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OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第6、7ターン

 OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイの第6、第7ターンをプレイしました。

 第6ターン(1942月12月1日ターン)は泥濘だったので全ユニットは移動できず(鉄道輸送と海上輸送だけ可能)、第7ターン(12月5日ターン)はノーフライトでイニシアティブは連合軍が取り、ようやく「連合軍のダブルターン」が実現しました。しかもノーフライトだと枢軸軍が航空爆撃で邪魔もしてこれないですから、もしかして絶好の機会?



 ↓第7ターン終了時の北方戦区

unit9956.jpg

 赤い矢印が連合軍の進撃路で、黒い矢印は枢軸軍の(自主的な)撤退を表しています。

 一番北ではビゼルト港の隣のヘクスに連合軍が強襲上陸。海岸近くの道路でもイギリス軍歩兵部隊がイタリア軍部隊を壊滅させて前進。その南ではアメリカ軍第1機甲師団がオーバーランでこれまたイタリア軍部隊を壊滅させて進みました。

 枢軸軍側は防衛ラインを下げたのですが、前線に突出する形になってしまっていた有力な部隊に燃料を入れる必要上、犠牲部隊を作らざるを得ない状態にも……。

 あと、画像下の方のイタリア軍スペルガ師団(ピンク色のストライプの付いているユニット群)がこれまで単一の司令部/降車可能ヘクスから一般補給を引いていなかったことに気付き、やむを得ず(概算として)マップ上の2Tをこれまでの一般補給分として消費し、急いでまとまることにしました(>_<)




 ↓同、南方戦区

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 大きくはこれまでと変わっていないのですが、赤い矢印の部分で連合軍のフランス軍部隊が前進。後方には歩兵1個師団が到着しつつあり、連合軍はこの方面でも優勢になりつつあります。


 連合軍は複数の進撃路でうまくいきそうな所から突破するやり方である程度戦果を出せていますが、枢軸軍側の増援も馬鹿には出来ないので、史実通りいつかは進撃が止まりそうな気がします。現状は両軍とも、前線での補給事情を優先してSPを優先して前線に送り込んでおり、後方には部隊が溜まっている状態です(^_^;



 あと、今回のソロプレイにあたって、尼崎会で使用することにしている公式オプション/ハウスルールはすべて使用するていでやっていたのですが、少なくとも「21.3 独立ユニット(独立ユニットだけで攻撃するならSPは2倍消費、独立ユニットと複数ユニットフォーメーションが一緒に戦闘する場合は独立ユニットのARは使用できない等)」は外してプレイするのでなければ、そもそも連合軍側は攻勢なんかできない(独立ユニットの高いARに頼らないと攻勢できないので)よな……と思え、途中戦闘が始まった頃から外してプレイすることにしました。

 あと、「21.4 長距離飛行の影響(航続距離の半分以上を使用した場合は空戦力-1、爆撃は左へ1コラムシフト)」も、長躯進撃して攻勢する方にとってえらくしんどいルールで、使用しない方が良さそうだと思ったのですが、このルールに第1ターンから大きな制限をかけられつつプレイしていたので、途中から外すっておかしいかなと思って、どうしたものか……(^_^;


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OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るイギリス軍の軽爆撃機フェアリー・バトル

 映画『ダンケルク』の考証本である『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』からの情報集積をしていっているのですが、同書にはイギリス空軍の各機種についてのいくらかの言及がありまして、そこからいくらか引いていきたいと思います。






 まずはフェアリー・バトルという軽爆撃機について。

Fairey Battle - Royal Air Force in France, 1939-1940. C449

 ↑フェアリー・バトル(Wikipediaから)



unit9957.jpg

 ↑OCS『The Blitzkrieg Legend』のフェアリー・バトル。



 それから、蠱惑的な名前を持つフェアリー・バトル。これは1937年に就役した軽爆撃機だが、1940年には早くも性能が見劣りするようになっていた。スピットファイアやホーカー・ハリケーンと同じく、ロールス・ロイス・マーリン・エンジンを搭載していたが、爆弾と3人の乗員ものせなければならなかったため、ドイツ空軍機相手には鈍重で脆弱だった。第98飛行隊に所属していたフェアリー・バトルのパイロット、ヴィヴィアン・スネルはムーズ川の橋梁を爆撃したが、努力の甲斐なく、ドイツ軍の進撃を食い止めることはできなかった。彼はこの飛行機が好きではなかった。「操縦しづらいし、後方射撃用の303口径機銃が1丁ついているだけだった。カミカゼだよ。私たちの被害は甚大だった」フェアリー・バトルは1940年の暮れには完全に退役していた。
『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』P375,6



