、ぱっとは見つけられませんでした。

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なぜイタよわ?:イタリア軍の組織、将軍、士官、兵士達の抱えていた問題

 「なぜイタリア軍は弱かったのか?(なぜイタよわ?)」の再まとめ、4回目です。今回は「イタリア軍の組織、将軍、士官、兵士達の抱えていた問題」について。


 まず断っておきますと、イタリア軍の中でも空軍と海軍については、予算も優先的で人員的にも士気の高い人が多かったので、むしろ優秀であったらしいです(特に空軍)。

 それから、イタリア陸軍の中にもいくらかの非常に優秀な部隊があり、それらは大いに敢闘しました。イタリア軍はそういう部隊毎の質の違いが色々とあって、そこらへんが面白いという感じもしますが、あるいはまた、どこの軍隊であっても一部の優秀な部隊が活躍して戦いを成し遂げていったのだ、という説もあるそうです。

 最初にリビアで行われたイタリア軍部隊に関する調査で、「軍服のだらしない着方、建物の散らかり方、公衆トイレの汚さ、土地の売春婦への不適切な医療管理」などを含む諸欠点が明らかとなった。1940年におけるイタリア軍部隊の訓練の貧弱さは、戦争開始時のリビア総督であったイータロ・バルボ元帥が、同士撃ちによって撃たれるのを防ぐために「自分の機体を赤色に塗る」ようにするだろうと述べたほどであった。その原因の一端には、この戦域にイタリア軍の一級部隊がいなかったことにもあった。
 第二次世界大戦におけるほとんどの戦闘は「エリート」部隊によって成し遂げられたのであり、「通常」部隊には全くそのようなことはできなかったという説がある。いくつかの通常部隊、例えばアメリカの第1歩兵師団(ビッグ・レッド・ワン)のような部隊はエリートと言えるであろうし、空挺部隊や機甲部隊、それに類する部隊は全くのエリート部隊であった。第二次世界大戦におけるイタリア軍の成功と失敗は、この説に非常に良くあてはまる。イタリア軍のエリート部隊は良く訓練された兵士によって成り立っていた。例えばベルサリエリ(ヨーロッパ近世の王国軍における猟兵に相当する狙撃手)、アルピニおよび山岳兵、機甲、砲兵、そして空挺部隊である。1940年には、当時存在していたベルサリエリ12個連隊のうち1つもエジプトとリビアには配備されていなかったが、最初期の増援で急いでイタリアから送られることになった。後にフォルゴーレ空挺師団 - アフリカに送られた時には実質的には旅団規模であったが - がエル・アラメインの戦いで有名となった。戦争の間イタリア軍の多くの部隊が、劣った武器や、時に劣悪な指揮の下で良く戦ったが、しかし第二次世界大戦におけるイタリア軍の成功のほとんどは、このような良質な部隊によって成し遂げられたのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P19,20


 イタリア軍の中でも優秀な部隊についてはこのブログで色々取り上げていましたが、今ここでリンクを貼っていくのは面倒なので、「OCSの物置2」のトップページの「OCSのユニットや戦史に関する記事」のところに色々リンクが張ってありますから、そちらからでも見てもらえたら……。



 それはともかくとして、とりあえず軍の中でも上の方の話から。

 ムッソリーニはまた、生来の管理業務嫌いであり、すぐにムードに流されるという欠点があった。その結果生じたのが、軍事的な方針がころころ変わることであり、つまりは戦争の全般的指令における一貫性の欠如であった。
 もしイタリアが適切な最高司令部を持っていたならば、そうはならなかったかもしれない。イタリア軍は「Comando Supremo(最高司令部)」という大仰な名前の付いた組織を持っていたが、それはムッソリーニの大まかな意志を個々の軍管区に伝える為のわずかな数の将校で構成されていたに過ぎなかった。それぞれの軍管区における個々の命令と指揮は、現地の司令部に丸投げされていたのである。つまり、イタリア軍全体というレベルにおける中央の作戦指令も、作戦準備も何も存在しなかったのだ。個々の任務はイタリア海軍、空軍、陸軍のそれぞれの司令部に任され、必然的にそれら三軍はバラバラに、自分達の専門分野にのみ焦点を当てがちであった。三軍の作戦行動の統合はないに等しく、それは戦前においても、そして当然戦時においても、はなはだ不適切なありようであった。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.325~332


 イタリア軍の「Comando Supremo(最高司令部)」に関しては、今まで本の中で何度もその名前を見ていたのですが、そんな状態の組織であったということに私はかなりびっくりしました。ドイツ軍やソ連軍やアメリカ軍の最高司令部はもっともっとしっかりしてそうな感じですから……(時期にもよるのでしょうけど)。


 次に、将軍達のレベルでの問題点。

 王国陸軍の将校は、自らを、近代的な国家への奉仕者というよりも、一種の特権階級とみなし、その多くは、ディレッタント的にしか、軍務に服さなかった。高位の将軍たちは、しばしば、敵と戦うよりも、軍部内の派閥闘争に精力を注いでいた。ローマでは……バドリオ元帥も、北アフリカ方面軍司令官に任命されたロドルフォ・グラツィアーニ元帥に対する誹謗中傷をためらわなかったし、また伯爵ウーゴ・カヴァレロ大将を宿敵とみなしていた。
『明断と誤断』P46


 かような技術力・工業力の不足に加えて、王国陸軍首脳部の無理解も、イタリア機甲部隊の発展を阻害した。実戦で機甲部隊を指揮した経験を持つ、数少ない指揮官であるエットーレ・バスティコ将軍でさえ、1937年11月に開催された、今後の戦車に関する施策を主題とする会議で、こう発言している。「戦車は強力な道具である。だが、偶像化してはならない。歩兵と騾馬への尊敬を捨ててはならないのだ」。ドイツ装甲部隊の驚異的な成果も、王国陸軍の将軍たちの蒙を啓くには至らなかった。たとえば、1940年7月に陸軍情報部が作成した、ドイツ軍の装甲戦術に関する報告に対し、バドリオ元帥が付した唯一のコメントは、「戦争が終わったら、研究することにしよう」というものだった。
『明断と誤断』P48


