fc2ブログ

『Blucher:Scourge of Napoleon』をDeepL翻訳で読了しました

 『Blucher:Scourge of Napoleon』をDeepL翻訳で読了しました。


 2014年に出た、ブリュッヒャーに関する新しめの伝記本で、創作を排し、書簡などを中心にブリュッヒャーに関して分かることをまとめられている印象でした。

 ブリュッヒャーの伝記本としては、1975年出版の『The Hussar General』を以前、(当時はDeepL翻訳とかなかったので)長い時間をかけて苦労して読んで、面白かったのですが、『The Hussar General』は「文学的創造性を自由にしすぎ、事実とフィクションの境界線が曖昧」と、『Blucher:Scourge of Napoleon』に書かれていました。

 『Blucher:Scourge of Napoleon』と読み比べて分かりました。『Blucher:Scourge of Napoleon』は、史実として確か(らしい)ものを重視しており、創作は排されているので、それほど劇的でないです。一方、『The Hussar General』は司馬遼太郎作品とか藤本ひとみ作品のようなもので、台詞などが生き生きと記述されてますが、それは創作であって、史実であると見なすわけにはいかない……


 『The Hussar General』は史料としては使えないということがはっきりと自分の中で納得できたということは良かったと思います。


 『Blucher:Scourge of Napoleon』ですが、その時その時の細かい事を知りたいわけでなく、ざっくりとした(最新の知見の?)ブリュッヒャー評が知りたいのであれば、序文と結語だけ読めば一応OKだったかな、とは思いました(^_^;

 それによれば、ブリュッヒャーは1813年戦役などでは、自分に与えられた役割を果たすために、自分の傾向に反して我慢して、何度も事前に撤退をしていた。1814年戦役では、6日戦役という敗北をしたけども、それはブリュッヒャーがシュヴァルツェンベルクやアレクサンドル1世が「約束を守る人物である」と誤解したことによる面もあり(実際には彼らは約束を守らなかった)、そして1815年戦役ではブリュッヒャーは、ウェリントンは「約束を守る人物である」と考え、自分は約束を守ったのだと。

 その他にも、ブリュッヒャーはミスを色々したことは否定できないともあり、それでも、ナポレオンを撃ち破る上で最も重要な役割を果たした人物と言えるのであろうと思いを深くしました。



スポンサーサイト



VASSALモジュールでスタックの下の地形を見られるようにする方法

 富山のKさんとVASSAL対戦してる時に、BCS『Arracourt』のVASSALモジュールはスタックの上でマウスカーソルを止めた時に下の地形が見えないのだけど、見えるようにして欲しいナァ……という話を聞きました。

 「スタックの下のヘクスの地形が見える」というのは、VASSAL3.7あたりから実装された機能です。



 ↓見えるようにした状態。
unit8319.jpg




 VASSALモジュールをいじったことのない人でも、これができるようにするだけなら難しくないので、解説しておこうと思います。


 まず、いじるつもりのVASSALモジュールのファイル名を確認しておいて下さい。



 VASSALのメニュー上で、「File」→「Edit Module」で左クリックします。

unit8328.jpg





 ファイルを選択するので、目視で探してダブルクリックするか、ファイル名を入れて探して左クリックして選択して「開く」ボタンを押すかします。

unit8327.jpg






 少し待つと、↓のような画面が出てきます。

unit8326.jpg





 ↓「Main Map」と書いてある左側の、「・-」の部分を左クリックします。

unit8325.jpg




 ↓「Main Map」以下のメニューが開くので、その中の[Mouse-ove Stack Viewer]の部分をダブルクリックします。

unit8324.jpg





 ↓のような画面が出てきて、「Include terrain beneath as an additional "piece"」が「Never」になっていると思うので、「▼」ボタンを押します。

unit8323.jpg






 ↓「Always」を選択して左クリックします(「If at least one other piece(最低1コマが存在するならば)」の方がいいかもしれません。以前「If at least one other piece」にしてみたところあまりうまくいかなかったので「Always」と書いてみたのですが、新たに試してみたところ問題ありませんでした(^_^;)

unit8322.jpg





 ↓新たにこのような設定画面が出てきます。150×150というのはどれだけのマップ上の領域を表示するかだと思うので、必要に応じて再設定してもいいと思います。

unit8321.jpg






 設定画面の「OK」ボタンを押し、設定画面を閉じます。




 モジュールのデータをセーブします。↓の「File」の下の保存ボタンを押すと上書き保存されます。別の名前で保存するなら、「File」→「Save as」で。モジュールの名前等も変えておくなら、メニューの一番上(画像のBCS-Arracourt[Module]の部分)をダブルクリックすると、下のような設定画面が出てくるので、ここで名前やバージョンナンバーをいじっておいたりすれば。

 unit8320.jpg


騎兵突撃のタイミングは?:アウエルシュタットでのブリュッヒャーの騎兵突撃は早すぎた?

 『Blucher:Scourge of Napoleon』をDeepL翻訳で読んでいってまして、アウエルシュタットの戦い冒頭でのブリュッヒャーの騎兵突撃は早すぎたのだ、という分析があって興味を持ちました。


 ↓『La Bataille D'Auerstaedt』の冒頭、ブリュッヒャーの位置から見たフランス軍ユニット。

unit8351.jpg


 ブリュッヒャーの能力値が3、6、~、6とあるのは、歩兵戦闘修正3、騎兵戦闘修正6、砲兵射撃修正なし、士気修正6です。





 アウエルシュタットの戦い冒頭、フランス軍歩兵は視界に敵騎兵がいるのを見て、方陣を組みます。そこにブリュッヒャーは騎兵突撃を3度行い、すべて撃退されました。

 ともあれ、ブリュッヒャーは早すぎる攻撃でプロイセン軍騎兵を無駄にしてしまった。軽騎兵のユサールだったブリュッヒャーは、重騎兵の衝撃戦術(shock tactics)を理解していなかったのだ。後に部下となるハンス・ダーヴィト・フォン・ヨルク大佐【いわゆるヨルク将軍はハンスではなくルートヴィヒなので、別人?】は当時のことを、こう語っている: 「ブリュッヒャーはザイトリッツ将軍【七年戦争の有名な騎兵将軍】ではなかった。独立した指揮権を持つユサールの将軍は、無謀な突撃をしがちだった。その突撃に失敗しても、さらに突撃をしようとする。しかし、会戦における騎兵の衝撃力は、正しいタイミングで解き放たれなければならない。そうすれば、その衝撃力の前に、すべてがなぎ払われるのだ。
『Blucher:Scourge of Napoleon』P105



 まず、軽騎兵と重騎兵の役割の違いというのはあります。……と、騎兵にはもっと色々、軽騎兵にも色々ありますが、話がややこしくなるのでざっくり省略しまして(^_^;、軽騎兵のユサール(驃騎兵とも訳される)は、会戦ではない時期(前後)にあらゆる所に散らばっていって偵察したり、同じ役目を持つ敵ユサールとほぼ絶え間なく衝突を繰り返すのが仕事で、「無鉄砲に突入していく」傾向が高かったそうです(『戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編』P117)。

 それに対して重騎兵は、会戦において重要なタイミングで使用され、その衝撃力で勝敗を決するのが仕事。

 ブリュッヒャーは軽騎兵(ユサール)出身であったので、アウエルシュタットの戦いにおいてもいきなり、無鉄砲に、タイミングをはかることなく突撃を繰り返してしまった……ということかと思われます。


 あと、以前『The Hussar General』*を読んだ時に、ブリュッヒャーは双極性障害(いわゆる躁鬱)であったのであろうと個人的に確信していたのですが、『Blucher:Scourge of Napoleon』P70にはっきりと「鬱病(depression)」と書いてあるのを見つけました。

*:1975年に出たブリュッヒャーに関する伝記本ですが、文学的創造性を自由にしすぎ、事実とフィクションの境界線が曖昧らしいです(『Blucher:Scourge of Napoleon』PREFACE XVIII)。



 双極性障害にも色々あるようなのですが、割と多めなのは、普段は躁状態(いわゆるハイな状態)で、しかし極度の鬱状態に陥ることがある、というものです(ブリュッヒャーが1814年に極度の体調不良に陥った時期というのは、それだと思いますし、またブリュッヒャーは一時期、「自分は象を妊娠したに違いない」と思い込んだことがあったそうですが、それもそうではないかと……)。

 躁状態の時には、危険を顧みずに次々に企図したことを実行せずにいられなくなるらしいので、このアウエルシュタットの戦い冒頭の時にも基本的にはそういうことが影響していたのではないかと個人的に推察します。


 双極性障害(であるがゆえ)の偉人達については、↓で一度書いてました。

『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』読了。南北戦争や第二次世界大戦のリーダーに興味のある人にも超オススメです! (2021/03/03)





 それから、重騎兵による騎兵突撃については、以前GameJournalの『ワーテルローの落日』の号で、「突撃戦術時代の騎兵について」という記事を書いてました。ただ、何かを読んで書いたハズなのですが、何を読んで書いたのか思い出せません……(>_<)

 今回関係ありそうなところを一部抜粋しますと、

 ただ騎兵突撃が成功するためは、ある程度の条件が必要であった。それは歩兵が騎兵突撃に対する準備が出来ていない時に突撃をかけるという事であり、具体的には、歩兵が縦隊である時、移動中である時、砲撃やマスケット銃の銃火によって歩兵が混乱している時、あるいは退却が始まろうとする時などであった。他にも地形や硝煙によって歩兵から見えていない場所からいきなり騎兵が出現した場合や、上級指揮官のミスなどで時宜を得た隊形変換が行われず危険なままに放置された歩兵部隊、あるいは隊形変換の途中の歩兵部隊や、騎兵突撃をおこなった直後で疲弊している状態の騎兵部隊に対しては騎兵突撃が大きく成功し得た。あるいはまた勿論、戦いが長く続いて歩兵部隊の疲労が蓄積し損害が増大していくに従って士気の維持が困難になってくると騎兵突撃は成功しやすくなった。

 だが騎兵突撃は成功しない事もよくあった。それはまだ士気阻喪していない歩兵部隊が、騎兵に対抗するための隊形である方陣隊形を取った場合である。方陣という隊形は、真ん中に指揮官が位置し、その周りに四角形の形で兵士達が並び、外側を向く隊形である。そして一列目の兵士は膝を付いて、騎兵が近づいて来るならばそれを下から銃剣で刺し、二列目以降は銃剣をまっすぐ外に向けて銃を発射する。方陣は外から見た場合、あたかもハリネズミの様であり、常に密集隊形を維持する。これが維持できなければその隙間から騎兵に口をこじ開けられ、方陣は崩壊する事になるわけである。

 歩兵達は訓練を受けており、横隊や縦隊から方陣隊形に、指揮官の命令で隊形変換するのであるが、これにはいくばくかの時間がかかる。隊形変換が間に合わずに、まだ閉じていない口から騎兵に突っ込まれて部隊全体が蹂躙されるという事もよくあった。だがいったん方陣隊形が完成すれば、これを騎兵が突き崩す事は困難であった。馬は本能的に堅固な塊状のものや、刃物の様に鋭く突き出たものへ走り込むことを忌避する。そのため騎乗した人間がいくら馬を叱咤しても、馬はそこに突っ込んではいかなかった。その場合やむを得ず、騎兵と方陣はにらみ合い、騎兵は銃や剣でなんとか一部を突き崩そうとしたり(その際、槍騎兵の長い槍は一定の効果が見込めた)、一度退いては飛びかかろうとする様を見せつけて脅すくらいのことしかできなかった。



 先日、『La Bataille D'Auerstaedt』のセットアップをしてみた時に、フランス軍側はいきなり前方に割と兵力の多い敵騎兵集団がいて、「こういう場合いったいどうするの……?」と思ったのでしたが、史実を調べてみると、「騎兵が見えたら、とりあえずは方陣隊形を組む(方陣を組めない散兵は逃げる)」ということであったらしく、「あ、なるほど……」と(^_^;

 逆に、方陣を組まれてしまったならば騎兵側は、突撃してもそれほどうまくいかないので、自重した方がいいと……(ただし、相手が新兵とかだったら突撃の成功率は上がるかもです。アウエルシュタットの戦いのフランス軍は、戦史上最強クラスの部隊だったので、うまくいくわけがなかった……)。




 あと、この「突撃戦術時代の騎兵について」の記事には、編集長から「実際の例を書いてくれ」と言われて、マレンゴの戦いの時のことを書き加えてあったのですが、掲載時にはそこはばっさり削られてました(^_^; せっかくなのと、『Triomphe à Marengo』解読中でもあるので、そこの部分を挙げておこうと思います。

 最も華々しい場合には、完敗の淵にあった会戦が完璧なタイミングでの騎兵突撃によって完全にひっくり返り、大勝利になった例もある。1800年のマレンゴの戦いがそれである。第一執政であったナポレオンの判断ミスにより30,000のオーストリア軍から22,000のフランス軍が攻撃を受け、午後4時には誰の目にも敗北は確実であった。ただ、退却の援護として一部の部隊の攻撃が提案される。騎兵指揮官のケレルマンは朝には1500騎あったものが散り散りになってしまっていた竜騎兵、軽騎兵、猟騎兵などをかき集め、やっとのことで400騎の集団に仕立てた。かき集めた大砲でフランス軍が反撃を開始し、歩兵部隊が前進するもすでに圧倒的な勝利を確信している敵兵の前に隊形は崩れ、オーストリア兵の反撃が始まってしまう。この時であった。ケレルマンは400騎の騎兵を敵部隊の側面の葡萄畑に前進させており、オーストリア兵はその存在にまったく気づいていなかった。ケレルマンは完璧なタイミングで、オーストリア軍の側面への突撃を命じる。サーベルを水平に構えたフランス軍騎兵集団がオーストリア歩兵の真横に、完全な奇襲をおこなった。側面からいきなり攻撃されたオーストリア兵は小銃を撃つこともできず、隊列の中に侵入してくる騎兵を防ぐ術を持たなかった。大上段から斬りつけられ、鋭い刃で突き刺され、周りであっという間に大殺戮が展開される状態になったオーストリア兵達は完全に浮き足立った。恐慌が瞬く間に広がり、集団での降伏が始まる。この時、400騎に足らぬ騎兵は2000名のオーストリア精兵を捕虜にした。その場を何とか逃れたオーストリア兵はむしろ、全軍に恐怖をまき散らす存在となってしまう。それを見て始まったフランス軍歩兵の反撃の前に、オーストリア軍全体はまったくなすすべがなかった。夜の帳が降りる頃には、マレンゴの戦いはフランス軍の完勝となっていたのである。



 『Triomphe à Marengo』は騎兵による側面攻撃の効果が非常に強力だという話を聞いており、それは史実でのケレルマンの騎兵突撃(戦史上、最高クラスの成功した騎兵突撃!)を再現するためでもあろうと思いますが、逆に、「えっ、私の騎兵突撃強すぎ……?」ではないかという危惧も感じており、そうすると「普段、どうやって相手の騎兵突撃を阻止し、そして自分は騎兵突撃ができるようにするか」という騎兵運用がキモなのかな……? と想像しているのですが、どうなんでしょう……。

ブリュッヒャー元帥の能力欠如説の誤解と、他の指揮官になかった得がたい長所?

 『ナポレオン戦争期の指揮官達』(仮)のためにとりあえず、以前買っていた『Blucher:Scourge of Napoleon』を読んでいこうと思ってます。


 この本の序文には、ブリュッヒャー元帥の能力欠如説の誤解と、他の指揮官になかった得がたい長所?に関して記述してありまして、その点を書いてみようと思います(序文は、全文が↑のAmazon上の中身検索で読めます)。


 ブリュッヒャー元帥の「能力欠如説」とは、私自身も以前GameJournal誌の記事でそういう風に書いたりしていましたが(>_<)、例えば、

・挫けることなく「前進せよ」と言ったり、兵士を鼓舞することには巧みだが、軍事的な能力はないに等しい

・軽率、無責任で、彼の性急さによって疲労困憊した兵士達は補給不足になり、かなりの戦闘犠牲者を出した。

・他の同列指揮官(例えば慎重なシュヴァルツェンベルク)の部隊と連携できず、作戦上の危機を何度も作り出しさえした。

 ……というような感じでしょうか?



 ところが、この本の序文によると、

・実際にはブリュッヒャーは、前進するよりも、(作戦上の必要性を理解した上で?)後退した回数の方が多いくらいだった

・麾下部隊の調和、結束への深い貢献があった。ヨルク将軍やランジュロン将軍は何度もブリュッヒャーに反抗したものだったが、ブリュッヒャーはタイムリーな冗談を言ったり、故郷の愛する人について思慮深く尋ねたり、我慢強く人の話を聞いたり、親しみやすい夕食の集まりをしたりと、数多くのメンバーの違いやエゴにもかかわらず、調和を保つ不思議な才能があった。ランジュロン将軍などは最終的にはブリュッヒャーに従うようになったようで?、ブリュッヒャーが麾下部隊の結束に尽くした功績は大きかった。

・ブリュッヒャーの書簡から、彼が戦役や作戦計画について十分に理解し、グナイゼナウ参謀長らとよく議論していたことが分かる。グナイゼナウは確かに非常に優秀であったが、ブリュッヒャーの部隊の功績がグナイゼナウからのみに由来し、ブリュッヒャーはお飾りに過ぎなかったというような見解は、間違いである。グナイゼナウの作戦計画は、最終的にブリュッヒャーの承認なしには実行できなかったし、グナイゼナウは何度も、ブリュッヒャーの絶え間ない前進要求に対して苦言を呈していた。彼ら二人はチームであり、お互いに補い合う存在であった。

・ブリュッヒャーの存在と、その意志がグナイゼナウらにとっても非常に重要であったという大きな例が2つある。1814年のランの戦いの後、ブリュッヒャーが極度の体調不良に陥り、寝たきりで動けなくなった時、グナイゼナウは密かに軍を指揮するよりもむしろ作戦を中止した。1815年のリニーの戦いでブリュッヒャーが行方不明になった時、グナイゼナウ自身は元々後方へ下がるべきだと考えていたが、ブリュッヒャーが言っていた?意志を尊重して、イギリス連合軍と連携できる方向へ退却した。

・ブリュッヒャー(とグナイゼナウ)のあまりに大きな前進速度と、後方連絡線を自ら捨てるような、大胆で、異例で、予想外の動きはナポレオンを当惑させ、苛立たせた。ブリュッヒャーが敵を欺き続けたその姿は、ボナパルト将軍の第1次イタリア遠征のそれに似ている。ナポレオンはしばしば、ブリュッヒャーをジョークのネタにしたものだったが、最終的には、ブリュッヒャーが(かつてナポレオンが敵に対してしたように)予想外の動きをしたがために、敗北したのであった。


 ↑これら、特に最後のものなど、個人的に結構「おおおお……」と思うんですが、最も「なるほど……」と思ったのは、ロシア軍兵士達との関係性の話で、引用してみます(1813年、1814年戦役では、ブリュッヒャーの麾下に多くのロシア軍部隊が派遣されていました)。

 ブリュッヒャーがシュレージエン(シレジア)方面軍のロシア兵と模範的な関係を築いたこともわかっている。ロシア皇帝アレクサンドル1世が、3つの連合国軍に兵力を配分するという寛大な決定を下したことを知らなかったロシア軍将兵たちは、シュレージエン方面軍に配属されたことで軽んじられていると感じた。主君の御前で戦うことを望んでいたロシア軍将校たちは、栄光を得る機会がまったくではないにせよ、激減したと考えた。ロシア軍の将軍が連合軍の方面軍指揮官に一人も選ばれなかったことも同様にロシア人を苛立たせ、アレクサンドル1世が中央ヨーロッパにロシア軍部隊を派遣するという決定に反対する者さえいた。それにもかかわらず、ブリュッヒャーはロシア軍部隊との関係において非常に現実的なアプローチをとった。同時代の人物の一人、フリードリヒ・カール・フォン・ミュフリングは、不和を避けることだけが彼の目標ではなく、「兄弟的な調和を確立する」ことで、ロシア軍兵士達が「喜んでとは言わないまでも、少なくとも嫌がらずに」戦争を遂行できるようにすることが目標だったと書いている。

 ブリュッヒャーは、多くのプロイセン人が共有していた、ロシア人はドイツにいる間はドイツの習慣を取り入れるべきだという意見を否定した。そうではなく、プロイセン軍はロシア軍に合わせるべきだと考えた。ブリュッヒャーは確固とした原則として、プロイセン軍は「偉大な行動によって同盟国の尊敬を獲得し、維持する」べきだと主張した。従って、彼の考えでは、プロイセン軍は最も困難な任務を引き受け、最悪の道を行軍し、あらゆる攻撃の先頭に立つべきである。ヨルク将軍はたまりかねて抗議したが、ミュフリングは、この信念がブリュッヒャーの指揮の「基本的条件」であったと断言している。「ロシア軍の援助なしには、我々を不面目と永遠の隷属へと陥れる巨像【ナポレオン麾下のフランス軍】を粉砕することはできない。しかし、我々自身の力では十分でないところに、援助以上のものを望むのは不当である」。ブリュッヒャーの支持者でもなかったミュフリングも、こう結論付けている。 「ロシアは1812年に自らを解放した。今度は我々の番が来たのだ。ブリュッヒャー将軍は、国家の名誉という非常に高尚な概念を抱いていた。それは、我々が利益を得ることを期待して重労働を他人に転嫁するという、卑劣な考え方とバランスをとるためであった。」

 ロシア軍将校達はブリュッヒャーを愛し、慕うようになった。ブリュッヒャーが最前線で自らを危険に晒して指揮を執り、また自軍兵士達だけでなくロシア軍兵士達に対しても常に父親のような気遣いを見せたことを高く評価したのである。ブリュッヒャーに「前進元帥」というニックネームを与えたのはロシア兵たちであり、ブリュッヒャーがどこに現れても、彼らは万歳三唱で彼を迎えた。コサック兵達は特に彼を崇拝した。ブリュッヒャーはコサック一族の一人として草原で生まれたが、幼い頃に一族からさらわれたのだと主張しさえした。1814年、ブリュッヒャーが彼の司令部に配属されていたコサック分遣隊に別れを告げたとき、彼ら全員が涙を流した。しかしロシア軍将校達は、プロイセン軍将校たちの傲慢さを抑えるために、もっとブリュッヒャーのやり方が広がって欲しかったとさえ思っていたのである。ランジュロン将軍によれば、「この戦争の間中ずっと、プロイセン軍の者達は、公爵も、将軍も、将校も,兵士も、民兵でさえも、七年戦争の頃の自慢話ばかりで、その傲慢さはまったく耐えられなかった。1806年戦役のことなど覚えていないかのようだった。我々ロシア軍の将校達は、主君の命に従って実際にプロイセン軍の指揮下にあるという状況の中で、非常に難しい慎重さと、自制を示すことが必要だった。」
『Blucher:Scourge of Napoleon』PREFACE XIII, XIV


 シュヴァルツェンベルクが指揮していたベーメン(ボヘミア)方面軍の方にはロシア皇帝アレクサンドル1世自身がいましたから、ロシア軍部隊に言うことを聞かせるのもより容易だったでしょう。しかし、ブリュッヒャーのシュレージエン(シレジア)方面軍のロシア軍部隊が不満を持たないようにするには、ブリュッヒャーの考え方、やり方が本当に必須だったのでしょうね。このやり方を、他のプロイセン軍の将軍(クライストとか、ビューローとか、ヨルクとか……)ができただろうかというと……?(まだそれらの人物について私も良く分かってないのですが、悲観的な気はします)

 「助けてもらうなら、助けてもらう側がまず必死にやらなければならない」だろうとかってのは、他の件も絡めて色々思うところがありますが、しかし1813年、1814年戦役におけるプロイセン人達が七年戦争の自慢話ばかりしていたというのは、「えええ~……?」という気もしました(^_^;




『ナポレオン戦争期の指揮官達』(仮)のブラウンシュヴァイク公(父子)のページを作ってみました

 承前。続けて、『ナポレオン戦争期の指揮官達』(仮)のブラウンシュヴァイク公(父子)のページを作ってみました

同人誌?『ナポレオン戦争期の指揮官達』のページを試しに作ってみました (2024/04/11)



 ↓にPDFファイルを置いてみました。

ナポレオン戦争期の指揮官達03b.pdf




unit8361.jpg

unit8360.jpg

unit8359.jpg

unit8358.jpg


 『The Battle of QUATRE BRAS 1815』の表紙は、黒公爵が運ばれるシーンであるようです。








  父親の方のブラウンシュヴァイク公は、今度2度目の再版をされることになったSS『皇帝ナポレオン』にも出てくるのですが、このゲームではプロイセン軍指揮官はこのブラウンシュヴァイク公とブリュッヒャーしか出てこず、ナポレオン戦争期の前半におけるプロイセン軍を代表する指揮官と言えるでしょう(ちなみに、オーストリア軍はカール大公、マック、シュヴァルツェンベルクの3人、ロシア軍はバルクライ、クトゥーゾフ、ヴィトゲンシュタインの3人、フランス軍はナポレオン、スルト、ダヴー、ネイの4人という感じです)。


 ↓コマンドマガジン119号(2014年)で再版された時のブラウンシュヴァイク公のユニット。

unit8362.jpg





 AH『戦争と平和』だとプロイセン軍指揮官は7人出てくるのですが、1815年シナリオにもしブラウンシュヴァイク公ユニットが出てくるなら(手放してしまったので確認できません(>_<))、それは息子の方であることでしょう(しかし規模的には出てくる可能性は低そうな……?)。

13063001





バタイユシリーズの『La Bataille D'Auerstaedt』でのブラウンシュヴァイク公のユニットの表面は、↓のようなものです(BGGの『La Bataille D'Auerstaedt』にある画像から。ただし、シャルンホルストのユニットなどは後付けのもの?で、ゲームには入っていません)。

unit8357.jpg


 裏面の能力値は↓となっていました。

歩兵戦闘:+3
騎兵戦闘:+2
砲兵射撃:+3
士気修正:+5





 『La Bataille de Mont Saint Jean(2nd Ed, Deluxe Version) 』(『La Bataille des Quatre Bras』)で息子の方のブラウンシュヴァイク公のユニットや部隊を見てみると、↓のようでした。

unit8364.jpg

unit8363.jpg


 黒公爵の裏面の能力値は↓となってますので、微妙に父の方が優秀?

歩兵戦闘:+2
騎兵戦闘:+3
砲兵射撃:+1
士気修正:+4



 余談となりますが、ウェリントン公が歩兵戦闘:+4(攻撃)/+8(防御)、士気修正:+8となってますが、ダヴーは歩兵戦闘:+9、士気修正:+12ですから、ウェリントン公より優秀?