 優秀なマーリン・エンジンを積んでいたものの「爆弾と3人の乗員ものせなければならなかったため」って、「当たり前のことを皮肉的に言うニュアンスなのか?」と最初思ったのですが、むしろフェアリー・バトルは爆撃機なのに単発というのが問題なのかと思いました。

 『The Blitzkrieg Legend』以外のOCSゲームにフェアリー・バトルは入っていないのかと思って、時期的にバトル・オブ・ブリテンの時期あたりから始まる『DAK-II』を見てみたのですが入っておらず、そして『DAK-II』に入っているイギリス軍の爆撃機(ブレニム、バルティモア、ボーファイター、ウェリントン、メリーランド、ボストン、B-26、B-25)はすべて双発機でした。

 有名な?マーリン・エンジン(Merlin)ですが、その名前ってもしかして大魔術師や大賢者とかって感じで色々な作品(『七つの大罪』とか『賢者の孫』とか)に出てくるマーリンのことかと今回思って見てみたら、確かにそのようでした。全然分かってなかったんですが、もしかして常識的なことだったのでしょうか?(^_^;

 「フェアリー」というのも「妖精(fairy)」ではなく、「Fairey(フェアリーあるいはフェアリ)」という苗字で、チャールズ・フェアリーという人が作った航空機メーカー「フェアリー・アヴィエーション」の作った「バトル(Battle:これは戦闘の意味だそうで)」という愛称の機種ということのようです。


 フェアリー・バトルについて、日本語版Wikipedia「フェアリー バトル」では以下のように記述されていました。

 イギリス空軍における最初の低翼単葉引き込み脚の軽爆撃機で、イギリス空軍近代化の一翼を担った機体であった。爆弾は分厚い主翼の内翼部分(主脚の収容部の内側)に設けられた爆弾倉に250ポンド(110kg)爆弾を4発搭載、又は翼下のラックに500ポンド(227kg)爆弾を2発搭載した。防御兵装としては右翼と機体後部席に7.7mm機銃を1丁ずつ装備していた。テストの結果が優秀だったため、イギリス空軍は655機の大量発注を行い1937年より部隊配備が行われ、フェアリー社の他オースティン・モーター社でも生産が行われた結果、第二次世界大戦開戦時には1000機を超える機体が前線に投入された。

開戦当初は主にフランスにおける昼間強行偵察の任務に使用され、それなりの成果をあげた。イギリス機でのドイツ機の撃墜は、1939年9月に本機の後部旋回機銃によるものだった。しかし性能的にはすでに旧式化しており、逆にドイツ機でのイギリス機撃墜第1号も本機であり、その後も損害が相次いだため、9月いっぱいで偵察機としての使用は中止された。一方でより高性能の軽爆撃機の開発が終わっていないイギリス空軍では、損害覚悟でその後も本機を爆撃機として使用した。1940年5月、ドイツ軍の電撃戦を食い止めるべく行われたセダン、マーストリヒトへの橋梁爆撃作戦では戦略上多大な効果をあげたが、投入された71機の内半数以上にあたる40機が未帰還機となり、残った機体もかなりの損傷を受ける結果となった。

この後、本機の部隊はイギリス本土に引き上げられ、沿岸攻撃などに使用された後練習機として利用された。また、ブリストル社製ブレニム中爆撃機に機種転換した部隊もあったが、バトルを標的曳航機に転用して訓練に使われた機体も多く、これらの任務では終戦時まで活躍した。




退却するイタリア軍兵士を助けてくれたソ連の現地住民達の話その1

 『On a Knife's Edge』を読んでいまして、退却するイタリア軍兵士を助けてくれたソ連(ロシア)の現地住民達の話が少し出てきました。

 退却中の【イタリア軍】兵士達が通り過ぎていった多くの村はパルチザンの集団によって守備されていたが、他の村は完全に放棄されてしまっていた。まだ住民が住んでいる村では、この戦役中にあったあまりにも多くの無慈悲で残酷な出来事にもかかわらず、素晴らしい思いやりと親切な行為が見られた。Vittorio Trentiniというあるイタリア軍兵士は手袋をなくしてしまい、凍傷になりかけていた。彼が寒さから逃れようとして入った丸太小屋にいた一人のロシア人女性は、彼の変色した手を見ると黙って床に敷いてあった羊の毛皮を取り、その部屋を出ていった。彼女が戻ってきた時、その手にはその兵士のための作りかけの手袋が握られていた。