 「将軍同士の仲の悪さ」ということで言えば、独ソ英米仏、どこでも具体例がいくつか思い浮かびますけども、イタリア軍の将軍達は「戦争指揮よりも派閥闘争により熱心であった」ということのようです。その原因の一端が、将軍という地位が特権階級的なものであったということなのでしょうね。ナポレオン戦争の時のイギリス軍なんかも将軍の地位は売買の対象で、ウェリントン卿はそういう状況で真に優秀な指揮官を得るのにだいぶ苦労したらしいです。


 次に士官や兵士たちに関して。

 イタリア軍の将校団は多くの問題を抱えていた。エチオピアの英雄で、アルプス方面を重視する保守的なピエトロ・バドリオ元帥をトップとするイタリア軍は、その将校の選定に硬直的な年功序列システムを採用していた。この硬直的な年功序列システムは有能な若手将校の順調な昇進を妨げ、むしろ無能な将校を高級司令部に残す傾向にあった。しかも、高官は戦場で失敗しても退役や免職させられることなく、新たな役職を得て他の戦域に回されるだけということが多々あった。例えば、イターロ・ガリボルディ将軍は、1941年にエルヴィン・ロンメル将軍と不仲になったが、単にアフリカからロシアへ異動させられただけだった。イタリア軍において専門的な教育を受けた将校の多くは自動車化部隊か砲兵部隊(この戦争中に目覚ましい働きをしたこれらの砲兵部隊の大砲は、多くが第一次世界大戦の時のものの寄せ集めであった)に配属されたため、残りの部隊はほとんどの将校達が専門知識を有しないことによる不利益を被り、しかも彼らは兵達と「触れ合う」こともなかった。将校達は兵卒達とは別の場所で食事をし(それが戦線後方でのことであったならまだマシであったろうが、実際には前線においても多くの場合そうであったのだった)、兵卒達とは離れて仕事をし、しかも最高司令部は高齢者で占められていた。1920年代に将校団に厳しい予算カットが突きつけられた結果として将校の総数が特に佐官・尉官のレベルで制限された。そのため、戦時に、概して知識の乏しい予備役将校に頼らざるを得なくなってしまったのである。
 この不足は有能な下士官階級によって軽減されていたかもしれないが、下士官は不足しており、健康や教育程度で劣るイタリア南部からの者が多かった。最後に、財政上の理由から、イタリアの悪名高い1920年代と1930年代に不充分な軍事訓練しか行えておらず、そのつけが戦争に響いたのである。
 イタリア軍兵士はヨーロッパでも最悪の部類であった。信じられないことだと思われるだろうが、1940年に小作農階級から兵士となった者のうち約50%は左と右の区別も付かず、まず最初の訓練でその区別を学ぶところから始めなければならなかったのである! 例えば、オーストラリア軍の新兵が多くの場合地方出身者であり、自分用の大きなライフルを持つ射撃の名手であったのに比べると、イタリア軍兵士の素養がいかに貧弱であったかが充分に理解できるだろう。また、イタリア軍兵士は30ヶ月経たなければアフリカから故郷に帰ることができなかったが、ドイツ軍兵士は12ヶ月毎に帰郷できた。英連邦軍兵士は定期的にカイロへの休暇を許されるか、あるいは部隊自体が戦いのない駐屯地に移されることを期待できた。戦争が長引くにつれ、このことが彼らの士気と能力に影響を与えることは避けられなかった。
『Rommel's North Africa Campaign』P14,5

 ……そこには、当時のイタリアが脱却できなかった階級社会が反映されていた。
 将校は、従卒にかしずかれ、兵士よりも良い軍服と装備、より多くの休暇、より良質の食事を与えられるのが当然とされていた。かてて加えて、昇進も、資質や努力を重視するというわけではなかった。規則上は、戦時に実力を示せば、短期間で昇進が保証されることになっていたけれど、現実には、年功序列や実力者との縁故のほうがものを言ったのだ。1942年冬のヒトラーの布告に接したカヴァレロの反応は、かかる事情を問わず語りに示したものといえよう。前線指揮官であれば、年齢、任官序列、どのような階層に生まれたかにかかわらず、その実績に応じて、適切な階級に引き上げるとした内容を一読したカヴァレロは、「われわれには、こんなやり方は、少しばかり行き過ぎ」だと、うそぶいたのである!
 事実、王国陸軍にあっては、戦場で功績をあげるよりも、参謀職や後方の管理業務についているほうが出世は見込めるという傾向が見られた。ギリシアやロシア、北アフリカを転職し、元帥にまで昇りつめた勇将ジョヴァンニ・メッセは、チュニジアの軍司令官時代に、実戦の試練に打ち勝った部下の師団長たちよりも、ローマの事務机で戦っているもののほうが昇進が早いと、痛烈な皮肉を残している。

『明断と誤断』P46

 王国陸軍の体質はきわめて官僚的であり、実戦に即応することは期待できなくなっていた。近代戦に必要な指揮官の自主性は重んじられず、中堅将校も責任を負わされることを恐れ、常に上官の指示を仰いでから行動するというていたらくだったのである。軍隊の強さの根幹となる下士官においても、事情は同様だった。もともと、王国陸軍では、下士官の数は不釣り合いなほど少なかったし(1940年6月の時点で、技術専門官を含めて、41200名のみ)、下士官へ昇進する道も限られていた。ドイツ軍や米軍では普通であった措置、前線で緊急事態が生じた場合にベテラン下士官を将校に任じるということさえも、王国陸軍は認めていなかったのである。結果として、昇進の飴もぶら下げられず、過失があれば、将校に譴責されるという境遇に置かれた下士官たちは、なけなしの自主性をポケットの底に押しこんでしまった。
『明断と誤断』P47