 ただし、プロイセン王妃のマリー・ルイーゼは士気修正:+18ですから、ものすごいです(王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は士気修正:+1……)。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマで中国国民党軍が極度に消極的だった理由と、イギリスが中国軍をビルマに入れたくなかった理由

 本屋でたまたま、『インテリジェンスで読む日中戦争』という本を見つけまして、1942年のビルマ戦線における中国、イギリス、アメリカに関しても記述があるようなので買って読んでみてました。

 すると、ビルマ戦線で中国国民党軍が極度に消極的だった理由と、イギリスが中国軍をビルマに入れたくなかった理由が書かれていて、「なるほど……!」となりました。


 中国国民党軍の消極的な姿勢というのは、たとえば↓のようなものでした。

 3月19日、激しい議論ののち、スティルウェルはようやく、トングーの危機に陥っている第200師の救援のために第22師をビルマに移動させるという了解を取りつけた。- 少なくとも取りつけたと考えた。彼はさっそく、中国第5軍の司令官杜聿明に必要な命令を出した。ところが杜も、フランスで教育を受けたインテリだという第22師の師長廖耀湘少将も、怠慢ということにかけては大の達人だった。くる日もくる日も彼らは、何かと口実を見つけては第22師を戦闘に参加させずにすませようとした。鉄道輸送に問題がありすぎる、途中があまりにも危険である、日本軍の戦車隊が多すぎる、廖師長としては増援部隊を待ちたい、日本軍の先遣隊が入り込んでいるので連隊の移動は不可能である、などといった調子である。スティルウェルに話しかけられそうだと見ると、杜は自分の部屋に逃げ込んでしまったり、大声をあげて部下に当たってみせたりするのである。「腰抜けども」と、スティルウェルはあとで杜と廖のことを書いている。「撃ち殺してしまうわけにもいかない。首にするわけにもいかない。……といって話をするだけでは何の効果もない」。

 アレクサンダー将軍も、前線に杜将軍を訪れ、野砲をどこに配置したかと尋ねたとき、スティルウェルが直面している問題をある程度理解した。杜は野砲は引き揚げたと答えたのである。「しかし、それでは役に立たないでしょう」とアレクサンダーは尋ねた。

 「閣下」と杜は答えた。「第5軍はわが国最良の軍隊ですが、それは第5軍だけがともかく野砲をもっているからなのです。ですから、この砲は大切に扱わなければなりません。万一壊してしまったら、第5軍はもはや最強軍ではなくなってしまうのですから」。

『中国=ビルマ=インド』P24




 『インテリジェンスで読む日中戦争』で書かれていた、中国国民党軍がビルマで極度に消極的だった理由は、↓のようなもの。

1.蒋介石は、ビルマ戦線に中国国民党軍の大軍を割いて、しかもそこで大損害を受けでもしたら、日本軍はその機に乗じて中国本土の他の前線を攻撃し、中国本土の戦域が崩壊しかねないと恐れていた(P68)。

2.外国からの軍事支援は乏しいものだった(かつ中国では軍備を生産できない)ので、装備の使用に慎重にならざるを得ない(P70)。

3.日本との戦争後に予想される中国共産党との内戦のことを考えると、装備を持っているということ自体が中共軍に対する優位になるから、外国からの軍事支援による装備を使わずに貯蔵しておきたい(P70)。


 特に↑の3が重要だと思われました。



 『中国=ビルマ=インド』の記述も探してみると、上記3も書かれていましたが、↓もありました。

4.蒋介石は自然要害と、連合軍の努力によって日本軍が弱るのを待つという戦略であり、ビルマで中国国民党軍を戦闘に参加させることに消極的だった(P18)。


 また、蒋介石にとって、ビルマルートによる中国への軍事支援は重要ではあるものの、アメリカはヨーロッパ戦線への支援を極度に重視するという政策で、アジア方面でも太平洋戦域が重視されており、しかも恣意的に中国向きの物資がヨーロッパ向けに振り替えられたりで実際に受け取れているのは微々たる量に過ぎなかったので、「ビルマルートの維持」と「中国国民党軍の維持」を天秤にかけると、後者の方が重要だという判断になった……ということだとも思われました。



 一方で、イギリス側の思惑について。

 イギリス軍のウェーヴェル将軍が「ビルマに中国軍を入れたくない」と思っていて、中国軍が入ってくるのを最初許可しなかった……というような記述は今まで何回か見ていたのですが、理由については全然分からないままスルーしていました(理由書いてあったかもですが(^_^;)。

 『インテリジェンスで読む日中戦争』によると、そもそも「イギリスは、蒋介石政権に対する支援に熱心でない」(P74)と……(アメリカ、というかフランクリン・ルーズベルト大統領は割と熱心だったけども、出先機関などの運用がうまくいかず。イギリスは、現場の人は割と熱心なのだけども、チャーチルなどが蒋介石支援に反対で却下しまくった(P80))。

 それどころか、日本を利するかのようにイギリスは1940年7月から3ヵ月間、ビルマロードを閉鎖してしまい、その間に日本の対中攻撃が激化したそうです(P74)。

 いったいどういうことかというと、こういう風なことらしいです。

 日英開戦後、蒋介石は、香港奪還のために3個軍を派遣するとイギリスに申し出ましたが、拒絶されます。蒋介石がなおも出兵を主張すると、イギリスは「防空援護をしない」と答えました。
 イギリスとしては、香港は自分のものだから自分の力で日本から取り戻したかったのです。中国軍の力を借りれば、あとで、「日本人が大英帝国から奪った植民地を中国人が取り戻した」と蒋介石に言われかねないからです。
 【……】
 【蒋介石にとって】ビルマ・ルートが重要なことに変わりはありません。日英開戦前に英中が軍事協力について協議した際は、中国側が10個軍をいつでもビルマに入れるように準備することで合意していました。
 ところが実際に日英間で戦争が始まると、イギリスはラングーンとビルマ・ロード防衛のために中国軍部隊をビルマに入れることに断固反対しました。表向きは道路状況が悪いから「安全上」インド軍を使う方が良いということでしたが、本音は香港奪還に中国軍を使いたくなかったのと同じ理由でしょう。
『インテリジェンスで読む日中戦争』P78,9


 しかもイギリスは、第二次世界大戦中に中国に対して分裂工作(中華民国内で独立性が強かった地域に独立工作を仕掛けたり、中国共産党を支援したり)を仕掛けていたそうです。つまり、日本が強くなるのも困るけども、中国が強くなるのも困る、なぜなら、ビルマや中国におけるイギリスの利権が大事なわけですから。


 それに比べるとアメリカは当時「ウィーク・ジャパン」という、「日本が弱くなればアジアは平和になってよい」と考える政策を実行していたそうで、中国を支援する方向だった。ただし、中国共産党の力を軽視しまくっており、国民党を十分には支援しきれなかったことによって、中国共産党を太らせてしまい、ここ100年における対中政策を誤ってしまったのだ、と……。


 「国民党を十分には支援しきれなかった」件ですが、スティルウェル将軍が現地で自分の恣意で国民党への軍事支援物資をねじ曲げまくっていたらしく(P54)、また、本来中国=ビルマ=インド戦域には当初別の人物が赴任することになっており、荷造りまでしていたのに、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀長が個人的な理由で、昔からの部下でずっと階級が下のスティルウェルを無理矢理ねじ込んだのだとか。マーシャル将軍は素晴らしいリーダーシップを持った人物だと通常賞賛されていますが、この点については一部から非常に批判されたりしているそうで、そこらへん興味深かったです。


<2024/04/26追記>

 『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』という本を購入して読んでいたところ、また色々と違うことが書いてあったので、そこらへんを追記してみようと思います。

 英国に対しては、帝国主義国家の筆頭、最初に中国の主権を侵害し、不平等条約の先鞭をつけた国として、中国は恐れ、嫌っていた。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P268

 中国は伝統的にビルマに曖昧な所有権を主張し、放棄したことがないので、英国はそのビルマに中国軍が入ってくるのを少しも望まなかった。彼らがいったん国境を越えたら、中国人を大嫌いな地元住民と問題を起こすほかに、居座ってしまう恐れがあった。ウェーヴェルはインド軍部隊の増援を待っており、当然、「大英帝国に属する国は、外国の軍隊ではなく、帝国の軍隊によって防衛される」ことを望んだ。おまけにビルマでは、中国からの大量の流入を養うこともできないし、移動させることもできないと知らされていた。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P270

 【日本軍がビルマへの侵攻を始めると】いらないと一度は断った中国軍が急に頼もしくみえてきた。英国はビルマ第1師団をラングーン防衛に転用するため、同師団が布陣していたビルマ東部国境地帯のシャン諸州の防衛の肩代わりを中国軍に要請した。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P279

 【中国軍が】戦意を失った原因のひとつは、日本軍とはもう十分長く戦ってきた、今度はほかのだれかが戦う番だと中国人が思っていたこと、ひとつは、地方では権力を握るため、中央政府の場合は中共との戦いに備えて、それぞれ兵力を退蔵する傾向があったためである。そして最後に、自信を失っていたからでもあった。「中国人は中国の軍隊が日本軍と戦えるなどと思っていない」とスティルウェルは書いている。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P302



 また、この本によると、イギリスがビルマロードを3ヵ月間ストップさせたのは、日本から外交圧力によるものでやむを得ずであったとありました(ただし、ストップさせたこと自体は中国側の恨みを買った)。

 それからマーシャルがスティルウェルを中国に派遣したのは、そもそもアメリカ陸軍の訓練などにおいてスティルウェルは非常に優秀で、マーシャルからスティルウェルが第一級の人物だと見なされていたことがあり、しかも中国への派遣の問題が持ち上がった時、別の人物を厄介払いするために推薦したところ、却ってスティルウェルを派遣せざるを得なくなった事情があったということでした。この本を読んでいた感じでは、マーシャルがスティルウェルを中国に派遣した時の判断としては、非難されるべきような感じは受けませんでした(その後もずっとスティルウェルをとどまらせたことに関してはどうか分かりませんが)。

<追記ここまで>

同人誌?『ナポレオン戦争期の指揮官達』のページを試しに作ってみました

 コマンドマガジン52『赤い夕陽のナポレオン』をプレイしたりする中で、ナポレオン戦争期の指揮官達について調べたい&まとめておきたい機運が自分の中で盛り上がってきました。

 で、もしかしたら同人誌とかで出版できたらという方向で考えようかとも(最初はプロイセン軍指揮官のみでにしようかと思いましたが、各国全部入れないと駄目だなと考え直しました(^_^;)。


 方針としては……

・肖像画はパブリックドメインとして利用できるWikipedia上にある限りは必ず入れたい。
・オールカラー版が欲しい(白黒版もありとしても……)。boothとか、kindle版とかでならできる?
・細かい事績はWikipediaで見られるし(英語版Wikipediaしかなくても機械翻訳してくれるし)、省略する。
・事績の要約と、人物像(能力と性格)をメインとし、それに興味深いエピソードも書けそうならそれも。
・ごく短くしか書けない人物がいっぱいいてOK。
・日本語版Wikipeiaと英語版WikipediaへのQRコードを付ける
・ナポレオニックウォーゲームをプレイする時の「お供」として有用なものにしたい。

 というような感じで?


 試しに作ってみたものを、↓に置いてみました(以前調べていたブログ記事を短くした感じです)。

ナポレオン戦争期の指揮官達02.pdf




 まあ、途中で企画倒れになる可能性もありますが……。でもやってみようかと思う理由として、↓のようなものも。

1.今作ろうとしてみている自作ゲームはうまく作れるかどうか分からない(水物だ)けども、歴史記事まとめのようなものは努力すれば完成には至るだろうし、最悪無料配布でもいい(OCS『Crimea』のデザイナーズノートに、デヴィッド・グランツ氏から「ウォーゲーマーはもっと歴史の本を書くべきだと思っている」と言われた、という話もありましたし(^_^;)。

2.かつてのウォーゲーム雑誌のナポレオン時代の指揮官紹介を読んでいると、ここ10年くらいで私が調べたりした各指揮官の人物像に比べて、見方が古い/浅い/偏っているような気がすることがあるのだけど、それらをただブログとかで批判するのではなく、本だとかの建設的な形で提示するのでなければならないだろう

3.北アフリカ戦の枢軸軍・連合軍の指揮官人物伝も将来的に同人誌か何かにできればという気持ちがあるのだけど、資料にアーヴィングとかパウル・カレルとかの批判されるものも使っている(使わざるを得ない)ので、やましい。でもその前にナポレオン戦争期の指揮官人物伝を出しておけば、ちょっと許される度合いが高まるような気がするバキッ!!☆/(x_x)


 とかとか……。ちょっとやりたいこと、やろうとすることを増やしすぎの感もあるのですが(T_T)


 で、関係資料本も結構注文してみました(そしたら、すでにkindle版で持っているものの書籍版を注文してしまったことも明らかに(>_<))。

「People of Napoleonic Period」というウェブページの、ナポレオン戦争時代の指揮官達の人物の要約を和訳してみました

 「People of Napoleonic Period」というウェブページを見つけまして、ナポレオン戦争時代の指揮官達の参加した戦争や会戦、それに人物像の要約などをまとめたもののようでした。

 トップページを見てみると、ナポレオニックのコンピューターゲームを昔作ったり、あるいは今作ったりしている方のもののようです。


 私は人物像の要約に心引かれ、いくらか試しにDeepL翻訳で見てみたところ、結構いい感じのように思ったので、要約だけをDeepL翻訳にかけ、最低限修正して、まとめておこうと思います(よく分からないところも多数ありますが、今後また修正していくということで)。




フランス軍の指揮官

ナポレオン
 傑出した軍人であり政治家であったナポレオンは、歴史上最も偉大な軍事指揮官の五本の指に必ず入るであろう。彼は大胆で、機会を掴み、完全な粉砕勝利を求めた。彼はその時代にその名を残した。

オージュロー
 粗暴な男であり、また立身出世の途中は欲得ずくの人物であったが、非常にプロフェッショナルな兵士であり、また闘士であった。ナポレオンの第1次イタリア遠征における彼の役割が、おそらく、彼の歴史的地位をもたらした。アイラウでは、彼は自分の軍団とともに非常に手荒く扱われ【確か、体調をひどく崩していたにもかかわらず前線に立つことを要請され、大きな損害を被った?】、その後も同じようにはいかなかったように思われる。

ベルナドット
 スウェーデン国王として死去。1813年のナポレオンの敗北に大きく貢献した彼は、それ以来、多くのフランス人から裏切り者とみなされてきた。非常に政治的な人物であった彼は、1797年にイタリアで出会った当初からナポレオンから疑わしく思われていたようだ。1806年と1809年に報告された彼の行動についての評価は、ナポレオン側からの偏見を念頭に置くべきである【ベルナドットは恐らく悪くなかったにもかかわらず、ナポレオンによってスケープゴートにされたことを指す】。実際、ベルナドットの指揮官としての勇敢さは疑う余地のないものであったし、目立つ存在であった。用心深いとはいえ、将軍としてはかなり有能であったようだ。

ベルトラン
 ベルトランはナポレオンに忠実だった。与えられた仕事はどんなものであれ、確かな能力でこなした。ただ、大きな閃きを見せたわけでも、それ以上のビジョンを示したわけでもないようだが。

ベルティエ
 ベルティエは非常に有能な参謀将校で、フランス王国軍で15年以上の経験を積んでいた。多くの王国将校とは異なり、彼はフランスに留まった。1792年には北方軍の参謀長を務めたが、停職処分を受けた。1795年に復職し、イタリア方面軍の参謀長となった。1796年にナポレオンがその司令官に任命されると、ナポレオンとの長いパートナーシップが始まった。ベルティエの参謀長としての仕事はナポレオンの成功の重要な要因であり、1815年に彼が不在となった時は惜しまれた。彼は、重要性においても人格においても、単なる事務官以上の存在であった。ベルティエのように、歩兵の隊列を率いてオーストリア軍の砲火をくぐり抜け、ロディの橋を渡った「事務官」は想像しにくい。

ベシェール
 ナポレオンの良き忠実な友人だった。彼は皆から非常に好かれていた。元帥になった当時【1804年】、彼はまだ独立した指揮はおろか、大部隊の指揮も執ったことがなかった。このことは、他の元帥達にはまったく納得できないことだったようだ。それでも彼は、戦場では勇敢で有能な騎兵指揮官であり、独立した指揮官としても力量の高い将軍であることを証明した。一方で、彼は悲観的で用心深すぎたという見方もある。彼はメディナ・デ・リオ・セコの大勝利の時ほど積極的に追撃しなかったようだ。彼の遅参が、フエントス・デ・オノロの戦いの敗北に繋がった可能性もある。彼が1812年にナポレオンに進言したことは、ロシア戦役の敗北に繋がったとされている。

ブリュンヌ
 熱烈な共和主義者であり、軍事政治家でもあった。ブリュンヌの経歴の大部分は軍政に費やされた。彼は苛烈であるという評判があった。1798年にイタリアで部下だったスーシェは、ブリュンヌを「最も恥知らずな略奪者」と評した。ナポレオンは彼を高官にふさわしくないと考えていたようだ。しかし、指揮官としては勇敢で、1799年に英露軍の上陸からオランダを防衛したことは高く評価された。駐トルコ大使だった1804年に帝国元帥に昇進したのは、政治的な意図があったのかもしれない。ナポレオンと共和主義が対立していたためである。

ダヴー
 ダヴーはナポレオン麾下の最高の将軍の候補に挙げられる。最後には、独立した指揮を安心して任せられる数少ない人物の一人となった。彼はナポレオンに完全に忠実で、優れた行政官であったため、1815年の「百日戦役」では陸軍大臣のような非軍事的な役割にも就いた。彼の軍団は常によく規律が保たれ、訓練され、補給されていた。彼の最高の栄光はアウエルシュタットの戦いであり、ナポレオンがイエナでより小さな部隊と戦っている間に、彼の第3軍団がプロイセン軍の大部隊に勝利したのである。

グーヴィオン・サン=シール
 後にブルボン軍を再建することになるサン・シールは、冷淡だが非常に優れた将軍だったようだ。彼は、今ではすっかり忘れ去られたような二次的な戦場で何度も勝利を収めた。彼はまた、上官や同僚と喧嘩を繰り返した。

グルーシィ
 王国軍に所属していた優秀な重騎兵指揮官で、元は貴族の一員だった。このことが革命期のフランスでの彼のキャリアを後押しすることはなかったが、それにもかかわらず彼は良い働きをした。ナポレオンのワーテルローでの敗北の責任を取らされたことで、グルーシィの評判は落ちている【実際にはグルーシィが悪かったのではなく、ナポレオンの指揮の方に問題があったのだ、というのが最近の見方です】。

ジュールダン
 王国軍の元二等兵で、誠実な、そして優秀な将軍であったジュールダンは、革命期のフランスでの最高指揮官であったが、ナポレオン時代をも生き抜いた。帝国の元帥となったが、スペインでは軽侮と反抗に遭い、ウェリントンの手によって2度も屈辱的な敗北を喫した。

ケレルマン
 ケレルマンとして知られる将軍の親の方。基本的に彼は有名な革命期の将軍であり、政治的な理由からナポレオンの新帝国で栄誉を受けた。

ランヌ
 当時の基準からしても信じられないほど勇猛で、アルコラで3度負傷した。ランヌは人望も厚く、聡明でもあった。彼の死は、ナポレオンが戦場における最高の将軍と、そして最高の親友を失うことを意味した。

ルフェーブル
 古き良き軍人の典型であるルフェーヴルは、堅実な部隊指導者であったが、独立した指揮官として指揮を執っている間は、勝ったり負けたりであった。

マクドナルド
 彼は自分を荒っぽい実直な兵士だと言っていたが、必ずしもそうでもない。マクドナルドは軍団指揮官としては優秀だったが、独立して部隊を指揮する場合には融通が利かない傾向があった。

マルモン
 指揮官として勇敢で、元々ナポレオンの友人でもあったマルモンは、有能な軍人であり、優秀な行政官でもあった。ダルマチア総督としての任期中、彼はこの地域をフランスのために確保し、重要な民政改良を行った。その功績にもかかわらず、彼は1814年のサラマンカでの敗北と、軍団の裏切り降伏【ナポレオン不在の中、パリで降伏した】で記憶されがちである。

マッセナ
 フランス軍の最高の将軍の一人である。1796年と1797年のナポレオン率いるイタリア方面軍の成功に大きく貢献した。特に1799年のスイス防衛では、独立した指揮官として活躍した。その略奪と、女好きだったことで有名である。1810年にウェリントンと対戦した時には疲労困憊しており、またすでに全盛期を過ぎていた。

モンセイ
 モンセイは誠実で人間味のある人物であり、優れた軍人でもあった。彼は偉大な将軍ではなかったようだ。しかし、西ピレネー軍を指揮した際には、かなり幸運で有能であったようである。彼はナポレオンの側近ではなく、主に政治的な理由で元帥にされたと思われる。

モルティエ
 優秀な軍人であり、有能な管理者でもあった。モルティエは、独立した指揮ではほとんど能力を発揮できなかったが、命令を与えられた場合にはよく働いた。彼は病気でワーテルローの戦いに参加できず、その後はブルボン家のために忠誠を尽くした。

ミュラ
 戦場での騎兵部隊の優れた指揮官であったミュラは、ナポレオンの義弟【妹の夫】であり、重要な藩屏【ナポリ王】でもあった。この後者の役割については、彼の派手さと、彼の企図が最終的に失敗に終わった【ナポレオンを見捨てて自分の王国だけ守ろうとした】ことから、彼は大いに信用できない人物と見られている。彼は戦場での指揮官としての有能さに比べて、軍事行政官としての能力は低く、このことがロシアでフランス騎兵部隊に大きな損害を与えた【ロシア遠征中に、騎馬を早々に大量に死なせてしまったことを指す】。

ネイ
 卓越した戦術的スキルと無尽蔵のエネルギーを持ち合わせたネイは、「勇者の中の勇者」として記憶されている。戦場での指揮官として、彼はしばしば不可能を可能にし、ポルトガルやモスクワからの撤退戦では後衛を得意とした。1815年のワーテルロー戦役での無能さや、1813年のバウツェンとデンネヴィッツの戦いでの独立軍の指揮官としての不運から、彼の一般的な評価、特に知性に対する評価は低下している。このようなやや不当な歴史的評価は、彼の元参謀長ジョミニの著作によるところもあるだろう。

ウーディノ
 ナポレオンの元帥の中で "最も負傷した "ウーディノは、優れた師団長であり、兵士達の訓練においても優秀であった。また、参謀長としても有能であったようだ。独立した指揮を執った場合には、敗北が多かった。

ペリニョン
 東ピレネー方面軍の軍人、司令官として活躍したペリニョンだが、軍事的というよりは政治的、外交的な側面が強かったようだ。彼が元帥に任命されたのは、確かに政治的な名誉職としてであった。

ポニアトフスキー
 ポーランド貴族出身の政治家であり、愛国者であった彼は、指揮官として勇敢で、優れた軍団司令官であった。ポーランド軍の増強と訓練に尽力した。ナポレオンが彼を元帥に任命したのは、軍事的な意味よりも政治的な意味合いが強かった。

セリュリエ
 オージュロー、マッセナとともに、ナポレオンが出世するきっかけとなった1796-7年のイタリア攻略作戦を可能にした3人の師団長の一人である。セリュリエは、1789年にすでに34年の軍歴を持つ人物らしく、昔ながらの信頼できる誠実な軍人として知られていた。彼が元帥に任命されたのは、過去の功労に対する報奨であった。

スールト
 スールトはナポレオンの優れた将軍の一人で、優れた戦略家であり、戦いのプランナーでもあった。彼の前線でのリーダーシップも、発揮されたときには傑出していた。しかし、独立した指揮を執るときには決断力に欠けていたようだ。特に、人を鼓舞するような指揮官でもなければ、政治に長けていたわけでもない。略奪者として悪名高い。ワーテルロー作戦では、ナポレオンの参謀長となったが不首尾に終わった。

スーシェ
 戦術家、組織者、管理者としての才能に恵まれたスーシェは、独立した指揮官として活躍した。彼はナポレオン麾下の最高の将軍の一人であり、スペインで名声を高めた唯一の将軍であった。

ヴァンダム
 悪人だが軍人としては優秀だった。不正利得や略奪行為で何度も罷免された。ドイツでは特に嫌われていた。革命戦争とナポレオン戦争の全期間、戦闘の真っ只中に身を置いた。独立した指揮を執っても有能だったようだ。クルムで軍団を大敗北に導いたのは、少なくとも一部には彼の責任もあるが、責任の大部分は前段のナポレオンにあり、ナポレオンは注意散漫で追撃軍団の調整を怠った。ヴァンダムは捕虜となり、ナポレオンは事後報告書を書いた。関連の書類は不可解なことに消えてしまったようだ。ナポレオンを尊敬していたヴァンダムは黙っていた。

ヴィクトール
 ヴィクトールは有能な将軍だったが、ナポレオンの麾下では平均的な能力だった。彼は優れた組織家であり、戦術家でもあった。

ウジェーヌ【ジョセフィーヌの息子】
 ウジェーヌは人間として誠実で忠実であり、将軍として有能であり、独立した指揮を執っても有能であった。ナポレオンの義理の息子として、自己顕示欲に溺れる必要はほとんどなかった。歴史家が史料を再検討する中で、彼の軍事的評価が向上し始めたのはごく最近のことである。彼個人の人格的、政治的な評判は常に良かった。

ルクレール
 優秀な将校であったルクレールは、1797年にポーリーヌ・ボナパルトと結婚したナポレオンの義弟でもあった。1790年代半ば、彼はかなりの時間を幕僚として過ごした。当初はサント・ドミンゴへの遠征で現在のハイチの黒人の反乱を鎮めることに成功したが、フランスでの政治的決定によって彼の地位は損なわれた。1802年11月に黄熱病で死去した。

モロー
 元々、モローの軍事的名声はナポレオンに匹敵していた。特に1800年のホーエンリンデンでのオーストリア軍に対する勝利は、イタリアでのナポレオンの努力に影を落とす恐れがあった。ナポレオンがマレンゴの戦いの報告に「誇張」を加えたのは、恐らくそのためであろう。モローは1804年から1813年までアメリカに亡命した。1813年、彼はドレスデンでフランス軍の大砲の弾を受けて死んだ。モローは当時、連合国側でアレクサンドル皇帝の軍事顧問を務めていた。彼の政治的才能と軍事的才能は一致しなかったというのが、総意のようだ。

オッシュ
 フランス革命期の最も傑出した将軍の一人である。オッシュが1797年に胸部疾患で亡くなっていなければ、彼はナポレオンの重大な潜在的ライバルになっていただろう。

デュムーリエ
 デュムーリエはフランス革命軍の傑出した将軍であった。彼は北方軍の大部隊を率いてヴァルミーでケレルマンの中央軍を援軍した。多くの資料では、彼はこの戦いのフランス軍副司令官であり、ヴァルミーでのフランス軍の勝利の一部または大部分を担ったとされている。彼はヴァルミーの後、オーストリア領オランダへの侵攻に成功し、ジュマップでオーストリア軍を破った。その翌年、ネールヴィンデンでの敗北の後、彼は命の危険を感じて連合国側に亡命した。




オーストリア軍の指揮官


カール大公
 ナポレオンに対抗できた数少ない将軍の一人である。

ボーリュー(Beaulieu)
 ナポレオンの最初の作戦の犠牲となる不運に見舞われた。ナポレオンの難局を和らげるミスを犯したが、おそらくチャンスはなかった。

シャステル?(Chasteler)
 高い教育を受けた工兵のスペシャリストで、当初は土木作業で頭角を現した。彼の現場での実績は立派なものであった。

F. コロレード(Colloredo)
 カール大公の提案を含むあらゆる改革に反対する保守派であった。アウステルリッツの後、引退した。

H. コロレード(Colloredo)
 その勇敢さは有名で、有能でもあったようだ。1813年、クルムの戦いでヴァンダム元帥率いるフランス軍を撃ち破るのに大きく貢献した。

A. Giulay
 1809年に初めて指揮を執った勇敢な軍人で、最初の成功の後、不運にも敗走を指揮した。

I. ギュライ(Giulay)
 堅実な軍団指揮官であった。

シュヴァルツェンベルク
 ナポレオンは彼を有能だと考えていた。これは政治的なものだったかもしれないが、遅かった【1812年戦役でシュヴァルツェンベルクを部下としたが、その後敵対者として有能だったことを指す?】。

マック
 ナポリ出身の彼を知っているネルソンは、この人物を認めておらず、戦場で指揮を執った彼は確かに最悪の結果を残した。

メルフェルト(Merveldt)
 優れた司令官であり、戦場指揮官だった。メルフェルトはまた、優れた外交手腕を持っていたようである。

ヨハン大公
 出自のために、実際の軍事経験もあまりないまま指揮官に抜擢されたことを考えれば、懸念されたほど無能ではなかった。1800年のホーエンリンデンでの敗北や1809年のイタリアでの敗北と同様、彼が命令通りにヴァグラムの戦場に姿を現すことができなかったのは不運だった。

Archduke Louis
カール大公の弟で、1809年のバイエルン侵攻の際、バイエルン第5軍団を短期間指揮した。目立った活躍はなかった。

ホーエンツォレルン(Hohenzollern)
 アグレッシブで優秀な将校であり、独立した指揮官として有能だった。元帥位を辞退した。

ヒラー(Hiller)
 有能な将校で、もともとは平民であり、部下には好かれていたが、将校仲間には好かれていなかった。カール大公とは仲が悪かった。1809年初頭のバイエルン撤退戦では自らを高く評価した。

Bellegarde
 有能な指揮官。

Rosenburg
 かなり厳格でまじめな性格とされ、有能でプロフェッショナルであったようだが、1809年、最初はエックミュールで、次にヴァグラムで左翼を任され、打撃を受けることを避けられなかった。これは、彼が対峙したマッセナ、ランヌ、ダヴーといった敵指揮官の質の高さを反映しているのかもしれない。

Kienmaier
 堅実な軍人として知られる。オーストリア軍の参謀長として、連合軍のアウステルリッツ戦役の計画に関与した。

Klenau
 エネルギッシュで経験豊富な将校で、オーストリア軍のいくつかの勝利に貢献した。

Kollowrat
 有能ではあったが、傑出した指揮官ではなかったようだ。

Kray
 「勝利の親愛なる息子」Krayは、1800年にドイツで軍司令官として敗戦を重ねるまで、長く華々しいキャリアを積んでいた。


A. Lichtenstein
有能な中堅将校だったようだ。

J. Lichtenstein
非常に有能な騎兵隊長だった。常に自分の役割以上の働きをした。

M. Lichtenstein
軍人一家のもう一人である。

Reuss
勇敢で有能な軍人で、旅団や師団の指揮官として活躍した。

Weyrother
優秀な戦役将校であったことは明らかだが、ホーエンリンデン戦役とアウステルリッツ戦役の結果を見ると、彼はフランス軍の軍団システムの統合された軍隊によって可能となったタイプの戦争に適応するのに苦労したのかもしれない。

Saxe-Coburg
トルコ軍とフランス革命軍の両方に対して優れた将軍であったザクセン=コーブルクは、連戦連勝にもかかわらず、オーストリア領オランダ(ベルギー)を、はるかに数の多いフランス軍に対して保持することができなかった。健康を害し、1794年に辞任した。