 彼女は優しくその手袋を私に試させ、微笑むと、サイズをちょうどに合わせてくれました。私は今でもその手袋を大事に持っています。この手袋が私の手を守ってくれたんです……私はこの手袋を見るといつも、私が大好きなお母さんに抱きついていた時のことを思い出します……それから、この手袋を作ってくれた彼女に、限りない感謝の気持ちを抱くのです。

 他にも多くのイタリア軍兵士達の古着に包んだブーツが擦り切れて役に立たなくなってしまって、凍傷になっているのを、地元の農夫達が見て同情し ー 彼ら自身がほとんど何も持っていないのに ー 同じようにしてくれたということがたくさんあったという。1942年後半には、イタリア軍兵士達が親切で、品行方正であることが地元の住民達の間に明らかに広く知れ渡っていたのである。ある中尉が後に書いている。

 この退却の間のことだった。我々はロシアの農夫達の、その質素な丸太小屋や、彼ら自身わずかしか持っていない食べ物をいつでも提供してくれる、本当の暖かい心に触れたのだ。その後だいぶあとになっても、彼らは我々を侵略者としてではなく、お互いに同じ災厄を受けた者同士であるかのように、親切にしてくれたのだった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P243,4



 もう、読んでいるだけでウルウル来るんですが……(T_T)


 この引用部分(イタリックの部分)は注を見るとどちらも『Sacrifice on the Steppe』からの引用で、ちらっとそちらも見てみたのですが、同書はやはりイタリア軍アルピーニ軍団の退却行をメインとした本であるだけに記述量も膨大なようなので、今回は同書を見るのはやめておいて、『On a Knife's Edge』の読後にゆっくり読みたいと思います。

 『Death on the Don』の方も一応、これ系の話が書かれていないかなと思ってぱらぱらと見てみたのですが、ぱっとは見つけられませんでした。

イタリア軍のアルピーニ軍団は「3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した」?(付:OCS『GBII』『Case Blue』)

 以前、東部戦線のイタリア軍のアルピーニ軍団の、小土星作戦(以降)における戦いが「敢闘」と呼べるものだったのか(いやどうもそうではない)ということに関して書いたエントリがありました↓。

GJ69号:近藤さんのOCSスモレンスク記事&イタリア山岳軍団は50日間敢闘したのか? (2018/12/01)


 ただこのエントリを書いた後でも、私は↓の引用の(オストロゴジスク=ロッソシ作戦の時には)「3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した」という部分に関しては、アルピーニ軍団は褒められるべき戦いをしていたのだろう……と思い込んでいました。

 ……1月14日には遂にドン河戦線の左翼でも新たな反攻作戦が始まった【オストロゴジスク=ロッソシ作戦】。
 ドン河を越えて迫り来る赤軍を迎えたイタリア山岳軍は、圧倒的な戦力差の中で3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した。3個山岳師団と残存部隊は零下30度の中で退却戦を続けながら友軍陣地を目指し、26日にはニコライエフカで『トリデンティーナ』山岳師団の一部と独伊両軍残存部隊は敵の包囲網を突破することに成功したが、『ユリア』と『クネーンゼ』山岳師団と『ヴィチェンツァ』歩兵師団はヴァルイキの後方100kmで撃破された。
『イタリア軍入門』P69,70




 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』『Case Blue』による同戦区。

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 セットアップは天王星&火星作戦の時のもので、その時点ではヴィチェンツァ師団(Vicenza。保安師団で、二線級の部隊だった)ははるか後方にいたのですが、オストロゴジスク=ロッソシ作戦時には画像の位置まで来ていたので動かしてあります。あと、ドイツ軍の第24装甲軍団司令部ユニットはハンガリー軍第7軍団司令部とスタックしていたのですが、分かりやすくするためにちょっと移動させました。このエントリの最後の方で、画像の下の方にあるカンテミロフカという村の名前が出てきますが、オストロゴジスク=ロッソシ作戦の時にはこの村はソ連軍に占領されています。