 イタリア軍のリーダーシップも、同様にお粗末だった。将と兵の格差は激しく、あらゆる階級において差別意識がはびこっていたため、およそ密接な関係など保てよう筈もなかった。連絡はおざなり、部下が誰かということさえわかっていない有様だった。それに上級将校ともなると、政治的配慮からその地位を得た者が多く、これっぽっちの軍事知識ももち合わせていなかったのである。部隊の構成および編成は、特に後方支援部隊に顕著だったが、お粗末窮まりなかった。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP27

 では、召集される兵士たちはどうか。彼らこそ、ムッソリーニの野望、イタリア国民の夢を実現すべく、鍛え上げられたのではなかったか?
 いや、ここでも、恐るべき錯誤がまかり通っていた。王国陸軍首脳部は、訓練よりも、実戦経験こそが強い部隊をつくりあげるし、選ばれた民であるイタリアの子らは、砲火の洗礼 - 最初の戦闘から、立派に戦うはずだと考えていたのである。にわかには信じがたい、傲慢な発想ではあるが、実例を示そう。先に触れたバリアーニ大将は、1937年に、ある上級将校を使者に仕立てて、リビアに送り込んでいる。彼の任務は、同地に駐屯する諸部隊に、「過剰な訓練」を禁じるバリアーニの訓令を伝えることであった。また、参謀将校であったマリオ・カラッチォ・ディ・フェロレートは、「【軍に】はびこっていた、戦闘にあっては、直感と個人の勇武のほうが、訓練などよりもはるかに価値があるという思い込み」について、書いている(【】内は、筆者の補足。以下同様)。
 しかも、この思想ともいえない思想は、軍の実務に反映されることになった。多くの新兵は、充分な訓練を受けないまま、実施部隊に配属されたのである。機甲師団のような、技術的習熟を必要とする部隊ですら、例外ではなかった。たとえば、アリエテ機甲師団に補充される操縦手は、戦車を動かしたことがないのが普通だったし、砲手にされる新兵にしても、47ミリ戦車砲を3回も撃った経験があれば上出来というありさまだった。
『明断と誤断』P47

 イタリア陸軍の訓練は、予算と燃料が限られていることから非常に制限されており、その多くは行進訓練と基礎訓練に過ぎなかった。実弾発射訓練は全くないに等しく、多くの兵士にとって実際の戦闘が自分の武器を始めて実弾で撃つ機会という有様だった。また、年に一度の大演習を除けば師団規模や軍団規模の演習もなく、多くの将校や下士官、それに兵士達は戦場での実際の状況に関する経験に欠けていた。エチオピアやスペインで戦った経験のある者は比較的少数で、それとても第二次世界大戦には役に立たないような経験に過ぎなかった。それ故、第二次世界大戦で戦ったイタリア軍部隊の大部分はその訓練の多くを前線において受けたのであり、それは多くの者達にとってあまりにも遅すぎたのである。
 またイタリア陸軍は多くの年かさの上級将校を抱える一方で、経験豊かな若手将校や下士官がかなり不足していた。これは、年かさの将校が高い役職にとどまり続けたため、若手の者達が予備役に回されたり、配置換えをされたりしたからであった。この問題は、これらの年かさの将校達に見あった高い役職を数多く作るために多くの「2単位」師団が作られたことによってさらに悪化した。このことにより、進取の気性に富んだ、あるいは近代戦の経験を持つ若手の将校の昇進の機会が狭まり、そもそも陸軍が持っていた保守性が促進され、新しいアイデアや変化に対して抵抗する度合いが高まった。やりがいのある仕事を求める多くの志を持った若者にとっても、イタリア陸軍は魅力のないものとなった。対照的にドイツ軍では、ヴェルサイユ条約による容赦の無い要因削減により年かさの将軍達が首を切られることになり、そして1930年代の拡大期には新しい考え方の若い将校達に道が開かれることになったのであった。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.396~407

  このような軍上層部での弱点を助長したのが、現地軍の士官レベルで見られた弱点である。伊軍との折衝に当たった独軍将校は、伊軍の若手将校の演練水準が低いことと、自主性を欠いていることに否が応でも気付かされていた。同様に独軍将校の意識に留められたのは、 イタリア南部で編成された師団と北部で編成された師団との間に顕著な格差があり、 北部の師団の方が格段に優秀であったということである。教育程度と職業意識が高い中間階層が幅広く存在することが士官としての適性を持った人物を多く輩出するための前提条件であり、その面でイタリアが相対的に他の諸国の後塵を拝していたということが、このような弱点の源となっていたと言えなくもない。
『大いなる聖戦 上』P232



 読んでいると、イタリアは他の列強に較べて「近代性」が低かった……という気もしますが、一方で思いつくのは、近代的発展を早い内に遂げた社会というのは「戦士に高い価値が認められる社会」であった、という説です(どこで読んだのか思い出せませんが)。例えばヨーロッパや日本(武士階級が長らく支配していた)はそうであり、中国や朝鮮半島は長らく文官の地位が非常に高くて武官の地位は非常に低い社会でした。これは多分、「戦いに勝つ」ということには合理性が必要であるから、戦いに価値を置く社会は合理的、つまり近代的になる……ということだったのだと思うのですが、もしこの説にある程度妥当性があるとすると、イタリアはヨーロッパ列強の中でも「戦いに価値を置く社会」度が低かったのかも、と思ったり。