ロシア軍の指揮官

バルクライ・ド・トーリー
勇敢で有能、経験豊富な軍人で、1812年から1814年にかけての長期作戦でナポレオンの敗北に大きく貢献した。最初はロシア、次にドイツ、そして最後はフランスで活躍した。

クトゥーゾフ
まさにロシアの国民的英雄である。

バグラチオン
勇敢で有能な軍人であり、スヴォーロフとクトゥーゾフの両者に感銘を与えた。

ベニグセン
パーヴェル1世の暗殺に加担し、フリートラントでロシア軍を指揮して大敗するなど、落ち度がないとは言い難い。それにもかかわらず、ベニグセンはアイラウ、ボロディノ、ライプツィヒなど、何度もナポレオンを苦しめた。しばしば正当に評価されない大物である。

Rostopchin
ナポレオンがモスクワに人がいないのを発見し、彼と彼の軍隊の周囲が焼け野原になったのは決定的な失敗だった。その責任はロストプチンにある。

Toll
有能な幕僚だった。意志が強く活発な性格で、アレクサンドル皇帝を動かすこともできた。1812年、1813年、1814年の作戦における彼の影響力は、正式な階級と地位を持つ将校に期待される以上のものであった。1813年に連合軍が採用したトラッヘンブルクプラン【ライヘンバッハプラン】で勝利を収めたのは、少なくとも彼の功績の一部である。

コンスタンティン【アレクサンドル1世の弟】
勇敢だが、特に能力が高いわけではない。彼は出自のゆえに、常に最高指揮官であった。フランスとの和平を好んだ。

Ostermann-Tolstoy
非常に勇敢で、有能な師団・軍団司令官だった。

チチャゴフ(Chichagov)
ナポレオンはベレジナで彼を欺き、全軍を率いて捕虜となるのを免れた。もちろん、ナポレオンに出し抜かれたことは恥ではない。

トルマゾフ(Tormassov)
有能な上級指揮官だが、1812年以降は健康問題を抱えていた。

ミロラドヴィチ(Miloradovich)
ミロラドヴィチはセルビア出身の後衛軍団司令官で、後方警戒行動を専門としていたようだ。彼はそれにかなり熟練していた。

ヴィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタインが最も活躍したのは1812年のことで、首都サンクトペテルブルクでフランス軍との間に立ち、その後ベレジナで罠の片顎を形成した。

N. Tuchkov
ボロジノで戦死した若き連隊長A.A.トゥチコフや、その弟と混同してはならない。

A. Wurttemberg
人脈も広く、優れた行政官であり、有能な指揮官であることは間違いない。

E. Wurttemberg
1806年の大敗の後、ロシア軍に入ったドイツ軍人。1812年から1813年、1814年にかけて、ロシア軍で最も優秀な軍団指揮官の一人であった。

ゴルチャコフ(Gortschakow)
ボロディノでの英雄的な振る舞いが、彼の軍人としてのキャリアの絶頂期だったようだ。ボロディノで負った傷が回復した後、軍団の指揮を任されたが、彼は傑出した存在というよりは、辛うじてその任にたえる程度であったようだ。彼は独立した任務を任されることはなかった。アレクセイ・イヴァノヴィチ・ゴルチャコフ陸軍大臣の弟である。

Rajewski
1812年にボロディノで活躍したもう一人の英雄であり、その後の数年間良い働きをしたが、輝かしい功績は残していない。

ランジュロン(Langeron)
1789年にロシア軍に入った亡命フランス貴族。スウェーデン戦争とトルコ戦争、そしてオーストリア領ネーデルラントでのフランス革命軍との戦いで活躍した。戦術的には優れていたが、不機嫌なことが多い将校であり、アウステルリッツの後、1813年と1814年の戦役を通じて良い仕事をした。

St.Priest
ロシアに仕えたフランスからの亡命者であったサン・プリーストは、非常に攻撃的な師団長であったが、1814年にランスで起こった戦いで戦死した。

Yermolov
1812年、1813年、1814年を通じて参謀や師団指揮官として活躍したアグレッシブな若いロシア人将校である。優秀だったが、本人が思っていたほどではなかったかもしれない。

Pahlen III
将軍の貴族の息子であったピーター・ペトロヴィッチ・フォン・デア・パーレン伯爵は(一時期は父親の裁縫師を務めていた)、1812年にバルクライの下で騎兵師団長を務め、その後、1813年と1814年のドイツとフランスの戦役を通じて騎兵軍団長として活躍したようである。

Pahlen II
1812年後半にフランス軍と戦った後、1813年と1814年に再びフランス軍と戦った前に、主にトルコ軍と戦った多くの勲章を受けた騎兵将校。




プロイセン軍の指揮官

ブリュッヒャー
"オールド・フォワード "はナポレオン戦争の偉大な英雄の一人である。常に攻撃的で部下に愛された。ナポレオン最大の敵の一人である。

ヨルク
ヨルクは「タルロッゲン条約」でロシア軍側についたため、プロイセン国王らを困った状態に置いた。1813年から14年にかけての彼の指揮は、ブルヒャーの「戦闘部隊」として知られた。この頃から彼を知っていたクラウスヴィッツの評価では、彼は "勇敢さと軍事的才能で傑出していた"。

ビューロー
1813年のザクセンでの戦いと同様、この年のベルリン前面でのビューローの守備の重要性は、英語の資料ではあまり認識されていない。ワーテルローでの彼のフランス軍側面に対する活躍もまた重要であり、現在ではそのことが認められ始めている。

ホーエンローエ
個人的に勇敢で、少なくとも伝統的な軍事戦術に関しては有能だったホーエンローエは、プロイセン軍で非常に人気があった。イエナでの大敗とその3週間後の降伏は、プロイセン軍の士気に深刻な打撃を与えた。彼はイエナで、ナポレオンと対峙していただけでなく、数でも大きく劣っていたことに留意すべきである。

クライスト
「フォン・ノーレンドルフ伯爵位」は、クルムでヴァンダム軍団を撃ち破った功績に対するものである。フォン・クライストは下級将校や中級将校として、ほとんどの場合、幕僚や非常に高い地位の将校の補佐官を務めていたようである。彼が初めて独立した指揮官として登場するのは1806年、プロイセン軍の大部分とともにマグデブルクをフランス軍に明け渡した時である。ブルッヒャー、ヨルク、フォン・ビューローとともに、1813年と1814年のプロイセン軍最高司令部の中心人物であった。クライストは春のライプツィヒ防衛の責任者であり、秋の「諸国民の戦い」でもライプツィヒで戦った。

Hessen-Homburg
高官の大家族の一人で、そのうちの4人はオーストリアに仕え、弟(レオポルド王子)はルッツェン(グロスゴルシェン)で戦死した。プロイセンのルートヴィヒ公は、ライプツィヒでの「諸国民の戦い」で連合国側として戦った2人のヘッセン=ホンブルクの後輩である。上級のヘッセン=ホンブルク公(フリードリッヒ公)はオーストリアの将軍で、1814年のオージュローとの戦いでも独立軍を率いて活躍した。

タウエンツィーン(Tauentzien)
1806年の災難と1813年の復讐の両方を完全に分かち合った。

ティールマン
有能な将校だったようだ。ワーヴルでは良い働きをした。




イギリス軍の指揮官

ウェリントン
非常に熟練した将軍で、情報、兵站、防御戦術に精通していた。ナポレオン時代におけるイギリス軍最高の名将である。

Abercromby
ラルフ・アバークロンビー卿は、七年戦争を戦ったものの、道徳的見地からアメリカ独立戦争で戦うことを拒否し、革命戦争で名を挙げた。アメリカ戦争後の陸軍の士気回復に貢献し、新世代の将校(ムーア、ヒル、グラハム、ホープなど)を指導したことでも知られている。第二次アブキール(別名アレクサンドリア)の戦いで戦死した。

ベレスフォード
ポルトガル軍を再建、訓練したベレスフォードの組織化能力、人材育成能力について異論を唱える者はいない。彼の野戦将軍としての能力については議論があるが、ウェリントンは、彼が彼の将軍の中で最も独立した指揮に適していると考えていた。

フォン・ボック
KGL自体もそうだが、派手さのない堅実なパフォーマンスを見せた。サラマンカ後のフランスへの追撃は珍しく効果的だった。

Lumley
ウィリアム・ラムレー卿はアルブエラで急遽、歩兵旅団の指揮官からベレスフォードの騎兵指揮官となり、大活躍した。その直後のウサグレの戦いは、半島戦争におけるイギリス軍騎兵部隊の最高の戦いの一つであった。彼は戦後も長く輝かしい経歴を残した。

Craufurd
"ブラック・ボブ "は非常に激昂しやすかったが、新しい戦術体系を駆使して部隊の作戦を巧みに計算した。単に攻撃的というよりは、時には軽率だったかもしれない。

Graham
独立した、あるいは半独立の指揮を任されたときに優れた能力を発揮した数少ない将校の一人だが、残念なことに目を患う傾向があった。

ムーア
「Whig将軍」と呼ばれ、軍内でも高く評価され、将校にも部下にも人気があった。重要な戦術的革新者であり、間違いなく優れた部下育成者であった。

H. Paget【アクスブリッジ卿】
この時期のイギリス最高の騎兵指揮官であったと多くの人に信じられている。ウェリントンの義理の妹と駆け落ちしたことが、ムーアのもとで最初の成功を収めた後の半島での活躍を妨げたと考えられている。彼の騎兵部隊は、ワーテルローでのフランス軍の最初の総攻撃を破ったが、その後再起不能に陥った。

E. Paget
ヘンリー【アクスブリッジ卿】の弟。特にムーアのコルンナ撤退時の後衛作戦の指揮は高く評価されている。

ピクトン
下院から7回感状を受けたが、貴族に列せられることはなかった。粗暴な性格だが、積極的で勇敢。部下指揮官としても活躍した。ワーテルローで突撃を率いて戦死した。

Pakenham
優秀とは言えないが、頼りになる師団長。ウェリントンの妻の弟である。サラマンカでフランス軍師団を粉砕した最初の攻撃を指揮した。ニューオーリンズでジャクソンと戦ったイギリス軍を率い、多くの兵士とともに戦死するという不運に見舞われた。

ホープ
ウェリントンは彼を高く評価していたが、無鉄砲な人物だとも思っていた。

ヒル
「ダディ・ヒル」と部隊から呼ばれた彼は、ウェリントンが信頼する数少ない独立司令官の一人だった。ウェリントンは、「彼の居場所はいつも分かっている」と彼を頼りにしていた。

Stewart
激しく戦い、おそらく攻撃的すぎる将校だった。実際アルブエラでは無秩序な攻撃を行い、旅団のひとつを半壊させた。

Stuart
非常に有能な将校で、二次作戦で独立した指揮を執っていた。自分は上官から十分なサポートを受けていないと慢性的に思っていた。

OCSの航空爆撃で、近距離シフトが得られる条件について

 OCSの航空爆撃には、爆撃に参加するすべての航空ユニットが10ヘクス以内の航空基地から爆撃任務ヘクスに来ているのであれば、コラムが一つ良くなるという修正があります。


 このシフトについて、先日の『Tunisia II』でのプレイで疑問点が生じたので、facebookのOCSグループで質問してみました。



unit8369.jpg

 左側縦列のSpit.VとA20で爆撃に行ったとします。Spit.Vは11ヘクス以遠から来たのですが、A20は10ヘクス以内から来ていました。この2ユニットがそのまま爆撃を行えたならば、7+1で8爆撃力であり、8-11のコラムで爆撃できます。

 ところが対空射撃でSpit.Vが1ステップロスしたため、Spit.Vの爆撃力は0になりました。すると合計爆撃力は7ですから、5-7のコラムで爆撃しなければなりません。ところがここで、連合軍プレイヤーはA20は10ヘクス以内から飛んで来たのであったことを思い出しました。ここでもし、

1.Spit.Vの0爆撃力はそもそも加算されないのだから、ないものとして扱う。
2.Spit.Vの0はカウントされるが、爆撃時にSpit.Vを爆撃自体から外すと宣言できる。

 のであれば、近距離シフトを利用でき、8-11のコラムで爆撃できるでしょう。

 で、質問してみた答は、「爆撃時に一部のユニットを外すことはできず、0爆撃力のユニットは0爆撃力で参加する。ゆえにこの場合、近距離シフトは利用できない」とのことでした。



 そこで、もう1つの疑問が浮かんだので、さらに質問してみました。


unit8368.jpg

 今度は、2ユニットともが1ステップロスの状態で飛んで来ました。さっきの例と同様に、戦闘機(Bf.110)が11ヘクス以遠から、爆撃機(Ju.88)が10ヘクス以内から飛んで来ています。このまま爆撃できれば9爆撃力で、8-11のコラムで爆撃できます。

 しかし今度も戦闘機の側が対空射撃で1ステップロスし、もともとが減少戦力面であったため壊滅してしまいました。すると、Ju.88の6爆撃力のみで爆撃することになります。この場合、爆撃時には11ヘクス以遠から来たユニットはいないのだから、近距離シフトは利用できるのでしょうか?

 この質問に対する返答は、「イエス。この場合は近距離シフトを利用でき、8-11のコラムで爆撃できる。
ただし、こんなことはめったに起こらないだろうが」ということでした(^_^;


 一応、そのようなことですので、ご報告ということで。



 あと、ちょっと前に「航空阻止(Interdiction/Trainbusting)は砲爆撃の一種ではなく、別物である」という解釈の話があったのですが、今回ついで質問してみたところ、「航空阻止は砲爆撃の一種である」という返答でした(!)。ので、そちらもまた修正しておくつもりです。

ザハ氏のブログ記事「【短報・対戦写真】OCS:Crimea"Tiger by the Tail"/2024年3月」に挙げられていた疑問点をチェックしてみました (2024/04/01)

ナポレオン戦争で戦ったプロイセン軍のフォン・ホルン将軍について

 コマンドマガジン52『赤い夕陽のナポレオン』を最近プレイしているわけですが、その中に登場する「ホーン」という将軍が非常に気になるので、調べてみました。


unit8384.jpg


 まず気になるのは発音で、初期配置で隣にいる「ヨーク」はドイツ語では本来「ヨルク」であることは確実なので、「ホーン」も「ホルン」なのではないかなぁ……と

 調べてみると、フルネームは「Heinrich Wilhelm von Horn」であるらしく、また、プロイセン人でした(英語圏の生まれとかではなく)。で、「Horn」という人名がドイツでどう発音されているかなのですが、日本語版Wikipedia「ホルン (曖昧さ回避)」に載っているドイツ人2人の綴りが両方「Horn」であったので、やはり発音は「ホルン」で良さそうでした。


 同ゲームで「ヴァーデ」とある指揮官の名前の発音は「ヴレーデ」が正しそうとかもあるわけですが、しかしこのゲームの発表が2003年(20年以上前!)であることを踏まえると、今は当時なかった本やネット環境での調べやすさもあって恵まれているわけですし、同作が非難されるにはあたらないかと思います。それよりも作品を発表してくれたのがありがたいわけで、むしろ、今後に向けてこういうこと関連の情報集積ができていけば良いのではないかと。


 このハインリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ホルンに関しては、Wikipediaにはある程度記事があったのですが、手持ちの『Dictionary of the Napoleonic Wars』『Who Was Who in the Napoleonic Wars』には項目がありませんでした。なので、↓のみで今回、まとめてみます。

英語版Wikipedia「Heinrich Wilhelm von Horn」
ドイツ語版Wikipedia「Heinrich Wilhelm von Horn」


<2024/04/05追記>

 その後、nagunaguさんに「EPOCHE NAPOLEON」というドイツ語のウェブサイトを教えてもらいました。



 また、『Allgemeine Deutsche Biographie』(ドイツ人伝記総覧?)も全文が見られることが分かったので、そちらも参照して↓を追記しています。

<追記ここまで>


WilhelmvonHorn

 ↑ハインリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ホルン中将(Wikipediaから)


 フォン・ホルンはプロイセン軍に入ってまずバイエルン継承戦争に参加。この時期にヨルクと出会って友人となり、将来緊密に協力することになったといいます。1794年から95年にかけてのポーランド遠征でワルシャワ包囲戦に参加し、功績によりプール・ル・メリット勲章を受章します。

 1806年戦役ではダンツィヒ守備隊におり、ダンツィヒ包囲戦中のハーゲルスベルクの勇敢な防御戦で名声を得たそうです。

 1812年のロシア遠征では、フランス軍の一員として長年の友人であったヨルク指揮下のプロイセン補助軍団の第2歩兵旅団を指揮して多くの戦いに参加。1812年9月4日、フォン・ホルンはフランスのレジオン・ド・ヌール勲章を着用する許可を与えられます。

 1813年の解放戦争でもヨルク軍団の旅団を指揮し、リュッツェンの戦い(グロースゲルシェンの戦い)で名を挙げました。バウツェンでも戦い、休戦中の6月28日に少将に昇進。

 同年の秋期戦役では8月26日のカッツバッハの戦いで功績を挙げましたが、その後の悪天候により隷下の兵士達はとても飢えてやつれた状態となります。しかし、ホルンはなんとか規律を維持しました。

 10月13日、ヨルク軍団はヴァルテンブルクの戦いに勝利してエルベ川渡河に成功し、ナポレオンは北側面を確保するためにドレスデンからライプツィヒに向かって西進せざるを得なくなりました。これにより、ライプツィヒの戦いの前の、フランス皇帝を包囲する動きが始まったのです。勝利の大きな要因はホルンの旅団が敵に決定的な打撃を与えたからであり、ホルンが鉄のような行動力で、自ら模範を示して突進し勇気を鼓舞したからでしたが、死傷した兵士達の数もまた非常に大きなものでした。

 ヴァルテンブルクの戦いの後、ホルンの旅団兵達がヨルクとホルンの前を通っていく時、この二人の将軍は帽子を脱ぎ、最後の兵士が通り過ぎるまで帽子を被ることなく立ち続けていたそうです。



 この時の状況や、ヴァルテンブルクの位置とかを何も知らないので、『Napoleon at the Crossroads』で探してみました。すると、9月28日からのシナリオというのがありました。


 ↓『Napoleon at the Crossroads』のマップ西方です。

unit8370.jpg


 一番上の赤い○がヴァルテンブルクで、ビューローとベルトランが向かい合ってます。編成表を見てみると、ヨルクはブリュッヒャー(右上)の指揮下にあり(ホルンのユニットは見つかりませんでした)、そこからヴァルテンブルクに向かったのでしょうか。ナポレオンはこの時点では画像右下のドレスデンにおり、ヴァルテンブルクでエルベ川を渡河されたことから、その後のライプツィヒ(画像左)の戦いに繋がるということなのでしょう。ちなみに、ヨルクはこの戦いの功績によりヴァルテンブルク伯爵の爵位を与えられたそうです。



 ホルンはライプツィヒの戦いでも特に大きな功績を挙げました。その断固とした勇猛さと同時に、たぐいまれな粗野さでこの「老紳士」(当時51歳)は解放戦争で最も人気のある将軍達のうちの一人となりました。ライプツィヒの戦いの功績により、プール・ル・メリット勲章に柏葉を付与されます。

 1814年戦役では、ラン、パリでの戦いに参加。

 1815年時には彼は戦争には関与しなかった第6軍団の旅団を率いており、ナポレオン戦争終結後にはミュンスターに本拠を置く第7軍団の司令官に任命され、1829年に亡くなるまでその職を務めました。

 アルゲマイネ・ドイツ伝記によれば、「ホルンはプロイセン軍の最も優れた旅団長の一人であった [...] その勇気、その粗暴さは民衆に好かれており、また心の優しさと高貴な気質によりこの「老紳士」は愛され、兵士達からだけでなく国民からも尊敬されていた。」

 また、フォン・ホルンはその晩年に、新兵への予防接種の義務化を導入したり、子ども達が「夜間であっても工場の雇い主によって大量に使われている」という悪を非難したそうです。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国軍第200師団長であった戴安瀾将軍について

 中国(中華民国)軍第200師団長であった戴安瀾(たいあんらん?)将軍についてのWikipediaを少し見てみたら、興味深そうだったで、ちょっとまとめてみることにしました。

中国語版Wikipedia「戴安澜」
英語版Wikipedia「Dai Anlan」


Dai Anlan

 ↑戴安瀾将軍(Wikipediaから)



 英語版Wikipeidaの記述より中国語版Wikipediaの方が記述は豊富ですが、勇壮な話に満ちているためにむしろ、話が装飾されているのではないだろうかという疑いも持ちます。ただまあ、英語版のみを元にすると話があっという間に終わってしまいますし、多くを中国語版を元にして一応まとめておいて、後で検証するという方向性で行こうかと思います。



 1904年に安徽省の農民の家に生まれ、最初の名前は戴揚功だったそうです。学校で優秀な成績を収め、1924年に黄埔陸軍士官学校に入り、1926年に国民革命軍の小隊長に任命されました。彼は祖国が危機に瀕していることを感じ、中国を死守する決意を表明するため、名前を「波を静める」という意味の「安瀾」に変更したそうですが、その時期について、英語版では1924年?、中国語版では1926年以降だという風に記述しています。

 北伐、済南事件で日本軍と戦います。1938年の魯南の戦いでは、部隊を率いて中愛山で4昼夜にわたって日本軍と戦い、その功績が認められて第89師団副師団長に昇進。 同年8月、武漢の戦いに参加し、35歳で第5軍第200師団長に昇進。1939年12月、広西チワン族自治区の崑崙峠で日本軍第5師団と激戦を繰り広げ、自身が重傷を負いながらも優れた指揮で崑崙峠での有名な勝利を獲得。

 太平洋戦争が勃発してビルマルートが脅かされると、国民党政府(蒋介石)はビルマ戦線に10万人の軍隊を派遣します。戴安瀾は第200師団を率いて雲南からビルマへ西進し、単独で進む危険を厭わずにトングーへと南下して、英連邦軍の守備を次々と引き継ぎました。


 ↓OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から (2023/10/15)に挙げていた地図です。

unit8517.jpg


 英連邦軍の安全な退却を掩護し、戦闘の準備を万全にするために、戴安瀾は部隊を指揮して昼夜を問わず陣地の修復を行い、敵の前進を阻止するために3つの防衛線を敷きました。妻に宛てた手紙の中で、彼はこのように書いていたそうです。
「私はトングーの守備を命じられた。上の計画はまだ決定されておらず、後方との連絡はあまりにも遠く、敵の動きが早く、今私は一人で、祖国が育ててくれた恩に報いるため、すべてを犠牲にする決意をした。祖国のための戦いで死ぬことは、極めて名誉なことだ。」

 彼は部下達にこのように告げたそうです。
「兵士が一人でも残っている限り、最後まで持ちこたえなければならない。師団長が戦死した場合は副師団長が後任となれ。副師団長が戦死すれば参謀長が、参謀長が戦死すれば連隊長のうちの一人が後任となるのだ」

 師団のあらゆるレベルの指揮官もこれに倣うことを誓いました。

 3月25日、日本軍精鋭第55師団【と中国語版Wikipediaに書かれていますが、第55師団は標準レベルではあったかもしれませんが、第33師団などと比べると精鋭とは言えなかっただろうと思います】の20,000名以上の攻撃に8,000名で抵抗し、トングー防衛の緒戦で勝利を収め、中国内外から賞賛を集めました。トングーの戦いは12日間続き、第200師団は高い戦意を持って敵と激戦し、800名が犠牲になりつつも20回以上の日本軍の襲撃を撃退し、4,000名以上の敵を死傷【原文では殲滅、全滅っぽいですが、誇張でしょう】させ、200名以上の捕虜を獲得しました。

 トングーの戦いの終盤には、右翼の英連邦軍は逃げることしか考えなかったため、日本軍の進撃を許し、結果として三方を敵に囲まれ、第200師団は包囲殲滅の危機に陥りました。最後の手段として、第200師団は北への脱出を命じられました。

 ↑の部分、文が良く分からないので大幅にはしょってます。「右翼の英連邦軍は逃げることしか考えなかったため、日本軍の進撃を許し」というのは、蒋介石がプローム方面の英連邦軍が攻勢に出て、トングーへの日本軍の圧力を弱めるように要求したのに、それがなされなかったことを意味しているのかもしれません。今後、『ビルマ 遠い戦場 上』の記述を使って調べる予定です。



 英語版Wikipeidaの参考文献を見ていると、『The Imperial Japanese Army: The Invincible Years 1941–42』という本の戴安瀾の登場する1ページがGoogle Booksで見られるので、そこを翻訳しますと……。

 ラングーンが陥落したのと同じ3月8日、中国第5軍の部隊の1つである戴安瀾少将率いる第200師団がトングー(タウングーとも表記される)に到着した。この陣地は、竹内寛の第55師団が2週間前に第17インド歩兵師団から奪取したシッタン川渡河地点から約150マイル北のシッタン川沿いにあった。

 戴の部隊がトングーでシッタン川渡河部を防衛するために掘り進むと、竹内の部隊はそれを掘り起こすために北上した。最初の交戦は3月18日に行われたが、主攻撃は3月24日に行われた。

 竹内は第112連隊で市街を正面から攻撃し、第143連隊で中国軍の陣地を包囲し、北へのアクセスを遮断し、戴の陣地を背後から攻撃した。後方の兵力が蹂躙されると、戴は過剰反応し、全指揮官をトングーの中心部の防衛境界線に撤退させた。

 3月25日早朝、竹内の2個連隊は南、西、北から攻撃を開始した。東側はシッタン川であったため、戴安瀾は1ヶ月前のジャッキー・スミス【第17インド歩兵師団長】と同じ状況、つまりシッタン川を背にした状況に陥った【スミス師団長は2月23日にシッタン鉄橋を過早に爆破してしまった咎も受けて解任されてしまっていました】。状況は、スミスのインド人部隊が農村地帯にいたのに対し、戴安瀾は都市【トングー】周辺の入り組んだ地形にいた点で異なっていた。このため日本軍は、日本陸軍が好んで用いた敵陣に潜入する戦術を比較的容易に用いることができた。一方、両軍とも大砲を使用することが難しくなったため、戦闘は多くの場合、近接戦闘となった。

 戦闘は3月26日まで続き、日本軍がトングーの西側を占領したため、大きな損害が出た。翌日には小康状態となり、両軍とも傷を癒すために後退したが、この離脱は日本軍が大砲を使用し、航空優勢を利用して空爆を行うことができることを意味するだけであった。
『The Imperial Japanese Army: The Invincible Years 1941–42』P279


 この本のこの文章、なかなかに分かりやすい感じにまとめられていて好感を抱くのですが、すでに資料が多すぎて管理能力を超えているのと、値段も割と高いので、手を出すのはやめておいて……(^_^;



 閑話休題。


 英語版Wikipeidaによると、第200師団はシッタン川を渡って北へ後退し、第22師団と合流。彼らはシッタン川を北上する日本軍の進撃を阻止し、4月25日にはビルマ中部のタウンギーを日本軍から奪ったとあります。

 その後の撤退中、5月16日に第200師団司令部が敵の待ち伏せに遭い、包囲を突破するも18日の戦闘で戴安瀾は腹部に重傷を負います。

 ビルマ北部の複雑な地形と降り続いた雨のせいで治療を受けられず、5月26日までに傷口は重度の感染症により侵食され、化膿し、穴が空いていました。死が近づいていることを感じた戴安瀾は衛兵に左右から抱き起こすよう命じ、北に向けて「反撃! 反撃! 中華民国万歳!」と叫び、モガウン【ミートキーナの西】で38歳で亡くなりました。

 遺体は火葬され、第200師団の残りの兵士達と共に中国に引き揚げられました。中国に戻った時、戴安瀾の棺を数万人が出迎え、国葬が行われました。1942年10月28日、フランクリン・ルーズベルト大統領は戴安瀾にレジオン・オブ・メリット勲章を授与し、アメリカから軍事勲章を受章した最初の中国軍人となったそうです。


『Triomphe à Marengo』の疑問点、和訳修正案など

 ミドルアース大阪でSUNPOさんと一緒に、『Triomphe à Marengo』の解読をしていました。





 なかなか進んでいないのですが、雑談なんかも大量にしていたせいでもありますバキッ!!☆/(x_x)


 ただ、色々分からない点もあり、教えてもらったり原文を参照したりして、少しましになってきた面もあって、そこらへん情報集積していこうと思いました。ただ、色々推測とかも混ざっているので、さらに皆さんにご助言いただければと思います<(_ _)>



<2024/04/03追記>

 早速、ぽちょむきんすたーさんからコメントを頂き、私の大きな勘違いが明らかになりました(^_^;





 じっくり確認してみましたところ、「歩兵・騎兵のペナルティアイコン」は「when they(アイコン) are in the approach occupied by the defender.」に効力を持つ、のですから、確かに防御アプローチにアイコンがある時に、攻撃側にペナルティが来るように見えます。

 そしてまた、11.突撃の6.突撃の解決の2番目の「・」に、「防御アプローチに、攻撃リードコマと同じ兵科のペナルティのアイコンがあれば、アイコンにつき1つずつ攻撃リードコマの戦闘力合計から引きます。(原文もおなじ)」とあるので、疑いありませんでした。

 気付かせて下さったぽちょむきんすたーさんに大変感謝します!<(_ _)>


 以下、この件についての分析です。


 砲兵と騎兵のペナルティアイコンは、相対するアプローチでまったく同じ数であることがほとんどなのですが、騎兵のそれに関しては数カ所、相対するアプローチで異なっている箇所がありました。今回見つけたのは、↓の赤い○の部分です(他にもあるかもです)。

unit8372.jpg

unit8373.jpg


 それらの地点に何か傾向性があるかな……? と思って考えてみたのですが、もしかしたら斜面の上方であったり下方であったりするかもと思ったのですが、それなら他にもアイコン数が異なってもおかしくない箇所もあるような気がして、良く分かりませんでした。

 それから、水色の○で示した部分は、村?などのエリアとその相対エリアで必ずそうなっているもので、村の外側には騎兵ペナルティが1個、村の内側には騎兵障害物(/印)」があります。そこらへんまとめると、

1.村から出るような攻撃には騎兵ペナルティ1個。
2.村に入っていくような攻撃時には騎兵障害物があり、
 a.急襲で防御アプローチに騎兵障害物がある場合、急襲するコマの中に歩兵が必要で、歩兵コマ1個を相手に見せる。
 b.突撃で防御アプローチに騎兵障害物がある場合、攻撃側はリードコマに騎兵を選べず、防御側は騎兵を反撃コマに選べない。

 ということのようでした(他にもあるかも?)。とすると、

 自分の側のアプローチにアイコンがあって、それが自分の側に影響を及ぼすのは、

ア.自分の側に騎兵障害物アイコン(/印)があったら、突撃で戦闘が起こった時の防御側は、騎兵を反撃コマに選べない。
イ.自分の側に進入禁止アイコン(×印)があったら、そこにコマを置けず、そこを越える攻撃、行軍、退却を行えない。

 の2つだけ?


