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OCS『Beyond the Rhine』のセットアップ時の注意点

 OCS『Beyond the Rhine』キャンペーンをソロプレイしてみようと思いまして、セットアップを完了しました。


 自由配置ユニットはまだばらけさせていませんで、スタックの上にダイスを置いて「何ヘクス以内」かを表示させています。
 

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 他のOCSゲームの各シナリオと比べると、かなりスカスカであるのが分かると思います。

 最後の画像は、右上がデッドパイル、左上は「ラインの守り作戦ボックス」で、この中にユニットなどを貯めていって、いきなり登場させて「最後の電撃戦」を行うことができます。右下は緊急事態の時に出せるユニットです。





 今回セットアップしていて、いくつかの「注意点」に気付いたので、書いておこうと思います。


・『Beyond the Rhine』のドイツ陸軍の歩兵師団には、同じ名称で額面値の異なる2つのユニットが存在するものがかなりありました

 具体的には以下の番号の歩兵師団です。

 59,159,176,180,189,190,245,346

 これらは、「16戦力」のユニットと、それ未満のユニットが存在しています。キャンペーンのセットアップだと、未満のユニットが使用されることが多かったです。気を付けた方がいいと思います(前回キャンペーンをプレイした時はこの件に気付いておらず、間違ってセットアップしていたものがあったのだと思います)。


・セットアップや増援登場表は、ゲーム同梱のものに大量のエラッタが出ているので、The OCS Depotにある最新のルールブックとブックレットを印刷して使用するべきです。

・ドイツ軍のセットアップ情報に「PzGr」とあるのは「装甲擲弾兵(パンツァーグレナディア)」で、多くのOCSゲームではこの名称だと「兵科マークは赤色で○と×が組み合わされたもの」ですが、『Beyond the Rhine』においては「自動車化歩兵の兵科マーク」でした。これは、この時代にはもはや「現実には自動車化歩兵部隊に過ぎないものが、名称としては装甲擲弾兵と呼ばれていた」ということでしょうか?(なんかそんな話があったような気がします)

・ドイツ軍のセットアップ情報に「Alarm Flak Bn」とあるのは、ユニットには「Alarm」ではなく「Alert」と書かれています。




 また、最新エラッタを参照してみたところ、以前和訳していた時よりもバージョンが新しくなっていました。ただ、ちょっとチェックしてみたところ、今回キャンペーンをソロプレイしてみる上では何かを新しく訳出する必要はないのかな、と思いましたが、どうなんでしょう(今後またプレイしてみるうちにチェックして、何か訳出する必要に気付くかもですが)。

OCS『Beyond the Rhine』の最新エラッタを和訳してみました (2021/01/20)



 ルール部分に関してサンセット和訳に対して必要なエラッタ和訳は「ルール」と「明確化」のみかな、と思ったので、とりあえずその2つをA4用紙に印刷できるpdfデータを作って印刷してみました。

OCS『Beyond the Rhine』エラッタ和訳(抜粋).pdf




 今後、自由配置のもののセットアップを考え、ルールを読まなければなりません(さすがにほとんど忘れてしまっていますので(^_^;)。前回少しプレイした時の反省点を活かして、その時よりはかなりマシなプレイにできればと思います。

 ↓前回のプレイ時のブログ記事。

6.1 キャンペーンゲーム





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OCSの活動状態の航空ユニットのスタック制限は「常に」守らなければならない

 先日のOCS『Sicily II』のプレイ中に、活動状態の航空ユニットのスタック制限は「常に」守るべきなのか、それとも陸上ユニットと同様に「セグメントあるいはフェイズの終了時に」守るべきなのか、という疑問が提出されまして、facebookで質問してみました。


 関係項目は以下のようになります。

4.8a スタックオーバーとは、いずれかのセグメントあるいはフェイズの終了時に10RE を越える戦闘ユニットが1つのヘクスにいることを指します。1つだけ例外があり、増援フェイズには適用されません(13.6 参照)。スタック制限を超過していた場合、超過した分のユニットを、その所有プレイヤーが選んで除去しなければなりません。
 ユニットはオーバーラン時を除き、移動中は一時的にスタック制限を超過できます。オーバーランを行うユニットは、他の自軍ユニットも合わせて1つのヘクスで10REの制限を越えることはできません。

14.2a 航空ユニットのスタック制限 スタック制限に関してそれぞれの航空ユニットを1個と数えます(減少戦力面でも、完全戦力面でも)。最大で4個までの活動状態の航空ユニットが一緒に1つの航空任務を行えます。自軍航空基地では、4プラス基地レベルまでの活動状態の航空ユニットがスタックできます(つまり、レベル3航空基地では、最大7個までの活動状態の航空ユニットがスタックできます)。航空基地に置くことのできる非活動状態の航空ユニットの数に制限はありません。




 質問にはPerry Andrus氏(OCSの最ベテランテストプレイヤー)が答えて下さいまして、「航空ユニットのスタック制限は「常に」守らなければならない。」ということでした。14.2aの原文には「at one time」という文があり、この文によりそう解釈され得るのかもしれません。




 スタック制限に関して他に間違えやすいものとしては、「1つの師団は3REとして数えるのか?」という話があります。

10.0a 砲爆撃結果表  1つの師団は(複数ユニットフォーメーションでも)、密集度の判定においては最大でも3REであるとして数えます(3RE未満ならば実際のREを数えます)。


 この規定は「密集度修正においては」ということであって、スタック制限のREを数える場合には師団であっても普通にユニットの規模を数えなければなりません。

OCSにおけるカーチスP-36とP-40について

 先日、「P-39 エアラコブラ」についてブログに書いてましたが、続けてP-40について調べてみました。



 P-40の元になったのが「カーチス P-36 ホーク」だそうで、違いはエンジンだけだとか。

 P-36 ホークは全金属製引き込み脚でしたが高性能ではなかったそうです。しかし操縦性に優れ、頑丈な作りであったために海外から注目を集め、特に戦闘機が手薄だったフランス軍が発注して導入しました。その際にカーチス社は「ホーク75」(75というのは社内名称がモデル75であったため)という名で売り込んだそうです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のフランス軍のホーク75ユニット。

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 ホーク75は、ポーランド戦が始まったばかりの1939年9月8日(英仏は9月3日にドイツに宣戦布告していました)にBf-109の編隊と遭遇戦を行い、2機を撃墜したそうです。




 アメリカ陸軍は戦争が近づく中、1939年1月に次期戦闘機の採用審査を行いましたが、この時大量発注を獲得したのが、P-36のエンジンをアリソンエンジンに換装しただけのP-40でした。

 その理由は高性能のためというわけではなく、機体がP-36そのままだったため、最も安価であり、ただちに量産、就役が可能という点にあった。これは陸軍が当時、いかに近代的戦闘機の取得を急いでいたかを示すものだが、もちろんP-40に満足していたわけではなく、XP-38、XP-39、XP-43(後にP-47に発展)にも増加試作型を13機ずつ製作するよう発注を行っていた。
『第二次大戦 世界の戦闘機』P93

 性能こそ凡庸だが、安価で作り易いため、常に大量に供給ができて、乗り易く丈夫で壊れにくいというP-40ならではの特質がなければ、【連合軍は】とうてい持ち応え【ママ】られなかっただろう。
 【……】P-40のニックネームだが、米陸軍ではウォーホーク、英空軍ではトマホーク(P-40Cまで)、キティホーク(P-40D以降)と呼ばれていた。
『第二次大戦 世界の戦闘機』P96


 愛称について、日本語版Wikipedia「P-40 (航空機)」では、↓のように書かれていました。

 アメリカでの愛称は、A型からC型までは「トマホーク (Tomahawk:インディアンが用いた斧)」、D型とE型は「キティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所)」、F型以降は「ウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指すスラング)」であるが、イギリスではF型以降もキティホークと呼ばれた。






 以下、P-40の方についてOCSのユニットを見ていこうと思いますが、まずはOCSルソンから。


 ↓OCSルソンのアメリカ軍のMixFユニット(テストプレイ用に作ったもののデータ)。

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 「MixF」というのは「複数の戦闘機機種の混合」という意味でして、このユニットは具体的にはP-40とP-35(後にP-47を作る会社のものですが、P-35はこの時期には完全に旧式化していたそうです)の混合です(グラフィック自体はP-40のもの)。というのは、リサーチした時にP-40とP-35が当時フィリピンにあったことは分かったのですが、OCSでユニット化するには1機種で約45機存在していたことが必要なわけですが、そもそもそれぞれの機種でそれほどの機体数がなく、両機種を合わせてようやく約45機に達する数だったためです。

 しかも、開戦劈頭の日本海軍機による航空殲滅戦でこのP-40とP-35はかなり地上等で破壊されたため、OCSルソンのセットアップ時にこのユニットはステップロスした状態(1-0)で配置されます(日本陸軍側は九七式戦闘機(2-0)ユニット1個が完全戦力面で出てくるためやや優勢ですが、ダイス目によってはこのMixFユニットに壊滅させられることもあるかもしれません)。



 次に、今デザイン中のOCS『South Burma』(仮)に、P-40を使用していた「フライング・タイガース」が出てこなければならないようです(今まで全然認識していなかったのですが、今回認識しました(^_^;)。

 【……】P-40は、零戦に対しては防弾装備や防漏タンク、それに機体の頑丈さなどを除けばほとんど良い所がない戦闘機だったが、このP-40を使用しながら日本軍相手に善戦した部隊があった。それがクレア・L・シェンノートが率いたAVG(アメリカ義勇航空群)通称「フライングタイガース」であった。
 シェンノートは米陸軍きっての航空戦理論家だったが、その理論が陸軍上層部に受け入れられなかった事と健康上の理由から退役していたのを、1937年に蒋介石夫人に請われて中国空軍の調査のため中国入りし、そのまま蒋介石の軍事顧問として中国に居残った人物だ。
 【……】
 3年以上も前から日本機の空戦能力の高さをじっくりと観察していたシェンノートは、AVGのメンバーに対し、日本機とは絶対に格闘戦と行わない事、2機ペアの一撃離脱戦法に徹する事、そして日本機の弱点である燃料タンクに射撃を集中する事などを徹底的に教え込んだ。
 【……】AVGのP-40Cはビルマが日本軍に占領されるまでその後も防空戦闘と対地攻撃の両作戦で日本軍を悩ませ続けた。
 日本側は旧式の九七戦が主力だったためP-40に対抗できず、一式戦「隼」一型を装備した飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊として有名)を派遣した。フライングタイガースはこの64戦隊に対しても善戦を記録しており、これまで連戦連勝を続けてきた同隊に手痛い損害を与えているのだ。

『第二次大戦 世界の戦闘機』P94,5



 普段一緒にOCSをプレイさせてもらっている富山のKさんに聞いたところによりますと、P-40は当初パイロットの練度もそれほどでなかったためうまく戦えなかったものの、戦術や練度が向上してくると(P-40自体の性能向上もあり)結構活躍できるようになったのだ、とのことでした。




 ↓OCS『DAK-II』のイギリス軍のP-40(キティホーク)ユニット。

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 「3-3」という性能は凡庸ではありますが、無視できない数値ではあり、ユニット数の多さも相まってやはり結構重要な存在だと思います。



 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』のソ連軍のP-40ユニット。

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 ↓OCS『Case Blue』のソ連軍のP-40ユニット。

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 ↓OCS『Tunisia II』のイギリス軍とアメリカ軍のP-40ユニット。

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 「キティホークⅡ」というユニットが登場しており、空戦力が1上がっています。


 ↓OCS『Sicily II』のアメリカ軍とイギリス軍のP-40ユニット。

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 こちらはすべてのユニットが「4-3」という数値になっています。



 ↓OCS『Burma II』のアメリカ軍のP-40ユニット。

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 「P-40N」という名称になっており、「4-2」という数値です。


 このP-40Nについてはこう書かれていました。

 装備の追加による重量増加で低下してきた性能を挽回するため、K型、L型、M型と軽量型が作られてきたが、その決定版となるのがこのN型。軽量な機体にアリソンシリーズでも強力なエンジンを搭載したので、高度3200mで最大速度608km/hに達した。P-40シリーズでも最も多く生産されたタイプで全生産数の4割(5219機)を占めている
『第二次大戦 世界の戦闘機』P96




 OCSの多くのゲームでは空戦力が4あればほぼ一線級と言えるので、連合軍プレイヤーにとっては頼りにできますし、枢軸軍プレイヤーにとってはなかなかにイヤな存在であります。


OCS『Sicily II』の後方への上陸が結構やばい?

 ツイッターで書いてましたように、OCS『Sicily II』のキャンペーン終盤で枢軸軍の後方へアメリカ軍が上陸してきたため、補給切れで損耗チェックを強いられて大量のユニットを失ってしまいました(T_T)







 後方へ上陸された当初は、「(OCSではいつもそうであるように)後方守備隊をちゃんと置いておくべきだったなぁ!」と反省したものの、それほど深刻には考えていませんでした。

 ところが、状況をより詳しくチェックすると、かなり深刻であることが分かってきました。


 OCSで後方連絡線を断たれてしまった場合、「補給チェック」が入る前の移動フェイズ中にオーバーランで敵ユニットを飛ばしてしまうのがセオリーです。ところが、今回連合軍ユニットが入り込んだヘクスが、というかシチリア島北東部の海岸線自体が、オーバーランが不可能な地形だらけなのです。


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 ↑の画像で赤い○が今回連合軍ユニットが入り込んで居座ったヘクスです。OCSのオーバーランは橋や道路を使用できず、「川越えでは装軌と自動車化はオーバーランできない」のはいつものことなのですが、今回ヘクスが「山地(装軌と自動車化は進入不可、徒歩は全移動力でのみ進入可能)」であるため、川がなくても装軌・自動車化はおろか徒歩ユニットでも絶対的にオーバーラン不可能。また、居座っているヘクス自体が山地でない場合でも、直前のヘクスが山地であるならば装軌と自動車化のユニットはオーバーランできません。

 オーバーランできない可能性が非常に高いため、連合軍側は「後方に第n次上陸をやりまくれば良いのではないか」とさえ思いました(>_<)


 枢軸軍側としては、後方にかなり守備隊(特に沿岸防衛ユニット)を置いておくこと、それに、「入られてはイヤなヘクス自体にユニットを置いておく」ことが必要なのではないかと思われました(航空基地なんかが占領されると、空輸で補給を入れられてしまいます)。



 それから今回、「連合軍のLanding Craft(上陸用舟艇)を爆撃していくべきなのではないか」という話が出まして、色々検討してみました。ルール的には↓のようです(OCS『Sicily II』「ハスキー作戦」シナリオの連合軍用サマリーを作ってみました (2021/09/26)にも追記してます)。

・枢軸軍側は、連合軍のLanding Craftを爆撃していくという選択肢もあるかもしれない。前項のヒップシュートの機会を除けば、チャンスは移動フェイズ中の砲爆撃フェイズと、突破フェイズ中の砲爆撃フェイズ、リアクションフェイズ中の砲爆撃フェイズの3回で、その3回で砲爆撃結果表上でステップロスの結果を出す、あるいは複数以上のDGの結果を出さなければLanding Craftが沈むことはない(敵クリーンアップフェイズにDGは消える。ダブルターンならチャンスは6回)。そのスタックにもし駆逐艦などがいたら、対空射撃を受ける。対空射撃を生き延びたら、Landing Craft全体を対象として10ヘクス以内の修正以外の修正なしの砲爆撃を行う(海上ユニットへの砲爆撃なので砲爆撃力は倍になる)。DGの結果はそのスタックのLanding Craft全体に及ぶ(Landing Craftの性能には何ら変化は生じない)。DGが2個目になったら、Landing Craftの1ポイントが沈み、DGマーカーは取り除く。損害を食らう1ポイントはランダムに選ばれる(積み荷がどう積まれているかを明らかにしておくこと)。連合軍側はLanding CraftがDGになった場合、リアクションフェイズなどに10移動力でNRP(艦船解放ポイント)まで移動して船上部隊ボックスに入ってしまえば、それ以上砲爆撃されなくなる。



 枢軸軍側としては、Landing Craftが、

・NRPから11ヘクス以上離れている。
・連合軍航空ユニットの警戒空域内にいない。
 (英連邦軍は空母を持っているので、そちらも注意)
・駆逐艦や巡洋艦とスタックしていない。
 (ただし一番上の艦船ユニットしか明らかにしなくて良いので、スタックの下にそれらが隠れている可能性も。また、海岸ヘクスに艦船ヘクスがいる場合、陸上ユニットの下に隠れておくことができることに注意)

 などの条件のいくつかを満たしているならば、嫌がらせ、警告、あるいは実利の点でも、Landing Craftへの航空爆撃をやっていくべきなのではないかと思いました(艦船のスタックに砲爆撃を実行すると、やられた側はすべての艦船ユニットを並べて相手に見せなければなりません。ただし積み荷はまったく見せなくて構いません)。逆にそれをやらないならば、連合軍側は相当自由に第n次上陸ができるということになってしまうように思います。


 艦船への航空爆機は、雷撃機でなく普通の爆撃機や戦闘爆撃機でも全然できますし、観測ユニットなども必要ありません。ただし、ドイツ軍機とイタリア軍機が共同で爆撃任務をすることはできません。


OCSにおけるベルP-39 エアラコブラについて(OCS『Guderian's Blitzkrieg II』『Case Blue』)

 最新号の『歴史群像』の連載記事「蒼空の記憶」が、今回「P-39 エアラコブラ」でした(「エアコブラ」かと思ってました。日本軍の一部はそう呼んでいたそうですが)。





 私はアメリカ陸軍の戦闘機について、「P-38 ライトニング」「P-51 ムスタング」「P-47 サンダーボルト」あたりは一応区別ができているのですが、P-39とかP-40は、あるいはP-36とかP-35とかも含めて何が何だか分かってませんでした(^_^;


 しかし今回の記事で、P-39 エアラコブラは「エンジンを胴体中央(操縦席の後ろ)に置いて、空いたスペースの機首には37mm砲という大口径砲を置く」というアイデアで作られていたということで「すげぇなぁ!」と思いました。ただし、最初は付けられていた排気タービン過給器(ターボ)を外すように指示されたことで性能が落ち、日本軍機のカモになってその形から「鰹節」と嘲られたそうです(日本軍にとっては幸い……)。

 「蒼空の記憶」はエピソード的な話が頭に入ってきやすい面白さと割合で書かれていて、他の手持ちの資料本だと説明が短すぎるとか長すぎるとかするのですが、ちょうどいい分量で良いです(^^)


 で、OCS上でユニットを探してみました。米英軍では全然評価されなかったそうで、既存のOCSゲームには出てきてませんでしたが、ソ連軍にレンドリースされてそちらでは重宝されたそうで、ソ連軍機としてユニット化されていました。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』のP-39ユニット。

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 ↓OCS『Case Blue』のP-39ユニット。

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 『Case Blue』のものは色がオレンジ色になって、「親衛」となっており、ユニットの評価も上がっています。


 ソ連軍によるP-39の活用については、例えばこのように書かれていました。

 37ミリ砲は対戦車攻撃に適していたからその任務に多用されたのはもちろん、ソ連パイロットは空対空戦闘にも本機を大いに活用した。落とされた機体も多かったのは確かだが、ソ連エース2位ポクルイシキン(59機撃墜)、同3位レチカロフ(58機撃墜)といった猛者たちが、その戦果の大半をP-39で記録している。
『第二次世界大戦の「軍用機」がよくわかる本』P156

 イギリスで失格の烙印を押されたエアラコブラは、約200機がソ連に送られた。またこれとは別にアメリカからも対ソ援助機として大量のP-39各型がソ連に送られ、総計4924機が送られた(うち137機が事故で喪失)。P-39の総生産数は9529機だから実に半数以上がソ連に渡った計算となる。
 失格戦闘機を大量に受け取ったソ連もありがた迷惑だったかというとさにあらずで、ソ連空軍ではけっこう重宝したのである。第一にロシア戦線では高々度の空戦はほとんどなく、対地支援が空軍の主任務だったから、低高度での運動性が良くて、しかも大口径砲を搭載するエアラコブラは水を得た魚のように活躍できたのである。
 ソ連空軍ではP-39を対地攻撃機とし活用しただけでなく、空戦においてもその性質を生かしてドイツ空軍に立ち向かっており、AI.ポクリュシュキン、GA.レチカロフ、PI.チェピノーガといったエアラコブラエースを多数輩出した。

『第二次大戦 世界の戦闘機』P91







 ただ、5000機近くも送られた割にはOCSでユニットになっている数が少ないような気はします(OCSの航空ユニットは約45機で1ユニット(2ステップ)となっています)。

 これは北アフリカ戦線においても同様かもしれず、OCS『DAK-II』ではP-39がまったくユニット化されていないようなのですが、このような記述があります。

 結局P-39は37ミリ砲を生かした対地・対艦船攻撃に転用され、その点は地中海戦線に派遣されたP-39部隊も同様だった。
『第二次世界大戦の「軍用機」がよくわかる本』P156

 【エル・アラメインにおいて、枢軸軍にとって】とくに悪影響が目立ったのは、アメリカ製の新型戦闘爆撃機「エアコブラ【ママ】」だった。一例をあげれば、戦闘梯隊が持っていた鹵獲戦車がすべて、エアコブラ【ママ】によって撃滅されてしまったぐらいだ。
『「砂漠の狐」回想録』P279


(後者の本はロンメルによる回想録なので、ロンメル自身が「エアコブラ」と書いていて、大木毅氏が翻訳する際にその記述を尊重したのかもしれません。)




 一つの解釈として、OCSは航空機による対地支援の再現を重視していない(スケール上できない?)のかも……。それでP-39のユニット化が削られたり、見送られたとか。あるいは、以前はOCSには補給集積所に対する爆撃というルールが入っていたそうなんですが、それがバージョンアップで削られたりということもあります。

 ただし最近では『Hungarian Rhapsody』や『The Third Winter』では両翼に37mm砲を装備したスツーカによる戦車破壊のルールが入ってきましたが、それはそこらへんが無視できないほど強力だった(でもP-39のそれはギリギリ無視できる程度だった)とか……。


最後の第15装甲師団長としてカセリーヌ峠の戦いなどで活躍したボロヴィーツ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、最後の第15装甲師団長としてカセリーヌ峠の戦いなどで活躍したボロヴィーツ将軍についてです。


 写真は、↓ですとか。

Willibald Borowietz




 ヴィリバルト・ボロヴィーツは1914年に士官候補生として入隊し、西部戦線で従軍しました。戦後の軍には残れず、警察に入ります。

 1935年に再び軍に入り、1937年には装甲部隊部門に転属します。彼の妻はユダヤ人で、夫と3人の子供を「非ユダヤ化(アーリア人化)」するために1938年に自殺したそうです。

 ポーランド戦では第4軽師団隷下の第50対戦車大隊の指揮を執りました。第4軽師団は第9装甲師団に改編され、ボロヴィーツは引き続き第50対戦車大隊を指揮してオランダとフランスで戦いました(同大隊はOCS『The Blitzkrieg Legend』ではユニット化されていないようです)。

 さらにボロヴィーツはユーゴスラヴィアへの侵攻作戦で活躍し、1941年4月12日に戦場での優れた功績により陸軍総司令官表彰状を授与され、ドイツ国防軍の報告書にその名が記されました。

「4月6日と7日のウスキュブでの装甲師団の進撃の際、狙撃兵旅団長のアペル大佐と装甲猟兵部隊のボロヴィーツ中佐の活躍が際立っていた。」



 ボロヴィーツは1941年6月1日に第9装甲師団隷下の第10狙撃兵連隊長に任命され、ウーマニ、キエフ、ブリャンスク包囲戦、モスクワへの進撃で活躍します。1941年夏には彼の所属する旅団(第10狙撃兵連隊と第11狙撃兵連隊+αだと思われます)は一度の戦闘で敵の戦車92輌、砲12門、高射砲12門を破壊したそうです。この功績によりボロヴィーツは7月24日に騎士鉄十字章を授与されました。(またこの時期、前回扱ったテオドール・フォン・シュポネックが第11狙撃兵連隊長だったわけですね)


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第9装甲師団ユニット。

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 1942年に入るとヴォロネスク、オリョル、オルシャ、ルジェフ突出部などで戦います。1942年10月5日に指揮権を放棄し、いったん総統予備に編入されました(理由は書かれていませんが、休暇であったというのがありそうな事に思えます)。


 1942年11月に第10装甲師団に転属し、同師団隷下の第10装甲擲弾兵旅団長に任命されます。同旅団はイタリアに駐留しており、連合軍のトーチ作戦(1942年11月8日)で風雲急を告げるチュニジアに向けて出発することになっていました。ところが、エル・アラメインで戦っていた第15装甲師団長のフォン・フェールストが離任したため、ボロヴィーツは同月中に第15装甲師団長に就任します。
(この辺り、細かい日付やフォン・フェールストの離任の理由等が資料間で色々食い違いがあってどうにもならないので、↑の文はどの資料でもおかしくない範囲で記述したものになってます)

 ボロヴィーツはエル・アラメインからの第15装甲師団の退却を指揮し、チュニジアで戦い、同師団の最後の師団長となりました。1943年2月のカセリーヌ峠の戦いで活躍し、3月10日に騎士鉄十字章に柏葉を付与されています。チュニジアでの戦いについて、ドイツ国防軍はこのような報告文を出していたそうです。

「アフリカ戦域では、伯爵シュポネック中将が率いるアフリカ軽師団と、ボロヴィーツ少将が率いる第15装甲師団が特に際立っている。」



 ↓OCS『Tunisia II』の第15装甲師団ユニット。

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 チュニジアの枢軸軍が降伏してボロヴィーツはアメリカ軍の捕虜になり、ミシシッピ州の捕虜収容所に送られましたが、ドイツが降伏した後の1945年7月1日に浴槽で感電死して自殺したそうです。

第90軽師団で後衛を指揮して活躍するも、兄が独断撤退のため裁判にかけられており、チュニジアで降伏したテオドール・フォン・シュポネック将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第90軽師団で後衛を指揮して活躍するも、兄が独断撤退のため裁判にかけられており、チュニジアで降伏したテオドール・フォン・シュポネック将軍についてです。



 カール・アントン・テオドール・フォン・シュポネック伯爵はバーデンの古い貴族の家に生まれました。1912年に士官学校に入り、第一次世界大戦では西部戦線と東部戦線で戦い、二級と一級の鉄十字章を受勲します。

 戦後も軍に加わり、最初のオートバイ中隊の指揮官の一人となり、後にヨーロッパ全土で使用されるようになったドイツ軍のオートバイ用コートを開発したそうです。優秀であったため参謀将校のコースも受けることになり、ポーランド戦が始まった時にはホート将軍の第15自動車化軍団の作戦参謀を務めていました。

 フランス戦時には第9装甲師団隷下の第11狙撃兵連隊を指揮し、オランダ、ベルギー、フランスを進撃します。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第9装甲師団ユニット。

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 その後、バルカン半島の制圧に参加し、7月にはロシアに入ってウーマニ、キエフ、ブリャンスクの包囲戦で大きな役割を果たします。対ソ戦での功績により1941年9月12日に騎士鉄十字章を授与されましたが、11月1日にクルスクへの攻撃中、膝を負傷して数か月の回復期休暇を余儀なくされます。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第9装甲師団ユニット。

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 1942年9月にフォン・シュポネックは北アフリカに赴任し、負傷したウルリッヒ・クレーマンの代わりに第90軽師団の指揮を引き継ぎました。


 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(第3次エル・アラメイン戦時)。

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 1942年10月から11月にかけての第3次エル・アラメインの戦いでは、第90軽師団の激戦地への展開を幾度となく成功させる一方で、シュポネックは兵士の状態に配慮しながらフカ陣地への後退を指揮しました。敵軍の指揮官らでさえも、モントゴメリーをも含めて、シュポネックの部下に対する際立った配慮を何度も賞賛していたそうです。


 エル・アラメインからの後退時のこととして、パウル・カレルの『砂漠のキツネ』にはこのように記述されています。

 へとへとで倒れそうになりながらも、シュポネック伯の率いる第90軽師団は、敵機甲軍の猛追撃を果敢に防ぎ、ドイツ=イタリア部隊の撤退を援護した。
 ハルファヤ峠で第90軽師団が壊滅をまぬがれたのは、司令官の注意力のたまものだった。峠を守るイタリア部隊が降伏してしまったので、敵機甲師団はそのまま西へ突破するところだったのだが、みずから偵察に赴いたシュポネック伯が早期に敵戦車隊を発見し、休んでいた師団に警報を発して、巧みにトミー【イギリス軍】の攻撃をかわしたのであった。
『砂漠のキツネ』P303,4



 
 テオドール・フォン・シュポネックは優れた師団長で、アフリカ装甲軍がエル・アラメインから撤退する際、第90軽師団はその後衛となりました。シュポネックはエジプトからチュニジアまでずっと後方を担当し、敵を遅滞させるために見事な仕事をします。彼は毎日のように他の部隊が脱出する間、必要に応じて待機したり離脱したりをくり返さなければなりませんでしたが、決してタイミングを逃すことがありませんでした。

 彼の活躍は、すでにロシアで獲得していた騎士鉄十字章に柏葉を加えるに充分であったと考えられるものの、兄のハンス・フォン・シュポネック(フランス戦で第22空輸師団長、バルバロッサ作戦で第22歩兵師団長、クリミア戦で第42軍団長を務めるも独断撤退して裁判にかけられていました。後にヒトラー暗殺事件の嫌疑をかけられて銃殺されました)がナチから嫌われていたため、それが授与されなかったのであろうとミッチャム氏は記しています。


(この兄のハンス・フォン・シュポネックは『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』にも項目がある将軍ですし、次に出版されるOCS『Crimea』に関係してくるわけでしょうから、将来的にまた調べてみたい気がしています)






 ↓OCS『Tunisia II』の第90軽師団ユニット。

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 1943年4月から5月にかけて、チュニジアの橋頭堡が瀬戸際に立ち、ボロボロになってついには崩壊した時、多くのドイツ軍上級将校が脱出の理由や口実を見つけたり、与えられたりしました。しかし反ナチであったテオドールフォン・シュポネックは兄が刑務所に捕らえられていたこともあり、脱出するための努力はせず、最後まで部下と一緒にいました。彼は5月12日に第90軽師団の兵士達と共にイギリス軍に対して降伏しましたが、チュニジアでの戦いについてドイツ国防軍はこのような報告文を出していたそうです。

「アフリカ戦域では、伯爵シュポネック中将が率いるアフリカ軽師団と、ボロヴィーツ少将が率いる第15装甲師団が特に際立っている。」


 1947年に釈放されて帰国後、しばらくは機械工場の営業部長として働きます。晩年はベヒンゲン城で暮らし、1982年に86歳で亡くなりました。

北アフリカ戦等で受勲されるも、東部戦線では規律を維持するために兵士を即決処刑しており、捕虜収容所ではロンメルを批判していたというメニー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、北アフリカ戦等で受勲されるも、東部戦線では規律を維持するために兵士を即決処刑しており、捕虜収容所ではロンメルを批判していたというメニー将軍についてです。




Bundesarchiv Bild 101I-298-1780-27, Frankreich, Erwin Rommel mit Offizieren

 ↑1944年3月に北フランクフルトで会話するロンメル元帥とメニー中将(左がロンメル、右がメニー)(Wikipediaから)



 エルヴィン・メニーは1912年に士官候補生として陸軍に入り、第一次世界大戦で戦って二級と一級の鉄十字章を授与されました。戦後も軍に残ることができ、1930年初頭に装甲部門に転属します。1940年から41年にかけて第69狙撃兵(自動車化歩兵)連隊の指揮官となり、第10装甲師団隷下でフランス戦で指揮を執りました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第10装甲師団ユニット。

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 その後、1941年から42年にかけて北アフリカ戦線で第15狙撃兵旅団を指揮します。

 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団ユニット(2つの自動車化歩兵連隊+αが第15狙撃兵旅団だと思われます)。

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 クルセイダー作戦の終盤の1941年12月6日に第15装甲師団長であったノイマン=ジルコウが重傷を負うとメニーは短期間(12月6日~8日)第15装甲師団の師団長代理を務めましたが、すぐに元の第15狙撃兵旅団の指揮に戻りました。

 メニーはロンメルの第2次攻勢で活躍して騎士鉄十字章を受勲し、その後もガザラの戦いやトブルク占領の際に指揮を執っています。


 ツイッター上でのりっくさんから教えていただいた情報には↓のようなものもありました。





 1942年7月に北アフリカを離れ、今度は東部戦線の第18装甲師団の師団長となりました。その期間は、『Rommel's Desert Commanders』によれば1942年9月~1943年5月ですが、『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば1942年9月15日~12月31日となっています。ドイツ語版Wikipedia「Erwin Menny」は「恐らく12月末まで」としています。同師団は1942年11月からヴェルキエ・ルーキで戦っていたそうです。


 その後メニーは、1943年5月から7月中旬まで、第387歩兵師団長代理を務めます。「装甲師団長から歩兵師団長代理へ」という流れは降格にも思えますが、そこらへんについては諸資料には何も書かれていません。

 さらに第333歩兵師団長に就任し、ドニエプル川沿いのザポロジェまでの退却を指揮して11月初旬の解隊まで師団長職にあったそうです。OCS『The Third Winter』はマップにザポロジェを含んでおり、1943年9月26日からの開始なのですが、第333歩兵師団ユニットは入っていませんでした。

 さらに第123歩兵師団長を兼任し、1ヵ月足らずで第72歩兵師団長となった後、1943年11月20日に離職したといいます。ここまでは東部戦線での指揮であり、この2つの師団はOCS『The Third Winter』に入っていました。


 ↓OCS『The Third Winter』の第123歩兵師団、第72歩兵師団ユニット。

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 1944年2月10日からはフランスで新しく編成された第84歩兵師団長となり、同師団はノルマンディー戦に投入されましたがファレーズポケットに閉じ込められ、メニーは8月22日に捕虜になります。

 メニーはイギリス本国にあった捕虜収容所トレント・パークに入れられましたが、ここでは秘密裏に盗聴が行われていました。その盗聴記録によると、メニーは上官であったロンメル将軍の軍事的スキルについて繰り返し批判していたそうです。

 またメニーは、1943年の東部戦線において、即席の処刑によって部隊に規律を強制することもあったそうです。ソ連軍の攻撃で前線を放棄した兵士をその場で処刑し、翌日には規律を回復させ、その結果自軍の前線が再び安定したと本人が述べているのだとか。こういうことは初期のソ連軍においては良く行われたわけですが、ドイツ軍側においてどうだったのかほとんど記述を見たことがなかったので、貴重な情報であるような気がします

 他にメニーは、武装親衛隊がカナダ兵を処刑していたことについても触れているそうです。


 メニーは捕虜収容所で日記を書いていたそうで、その中で「どんなことがあっても戦争をあきらめないのが将軍の義務である」という意見を書いていたそうです。

「それにしても、私が出会った40人以上の将軍達の中で、個人として最後まで戦った者がいかに少ないかに驚かされる。言うまでもないことだがすべての兵士達は、そしてもちろん、将軍こそが特に、状況が絶望的であってもあらゆることに挑戦しなければならないのだ。運が良ければ、不可能なことでも成功できる。地獄のような絶望的な状況から、全員がもう生きることを諦めてさえいたのに、私や私の部下達は何度脱出に成功したことか。そして今回、私達二人が激戦の末に無傷で済んだのは、偶然ではなく奇跡に近いものがある。私は敵に賞賛されなくても構わないが、むしろイギリスの新聞に、私は執念深く、信じられないほどの粘り強さでどこまでも戦い、捕虜から逃れるために死を求めたと書かれる方がいい。私は、将軍がどうして『降伏』できるのか、決して理解することができないだろう」

 メニーはこの意見と共に、手を上げて捕虜になることを自分は拒否したのだと書いているそうです。また、捕虜になったことで騎士鉄十字章の柏葉を受ける機会がなくなってしまったとも日記に記しているのだとか。


 個人的な印象としては、このエルヴィン・メニーという人物は、自己顕示欲が強い人という感じがしますね……(^_^;(ただ、目覚ましいことを成し遂げる人というのは、その推進力として自己顕示欲が強いことも多いのではないかという風にも個人的に思っていますので、良い面も大きいと思います)


OCS:今回facebookで質問した、2ヘクス以内の建設&航空基地上での空戦について

 先日OCS『Sicily II』をオンライン対戦していて出てきた疑問点をfacebookのOCSグループで質問してみました。その件について書いておこうと思います。




 まず一つ目は、建設について。


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 ↑の画像で、ヘクス37.21にいる工兵が、2ヘクス離れた39.21に航空基地を建設しようとしています。

13.8d 施設の建設 移動フェイズ中に(のみ)、工兵能力ユニットはその2ヘクス以内で建設を行えます(ZOC は無視できますが、地形は徒歩タイプを使用しているものとして影響を与えます)。



 ここで疑問になったのは2点。

1.工兵ユニットは5移動力以内で建設のための1SPが消費可能ですが、建設する予定のヘクスにSPを届かせる手段はありません。それでも建設は可能か?(画像では2Tしか見えてませんが、1SPあります)

2.「地形は徒歩タイプを使用しているものとして影響を与えます」というのは、例えば徒歩で渡れない、海岸ヘクスや湖ヘクスや通過禁止ヘクスサイドを越えた2ヘクス先とかには建設できない、ということです。画像の場合、工兵ユニットからは隣の38.20へは徒歩タイプで移動力「All」で通行可能であり、さらにそこから建設予定地の39.21へ移動力「All」で通行可能です。トータルでは徒歩タイプで行ける場所ですが、移動力「All」が2回必要なわけで、2ターンかけないとそこへ行けない場所です。それでも、建設は可能なのかどうか?


 facebookで質問したところ、OCS副班長のチップ・サルツマン氏が答えてくれまして、「可能」ということでした。要約すれば、「工兵ユニットにSPが届けば良いし、徒歩タイプでその2ヘクス先まで到達できるなら、それが2ターン後の場所でも構わない」ということになります。

 さらに私なりに一般化すれば、こういうことになるかと思います。
「ルール上要求されている最低限度のことを満たしているならば、現実には問題が起きそうであっても気にする必要はなく、可能だと考えればよい」(^^)





 もう一つの件は、航空ユニットの空戦についてです。


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 ↑の画像の真ん中あたりで、ハイスタックになっているところに航空基地があり、アメリカ軍の5-1戦闘機ユニットが存在しています。そのヘクスを目標として、イタリア軍の(2)-2 爆撃機が単独で爆撃しに来ました。

OCSのプレイでは通常、敵戦闘機がいる場所には味方戦闘機を飛ばして制空戦闘をし、敵の戦闘機がいない状態にしてから味方の爆撃機を飛ばして爆撃します。ところがOCS『Sicily II』のこのプレイでは枢軸軍の戦闘機がほぼ全滅させられてしまっており、枢軸軍プレイヤーはやむなく安全な本土にあった爆撃機を丸裸で飛ばして爆撃を敢行しまくっていたのでした……(>_<)


 今回の場合、「そもそも敵戦闘機が航空基地にいるヘクス自体に、爆撃機が単体で行った」ということが珍しい出来事でして、ルール上、またfacebookで確認したところ、その場合こういうことになります。

1.そのヘクス上で、どちらかに(活動状態の)戦闘機がいるならば、空戦が「必ず」発生します。(14.2fのC)、および14.3)
(つまり、戦闘機を持つ側が敵爆撃機を無視しておくことはできません。逆に両方に爆撃機しかいないなら、空戦は絶対に発生しません)

2.その空戦の「攻撃側(ダイスを振る方)」は、通常は「そのヘクスに航空ユニットを飛ばした側」です。しかし、その飛ばした側に戦闘機がない(あるいはいなくなった)ならば、戦闘機を持つ側が攻撃側になります。(14.3aおよび14.3c)

3.両軍プレイヤーは、自軍航空ユニットを平面に並べます。この時、両軍は少なくとも1ユニットを残して自発的な任務中止を選択できます。(14.3e)

4.空戦を解決していきます。空戦の結果として「任務中止」となった側は航空基地に帰還して非活動状態となりますが、空戦に勝った側が非活動状態になることはなく、活動状態のままです。

5.空戦の解決中、上記の件に従って「攻撃側」が入れ替わる可能性があります。お互いに爆撃機しかいなくなったら、空戦は終了します。

6.この空戦の結果、もし爆撃任務側が生き残ったならば、今度は警戒空域がそのヘクスに及んでいる敵戦闘機から迎撃を受ける可能性があります(迎撃側は、迎撃しないでおくこともできます。また、通常のルール通り迎撃は1回のみです)。

7.爆撃任務側がそれにも生き残ったら、今度は対空射撃を受けます。この場合、航空基地が存在するので+1修正があり、もし警戒空域内であるならば、(このケースの場合、味方戦闘機はそもそもいなかったので)+2修正が付いて計+3修正で対空射撃を受けることになります。

8.それでも生き残ったら、爆撃任務を実行できます。


 ……と、相当にリスキーです(>_<)

 今やっているキャンペーンの勝利条件上は「生き残っている航空ユニットの数」は関係ないので、枢軸軍の航空ユニットは終盤には全滅覚悟で突っ込まされる感がありますが、「キャンペーンの途中を戦っているようにプレイ」するならば、やめておいた方がいいでしょうね……。


 ただ、OCS『Sicily II』の枢軸軍はJu.88ユニットを結構たくさん持っているのですが、(2)-12の「防御のみの2空戦力」というのは単独で爆撃のために突っ込んでいっても迎撃側の5、あるいは4空戦力の連合軍戦闘機に対して落とされずに済む可能性がある程度あり、また12爆撃力も馬鹿にできないものがあります(ましてや敵がハイスタックであれば)。

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 そして、ドイツ軍機はこのゲームではヒップシュート可能なので、リアクションフェイズであっても何度も何度も同じヘクスを狙って爆撃が可能で、敵が迎撃に失敗するダイス目を期待することができます。ただし、ドイツ軍機が爆撃するためにはドイツ軍ユニットが観測しているのでなければならないことに注意が必要です。


 Ju.88いいですねぇ。1/144の塗装済みプラモデルが出されるのを期待しているのですが……。


OCS『Sicily II』キャンペーン、中盤の枢軸軍側の反省事項

 OCS『Sicily II』の2回目のキャンペーンプレイの中盤が終わりかけになってきました。

(1回目のキャンペーンは、枢軸軍を富山のKさん、英軍を私、米軍をタエさんが受け持ってプレイし、中盤の終わり頃で連合軍の勝ち目はないということが分かって終了しました。2回目のキャンペーンは、枢軸軍を私、英軍を富山のKさん、米軍をタエさんが持ってプレイしていってます)



 ↓第8ターン(1943年8月3日ターン)後攻連合軍移動フェイズ中。

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 ↓第10ターン(1943年8月10日ターン)先攻連合軍の移動フェイズに入ったところ。

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 今回のプレイの、序盤の反省点は書いていた↓んですが、中盤の反省点を書いておこうと思います。

OCS『Sicily II』キャンペーン、序盤の枢軸軍側の反省事項 (2022/02/22)



・史実での後退具合と比較すると、英軍との戦線は差がないが、米軍との戦線はだいぶ後退具合が遅い。そこらへんから考えると、シチリア島西部の部隊は第1~2ターンにもっと早く下がらせてしまっていいし、シチリア島南部や中央部の部隊ももっと全速力で下がらせるべきだった(今回、特に中央部の部隊を無事に回収するために全体の撤退が遅れている)。

アクションレーティングが高いユニットを敵との戦闘に当たらせ、そして2ステップ目の損失をアクションレーティングが非常に低いユニットから出せるようにしておく……という配慮をすべき(その配慮が今回、序盤に全然なされていなかった)。

・連合軍の後方上陸作戦は常に意識して、沿岸防衛ユニットを常に後方に後方にと下がらせておくべき(今回、前線での戦力に使用しすぎた)。



 あと、『Sicily II』に限った話ではなく、また、仮説的な思いつきですが……。

・予備部隊の作り方を、これまでユニット単位(1~4ユニット程度だけをばらばら)に指定する方向性に偏りすぎていたのかもしれない。それよりも、できれば2個師団程度を常に(ローテーションしつつ)予備に指定するようにしておけば、燃料の点でコストカットができる(リアクションフェイズ中に師団にまるごと燃料を入れるとかで)し、どこかの戦線が危なくなった時に戦力を向ける対処がしやすいのではないか?
(それはそれとして、前線でばらばらのユニットを予備に入れておくこともするべきか……?)

・また、予備部隊を、「前線への予備」の他、「後方への予備」という風に2段階に持っておくべきか……。予備が多すぎるかもですが(^_^;




 「守り方」「予備の持ち方」についてはまだまだ分からないでいることが多いので、特に研究していきたいと思ってます。


1941年の北アフリカ戦における最高のドイツ軍大隊長であったフォン・ヴェヒマールについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、1941年の北アフリカ戦における最高のドイツ軍大隊長であったフォン・ヴェヒマールについてです。

前回の後、ツイッターで教えてもらった情報などで書けそうな感じになってきたので、記事を立てました)


Dowódca batalionu rozpoznawczego Freiherr von Wechmar podczas rozmowy z oficerami (2-2037)

 ↑北アフリカ戦線で将校と会話中の偵察大隊長フライヘア・フォン・ヴェヒマール(騎士鉄十字章受章者)。(Wikipediaから)



 イルンフリート・フライヘア・フォン・ヴェヒマールの家はプロイセンの名家・地主であったらしく、資料によっては「男爵」と書かれています。1914年に第一次世界大戦が始まると15歳で砲兵部隊に入り、戦争が終結する少し前に2級と1級の鉄十字章を受勲しました。

 戦後すぐは志願兵部隊に所属しており、その後軍に残ることができました。しかし1922年にフォン・ヴェヒマールは軍を離れ、ベルリンでジャーナリストとして働き始めました。

 ナチが権力を握った後フォン・ヴェヒマールは再び軍に戻ります。ポーランド戦の前に偵察部隊の長となり、ポーランド戦とフランス戦を戦いました(ドイツ語版Wikipeida「Irnfried von Wechmar」での記載では「Aufklärungsabteilung 3」で、後の「第3装甲偵察大隊」なのかもですが、良く分かりません)。

 その後フォン・ヴェヒマールは第5軽師団の第3偵察大隊長として、ドイツ軍部隊としては最も早く1941年2月14日にトリポリに到着し、翌15日にはトリポリ市内でパレードを行います。そして急いで前線に向かい、26時間後には前線に到着したそうです。


 ↓OCS『DAK-II』の第5軽師団ユニット。

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 ↓OCS『DAK-II』のドイツ軍戦闘団ユニット(右から4つ目がフォン・ヴェヒマールのもの)。

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 その後ロンメルの第1次攻勢において、第5軽師団長のシュトライヒ将軍が4日間の停止を求めた時(4月3日)、ロンメルがそれを拒否して進撃を続行するように命令したことがありました。この時ロンメルは、第3偵察大隊長であったフォン・ヴェヒマールにベンガジの攻略を命じ、フォン・ヴェヒマールの方は「喜んでこれに応じた。ベンガジは翌日陥落した。」と、ミッチャム氏は『Rommel's Desert Commanders』のシュトライヒの項で書いています(P18)。ただし「喜んで」というのは、その確証はないにも関わらずミッチャム氏の偏向により筆が滑ったものである可能性もあるような気も……。

 パウル・カレルの『砂漠のキツネ』にはこう書かれていました。

 ロンメルはみずから、フライヘア・フォン・ヴェヒマール中佐のひきいる第3偵察大隊の装甲車で、ベンガジへ疾駆した。4月4日早朝、港に着く。イギリス軍には港湾施設を完全に破壊する時間がなかった。
『砂漠のキツネ』P19


 また、この後の4月14日頃、フォン・ヴェヒマールの第3偵察大隊その他の部隊はトブルクを素通りしてその東へ向かうように命ぜられた、という文章もありました(P21)。Wechmar, Freiherr von, Irnfried (Pz-Aufklär.Abt.3)というサイトには、フォン・ヴェヒマールは「バルディアを攻略した」と書かれているので、この進撃の際に占領したのかもしれません。

 その前にフォン・ヴェヒマール自身はベンガジを攻略した功績で4月13日に、アフリカで最初に騎士鉄十字章を受勲された人の一人になっていました。


 その後、有名な「業火の牧師」バッハ大隊長が1941年5月から1942年1月にかけてハルファヤ峠を任されて活躍しますが、ミッチャム氏は『Rommel's Desert Commanders』のバッハの項で「事実上、フォン・ヴェヒマール男爵を除いて、1941年のロンメルの装甲集団の中で最高の大隊長であった可能性が高い。」と書いています(P58)。そうすると、当時最高の大隊長はフォン・ヴェヒマールであった、ということになりそうですが、この本にはフォン・ヴェヒマールの項がなぜかないのです……。


 クルセイダー作戦の真っ最中の1941年11月25日頃の話として、『砂漠のキツネ』にはこのような会話が書かれています(混戦の中、第3偵察大隊のヴォルフ少尉の装甲車がイギリス軍の乗用車一台とその乗員を捕虜にしたつもりが、危うく自分らが捕虜になるかもしれなかった……という話に続けて)。

「やあ、ヴォルフ、お客さん【英軍捕虜】は誰だ?」
「調べるひまがなかったのであります」 ヴォルフ少尉はフライヘ・フォン・ヴェヒマール中佐に報告し、没収した部隊証明書と地図を渡した。
「とにかくわれわれと同じで、タフな連中であります」と一件を説明する。
「そりゃそうだ、軽騎兵、第11軽騎兵旅団ではな」 ヴェヒマール中佐は軍隊手帖を読んだ。
【第11軽騎兵は英第7機甲師団の中でも最も精鋭の部隊でした】


 ↓OCS『DAK-II』のクルセイダー作戦時の第7機甲師団ユニット。

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「で、どこから?」
「まっすぐカイロからであります。大佐【ママ】どの。イギリスへの休暇許可書をすでにポケットにしておりました。攻勢のことを聞いて引き返し、原隊に復帰するつもりだったのであります」
「それが運の尽きというわけか」 ヴェヒマールはいった。
「ではわれわれといっしょにいていただこう。お気の毒だが収容所にお送りするわけにはいかないので」
【……】
 ヴェヒマール中佐は隊の先頭に立ち、こう命令した。
「強力な敵軍にぶつかったら緑の信号弾を発射する。そうしたら全部隊は引き返せ。その場合は後衛のキール大尉が指揮をとる。キールが敵に出会ったら、やはり緑の信号弾だ。その場合も方向転換。車の間隔をつめて、おたがいを見失うな」
『砂漠のキツネ』P89


 
 クルセイダー作戦の戦闘の後枢軸軍は撤退しますが、その後ロンメルの第2次攻勢が始まる前の1942年1月16日にフォン・ヴェヒマールはドイツ十字章金章(一級鉄十字章と騎士鉄十字章の間の勲章)を授与され、アフリカからドイツに呼び戻されました。


 ジャーナリストとしての経験から、1942年1月から1943年までフォン・ヴェヒマールは陸軍の宣伝部門の責任者を務めたそうです。1943年に大佐に昇進し、1943年から1944年まで東部戦線で第147装甲擲弾兵連隊の連隊長を務めます。

 第147装甲擲弾兵連隊は第25装甲師団隷下で、同師団は1943年10月にフランスから東部戦線に送られ、11月2日にはキエフ周辺に到着して激戦に巻き込まれます。その後の撤退戦を戦うも、1944年3月から4月にはフーベ包囲戦(カメネツ=ポドリスキー包囲戦)でほとんど壊滅状態となりました。


 ↓OCS『The Third Winter』の第25装甲師団ユニット。

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 1944年から終戦の1945年5月8日までフォン・ヴェヒマールはユトランド半島(デンマーク)のEsbjerg-Fanö地区の防衛指揮官を務め、イギリス軍の捕虜になります。

 釈放された後、フォン・ヴェヒマールは西ドイツでいくつかの主要な新聞のジャーナリストおよび特派員として働き、1951年にはドイツ兵協会の広報担当者などを務めたそうです。1959年に亡くなりました。
 

OCS『DAK-II』のドイツ軍の戦闘団(カンプフグルッペ)ユニットについて

 今回はOCS『DAK-II』のドイツ軍の戦闘団(カンプフグルッペ)ユニットについて。


 OCS『DAK-II』には、戦闘団(カンプグルッペ)ユニットが入っています(イタリア軍にも同様の「ラグルッパメント(イタリア語で戦闘団)」ユニットが入ってます。また、OCS『The Third Winter』などにも戦闘団ユニットがあります)。


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 北アフリカ戦における指揮官について情報を収集してきたんですが、その目的の一部として「これらの戦闘団ユニットの名前になっている指揮官についてもできれば知りたい」ということがありました。

 ユニットの内、一番左の「業火の牧師」バッハについてはすでに以前調べていました(→ハルファヤ峠を守備して「業火の牧師」と呼ばれたバッハ大尉について調べてみました(付:OCS『DAK-II』) (2021/07/14))。

 左から2番目の「クリューヴェル」というのはルートヴィヒ・クリューヴェルなのでしょう(→DAK司令官として活躍したもののガザラ戦で捕虜となったクリューヴェル将軍について (2022/08/16))。彼と同名の別の人物である可能性がゼロではありませんけども、この戦闘団ユニットが『DAK-II』上で始めて登場するシナリオがガザラ戦であるのは、この戦いでクリューヴェル戦闘群が西から牽制攻撃をかけることになっていたのと符合するように思います。


 左から4番目が前回記事にしたヴェルナー・マルクスです(→北アフリカ戦でマルクス戦闘団(カンプフグルッペ)を指揮し、大戦末期には第1装甲師団や第21装甲師団を指揮したヴェルナー・マルクス将軍について (2022/09/12))。


 あと、右から3番目の「3 Aufk」というのは人名ではなく、第21装甲師団の第3装甲偵察大隊(3 Aufklarung)を表しているのだと思います。

 ↓OCS『DAK-II』の第21装甲師団ユニット。

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 ところが、他のユニットの人名(でない可能性もありますが)については、これまで収集した情報からでは、苗字以上のフルネームや詳しいキャラクターなどが分からない状態です。

 左から3番目の「Gräf」というのは、ドイツ語の「伯爵」なのだろうかと思ったりしたものの、そもそも伯爵は綴りが「Graf」であるらしく……?