 例えば、メッセ将軍は、イタリア人は(ドイツ人と違って)「戦闘的な民族」ではない、と言っていたそうです。

 ジョヴァンニ・メッセ元帥はイギリス軍の捕虜となってからはもちろん、ドイツ兵とは軍事的な価値観を共有しているなどということを認めようとはしなかった。彼はむしろ、イタリア兵はドイツ兵とは完全に異なる存在だと考えており、そう語ることによってイタリア軍の軍事的な機能不全をイタリア人の自尊心をくすぐるような形で語りうるようになったのだ。「[ドイツ兵たちには]魂がない。我々は鷹揚であり、憎むということが本当に不可能なのだ。我々の精神的気質はそのようなものなのであって、私は前から、我々は戦闘的な民族ではなく、憎むとはどういうことかを知っているのが戦闘的な民族だという意見だ」。
『兵士というもの』P327



 つまりイタリア人は「平和的な民族」なのだ、ということなのだと思われますが、確かに「Axis Powers ヘタリア」のイタリアを見ていると、「ああ、戦争には向かないキャラクターだなぁ……」と思わないでもないかも。

 つまりは、戦争には向かない平和的で純朴なイタリア人が、(ムッソリーニのせいで)戦争に駆り出されてしまったことが、悲劇の根本にあるということなのかも……。


 ただ一方で、イタリア軍兵士達は、エリート部隊にいる者達でなくても、「勇敢さ」などに価値を感じてはおり、それ故に自分達の置かれた様々な愚劣な状況が改善すれば、勇敢に戦ったそうです。

 したがって、あらゆる差異にもかかわらず見逃すことができないのは、ドイツ兵とイタリア兵の間には価値イメージにおいてかなりの程度一致点が見られたということである。イタリア兵が、個人的なつきあいにおいては大抵の場合好意を示さないドイツ軍部隊にたいして、その戦闘力についてはしばしば感嘆の念をもらしていることにも、その点は見て取れる。クレタ島攻略を振り返って、あるUボート将校はこう漏らしている。「あれは驚くべきことだ! 最後まで戦うのはドイツ兵だけだ。小部隊へと分断されてしまっても、粉砕されるまで彼らは戦い続ける。我々イタリア兵や日本兵も、ましてやイギリス兵にもそんなことは不可能だ」。
 彼がこうした評価にたどり着いた理由はただひとつ、彼らにとっては軍事的成功だけではなく、勇敢さや戦士精神にも明らかに肯定的な意味があったからだ。さらに自軍における恥ずべき状況や裏切り者の将官たち、管理の失敗についての彼らの会話からは、イタリア兵たちがこれらを、自分たちの規範イメージからの完全な逸脱であると感じていることが見て取れる。イタリア兵たちは、無能さや放漫な管理という枠組みから解き放たれて、十分な補給が与えられ、有能な上官によって率いられるやいなや、勇敢に戦う姿勢を見せることがしばしばであった。
『兵士というもの』P327



 やはり、勇敢に戦うことができないのにはそれなりの理由があり、それらの条件がなくなれば、イタリア兵達も充分に勇敢に戦うことができた、ということでもありそうです。




 あと、集積した「なぜイタよわ?」の理由としては「ムッソリーニ政権があまりにも無能すぎたから」というのもあり、『大いなる聖戦』はそれをイタリア軍が弱い理由の最大のものとして挙げているのですが、その辺について書き出すに足るほどの情報を集められていないので、一応「なぜイタよわ?」の10年目の再まとめはこれで終了にしようかと思います。

なぜイタよわ?:国力・工業力の低さと、兵器・装備が惨めなほど時代遅れ……

 「なぜイタリア軍は弱かったのか?(なぜイタよわ?)」の再まとめの3回目ですが、今回は「イタリアの国力・工業力の低さと、兵器・装備が惨めなほど時代遅れ」な件について。


 イタリアの工業力の低さについては、動画「なぜイタリア軍は弱かったのか? 前編」でグラフを出していました。


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 ちなみにこの後、日本やドイツはいくらか増産、アメリカは2倍近くまで行くのだけど、イタリアは減少の一途……です。


 この件について、大木毅さんはこのように書いてます。

 1930年代から40年代にかけてのイタリアが、近代化の途上にあり、充分な工業力を持っていなかったことは、あらためて喋々するまでもあるまい。なるほど、第一次世界大戦後のパリ講和会議では、世界五大国の一つともてはやされはした。さりながら、その実態は、1930年代後半になっても、労働者の半数以上が農業に従事しているという数字が示すように(1939年のドイツでは、労働者中、42%が工業労働者で、農業労働者は26%にすぎなかった)、工業化を達成しているとは到底評しがたかったのである。実際、他の第二次大戦に参加した諸国と比べても、イタリアの工業ポテンシャルは、きわめて低かった。
『明断と誤断』P47



 また、ムッソリーニはエチオピア征服に成功しましたが、これがまた、全くお荷物にしかならない植民地であったと……。

 イタリアの植民地は、イタリアの農業や工業の生産品にとって、大きな原料調達先にも、市場にもならなかった。それらはイタリア経済に対していくばくかでも原料を提供するどころか、原料を消費させるだけのしろものであった。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.186~190

 イタリア帝国はまた、他にも資源を浪費する要因を抱えていた。その一つ目はエチオピアを完全に制圧しておくためのコストが必要であり、またエチオピアの困窮状態をなんとかすることが急務であったためであった。エチオピアは異なる民族がモザイク状に分布しており、それらのほとんどはお互いに、あるいは中央の権威に対して敵対状態にあり、イタリア軍はエチオピアに対して大規模な守備隊をエリトリアから送り込み、維持しなければならなかった。さらに加えて、イタリアはエチオピアのインフラの改善に取り組まねばならず、まずは舗装道路網の建設が必要であった。その結果、イタリアの植民地に対する出費は1934年には10億リラ以下であったものが、1938には60億リラ以上に達していた。これはイタリア経済にとって耐えがたい出費であり、帝国の新たな植民地は少なくともしばらくの間は、リソース上の重荷でしかなかったのだ。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.232~8