 ここらへん、もし間違いでなければ、↑だけ覚えておけばよくはなるので、ありがたいですけど(間違い指摘お願いします!)

 また、これまでとこのブログ記事で、上記の勘違いの件は、修正しておくことにします。

<追記ここまで>




1.第1ラウンド先攻オーストリア軍で最初に入っていく4コマは……
 a.シャッフルした中から無作為に1コマずつ選んで進入するのか?
 b.シャッフルした中から無作為に4コマ選んで、その4コマを好きな順番等で進入させるのか?


 ……と話していましたら、以前プレイ歴のあるBOWさんから、「シャッフルというのは相手にコマが特定されないように混ぜるということであって、それ以上ではない。この場合、オーストリア軍プレイヤーは、シャッフルしたコマの中から戦力等を全部見た上で、自分で好きな4コマを選んで、好きな順番等で進入させていいんだ」とご助言もらいました(^_^; それでいいんでしょうか?




2.「防御コマ」とは?
 9.急襲の4.戦闘結果の適用:の項に、「防御エリアのすべての防御コマは退却します」とあります。我々はこの「防御コマ」というのを、「ある一つのアプローチで(実際に)防御したコマ(複数)【つまり、攻撃コマ側のアプローチに面していないコマは関係ない】」のことかと思ったのですが、色々読んでいるとどうも違う気がしました。で、原文を読んでみると、「All of defender's pieces in the defense locale must retreat.」とありました(localeというのはフランス語で、いわゆるエリアのことです)。この原文からすると「防御エリアのすべての防御側プレイヤーのコマは退却します」と解釈すれば良いかな? と思われました(が、どうでしょう)。




3.参照すべき砲兵ペナルティの位置は?
 10.砲撃の4段落目にこうあります(原文も同じ)。

 砲兵が今いるアプローチの反対アプローチに砲兵ペナルティのアイコンがある場合、砲撃はできません(砲兵がいるアプローチの砲兵ペナルティは無視します)。


 ところが我々がチェックしてみたところ、砲兵ペナルティのマークは、相対するアプローチに必ず対で描かれているように見えました(そうではない?)。

 だとすると、「反対アプローチに砲兵ペナルティのアイコンがあっても無視します」などとは書いておく必要はないという気も……?




4.退却の項の和訳抜け?
 13.退却の項の、1.損害の適用で、また「防御コマをすべて表面にします」というような表現がありますが、原文は「The defender reveals the pieces' faces,」で、ここも「防御側プレイヤーは、(防御エリアの)コマをすべて表面にします」という風にした方が分かりやすいのかなと思いました。

 また、その後の2つ目の「・」の文の最後に、原文では「reductions can be taken by infantry, cavalry, or a mix of the two.(損害は、歩兵から、騎兵から、あるいはその2種類からの混合で?)」とあるのが、和訳では抜けているようでした(尤も、別に抜けていてもだいたい分かるような気がします)。




5.午後4時以前?
 18.士気の項の最後の段落(3.)で、「午後4時以前のラウンドで」と和訳にはあるのですが、原文は「prior to 4:00PM」で、prior to はその時を含まない表現らしいので、「午後4時より前のラウンドで」とした方が良いようです。




6.士気トークンをエリアに置かれるのは罰?
 防御に成功したりすると、1個か2個の士気トークンがそのエリアに置かれますが、そのエリアが敵に取られると士気トークンは除去されてしまいます。だとすると、防御に成功することが士気トークンが除去される可能性を生むわけで尤も、防御に失敗すると、恐ろしいほどの士気トークンがいっせいに除去されますが((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル)、「防御に成功して士気トークンがエリアに置かれるというのは、何を意味しているのですか?」と、BOWさんに聞いてみました。すると、「この時代の会戦が、ある一角で不用意に拡大化してそこから脱却できなくなり、自分はいったい何をしているんだ? と自問するような、もどかしさを表現していると思って、うまいやり方だなと思ったけど」という風にご助言いただきました。なるほど?(まだ完全に理解できてません(^_^;)

 そうすると、リザーブにいる騎兵は無損害で退却できるというようなことを活かして、かかわりたくないエリアからはうまく手を引いて、損害をなるべく避ける……というようなことが有効だったりするのかな? と思ったのですが、そう上手くはいかないよな、と思ったりも(^_^;




7.ゲームプレイの例における和訳
 23.ゲームプレイの例を我々は参照して、なんとかゲームシステムを理解しようとしていたのですが、途中どうにも理解できないことがあり、原文を見てみてると得心したということが複数ありました。

 和訳P13の右側の列の上から2行目にこうあります。
「フランス軍が攻撃してくる可能性を考えるのなら、フランス軍のターゲットはエリア3になるでしょう。」
 この文は、「してくる」というのですからオーストリア軍目線かと思ったら、フランス軍目線だったのか? とSUNPOさんは仰ったのですが、これは原文では、
「If we think of possible French attack responses, we can see that they could target locale 3.」
 で、例えば、↓のような?(尤も、元の和訳でも大差はなく、一応意味は取れるという気もします)
「フランス軍が攻撃によって対応する可能性を考えるのなら、フランス軍のターゲットはエリア3になるでしょう。」

 次の段落の真ん中辺りにはこうあります。
「もうひとつのフランス軍の防御的な対応は、エリア5のコマが攻撃されるのを受け入れる代わりに、エリア8と24のコマ(C1とC2)を北の道路のブロックに使用することです。これらの行軍は2つの指揮ポイントを消費します。エリア24のコマは小道を使用して行軍しています。」
 我々はこれを読んで、この2つのコマを両方回復するのに指揮ポイントを2消費して、エリア8のコマの通常行軍に指揮ポイント1、エリア24のコマの小道の道路行軍に指揮ポイント1、あるいは舗装道路の道路行軍に指揮ポイント0、と理解して読み進めたのですが、その後の記述とどうも合わない……。
 10分か20分すったもんだしたところで、原文を参照してみたところ、
「Another French defensive response might be to accept that the pieces in locale 5 will get attacked and forced to retreat, and instead block the northern road with the pieces from either locale 8 or 24 (C1 and C2, respectively). Each move would cost two commands. 」
(もうひとつのフランス軍の防御的な対応としては、エリア5のコマが攻撃を受けて後退を余儀なくされることを受け入れる代わりに、エリア824のコマ(それぞれC1、C2)を北の道路のブロックに使用することです。どちらの場合でもコマの行軍は、2つの指揮ポイントを消費します。)
 とあったので、「ああ、2つのコマ両方じゃなくて、どちらかで、なのか!」と得心しました。

 あと、この段落の原文の最後の「(instead of only 1)」は、和訳には存在しないことも気付きました(尤も、なくても問題ないと思います)。




 BOWさんからは、「2時間ぐらいのゲームなんだから、そんなにルールブックとにらめっこせずに、とりあえずプレイしてみた方がいいんだ」とも言われまして、確かにその通りかと思います(^_^;

(まあ、気になったこと、分からないことを突き詰めたくなる性分なんだ、ということでもあるのでしょうね~)

ザハ氏のブログ記事「【短報・対戦写真】OCS:Crimea"Tiger by the Tail"/2024年3月」に挙げられていた疑問点をチェックしてみました

 ザハ氏が、【短報・対戦写真】OCS:Crimea"Tiger by the Tail"/2024年3月というブログ記事を上げておられまして、その中でルール上の複数の疑問点を挙げておられたので、チェックしてみました。



2.1 上陸の誤解
 上陸用舟艇からの上陸後は、海上移動と同様に移動できないと誤解していた。上陸が成功すれば、半分の移動力で移動できる。敵ZOCに不利な修整を受けて無理に上陸しなくてもよかった。ただし、補給ポイントが揚げられないので、内陸に進むと補給が届かなくなる。


 「補給ポイントが揚げられない」とありますが、これは「揚げられる(揚陸できる)」と思います。

 ここで「上陸用舟艇」とあるのは、厳密には『Crimea』に(のみ?)登場する「ソ連軍の海軍輸送船舶(Naval Transport)」のことです(これ以外の、通常の上陸用舟艇は『Crimea』には登場しません)。

unit8424.jpg

 これはOCSシリーズルールにおける「上陸用舟艇(Landing Craft)」の一種扱いだと思うのですが、『Crimea』3.5eの2つ目の「・」に、「海軍輸送船舶はユニットやSPを積載し、港湾に、または揚陸表(ALT表)を使用して貨物を陸揚げできます。海軍輸送船舶に積載されている状態のSPは、同じヘクスにいるユニットであったとしても使用できません。」とあります。

 ところが、OCSシリーズルールではLanding Craftは「SPを(積載はできるが)陸揚げできない」ですし、積載されているSPは「隣接ヘクスまでのユニットしか使用でき」ません。

 で、特に前者について気になった(というか、当時は後者の違いに気付いてなかった(^_^;)のでfacebook上のOCSグループで「OCSシリーズルールで上陸用舟艇はSPを陸揚げできない、と書かれていますが、『Crimea』の海軍輸送船舶はSPを陸揚げできるのですか?」と聞いてみたところ、端的に「Yes」とだけ答が返ってきました(OCS班長のChip Saltsman氏から)。

 その答を見た時私は「なんでやねん」と思ったのですが(バキッ!!☆/(x_x))、よく考えてみれば、シリーズルールの規定を特別ルールの規定で上書きしているだけなんだな、とハタと気付きました。






4.1 クリミア特別ルールの表記の不一致
 クリミアの特別ルールのルールブックの記載に不明瞭な点が難点かあると感じた。
 例えば、プレイブックのシナリオには"Seaborne Assault Marker"とあるが、これはおそらく"Amphibious Landing Marker"のことだと思われる。考えればわかることかもしれないが、ルールには"Beachhead Marker"もあるため、混乱しないよう用語を統一が望まれる。


 これはその通りだと思います。

 あと、私が和訳の時にえらく悩んだのは、シナリオ2の「Kerch Strait Condition:」が「Open」と書かれていることで、「Openってなんやねん?!」と最後まで悩んだのですが、「(ケルチ海峡氷結進行表における、凍結の最初のターン)」という括弧書きがあるので、もうそれに従って「凍結#1」と意訳?してしまいました(が、どうなんでしょう?(^_^;)。




3.1 航空阻止(Train Busting)について
 ソ連軍プレイヤーは、枢軸軍が補給ポイントを鉄道で前線に運ぶのを妨害するために、航空阻止(Train Busting)を試みようかと考えていた。ソ連軍に、航続距離が194ヘクスの爆撃機があるからである。この航続距離であれば、警戒空域を避けて飛んで後方の鉄道を爆撃できると考えたためである。しかし、忘れていて一度も実施できなかった。
 ところで、1942年の途中まで、ソ連軍は制空戦闘と砲爆撃を飛行場から20ヘクス以内でしか行えない(クリミア特別ルール3.2b)が、航空阻止は砲爆撃ではない(シリーズルール14.2eで、「砲爆撃」と「航空阻止」は別に列挙されているため)ので、この影響を受けずに実施できると考えられる。


 これを読んで私は、「え、マジ? 航空阻止は、砲爆撃の一種に決まっているのでは……」と思ったのですが、OCS 14.2eを見るとまったくその通りで、しかも、『Crimea』3.2dには「制空戦闘、航空阻止、およびあらゆる種類の砲爆撃任務」という風に記載されていたので、疑いの余地もなくなったという……(^_^;

 この件、まったく想像もしてませんでした……。気付かせて下さったザハ氏に大変感謝します!(T_T)



<2024/04/08追記>

 ↑の件ですが、別件の質問のついでに質問してみたところ、「(対施設)砲爆撃結果表を使用する航空任務はすべて、砲爆撃の一種であり、航空阻止も砲爆撃の一種である」ということでした(!)。ルールの記述上、どこにそういうことが書いてあるのかとか、なぜ砲爆撃と航空阻止は別々にリストに挙げられているのかとかは良く分からないのですが(さらに質問しても答が返ってこないので(>_<))、一応そういうことらしいです。

 とまれ、理解が深まったので良かったです(^^)

<追記ここまで>




4.2 勝利条件の疑問
 シナリオ2の勝利条件に疑問がある。手元にある英語のプレイブックでは、勝利得点(VP)をカウントする港湾は、"Crimean or Taman Peninsula"、つまりクリミアかタマーン半島の港湾となっている。ところで、後日聞いたところによると、ある和訳では、「クリミアで自軍が支配している港湾」となっているという。
 これは、翻訳ミスか、それとも公知でないエラッタが反映されているかのどちらかであると考えられるが、シナリオの流れに大きく影響すると考えられる。


 これを読んで、「うお、ある和訳とは私の訳で、まず間違いなく私のミスだろうな……」とすでに観念したのですが(おい)、確認してみたところ、やはり私のミスでした(; ;)ホロホロ

 シナリオ1の文をコピペしてしまってそうなったのだと思います。一応、和訳のシナリオ2のVP一覧にはタマン半島側のVPも入っていたのですが……。



 今回判明した和訳ミスと、明確化的事項について、↓に追記しました。また今後も、疑問点やミスなど見つけられましたら、どしどし報告していただけると大変ありがたいです!

OCS『Crimea』の現時点で判明しているエラッタ&明確化 (2024/01/07)


OCS『South Burma』(仮)製作のために:『遠い戦場』から、中国第200師団とトングー戦について

 『ビルマ 遠い戦場 上』を読み返していて、1942年のビルマ戦における中国国民党軍最強と言われる第200師団について少し詳しいことが書いてあったので、抜き出しておこうと思います。



 ↓以前、適当に作ってみた第200師団ユニットと司令部(上段が戦闘モード、下段が移動モードです)。

unit8378.jpg

 「師団」なのに3個大隊から成っているのは、中国軍の師団は日英両軍の連隊規模くらいだったからです。

 3個大隊すべてをAR4にしてましたが、これはやりすぎで、4と3の混在かな、という気もしてます(^_^;


 中国第200師団(載安瀾中将)は兵力8500名で、第5軍の各6000名、第6軍の各5700名前後の他師団よりはるかに多かった。しかしこの数字はまやかしで、これには労務者や輸送用苦力(クーリー)も含まれていたのである。師団は自動車化され、その一部には装甲部隊もあった。またこの中には武器貸与法による75mm榴弾砲を持った砲兵隊や、105mm砲の自動車化大隊も含まれていた。しかし医療班はなく、イギリス軍と接した場合の通訳もいなかった。これは作戦期間を通じて障害になった。
『ビルマ 遠い戦場 上』P81,2


 ここに書かれていることが本当であるとすると、移動モードは自動車化で、機甲中隊?や砲兵大隊、自動車化砲兵大隊のユニットも必要だということになるかもしれません……。

 しかし、それらの部隊番号が全然分からないので、もし将来それらが分かったら……ということにならざるを得ないですね:p



 その後少し、この第200師団によるトングー防御戦に関する記述があるので、それらも引用しておきます。

 第1ビルマ師団長ブルース・スコット少将が、トングーを載安瀾中将の中国第200師団に引き継いだ時、通訳がいないし中国側に地図がなかったために、状況を説明するのはほとんど不可能だった。結局スコットはあきらめて、自分の師団司令部だけを予定どおり脱出させた。中国軍はトングーの町のほかの建物とともに、司令部にも火を放った。これが町を守る最善の方法だというのである。杜【聿明。中国第5軍司令官】は第1ビルマ師団に退去を命じたが、スティルウェルは中国第22師団が南下してくるまでそのまま残ってくれと頼み込んだ。
 3月24日、トングーは竹内中将の第55師団の攻撃を受けた。載安瀾の中国第200師団は激しく反撃したが、飛行場を奪われ、27日には町は包囲された。至近距離の友軍は廖耀湘の中国第22師団で、ピンナマの北96キロの地にいた。しかし蔣総統はアレクサンダーに、イラワジ河流域の日本軍を攻撃し、トングーへの圧力を弱めるよう要求した(スティルウェルは中国第200師団の対決している日本軍は増強されつつあると誤認していた)。スリムは自分の兵力を集中している最中に、攻撃に出たくはなかった。いずれにしてもトングーから日本軍を反らせうるとは思えなかった。【……】
『ビルマ 遠い戦場 上』P82,3

 結局トングー戦は無意味だった。スティルウェルは中国第22師団にピンナマ出動を迫り、師団長は3月28日に攻撃すると約束したが、何も起こらなかった。苦闘10日、中国第200師団は包囲を突破してエダッセに達した。しかしその退去にあたってシッタン川上流の橋の爆破を忘れたため、日本軍にモチや南シャン州に通じる道路を無傷で渡してしまった。【……】
『ビルマ 遠い戦場 上』P85



 以前まとめてました↓では「中国第22師団は3月26日までにはピンナマに到着していた」とあったのですが、まあ、師団の先鋒が到着していたとか、そういうことかもとも思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:トングー戦の時期の中国軍の動き (2023/11/02)


<2024/04/01追記>

 ミト王子さんから第200師団について、コメントを頂きました。情報ありがとうございます! 今後ユニット数値改訂の参考にさせていただきます~。

 忘れない様に、こちらに引用しておきますね。

 Xで拝見しまして第200師について

>師団は自動車化され

 第200師が属した第5軍自体が機械化軍で、軍直轄の汽車(自動車)兵団は元々は第200師に属していましたが軍直轄にされてしまいました。概ね1個歩兵師の輸送力があったようですから、本来は軍所属の3個歩兵師を適宜自動車輸送するのが任務の筈ですが、もしかしたら殆ど第200師に配属したままだったのかも知れませんね。HJ「日本の進撃」でも第200師を機械化歩兵師としていました。

 
>武器貸与法による75mm榴弾砲を持った砲兵隊

 これはソ連製76.2mm野砲が正しいと思われます。崑崙関の戦いでも第200師の砲兵営が装備していました。
「抗戦時期陸軍武器装備 野戦砲兵篇」を見る限り米国の75mm山砲が装備されたのは戦争後半のようです。
 独立砲兵第18団の1個営もビルマ防衛戦に参戦していますが、この部隊もソ連製76.2mm野砲装備だったと思われます。


>105mm砲の自動車化大隊
 独国製105mm軽榴弾砲装備の独立砲兵第13団から1個営がビルマ防衛戦に参加しているのでこれのことでしょう。


>機甲中隊?

 第200師に当初配属された部隊は「中日装甲兵全史1938-1945」では第5軍騎兵団の摩托车(オートバイ)1個連、戦車防御砲2門、騎兵1個連、工兵団、戦車防御砲営(4個連37mm砲16門)があったとされます。
 同書によると恐らく後に装甲車4輌も配属され、代わりに戦防砲営のうち半分の2個連が別の師に回され、また更に当初新編第22師に配属されていた戦車2個連の増強を受けているように読めます。
 この戦車2個連は第5軍直轄の装甲兵第1団第3営第10連のルノーZB戦車9輌、第2営第6連のCV35機銃戦車7輌です。
 4月末頃には装甲兵第1団第3連のT-26軽戦車6輌とCV35機銃戦車5輌が投入されますが、このT-26は昆明からラシオに分解輸送され組み立てられた10輌の一部でした。
 作戦中のT-26の損失は10乃至11輌なので、他の4~5輌も後に投入されたか撤退時に放棄されて失われたことになりますね。



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:モールメンも港湾にしてみようかと……

 OCS『South Burma』(仮)ですが、今まで港湾扱いにしていなかったモールメン(とマルタバン)を港湾扱いにしてみようかと考えました。


unit8379.jpg


 モールメンが元々港湾都市であったことは分かっていたのですが、ゲーム上、港湾がない方が史実を良く再現できるかもと思って、今までは港湾扱いを避けていたのです。というのは、モールメンに港湾があると……。

・英連邦軍や日本軍が、(史実では記述の見られない)海上輸送でモールメンに部隊やSPを入れてしまえる
・日本軍はラングーン攻略まではタイから一般補給を引いていた(あるいはまったく補給を受けなかった)と思われるので、モールメンが港湾能力を持って一般補給源となるのは史実と異なる

 などなど……。


 ところがその後、ゲーム上は日本軍がモールメンとマルタバンを占領できれば、そこを補給源とできるということにしていました(そうでないと、タイ国境からエクステンダーで一般補給を引くなどということになり、めんどくさいので、簡略化のため)。

 そしてまた、今日になって、「モールメンを港湾扱いにする(そして一般補給源となる)が、両軍ともそこに海上輸送はできない」ということにすれば、懸念がなくなることに気付きました(^_^; そしてまた、そうすれば、ルールの分量を減らせるということにも(マルタバンを補給源にできるようにとか、上陸用舟艇への積載に関して特別ルールを書いていたのですが、それらを削除できると)。


 また、通常そういうことはないですが、モールメンとマルタバンの間のヘクスサイドに港湾があるかのようにして、両方に港湾がかかっているのだと扱うことにしようと思います。それで、両岸にとっての一般補給源になれると……。




 それから、ラングーン港についてもこれまでのテストプレイで悩んでいたことがありました。

 OCSの港湾は、1ヒットで80%、2ヒットで60%、3ヒットで40%、4ヒットで20%の港湾能力になることになっていて、ラングーン港もそのようにしていたのですが、テストプレイしていると0ヒットか4ヒットかのどちらかに振れてしまい、その中間点でぐらぐらしてくれないことが多いのです。で、0ヒットだと英連邦軍に有利すぎ、4ヒットだと日本軍に有利すぎる……

 そこで、0ヒットと4ヒットの間での差をそれほどなくして、しかし両軍にとってはそのヒット数が重要である……という辺りにしておきたい。今回、試しに適当な数値でもってそのような感じにしてみました。

OCSなどのシリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏が亡くなりました

 OCSなどのシリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏が亡くなったとアナウンスがありました。







BoardGameGeekのディーン・エスイグ氏に関するページ


 エスイグ氏は様々なシリーズゲームを作成されましたが、私にとってはなんといってもOCSのシリーズデザイナーであり、またゲームデザイナーでした(↓で、『The Third Winter』までのデザイナー等をまとめてありました)。

OCSの各タイトルのデザイナーやデベロッパー等を一覧にしてみました (2020/08/16)



 私は中学生、大学生の時にいくらかヘクスゲームをプレイしていましたけども、「ドハマリ」と言えるほど何かのゲームにハマっていたわけではありませんでした。

 が、30代の頃に『激闘! マンシュタイン軍集団』にハマり、ウォーゲーム業界に出戻り。でも「ドハマリ」とまでは言えなかったのだろうと思います。


 その後、経緯をまったく覚えていませんが、OCS『The Blitzkrieg Legend』(2012年)の和訳をやることになり(OCSは憧れのゲームではありました)、同ゲームのプレイもいくらか始めていましたが、まだまだその頃は手探りでした。

 転機は、ワニミさんと出会って、ワニミさんちでOCS『Tunisia』を練習プレイさせてもらった時のことでした。ゾクゾクするほどの面白さを感じ、当時すでに売り切れであった『Tunisia』を手に入れるため、セカイモン(eBay)で中古のものを注文。

 ↓その頃のプレイ時の写真がこちらなどにあります。

『TUNISIA』キャンペーンの最初の5ターン (2014/02/02)



 OCSに「ドハマリ」した瞬間でした。


 その後、ワニミさんとは8年くらいにわたってひたすらOCSのみをプレイし続け……。ワニミさんは2022年10月に亡くなられましたが、今でもOCSは私にとってはとにかく面白く、「OCSであれば、どんなシチュエーションであっても必ず面白い」のかも?とまで思ったり。


 エスイグ氏は私にとっては最初から「神様」みたいな人でしたから、「ワニミさんが生きておられたらなぁ……」と今でも時々思うのとはまた全然違うと思うのですけども、こんなにも「ドハマリ」できるものを与えて下さった、恩人というか、ありがたい方というか……。


 エスイグ氏は、チャールズ&ロバーツ賞において、(以前数えたところによると)最も多く賞を獲得しているデザイナーであったと思います。エスイグ氏が賞をもらったゲームはOCSが最も多く、OCS作品だけを取り出すと『Enemy at the Gates』、『Tunisia』、『DAK』、『Sicily』、『Case Blue』となります(その後チャールズ&ロバーツ賞自体が休止したので受賞もなくなりましたが、賞が継続していたら他の継続作品も受賞し続けたのではないでしょうか)。


 『Crimea』で20作目となっているうちの12作目の『The Blitzkrieg Legend』でOCSを始めたというのは、「もっと早く始めてられればなぁ……」とは思うものの、まあそこらへんはしょうがない。それよりは、現在作ろうとしているOCS『South Burma』(仮)の作業をまた続けて(うまくいけば良いのですが……)、可能ならばOCS『Leyte』とかも作ろうとしてみて、エスイグ氏の遺産を拡張していければ……。


 BCSやOCSは(他のシリーズは良く知らないですが)、様々なデザイナーによってこれからも多くの新作が出版される予定になっていますから、まだ長くにわたって、エスイグ氏のシリーズゲームが出版され続けるはずです。


 ありがとうございました。多くの人達と同様に、私はあなたに多くのものを与えてもらいました。

北アフリカで第4インド歩兵師団を指揮し、後にモンテ・カッシーノの破壊を主張したトゥカー将軍について

 『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』を再び読み始めたのですが、北アフリカでの英連邦軍の改善について色々主張していたというフランシス・トゥカー将軍について頻繁に触れられているので、まずはトゥカー将軍について簡単にまとめておこうと思い、資料を漁ってみました。


 資料としては、現在手持ちでは↓に項目があったのでそれと、Wikipediaを参照しました。

『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』
『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』

英語版Wikipedia「Francis Tuker」



 写真はここですとか。




 フランシス・トゥカーは第1次世界大戦ではグルカ連隊の将校としてオスマン帝国に対する戦闘に参加し、作戦の改善に関する論文を書くなど、この頃から批判的、あるいは執筆系の人物である傾向を示していました。軍隊内でのニックネームは「ガーティー(Gertie)」であったそうですが、何に由来してなのか今回参照した資料には書かれていませんでした。「ガーティー」は普通、女性の名前として使われるようです。

 戦後は帰国してキャンバリーの参謀大学で学び、その後またインド軍でグルカ部隊などを指揮。

 1940~41年にはインド軍の軍事訓練局長を務め、1941年10月1日に新編の第34インド歩兵師団の師団長に任命されました。

 その2ヵ月後の12月30日(クルセイダー作戦後の、ロンメルがエル・アゲイラなどに退却していた時期)には、地中海戦域の第4インド師団長の職務をフランク・メッサーヴィから引き継ぎます。この時の退任メッセージで同師団には「NONSTOP」というコードネームが与えられ、その名にトゥカーは相応しかった……と『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』には書かれているのですが、英語版Wikipedia「4th Infantry Division (India)」にはそのようなコードネームについては何も書かれておらず、むしろその師団マークから「赤鷲(Red Eagle)師団」として知られていたそうです。

4th indian infantry div



 ↓OCS『DAK-II』の第4インド歩兵師団。

unit9746.jpg



 第4インド歩兵師団はそれ以前のコンパス作戦、エチオピア(東アフリカ)での戦いでも非常に活躍した師団でしたが、トゥカーはその後3年間、同師団の師団長として指揮し、この師団を自分の理想とする戦闘部隊に育てあげました。ウェーヴェル将軍は後にこの師団についてこう評したそうです。