 左から5番目の「Schütte」というのはカセリーヌの戦いを扱ったBCS『Baptism By Fire』に、6番目の「Wechmar」というのはトブルク周辺の戦いを扱ったBCS『Brazen Chariots: Battles for Tobruk, 1941』に戦闘団として出てきますが、人物像が私は現状全然分かっていません。

 一番右の2つ、「Linau」と「Voss」に関しては現状さっぱり分かりません(「Linau」の方はどこかで見た気もするのですが……)。



<2022/09/13追記>

 ↓ツイッター上で、のりっく@泡沫戦史研究所様が情報を教えて下さいました! 埋め込んでおきますね。





 Wikipedia等の項目も見つけましたので、メモっておきます。

ドイツ語版Wikipedia「Irnfried von Wechmar」
(また、『砂漠のキツネ』P89には、部下との会話や命令の様子が描かれていました)

ドイツ語版Wikipedia「Erwin Menny」

Voss, Friedrich Wilhelm


<追記ここまで>



 『グランド・パワー 1996年9月号』(特集:ロンメル戦車軍団1942)には、かなりの数の戦闘団(戦闘支隊)の名前が挙げられているのですが、マルクス以外には『DAK-II』に出てくる戦闘団の名前は出てきていませんでした……。






 前回色々検索していて、ドイツ軍の戦闘団のみに関する本らしきものを見つけました。




 この本の中身がGoogle Books上で結構読めたのですが、戦闘団の戦術的な記述が主であるようで、その辺りに興味がある方にとっては非常に良いと思うのですが、私は「指揮官のキャラクター像」に興味が非常に偏っているのと、個人的に師団長クラス以上でないと興味が湧かないこともあり、購入して読むのはパスするということで……。



 あと、OCS『DAK-II』における「バッハ」「クリューヴェル」「マルクス」戦闘団の登場時期を調べてみたところ、少し違和感を感じることがありました。

 「バッハ」戦闘団は、史実でバッハが指揮を執っていたブレヴィティ~クルセイダーの時期にのみ登場し、史実でバッハが捕虜になった時期以降は出てきません。

 ところが、「マルクス」戦闘団はロンメルの第2次攻勢シナリオから、「クリューヴェル」戦闘団はガザラの戦いシナリオから登場するのは史実通りなのですが、史実ではクリューヴェルはガザラの戦いで捕虜となり、マルクスは第3次エル・アラメインの戦いの1ヵ月前に北アフリカを離れているにもかかわらず、両方とも第3次エル・アラメインの戦いまで(つまり実質『DAK-II』の扱う範囲の最後まで)登場し続けるのです。


 ただしこれは、グランドパワー誌にも載っていたように他に多数の戦闘団(あるいは戦闘支隊)が存在していたわけだから、それらの代わりに入れられているだけなのかもしれません。バッハはなぜそうされないのかという疑問はありますが(^_^;、「業火の牧師」バッハは恐らく中でも最も有名でしょうから、別格なのかもです。


北アフリカ戦でマルクス戦闘団(カンプフグルッペ)を指揮し、大戦末期には第1装甲師団や第21装甲師団を指揮したヴェルナー・マルクス将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、北アフリカ戦でマルクス戦闘団(カンプフグルッペ)を指揮し、大戦末期には第1装甲師団や第21装甲師団を指揮したヴェルナー・マルクス将軍についてです。

(この関係記事は基本的に時系列順で書いていっているのですが、この人物は『Rommel's Desert Commanders』に項目がなく、そのことに気付いて急遽取り上げることにしたのでした(^_^;)



 写真は、↓ですとか。

Marcks, Werner


 北アフリカ戦においてマルクスは、特定の部隊の指揮官としてよりはマルクス戦闘団(カンプフグルッペ)の指揮官として知られている人物だと思われます。OCS『DAK-II』において戦闘団ユニットは、突破フェイズおよびリアクションフェイズに1D6で記載の数値以上の目を出すことで、「あたかも予備モードであったかのようにスタックを移動・戦闘させられる」能力を持ちます(強力です)。


 ↓OCS『DAK-II』のマルクス戦闘団ユニット。

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 【ドイツ軍は】高級将校が前線部隊にいることもめずらしくなかった。末期になると、ロンメルはいくつかのさらに小さな独立機甲部隊を作り出した。その中で有名なのが、彼自身の親衛隊と、マルクス部隊である。彼らは非常に迅速に走りまわり、着々と戦果をあげていった。
『砂漠の戦争』P231






 ヴェルナー・マルクスは第一次世界大戦が始まってすぐの1914年8月に士官候補生として歩兵部隊に入りました。戦後も軍に残り、1930年には騎兵部隊、1937年には装甲部門に移り、後に対戦車砲部隊に所属したようです。また、複数の文献で「熱烈なナチ信奉者であった」とあり、「brutal(厳しい、非情な)」な指揮官であったという記述もありました。

 ポーランド戦でも対戦車砲部隊で戦い、1940年には第64狙撃兵連隊の第1大隊長となり、ロシアで戦います(第64狙撃兵連隊がどの師団に属しているのか探してみましたが、分かりませんでした)。

 しかし1941年7月初旬には北アフリカに派遣され、第15装甲師団の第115狙撃兵連隊長となりました。1942年初めには第21装甲師団の第104狙撃兵連隊長も短期間務めます。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『DAK-II』の第21装甲師団ユニット(第15装甲師団から第104狙撃兵連隊が移管された後)。

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 OCS『DAK-II』上では、1942年初めのロンメルの第2次攻勢シナリオから「マルクス戦闘団」ユニットが登場します。ドイツ語版Wikipedia「Werner Marcks」によれば、マルクス戦闘団は第104狙撃兵連隊の第1大隊、第155狙撃兵連隊の第1および第2大隊、第605対戦車大隊と対空砲部隊から成っていたそうです。

 【ロンメルの第2次攻勢の際】この間に、マルクス集団は、豪雨をおかして、信じられないほどたくみな夜間行軍を強行して、ベンガジの港を見おろせる高地に進出していた。
『ロンメル戦車軍団』P98







 マルクスはこの功績で1942年2月5日に騎士鉄十字章を受勲しました。


 また、この第2次攻勢でガザラ・ラインに枢軸軍が到達してすぐの1942年2月9日から、マルクスは第90軽師団の第155狙撃兵連隊長となったそうです。

 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(同じ部隊名で異なる時期のユニットもすべて貼っています)。

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 ガザラの戦い(1942年5月26日~6月21日)の時には、マルクス戦闘団は非常に野心的な動きをしたようです。

 【ガザラの戦いの】二日目の夕方になると、戦いははっきりとした形を取り始めた。ロンメルは大胆きわまる手を打ったのだ。トブルク自体を急襲し、ただちにこれを奪還するという意図のもとに、麾下の将兵をイギリス軍拠点の真只中にたたきつけたのである。【……】彼の4本乃至5本の縦列は、人間の手の指のように開いた。その手は北に向かってのび、南からトブルクにつかみかかった最左翼の少数のドイツ軍戦車隊は、ガザラ・ラインのすぐ内側を北上し、デルナから一群の小型沿岸用輸送船が、補給品を積んで到着していた海岸に達した。最右翼のもう一本の縦列は、この前の冬期作戦で戦場となったエル・ゴビに向ったが、それははでな動きを見せただけのようだった。マルクスに率いられた第三の縦列はさらに野心的だった。エル・アデムをとおり越してまっすぐ北東に向って進撃し、トブルク外郭防衛線東方の高地にまで到達し、エル・ドゥダとシディ・レゼーグで、非常に重要な地点を確保した。
『砂漠の戦争』P164



 ↓OCS『DAK-II』のガザラの戦いシナリオの初期配置上での、上記の①~③の進撃路。

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 しかし、マルクス戦闘団は孤立し、撤退をやむなくされます。

 北よりのエル・ドゥダでは、マルクス大佐が危険にさらされたまま孤立し、イギリス軍がこれをたたくために急行していた。彼が生きのびるためには、ドイツ軍機甲部隊が強引に進出することがどうしても必要だった。
『砂漠の戦争』P166

 支援も補給もなく、どうしようもない場所に取り残されたマルクス大佐は、夜のうちにエル・ドゥダを撤収した。
『砂漠の戦争』P167




 ガザラの戦いの途中で、マルクスは一時的に第90軽師団の指揮を執ったようです。

 6月14日にオーキンレックはガザラ・ラインの放棄を認め、トブルク~エル・アデムのラインで防衛線を再構築することを命じました。6月16日にマルクスが指揮する第90軽師団はエル・アデムを攻撃しましたが……。

 しかしエル・アデムの抵抗は熾烈を極め、第90軽装甲師団をして、その防御は「異常なほど頑強」と言わしめたほどであった。ロンメルは、エル・アデム攻撃に戦車を投入するのを許さず、その日の午後に行われた、勝ち気な第90軽師団長マルクス大佐とのはげしい論争の結果、攻撃中止を受け入れた。
『ドイツ戦車軍団』上P187




 しかしマルクスは1942年9月末(第3次エル・アラメインの戦いの一カ月ほど前)に熱帯病で重病となり、ドイツに戻らなければなりませんでした。回復後、1942年10月から装甲兵総監に送られます(グデーリアンが1943年2月から就任した装甲兵総監と何らかの関係がある?)。

 その後東部戦線で、1944年1月2日から2月6日にかけて中央軍集団戦区の第20装甲師団の師団長代理を務め、さらに南方軍集団戦区で2月20日(コルスン包囲戦が終わった頃)から9月18日(ただし『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』によれば9月25日)まで第1装甲師団の師団長を務めます。この期間中、1944年3月から4月にかけてはフーベ包囲戦が行われ、第1装甲師団はこの包囲環の中に閉じ込められてしまいましたが、何とか脱出に成功します。


 ↓OCS『The Third Winter』の第1装甲師団ユニット。

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 OCS『The Third Winter』のフーベ包囲戦シナリオについては、こちら↓を見ていただければ。

OCS『The Third Winter』「フーベ包囲戦」シナリオのオンライン対戦を始めました (2021/08/14)
OCS『The Third Winter』「フーベ包囲戦」のソ連軍側の作戦を研究してみました (2021/08/18)



 ドイツ語版Wikipedia「Werner Marcks」によると、「マルクスはこの時脱出するように説得された。このために、彼を逮捕する計画さえされた。だが、マルクスは自発的に参加した。」と書かれていて、イマイチ意味が分からないのですが、マルクスは脱出することを一時拒否したというようなことでしょうか?(Google Booksで検索してみたりもしたのですが、関係ありそうな文が全然引っかからず)


 マルクスは第1装甲師団がハンガリーに移る頃に病気になったようで、指揮を放棄します。

 ドイツ語版Wikipedia「Werner Marcks」によると、マルクスは1945年1月10日、第21装甲師団(チュニジアで壊滅した第21装甲師団の後継師団)の師団長となったとあります。

 『ドイツ装甲部隊全史Ⅲ』の第21装甲師団長リストでは、45年1月24日までエドガー・フォイヒティンガーが「最終師団長」、1月25日から2月12日までヘルムート・ゾーレンコップが「師団長代理」となっており、それ以降の師団長が書かれていないのですが、ミッチャム氏の『The Panzer Legions』の第21師団長の項目にゾーレンコップの後にマルクスの経歴が書かれていることや、同じくミッチャム氏の『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』によるとフォイヒティンガーの後に「熱烈なナチ信奉者であったヴェルナー・マルクスが第21装甲師団長に任命された」等とあることから考えると、2月13日付けでマルクスは師団長となったのではないでしょうか(↓のGoogle Booksの結果は、検索で見られるようになったのが「February,」からで、その前にあるであろう日付が見られないのです(>_<))。

 恐らくこの第21装甲師団長になった時のことを、それまでボロボロになった同師団を率いていたハンス・フォン・ルーク(? Hans von Luck)という人物が回想録に書いているのをGoogle Booksで見つけました

【……】2月、新しい師団長としてヴェルナー・マルクス中将が着任した。私は北アフリカ戦線にいたので、彼を少し知っていた。彼は北アフリカで勇敢さゆえに騎士鉄十字章を授与され、1944年初めまでは深刻な熱帯病のために伏せっており、その後ロシアの第1装甲師団長として「柏葉」を授与されていた。その後、彼は再び重い病気にかかっていた。私は、マルクスのもとで仕事をすることになったが、まったく嬉しくなかった。彼は野心的で、頑固で、命令を実行する上で無慈悲な人物だと見なされていた。
 その点では、我々が今所属している中央軍集団司令官のシェルナー将軍に似ていた。
『Panzer Commander: The Memoirs of Colonel Hans von Luck』(ページ不明)







 マルクスは同師団を指揮してソ連軍に対してハルベの戦い、ソ連軍の下シレジア攻勢コトブス・ポツダム作戦の戦いに参加します。4月末にソ連軍の捕虜となり、1955年に釈放されました。

 『D-Day Encyclopedia: Everything You Want to Know About the Normandy Invasion』という本の第21装甲師団の略歴によると、ヴェルナー・マルクスが同師団の最後の師団長であり、4月に降伏した、とありました。





 マルクスは1967年に亡くなりました。



第164軽師団について、手持ちの資料から

 今回は、前回出てきた第164軽師団について、手持ちの資料からまとめておこうと思います。



 ↓OCS『DAK-II』の第164軽師団ユニット(左から2つ目の装甲偵察大隊を除き、時期の異なる同じ部隊が2つずつユニット化されています)。

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 ↓OCS『Tunisia II』の第164軽師団ユニット。

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 同師団の概略について手持ちの資料の中で一番良くまとめられていたのは↓かと思いました。

 この師団は1939年11月に第164教導歩兵師団と呼ばれ、1940年のフランス戦時は第30軍団の予備部隊だった。
 1941年に第18山岳軍団に所属してギリシャのサロニカに駐屯したのちに、クレタ島へと移動して「クレタ強化師団」とも呼ばれた。
 1942年7月に第164アフリカ軽師団となって北アフリカ戦線へ空輸されると、エル・アラメイン戦中の第90アフリカ軽師団を救援した。
 同年8月30日にオーストラリア部隊と激戦を行なったのちの、10月23日に英第8軍の総反撃を受けた。
 11月3日にロンメルのエル・アラメイン戦線からの撤退命令にしたがって西方へ敗走するが、この間に師団の残存兵力は戦車部隊の支援歩兵として分割配備された。
 そして、チュニジアへ撤退する前にトリポリで再編成されて、1942年12月初旬にチュニジア防衛部隊となった。翌1943年1月にかき集めた自動車両により自動車化師団となり、3月19日にイタリア第21軍団を強化するために配備されていたが、3月26日にニュージーランド部隊の攻撃を受けてチュニジアのアカリトへと撤退した。
 1943年4月中は随所で小規模戦闘に加わり、4月下旬に兵力は2500名に減じた結局【ママ。「結果」の間違いでしょうか?】、5月13日にイタリア第1軍ともにニュージーランド師団に降伏した。
『ロンメルとアフリカ軍団戦場写真集』P117









 英語版Wikipedia「164th Infantry Division (Wehrmacht)」の後半の記述も興味深いので、和訳引用してみます。

 1942年初頭、師団はクレタ島に移動し、要塞師団クレタとして編成された。経験豊富な第125歩兵連隊で強化され、1942年半ばまでここに留まり、その後北アフリカのアフリカ装甲軍に移籍した。この時、第164軽アフリカ師団となり、各連隊は2個大隊のみであった。この師団はエル・アラメインで戦い、奮戦した。この戦闘では連隊の内の1つが、前進する連合軍歩兵によるアフリカ装甲軍司令部の占領を阻止するのに貢献した。枢軸国の残存部隊と共に師団は徐々にチュニジアに後退し、チュニジアでの作戦の終盤はイタリア第1軍の一員として自由フランス軍と戦った。師団の最後の司令官であったリーベンシュタインは、ニュージーランド第2師団司令官であるバーナード・フレイバーグ中将に降伏した。




 以下、基本的に時系列順に手持ちの資料から並べてみます。

 一方、オーキンレックはロンメルの軍勢が予想していたほど強力ではないことを察知したが、すぐに大規模な反撃に出ることはしなかった。その代わり、ドイツ軍よりも戦闘能力が低い、地中海沿岸のイタリア軍に標的を絞り、敵の陣形を崩す目的で、【第1次エル・アラメインの戦いの最終盤の1942年】7月10日から15日にかけて、第30軍団による限定的な反撃を開始した。
 この攻撃の矢面に立たされたのは、サブラータ歩兵師団とトリエステ自動車化師団、ブレシア歩兵師団、パヴィア歩兵師団などで、とりわけ最左翼に位置するサブラータ歩兵師団の損害は甚大で、ほぼ壊滅状態となってしまった。これにより、枢軸軍の戦線には数か所で綻びが生じたが、ロンメル率いるドイツ軍の装甲部隊は戦線の右翼に展開しており、すぐに左翼のイタリア軍を救援に向かうことは不可能だった。
 そのため、アフリカ装甲軍司令部の情報参謀フリードリヒ=ヴィルヘルム・フォン・メレンティン中佐が、自らの判断でドイツ軍の後方部隊(通信部隊や輸送部隊など)をイタリア軍の救援に向かわせ、サブラータ師団の抜けた穴には、クレタ島から転進していた【第164軽師団の】第382と第433の2個ドイツ軍歩兵連隊が急派された。
『ロンメル戦記』P297

 【第1次エル・アラメインの戦い中の】7月10日の激戦中、DAKの新部隊が北アフリカ砂漠にあらわれた。第164アフリカ軽師団である。車輌なしで空輸されてきたもので大半はザクセンの出身。マークはマイセン産磁器に描かれた交差する剣であった。そのうち第382歩兵連隊と第220工兵大隊は飛行場から戦場に直行し、ヘッカー大佐の支隊とともに敵の突破作戦を高射砲とわずかの戦車で阻止した。第382連隊のおかげで機甲軍北翼が敵に突破されずにすんだのである。
『砂漠のキツネ』P236

 一方ロンメルは第90軽師団の1個混成大隊と、新たに番号が付けられた到着したばかりの第164歩兵師団の第382連隊の一部を投入した。第164歩兵師団はクレタ島から到着しつつあるところで、車両を持っていなかった。第164歩兵師団はつい最近まで守備隊任務に就いていたのだが、特別に北アフリカの任務のために改編されていた。第90軽師団と同様に、対戦車砲が大量に増強されており、そのほとんどはロシア製の76.2mm砲であった。
『Rommel's North Africa Campaign』P197,8

 【1942年7月23日頃】これまでの数週間、歩兵部隊の補充がのろのろと、雨だれのように戦線に到着しつつあった。各部隊の尋常でないほどの人的損害はいまや、緩慢ではあったけれども、埋め合わせられていたのだ。が、あいにく、補充兵の一部は熱帯で勤務可能な人員ではなかった。第164歩兵師団の一部はクレタ島から空輸されたのだが、重火器と車両は運ばれてこなかった。きわだった印象を与えてくるイタリア軍空挺師団隷下のいくつかの部隊も、戦線に到着した。前線部隊は熱心に働き、防御線の強化を進めた。しかしながら、戦線後方に充分な作戦予備が用意されてこそ初めて、いかなる脅威をも排除したとみなし得るのである。
『「砂漠の狐」回想録』P221

 援軍が到着しつつあった。仰々しく第164軽アフリカ師団と改称されたクレタ島守備隊師団の一部と優秀な落下傘部隊の4個大隊からなる旅団が装甲軍へ配属になった。しかし両方とも歩兵部隊で、主にイタリア軍を安定させるためのものであり、北アフリカの環境で応戦態勢に入るには、順応するための期間が必要だった。落下傘部隊は選り抜きの兵士たちだったが、まもなく半数以上が暑さ、黄疸、砂漠潰瘍、粗悪な食事、さらに質の悪い水のために体調をくずした。
『パットン対ロンメル』P262

 ちょうど到着中であった第164師団およびイタリア軍フォルゴレ空挺師団の諸隊は自隊車両を持っていなかったので、これもほかの輸送部隊の負担になってきた。
『ドキュメント ロンメル戦記』P290

 わが第164師団には、その部隊がすでに第一線の戦闘に参加しているにもかかわらず、9月中旬になっても車両60両が着いていただけであった。
『ドキュメント ロンメル戦記』P291





 第3次エル・アラメインの戦いの初日(1942年10月23日)に関する記述には、こういうものもありました(他の資料とはニュアンスが異なるかもしれません)。

 朝には第164軽師団の他の2個大隊もイギリス軍の砲撃によって潰滅した。
『ロンメル語録』P277



 また、エル・アラメインから退却してハルファヤ峠あたりまで撤退していた時の記述としてはこういうものがありました。

 ハルファヤ=ソルム=バルディアの三角形の防禦線はおもにイタリア軍と、第164歩兵師団の数部隊が配置され、この部隊にはかなり年をとった予備兵と訓練不十分の新兵とが、多数含まれていた。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P136





第164軽師団長として第3次エル・アラメインの戦いで奮戦したルンガースハウゼン将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第164軽師団長として第3次エル・アラメインの戦いで奮戦したルンガースハウゼン将軍についてです。



 写真は、↓ですとか。

Carl-Hans Lungershausen-1



 カール=ハンス・ルンガースハウゼンは第一次世界大戦が始まってすぐの1914年8月に士官候補生として軍に入り、東部戦線で従軍しました。戦間期の軍歴のほとんどを騎兵部隊で過ごし、1936~39年には第8騎兵連隊の第1大隊長を務めていました。

 第二次世界大戦が始まるとこの大隊は第18偵察大隊と改称され、第18歩兵師団の一員としてポーランドで戦います。

 1939年10月にルンガースハウゼンはB軍集団司令官であったフェドーア・フォン・ボック将軍の副官に任命され、フランス戦役で勤務し、イギリス本土上陸作戦の準備段階にも参加しました。

 1941年6月1日に第7装甲師団の第7狙撃兵連隊長に就任し、東部戦線を戦います。1942年4月1日には一つ上の第7狙撃兵旅団長となりました(ちなみにマントイフェルが、1941年5月1日~8月25日にかけて第7狙撃兵連隊第1大隊長であり、26日からは第6狙撃兵連隊長、1942年7月15日から第7狙撃兵旅団長で、ルンガースハウゼンの後任だったのかもです)。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第7装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第7装甲師団ユニット。

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 第7装甲師団は過酷な冬季戦で大損害を被っており、1942年5月にフランスへと移送されています(12月に再び東部戦線へ)。詳しい時期は不明ですがこの頃にルンガースハウゼンは北アフリカに派遣されることになったようで、まず1942年7月13日から8月10日の期間に第90軽師団の師団長代理を務めます。そして8月10日から、第164軽師団の師団長となりました。


 ↓OCS『DAK-II』の第164軽師団ユニット(左から2つ目の装甲偵察大隊を除き、時期の異なる同じ部隊が2つずつユニット化されています)。

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 1942年8月30日に開始された第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)で、8月31日に第21装甲師団長であったゲオルク・フォン・ビスマルク将軍が戦死したため、ルンガースハウゼンは第164軽師団長のまま、第21装甲師団の師団長代理をもしばらく務めます(『Rommel's Desert Commanders』によれば9月1日~18日。『ドイツ装甲部隊全史Ⅲ』によれば8月31日~9月17日)。


 1942年10月23日に第3次エル・アラメインの戦いが開始されますが、この時のルンガースハウゼンの司令部の様子がパウル・カレルの『砂漠のキツネ』に描かれています。

 それまで静かだった砂漠の明るい夜に雷鳴がとどろいたのである。第164軽アフリカ師団本部の戦闘指揮所、食堂、談話室となっていた大地下壕ははげしく震動した。将校たちは師団長ルンゲルスハウゼン将軍と夕べの酒をくみかわしていたところだったが、巨人の腕がテーブルをなぐりつけたように感じた。師団幕僚長のマルケルト大佐は階段を駆けのぼって指揮車にとびのろうとした。幕僚次長エルテリヒ少佐はかろうじて赤ぶどう酒の壜をおさえた。ゼルター水の壜がテーブルから転げ落ちた。ルンゲルスハウゼン将軍は目の高さののぞき窓から前線を見た。そこは、一面に火を吐いていた。師団戦区全面が猛砲撃を受けている。「モントゴメリーの攻勢だ」とルンゲルスハウゼンは時計に目をやった。20時45分。1942年10月23日。
 参謀本部の諜報組織、西方外国軍課の長リス大佐が5日前マウエルヴァルトからアフリカに来て、モントゴメリーが10月中に攻撃することはありえないと情報がはいったと語ったばかりではないか。ありえないだと!
『砂漠のキツネ』P276



 ↓OCS『DAK-II』の第3次エル・アラメインの戦いの初期配置(第164軽師団が北岸の5ヘクスに広がって、他の部隊ユニットと一緒にスタックしています)。

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 この戦いの時、ルンガースハウゼンの判断と指揮が非常に重要な役割を果たしたとミッチャム氏は書いています。モントゴメリーは攻勢の初日に大規模な砲撃を行いましたが、ルンガースハウゼンは砲兵に反撃するなと命じました。もし反撃していたら、師団砲兵も英連邦軍の砲撃を受けることになったと思われます。英第8軍が地上攻撃を開始した時、攻撃側は枢軸軍の砲兵は破壊されたに違いないと考えていたそうですが、ドイツ軍の砲兵の多くはまだ無傷で、英連邦軍の戦車や歩兵がよく狙える場所に来るまで砲撃を行わなかったといいます。このようにしてルンガースハウゼンは攻勢初日に第8軍を牽制する大きな役割を果たし、多大な死傷者を出しながらも第164軽師団は11月4日にロンメルが総退却を指示するまで陣地を維持しました。

 その後、11月8日に枢軸軍がカプッツォ砦(ハルファヤ峠の少し西)まで退却していた時に、ロンメルがルンガースハウゼンに語ったという話が『砂漠のキツネ』に載っています。

 1942年11月8日の夜、ロンメルは、第164軽師団長ルンゲルスハウゼン将軍の指揮車にいた。無線車からは、ミュンヘンのビュルガーブロイ酒場でのアドルフ・ヒトラーの定例演説がひびいてきた。総統は勝利を約束していた。だが、カプッツォ付近では第19軽師【ママ。第90軽師の間違いでしょう】、第164軽師、DAKの兵たちが疲れきって砂漠に横たわっている。【……】
 こういったことをミュンヘンの総統は知ろうとしなかった。だが、ロンメルは知っていた。その夜、彼は沈んだ声で、恐れていたことをルンゲルスハウゼン将軍に語った。「遠征は失敗した。アフリカは失われた。ローマとラステンブルク【総統大本営】が事態を正視せずに早く兵の救助処置をとらなかったら、最も勇敢なドイツ軍の一つが捕虜になってしまう。そうすればイタリアを誰が侵攻から守るか?」
『砂漠のキツネ』P302,3



 ↓は、ロンメル、ケッセルリンク、フォン・ルントシュテットの参謀長を務めた若き将校ヴェストファルについて(付:OCS『The Blitzkrieg Legend』『DAK-II』) (2022/07/06)からのまるまるコピーです。

 退却の途中の12月1日、第164軽師団の師団長であったルンガースハウゼンが負傷か何かのために師団長職を降りたため、ヴェストファルが師団長代理を務めることになりました(枢軸軍はその頃、メルサ・エル・ブレガ付近にいたようです)。12月29日(エル・アゲイラとトリポリの中間地点より少し西のブエラトあたりに枢軸軍はいました)にルンガースハウゼンが師団長として復帰しましたが、ヴェストファルは短期間であっても自分が第164軽師団を指揮できたことを、死ぬまで非常に誇りに思っていたそうです(どういう意味で誇りであったかは資料に書かれていないのですが、実戦部隊としての師団を指揮できたということか、あるいは第164軽師団自体に思い入れがあったものか……?)。 



 しかしルンガースハウゼンの健康状態がまだ回復していなかったものか、1943年1月15日を最後に北アフリカを去りました。彼が現役に復帰したのは1943年5月23日で、チュニジアの枢軸軍が5月13日に降伏した後に連合軍の上陸が予想されたサルディニア島を守るため、その場しのぎで編成されたサルディニア師団長としてでした。ルンガースハウゼンは連合軍の航空、海上優勢にもかかわらずイタリア本土への撤退を成し遂げ、1943年8月1日に同師団は(第90軽師団の後継師団として)第90装甲擲弾兵師団と改称されます。ルンガースハウゼンは同師団の指揮を引き続き執り、イタリアが降伏した後、イタリア軍の武装解除を支援するためにイタリア北部に派遣されました。

 その後1943年12月20日から同師団の師団長はバーデ将軍が引き継ぎ、ルンガースハウゼンは総統予備となって6ヵ月間を過ごします。

 1944年7月1日、ルンガースハウゼンはケッセルリングの南西総軍に配属され、イタリア人部隊の検査官に任命されました。彼は1945年3月1日までこの役職にありましたが、この役職は廃止されたようで、本国に戻ります。それ以降、彼が役職に就くことはありませんでした。

 戦後はハンブルクに住んでいましたが、最終的に生まれ故郷のダルムシュタットに戻り、1975年に亡くなりました。

戦車戦の知識や勇敢さにおいて卓越するも、総統命令を「狂気の沙汰」と考えエル・アラメインで捕虜になったフォン・トーマ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、戦車戦の知識や勇敢さにおいて卓越するも、総統命令を「狂気の沙汰」と考えエル・アラメインで捕虜になったフォン・トーマ将軍についてです。



Bundesarchiv Bild 146-1972-083-25, Wilhelm Ritter von Thoma

 ↑フォン・トーマ(Wikipediaから)


 ヴィルヘルム・フォン・トーマは1912年に士官候補生としてバイエルン王国陸軍に入隊し、第一次世界大戦で何度も負傷しながらも多くの戦いに参加します。中でも、1916年7月にフォン・トーマの連隊がオーストリア軍の司令部に到着したところでロシア軍の攻撃を受け、オーストリア軍のほとんどがあっという間に壊滅した時、フォン・トーマは自らの危険を顧みず冷静に司令部を守って戦い、それに感銘を受けたオーストリア兵達が集まってその後のロシア軍の3度の大規模な攻撃を撃退したことが大きく評価されました。フォン・トーマはドイツで最も高位の勲章の一つであるバイエルン・マックス・ヨーゼフ勲章を授与され、リッター(「騎士」あるい「勲爵士」。バイエルン王国の一代貴族の称号)の称号も与えられたのです。

 その後もフォン・トーマは指揮官として有能であることを示し絶大な信頼を得ましたが、大戦後期にアメリカ軍の捕虜となります。釈放されてからも義勇隊に入って「戦後の戦争」を戦いました。

 1921年に軍に戻り、1923年にヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆の鎮圧に参加しました。1925年という早期に自動車化部隊の中隊長となり、翌年にはソ連の戦車学校の運営および訓練にドイツ側代表の一人として参加します。1929年に自動車化部隊の大隊長となった時にはすでにドイツ軍で最も経験豊富な自動車化部隊将校の一人であり、1931年から34年には自動車化輸送担当官を務めました。

 1934年、フォン・トーマはドイツ軍で初めて完全な戦車部隊が編成されていたオルドルフ自動車化実証司令部に転属します。1935年10月1日に最初の3つの装甲師団が公式に創設され、フォン・トーマは第4装甲連隊の第2大隊長に任命されました(同連隊はグデーリアンの第2装甲師団隷下でした)。

 1936年にはスペイン内戦に派遣され、コンドル軍団の一員としてドイツ軍の実験戦車部隊を率いて赤軍と戦います。フォン・トーマはその中で実戦における戦車部隊の運用やドイツ製戦車の性能的限界などを調べ、報告します(この時の技術的な話題についても色々興味深い面がありますが、戦車のメカニック的な本で詳述されているであろう話でもあり、本稿では割愛します)。フォン・トーマはスペイン内戦で192回の戦車戦闘に参加し、その驚異的な勇気でスペインの最高勲章を受勲しており、フランコの最終的な勝利に貢献しました。

 帰国後、フォン・ブラウヒッチュ陸軍総司令官から装甲旅団の指揮を提示されましたが、フォン・トーマはこの時それより一段低い装甲連隊の指揮を希望したそうです。このことはフォン・ブラウヒッチュに悪い印象を与え、フォン・トーマのキャリアにダメージを与えた可能性もあるとミッチャム氏は記述しています。

 結局、フォン・トーマは1939年6月1日に第2装甲師団の第3装甲連隊長に任命され、ポーランド戦に参加して大きな成功を収めます。フランス戦の時には陸軍総司令部内の快速部隊総監という役職にあり、実戦には参加しませんでした。


 1940年9月にリビアのイタリア軍がエジプトに侵攻(グラツィアーニ攻勢)するもすぐに停止し、英連邦軍との小競り合いが起こっていました。この時期、フォン・トーマは北アフリカに視察のために送られています。

 ヒトラーはリッター・フォン・トーマ将軍を11月初旬に北アフリカを視察させたがそれは、9月にドイツ側が申し入れることを検討し始めた2個装甲師団をアフリカに送る件のためであった。さらに、ヒトラーは第3装甲師団をアフリカに送る準備を始めさせた。だが、フォン・トーマはそれを勧めなかった。戻ってきたフォン・トーマは、イタリア軍の指揮は水準に達しているとは言えず(彼はグラツィアーニは最高司令官としては不適格だと考えていた)、兵站、気候、それに地形の厳しさも大きな問題であるという感想を伝えた。彼は、もしドイツ軍がこの地域に関わるのならば4個師団であるべきだと明言した。それ以上の兵力であれば兵站的に困難である一方、それ以下では任務を達成できないであろう、と。この予測は恐らく正確なものであり、卓見であった。
『Rommel's North Africa Campaign』P28

 早くも1940年7月、最高司令部は装甲師団を北アフリカに配備することを提案しており、状況評価のために装部隊のエキスパートの一人であるヴィルヘルム・リッター・フォン・トーマ少将を送り込んだ。スペインでイタリア軍と協力した豊富な経験をもつトーマは、北アフリカにおける重要な機動作戦はすべてドイツ軍だけで行なうのが最良であり、少なくとも装甲4個師団が必要だろうと報告した。
『パットン対ロンメル』P211



 この件に関して興味深いのは、高梨俊一氏がデザインしたウォーゲーム『アフリカン・ギャンビット』のデザイナーズノートの中で、こう述べられていることでしょう。

 イタリア歩兵師団さえなくなれば枢軸軍の補給はきわめて楽になる。このことは、すでに1940年ドイツのフォン・トーマ将軍が言明している真理である。しかしこれはムッソリーニにとって政治的自殺に等しい。
『アフリカン・ギャンビット』P45




 ↓の動画でもその件について言及しています。






 その後フォン・トーマは、1940年12月には第17装甲師団の第17狙撃兵旅団(ただし『ドイツ軍名将列伝』によれば第17装甲旅団)長に任命され、バルバロッサ作戦ではブレスト・リトフスク、ミンスク、スモレンスク戦などに参加します。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第17装甲師団ユニット(↓の2つの狙撃兵(自動車化歩兵)連隊+αが「狙撃兵旅団」となります)。

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 第17装甲師団の師団長はハンス・ユルゲン・フォン・アルニム(後にチュニジア戦でロンメルと衝突し、捕虜になった後捕虜収容所でフォン・トーマ一派とも衝突することになる)でしたが、6月26日に重傷を負い、その後任となっていた騎士カール・フォン・ウェーバーも7月18日にスモレンスクの南で瀕死の重傷を負った(20日に死去)ため、フォン・トーマが9月14日まで師団長を務めました(9月15日からフォン・アルニムが師団長に復帰)。

 OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』は1941年7月8日ターンから9月8日ターンまでなので、最初の3ターンを除きずっと、フォン・トーマが師団長であったことになります。


 グデーリアンはこのように記しています。

 7月23日、スモレンスク南方15キロにあるタラシュキノに行き、リッター・フォン・ヴェーバー将軍に代わって第17装甲師団の指揮をとるリッター・フォン・トーマ将軍に会った。トーマ将軍は、最古参の経験豊富な生え抜きの戦車将校であった。その鉄のような意志力と卓越した勇敢さで、すでに第一次世界大戦およびスペイン戦争で名をあげ、今度の大戦でも名声を馳せた武人である。
『電撃戦 グデーリアン回想録(上)』P271




 フォン・トーマは第17狙撃兵旅団の指揮に戻りましたが、タイフーン作戦中の1941年10月14日に第20装甲師団長に(健康を害したシュトゥンプ前師団長に代わって)就任します。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第20装甲師団ユニット。

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 フォン・トーマは、モスクワの戦いとそれに続く1941~42年のソ連軍の冬の攻勢に対して戦い、その功績により騎士鉄十字章を受勲します。その後1942年6月30日に第20装甲師団長の職を離れて2ヵ月の休暇の後、ドイツアフリカ軍団長であったネーリングが負傷したためその後任として1942年9月1日にドイツアフリカ軍団の司令官に任命されたのです(ただし、彼が軍団司令部に到着したのは9月17日で、それまでアフリカ軍団はフォン・フェールスト将軍が代理で指揮を執っていました)。


 フォン・トーマの着任はロンメルによる攻勢であった第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)が終わってから2週間ほど経った頃で、もはやエル・アラメインにおいて枢軸軍の攻勢はあり得ず、英連邦軍の戦力的優位がいや増していた時期でした。

 この時期のことを、戦後フォン・トーマはリデル=ハートからのインタビューでこう語っています。

 ロンメルが自分の幕僚達に向って、いかにもスエズへ達する自信があるかのように語ったことが時々あるが、本当にそう思っていたのかと私【リデル=ハート】はトーマに聞いた。トーマは答えて「彼はそうは思っていなかったと私は確信する。彼はただ自分の軍隊――特にイタリヤ兵を激励するためだけにそう言ったものだ。彼はエル・アラメインでイギリス軍に阻止されると、それからすぐにその熱気は冷めてしまった。彼は英軍を動遙【ママ】させるためには奇襲が必要であることを知っていたが、アラメインでがっちり守られると、どうやって新たな奇襲が成功するのか分らなくなった。その上、彼は英軍が間断なしに増強されていることを知っていた。
 ロンメルは自分の乏しい兵力とその困難な補給線からして、余りに遠く来すぎたことを知っていたが、その成功が非常なセンセーションを起したために、後へ引けなくなってしまった。ヒトラーがそれを許さなかった。その結果、英軍の方で圧倒的に優勢な兵力を結集して彼を打ち破るようになるまで、そこに止らなければならなかったのである。」
 彼はこの事実の多くを、直接ロンメルおよびその主な部下達から聞いたと言った。トーマ自身がロシヤからアフリカへ行ったのは、漸く9月になってからであった。「黄胆を患ったロンメルに代って私が行くように命ぜられた時、私はこの仕事を希望しないと電話で話した。『私が二年前に書いたもの【1940年の報告】を見てほしい』と。けれども折り返し返事が来て、総統がこれを要求している、これは総統自身の命令であるというのであった。それでどうにも仕方がなかった。私は9月の20日にアフリカへ着き、数日ロンメルと情勢を検討した。彼はそれからウィーンのそばのヴィーナー・ノイシュタットへ治療を受けに行ったのである。二週間後にシュツンメ将軍が、アフリカ戦線全体の指揮を取るために着任してきた。それで私はエル・アラメイン地区指揮だけとれば良いことになり、それで結局、軍全体の組織の改善のようなことは私にはできなくなった。ところが、そのすぐ後でシュツンメは発作を起して死んでしまった。これらすべての事情からして、来るべきイギリスの攻撃に備える準備をこんがらかせたのだ。
 「私は困難な条件の下で味方の配備を改善するべく、できる限りのことをした。英軍の攻撃がはじまる前に撤退するという作戦は許されなかったからである。もっとも我々はヒトラーの命令にも拘らず、おそらく撤退せざるを得なかったろうが、それがそうならなかったのは、トブルクで君達【イギリス】の倉庫から取った物資で味方を養うことができたからである。これは我々を補給し続けてくれた。」
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P156,7




 この時期のフォン・トーマにキャラクターに関して私が見つけられたのは、このような記述のみでした。

 禁欲的でペダンティック【知識や教養をひけらかす。 学者ぶった。 衒学{げんがく}的な。】なリッター・フォン・トーマ将軍【……】
『砂漠のキツネ』P281

 【……】フォン・トーマ将軍--ロンメルは禁欲的で知識をひけらかすようなところがあったこの痩せぎすの将軍が非常に嫌いであった【……】
『狐の足跡』下 P26




 第3次エル・アラメインの戦い(1942年10月23日~11月5日)のことに関して、フォン・トーマはリデル=ハートにこのように語っていたそうです。

 それからトーマは私に、1942年10月23日からはじまった戦闘の印象についての話をした。英第8軍は、最初からすべての決定的な武器において、遙かに優勢だったから、戦闘がはじまる前から勝利はほとんど確実であった。「我々の方がほぼ1ダースぐらいに減っていた時に、君らの方は1200からの飛行機を持っているだろうと思っていた。攻撃がはじまってから1週間たってロンメルがウィーンから帰ってきた。もう手はずを変えるには遅すぎた。彼はやはりまだ具合が悪く、それがために神経症になっており、気分が常に動遙【ママ】していた。彼が戻ってきてからは、私は前線の一部分だけを受け持っていたが、彼は突然私に向って、自分の下で、部隊全部の指揮を直接とってくれないかと求めた。すでに英軍の圧力は増々重くなってきており、我々は緊張の極限にまで達していた。
 「英軍の追撃を食い止めることができないことが明らかとなった時に、我々は50マイル西方のダバのところの線まで、二段階に分けて撤退することにした。もしそれができたら我々は助かったかもしれない。撤退の第一段階は11月の3日の夜行われることになっていた。ところが、それが丁度はじまったばかりの頃にヒトラーから無電が来て、いかなる撤退も禁ずる、いかなる犠牲を払っても、もとの位置を固守すべしと命令してきた。これは事実上再び前進しなければならないことを意味していた。――敗北と決まっている望みなき戦を戦うために。それからトーマはどうして自分が捕虜になったかという話をした。彼は戦闘中戦車に乗って、何回も被弾しながら手薄なところをかけ廻っていたが、とうとう自分の戦車が発火して外へ放り出された時に捕えられた。「私はもう丁度良い、おしまいごろだと思った。」 彼は自分の帽子を私に見せたが、穴だらけだった――運が良かった証拠である。残念そうな調子で、彼は、この戦争中24回しか戦車戦に参加していない――ポーランド、フランス、ロシヤ、アフリカで――と私に言った。「スペインの内乱の時は192回戦車戦をやった。」
 捕虜になってから、トーマはモントゴメリーのところへつれて行かれた。そして夕食を共にしながら、その戦闘についての議論をした。「私には何も聞かずに、彼は自分の兵力、補給、配備についての状況などを私に話したがった。私は彼の知識の正確なこと、特に我々の方の欠乏状態、船舶の喪失等について正確に知っていることに驚いた。彼は我々の状態については私と同じように知っているらしく見えた。」
 それから彼は勝者 (モントゴメリー)の戦いぶりについて、「彼はいつも自分の圧倒的な優勢ということを考えながら、非常に用心深くやっていたと思う。しかし――」とそこでトーマは一寸止めて、それから強い調子で「彼は今度の戦争で、自分のやったすべての戦闘に勝った、ただ一人の元帥である。」とつけ加えた。 「現代の機動戦では、戦術は第一義的な問題ではない。決定的な要因は――その衝撃力を維持するために、味方の兵力、歩器【ママ】弾薬等を組織化することである。」と彼は結んだ。
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P158,9




 パウル・カレルの『砂漠のキツネ』や、アーヴィングの『狐の足跡』での記述はこうなっています。

 DAKの残余はフォン・トーマ将軍のもとで、二百台の戦車を先頭とする敵の攻撃を必死に防いだ。
 その早朝バイエルライン大佐がフォン・トーマ将軍に、エル・ダバ南方に後方戦闘指揮所を設けるよう上申したとき、彼は将軍が勲章を全部つけていることに気がついた。アフリカでは異例のことである。トーマは言った。「バイエルライン、総統命令は狂気の沙汰だ。死刑執行命令だ。どう部下に伝えたらよろしいのか」
 トーマは、バイエルラインをちらっと見て言いそえた。
「きみはアル・ダバに行きたまえ。私はここに残って、テル・エル・マムプスラ防衛の指揮をとる - ラステンブルク【総統大本営】の命のままに」 最後のところにはあきらめと皮肉がただよっていた。
 フォン・トーマが打ちのめされた気分でいることがバイエルラインの気になった。エル・ダバに出発するときもいやな予感がした。将軍は死ぬつもりだろうか?
 イギリス軍の攻勢はテル・エル・マムプスラに集中された。砂丘の周囲は地獄であった。リッター・フォン・トーマは最前線でDAKの先頭に立っていた。
 11時ごろ、フォン・トーマの連絡将校ハルトデーゲン中尉がバイエルラインの戦闘指揮所に到着して報告した。「フォン・トーマ将軍は自分と通信班を後送させました。もはや必要としないと申されております。テル・エル・マムプスラではわが軍の戦車、対戦車砲、高射砲は破壊されました。将軍がどうなられたかは存じません」 おどろいたバイエルラインは小型装甲車にとびのり東へ急行した。いきなり戦車砲の雨を浴びた。真昼間の陽炎を通して無数の黒い戦車が見える。車をとびおり、灼熱のなかを砂丘へ走った。そこには死があった。燃える戦車の残骸、つぶれた高射砲、砕かれた対戦車砲、見わたす限りの戦死者。重傷者が数名生きていただけである。バイエルラインは砂の穴にとび込み、あたりを見回した。200メートル前方に一台の戦車が燃え、その傍でリッター・フォン・トーマが弾雨のなかで仁王立ちになっていた。そのやせた長身は空を背景に幽鬼のように浮き出していた。
 リッター・フォン・トーマ。二度の世界大戦で20回負傷し、勇気の権化である。第一次世界大戦でバイエルン最高の勲章、マックス=ヨーゼフ勲章を受けて貴族に列せられた。スペイン内乱ではコンドル部隊で戦い、戦車でロシアの荒野を走り回った。数日前からアフリカ機甲軍司令官になった彼は、いま激戦のさなか、燃えあがる戦車の傍に彫像のように立っている。敵のシャーマン戦車はその周囲に半円を描いて停止している。砂丘にそそぐ阻止砲火は猛烈で、バイエルラインは生きて将軍の所まで行ける見込みがなかった。
 と、いきなり砲火がやみ、イギリス戦車群がうごきだした。トーマは身動きもしない。将軍なら誰でも持っている帆布製の日用品袋を手にしたまま、迫りくる戦車に顔を向けている。一台の小型装甲車がシャーマンを二台連れて走ってきた。第10軽騎兵連隊のグラント・シンガー大尉が機関短銃をかまえて乗っている。何かどなった。将軍は顔を上げると、装甲車に歩み寄り、乗り込んだ。バイエルラインは穴からとび出すと、ひた走りに西へ走った。【……】DAKの情報将校が傍受班のキャッチした敵の無線報告を持ってきた。第10軽騎兵連隊からモントゴメリーにあてた平文で、「いま敵将軍を一名捕えました。リッター・フォン・トーマと名乗っています。グラント=シンガー大尉」
『砂漠のキツネ』P287,8


 ロンメルは総統に対する忠誠と、戦場における危機という現実の様相の間で板挟みになっていた。
 午後2時28分、彼はアフリカ軍団長のフォン・トーマ将軍に電話した。するとトーマはいった。「私は今戦場から帰って来たところです。第15戦車師団には戦車が10輔残っており、第21戦車師団はわずか14輌、リットリオ師団は17輌持っているだけです」 これに対してロンメルはきっぱりといった。「貴官は全力をあげて戦闘を継続してもらいたい」 彼はヒトラーからの電文を読みあげ、トーマにアリエテ師団の戦車に対しても直接、命令する権限を与えたのち、もう一度くりかえした。「貴官はこの命令を将兵に徹底させられたい――最後まで戦うのだ」
 トーマは、これでは彼の率いる部隊は敵に撃滅されてしまうことは必至であると判断し、その戦車部隊を後退させて、態勢をととのえるようにと、意見具申した。これを聞くとロンメルは電話口で声を励ましていった。「それは許さない。総統の命令だ。われわれは最後まで現在地を確保する。退却してはならない」
 トーマは躊躇した。「よく分かりました」と彼はいった。「それはわが軍の全般的な方針です。しかし、われわれは少し後退しなければなりません」
 ロンメルはこのようなやり方を認可した。
しかしこの日の午後、彼が各地に分散していた戦車軍の各部隊に向けて発した電報は依然として、「最高のレベルからの命令」に基づいて現在地を確保することを命じており、各部隊には全く機動の余地を与えていない。
 ロンメルの幕僚特にバイエルラインは、このような命令を出すことに強く反対した。しかしロンメルはまだ、総統からの明確な命令に従わないようにすることを学んでいなかった。
『狐の足跡』下P40,41

 午後12時55分、バイエルライン大佐がこの壕へやって来た。彼はロンメルに、フォン・トーマ将軍が自分の持っているすべての勲章を佩用すると、現在地を死守せよという命令は「狂気の沙汰」だといって、戦車に乗り戦闘の真只中に向かって前進していった、と報告した。1時間後にバイエルラインがトーマ将軍の後を追って前進したところ、炎上している戦車と将兵の死体および、破壊された対戦車砲が散乱している墓場のような地点を見た。そこから200ヤード離れたところに、背が高く、痩せたトーマ将軍が、炎上しつつある戦車のかたわらに鞄を手にして立っており、彼に向かって、数方向からイギリス軍の戦車が迫りつつあるのを見た、というのである。ロンメルとヴェストファルはバイエルラインの話から、トーマ将軍が自ら進んで英軍に投降したことは間違いないものと判断した。ヴエストファルが大声をあげていった。「何ということでしょう、バイエルライン大佐。そのことは、あなたの胸の中に納めておいて下さい。でないと、トーマ将軍の家族全員が大変な目にあうことになるでしょうから」 それからまもなく、ロンメルの指揮下の無線情報中隊は、イギリス軍が報告しているのを傍受した――「われわれはドイツ軍の将官一名を捕虜にした。彼は自分がフォン・トーマであるといっている」 これで、アフリカ軍団長の運命については疑問の余地がなくなった。

 私【アーヴィング】はヴェストファル将軍と話したとき、このようなエピソードをすべて話題にした。すると彼は、陣中日誌等においては巧妙に伏せられていた事実を明らかにした。つまり、あとでロンメルの指揮下の部隊が鹵獲した英軍の文書の中に英第8軍の情報要約書があり、その中に、トーマ将軍が捕虜になった日の夕、モントゴメリーの「騎士道的な」招きを受け入れて食事をともにし、そのあとの会話の際に、ロンメルの今後の計画や兵力配置などについてすべてを語った、と書いてあった、というのである。「ロンメルはあの将軍が好きではなかった」とヴェストファルはいった》
『狐の足跡』下P44



 当時、イギリスの一部の報道機関は第8軍の司令官が「ナチス」の将軍を接待したことへの怒りを表明して、モントゴメリーを窮地に追い込もうとしたそうです。チャーチルはそれを許さなかったものの、こう述べたとか。
「私は、フォン・トーマ将軍に同情する。敗北し、捕虜となり、そして……(劇的な効果のために長い沈黙)……モントゴメリーと夕食を共にすることになろうとは」
(モントゴメリーの唯我独尊的な態度は有名で、チャーチルもモントゴメリーを長い間嫌っていました)

 戦後にチャーチルが出版した戦争関係の本の中で、特に戦略的な事柄についてフォン・トーマの意見を多く引用していることから、チャーチルはフォン・トーマの見識を高く評価していたと見られるそうです。



 その後、フォン・トーマはイギリス本国にあった捕虜収容所に送られましたが、そこでの会話は秘密裏に盗聴されていました。そこでフォン・トーマ(一派)がナチスに対して極めて批判的で、戦争はすでに敗北だと考えており、その見方に反対するクリューヴェルやフォン・アルニムらと反目していたことについては、クリューヴェルに関するブログ記事で書いていましたので省略します。がその他に、フォン・トーマは盗聴されていることを知らずにV1、V2ロケットについて話してしまい、それでロケットについて知った連合軍側は偵察機でその情報が確かであることを確認し、爆撃を行った……ということもあったそうです(この件について、複数の資料でフォン・トーマが非難されるような感じで書かれているのですが、むしろ情報がバレて良かったと考えた方が良いような気が個人的にしました)。


 フォン・トーマは収容所の中で健康状態が悪化し、片脚を切断しなければなりませんでした。彼と良好な関係にあったイギリス側の関係者達が、彼に義足を提供してくれました。1947年に釈放され、ドイツに戻ります。

 戦後すぐの時期にはドイツには十分な数の家がなく、モントゴメリーがフォン・トーマの家には彼の親族以外には誰も泊まらないようにはからったそうです(フォン・トーマは生涯独身で、子どもはいませんでした)。1948年に生まれ故郷の街ダッハウで、心臓発作により56歳で亡くなりました。

第90軽師団を率いて活躍し、後にハンガリーでフェルトヘルンハレ装甲軍団を率いたクレーマン将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第90軽師団を率いて活躍し、後にハンガリーでフェルトヘルンハレ装甲軍団を率いたクレーマン将軍についてです。



 写真は、↓ですとか。

Kleemann, Ulrich. - WW2 Gravestone



 ウルリッヒ・クレーマンは1911年に士官候補生として入隊し、第一次世界大戦では二度の重傷を負い、二級と一級の鉄十字章を受勲しています。

 戦後も義勇隊で戦った後、軍に残ることができました。1919年から1935年までのほとんどの期間を騎兵畑で過ごしていましたが、1935年に第1オートバイ大隊の大隊長に就任します。1938年には第3装甲師団の第3狙撃兵連隊長となりました。同年のズデーテンラント進駐に参加しましたが、この頃、同師団の第5装甲連隊長がヴァルター・ネーリング、第6装甲連隊長がルートヴィヒ・クリューヴェル(共に後に北アフリカ戦線で活躍した指揮官)でした。

 ポーランド戦で活躍したクレーマンは第3装甲師団の第3狙撃兵旅団長へと昇進し、フランス戦に参加します。そしてその役職のままバルバロッサ作戦、キエフ包囲戦、タイフーン作戦などを戦いました。
(「第3狙撃兵旅団」は、師団内の狙撃兵(自動車化歩兵)連隊+若干の砲兵などを統括する編制で、狙撃兵連隊が複数あればそれらすべてを指揮することになります)


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第3装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第3装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第3装甲師団ユニット。

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 その間、1941年10月13日には騎士鉄十字章を授与され、11月1日には少将に昇進しました。しかし1942年にかけてのスターリンの冬季攻勢の最中、クレーマンは負傷したり病気になったりしたため、1942年1月5日に旅団長の職を離れます。

 その後、回復したクレーマンは第90軽師団の師団長として北アフリカに派遣されることになり、1942年4月1日に指揮を執り始めました(ミッチャム氏は、ネーリングやクリューヴェルがクレーマンのことをロンメルに推薦したのはほぼ確実だが、証明はできない、と書いています)。

 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(同じ部隊名で異なる時期のユニットもすべて貼っています)。

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 クレーマンは第90軽師団を率いて、ガザラの戦い、トブルク攻略に参加します。第90軽師団は元々約15,000名の兵員を持っていましたが、わずか1,500名以下にまで減少していました。しかし6月21日にトブルクを陥落させるとロンメルは間髪置かずにエジプトへの侵攻を命じ、第90軽師団も前進。非常に大胆な指揮官であったクレーマンは、その時の兵力が1,600名しかなく、最も近くにいた枢軸軍部隊から15マイル(約24km)離れていたにもかかわらず、ほとんど無謀ともいえる突進で東に向かって走り、6月27日にメルサ・マトルーの東で英連邦軍の第10軍団(第10インド歩兵師団と第50歩兵師団)の後方を遮断することに成功しました。


 OCS『DAK-II』には、この時点から始まる追加シナリオがあります。

OCS『DAK-II』用の追加シナリオ「メルサ・マトルーシナリオ」を和訳してみました (2021/12/14)


 ↓このシナリオの初期配置のメルサ・マトルー付近。

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 シナリオは1942年6月26日ターン(26~28日)からで、まさに第90軽師団が後方の一級道路に入ったところから始まります。黄色いストライプが付いているのが第90軽師団所属ユニットで(1,600名というには多い様な気はしますが(^_^;)、ヘクス37.34のスタックは「1942年7月15日ターンまで移動不可」と指定されています。

 この時英連邦軍の指揮系統は混乱しており、メルサ・マトルーにいた英連邦軍部隊は翌日の夕方まで脱出を試みず、それまでに第90軽師団はイタリア軍部隊によって強化され、6月29日にクレーマンはメルサ・マトルーを占領したのでした(ただし英連邦軍側は完全に包囲はされておらず、史実では最終的にこの中から60%程度の兵員が脱出に成功したと見られているそうです)。


 その後の第1次エル・アラメインの戦いでも勇名を馳せましたが、1942年8月30日の第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)において、アラム・ハルファ高地の西で英第23機甲旅団に対する攻撃を指揮している最中に乗っていた車が地雷を踏んでしまい、重傷を負います。ミッチャム氏やドイツ語版Wikipeida「Ulrich Kleemann (General)」はその日時を9月8日としていますが、アラム・ハルファの戦いは9月3日までなので、『砂漠のキツネ』による8月30日の方が正しそうに思えますが、どうなんでしょうか。あるいはまた、英語版Wikipedia「Ulrich Kleemann」では11月1日まで師団長であったと書かれています。

 クレーマンは数か月入院し、現役に復帰したのは1943年5月28日、エーゲ海のロードス島に駐留する「ロードス」突撃師団の師団長としてでした。1943年9月にイタリアが連合軍に降伏するとクレーマンは現地のイタリア軍部隊を制圧し、イギリス軍が上陸してきたのに対しても反撃に成功して連合軍の企図を失敗させました。

 英語版Wikipedia「Ulrich Kleemann」等によると、1944年6月、ロードス島にSS将校がやってきてクレーマンとユダヤ人問題について話し、7月にはクレーマンはロードス島のユダヤ人を集め、約2,000人のうち1,700人をヨーロッパに移送(追放)せざるを得なかったそうです。また、その財産の没収もクレーマンの協力と権限を使用して実行されたとか。


 その後、1944年9月にドイツ軍はロードス島から部隊を引き上げ、1944年10月11日にクレーマンは第4装甲軍団長に任命されました。ただし、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によれば1944年9月2日となっています。同書によれば、同軍団の名称は↓のように変化したそうです。