 いわゆる「植民地獲得競争」や「帝国主義」の時代に、植民地からの収奪と、植民地を市場とすることによって支配国の側が工業化に成功していったということは確かだと思うのですが、帝国主義時代の最後の頃(日本やイタリアがそれに参加し始めた頃)には、もう「貧しい地域」しか植民地にできるような場所は残っておらず、よしんば軍事的にその植民地化に成功しても、むしろその植民地に資本を大量に投下しなければならなかったのだとか……。この点は日本(大日本帝国)も同様でした。


 この国力・工業力の低さから、兵器・装備が時代遅れなまま更新されないことに……。

 第一次大戦の経験から、王国陸軍は砲兵を重視していたのだが、その装備の刷新は遅々として進まなかった。早くも1929年には、すべての種類にわたって、砲が旧式化しているから - ほとんどが、第一次大戦中に生産されたものだった - 新型に換えなければならないとの要求がなされていたにもかかわらず、イタリア工業界は、それに応えることができなかったのだ。とどのつまり、王国陸軍の砲兵隊は、1938年に発注された砲の一部を1941年から42年にかけて受けとったほかは、第一次大戦の砲を使用し続けなければならなかった。その結果、イギリス軍と対峙した王国陸軍砲兵隊は、著しく不利な勝負を強いられることとなった。王国陸軍の主要重砲である100ミリ榴弾砲と105ミリ加農砲の射程は、イギリス軍の25ポンド砲などに3000メートルほども劣り、容易にアウトレンジされてしまったのだ。
『明断と誤断』P47,8

 ……実際にはこのイタリア軍の状態は、現代戦において要求される水準から遠く隔たっていた。
 グラジアニ将軍の指揮するこの軍は、セヌッシとかネガスといった、現地土民の反乱分子と戦う植民地戦争向きの軍隊にすぎず、その戦車・装甲車は軽量でエンジンの馬力も弱く、行動半径も小さいものであった。砲兵が持っている火砲の大部分は第一次世界大戦当時のもので、射程も短かった。対戦車砲および高射砲の装備数はきわめて少なく、その小銃や機関銃でさえも旧式のものか、または現代戦の要求に応じえない程度のものであった。
『ドキュメント ロンメル戦記』P122

 旧式の装備と慢性的な補給不足のため、イタリア軍は「貧者の戦争」を強いられた - 十分な支援部隊、通信部隊に恵まれたことはなかったのである。自動車化されている筈の部隊でも、トラック不足は顕著で、例えばトレント師団などは、書類上でのみの自動車化部隊だった。
 野砲の殆どは、射程約7000メートルの第一次大戦でも使われた旧式砲だった。イタリア製対戦車兵器は貧弱だったため、ドイツ軍から88ミリ砲を購入し、機甲師団と自動車化師団に配備した。それ以外の部隊、特に歩兵師団は、対戦車能力は無に等しかった。
 機動部隊にしたところで、装備は不十分だった。当時アフリカに送られた225輌の戦車全てが、旧式だった。1930年代に設計されたそれらの戦車は、敵対戦車砲に対してはあまりに装甲が薄く、そして敵戦車の装甲を貫徹するには、あまりに砲の威力が小さかったのである。それ以上に問題だったのは、機械的信頼性の低さである。砂漠という厳しい環境が、その問題を助長させた。1936年のエチオピア戦争では、軽装備の敵には有効だったかも知れないが、1942年に彼らが遭遇した連合軍戦車には、全く歯が立たなかったのである。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP27



 詳しく見ると、戦車に関しては1930年代に相当数が揃えられたものの、それは豆タンクのCV33で、その後各国の戦車が強力になってきて更新が必要だと思われるようになっても「数をいっぱい揃えてしまったので、もったいない」という理由で更新ができなかったのだとか……。



 これに加えて指摘すべきは、伊軍が1941年以降使用することとなった兵器・装備が惨めなほど時代遅れなものであったことで、その原因の筆頭としてあげるべきが、イタリアが確固とした産業基盤を有していなかったことである。イタリアは1930年代の前半から中頃にかけて他国に先駆けてその装備を一新したものの、1930年代後半になって世界全般での兵器の質の向上が目覚しかったがために、イタリアが1940年の時点で使用していた兵器は他国のものと較べると押しなべて時代遅れとなっていた。これには、イタリアが自軍の装備を一新するだけの財政力と開発力を欠いていたことも作用していた。
『大いなる聖戦 上』P232




 また、スペイン内乱に兵器を送って失ってしまったことや、あるいは北アフリカの緒戦においてイギリス軍に大敗北してしまった時に非常に多くの兵器・装備を失ってしまっており、そしてその損失をイタリアの工業力ではもはや挽回できなかったということが大きかったらしいです。

 彼らはまた、相当量の軍事兵器を、スペイン内戦に送った為に失ってしまっていた。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.256

 【ベダ・フォムの戦いまでに】イタリア軍は130,000名の捕虜を出し、180両の中戦車と200両以上のL3軽戦車を失い、1200門の大砲や迫撃砲を損失した。
 さらに、イタリア空軍も重大な損失を被っていた。この戦略的な物資の損耗は見過ごされるべきではない。なぜなら、その貧弱な工業生産能力のために、イタリア軍は損失を埋め合わせはできたかもしれないが、その後決して優勢を獲得することはできなかったからである。イタリアにいる多くのイタリア軍師団は装備を充足されることもなく、また装備も満足のいくものではなかった。ましてや前線から離れた守備隊においておや。
『Rommel's North Africa Campaign』P32



 「なぜイタよわ?」の第1回にあったように、イタリア軍が貧乏国の戦争をしているのに対して、ドイツ軍が億万長者の戦争をしていると見えたのも分からないでもないですね……。

 尤も、日本軍も貧乏国の戦争をしており、ドイツ軍に乗っかろうとしたわけですが、ドイツ軍が「あいつらは物量頼みの戦争しかしていない」と泣き言を言ったアメリカ軍相手に日本は戦ったわけですから、うーん……。


なぜイタよわ?:東部戦線でイタリア軍兵士が敵や住民に優しく接した件は過去エントリで(^_^;