「この師団の名声は、第10軍団【カエサルが最も信頼した軍団】、半島戦争の軽師団【ウェリントン麾下の最も強力な師団】、ナポレオンの老親衛隊などと並び称される、戦史上最も偉大な戦闘部隊の一つとして語り継がれるに違いない。」


 トゥカー将軍は戦後の書籍でも、「独創的で独立した精神」(『Plain Cook and the Great Showman: First and Eighth Armies in North Africa』P202)、「ほぼ確実に、西方砂漠(北アフリカ戦域)における最も優れた戦術家」『Fire-Power: The British Army Weapons & Theories of War 1904–1945』P242)と評価されているそうです。


 ところがトゥカー将軍の名前は、欧米においてもほとんど知られていないらしく、その理由として、『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』には大きく2つが挙げられています。

 トゥカーは他者の愚行を許容できず、特に、彼がもっと有能であるべきだと考える上官や同僚の軍団司令官達を目の敵にしたため、結果として多くの重要人物をこき下ろしてしまったのだ。【……】トゥカーに不利に働いたもう一つの単純な要因は、彼の健康状態だった。トゥカーは関節リウマチの発作に悩まされ、しばしば重要な場面で病床に伏すことになった(師団長ともなれば、ほとんどの場面が重要な場面であるが)。結局1944年2月、トゥカーは関節炎により、彼が愛した第4インド歩兵師団の指揮権を放棄しなければならなくなった。
『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』P81


 前者の傾向性について、同書では他にもこういう記述がありました。

 しかし、トゥカーは物事を主張しがちで、馬鹿にされるのを恐れず、常識に反するほど高くつくやり方を要求したため、思うような支持は得られなかった。

 トゥカーは、同時代の人々からは強引すぎると思われていたかもしれないが、同時に、優れたトレーナーであるという評判を得ることができた



 オーキンレックは、トゥカーの唯一の欠点は「常に地に足を付けてないこと」だと言ったそうです。



 トゥカーはイギリス軍の装備や戦術を批判し、改善を主張。トゥカーの三原則は「機動的装備群を、勝敗を決する会戦地点に送り込み、そして決定的勝利を得る」というものでした。


 ガザラの戦いの時には第4インド歩兵師団はまだ訓練中であったため、トゥカーは北アフリカにおける英連邦軍のオブザーバーとなることを要請されます。ところが、第8軍司令官リッチーは早速に、トゥカーが認めることができないような行動に出ました。側面を守るために、互いに連携できない距離に部隊を分散させてしまったのです。しかも、リッチーが構築していた地雷原は、士気と訓練度が高ければ機能したかもしれないものの、それだけの質を第8軍はまだ得ていなかったのです。

 トゥカーは英連邦軍の左翼を指揮するために派遣されましたが、バラバラの部隊が連なっていたため、自衛するには弱く、再編成するには機動力が足りず、意味のある反撃をするには力不足であり、崩壊してしまいます。むしろロンメルの側が、トゥカーの三原則 - 「機動的装備群を、勝敗を決する会戦地点に送り込み、そして決定的勝利を得る」を実行したのでした。

 戦闘開始から11日目の6月6日、トゥカーは中東戦域軍司令部に戻り、オーキンレック自らが第8軍の指揮を執るように要請しましたが、オーキンレックはこれを拒否。1週間後、第8軍はガザララインを放棄して、混乱したまま東へ撤退。結局オーキンレックは、6月25日になってリッチーを罷免し、自ら指揮を執ることを余儀なくされたのです。



 戦線がエル・アラメインに移り、中東戦域軍司令官がオーキンレックからハロルド・アレクサンダーに代えられ、第8軍司令官はモントゴメリーに代えられました。

 トゥカーはアレクサンダーについてこう書いていたそうです。

 私の会った高官で、アレクサンダーほど知性の片鱗もない司令官はいない。彼がかつて正しい作戦はもちろん、作戦計画なるものすら作ったのを見たことがない。たぶん一度も作らなかったのだと思う。イタリアでは、作戦を担当しようとさえしなかった。彼には自分の戦術がない。万事風の吹くまま、流れるままだ
『ビルマ 遠い戦場(上)』P68



 トゥカーはモントゴメリーについても、あまりに堅苦しく、想像力に欠ける人物だと考えており、最初は好ましく思っていなかった程度だったのが、後には反モンティ陣営にしっかりと身を置いていたそうですただし、モントゴメリーのやり方で勝利がもたらされた(そしてその後常勝であった)ことに関しては、たとえそれがトゥカー自身が考えていたほど見事なやり方ではなかったとしても、高く評価していたとか



 ↓OCS『Tunisia II』の第4インド歩兵師団ユニット。

unit8380.jpg




 チュニジアで、フォン・アルニム将軍の降伏に立ち会ったのはトゥカーでしたが、その勝利の瞬間に際しても彼は冷めていたそうです。
 私達はもう帰るから、アルニムに彼が持っているリボルバーとその他の個人的な武器を私に渡すように言った。彼はガチャガチャと音を立ててリボルバーをテーブルの上に放り投げ、次にペンナイフを投げた。私はリボルバーをジャケットの中に入れ、ペンナイフは私の幕僚に投げ渡した[......]アルニムの指揮車内での会話の間中、彼は自分達が何をされるかを恐れており、絶対に彼と部下達をフランス領アフリカ軍部隊に引き渡すべきではないと力説していた[......]私は、あなたと部下達は私の師団に引き渡され、あなた達の護衛はイギリス兵かインド兵かグルカ兵になるだろう、選択の余地はないと言った。私自身は、この会談では冷淡で無愛想だった。外交官でもない単なる軍人として、このような状況では、ドイツ軍司令官に対して少しも友好的な態度をとることはできなかった[......]戦争自体まだ勝利していないのだ[......]
『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』P97(原典はトゥカーの『Approach to Battle』P377-9)



 トゥカーと第4インド歩兵師団はその後、イタリア戦に参加。モンテ・カッシーノ修道院の破壊をトゥカーが主張したことに関しては、Wikipediaに詳しく書かれていたので引用してみます。

 トゥカーのイタリア滞在が終わりに近づいた1944年初頭、モンテ・カッシーノの戦いの最中、連合軍の司令官たちは、モンテ・カッシーノの修道院に対してどのような行動を取るべきかという論争を繰り広げていた。ドイツ軍はここを非軍事地帯と宣言していたが、多くの上級司令官は、ドイツ軍がこのような戦略的に重要な場所を占領しないとは信じられなかったのだ。トゥカーは、ナポリの書店で自分の師団が攻撃すべきモンテ・カッシーノの修道院建設の詳細を記した1879年の本を見つけた。彼は軍団長のバーナード・フレイバーグ中将にメモを書き、占領されないように破壊すべきだと結論づけた。彼はまた、少なくとも10フィート(3m)の厚さの石積みで作られた150フィート(45m)の高さの壁があるため、野戦工兵がこの場所を処理する方法はなく、また1000ポンド爆弾でも「ほとんど役に立たない」ため、ブロックバスター爆弾による爆撃が唯一の解決策であると指摘した。イタリアの連合軍を指揮していたハロルド・アレキサンダー将軍は爆撃に同意し(ブロックバスター爆弾は使用しなかった)、廃墟はドイツ軍に占領され、5月18日までその位置を維持した。



 その後トゥカーは重病になり、1944年2月から戦場の指揮を離れます。回復するまでの間、インド(セイロン島)方面の軽い任務をこなし、1945年7月14日にビルマの第4軍団の臨時司令官となりました(司令官のフランク・メッサーヴィが1ヵ月間休暇をとっている間)。そして7月から8月にかけて、日本軍のシッタン・ベンド作戦に対する戦いに参加しました。

 ……ということはつまり、現在作ろうとしているOCS『South Burma』(仮)の最終盤に登場する、ということになりそうです(軍団司令部ユニットだけですけど)。



 戦後は様々な執筆活動や芸術活動を行い、1967年に死去しました。


OCS『DAK-II』で、英連邦軍が諸兵科連合効果を使用できないようにするハウスルール案まとめ

 以前いくらか、OCS『DAK-II』で、英連邦軍が諸兵科連合効果を使用できないようにするハウスルール案について書いていたりしてました。

 で、ちょっと『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』という、北アフリカ戦の英連邦軍が学習していく過程を書いた本を再び読み進めていくことにしたら、そこらへんに関係する記述が出てきたので、ハウスルール案をまとめておこうと思います。



 まず、↓ということがありまして……。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)



 で、「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」において使用するハウスルール案として↓のようなのを出していました。
OCS『DAK-II』「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」3回目をハウスルール付きで開始しました (2021/10/21)から)

・(セットアップを除き)英連邦軍は各フェイズ終了時に、兵科マークが歩兵、機甲の2種類の異なる兵科ユニットを一緒にスタックさせておくことはできない(ゆえに、一緒に防御することもできない)。
・歩兵と機甲は、同じ攻撃に参加できない。
・砲兵ユニットや航空ユニットによってDGになった敵ユニットに対して、陸上ユニットは攻撃できない。
 ただし、独自の砲爆撃力を持つ支援グループ(歩兵)や旅団グループ(歩兵や機甲)等の、砲兵以外の砲爆撃によってDGになった敵ユニットに対しては、陸上ユニットは攻撃できる。
・これらのルールは、史実でモントゴメリーが就任したターンに廃止される。
【理由は北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)の辺りから】

・ゴットとキャンベルの能力を3から4に変更にする(つまり1悪くする)。
【オコーナーは優秀な指揮官であると思われ、3のままでいいと思うのですが、ゴットとキャンベルは戦術的には優秀とは言えない単なる勇猛な指揮官に過ぎないと考えた方がいいと思うので】

・英連邦軍のセットアップのSPの量を半分にする(端数切り上げ)。
【元のままでは、SPが有り余って困るほどでした】

・シナリオ7.5のメルサ・ブレガ周辺の英連邦軍の自由配置ユニットは、以下のように処理する。
1.塩沼には置けない。
2.移動モードでDGである。
【史実ではメルサ・ブレガ周辺の英連邦軍はシナリオが始まってすぐにダメージを負って撤退したのですが、シナリオの指定のままでは数ターンにわたってその周辺で粘れてしまいますし、枢軸軍はそこに手を出すことができません】

・イギリス第2機甲師団の訓練度は(「Training #2」ではなく)「Green」で7.5を開始する。つまり、第2ターン(4月1日ターン)には「Training #1」となる。
【どの本を見ても当時の第2機甲師団の訓練度はひどいものでしたが、ゲーム上では第2ターンには訓練が満了して強力な部隊になってしまいます】



 ↑ではゴットとキャンベルの能力値を4としていますが、↓では5が良いのではないかとしていて、今私は5が良いかと思います(また、↓の指揮官ハウスルールは使用しないとおかしなことになると思っています)。

OCS『DAK-II』の指揮官死傷チェックの改造ハウスルール案 (2021/06/13)



 また、イタリア軍の諸兵科連合効果も少し良くなかった面があるらしいので、イタリア軍への改造ハウスルール案も考えていました。

北アフリカ戦で英連邦軍は諸兵科連合できない(しない)……でもじゃあ、イタリア軍は諸兵科連合できるのか?(付:OCS『DAK-II』改造ハウスルール案) (2021/11/02)







 で、ここ以降で、『Fighting Rommel』で新たに見つけた記述とハウスルール案を追記していこうと思います。

 タッカーはバトルアクスの失敗の原因として、訓練不足、不十分な航空支援、装甲予備兵力の不足、歩兵の要塞意識の存在という4点を指摘しました。タッカーが、空軍はCAS【Close Air Support:近接航空支援】にさらに注意を払わなければならないと指摘したのも一理あります。シュトゥーカの急降下爆撃機が連合軍の野砲を無力化するのに効果的であったという彼の主張は正しいでしょう。英国の歴史家デビッド・フレンチは、RAF【イギリス空軍】はCASに関心がなかったと書いています。地上部隊に近接航空支援を提供することは、航空機の損失という点でコストがかかりすぎると考えていたからです。さらに、RAFは独立した航空機関として自らの存在を正当化するために、戦略爆撃という選択肢を全面的に採用していました。そのためRAFは、高速で移動する戦闘中にCASを提供するのに適した航空機も訓練されたパイロットも持っていませんでした。対照的に、ドイツ空軍は1939年までに、枢軸国地上軍にCASを提供するためのドクトリンと兵器(特にスツーカ)を持っていました。
『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P29

 ドイツ空軍は別部門でしたが、CASに重点を置いていました。イギリス空軍が地上部隊から航空支援の要請を受けてから3時間かかったのに対し、ドイツ空軍はDAKから要請を受けてから30分後に目標上空に現れました。このことは、アーサー・カニンガム空軍元帥の作戦シナリオの評価にも表れています。彼は、砂漠における空軍の独立した役割を視野に入れて軍事情勢を見ていました。カニンガムが求めていたのは、空軍の独立した戦略的役割でした。
『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P57



 この記述からすると、『DAK-II』の英連邦軍の爆撃機は、戦術爆撃機であっても対施設砲爆撃しかできない、ということでも良いのかもしれません。あるいは、通常の砲爆撃任務を行うことができるユニットや任務数をかなり制限するとか……?





CMJ52『赤い夕陽のナポレオン』のサマリーを作ってみました

 CMJ52『赤い夕陽のナポレオン』のサマリーを作ってみました。



unit8384.jpg




・移動力コストは、森が2、河川が+2。それ以外は1。
・1ヘクス移動保証あり(戦闘後前進時も。ただし、強行軍時にはなし)。
・ZOC停止。ZOC to ZOC可。総司令官と守備隊マーカーはZOCなし。
・マストアタック。
・スタック制限は部隊(軍団)ユニット1枚。ただし、総司令官、守備隊マーカーはスタック制限に含まない。
・部隊+総司令官の場合、作戦能力値は総司令官のものを使用。ただし、持てる戦力値(後述)は部隊指揮官の作戦能力値を使用。
・守備隊は防御1戦力(攻撃には使用できない)。退却の結果が出たら除去され、「連合軍占領マーカー」面に裏返す。
・戦闘は戦力比と戦闘結果表による。
・都市で防御でダイス目-1。河川ヘクスサイドが1つでもあればダイス目-1。
・攻撃時のみ、総司令官の攻撃ボーナス分+修正。
・戦闘結果の損害は、参加した部隊毎に適用。



・シークエンスは、↓のセグメントよりなる。各「行動」は「1.士気範囲確認(後述)」「2.移動」「3.戦闘」よりなる。

1.再編成(第1ターンは省略。壊滅した部隊が1戦力で戻ってきて、総司令官の作戦能力値分の補充が来る)
2.フランス軍第1行動
3.連合軍第1行動(ボヘミア方面軍かシレジア方面軍かどちらか。2連続は可だが3回は不可)
4.フランス軍第2行動
5.連合軍第2行動
6.フランス軍第3行動
7.連合軍第3行動
8。勝敗判定(パリから4ヘクス以内に連合軍部隊がいたらパリのモラルチェック。第3ターン以降に連合軍が占領すべき都市数を満たしていなかったら連合軍のモラルチェック)



・総司令官は↓の3人。戦力は持たない。攻撃ボーナス(★)を持つのは総司令官のみ

フランス軍:ナポレオン 作戦能力値5 ★★

シレジア方面軍:ブリュッヒャー 作戦能力値4 ★
 (シレジア方面軍:プロイセン軍(灰色)とロシア軍(濃い緑色))

ボヘミア方面軍:シュヴァルツェンベルク 作戦能力値3
 (ボヘミア方面軍:オーストリア軍(茶色)とロシア軍(明るい緑色))


・部隊は1個軍団と指揮官を表す。右上が作戦能力値、下段が初期戦力値(VASSAL版は、左下の黒字がその時点での戦力値。その右の白字が初期戦力値です)。




 このゲームは「作戦能力値(1~5)」がむちゃくちゃ重要です。以下、その辺を書きます。

・「指揮範囲」は、総司令官の作戦能力値+部隊指揮官の作戦能力値で、総司令官ユニットから各部隊に向かって、その範囲内であるかどうかチェックされます。例えば、ブリュッヒャー(4)とクライスト(3)の間の指揮範囲は7で、ブリュッヒャーから7ヘクス以内にいればクライストは指揮範囲内。


 「指揮範囲」は↓のタイミングでチェックされます。

・再編成セグメント
(指揮範囲外であるならば、補充の対象になれない。補充戦力は総司令官の作戦能力値分。部隊は、初期戦力値+その指揮官の作戦能力値までの戦力を持てる。)

・各セグメントの最初にある「指揮範囲確認フェイズ」
(指揮範囲内であるならば、移動力5。外である/移動開始時に敵ZOCにいたならば、移動力は作戦能力値と同数。)

・戦闘フェイズの実行中
(指揮範囲内の部隊にのみ「攻撃命令マーカー」を、総司令官の作戦能力値と同数だけ置ける。攻撃命令マーカーのない部隊は、戦力と作戦能力値のより低い方が戦力となる。防御部隊が指揮範囲外ならば、戦力と作戦能力値のより低い方が戦力となる。)



 他にも……。

・強行軍は移動を終えた直後に宣言。1D6して作戦能力値以下ならば、ダイス目分の追加移動力。上回ったならば、1戦力を失って作戦能力値分の追加移動力。総司令官は自動的に作戦能力値分の追加移動力+直前の移動で消費しきれなかった移動力を得る。(戦力1の部隊は強行軍を宣言できない)

・要求された退却ヘクス数が作戦能力値未満の場合、所有プレイヤーが退却路を決定する。以上の場合、1戦力を失った上で対戦相手が退却路を決定する。作戦能力値が高い部隊から退却を行う(総司令官が載ってたら、作戦能力値は総司令官のものを使用してOK(11.8により)。退却方向はフランス軍は西の2ヘクス、連合軍は東の2ヘクスに限定され、敵部隊が存在するヘクスに進入するならさらに1戦力を失う。(敵ZOCは何の影響もなし)

・要求された退却ヘクス数と同数の移動力で戦闘後前進ができるが、戦闘後前進する側の作戦能力値と同数までに制限される(敵が全滅しても、退却の結果が出ていなければ戦闘後前進できない)。1ヘクス移動保証あり。



・疑問点として、フランス軍側の攻撃で都市からフランス軍側が退却した場合、連合軍側は戦闘後前進は守備隊のいるその都市に戦闘後前進できるのか、書かれていないように思いました。とりあえず、15.3項に「守備隊のいる都市ヘクスに連合軍は退却できない」とはあるので、戦闘後前進もできないと考えるのが穏当ではないかと考えました。




 ルールはほぼこれぐらいでしょうか(ごく細かいものは省略しましたが)。

 特に、非フェイズプレイヤー側(防御側)の部隊が指揮範囲外であると、持っている戦力にかかわらず作戦能力値分の戦力しか持っていないことにされるのに気を付けねばならないのではないかと思いました。

 あと、退却方向が限定されるため、退却方向の2ヘクスを押さえてから攻撃すると、敵退却時にもう1戦力削ることができるのですが、これは重要なのか、それともあまり関係ないのか?(^_^;

 補充が結構来るので、強行軍とか戦闘とかをバリバリやっても良いのかなと思えました。


 戦闘結果表を良く見ていると、たとえば「3:1 +2」と「4:1 +1」のどちらでも選択できる場合、+修正が高めになる選択肢の方がお得?

 残り1戦力になったユニットは、壊滅しても1戦力が自動的に補充されて戻ってくるので、どう扱ってもよいという点で楽?(ただし、都市を持っていないと後方で復活せざるを得ないので、進撃が遅れるとかはあるかも)。


 連合軍側は、フランス軍が近くに来ていても殴っているよりも、とにかく都市を占領しに走らないと士気チェックが必要になり、まずいような気がしました。都市を占領しておかないと、再編成の拠点が前方に確保できず、マップ端から入って来なくてはならなくなりますし。

 シレジア方面軍は、第3ターン以降にマップ北端辺りから所属の部隊が増援で出てくるので、割と北の方向へ向かって移動していくのが吉であるようです。



 ルールの理解間違い、重要な作戦テクニックなどありましたらぜひコメント下さい!

1814年戦役に出てくる指揮官で、今までに拙ブログで調べていた人達一覧

 ひでさんと、コマンドマガジン52号『赤い夕陽のナポレオン』の解読プレイをしていました。






 私は1814年戦役についてまったく理解できていないのですが、指揮官系の話が好きなもので、プレイしていて「出てくるそれぞれの指揮官について知りたいものだ……」という知識欲がムクムクと……。


unit8384.jpg




 ただ、一部の指揮官についてはこれまでに拙ブログで調べたことがあったので、そこらへんをまとめてみようと思いました。


 これまでに拙ブログで取り上げたナポレオン関係の投稿は、↓でカテゴリ毎にアクセスできます。

ナポレオン戦争関係




 あと、↓で多数の指揮官についての記述をまとめていたので、そこから取り出してもみます(引用の□の中に書きます)。

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話 (2020/01/18)




■フランス軍

 フランス軍の指揮官については、ウジェーヌとかごく一部を除いては一人単位で調べたことがないので、ある程度のまとまりの中になりますが……。


 ネイ

Shakos『Napoléon 1806』に出てくるフランス軍指揮官の人物像まとめ (2018/08/23)

 貪欲さと大志は最も大きなモチベーションだった。ランヌ元帥〔仏:日W〕を褒めた人にナポレオンは言い返した。
「ランヌをそんな風に言うのは間違っている。ランヌとネイ〔仏:日W〕は、もし君の腹をかっさばくことが有利になると思えばそうする奴らだ。だが戦場では、それが無上の価値なのだ」

火のような赤髪のネイ、

 ネイは活力溢れる激励の言葉を多用した。
「躊躇するやつにのみ、死神が手を伸ばしてくる!」
 と彼は1814年のモンミライユの戦いで叫んだ。
「見ろ! 死神は俺には触ってこないぞ!」
 1年後、カトル・ブラで彼は言った。
「将軍、フランスは危機に瀕している。超人的な努力が必要だ。騎兵を率いて、イギリス軍の土手っ腹に突っこむんだ。やつらを倒せ! やつらを足下に踏みにじるのだ!」

 将軍達は、他の者とは超越した存在であるというイメージを作ろうとする傾向にあった。
 ネイ元帥は幕僚達と大きな距離を取っていた。行軍中も部隊の先頭よりさらに先におり、必要ない限り幕僚達に話しかけることもなかった。食事も一人で、自身の副官とさえ一度も一緒に食べはしなかった。彼は超然とした態度からのみ尊崇の念は得られると思っていたのかもしれないが、時にその度が過ぎていた。




モルティエ

モルティエ〔仏:日W〕は身長が2m近くあった。

 モルティエは1805年のデューレンシュタイン〔英W〕の戦いの時、兵士達を見捨ててボートでドナウ川を渡って逃げられるチャンスを拒絶した。
「ダメだ! 我々はあの勇敢な仲間達と離ればなれになってはならない。彼らと一緒に助かるか、あるいは一緒に死ぬかだ。」






■プロイセン軍


 プロイセン軍の指揮官については、↓で少しまとめたことがあったので、その中のものも引用で記します。

『戦争と平和』(AH)のプロイセン軍指揮官達 (2013/06/30)




ブリュッヒャー

ブリュッヒャーとフリードリヒ大王の喧嘩 (2012/07/28)
『ブリュッヒャーとプロイセン』第1回 (2012/10/08)
『ブリュッヒャーとプロイセン』第2回:スウェーデン軍の兵士となる (2013/03/22)
『ブリュッヒャーとプロイセン』第3回:1757年のブリュッヒャーとカール (2013/03/23)
1815年にブリュッヒャーが選ばれた理由 (2013/07/13)
ブリュッヒャーはなぜ最高司令官になれたのか? など (2014/01/23)
オラニエ公やブリュッヒャーの容姿について (2014/03/31)

 ブリュッヒャー〔普:日W〕は兵士達をやる気にさせる才覚がむっちゃあったタイプの指揮官。





ヨルク(ゲーム上ではヨーク)

 ヨルクはナポレオンによる1812年のロシア侵攻に、しぶしぶながら(フランス同盟軍とされていた)プロイセン軍団を率いて参加。しかしナポレオンの敗走の時に、プロイセン王の許可なしにロシア軍と協定を結んで独断でフランス同盟国から離脱。当初プロイセン王は激怒しましたが民衆はヨルクを歓呼し、後に王もそれを認めました。1813~14年戦役で活躍するも、1815年時には現役から遠ざけられて怒って引退(←だったと思うのですが、今ぱっと確認できず)。

 動じなさも賞賛されるべきだろう。ヨルク〔普:日W〕は1814年3月30日のパリ郊外で、自分のすぐ側に立っていた兵士が銃弾を受けて自分に倒れてくるのを見て言った。
「なんでこいつは、俺にこんなにひっついてくるんだ?」




クライスト

 クライストは1813~14年戦役で活躍。Laonの戦いではナポレオン自身に対して勝利を収めたとか? 1815年当初は西方ドイツのプロイセン軍を指揮し、ナポレオンと戦うことになるはずだったのですが、プロイセン王がその任をブリュッヒャーに任せることに決めたため、激怒したとか。なんかここらへんそういうの多い?(また調べます……)





ビューロー

ビューロー将軍について、まとめ (2016/02/18)

 ビューローも1813~14年戦役で活躍……しかし1815年戦役では、多くの将官がグナイゼナウより序列が上にならないようにするために外されていて、ビューローは唯一のグナイゼナウより序列が上の指揮官として1個軍団を指揮するも、グナイゼナウと仲が悪く&グナイゼナウがビューローの機嫌を損ねないように命令を丁寧に書きすぎて意図が良く伝わらず、ビューロー軍団の行動が遅れリニーの戦いに間に合わず。しかしそれが後に幸いして? ワーテルローの戦いにビューロー軍団を振り向けることができました。1816年死去。




ホルン(ゲーム上ではホーン)

ナポレオン戦争で戦ったプロイセン軍のフォン・ホルン将軍について (2024/04/04)





■オーストリア軍

シュヴァルツェンベルク

シュヴァルツェンベルク将軍について (2016/12/31)

シュヴァルツェンベルク〔墺:Biography: シュヴァルツェンベルク元帥〕は複数の国を協力させるという点で、他の指揮官にない能力を持っていた。





ヴレーデ(ゲーム上ではヴァーデ)

フェルトヘルンハレに顕彰されたヴレーデ元帥 (2015/03/28)
『ナポレオンとバイエルン』から、ヴレーデ元帥について (2018/07/14)



 あと、ヴュルテンベルクというのは、↓の同名の長男?

オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公について、まとめ (2018/09/02)




■ロシア軍

ランジュロン(ゲーム上ではランジェロン?)