Ⅳ ARMEEKORPS(1935年10月~1944年9月)
Ⅳ PANZERKORPS(1944年10月~11月)
Ⅳ PANZERKORPS FELDHERRNHALLE(1944年11月~1945年1月)
(『Rommel's Desert Commanders』によれば1944年11月27日から「装甲軍団フェルトヘルンハレ」に改称」



 同軍団はハンガリーとオーストリアで戦います。OCS『Hungarian Rhapsody』は1944年10月5日ターンから1945年2月26日ターンまでのハンガリー国内での戦いすべてを包含しており、同軍団は「第4装甲軍団フェルトヘルンハレ」という名称でユニット化されています(あるいは、「第4装甲軍団」と「フェルトヘルンハレ装甲軍団」の名称をまとめて「4 FHH」としているという解釈の方が正しいかも)。

 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』の第4装甲軍団フェルトヘルンハレ司令部ユニット。

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 クレーマンは第8軍の司令官代理を務めた1944年12月22日から28日の期間を除き、残りの戦争期間中ずっとこの軍団を指揮しました。同軍団は非常に弱体な装甲軍団であり、しかもその戦闘部隊のほとんどがブダペスト包囲環の中に取り残されてしまいます。ブダペスト救出作戦(コンラートⅢ)が行われた1945年2月には同軍団は第13装甲師団、第2フェルトヘルンハレ装甲師団に加え、ティーガー戦車を装備した第503重戦車大隊と強力な戦闘工兵部隊を擁していましたが、ブダペスト包囲環へ到達することはできませんでした。

 その後もクレーマンは同軍団を率いてスロヴァキアと上オーストリアで戦い、終戦時には指揮権をイギリス軍に譲渡しました。ロードス島での件は戦争犯罪には問われず、1947年に捕虜収容所から釈放され、西ドイツに定住しました。1963年、自動車事故で70歳で亡くなりました。


重病のロンメルの代わりにアフリカ装甲軍司令官代理を務めるもエル・アラメインで心臓発作で亡くなったシュトゥンメ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、重病のロンメルの代わりにアフリカ装甲軍司令官代理を務めるもエル・アラメインで心臓発作で亡くなったシュトゥンメ将軍についてです。



Bundesarchiv Bild 146-1980-009-34, Georg Stumme

 ↑シュトゥンメ将軍(Wikipediaから)



 シュトゥンメは1942年の「青作戦」直前に、敵に攻撃計画を漏らしてしまうという事件を起こしており、パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』の青作戦の部「第Ⅵ部 カフカスと石油」の第3章「洩れた攻撃計画」の前半がその経緯に当てられているのですが、その冒頭でシュトゥンメ自身についてこう詳述されています。

 シュトゥンメは優れた軍人だった。そして生活を楽しむすべを知っていた。小柄だがエネルギッシュ。青年騎兵将校だったころからモノクル【片眼鏡】をつけている。高血圧のため顔がほんのりと赤い。こういう肉体的・精神的特徴からくるあだ名はもう決まっている。司令部の将兵は密かに彼を《球雷(球形の雷光)》と呼んでいた。もちろん本人もそのことを知ってはいたが、知らん顔をしていた。たまたまそれを耳にしても反応を示さなかった。
 シュトゥンメは学者的な参謀タイプではなく、実際的な人で、戦術・戦略的チャンスをかぎつける本当の嗅覚をそなえていた。ドイツ軍装甲軍団の指導的存在で、理性的プランナー、即断の実行者。兵たちに愛され、兵のためには休むことなく働き、彼のエネルギーと嗅覚を賛嘆する将校から尊敬されていた。
 その弱点 - 優雅な弱点 - は、美食家ということだった。
「戦争=粗食! いや、諸君、そうではない!」。始終そう言っていた。そして司令部が調達してくる食物をいつも客たちと分けあった。

『バルバロッサ作戦(下)』P89,90


 また、英語版Wikipedia「Georg Stumme」にはこのように書かれていました。

 シュトゥンメの幕僚の一人であったフリードリヒ・フォン・シュタウフェンベルクは、シュトゥンメが「和やかな」雰囲気を作り出す一方で、「一流の、良く統率された師団」を維持したと述べた。マーク・M・ボートナーによれば、
「背が低くユーモアのあるシュトゥンメは、慢性的な高血圧のため顔がずっと赤くなるのが悩みだった。部隊は彼を「火の玉」と呼び、モノクルをかけたこの小さな将軍はドイツ国防軍の基準からしても前線に立つには高齢だったが、戦術的な機会を捉える才能があった。」





 ロンメルより5歳年長のゲオルク・シュトゥンメは1906年に士官候補生として砲兵連隊に入りましたが、その後すぐに騎兵部隊に転属し、軍歴の大半を馬上で過ごすことになりました。第一次世界大戦に従軍し、戦後も軍に残り、ヒトラーが政権を取った時には中佐でした。

 ナチス政権下で急速に出世したシュトゥンメは1938年には中将になり、同年10月10日に第2軽師団長に任命されました(「軽師団」は自動車化歩兵師団と装甲師団の中間に位置する、やや戦車を強化された編制)。ポーランド戦で活躍した後、シュトゥンメは同師団を装甲師団として再編成する任務をあたえられました。

 1939年10月18日に同師団は正式に第7装甲師団と改称されましたが編成作業は続き、1939年末にフランス国境に再配置されます。そして1940年2月15日、第7装甲師団の指揮権をロンメル少将に譲ります。この時、ロンメルから装甲師団に指揮についてアドバイスを求められ、「より大胆な方策を選べ」と助言したそうです。

 シュトゥンメ自身は当時編成中であった第40軍団の司令官に就任します。1940年のフランス戦において第40軍団は当初予備部隊でしたが連合軍主力が敗北した後第6軍に合流し、掃討戦で小さな役割を果たしました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第40軍団司令部ユニット。

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 シュトゥンメは6月1日に騎兵大将に昇進。第40軍団は7月までにドイツに戻り、9月15日には自動車化軍団となりました。1941年4月と5月にはバルカン侵攻作戦に参加し、第9装甲師団やSSライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラーを率いてギリシャ征服に大きな役割を果たします。この作戦でシュトゥンメは、自分の将来は装甲部門にあると確信し、自分の「騎兵大将」の階級を「装甲兵大将」に変更してもらえるように手配したそうです。

 1941年6月末に第40自動車化軍団はオーストリアに移され、ソ連侵攻の初期には参加しませんでした。しかし8月に中央軍集団に合流し、歩兵2個師団を麾下としてトロペツ方面(ヴェルキエ・ルーキの東方)で戦います。さらに9月にはヘープナー将軍の第4装甲集団(後に装甲軍と改称)に移され、第2装甲師団、第10装甲師団、第258歩兵師団を与えられました。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第40軍団司令部ユニット。

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(ユニット上は「装甲軍団」扱いになっています。『ドイツ軍名将列伝』P446では同軍団は1940年9月に装甲軍団となったとありますが、『Rommel's Desert Commanders』では1940年9月15日に自動車化軍団、1942年7月9日に装甲軍団とあります。『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』P142によれば同軍団は1942年7月まで「ARMEEKORPS」であり、その月から「PANZERKORPS」となっています。)


 タイフーン作戦でシュトゥンメは本領を発揮しました。同軍団はヴャージマ包囲環の南側を形成し、追い詰められたソ連軍部隊が決死の脱出を試みて一時はシュトゥンメの司令部の至近距離での戦闘も起こります。モスクワへの突進では麾下の第2装甲師団が他のどの部隊よりもモスクワに近づいたのでした。

 この前進の際、T-34の反撃に会い続け、シュトゥンメは第10装甲師団長フィッシャー少将に「やれやれ、これでは強化された偵察パトロールに過ぎない!」と言ったそうです(『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P178)。


 モスクワの戦いの最終盤で第40自動車化軍団は第4軍(フォン・クルーゲ)に移され、そこでシュトゥンメは第19装甲師団と歩兵師団2個を指揮して1942年初頭の退却戦を戦います。その後、第40自動車化軍団は南方軍集団へと送られ、「青作戦」の準備を始めました。

 ところがその地で、シュトゥンメの軍歴を台無しにしてしまう事件が起こります。

 1942年6月19日(「青作戦」開始の4日前)、シュトゥンメ将軍はあるコミッサール(ソ連の人民委員)のものであったハリコフ近郊の別荘に司令部を置いており、そこで麾下の3人の師団長(第3装甲師団、第23装甲師団、第29自動車化歩兵師団の)と共にクリミア産のシャンパンで乾杯し、様々なごちそうに舌鼓を打っていました。軍団参謀長のゲルハルト・フランツ中佐を初めとする数名の幕僚も同席していました。その和やかな雰囲気の中に、緊急の知らせが入りました。第23装甲師団の作戦参謀であるライヘル少佐を乗せたフィーゼラー・シュトルヒ観測機が行方不明で、ソ連軍の陣地内に墜落したのではないかというのです。


 ↓OCS『Case Blue』の1942年6月5日ターン開始キャンペーンの初期配置におけるハリコフ近郊(青く塗られているヘクスがハリコフの大都市ヘクスです)。

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 シュトゥンメは青ざめました。ライヘル少佐はシュトゥンメの許可を得て「青作戦」の概要を記したメモと地図を持っていたのですが、この作戦の情報を文書にすることをいかなる将校にも厳しく禁じるという命令がヒトラー自身によって出されていたのです。シュトゥンメは直ちにそのシュトルヒの本格的な捜索を命じ、パーティーはお開きとなりました。

 歩兵部隊が、シュトルヒがソ連軍側の陣地に近い方に墜落したを目撃していました。すぐにパトロール隊が出動し、ライヘル少佐とパイロットが死んでいるのを発見しましたが、地図帳とブリーフケースはなくなっていました。ソ連軍側がすでに回収していたのです(ただし、この書類の話を聞いたスターリンはそれをただちに偽物だと決めつけてしまったため、青作戦の奇襲性は失われずに済みました)。

 シュトゥンメはことの顛末を上級司令部に報告せざるを得ませんでした。6月20日、総統大本営に事件の概要を記した報告書が届いてヒトラーは激怒し、ライヘル少佐の師団(第23装甲師団)長と軍団長(シュトゥンメ)を軍法会議にかけると息巻きます。

 その後の調査はOKWの総司令官であるヴィルヘルム・カイテルが行うことになりました。シュトゥンメとその参謀長フランツは6月26日に職務を解かれ、第23装甲師団長(フォン・ボイネブルク=レングスフェルト)は7月20日に解任されました。シュトゥンメとフランツは、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングを裁判長とする特別軍事法廷にかけられます。

 裁判は一日で終わり、二人は有罪となりました。シュトゥンメは5年、フランツは2年の禁固刑と宣告されたのです。しかし、ゲーリングはこの二人の態度に非常に感銘を受けていました。ゲーリングは裁判が終わった後、二人と握手して「君達は勇気を持って誠実に語り、まったく言い訳することもなかった。私は総統にそのことを報告しよう。」と言ったそうです。また、南方軍集団司令官のフォン・ボック元帥はヒトラーとの次の会談の機会に、二人のために直訴しました。それらの結果、ヒトラーはわずか4週間の拘禁で刑を免除し、二人を現役に復帰させました。彼らは二人とも北アフリカに送られることになりました。アフリカ装甲軍司令官のロンメルが重病(慢性的な胃痛と肝臓病、血圧障害など)を患っていて代わりの指揮官を要請していたため、シュトゥンメはその代理司令官、フランツはアフリカ軍団の参謀長に任命されたのです。


 シュトゥンメは1942年9月16日にエジプトに入り、19日にロンメルの司令部に到着して同日、イタリア軍のカヴァッレーロ元帥達と会談を持ちました。そして22日、ロンメルは装甲軍の指揮をシュトゥンメに委譲します。この時のことをロンメルはこう書いています。

 私が、英軍の大攻勢があった場合には、アフリカ戦域に戻るために治療を中断するつもりであると聞いて、シュトゥンメはあまり嬉しそうではなかった。私が彼を信じていないというように受け取ったのだろう。だが、それはまったく逆で、むしろ私は確信していたのである。もし、シュトゥンメが英軍のことをよく知らないとしても、エル・アラメイン正面に危機が訪れた場合に、このきわめて有能な装甲部隊指揮官が適切な決断を下せないことなどあるわけがない、と。だが、あいにく、どんな代理人に対してだろうと、自分の経験を言葉で伝えるのは不可能なのだ。
『「砂漠の狐」回想録』P262



 シュトゥンメが着任した後の頃のことを、アーヴィングはこう書いています。

 ロンメルの代理が着任したのは9月19日になってからであった。ゲオルク・シュトゥンメは大柄【ママ】で愛想のいい戦車戦の専門家で、先ず北アフリカの枢軸軍の間に新たな夢囲気を作り上げた。ケッセルリングはシュトゥンメがロンメルよりも情緒的に安定した人物であることを知り、ドイツ軍とイタリア軍の間および、指揮官とその部下の将兵との間の関係がそこなわれていたのを改めようとするシュトゥンメの動きを、好意的な目で見守っていた。
『狐の足跡』上P295



 しかし当時すでにエル・アラメインにおける英連邦軍の優位は絶大なものとなっており、しかも枢軸軍側は燃料さえ事欠いていました(ロンメルは後に、シュトゥンメが燃料の使用を厳しく制限していなかったために後に枢軸軍が恐るべき窮地に陥ったとほのめかしてもいます)。

 1942年10月23日、いわゆる第3次エル・アラメインの戦いが英連邦軍の攻勢開始によって幕を開けました。シュトゥンメは翌朝から前線へ偵察に出かけました。将校達は引き止めたのですが、シュトゥンメが聞かなかったのだといいます(『Mythos Rommel』P118)。またこの日、シュトゥンメはこう言っていたそうです。

 10月24日に出発する前、シュトゥンメは、ヴェストファルに対して、こう述べたという。ロンメルの復帰を請願したほうが目的にかなっていると思われる、自分にはアフリカ戦域の経験が少なく、英軍の図抜けた戦力と破滅的な補給の状況に鑑みて、この戦いを成功裡に遂行できるかどうか、確信できないからだ、と。
『「砂漠の狐」回想録』P278



 10月24日の経緯について、パウル・カレルの『砂漠のキツネ』にはこう書かれています。

 最近アフリカに来たばかりの機甲軍代理総司令官シュトゥンメ将軍は勇敢な人物で、ロンメルの伝統に従い、みずから最前線で指揮をとらねばならぬと思い込んでいた。そこで軍情報部主任ビュヒティング大佐を伴っただけで《警報路》を通って前線へ急行し、28高地近くの激戦地へ向かい、そこでイギリス軍【『Mythos Rommel』P118によればオーストラリア軍】の機関銃と対戦車砲につかまった。
 ビュヒティングは頭部に致命傷を受け、運転兵は装甲車をめぐらして逃げようとした。とっさに道路にとびおりていたシュトゥンメは、疾駆する車にしがみついたが、運転兵が気づかぬうちに転落したまま動かなかった。彼を収容したのは【第164軽師団の】第125連隊第1大隊の斥候隊だった。第2中隊のホルツシュー曹長とキール伍長が発見したのである。将軍は息たえていた【『Mythos Rommel』P118によれば、夕方まで行方不明で、発見された時には遺体は掠奪されていたといいます。また、同書や他の資料でも一致して、心臓発作を起こして死亡したと記述されています】。
 軍司令部の交換手は、ヴェストファール大佐から参謀次長にあてたこの悲劇の報告をつなぐとき、接続スイッチを操る手がふるえた。彼は思い出していた。シュトゥンメ将軍の着任以来、ほとんど毎夜【エル・アラメインから少し西の海岸沿いの集落であるメルサ・マトルーに置かれていた】野戦バクテリア研究班につないだ会話のことを。はじめ彼は好奇心に聞き耳を立てたものだった。司令官が研究班になんの用があるのか? 彼が聞いたのは--
「ベルベルかい?」--「そうよ、おとうさま」
 シュトゥンメ将軍は娘と話していたのである。彼女はマルサ・マトルーのバクテリア研究班で働いていたのだ。最初の会話がすむと交換手はマルサ・マトルーの相手に言った。「おい、きいたか? 親子でアフリカだぜ」 マルサ・マトルーの相手はシュヴァーベン訛まる出しでこたえた。「なあ、気が遠くなるかと思ったな。一年ぶりのおなごの声だもんな」
 軍司令部交換台の上等兵は10月24日の夜、このことを考えないわけにはいかなかった。
『砂漠のキツネ』P279



 ロンメルはこう書いています。

 突如、心臓発作が将軍を襲い、彼は車から転がり落ちたのであった。……シュトゥンメ将軍は、ずっと前から高血圧で悩んでおり、熱帯勤務には向いていなかったのである。われわれはみな、彼の急死を悼んだ。彼は、軍をうまく動かし、昼夜を問わず前線を訪れるために、できる限りの努力を払ったのだ。
『「砂漠の狐」回想録』P278



 ただし、アーヴィングはこのようなことも書いています。

 10月25日、遅くなってからロンメルが彼の司令部のトラックへ帰って来たときには、すでにエル・アラメインの激戦が開始されてから四八時間以上経っていた。敵の砲声は耳をつんざくような激しさであった。そこでロンメルは、敵が攻撃準備のために集結しつつあるとき、どうしてわが軍の砲兵は敵に砲撃を加えなかったのかと訊いた。すると、フォン・トーマ将軍【……】とヴェストファルの両名が、亡くなったシュトゥンメ将軍がそのような射撃を実施するのは砲弾の浪費であるといって、これを禁じていたからであると説明した。それは致命的な失策であった、というのがロンメルの考えであった。そのおかげで敵は前哨陣地を蹂躙し、非常に少ない損害をこうむっただけで、ドイツ軍の地雷原を占領することができたからである。
『狐の足跡』下 P26


アフリカ装甲軍における最高の師団長と見なされていたが、エル・アラメインの戦いで戦死したフォン・ビスマルク将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、アフリカ装甲軍における最高の師団長と見なされていたが、エル・アラメイン(アラム・ハルファ)の戦いで戦死したフォン・ビスマルク将軍についてです。



Bundesarchiv Bild 101I-784-0232-37A, Nordafrika, Erwin Rommel, Georg v. Bismarck

 ↑ロンメル(左側)と話すフォン・ビスマルク(Wikipediaから)



 フォン・ビスマルク家は1270年までさかのぼることのできる貴族の家系で、有名な「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクはその一族の者でした。

 ゲオルク・フォン・ビスマルクは1911年に士官候補生として入隊し、第一次世界大戦ではヴェルダン、カルパティア、イタリアで戦って二級と一級の鉄十字章と、ある峠を取った功績によりホーエンツォレルン家の剣付き勲章も授与されました

 敗戦後もシレジアで「戦後の戦争」に従軍し、1920年に軍に受け入れられます。1924年に第2自動車化歩兵大隊の中隊長となり、自動車化部隊の可能性をすぐに見て取った彼は、その後の軍歴を自動車化部隊、あるいは装甲部隊の指揮に捧げることになりました。

 1938年に第7狙撃兵(自動車化歩兵)連隊(当初の名称は第7騎狙撃兵連隊)の連隊長となり、ポーランド、ベルギー、ルクセンブルク、フランスで指揮を執りました。この第7狙撃兵連隊はロンメルが指揮する第7装甲師団に所属しており、ロンメルはフォン・ビスマルクの活躍に強い印象を受けたのです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第7装甲師団ユニット。

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 フランス戦の後の1940年12月20日、フォン・ビスマルクは第20装甲師団の第20狙撃兵旅団(師団内の狙撃兵連隊2個をまとめた部隊単位)の旅団長に任命されます。彼は東部戦線でこの部隊を率い、ミンスク、ヴィテブスク、スモレンスク、ヴャージマなどの激戦を戦いました。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第20装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第20装甲師団ユニット。

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 ところが第20装甲師団長であったホルスト・シュトゥンプが東部戦線での心労で健康を害したため、1941年9月10日からフォン・ビスマルクが師団の指揮を引き継ぎます。彼は12月18日まで同師団を指揮していましたが、後任の師団長としてフォン・トーマ(後にドイツアフリカ軍団長などを務め、エル・アラメインで捕虜になった人物)が着任し、ロンメルの要請でリビアに派遣されることになりました。
(ただし、『ドイツ装甲部隊全史Ⅲ』によれば、シュトゥンプが10月13日まで師団長で、10月14日からフォン・トーマが師団長となっていました)



 フォン・ビスマルクは1942年1月5日(ロンメルの第2次攻勢の前の時期)、アフリカ装甲集団の参謀として着任します。しかし第21装甲師団長であったベットヒャーが体調不良を訴えて師団長を退いたため、2月11日(ロンメルの第2次攻勢がガザララインで落ち着いた頃)に第21装甲師団長に就任しました。


 ↓OCS『DAK-II』の第21装甲師団(ガザラの戦いの頃)。

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 ガザラの戦いではトブルク占領(6月)に大いに功績を挙げます。


 フォン・ビスマルクは傑出した戦術指揮官であり、当時アフリカ装甲軍における最高の師団長と見なされていましたが、第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)が開始された翌日の1942年8月31日、アラム・ハルファ高地の近くで、乗っていた戦車が爆発して戦死しました。資料によって、対戦車地雷を轢いたのか、英連邦軍の戦闘爆撃や対戦車砲の攻撃を受けたのかなどに関して、見解は異なっているそうです。

砲兵畑の将軍でありながら見事な指揮を見せ、第21装甲師団長にもなったベットヒャー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、砲兵畑の将軍でありながら見事な指揮を見せ、第21装甲師団長にもなったベットヒャー将軍についてです。



Bundesarchiv Bild 183-B18239, Nordafrika, Rommel mit Generalmajor Böttcher.2

 ↑ロンメル(右)とベットヒャー(左)(Wikipediaから)



 カール・ベットヒャーは複数の士官学校で学び、1909年に上級将校として軍に入りました。第一次世界大戦では主に砲兵隊で部隊を指揮して戦果を挙げ、戦争中に砲兵学校の教官も務めました。戦争末期には砲兵大隊長となっており、戦後も軍に残ります。

 1920年代をポーランドからの侵攻が現実味を帯びていた孤立した東プロイセンでの軍務で過ごし、機動作戦の貴重な経験を積みました。その後は砲兵大隊長、砲兵連隊長、要塞の砲兵将校などを歴任します。

 ポーランド戦時には国境警備部隊にいましたが、1939年9月30日にポツダムの陸軍士官学校で編成されていた新部隊である、第104砲兵司令部(Arko 104)の司令官に任命されました。この第104砲兵司令部は司令部直轄の特別な砲兵(迫撃砲、重砲兵、それにロケット砲など)で構成されており、フランス戦で活躍し、1941年初頭にはアフリカ軍団が専門的な重砲の支援を必要としていたリビアへと派遣されます。

 春に北アフリカへと到着したベットヒャー率いる砲兵群は1941年のすべての主要な戦闘に参加し、トブルクへの進撃と包囲、イギリス軍によるトブルク救援作戦(ブレヴィティ作戦、バトルアクス作戦、クルセイダー作戦)などで活躍しました。砂漠の開けた地形では、爆撃機、急降下爆撃機、戦闘爆撃機などの総計よりも、砲撃によって最も多くの死傷者を出したそうです。

 ロンメルはクルセイダー作戦の最中に「鉄条網への進撃」を決断した際、ベットヒャーを敵を阻止する部隊の責任者に任じました。しかしベットヒャーに預けられた兵力はごくわずかなものでしかなかった上、ロンメルが行方不明になっている間に英連邦軍はトブルク方面に大規模な攻撃を仕掛けてきたため、突破されてしまうのは時間の問題だと思われました。

 双方共が大混乱で何が起こっているのか分からない中、ベットヒャーは見事な指揮で連合軍の攻勢を防ぎます。ロンメルがトブルク方面に戻ると、ベットヒャー麾下の部隊がかろうじて持ち堪えているのを発見しました。ロンメルは即座に英連邦軍に攻撃をしかけて撃退し、トブルク包囲環は維持されたのです。

 ベットヒャーは砲兵部隊だけでなく、非砲兵部隊をも非常に上手く指揮できることを証明しました。彼への騎士鉄十字章への推薦文には、「アフリカ軍団が到着するまで敵の突破を阻止できたのは、ひとえに彼の巧みなリーダーシップと、自ら先頭に立つ指揮によるものだった」と書かれているそうです。

 その2日後、1941年11月29日に第21装甲師団長であったフォン・ラーフェンシュタイン将軍が捕虜になってしまった為、ロンメルはその後任にベットヒャーを選びます。


 ↓OCS『DAK-II』の第21装甲師団ユニット。

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 師団長に就任した初日(12月1日)、ベットヒャーはイギリス第7機甲師団の進撃を阻止するという重要な役割を果たしました。


 その後ロンメルは一時撤退を行い、ベットヒャーはロンメルから騎士鉄十字章を推薦され、1941年12月31日に授与されました。翌月にはロンメルは第2次攻勢を行って再びガザララインまで到達しますが、砂漠の過酷な環境でベットヒャーの体調は(他の将軍達と同じように)悪化しており、1942年2月10日に師団長職を離任し、2月18日に飛行機でヨーロッパに戻ります。

 その9ヵ月後、まだ完全には回復していなかった(完全に回復したのは1944年になってからだったそうです)ものの、1942年11月25日、編成中であった第345歩兵師団の師団長に就任します。この師団はフランスに送られ、スターリングラードで潰滅した第29自動車化歩兵師団の後継となる第29装甲擲弾兵師団となるための編成作業が行われました。同師団はシチリア島へ送られ活躍することになりますが、ベットヒャーはそちらへは行かず、1943年4月9日にフランス南岸の都市ナルボンヌで第326歩兵師団の副司令官に任命されます。

 5月8日には師団長が別の役職に就くことになったため、ベットヒャーが師団長となりましたが、彼は再び体調を崩し、5月31日に師団の指揮を放棄し、総統予備となりました(この師団は後にノルマンディー戦に投入され、壊滅的な打撃を受けました)。

  1943年10月にはオランダで第347歩兵師団長となりましたが、再び12月には総統予備に戻ります。1944年3月10日、ベットヒャーはクロアチアの第2装甲軍に所属する第305高等砲兵司令部を指揮することになり、対パルチザン戦や、後にソ連軍に対して戦いました。1945年3月10日には第4特殊任務砲兵司令部の司令官となり、終戦まで東部戦線の第2装甲軍を支援し続けます。終戦時、彼はソ連軍にではなく、ギリギリのところでイギリス軍に対して降伏することができました。

 1947年に捕虜収容所から解放されましたが、かつて住んでいた場所は鉄のカーテンの向こう側でポーランドに併合されていたため、西ドイツ側に住み、1975年に85歳で亡くなりました。

 

第15装甲師団長、第5装甲軍司令官を務めたフォン・フェールスト将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第15装甲師団長、第5装甲軍司令官を務めたフォン・フェールスト将軍についてです。



 写真は、↓ですとか。

General der Panzertruppe Gustav von Vaerst




 グスタフ・フリードリヒ・ジュリアス・フォン・フェールストはヴェストファーレンの旧貴族の家の出でした(ドイツ語版Wikipedia「Gustav von Vaerst (General)」では、「フリードリヒ」と書いていた部分は「フリッツ」となっています)。

 1912年に士官候補生として軍隊に入ります。第一次世界大戦では西部戦線、東部戦線で戦い、敗戦後も義勇騎兵隊に入ってポーランド人からドイツの国境を守るのに貢献しました。

 1919年11月に軍に受け入れられ、様々な部隊に所属し、戦術教官なども務めます。カービン銃の卓越した射撃技術で評判になり、表彰されたこともあったそうです。

 1938年1月、フォン・フェールストは第2装甲師団隷下の第2狙撃兵連隊長に任命されました。ポーランド戦時には第2狙撃兵旅団(恐らく第2狙撃兵連隊の他、若干の砲兵を含む)の旅団長となり、続けてその役職でフランス戦、ギリシャ戦を戦います。フランス戦時にはブーローニュ攻略の功績により、騎士鉄十字章を受勲しました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第2装甲師団ユニット。

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 その後、ドイツ語版Wikipediaによれば騎兵学校の副司令官に任命されたとありますが、『Rommel's Desert Commanders』では東部戦線でもそのまま指揮を執ったと書かれています。第2装甲師団長のファイエル将軍は、フォン・フェールストをこう評価していたそうです。
「自分自身に高い基準を課す、素晴らしい人物である。実践的で、明確で、冷静で、敵を眼前にして命令を出すリーダーシップと決断力がある!」

 1941年の終わり頃、彼はアフリカ装甲集団へ派遣されることになり、12月9日に第15装甲師団の指揮を執り始めます(クルセイダー作戦の主戦闘は12月4日頃に終わっていましたが、その後も小さな戦闘が起こっており、12月5日に先代師団長のノイマン・ジルコウ将軍が瀕死の重傷を負っていました)。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団ユニット。

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 ロンメルの副官であったハインツ・シュミットはこのように記しています。

 ノイマン・シルコウが戦死した後フォン・ファーエルスト少将が師団長となり、たちまち部下の信頼を得た【……】
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P164,5



 また、ロンメルの第2次攻勢の前の時期の逸話として、このような話がパウル・カレルの『砂漠のキツネ』に書かれています。

 もしこのイギリス将軍がその【1942年】元旦、第15機甲師団長フォン・ヴェルスト将軍について塹壕を視察していたら、全然別の電文を送ったかもしれない。どの塹壕からも軍規どおりの報告があったが、ただ一人の哨兵が双眼鏡をのぞいたまま報告しなかった。「これ、今年はしっかりやれよ」 将軍は、哨兵を元気づけた。「閣下もご同様に」 陽気な答えがもどってきた。老将軍は大声で笑ったのである。
『砂漠のキツネ』P121


(「老将軍」という書き方ですが、フォン・フェールストは1894年生まれでロンメルより3歳年少、この時48歳となります)



 翌1942年5月26日、フォン・フェールストはガザラの戦い(「テーゼウス作戦」)の初日に重傷を負い、師団長職を離任しました。しかし8月8日(『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば7月8日)に師団長職に復帰し、第1次エル・アラメインの戦いで戦います。第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)の時には、途中の8月31日にドイツアフリカ軍団長ネーリングが負傷したため9月17日まで軍団長代理も務めました。

 第3次エル・アラメインの戦い(10月23日~11月5日)でも戦いましたが、11月11日に病気を訴えてヨーロッパに戻ります。


 その後回復したフォン・フェールストは、チュニジアでの戦いでこれまで第5装甲軍司令官であったユルゲン・フォン・アルニム将軍が在アフリカ枢軸軍全体の指揮を執るアフリカ軍集団司令官に就任することになったため、1943年3月9日に後任の第5装甲軍司令官となりました。


Bundesarchiv Bild 101I-787-0502-34A, Generaloberst von Arnim und General von Vaerst

 ↑フォン・フェールスト(左の後ろ姿)を迎えるフォン・アルニム(右)。(Wikipediaから)


 フェールストは優れた軍司令官であることを証明し、チュニジアで最大限の抵抗を続けました。しかし5月には補給線が完全に崩壊し、在アフリカの枢軸軍全体が降伏を余儀なくされました。



Captured German Senior Officers From the African Campaign Arrive at a Prisoner of War Camp in Britain, 10 June 1943 TR980

 ↑捕虜となったアフリカ戦線のドイツ軍上級将校達がイギリスの捕虜収容所に到着したところ(1943年6月10日)。収容所長のトップハム少佐と陸軍省代表がドイツ軍将校を出迎える。この中にフォン・フェールスト将軍も映っているそうです。(Wikipediaから)



 フォン・フェールストは1947年に捕虜から解放され、ドイツに戻って残っていた領地で隠遁生活を送ったそうでが、その地での赤十字の再建にも尽力したとか。亡くなったのは1975年のことでした。

北アフリカ戦で活躍した第90軽師団について

 今回は、北アフリカ戦で活躍した第90軽師団についてです。


 文献資料からだと色々とごちゃごちゃでややこしいので、基本的に英語版Wikipedia「90th Light Infantry Division (Wehrmacht)」の記述を元にまとめておこうと思います。



 1941年6月26日(バトルアクス作戦の少し後)、OKHはドイツ国内において「Kommando zbV Afrika(アフリカ特殊任務部隊)」の為の師団司令部幕僚の任命を命じました。この師団は、北アフリカに展開するDAKのバランスを調整する意図で、歩兵部隊を追加するためにアフリカに派遣する予定になっていました。

 1941年8月末から9月中旬にかけて編成本部がアフリカに送られ、ソルーム地区を指揮するようにされた上で、1941年10月15日に最初の部隊がいくつか配属されました。10月20日にはさらなる部隊(第155歩兵連隊、第900工兵大隊、第605対戦車大隊)が加えられて増強され、「Division z.b.V. Afrika(アフリカ特殊任務師団)」と呼ばれるようになります。


 ↓OCS『DAK-II』のアフリカ師団ユニット+α。

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 その後?(他に)第288特殊部隊と第361連隊もこの師団に配属されたようです。

 前者についてはこちら→OCS『DAK-II』の「第288特殊部隊」ユニット (2017/03/13)

 第361連隊は、その構成員のほとんど(300名)が元々「フランス外人部隊」に所属していたドイツ人達でした。1940年にドイツがフランスを征服しヴィシー政権が成立して数日後に、フランス外人部隊のドイツ兵達が強制的にドイツ軍に編入されたものだそうです。資料等に詳細には書かれていませんでしたが、フランスに忠誠を誓うフランス外人部隊に入るくらいのドイツ人ですから、ナチスに対して極めて批判的な人達ばかりだったのではないでしょうか。彼らをドイツ軍内に組み込んで軍務を与えるのは難しいと考えられていたのですが、ドイツ国防軍は絶え間ない追加兵力の必要性に迫られており、そのためにこのようなことになったのだとか。

 また他にも、フランス領北アフリカに置かれていたフランス外人部隊のドイツ人であるとか、ナチスに対して反抗的な政治犯が集められていた部隊からとか、「ニュージーランド軍の捕虜収容所から救出された500名」(『グランドパワー アフリカ軍団』P130)などの兵士達もこの師団に集められていたそうです。

 ロンメルの一団の中でも最も多彩で、服装は型にはまらず、ドイツ軍の標準からすれば軍規もゆるやかであったそうです(『パットン対ロンメル』P217)。


 1941年11月28日(クルセイダー作戦の真っ只中)に「第90軽アフリカ師団」と改名され、42年3月には「第90軽師団」と改名されます。この師団はその後5年間の存続期間中に何度も名称が変更されましたが、「アフリカ師団」という愛称でその後もずっと呼ばれ続け、ドイツ軍の師団の中で唯一アフリカで大部分が編成された師団でした。


 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(同じ部隊名で異なる時期のユニットもすべて貼っています)。

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 この師団は戦車をまったく持っていませんでしたが、比較的強力な火力を有し、最初の頃の自動車化の程度は低かったものの、後に自動車化歩兵部隊も強力となりました。シディ・レゼクの戦いなどで活躍し、頼もしい「北アフリカのドイツ軍の3つ目の師団」となったのです。ただし、第15、21装甲師団とは異なって防衛任務や牽制攻撃等に使用されることが多く、2つの装甲師団が所属していたドイツアフリカ軍団にではなく、アフリカ装甲集団やアフリカ装甲軍の中の別の軍団内に配属されていたことが多かったようです。また、エル・アラメイン戦の頃にはまた自動車の不足を来たし、素早い撤退行動ができず師団の一部がパニックを起こして崩壊してしまったりもしました。


 ↓このような話もあったそうで。

 ラルフ・ベネットの著書『ULTRAと地中海戦略』(著者はイギリスの有名な暗号解読家)によれば、イギリスの暗号解読スタッフの一部は、次第に第90軽アフリカ師団の「ファン」になっていったという。師団について詳しく知るため、連日のようにこの師団を調査するようになり、「時には(第90軽アフリカ師団が)勝利を収めた時でさえ、一緒になって喜んだ」のだという。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP28





 他の部隊と同様、第90軽師団もチュニジアに撤退して戦い続けました。


 ↓OCS『Tunisia II』の第90軽師団ユニット。

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 第2ニュージーランド歩兵師団(英連邦軍の中でも結構精鋭の部隊)は第90軽師団とリビア/エジプトで何度も何度も戦っており、第90軽師団を「特別な敵」だと見なしていたそうです。1943年5月にチュニジアの枢軸軍の退勢が明らかになってくると、第2ニュージーランド歩兵師団長のバーナード・C・フレイバーグ中将は第90軽師団にメッセージを送ったそうです。
「あなた達第90軽師団の状況は絶望的だ。第90軽師団と第2ニュージーランド歩兵師団は2年間戦い続けてきたが、我々はあなた達を全滅させるようなことはしたくないのだ。」
 それへの返信はこのようなものでした。
「あなたのメッセージはありがたいし、我々の状況が絶望的であることも理解している。しかし、我々には果たすべき義務がある」


 第90軽師団は第2ニュージーランド歩兵師団からの攻撃を阻止し、その後の第56歩兵師団からの攻撃も撃退し続けましたが、第6機甲師団の攻撃とイギリス空軍の大量の爆撃により、ついに制圧され、他の残存の枢軸軍部隊とともに降伏しました。

(その後、第90装甲擲弾兵師団が後継師団として編成され、イタリア戦を戦いましたが、第90軽師団時代の兵員がいくらかでも含まれていたのか、今回良く分かりませんでした)



外人部隊出身者が多く含まれた第361アフリカ(歩兵)連隊を指揮して活躍したフォン・バルビー中佐について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、外人部隊出身者が多く含まれた第361アフリカ(歩兵)連隊を指揮して活躍したフォン・バルビー中佐についてです。



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 ↑フォン・バルビー(Metapediaから)



 ハンス=レヴィン・フォン・バルビーは1917年に士官候補生として陸軍に入り、第一次世界大戦を戦いました。1919年に除隊し、州警察に入隊。1936年にはデュッセルドルフ市の警察隊長になっていましたが、その年の終わりに彼の指揮する警察隊がドイツ国防軍に編入されることになり、再び軍に所属することになりました。

 フォン・バルビーは第二次世界大戦の開戦5日前に、新たに編成された第254歩兵師団隷下の第474歩兵連隊の第3大隊長に任命されました。彼はこの大隊を率いて1940年のフランス侵攻作戦にも参加しましたが、初日の5月10日に脚を負傷して戦場から退いたようです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第254歩兵師団ユニット。

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 回復した後、1940年12月1日に第255歩兵大隊第3大隊の指揮を任され、この部隊は訓練を行っていたようです。彼のこの部隊は1941年4月初め(ただしドイツ語版Metapedia「Barby, Hans-Levin von」では6月11日。こちらの方が正しそうな……?)に北アフリカに送られ、その後、アフリカ師団の構成部隊の一部となったかと思われます。

 「アフリカ師団」というのは後に「第90軽師団」となる師団です。この師団は結構興味深い存在で、これを機会に次のブログ記事としてまとめておこうと思います。


 ↓OCS『DAK-II』のアフリカ師団ユニット。

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 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(同じ部隊名で異なる時期のユニットもすべて貼っています)。

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 同年夏、フォン・バルビーは昇進して第361アフリカ連隊(後に第361歩兵連隊に改称)の連隊長となりました(彼がそれまで率いていた大隊はこの連隊の構成部隊になったのかもしれません)。ただしMetapediaによると、フォン・バルビーは1940年夏ではなく、1940年11月(11月18日からクルセイダー作戦が始まっているので、恐らくその最中)に連隊長であったグルント大佐が重傷を負ったため、同連隊の連隊長となった、とあります。


 この連隊には元は外人部隊に所属していた兵士が多く含まれていました。ロンメルはこの連隊の野営地に近づくと、いつも運転手にこう指示したそうです。
「スペアタイヤをロックしろ。361連隊に行くぞ」

(これがどういう含みかは書かれていないのですが、ロックしておかないとスペアタイヤを盗まれてしまうぞ、ということでしょうか?(^_^;)


 第361連隊は当初は自動車による輸送手段が不足していたため、移動しないで済むトブルク包囲の任務に回されていました。OCSのユニット上では、アフリカ師団の頃の第361連隊の移動モードの移動力は自動車化タイプの12で、第90軽師団時代の同連隊のそれは、低戦力の(古い)順から14、14、そして装軌の18となっています。

 同連隊は1941年秋から冬にかけて、いくつかの防御戦を戦って成功を収めます。フォン・バルビーはクルセイダー作戦での戦い中の1941年11月30日、シディ・レゼクでイギリス軍部隊を攻撃し、トブルク守備隊とその救援部隊との連携を妨げます。彼はこの功績で騎士鉄十字章を授与されました。


 1942年5月26日、ガザラの戦い(「テーゼウス作戦」)でフォン・バルビーは、クリューヴェル集団によるガザララインに対する陽動攻撃の先陣を切りました。不運なことに、彼は前線に近づきすぎて重傷を負いました。フォン・バルビーはその翌日、デルナの病院で息を引き取りました。


北アフリカ戦線で型破りな行動で知られるも、有能であったバーデ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、北アフリカ戦線で型破りな行動で知られるも、有能であったバーデ将軍についてです。

 「型破りな行動で知られる」という話ですが、私は今回調べ始めるまで全然知りませんでした(^_^; しかし当時北アフリカでは有名だったんでしょうね(英連邦軍の「ストレイファー」ゴット将軍なんかも、現代日本ではほとんど知られてないと思いますけども、当時は連合国内で非常に有名だったのだと思います)。



Bundesarchiv Bild 101I-315-1110-09, Ernst-Günther Baade (cropped)

 ↑バーデ(Wikipediaから)


 エルンスト=ギュンター・バーデは裕福な家庭に生まれ、十代のうちから馬術の経験を積んでいました。愛国心が強く、冒険心が旺盛だったバーデは、第一次世界大戦が勃発すると17歳になる直前に陸軍に志願し、騎兵部隊に入ります。

 終戦後、バーデは軍に残ることを望むも受け入れられず、その後4年間自分の土地で馬の飼育をしていましたが、1924年に再び軍に入ることができました。1937年には少佐になっており、それまでにバーデとその妻は国際的な馬術競技で有名な存在になっていたといいます。

 ポーランド戦では第17歩兵師団に所属して戦い、1939年12月14日、第Ⅰ/22騎兵連隊の連隊長に任命されます。そしてこの連隊を率いてフランス戦とバルバロッサ作戦に参加しました(同連隊が第1騎兵師団に属していたのはバルバロッサ作戦時には確実だと思いますが、フランス戦の時のことはちゃんとは確認できませんでした)。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第1騎兵師団ユニット。

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 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第1騎兵師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第1騎兵師団ユニット。

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 ユニットではⅠ/22は大隊規模になっていますが、英語版Wikipedia「1st Cavalry Division (Wehrmacht)」を見ていると、少なくとも名称上は連隊のようです。

 『Smolensk:Barbarossa Derailed』と『Guderian's Blitzkrieg II』の第1騎兵師団は、燃料を必要とせずユニット数が多いので便利に使える印象があって好きですね。というか、「OCSでは騎兵が最強(燃料不要かつ、困難な地形でも移動力消費が少ないので)」という説もあり、『Guderian's Blitzkrieg II』で途中に第24装甲師団に改編されるために除去されるのは「装甲師団なんかいらんから騎兵師団を残しておいてくれ……」と思ってしまうところであります(^_^;(実際には騎兵部隊には色々問題があったことについては、こちら→第二次世界大戦で騎兵はなぜ廃れたのか?(付:OCS『Case Blue』) (2019/04/18)




 バーデは1941年8月15日に負傷してしまいましたが、10月15日には実戦に復帰し、同じく第1騎兵師団に所属する第1自転車大隊の指揮官に任命されました(兵科マークの○の中に白と黒の模様があるのが自転車部隊です)。しかし11月中旬に第1騎兵師団は第24装甲師団へと改編されることになり、東プロイセンに戻され、バーデの第1自転車大隊は同師団の第4オートバイ大隊へ改編されます。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第24装甲師団ユニット(兵科マークで「/」の右下に小さく○○とあるのがオートバイ部隊です)。

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 ドイツ軍で唯一の騎兵師団がなくなってしまった為、バーデは自動車化部隊部門での昇進を目指しました。彼は東部戦線で第4オートバイ大隊を率いて上手く戦い、陸軍の人事部に影響力を持つ人達に自分が自動車化部隊を指揮する能力があることを納得させます。1942年4月に今度は北アフリカに派遣されたバーデは、第15装甲師団の将校達と短い訓練期間を過ごした後、第115狙撃兵(自動車化歩兵)連隊の連隊長に任命されました。



 ↓OCS『DAK-II』の42年1月22日(ロンメルの第2次攻勢)時点での第15装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『DAK-II』の42年5月26日(ガザラ戦)時点での第15装甲師団ユニット。

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 バーデは騎士道精神を重んじる紳士であり、ロシア戦線よりも北アフリカ戦線の方が適していました。彼は最初から頭角を現します。ヘッカー将軍の指揮のもと、ビル・ハケイムでフランス軍の防御を崩す攻撃を指揮し、トブルク攻略戦ではさらに顕著な働きをしました。バーデはこの戦いの功績で騎士鉄十字章を受勲しています(最終的には柏葉剣付騎士鉄十字章にまでなりました)。

 個性的で型破りなエルンスト・バーデは、もちろん我が道を行き、スコットランド製の織物と大剣を携えて戦場に赴くことで、すぐにアフリカ軍団の誰からも知られる人物となった。戦場でいつも、タータンチェック【格子柄の織物】のリボンがついた黒いベレー帽をかぶり、ルガー拳銃の代わりに巨大なクレイモア(スコットランド高地人が使用していた両刃の大剣)を持ち歩いていたのである。彼は完璧な英語を話し、それでイギリス軍の砲兵に対して間違った方向への指示を出したり、あるいはただ、敵を呼び出しておしゃべりしたりした。バーデは信じられないほど勇敢で、しばしば敵陣の裏側へと潜入する襲撃を指揮した。ある時彼は、自軍との間にイギリス軍の地雷原がある場所に入り込んでしまった。地雷原を突破する時間がなかったので、捕虜にしたイギリス軍の工兵軍曹を説得して、地雷原を抜けられる道を教えてもらった。軍曹がそれに従い、バーデが地雷原を抜けたところで、彼は軍曹を釈放したのである。

 バーデの振る舞いは、他の戦場ならば問題になったかもしれないが、アフリカ軍団では賞賛を含んだ娯楽をもたらしただけであった。彼は戦場で優れた指揮官であったため、部下達からも上官達からも尊敬されていた(ロンメルは忠誠と戦果を求めた。他に何も要求しなかったが、それらの無い者は受け入れなかった)。 バーデの突拍子もない行動は、陸軍最高司令部の怒りと苛立ちを買っていたが、ロンメルはそれに動じず彼を庇った。その後もバーデは、シチリアではハンス=ヴァレンティーン・フーベ、イタリアではアルベルト・ケッセルリング陸軍元帥によって、ラステンブルグ【総統大本営】の苛立ちから守られたのである。バーデはナチスを刺激するのを気にしていなかった。大戦後期にOKWは南方総軍に電信で、バーデがイギリスの無線網に電信を送り、メリー・クリスマスと祝ったというのは本当なのかと言ってきた。ケッセルリングは、その噂は本当ではないと答えた。それは嘘だった。噂は本当だったのだ。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P76,77



 「クレイモア」というのは、↓こういうものだそうです(Wkipediaから)。邪魔でしょうがなさそうだと思うのですが(^_^;

ClaymoreHighlanderReplica


 ただし、Google Booksで検索していて見つけた『The Fall of Europe』という本の中では、結構違った感じで書かれていました。

 北アフリカの砂漠では、ズボンの上にキルトを身に付け、通常は予備のものを入れるためのポシェットを吊っておく場所に、ホルスターに入れたルガー・ピストルをぶら下げ、夜間の装甲パトロールの指揮を執った。ある時、イギリス軍の戦線の背後に入り込み、将校を拉致してイギリス軍の地雷原を安全に誘導させ、降ろすと握手して礼を言い、自軍の戦線に戻るように言ったこともあるという。敵の前哨部隊への夜間襲撃が終わった後には、イギリス軍の無線網に電文を発信することもあった。「撃つな。今、帰るところだ。バーデ」。敵がそれに対処せざるを得なかったことは一度や二度ではなかったという。昨年1月、バーデの軍団長だったフォン・ゼンガーに、OKWの副官から激昂した電話があり、バーデ将軍がカッシーノでの敵とのクリスマスディナーに招待されそれを承諾したのは事実か、と尋ねられた。もちろん、そんなことはない、とフォン・ゼンガーはOKWを安心させた。しかし彼は、バーデ将軍がしたことは、敵に新年の挨拶を英語で無線で送っただけだとは付け加えなかった。

 このような話の大半は、間違いなく作り話か、少なくとも脚色されたものであった。しかし、そのきっかけとなった人物は、明らかにそうではなかった。彼は、最高の軍人貴族であり、また、そのような才能のある指導者であった【……】



 また、他の資料で、「頻繁に前線を視察に訪れ、兵士達に人気があった」というようなことが書かれていました。









 バーデは1942年7月28日、第1次エル・アラメインの戦い中に重傷を負いました。軍務に復帰したのは12月になってからで、この時イタリア軍最高司令部付きのドイツ軍将校に任命されました。

 1943年4月にバーデはシチリア島に派遣され、チュニジア戦と将来見込まれるシチリア戦のための様々な部隊編成に携わりました。その中には編成時に「シチリア師団(後に第15装甲擲弾兵師団と改称)」と呼ばれていた部隊もあり、バーデはその編成過程で師団長を務めたようです(シチリア戦が始まる前の6月9日に他の師団長に交代。)。この師団はOCS『Sicily II』では4つの戦闘団(KG)に分かれて入っています。


 ↓OCS『Sicily II』の第15装甲擲弾兵師団にあたる4つの戦闘団ユニット。

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 バーデはその後ローマでの連絡業務に戻っていたのですが、7月10日に連合軍がシチリア島に上陸すると、ケッセルリング元帥はバーデを「メッシーナ海峡の司令官」に任命しました。


 ↓OCS『Sicily II』のメッシーナ海峡周辺。

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 左側がシチリア島の北東端で、右側がイタリア半島の「つま先」です。バーデはこの両岸のすべての部隊や船舶を管轄し、対空砲を整備し、この水路を渡ってシチリア島へと増援される部隊や、シチリア島から撤退する部隊を統制しました。

 マップ上で対空砲っぽい印の右上に「2」とか「4」とかの数字が書かれているのが対空射撃力修正で、しかも航空基地による対空射撃修正もあったりするので、通常は2D6で11以上で当たりなのが、5以上で当たりとか言われたりします。

 また、通常の「海上輸送力」に加えて、メッシーナ海峡の4箇所の青い「←→」の航路で、1ターンに計4RE分の部隊を運べます(SPは運べません)。

 コードネーム「レーアガング【教育課程】」と呼ばれたバーデのシチリア島撤退作戦は、戦術的にも傑作であった。イギリス軍の公式戦史までもがこの作戦を「輝かしい成功」と記述している。バーデとその部下たちは、6日間でドイツ軍39,569名(うち負傷者4,444名)、車両9,605台、砲94門(バーデが指揮していた砲も撤退に成功したが、それらは除く)、戦車47輌、砲弾1,100トン、その他の装備・物資15,700トンを撤退させたのである。しかもレーアガング作戦が始まる前に、12,000人以上のドイツ兵、4,500台の車両、5,000トンの物資がシチリア島へと送り出されてもいた。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P80

 アメリカの著名な海軍史家、サミュエル・エリオット・モリソンは後にこう書いている。「このキャンペーンの最後のエピソードは、連合軍側の誰もがそれにこだわらなかったこともあって、適切な注目を浴びることはなかった。枢軸軍がメッシーナ海峡を越えてシチリア島を脱出したことだ。これはダンケルク、ガダルカナル、キスカと並ぶ、この戦争中の優れた海上退却であった。」 また、アメリカの著名な軍人であるマーティン・ブルーメンソンは、7月16日にはすでにドイツのフェリーが運航されていたとコメントしている。彼は、バーデが「イタリア当局が行っていた運営とはまったく別の、冷静で効率的な、機械の如きサービスを運営していた」と述べた。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P79




 撤退作戦完了後もバーデはイタリア方面の第14装甲軍団内に留まっており、重傷を負った第65歩兵師団長の代理を短期間務めたりしましたが、1943年12月20日に第90装甲擲弾兵師団(北アフリカ戦の第90軽師団が潰滅した後の後継師団)の師団長に任命されます。

 バーデはモンテ・カッシーノの戦い、ゴシック・ラインの戦い、アルノ川への退却で同師団を指揮しました。その過程で彼は優れた防御指揮官であり、部隊の扱いに長けていることを証明し、陸軍人事部もそれを認めて少将(1944年2月1日)、中将(8月1日)に昇進させました。

 バーデは1944年2月、モンテ・カッシーノ頂上でライダー少将のアメリカ軍第34歩兵師団に大恥をかかせた。カッシーノとヒトラー戦の防衛で高い評価を受け、第10軍司令官フォン・フィーティングホフ大将はバーデとハイドリヒを師団長として「ずば抜けている」と評した。
『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P179





 1944年12月9日、バーデ将軍は狙撃兵に撃たれました。治療のためにドイツ本国に戻って総統予備となり、軍団長となるための2週間のコースに参加します。さらに6週間の予備役期間を経て、1945年3月1日に西部戦線の第81軍団の指揮を任されました。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第81軍団司令部ユニット。

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 バーデは3月にケルンでアメリカ第1軍と戦い、この街を失ったものの、アメリカ軍がライン川の橋を渡る前にすべての橋を爆破することに成功しました。しかしこの頃までに、自分の発言に気を付けるということをしてこなかったバーデの反ナチス的な発言や態度が問題になっていました。親ナチスのB軍集団司令官ヴァルター・モーデル元帥はバーデに司令部への出頭を求めます。バーデは罠だと思ったものか、体調不良を訴え、3月13日に第81軍団の指揮を放棄しました。

 バーデは4月18日頃に呼び戻され、国民突撃隊(14歳以下の少年と60歳以上の老人が中心)の検査官に任命されました。しかしバーデは、(ミッチャム氏の記述によれば)自分が信じたことのない失われた大義のために、罪のない人々を犠牲にすることに興味が持てず、ほとんど何もしなかったといいます。

 ある資料によると、戦争末期にバーデはSSの高官に脅迫され、そのSS高官を撃って身を隠したといいます。4月24日頃、バーデは自分の領地の近くでイギリス軍の戦闘爆撃機に撃たれて瀕死の重傷を負います。彼は病院に運ばれましたが、1945年5月8日、終戦の日に亡くなったのでした。


ロンメルの下で戦闘団や工兵を指揮し、後に装甲師団長なども務めたヘッカー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ロンメルの下で戦闘団や工兵を指揮し、後に装甲師団長なども務めたヘッカー将軍についてです。



 写真は、↓にありました。

Hecker, Hans



 ハンス・ヘッカーは1914年に士官候補生として砲兵連隊に入りましたが、翌年工兵に転属しました。その年末に重傷を負って復帰は2年後になりましたが西部戦線で活躍し、勲章も授与されています。

 1919年に除隊しましたが1924年に工兵少尉として復帰し、工兵部隊の中隊長や自動車化の戦術・技術担当官、歩兵学校の教官、国防省職員、OKHの将校などを歴任しています。

 少佐となっていたヘッカーは1938年に第29自動車化歩兵師団の工兵大隊長に任命されました。この師団は「Falke-Division(隼師団)」とも呼ばれたドイツ陸軍の中でも優秀な師団であり、ヘッカーにとってこの師団での任務は貴重な経験となりました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第29自動車化歩兵師団ユニット(工兵大隊はユニット化されていません)。

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 ヘッカーはこの第29自動車化歩兵師団の工兵大隊を率いて、ポーランド、ベルギー、ダンケルクで大きな成功を収め、騎士鉄十字章を授与されました。その後のフランス征服作戦(「赤の場合」)にも従軍し、イギリス侵攻作戦に備えていましたが、バルバロッサ作戦に参加し、グデーリアン麾下で師団は活躍します。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第29自動車化歩兵師団ユニット。

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 しかし1941年10月下旬にヘッカーはドイツに呼び戻されて数週間の休暇を与えられた後中佐に昇進し、アフリカ装甲集団に将校として配属されることになりました。短いオリエンテーションの後、アフリカ装甲集団の「Pionierfuehrer」(英文ではchief engineer officer)に任命されます。(恐らくその役職に対して)階級が低めであったので12月17日に早めに大佐に昇進させられ、1942年1月30日にはアフリカ装甲集団はアフリカ装甲軍に格上げされ、ヘッカーは装甲軍の同じ役職に就いたそうです。