 「なぜイタリア軍は弱かったのか?(なぜイタよわ?)」の再まとめ、2回目は「東部戦線でイタリア軍兵士が敵や住民に優しく接した件」についてです。

 ↓なぜイタよわ? の1回目。
なぜイタよわ?:イタリア人には戦う理由なんてなかったのに! 「弱い」とかそういう問題じゃない! (2019/07/13)



 しかしこの件については、今までにこのブログ上で何回か書いていたので、そちらへのリンクで提供ということで(おい)。でも今回読み返してみたのですが、読んでいてマジ泣いてしまいました……。

『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14)
東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17)
東部戦線でのイタリア軍兵士のソ連市民への残虐行為はあったか? (2017/10/31)
『On a Knife's Edge』で見る東部戦線のイタリア軍のよもやま話 (2019/01/01)
OCS『GBII』『CB』:『On a Knife's Edge』による小土星作戦でのイタリア第8軍の崩壊 (2019/02/16)


 3つ目のリンクにあるように、イタリア軍兵士によるロシア・ウクライナ住民への残虐行為もあっただろうとは思います。そこらへん、ある傾向性(イタリア軍兵士の優しさ)を主張する際には、それとは逆方向の証拠こそを同時に一生懸命探さなければならない。

 あと、「イタリア軍兵士が悲惨な退却するを際に、ソ連軍兵士やソ連の現地民が助けてくれた件」ですが、それらはまだ本をそこまで読み進められてないので、今後見つけたら紹介していくということで(^_^; まずは『On a Knife's Edge』の方を最後まで読んでいくつもりで、その後『Sacrifice on the Steppe』を読んでいこうと思います。

なぜイタよわ?:イタリア人には戦う理由なんてなかったのに! 「弱い」とかそういう問題じゃない!

 『Axis Powers ヘタリア』というマンガ・アニメ作品が出た頃からか、「なぜイタリア軍は弱かったのか?」ということが気になり、2009年にその時入手できた情報を元に、私なりに調べて解説動画を作って投稿してました。








 その後もイタリア軍に関してはかなり興味を持って情報収集してたんですが、ちょっと前に読んだ第二次世界大戦の作戦等の分析本である『大いなる聖戦』で、「なぜイタリア軍は弱かったのか」ということについてその著者なりのある程度の分量のまとめがあったりで、興味が再び大いに湧いてきまして、ちょっとしばらく他の資料も含め情報を漁っておりました。

 で、動画投稿の後でさらに分かってきた(ような気がする)現時点での私なりの「なぜイタよわ?」の「再びのまとめ」をいくつか書いてみたいと思います(たまたまですが、動画投稿からちょうど10年なのですね……)。




 「なぜイタよわ?」の理由はいくつか(いくつも)あるわけですが、その中でも現時点で個人的に大いに力説したいと思っている点が2つあります。

1.イタリア人には戦う理由なんてなかった! むしろ戦いたくない理由の方が多かった! だから戦わなくて当たり前だ!

2.東部戦線で敵や現地民を侮蔑して戦い、虐殺なども行っていたドイツ兵と真逆に、イタリア兵は敵や現地民とすぐ友達になって優しく接していた(そしてイタリア軍の悲惨な退却行時にはソ連兵や現地の人が助けてくれた)。これは特筆大書されていい、イタリア軍兵士達の美点ではないか?(←特にこれが言いたいです)


 『Axis Powers ヘタリア』では「イタリア軍は弱いけど、そこがカワイイ」というような(多分)視点で、またイタリア軍関係の著作をいくつも書かれている吉川 和篤氏は「強いイタリア軍部隊もこんなにいた、だから魅力的だ」というような(多分)視点であるのではないかと思うんですが、私は「イタリア軍兵士は戦うなんてバカらしいと思っていて、敵や現地民とすぐ友達になった、それがすごく魅力的だ」という視点が、世の中に全然知られてない、世の中にぜひともぜひとも知られて欲しい視点じゃないかと思うんですが、どうでしょう。

 兵士達と現地民とが仲良くなって……という話は日本軍でも見ますし、どこの軍でもある程度あったでしょうけども、特に東部戦線ではドイツ軍兵士の行いが非道である(そうするように指令されていたわけですが)のに対して、イタリア軍兵士達のものすごい人懐っこさ、人の良さが対照的であるように感じます。ただもちろん、東部戦線のイタリア軍兵士の中には現地民に犯罪的な行為を働いたものもいたし、リビアでは現地民に対してイタリア軍兵士達がひどいことをしていたらしいというようなこともあるのですが。



 まあともかく、このエントリではまず、1の理由について書きたいと思います。


 最初に、個人的に一番「うおお……なるほど!」と思った『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』からの文章を引用してみたいんですが、その前段階知識として、「当時のイタリアは国力、軍事力がエチオピア征服やスペイン内乱への参加ですでに疲弊してしまっており、次の戦争の準備は全然整っていなかった」「しかし同盟国ドイツがポーランドやフランスをあっという間に席巻してしまうのを見て、このままではイタリア軍の準備が整って参戦する前に全ヨーロッパがドイツに征服されてしまい、イタリアには何の取り分も回ってこないのではないかという恐怖が湧いてきた」「しかし急いで参戦すればイタリア軍が活躍できないのは当然としても、いくらかの分け前は得られるのではないか、そして分け前だけは得て、すぐに戦争が終われば、大した損害もなく得られるものだけは得られたということになるだろう」……という感覚であった、ということを知っておいてもらえたらと思います。