ランジュロン将軍について (2014/09/09)

 ↑を見ていると、ザッケンやヨルクについても少し出てきていました。




バルクライ

バルクライ〔露:日W〕やクトゥーゾフも、多種兵科に通じていた。








 他の指揮官についても、軽く調べて、簡潔で面白い一覧とかにできたらなぁ……とも思いますが、手間がかかりますからどうなるか……(^_^;

『Triomphe à Marengo』解読の試みその1(序盤に焦点をあてて)

 先日「小さなウォーゲーム屋」さんから購入した『Triomphe à Marengo』(Histogame)の解読プレイを尼崎会(拙宅)で、SUNPOさん、ひでさんとで試みてみました。





 コメント頂いていたように、結構大変でした(^_^; が、巻末に「プレイの例」というのがあり、それに沿って検討してみたところ、その途中まで進めることができて、いくらか理解は進んだかと思いました(全体像の30%くらい?)。



 自分達のルール理解のためにもサマリー的なものを作っていこうと思うので、分かってきたことを(間違いがある可能性は全然あることを踏まえつつ)まとめていこうと思います。間違いありましたら、どしどしご指摘下さい!(^^)




 まず最初に、『Triomphe à Marengo』(マレンゴの勝利)というゲーム名なんですが、略称として、『トリマレ』というのはどうでしょうか。

 フランス語だと思われ、発音は「トリヨーンフ・ア・マレンゴ」あるいは「トリオーンフ・ア・マレンゴ」なんじゃないかと思います。略称は、『とりま』というのもアリかもと思うんですが、ネタに走りすぎな気はします(^_^;
(「とりま」=「とりあえず、まぁ」の意味らしいです。私は全然使いませんけど……)


 一方、↓のような略称説も!(^^)







unit8390.jpg


 最初の方に説明されることとして、1つのエリアの中でコマがいる(いられる)場所として「リザーブ」と「アプローチ」(↑でブロックしているコマがいる場所)がある……という話があります。

 これらが何を表しているのかなんですが、解読プレイをしている内に、↓ということなんじゃないかと思いました。

・敵前(アプローチ)【敵を前にした前線にいる状態。】
・未投入(リザーブ)【前線へ投入されていない状態。敵前から未投入状態にされることも全然ある】


 未投入(リザーブ)から敵前(アプローチ)に移される、というのは、そのエリア(戦場のその辺り)で、未投入の状態から敵前に移される、ということでしょう。

 1つのエリアには「アプローチ」が3つとか5つとかあったりするので、そのエリアには敵前になる可能性がある面がそれだけあり、そして敵前(アプローチ)にコマが置かれていれば、その面はブロックされている。ブロックされていない面は脆弱である(そこから騎兵が急襲してきたりすると自動的に敗北してしまう)。

 自軍ターン開始時には(2番目に)「アプローチの更新」という手順があり、敵がいないエリアの敵前(アプローチ)に置かれているコマは未投入(リザーブ)に強制的に戻されます。逆に、敵がいるなら、戻せません。これも、アプローチにいてもそれが実質「敵前」でないなら未投入状態にされる、ということでしょう。


 あと、「アプローチ」には「狭いアプローチ面」と「広いアプローチ面」があり、狭い方はコマ1個で完全ブロックできるけど、広い方はコマ2個以上でないと完全ブロックできない(「部分ブロック」という、やや脆弱な状態)。

 それから、防御側のアプローチに描かれている兵科マークは、そこへ突撃する時にその個数だけ戦力が引かれます。「歩兵1」は常に描かれている?ので、防御側の方が有利だということを表している? 湿地込みの川だと「歩兵2・騎兵2」だったりして、それだけ攻撃には向かない面だということになります。「砲兵1」は建造物エリアへ/から描かれていて、そもそも砲撃できません。




 で、「アクション」として6種類が説明されますが、それらの特徴をいきなり全部覚えるのは難しかったので、プレイ上最初に必要な(そしてまた、このゲーム上ではかなり重要だと思われる)「Road March(道路行軍)」について。


(以下、シークエンスに従ってゲーム序盤から)
 初期配置が終わると、オーストリア軍ターンから始まります。

a.Morale(士気トークン)の獲得
【第1ターンのトラック上にある2つの赤い士気トークンを士気ボックスに移します。このMorale(士気トークン)がエリア上に移されたり、除去されたりしていき、士気ボックスにもエリアにも1つもない状態になったら士気崩壊して敗北します
b.アプローチの更新【既述。第1ターンには該当コマなし】
c.アクションの実行

 ↑の「c.アクションの実行」で、各ターンにCommand(指揮ポイント)が3ポイント使用可能であり、それを使用して6種類のアクションを実行していくわけで、これがメインの行動となります。


 ……が。オーストリア軍は最初、「Road March(道路行軍)」(と、特別に舟橋を使って1コマを1エリアだけ移動)しかできません(すべてのオーストリア軍コマは増援としてマップに入ってきて、そして増援は両軍ともRoad March(道路行軍)で入って来なくてはいけないので)。

 「Road March(道路行軍)」とは、道路(舗装道路と小道の2種類あります)で繋がっている、あるエリアの未投入(リザーブ)から、1~3個先のエリアの未投入(リザーブ)へコマを移動させること……というのが基本。

 そしてまた、これが、「舗装道路だけ」を通って行われるなら、Command(指揮ポイント)が必要ないのです!



unit8386.jpg

 ↑オーストリア軍はマップ西端真ん中あたりの舗装道路(と舟橋)から入ってきます。マップ上で赤茶色で最も濃く見えている線が「Main Road(舗装道路)」。それより細いのが「Local Road(小道)」です。


 ということは相手方としては、Main Road(舗装道路)を空けておくと、敵がそこからCommand(指揮ポイント)を使用せずに入ってきて、しかもさらに別のコマにCommand(指揮ポイント)を使用したアクションもされてしまうわけですね。



 しかしRoad March(道路行軍)にも色々と制約があります。

 先述の「道路から道路へ」「リザーブからリザーブへ(後述の例外あり)」の他に、

・1コマずつしかアクションできません(他の種類のアクションでは、3コマいっぺんにできたりします)。
・1コマずつしか次のエリアに入っていけません。
・1つの交差部(エリアと道路の交差する所)を道路行軍で通れるのは、1ターンに3コマまでです。


 プレイの例ではオーストリア軍の3コマ(+舟橋での1コマ)がRoad March(道路行軍)で入っていくのですが、Main Road(舗装道路)しか通っていないのでCommand(指揮ポイント)をまったく使用しておらず、私は「もしかして、3コマだけでなく無限に入っていけるのでは?」と思ったのですが、↑の一番最後のルールによって、それが制限されているということですね(^_^;


 それから、プレイの例ではRoad March(道路行軍)の先頭のコマが、移動せずに次のコマを待っているかのような選択肢が示されていて、ルール上ではそれができるとは書いていないような気がするのですが、プレイの例から類推するとそれはできるのだろうな、と。



 また、重要な特性として、騎兵がRoad March(道路行軍)しているのであれば、その途中(あるいは最後)に、Cavalry Continuation(騎兵の継続行軍)でいきなり敵エリアに隣接する敵前(アプローチ)に入って、Maneuver Attack(急襲)ができます。しかもこれも、Command(指揮ポイント)を消費しません!! (((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

 このあたりのことを述べられているのが、↓?

『Triomphe à Marengo』初見の感想


 史実から考えると、歩兵は見えている騎兵に対しては急いで方陣を組むなどして対抗できるのですが、見えていない場所からいきなり騎兵が出てくるとそれも間に合わずにやられてしまうということがあったそうです。そういうのに似たことが再現されるということでしょうか。




 で、オーストリア軍ターンは終わったものとして、次のフランス軍ターンについて。

 初期配置のフランス軍コマ(9コマ)は、オーストリア軍に奇襲を受けたとしてそのすべてが混乱状態で最低限の行動しかできず、回復させる必要があります。(「混乱状態」や「回復」というのは、この最初の9コマに対してのみ適用されるものだと思います。また、混乱状態かそうでないかを区別する方法がない?ので、オハジキなどを用意する必要があると思われます)

 1Command(指揮ポイント)を使用して回復を行います。

 この時、マップ上に回復済みのコマが2個以下であれば、1コマしか回復できません。3個以上あれば、2コマ回復できます。

 当然、最初は回復済みが0個ですから、1Command(指揮ポイント)で1コマしか回復できず、しかも最初のターンに1Command(指揮ポイント)で2コマ回復できることはあり得ないということになります。

 そして、1つのエリアに2コマいるなら、その両方を回復させるのでなければなりません。

 第1ターンには回復しかできないということはなく、回復させたコマに別のアクションは行えます(「アクションしたコマは、同じターンにもう1回アクションはできない」という制限がありますが、回復はその例外となります)。

(ちなみに、「回復」=「再編成」だと思いますが、ややこしいので↑では「回復」に統一しました)





 今回の解読はここらへんまででした(あとちょっと戦闘をしてみたくらいです)。

 すでに第1ターンから、特にフランス軍プレイヤーにとっては悩ましい状態でありそうな気がします。


 yuisikaさんのブログ↓にも、サマリー的なものがありますのでそちらもどうぞ。

「Triomphe a Marengo」(マレンゴの勝利)(Histogames)を対戦する



 yuishikaさんとは異なるアプローチで説明的なものを作ってみようとしましたが、うまいような、うまくないような……。

 多分、理解間違いが大量にあるかとも思われますので、ご指摘お願いします!(修正していきますので)



OCS『Beyond the Rhine』のマップ上にBCS『Arracourt』のマップを重ねてみました

 アメリカ軍戦車が活躍して、アメリカ人のミリタリーファンにとっては非常に有名らしい「アラクールの戦い」について私は何も分かってないので(多分、日本ではそれほど有名ではないのでは……一応、ドイツ軍の装甲旅団というのがうまくいかなかった話だというくらいの知識です)、ふと思いつきまして、OCS『Beyond the Rhine』のマップ上にBCS『Arracourt』のマップを重ねてみました。



 「アラクールって、ルール工業地帯の周辺あたりなのかなぁ~」と思って探していたら、全然違いました(>o<)


unit8394.jpg


 ↑が『Beyond the Rhine』のフルマップ4枚全景で、その南の方に赤い□で囲んだ部分がBCS『Arracourt』の範囲です。
(両作品とも北が上ですが、『Arracourt』のマップを少し傾けた方がより地形に一致しそうだったので傾けました)




 ↓BCS『Arracourt』のマップ周辺をより拡大したもの。

unit8393.jpg


 メッツ(Metz)、ナンシー(Nancy)などが近くにあります。

 見ていて気付いたのが、プランサンセット5号のOCS『Beyond the Rhine』の記事に書いていた、日系2世アメリカ軍部隊の第442連隊戦闘団が苦闘した「ブリュイエール(ブリエア)」や「失われた大隊(Lost Battalion)救出作戦」の場所が近いのではないかということで、確認してみたら前者がB、後者がLの場所でした。おおおお……。

 前者が1944年10月20日、後者が10月30日の話で、一方で「アラクールの戦い」は9月18日頃からの話らしいので、それより前の話だということになります。





 ↓BCS『Arracourt』のマップ部分をアップにしたもの。

unit8395.jpg


unit8396.jpg


 BCS『Arracourt』マップの南側にリュネヴィル(Luneville)の街がありますが、そこしかOCS『Beyond the Rhine』に地名が記されている場所がなかったので苦労しました(>_<) BCS『Arracourt』のマップ中央より少し上あたりにヘクスが赤く囲まれているのがアラクールの小村で、その北の方にシャトー・サラン(Château-Salins)の町、またマップ北東端にデューズ(Dieuze)という村があります。

 OCS『Beyond the Rhine』は1ヘクス3.5マイル(約5.6km)で1ターン3.5日ですが、BCS『Arracourt』は1ヘクス1kmで1ターン1日です(9月18日ターンから30日ターンまで)。




 手持ちの資料で、アラクールの戦い周辺の事情についてある程度記述のあるものを探してみた(アラクールの戦いだけを扱った本は当然ながら持っていないので(^_^;)ところ、『Atlas of the European Campaign 1944-45』に1ページ弱ほど、周辺事情について書かれていました。

 で、それを和訳してみつつ、数ページある関係地図に目を通していて、気付いたのが……。

「あれ、アラクールの戦いって、OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンゲームが始まって割とすぐの戦いじゃないか!?」

 ということ(気付くの遅すぎ……?)。


 OCS『Beyond the Rhine』は1944年9月5日ターン(メッツの攻略戦が始まった日)から始まります。しかも……。

 9月5日ターン(メッツ攻略戦開始)
 9月8日ターン(ナンシー周辺へのアメリカ軍攻勢)
 9月12日ターン(アメリカ軍のナンシー包囲への動きに対して、ヒトラーがマントイフェルに反撃を命じる)
 9月15日ターン(マーケット・ガーデン作戦開始/アラクールの戦い開始)
 9月19日ターン(アラクール周辺でのドイツ軍装甲旅団による反撃、そして失敗)
 9月22日ターン(マーケットガーデン作戦中止/米軍はアラクール周辺で防御しやすいラインまで撤退)
 9月26日ターン
 9月29日ターン(アラクール周辺の戦いが終わる)



 って、完全にマーケット・ガーデン作戦と同時期の戦いだったのですね……! 私はもっともっと後の、もしかしてバルジの戦いより後の話だと思ってました(^_^;(だって、アメリカ軍戦車部隊がパンター部隊に対して大活躍っていうし……)


 でもそうすると、OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーン開始すぐの目玉として、北方ではマーケット・ガーデン作戦、南方ではメッツ攻略戦とアラクール周辺の戦いというのが、完全にあったわけですね(アメリカ人大歓喜!?)。私はメッツ攻略戦というのは一応ある程度理解していたものの、アラクールの戦いというのはまったく理解していませんでした……。


 しかも、以前少しやったOCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンで、私はまさにメッツやナンシー周辺のパットン第3軍を指揮していたという……(そして、ナンシー周辺で戦っていたのですが、ライン川近くへ米軍戦車部隊を突進させてドイツ軍装甲旅団に壊滅させられかけていたのです……バキッ!!☆/(x_x))。

 例えば……
OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第2ターン後攻 (2019/05/04)
OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第4ターン先攻連合軍 (2019/06/23)

 当時のキャンペーン序盤プレイへのリンク集は↓こちら。
OCS『Beyond the Rhine』6.1 キャンペーンゲーム





で、OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンのセットアップ画像に、『Atlas of the European Campaign 1944-45』のマップ画像による戦線や地名を記入したものを作ってみました。

unit8392.jpg

 9/5?が実線、9/15が少し破線(突破されてて戦線に隙間あり)、9/20がかなり破線(同前)、9/25は戦線が下げられた状態で濃紺でむっちゃ破線になってます。


マップ82:ナンシー周辺での第12軍団橋頭堡 1944年9月

 【麾下のアメリカ第3軍の】北側のメッツ近郊での戦いに苦戦していたため、パットンは【第3軍麾下の南側の】第12軍団にナンシー近郊での渡河を試みるよう指示。9月10日から11日にかけて、米第35歩兵師団がナンシーの南でモーゼル川を越える足掛かりを得たため、独第15装甲擲弾兵師団が反撃。米第4機甲師団の戦闘司令部Bはバイヨン(Bayon:『Beyond the Rhine』のB25.09?)運河の浅瀬を発見。この地域のモーゼル川の流れは戦車を押し流すのに十分なほど浅く、戦闘司令部Bはすぐにこの橋頭堡から移動しました。9月11日夜、米第35師団隷下の第137歩兵連隊は戦闘司令部Bと合流し、橋頭堡から押し出し始めました。ナンシーの包囲を完成させるため第4機甲師団は9月13日早朝、米第80歩兵師団が以前に占領したデュールアール(Dieulouard:『Beyond the Rhine』の38.11? )橋頭堡で川を渡河。この橋頭堡はドイツ軍の激しい攻撃を受けていましたが、戦闘司令部Aはドイツ軍の攻撃を撃退し、ナンシーの北、シャトー・サラン(Château-Salins:BCS『Arracourt』マップ北端)方面への進攻を開始しました。

 米第4機甲師団によるナンシー包囲の可能性はベルリンで大きな警戒を引き起こし、ヒトラーは独第5装甲軍にパットンの先鋒を粉砕するよう命令。これは、ヒトラーの計画したヴォージュ県(ナンシー南部の、エピナル(Epinal)を中心とする県)への装甲攻勢のために蓄積されていたリソースを利用したものでした。この攻勢に投入されるはずだった2個旅団は、すでにこれまでに米第3軍に対する局地的な反撃で浪費されていました。第108装甲旅団は9月8日のメイリー(Mairy:場所特定できず)近郊での第90師団との戦闘で、第112装甲旅団は9月13日、ドンペール(Dompaire:EpinalとVittelの中間地点。20.11辺り)近郊でフランス軍第2機甲師団との戦闘で。9月18日、第5装甲軍はリュネヴィル(Luneville)近郊で第4機甲師団の側面を攻撃するために3個装甲旅団の一部を派遣。第111装甲旅団はその市街への進路中で米第42騎兵中隊と衝突し、他の2個旅団が目標に到達できなかったため、攻撃は頓挫。

 9月19日、第113装甲旅団はアラクール周辺で第4機甲師団戦闘司令部Aへの攻撃を開始しましたが、この攻撃は大きな損害を出して撃退されました。翌日も戦闘は続き、第111装甲旅団は一連の激しい戦車戦に参加。アラクール周辺の戦闘司令部A部隊を制圧することができず、9月22日にはデューズ(Dieuze:BCS『Arracourt』マップの北東端)方面に攻撃の焦点を移しましたが、結果は芳しくありませんでした。これらのバラバラな攻撃はこの2個装甲旅団を焼き尽くし、攻撃が再開されたのは9月24日のことで、独第11装甲師団が南東から、独第559歩兵師団が北からアラクールを攻撃しました。

 9月23日、ブラッドレーはパットンに、補給の問題から米第3軍は守勢に転じざるを得ないので、これ以上ザール方面(独仏国境地帯)への進攻を中止するよう指示。その結果、9月25日、第4機甲師団戦闘司令部Aはアラクールに近い、より防御しやすいラインまで撤退。ドイツ軍の攻撃はアラクール周辺に沿って数日間続きました。9月29日、アラクールの東の丘陵地帯で戦闘が激化する中、G軍集団の新司令官ヘルマン・バルク大将はバート・クロイツナッハ(Bad Kreuznach)の司令部にフォン・ルントシュテット西方総軍司令官を訪問。バルクはルントシュテットに、少なくとも140両の戦車とより多くの砲兵の増援を受けなければ、ロレーヌ地方(メッツ、ナンシー、エピナルなどを含む地方)でパットンに対する攻勢行動を継続することは不可能であると告げました。フォン・ルントシュテットは、いかなる増援も問題外であると答え、ヒトラーの目的を達成することなくロレーヌ地方の装甲攻勢が終了することを黙認。2300時、バルクは第5装甲軍に攻撃中止を通達。ボロボロになった第11装甲師団は戦線から離脱し、防御陣地を確保。

 その結果、アラクールの戦闘は膠着状態に終わり、ヒトラーのヴォージュへの装甲攻勢のために蓄えられたリソースの大半は、パットン率いるアメリカ第3軍に対するバラバラの攻撃のために浪費されてしまったのです。
『Atlas of the European Campaign 1944-45』P180





占守島の戦いをGTS(Grand Tactical Series)やCSS(Company Scale System)の超簡易版的なシステムで?

 「占守島の戦い」の自作ゲームを作るなら……ということについてまた考えてました。







 「積み木ゲームにしてはどうか」というアドバイスも貰ったんですが、今日ちらっと考えたのは、BCSの超簡易版とかではどうかとか。

 でもGTSという話もありましたし、そこらへんどうなんだろうとちょっと検索したりしてたんですが、OCSが最短で1ターン2日、BCSが1ターン1日程度、GTSが1ターン2時間で、占守島の戦いは1ターン2時間とかでないと再現は難しいと思われるので、やはりGTSぐらいの方が良いのかと思いました。

 で、GTSですが、シリーズデザイナーのアダム・スタークェーザー氏(『激マン』の英語版を作ったりもした人)がMMPと喧嘩別れした?というのは知っていたのですが、その後GMTへ移ってGTSとほぼ兄弟のCSS(Company Scale System)というのを作っており、そのシリーズゲームにサイパンとかグアムとかの、ある意味占守島の戦いと同じようなシチュエーションのゲームが出ているということを初めて知りました(^_^;

【Company Scale System】CSS Rules First Impression
【Company Scale System】「Saipan:The Bloody Rock」Dog Day Solo-Play AAR Part.1
【Company Scale System】「Guam:Return to Glory」

(市川さんのブログは基本的に楽しみにしているのですが、その時に興味を持っていない話題だと読まないもので……(^_^;)


 見ていると、占守島の戦いにも結構合いそうな感じだと思いました(和訳も落ちてました)。が、私が欲しいような占守島の戦いのゲームに当てはめるにはシステムが複雑すぎるので、ごくごく一部をいいとこ取りだけして超簡易版的な感じで作ろうとしてみるのが良さそうかも……。



 考えている内に、これまで「どうしたものか」と思っていた部分に色々解決策が思いついたので、メモっておきます。

・ソ連軍の司令部を積んだ上陸用舟艇が上陸前に、日本軍の砲撃で沈んでしまったためにソ連軍が統制を失って不利になったという話があるのですが、「司令部は1つだけ」という思い込みがあったので、ゲーム上では「運ゲー」になってしまうと思ってました。が、「大隊司令部ユニット」が例えば3つあるとかにすれば、0か100かの運ゲーは避けられるじゃないかと思いつきました(^_^;

・日本軍側は、上陸海岸の両端の沿岸砲台と内陸の遅滞用部隊の間でセットアップ時にリソースを割り振らなければならない(リソースは乏しい)とかにすれば悩ましくて良いかも。あと、リソースの割り振り加減がソ連軍側には分からなくて、沿岸砲台が撃てないというランダムイベントがあったりとかしたら面白そう。

・四嶺山の洞窟陣地は、どこにそれがあるか分からなくて、ソ連軍が踏んだら初めて分かるとか。

・8月18日の正午ぐらいまでにソ連軍が(1ヘクス500mのA3マップで)マップ南西方向に突破したら、ソ連軍側が勝利するとか。ソ連軍側は迅速に占守島を占領できるつもりだったし、また終戦もしていたから迅速に占領しなければならなかったので、早期に強制的にゲームが終了してしまうのにソ連軍が追われている、というので良いだろうとも思われ(エポック『エル・アラメイン』が4ターンで強制終了するのと同じようなものですね)。

・一方で、史実で日本軍の戦車部隊が突っ込んだことによってソ連軍側が士気阻喪していた面もあると思うので、攻勢がうまくいかないとガタッと士気が下がる(逆にうまくいったら士気が上がる)とかってシステムにして、割と膠着せずにバランスが急激に傾いて決着が付いてしまうというシステムでちょうどいいのかも。


・ソ連軍の上陸用舟艇の進入を3列にして、上陸海岸を3ヘクスにする。また、上陸用舟艇を大きいもの、中くらいのもの、小さいものを用意し、それらの装甲値に差を付ける。日本軍側の大砲2門は3列から任意に目標を選べるが、真ん中の列は少し当たりにくい。

・ユニットは表が完全戦力面、裏が減少戦力面とし、ソ連軍側は物量、日本軍側はアクションレーティングが高いようにする。10面体ダイスで同時射撃解決をし、アクションレーティングと地形効果でダイス目に±修正を与える。9出ろシステム?

OCS『Crimea』のシナリオ3「鉄十字勲章」について

 ミドルアース大阪で、古角さんとOCS『Crimea』のシナリオ3「鉄十字勲章」をプレイしてみることができました。

 クリミア戦の後半に入り、1943年9月から1944年1月にかけて(全36ターン)、ソ連軍の攻勢に対して枢軸軍はクバン橋頭堡から撤退するも、クリミア半島は保持しようとします。







 結論から書きますと、このシナリオもまた素晴らしく面白そうな出来になってました。

 しかも、OCS『The Third Winter』などの「オストフロントセット」*をプレイする上で重要になってくる、ソ連軍の正面軍司令部の「攻勢態勢」「再編態勢」を非常に分かりやすく、楽に習得できる「練習シナリオ」にもなっていると思いました。そういう意味で、『The Third Winter』などへのステップアップのためにも非常に有用でしょう。

*「オストフロントセット」:アントニー・バーケット氏デザインによる、OCSの中でも1943年9月~1944年4月にかけての東部戦線を再現するゲームセット。ウクライナ戦区を扱う『The Third Winter』(2021年)、クリミア戦区を扱う『Crimea』(2023年)、中央軍集団戦区を扱う『The Forgotten Battles』(2024年プレオーダー開始)、北方軍集団戦区を扱う『The Hero City』(デベロップ中)の4作で、一部、または全部を連結してプレイ可能となります(『Crimea』以外の3作はフルマップ4枚の作品です)。


unit9786.jpg









 このシナリオ3「鉄十字勲章」で最も重要なのは、ソ連軍の「上陸拠点(Beachhead)マーカー」の再使用サイクルだと思われます。

unit8411.jpg


 シナリオ開始時に「Ready」(使用可能)となっており、第1ターンにソ連軍プレイヤーは枢軸軍前線の後方に上陸作戦を行い、そのヘクスに置いてその機能「1SP分の港湾として使用できる(補給源になれる)」「10ヘクス以内の正面軍司令部の下(あるいは周囲)にあるSPを2倍のコストで上陸拠点から受給できる」を使用すべきなのでしょう。


 恐らく↓の画像の左端に上陸拠点マーカーを置いてあるあたりとか(史実ではそことかと、タマン半島の北側にも上陸作戦を行っていたようです)。

unit8409.jpg




 で、上陸拠点マーカーはソ連軍プレイヤーの任意で取り除けるので、数ターンで取り除き、再使用のための準備期間9ターンのサイクルに乗せます。このシナリオは全36ターンなので、例えば、

 第1ターンから2ターン使用、9ターン準備期間
 第12ターンから2ターン使用、9ターン準備期間
 第23ターンから2ターン使用、9ターン準備期間
 第34ターンから2ターン使用

 と、4回、枢軸軍前線の後方に上陸作戦を行える可能性が理論上ありますが、まあ毎回「2ターン使用」はさすがに短すぎるので、上陸作戦は3回が現実的でしょうか


 また、↑で2回目の上陸作戦が可能になる第11~14ターンあたりにダイス目チェックで、ウクライナに第4ウクライナ正面軍が「攻勢態勢」で到着します。その最初のターンの到着場所と戦力は↓で、2ターン目にも同じ程度が来ます(ただし2ターン目はSPはなし)。

unit8408.jpg



 そして第4ウクライナ正面軍は、到着の2ターン後(3ターン目)に戦車部隊が退出し、さらに「再編態勢」にさせられて攻勢するにはものすごく不向きな状態(攻撃時のアクションレーティング-2とか)になって、SPは基本的に来ません。

 ↑この第4ウクライナ正面軍が攻勢ができる2ターンとほとんど同時に、ケルチ半島方面で上陸作戦を行うことが重要だろうと思われます(古角さん説。私は最初、上陸作戦は4ターン目や5ターン目まで待った方がいいのではないかという説を出したのですが、最終的に古角さん説に敗北しました(^_^;)。



 第4ウクライナ正面軍ですが、ソ連軍プレイヤーが補充のダイス目で11か12を出すと活性化されて1ターンだけ「攻勢態勢」になり、SPとユニットが補充されるので、上記の2ターンが終わった後も枢軸軍プレイヤーは気を抜くわけにはいきません

 そしてソ連軍プレイヤーはその後も、1回程度は後方に上陸作戦を行えますから、ぜひとも最後の上陸作戦の機会まではプレイを継続したいでしょう(^^)


 また、ソ連軍の正面軍は「攻勢態勢」と「再編態勢」(攻勢には向かないが、防御時にはアクションレーティング+1とか、防御用の戦闘補給がノーコストとか、防御がむっちゃ楽)を数ターンおきに繰り返すことになるのですが、「再編態勢」の時にはできることが少ないのでプレイ感覚はかなり楽になるでしょう(再編態勢かどうかは枢軸軍プレイヤーにも明らかにされるので、枢軸軍プレイヤーもひと息つけます)。シナリオ開始時からいるのは「沿岸正面軍(Coast Front)」だけで、あとは前述の第4ウクライナ正面軍が途中から入ってくるだけです。



 枢軸軍プレイヤーは、セットアップ時点ではそのクバン橋頭堡の前線に陣地や川があり、その線を保持したくなりましたが、史実を見ると数ターンでクバン橋頭堡(タマン半島)を放棄してケルチ半島側へ引っ込んだようなので、できるだけ整然と、すぐに撤退すべきなのだと思われました。

 勝利条件的には、枢軸軍はフェオドシヤ(ケルチ半島の根元南岸)を保持できていればよく、ケルチ半島全部を取られても勝利できますから、ケルチ半島全域も無理に守る必要はありません。

 一方、ソ連軍はシナリオ終了時に「セヴァストポリから10ヘクス以内に、一般補給下のソ連軍攻撃可能ユニットが1ユニットでも存在」すれば勝利できます。ですから、クリミア半島内への入り口(ウクライナ方面と繋がる2箇所、ケルチ半島の根元)をなんとかこじ開けて、その状態を維持したいところです。枢軸軍はそれをなんとかして阻止せねばならないわけです。




 このシナリオは恐らく、OCS『Crimea』の中で使用、習熟しなければならないルールが最も多く、期間も最長なのですが、もしかしたら最も面白そうな出来なのではないかと思いました。『Crimea』はそれぞれのシナリオが非常によく出来ていて面白そうで、入門用シナリオも複数あるなど、単純に「OCSでクリミア戦域の全体を再現してみました」というものを遙かに超えた傑作ゲームになっているのではないかと思い始めています(^^)



エスイグ作品とシモニッチ作品との大きな傾向性の違い?