 ところが『On a Knife's Edge』を読んでいると、どうもその印象は間違っていた(ただし『イタリア軍入門』の記述が間違っているわけではない……)ような気がしてきまして、そこらへんのことを書きたいと思います。


 まずは事前の情報として、オストロゴジスク=ロッソシ作戦は北部のハンガリー軍(+ドイツ軍)戦区に対してまず攻勢が開始され、南部のイタリア軍アルピーニ軍団の戦区へのソ連軍の攻撃は数日遅れで始まったということがあります。そして……

 ドイツ軍第26歩兵師団とハンガリー軍第1機甲師団によって試みられた反撃はすぐに停止させられて大反攻を受け、混乱がいや増す中でこのドイツ軍歩兵部隊は退却し、隣接するイタリア軍のアルピーニ軍団の側面が無防備となってしまった。アルピーニ軍団の司令官であったガブリエーレ・ナッシ中将は、ソ連軍の攻勢に関する正確な情報を得ようとして無駄なあがきを続けていた。上級司令部から送られてきた情報は、いくつかの地点で敵が突破したというものでしかなく、しかもその推定規模はまったく過少なものであった。ナッシ率いるアルピーニ軍団は東部戦線に残されていた最後のイタリア軍の大規模部隊であり、ナッシは小土星作戦でやられてしまった他のイタリア軍部隊の二の舞を避けようとあらゆる努力を払っていた。それがうまくいくためには時期を逃さず、正確な情報が得られるということが不可欠であった。だがナッシはこの時、現実とは食い違った報告に頼るしかなかったのだった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P232

 第24装甲軍団司令部の事実上の壊滅により、重大な影響が出始めた。イタリア軍部隊はすでに退却し始めていると信じて、【第24装甲軍団司令官であった】Jahrは麾下の残りの部隊に西への退却を命じた。当初この撤退はB軍集団司令部から禁じられたものの、1月15日夜には許可されてドイツ軍部隊は撤退を始め - そして彼らはイタリア軍はすでに西への撤退を始めていると考えていたので、自分達の退却についてイタリア軍に伝えようという考えに至らなかった。そしてまだ退却を始めていなかったイタリア軍側はそれを皮肉にも、ドイツ軍が自分達の撤退をカバーさせるためにイタリア軍を残そうとしているのだと確信することになってしまった。イタリア第8軍司令官のイータロ・ガリボルディ将軍は実際、撤退の許可をB軍集団のヴァイクス将軍に求めていたのだが、アルピーニ軍団の司令部ではナッシが - ソ連軍の攻勢規模は大したものではないとの情報に基いて - 局地的な反撃を麾下の部隊に命じていたのである。しかしそれはほとんど成功せず、しかも結果的に彼らは第24装甲軍団のドイツ軍部隊との連絡を失ってしまった。1月15日の夜になってナッシはアルピニ軍団が置き去りにされつつあることに気付き、撤退の開始を命令したのであった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P233



 この書き方からすると、アルピーニ軍団は「3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した」という文から受ける肯定的な印象よりは、「上級司令部のソ連軍攻勢に関する過小な見積もりと、側面のドイツ軍が自身の撤退を隣のアルピーニ軍団に伝えなかったことなどの情報の混乱のため、攻勢の矢面に立たされていたわけではなかったアルピーニ軍団はその場に踏みとどまって反撃をもおこなったが、それは大して成功せず、結局ソ連軍の攻勢開始3日目になって、自分達が置き去りにされつつあることに気付いて撤退した」というような、割と色々と否定的な印象を受けました(^_^;

 尤も、『イタリア軍入門』の記述が間違っているとまでは言えないですし、個人的には「少なくとも3日間はアルピーニ軍団は頑張ったらしい」という肯定的な思いがあったので、それがどうもそういうわけでもなかったらしいと知ってだいぶショックではありました(>_<)