 「Pionierfuehrer」がどういう役職か分からないのですが、パウル・カレル『砂漠のキツネ』の和訳本では、ヘッカーは割と一貫して「工兵指揮官ヘッカー大佐」と記されています。装甲軍全体の工兵を管轄したりしつつ、必要に応じて前線指揮官も務めたものなのでしょうか。


 ガザラの戦い(テーゼウス作戦)の時にロンメルは、作戦の一部として小規模な上陸作戦も行うことを企図しており、その上陸作戦部隊の指揮官としてヘッカーを選出しました。この選出は、ヘッカーがイギリス本土上陸作戦に関わったことがあったからであったらしいです。


 ↓OCS『DAK-II』のヘッカー戦闘団ユニット(右側の3ユニットを統合して一番左のヘッカー戦闘団を作る)。

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 ガザラの戦いの時のヘッカー戦闘団およびヘッカー大佐の動きについては以前、OCS『DAK-II』:ガザラ戦で敵後方に上陸しようとしていたヘッカー戦闘団 (2018/07/30)でかなり詳しく調べて書いたので、そちらをご覧下さい。簡略に書けば、上陸作戦は中止されましたが、その後ビル・ハケイムの自由フランス軍部隊を撤退させるのにヘッカーは大きな力を発揮しました。
(そのブログ記事に今回『Rommel's Desert Commanders』のヘッカーの項からの情報で付け足せる情報もあるっぽいのですが、伝記的なものを書くことを優先して、やめておきます(^_^;)



 ヘッカーはガザラ戦中に負傷しましたが、その治療が終わるとアフリカ装甲軍の「Pionierfuehrer」としての任務を再開しました。トブルク攻略とエジプト侵攻では小さな役割を果たします。ロンメルが第1次エル・アラメインの戦いで停止させられた後、ヘッカーはイギリス軍の地雷原をドイツ軍の地雷原に変換したり、ガザララインから地雷を回収してきて歩兵を守るために新たに敷設する役割を担いました。

 パウル・カレル『砂漠のキツネ』には、このような記述があります。

 プファンツァーゲル少尉と中隊長ユンカースドルフ中尉は、ロンメルから呼ばれ、第433戦車歩兵連隊戦闘指揮所へ駆けつけた。前線指揮官会議に出席したロンメルが、自分のアイディアを熱心に説明していた。アラメイン陣地をふつうの地雷だけでなく、彼が悪魔の園と名づけた特殊な地雷原で守ろうというのだ。
 前線工兵はどう考えるかとロンメルはたずねた。自分【ロンメル?】は工兵指揮官ヘッカー大佐とすでにこの問題を話し、彼は、研究中であるーー。プファンツァーゲルとユンカースドルフは答えた。特殊地雷原敷設はべつに難事ではないーー。
「しかし閣下、その資材と地雷は、どうするのでありますか?」「なんとかする」とロンメルは言った。問題は敵が突破できず、敵の除去班にもどうしようもない悪魔の園を作れるかどうかだーー。
『砂漠のキツネ』P265

 毎日ロンメルは悪魔の園の構築を視察し、ヘッカー大佐からトリックの数々を説明されるたびに満足の意をあらわした。モントゴメリーの第8軍は絶対に突破できまいと自信をますます固めたのである。
『砂漠のキツネ』P268


 しかしこの「悪魔の園」は、英連邦軍の大量の爆撃機が爆弾を落として地雷を爆発させてしまい、結局突破されてしまうことになりました……(T_T)

 エル・アラメインからの撤退の時期には、ヘッカーは黄疸と赤痢になっており、結局ドイツに呼び戻されることになりました。その後、彼はOKHから選ばれて、将来の師団長になるためのコースに出席するように命じられます。


 ヘッカーがこのコースに参加している間に、以前彼が所属していた第29自動車化歩兵師団がスターリングラード包囲環の中で潰滅してしまい(1943年1月)、彼は同師団の再建業務(フランスにいた第345歩兵師団を元にして)を命じられました。この任務は1943年7月までに完了し、第29装甲擲弾兵師団と改称されて7月下旬にシチリア島での防御戦に投入されます(同師団はシチリア島、その後のイタリアでの戦いでも顕著な働きをしました)。しかしヘッカーはこの師団とともに戦場に出ることはなく、装甲師団の指揮を執れるようになるため、7月27日に装甲部隊を指揮するための学校に派遣されました。

 この訓練は10月8日に終了し、ヘッカーは少し延長された休暇を取った後、イタリアのC軍集団に出頭して1944年1月22日に第26装甲師団の師団長代理に任命されました(本来の師団長であるスミロ・フォン・リュトヴィッツはドイツで休暇に入っていました)。

 この任命の日はアンツィオ上陸作戦が実行された日であり、ヘッカーはアンツィオ反攻作戦で指揮を執って連合軍に痛撃を浴びせました。しかし2月20日に本来の師団長が復帰したため、今度は3月に第3装甲擲弾兵師団長に任命されました。

 同師団の元の第3自動車化歩兵師団も、スターリングラードで潰滅した部隊でした。新たな第3装甲擲弾兵師団は二流だと考えられていた第386歩兵師団を元に編成されたものでしたが、イタリアでの戦績は期待以上で、ヘッカーの下でもその傾向は変わりませんでした。同師団はフィレンツェまで撤退した後、西部戦線へ送られます。

 第3装甲擲弾兵師団が西部戦線へ到着したのは1944年8月で、ノルマンディー戦線が崩壊したところであり、同師団はまずパリ南東でアメリカ軍部隊と交戦しました。その後フランスから撤退し、第1次のメッツ攻略戦で防御戦を戦いました。

 OCS『Beyond the Rhine』はちょうどメッツ攻略戦が始まるタイミングからキャンペーンが開始されます。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第3装甲擲弾兵師団ユニット。

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 ↓OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーン開始時の第3装甲擲弾兵師団の初期配置位置周辺のマップ。

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 左側の○が第3装甲擲弾兵師団の初期配置位置(2ヘクス以内に自由配置)で、その北にメッツがあります。右側の○は後述のザール工業地帯です。


 同師団がまだザール工業地帯をカバーしていた1944年10月3日にヘッカーは師団長を離任しています。恐らく健康上の理由ではないかとミッチャム氏は書いていますが、ドイツ軍の人事書類は指揮官が病気や負傷で離任したのか、上級指揮官から解任されたのか、あるいはその他の理由なのかが必ずしも書かれておらず、時として非常に厄介なのだとのことです。

 ヘッカーが現役に復帰したのは数か月後の1945年4月1日のことで、今度は東部戦線の第4装甲師団長に任命されたのでした。『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』の師団長リストにはヘッカーの名前はなかったのですが、例えばネット上の↓には、ヘッカーが4月1日から5月8日まで第4装甲師団長であったと記されていました。

4. Panzer-Division



 当時、第4装甲師団を含む第2軍はダンツィヒの近くでボロボロの状態であり、しかも赤軍に包囲されて孤立していたそうです。ヘッカーが同師団長に任命された理由については明らかでないそうですが、ミッチャム氏の推測では、人事を差配する立場にあった陸軍人事局長は当時ヴィルヘルム・ブルクドルフであり、この人物はヒトラーとナチズムに忠実な将軍で、ロンメルに自殺を強要する使者にも立ったような人間であったから、かつてロンメルの下で戦ったヘッカーに対して含むところがあったのは確実だ、とのことです(もちろん、真実は分かりませんが)。

 5月8日に第2軍(と第4装甲師団)が降伏するまでの間にヘッカーは脱出したそうで、どうやら包囲環から兵士を運ぶ最後の船の一つに乗りこんだのではないか、ということです。

 最終階級は少将で、1979年に84歳で亡くなりました。


OCS『Smolensk』の無料公開ヴィテブスク記事のミスが判明しました(>_<)&プランサンセットVol.5印刷開始

 OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のヴィテブスクシナリオの研究記事(OCSチーム副班長のチップ・サルツマン氏が書かれ、チャールズ・ロバーツ賞記事部門も受賞したもの)を私が和訳したものが↓で以前から無料公開されているのですが……。

『OCSスモレンスク』のヴィテブスク入門シナリオ研究記事を無料公開しています

オペレーション・コンバット・シリーズの商品案内ページ
(下線がなく黒色文字なので分かりにくいのですが、「★『OCSスモレンスク』のヴィテブスク入門シナリオ研究「スモレンスク:狂い始めたバルバロッサ作戦」 (21ページ-14.6MB)」とあるのがリンクです)



 知り合いの方が、ミスを見つけて教えて下さいました。

 図22のあるページ(P20)の本文、一番最後から8行目に「予備モー(ド)」とあるのは、「突破モー(ド)」の間違いでした。


 ↓そのページ。赤い□で囲っている部分が訂正箇所です(画像は修正後のものです)。

unit8842.jpg



 すでに印刷されている方は、赤ペンで修正していただければ……(>_<)

 ↓に、修正した無料公開版を置いておきます。

ヴィテブスク研究記事無料公開用22_08_23.pdf



 チェックはかなりやっていたのですが、まだミスが残っているかもしれません。見つけられましたら、些細なものでもご指摘いただければ大変ありがたいです。



 それから、この記事も掲載されている(ただしモノクロ版)プランサンセットVol.5が、印刷開始されました!

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 先ほどのミスに関しては、ギリギリ間に合ったので修正されています。


 これまでのプランサンセットは色々なゲームの記事が載っていましたが、今回は「OCS特集号」で、すべての記事がOCSに関するものか、あるいはOCS絡みのものになっています(OCS『DAK-II』との比較で、エポック『エル・アラメイン』とSPI『The Campaign for North Africa』に関しては結構詳しく紹介しています)。

 OCSに興味を持たれている方にはぜひ購入していただければと思います!



長らく称賛基調で書かれてきたものが、近年その嘘が明らかになってきているらしいバイエルラインについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、長らく称賛基調で書かれてきたものが、近年その嘘が明らかになってきているらしいバイエルラインについてです。


Bundesarchiv Bild 146-1978-033-02, Fritz Bayerlein

 ↑バイエルライン(Wikipediaから)



 フリッツ・バイエルラインに関しては、広く出回っている諸文献では称賛するものが基調となっていますが、それに対して、私が主たる参照文献としている『Rommel's Desert Commanders』の著者ミッチャム氏は大きな疑義を投げかけています

 一方で、バイエルラインの甥などに聞き取りをし、バイエルラインが残した大量の文書を参照したりして書かれたというバイエルライン本が存在していて、この本の紹介文では「バイエルラインはその失敗と成功についてよく引用され、また同様に批判もされている」とはあるものの、書評などを見た感じでは中立的・議論的というよりは称賛基調であるように感じられました。



 ↑この本が安ければ買って読んでみるという手もあるでしょうけども、ちょっと高いので、買わずに済ませようと(^_^;


 一方、疑義を呈しているミッチャム氏ですが、その著書の一冊で未購入だった『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』という本が5人の将軍の伝記になっていてその内一人がバイエルラインであり、経歴全般だけでなく、疑義に関してもある程度書かれているようなのでこれは買って読んでみました(値段としてまあまあでしたし、複数人を扱っていますし)。




 で、ミッチャム氏の書いているところを読んでいってみた感じとしては、ミッチャム氏の方もまた、バイエルラインを貶める方向に書くために、(複数の)自著の中でさえ少しニュアンスの違うようなことを書いているのではないか、という印象も受けました(元々ミッチャム氏にはやや、印象操作的なことをされる印象は持っていました)が、まあ致命的とまで思えるものは見つけられず、一方で、バイエルラインが称賛されるようなことも書いてあったり、疑義を提出するだけに留めている感もあって、ある程度は信頼できるような印象も受けました。

 そこで今回、ミッチャム氏の著作からの検討も挟みつつ、バイエルラインについてまとめてみようと思います(ただし、ミッチャム氏のニュアンスがその著作間で食い違っているエピソードに関してはもうややこしいので今回スルーしています)。



 とりあえずまずはミッチャム氏の主張する、戦後、バイエルラインがリデル=ハートやパウル・カレルが本を書くのに関わったことで「バイエルライン称賛」の基調が作られたことについて。

 バイエルラインの指揮官としての能力は、私の個人的見解では、英米の戦史家達に過大評価されていると思う。終戦直後、バイエルラインは西欧の戦史家達に協力し、当時ほぼ間違いなく最も有名な軍事史家であったB・H・リデル=ハートと親交を深め、ハートが『The Rommel Papers(ロンメル文書集)』を編集するのを手伝った。驚くに当たらないことだが、ハートはバイエルラインに感謝の念を抱き、そしてバイエルラインは自分が有能な指揮官、参謀将校であったと装うことができたのである。その後の欧米の戦史家達は、そのほとんどがハートに倣っている。しかし、当時のドイツ軍においてはこのような【バイエルラインが有能であるという】見方は決して一般的なものではなく、実際には少数意見であったように見える。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P165,6

 【戦後に】バイエルラインは、B・H・リデル=ハートの『丘の向こう側【和訳版は『ナチス・ドイツ軍の内幕』、改題『ヒットラーと国防軍』】』の執筆や『ロンメル文書集【和訳版は『ドキュメント ロンメル戦記』】』の編集にも協力した。また彼は、ハンス・カール・シュミット(通称パウル・カレル)の『バルバロッサ作戦』『砂漠のキツネ』『焦土作戦』『彼らは来た』の制作に協力した。これらの歴史家に影響を与えたことで、隠したいことのあったバイエルラインは、歴史を部分的に書き換えることに成功したのである。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P167



 また、ミッチャム氏の友人のフリードリヒ・フォン・シュタウフェンベルク(クラウス・フォン・シュタウフェンベルクの従兄弟)はこう書いているそうです。

 フリードリヒ・フォン・シュタウフェンベルクは、「彼【バイエルライン】は私にとって不可解であった」と後に書いている。「私は彼が優れた指揮官なのだろうと信じて調べ始めたが、実際に彼に接した人々の数多くの目撃談から、彼が自分について語ったことの多くが、純粋なほら話か、まったくの言い逃れでしかなかったことがわかったのだ。」
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P219







 フリッツ・バイエルラインは1917年に士官候補生として入隊し、1918年には戦地に赴きました。戦後は機関銃中隊やオートバイ分遣隊などを指揮。1932年に試験を受けて参謀将校としての訓練を受けるのに十分な成績を収め、歩兵師団の幕僚や作戦参謀などを務めました。

 バイエルラインのここらへんの時期のことを、バイエルラインに戦後インタビューしたデズモンド・ヤングはこう記しています。

 フリッツ・バイエルライン将軍には、フランクフルトのアメリカ史料課事務局を通して、ずっと普通のやり方で面会したのだが、彼もまたひとかどの人物であった。ずんぐりとして頑健で小柄なテリア【狩猟犬】を思わせるひとで、元気潑剌としており、まだ50歳にすぎない。第一次世界大戦では16歳の時から、一兵卒としてイギリス軍と戦った。1918年3月のケメル周辺の攻撃や、ソンムの決戦、夏にはバボームやカンブレーをめぐる戦いに参加した。戦後最初は軍人をつづけるつもりがなかった。しかし適当な仕事が見当たらないので、1921年ふたたび軍籍にはいった。1932年から35年まで陸軍大学に在学し、そのあとで戦車部隊に配属となった。
 【……】
 あきらかに彼ほど北アフリカの戦争にくわしいものはいなかった。それなのにオーベル・ウルゼルのアメリカ軍尋問所の仮兵舎で、アジェダビアからアラメインに至るなつかしい砂漠の地図をひろげたとき、彼の語るには、戦後アフリカでのことを訊かれるのは、これが最初で、砂漠で戦ったイギリス将校に会うのもわたしが最初であったという。彼はまたロンメルのことにもくわしかった。彼は永い間ロンメルのそばで起居をともしたばかりでなく、1930年から33年までの間、ドレスデンの歩兵学校で、ロンメルと相識になっていたのであった。わたしたちはその日長いこと語り合い、「おぼえていますか?」という言葉を、数えきれないほどくり返した。ドイツの将軍連に好意をよせるのはなんとなくうしろめたい気持がする。そうしてはいけないかとも思う。しかし会見が終わるころ、わたしはバイエルラインが好きになった。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P115,6





 開戦時には第10装甲師団の作戦主任参謀でポーランド戦にも参加しましたが、予備部隊として後方で活動するに留まっています。

 フランス戦ではグデーリアン率いる第19(自動車化)軍団の作戦主任参謀を務めます。この時の参謀長は、のちにドイツ・アフリカ軍団長を務めることになるヴァルター・ネーリングで、彼とバイエルラインとはかなり親密な関係を築いていて参謀部全体が緊密な連携で運営されていたそうです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第19軍団司令部ユニット。

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 1940年10月下旬、参謀長であったネーリングが新編の第18装甲師団長に就任しましたが、ネーリングの後任参謀長には、それまで第10装甲師団の作戦主任参謀であったクルト・フォン・リーヴェンシュタインが就任しました。ミッチャム氏はこのことに関して「これはグデーリアンのバイエルラインに対する評価を示すものだ。なぜなら、バイエルラインを参謀長にする方が簡単なことだったのだから。」と書いています。


 バイエルラインは続けて独ソ戦でもグデーリアンの下で、その第2装甲集団の作戦主任参謀を最初の70日間ほど務めました(OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』がその時期を内包していますが、第2装甲集団司令部ユニットはないので、画像もなしで。しかし、このゲームの南半分のドイツ軍が全部第2装甲集団に当たることになります)。

 その離任の時について、ミッチャム氏はこう書いています。

 1941年6月22日にロシア侵攻作戦が開始され、バイエルラインは最初の3ヶ月間グデーリアンと緊密に協力して勝利の前進を遂げた。しかし8月30日、彼は別の役職に任命されることになってベルリンに戻り、代わりにヴォルフ少佐が着任した。グデーリアンは自著の中で、この離任についてコメントしている。実際にはこの頃までに、バイエルラインの欠点がいくつか表面化していたようである。グデーリアンは、自分が何かに気づいていたとは言っていないが、その後のコメントから、バイエルラインには問題があったようであり、1940年の作戦の時点ででもヴァルター・ネーリングは何か問題があると感じていたかもしれない。しかしもはや、バイエルラインはベルリンのOKHに出頭し、総統予備となった。したがってグデーリアンが事情を知らなかったことは明らかであり、戦後もバイエルラインはアフリカでの即戦力として呼び戻されたと信じていたのである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P221


 「離任について(の)コメント」はグデーリアンの『電撃戦(上)』P303に見つけまして、「その後のコメント」というのはその数行後とか数ページ後とかにでもあるのかな……と思ってさらっと探してみたのですが、分かりませんでした。


 その後、バイエルラインは北アフリカへ派遣され、アフリカ軍団の参謀長に就任します。その着任時のことに関して、アーヴィングは『狐の足跡』の中でこのように書いています。

 バイエルラインは追従的なところがあったが、立派な将校であった。グデーリアンの下にあって、モスクワに向かう弾痕だらけの街道上で戦車戦闘の経験を積んでいた。彼もまた、直ちにロンメルを信頼するようになったことが明らかであった。彼が着任した日、ロンメルはこう記している - 「グデーリアンと彼【バイエルライン】は、私がシュトライヒ【ロンメルに反抗した人物】との間で経験したのと同じようなトラブルを経験している【グデーリアンとバイエルラインが衝突したということ?】」 彼【ロンメル】はすぐにバイエルラインが好きになった。
『狐の足跡』上P176,7


 この言からすれば、少なくともバイエルラインの側はグデーリアンとの間に衝突があったと考えており、そのことをロンメルに語ったかのように見えますが……?

 ただし上記で、「」の中はロンメルが記したことなのでしょうけども、「」の外はアーヴィングの意見であろうとは思います。「追従的なところがあった」というのは、何らかの傍証があったのかもですね(アーヴィングの書いていることは1から10まですべて価値がない、という意見もあり得るとは思いますけども)。



 また、恐らく戦後のバイエルラインの影響を受けていない可能性が高いのではないかと思われる、ロンメルの副官であったハインツ・ヴェルナー・シュミットはこう書いています(最近新しく新書で出ましたが私が持っているのは古い文庫本で、そちらからの引用です)。

 はじめて参謀長バイエルラインをちらっと見た。「どんな方です?」と、彼を教えてくれた若い士官にきくと、「とても立派な方です」と彼は答えた。 - ドイツ軍人の口にする言葉で、最高の賛辞である。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P219







 バイエルラインは北アフリカで参謀長職などを歴任しましたが、資料によってその時期が色々違って書かれています。

『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』
 ドイツ・アフリカ軍団参謀長:1941年10月5日~1942年11月4日
 ドイツ・アフリカ軍団司令官代理:1942年11月4日~13日
 第1ドイツ・イタリア装甲軍参謀長:1942年12月7日~1943年3月

『ドイツ軍名将列伝』
 ドイツ・アフリカ軍団参謀長:1942年12月7日~
 独伊アフリカ装甲軍参謀長:1943年3月1日~

『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』
(この本は軍団司令官職のみで、また「司令官代理」との区別はされていません)
 ドイツ・アフリカ軍団司令官:1942年8月31日(のみ)
 ドイツ・アフリカ軍団司令官:1942年11月4日~1942年11月19日



 ↓OCS『DAK-II』のDAK司令部ユニット。

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 クルセイダー作戦の時には、すでにクリューヴェルの記事の時に引用したように、↓の記述が目を引くところです。

 その後の【クルセイダー作戦の】何週間かにわたる戦闘を通じて、ロンメルと新任のアフリカ軍団長クリュヴェル将軍との間の奇妙な関係が明らかになった。建前として、クリュヴェルは疑問をさしはさむことなく、ロンメルの命令に服従することを求められていた。しかし、事態は彼が何度も命令違反すれすれの独自の行動をとったことを示している。そして、今になってふり返ってみると、ロンメルがこのような行動を許容したことは驚くべきものがある。彼がクリュヴェルに対してこんなに控え目な態度をとったのは、彼自身の心の奥底にあったコンプレックスも理由のひとつであったかもしれない。クリュヴェルはいかにも騎兵将校らしいタイプの軍人であった。彼は教会向けの賛美歌の本の発行を独占していたドルトムントの裕福な印刷業者の息子で、知的な面においてはロンメルよりもはるかに抜きん出ていた。このことが、新たにクリュヴェルの参謀長となったバイエルライン - 彼に対して強い影響力を持っていた - の強烈な野心と相まって、戦車集団司令官であるロンメルを心理的に不利な立場に立たせていた。
『狐の足跡』上P192,3




 クルセイダー作戦で結局枢軸軍は撤退することになりましたが、その時のバイエルラインの、完全にパニックに陥っていたかのようなエピソードをミッチャム氏が記しています(ただしその後の活躍も)。12月8日夜から9日にかけて、エル・ドゥダ(トブルクのすぐ南東)を通過する撤退中の話です。

 通常の戦車に乗って軍団の命令書や書類を運んでいたこの無愛想な参謀長は、操縦手から、自分たちが従うべき適切な色の照明弾を確認するよう頼まれた。
 「頭がおかしいのか?」とバイエルラインは怒った。「お前は俺が他にやることがないとでも思っているのか! 俺がお前らのクソ照明弾の何を知ってるっていうんだ?」
 その結果、この戦車の戦車長は撤退の大きな流れについていこうと試みる他なくなったが、明かりもなく、いつの間にかイタリア軍の野営地に迷い込み、寝ている部隊の中を疾走したが、接地面に何か得体の知れないものが挟まった。
 その物体が装甲にぶつかる音を聞いて、戦車長は「止まれ!」と叫んだ。すると、戦車の奥からバイエルンが咆哮した。
 「このまま進め! ここから出ろ! お前らみんな頭がおかしいのかよ?」
 戦車長は、自分たちがイタリア軍の野営地の真っただ中にいること、戦車の接地面に大きな被害が出てしまう可能性があることを説明するために、後ろに声をかけた。
  「走り去るんだ!」と参謀長は叫んだ。「やつらを轢き殺せばいい! 俺の知ったことか! 俺は脱出しなければならない! 俺はここに機密書類の入ったバッグを持ってるんだ! 分からないのか!?」
 この戦車はそのまま走り続けた。乗員達は、この叫び声が彼らの通り道のイタリア軍を追い払ってくれることを願った。

 しかし対照的に、12月19日にベンガジに近づいた時には、巡航戦車とハニー戦車【M3軽戦車】を擁するイギリス軍騎兵連隊が延々と続く後退中のドイツ軍隊列に奇襲をかけたが、バイエルラインは先ほどの話と同じ戦車を徴発してドイツ・イタリア軍隊列の間を縦横無尽に走り回り、自走砲や野砲、大きな88ミリ対空砲を選び出し、慌てて後退をかけたイギリス軍側に大きな損害を与えたのである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P223


 このバイエルラインの逸話は相当ヤバそうには感じますが、人間パニックになったらこういうことはあるのではなかろうかと私は思います。しかもその後えらい活躍しているあたり、ある程度の優秀さはやはりあったのではないかと……。



 ガザラの戦いの時に関しては、このような記述を見つけています。

 【ガザラの戦いの時】「わたしははじめからこの計画が気にいらなかったのです」と、バイエルライン将軍は語った。「アフリカ軍団の参謀長として、わたしは絶えずロンメルに、そう進言していました。まずビル・ハケイムを陥落させずに進撃するのは、まったく危険だと、わたしは考えていたのです。6週間前、ロンメルはわたしに質問したものです。「きみがリッチー将軍だったら、戦車がどうでるね?」わたしなら、東に十分離れて、エル・アデム付近に待機させ、はじめは戦わないで、わが軍がガザラ拠点内にはいったところで、その側面を攻撃すると答えました。すると、彼は「ばかな! 敵はそんなことはせんよ」といいましたが、その癖、それはずばり彼がやりそうなことだったのです。事実、リッチー将軍の配備は立派なものだったと思います。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P152

 負傷したヴェストファルとガウゼの代わりにロンメルが前線で指揮を執らなければならなくなった。しかしガウゼと代わったアフリカ軍団のフリッツ・バイエルラインは、能力でも活力でも一歩勝っていた。ふたりはこの数週間先に最高のチームを組むことになる。
『パットン対ロンメル』P255




 その後、1942年の夏、このような状況になっていたとか……?

 この頃【アフリカ装甲軍参謀長の】ガウゼ将軍が復職し、【これまでガウゼの代わりにその職を務めていた】フリッツ・バイエルラインは【元のアフリカ軍団参謀長に戻って、軍団長の】ネーリングと業務を再開したが、ネーリングは【バイエルラインが不在の間に】シュテフェルトというより気の合う幕僚を見出していた。それでバイエルラインは、自分が浮いてしまっていることに気付き、軍司令部のガウゼ宛てに批判的な報告を送るのに自分の時間の大半を費やすことになった。こうして、砂漠の暑い夏が過ぎていった。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P226


 これはバイエルラインが悪いわけではないとは思うのですが……(T_T)



 第二次エル・アラメインの戦い(第三次まであると数えて)、いわゆる「アラム・ハルファの戦い」(エポック『エル・アラメイン』で扱われている戦い)の時には……。

 【8月30日?】この直後に私【ロンメル】が聞いたところでは、同じころ、ドイツ・アフリカ軍団は、〔アフリカ装甲軍〕参謀長のバイエルライン大佐の卓越した指揮のもと、英軍の地雷原封鎖陣を克服しており、東へのいっそうの突進にかかろうとしている。バイエルラインと情勢について協議した私は、攻撃を続行すると決定するに至ったのである。
『「砂漠の狐」回想録』P238

 「奇襲が不可能とわかるや否や」とバイエルラインは【戦後のインタビューで】語った。 「最初の朝、すでに彼【ロンメル】は戦闘を中止しようとしました。わたしが彼を説き伏せて戦闘をつづけさせたのです(当時バイエルラインは仮にアフリカ軍団の指揮をとっていた。ネーリング将軍が8月31日の夜、空襲で負傷していたのである)。アラム=エル=ハルファ丘陵の強固な防衛陣地に、まったくびっくりしました。わたしは占領できると確信して、その攻撃に時間をかけすぎてしまったのです。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P208




 この後、ロンメルが病気の為にドイツに帰国し、シュトゥンメ将軍がやってきます。シュトゥンメは自分の参謀長であったゲルハルト・フランツ大佐を引き連れてきていたのですが、

 フランツとヴェストファルは非常によく協力していたが、バイエルラインはこの二人に怒りをぶつけた。バイエルラインは、自分が無視されていると憤慨していたのである。いずれにせよ10月12日、バイエルラインは長期休暇をとってトリポリに行き、そこでケッセルリングの幕僚に援助を求めたのであると思われるが、不満のまま10月23日に休暇から戻った。それはちょうどイギリスが【エル・アラメインで】奇襲をかけてきた日であった【いわゆる第3次エル・アラメインの戦い】。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P228





 第3次エル・アラメインの戦いでは、ヒトラーの死守命令が出されました。

 ロンメルは総統に対する忠誠と、戦場における危機という現実の様相の間で板挟みになっていた。
 【……】
 ロンメルの幕僚特にバイエルラインは、このような命令を出すことに強く反対した。しかしロンメルはまだ、総統からの明確な命令に従わないようにすることを学んでいなかった。
『狐の足跡』下P40,41




 エル・アラメインからの撤退は、敗走となりましたが……。

バイエルラインが言うには、彼はこの難局に際してうまく対処したという。11月5日から21日まで、彼は一人で破滅的な状態にあるアフリカ軍団の秩序ある撤退の責任を負わねばならなかった。ようやくロシアから、ベルリン、ローマ、ナポリ、トリポリを経由してグスタフ・フェーン装甲兵大将が【アフリカ軍団の新たな司令官として】11月21日深夜に新たに設けられたメルサ・エル・ブレガ陣地に到着した時、バイエルラインは自分の軍団の2個装甲師団を劇的に立て直すことに成功していたという。この証言の唯一の問題は、フェーンが到着した時、バイエルライン大佐は11月9日以来、ずっと後方のメルサ・エル・ブレガに身を隠していたと【周りの目撃者達から?】断言されたことである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P232


 この話が、バイエルラインの証言と他の人の証言が明確に食い違う最初の例ではないかなぁ、と思います。

 ただし、フェーン軍団長とバイエルラインのコンビは非常にうまくいっていたとも書かれています(ロンメルはフェーンを高く評価していなかったらしいですが、ミッチャム氏はフェーンは非常に有能であった、と書いています)。



 次に引用するのは、チュニジアでの記述で、上2つの大木毅氏訳の『「砂漠の狐」回想録』はリデル=ハートが編集したものとは異なる、ロンメルの直筆のものらしいのですが、そこではロンメルはバイエルラインを称賛しています。

 結果として、私は、ジェリド塩沼と海のあいだにあるアカリトの陣地を押さえるように要請した。この陣地は迂回できない。ここでなら、われわれの自動車化されていない歩兵も、効果的に運用できるのだ。味方も自動車化団隊が、一方ではエル・ハンマ、またガフサ、さらにはマレト線全体の支援・保持に当たるには不充分であることも、とくに強調した。しかし、上層部は何の理解も示さなかった。けれども、イギリス軍がのちに、みごとに計画された迂回運動を実行してみせたのは事実であった。マレト陣地も、それによって無意味になったのだ。バイエルラインは、三方から突破の脅威が迫っていたにもかかわらず、軍麾下の機動力がある部隊を、ほぼ完全なかたちでアカリトにみちびくことに成功したが、最初からガベスの重点に築城資材を使っていたなら、もっと有利にことを運べたことだろう。
『「砂漠の狐」回想録』P369,370

 【1943年】3月7日にベニ・ゼルテンに戻った。ここで私は、ツィーグラー将軍ならびにバイエルライン大佐に別れを告げたのだ。後者は、ドイツ側参謀長として、メッセ将軍付に配属されていた。バイエルラインは、いかなる状況であろうと、最良の策をひねりだすだろうと、私は確信していた。
『「砂漠の狐」回想録』P401

 バイエルラインは、チュニジア陥落の直前に、病気でチュニジアから送還されていた。彼は、参謀将校としても部隊指揮官としても輝かしい記録を残していたが、その大部分はロンメルの指導のおかげだと思っていた。
『パットン対ロンメル』P314


 バイエルラインはこの間に少将に昇進しています。


 1943年10月10日、バイエルラインは陸軍人事局長であったルドルフ・シュムント(ヒトラーの筆頭副官との兼任)と面談しました。シュムントは、「一般的に少将には参謀の仕事はほとんどない。特に、少なからぬ人々を憤慨させてきた人物には……」とほのめかしましたが、一方、「北アフリカでの野戦指揮官としてのバイエルラインの活躍は、間違いなく戦場の指揮官として推薦できるものだ」と説明したそうです。

 結果的に、バイエルラインは10月16日から18日にかけて南方軍集団司令部に飛行機で飛び、20日にはフォン・マンシュタイン元帥から、第3装甲師団の指揮(最初は代行)にあたるよう命じられました。

 『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』P166によれば、その期間は以下の通りです。
1943/10/21~43/12/14 師団長代理
1943/12/15~44/1/4 第8代師団長



 OCS『The Third Winter』は1943年9月26日ターンから1944年4月26日ターンまでを扱っているため、バイエルラインが第3装甲師団長であった時期を完全に含むことになります。

 ↓OCS『The Third Winter』の第3装甲師団。

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 バイエルラインはこの第3装甲師団の指揮の最後の時期にキロヴォグラード周辺で戦ったのですが、この時期のパウル・カレル『焦土作戦』の記述について、ミッチャム氏はこう指摘しています。

 パウル・カレルはその著作『焦土作戦』の中で、キロヴォグラードの戦いについて説得力のある説明をしているが、彼はバイエルラインを少し信用し過ぎているようである。シュタウフェンベルクの研究では、1月4日から10日の出来事についてやや異なる見解が示されている。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P236



 『焦土作戦』の中の第Ⅵ部の「6 ドニエプル川中流の冬のドラマ」の冒頭あたりに、キロヴォグラード周辺でのバイエルラインの指揮に関して書かれています。

 その中でバイエルラインは、ヒトラーの死守命令を無視して包囲環から脱出することを、包囲環内の上級司令部との連絡もつかない幸運を活かして、部下が懸念する中、自分一人の決断で決めた……というように書かれています。ヒーロー然としたかっこいい描かれ方を、バイエルラインはしています。

 ところがシュタウフェンベルクが調べたところによると、この時包囲環内の上級司令部とは連絡が取れており、バイエルラインの部下に2人の有能な人物がいて、この2人が綿密に計画を練って包囲環内の他の師団長達も巻き込んで、上級指揮官に「脱出を試みるかもしれない」ことの同意を引き出した……というのが事実らしいというのです。

 ただし、バイエルラインはこの2人の有能な部下の意見を聞くというある意味褒められるようなことをしているわけですし、ヒトラーの死守命令に縛られることもなかったという点では褒められるべきだろうという感じでミッチャム氏は書いています。

 しかしバイエルラインの証言との差異は、もちろん気になるところです。この両書にはこの件についてそれぞれ2~3ページ程度の記述がありますので、興味のある方はぜひ見て頂ければ……。



 第3装甲師団は脱出に成功しただけでなく、ソ連軍部隊に打撃を与え、他の部隊が脱出する手助けをして、OKHの公式発表で称賛されましたが、ヒトラーの死守命令を無視したことからバイエルラインの名前は発表文にはなかったそうです。また、恐らくこのことが原因で、第3装甲師団の指揮も他の師団長に引き継がれたようです。

 1944年1月10日の時点でグデーリアンがすでに、バイエルラインをフランスで新設される装甲教導師団の師団長として要請し、そのための命令も発せられていたらしいですが、東部戦線の混沌とした状況のためにバイエルラインはなかなか移動ができず、ベルリンへの到着は1月末で、装甲教導師団司令部に到着したのは2月4日のことだったそうです。


 『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば、バイエルラインの装甲教導師団長であった時期についてこう書かれていました。

1944/12/? ~ 45/1/19

 しかしこの着任時期はだいぶおかしいような気はしますが、どうなんでしょうね……?


 バイエルラインはノルマンディーからバルジの戦いの時期という非常に重要な時期に装甲教導師団を指揮し、パウル・カレルの『彼らは来た』をひもといてみると何回もバイエルライン師団長のエピソードが(かっこよく)出てきますが……。

 装甲教導師団の師団史の中に【その師団長であった】バイエルラインはほとんど言及されていないが、これはこの種の本では非常に奇妙なことで、他の師団長達は称賛されている。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P165,6


 だそうです。またミッチャム氏は『Defenders of Fortress Europe』P196で「(バイエルラインの)ノルマンディーでの装甲教導師団の指揮は優れたものではなく」と書いていますが、その根拠についての記述は、私が見た範囲では書かれていないように思えました。

 ただ、7月末にサン・ロー方面から連合軍に突破される頃の話として、『彼らは来た』の中でバイエルラインが死守命令に対して怒りに震え、「【フォン・クルーゲ】元帥閣下に伝えていただきたい、装甲教導師団は全滅したと。」と発言したということに関して、ミッチャム氏は「この頃の装甲教導師団はまだかなり強力な部隊であったことは、興味深いことである」と皮肉な感じで指摘しています。しかし私は、バイエルラインが「全滅」と言ったのは、「これから全滅します」という意味ではないかなぁと思いました。



 この後、装甲教導師団はドイツ国内へと撤退していきますが、ドイツ国内へたどり付いた頃、バイエルラインと相性の悪かった部下が離れていったり、バイエルラインが解任していったというようなことをミッチャム氏が書いています。


 この頃から、OCS『Beyond the Rhine』の時期に入ってきます(ノルマンディーの時期も、将来的にOCS『Cross Channel Attack』でカバーされることになるはずですが)。『Beyond the Rhine』は1944年9月5日ターンから1945年4月29日ターン(実質的に月末の30日まで)をカバーしており、後に述べるレマーゲン鉄橋を巡るバイエルラインの指揮の時期や、ルール地方で包囲され投降した時期も内包していることになります。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の装甲教導師団ユニット。

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 バルジの戦いの時(あるいはそれ以後)のバイエルラインに関しては、ノルマンディーの時やバルジ以前までに比べて、批判される度合いがひどくなってきているような気がします。

 クラウス・フォン・シュタウフェンベルクの従兄弟で、【ミッチャム氏の】『シチリアの戦い』の共著者であり、装甲部門の権威であるテオドール・フリードリヒ・フォン・シュタウフェンベルクは、フリッツ・バイエルラインはバルジの戦いの終わりまで装甲教導師団の指揮を執ったが「まったくやる気がなかった」という。バイエルラインは第二次世界大戦直後、西側の一部の戦史家達からは人気があったものの、ノルマンディーでの装甲教導師団の指揮は優れたものではなく、バルジの戦いにおける彼の行動はといえば並外れてお粗末だった。彼は、連合軍側に立っていたベルギー人達からアメリカ軍部隊の戦力や動向について嘘の情報提供を信じ込んだだけでなく、道路案内においても騙されたのである。また、捕虜にしたアメリカ人看護婦を誘惑するなど、貴重な時間を無駄にしたこともあった。それに、第5装甲軍司令官ハッソー・フォン・マントイフェル男爵はバストーニュ郊外で完全に動けなくなっていた第47装甲軍団の司令官フォン・リュトヴィッツ男爵の解任を真剣に検討していたこともあったのだが、どうやら彼がこれを行わなかった唯一の理由は、バイエルラインが第47装甲軍団の中で最も先任の師団長であった【つまりリュトヴィッツを解任するとバイエルラインが軍団長になる】のだが、彼がリュトヴィッツよりもバイエルラインの方がさらに劣っていると考えていたからであるらしい(バイエルラインに低い評価を与えていたシュタウフェンベルクによると)。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P196,7



 「ベルギー人に騙された」の件ですが、『Panzer Commanders of the Western Front』にはもう少しだけ詳しく書いてあるのですが、個人的には別にバイエルラインの判断ミスが主因とまでは思えない感じでした。

 一方で「アメリカ人看護婦」の話はより信憑性がありそうです。バイエルラインは英語が堪能だったそうですから、その看護婦と一対一で話が十分できたでしょう。ミッチャム氏の書き方は↓のようなものですが、ソースについては明らかにしていません。

 12月18日(月)の日の出の後、圧迫感のある霧と低い雪雲がまだアメリカ空軍を飛行場にとどめている中、この装甲部隊指揮官【バイエルライン】は即席の捕虜収容所を訪れて、アメリカ人捕虜達と話をした。二つの全く別の報告(一つはアメリカ軍側、一つはドイツ軍側)によると、彼は美しい金髪のアメリカ人看護婦に強い関心を持ったという。ドイツ軍側の資料は真偽不明ではあるが、バイエルラインが一日の大半をおそらくは無駄に終わった誘惑に費やしてしまったことは確実だと主張していた。アメリカの戦史家も、軍事的観点から見てバイエルラインはこの日一日を無駄にしたと述べているが、バイエルラインの方はこの日の自らの努力が実を結んだとほのめかしている。
 どちらにしても、この将軍はとてつもなく貴重な時間を浪費した。実際のところ、装甲教導師団長の行動の遅れが、バストーニュを適時に攻略する機会を失わせてしまったのだ。この夜から、この師団はバストーニュへに対して続けられた攻撃にほんの少ししか関与していないと言えば十分だろう。
 バストーニュ攻略は、18日の夜遅くに前線に到着した第47装甲軍団司令官ハインリヒ・フォン・リュトヴィッツ男爵の管轄であったが、彼はそこでバイエルラインの指揮下にある部隊のどれもこれもが主体性を持っていないのに愕然とした。第5装甲軍司令官ハッソー・フォン・マントイフェル元帥とモーデル元帥からの強い圧力を受け、リュトヴィッツはバストーニュを歩兵に任せ、機甲部隊を攻勢全体の主要目標でありすでに予定より大幅に遅れているミューズ川横断に向けて前進させることを決意する。
 バイエルラインはきつい叱責を受けてひどく感情を害し、その後に反撃に出たようである。特に彼が不快に思ったのは、隷下の第901装甲擲弾兵連隊と砲兵部隊を剥奪されたことであり、そのためにバストーニュ攻略のための継続的な努力がもはや無駄になってしまったのである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P256~8


 一方、2014年に出たらしい『Snow and Steel: Battle of the Bulge 1944-45』という、かなり称賛され人気があり、また大部でもあるバルジ戦本で、以下のように書かれていました(『Panzer Commanders of the Western Front』の方は2008年出版です)。



 バイエルラインはマジュレで捕虜にした看護婦の一人に負傷者の世話を頼んだが、彼女が「若くて金髪で美しい」ことに気付き、彼女に「魅了された」ことを認めると、戦後書いている。45歳の未婚の将軍が、自ら認めているように、若い捕虜の気を引こうと貴重な時間を費やしている間に、装甲教導師団は何ら移動することなく、停止してしまっていたようだった。多くの戦史家がこの驚くべき話を繰り返して書いてはいるが、それを検証しようとした者はほとんどいない。だが、バイエルラインの伝記作家であるパット・シュペイドは、ウィルツ城に拠点を置いていたアメリカ軍第42野戦病院の小隊に所属する数名の従軍看護婦達が、撤退中にマジュレで捕虜になったうちの一部であるというところまで候補者を絞り込んだ。
『Snow and Steel: Battle of the Bulge 1944-45』P471


 「バイエルラインの伝記」というのは一番最初に挙げた本で、その本にも書かれていて、バイエルラインも戦後そのように書いているというのであれば、これはかなり確からしい話ということになるのかもです。バルジ戦ゲームでこういうイベントが起こるゲームって、もしかしてあったりするんでしょうか?(^_^;


 バルジ戦の後の1945年1月25日(ミッチャムによる日にち)、バイエルラインは装甲教導師団長を離任します。

 この頃にはバイエルライン中将に対する不満や批判の声が上層部でも聞かれるようになり、もし他にも装甲部隊指揮のベテランがいたならば、バイエルラインが総統予備に回されてそのまま現役に復帰できなくなる可能性もあり得ただろう。実際、彼よりもさらに評判の悪かった指揮官達は解任されていた。不名誉な陸軍元帥エルンスト・ブッシュ、ハンス・フォン・ボインブルク=レンズフェルト、7月20日の事件に関与した疑いのあるゲルハルト・フォン・シュヴェリーン伯爵などである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P259


 バイエルラインは1945年1月25日に【装甲教導師団長を】解任され、苦境に立たされていた第7軍の予備の装甲部隊指揮官に任命された。ここで彼は、敗残兵達をその場しのぎの部隊に編成することに従事した。ところが1945年3月6日、伯爵エドウィン・フォン・ロートキルヒ・ウント・トラッハ騎兵大将が誤ってアメリカ軍戦線に入り込んでしまって捕虜となった。【第7軍司令官の】ハンス・フェルバー将軍は先任の手空きの指揮官であったバイエルラインに第53軍団の指揮権を与え、レマーゲンのルーデンドルフ橋の奪回を命じた。バイエルラインの反応は遅く、失敗した。モーデル元帥はバイエルラインの能力に不満を抱き、第53軍団のすべての装甲部隊を、第74軍団のカール・ピューヒラー歩兵大将に移管した。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P197




 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第53軍団司令部ユニット。

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 この時の反撃に関して……。

 バイエルラインはこの時期についての小論で、【レマーゲン鉄橋を奪回するため、1945年3月】9日の午後と13日に活発な反撃を開始できなかったことについて、不当にモーデルを非難している。アメリカ陸軍の戦史家もモーデルを非難しているが、それはモーデルが自決してしまって弁明が出来なかったからだ。実際にはヘルムート・フーデル少佐率いる装甲教導師団の戦闘団は9日の正午までに第53軍団の周辺に到着し、攻撃の先陣を切る準備ができていたのだが、装甲教導師団の師団史によれば、バイエルラインがこの部隊への命令を放置していたとのことである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P262




 その後4月に入って、ルール地方でB軍集団司令官モーデル麾下の部隊が包囲されてしまった中にバイエルラインの第53軍団も含まれており、バイエルラインやその幕僚達は4月16日にアメリカ軍第7機甲師団に対して投降しました(『ドイツ軍名将列伝』によれば4月15日。モーデル自身は18日に自決)。ただし、バイエルラインの部隊の降伏はどちらかといえば遅めのタイミングであったそうです。尤も、この時第5装甲軍の参謀長であったフォン・メレンティンは脱出しようと努力し続け、結局5月3日に捕虜になっていますね。


 バイエルラインは彼を捕虜にした側の米英側の人々とすぐに非常に親しくなったようである。4月30日以降のイギリス軍情報部による秘密監視記録には、この元第53軍団長と一緒に牢屋に入っていた他のドイツ軍兵士達のやや怒ったような反応が記されている。その中の一人で、アフリカ戦の時期からバイエルラインと相性の悪かったゲルハルト・フランツ少将は、バイエルラインの気取った自分勝手な態度に特に憤慨していた。
 この年内に、バストーニュの戦いに関する戦後初の戦史書の執筆に携わった有名な米軍のS・L・A・マーシャル准将は、この戦いに主に関わった三人のドイツ軍の将軍にインタビューする機会を得た。ずけずけ物を言うドイツ嫌いのマーシャルは、痛烈に批判している。
「バイエルラインは50歳の背の低い、しっかりした体格の男で、目鼻立ちはくっきりし鋭い目つきをしている。彼の動きはすべて活気に溢れており、会話の内外で見せる攻撃性はテリア【小型の狩猟犬】を思わせる[チャールズ・マクドナルドとハッソー・フォン・マントイフェルもこの最後の描写を共有している]。彼は露骨にリュトヴィッツを侮辱した。話がリュトヴィッツのことに及ぶと、バイエルラインは顔の前で手を振り、語り口がとげとげしくなった。「虫けらだ。虫けらだよ!」 ……だが記録では、バイエルライン自身の行動と判断によって、【リュトヴィッツの第47】軍団にとっての最高の機会が失われたことが示されている……自分の大失態を指摘されると、彼は顔を上げて奔放に笑った。まるで、その指摘が彼を大いに楽しませたかのように。」
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P268~270



 バイエルラインはその優れた英語力で収容所にいた1947年までの間にドイツ軍の作戦に関して様々な小論を書き、釈放された時には英米側の戦史家の間ですでに人気を獲得していたそうです。

 北アフリカ戦の時にかかった肝臓の病気をずっと抱えていたそうですが、それでも1970年まで生き、ヴュルツブルクで亡くなりました。



 

DAK司令官として活躍したもののガザラ戦で捕虜となったクリューヴェル将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、DAK司令官として活躍したもののガザラ戦で捕虜となったクリューヴェル将軍についてです。


Bundesarchiv Bild 183-B17409, Nordafrika, Ludwig Crüwell, Fritz Bayerlein

 ↑左がクリューヴェル。右はバイエルライン(Wikipediaから)



 ルートヴィヒ・クリューヴェルは1892年生まれでロンメルよりも数か月だけ年少でした。1911年に士官候補生として騎兵部隊に入隊し、第一次世界大戦では東部および西部戦線で戦いました。大戦後半には参謀教育も受け、師団幕僚や参謀本部での訓練なども経験しています。

 戦後も軍に残ることができ、様々な役職を務め、研修を受けました。1938年には第3装甲師団の第6装甲連隊長に就任し、その後参謀本部第6課(兵站)課長となります。これはドイツ陸軍の補給・管理責任者としての任であり、非常に重要な役職でした。

 その間にクリューヴェルは頭頂部の髪の毛をすべて失っていました。サイドには髪の毛が残っていましたが、短く切っていました。

 1939年10月23日に第16軍(エルンスト・ブッシュ)の兵站担当参謀に就任。フランス戦ではアルデンヌを抜けていく同軍の3個軍団(第7、第13、第23。それぞれ歩兵2個師団)への補給を管理しました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第16軍麾下の3つの軍団の司令部の初期配置。

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 パリが陥落した後、クリューヴェルは第5装甲師団(ヨアヒム・レメルセン)に配属され、装甲師団の指揮について学んでいます。そして1940年8月1日、新たに編成された第11装甲師団の師団長に就任したのです。

 第11装甲師団はバルカン半島への作戦に投入されてベオグラードとサロニカを占領した後、ソ連への侵攻に参加。ジトーミル、ウーマニ、キエフでの初期の勝利に貢献し、クリューヴェルの勇敢さと機甲部隊を率いる手腕は大いに称賛されました。そんな中、クリューヴェルは北アフリカへの派遣を命じられ、8月14日に師団長職を離任します。9月1日に中将へと昇進し、それまでに得ていた騎士鉄十字章に柏葉を付与されました。そして9月15日に2代目のドイツアフリカ軍団長として指揮を執り始めたのです(ロンメルは新設のアフリカ装甲集団司令官に)。


 ↓OCS『DAK-II』のドイツアフリカ軍団司令部ユニット。

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 クリューヴェルがアフリカ軍団長に任命された理由に関して、『Rommel's Desert Commanders』の著者ミッチャムはこのような推論をしています。

 謹厳なクリューヴェルは、高い能力を持ち、堅実で頼りになる将校として装甲部隊中に知られていたが、アフリカ軍団の司令官への昇進は異例の早さだった。【中将へと】昇進していたとはいえ、その階級は通常の軍団長よりも一階級下であり、当時のドイツ国防軍で最も若い軍団長だったのだ。ではなぜ、彼はアフリカ軍団長に任命されたのか? ロンメルが彼を指名したという証拠は存在しない(ただし二人はフランスで短時間会ったことがあった)。一方で、クリューヴェルはOKH【陸軍総司令部】内で有名になっており、高く評価されていた。極めてありそうなこととして、陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュと参謀総長ハルダーが、ハルダーの危惧するロンメルの軽率さとバランスを取るためにクリューヴェルを選んだのではないだろうか。もしそうだとすれば、彼らはこの人選に非常に満足していたに違いない。出来事は彼らの計画通りに進んだのだ。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P46,7


(「軍団長は通常大将が指揮する」という件に関して気になったので、第二次世界大戦のドイツ軍の軍団長に関する著作である『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』で軍団長のリストを眺めてみたところ、確かに基本的には大将が軍団長なのですが、中将も2~3割程度はいる印象でした。しかしクリューヴェルのこの件は、「中将に昇進したばかり」なのに、という点で珍しかったのかもです)





 その後、1941年11月18日から12月4日にかけて、クルセイダー作戦の戦闘が行われました(ドイツ側はこの戦いを「冬の戦い」と呼んでいると、『Rommel's Desert Commanders』に書いてありました)。

 この時、ロンメルとクリューヴェルの考え方の違いが明確になったのですが、その違いについて下記の2つの資料は全く逆の評価をしているようです。

 近代的機械化部隊の戦闘は、指揮官のねらいによって、ちがった展開をみせる。食うか食われるかの肉薄戦に勝敗をかける指揮官もいれば、一撃、全軍の戦闘行動をマヒさせてしまうような、敵の中枢への攻撃をいどむものもいる。この二つの戦法をたくみに組み合わせるのが統帥の妙である。
 ロンメルは、経験的にも、本能的にも後者をえらび、アフリカ軍団のクルーウェル将軍は、勝つためには撃破しなければならないから、物量的勝利をめざした。まことにおそるべきコンビであった。
『ロンメル戦車軍団』(第二次世界大戦ブックス)P67

 いわゆる「ガムバラ問題【イタリア軍のガムバラ将軍が救援要請に応じなかったこと】」がルートヴィヒ・クルーヴェル将軍から始まるというのは、何とも皮肉なことではないか? クルセイダー作戦の1ヶ月前に北アフリカに到着したクルーヴェル将軍は、ガストーネ・ガムバラ将軍と同じ特徴を多く持っていることが知られていた。著作家達はこのドイツ軍の将軍を「……横暴で、傲慢で、反抗的で、ロンメルの命令を何度も無視した男」と評している。
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P41



 中立的な見方としてはこちら。

 ドイツアフリカ軍団長であったルートヴィヒ・クリューヴェル中将。クルセイダー作戦の戦闘中、彼はロンメルの決定にたびたび驚かされた。彼はロンメルがおこなったような、ドイツ軍部隊に戦場を行ったり来たりさせることに主眼を置いた戦い方よりも、もっと従来型の機動でイギリス軍機甲部隊に大打撃を与える戦闘を好んだ。
『Operation Crusader 1941』(写真のキャプション)P76



 (その偏向等を問題視されている)アーヴィングは、中立的かもしれないですが、大胆な?推論の混ざった見方をしていました。

 その後の【クルセイダー作戦の】何週間かにわたる戦闘を通じて、ロンメルと新任のアフリカ軍団長クリュヴェル将軍との間の奇妙な関係が明らかになった。建前として、クリュヴェルは疑問をさしはさむことなく、ロンメルの命令に服従することを求められていた。しかし、事態は彼が何度も命令違反すれすれの独自の行動をとったことを示している。そして、今になってふり返ってみると、ロンメルがこのような行動を許容したことは驚くべきものがある。彼がクリュヴェルに対してこんなに控え目な態度をとったのは、彼自身の心の奥底にあったコンプレックスも理由のひとつであったかもしれない。クリュヴェルはいかにも騎兵将校らしいタイプの軍人であった。彼は教会向けの賛美歌の本の発行を独占していたドルトムントの裕福な印刷業者の息子で、知的な面においてはロンメルよりもはるかに抜きん出ていた。このことが、新たにクリュヴェルの参謀長となったバイエルライン - 彼に対して強い影響力を持っていた - の強烈な野心と相まって、戦車集団司令官であるロンメルを心理的に不利な立場に立たせていた。
 当初、ロンメルとクリュヴェルの間の考えの違いは敵の企図に関するものであった。ロンメルは11月20日には依然として、敵は本格的にトブルクの囲みを解こうとして前進して来たのではないかと信じていた。しかし、クリュヴェルは騙されなかった。そして、アフリカ軍団の戦力を結集して、敵の3個旅団を逐次各個撃破することにしたのである。
『狐の足跡』上P192,3



 この戦いで、当然ながらクリューヴェルもまたいくつかの判断ミスをしているわけですが、トータルではクリューヴェルの判断の方がロンメルのそれよりも正しかった度合いが高く、「もしクリューヴェルがこの戦いの全指揮権を持っていたならば、枢軸軍側が勝利しただろう」と目されるようですらあります。また、史実においてもロンメルの命令を無視してクリューヴェルが取った措置にドイツ軍が助けられた側面は大きく、「クルセイダー作戦では、ルートヴィヒ・クリューヴェルが最も輝いていた」とミッチャムは記しています(『Rommel's Desert Commanders』P49)。この時のクリューヴェルの功績はより特筆大書されるべきなのでしょう。