 昨日のミドルアース大阪で、エスイグ作品(というかOCS)とシモニッチ作品との大きな傾向性の違いについて話が出て、ある程度「なるほど……?」と思いました。


 私はシモニッチ作品を、複数持っていたこともあったのですが、プレイしたことは残念ながらほとんどありません(『The Legend Begins』を少し、一度だけ?)。でも興味を持っていないわけではなく、楽しめそうならやってみたい気持ちは持っています(特に『Ukraine 43' Second Edition』とか『North Africa 41'』あたりは気になってます)


 エスイグ作品とシモニッチ作品の「大きな違い」ということで話が出たのは、シモニッチ作品は「ルール(の精緻度とか?)がすごい」ということで、少し見方を変えて言うと「ルールの規定による度合いが高い(あるいは非常に高め)。細かい違いをルールを増やして(変えて)再現する」であるとの説(仮説)でした。

 それに比べると、エスイグ作品は「ルール上によりも、カウンター上に書いてある度合いが高い」? そしてルールは、シリーズルールで一般的な部分のみを規定する(そもそもエスイグ氏は主にシリーズルールを作る人で、個別のゲームのルールは別のデザイナーが特別ルールとしてくっつけるわけです)。



 そういう話が出て、隣のテーブルに広げられていた『North Africa 41'』のユニットを見に行ってOCSと比べて「なるほど」と思ったのは、

・『North Africa 41'』では、歩兵の移動力は3。戦車部隊は5、機甲偵察で6とか。しかし、道路では歩兵は移動力+5(で8)になるのに対し、戦車部隊は4倍で20になったりする。

・OCSでは、歩兵の移動力は3、移動モードでは5とか。戦車部隊は8、移動モードで16とかって、カウンターの表と裏を見ると書いてある。


 そして戦闘においても、シモニッチ作品はルール上の規定で複数の特別な強さを表す傾向性がある?(本当にそうなのかどうか私はちゃんと見ていません(^_^;)のに対して、OCS(やBCS)なんかはアクションレーティングという数値が全ユニット上に書かれてそれで強さのほとんどが規定されている(他にも機甲・機械化ユニットは平地で攻撃力2倍とかもありますけど、効果はそれほどでかくはない)。



 そうすると、シモニッチ作品というのはテキスト(ルール)の組み合わせの妙とかに真髄があり、喩えて言うなら村上春樹作品みたいな?(全然違う?(^_^;) それに対してエスイグ作品というのはテキストの妙とかはあまりなくてもっと大ざっぱに見た目で「このユニットつえー!」という感情を引き起こす、喩えて言うならアメコミ作品みたいな?(私はアメコミ作品全然知らないですけど……)


 まあ、以上はまったく仮説に過ぎないので、「全然違う!」とかってツッコミと共に色々教えていただけるとありがたいです(^^)

『ビルマ 絶望の戦場』読了:ビルマ戦末期にラングーンの上級将校達が芸者遊びしていたことについて

 ようやく『ビルマ 絶望の戦場』を読了しました。


 途中、ビルマ戦末期にラングーンの上級将校達が芸者遊びしていたことについて結構詳しく書かれていまして、とりあえずその場所が気になったので調べてみてました。



 ラングーンの上級将校が芸者遊びに励んでいた場所が、先述した料亭「萃香園(すいこうえん)」である。萃香園は、もともと福岡県久留米市にあった高級料亭が、芸者ら数百人をつれて、ラングーンに出店。上級将校専用の慰安施設となっていた。
『ビルマ 絶望の戦場』P167



 ラングーンの中のどこにあったのかですが、最初は「ペグークラブ」という洋風の建物の中で営業していたそうですが、1943年末に「雰囲気が合わない」という理由で、ヴィクトリア湖畔に移された(P175)のだとか。


 ↓OCS『South Burma』(仮)のラングーン周辺。ラングーンの北東に「Pegu」という町がありますが。

unit8417.png



 ペグークラブの場所は、↑で言えばラングーンの港湾マークの上の頂点あたりでしょうか。

 ヴィクトリア湖というのはラングーン市内に描かれている湖です。当時萃香園は、ビルマ方面軍司令部が接収して使用していたラングーン大学の隣にあったそうで、ラングーン(ヤンゴン)大学は湖の南西にあるようなので、その辺という感じでしょうか。



 上級将校らがどれくらい遊んでいたかについて、「自動車が常に二、三十台は集り賑を極めている」(P169)とあったので、なるほどなかなかかと思いました(営業時間は夜9時から午前2時)。芸者さんは「久留米から約100名、大牟田と福岡を合わせて約30名」がビルマへ行ったそうですが、そのほとんどは家が借金を抱えていて、ビルマへ行けば借金が返せるという話で行った人達だろうとのことです(P173)。

 また、ある芸者さんの話としてこういうのが挙げられていました。

「自分を美化していう訳ではありませんが、私は軍人なら誰かまわず寝るような芸者ではありませんでした。そのためには、パトロンを持つのが大事なのです。あの芸者は誰々の彼女だ、となると他の軍人さんは手を出さない。それに私達には入らないような煙草などの品物も差し入れてくれるんです」
『ビルマ 絶望の戦場』P174




 前線の兵士達が言語に絶するほどの苦難に喘いでいたビルマ戦末期にも、この萃香園で上級将校達が享楽にふけっていたことが、当時の方面軍上層部の退廃の象徴として、この本で描かれていました。



 ただ、この本だけを読んだ人(あるいは、このNHKスペシャルを見た人)は、「こういう慰安所はラングーンだけにあって、上級将校らだけの特権であった」という風に思うのではないかなぁと思ったのですが、実際にはそうでなくて、兵士向けの慰安所がビルマ各地(あるいはインドや中国領内にまで)にあったわけです。しかも、こういう慰安所にものすごく反対したのが、あの悪名高い辻政信だったのですが、まあ話がややこしくなりすぎるのでそこらへんの話には触れなかったのでしょうね~。


 あと、当然ながらビルマ戦における英連邦軍側にも慰安婦はいました(上級将校専用とかって枠があったかどうか、興味のあるところですが……)。

インパール戦洋書をちょっと読んだ感想(慰安婦、日本軍兵士の強さへの記述等) (2020/03/06)



 ビルマでどこらへんに日本軍の慰安所があったかについては、↓のような地図がありました。

日本軍慰安所マップ ミャンマー連邦共和国




 あの玉砕した拉孟にも慰安婦はいて、一緒に玉砕しているので、ものすごく悲劇的なわけです……。

 木下中尉の報告により、とりのこされた女性部隊の約二十名も戦禍にまき込まれたことが判明した。彼女らは髪を下ろし、軍服を着用して男姿に身をやつし、准看護婦 (?)となって、傷病兵の看護に、弾丸運びに、あるいは炊事にと、かいがいしく働き、最後は大部の者が玉砕部隊と運命を共にしていったことが明らかにされて、なんとも痛ましく聞くにたえなかった。
『回想ビルマ作戦 第三十三軍参謀痛恨の手記』P237



 第33軍(北ビルマと雲南が戦区)の参謀となっていた辻政信が前線の慰安婦を全員引き上げさせるべきだと主張して、最終的に第33軍ではそのようにしたという経緯が興味深いので、長いですが引用してみます。

 現在、慰安婦のことが大問題になり、にぎにぎしく報ぜられているが、あの当時は公娼制度があったので、いまのような罪悪感は比較的少なく、必要悪ぐらいに考えている者が多かった。戦場は、男性の戦う場で、女性はいないはずであったが、事実は慰安婦と称して多くの女性が進出していた。彼女らはたくましく、じつに勇敢で、どんな辺鄙なところでも、どんな危険なところでも、軍隊の征くところにはどんどん進出していた。
 拉孟のような最前線で危険なところにも、日本人、朝鮮人あわせて約二十名の慰安婦が進出していたが、敵の総反攻時に取り残されて戦火にまき込まれた彼女らの大部が、玉砕した将兵と運命を共にしたことは、すでに述べたところである。
 その衝撃は大きかった。なかでも辻【政信】参謀の受けたショックは大きかった。
 辻参謀の女嫌いは有名で、戦場に女性を連行するなどもってのほかと大反対であったが、南京では料理屋征伐のため、料亭の焼き打ち事件までひき起こしたことは有名で、その噂は遠いビルマの涯(はて)のわれわれの耳にも入っていた。ラングーンの方面軍では、翠香苑という料亭を抱えており、軍【第33軍】でも翠明荘という料亭をかかえていた。辻さんは、ここに絶対に足を踏み入れたことはなく、かねてからこれを白眼視していた。拉孟守備隊が玉砕したとき、慰安婦たちが将兵と運命を共にしたことを知って、婦人部隊は即時かつ全面的に後方に送り返すべきだと強く主張した。
 辻参謀の論拠は、「戦局は今後ますます深刻苛烈となり、第二、第三の玉砕部隊が出ることも予想される。戦闘員でもないか弱い女性を戦火のまき添えにすることは、余りにも残酷だ。犠牲はわれわれ軍人だけで沢山だ。今さら女にうつつを抜かしているときではあるまい」ということであった。

 これに対して、山本【清衛。第33軍】参謀長は絶対に反対だった。参謀長は、酸いも甘いもかみ分け、人情の機微にも通じた豪放磊落の将軍で、酒を愛し、みずからもよく遊んだが、
「戦局が苛烈になればなるほど婦人部隊が必要なのだ。明日をも知れぬ運命にある将兵に、せめて一時なりとも苦しい戦いを忘れさせて、安らぎの場を与えてやりたいものだ。この戦争は国家総力戦で、戦闘員も非戦闘員もない。老若男女がことごとくその分に応じて、力を尽くさなければ勝ち目はないのだ。婦女子といえども戦力だ。
 いよいよというときは軍属として処遇し、准看護婦その他の面で戦力化すればよい。死なせることは気の毒だが、戦死した場合は、後の救恤、栄典の授与、遺族の生活の補償など、軍人に準じて取り扱ってやればよい。靖国神社にもまつり、その遺烈を顕彰してやればよいではないか」と主張した。
 こうして二人の意見の対立はエスカレートして、ついに感情的なものにまで発展した。辻参謀は、山本参謀長に "祇園藤次〟というニックネームをつけて、軽蔑の色をあらわにした。“祇園藤次"とは、当時広く読まれていた吉川英治原作の小説『宮本武蔵」に出てく酒と女に身をもち崩した遊蕩児である。
 一方、山本参謀長は、「辻の顔は北面の鬼瓦だ。あの御面相では女にもてないので、僻(ひが)んでいるのだろう。辻は人情の機微がわからない朴念仁だ。しかし、子供が五人もいるところを見れば、満更でもないね」と、冷笑していた。
 こうして二人の対立は高まるばかりであった。私も、二人の論争にまき込まれて、少なからず迷惑した。この問題は、後方主任参謀の所管だということで、その尻ぬぐいをさせられる羽目になり、後方主任参謀の筆者をはさんで、二人の間に綱引きがはじまったからである。
 辻参謀からは、「早く後方に送り返せ」と、毎日のように矢の催促があった。一方、参謀長はこれに反対して、「野口参謀は辻の参謀でないから、辻の言うことを聞く必要はない」とまで極言されて、要求を拒否するように言われた。
 参謀長の言うように絶対必要とも思われないが、その考え方にも傾聴すべきものがある。辻参謀の意見にも一理があるが、あまりにも潔癖すぎる。ただし、正面切って争うとなると、辻参謀の意見に分があった。私は考え抜いたすえ、辻参謀の意見に同意して、全部の女性を後方に退げることに決心した。
 それは、直接作戦に関係のない事柄で論争をつづけて部内の対立を深め、エネルギーを費消してはならぬ、女性が存在する限り、この論争は片づかないと思ったからであった。
 私はまず翠明荘を後退させるとともに、第一線の部隊にも全部の女性を後退させるように指導した。
 しかし、私のとった処置に対しては、山本参謀長をはじめ一部の者から、
「野口参謀はなんと無粋な奴だ」と陰口をたたかれている声を耳にして、後味が悪かった。
 また、私の指導に対して面従腹背で、陰でひそかにコソコソと温存していた部隊もあった。遠くて近きは男女の仲とかで、この問題は理屈どおりに割り切れないものがあった。
 私のとった処置が適切であったかいなかは別として、その後の敗戦につぐ敗戦での敵中突破や、終戦後の混乱の中で、女性を抱えていなかったので、面倒くさいことに煩わされなかったのは事実であった。
『回想ビルマ作戦 第三十三軍参謀痛恨の手記』P238~241




 ビルマ方面軍でもし、辻政信が主張したような方策が実現していたら、美談になっていたかもですけども……。





 

審判制1806年戦役自作ゲーム『Kriegsspiel 1806』の偵察問題について

 審判制1806年戦役自作ゲームの『Kriegsspiel 1806』で、偵察活動をどうルール化すればいいか悩んでました。



unit8423.jpg



 これまでは単純に、(何もしなくても)確率で判明するというものを考えていたのですが、どうにもうまくない気がしていました。ところがフト、手持ちのリソース(カードとか)と引き換えに偵察活動を行え、そしてリソースは有限であるという風にすればいいのではないかと思いつきました。気付いてみれば、その方がはるかにマシな解決策であると思えました(^_^;(もっと良い方法もあるかもですが)



 それ以前に、↓こういう問題も気付いていたのですが……。





 最初にカードがたとえば7枚配られ(それ以後カードを引く機会はなし)、カードにはそれぞれ、小さめの勝利得点が得られるような目標が記されており、そのカードを持ったまま目標を達成すれば勝利得点が得られる。一方、カードを偵察のために使用するという方法もあり、カードを捨てて偵察が行えるとか……?

 偵察は数ターン(3ターンとか)は間隔を空けなければ実行できない、とかってルールもあった方が良いかも。


 あと悩むのは、偵察の精度をどうするかです。敵に関する情報の一部だけが分かるべきだとは思いますが、「どの一部」が判明するのかはダイスを振っても良いかも(一方で、どの程度分かるかについてダイスを振ると、両軍で差が出てしまって良くない気がします)。

 「偽」情報が混ざるべきか、空母戦ゲームなどではどうなっているかも気になったのですが、うーん、まあやめておいた方がいいですかね……(偽情報に引っ張られて敗北したら、その偽情報だけがゲーム上決定的に重要だったことになってしまいますもんね)。


OCS『Crimea』のシナリオ2「虎の尾を踏む」について

 ミドルアース大阪で、OCS『Crimea』のシナリオ2「虎の尾を踏む」をプレイしてみたので、このシナリオについて書いてみようと思います。









 史実では、ソ連軍はまずケルチ周辺に第一次上陸を行い、数日後にフェオドシヤ(ケルチ半島の根元南岸)に上陸。その戦域を守備していたフォン・シュポネック将軍は独断で撤退し、投獄されました。

ケルチ半島から独断撤退して投獄され、のちに処刑された伯爵ハンス・フォン・シュポネック中将について (2024/01/27)




 シナリオは、非常に良くできてるなと思いました。

 初期配置ではケルチ港の北東隣接ヘクスのコロンカ港のヘクスが空いており、ソ連軍が第1次上陸を仕掛けるには好都合です(港湾能力を使用して上陸してすぐに一般補給を引けるので。ただし、その港に海上輸送するためには、移動フェイズ中に敵ZOCがかからないようにしなければなりません)。


unit8425.jpg


 第1ターンの先攻・後攻に関しては、「枢軸軍プレイヤーがイニシアティブを持っており、先攻・後攻を選択できる」となっており、枢軸軍は先攻を取ってコロンカ港にユニットを入れることもできます。

 ところが、シナリオ特別ルールで「ソ連軍プレイヤーはシナリオ中に1回、「大攻勢」を宣言でき、宣言したならば、枢軸軍のリアクションフェイズはスキップされ、次のターンのイニシアティブをソ連軍が獲得する(つまり、ダブルターンが確実にできる)」とされています。そうすると、枢軸軍プレイヤーとしては第1ターンで先攻を取ると、ソ連軍プレイヤーに「大攻勢」される可能性があるわけです(まあシナリオ中いつかはされるでしょうけども、可能な限りソ連軍に先攻を取らせた方が、枢軸軍にとって良いのは確かでしょう)。



 また、ソ連軍は『Crimea』独自の海軍輸送船舶(Naval Transport)というユニットを使用して上陸作戦を行うのですが……。

unit8424.jpg


 輸送船舶ユニットは、シナリオ開始時に6ポイント(6RE分)あります。が、第1ターンから第10ターンまでの毎ターン、ソ連軍プレイヤーは密かにダイスを1個振って、5か6が出たならば輸送船舶1ポイントを獲得します。そしてその存在は枢軸軍プレイヤーには秘密にされます。

 輸送船舶ユニットは上陸作戦に使用したら(このシナリオでは)使い捨てなのですが、賢明なソ連軍プレイヤーであれば最初の数ターンにいきなり最初の6ポイント分を使い切ってしまうのではなく、2ポイント分とかを使わずに置いておくと、枢軸軍プレイヤーとしては「まだ上陸作戦がどこかに行われるのではないか」と考えざるを得ません。そして、輸送船舶ユニットは第10ターンまでに、新たに3ポイント程度は獲得されている可能性があるわけです。


 また、OCSで上陸用舟艇による「揚陸(ALT*)」を実行したことのある方なら、「揚陸自体でダイス目が悪ければ全滅もあるなど結構リスキーで、またSPを陸揚げできないなど、結構制限がキツイ」という印象があるのではないかと思います。ところが『Crimea』の輸送船舶ユニットによる揚陸は、最悪でもユニットの半分は上陸に成功し、またSPを陸揚げできる(輸送ユニットに積んだ状態でも)など、かなり制限が緩くなっています。

*:敵ユニットのいないヘクスへの上陸作戦。敵ユニットのいるヘクスへの上陸作戦は、海岸強襲(BA)という別のルールを使用します。



 さらにさらに。『Crimea』プレイノートの「ゲームプレイに関する考察」を読んでいると、こう書いてあります。

 ソ連軍側の上陸作戦【3.5a】の「脅威」は、実際の上陸と同じくらい厄介です。マップ上で、ドイツ軍プレイヤーの前で例えばクラスノペレコプスク(Krasnoperekopsk:F17.23)【クリミア半島とウクライナの間の地峡部にある村】に上陸作戦を行うために必要なヘクス数を仰々しく数えてみてください。そうすれば、枢軸軍は部隊をもっと広げて配置せざるを得ないでしょう。


 実際にクラスノペレコプスクへのソ連軍の上陸作戦が成功し、その周辺に対応できる枢軸軍部隊がいないとなると、クリミア半島の枢軸軍全体が補給切れでとんでもないことになる可能性があります。




 全体としてこのシナリオは、「(1941~42年の冬期反攻の一環として)ソ連軍側が、クリミア半島各地への上陸作戦をチラつかせながら、最大限の戦果を挙げようとする」のに対し、「枢軸軍側はなんとかしてそれに対処しようとする(が、地上戦力も空軍力もSPも乏しい)」というものになっていると思いました。そういうシナリオは、OCS全体でもかつて見たことがないようなものなんじゃないでしょうか。

 20ターンというのは結構長いですし、当時行われていたセヴァストポリ攻略(と守備)のためのユニットも出てきますから全体のユニット数はまあまああるのですが、セヴァストポリ周辺のユニットを動かしてしまうのは両軍にとってリスキーだと思います(そこから戦力を抜くと、やられてVPを献上することになります)し、また各地にある港湾に置かれている枢軸軍ユニットは守備隊として実質上動かせないなど、実際に動かせるユニットはだいぶ少ないです。そしてまた、両軍とも1ターンに来るSPが1SP程度しかなく、華々しいことをやるのは難しいですから、ターン自体は割とスイスイ進むと思います。


 冬期反攻の一環として、ソ連軍側はクリミア半島の各地への上陸作戦を自由に考え、そして枢軸軍側はそれを何とかして阻害しようとするという構図は、なかなかに魅力的なのではないでしょうか。かなりプレイして面白そうなシナリオだと思いました。


OCSのプレイ中にやり直しを許容するプレイ流儀について

 facebook上の「Operational Combat Series」グループで、「OCSのプレイ中にやり直しを許容するプレイ流儀について」の話題(スレッド)が立っていて、私も大いに賛成なのでそこらへんについてちょっと書いてみます。


 最初の投稿は、例えば「移動のやり直しを許容する」とか「補給のミスの修正を許容する」、「再建、脱出、移動、補給チェックなどのタイミングが巻き戻されたりしてやり直されるのを許容する」というようなプレイ流儀で自分達はやっているのですが、他にもそのようなやり方をしている人(グループ)はいますか? というようなものでした。


 私は↓のように返信しました。

 あなた達の流儀に、私は全面的に賛成します!

 私は日本で友人達とOCSを頻繁にプレイしていますが、私達の仲間の間では、「無限にやりなおしをして良い」という考え方でプレイしています。

 まあ、大きく勝っている側が自分に有利な方にやり直しをするのは心証が良くないですが、どちらが勝っているか分からない状況なら、お互いに「どんどんやり直しをしましょう」と言い合っています。

 OCSはかなり複雑で、そして不確実性が非常に高いゲームなので、やり直しを認めないプレイでは、私達はストレスで倒れてしまうでしょう! お互いがOCSを楽しむために、やり直しを認めることは大変良いことだと思います。



 特に、多分日本人は謙虚になりがちだと思うので、私は積極的に「尼崎会では“無限やりなおしOK”ですから!」と何度も何度も言って、「あっ、しまった」と言ったプレイヤーがいたら、「おー、それ、やり直しして下さい。尼崎会では“無限やりなおしOK”ですから!」と言い、「いや、いいです……」と固辞されると、「いや、ぜひやり直して下さい。あなたがやり直ししないと、私もやり直しできない雰囲気になります。お互い幸せになりましょうよ」と言ったこともありました(^_^;

(もちろんこれは、グループやプレイヤーによっては嫌いなやり方かもしれませんし、皆がどう思うかは確認する必要があるでしょう)



 ある方の書き込みで、「素晴らしい!」と思ったのは、↓のような文章でした。

 私達の目標は、OCSのプレイを向上させ、素晴らしい体験をすることであり、「勝つ」ことではありません。私たちはいつも、ミスを修正することを認めています。また、私たちは完了までに1、2年かかるモンスターゲーム(GB2/CB)をプレイする傾向があります。些細な問題にこだわっていても仕方ありません。



 私はカードゲーム(遊戯王とか)でも、いわゆる「エンジョイ勢」(楽しむことを優先し、勝率にはそれほどこだわらない人達)であり、「ガチ勢」(勝率をとことん追及する人達)ではありませんでした。カードゲームでも、私は対戦相手に無限にやり直しOKという姿勢でやってました(自分はそれほどやり直さずとも)。

 ウォーゲームでも、ガチ勝負こそが面白いゲームもあり、プレイヤーもいて、それは全然それでいいと思います。ただ恐らく、OCSは「ガチ勝負」にはかなり向かないシステムであり、それよりは(割と起こりがちな)ミスの修正や、後から判明した決断ミスをやり直すことを大いに許容することによってこそ、お互いに楽しい時間を過ごすことのできるシリーズゲームなのではないかと思っています。

OCS『Luzon: Race for Bataan』の予想外に良かったこと3つ

 OCS『Luzon: Race for Bataan』ですが、OCSのVASSALチームの一人であるHerman Wu氏から、製品版のVASSALモジュールが送られてきました(今まではテストプレイ版でした)。

 モジュールの一般公開は製品版の出版と同時に行われるので、まだまだなんですが、ミスとかバグとかあったら教えて欲しいということで、早速1つ気付いたので報告したらすぐ修正されてまた送られてきました。機会があればチェック込みでプレイできればとも思うので、プレイ(あるいはインスト希望でも!)してくれる方募集です。




unit8435.jpg


 良く分かってなかったのですが、ヘクス径が大きいので、(元々クォーターマップ2枚=ハーフマップ1枚分の広さなのですが)フルマップ1枚とかの大きさで提供されるのかもです。





unit8434.jpg

 テストプレイ版ではエル・フレイル島ルバング島(小野田少尉で有名)が無視されていたのですが、ちゃんと描かれててありがたいです(>_<)




 あと、これまでfacebook上のOCSグループの書き込みを見ていたりして、OCSルソンがウケている点が予想外だったりしたことが3点ほどあったので、そこらへん書いてみようと思います。


 元々は、日本人ウケが良いように、日本軍が勝っている戦いをテーマにするという狙いがありまして、アメリカ軍は負ける側なのでそちらにはウケが良くないかなと思っていたんですが……。



1.OCSの初の「Pacific Theater(太平洋戦域)」ゲームである

 ということが結構、興奮を引き起こしていたようです。日本人ならば、「いや、太平洋戦争ものとしてはOCS『Burma(II)』があるじゃん」と思うところですが、ビルマ戦というのはアメリカ人にとっては「China Burma India (CBI) Theater(中国・ビルマ・インド戦域)」というくくりに入り、全然別のもののようです。

 「1945年のルソン島の戦いもOCSゲーム化できないか」という書き込みも多く見まして、一応戦史を調べてみたのですが、戦線の動きがかなりゆっくりとしていて、どうも作ってみようという気になりませんでした。というのは、OCSは機動戦向けだという思いがあったからなんですが、OCS『Crimea』でセヴァストポリ攻略戦シナリオをやってみると、機動戦でなくても結構面白いなと思ったので、実はありなのかもしれませんバキッ!!☆/(x_x)

 尤も、史実を詳しく知らないので、どうなのか分かりませんが……。

 太平洋戦域のOCSゲームとしては他に、レイテ島の戦いはありじゃなかろうかとは思ってます。







2.攻撃側奇襲が非常に起こりやすいのが面白かった

 というテストプレイヤーの方の意見を見まして、「あぁ、なるほど……」と思いました。


unit8433.jpg


 OCSルソンは、日本軍のアクションレーティングが4が多く、フィリピン軍(青いユニット)のアクションレーティングは0が多くなっています。そうすると、2D6の奇襲チェックは+4修正で、戦闘では6以上の目、オーバーランでは5以上の目で攻撃側奇襲が成立し、さらにダイスを1個振った目の分、攻撃側有利な方向に戦闘比がコラムシフトします。

 これはかなりの確率でして、私はOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』が一番攻撃側奇襲が起こりやすいOCSゲームだと思っていたのですが、もしかしたらOCSルソンはそれを超えているかもしれません(特に序盤は)。

 私は特にそれを狙ったわけではなく、史実を調べた結果としてこれくらいのレーティングかな……と思っていただけなので、そこに面白さがあるという視点が抜けてました(^_^;




3.最終ターンの最終フェイズの最後の一振りまで勝敗が分からない

 ……という風に、OCS班長のチップ・サルツマン氏がテストプレイ時のことを何度も書いてまして、私は「いや、それはそういうプレイが1回あったかもしれないけど、毎回そうなるわけはないし、何度もそう書くのは誤解を与えるのでは……(..;)」とずっと怯えておりました。

 ところがその後、知り合いとOCSルソンをプレイしていてまさに、「最終ターンの最終フェイズ(突破フェイズ)の最後の一振りまで勝敗が分からない」という状況になりまして、「あ~、なるほど」と思いました。


unit8432.jpg

 OCSルソンの日本軍は、バターン半島の「Japanese Victory Line」を超えてユニットを進入させれば勝利、「US-Philipino Victory Line」を超えられなければ敗北します(その中間領域まで入れれば引き分け)。

 OCSは他のゲームよりも選択肢が非常に広くて不確実性が高く、防御側が「これで大丈夫じゃないか……」と思った防御線が破られることが頻発します。逆に言えば、攻撃側は「何とかあそこまでユニットを突っ込ませれば勝ち」という状況では、結構そのための案を考えることが可能です。

 まあ、ややゲーム的ではあるんですが(^_^;、そこらへん考慮に入れると、確かに「最終ターンの最終フェイズの最後の一振りまで勝敗が分からない」という風になる可能性は結構あるのかなぁ、と思いました。もちろん、そうならないこともたくさんあるわけですけども、勝利条件の設定がたまたま、そういう最後まで勝負がもつれこみやすいものになっていたと言えるとは思え、これも非常に予想外のことでした。


 ちなみに,最初に考えた勝利条件は、「バターン半島に入れた米比軍ユニットの数」によって決まるというものだったのですが、この勝利条件だと、日本軍プレイヤーはバターン半島に入ることなど考えずにひたすら米比軍ユニットを壊滅させることに奔走するので、早々にその勝利条件はお蔵入りしました(^_^;



 OCS『Luzon: Race for Bataan』はそのデザイン過程でも、2回ほど設定をガラッと変更したとかってことはありましたが、それ以外は微調整のみですっとうまくいった、非常に運良く安産であったゲームじゃないかと思ってます。

 一方、今OCS『South Burma』(仮)は、テストプレイが始められるまででもものすごい苦労して、テストプレイが始まってからも優に100以上の改訂点が出る苦労さ加減で、大変です……(>_<)

 一応、死ぬまでにOCS『South Burma』(仮)が作れればとは思っていて、いつ死ぬか分かりませんから、急がなければと思っております……(と言いつつ、ちょっと今バタイユ第3版のサマリー作りをやろうとしてまして、その後でまた再開ということで……)。

OCS『Crimea』のミニシナリオ2「シュトルファング(チョウザメ捕獲)作戦」について

 OCS『Crimea』のミニシナリオ2「シュトルファング(チョウザメ捕獲)作戦」についてです。

 1942年6月5日ターンから7月5日ターンの10ターン。史実でフォン・マンシュタインがセヴァストポリ要塞攻略に成功した戦いです。












 ↓初期配置。

unit8442.jpg


 ↑だけが実質的に使用するプレイエリアです。このプレイエリア外にも航空基地が複数置かれていて使用しますが、プレイエリアと航空基地との間の距離をメモっておいたりして抽象的に、最低限のスペースだけ使用してプレイすることも容易だと思います。

 ユニット密度が若干高くてスタックが崩れがちかもなので、プレイエリアのみを拡大コピーしてプレイするとか、VASSALでプレイするとかした方が楽かもしれません。


 私は陣地が好きでなく、またこのシナリオは10ターンで、ミニシナリオ1「立ち退き通告(トラッペンヤークト作戦)」の4ターンに比べてかなり長いので「どうかな……?」という気持ちもあったのですが、古角さんも書かれていたようにほとんど移動がないので非常にサクサク進んでいい感じでした。