 【フランス戦への参戦について】ムッソリーニはもはや、イタリア軍は弱体であるからという理由では制止されなかった。なぜなら、彼はそもそもイタリア軍が敢闘することを期待していなかったからである。イタリアの支配層においても反対意見はほとんどなく、ムッソリーニの判断に同意していた。イタリア国民の方は完全に納得していたわけではなかったが、もし軍事的あるいは政治的成功がすぐにもたらされたのであったならば、こちらもムッソリーニの判断に従っていく可能性はあった。
 この戦争に参加する上でのイタリアの基本的原理は明らかに「政治的機会主義」であり、つまりイタリアの支配層全体が、単にその時点での状況から自分達とイタリアがいかに利益を得るかということを考えていたに過ぎなかったのであった。イタリアにとっては不幸なことに、このような機会主義的態度は戦争の進め方にも持ち込まれてしまった。その後のイタリアの数々の宣戦や遠征においても一貫性は欠如しており、重要目標や相手国さえもが、その結果にほとんど考慮が払われることなくころころと変わっていくのであった。このような状態は一般のイタリア国民、なかんずく一般の兵士達の間にこの(否応なく自分たちが巻き込まれる)戦争の目的についての混乱をもたらし、自分達が何のために戦っているのかということについて一貫性のある、あるいは明確な考えを持つことを非常に難しくした。第二次世界大戦中のイタリアの一貫性のない戦争の進め方はこのような混乱をいや増し、明確な動機付けによって戦っていた味方である枢軸国のドイツや日本、あるいはイタリアの主要な敵となった連合国中のイギリスやアメリカとは極めて対照的であった。イタリアの一般兵士達はいつの間にかフランス人、イギリス人、ギリシア人、ソ連人、アメリカ人、あるいはドイツ人と戦うことになったが、そのほとんどにおいてその理由が分からないまま戦わされていたのである。
 ファシスト体制の誇示的なプロパガンダ手法にもかかわらず、多くの場合兵士達を充分に動機付けることはできなかった。長年に渡る好戦的なプロパガンダや、学校における軍事訓練にもかかわらず。
 彼らは特定の戦役においてはすでに存在していた反共産主義や人種主義をうまく活用することにはいくらか成功した【例えば対ソ戦での黒シャツ隊】が、全体の目的の一貫性のなさがこれを徐々に弱らせることにもなった。また彼らは、一般のイタリア人の大多数に対して、いくらかの程度でもこの戦争を正当化することもできなかった。
 明確な国家的目標の欠如のため、ほとんどのイタリア軍兵士達は、信念によってではなく、国家への義理で戦っていたに過ぎなかった。しかも、将校達の多くも自身の栄達にしか興味がなかった。イタリア軍兵士達は、同盟国であるドイツ軍兵士や日本軍兵士と違って敵に対して憎悪を感じていなかったから、国家への義理はもう果たしたとか、敵に数で負けているという時には降伏を躊躇することも少なかったのである。日独の兵士達は敵に対する憎悪を遙かに強く吹き込まれており、それゆえ圧倒的大軍に対してさえ、得るものがほとんどなくても戦ったが、イタリア軍兵士達は少数の例外を除いて、そのように熱狂的に戦うということはほぼなかったのである。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.427~445


 つまり「イタリアの参戦というのは、ある意味身の程を知っているからこそ、火事場泥棒だけをするよ! という話であったのであり、1、2箇所で火事場泥棒だけして帰れたのであればイタリア国民も何も文句はなかったのだけど(おい)、そのままあちこちの盛大に火がついた状態の命のかかった現場にお偉方の思いつきだけで次はこっち、次はあっち、さらにそっちと、現場に行っても必要性すらも感じられないのに延々と付き合わされて、(後述しますが)それで利益を得るのはお偉方だけ、ということであれば、なんで戦わなければならないのか、戦争なんてバカらしい、となるのが当たり前」ということかと。

 私も今の仕事は、シフト上の自分の現場が終わった後も応援で他の現場に引き回されることがあるのですが、それが連続で3つも4つもやらされて、その分の給与はありません(お偉方の個人的利益にはなりますけどネ!)とかだったら、やる気なんか維持できるわけない……! 皆さんも、自分が同様の状態だったらどうか考えてみませんか? イタリア兵がすぐに逃げたり降伏したりする気持ちが分かるかも……?

 それと、イタリアは歴史上長く分裂状態であったこともあり、町とか州とかの狭い範囲の郷土愛はすごくあるのだけど、「イタリア国民」というような国民意識は今でも非常に薄いそうで、それこそ「国家への義理」というのは大したことのない重みしかなかったのだろうと思います。



 ムッソリーニ政権のお偉方が無能で腐敗の極みにあったことに関しては、たとえばこのような記述もありました。

 イタリア兵たちの中心的な参照点【イタリア兵が価値を置く、価値があると考えるもの】は国家でも国民でもなく、軍隊でもなかった。その理由は……ファシズムによって腐敗や縁故主義が極限まで蔓延していたからである。……
 したがってイタリア兵は、自分たちの戦いに何らかの意味を与えることができなかった。……
 ……
 上層指導部、そして国家はあまりに腐敗し無能だと思われているために、連合国以上に敵だと見なされているのである。つまり兵士たちの視点からすれば、決して自分の利益を体現することのないこの体制のために犠牲になることは、まったくもって「馬鹿」なことであったのだろう。
『兵士というもの』P323~326

 大変興味深いことに、戦術部隊レベルでは、無秩序なイタリア軍上級司令部や政府、装備の不足や低い性能、それにこの「貧乏人の戦争」(イタリア人から見れば、ドイツ軍は億万長者の戦争をしていると思われていた)に強制的にかり出されていることに対する、復讐の気持ちが存在していた。
『Rommel's North Africa Campaign』P105,6


 つまり、むしろイタリア軍兵士達の心情上の敵は、イタリア国内のファシスト政権のお偉方だったのです。

 世の中の「イタリア軍=弱い」という図式の中では、「イタリア軍兵士にも、ドイツ兵や日本兵やイギリス兵やソ連兵やアメリカ兵と同様に、同程度に、戦う理由があったハズ」という暗黙の前提があると思います。その前提があるから笑い話や「カワイイ」という感覚になり、また「強い部隊もいた」ということにしてもその前提の強度を大して下げずに述べられていることが多いのではないかと思うのですが、このエントリで私が声を大にして言いたいのは、「イタリア軍兵士には、ドイツ兵や日本兵やイギリス兵やソ連兵やアメリカ兵と同様、同程度の戦う理由なんかなかった! むしろ戦いたくもない理由の方が強烈にあった! だから戦わないのが当たり前だ!」と思う、ということです。