 個々のロンメルとクリューヴェルの意見の衝突については、オスプレイの『Operation Crusader 1941』やフォン・メレンティンの『ドイツ戦車軍団』などにもある程度以上書かれていますが、頭一つ抜けて詳細で、しかもエピソード的に書かれているアーヴィングの『狐の足跡』から並べて引用してみます。

 翌日、これまででもっとも大規模な戦車戦が行われた。この11月の最後の日曜日は昔からドイツの戦死者たちを祀る日であった。"死者慰霊日(トーテンゾンターク)"と呼ばれ、11月23日に行われた戦闘はこの不吉な名前で知られることになった。
 それはクリュヴェル将軍の指揮に負うところが非常に大きいといえる戦いであった。彼と彼の参謀長のバイエルライン大佐は4日間もロンメルと会っていなかった。この戦闘はロンメルの命令を無視して戦い、勝利を得た戦闘のもうひとつの例となった。ロンメルは22日の午後10時30分、戦車集団司令官としてクリュヴェルに対して長文の指令を発令していた。それは要するに、アフリカ軍団の2個戦車師団をもって南下し、ビル・エル・グビから北上するアリエテというイタリア軍の機甲師団と合流せよ、というのであった。これらの前進する2つの拳の間において敵をとらえ、これを撃滅しようというのである。クリュヴェルはこの指令を無視した。そして午前3時、自分自身の命令を発令した。それは基本的には敵を包囲しようとする命令であった。ロンメルの命令が午後4時30分にクリュヴェルの手許に届いたことは明瞭であるが、彼はロンメルの発したこの冗長な命令を見ると、「全く見当はずれ」のことが多すぎると、手きびしいいい方をして、これを投げ棄てた。それから約1時間後、自分流のやり方で戦われる戦闘を見守るために、バイエルラインとともに出発した。
『狐の足跡』上P196,7

 そして3つの頭を持ったクリュヴェルのハンマーがロンメルが設けた北方の金床に向かって振りおろされはじめた。【……】
 【……】ハンマーはついに金床を叩いたのである。そして、敵の士気は完全に衰えてしまった。クリュヴェルがとった犠牲の多い放胆な強行戦法によって、イギリス軍の第7機甲師団の残りと、第1南アフリカ師団のほとんどが殲滅された。この大勝利のニュースは午後6時50分、ラーフェンシュタインの司令部にいたロンメルのもとへ届いた。彼は、自分が示した戦闘指導に関する指示にクリュヴェルがそむいたことについては何もいわなかった。
『狐の足跡』上P198

 彼【ロンメル】はまた、敵の態勢が乱れていることを過大に評価しており、自分の指揮下の軍が混乱状態にあることを見落としていた。
 戦場から帰って来たばかりのクリュヴェルはそうではなかった。【……】クリュヴェルは気力に溢れ、しかも思慮深い指揮官であった。彼は11月24日の日の出とともに、はじめてこのロンメルの向こう見ずな計画のことを耳にした。そして、同じ日にトブルク迂回路上においてロンメルが開いた会議の席に押しかけた。彼はロンメルの計画に反対し、先ずいつものとおり、掃蕩作戦を実施するように、といった。「われわれは戦場掃除をして、敵がやって来て持って帰る前に莫大な戦利品を回収しなければなりません」と、強く主張したのである。
 ロンメルはこれに同意しなかった。
『狐の足跡』上P200

 【鉄条網への突進の時に】「埃をかき立てよ」と彼【ロンメル】はいった(翌日、彼はクリュヴェルにも同じことをいっている - 「われわれはありったけのトラックと補給部隊の車輌を使用して、埃をかき立てなければならない。そうして、わが軍のほんとうの兵力について敵を欺き、敵を降伏させるようにするのだ」クリュヴェルはこれに対して「態度を保留する」という重大な決意を表明している)。
『狐の足跡』上P204

 クリュヴェルは再びロンメルの戦術的な構想を無視した。ロンメルはニュージーランド軍の部隊をその後方から包囲することを提案した。クリュヴェルはこのために自分の指揮下の戦車師団を分割することを避けたいと思って、これをひとつにまとめて、ニュージーランド軍部隊に対して東方から強力な攻撃を加え、これをトブルクの内部へ圧迫することにしたのである。翌日、クリュヴェルは一日じゅう地形の偵察に費やした。午後9時頃、ロンメルがクリュヴェルのもとへ新たな計画を送って来たが、彼は「手遅れ」であるといってこれを無視し、自分の指揮下の戦車師団長に彼の計画に従うようにさせるために、ノイマン=ジルコウとラーフェンシュタイン【第21装甲師団長】を翌日の午前8時に彼のもとへ来させることにした。
 【……】
 【11月29日】ノイマン=ジルコーの率いる第15戦車師団の前進は大いに進捗した。奇妙なことに、実際にはクリュヴェルの計画でなく、ロンメルの計画が実行されつつあった。ノイマン=ジルコーはロンメルがクリュヴェルに示した計画を前の晩に知り、これに従うことにしたのであった。アフリカ軍団は実に自由な精神の持主の集まりであった。
『狐の足跡』上P209,210

 敵を撃滅するための最後の攻撃にあたり、ロンメルとクリュヴェルはその方法について三たび劇的な違いを見せた。ロンメルはその部隊を二つに分けて、ノイマン=ジルコーの指揮のもとに両戦車師団の戦車以外の部隊をもって国境地区に配置されている部隊と交替させ、他の部隊はエル・ドゥダおよびはるかに南方の敵を攻撃させることを提案した。クリュヴェルはこれに強く反対し、何よりもまず、アフリカ軍団をもってトブルク南東方の重大な事態に対処するべきであるといった。彼はさらに皮肉たっぷりに、次のようにいったのである。「私たちは敵を完全に撃滅する前に、アフリカ軍団が何度も勝利を得た戦場を敵にあけ渡して、広地域に分散した新たな作戦を実施するという過ちをくり返すべきではない」しかし、もしロンメルが再びエジプト国境に向かう前進を敢行するだけの十分な理由をもっているならば、(修理の必要な戦車は別として)アフリカ軍団の全力を投入するべきである、といったのである。しかしロンメルはクリュヴェルの主張を無視し、翌12月3日、手痛い目にあった。彼は不十分な兵力で3つの作戦を企図し、そのいずれにも成功しなかったのである。
 ついにロンメルは現実に目覚めた。その日、彼は後ではじめてトブルクの東の地域をすべて放棄するという重大な決断を下した。
『狐の足跡』上P211,2

 12月14日の午後、退却のための【ロンメルによる】準備命令がアフリカ軍団に届いたときクリュヴェルは、彼らはイギリス軍に大きな損害を与えてあるので、今退却する「必要は全くない」と鋭く答えた。
『狐の足跡』上P216



 クルセイダー作戦中に、このようなエピソードもあったそうです(『ドイツ軍名将列伝』P180によれば、11月23日、ニュージーランド軍部隊と)。

 クリューヴェルは、数か月前にメキリで捕獲した英国製の大型装甲指揮通信車マンモスを駆って戦闘を指揮していた。ある戦闘の最中、クリューヴェルの乗るマンモスが前に出すぎて、イギリス軍の戦車群に囲まれたことがあった。イギリス軍は自分達の手の届くところに大きな獲物があることに気付いていなかった。ところが、そのマンモスに乗っているのは誰なのかと興味を持った一人のイギリス兵が、戦車から降りてバールでクリューヴェルの乗る車両のハッチをノックした。想像してみて欲しい。この将軍自身がそのハッチを開けて、兵士がアフリカ軍団の指揮官と対面した時の驚きを! まさにその瞬間、ドイツ軍の20mm高射砲がそのイギリス兵に向けて射撃を行ったが、そのイギリス兵はすぐに自分の戦車に逃げ込み、姿を消した。クリューヴェルのマンモスはその混乱の中を走り去った。この時のイギリス軍戦車はマンモスに対してまったく弾を撃たなかったので、弾切れだったのかもしれない。この事件では死傷者は出なかった。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P50



 クリューヴェルの軍団司令官としての能力はこの「冬の戦い」で証明され、中将になってから4ヵ月弱の1941年12月17日(12月1日付け)で装甲兵大将へと昇進しました(これはだいぶ早いペースであるようです)。


 また、クルセイダー作戦後の退却の終盤にも、クリューヴェルは鋭い反撃を行いました。

 【1941年】12月28日およびそれから二日後、ロンメルは再び敵に反撃を加えて完全にこれを奇襲した。クリュヴェルはアジェダビアにもっとも近い位置にいる敵の2個旅団の間に乗ずべき間隙があることに気づき、第22機甲旅団に対してアフリカ軍団を投入した。2回にわたる巧妙かつ適切な攻撃により、ドイツ軍は第22機甲旅団が苦心して砂漠を横断させた同旅団の戦車のうち、その3分の2にあたる60輌を撃破した。
 ロンメルはイギリス軍にこのような打撃を与えた結果、ひと息つくことができた。
『狐の足跡』上P219



 ただしこの頃、クリューヴェルは黄疸にかかり非常に衰弱していたともいいます。

 【クルセイダー後の撤退の頃】軍団長以下すべての指揮官が休養と体力の回復を必要としていた。ガウゼ将軍はローマおよびドイツに向かった。表向きはヒトラーに報告するためということであったが、実際はすっかり神経が参ってしまっていたのである。11月末、多くの者が神経衰弱にかかったことが判明した後、第21戦車師団の幕僚全員が更迭されつつあった。クリュヴェルと同様に、ヴェストファル中佐も黄疸になっていた。「まもなく、私は最初から最後までこちらで戦っている唯一のドイツ軍の将校、ということになるだろう」とロンメルはいった。
 彼はひそかに開始した退却が進捗しはじめた1月2日、クリュヴェルのもとを訪れた。クリュヴェルの率直で少年のような顔は蒼白く、黄色みを帯びて暗い感じを与えていた。彼は黄疸で非常に衰弱しており、ベッドに寝たままであった。
『狐の足跡』上P219,220



 ロンメルの第2次攻勢は1942年1月21日に始められ、2月6日にトブルク西方のガザララインまで到達しました。ロンメルは上級大将へと昇進した一方、クリューヴェルはアフリカ装甲軍の副司令官に任ぜられました。『Rommel's Desert Commanders』にはこの任命は、「最高司令部【OKW?】が、クリューヴェルをいつか、いずれかの軍の指揮【an army command】を執らせようと意図していたことを示している」と書かれています。

 クリューヴェルの後任としてヴァルター・ネーリングがドイツアフリカ軍団の司令官に就任しました。また、ロンメルは3月9日から19日までヨーロッパに赴いたので、その間クリューヴェルがアフリカ装甲軍の司令官代理を務めました。

 1942年3月20日はクリューヴェルの50歳の誕生日で、彼は以前自分が司令官であったアフリカ軍団司令部を訪れました。この人気の将軍のために、元パン屋の兵士達が何とかクリームとチョコレートタルトをこしらえ、ロンメルとネーリングが大きなバースデイケーキをしつらえさせたのです。隠されていた本物のフランス製シャンパンが持ち出され、将校と兵士達が一緒になって主賓に乾杯し、砂漠には幸せなお祝いの音楽が響き渡ったといいます。

 ところがその数日後、クリューヴェルのもとに悲痛な知らせが届きました。まだ34歳だった妻が猩紅熱で急死したのです。彼は急いで家に戻り、4人の子供が世話を受けられるように整えねばなりませんでした。そして、ロンメルの次の攻勢が始まる直前に北アフリカに戻ったのです。


 1942年5月26日からのガザラの戦いでは、クリューヴェルは西側からの大規模な牽制攻撃を指揮しました。5月28日、クリューヴェルはアフリカ装甲軍の砲兵司令官であったクラウゼ少将の司令部を訪ね、イタリア軍による攻撃のための援護射撃の計画を立てた後、前線へと軽偵察機シュトルヒで向かいました。シュトルヒが前線に到着するとそれを示すための照明弾が地上から上げられることになっていたのですが、その担当であった将校が直前に電話で呼び出されてしまっていて照明弾は撃たれず、気が付くとシュトルヒはわずか500フィート(約150m)の高度でイギリス軍の上空にいました。あっと思う間もなく敵の機関銃に撃たれたシュトルヒは、エンジンが破壊されて停止してしまい、さらに恐ろしいことに銃弾はパイロットにも命中しており、操縦席で死んでいたのです。

 シュトルヒは細い機体で、操縦席の真後ろにクリューヴェルの席があったため彼は自ら操縦することもできず、ただ死を待つことしかできませんでした。ところがこのシュトルヒは、まるで神の手に導かれたかのように、自力で着陸したのです。クリューヴェルは無傷のまま、イギリス軍の第150歩兵旅団(第50歩兵師団隷下)の捕虜となりました。

 落ち込んでいるクリューヴェルに対してイギリス軍は敬意を持って接し、すぐに巨大なステーキを振る舞ったそうです。彼はすぐに後方に送られました。数日後にロンメルはこの第150歩兵旅団を蹂躙し、クリューヴェルを捕虜にした者達を捕らえました。

 カイロで、当時世界で最も有名な一流ホテルの一つであったシェファード・ホテルの豪華な宿泊施設を見せられたクリューヴェルは《典型的なアフリカ軍団の精神》を発揮して、「これはロンメルのための素晴らしい司令部になるだろう」と言いました。この皮肉な言葉をヒトラーは大変気に入って世界中に放送させ、有名になったそうです。



 ……と、ここまでであれば「素晴らしい将軍だったのだなぁ!」と感嘆して終わりになるところなのですが、クリューヴェルがその後送られた、ロンドン北方にあった捕虜収容所トレント・パークでは、小型のマイクがいたるところに仕掛けられており、すべて録音され記録されていたのです。

 この盗聴記録が2000年に公開され、ドイツで2006年に『盗聴されていた』という史料集+解説本が、2011年にその分析本である『兵士というもの』が出版されました。後者は2018年に和訳も出版されています。

 そして前者の本を元に、2010年に大木毅氏が短い記事「収容所の中の戦争 盗聴されていたドイツ軍将校たちの会話」を書かれており、その中ではクリューヴェルの「残念」な面も……。
(この記事の初出はコマンドマガジン91号。私が持っているのは、同人誌?の『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』ですが、『ドイツ軍事史――その虚像と実像』に収められていると思われます)




 トレント・パークが特殊任務を与えられてから、最初に収容された将校は、1942年5月29日にトブルク西方で捕虜となったドイツ・アフリカ軍団長ルートヴィヒ・クリューヴェル装甲兵大将である。柏葉付騎士十字章の受勲者であり、勇猛をもって知られたクリューヴェルは、同年8月26日にトレント・パークに到着して以来、たちまち、純粋なナチと目されるようになった。CSDICによる評価は辛辣なもので、第二のフリードリヒ大王と見られたがっているようだとか、飽くことなくベオグラード征服の手柄話をしたがる、130人の先任中将を飛び越して大将に進級したと誇るとかいった発言が引かれている。
『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』P29


 ただまあ、クリューヴェルの心情を推し量れば、捕虜という身になってしまったことからかつての栄光を語りたくなるということはあるのだろうとは思います。現代でも、大企業とかでバリバリ出世した人が、退職すると新しい趣味を見つけることもできずひたすら過去の栄光ばかり語って……というような話を良く聞くのと同じで、ある意味しょうがないことではあるという気も(私もなんか、非常に小さなことをネタに自慢話をしてしまったことがあるなぁと思って、ああ、今から考えれば恥ずかしい……(>_<)。


 一方、「純粋なナチと目されるようになった」の件ですが、こちらは『兵士というもの』の方に詳述されています。クリューヴェルは個人的に(も)「ヒトラーに魅了され」ていたようであり、またナチスの犯罪についても、それを正当化し、弁護する傾向が見られたそうです。

 結構な量があるので、印象的なところだけを引用してみます。

 ヒトラーに強い印象を受けたクリューヴェルは、総統との個人的な面識を、親密な近しさによって彼に近づいたことがある人間でなければ知りえないような詳細さをもって立証している。彼は明らかに「素晴らしく美しい」「繊細な」、とにかく特別な手の持ち主であり、語り方も並外れて丁寧かつ「静かな声」で、この将軍が想像していたのとはまったく違っていた。個人的な総統はしたがって、公的な、人を催眠にかける総統よりも魅力的な存在である。
『兵士というもの』P248

フォン・ヴァルデック もし我々が戦争に敗れることになったら、総統の功績もまた忘れ去られてしまいます。
クリューヴェル ですが、かなりのものは永遠に残るでしょう。数百年にもわたってね。それは道路のことではありません。それはそんなに重要なことではない。しかし残り続けるのは、労働者を国家へと引き込んだという点での、国家運営の組織です。彼は本当に労働者をこんにちの国家へと組み込んでいったんです。そんなことを今までに成し遂げた人物は一人としていません。
『兵士というもの』P250




 クリューヴェルは、1942年の夏という時点では、ヒトラーが指導するドイツが勝利することを確信しており、また、(当然ながら)そう信じたがっていたと思われます。そんな中、同じ捕虜収容所トレント・パークに1942年11月20日、非常に有能、勇敢であり、かつ極めてナチスに批判的で、エル・アラメインで総統の死守命令を受けて「狂気の沙汰」と断じたリッター・フォン・トーマ装甲兵大将が捕虜として送られてきました。

 最初の晩には午前2時頃まで話し合ったりしていたクリューヴェルとフォン・トーマでしたが、1週間後には早くも二人の亀裂があらわになってきたといいます。

 クリューヴェルは、トーマの態度を非難し、こう告げている。「貴官はまるで大ドイツ国中の不平不満を体現しているようだ。しかも、最初から自分にやらせておけば、はるかにうまくやっていたとでもいうような印象を受けるぞ」と。
 事実、トーマは、トレント・パークにやってきた当初から、敗北は決まったという意見を公然と表明していたし、ヒトラーとナチス党を批判していた。たとえば、1943年2月28日の盗聴記録には、「祖国は、あのルンペンのものであるのと同様に、私のものでもあるのだ」という発言が残されている。「ルンペン」とは、むろんヒトラーのことだ。ほかにも、トーマは、ソ連攻撃は誤りであるし、ドイツからのユダヤ人強制移送についても、「盲従の悲劇」だとまで言い切っている(1942年11月26日の発言、以下、盗聴の日付けのみを記す)。もちろん、これは、OKH、陸軍総司令部に勤務した経験もあり、戦争全体の流れをとらえる立場にあったトーマならではの分析によるものであり、いわゆる敗北主義などではなかったのだが、前線の猛将クリューヴェルには、こんな見解を受け入れられるはずもなかった。彼は、この戦争はまだまだ継続できるし、最終的には勝たなければならないもので、さもなくば「ドイツの終焉」が訪れると思い詰めていたのだ(1942年11月24日)。また、クリューヴェルは、ドイツ敗戦の場合、4人の子供の将来はどうなってしまうのだという不安も洩らしている(1942年11月20日)。
『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』P29,30



 この1942年11月上旬にはエル・アラメインでの敗退も始まっていましたが、11月下旬にはスターリングラードが包囲されてしまいます。

 逆に、ヒエラルキーの中での地位が高くなればなるほど、失敗を認める能力も低下する。ルートヴィヒ・クリューヴェル大将は1942年11月(スターリングラードの第6軍に対する包囲が始まったことの知らせがまさに届いたとき)、こう表現している。「この戦争でふたたび数十万の人々が無駄に亡くなることになるのかね? それはまったく考えられない」。
『兵士というもの』P241



 1943年1月31日には、スターリングラードで包囲されていた第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥がソ連軍に降伏しました。

 ヴィルヘルム・リッター・フォン・トーマやルートヴィヒ・クリューヴェルのような将官たちも、パウルス元帥がスターリングラードで捕虜になったという記事をトレント・パークで目にして、異口同音に憤激を示している。「私だったら自分の頭に弾を一発撃ち込んだでしょうね。とにかく、これには大いに失望させられましたね! 大いに失望させられた」。クリューヴェルはこう述べて、さらに付け加える。「ようするに私が言いたいのは、あなたや私、我々が捕虜になったのとはまったく状況が違うということです。まったく比較になりませんね」。二人が強調しているのは、彼らは最後まで戦いながら敵の手に落ちたということだ。トーマは、自分の戦車が敵に撃破されてそこから這い出るしかなくなり、さらに敵の機関銃による一斉射撃で自分の帽子に穴が空いたことまで、几帳面に報告する。一方でパウルスが捕虜になったことには、何ひとつ英雄的なところがない。トーマとクリューヴェルの見解では、彼はふたつの点で規範に違反している。彼が降伏したということそれ自体以外に、この二人の将官が興奮しているのはその降伏の状況である。「兵士たちが死んでいるのに自分が生きる」というのは総司令官としてありえないことだと彼らは言う。
『兵士というもの』P287,8



 この時は大いに意見が一致したかのようなクリューヴェルとフォン・トーマでしたが、その後、1943年5月にチュニジアの枢軸軍が降伏して、アフリカ軍集団の高級将校たちがトレント・パークに集めらると、それからしばらくして集団はクリューヴェル派とフォン・トーマ派に分かれ、静かな(?)闘争を続けることになったそうです。

 フォン・トーマ派は敗戦はすでに必至であり、ドイツが犯した罪に関しても認めるべきだという立場でしたが、クリューヴェル派はそれに反対しました。クリューヴェルは捕虜のうち最も階級が上であったフォン・アルニム上級大将をかつぎ出しましたが、むしろ逆効果で、クリューヴェル派の方はどんどん少数派になっていきました。捕虜に許されていた屋外散歩の際には、アルニムに同行しようという者がおらず、やむなくクリューヴェルが自派の者に命じてお供をさせる始末であった、といいます。


 クリューヴェルは捕虜収容所で5年間を過ごした後、1947年4月に釈放されてドイツに戻りました。その後は引退して故郷の近くで暮らし、ドイツアフリカ軍団の退役軍人協会の会長を務め、1958年に亡くなりました。


第15装甲師団長となり、クルセイダー作戦終盤に重傷を負い死亡したノイマン=ジルコウ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第15装甲師団長となり、クルセイダー作戦終盤に重傷を負い死亡したノイマン=ジルコウ将軍についてです。


 写真はWikipedia上にはないようで、検索すると色々出てきますが、全然別人のようなのも……?



 ヴァルター・ノイマン=ジルコウはプロイセンのユンカーであった父と、スコットランド人の母の間に生まれました。1912年に士官候補生として竜騎兵部隊に入隊し、第一次世界大戦に従軍します。

 1938年に第7偵察連隊長に任命され、1940年3月29日には第8装甲師団の中の第8狙撃兵旅団長となりました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第8装甲師団ユニット。

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 「8(s)」とある第8自動車化狙撃兵(歩兵)連隊ユニットと、ユニットになっていないような細かい砲兵部隊などをまとめたのがノイマン=ジルコウの第8狙撃兵旅団と呼ばれるものであったと思われます(第1装甲師団の編制からの類推)。


 同師団はフランス戦で活躍した後、ポーランドに移されます。そこで師団長エーリヒ・ブランデンベルガーの休暇中の約1ヶ月間(1941年4月15日から5月18日頃まで)、ノイマン=ジルコウは師団長代理を務めました。

 ブランデンベルガーが戻ると、ノイマン=ジルコウは北アフリカの第15装甲師団長に任命され、5月26日に指揮を執り始めました。
(と、ミッチャムの『Rommel's Desert Commanders』にはありますが、『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』P170によると7月25日からとなっています。ミッチャムは『The Panzer Legions』という著作の中では先代師団長のフォン・エーゼベックが負傷したのは「1941年の夏」だと書いており、混乱があるのかもしれません)

 ノイマン=ジルコウは若々しく、非常に有能で、部下からの人気も高かったそうです。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団。

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 1941年11月から12月にかけてのクルセイダー作戦の時には、ドイツアフリカ軍団長であったクリューヴェルと第15装甲師団長ノイマン=ジルコウの間のやりとり(意見の衝突)がいくらか資料に出てきて、興味深いです。

 シディ・レゼー飛行場から第7支援群を駆逐するのに失敗はしたものの、アフリカ軍団は11月21日夜、絶好の地点を確保した。軍団は支援群、英第4戦車旅団、第22戦車旅団のちょうど中間の地点を占拠して、各部隊を交互に攻撃できた。しかしクルーウェルは、第15装甲師団長ノイマン・シルコフ将軍との討議において「完全に自由な機動」を行うことを意図しており、アフリカ軍団を夜間、東方に移動させてガンブート地区で再編成する、と述べた(注12:ノイマン・シルコフ将軍は強硬に反対を唱えた。そして戦況は「第5および第8戦車連隊をもってする快速進撃によって好転できる」と述べた。アフリカ軍団をガンブート方面に機動させることにより、クルーウェルは英軍を側面から衝く好機の得られることを希望した。)。
 2240時、クルーウェルはロンメルの命令を受け、それに従って作戦計画を修正した。
『ドイツ戦車軍団』上P119(注はP128から)

 【11月23日】ノイマン・シルコフ将軍はクルーウェルに、南方への機動は中止すべきだ、と意見具申した。第15装甲師団は敵の混乱を利用し、南アフリカ第5旅団主力を攻撃、斜面の方向へ圧迫しようとした。クルーウェルはこの考えに「誘惑を感じる」ことを認めたが、アリエテ師団との協同作戦は不可欠であった。従ってその行動は中止され、第15装甲師団はアリエテ師団と合流するため南東へ進んだ。第5戦車連隊は出発が遅れ、正午ごろまで第15装甲師団に追及できなかった。
 ここでドイツ軍が好機を逸したのは疑いなく、また南アフリカ第5旅団と英第7機甲師団が協同して防衛態勢をとる前に攻撃を続行した方がよかったことには疑問の余地がない。
『ドイツ戦車軍団』上P123,4

 【11月28日】午後9時頃、ロンメルがクリュヴェルのもとへ新たな計画を送って来たが、彼は「手遅れ」であるといってこれを無視し、自分の指揮下の戦車師団長に彼の計画に従うようにさせるために、ノイマン=ジルコーとラーフェンシュタイン【第21装甲師団長】を翌日の午前8時に彼のもとへ来させることにした。
 【……】
 【11月29日】ノイマン=ジルコーの率いる第15戦車師団の前進は大いに進捗した。奇妙なことに、実際にはクリュヴェルの計画でなく、ロンメルの計画が実行されつつあった。ノイマン=ジルコーはロンメルがクリュヴェルに示した計画を前の晩に知り、これに従うことにしたのであった。アフリカ軍団は実に自由な精神の持主の集まりであった。
『狐の足跡』上P209,210


 最後の、ノイマン=ジルコウがクリューヴェルの命令を無視したのはかなり面白く感じます(^_^; 経緯を見ていると、ノイマン=ジルコウがクリューヴェルに不信感を持つようになってその結果として29日頃にはもうその命令を無視するようになったかのようにも推測できますが、もちろんそこらへんは全然分からず、ノイマン=ジルコウはクリューヴェルの判断力に信頼を置いていたもののその時にはたまたまロンメルの命令の方がより良いと感じただけだったのかもしれません。


 クルセイダー作戦の戦いは結局、枢軸軍の敗北に終わり、その最終盤の12月6日にノイマン=ジルコウはイギリス軍の砲撃を受けて瀕死の重傷を負い、9日に亡くなります。

 パウル・カレルの『砂漠のキツネ』にはその数日前の微笑ましいエピソードが描かれており、長いのですがこのブログ記事の意図から全文引用させてもらいます。

 アフリカ戦線の勇士、第15機甲師団長ノイマン=ジルコウ将軍も戦死した。指揮戦車の砲塔に立っているところを直撃弾をうけて。彼は兵たちに敬われ、愛されていた。彼の死の数日前のエピソードは、誰でもが知っていた。

 拠点をめぐる戦いであった。イギリス軍補給拠点を奪わねばならなかったのだ。第15機甲師団の戦車は200メートルまで接近した。オートバイ部隊、車を捨てて突撃! 砲弾の雨を浴びる戦車のすぐ背後で、オートバイ兵は車をとびおり、攻撃に移る。ノイマン=ジルコウ将軍はいつものように最前列の指揮戦車に立って、ひらいた砲塔から戦況をながめていた。オートバイ兵の一人がどなった。「おい、蓋をしめろ!」 砲火のため指揮戦車も将軍もわからなかったのである。砲塔の男を曹長だと思ったのだ。最前列の戦車に敵砲火が集中して、ノイマン=ジルコウの戦車のわきにかけ込んだオートバイ兵は、また上を向いてどなった。「閉めろったら! やられちまうぞ!」 それを裏づけるように戦車のすぐ前で砲弾が炸裂し、心配屋の兵士はぴたりと地面に伏せた。砲塔の男は叫んだ。「前進しろ。そうすりゃ弾幕から出られる」「そいつは名案だ」 オートバイ兵は叫びかえした。「後で来いよ、獲物を分けてやる」

 拠点は占領した。ポタス伍長は《組織》の名手であった。拠点にまっさきに乗りこんでからは、彼の関心は戦利品だけにむけられた。それが彼の任務なのである。つまりどの中隊にも戦利品班というものがあって、オートバイ部隊のポタスはこの点でまさに天才であった。イギリスの新車、燃料、水、食糧に対し第六感をそなえている。集合命令がかかったときポタスはすでにいちばん上等なイギリス製トラックを満タンにし、荷台には山と積みこんでいた。ノイマン=ジルコウがやってきたのはその瞬間である。彼は第1中隊長を呼びよせて笑った。「きみの部下の一人のところに来いといわれているのだが。戦利品を受けとりに」「そいつはてっきりポタスだ」とブール少尉は考えた。 「ポタス、中隊長のもとへ出頭!」 ポタスはおそるおそる出頭した。こう呼び出された兵としては当然である。ノイマン=ジルコウにはすぐポタスがわかった。「伍長、約束の戦利品は?」

 いつものようにだらしがいいとはいえない態度のポタスは、もぐもぐと言いわけをした。将軍閣下とはわからなかったものでありますから……。しかし、ノイマン=ジルコウはそれをさえぎった。そして「そんなことはどうでもよろしい、伍長。わしは約束の獲物がほしいのだ!」

「は、ただいま、閣下!」

 すっとんでいったポタスは、仲間を三人連れてもどってきた。チョコレート、たばこ、肉の罐詰をかかえて。「きみたちにも十分あるのかね?」 ノイマン=ジルコウはたずねた。将軍たるもの、これほど驚いた兵士の顔を見たことはあるまい。その顔はこう語っていた。自分のが足りなくなるまで将軍に獲物を分けるほど馬鹿な兵隊がおりますでしょうか……。ノイマン=ジルコウは了解し、笑いながら包みをかかえて消えた。彼はチョコレートと罐詰をたのしむことは出来なかった。ポタス伍長も、6ヵ月後戦死した。1942年6月1日、ゼルヴァス少尉の自走砲を運転しているとき。ゴト・エル・ウアレブの近くであった。
『砂漠のキツネ』P95,6

ロンメルの宣伝に尽力し、後にハンガリーで戦死したベルントについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、(北アフリカでは部隊は指揮していませんが)ロンメルの宣伝に尽力し、後にハンガリーで戦死したベルントについて。


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 ↑ベルント(Wikipediaから)



 アルフレート・インゲマール・ベルントは1923年に18歳でナチスに入党し、20歳の時に突撃隊(SA)に入隊。1934年に突撃隊が粛清されると親衛隊(SS)に参加し、SS予備役の少尉に任命されています。

 フリーランスのジャーナリストとして生計を立てていましたが、その文章をヨーゼフ・ゲッベルスに認められ、1935年に宣伝省に雇われました。プロパガンダ(嘘も含めて)の才能を買われて順調に出世し、省のかなり高位にまで昇ったようです(その後細かくいざこざはあったようですが)。

 戦争が始まると(ゲッベルスから役職を外されたこともあり?)ドイツ国防軍の志願兵として入隊します。その際、「前線で従軍していない者は、プロパガンダに関わる資格はない」と述べたそうです。フランス戦では第605重戦車駆逐大隊の軍曹として戦い、二級鉄十字章、一級鉄十字章を続けざまに受章しています。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第605重駆逐戦車大隊ユニット。

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 1940年8月にベルントは宣伝省に戻り、パリに設けられたプロパガンダ庁の初代長官となります。その後、1941年5月に今度は、中尉としてドイツアフリカ軍団の幕僚になることになりました。『Rommel: A Reappraisal』第3章や第7章によれば、これはゲッベルスがロンメルを宣伝する意図で送り込んだもので、ゲッベルスは「良い写真と洗練されたコピーを確保させるようにした」といいます。一方ベルントは自身でもロンメルの知名度を上げることに個人的な関心を持ち、ロンメルの成功を優れたプロパガンダで広め、ロンメルの人気を高めることに大いに貢献しました。

 がっしりとした体格の持ち主で髪がちぢれ、褐色に近い色の膚をしていたベルントは熊のような歩き方をする男で、生理学上から見ても変わったところがあった。彼の片方の足には指が6本あったのである【引用者注】。彼は教育があり、魅力的な男で、いたるところに顔を出し、ロンメルの日記をつける任務を与えられていた。党から派遣された一種の目付役(コミッサール)としてロンメルの幕僚になる前から、彼はすでにタフで野心的で、熱烈なナチ党員であった。ベルントは図々しいほど率直なところがあったが、ロンメルはこれを大目に見なければ彼の気持ちをそこなう結果になることを恐れ、そのままにしておいた。たとえば4月のある日、ベルントは生意気な笑みを浮かべながら、「閣下、もし私があなただったら、前に出過ぎるようなことはしません」と助言した。しかし、ベルントは巧みにロンメルをめぐる逸話を作り出した。そして何かヒトラーを不愉快にするおそれのあることをいわなければならないとき、ロンメルはベルントを派遣した。勇気のある男だったからである。ベルントは1945年、自分が勇気あることを立証して、ハンガリーで死んだ。
『狐の足跡』上P155

(引用者注:念のために書いておきますと、多指症はそれほど珍しいものではなく、数百~数千人に一例の割合で存在するようで、偏見を持つべきではないでしょう。)

 『ヒトラーの電波(Hitler's airwaves : the inside story of Nazi radio broadcasting and propaganda swing)』という本の中では、ベルントは「著しく不愉快な人物:ゲッベルスや高官達は、ベルントのずる賢さ、抜け目のなさ、捏造、嘘に頻繁に愕然とさせられるのだった。」と描写されている。ヨーゼフ・ゲッベルスの個人報道官であったヴィルフリート・フォン・オーヴェンはベルントを「無節操で野心的だが、才能がないわけではない若者」と呼んでいる。
英語版Wikipedia「Alfred-Ingemar Berndt」






 ベルントは1941年6月にドイツ軍がソ連に侵攻するとゲッベルスに命じられてベルリンに戻り、プロパガンダ部門の責任者となりましたが、ロンメルが北アフリカを離れるまで、ベルリンのロンメルの司令部の間を定期的に往復し、「砂漠の狐」の伝説を育て、広めることに尽力しました。「Desert Fox」という言葉はイギリス軍側から出てきたものでしたが、ベルントとナチスの宣伝部はこの言葉を利用して、ロンメルをドイツ国内や占領地で最大限にアピールしたのです。

 また、ロンメルもベルントの才能と人脈を最大限に活用しました。ベルントは必要に応じてベルリンや総統府へ赴き、ロンメルの個人的な代理人の役割を引き受けたのです。ロンメルはベルントを利用することで、通常の軍の命令系統を無視して、有力なナチス高官に影響を与えることができました。一方、ロンメルは、友人である陸軍人事局の有力者ルドルフ・シュムントに影響力を行使して、ベルントを急速に昇進させたのでした。

 『狐の足跡』には、ベルントとロンメルの間の興味深いエピソードが何回か出てきます。

 【1942年】8月2日、彼【ロンメル】は全身に不快感をおぼえはじめ同月の半ばにはほんとうに病気になってしまった。【……】副官のベルントはロンメルに知らせることなく、彼のために料理の上手な兵を選び、毎日飛行機で新鮮な野菜と果物を届けてもらうように手配した。「そうでないと、閣下はあのような方ですから、特別な食事をとることを拒否されるでしょう」と、ベルントはルーシー夫人への手紙で説明している。そして、彼は心配のあまりゲッベルスに打電した。「一度ブラント教授〔ヒトラーの侍医〕をこちらへ派遣して、元帥の容態を診断させられてはいかがでしょうか」
『狐の足跡』上P283

 彼【ロンメル】は午後4時30分、副官のベルント中尉を飛行機で東プロイセンへ派遣し、ロンメルの軍を窮地に立たせている【エル・アラメインからの撤退不可の】命令を撤回させるように、ヒトラーを説得させることにした。ベルントは党の役員であったので、軍の参謀将校などを派遣するよりも、ヒトラーに聞いてもらえるであろうと思われた。
『狐の足跡』下P41

 彼女【ルーシー夫人】は頼りになるベルント - 「総統がわれわれすべてに望んでいるとおりのナチ党員そのもの」といった忠実で正直な人物 - のようなしっかりした人物が夫の身近にいることを喜んでいた。ベルントは総統に謁見してルーシー夫人のもとへ帰ってきたとき、【エル・アラメインでの】"勝利か死か"という電報を総統が打電させた背景には、多少の誤解があったようなことを匂わせた。
『狐の足跡』下P47,8



 ベルントはプロパガンダ部門の責任者として、スターリングラードの戦い、チュニジアでの降伏、あるいはカチンの森の(ソ連軍による)虐殺の跡の発見などに対処しました。また、1943年7月17日にはヒトラーから北アフリカ戦役への貢献に対し、ドイツ十字章金章を個人的に授与されました。


 ノルマンディー上陸作戦の直前の時期には、捕虜となっていたB-17乗員を路上でベルントが射殺したことがWikipediaに書かれています。

 連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功した後、ロンメルの司令部を訪れたベルントは、ゲッベルスに対して軍事情勢は極度に悲観的だと述べたそうです(詳しい事情は分かりませんが、ロンメル自身がその頃には軍事情勢の逆転はあり得ないとして悲観的に考えていましたから、その影響を受けたのかもしれません)。ゲッベルスはベルントを敗北主義者であると非難し、無期限の停職処分にしました。

 ベルントはこれに対し、前線での従軍を志願することにしました。1944年9月にベルントはベルリンを離れ、ヒムラーの仲介を得て武装SSに親衛隊大尉として入隊します。

 1945年初頭、ベルントは当時東部戦線で戦っていた第5SS装甲連隊の第2大隊の指揮を任されました。


 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』の第5SS装甲師団「ヴィーキング」。左から3つ目の「II/5」とあるのがそれだと思われます。

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 「ヴィーキング」師団は1945年1月1日からのブダペスト救出作戦(コンラートⅠ~Ⅲ)に参加し、目覚ましい前進を成し遂げましたが衆寡敵せず、西への後退を余儀なくされました。

 複数の目撃者によると、ベルントは第2大隊長として1945年3月28日にベスプレーム(Veszprém)でソ連軍の急降下爆撃機の攻撃を受けて戦死したということです。


 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』のマップのベスプレーム周辺。

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(OCS『Hungarian Rhapsody』のキャンペーンは1945年2月26日ターン(実質的に2月末日)までであるため、厳密にはベルントが戦死した時期はゲームに含まれないことになります)



ロンメルの下の非常に優秀な情報参謀であったツォーリングについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ロンメルの下の非常に優秀な情報参謀であったエルンスト・ツォーリングについてです(フォン・メレンティンのブログ記事で、北アフリカから離任する時の記述に1回だけ名前が出てきました)。


 写真は↓にありました。

Zolling, Ernst - TracesOfWar.com


 エルンスト・ツォーリングはフォン・メレンティンより1歳年長(1903年生まれ)でした。元々砲兵畑を歩んでおり、1937年初頭に参謀本部の予備試験に合格して陸軍士官学校で訓練を受けます。その後も砲兵部隊の幕僚を務めていました。

 ポーランド戦の時にはライン川下流域の警備を任務とする第27軍団の砲兵部隊の幕僚をしていました。

 1940年2月5日、ツォーリングはアイフェル(Eifel:アルデンヌのドイツ側の町)に駐留していた第8軍団の情報参謀となります。この時期にツォーリングは、自分が軍事情報関係の仕事が好きだということに気付き、その後のキャリアをこの専門分野のみで事実上過ごすことになりました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第8軍団司令部ユニットと、その麾下にあった第28歩兵師団、第8歩兵師団(OSPREY『Fall Gelb 1940 (1): Panzer breakthrough in the West』による)。

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 5月10日にドイツ軍はフランス侵攻を開始し、ツォーリングはリエージュ、アラス、カレーの戦いなどでその役割を果たします。その後第8軍団はB軍集団予備となりました。その間にツォーリングは試用期間を終え、7月20日に参謀本部から合格の通知を受け取ります。

 第8軍団はその後数か月間イギリス本土侵攻作戦の準備をしており、1940年末まで英仏海峡沿岸に留まった後、ドイツ占領下のポーランドのビャウィストクに移送され、ソ連侵攻に参加します。1941年11月まで中央軍集団の主要な戦闘の参加しましたが、軍団単位で深刻な数の死傷者を出していたため、再建のためにパリに戻されました(その後東部戦線に戻り、スターリングラードで潰滅しています)。

 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第8軍団司令部ユニット。

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 ツォーリングは北アフリカに転属することになり、1941年12月21日に砂漠に到着しました。アフリカ装甲軍の幕僚として6週間勤務した後、1942年2月15日にアフリカ軍団の情報参謀に就任します。その後、アフリカ装甲軍の情報参謀であったフォン・メレンティンが(1942年5月31日にヴェストファルが負傷したため)作戦参謀の任に就いたのに伴い、アフリカ装甲軍の方の情報参謀になっていたもののようです。
(「アフリカ装甲軍」はイタリア軍部隊も含んだ北アフリカにおける枢軸軍部隊すべてを指揮する軍規模の司令部で、その下に(主としてドイツ軍部隊が含まれる)「アフリカ軍団」や、イタリア軍の「第10軍団」「第20軍団」「第21軍団」などが存在していました)


 ↓OCS『DAK-II』のドイツアフリカ軍団司令部ユニット。

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 アフリカ装甲軍の情報部次長であったベーレントによれば、フォン・メレンティンが「現実的な洞察」に基づいて英連邦軍の意図を見積もったのに対し、ツォーリングは「論理」に基づいて推論していたそうです。しかもツォーリングは、敵の戦力と戦闘序列を明らかにする能力において、フォン・メレンティンを明確に上回っていました。そのために彼が主に参考にしたのは、ドイツ軍側が「グッド・ソース」と呼んだ、カイロのアメリカ軍公使フェラーズ大佐がワシントンに電報で送ったものでした。


 ただし例えば、Google Booksで引っかかった『El Alamein: The Battle that Turned the Tide of the Second World War』という本には、「エル・アラメインにおいて8月22日にツォーリング少佐は英軍戦車の数を350輌から400輌と推定したが、実際には700輌に近い数であった」というようなことが書かれていて、当然のことですがツォーリングの推定も百発百中ではなかったということでしょう。


 また、ツォーリングは防諜担当官としても優秀でした。イギリス軍の兵士は、捕虜になった時にどう行動すべきか、よく訓練されていました。すべてのイギリス軍兵士には「The Answer to this is Silence」という素晴らしいパンフレットが配られており、ドイツ軍やイタリア軍の尋問者がどのような質問をしてくるか、そしてどの質問には答えないようにすべきか(そのケースがほとんどでした)が指示されていたのです。ツォーリングが来るまでのドイツ軍指導部は、ドイツ軍兵士やイタリア軍兵士が捕虜になる可能性があるということさえ認めていなかったので、そのような指示も出していませんでした。そのため、枢軸軍の捕虜はあまりにも多くのことを話し、イギリス軍の情報将校達は彼らから大きな収穫を得ていたのです。ツォーリングは、この重大な手抜かりを是正しました。彼は「The Answer to this is Silence」を翻訳、修正した小冊子を作り、すべてのドイツ兵に給与明細と一緒に持たせるように命じました。その小冊子によると、尋問された時、ドイツ兵は自分の名前、階級、生年月日、出生地、居住地は答えることとするが、他の全ての質問には「それには答えられません」と答えること、となっていました。彼は、イギリス軍がこの答えを尊重することを知っていたのです。彼はまた、ドイツ兵が捕まった場合、イギリス軍は捕虜達が自由に会話できる場所に隠しマイクを設置するのが得意だということを警告しました。


 ツォーリングほど優秀な情報将校は希有な存在でしたが、ロンメルにとって不幸なことに、ツォーリングはエジプトからの撤退中にアメーバ赤痢のために北アフリカを去らざるを得なくなりました。

 ツォーリングは1942年11月23日に総統予備となり、健康を取り戻すのに6ヶ月を要しました。

 1943年5月15日にツォーリングは、ローマに司令部を置いていたケッセルリンク元帥の南方総軍の情報将校として現役に復帰します。彼は再び優れた仕事をし、1944年9月10日にフォン・ルントシュテット元帥の西方総軍の情報将校に就任するまでこの役職に留まりました。西方総軍の司令官は1945年3月10日にフォン・ルントシュテットからケッセルリンクに交代させられ、ツォーリングは再びケッセルリンクの下で働くことになりました。

 戦争末期、彼はアメリカ軍に降伏しました。戦後はドイツ連邦情報局で、エジプトにおける軍事顧問などを務めたそうです。



 今回、ネット上で簡単に検索した感じではツォーリングの情報はほとんどなかったので、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』をほとんど唯一の情報源とし、ただし戦後の経歴についてはネット上で出てきたものを使用しましたが、Google Books上で「Ernst Zolling」で検索すると、ケッセルリンクの裁判に関する記述らしきものでいくらかヒットします。

 戦後ケッセルリンクはイタリア戦中のパルチザンの処刑に関して裁判にかけられたようで、その参考人としてツォーリングが証言をさせられたもののようです。断片的なものしか読めないのですが読んでいる感じ、ツォーリングは(また、同じくケッセルリンクの下で参謀長であったヴェストファルも)人道上問題があるとは知りつつも上からの命令をそのまま処理したようにも感じます。難しい問題ではありますが、単に「ロンメルの下で活躍した」だけではなく、こういう問題もあったらしいということも、分かったのであれば記述すべきだろうと考えます(『Rommel's Desert Commanders』にはここらへんの問題は全然記述されていません)。




ロンメルの下で情報参謀を長く務め、その後の東部戦線での戦いなどを記述した『Panzer Battles』で有名になったフォン・メレンティンについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ロンメルの下で情報参謀を長く務め、その後の東部戦線での戦いなどを記述した『Panzer Battles』で有名になったフォン・メレンティンについてです。


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 ↑フォン・メレンティン(Wikipediaから)


 ↓フォン・メレンティンの書いた『Panzerschlachten(英訳名:Panzer Battles)』の和訳本。





 フリードリヒ=ヴィルヘルム・フォン・メレンティンの父は職業軍人で、その祖先は1225年までさかのぼることができたそうです。さらに、母の曾祖父はフリードリヒ大王の甥だったといいます。両親ともに息子達は軍人であるべきだと考えており、1918年に西部戦線で父が戦死した後も、母親が彼らを軍人にすべく教育を続け、3人の息子のうち2人が将軍にまでなりました(彼は三男で、最終階級は少将でした。6歳年上の兄ホルストは1945年に第38装甲軍団長、第11軍団長、第8軍団長を歴任し、砲兵大将にまで昇進しました)。

 フォン・メレンティンは1924年に騎兵連隊に一兵卒として入隊しましたが、その後士官養成コースで学び、1928年に少尉に任官されます。身長が168cmと低かったものの、スリムで、知的で、礼儀正しく、エネルギーに溢れていたそうです。馬術が非常に得意で、競馬や障害物競走、馬術競技などで多くのトロフィーを獲得していました。晩年も80歳を過ぎてなお、1日2時間は馬に乗っていたとか。

 フォン・メレンティンは参謀将校になるつもりはまったくなかったのですが、「不幸なことに」(と、自著で書いています)所属連隊の連隊長が事務仕事が大嫌いで彼にその仕事を押しつけたことがきっかけで、また資格試験の成績が上位であったため、参謀将校教育のために陸軍大学へ入ることを命じられます。

 卒業後は軍事パレードなどの業務に携わった後、ポーランド戦開始時には第3軍団の情報主任参謀を務めます。この時期に、ロンメル(ヒトラーユーゲントの軍事教練指導官に任ぜられていました)がフォン・メレンティンの執務室を訪れ、いくつかの問題について話し合ったことがありました。冬には彼は訓練中であった第197歩兵師団の作戦参謀となります。この師団はフランス戦では純粋に副次的な任務を果たしただけで、フランス降伏後にオランダに入り占領軍となりました。

 1941年3月から4月にはユーゴスラヴィアを占領するための第2軍の情報参謀を務めた後、イタリア軍との連絡将校に任命され、そこでイタリア軍の装備が旧式であることや、下級将校の訓練水準の低さに驚いています。

 5月末、ミュンヘンに出頭することを命ぜられました。新たに、アフリカ装甲集団の情報主任参謀に任じられることになったのです。ミュンヘンで同作戦主任参謀となる予定のヴェストファルと合流し、さらにローマで同参謀長となる予定のガウゼと合流しました。彼らはイタリア軍機に載ってシチリア島経由でトリポリへと向かいましたが、途中何度もイギリス軍の戦闘機が視界に現れ、超低空飛行を余儀なくされたそうです。

 【……】1941年4月、大勝利を収めて以来、彼【ロンメル】の責任は重大になったので、然るべき参謀がどうしても要ることになった。初めロンメル自身、物事をそんな風には見ておらず、だから彼がガンブートでわれわれを迎えた時の控え目で堅苦しい態度は忘れられない。われわれは皆いかにも参謀将校らしかったが、アフリカ事情に関しては明らかに新米ばかりだった。第一線の軍人としてロンメルはわれわれを疑問視した。その上、彼自身、参謀本部にいたことはないので、我々が彼を監視する気ではないか、自分を交代させるつもりさえもっているのではあるまいか、とおどおどしていたことは明らかだった。
 【……】
 実際問題として、ロンメルの指揮権についてわれわれが疑問を投げかけることは全くなかった。彼の役に立とうとアフリカにやってきたのであり、彼の方でもわれわれの助力がなくては、この大軍を指揮できないことに間もなく気がついた。
『ドイツ戦車軍団(上)』P84,5


 フォン・メレンティンは、1941年6月(バトルアクス作戦の頃)から、1942年9月15日(アラム・ハルファの戦いの少し後)までの15ヶ月間、ロンメルに仕えました(OCS『DAK-II』には、彼がいたアフリカ装甲集団等の司令部はユニット化されていないので、ユニット画像はなしで)。

 あるインタビュー記事でフォン・メレンティンは下記にように語っています。

 「ロンメル麾下の部隊は、ドイツ兵もイタリア兵も、彼の為に文字通り何でもした」とフォン・メレンティンは回想している。イギリス兵でさえおおっぴらにロンメルを称賛していたので、彼らの上級司令部は将校達に対して、ロンメルに関する話をしないように命令することを余儀なくされた。「しかしロンメルの真の素晴らしさは、必ずしも彼の幕僚達全員には受け入れられていなかった」とフォン・メレンティンは悔しそうに言い、こう続けた。「彼はジェームズ・メイソンが【映画『The Desert Fox: The Story of Rommel』、邦題:『砂漠の鬼将軍』で】演じたような親切で礼儀正しい人物では決してなかった。彼の下で働くには、鋼のような身体と、そしてそれ以上の強い神経を持ち合わせていなければならなかった」

 ロンメルは幕僚達と連絡の取れない日が何日にもなることがあり、毎日のブリーフィングに間に合うように司令部に戻ってくるのは稀だった、とフォン・メレンティンは言った。「彼は戦場から埃と汚れにまみれて到着すると、司令部に乱暴に入ってきてぞんざいに「Wie ist die Lage?」(状況はどうか?)と言う。ヴェストファル(作戦参謀)と私(情報参謀)はすぐに簡潔で明瞭な5分間の要約でそれに答えたものだった。砂漠の狐は、事実を分析し、それに基づいて行動を決定するのに30秒とかからなかった。そして、1週間分もの服すべき方針と命令を出すことも往々にしてあったが、それに修正が必要になることはほぼなかった」と彼は驚嘆と共に語った。
「Portrait of a German General Staff Officer」『Military Review 70(April 1990)』P74,75



 フォン・メレンティンは情報参謀として英連邦軍の兵力と意図に関し、詳細な評価を行う責任がありました。1941年10月中旬、彼は全部隊に配布するために情報分析を行い、近い将来、大規模な英連邦軍の攻勢が発起されるであろうと強調します。しかしロンメルは英連邦軍の攻勢の前にトブルクを落としてしまえると判断し、攻撃命令を発しました。攻撃準備は11月15日までに完了したものの、実施は月齢の関係で11月21日以降にならざるを得ず、そしてその前の11月18日に得連邦軍によるクルセイダー作戦が発起されたのです(トブルク攻撃に全力を傾けるためというロンメルの意図に従い、フォン・メレンティンはイタリア軍の将校に対しては、「英連邦軍の攻勢が発揮される可能性は少ない、と語っていたそうです)。


 ↓以下のクルセイダー作戦の時期の記述に出てくる地名を、OCS『DAK-II』のマップから(道路に沿って「Capuzzo」とあるのがカプッツォ道だと思われます)。

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 英連邦軍の攻勢が明らかになると、ロンメルはドイツアフリカ軍団長のルートヴィッヒ・クリューヴェルに「敵がトブルク攻撃に重大な脅威を与える前に撃滅せよ」と命令しますが、そのやり方は一任します(当時、ドイツアフリカ軍団には第15、第21装甲師団とアフリカ師団およびサヴォナ歩兵師団が配属されていました)。クリューヴェルはシディ・オマールに向かって主力を集中することにしました。しかし、その方面にはすでに敵は存在せず、第21装甲師団は見えざる敵を追い求めてついに燃料を切らし、燃料の空輸を求める狂気のような要請がアフリカ装甲集団司令部に飛び込みます。フォン・メレンティンらは全力を挙げて燃料輸送隊を編成するのに没頭しました。

 21日午後には、ガンブートにあったアフリカ装甲集団司令部に敵が危険なほど接近していることが分かり、ロンメルはその夜のうちに司令部をエル・アデムに移すよう命じました。

 その後、11月23日に起こった戦闘の勝利を過大評価したロンメルはいわゆる「(リビア・エジプト国境の)鉄条網へ突進」を企図します。その件について、フォン・メレンティンはこう書いています。

  【アフリカ】装甲集団司令部にあって私は、カプッツォ道沿いにニュージーランド第2師団主力が進撃している、という信頼すべき情報を得ていた。さらに、トブルク戦線の戦況は急を告げつつあった。ヴェストファル大佐と私はロンメルに対し、トブルクからアフリカ軍団を遠くへだてるのは危険であり、ばらばらに進撃してくるニュージーランド師団撃滅の絶好機を逸するおそれがあろう、ということを指摘した。
 事実、もしわれわれがアフリカ軍団をシディ・レゼー地区にとどめていたならば「クルセイダー」作戦に勝利をつかんだであろうという点について、私は確信を持っている。英第8軍は、その兵力を逐次投入するという、致命的な誤りを犯し、わが軍は、これを各個撃破することが可能であった。しかしロンメルの決断した国境地帯の鉄条網への進撃は、カニンガム将軍を著しく混乱させ、英第8軍を猪突猛進させることになったのは事実である。
『ドイツ戦車軍団』上P132,3


 また、フォン・メレンティンら幕僚は英連邦軍の物資集積所の位置を掴んでいたそうなのですが、ロンメルはそもそも敵野戦軍の撃滅を意図していて物資集積所には興味がなかったし、またフォン・メレンティンも一箇所の物資集積所を潰したとしても、英連邦軍には無限の兵器資材を持っていたから、英軍の攻勢が停止されたかどうかは非常に疑わしい、と書いています(しかし私自身は、そうでもないのではないか、フォン・メレンティンはロンメルに忠誠的であるために、全般的にロンメルにとって少し有利なような書き方をしているのではないか、という気もします)。

 ロンメルとの通信が途絶していた間……。

 エル・アデムの司令部として使っていた丸太小屋の中で、外套を投げやりに引っかけてヴェストファル大佐と私は不安を募らせつつ戦況を見守っていた。
『ドイツ戦車軍団』上P135