 試しに『Death on the Don』の方も確かめてみたら、以下のように書いてありました。

 マジャール人【ハンガリー軍】が攻勢を受けて後退を始めて戦線の連続性が失われていったため、ソ連軍が戦線の隙間に入り込み、包囲された部隊が【ハンガリー】第2軍の撤退に取り残される恐れがでてきた。特に危険だったのがイタリア軍のアルピーニ軍団とヴィツェンツァ師団であり、なぜならば彼らは自分達の以前の補給拠点であった南方のカンテミロフカからの攻撃を受けつつあったからである。【ハンガリー軍の】第7軍団【ハンガリー第2軍のうち、最も南にいた軍団。北から第3、第4、第7軍団がいた】が混乱しつつ退却したため、彼らイタリア軍部隊のの側面ががら空きとなり、孤立してしまう危険が迫りつつあった。
 ところが、アルピーニ軍団の司令官であったガブリエーレ・ナッシは、B軍集団司令官のフォン・ヴァイクス直々の命令で、現在地点から動いてはならないとの厳命を受けていたのである。

 軍集団からの命令なしにドン川の線を離れることは、絶対的に禁止されている。この命令に違反した場合、私はその責任を貴官に求めることになろう。

 アルピーニ軍団はその場にとどまり続け、そして包囲されたのである。
『Death on the Don: The Destruction of Germany's Allies on the Eastern Front, 1941-1944』P203

 ハンガリー軍が大慌てで退却し、隣接する第24軍団のドイツ軍部隊がボロボロになり、ソ連軍が遥か後方にも、あらゆる方角にも進出してからようやく、1月17日の午前11時、【イタリア軍の】第8軍司令部から、現在地より退却し西方への突破を試みることの許可をアルピーニ軍団は受け取った。その命令書の最後にはこう書かれていた。「神のご加護がありますように」
『Death on the Don: The Destruction of Germany's Allies on the Eastern Front, 1941-1944』P206


 こちらには情報の問題は全然書いてなく、ただ「退却してはならない」という命令があったということだけが書かれています。また、『On a Knife's Edge』では15日夜にナッシ将軍(アルピーニ軍団司令官)が撤退を命令したことになっていますが、『Death on the Don』では17日午前11時に第8軍司令部(ガリボルディ将軍)から撤退の許可が来たという書き方になっています(B軍集団から許可が出たのかどうかは、両者とも全然分からないですね)。


 しかし『Death on the Don』においても、アルピーニ軍団のこの3日間(5日間?)に関して肯定的には評価できないような気がします(T_T)  個人的には、オストロゴジスク=ロッソシ作戦の時にアルピーニ軍団が「3日間頑張った(らしい)」という話を心の支えにして生きてきた(おい)ところがあったのですが……。

 まあやはり、色々とある程度詳しい資料を見てみないとダメということでもありましょうかね~。

OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のグロスドイッチュラント連隊による捕虜虐殺事件

 承前。ランス電撃戦中のグロスドイッチュラント連隊による捕虜虐殺事件について。


 「Massacre of the Bois d'Eraine(エレーヌの森の虐殺?)」という事件ですが、場所としてはCressonsacqという所の辺りらしいです。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のマップによるCressonsacqの場所。

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 ただ、場所やユニットは同ゲームの範囲内なのですが、虐殺事件の時期は6月11日ということで、同ゲームは6月4日までが範囲ですから、その後の話ということになります。



 ↓同ゲームのグロスドイッチュラント連隊と、虐殺の対象となったフランス軍第4植民地歩兵師団。

unit9961.jpg unit9960.jpg


 フランス語版Wikipeida「Massacre du bois d'Eraine」というのも存在していますが、英語版Wikipeida「Infantry Regiment Großdeutschland」英語版Wikipedia「List of massacres in France」から簡単にだけ。

 エレーヌの森の近くで捕虜にしていたフランス軍第4植民地歩兵師団のセネガル人兵士達と、その指揮官であった白人、計64名をグロスドイッチュラント連隊の兵士が虐殺した……ということのようです。またその後、リヨン(スイスの南西にあたるフランスの都市)でもより多くのフランス植民地兵(黒人)をグロスドイッチュラントの兵が虐殺したとか……。

 これも国防軍兵士による虐殺事件だということになりますね。


 英語版Wikipeida上の注によると、この件は以前、そのミリタリー洋書の英語が読みやすくて面白いとして挙げていたロバート・フォーチャイクという人の本から引かれたものだそうで(→読みやすい英文のミリタリー書籍やゲームルールやゲーム記事 (2018/10/30) )。




 私は手を出さないでおきますが、「赤の場合」の戦役(ダンケルク後のフランス戦役)について興味のある方は買っても良いのかも……。


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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