 被侵略側は強烈な「戦う理由」を持つのが普通ですし(アメリカ人にしても、ヨーロッパに対しては被侵略側とは言えないまでも、枢軸国というくくりで言えば「真珠湾を忘れるな」と思っていたわけで)、侵略側でも当時のドイツ国民はヴェルサイユ条約やポーランドや共産ソ連に対して強烈な敵愾心を持っていたでしょうし、日本もアメリカに対して強烈な被害者意識を持っていました。ところが当時のイタリア国民は、同じカトリック国であるポーランドや、昔からの友邦国である英米や、南イタリアからの移民が多くいたアメリカに親近感を感じる人が多くいる一方で、ドイツに対しては親しみよりは「第一次世界大戦でひどい目に会わされた」とか「現在のヒトラー政権はイタリアを尊重せず勝手なことばかりしている」とかで「むしろ嫌い」という感覚だったらしいのです。また、共産主義ソ連に対しては、イタリアの上層部(王族や資本家)は敵愾心を持っていたのですが、当時工業がまだ盛んでなく農業ばかりだったイタリア各地から来た一般兵達はウクライナなどの現地農民と感覚が近く、すぐに友達になれたそうです。


 イタリア人全体の、戦争への気乗りのしなさや士気の低さについて、『大いなる聖戦』ではこのように書かれています。

 【ムッソリーニ政権が上辺だけを飾り無能であったこと、イタリア軍の士官レベルで見られた弱点、兵器・装備が惨めなほど時代遅れ、という】このような構造上及び物質面での弱点をさらに悪化させていたのが士気の低さであった。それは【前記の】三つの要素に起因するものではあるものの、いずれにせよ、1940年当時イタリアでは国民全般が戦争に対して無関心な態度を示すという結果となって顕れることとなる。イタリアの民衆は、ムッソリーニが宜戦布告を発表した当初こそ愛国心を爆発させて応えたものの、戦争をすること自体には熱意を示さず、取り分け、イタリアにとって古くからの敵であったハプスブルク帝国の衣鉢を継ぐオーストリアを併合したドイツの側に立ち、旧来からの友邦(である英米)を敵として参戦することは気の進まないことであった。実際、イタリア人の多くは戦争そのもの、そして参戦の時機に戸惑いの意を隠さず、イタリア南部からの米国移民が多かった当時の実情のため、1941年12月になって米国が敵国のリストに新たに名を連ねた時には、それを喜ぶ者などほとんどいなかったのである。次に、1940年当時ムッソリーニが政権を掌握してから20年近くになっていたにもかかわらず、ファシズムがイタリア社会に確固とした根をおろすことがなかったことが挙げられる。これは、ドイツのナチズムと異なり、イタリアのファシズムが実際には思想的基盤を持たず、民衆へのアピールに欠けるもので、単にムッソリーニの狡猾さと機会主義的姿勢を推し進めるための隠れ蓑に過ぎなかったためである。このため、イタリアの一般大衆はドゥーチェとファシズムのために命を的にして戦うような心情は有していなかった。そして第三に指摘できるのは、1940年に参戦する以前からイタリアがほぼ確実に、本当の意味での厭戦気運に取り遷かれていたことである。イタリアが1935年以来推し進めていた戦争と対外積極政策の中で、イタリア国民は相当程度の犠牲を払うことを求められており、他のいかなる国とも同様に、6年間も戦い続けることなど耐えられるものではなかった。そして、キレナイカや東アフリカに駐留していた伊軍将兵は、ムッゾリーニが開戦以前にロにしていたことを字義通りに受け止めていたようである。即ち、アフリカにおける植民地獲得競争でイタリアが得たのは砂漠だけであったとムッソリーニは1939年以前に頻(しき)りに不平を述べており、自国の植民地が価値のないものであるとの内意を込めた指導者の発言を耳にしていた伊軍が、その地を守るため最後の一兵まで戦うよう鼓舞されることなどほとんどあり得なかったのである。伊軍の一般兵士にとって、アビシニア【エチオピア】防衛のために命を投げ出す謂れなどなく、このような実情であったため、英軍がアディスアベバ【エチオピアの首都】を1941年4月6日に無血占領したことは何等驚くに値することではなかった。
『大いなる聖戦 上』P232~4



 逆に言えば、一般民衆をして命を賭して戦うような心情に持っていけていた当時のドイツと日本は、ある意味すごいのかもしれまんが……?


 あと思うに、当時のイタリア軍(兵)と同様の「侵略側なのに、戦う理由がない、戦いたくない。だから戦いになってもすぐ逃げるし、降伏する(短時日での火事場泥棒だけならOKだけど。そして上役が憎い。敵とすぐ友達になれる)」というようなキャラクターやシチュエーションが多分、世の中にぱっと思いつかないようなものであることも、当時のイタリア軍兵士達の「戦う意志」についてイメージしにくいようになってしまう理由なのかも。

 有名なものでそういうキャラクターっています……?


 個人的に「……あっ!」と思いついたのが、最近ハマった『悪魔のメムメムちゃん』という作品の主人公メムメムは、悪魔で人間の欲望を刺激して魂を取らなければならないのですが、ポテンシャル的に全然向いてなくてまったくうまくいかず、侵略側なのにすぐ諦める、すぐ調子に乗る、という辺りはイタリア軍と似てるかも……?

 ↓こちらからある程度無料で読めます。
[0話]悪魔のメムメムちゃん



 最後に、今回の資料について挙げておきます。


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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