 1942年5月26日からのガザラの戦いの時にはフォン・メレンティンは、陽動作戦を行うクリューヴェル突撃群の先任作戦参謀に任じられていましたが、29日にクリューヴェル将軍の乗る飛行機が撃墜され英軍の捕虜になったため、一時的に指揮を執ることに。この時ケッセルリンク元帥が司令部に現れ、フォン・メレンティンは指揮を依頼します。ケッセルリンクは面白がったものの、元帥としてロンメルから命令を受けることはできないという点を指摘しました。しかしフォン・メレンティンは、この危険な時期にイタリア軍の将官にクリューヴェル突撃群の指揮を任せるのは適当でないと指摘し、ケッセルリンクは2、3日の間指揮を執ることに同意したのでした。

 その後、5月31日にアフリカ装甲軍作戦参謀ヴェストファルが負傷したため、フォン・メレンティンは装甲軍の司令部へ戻るように命じられ、先任作戦参謀の任を引き継ぎます。


 7月1日から第1次エル・アラメインの戦いが起こりましたが、10日に英連邦軍の限定的な反撃によってイタリア軍戦線が崩壊し、これをからくも食い止めたのがフォン・メレンティンであり、ロンメルは書簡の中で「英軍の攻撃をもちこたえたことについては、とくに、そのときフォン・メレンティン中佐に指揮された装甲軍参謀部に感謝せねばならぬ」と述べています(『ドイツ戦車軍団』上P235)。

 一方、オーキンレックはロンメルの軍勢が予想していたほど強力ではないことを察知したが、すぐに大規模な反撃に出ることはしなかった。その代わり、ドイツ軍よりも戦闘能力が低い、地中海沿岸のイタリア軍に標的を絞り、敵の陣形を崩す目的で、7月10日から15日にかけて、第30軍団による限定的な反撃を開始した。
 この攻撃の矢面に立たされたのは、サブラータ歩兵師団とトリエステ自動車化師団、ブレシア歩兵師団、パヴィア歩兵師団などで、とりわけ最左翼に位置するサブラータ歩兵師団の損害は甚大で、ほぼ壊滅状態となってしまった。これにより、枢軸軍の戦線には数か所で綻びが生じたが、ロンメル率いるドイツ軍の装甲部隊は戦線の右翼に展開しており、すぐに左翼のイタリア軍を救援に向かうことは不可能だった。
 そのため、アフリカ装甲軍司令部の情報参謀フリードリヒ=ヴィルヘルム・フォン・メレンティン中佐が、自らの判断でドイツ軍の後方部隊(通信部隊や輸送部隊など)をイタリア軍の救援に向かわせ、サブラータ師団の抜けた穴には、クレタ島から転進していた第382と第433の2個ドイツ軍歩兵連隊が急派された。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P297,8


 この時のことを、フォン・メレンティンは自著でこう書いています。

 その日の朝早く私は、数百のイタリア兵が狂乱状態に陥って装甲軍司令部のそばを駆けぬけてゆくのを見て驚いた。
 ロンメルは、その夜、はるか南のカレ・エル・アブド陣地で過ごしており、司令部の指揮は私に委ねられていた。司令部が危機に陥ったとき、まず本能的に、代替し難い装備、文書を移動し、その安全を図った。しかしサブラタ師団がすでに「潰滅して」いたのは明らかであり、直ちに西に向かう道路を閉鎖しなければならなかった。私は司令部にいた参謀や兵員を呼集して、急ごしらえの防御線を設置する一方、ちょうど到着した高射砲数門と歩兵を投入して、戦線を強化した。われわれはテル・エル・アイサの高地を奪取し、海岸道路へ突進するため、攻撃してきたオーストラリア軍をくい止めるのに成功した。だが不幸にも無電傍受隊長ボーゼーム中尉は戦闘中に戦死し、その部下の大半も失われた。
『ドイツ戦車軍団』上P217,8



 しかしこの時期フォン・メレンティンは何ヶ月もの間アメーバ赤痢に苦しめられていました。そんな中、ヴェストファル大佐が8月30日の夜に戻ってきて作戦参謀の任務を再開し、また以前のフォン・メレンティンの任務であった情報参謀の職務は2カ月前からツォーリング少佐が務めていたので、彼は余剰将校となったのです。軍医官は以前からフォン・メレンティンに対して治療のためにヨーロッパへ帰還することを強く勧めていたこともあり、9月9日、彼はロンメルに離任の申告を行い、数日後に北アフリカを出発しました。彼はこの時以降、ロンメルに二度と会うことはありませんでした。

 バイエルン山中の病院で治療を受けて健康状態がすぐに回復したフォン・メレンティンは、今度は包囲されたスターリングラード周辺の戦いに投入されることになり、第48装甲軍団(フォン・クノーベルスドルフ)の参謀長に任命されます。その直後の1942年12月にスターリングラード包囲環のすぐ西で行われたいわゆる「チル川の戦い」は、第11装甲師団長バルクとフォン・メレンティンが連携してソ連軍の大兵力を叩くことに成功し、「Panzer Battles」の代表的な名戦闘と見なされています(SCS『Panzer Battles』はこのチル川の戦いを扱っているのです)。

OCS『Case Blue』「チル川の戦い」シナリオ (2016/12/25)

 ↓OCS『Case Blue』の第48装甲軍団司令部ユニット。

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 メレンティンは、1942年11月29日から1944年9月14日までの間、ロシア戦線の南方で行われたほとんどの主要な戦闘に参加した。メレンティンは、クノーベルスドルフとその後任であるヘルマン・バルク将軍の下で絶望的な戦いの中で見事な働きをし、これらの戦いの素晴らしい記録を名著『Panzer Battles』に残し、この著作は1956年にオクラホマ大学出版局から初めて出版されて以来、何度も再版されている。彼は、ブロディの戦い(1944年7月)では第8装甲師団長代理を務め、1944年8月15日から9月14日までは、バルク率いる第4戦車軍の参謀長を務めた。1944年9月【21日】、バルクがG軍集団の司令官に任命されると、彼はメレンティンを連れて西部戦線に赴いた。メレンティンは、1943年5月1日に大佐に昇進していた。

 バルクとメレンティンは、ヴォージュ地方のロレーヌキャンペーンでアメリカ第7軍と第3軍およびフランス第1軍に対して、G軍集団(麾下は戦力不足の第1軍と第19軍であった)を見事に指揮した。G軍集団は【南】フランスからの撤退で大きな打撃を受けていた。例えば、第19軍は1,480門の砲のうち1,316門を失っており、また生き残った戦車は10輌のみであったという。バルクとその参謀長は、急いで(少なくとも部分的には)再建することができ、またメレンティンのアフリカ時代の旧友であるジークフリート・ヴェストファルを参謀長とする西方総軍からの助けも大きかった。その大きな戦力差にもかかわらず(装甲師団の中には、運用可能な戦車が5輌しかないようなものもあった)、彼らはかろうじて戦線を維持することができた。その理由の一つには、連合軍の補給が困難であったこともあるが。第1次メッツの戦いではパットンを阻止し、連合軍の西方防壁への攻撃を何ヶ月も遅らせ、1944年12月16日に西方総軍がアルデンヌ攻勢をかけられるようにしたことに大きく貢献したのである。しかし、連合軍を永遠に食い止めることはできず、パットンのメッツ攻略(11月21日)やフランス軍のストラスブール攻略(11月24日)を阻止することはできなかったのである。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P112


 G軍集団について調べてみたところ、ノルマンディー上陸作戦の時には南フランス(ロワール川より南)のうちの西部が第1軍、東部が第19軍の戦区となっており、その上位建成であったようです。

 当初このG軍集団はヨハネス・ブラスコヴィッツ将軍が指揮していてドイツ国境への後退を行っていたものの、麾下に入れられた第5装甲軍(マントイフェル)による9月12日の反撃計画が戦車の不足により延期され、9月18日にようやく実施されたもののきわめて小規模に留まっていることを知ったヒトラーはブラスコヴィッツには攻撃精神が欠如していると決めつけ、攻撃精神の鬼のようなバルクと交替させたのだとか(『ドイツ軍名将列伝』P148)。

 OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンゲームは1944年9月5日ターン(5日~7日)から開始ですが、メッツ攻略戦はそのターンの内に始まり、バルクとフォン・メレンティンがG軍集団に赴任した9月21日は第5ターンとなります(第4ターン中の9月17日にはマーケットガーデン作戦が開始されていました)。

 『Beyond the Rhine』におけるG軍集団の戦区が気になったので調べてみたところ、連合軍がベルギーに入る前の時点では、↓の黒い線の南側であったようです。その北側はモーデルのB軍集団の戦区となります(『Atlas of the European Campaign: 1944-45』から)。

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 赤い線は、その後の9月11日の時点における軍集団の境目で、少し南にずれたようです。


 ↓拡大したもの。

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 1944年11月下旬、参謀総長となっていたグデーリアンがG軍集団司令部に使者を送り、大砲の使用法についてアドバイスをしてきました。それを聞いた参謀長フォン・メレンティンは、そもそも大砲も砲弾もほとんどないのにと無遠慮な意見を述べました(フォン・メレンティンはこの時のことについて、自分は「いたずらっ子」であったと述べています)。使者はグデーリアンの元に帰って、フォン・メレンティンが自分を侮辱した上に無視したと伝え、怒ったグデーリアンは11月28日にフォン・メレンティンを陸軍本部へと召還し、徹底的に叱責した上で、なんと軟禁したのです!

 1週間軟禁されて解放されたものの、12月5日にフォン・メレンティンはG軍集団の参謀長の職を解任されてしまいました(『ドイツ軍名将列伝』P288によれば、「ザール川を敵に渡らせた責任を問われて、参謀長を解任された」とあります)。


 その後、フォン・メレンティンは第9装甲師団の第33装甲連隊の指揮を任されることになりました。『Rommel's Desert Commanders』によると、グデーリアンは冷静になった後、ヒムラーの陰謀によって12月中旬にG軍集団司令官を解任されていたバルク(フランス戦の時にバルクはグデーリアンの下で連隊長を務めており、長年の友情で結ばれていました)と会って彼を東部戦線の第6軍司令官とすることに成功し、その時にフォン・メレンティンの再任についても話し合ったのではないだろうか、とありますが、推測の域は出ないような気がします。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第9装甲師団ユニット。

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 軍集団参謀長が装甲連隊長に、ですから、「冷静」になって「再任」というのには何かほど遠いような気もしますけども、これまでに調べたドイツ軍の指揮官でも、大戦後期には降格人事的なものは見ましたから、当時はそんなものだったのかもしれません(>_<)

 フォン・メレンティンは1944年12月28日にB軍集団司令部に出頭し、翌日には第33装甲連隊の指揮を執り始めましたが、連隊には400名ほどしか残っていませんでした。彼は連隊を率いて、ウーファリーズの戦いやバルジの戦いの終盤で、アメリカ軍の攻撃を何度も撃退します。ロシアでの経験から、フォン・メレンティンは氷雪の中での退却方法を熟知していたため、第5装甲軍の後衛として貴重な働きを見せたのでした。

 『Rommel's Desert Commanders』によれば、バルジの戦いが終わる頃にはフォン・メレンティンとグデーリアンとの関係は修復され、1945年3月5日にはフォン・メレンティンは第5装甲軍の参謀長に任命されます。

 4月1日、B軍集団の第5装甲軍と第15軍はルール地方の巨大な包囲環の中に包囲されてしまいました。4月15日、B軍集団司令官モーデル元帥は、小さな部隊に分かれて東へ脱出を試みるように命じます(モーデル自身は18日に自決)。フォン・メレンティンは他のわずかな将校達と共に包囲環から抜け出そうとして、昼は隠れ、夜に移動を続けます。しかし5月3日、彼はアメリカ兵に捕らえられてしまったのでした。


 フォン・メレンティンはその後2年半を捕虜として過ごし、釈放された時には(東)ドイツにあった財産はすべてなくなってしまっていました。それからの3年間を西ドイツでホームレス難民として過ごしましたが、1950年に妻の祖父が移住していた南アフリカに移り住みます。彼は40代後半になっていましたが、そこから航空会社を立ち上げ、大成功します。フォン・メレンティンは後に、どんな仕事であっても「優れたスタッフワークと適材適所の選択が重要である」と語ったそうです。

 彼はNATOやアメリカ陸軍のコンサルタントをしたり、欧米の陸軍大学校で講演をしたりして晩年を過ごし、1997年に南アフリカで92歳の生涯を終えました。



 最後に、フォン・メレンティンの著作『Panzer Battles』について今では色々と批判的に見られているようで英語版Wikipedia「Friedrich von Mellenthin」にはそこらへんのことが書かれており、大変興味深いものでした。

 メレンティンの著書『Panzerschlachten』(英訳名『Panzer Battles』)は、彼が参加したドイツ国防軍の作戦を記録したものである。この本は1956年から1976年にかけてアメリカで6回再版され、ドイツ軍の戦いにロマンを抱く読者の間で今もなお人気がある。メレンティンの『Panzer Battles』やその他の著作の真偽は長年に渡って疑問視されてきた。歴史家のヴォルフラム・ヴェッテは、フェルディナント・ハイム、クルト・フォン・ティッペルスキルヒ、ヴァルデマー・エルフルトなどと並んで、メレンティンを第二次世界大戦に関する弁明的で無批判な研究を著したドイツ軍将官のグループにリストアップしている。

 批評家は、メレンティンがドイツ国防軍の失敗を軽視する傾向がある一方で、ドイツ兵の戦闘能力を賞賛していることを指摘している。歴史家のロナルド・スメルサーとエドワード・J・デイヴィスは、メレンティンの著作を、エーリヒ・フォン・マンシュタイン、ハインツ・グデーリアン、ハンス・ルーデル、ハンス・フォン・ラックの著作とともに、戦後の修正主義者の物語を支える「弁明的回顧録」というジャンルの一部として特徴付けた。メレンティンは、国防軍の敗北は単に人員と資材におけるソ連軍の優位性に帰するのだとして、赤軍を「巨大で無尽蔵とも見える資源を持っている冷酷な敵」として描写している。その結果、メレンティンによれば、「果てしない兵員と戦車の波」が、優位にあるはずのドイツ国防軍を最終的に「水没」させたのだ。

 東部戦線におけるドイツ国防軍の敵は、「ロシア兵の心理学」に捧げられたセクションを含め、一貫して軽蔑的で人種差別的な言葉で描かれている。メレンティンによれば、「ロシア兵」は「原始的存在」で、「精神的鈍重さ」によって特徴づけられ「宗教または道徳的バランス」が欠けている。メレンティンは彼らを「原始的な」「アジア人」であると述べている。

 『Panzer Battles』は、ソ連軍の記録資料が西側とロシアの歴史家にとって利用可能になった1995年まで、東部戦線の軍事行動に対するアメリカ人の見解に影響を与え、誤解を形成するのに役立った。歴史家ロバート・シティーノは、メレンティンの作品が、西側諸国における赤軍の認識が「顔も心もない大群」で、その戦争技術の考え方は「数、力、大きさによって行く手のすべてを粉砕すること」であると形成したことに影響力を持ったと指摘している。シティーノは『Panzer Battles』を「よく言えば信頼できない、悪く言えば意図的に誤解を招く」ドイツ軍将校の回顧録の中に含めている。



 このページの一番下にはグランツ氏による "American Perspectives on Eastern Front Operations in World War II"という論文(?)へのリンクがあり、そこには『Panzer Battles』に具体的にどう問題があるのか、少し書かれています(Wikipedia上での批判よりは、穏やかな批判に留まっているような気がします)。


新刊『牟田口廉也とインパール作戦』の感想

 新しく出版された『牟田口廉也とインパール作戦』を読了しました。





 正直、読んでいて気持ち悪いものがありました……。もちろん、個人的な感想に過ぎないので、この本を素晴らしいと思う人も一定数おられると思いますけども。

 自分なりの書評をどうしようかと思っていたんですが、読了後にAmazonの書評を読んでみたら、その1番目と2番目のもの(「誤解されるかも知れない作品」と「超無理筋な牟田口擁護論」)が特に、「うんうん、その通り」と思ったので、そこらへん自分の書評を書く必要はないな、と思いました(^_^;


 ただ、以前の広中一成『牟田口廉也ー「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)が個人的には、牟田口に関係の薄い歴史叙述を延々とするだけで牟田口に関係する記述が昔のインパール本よりも遙かに薄く感じ、しかも著者の主張も何も分からないという、自分史上最高に「買う価値と読む価値がまったくなかった」と思われたのに対して、この新刊『牟田口廉也とインパール作戦』の方は新しい聞き取りなどで得られたのであろう記述も多くあるようだし、述べられる興味深いエピソードに出典が書かれていて中にはどうも入手難なものもあるようだったりで、一般読者にとっての(二次)資料としての価値はかなりありそうだと感じました。




 また、その牟田口擁護論に関しても、私は納得できませんでしたが、「そういう見方もある」し、「その見方に納得する人もいる」のは確かなのでしょう。それから、牟田口を批判する側も、かつての「とにかく牟田口批判を重ねればいいのだ」という姿勢は問題があるということは自覚されるべきだと思いますし、その感覚は広がってきているように思われるので、慶賀すべきことではないかと。あと、個人的には、「(とりあえずの?)牟田口擁護論としては、こんな理屈しか取りようがないのか(他に牟田口を擁護できる材料はないのか)」と思った(思えた)ことも収穫ではありました。


 インパールの牟田口論争に関しては、これで一応、「多角的にインパール作戦を見るべきではないか」という笠井亮平『インパールの戦いーほんとうに「愚戦」だったのか』(文春新書)が出た後、「牟田口を擁護してみました」という本作が出ました。他にも切り口は色々あり得るでしょうし、ますますの活発な議論や出版を期待したいところです。





 個人的に一番興味があるのは、牟田口と他の将軍との比較論です。その筆頭は確実に、牟田口にとって戦域的にも期間的にも地位的にもずっと、最もライバル的な関係にあったスリム将軍でしょう。スリム将軍は部下達や一般兵達と密接にコミュニケーションを取り、その士気をものすごく上げていくことができたし、また部下を信頼してその判断に任せることができた指揮官であったようなので、牟田口との比較論は酷なものになりそうですが。

 また、本書でも結構触れられているウィンゲート将軍は上官や同僚達からは非常に嫌われていた一方で部下達、兵士達からは非常に慕われていたそうですが、その作戦(敵後方に降下して作戦する)は労多くして益は少なかったのだろうとされていますから、インパール作戦との比較もありでしょう。

 本書で言うところの「任務重視型軍隊」ということで言えば、第1次アキャブの戦いの時の(中東では名将であったと思われる)ウェーヴェル将軍や(ほぼ文句なく愚将であろう)アーウィン将軍は、牟田口とある程度似た「攻勢をやらなければならない」立場にあったように思われますから、そこらへんの比較も面白そうです。

 また本書では、スティルウェル(中国軍を改善したアメリカ軍指揮官。兵士達に非常に嫌われた)やシェンノート(フライングタイガースの指揮官らしいですが、私は全然この人物に関して知識がありません)は、牟田口と同じくらいの愚将であったとする意見がある(和訳もされている『ウィンゲート空挺団』の著者デリク・タラクの意見)ということが述べられていますので、そちらも興味のあるところです。






 日本軍においても、もし第15軍司令官が牟田口でなく、他の将軍であったならばもっとマシになり得たのではなかろうかという検討や、比較があり得ると思います。

 今の私の知識では、当時の牟田口の地位に就き得た、より良い将軍としては桜井省三将軍(当時アキャブ方面の第28軍司令官でしたが、ビルマ戦には牟田口よりも早くから第33師団長として戦っていました)が思いつきますが、「積極果敢」が第15軍に求められていたのでしょうから、その意味でやはり人選的に無理だったのか……。

 積極果敢で言えば、当時第18師団長(としては優秀であったと思われる)の田中新一将軍もまたやばいくらい積極果敢で、インパール戦後の状況でもビルマ方面軍参謀長として他の参謀達が困り果てるような無理無茶無謀な作戦案を声高に主張しまくっていたらしいですが、この人は東條英機にガダルカナル戦の時に「馬鹿野郎」と罵倒を浴びせてますから、東條-河辺ラインの下で軍司令官になる目はなかったか。

 そう考えていくと、東條英機がまずまあ問題で、河辺正三も大いに問題ありであり、ここのラインが何とかなってなければどうしようも……。しかしそもそも、大枠の太平洋戦争自体が「賭け」なので、当時東條英機がビルマで「賭け」をやらないくらいなら、そもそも太平洋戦争自体が始まってないよね、という議論になりそうで、すでに救いがないです。

 ただ、ビルマ戦の他の指揮官と牟田口の比較ということ自体は、益のないことではない、興味深い視点だと思います。


OCSの対戦プレイの防御側には、予備の予備が必要だ!?

 久方ぶりにOCS『Sicily II』のキャンペーンプレイの続きを始めたのですが、ひどい窮地に陥ってます(>_<)






 そんな中、最近思い始めた予備の重要性について。

 元々、尼崎会のプレイでは「予備はある程度重要なんだろうと思いつつも、我々はほとんどすべてのユニットを前線に出してしまうよね」ということをずっと言ってました。

 しかし、ここ最近の対戦プレイでは「相手がどんなことを、またどれだけのことをやってくるかが予想できないから、予備がやっぱ重要だなぁ……」ということが感得できてきたような気がします。

 一つには『Sicily II』が、OCSの中でもかなり攻撃側の動きを予想しにくいものであるような気もします(二次、三次上陸が可能だったり、侵攻ルートが多数あったり、ユニットはやや余り気味であるとか)が、そもそもOCSは選択肢が他のウォーゲームに比べても格段に広いため、必ずと言っていいほど予想外のことが起こるし、悩んで悩んで決断しても、必ずや後悔するというゲームであるということがあるだろうと思います。

 あと、「そういえば……!」と思ったこととして、尼崎会ではずっとずっと、「研究プレイ」が主であり、ガチの対戦プレイはほとんどまったくやってこなかったのです。だとすると、両陣営の事情を良く分かった状態でプレイするわけで、予想外ということはやや起こりにくく(それでも起こりますが)、そのために予備の必要性が非常に感じにくくなっていたのではないか!?


 また、ガチ対戦プレイの防御側に「予備が必要」として、「予備の予備も必要」という思いも抱きました。というのは、以前古角さんに指南してもらったこともあることなんですが、OCSでは敵ZOCにいると予備モードになれないので、「今、このユニットを予備に指定したい」と思ってもそうできない、ということが多々起こるのです。そのため、特にいったん前線から引き上げさせてきた師団などを「予備の予備(次のターンの予備)」とし、以前から予備にしようと思っていたユニットこそをこのターンの予備にする、ということが必要であろう、と。

 「OCSの防御がものすごく難しい」と思っていたのですが、ちょっと光明が見えてきたような気がします。まさか、「研究プレイである」ということが、防御方法をむしろ分かりにくくしていたとは……!

 もちろん、攻撃側も予備を持つのが重要で、特に『Sicily II』の今ターンには、連合軍が予備に指定していた突破戦力に無茶苦茶苦やられました……(T_T)


 今後また、より上手い防御法を体得できるよう、研鑽を積んでいきたいと思います。

1806年戦役の各軍団の1日毎の移動距離を調べてみました&審判制ゲームが欲しいです

 以前から1806年戦役の審判制ゲームが欲しいと思ってまして、少し前に試しにマップを作ろうとしてみてました。


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 ↑ 『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』のマップを1ヘクス5マイル(約8km)でハーフマップの領域に収めてみたもの。1ヘクス5マイルというのはOCSの標準スケールですが、別にそれにこだわるというものではありませんし、ハーフマップが個人的には最小としてもより大きいサイズ案とか、切り取り方とかは色々あり得ると思います。



 最近になって、このゲームの1ターンの期間について「日中を2ターンに分けるか、3ターンか、4ターンか……」というようなことをぼーっと考えていて、「あっ。実際に各軍団がどれだけ移動していたかを調べて、そこから逆算するのが良いのじゃないか」ということを思いつきました。


 そこで、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』の戦況図を複数重ねてある現在のヘクスマップ上で、だいたい何ヘクス移動しているかを数えてみました。

 それが↓になります。最初はマップが2日間毎で、10月13日に関しては1日の移動、10月14日がイエナ・アウエルシュタットの戦いのあった日です。数値に幅があるのは、存在していたヘクスが広がっていたとかのため。そしてさらに、1日毎に修正したものを下に作りました。

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 まず、ベルナドット軍団が最初からずっとスピードが遅かったのが分かりますが、これはベルナドット軍団が一番最初に戦場に突っ込む役割であったため、ある程度警戒しながら移動していたからじゃないかと。

 また、ダヴー軍団やランヌ軍団のスピードの速さが目に付きますが、ランヌ軍団が10日から11日にかけてスピードが鈍っているのは、ザールフェルト付近でプロイセン軍のルイ・フェルディナント公と戦っていたからでしょう。

 オージュロー軍団は後発であったので、前線にかけつけるためにひたすら戦略移動をしていた感じだと思われます。一方で、一部を除き12日、13日にかなりスピードが鈍っているのは、実際に戦闘をしていたとか、あと、イエナの会戦予定地域へと集結し始めていて、「着いてしまえば止まる」とか「密集して調整が必要になってスピードが鈍った」とかではないかと思われました(食糧についてはこの時点ではまだ手持ちでまかなえる状態だったんじゃないかと思います)。

 また詳しい事情は資料を調べてチェックしないとですが、印象としては、(OCSで使用されていて個人的にも良いシステムだと思っている)戦闘が起こりそうな時には遅くて強い戦闘モード(表面)、行軍速度をより重視する時は早くて弱い移動モード(裏面)にし、また、戦闘が起こるとは思えない地域でとにかく速度重視の時は移動モード(裏面)+戦略移動モードにしてさらに移動力をプラスする(そして戦闘力はガタ落ちする)、というやり方はアリじゃないかと思いました。

 あと、ダヴー軍団は基礎的な移動力も少し高めでいいでしょうし、また、ダイス目などによって移動距離がプラスされたりマイナスされたりするのもありだと思います。


 プロイセン軍の方ですが、初期の0というのは、それまで西進していたのが立ち止まって東進(というか撤退)に切り替わる時期であるので、それでしょう。また全体的な移動スピードはフランス軍に比べればかなり落ちる印象です。

 移動スピードを見ているとプロイセン軍の低さは明らかで、これで戦闘効率的にもこの時期の最強フランス軍には劣っているのですから勝ち目はないようにも思われますが、プロイセン軍贔屓の私としては、ザールフェルトの戦いでいきなりルイ・フェルディナント公が戦死したりせず、ブラウンシュヴァイク公やブリュッヒャーやリュッヘルが本来の強さをある程度以上発揮できた(ありていに言えば、ブラウンシュヴァイク公の部隊にぶつかったのがダヴー軍団でさえなければ)、もっといい戦いができただろうと思っています。ただし、ホーエンローエ公(とその参謀長のマッセンバッハ)には何も期待できないとは思ってますが(^_^;)



 「審判制ゲーム」で考えているのは、実際にそうであったように、直属部隊以外の軍団に対しては夜間ターンのうちに情報を収集して翌日の一般命令を与えておくが、その日の日中の行動に対してはプレイヤー(総司令官)が関与できず、審判が判定するというものです。その結果、狙ったように軍団が移動できなかったり(そしてそれを夜間ターンになってから知る)、思いも寄らない場所で戦闘が発生していて後でその結果を知る(アウエルシュタットの戦いのように)ということになるでしょう。また、早めの日中ターンに近くで砲声を聞いた軍団司令官が、戦場へ向かったり向かわなかったりも……。

 しかし私はどうも、既存のゲームシステム上で何かを作ることはできても、自分でシステムを作るのは無理なんじゃないかと思われ、ユーロゲームとかでもそういうシステムがないかとも思っていたんですが、最近また欲しい感が募ってきたので、進捗度合いによっては作って試してみるかもです。ただ、ゲームシステムは出来うる限りシンプルであるべきだろうとは思ってます。


 「審判制ゲーム」としては他にも、1941年のクルセイダー作戦、1815年のワーテルロー戦役が欲しいなぁとも。後者は「仏、英、普、審判」の4人ゲームとなって更に敷居が高くなりますが……。


 ゲーム会でプレイする上で「審判制ゲームは結構色々難しいよなぁ……」というのもずっとあり、例えば審判がプレイヤーに一部の情報を開示する時にそれを声で知らせないための工夫が必要だろうというのも懸念としてあったんですが、最近考えていて辿り着いたのが、「完全オンラインでいいじゃん」と。

 各人がマップとユニットを広げてプレイするにしても、各軍団の目的地を示すマーカー(BCSのOBJマーカーのような)を置いた状態のマップ全体をスマホで写真を撮って、審判にLINEとかで送ればいい。審判と一人のプレイヤーの間でのやりとりも、LINE通話とか、Discord上で一部の人間だけがある部屋に入ってやりとりすることができます。

 コロナ禍がまだ続いている中では、オンライン+審判制ゲームというのはもしかして結構ありだったりとか……?(^_^;


ロンメルが兵士達に好かれた理由について

 以前、↓のようなツイート返信をいただいていたので、ロンメルが兵士達に好かれた理由について調べてみました。




 調べて情報を集積してみると、まず「ロンメルは厳しかった(口うるさかった)、だが……」という文脈が多いので、まず「人に対して良く怒った」という件についての証言で、個人的に興味深かったものを挙げてみます。1944年の話ですが……。

 【1944年】4月5日、マルクス将軍はこのときの印象について、さらにつけ加えている。ロンメルは喧嘩早いし、よく怒る。そして部下の各級指揮官を驚かせる。毎朝、彼のところへ最初に報告に行く者が朝食がわりに怒られる。その後で行く者はあまり怒られずに帰って来る」【……】「彼は何か気に入らないことがあると、シュヴァーベン人らしい強情で粗野なところをまる出しにする」
『狐の足跡』下 P168



 以下、「……だが、このような長所もあったし、兵士達には好かれていた」という文脈の資料を挙げてみます。

 ロンメルは仕えやすい人ではなかった。自分に厳しいと同様、周囲の者にも厳しかった。ロンメルと共に勤務するには、鉄の身体と鋼の神経が必要だった。だが、これだけは強調しておきたい。確かにロンメルは時に古参の指揮官らに向かって、あけすけに物を言って当惑させることもあったが、自分の側近の者の有能誠実なことにいったん納得したら、決して彼らに向かって荒々しい言葉を吐くことはなかった。
『ドイツ戦車軍団(上)』P87

 若い兵隊や下士官などには、よく冗談口を利くので非常に人気があったが、部隊長などのやり方が気に入らないと遠慮なしに叱りつけるのだったしかし、こんな風に一方的な議論をしたあとは必ず随行した参謀に、運悪く槍玉に挙げられた者の弁護をさせ、それに耳を傾けるだけの度量があり、自分が叱責したのが不当だったとわかれば、ロンメルは次の視察の時に埋め合わせをするのだった。
『ドイツ戦車軍団(上)』P89

 彼【ロンメル】は配下の主任参謀達を容赦なく手荒に扱ったが、兵士達や捕虜達に対しては決して手荒なことはしなかった、とフォン・メレンティンは回想している。
「Portrait of a German General Staff Officer」『Military Review 70(April 1990)』P75

 しかしロンメルは、後の参謀長アルフレート・ガウゼによれば「妥協を許さず、厳格で、人間臭さがほとんどない性格」だった。彼は人をその能力によってのみ評価し、また上官や部下達から気に入られようと努力することはまったくなかった。彼の気遣いのすべては麾下の部隊に関して向けられており、そして彼は自分を「人気者」にするためのあらゆる手段を軽蔑していた。実際ロンメルは、日常的に接している部下達からはあまり人気がなかった。ロンメルの部下へと異動させられたことを懲罰であると考えた将校もいた。しかし、ロンメルと戦場でしか会わなかった兵士達は、気取らず、饒舌でなく、そして神秘的な彼に感銘を受けた。特に兵士達は、自分達が日々命を危険をさらしている戦場において、彼と会ったのだから。ロンメルの参謀長アルフレート・ガウゼは、ロンメルを生ける伝説としたその「何とも言い表せない相互理解」について、「すべての兵士達が、彼が自分達と共に戦っていることを感じていたのだ。」と語った。
『Mythos Rommel』P73,4


 このガウゼの証言について、2点、付け加えておこうと思います。

1.「人間臭さがない」「彼の気遣いのすべては麾下の部隊に関して向けられており」について
 ……ロンメルは持てる時間のほとんどすべて(あまり寝ないのでその時間もかなり長い)を軍事的な気遣い(前線部隊を見て回るとか)に対して割り振っていて、ロンメルが何か話をするにしても軍事的なことばかりだった、というような話をいくらか見ます。そこらへんのことを指しているのではないかと思います。

2.「彼は自分を「人気者」にするためのあらゆる手段を軽蔑していた」について
 ……ロンメルは人気取りの行動をよくしていた、という話はある程度知られていると思います。例えば、↓のような。

 アフリカの戦場にあった各部隊の前方指揮所はまもなく、ロンメルの機嫌をよくする方法は、フィルムがはいっているいないにかかわらず、彼がやって来る位置にカメラを構えた者を配置しておくのが一つの方法であることを知った。このように、他の注目をひくようなロンメルのやり方は、多くの将軍たちにとって軍人らしくない振舞いだとされ、恥ずべきこととされた。戦車のエキスパートであるグデーリアン将軍の個人的な文書の中に、彼がモスクワの戦線からその夫人宛てに送った次のような手紙がある。「私はどんなことがあっても、自分のことでロンメルのような騒々しい宣伝などさせない。お前の方も今までどおり、そんなことにならないよう、なお一層注意してもらいたい」
『狐の足跡』上P30

 それと矛盾する記述のようにも一見思われますが、恐らく、「戦場において兵士達から人気を得ようとはしなかった(下級兵士には気軽に接したものの、部隊指揮官に対してはきつくあたることの方が多かった)。しかし、本国向けの宣伝というようなものに関しては非常に熱心だった」ということじゃないかと。



 ロンメルが戦場の兵士達から人気があったことについては、彼が「多くの将軍達(特にイタリア軍の将軍)に比較してはるかに戦場の真っ只中に出てきて、自分の命を惜しまなかったからだ」ということがまず第一にあるようで、そこらへんの記述を挙げてみます。

 ロンメルと部隊との間には、説明も分析もできないような相互理解があったが、これは天与のものというべきである。ドイツ・アフリカ軍団はロンメルが指揮する限り、どんなに苦しくともどこまでも彼につき従った - それがシディ・レゼーでも、アジェダビアでも、さらにナイツブリッジでも、エル・アラメインでも、同じドイツ・アフリカ軍団で、しかも同じ3個師団だった。命を惜しまない点ではロンメルが筆頭だということを部下の兵は知っていた。自分たちの真ん中に立ち混じっている彼を見て将兵たちの感じは、こうだった。
「これこそ、おれたちの指揮官だ」

『ドイツ戦車軍団(上)』P91

 彼の指揮下にあった各級指揮官の中には不満を口にする者もあったが、一般の将兵は彼を愛していた。彼らは選び抜かれた精鋭な将兵ではなかったがロンメルは彼らに、自分たちがそのような精鋭な将兵であるかのような感じをいだかせていた。新たに彼の情報主任参謀となったフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・メレンティンという感じのよい騎兵将校はこのことについて次のように述べている。
「ロンメルと彼の指揮下の各部隊の将兵との間には、説明することも分析することもできないが、神から与えられたものともいうべき、相互の理解が存在していた。……将兵はロンメルが自分の生命を全くかえりみないことを知っていた。彼らは自分たちとともに弾雨の中にあって戦場を馳駆するロンメルの姿を見て、"この人物こそ自分たちの指導者である"と感じていたのである」
『狐の足跡』上P175

 イタリアの一般兵士は、前線で指揮官と顔を合わせることはないか、あってもごくわずかだった。北アフリカの枢軸軍最高司令官エットーレ・バスティコ将軍が、前線から2,500km離れた豪邸に住んでいることはよく知られていた。しかし、そのイタリア兵達が、ロンメルが自らを危険にさらし、そして自分達と同じ配給品を食べているのを見たのである。将校、下士官、兵卒がそれぞれ別のものを食べていたイタリア軍の習慣とは対照的であった。この行動により、ロンメルはイタリア軍の「ベルサリエリ」達から尊敬を集め、とりわけ、戦後には理想的な記憶に基づいてロンメルは「聖ロンメル」などとも呼ばれたほどだった。ロンメルのアフリカでの通訳であったヴィルフリート・アルムブルスターによると、ロンメルはイタリア兵達からその崇拝のほどを記した手紙を受け取っていたという。
『Rommel: The End of a Legend』位置No.1239

 彼の下で戦ったイタリア軍の将兵は彼を崇拝するようになった。彼らは戦場においてイタリア軍の将軍の姿を見かけたことがほとんどなかったからである。彼らはロンメルが、彼と衝突した豚のように太って冷淡なイタリア軍の将軍たちにそっけない態度で接するのを喜んだ。
『狐の足跡』上P157,8



 さらに、ロンメルが一般兵士と接するのが好きだった、などの話。

 その中に箱詰めのオレンジがあり、彼はそれを自分の車に積むと第一線へ行き、将兵に配った。「それが私の一番好きなことだ - 第一線の将兵のもとへ行くことだ」と、彼は書いている。「それは私に悩みを忘れさせてくれる。そして、生き生きとした若いドイツ軍の将兵に会えるからだ」
『狐の足跡』下 P69

 「ドイツ軍およびイタリア軍の将兵はロンメルがやってくると明るい顔をする」と【1942年】4月25日、アルムブルスターは書いている。
『狐の足跡』上P234

 Spitalerは、我々の知るロンメル像を裏付けるものである。将校達に対しては、ロンメルは「例外なく、すべての将校達(イタリア軍もドイツ軍も)に対して厳しかった……(そして彼は)自分が自分に要求することを将校達にも要求した。そしてもし彼が後方に将校達を発見した時には……ああ! 下士官や兵達に対しては彼は友好的だった」。Spitalerは兵士達についてこう述べている。「ロンメルが前線の部隊を訪れた時には兵士達は心から喜んだ。ベルサリエリもそうだった。彼はいつも何か、例えば手紙を持って行ったものだった。彼は砲兵の砲撃下でもひるまなかったが、人から聞いた話では、この戦争の後期には(敵の)戦闘機は恐れていたということだった。」
『Rommel's North Africa Campaign』P84



 ただ、これらだけであれば、「ロンメルは単に無鉄砲で、指揮系統を混乱させながら前線に出ていただけではないのか」という見方もできてしまうとも思います。しかしどうも、それ以上の「(フォン・メレンティンによれば)説明できない何か」をロンメルが持っていたようであるということについて。

 エルヴィン・ロンメル元帥も、それ以外の場合では国防軍兵士たちによってきわめてアンビバレントな存在として認識されることが多いが、彼の無鉄砲さは強い印象を与えていた。「彼は他の人間にたいして軍人として畏怖の念を起こさせることができた」、とヘッセ大佐は語る。「彼は偉大な指導者ではなかったが、真の軍人であり、恐れを知らない、きわめて勇敢な男であり、自分自身にたいしてもきわめて容赦なかった」。
『兵士というもの』P307

 【ノルマンディーに連合軍が上陸しても】彼らは事態を冷静に受けとめていた。毎朝ロンメルが戦場へ出かけるとすぐに、彼の幕僚はピンポン室へゆき、シュパイデルとルーゲは砲兵課長のラットマンおよび、ドイツ空軍のクヴァイスナー大佐ないしは、あまり上手でない工兵課長のマイゼ将軍を相手にピンポンに興じた。時には、シェパイデルは電話口に呼ばれることがあったが、そうでもないかぎり、彼らは上陸して来た敵に対する戦闘のことなど忘れることができた。
 ロンメルはそうではなかった。彼はアフリカで戦っていたときと同じように、じっとしていられない気持で、「絶えず自分で状況を確かめ」、絶えず自分の指で指揮下の軍の脈をとるとともに、各散兵壕の中にいる歩兵のひとりひとりが今後どこまで耐えられるかを知り、どこが砲兵の支援を必要としているか、どこへ増援の兵力と補給物資を送るべきかを知ろうという気持が、彼を何度も何度も戦場へ赴かせるのであった。ロンメルが第一線の指揮官たちと話し合うところを見ていたある従軍記者は後で次のように記している。「人間の知識や能力だけではもう限界に達し、それから先はその指揮官のもっている本能的な能力 - 超人的な知覚能力ないしは、その人物が生まれながらにして身につけている霊感および知覚能力――が力を発揮するというところがあるが、その辺の領域こそ名将がその真価を発揮する場面である。ロンメルはその能力を持っている」
『狐の足跡』下 P221

 また、従軍記者であったフォン・エゼベック男爵は一九四四年七月、次のように書いている。「私たちはエジプト国境に向かって急進しつつあったとき、いたるところで彼を見かけた。彼はいつも、末端の一小銃手にいたるまで、その指揮下の部隊に対して魔法のように不思議な影響力を及ぼしつつあった。兵は彼を"エルヴィン"と呼んでいた。ただそれだけである。"エルヴィン"というのは短くて、しかも適切な呼び名であった。彼らはロンメルの姓でなく名を呼ぶことによって、彼を軽んじようとしていたのではない。それは深い敬愛の念を表わしたものであった。自分たちの軍司令官を理解することができるからそう呼んでいたのである。ロンメルは彼らと話すとき、はっきりとものをいったし、彼は兵に接する場合、感傷的になることなく男対男として接した。そして、激しいいい方をすることが多かったが、同時にまた彼らを褒めたり、力づけたり、彼らに暗示することを知っており、難しいことを易しく判りやすくいう方法を心得ていた。もちろん、最初はごく少数のわれわれだけであったので、みんながお互いに知っており、そのため、お互いの間に砂漠で戦いつつある者としての戦友愛があった。一般の兵は自分たちの司令官であるロンメルの姿を見かけたし、ロンメルは兵の状態を見てまわり、リビアの砂漠で兵と同じように、代りばえのしない罐詰のイワシを食べた」
『狐の足跡』上P229



 ただし、ロンメルは兵士達に隠れて(?)パスタを食っていたという話もあります。

 短期間翻訳をした後、Spitalerはロンメルの傍に残り、彼によってイタリア軍の補給段列から食料を入手してくる権限を与えられた。これは、ロンメルがパスタ好きだったからであった! Spitalerは言う。「ロンメルは、司令部から外へ出て行った時にはパスタを食べた。彼が司令部にいる際には彼は兵士達と同じ様なものを食べており、その中にはラクダの肉などもあって時々我々はそれを不運にも受け取ったものだった。だが彼が外へ出る時には、私はロンメルのためにパスタ、トマト、パルメザンチーズ、それにオリーブオイルをたっぷり入手してきた。」
『Rommel's North Africa Campaign』P84




 それはともかく、恐らくロンメルが兵士達に好かれたのは、ドイツ軍の将校教育において最も重要だとさえされた(らしい)、「率先垂範」を高いレベルで現実化していたからではないでしょうか。

 ドイツ軍の将校教育において「率先垂範」が重用視されていたことをアメリカ軍が見逃していたということがメインテーマの『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』では、ロンメルはまったく無批判に優れた人物だとされているように思えるのですが、その中のドイツ軍の「率先垂範」に関する記述を挙げてみます。

 ドイツにおいては、人格を示すことと率先垂範は同義である。通常、最先頭で指揮すべし(機動戦の場合はとくに重要だ)という信条が、陸軍幼年学校で少年たちに叩き込まれた。十歳の新入生ですら、陸軍幼年学校の校長によって、彼らは、ここに死に方を習いに来たのだと、すぐに教え込まれる。こうした、戦場で英雄的な死をとげんとする姿勢は、ドイツ将校団に深く浸透していた。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P137,8

 階級の上下にかかわらず、部下将兵の面前こそが、ドイツ将校の死に場所なのだ。必要ならば、将校も彼らとともに戦う。ドイツ兵はそれを知っているからこそ、絶望的な状況でも士気を鼓舞されたのである。彼ら将校は文字通り戦闘で率先垂範し、後方で指揮を執ることなどしなかった。ドイツ将校自体、「われわれの勝利の土台にあるのは、徴集兵よりも将校のほうが危険に身をさらすことだ」と断言している。ドイツ軍将校における高い死傷率は、それによって信頼できる指揮官であることを証明しているのだから、「当然」だった。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P141,2



 そしてロンメルは、↓に記述されている特徴をかなり持っているように見られたと推察します(以下、引用においてドイツ語表記に関しては省略します)。

 そうした能力のうち最重要だったのは意志力だった。それは、将校の模範たろうとする意志、どんな任務でも達成しようとする意志、敢えて戦術的決断をなす意志、思ったことをはっきり言う意志、プレッシャーのもとでも泰然としていられる意志といったものをすべて含む。また、責任意識が他の領域をカバーする。おのが振る舞いが将校団とヴェーアマハトに対して責任を負うものであることを自覚し、いつ、いかなる状況にあっても将校として行動しようとする意識だ。それは同時に、非常に重要な観念、つまり部下に対する責任感を意味する。危機にあっては完全を要求する上官である一方、父が息子に接するように部下の面倒を見てやり、適切な扱いをする。つまりは戦友であり続けるのだ。また、それは何よりも、専門領域の実務で抜きんでるべく、学ぶ責任を意味する。最後に、士官候補生は戦士の精神を持たなければならない。どんなに不利であろうと戦い、戦闘を希求し、最先頭に立ち、必要とあれば死を恐れないことが必須なのだ。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P137



 私は割と、「(兵卒として)こういう上官の下で、戦って死にたい」というのに憧れがあり、そういう思いを抱かせるような旧日本軍の指揮官にも興味があるんですが、私がロンメルに(その欠点について調べつつも)惹かれるのも、そこらへんが理由なのかもしれません。そして実際に命を危険に晒しながら戦っている兵士達にとっては、本当にロンメルは偉大な指揮官のように見えたことだろうと思います。

 もちろん、そういう行動は師団長程度ならば良かったが、軍団長クラスになればすべきではなかった、というような話もありますし、ある程度それはその通りでしょうけども、実際に北アフリカでロンメルの下で戦ったドイツ軍兵士やイタリア軍兵士、あるいは英連邦軍兵士達にすら、ロンメルは輝いて見えたでしょうね。




 今回使用した資料は以下になります。




旧日本陸軍が兵士の命を軽く見る「精神主義」になった理由は、リスクとメリットを考慮しての上だった?

 以前、↓で旧日本陸軍の精神主義についてより知りたい旨書いてました。

『戦死 インパール牽制作戦』から、花谷正第55師団長が高く評価されていたことに関する記述を抜き出してみました (2022/06/11)

 個人的には、「持たざる国」であった日本が戦争(戦闘)に勝とうとすれば、精神主義と兵士大事主義とどちらが有効であったのだろうか、ということに興味がありますが、どうなんでしょうか。兵士大事主義も、行きすぎればイラク戦争の時のラムズフェルド国務長官による「理想の組織」(アメリカ軍兵士を大事にするあまり、戦闘地域に留まらず、現地住民の尊敬も得られず、失敗した。現場指揮官達はその後、戦闘地域に留まり続けて自分達が犠牲になることも厭わない姿勢を示すことで現地住民に受けいれられ、成果を残せるようになった)に堕することがあるとは思いますけども。



 そんな中、昨日たまたま本棚の『歴史群像』誌を漁ってましたら「日本陸軍大特集」の号を見つけまして、読み返していてかなり疑問が氷解しました。




 瀬戸利春氏の「日本陸軍 用兵思想史」という記事で……(P57とP64)。

 その一方で、日露戦争の結果は日本陸軍を「火力主義」から「白兵主義」へとシフトさせる結果をもたらした。日本側の砲弾不足、急造砲弾の威力不足、野戦築城の発達により、砲撃の威力が相対的に低下したことなどの要因は、日本陸軍の砲兵に対する評価を減じさせることとなった【……】
 【……】平時から多数の砲兵を維持し続けたり、砲弾製造能力を増大させたりするのは、日本の工業力では困難と考えられた。一方、敵砲撃による直接的な損害は意外に少なかった【……】ことから、砲撃を受けてもくじけない精神力を持てば戦闘続行は可能と考えられたのだ。
 【……】
 この白兵重視、精神主義的傾向は、日露戦争の戦訓と、その後の第一次大戦が総力戦となったことで、国力がない日本陸軍が編み出した苦肉の策だったといえよう。

 【ソ連軍の「作戦術」のような】キャンペーン概念は明治期には存在していたが、国力のなさから来る長期戦は不可能、それゆえ短期決戦を行うしかないという強迫観念は、日本陸軍からキャンペーン概念を消し去った。


 私も元々、「当時の日本は国力がなかったから、精神主義になったのですよね」ということについては納得できるものがありましたが、でも「国力がないなら、なおさら兵士(や武器)を大事にするという方向性もあり得るのでは?」という問いもあり得ると思い、そこらへん気になってました。

 しかし今回読み返した記事でかなり納得できたのは、

・国力がないから兵器も食糧も少ない
・だから短期で勝たなければならない(そうでなければ敵の兵数や兵器がどんどん増大する)
・敵からの砲撃などである程度削られても、精神的にくじけないで戦闘を続行できれば敵を制圧できる可能性を持てる(だろう)

 という、「タイムリミット」の存在と、「リスクは取っての上での選択」である、ということでした。


 ゲーム(OCS)上で言えば、例えば3ターン以内に結構離れた目標ヘクスを取らなければ勝てなく、敵はどんどん増援が来るが、自軍は戦車も砲兵も補給も少ない。歩兵はある程度はある。そして、プレイヤーがユニットに対して怒鳴り続ければ(おい(^_^;)、アクションレーティング(部隊の質)を高めたり、ステップ数を(分割して)増やしたり補給チェック時の耐久性を高めることができる。ただし、怒鳴り続けることによって逆にステップロスが起こったり、アクションレーティングが下がる場合もある。

 だったら、そりゃプレイヤーはユニットに対して怒鳴るよね、と(>_<) 「怒鳴らずにユニットを大事にしつつ戦う」というプレイ方法ももちろんあるわけですが、じり貧になるだけで勝率は低いだろうという気がします。

 もちろんこれは、のるかそるかの賭けなわけですが、太平洋戦争はそもそも賭けであったわけですし、ビルマ戦線においてまさにじり貧がやってくるタイミングであった第2次アキャブの戦いの時期において、「超精神主義」指揮官であった花谷正に期待がかかり、実際に超絶殴られ続けていた人でさえ、花谷将軍が日本軍に勝利をもたらしてくれることを期待していた、というのはなるほど、得心がいくな……と思いました(でもインパール作戦における牟田口廉也の場合は、部下や同僚は全然無理だと思っていて、期待していたのは牟田口廉也 - 河辺正三 - 東條英機というラインだけだったのでは? という気がしてまして、現今得心はできないかなぁ……)。


 あと思いついたのが、非常に一般兵士に対する思いやりが深かった指揮官として、本間雅晴中将がおり、本間中将はその作戦能力も非常に高かったものの、ただし兵の命を大事にするあまりか慎重すぎるという批判も多かったという話がありました。

 本間中将の一般兵士に対する思いに関して、↓の最後の引用部分だけでもぜひ読んで欲しいです!

『憎悪の世紀』読後感想(人種差別について+本間中将の逸話) (2020/06/08)



 また、阿南惟幾大将も兵士を大事にする思いがかなりあったように思われるのですが、しかし作戦能力が結構低かった?

 一方で、桜井省三中将や宮崎繁三郎中将、あるいは師団長時代の田中新一中将は、兵士を大事にしつつも作戦能力も高かったような印象を個人的に持っています。それでもってまた、田中新一中将は精神主義的な側面も非常に高い……。

 そうすると例えば、

・作戦能力
・精神主義
・兵士を大事にする

 というようなパラメーターがあるとして、当然指揮官毎にその高い低いがあり、花谷正中将はどうも、「精神主義」のパラメーターが超絶高くてそれによるメリットもでかいけど、デメリットもでかい。そして、もちろんそれらのパラメーターがどれも全部高い指揮官がいいわけだけども、指揮官プールには当たり前ながら限られた選択肢しかない、と……。

 そのような中で花谷中将がアキャブ戦域に送られ、そこに居続けたのも納得できる気がします。

 ただ……どうもその後も資料を読んでいると、花谷師団長の下の歩兵団長であった桜井徳太郎少将が上記の3つのパラメーターのすべてにおいて非常に高い人物であったように感じるので、「花谷中将への高い評価」というののかなりの部分が、実は桜井徳太郎少将によってもたらされたものなんじゃないか……という疑念を現今持ってます。

日本軍の(輜重)輸送中隊の輸送能力について

 先日、新しく『牟田口廉也とインパール作戦』という本が出版されまして、すでに入手してありぜひ読もうと思っているのですが、NHK取材班の『責任なき戦場インパール』という少し前の本も入手したので、まずそっちに目を通し始めました。






 すると、当時の日本軍の(輜重)輸送中隊の輸送能力について具体的なことが書いてありました。

 これまでOCSの自作ゲームを作ろうとして戦史叢書などを読んでいる時に、「輸送中隊 〇個」などという記述は見つけていたのですが、輸送中隊の輸送能力を知らなかったのでその情報を活かすことができませんでした。なので、今後のためにメモ的にブログ記事に書いておこうと思いました。


 同書P72からの記述によると……。

 インパール作戦で使用された輸送兵力は、

 自動車輜重 23個中隊
 駄馬輜重 12個中隊

 だったそうですが、当時の陸軍の各輸送中隊はいずれも約40トンを携行し、車両中隊は1日50km、駄馬は1日24kmを運ぶのが基準であった、と。その約40トンというのは、↓のようなことだったそうです。

 車両中隊 1.5トン×27両=40.5トン
 駄馬中隊 50貫×180頭=9000貫(40トン弱)

 1貫は3.75kgだそうで、9000貫は33.75トンとなり、「40トン弱」とするには少なすぎるのでは、という気もするのですが、まあとりあえず(^_^;

 「そういえば」と思って本棚から取り出してきた『日本陸軍の基礎知識 昭和の戦場編』にはもっと色んな編成パターンの細かいことが書いてありましたが、細かすぎてわけが分からないので、『責任なき戦場インパール』のものは「大体こう(あるいは、その時はこう)」ということではなかろうかと思います(『日本陸軍の基礎知識 昭和の戦場編』の方に、輸送距離について書いておいてくれると助かったのですが、書いてないようです)。





 また、「ただし各隊の自動車は、長い間内地からの部品補給が受けられず、長期損耗のため、その稼働率は3分の2以下に低下していた実情に注意しなければならない。」ともあります。

 それから、これまたかなり助かる情報として、1個師団に必要な1日あたりの弾薬、糧秣が、

 弾薬:90トン
 糧秣:一人当たり2kg×2万人=40トン
(旧陸軍の一人一日基準定量は最大1980kg【ママ】)←これは「一人一日1980g」の間違いだと思います(^_^;

 というのがありました。ただし「これは、当時としては、そうとうぜいたくな補給量と思われるが、供給量も多めに見積もっているので、この数字を目安とする。」と書いてありました。

 実際には日本軍の場合には、食糧の補給は相当少なくしても(なっても)一応継戦能力は維持できたし、少なくされたと思います。というのは、(今も日本社会のかなりの部分がそうであるように)ブラックだからです(T_T)(また、現地調達にもある程度以上長けていたという面もあります)。欧米の部隊においては、食糧等の補給量が少なくなるとすぐに士気も継戦能力も維持できなくなるのが普通で、ゆえに補給を重視するのは当然であったらしいですが。



 OCSの場合は、1SPは約1,500トンの物資(燃料、砲弾、日常消耗品など)を表すということになってます(OCS 3.3a)。1SPは4分割して1T(トークン)にすることもできます。

 輸送用のユニットとしては、輸送トラック、輸送ワゴン(荷馬車)、ラバ(他にも水牛、象、ポーターなど)があり、基本的には1SP単位ですが、1T単位などのものもあります。


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旧日本軍の、陸軍大学を出ていない名将について

 先日のブログ記事(ロンメルが参謀将校や貴族を軽蔑し嫌っていたことと、その背景について (2022/07/25))で、こう書いてましたら……。

 ロンメルは日本軍でいうならば「陸大出身でなく、ほとんど戦場での指揮のみで元帥にまで達した(そして陸大出身者らを批判していた)」というような人物だと理解すれば良いでしょうか(そういう人物は実際にいたんでしょうか?


 ありがたいことに、↓のようなコメントを頂きました(ありがとうございます!)。

 大日本帝国陸軍にて陸大出身でなく、ほとんど戦場での指揮のみで元帥にまで達した軍人は、自分が調べた中では奥元帥が挙げられると思います。陸大出身ではないが元帥まで昇り詰めた軍人は他にも野津元帥や上原元帥などがいましたが、いずれも参謀経験や中央経験が結構豊富にあるように見受けられました。



 早速Wikipediaで見てみたところ、人物像(エピソード)がすごいですね……。


日本語版Wikipedia「奥保鞏」

佐幕側であった小倉藩出身であり、しかも長州藩と直接戦火を交えた立場であったにもかかわらず、陸軍内で異例の抜擢を受け続けた。これはひとえに奥自身の指揮統帥能力及び古武士に例えられる謙虚な性格によるものである。後年、薩長・皇族以外の出身者としてはじめて元帥となったが、この時も異論を唱えるものが誰もいなかったと言う。
・日露戦争において、軍司令官や参謀長人事は薩長出身者がほとんど独占したが、「奥だけは外せまい」というのが陸軍部内の一致した見方であった。4人の軍司令官のうち、作戦参謀の補佐がなくても作戦計画を立案出来るのは奥だけだった。奥は難聴であったが、指揮采配に支障をきたすことはなく、司令部では幕僚と筆談で意見交換を行ったと言われている。
生涯自分の戦功などを語ったことがなく、むしろ功績を消そうとすることもあったらしい。日露戦争終戦後凱旋した際、日の丸を揚げてバンザイを叫ぶ人々の姿を見て、「済まぬ、許してくれ」(多くの将兵を戦死させてしまった自責の念と思われる)と呟いたという逸話が残っている。天性の軍人らしく、政治向きのことには一切興味を示さず、静かな晩年を過ごした(第5師団長時代、桂太郎が台湾総督を辞任した際に後任を打診されたが断った事もある程)。それ故世間からは忘れ去られがちで、死去したときも「まだ生きていたのか」と驚く人が少なくなかったという。



日本語版Wikipedia「野津道貫」

・野津は日清戦争に当初第5師団長として従軍し、山縣有朋が病で退いた後は第1軍司令官に就いた(第2軍司令官は大山巌、野津の後任師団長は奥保鞏)。野津は奇襲の名手としてこの戦役最大の戦功を挙げ、もともと野津を気に入っていた明治天皇などは「朕深ク之ヲ嘉賞ス」など異例の三度の勅語をもって賞賛した。
・日露戦争開戦となり、満洲軍総司令官として当初は大本営を統括するはずだった大山が就任するにあたり、山縣が「出先(満洲)は野津に任せればよいのに」といったところ、大山は「そりゃあ戦なら七次どんのほうがいいでしょう」と答えた。大本営首脳部では野津・奥・黒木・乃木の軍司令官の中では野津を筆頭格とみていたようである。
・日清戦争までの野津は奇襲を得意としていたが、肉弾戦だけに味方の被害も少なくなかった。日露戦争になるとその時の教訓を活かして、無理攻めは極力せず相手の隙をついての一気強襲という作戦で一貫した。結果、日露戦争終期の奉天会戦においてもっとも戦力を保持していたのは野津第4軍であり、満身創痍の黒木第1軍に代わって会戦の主力となった。



日本語版Wikipedia「上原勇作」

日本における工兵技術の育成に熱心に取り組み、ポケットマネーを払って大工や鳶職を自宅に招き、実演させながら基礎作業教範を書いたという逸話がある。そのため、工兵監になってからも演習へ出向いては兵卒の作業まで自分でやって見せ、工兵将校たちは戦々恐々としていたという。
一方で、自分が酷評したある工兵将校が「兵監の言うことは間違っておられる」と反論した際、他の将校は上原が激怒するのではないかと心配したが、しばらく考えた上原は「ただいまの講評、勇作の誤り」と述べて自分の誤りを受け入れるなど正しい意見はきちんと聴くところもあった。
・副官をつとめた今村均によれば、軍事書を中心に読書を好み、フランス語の原書を読み、軍事以外にも幅広く理解があったという。口やかましく周囲から疎ましがられたが、それは広大な知識から発せられたものであり、感服すべきものだったと述べ、副官時代を詳しく語っている。また、1931年(昭和6年)ごろには、防空には空軍省を設けて独立空軍を創るしかないと語っていたと伝えている。



 特に奥保鞏元帥が素晴らしいと思いました。↓が伝記だということで、注文してみました。







 それから、少し前に読んでいた↓に、「旧日本陸軍で、陸軍大学卒業ではないけども昇進(活躍)した将軍」について少しばかり書いてあったところがあったような気がしたので、探してみました。





 すると一応こういう例が。

 さらに太平洋戦争を観ると、例えば、アッツ島で玉砕した北海守備第2地区隊長の山崎保代中将(陸士25期、戦死後二階級特進)、ペリリュー島作戦の第14師団長井上貞衛中将(陸士20期)、拉孟、騰越作戦の第56師団長松山祐三中将(陸士22期)などは陸大を出ていないため人事的には必ずしも順境にあった人たちではなかったが、それぞれの作戦では勇猛果敢、卓抜の指揮・戦闘手腕を示したこともこれを如実に物語っている。
 【……】
 余談になるが、マッカーサー元帥が、日本の軍人の進級は、戦場における勇戦敢闘などには関わりなく、長い間の封建的な通弊によって昇進していくようであるといい、従って、日本の兵隊は極めて強いが、日本の軍中央部は必ずしも恐るるに足らない、と指摘したことは、以て銘すべきであろう。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P131


 余談が……(T_T)

 宮崎繁三郎中将などはどうなのかなと思って調べてみたら、陸大出でした(中程度の成績であったそうです)。


 そもそも陸軍大学を出ていれば大して能力がなくても少将ぐらいにはなれて、いっぽう陸大を出ていなければ一般的には中佐止まりだった(前掲書P124)そうです。また陸大出身者でも、「前の期の一番昇進している人を、次の期の一番昇進している人は追い越せない」という慣例が厳格に守られていたそうで、そりゃあ大抜擢のやりようがないですよ。

 米軍(英軍も?)では「高い役職に就かせる時に一時的に階級を上げ、その役職が終わったらまた階級を下げる」ということが行われていましたが、日本軍はそんなことは絶対にできない。ドイツ軍の場合は、ヒトラーが(後期になればなるほど)昇進させるかどうかの権限を持っていて、ロンメルやモーデルなどを抜擢したり昇進させたりした、ということがあったようです。


 年功序列、学歴主義(キャリアパス制度)は、「出る杭は打たれる」の嫉妬心渦巻く日本社会では、平時には有効でしょう(私もあんまり競争主義的な社会は殺伐としていてしんどいと思う)けども、非常時にも平時のやり方を根本的に改めることができないのは何とかした方がいいと思います……(日本社会は、非常時にも平時のやり方で何とかしようとしてしまいがち/することしかできない社会なのだそうです)。



 ところで拉孟・騰越作戦の第56師団長松山祐三中将(陸士22期)ですが、同じ陸軍士官学校22期にはあの牟田口廉也がおり、こちらはもちろん陸大出です(あと、ビルマ戦最終盤を頑張った本多政材中将が牟田口と陸士、陸大とも同期でした)が、他に彼らの陸士同期で陸大に行っていない人物として相沢三郎というのがいまして、彼は自分が陸大出でないために出世できず地方でこづき回されるというやりきれない気持ちを抱いており、それもあって陸大次席でエリートコースまっしぐら、超絶優秀であった永田鉄山を惨殺したのではないか……と前掲書P116には書かれているのですが、どうなんでしょうね。もしそうだとしたら、ロンメルばりの「エリート大嫌い」パターンの一種かもですけども、もし永田鉄山が生きていたらその後の日本陸軍はよほどマシであっただろうにという記述を良く見るので、「ああああああ~……」という思いが(>_<)


 「エリート大嫌い」の例としては、前掲書P115には二・二六事件の革新派青年将校の中心的人物であった大蔵栄一がなぜ青年将校運動をやったかについて、こんな風に話したということが書かれていました。
自分が所属することになった陸大出の連隊長が、傲慢、非常識、無慈悲で、士官候補生として抱いていた夢がいっぺんに吹き飛んだ。陸大出の連隊長に代表される軍上層部に、ことごとく楯つくことを決心した。だからなぜ私が青年将校運動をやったかというと、むずかしい理論などない。ただ一言、反骨である

 この連隊長というのは大家徳一郎(陸士13期、第19師団参謀長)という人だったそうですが、Wikipediaの項目などもないようです。ただ検索していて、陸大出身者の人物伝として、資料としては怪しいが興味深く読めそうだという↓の本を見つけまして、これも注文してみました(同じ本で、左がハードカバー版、右が文庫版)。




 エリートの態度ですが、ドイツでは日本のこういうのとは異質な感じがします。『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』によると、ドイツの幼年学校、士官学校などでは創設初期には上級生のいじめなどもあったそうですが、早期に根絶され、エリートがエリートたるのはその人格と能力による、という風になっていたそうです。一方で、アメリカ(陸)軍の軍学校では上級生のいじめ、しごきがもの凄く、それは1990年代になっても残っていたそうで(日本の防衛大とかどうなんでしょうね?)、だとするとアメリカの軍部隊においてはそこらへんどうだったのか興味がありますが、しかし旧日本軍の場合はそこらへんがひどすぎ、しかも未だに学校現場でもしごき的なものが全然残っているのが残念でなりません(T_T)


ロンメルが参謀将校や貴族を軽蔑し嫌っていたことと、その背景について

  北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について書いていってますが、直近は、ロンメルの下で非常に有能な参謀であったガウゼヴェストファルを扱っていました。

 次も参謀将校であるフォン・メレンティンなんですが、フォン・メレンティンの書いた『ドイツ戦車軍団』には、ロンメルが彼ら参謀将校達を最初「疑問視していた」ことが書かれていました。




 【……】1941年4月、大勝利を収めて以来、彼【ロンメル】の責任は重大になったので、然るべき参謀がどうしても要ることになった。初めロンメル自身、物事をそんな風には見ておらず、だから彼がガンブートでわれわれ【フォン・メレンティンの他、ガウゼやヴェストファル】を迎えた時の控え目で堅苦しい態度は忘れられない。われわれは皆いかにも参謀将校らしかったが、アフリカ事情に関しては明らかに新米ばかりだった。第一線の軍人としてロンメルはわれわれを疑問視した。その上、彼自身、参謀本部にいたことはないので、我々が彼を監視する気ではないか、自分を交代させるつもりさえもっているのではあるまいか、とおどおどしていたことは明らかだった。
 【……】
 実際問題として、ロンメルの指揮権についてわれわれが疑問を投げかけることは全くなかった。彼の役に立とうとアフリカにやってきたのであり、彼の方でもわれわれの助力がなくては、この大軍を指揮できないことに間もなく気がついた。
『ドイツ戦車軍団(上)』P84,5



 ロンメルに関する本を読んでいると、そもそもロンメルは参謀将校(そしてその多くの構成要員でもあった貴族)を嫌っていたことが所々に出てきます

 ロンメルが参謀総長ハルダーに対して「大馬鹿」と言ったことに関しては↓こちら。

ロンメルはハルダーに「大馬鹿」と面と向かって言った? ハルダーは無能だったのか有能だったのか (2021/06/14)


 もともとロンメルは平民出身であり、第1次世界大戦終盤に一度軍団の参謀部付きになって書類仕事を短期間やったことがありましたが性に合わず忌避するようになり、また陸軍士官学校や陸軍大学などのエリートコースも歩んでいないというハンデを持っていました。

 ロンメルは陸軍大学を軽蔑し、そこで教育を受けた優秀な卒業生である参謀将校を軽視し、彼らがもっている情報、兵站、通信、人事、および作戦に関する能力を利用することなく戦おうとした。
『狐の足跡』上P29

 ロンメルは事実上、政治には無関心であった。それでも、どちらかといえば社会主義者的な傾向があった。これは、実戦に参加した軍人として、悲惨な戦いを招いた責任があると彼が考えている無情な上流階級に対する典型的な反応であった
『狐の足跡』上P57

 彼ら【教え子の士官候補生たち】はロンメルが、赤い【線の付いた】ズボンをはいた参謀将校に対して、畏敬の念をもっていないのを見て、彼を敬愛した。「あの連中は大理石のようなものだ」と、彼はプロイセンの歴史について講義したとき、クルト・ヘッセにいった。「外側がすべすべして冷たく、腹は黒い」 彼の教え子の士官候補生が、彼に向かってクラウゼヴィッツの言葉を引用すると――クラウゼヴィッツの言葉は参謀将校にとって、金科玉条であった――ロンメルはぴしゃりといった、「クラウゼヴィッツがどう思ったかは問題でない、君はどう思うのか」 事実、ロンメルが尊敬していたのはナポレオンで、彼も行動の人であった。
『狐の足跡』上P59

 彼は当時における一般の風潮と同じように、特権階級や貴族に対して軽蔑の念を抱いていた。
『狐の足跡』上P62,3

 ヒトラーは将軍たちに対して非常に批判的であったし、参謀本部のことを口をきわめて罵倒した。ロンメルはこのようなヒトラーの言葉のすべてに賛成であった。
『狐の足跡』上P76

 【1940年のフランス戦中に】ロンメルはヘッセの姿を見つけると大声でいった。「この戦争では指揮官の位置はここだ。第一線だ。私は安楽椅子にかけている連中が考え出す戦略など信じない。そんなことは参謀本部の連中にまかせておけばいい」 ヘッセがそれを書きとめると、またロンメルがいった。「今はザイドリッツツィートヘンの時代が再現されたようなものだ。私たちはこの戦いを騎兵の戦闘と同じように考えなければならない - 戦車師団をかつての騎兵集団と同じように使用しなければならない。そしてそれは、かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、移動する戦車の上で命令を発するようにしなければならない、ということだ」
 彼のこのような戦術は参謀本部を驚かせ、総統大本営を憂慮させた。
『狐の足跡』上P89,90

 【1940年】8月になってフリードリヒ・パウルスカール・クリーベル - 両名とも戦前からのロンメルの友人であった - が中将に昇進すると、【フランス戦での活躍にかかわらず少将のまま昇進させられないでいた】彼は再び自分が軽んじられたと感じたが、その後、参謀将校2名が昇進してこの二人が追い越されると、そのことが特に強い刺激を与えた。「われわれ第一線部隊の軍人は例によって、敵の弾丸の餌食にされるための者にすぎないようだ」と、彼はその手紙の中で述べている。「このような連中が上の地位を占めている限り、事態は変わらないだろう」
『狐の足跡』上P102


 ここまですべて、その信憑性が大木毅氏によって酷評されているアーヴィングの『狐の足跡』からですが、氏のご指摘の通り「大部であるがゆえに」この本にしか載ってない、あるいはこの本が一番詳しく書かれている……という側面はあるかと思います。


 他の本からも一応。

 ロンメルはおそらく自分が参謀としての訓練を欠いていたことを反映してか、参謀とは用心深いものだと考えていた。鉛筆をとがらせて作戦上の問題点を述べ、好機ではなく問題点ばかりに目をやりがちだというのである。指揮官は管理部門の判断を鵜呑みにするのではなく、独自に兵站業務上実行可能な見積もりを作り、それにしたがって要求を示すべきだ、とロンメルは反論した。
『パットン対ロンメル』P220

 彼が総統に気に入られたのは、南ドイツ出身でプロイセン人らしくないことと、参謀教育を受けていない軍人であることが理由だった。彼の軍事哲学は、貴族的な価値観を否定し、戦場での勇敢さと前線からのリーダーシップを尊ぶものであった。
『Rommel: A Reappraisal』第1章 ロンメルとナチスの興隆 結語(位置No.509)



 興味深いものとして、先日から読み返していた『第二次世界大戦紳士録』というマンガ本の、ドイツ軍関係に関してコラムを書かれている山下英一郎氏の記述がありました。参謀本部に対して非常に批判的です。



 その神話とは、参謀本部は常に無私で国家の事のみを優先している(中立)、カネを受け取らない(清潔)、貴族出身者で最高の教育を受けた者から選抜された優秀な集団(高貴)であり、参謀本部に任せておけば万事上手く行く、というのである。すなわち、ドイツ国民にとって軍は神であった。
 勿論、この間に実際は第一次世界大戦に敗北しており、これは軍備制限をともない、総力戦に敗北した点からも参謀本部には壊滅的な失敗だったのだが【……】第一次世界大戦前の栄光の座を夢見る参謀本部はあきらめては居なかった。自分達が軍事面で偏るあまり敗戦を招いた事は一切忘れて、とにかく無条件で尊敬され裕福な暮らしができた時代と貴族同士の超然的な閉鎖された集団である参謀本部を取り戻したかったのである。そのため、さまざまな右派勢力に食指をのばし、将来の可能性も探っていた。
『第二次世界大戦紳士録』P26

 【1944年7月20日のヒトラー暗殺事件の】シュタウフェンベルク一味は殆どが貴族や軍高官で陸軍参謀本部系である。【……】
 7月20日事件ではロンメル元帥等の国民に人気のある将官が協力しなかった事が敗因というが、ロンメルが陸軍参謀本部に協力する訳がない。ヒトラーユーゲント総裁【バルドゥール・フォン・シーラッハ】にすら前線部隊勤務を強要したロンメルである。後方にいて、きれいごとを言う輩が大嫌いなのだから。そして軍できれいごとを言う最大勢力こそ、7月20日事件の首謀者達だったのだ。
『第二次世界大戦紳士録』P36




 もう一つ、この件について興味深い本が『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』です。この本はドイツ軍の「指揮官率先教育」の重要性をアメリカ軍が取り入れることに失敗していたことをメインテーマとしているのですが、ドイツ軍の参謀本部が貴族優先主義に染まっていたことに関しても記述されています。



 理屈の上では、将校は、隊付と幕僚指揮勤務とを交互に等しく経験していくべきである。たとえ、大参謀本部のメンバーだったとしても、だ。現実には、ドイツ参謀本部のシステムは、デスクワークのみで実兵指揮を行ったことがないのに、大きな権限を持つ高級将校を生み出すことがしばしばであった。彼らは一般に、第一次世界大戦の戦闘体験を持たないか、ごく短い期間のそれしか持たず、前線の困難や窮乏、戦争の現実について、はなはだ無知だった。*82
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P51

82.ドイツ軍のそうした例として、中央軍集団司令官フェドーア・フォン・ボック元帥、国内補充軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将、陸軍参謀総長フランツ・ハルダー上級大将、西方総軍司令官アルベルト・ケッセルリング元帥、第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥(最終階級と職名を付した)。

 【……】フリードリヒ【大王】は、貴族の息子には【平民出身者よりも】さらなる動機付けを期待できると考えていた。家名、とりわけ父親の名誉といった、幼少期から覚え込まされた何かを辱めまいとする動機だ。このような誘因は、現代の将校の家庭にも残っている。
 原則として、【当時のドイツ】陸海軍の最高統帥部は、ただ「有能な階級【貴族など】」のみから将校を取ろうとした。ところが、軍隊の拡張により、そうした諸階級のキャパシティでは、ますます増大していた、資質ある人材の需要をみたすことができなくなってしまった。結果として、将校団に入った者の相当数が「平民」階級の出自ということになる。上流階級の多数の者にとって、この現実は、ドイツ軍人の高い指揮統率レベルを保証してきた、それまでの「基準」を確実に損なっていくものであった。【……】第一次世界大戦後、あらたに軍の指導者となったハンス・フォン・ゼークトが、他の多くの案件よりも優先的に実行したのは、「よい生まれである」という古い基準を回復することだった。【……】こうした抜きんでた階級が、将官や大参謀本部将校といった地位を思うがままにしていた。一般的にいえば、古い「基準」は1942年になって、ようやく消える。にもかかわらず、特権階級の家系に属する者は再び、将校団の上位部分、とくに参謀本部の職を独占することになる。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P122,3

 【ドイツの士官学校における】貴族出身の生徒は、平民出身の級友に対して有利であり、公平ではなかった。冬季、彼らの多くは、皇帝の宮廷に勤務する小姓に選ばれた。こうしてえこひいきされた者は羨まれたし、また貴族の生徒であれば、操行【平素の行い】や学業の成績はまったく問題にならなかったから、なおさら不公平だった。【……】学校の幹部や平民の生徒たちは、これは、持てる手段のすべてを使って、すみやかに解消されるべき問題だと考えた。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P146



 他にもこの本の中の、ドイツ軍では指揮官が先頭に立って指揮し死ぬということの重要性を叩き込まれていたという話にロンメルが適合していた、というような話も非常に興味深いところですが、そっちの方向性もやっていくと長くなるので省略で。



 今でもヨーロッパでは貴族が尊敬というか優遇される雰囲気が随所にあるそうですが、そこらへんは日本人には分かりにくいことであるような気がします。

 一方で、旧日本陸軍で陸軍大学校卒業生(とその成績優秀者)を特別なエリートとして出世させまくり、そうでない者をなかなか出世させなかったことに関して色々批判があったり、また指揮官よりも参謀が好き勝手するという問題もありましたから、ロンメルは日本軍でいうならば「陸大出身でなく、ほとんど戦場での指揮のみで元帥にまで達した(そして陸大出身者らを批判していた)」というような人物だと理解すれば良いでしょうか(そういう人物は実際にいたんでしょうか? 日本軍に関してはまだ学び始めたところで、全然分かっていません)。


 指揮官が参謀を持つのは師団規模からのようなので、ロンメルは第7装甲師団長であった時に参謀がいたわけですが、この時もロンメルは参謀に対して不満を持っていたようです。ドイツアフリカ軍団の初期の時の参謀にもロンメルは満足しなかったわけですが、1941年夏にガウゼ、ヴェストファル、フォン・メレンティンという、ロンメルに付いていける有能さと忠誠心を持った参謀達をロンメルが(ハルダーの元々の意図に反して)手に入れると、ロンメルは今までの参謀将校に対する蔑視を改めたようで、この頃以降のロンメルに関する記述には、参謀将校に対する不満の話は出てこない感じがします。

 この3人の中でフォン・メレンティンは貴族出身で陸軍大学を出ていますが、ガウゼとヴェストファルは貴族出身でもなく、陸軍大学も出ていません。そこらへんはロンメルはやりやすかった面はあるかもですね。ただ、非常に貴族的であった第21装甲師団長フォン・ラーフェンシュタインとロンメルは非常に気が合ったということもありました。一方でこれまた非常に貴族的であったフォン・トーマをロンメルは嫌っていたので、フォン・ラーフェンシュタインは率先指揮というような点などでロンメルの目にかなうものがあったのかも。


 じゃあ参謀本部に関してはどうだったかですが、ハルダーのOKH(陸軍総司令部)は独ソ戦の開始以降東部戦線だけを管轄するようになったので、ロンメルとの関係がなくなってしまって、当然ながら全然話が出てこなくなります。代わりに戦争後半、ロンメルが常に文句を言っていた対象はOKW(国防軍最高司令部)の総長であったカイテルでした(^_^;(カイテルは貴族出身ではないようで、第一次世界大戦で実戦に出ましたがすぐに傷を負って、その後は実戦に出ることはなくひたすら事務屋であったようです)

SCS『It Never Snows』の追加シナリオ5.9~5.12とエラッタを和訳しました

 SCS『It Never Snows』の追加シナリオ5.9~5.12とエラッタを和訳しました。

 ↓に置いてあります。

SCS(Standard Combat Series)関係



 追加シナリオは『It Never Snows』の公式ページに公開されているものですが、元々はSpecial Ops Issue #4に発表されていたもののようです。



 元々『It Never Snows』のシナリオは、開始時期が異なる4つのキャンペーンゲーム(すべて、マップ5枚を使用)と、マップの一部のみを使用する4つのスモールシナリオでした。(→SCS『It Never Snows』のシナリオ、専用ルールで気付いたことや疑問点 (2022/06/28)

 この追加シナリオでは、3つの空挺師団のそれぞれの戦域のみを切り取ったフルキャンペーン(17ターン)シナリオと、第30軍団の最初の突破を扱ったフルマップ1枚(6ターン)のシナリオを扱っています。


 ↓その領域。黒線はそれぞれのフルマップの境目。一番上の赤い領域が英第1空挺師団のシナリオ、次の赤い領域が米第82空挺師団のシナリオ、次の赤い領域が米第101空挺師団のシナリオ。最後のシナリオは一番下のマップ(E)を使用します。

unit8870.jpg



 あと、この画像を切り取ってきたVASSALモジュール上では、マップEの北東隅と北西隅に少し領域が追加されているのが分かります。北東隅のものは、エラッタにある、「E62.00 の東のヘクスは完全なヘクスであるとみなし、E62.00 とD1.16 の間の道路は使用可能です。」のものです。

 北西隅のものは、これまた公式ページにある「Best Area Map Addition」のものです(Bestという名前の町が入る様なマップになっています)。この追加マップが提供された意図についての説明をどこにも見つけられなかったのでfacebook上で質問してみたところ、Carl Fung氏(『It Never Snows』のリサーチ担当で、BCS『Arracourt』のデザイナーなどもされている)から「Bestの町がマップに入っていないことに不満を持つプレイヤーがいたために作られたもので、プレイに必須というわけではありません。」という返答を頂きました。



 とりあえず『It Never Snows』のプレイ環境は整ったかと思うので、少しずつプレイしていけたらとも思うのですが、最近あまり頭が働かないのでなかなか進みません……。

SCSシリーズルールのオーバーランは、目標ヘクスでストップするのか?

 ブログの(管理者しか閲覧できない)コメントで「SCSシリーズルールのオーバーランは、目標ヘクスでストップするのでしょうか?」という質問をもらいました。

 というのは、SCSでは戦闘結果で防御側が2ヘクス退却、3ヘクス退却などとなった場合、攻撃側は2ヘクス戦闘後前進、3ヘクス戦闘後前進できるというルールがありまして……。

10.0 【……】防御側ユニットが2ヘクス以上退却している場合、攻撃側の突破能力を持つユニットは、防御側ユニットが退却した数と同じだけのヘクス数を戦闘後前進できます。防御側ユニットが要求された退却結果をステップロスに変換した場合でも、戦闘後前進は要求された退却ヘクス数と同じヘクス数だけ行えます。【……】
10.0a 防御側ユニットが要求された退却結果を満たさないまま除去された場合でも、その要求された退却ヘクス数と同じ数のヘクス数だけ戦闘後前進できます。



 それに対して、私の和訳したSCSシリーズルール ver1.8では、オーバーランの戦闘時の規定が↓こういう書き方になってました。

6.2a オーバーランしたユニットは戦闘後前進できますが、戦闘結果にかかわらず、それ以上は移動できません。


 これだと、「オーバーランした攻撃側スタックは、目標ヘクスでストップしなければならない」ような感じがしました。そうでもない? しかし微妙ではある気がします。

 しかし原文を見てみますと……。

6.2a Overrun attackers can Advance After Combat, but regardless of the result the overrun ends the regular movement for them.


「戦闘後前進できるが、しかしその後通常の移動はできない」、ということなわけでした。

<2022/07/11追記>

 ツイッター上でkimataka氏から、↓のようなコメントをもらいまして……。


 この「(or trauverse)」という部分について私は、意味を理解しきれていませんでした……。kimataka氏のご指摘で「なるほど……!」と思いまして、その部分についてもルールブックやサマリーを修正しました。大変ありがとうございます!

 続けざまの修正、申し訳ありません(T_T)

 また他にも色々ブログの表現を修正しています。

<追記ここまで>


 ということは、オーバーラン戦闘で防御側が3ヘクス退却したら、オーバーランしたスタックは3ヘクス戦闘後前進できると思われました。そしてしかし、その後は通常の移動はできない、と。


 和訳が良くなかったことが自覚できたので、文を「6.2a オーバーランしたユニットは戦闘後前進できますが、戦闘結果にかかわらず、それ以上通常の移動はできません。防御側ユニットが目標ヘクスからいなくなった場合、オーバーランしたユニットは目標ヘクスに必ず進入(あるいは通過)しなければなりません。」と修正することにしました。

 その点を修正したpdfデータを↓に置きました。古角さんにも送ってありますので、そちらもその内置き換えしてもらえると思います。

SCS(Standard Combat Series)関係

 同ページには、先日作っていた「SCSシリーズルールサマリー」のこの点について修正したものを置きました。


 すでに印刷されていました方にはご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません(>_<)


 しかしまた、ミスや不明点などもあることと思いますので、何か見つけられましたら教えていただければ幸いです!

ロンメル、ケッセルリンク、フォン・ルントシュテットの参謀長を務めた若き将校ヴェストファルについて(付:OCS『The Blitzkrieg Legend』『DAK-II』)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ロンメルの作戦主任参謀として着任してその有能さを発揮し、その後ケッセルリンクやフォン・ルントシュテットの参謀長をも務めた若き参謀将校、ジークフリート・ヴェストファルについてです。



Bundesarchiv Bild 183-B20800, Nordafrika, Rommel und Westphal schieben Auto

 ↑手前がロンメルで、その後ろがヴェストファル(Wikipediaから)
(これはプロパガンダ写真で、また撮影されたという時期とヴェストファルとの着任時期が合わないらしいですが)



 ウォーゲーマーや戦史好きの人であれば、クルセイダー作戦の時にロンメルが行方不明になってしまい、司令部に残っていた若き参謀将校が危機的状況において自分の判断で装甲師団に引き返すよう命じ、激怒したロンメルが帰ってきたものの戦況図を見るとその参謀の判断を追認した……というエピソードをご存じでしょう。その判断をしたのが今回のジークフリート・ヴェストファルです。

 極めて有能であり、戦争後半にもフォン・ルントシュテットの西方総軍で参謀長を務めるなどして活躍し、これまでこのブログで取り上げてきたロンメル周辺の有名でない指揮官達とは異なり、『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』と『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)の2冊にはその項目が設けられていました(ただし後者には半ページほどだけ。『ドイツ軍名将列伝』にも載っているかと思ったのですが、載っていないようです)。






 ロンメルはヴェストファルが負傷し【て戦場を離れざるを得なくなっ】たことを「痛恨の極み」とし、「私にとって彼の助けは、彼の並外れた知識と経験、決断の速さによって、常に極めて優れた価値を持っていた」と書いている。ケッセルリンクは、「ヴェストファル以上の参謀長は望めなかっただろう。イタリア戦で、私は彼と大いに力を合わせた。」と述べている(ケッセルリンクは1945年春にドイツに戻った時に、再び彼を参謀長とした)。ロンメルもまた、イタリア戦でのケッセルリンクとヴェストファルの素晴らしい指揮に言及している。フォン・ゼンガー将軍はヴェストファルと旧知の仲で、シチリアの司令官に彼を自ら推薦し、こう評した。「厩舎の中のとっておきの一頭。ヴェストファルは恐ろしく頭が良く、非常に精力的であり、素早く仕事をこなし、常に最も重要なことが何かを深く理解しています。無能な将校に対する彼の態度は時に非常に冷酷で、それは彼の人気に繋がらないものではありますが……。
 しかし、優秀な将校や上官、同僚達の間では、ヴェストファルは非常に高く評価された。ルントシュテット、ケッセルリンク、ロンメルといった3人の指揮官から選ばれたのも、彼が一流の人物でなければ、ありえなかったことだろう。
『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P180




 ジークフリート・ヴェストファルは1918年に士官候補生隊に入隊するも、すぐに休戦協定が結ばれて実戦に出ることはなかったようです。戦後も軍に残ることができ、1930年前後には資格試験を受けて優秀な成績で合格し、連隊勤務から参謀将校コースに入りました。

 第2次世界大戦勃発時には第58歩兵師団の作戦参謀で、フランス戦の時には第26軍団の作戦参謀を務めます。第26軍団はオランダを迅速に降伏させるために長躯オランダ西部へと進撃する役割を持った第9装甲師団とSS特務師団を麾下に持ち、わずか5日間でオランダを降伏させることに成功しました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第26軍団司令部と、軍団麾下の部隊のユニット。

unit8872.jpg

(私は今までOCS『The Blitzkrieg Legend』で何度もオランダ戦をプレイしており、わずか2個快速師団でオランダを降伏させるのがいかに大変か身にしみているので、ヴェストファルの苦労がしのばれました(^_^;)


 その後ヴェストファルはフランスとの休戦委員会の仕事に携わり、その職に1941年6月まで留まります。

 ドイツ軍は北アフリカで1941年3月末から戦い始めており、アフリカ軍団の戦力が増強されていっている時期にヴェストファルは健康診断を受けるように命じられました。これは彼がアフリカでの任務に適しているかどうかを判断するためのもので、大動脈が弱いことが判明し、アフリカへ行くか、ヨーロッパで戦うかの選択を迫られます。ヴェストファル自身は、ロンメルがぞんざいで部下にひどい仕打ちをすると聞き及んでいたようで、北アフリカに行くことには気が進まなかったのですが、妻の勧めに従ってアフリカに赴くことにしたのだそうです(ヴェストファルの奥さんがどういう理由でアフリカに行くことを勧めたのか興味が湧くところですが、参照した資料には記述がありません)。

 1941年の夏にヴェストファルはロンメルの司令部に作戦参謀として赴任しました。

 新たにロンメルの戦車集団司令部の作戦主任参謀に任命されたのは、貴族で傲慢であるが、背が高くて上品な39歳のジークフリート・ヴェストファル中佐であった。1945年に彼に対する尋問に任じたアメリカ軍の将校は彼のことを、典型的な軍事専門家で非常に高い知性をもち、自負心の強い人物であった、といっている。「戦争が彼の専門」であった。
『狐の足跡』上P176



  他の人たちと同様、ヴェストファルも、厳しく大きな努力を求めるロンメルの下で働くのは大変なことだと感じることになりました。しかし、彼は徐々にロンメルを尊敬するようになります。「課せられた責任の大きさに比例して、人間として大きく成長することができた」とヴェストファルは戦後に回想しているそうです。ロンメルの方もヴェストファルが有能であることを認識し、トブルク攻略作戦を策定するように命じます。


 英連邦軍の反攻作戦(クルセイダー作戦)の兆候はありましたが、ヴェストファルは1941年中には敵の準備は完了しないだろうと考えていたそうです。しかし実際にはクルセイダー作戦は1941年11月18日に開始されたので、ヴェストファルの判断は間違っていたことになります。

 開始されたクルセイダー作戦はしかし、初期に英連邦軍側が大きな損害を被り、ロンメルはそれを好機と考えて敵後方を突くための進撃(いわゆる「(リビア・エジプト国境の)鉄条網への進撃」)を企てます。ヴェストファルはこのロンメルの案に対しては、アフリカ軍団の装甲師団はそのような企図を成功させるほどには強力でなく、トブルクを包囲している独伊軍部隊も英連邦軍の攻撃に耐えられないと強く主張しました。またヴェストファルは、ハルファヤ峠の戦区とトブルク包囲環の戦区の両方で危機が発生し、枢軸軍は両方の危機に耐えられなくなる可能性があるとも警鐘を鳴らしています。

 しかしロンメルは2日以内に戻ることを約束して(いつものように)参謀長のガウゼを伴って出発し、その間の司令部の責任は若い作戦主任参謀であるヴェストファルに委任されることになりました。そしてロンメルは戦況について重大な思い違いをしてしており、ドイツ軍部隊を危険なほど分散させてしまい、トブルク包囲環の枢軸軍部隊も危機的な状況に近づいていたのです。

 ヴェストファルの部下の情報担当の将校であったメレンティンは回想している - 「エル・アデムでわが軍の司令部として使用されていた木製のバスの中で、ヴェストファルと私は外套にくるまって身を寄せ合いながら、ますます憂慮しつつ状況を見守っていた」
『狐の足跡』上P200



 この時期、軍事的状況が絶望的であると考えたイタリア軍とドイツ軍の上級司令部は、全軍が失われる前にアフリカ軍団がトブルク地区から撤退するよう勧告さえしました。しかしヴェストファルは、「我々はここに立つ」という言葉を用いて撤退命令を出すことを拒否します。彼は、枢軸軍が撤退すれば助からないことを理解していました。英第8軍の戦車部隊に対抗するための戦車がなく、もし撤退していたら、追撃され、捕まり、壊滅させられていたでしょう。

 そして4日以上にわたってロンメルとどうしても連絡をつけることのできなかったヴェストファルは、いよいよの段となって、自分自身の責任で第21装甲師団と第15装甲師団に引き返すように命令する決断をしました(ロンメルはヴェストファルの必死の電文の束を見てはいたものの、気にとめていなかったともいいます)。この命令を知ったロンメルは「これはイギリス軍が仕掛けた罠だ。あるいは、あのいまいましいヴェストファルからの命令であれば、軍法会議にかける」と言ったそうです(『Mythos Rommel』P82)。

 39歳の一中佐であった彼として、並たいていの勇気でできることではなかった。
 【……】
 彼【ロンメル】はエル・アデムにあるヴェストファルのバスへ帰りついたときも、依然として激しい怒りに燃えていた。「彼は誰とも口をきかなかった」と、ロンメルの側近のひとりがこのときのことを回想している。「そして無言のままつかつかと、作戦室として使用されていたバスの中へはいっていくと状況図を見た。ガウゼはロンメルの後ろに立っていた。私たちはヴェストファルが下した決定についてロンメルに説明してくれるように、ガウゼに合図した。しかし、そんな必要はなかった。ロンメルは突然、疲れたからしばらく横になる、といったのである」 再びトレーラー・ハウスの中から姿を現わしたとき、今度のことについてはもう何もいわなかったので、皆がほっとした。
『狐の足跡』上P206,7


 『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』によると、ロンメルはヴェストファルの処置が適切であったことを認識した後、彼を騎士鉄十字章に推挙したそうです。最終的にはこの時は騎士鉄十字章ではなく、その下のドイツ十字章金章が授与されました。


 クルセイダー作戦後の撤退の時期にはヴェストファルは黄疸にかかっていたそうですが、その後メルサ・エル・ブレガ(エル・アゲイラの少し東)の陣地が保持できるかどうか危うくなっていた頃に、ロンメルに大胆な逆襲計画を提案しました。

 ヴェストファル大佐は絶望的な状況の中で、非常にユニークな計画を立て、ロンメルは一瞬の逡巡の後、これに同意した。イギリス軍の部隊が最終的な攻撃のために隊列を組む前に、先制攻撃でそれを阻止することになったのだ。この計画は「絶対的な奇襲」を基本とし、すべては敵を欺くために作られていた。ロンメルは念のためイタリア軍の上層部にも報告せず、極秘裏に準備を始めた。
『Mythos Rommel』P84

 ロンメルはヴェストファルの論理に説得され、新たな攻勢を準備するよう命令した。イギリス軍の航空偵察機と陸上の哨戒部隊を欺くため、ヴェストファルは日中の間、枢軸軍の車両はすべて西の方角、すなわちトリポリ方面への移動のみを行うよう命じた。夜間は両方向の通行が可能であった。こうしてイギリス軍司令部では、枢軸軍が首都トリポリへのさらなる退却を計画しているとの考えが広まった。さらに、第8軍を欺くために、古い汽船といくつかのはしけを燃やした。これは、枢軸軍が退却しようとしているという話をイギリス最高司令部に確認させるための行為であった。

 逆転が始まっていた。1942年1月19日、ロンメルの戦車を100輌以上に増強するのに十分な装甲戦闘車を積んだ輸送船が到着し、さらにイタリア軍は90輌を持っていた。そして、わずか数日後、攻勢は開始された。ロンメルとヴェストファルは、イギリス軍戦線を突破した戦闘団の先頭を行く数個中隊と一緒にいた。ベンガジに到着したこの二人は、第2機関銃連隊の攻撃小隊と一緒になって、同市の攻略に参加した。この頃ロンメルは再びヴェストファルを騎士鉄十字章に推薦したが、再度推薦を却下され、代わりに参謀将校としては珍しく常日頃から前線に立っていたことが認められ、銀色の戦車突撃章が授与された。ロンメルはヴェストファルにアフリカ装甲集団の参謀長という新しい役職も提示したが、その役職にいたガウゼ将軍が当時アフリカにいなかったため、自分がその役職を受ければガウゼの不在を利用していると思われかねないとしてこれを辞退した。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P270




 1942年5月からのガザラの戦いの直前には、アフリカ装甲軍参謀長ガウゼとドイツアフリカ軍団参謀長のバイエルラインが攻勢に対して否定的であったのに対し、ヴェストファルは結局自分達としては攻撃する他はない、これ以上防御の態勢で待つことは、アフリカ装甲軍全体を危険に陥れることになる、と主張します。

 しかしガザラの戦いの最中、ヴェストファルは負傷して戦場を離れることになりました(その時のことをロンメルが、冒頭のように「痛恨の極み」と書いていたわけです)。

 ロンメルとヴェストファルは1942年5月31日にも意見の相違があり、そのためにこの時はヴェストファルの命が失われそうになった。ガザララインの戦いの最中、ヴェストファルはロンメルとともに装甲車でゴット・エル・ウアレブ・ボックスの偵察に出かけ、急降下爆撃機のスツーカが正しく攻撃しているかどうかを確認していた。些細なことでヴェストファルとロンメルの意見が合わず、それに対してロンメルが鋭い言葉で言い返した。イギリス軍の砲撃を受けたのは、彼らが装甲車の装甲の弱い部分から状況を観察している時であった。ロンメルは装甲に厚くカバーされた部分に飛び込み、ヴェストファルにも同じことをするようにと叫んだ。しかし、作戦主任参謀のヴェストファルは不機嫌になっており、まるで命令を聞いていなかったかのように従わなかったという。突然、大きな爆発音が聞こえた。ジークフリード・ヴェストファルは鳥のように空を飛び、大腿部に大きな破片を受けて砂漠に落ちた。運転手は死亡していた。ヴェストファルは幸いにもキューベルワーゲン(ドイツ軍におけるジープのようなもの)に拾われて司令部に運ばれ、そこからデルナの病院に送られた。間もなく、彼は大きな治療を受けるためにヨーロッパに戻された。個人的に親しかったF・W・フォン・メレンティンが一時的に彼の役職を代行することになった。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P102



 ヴェストファルは手術を受け、またトブルク陥落によりロンメルは元帥に、ヴェストファルは大佐に昇進します。

 北アフリカでは1942年7月に第1次エル・アラメインの戦いが行われており、その次のアラム・ハルファの戦い(8月30~9月5日:エポック『エル・アラメイン』が扱っている戦い)の直前(8月30日の夜)にヴェストファルは復帰しました。この攻勢に関するロンメルとケッセルリンクの会談に同席したヴェストファルは燃料の不足について言及し、ケッセルリンクが空輸によってそれを保証すると述べたのに対してその不可能なことを指摘したのでケッセルリンクに疎まれ、退席するように求められています。

 結局アラム・ハルファの戦いは燃料不足のために行き詰まります(ケッセルリンクの約束は果たされませんでした)。


 その後もエル・アラメイン前面でのにらみ合いが続きますが、この時期に下記のようなことがあったそうです。

 知られている限りでは、外国軍人の中のドイツ人移民を殺せというヒトラーの命令も実行されなかった。重傷を負って6月1日にはすでに戦線離脱していたジークフリート・ヴェストファルによると、この命令は焼かれたという。その4ヵ月後にも同様の手順で別の殺人命令が出されていることも、この事実を裏付けている。1942年10月18日、ヒトラーは、ドイツ軍の後方で特殊任務を遂行していたイギリス兵を中心とした、いわゆるコマンドー作戦の参加者を「戦闘中または飛行中に最後の一人まで切り捨てる」よう命じていた。受け取ったヴェストファルは、国際法に反する命令であることをロンメルに伝え、「すぐに燃やすように」と勧めた。「ロンメルはうなずいた」とこの作戦参謀は回想録に書いている。ヴェストファルはストームライターで通信文に火をつけた。
『Mythos Rommel』P92

(多くの資料では、ヒトラーの指令を無視したのはロンメルの意志によるもののように書かれていると思われるのですが、ヴェストファルの回想録によると、ヴェストファルが勧めたことであったということになるのでしょう)


 同じ1942年10月(初旬?)に、アフリカ装甲軍の参謀長であったガウゼが治療のために再びヨーロッパに戻った(9月)ため、ヴェストファルがその後任として参謀長に任命されます。ただし彼がこの役職にいた期間は長くはありませんでした。10月23日、第2次エル・アラメインの戦いが始まって枢軸軍戦線は崩壊し始め、11月4日にロンメルは総退却を命じます。

 この頃までにロンメルは再びヴェストファルへの騎士鉄十字章を推薦しており、11月29日に授与されました。

 また、12月初旬にロンメルはヒトラーに会いに行っており、この時ヒトラーに「指揮下の最も優秀な将校は誰か」と聞かれたロンメルは即座に「ヴェストファルです」と答えたというエピソードもあるそうです。

 退却の途中の12月1日、第164軽師団の師団長であったルンガースハウゼンが負傷か何かのために師団長職を降りたため、ヴェストファルが師団長代理を務めることになりました(枢軸軍はその頃、メルサ・エル・ブレガ付近にいたようです)。12月29日(エル・アゲイラとトリポリの中間地点より少し西のブエラトあたりに枢軸軍はいました)にルンガースハウゼンが師団長として復帰しましたが、ヴェストファルは短期間であっても自分が第164軽師団を指揮できたことを、死ぬまで非常に誇りに思っていたそうです(どういう意味で誇りであったかは資料に書かれていないのですが、実戦部隊としての師団を指揮できたということか、あるいは第164軽師団自体に思い入れがあったものか……?)。


 ↓OCS『DAK-II』の第164軽師団(後期のユニット構成)

unit8871.jpg

(ただしヴェストファルが指揮していた頃には相当ボロボロになっていたはずですし、また『DAK-II』自体は1942年11月29日ターン(つまり11月末)までを扱っているので、厳密に言えばゲームの扱う時期の外ということになります)


 しかしこの頃にヴェストファルも北アフリカを離れ、そして二度とその地に戻ることはありませんでした。ヴェストファルがこの時期北アフリカを離れた理由について、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』は病気のためとし、『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』は新しい役職に就くため(あるいは休暇を取るため)であったとしています。


 ヴェストファルはドイツに向かう途中、ケッセルリンクに会って報告し、また一緒にムッソリーニに会いに行ったりもしたようです。ケッセルリンクは以前、ヴェストファルと意見の相違があったりはしたものの、彼を自分の幕僚に迎えることを希望していました。

 ヴェストファルは1943年2月1日にケッセルリンク元帥が司令官を務める南方総軍とC軍集団の作戦主任参謀に就任し、また3月1日には少将に昇進しました。ヴェストファルはチュニジアで枢軸軍が最終的に1943年5月に降伏するまで、その地に頻繁に飛んで様々な配慮をしたそうです。

 一方でヴェストファルは、チュニジアに送られる予定で南イタリアに大量の兵士が置かれていたのを、ケッセルリンクの許可を得て、部隊に編成して英米軍の次の目標であると思われたシチリア島に代わりに送り込みました。6月15日にヴェストファルは南方総軍の参謀長に就任します。

 7月9日にはシチリア島上陸(ハスキー作戦)が始まり、7月25日にムッソリーニが失脚するとイタリアは連合国との単独講和の動きに入ったため、ロンメル指揮下のB軍集団がイタリアに進駐を開始します。イタリア軍は自国の領土をドイツ軍に侵されたことに憤慨し、ヴェストファルはかつての同盟国の将校達との間に生じた問題を解決するのに多大な時間を費やしました。

 その後ヴェストファルは、イタリア半島での戦いの準備と戦闘に忙殺されます。ヴェストファルは1944年4月1日に中将に昇進しましたが身体を壊し、ドイツに戻って手術を受けました。


 ヴェストファルは8月末まで療養し、1944年8月31日にヒトラーのもとを訪れ、そこで会ったフォン・ルントシュテット西方総軍司令官の参謀長に任命されます。ヴェストファルの最初の仕事は、この頃フランスから退却してくる大量のドイツ軍兵士達の混沌の中に秩序を作り出すことでした。彼はライン川西方に強固な前線を形成することに成功し、ヒトラーはこの成功を奇跡と評しました。
OCS『Beyond the Rhine』はまさに、ライン川に向かって怒濤のごとく迫ってくる連合軍に対して、ドイツ軍が強固な防衛線を形成できるかどうかというタイミングの9月5日ターンから始まりますので、ヴェストファルのこの仕事を体験できるということになるのかもしれませんね(^_^;)

 その後もヴェストファルはジークフリート線の戦い、バルジの戦い、ライン川への退却戦などで、豪華な司令部からほとんど離れることのなかったフォン・ルントシュテット元帥を助け、誰が見ても前任のギュンター・ブルーメントリットよりも優れた参謀長であるとみなされたそうです。フォン・ルントシュテット元帥は自分の参謀長に満足し、ヴェストファルの昇進を推薦、1945年2月1日にヴェストファルは騎兵大将となりました。


 ヴェストファルがヒトラーと、ジークフリート線防衛の有効性について激しい応酬を繰り広げていた1945年3月6日、ライン川にかかるレマゲン鉄橋がアメリカ軍によって占領されると、ヒトラーはフォン・ルントシュテットを退役させ、より楽観的、精力的でナチス寄りのケッセルリンクを後任に据えました。しかしできることはほとんどなく、ケッセルリンクとヴェストファルはその後まもなく降伏します。


 戦後まもなくニュルンベルク裁判が始まります。『ヒトラーの元帥 マンシュタイン(下)』には、フォン・マンシュタインが妻に宛てた手紙の中の以下のような記述があります。



 ジュネーヴ協定の捕虜に関する規則は、ここではまったく適用されていない……。軍服でやってきた将校全員の階級章が剥ぎ取られたのだ。ヴェストファルや他の者が抗議すると、独房に入れられ、二日間食事抜きで過ごさなければならなかった。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン(下)』P255



 ヴェストファルは、フォン・マンシュタインらと共にドイツ国防軍を弁護して、いわゆる「国防軍潔白神話」を形成するのに寄与します。

 その後ヴェストファルは、アメリカ軍のヨーロッパでの戦史部で、主にイタリアでの作戦に関する多くの原稿を書きます。また彼は、北アフリカで自分の部下だった兵士達の運命に関心を持ち、アフリカ軍団退役軍人協会やその他の元軍人団体を設立しました。


 1973年にヴェストファルは、イギリスのドキュメンタリーシリーズである「The World at War」に目撃者として出演しました。探してみたところ、↓が見つかりました(他の回でも出ているのかもです)。






 1975年に、デイヴィッド・アーヴィングがヴェストファルに会って話を聞くことができました。この時のことをアーヴィングは↓のように書いてます。

《「ロンメルがしたことは間違ってはいない」1975年10月、私がジークフリート・ヴェストファルに会ったとき、引退しながらも北部ドイツにおいて豊かな生活を送っていたハンサムなこの元大将はいった。【……】ヴェストファルは将校として、今では思い出の中のロンメルに対し非常に強い忠誠心をいだいているため、現在の自分が記憶していることが1942年に書かれた日記と食い違う場合、ためらうことなく、自分の記憶の方が正しいし、日記の内容が間違っている、といいきるのである》
『狐の足跡』下P31




 ヴェストファルは、1982年7月2日に80歳で亡くなりました。


パソコン(Kindle)上の画面のOCR→DeepL翻訳用のフリーソフトを「PCOT」に変更しました

 以前、↓というのを書いてました。

パソコン上の画面のOCR用のフリーソフトを「Screen Translator」に変更しました (2021/12/14)


 が、先日↓というページをたまたま見つけまして……。

Kindle for PCで洋書をDeepL翻訳を使ってスラスラ読む方法


 この中で紹介されている「PCOT」という「OCR→DeepL翻訳」のフリーソフトを試しに入れてみました。結果として、個人的に「Screen Translator」よりも使い勝手が良いかもと思われるので、乗り換えることにしました。



 個人的に、「Screen Translator」の短所として以下のものがありました。

・OCR結果を改行させないことはできたのですが、そのOCR結果はコピーできず、直接DeepL翻訳させたものはDeepL翻訳の窓を別に開いて翻訳させたものよりも訳の精度が低い感じがして、結局改行されたOCR結果をShaperに入れて翻訳していた。

・その結果、Kindle画面の中で実際に「改行、一字下げ」されているような部分は、段落毎に分けてOCRするのでなければ繋がった状態で処理するしかなかった(段落毎に分けてOCRすればいいわけですが、手間暇がかかり、特に「読み飛ばしていってもいい部分」に関しては繋げて処理した方が楽です)。



 それに対して、「PCOT」では……(前記ページの設定によって)。

・Shaperを通す必要は全然なく、しかもKindle画面上で「改行、一字下げ」されている部分がDeepL翻訳上でそのまま「改行、改行、一字下げ」と見やすい状態で出てくるので大変ありがたいただし、原文で改行されていないにもかかわらず行末が「.」であったりすると勝手に「改行、改行、一字下げ」されてしまう、つまり段落が分けられてしまうという短所があるのですが、そうされないよりはされている方がマシだと個人的に感じております)。

・「連続翻訳」機能はすごいと感じたものの、5,000字制限に引っかかってどうして良いか分からなくなるので、結局毎回OCR範囲を指定する方法で(個人的には「Screen Translator」のデフォルトのCtrl+Alt+Zで範囲指定というのがやりやすかったので、その設定にしました)。

・まだ試していませんが、OCRで毎回ミスするorミスしやすいものをPCOT上に登録しておいて望む結果に出力する機能があるようで、これも便利だと思います。



 処理速度はかなり時間がかかるという印象でしたが、あるタイミングから爆速に早くなったりしました。

 個々人で色々好みはあると思うので、こういうフリーソフトが色々開発されているのは大変ありがたいです(T_T)

SCS『It Never Snows』のシナリオ、専用ルールで気付いたことや疑問点

 先日、SCS『It Never Snows』をVASSALで触ってみまして、まったくルールが分かってないので恐る恐るでしたが、その専用ルールの部分について気付いたことや疑問点などを書き留めておきます。



 まずは『It Never Snows』について。フルマップ5枚でマーケットガーデン作戦を再現するゲームで、1ターン12時間、1ヘクス600m、ユニット840個でキャンペーンが全17ターンです。マップ的にはかなりのビッグゲームですが、ルール的には大して難しくないと思われます。

 なぜ9月の戦いで雪とは関係ないのに「Snow」なんて言葉がゲーム名に入っているのかというと、史実で空挺降下を見たドイツ軍側に、「あれは雪か? (季節的に)雪であるわけがない!(It never snows) 空挺降下だ!」という会話があったからとか? ↓の書名が元になっているのかもです。





 ↓マップ全景。

unit8876.jpg







 とりあえずまず、『It Never Snows』を初めてプレイしてみる上で、どのシナリオが良いのか探してみました。

 シナリオ5.1~5.4までは、開始時期が異なるキャンペーンゲームで、シナリオ5.5~5.8はマップの一部を切り取ったシナリオです。

 5.5と5.6はアルンヘム周辺での戦いを扱っており、少し範囲は異なっていますが非常に狭く(10×10ヘクス程度)、最初にやってみるのに良さそうです。ただしなぜか、5.6の方が早い時期(第2~7ターンの全6ターン)を扱っており、5.5がその後の時期(第8~17ターンの全10ターン)となっています。5.6の方がターン数も短いですし、5.6を先にプレイし、その後に5.5をプレイするのも良いかも?


 ↓シナリオ5.5の初期配置(VASSALでは右側が北になっています)。水色のヘクスの内側がシナリオの範囲で、左側には増援がそのターン毎に置かれています。

unit8879.jpg



 ↓シナリオ5.6の初期配置。

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 シナリオ5.7はナイメーヘンでの渡河から、その北方(画像の右側)への戦いを描いています。第6~14ターンの全9ターン。

 ↓シナリオ5.7の初期配置。

unit8877.jpg




 シナリオ5.8はマップCの2/3程度を使用し、フェーヘル(Veghel)周辺を目指すドイツ軍の反撃を扱うようです。第10~17ターンの全8ターン。

 ↓シナリオ5.8の初期配置(水色の左側がシナリオの範囲。右側に増援が置いてあります)。

unit8875.jpg




 今回はシナリオ5.7をやってみました。

 VASSAL上では、シナリオ範囲が一列間違っている(プレイには実質問題なし)とか、「w/i 2 B26.34」が「w/i 1」と表示されている(w/i 2が正しいと思われました)とか、指定の3ヘクスから1ヘクス以内なのが1ヘクスしか指定されていないとか、少々問題はありましたが、まあなんとか。

 それよりは、VASSAL上でマスクできない(戦場の霧ルールが再現できず、すべてのユニットが筒抜け)とか、ユニットが消えてしまったり、接続している他のプレイヤーには違うユニットが見えていたりするのが割と起こるという問題があり、そちらに気を配る必要がありそうです。

 あと、シナリオ情報には片側の陣営の「航空爆撃」について触れられていないことがあり(例えば5.7では連合軍の、5.8ではドイツ軍の航空爆撃についての記載がない)、BGGによると「記載がないということはつまり存在しないということです」だそうです。



 お試しプレイで気づいたこととしては……。

・移動フェイズの前に行軍移動フェイズがあり、行軍移動(スタック禁止で無限移動できる)した後にも移動できるので、戦線から離れたところにいるユニット(ドイツ軍側も)は初期配置でスタックさせないで置いておけば、行軍移動して移動できるので吉

特に突破能力を持つユニットは、行軍移動して、移動でスタックして攻撃し、戦闘後前進せずにEZOCに入らないようにして、突破フェイズになったら突破移動でオーバーラン……というのが良さそう。

・砲撃するには観測ユニットが必要だが、シークエンスが

 行軍移動フェイズ
 砲撃フェイズ
 移動フェイズ
 戦闘フェイズ
 突破フェイズ

 で、行軍移動では敵ユニットに隣接できないので、攻勢側(進撃側)は接敵していないような状況からは砲撃はできない。逆に防勢側は接敵されている状態から砲撃して、移動フェイズのオーバーランや戦闘フェイズ中の攻撃で敵から離れて、突破フェイズに移動やオーバーランが可能。




 また、今回出てきた疑問点。

 橋(Bridge)はスタック制限がユニット1枚で、移動中も遵守しなければなりません(1.5と1.13)。このスタック制限を退却中も遵守すべきなのか? ということが疑問点として出てきました。

 1.5と1.13によれば、あくまで「移動中も(「when units are moving」と「even during movement」)」っぽく、またSCS 4.0aによれば「戦闘結果(オーバーラン、通常戦闘)による退却によってスタック制限を超過した時には、次の自軍移動フェイズ終了時まで、スタック超過によるユニットの除去は行いません」とありますので、少なくとも退却時には「超過によるユニット除去」はしないのではないかと思われました。ただし、1.5に「退却した結果によってスタック制限を違反してしまったヘクスにいるすべてのユニットは、直ちに混乱状態になります」とあるので、混乱にはなると思われました。

 ただし戦闘後前進に関しては、SCS 10.0の最後に「戦闘後前進の終了時には、スタック制限が守られていなければなりません」とあるので、1枚しか入れないと思われます。


 次に、1.11には「連合軍の航空爆撃はワール川の南でのみ、ドイツ軍の航空爆撃はワール川の北でのみ行えます」というルールがあるのですが、厳密にどのヘクスでできる/できないのかが気になりました。この件についてfacebookで質問してみたのですが、返信がつかないので良く分からず。ただとりあえず、そのヘクスに南岸があれば連合軍は航空爆撃でき、そのヘクスに北岸があればドイツ軍は航空爆撃できる、ということで良いのではないかと思いました。ヘクスによっては両岸が含まれていることがあり、その場合には両軍とも航空爆撃できる、と。


 それから1.15に、工兵が渡河点(Ferry)を設置する/架橋部隊が架橋するために、それらのユニットが「Emplaced(配置)」されなければならない、というルールがあります。このEmplacedされたユニットが、「攻撃を行えるか?」「ZOCを持つか?」ということが気になりました。尤も、Emplacedされたユニットと敵との間にはシーラインヘクスサイドがほぼ必ずあるはずで、シーラインヘクスサイドを越えてはZOCは広がりませんし、攻撃はできたとしても戦闘力が半減であり、ごく稀にしかそれらの疑問点は問題にならないはずではあります。

 これもfacebookで質問してみたのですが、返信がないので分かりません(^_^; とりあえずどうするかですが、この件に関する規定はないようなので、とりあえず「攻撃できる」「ZOCを持つ」ということにすべきかなぁ、と。




 また何か、気付いたことや疑問点が出てきたら、ここに集積していこうと思います。

 何か間違い等に気付かれましたら、ぜひご指摘下さい!(^^)


 あ、あとちなみに、古角さんに『It Never Snows』の在庫がサンセットゲームズにあるかどうか尋ねたところ、少しあるということでした。


第1次、第2次アキャブの戦いは、OCSには向かない?

 OCS『Arakan』(仮)を作れないかと思って、第1次、第2次アキャブの戦いをOCSシステムで作るということを試してみていたんですが……。

 第1次、第2次アキャブの戦いは、OCSには向かないのではなかろうか? という気がしてきました(^_^;


 ↓最近も資料を読んでマップを改訂したりしてました。

unit8880.jpg




 最大かと思われる要因は、第1次、第2次アキャブの戦いの両方とも、「攻撃側が成功するに違いない、と思って何回も攻撃していた場所が結局は抜けないで、攻勢作戦が失敗した戦いである」ということじゃないかと思います。

 それに対してOCSは、「必ず成功するような攻撃(戦闘比、AR差)を用意するのがセオリーであり、成功するかどうか分からないような攻撃はそもそもしないでいるべきシステム」なのです(SPの無駄がつらいから、というのがその理由の最たるものではないかと思います)。

 ここらへん、SCSをやってみて「SCSは低戦闘比率で、うまくいくかうまくいかないか分からない攻撃でも上等」だったりしたので特に強く思ったのですが、しかしSCSだったら第1次、第2次アキャブの戦いが再現できるかというとどうもそうではないような気もしました。




 第1次、第2次アキャブの戦いのボードウォーゲームはそれぞれ1作ずつしか出てないらしいのですが、そもそも有名な戦いではない以外にも、ゲームとして結構作りにくい戦いであるという要因もあるのかもです。

 でも同じように、「成功すると思ってやった攻撃が何回もになって、結局成功しない内に敗退」というような戦いやウォーゲームが他にあるかどうか考えてみますと、エル・アラメインの戦いとか、ガダルカナルの戦いとか……? 戦いとしては当然、存在するパターンでしょうし、ゲームとしてもなしではないとは思われますが、アキャブの戦いは第1次、第2次とも、ある地点で割と長期間止まったままで何回も(後知恵からすると無駄な)攻撃が繰り返されるという特色があって、そこがネックになっている可能性があるのかも。




 第1次、第2次アキャブの戦いがゲームとしてうまくいく場合はどのようなケースであるかを考えてみると、

1.敵の状況(兵力配置や増援状況)がかなり隠されるようなシステムであるならば、ある地点での攻撃がうまくいくかもしれない(あるいは最もうまくいきそうな場所を何とか探して、とにかく攻撃せざるを得ない)ということになるかも。
2.ビルマ中央部を基本的にプレイしており、その支作戦としてアラカン地方で攻勢(牽制)作戦をするという形であれば、どれだけアラカン地方に兵力を回すとか、回した兵力が間に合うかどうかなどに気を揉むゲームになり得るかも。

 ということが思いつきましたが、どちらも微妙に(かなり?)ハードルが高いような……。


 いやそういえば、ダブルブラインドシステム(GDW『8th Army』とかの)であれば、少なくとも第2次アキャブの戦いは割と短期間で終わるので、なしではないかも……? しかもチットプルシステムにすれば、日本軍の連携が取れないのも再現できるかも。マップはアドミンボックスの戦いの周辺だけを拡大し、ユニット規模は少なくとも日本軍は中隊規模で。

 補給のシステムは、エポック『エル・アラメイン』が強制的に第4ターンで終わっているのが「枢軸軍の燃料不足を表している」ように、単純に史実で日本軍が撤退した時期までに戦果を挙げられなければ終了するということで良いような気がします。



 それに対して第1次アキャブの戦いは長期間すぎ(1942年12月15日から1943年5月12日)、日本軍の増援が遅かれ早かれやってきて側面包囲するという史実のパターンを、うまく単体ゲームとして面白くする案が現状思いつかないです。ただし、前述2のパターンは結構面白そうな感じはします。ビルマ戦全体をフルマップ1枚とかで再現するゲームの一部としてなら……。一方で、OCS『Burma II』2枚+OCS『South Burma』(仮)3枚+OCS『Arakan』(仮)1枚の計6枚で再現するゲームの一部としてという案は、第1次アキャブの戦いの頃は他にビルマ戦線では戦いが行われておらず、それなのに全体の一部として第1次アキャブ戦を44ターンもプレイするというのは、規模的な問題としてあり得ないなぁという気がします。




 尤も、何か劇的にアイデアを思いついて「やはりOCSでいこう!」となる可能性もあるかもで、また考えていこうとは思いますが、とりあえずOCS『Arakan』(仮)は一時停止して、OCS『South Burma』(仮)に移った方がいいかな、と思います。『South Burma』(仮)は「OCSに向かない」とは現状思ってはいなくて、ただ単に「作業が(狭い範囲の『Arakan』よりも)大変」ということで先延ばしにしていたのですが、「やっぱり『South Burma』もダメだぁ~」とならなければいいなぁ……(^_^;


SCSシリーズルールサマリーを作りました&SCSとOCSの大きな相違点について

 先日、SCS『It Never Snows』の練習をしてみたのですが、その際にSCSシリーズルールサマリーを作ってみました。というのは、以前にもSCS『The Mighty Endeavor 2』などをやってみたことがあったわけですが、全然SCSのシリーズルールを頭の中で保持できていなくて、サマリーを作っておいた方がいいなぁ、と思ったので(^_^;


 ↓こちらに置いてあります。

SCS(Standard Combat Series)関係




 OCSとSCSの違いについても、ちょっとまとめてみようと思いました。

 最も大きいのは、ZOCの影響でしょう。OCSではZOCが移動に及ぼす影響は微々たるものに過ぎませんが、SCSではEZOCに入るのに+2移動力で、ZOCを持つユニットの割合も高い。
(SCSでは1攻撃力以上のユニットはZOCあり。OCSでは移動モードではZOCがないので、機動戦をやっている最中の部隊はZOCを持たない割合が高いです)。


 それから、

・SCSでは、オーバーランしたスタックはそこでストップ。オーバーランされるヘクスは1つのフェイズに1回しか目標ヘクスにならない。オーバーランは2移動力以下のヘクスに対して2移動力で行う。
(OCSでは移動力が残っているならいくらでもオーバーラン可能。オーバーランされる回数に制限はない。オーバーランは3移動力以下のヘクスに3移動力で行う。)

・SCSでは、防御側ユニットが2ヘクス以上の退却を要求された場合(それをステップロスに変換したり、途中で全滅しても)、攻撃側の突破能力を持つユニットは退却ヘクス数と同じヘクス数だけ戦闘後前進を行える。
(OCSでは戦闘後前進が2ヘクス以上できるというようなルールはない)

・SCSでは、退却は「元いたヘクス」から離れるようにして行う。
(OCSでは、退却は「敵のヘクス」から離れるようにして行う。)

・SCSでは、1ヘクスに違う道路がある場合、(多分)乗り換えできない(SCS 3.2b)。
(OCSでは、1ヘクスに違う道路があったらノーコストで乗り換えできる(OCS 6.2a)。)

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 ↑の画像で、24.02から25.03へと移動した際、OCSだと白い方の道路にノーコストで乗り換えできるのですが、SCSではそのような規定がないようなので、できないと思われます。なので、もし続けて25.03から26.03へ移動するのならば、ポルダーの移動コストを払わなければならないでしょう。




 それから、今回出てきた疑問点についてFacebook上のStandard Combat Seriesグループに入って質問してみました。

 SCSでは最初のステップロスは「攻撃側なら最も攻撃力の高いユニット」(防御側なら最も防御力の高いユニット)という規定となっています。

unit8882.jpg

 ↑の画像のように、ドイツ軍側が6-3-12と、DGで攻撃力が半減している8-4-12で攻撃して「攻撃側1ステップロス」となった場合ですが、回答によると8-4-12の方がステップロスする、ということです。というのは、ルールに「印刷された攻撃力が最も高いユニット」という風になってまして、一方でそれ以上の規定はないので、DGとかで攻撃力が下がっていても関係ない、ということで。


 実は元々この疑問が出てきた時の状況は、

6-3-12
6-3-12
6-3-12
DG状態の6-3-12

 で攻撃した時1ステップロスとなって、この時「DG状態の6-3-12」をステップロスでも良いのだろうか? という疑問だったのですが、回答の感じからするとそれでも良いのだろうと思われました。



 また、SCSはゲーム毎に(シリーズルールの上に乗っかる)システムやCRTなどが異なるので、「SCSは全部こう」とは言えないですが、これまで少しやってみた『The Mighty Endeavor 2』や『It Never Snows』を見ていると、2:1や1:1などの低比率の戦闘比でも攻撃をバンバンしかけていってOKという感じがしてます(OCSでは高比率か、AR差がかなりある、「確実な攻撃」しかやらない方がいいシステムです)。

 それからOCSではSPを消費することに決めた極めて限られた場所でしか戦闘や砲撃が発生しないんですが、SCSは多くのウォーゲームと同様、存在するすべての戦闘ユニットが攻撃を行える(のが基本な)ので、「低比率でもOK」ということと相まって、戦線全体でバンバン攻撃をやって、うまくいった場所を、予備にしてあった(EZOCに入らないようにしておいた)突破能力を持つユニットでもって抜いていくという感じなのかな、と思いました。

ハルダーによって送り込まれたものの、ロンメルに心酔し、ロンメルに最も長く仕えた参謀長、アルフレート・ガウゼについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ハルダーによって送り込まれたものの、ロンメルに心酔し、ロンメルに最も長く仕えた参謀長、アルフレート・ガウゼについてです。



Bundesarchiv Bild 183-1982-0927-502, Nordafrika, Navarini, Rommel, Diesener

 ↑クルセイダー作戦初期に、イタリア軍司令部で地図を広げて会議中の写真。中央がロンメル、右がガウゼ。左はナヴァリーニ(イタリア第21軍団長)。(Wikipediaから)



Bundesarchiv Bild 101I-718-0149-12A, Paris, Rommel, von Rundstedt, Gause und Zimmermann

 ↑1944年1月14日、パリのホテルで行われた将校会議。左からロンメル、フォン・ルントシュテット、ガウゼ、ツィンマーマン。(Wikipediaから)



 アルフレート・ガウゼは、第2次世界大戦中、エルウィン・ロンメルの部下の中で最も長く、約3年間にわたって彼に仕えた(ロンメルは仕事上の付き合いが長続きしなかったが、それは個人的な親しい友人関係がほとんどなかったことも理由のひとつである。また、部下をすぐに疲弊させてしまう傾向があった。)。 ガウゼは堅実だが、才気溢れるというわけではない参謀で、残念ながら回顧録を残さず、戦後にその経験を広く語ることもなかった。何よりも、彼はプロの軍人であり、陰謀や "処世術"には興味がなかった。彼の目標は、ドイツと、彼の上官として任命された司令官に仕えることだった。忠誠心が高く、忍耐力があり、有能であったからこそ、砂漠のキツネは彼を長く自らの元に留めたのである。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P95



 性格としては、快活かつ穏やかで礼儀正しく、見るからに落ち着きのあるしっかりした、思慮深く行きとどいた気質で、落ち着きがあってたくましい人物で、ポーカーフェイスで意味深なジョークを言うというユーモアセンスで知られていたそうです(^_^;



 アルフレート・ガウゼは第1次世界大戦が始まる5カ月前に士官候補生としてドイツ陸軍に入りました。基本的に工兵隊に所属して西部戦線で戦います。

 戦後も軍に残り、工兵、歩兵、砲兵など様々な部隊に所属しましたが、1927年に軍の試験で上位に入り、参謀将校の候補者に選ばれたことでキャリアが大きく飛躍しました。

 1937年に陸軍省軍務局に配属され、1938年に陸軍省がヴィルヘルム・カイテルを長とする国防軍最高司令部(OKW)となった後も、同局に留まります。上司らがナチスに染まる中、ガウゼはナチスに騙されることはありませんでした。しかし反ナチスというわけでもなく、彼は単純で非常に有能な参謀将校であり、それは戦争が終わるまで変わりませんでした。


 ポーランド戦には直接参加せず、フランス戦の時は第10軍団の参謀長でしたが、この軍団もほとんど戦闘を行っていないようです。

 パリ陥落後、ヒトラーはラントヴェーア部隊の数個師団の動員解除を決定し、ガウゼは陸軍総司令部(OKH)の動員解除支局長に任命されます。ここでガウゼは、参謀総長のハルダーと緊密に連携することになりました。この任の途中の3ヶ月間、ガウゼは一時離任して英仏海峡沿岸にいたフォン・マンシュタインの第38軍団の参謀長を務めます。この頃フォン・マンシュタインはイギリス本土上陸作戦(あしか作戦)の立案に携わっており、ガウゼもその立案に関わりました。

 ガウゼは自身の軍隊歴をロンメルに話した。彼の話でもっとも興味を惹いたのは、参謀将校の一人として、1940年のイギリス侵攻 - 「海象(あしか)作戦」の立案に参加したことだった。ガウゼ自身は心ひそかに、この作戦計画は実現しそうもないと、無視していたと語った。
「第一に」と彼はロンメルと私【ロンメルの副官のハインツ・シュミット】にいった。「利用できる船舶のトン数が決定的に不足していました。次に、イギリス上空の空中戦後、ゲーリングの楽観説にもかかわらず、航空掩護がたよりにならないのが明瞭になったのです。それにドイツ海軍はこの計画を支持したものの、必ずや強力なイギリス海軍は最後の一兵を賭してまで戦うにちがいない。そうなると彼我の艦隊の均衡に相違があるので、ドイツ海軍は全滅の憂目を見るのみだと主張したのです。結果は、ご存じの通りです」
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P112,3

(ハインツ・シュミットの回想録の古い文庫本の和訳のP109~113には、車内でガウゼがロンメルに昔の話を色々と聞くシーンがあります)





 ガウゼは1941年1月末にはOKHに戻り、5月までOKHに留まっていましたが、6月1日付けで北アフリカに送られることになりました。

 これは参謀総長ハルダーによって、ロンメルを掣肘するため(あるいはスパイとして)送られたのだという見方が多いようです。その前の4月から5月にかけてはフリードリヒ・パウルス(後に第6軍司令官となってスターリングラードで降伏。中隊長時代にロンメルと同僚で、かつこの時期参謀次長でした)がロンメルの元に送り込まれていたのですが、それほどの成果を上げず、その次の策として白羽の矢が立ったのでしょうか。

 ガウゼはまず、北アフリカのイタリア軍司令部との間のドイツ軍側の連絡将校の長に任命されます。ガウゼの幕僚達は、非常に曖昧な指示を受けてリビアに派遣されました。ロンメルに報告するのでもなく、ロンメルに従属するのでもなく、むしろロンメルのことをOKHへと報告するようにというのです。ガウゼの忠誠心を固めるためか、OKHは6月1日にガウゼを少将へと昇進させました。

 恐らく北アフリカへと出発する前にガウゼは、ロンメルと衝突しまくってロンメルに解任されたシュトライヒ将軍に会ったのでしょう。シュトライヒから、「あなたはあまり長い間、ロンメルとうまくやっていくことはできないでしょう」と言われたそうです。

 ガウゼはたまたま、バトルアクス作戦が開始された1941年6月15日にロンメルの所に到着したそうですが、この後の動向について、資料によってニュアンスが異なるように感じます。


 例えば、前述のハインツ・シュミットは、

 だが【新しく着任した北アフリカのイタリア軍司令官】バスティコと会ってからロンメルは新任の参謀長ガウゼ将軍を訪ねた。ガウゼは快活で礼儀正しく、見るからに落ち着きのあるしっかりしたひとで、新参謀部がロンメルに所属するようになるのを、はっきりと話した。
 こうしてアフリカ戦車集団が生まれ【……】
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P104

と書いているのですが、これだと「ガウゼはロンメルに初めて会った時に、その参謀部がロンメルの下に入る、と言った」かのようです(そうではない?)。


 デイヴィッド・アーヴィングの『狐の足跡』では、ガウゼがしばらくロンメルの指揮ぶりを見た後、「自分の判断で」ロンメルの下に自分の幕僚達を提供した、という書き方になっています。

 ロンメルの戦況の把握および戦闘指揮の能力に驚きの目を見張った彼は、"アフリカ軍団の司令官はきわめて巧みに事態に対処する"ことができると判断して、直ちに自分が率いていた将校43名、軍属20名、下士官・兵150名および車輛46輌から成るスタッフ全部をロンメルに提供した。
『狐の足跡』上P164




 サミュエル・ミッチャム氏の『Rommel's Desert Commanders』では、ロンメルがガウゼを下に入れると宣言したことになっています。

 ハルダーは自分の部下をひどく過小評価していた。というのは、アルフレート・ガウゼはイタリア領北アフリカで「策を弄する」つもりはなかったからだ。ガウゼがリビアに到着するやいなや、ロンメルは彼の「脚を固定した」のである。砂漠の狐は彼にはっきりと伝えたのだ。アフリカにおけるすべてのドイツ軍部隊は自分一人に指揮権があるのであり、その中にはガウゼとその幕僚部も含まれる、と。ガウゼの答えは、ロンメルに完全に従うということだった。(彼はまた、指揮系統の統一という軍事的原則を信じており、分断された指揮系統の危険性を認識していた。)  ガウゼは1941年9月1日、正式にアフリカ装甲集団の参謀長となった。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P97




 それほどページ数が多くない多くの資料では、ここらへんの事情は曖昧な書き方になっています。


 大木毅氏の、最新学説によるという『「砂漠の狐」ロンメル』では、ガウゼがロンメルをしばらく観察してからの報告をハルダーが読んで、ハルダーの判断でガウゼの幕僚部をロンメルの下に入れたという書き方です。

 7月6日、在北アフリカ・イタリア軍司令部に連絡将校として派遣されていたアルフレート・ガウゼ少将の報告も、ハルダーの確信を強めた。同日のハルダー日記の記載をみよう。
「ロンメル将軍の特性とその病的な功名心が、人間関係に暗い影を投げている。信頼関係が求められているのだが、それは見当たらない。ロンメルの性格的な欠陥が、彼を望ましくない存在としているものの、誰も争おうとはしない。ロンメルの乱暴なやり方ならびに、彼が上層部からの支持を得ているためだ」。「こうした、あきらかに行き詰まった状況を打開し得るのは、指揮系統変更の折に(ロンメル装甲集団の設立) ガウゼの幕僚部の任務替えを行うことだけである」。
 かくて、ガウゼは9月1日に、アフリカ装甲集団参謀長に補せられた。同集団司令部も、彼のスタッフによって構成されることになる。優秀な参謀将校であるガウゼを筆頭補佐役に得たことは、結果的に、ロンメルには大きな助けとなった。
『「砂漠の狐」ロンメル』P182



 この4つの資料がすべて矛盾しないような筋書きを考えることも、不可能ではないような気もするのですが、しかし受ける印象が全然違いますね。


 そしてガウゼは、この頃に同じくロンメルの下の幕僚として派遣されたヴェストファル、フォン・メレンティンらと共に、非常に上手くロンメルを支えることになります。

 さしあたり、ロンメルは部下に恵まれていると考えてよかった。ガウゼによってロンメルに対する評価は目に見えて向上しており、猪突猛進の司令官と控えめな参謀長はうまくいくとよく言われるが、ふたりの関係はまさにその好例だった。軍事の識者というよりも部隊将校であるガウゼは、ドイツ人にしてはおおらかで、これまたドイツ人にしてはユーモアのセンスがあり、猛烈があたりまえの司令部では歓迎された。下級将校では、作戦参謀のジークフリート・ヴェストファル中佐が、その人柄と知性において抜きん出ていた。「厩舎のなかでもとっておきの馬」、のちの上官は彼をそう呼んだ。カール・フォン・メレンティンは戦後、装甲戦に関する著作で有名だが、砂漠では実に見事に装甲集団の情報収集を指揮した。残りの集団も評価カーブのはるか上に位置していた。
 また、彼らはロンメルに心酔するのではなく、皆、ロンメルとは最初距離を置いていたが、数週間のうちに、単なる献身よりもはるかに役立ったであろう良識ある忠誠心を見せたことは意義深い。その後の様子からも、ロンメルの軍事的才能と任務に注ぐエネルギーが大いに尊敬されていたことがうかがえる。それに応えてロンメルも、順調に仕事を進める参謀たちを高く評価していることを隠さなかった。彼らはますます軍というファミリーの役目も果たすようになっていた。ほとんどの時間をスポットライトの当たる中央舞台で過ごす男にとってくつろぎの源となったのだ。
『パットン対ロンメル』P229

 ロンメルの指揮権が装甲集団へと拡張されたのに伴い、その司令部も拡張されていた。この新たな司令部にやってきた完全な新参将校の一人に、ドイツからやってきたアルフレート・ガウゼ少将がいた。ドイツ軍では、戦場における司令部将校をゼロから訓練し、自給自足で育てて、チームとして働き、各自の役割と責任を果たしていけるようにしていた。ガウゼはロンメルの後ろで参謀長として管理業務と補給の責任を任され、ロンメルはイギリス軍に対抗するという重要な任務に集中できるようになった。ガウゼはこの砂漠でロンメルに大いに役に立ち、ロンメルがこの戦域を離れた後でさえ、1943年5月の最後の最後まで、北アフリカに参謀長としてとどまったのであった。
『Operation Crusader 1941』P22

  ロンメルは新しい友達を得た小さな少年のように、ルーシー夫人に絶えず、いかにガウゼが自分の好み会った人物であるか、ということを書き送っていた。ガウゼは東プロイセン出身の工兵の将軍で、優れた能力をもち、冷静かつ果断な参謀将校であった。ロンメルを信頼し、たとえば、シュトライヒが彼に、「あなたはあまり長い間、ロンメルとうまくやっていくことはできないでしょう」といったことまで彼に打ち明けていた。
『狐の足跡』上P176


 シュトライヒら、初期のロンメル麾下の指揮官達は全然ロンメルと上手くいかなかったわけですが、一方で彼らが解任されて別の人達がロンメルの下に来ると、目に見えて関係が良くなって上手くまわるようになったわけです。モントゴメリーも、北アフリカに着任してすぐにそれまで北アフリカで戦ってきた指揮官達を解任して、自分のお気に入りの人達を任命していたりします。

 山崎雅弘氏の『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』や、大木毅氏の『「砂漠の狐」ロンメル』は、シュトライヒとロンメルの衝突をかなり紙幅を割いて強調していると思うのですが、私は個人的に、その後のガウゼらや、フォン・ラーフェンシュタインらとのロンメルの関係が良好であったことにも同じくらい興味がある感じです。




 ただ、ガウゼはその後何度も、北アフリカでの厳しい生活やストレス、負傷などによって職務を離れざるを得なくなっています。

 初めに、ガウゼはロンメルの型破りな指揮スタイルに慣れる必要があった。当時の多くの装甲部隊指揮官と同様、前線から指揮を執ることが多かったロンメルであるが、他の指揮官とは異なり、前線へ赴く際に自分の参謀長を帯同するのを好んだのだ。これにより、ガウゼの仕事はより困難で危険なものとなり、そのリスクに相応しい利益はロンメル、ガウゼ、そしてアフリカ装甲軍にももたらされなかった。また、ロンメルとガウゼがその前線にいなくなって、ジークフリート・ヴェストファル中佐のような非常に下級の将校がしばしば軍司令部の責任者になっていた。このような下級将校は、時折現れるイタリアの上級の将軍を相手にするには、明らかに不利であった。また、ロンメルと一緒に前線に出ることで、参謀は通常よりも死傷する可能性が高かった。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P97

 その忠誠心と有能さから、ガウゼやヴェストファル達はロンメルの心を掴んだ。彼は自分の軍を上手くまわすには参謀将校達が必要であることを理解するようになり、参謀将校達に対する疑念と不信は次第に消えていったのだ。実際、ガウゼと砂漠の狐の間には友情のようなものが芽生えていたが、ロンメルは部下と親密になりすぎないように気をつけていた。彼はまた、参謀長や、しばしば他の参謀将校をも前線に連れて行き続けた。もちろん彼らは犠牲者になるかもしれなかったが、ロンメルは絶対に失う事のできない人はない、誰でも置き換えられうるのだと考えていたらしい。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P98

 ↑「参謀将校達が必要であることを理解するようになり」というくだり、「当然じゃん」と思われるかもですが、ロンメルは元々前線指揮官のあり方を非常に重要視していて、参謀将校をバカにしていただけでなく、第1次世界大戦の敗戦は参謀本部の無能なリーダー達によってもたらされたのだと思っていたのでした。それで、北アフリカ戦初期に参謀総長のハルダーに対しても「大馬鹿」とか言ったりしたわけですが、ガウゼやヴェルトファルの優秀さや、彼らのお陰でアフリカ軍団がうまく回るようになってきたのを見て、それまでの考え方を改めたのです。


 まずは、クルセイダー作戦後の撤退の頃、

 12月の英連邦軍によるガザララインへの攻撃の際には、枢軸軍陣営の中で踏みとどまるべきか、あるいはより良い位置まで後退するべきかに関して異なる意見が出た。ロンメルとナヴァリーニの両名は後退を主張し、ガムバラとガウゼは踏みとどまるべきだと主張した。ここでバスティコはキャスティングボートを握ろうとして、指揮権を行使した。その決断は撤退ということであった。
『Rommel's North Africa Campaign』P126

 軍団長以下すべての指揮官が休養と体力の回復を必要としていた。ガウゼ将軍はローマおよびドイツに向かった。表向きはヒトラーに報告するためということであったが、実際はすっかり神経が参ってしまっていたのである。11月末、多くの者が神経衰弱にかかったことが判明した後、第21戦車師団の幕僚全員が更迭されつつあった。クリュヴェルと同様に、ヴェストファル中佐も黄疸になっていた。「まもなく、私は最初から最後までこちらで戦っている唯一のドイツ軍の将校、ということになるだろう」とロンメルはいった。
 彼はひそかに開始した退却が進捗しはじめた1月2日、クリュヴェルのもとを訪れた。クリュヴェルの率直で少年のような顔は蒼白く、黄色みを帯びて暗い感じを与えていた。彼は黄疸で非常に衰弱しており、ベッドに寝たままであった。
『狐の足跡』上P219,220


 この時ドイツに帰ったガウゼはヒトラーに会った時に、「日本が参戦したと聞いたときには、私たちはほっとしました」と述べていたそうですが、小室直樹氏なんかは「日本がアメリカに宣戦布告しなければ、ドイツは勝っていたのではないか」とか書かれてましたね……。


 その後、ガザラの戦いの時期には……。

 【ガザラの戦いの攻勢作戦について】誰もが彼【ロンメル】と同じように自信に満ちていたわけではない。彼の参謀長のアルフレート・ガウゼは彼にいった。「閣下は自分の名声のすべてを賭けられることになりますよ」しかし、作戦主任参謀のジークフリート・ヴェストファル中佐は、結局彼らとしては攻撃するほかない、これ以上防御の態勢で待つことは、戦車軍全体を危険に陥れることになる、と主張した。
『狐の足跡』上P234,5

 この【死傷という】運命は、【ガザラの戦いの1942年】6月1日、ついにアルフレート・ガウゼを襲った。ゴット・エル・ウァレブの戦い(この戦いでイギリス軍の第150歩兵旅団グループは壊滅した)で、イギリス軍の対戦車砲弾がガウゼに当たりそうになった。爆風で後方に飛ばされたガウゼ将軍は、戦車の側面に当たって落ち、榴散弾の傷に加えて脳震盪を起こした。彼は数週間に及び活動不能となり、一時的にフリッツ・バイエルラインが彼の職務を代行した。

 南方総軍司令官のアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥が、地中海に面したデルナの病院にガウゼを訪ねた。「なあガウゼよ……このままではいけないぞ」とケッセルリングは断言した。「ロンメルは前線を歩き回ってはならないのだ。彼はもはや師団や軍団の司令官ではない。軍司令官として、彼に連絡することが可能でなければならない。君が彼にそれを理解させなければ」。

 ケッセルリンクは、ガウゼだけでなく、同じく負傷してガウゼの隣のベッドにいたヴェストファル大佐からも賛同を得られると考えていたかもしれない。ところがガウゼは答えた。「元帥閣下。上級大将(ロンメル)を抑えることはできません……。彼が、このアフリカで後方から指揮を執ることができるでしょうか? この地での戦争では、すべてが前線で決定されなければならないのです。」 ヴェストファルも参謀長の意見に賛同した。

 「いつか悲惨な結果になるかもしれないぞ。みんな。」と言って、ケッセルリンクは話を終わらせた。

『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P97,98



 ガウゼはドイツに戻って療養に入り、その間にほんの少しだけロンメルからの個人的な手紙を受け取ったそうです。8月にはガウゼは北アフリカに戻ることができました(その頃、戦線はエル・アラメインで膠着していました)が、常に頭痛に悩まされ、傷も完全には治っていなかったため、9月には再び治療のためにドイツに戻らなければなりませんでした。

 11月にはトーチ作戦が開始され、エル・アラメインからも撤退が始まりました。12月7日、ガウゼはローマで、リビア戦線とチュニジア戦線を扱う特別な参謀職の長に任命されます。彼の仕事は、ロンメルと、チュニジアで新たに活動を開始した第5装甲軍の司令官ハンス=ユルゲン・フォン・アルニムに、必要な兵力と物資をすべて提供することでしたが、これは最初から不可能な任務であり、その困難さはいや増すばかりでした。

 一方、チュニジアにはアフリカ軍集団が創設されることになり、ガウゼは1943年3月1日にその参謀長となりました。その司令官となっていたロンメルは3月9日にヨーロッパに呼び戻されましたが、ガウゼはそのまま参謀長職に留まり、期待された通りの働きをします。ロンメルの後任としてアフリカ軍集団司令官となっていたフォン・アルニムはガウゼの働きぶりに尊敬と感謝の念を抱き、この才能ある参謀長が敵の手に落ちることがないように、5月初旬に口実を作って彼をヨーロッパに送り返しました。ガウゼが出発して間もなく連合軍の総攻撃が始まり、フォン・アルニムは降伏して捕虜となります。

 5月17日、ヒトラーはイタリアが崩壊した場合にイタリアを占領するために、ロンメルを司令官とする「ロンメル特別幕僚部」の設置を命じました。ロンメルはその参謀長にガウゼを選びます。この幕僚部は7月19日に「B軍集団司令部」となりましたが、最終的にロンメルはイタリア方面の司令官になることはなく、今度はロンメルとB軍集団司令部全体が、西部戦線に回されることになったのです。ガウゼはロンメルと共に、連合軍の侵攻に備えて準備をすることになります。


 この間、1943年8月23日に、初めてベルリンが空襲を受けます。

 帝国の首都ベルリンがはじめて大規模な空襲を受けたのは【1943年】8月23日であった。そして翌朝、ガウゼは自分の家その他すべてを失ったことを知った。ガウゼ夫人は東プロイセンから帰って来て、自分たちの家が廃墟となり、黒焦げになってくすぶっているのを見たのである。
『狐の足跡』下 P130,1

 空襲の件を知ったロンメルは、急いでルーシー夫人に連絡し、自宅にある大事なものを安全な場所に移すように命じ、その中には日本大使館から贈られた日本刀も含まれていたそうで、「ロンメルが日本刀に惹かれていた側面があったのかぁ!」と私は個人的に「へぇ~」と思った一方、その後、こんなこともあったそうです。

 あるとき、サン・マロ【ブルターニュ半島の北岸】にあるイギリス人のアルフレッド・モンドという実業家の別荘で昼食をとったことがあった。ガウゼがそこで見つけた壺を、いとおしむようにしてロンメルに見せた。それは有名なセーヴル産の磁器であった。するとロンメルが頬を紅潮させていった。「磁器か! マイゼ【将軍。工兵部長】、どうだ、地雷の容器に陶器を使おうか」
『狐の足跡』下 P161


 いやまあ、それよりも家を失ったガウゼ夫妻です。社交的(というかママ友?のボス格的な存在)であったロンメルの妻、ルーシー夫人がガウゼ夫人を自宅に同居させてあげるようになり、それは美しい話なのですが……。

 ロンメルはこれ【1944年4月15日】より一カ月前に、1941年7月以来、彼の目的の多くを共有してきたアルフレート・ガウゼを手離すという困難な決定を下していた。彼はガウゼを大事にし、信頼していた。しかし彼がその休暇をヘルリンゲンにおいて過ごしたときに、客として他家に長く滞在した人たちがよくやるように、ガウゼ夫妻は何ら自分たちが気づいていなかったことが原因で、ルーシー夫人と仲違いしてしまったのである。ガウゼがあるとき、ヘルマン・アルディンガー【ロンメルの副官】が庭造りの仕事にやってくるのが遅いことをとがめたことがあったし、ルーシーはガウゼ夫人と一緒にいるといらいらするようになっていた。結局、ルーシー夫人がロンメルに参謀長をガウゼ以外の人物と替えるように要求し、ロンメルはやむなくこれに従ったのである。3月17日、彼は夫人に書いている - 「すべて、その下のところで一線を画することにしよう……私はそうするつもりだ。おそらく、G【ガウゼ】はほかの地位につくことになるだろう。こんな時に自分の参謀長を替えなければならないと決定することは、もちろん私にとって辛いことだ」 ロンメルはシュムント【ロンメルの友人で、ヒトラーの首席補佐官】に宛てて親展の手紙を書き、戦車師団長の地位があいたときに、ガウゼを師団長にしてやってほしいと頼まなければならなかった。
『狐の足跡』下 P176


 デイヴィッド・アーヴィングは、その結果としてロンメルの参謀長がヒトラー暗殺計画に関与した(とされる)ハンス・シュパイデルとなり、それゆえにロンメルにヒトラー暗殺の嫌疑がかけられ、つまりはルーシー夫人がロンメルの死をもたらすという皮肉な結果となった……というようなことを匂わせています(『狐の足跡』上P52)。



 ガウゼは師団長に任命されることはなく、1944年6月15日、西方装甲集団の参謀長代理に就任します。西方装甲集団司令部は6月10日に連合軍に空襲されて壊滅しており、パリ近郊で再建されることになったのです。再建が完了するとガウゼらは西部戦線に赴きました。西方装甲集団は8月5日には第5装甲軍と改称されています。

 第5装甲軍の司令官が8月9日にハインリヒ・エーベルバッハからヨーゼフ・“ゼップ”・ディートリヒSS上級大将に交代し、ディートリヒが9月14日に「ラインの守り」作戦のために新しい任地に向かうことになったため、ガウゼはそれに同行しました。ところが、ロンメルに忠誠を誓っていたガウゼが反ヒトラーの陰謀の容疑者とされたものか、11月20日にガウゼは解任されます。

 その後、軍団長となるためのコースを履修した後、1945年4月1日に東部戦線の第2軍団の司令官に任命されましたが、同軍団はクールラントポケットに閉じ込められた状態にありました。1945年5月10日にポケット内の部隊は降伏し、ガウゼもソ連軍の捕虜となります。

 1955年に釈放された後、ガウゼは西ドイツのカールスルーエに引退し、歴史家に何かを語ることもほとんどなく、静かに暮らしました。1967年、ボンで死去しました。

『Anzio』(AH)にならったOCSの都市地形ハウスルール案?

 先日、↓という話を知りました。





 そのルール自体を見たいと思って、クロノノーツゲームさんのサイトで公開されている和訳を見たら、ありました。

unit8883.jpg





 OCSではほぼ一律で、小都市は中障害、大都市は重障害という非常に攻撃側にとって厳しい地形になってまして、防御側が一般補給を入れるためのSPを抱えて籠もると攻撃側が手も足も出なくて手こずるという問題がありました。

 一応、↓で何とかなるかもという考え方もありましたが……。

試論:OCS基本ルールへの尼崎会オリジナルハウスルール案4つは不要? (2021/01/29)



 史実を考えると、例えばスターリングラードでは非常に厳しい市街戦が長きに渡って続きましたから、「大都市=重障害」というカテゴライズ自体は必要だと思います。

 しかし一方で、第2次世界大戦において戦場に存在していた小都市や大都市の多く(70%とか30%とか)で市街戦が起こったのかというとそうではなく、ごく一部でしか起こらなかったように思われます(ブダペストとかアーヘンとか)。それどころか、都市があっという間に陥落したという例は枚挙にいとまがない(セダンとか、スモレンスクとか、ブリャンスクとか、ルジェフとか、ラングーンとか)。


 そこらへんから考えると、恐らくですが、

1)防御側は、基本的には都市戦(市街戦)をやりたくないのではないか?
(明確な理由を知らないんですが、「ドクトリンにない」とか「住民が犠牲になる」とか「住民のために必要な補給物資も大量で、割に合わない」とか「(今のOCSではルール上不可能ですが)補給集積所が砲撃や爆撃されると弱い」とか「兵士達が撤退せずに市街戦上等となる確率が低い」とか「地形的に入り口がたくさんあり、実は守りにくい」とか……?)

2)しかし、防御側が何らかの理由によって都市戦(市街戦)を選択することも少数ながらあり、その場合は激しい戦いとなる。
(「何らかの理由」というのは、例えばその都市の政治的重要性であるとか、地形的に後方補給路が確保されていて増援や補給を送り込めるとか、充分な戦力がすでに都市内にあってすべての入り口を封鎖できるとか、予め準備して補給物資を集積してあり弾薬も隠してあるとか、食料が少なくなっても代替品がある程度以上あるとか、機動戦的な時期が過ぎていて作戦的な意味でもこれ以上撤退することが許されないとか、敵の進撃能力がある程度以上落ちているからここでこの都市を保持し続けることに意味があると思われる時とか……?)

 ということではないか……?


 もしかして、史実からすると、市街戦は「敵の攻勢限界点あたりで起こっている」のでしょうか……? しかしながら、OCSのプレイ上では、「最序盤に、初期にこそ豊富にあるSPを大量に抱えて、なるべく戦線前方の鉄道結節点大都市に大兵力で籠もる」のが、敵に対するいやがらせとして最も有効である、とも考えられ……?(^_^; (その方が損だ、という見方ももちろん、依然としてあり得ますけども)

 もちろん、この「籠城問題」は、OCSでもゲームによってそれほど気にならなかったり、気になったりします。例えば『Smolensk:Barbarossa Derailed』や『KOREA』は恐らく割と大丈夫で、『The Blitzkrieg Legend』はヤバい。『Guderian's Blitzkrieg II』もちょっと、何とかなった方がありがたい、と思われます。

 大丈夫なゲームはいいんですが、大丈夫でないゲームがとりあえず何とかなってくれるハウスルール案が欲しい……という思いがありました。



 ある程度有力かな、と思っていた案が、↓というものでした。

 そのゲーム(シナリオ)で、史実で市街戦が起こった回数を調べ、その回数に応じた「市街戦マーカー」がプレイヤーに与えられる。プレイヤーが「市街戦マーカー」を消費したならば、元の地形効果が適用される。そうでなければ軽障害地形と見なす(オープンでも良いか?)。


 調べなきゃならないという問題はありますが……(^_^;


 今回このブログ記事を書いている途中で思いついたんですが、

 各小都市、大都市の地形効果は、移動セグメント毎に1回、1D6して決定する。1~4ではオープンとなる。5~6では元の地形効果。ダイスを振るためには、その都市に敵の攻撃可能ユニットが隣接していることが必要(移動中でも良く、オーバーランも可能)である。すべての条件を満たす都市について毎回ダイスを振る必要はなく、攻撃側が要求した時にダイスを振る。また、この時オープンとなった地形は、砲爆撃においてもオープンとして適用する。

というのはどうでしょうかね?

 個人的にはこれはこれで面白そうなんですが、これ「だけ」だとスターリングラードやブダペストがやばいことになるので、そこらへんは何らかの方法で調整しなければなりませんが。


 後者のハウスルール案ですが、シモニッチのゲームの中には、「一度占領したヘクスの地形効果を使用できるようになるためには1ターン(数ターン?)のタイムラグが生じる」というなルールがあるものがあるそうで?、史実で実際に結構あったと思われる「取ったり取られたり」が再現できていいなぁ、と思ってました。割とそのルールに似てるかもで、そういう意味でもどうだろうか、という気がします。



ロンメルの名声を回復させたもののロンメルを嫌い、SS大将にまでなったフォン・ヘルフについて(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ブレヴィティ作戦の時の戦いで大活躍してロンメルの窮地を救うことになったものの、ロンメルの下で戦うことを嫌い、帰国してSSに入り、SS大将にまで昇進したマクシミリアン・フォン・ヘルフについてです。


Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising - 26549

 ↑1943年5月(?)、2人のユダヤ人レジスタンスを尋問するマクシミリアン・フォン・ヘルフ(日本語版Wikipedia「マキシミリアン・フォン・ヘルフ」から)



 フォン・ヘルフの先祖は1814年に貴族に列せられたそうです。マクシミリアン・フォン・ヘルフは第1次世界大戦で二級と一級の鉄十字章を受勲。戦後も軍に残ります。

 戦間期には騎兵連隊や歩兵連隊に、ポーランド戦やフランス戦では第17軍団に所属していたようです。その後北アフリカで、第15装甲師団隷下の第115狙撃兵連隊長を務めることになりました。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団。

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 マクシミリアン・フォン・ヘルフは北アフリカからベルリン宛に手紙を出していたとのことで、それをネタにして『狐の足跡』にある程度取り上げられています。その人物像については「気性が激しく、こっけいなほど気障(きざ)ではあるが勇敢であった」と書かれています(上P148)。

 第115連隊はまずはロンメルの指示による性急なトブルク攻撃に参加し、大損害を出しました。フォン・ヘルフの手紙にはこう書かれています。

「西方【フランス戦?】において、われわれはすでに1000名以上の将兵を失った。それから、輸送船が撃沈されたため、250名以上の将兵と、私の連隊の連隊砲中隊を失った。また、トブルクだけで、私はすでに450名近い損害をこうむった。第1回のトブルク攻撃のあり方は誰にも理解できない。要塞にこもった敵の兵力と、守備部隊については十分に判っているが、新たに大隊が到着するごとに、そのまま攻撃に使用された。そして当然のことながら、敵の陣地を突破することができなかった。その結果、トブルク戦線にいる部隊で大きな打撃をこうむらない部隊はひとつもなくなった。……われわれ下級将校には何のことだかさっぱり判らないもっと無理な命令が、アフリカ軍団から沢山出された
『狐の足跡』上P149,150



 トブルク戦については↓も参照していただければ。

「冷酷なミン」 レスリー・モースヘッド将軍がトブルクを守備し、ロンメルを撃退し続ける(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/23)



 その後、トブルクは包囲にとどめてエジプト国境あたりで戦線が静止していく中、4月22日前後に、ヘルフはロンメルからある命令を受けます。

 これ【5月22日】より1カ月前ロンメルはヘルフに、敵線のはるか後方に襲撃隊を派遣して、積極的かつ流動的な防御法をとるように命じていた。この大佐は大いに企図心を発揮した。彼は【国境地帯の?】陣地についてから訪れた最初の砂嵐を利用してイギリス軍に攻撃を加え、敵のトラックを奪った。彼は部隊に陣地を構築させ、約6000名の将兵よりなるドイツ軍とイタリア軍の混成部隊に訓練を施した。彼はイタリア軍を大いに称賛していた。数週間後に彼は次のように記録している。「辛抱強く、懸命に努力することによって、彼らを有用で勇敢な将兵に仕立て上げることに成功した。彼らは最後まで敵を阻止し、死を恐れることなく戦った」
『狐の足跡』上P153



 フォン・ヘルフが率いる第115狙撃兵連隊は、1941年4月末にハルファヤ峠を占領し、守備の任務についていました。その半月後の5月15日、英連邦軍はブレヴィティ作戦を開始し、ハルファヤ峠を含むリビア・エジプト国境地帯の陣地帯への攻撃を始めました。


 ブレヴィティ作戦については↓こちら。

OCS『DAK-II』ブレヴィティ作戦シナリオ研究 (2018/01/09)



 フォン・ヘルフは一旦退却したものの……。(以下、『狐の足跡』の記述は時系列が入り組んでしまっているので、時系列順に並べ直します)

 しかし、ヘルフは土地を放棄することになったが、敵の当初の攻撃を受けつつ後退し、次いで夜に入るとともに側方に身をかわして、翌朝、敵の側面に対して不意に攻撃を加える、というまことに適切な決心をしたのであった。ヘルフの話はつづく。「〔5月15日の〕午後になる頃には事態を収拾することができた。私はその晩、ドイツ軍の全部とともに後退し、16日早朝、戦車8輌とともに敵の側面に向かって逆襲した。夕刻までにハルファヤ峠を除いて、これまでに失った地域を全部奪回した」
 このサルームにおける最初の戦いはロンメルにとって危うい戦いであった。そして戦勢が一進一退しつつあった間、彼は2ないし3時間おきにベルリンに向けて報告電報を送り、巧みな表現でベルリンをなだめ、これに懇願し、安心させ、あるいは警告し、あるいは訴え、ヘルフが第8戦車連隊の1個大隊の支援のもとに事態を収拾すると、勝ち誇った報告を打電した。【これまでに】ロンメルがトブルクの攻撃にあたり、非常に多くの損害を出したことをめぐって抗議の手紙がベルリンに寄せられ、彼の指揮官としての能力はすでに疑惑の雲に包まれていたため、彼自身がこの戦闘の間あまりにも神経質であったことは、突然、彼がアフリカにおける任を解かれて本国へ召還されるということになりかねない事態を招いた。【……】
 幸いなことに、ロンメルがサルームに配置していた部隊の指揮官【フォン・ヘルフ】が逆襲を開始し、それがイギリス軍に大きな苦痛を与えたことが立証されたため、彼は威信を失墜せずに済んだ。
『狐の足跡』上P153,4

 5月22日にロンメルがこの戦線を視察したとき、フォン・ヘルフ大佐はイギリス軍に大きな打撃を与えて、これを撃退したばかりであった(「ロンメルが私たちのところを訪れたとき、彼は私たちを支援することができる手段を何ひとつ持っていなかったので、はらはらしながら身を堅くしていた、と私に語った」とヘルフは書いている)。
『狐の足跡』上P153

 イギリス軍は【ブレヴィティ作戦で枢軸軍から奪還した】ハルファヤ峠の守備隊として第22近衛旅団を配置していた。5月26日、大分遅くなってからヘルフは、再び第8戦車連隊の支援のもとに、翌朝この守備隊に対し奇襲攻撃を加える決心をした。「われわれは5月27日の午前4時30分〔黎明とともに〕攻撃を開始した」とヘルフはいった。「そして6時15分には峠はわが軍の手に落ちた。イギリス軍は海岸沿いの平地をシディ・バラーニに向かって退却した。わが軍は沢山の戦利品を得たが、そのおもなものをあげると、砲〔9門〕、戦車〔マチルダ型7輌、うち3輌は使用可能な状態にあった〕および、われわれが非常に必要としていたトラック等であった」
 これは急速に、しかも大幅にロンメルに対する評価を高めることになった。彼は【ロンメルを非難する】ブラウヒッチュからの電報に対し気負った喧嘩腰の返電を寄せた。【……】
 ドイツ本国ではロンメルの名声が高まりつつあった。
『狐の足跡』上P154,5


 これを読んでいると、ブレヴィティ作戦に対して枢軸軍が勝利を収めたのはフォン・ヘルフの功績であり、ロンメルは基本的に何もしていない(何もできることがなかった)のに、それまでの無謀なトブルク攻撃と大損害によって窮地に陥ってたロンメルの名声がそのお陰で急上昇した……というように見えます。

 ただし、『狐の足跡』を書いたデイヴィッド・アーヴィングは、この本でそれまでの称賛されまくるロンメル像を否定して話題になったのですが、その後歴史をねつ造するような人間であることが明らかになり、大木毅氏などはアーヴィングの著作は資料としてまったく使用すべきでないと考える、と書かれております。

 その見方からすると、ここまで引用した部分はまさに「ロンメルを貶める」内容であり、本当はロンメルはブレヴィティ作戦において自分の指揮で勝利を収めたのかもしれないのですが、私はロンメルがブレヴィティ作戦において自分で指揮したというような記述をどこにも見た記憶はない感じであります……。ロンメル神話関係の本3冊も今回、ちょっと見返してみましたが、そもそもブレヴィティ作戦に関する記述がほぼなかったり(→ロンメル神話に関する洋書3冊(の一部)を読んでの感想 (2021/09/21))。

 ただし、例えば大木毅氏の『「砂漠の狐」ロンメル』でも、5月26日のハルファヤ峠奪回に関してはロンメルが指示したかのように書かれています。アーヴィングがあくまでそれをフォン・ヘルフの決心であったかのように書くのとは異なる、と言えるかもしれません。



 Wikipedia等では、フォン・ヘルフは北アフリカで「フォン・ヘルフ戦闘団」を指揮し、1941年6月に騎士鉄十字章を受勲したという風に書かれています。

 また彼は、第15装甲師団長フォン・エーゼベックが負傷した後、13日間同師団の師団長代理を務めました(『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』P170によれば、1941/7/14~7/25の12日間?)。


 フォン・ヘルフはしかし、北アフリカの気候と、ロンメルの指揮の両面について不満を抱いていたらしく、恐らくロンメルに解任されたわけではないのでしょうが、北アフリカを去ることになりました。

 まず気候についてのフォン・ヘルフの手紙から。

「こちらでは胃の調子がよくない者が多い。【夜が?】冷えるからだろう。それは月に一度くらい起きて、その間しばらくは非常に身体が衰弱する。最近、そのような症状が3日つづいたのち、とても気分が悪くて私は一日に3回も意識不明になった……しかし、軍医の診断を受けることなく、それを克服した。いずれにせよ、アフリカで戦っていたわれわれ軍人は、将校も下士官・兵も一様に、アフリカから去ることが嬉しかった。私たちはもう二度とアフリカなどには来たくない、といっていた
『狐の足跡』上P148



 そして、帰国してからの参謀本部からの聞き取りで……。

 フォン・ヘルフ大佐はロンメルの「誤った指揮」と「奇怪な決心」を批判するとともに、戦闘に際してその任務を達成し得なかった将校を、だれ彼なしに軍法会議に付するというロンメルの癖をうけいれ難いとし、「昔はドイツ陸軍ではこんなことはなかった。われわれは皆、それを恐れている」といっている。
『狐の足跡』上P166



 1941年11月、フォン・ヘルフは知り合いから、ハインリヒ・ヒムラーに紹介されます。どうやらヒムラーの提案にフォン・ヘルフが乗る形で、フォン・ヘルフはSSに入り、SS大佐となりました。

 その後フォン・ヘルフは1942年5月から敗戦までの間、親衛隊人事本部の本部長を務めました。親衛隊の12の本部の本部長達の中で、唯一の騎士鉄十字章の叙勲者であったそうです。この期間に、以前は単なるナショナリスト(愛国者)であると公言していたフォン・ヘルフは、狂信的なナチス信者となります。

 日記の中でフォン・ヘルフは、「最終的解決【ユダヤ人に対して組織的にホロコーストを行うナチス・ドイツの計画】」について知ってはいたが、自分はユダヤ人絶滅や強制送還の管理や実際の関与はまったくしていないと書いているそうです。しかし、英語版Wikipedia「Maximilian von Herff」によれば、1943年5月14~15日にかけてのワルシャワ・ゲットー蜂起の時にフォン・ヘルフはワルシャワにおり、ヒムラーの命令でその鎮圧を監督していたといいます。このブログ記事で最初に挙げたフォン・ヘルフの写真は、その時の写真である、と。

 1944年4月にフォン・ヘルフはSS大将へと昇進します。

 1945年5月にフォン・ヘルフは逃亡したもののイギリス軍の捕虜となり、イングランド北部の捕虜収容所に入れられ、1945年9月にその近くの軍病院で、脳卒中で亡くなりました。『The Panzer Legions: A Guide to the German Army Tank Divisions of World War II and Their Commanders』には、「スコットランドの捕虜収容所で死亡していなければ、戦争犯罪人として有罪判決を受けていただろう」と書かれています。


 従兄弟のエーベルハルト・ヘルフは秩序警察としてミンスク・ゲットーでのユダヤ人の大量殺戮を指揮し、戦後ミンスクでの裁判で有罪となり、絞首刑に処されたそうです。


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


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