 陣地関係のルールをまとめておきます。慣れてくればスイスイ進められます。

1.重AT効果(攻撃力2倍を1.5倍にする)を持ちますが、このシナリオではどうせ攻撃力2倍になる地形上に陣地は一つもないので、まったく無視してOKです。
2.砲爆撃表のコラムを1つ左にします
3.奇襲チェックのダイス目に-1修正
4.戦闘結果のダイス目に陣地レベル分のマイナス修正
5.特別ルール1.1cにより、レベル4と3の陣地が占領されるとレベル2になり、レベル2と1の陣地が占領されるとレベルが1下がります(枢軸軍側が陣地を持っている時に、ソ連軍の防御砲爆撃で砲爆撃表のコラムが1つ左になるので、陣地が存在していることは重要です)
6.ドーラの砲撃でステップロスの結果が出ると、ユニットをステップロスさせると同時に、同じ数だけ陣地レベルを下げます(12の目が出ると、2ステップロスさせた上で陣地レベルを2下げるわけです)

 ドーラの砲撃は、2D6の6と7の結果の時に[1/2](もう1回ダイスを1個振って、4-6なら1ステップロス)となります。この結果は、3レベル以上の陣地があるか、観測ユニットがない時には単なるDGになることに注意が必要でしょう。


 ↓ドーラ、オーディン、トールのユニット。ドーラの砲爆撃力は「*」になってますが、実質的には「69-116」です。

unit8441.jpg



 ドイツ軍側としては、セヴァストポリ要塞の北側から攻めるか、南側を重視するかという選択肢があり得ます(史実では北側から攻めました)。ターンが進んでくるとソ連軍側は弱くなった場所を強化するために戦力をスライドさせる必要にせまられ、その結果防御の薄い所が出てくる感があったので、ドイツ軍側は途中で攻勢箇所を変えるとかってのもありだと思います。

 ソ連軍側はノヴォロシースクボックスからセヴァストポリ港に戦力やSPを運ぶのですが、何を選択するかが重要になります。最初からPaxが10個分あるので、とりあえずは戦場で壊滅したARの高いユニットを優先するのが良いのではないかと思いました。


 また、両軍とも「増援セット」が2つずつあり、任意に投入できます。投入した数だけ、勝利条件ターンが移動します(ドイツ軍が増援セットを1つ入れると、ドイツ軍勝利となるターン期限が1ターン分短くなる)。割と早い内から投入するとか、戦況を見ながら投入するとか、色々あり得るでしょう。ソ連軍側は、海上輸送力が足りなくて投入しても運べない気がしましたが、戦艦セヴァストポリを含む増援セットを投入すると、艦砲射撃で結構いやがらせができるかもです。


 ↓戦艦セヴァストポリのユニット。1ターンに1回のみ、どの砲爆撃セグメントでも撃てます。

unit8440.jpg




 このシナリオはプレイしやすさ(悩まなさ)という点ではミニシナリオ1よりもよほど簡単かもしれません。ドイツ軍は豊富な空軍力と、ドーラ、オーディン、トールなどの列車砲でひたすら暴虐な砲爆撃を行えます。ソ連軍側はできることは多くないですが、うまく防御砲爆撃などを行って、ドイツ軍のセヴァストポリ攻略を史実よりも遅らせられれば勝利できます。

 OCS『Crimea』のミニシナリオは、1も2も、かなり良い、手軽な、あるいは入門のシナリオであろうと思いました。


1943-44年にクリミアで指揮をとるも、クリミア放棄を何度も進言していたエルヴィン・イエネッケ将軍について

 今回も、OCS『Crimea』の1943-44年シナリオに絡めまして。1943-44年にクリミアで指揮をとるも、クリミア放棄を何度も進言していたエルヴィン・イエネッケ将軍についてです。


Erwin Jaenecke

 ↑エルヴィン・イエネッケ将軍(Wikipediaから)



 イエネッケは1911年に士官候補生として陸軍に入り、その軍歴の大半を工兵部門で過ごしました。最初に注目されたのはスペイン内戦中のゲルニカ爆撃(「史上初の都市無差別爆撃」(異論あり)とも言われます)に参加し、下記のような報告をしたことによるものと書かれています。

「ゲルニカはそれ自体、ドイツ空軍にとって完全な成功であった」


 ポーランド戦では第8軍の兵站主任参謀、1940年5月1日(フランス戦の10日前)から1942年1月31日までベルギーとパリで兵站主任参謀(ドイツ語版Wikipediaによります。『ドイツ軍名将列伝』には第2軍や第9軍の兵站参謀であったと書かれています)。

 1942年2月1日から、イエネッケ中将はプラハにあった第389歩兵師団の師団長となります。同年4月に同師団は東部戦線へと移送され、第17軍麾下で同年5月の第2次ハリコフの戦いに参加しました。


 ↓OCS『Case Blue』の第389歩兵師団ユニット。

unit8448.jpg


 その後、同師団はイエネッケ中将の旧友であったフリードリヒ・パウルス装甲兵大将(イエネッケの方が数ヶ月だけ早く生まれています)が指揮する第6軍の麾下に編入され、同年9月に第8軍団麾下でスターリングラード市街戦へと投入されます。第389歩兵師団と第305歩兵師団から編成されたイエネッケ戦闘団は1942年10月14日のトラクター工場への大規模攻撃に投入され、成功を収めました。

 1942年11月1日、パウルスが第4軍団長のシュヴェドラーを解任し、旧友のイエネッケを後任に任命しました。しかし11月19日に開始された天王星作戦の結果、スターリングラードの第6軍は包囲環に閉じ込められてしまいます。


 ↓OCS『Case Blue』の第4軍団司令部ユニット。

unit8447.jpg



 イエネッケはこれまでの軍歴から兵站について詳しかったため、空輸のみでの補給は現実的ではないと考えていました。ヒトラーによるスターリングラード放棄を禁じる命令に対して、イエネッケはパウルスに、行動を起こすように何度も必死で頼んだそうです。

 ドイツ語版Wikipediaには、イエネッケはこのように言ったと書かれています。
「無線機を集めて、独立した行動を起こそう。君はスターリングラードの獅子にならなければならない。君の首など、多くの兵士達の命に比べれば大したことはない。」

 『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』には、「君の首など、多くの兵士達の命に比べれば大したことはない。」というセリフだけが書かれていました。


 一方、『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』のアルトゥール・シュミット(第6軍参謀長)の項には下記のように書かれており、「獅子」の件などはザイドリッツ将軍が言ったかのようです。

 11月27日、第6軍の各軍団長は軍司令部でフリードリヒ・パウルスとその参謀長【シュミット】と会談し、全員一致でパウルスに、【ヒトラーの】命令に反する脱出を促しました。ザイドリッツはパウルスに「獅子の道を歩め」と迫りました。これはカール・フォン・リッツマン将軍のことで、彼は第1次世界大戦中、同じような状況で命令に反して脱出し、その結果、危うくロシア軍の捕虜になるところから司令部全体を救ったのです。片腕のハンス・フーベ将軍は総統のお気に入りで、最近第14装甲軍団長に昇進したばかりでしたが、こう言いました。「ここに残って死ぬわけにはいかない!」。カール・シュトレッカーは懇願したと言います。親ナチ派の第8軍団司令官のハイツ将軍でさえ、死傷者がどれだけ出ようとも即時の脱出を要求しました。パウルスの個人的な友人で第4軍団司令官のエルヴィン・イエネッケ将軍は、パウルスの恩師の亡霊を呼び起こしました。「ライヒェナウ元帥ならすべての疑念を一蹴しただろう。」

 パウルスは答えました。「私はライヒェナウ元帥ではない」

ヴァルター・フォン・ライヒェナウ元帥は、親ナチ、勇猛果敢な将軍でパウルスの後見人のような立場にありました。パウルスの前に第6軍司令官でしたが、1942年1月12日に極寒の森の中を歩いていて心臓発作を起こし、死亡。後任に参謀長であったパウルスが任命されたのでした。】

 イエネッケは第6軍を救うため、旧友に対してさらなる説得を続けました。しかもザイドリッツは、長期の行軍に耐えられない装備はすべて破棄するよう、すでに第51軍団に命じたことを明かしました。ザイドリッツは、自分が着ていた軍服以外はすべて燃やし、自らその手本を示したとも言いました。すべての軍団長が熱狂的に賛成を表明。ナチスと見なされていた者たちでさえ、ヒトラーの命令に背く脱出を呼びかけました。

 しかし残念なことに、シュミットが最後の決定権を握っていたのです。「我々は総統の命令に従わなければなりません。」

 パウルスは言いました。「私は総統の命令に従うのが当然だ」


『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』P90





 その後、戦闘指揮をとり続けていたイエネッケは、1943年1月17日にソ連軍の砲弾が近くに命中して傷を負い、23日に担架に乗せられて(最後の?)輸送機で包囲環の外部へと後送されました。『Hitler's Commanders』によるとこの件には2つの説があるそうです。1つは、16個の破片を身体に受けて本当に重傷を負ったのだというもの。もう1つは、破片が落下してイエネッケの頭を直撃し、実際に血が出たものの、その後イエネッケは電光石火の如く行動し、ほとんどギリギリのタイミングで医療避難【後送?】に成功し、回復するまで隔離された病院に閉じこもったのだ……とするものです。後者の説では、ヒトラーや総統の司令部の取り巻き達が、イエネッケの傷がいかに軽傷であったかを知っていたら、彼はスターリングラードから後送されることはなかったのではないかと指摘されているそうです。


 イエネッケは1943年3月までに現役復帰し、4月1日にはフランス南西部の第86軍団長に就任しました。
(第86軍団という数字は『Hitler's Commanders』、『ドイツ軍名将列伝』、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によります。Wikipediaでは独英日版すべて第82軍団長となっていますが、『Unknown Generals』の第82軍団長のリストにイエネッケの名前はありませんでした)。

 2ヵ月後の同年6月、イエネッケはタマン半島のクバン橋頭堡を守る第17軍司令官に任命されました。


 ↓OCS『Crimea』の第17軍司令部ユニット。

unit8444.jpg





 クバン橋頭堡は、例えばOCS『Case Blue』の1943年1月の時点では↓のようになっていました。

unit8446.jpg




 OCS『Crimea』の後半(1943-44年)の最初のシナリオであるシナリオ3:「鉄十字勲章」は1943年9月26日ターンから始まり、↓のような初期配置となっています(44年1月22日ターンまでの36ターン)。

unit8445.jpg




 ちなみに、なぜシナリオ名が「鉄十字勲章(Cross of Iron)」であるのかというと、『Cross of Iron』(邦題:『戦争のはらわた』)という映画がこの1943年のクバン橋頭堡での戦いが舞台であったからのようです。





 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーにはこう書かれています。

 新しいドイツ第17軍の司令官はエルヴィン・イエネッケ将軍でした。イエネッケはスターリングラードで師団を率いて重傷を負ったものの、任務に復帰してきたところでした。彼の麾下部隊の大半はケルチ海峡の向こうのタマン半島におり(ドイツ軍はそれを、クバン橋頭堡または、Gotenkopfstellung(ゴート人の頭の位置)と呼んでいました)、いつか再びカフカスへ攻撃を仕掛けることを考えていたのです。しかしクルスク以降のソ連軍の反攻にドイツ軍はよろめき、新たな兵力を必要としていたため、ヒトラーはしぶしぶブリュンヒルト作戦(クバン橋頭堡からの避難)を許可しました。ソ連軍はこの作戦を妨害することができず、わずか38日間で239,000人の枢軸軍部隊が撤退。クバン橋頭堡に進攻するソ連軍を指揮したのは、前年にセヴァストポリ防衛を指揮したペトロフ将軍でした。

 撤退部隊の大半はクリミアに残りませんでした。OKHはイエネッケからドイツ軍10個師団のうち8個師団を剥奪し、彼に4万人の戦闘部隊だけを残したのです。残りは2個師団のドイツ軍に加え、ルーマニア軍7個師団と少数の枢軸同盟軍とオスト部隊でした。ルーマニア軍の山岳部隊と騎兵部隊は優秀でしたが、スターリングラード以降、ドイツ軍はルーマニア軍の大半の部隊の能力を疑わしいものとみなしていました。『クリミア』のシナリオ3のマップ上には、イエネッケに残されていたユニットのみがあり、撤退の途中からスタートします。この撤退は続行され、1943年10月9日までに完了しました。



 後のイエネッケ自身の証言によると、橋頭堡からの撤退の期間、上層部からの命令で、その地域を経済的に麻痺させるために焦土戦術を実行しました(この時期、ドイツ軍はウクライナから撤退する際に焦土作戦を実行しており、イエネッケだけが特別なことをしたわけではないと思います)。フォン・クライスト元帥の命令によってパルチザン殲滅の措置を実行したとも証言しており(後にフォン・クライストはこれを否定しました)、イエネッケはすべての村を焼き払う「死の地帯」の設置を命じたり、ケルチ地域の採石場の洞窟でパルチザンをガス処刑したりしたそうです。



 イエネッケは当然ながらスターリングラードの再現を望んでいませんでした。『ドイツ軍名将列伝』によると彼は、早い段階からウクライナ本土への脱出計画を研究していたそうです。しかし、ヒトラーは同盟国ルーマニアに対する政治的影響を重視し、クリミア半島の死守を命じていました。ソ連軍がクリミアに押し寄せるにつれて、イエネッケはますます激しく半島からの撤収を主張し、自らの主導で半島を放棄する準備さえ整えました。このため、1943年10月下旬にはフォン・クライスト元帥によって指揮権を剥奪されそうになったそうです。

 10月になるとソ連軍がペレコプ地峡へ進撃してクリミア半島が孤立。11月、イエネッケは軍集団司令部、OKH、総統司令部に対して第17軍を海路で避難させるよう要請します。しかしスターリングラードと同様、ヒトラーはこれを拒否しました。

 1944年1月30日(シナリオ3「鉄十字勲章」の直後から始まるシナリオ4「ダモクレスの剣」の2ターン目)にイエネッケは上級大将に昇進しています。シナリオ4「ダモクレスの剣」の時期はクリミアでは軍事行動がほとんどなかったため、OCS『The Third Winter』と連結してのプレイ以外の単独でのプレイは推奨されていません。



Generałowie niemieccy i generał rumuński po wyjściu ze stanowska dowodzenia na półwyspie Kercz (2-835)

 ↑1944年1月、ケルチ半島におけるイエネッケ将軍(一番右? Wikipediaから)




 1944年4月7日(シナリオ5「解放攻勢」は4月8日ターンから5月12日ターンまでの11ターン)、ソ連軍のクリミア半島への総攻撃が開始されました。

 ↓OCS『Crimea』のシナリオ5「解放攻勢」の初期配置。

unit8443.jpg




 戦力不足のイエネッケは4月9日、数時間の逡巡の後、OKHに報告することなくケルチ地区の陣地を放棄してセヴァストポリ港への撤退を命令(『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P449)。4月12日にヒトラーは、イエネッケに対してセヴァストポリ要塞をそのまま保持するよう命令を下しました。

 イエネッケの麾下部隊はひどく打ちのめされ、日々損害は増大していました。彼は、クリミアの部隊を撤退させようとしないヒトラーや、セヴァストポリが要塞ではなく罠であることを認めようとしないヒトラーに苛立っていました。それでもイエネッケは総統の方針に従い続け、4月24日には麾下部隊を鼓舞するための大げさで不正確な布告を発しています(『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P461)。

 イエネッケは4月27日にヒトラーに対して「さらなる増援がいつ到着するのか」を問い合わせ、またソ連軍が全面的な攻撃を開始した場合の「行動の自由」を要求したテレタイプを打電。これにはヒトラーもたまりかねたのか、翌日、イエネッケをベルヒテスガーデンに召還し、直接報告するよう命じます。

 この時の出来事として、『Hitler's Commanders』はこのように書いています。

 【……】ヒトラーは「豊富な」増援を約束。しかし、それがまだ訓練を終えていない新兵の4個大隊を意味することを知ったイエネッケは、第17軍をOKH(ヒトラーが総司令官)の直属軍にするよう要求することで、差し迫った惨事の責任をヒトラーに負わせようとした。
『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』P98



 『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』にはこう書かれていました。

 ヒトラーの面前でイエネッケは、第17軍の残りを直ちに撤退させなければ壊滅すると主張。ヒトラーは将軍がこのような言い方をすることに激怒し、彼に叫び始めた。

 イエネッケはヒトラーの補佐官の横を通り過ぎると、「総統に伝えてくれ、私は帰ったと」と言い残し、飛行場へと走り去った。ヒトラーはルーマニアで飛行機を止めさせ、イエネッケ上級大将を逮捕するよう命じた。
『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P464



 イエネッケは拘束され、軍法会議にかけられることになりました。彼は5月1日に罷免され、クリミア失陥の責任者として責任を問われることになったのです。しかしグデーリアン上級大将は捜査を遅らせることで裁判を長引かせ、イエネッケを有罪から救うことに成功しました。結局軍法会議は開かれなかったようです。


 イエネッケは1945年1月、ドイツが破滅的な状況に陥ると見てヒトラーに私信を送り、帝国の立場を説明し、ヒトラーは適切な結論を出すべきだとほのめかしたそうです。その結果、イエネッケは1月31日に除隊処分となりました。

 イエネッケは1945年6月11日(『Hitler's Commanders』)、あるいは12日(Wikipedia)にソ連軍の捕虜となりました。ソ連の軍事法廷は当初、自白に基づいて死刑を宣告しましたが、その後、判決を25年の強制労働に変更しました。1955年10月、ドイツ人捕虜の返還に関するモスクワでのアデナウアー首相の交渉の後、イエネッケは釈放されます。

 イエネッケは1960年7月に亡くなりました。

ケルチ半島から独断撤退して投獄され、のちに処刑された伯爵ハンス・フォン・シュポネック中将について

 OCS『Crimea』のシナリオ2に関連して、ケルチ半島から独断撤退して投獄され、のちに処刑された伯爵ハンス・フォン・シュポネック中将について調べてみました。


Hans Graf von Sponeck

 ↑ハンス・フォン・シュポネック(Wikipediaから)



 資料としては、主に『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』のP59~64と英語版Wikipedia「Hans Graf von Sponeck」を使用しました。それ以外の資料を使用する時はソースを記すことにします。




 軍人であった伯爵エミール・フォン・シュポネックの第4子として生まれたハンス・エミール・オットー・フォン・シュポネックは士官学校で学び(カールスルーエ士官学校は首席で卒業しました)、1908年に士官に任命されました。サッカーと体操に秀でた優秀な将校であった彼は女性にももて、1910年に結婚(一回目)して2人の男の子を授かっています。

 第一次世界大戦ではフランスとロシアで戦い、3度負傷。1915年秋には、通常の戦時教習課程(短縮課程)を受けることなく参謀本部に入ることを許されるという名誉を得ました。

 戦後も軍に残ることができ、昇進を重ねます。1934年から1937年まで歩兵第48連隊長を務め、この時期に離婚しています。

 1937年12月にフォン・シュポネックは空挺部隊設立のためにドイツ空軍に転属しました(ドイツ空軍は事実上ゼロの状態から拡大しており、優秀な将校を必要としていました)。1938年2月には少将に昇進。

 1938年に起こったブロンベルク罷免事件*の軍法会議(1938年1月?)においてフォン・シュポネックはフォン・フリッチュ上級大将の無実を主張し、この軍法会議の議長であったヘルマン・ゲーリングの逆鱗に触れています。彼は同年に再婚し、翌年に新しい妻との間に男の子が生まれました。
*:国防相であるヴェルナー・フォン・ブロンベルク陸軍元帥と、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将に関するスキャンダルが相次いで発生し、両者が罷免された。冒険的な外交政策に反対する陸軍の上層部を一掃する目的による、ナチスの謀略事件であるとされる。


 一方、1938年に彼は第22歩兵師団(空輸歩兵として訓練を受けたことから一時期第22空輸師団とも呼ばれました)の師団長に任命されているようなのですが、その経緯について資料間でいくらか差異があると思われます。私なりに一番ありそうな所だけを抜き出しますと恐らく、1938年7月に陸軍に再転属(ドイツ語版Wikipedia)、そして10月か11月に第22歩兵師団長に任命。

 『German Airborne Divisions: Blitzkrieg 1940-41』は任命を1938年1月としていますが、ミスか、あるいは非公式の引き継ぎ時期か何かかもです。同書は同師団の編成過程を詳しく記していますし、空軍と陸軍の軋轢があったこと、特に、第22歩兵師団が「第22空輸師団」という名前となって空挺作戦の一部に投入され、かつそれがドイツ空軍に移管されないことをドイツ空軍側は認めざるを得なかったということを書いています。

 同書はフォン・シュポネックについて、「才能(talents)」があり、また、第22空輸師団は通常の歩兵師団よりもスポットライトを浴びるものであったため、彼はその役職に不満はなかった、と書いています(P25。わざわざそう書くだけの傍証があるわけでしょうか)。また、クルト・シュトゥデントとフォン・シュポネックは、最前線に立つべきという考えの点で志を同じくしていたというような記述もありました(P14)。


 フォン・シュポネックが第22空輸師団長に任命されたのは、彼が空軍にいた経験によるものであろうと『Hitler's Commanders』は記しています。

 1939年のポーランド戦には師団の1個連隊のみが参加しただけでした。1940年5月からのオランダ攻略戦では、空軍の第7航空師団の空挺降下に続いて、第22空輸師団は占領された航空基地へ空輸されて戦いました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第22空輸師団ユニット。

unit8452.jpg



 師団長のフォン・シュポネックも部隊と共に首都ハーグへ飛びましたが、この時、戦勝パレード用の馬を一緒に積んでいったそうです(『German Airborne Divisions: Blitzkrieg 1940-41』P29)。しかし、ハーグにおいて第22空輸師団は苦戦し、彼自身が危うく捕らえられそうになったり、負傷したりし、王家を捕らえるなどの3つの任務すべてに失敗しました。尤も帰国後、彼はヒトラーから騎士十字章を授与されています。




 バルバロッサ作戦で同師団は南方軍集団に加わり、通常の歩兵師団として作戦に参加しましたが、元々特殊な作戦のために訓練されていたため兵士達の質は高く、クリミア攻略作戦においてフォン・マンシュタインは同師団を最高の部隊として信頼して運用したといいます。


 ↓OCS『Crimea』の第22歩兵師団ユニット。

unit8451.jpg

(OCSで、ドイツ軍の通常の歩兵師団でARが5というのは珍しく、他にぱっと思いつくのは『Guderian's Blitzkrieg II』の第78歩兵師団くらいです)




 ↓OCS『Crimea』のシナリオ1「通過儀礼」の初期配置。

unit8450.jpg


 画像中央下あたりにある、ARが5の3ユニット(4ステップ)が第22歩兵師団です。

 フォン・マンシュタインが赴任する前の時期の、クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したリッター・フォン・ショーベルト将軍について (2023/12/27)で書いていた、ドニエプル川北岸のベリスラウ(Berislav/Beryslaw:F17.35の北側のヘクス)に最初に到達したのは第22歩兵師団だったそうです。

 そしてフォン・マンシュタインが赴任した後のシナリオ1の時期の最初の数ターン(9月下旬~10月初旬)、第22歩兵師団はクリミア半島方向ではなく、東のメリトポリ方向とその南岸を押さえる任務を負っており、その任務に成功します。

 ただしOCS『Crimea』のシナリオ1ではその戦いはオミット(除外)されており、第22歩兵師団は初期配置位置から動けず、第4ターン(10月5日ターン)に1/6の確率、次のターンには2/6の確率……と確率が上昇して制限が解除されるようになっています。ここらへんのメリトポリ周辺やその向こう側ではこの時期、かなり激しい戦いが行われていたそうなのですが、デザイナーズノートによると、シリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏からユニット数を少なめにするようにアドバイスされており、デザイナーはここの戦いをオミットすることを決断したのだということでした。




 一方、この時期にフォン・シュポネックと同師団はその地で、ユダヤ人大量殺戮に加担していました。

 以下、英語版Wikipedia「Hans Graf von Sponeck」から引用してみます。

 1941年10月7日、伯爵フォン・シュポネックは自分の師団に、ユダヤ人市民を検挙し、見つけだし、引き渡すことによって、保安警察(SiPo:ズィポ)および親衛隊保安局(SD)と緊密に協力するように命じました。1941年10月に第22歩兵師団に占領された直後のヘニチェスク【F27.24】とメリトポリでは、ズィポとSDのアインザッツグルッペン【特別行動部隊】Dの部隊によるユダヤ人の大量射殺が記録されています。メリトポリだけで、2,000人のユダヤ人男性、女性、子供が虐殺されました[6]。後にイギリスのトレントパーク収容所に収監された、フォン・シュポネック将軍の部下の上級将校の一人であったディートリッヒ・フォン・コルティッツ大佐(後に将軍)【ヒトラーのパリ破壊命令を無視して降伏したことで有名です】は、収容所内で密かに録音された会話の中で、ドイツ軍のソ連侵攻の間、ユダヤ人を殺す作業に積極的に参加したことを率直に認めていました[7]。

 坐骨神経痛と腸の不調のため、フォン・シュポネック将軍は1941年10月14日に師団から病気休暇を取得。1941年12月3日にシュポネックが帰還すると、マンシュタインはクリミア最東端のケルチ半島を占領していた第42軍団(麾下に第46歩兵師団)の指揮権を与えました。フェオドシヤ【↓の画像のF33.08】では、シュポネックの指揮区域内で1941年12月10日前後に、1,052人のユダヤ人がアインザッツグルッペンDの部隊によって殺害されました。1941年12月10日、フォン・シュポネック将軍は、自分の指揮区域内で発見されたすべてのユダヤ人を原則として「パルチザン」として扱い、ダビデの星印をつけ、「労働力として配備する」ように命じました。彼はまた、捕らえられた赤軍兵士は、たとえ軍服を着ていたとしても、直ちに射殺するよう命じ、地元での反ドイツ活動や妨害行為に対する民間人への報復行動を承認しました[8]:




 ↓OCS『Crimea』のシナリオ2の初期配置のケルチ半島。フォン・シュポネックの第42軍団司令部がパルパチ地峡部にあります。下のノヴォロシースクボックスには、シナリオ2の開始時期(42年12月26日ターン)からケルチ半島へ上陸作戦を行うためのソ連軍ユニットや艦船が置かれています。

unit8449.jpg


 歴史家のエリック・グリマー=ソレムは次のように述べています。

「フォン・シュポネック将軍のケースは単純ではありません。彼は麾下の部隊が壊滅の危機にさらされた時、ヒトラーからの命令を拒否する道徳的勇気を持ち、そのために軍法会議にかけられ、後にナチスによって処刑されました。一方で、彼は犯罪的なコミッサール指令の遂行を拒否しませんでした。フォン・シュポネックは厳密な意味でのナチではありませんでしたし、彼自身、体制のいくつかの側面に批判的でさえありましたが、彼の命令と彼の軍隊の行動は、彼が反ユダヤ人種主義を内面化していたことを疑う余地はありません。シュポネックは、ナチス政権の大量殺戮政策を実行するためには、イデオロギー的なナチスである必要はなかったことを示しています。ナチズムの下で、戦争の状況下では、被害者と加害者、英雄と追従者の境界線は、一人の人間の中で渾然一体となってしまったのでしょう。」[9]。





 1941年12月初旬からのソ連軍の冬期反攻の一環として、クリミアでもケルチ半島への上陸作戦が12月26日に開始されました(OCS『Crimea』のシナリオ2はその時点から始まります)。この上陸作戦は、フォン・マンシュタインにとって最悪のタイミングで実行されたものになりました。第11軍がセヴァストポリ攻略戦の最中で兵力を集中しており、延びきった態勢にあったためです。ケルチ半島を守備するフォン・シュポネックの第42軍団の麾下には、たった1個師団(第46歩兵師団)しかありませんでした。

 最初の上陸はケルチ【F45.10】付近へのもので、28日までにフォン・シュポネックはケルチ市近郊の2つの主要な上陸拠点のうちの1つを全滅させましたが、すべては掃討できず、しかもいくつかの上陸地点は戦線の後ろ側にあってソ連海軍によって補強されつつありました。フォン・シュポネックは最終的には孤立して壊滅させられてしまうだろうことを予見して、フォン・マンシュタインに撤退の許可を求めました。ケルチ半島を放棄し、その付け根であるパルパチ地峡まで下がれば、ソ連軍の攻勢を封じられると考えたのです。

 この部下の状況判断に、マンシュタインはまったく同意しなかった。ひとたびソ連軍がクリミアに強力な拠点を構えたならば、それを撃退するのは極度に困難になり、大規模な反撃作戦が必要となろう。そんな事態(正しく、それは現実となった【OCS『Crimea』のミニシナリオ1「立ち退き通告」(トラッペンヤークト作戦)はその作戦を扱っています】)を恐れたのだ。ゆえに、マンシュタインは、「上陸直後で、敵がまだよろめいているうち」に「[敵を]海に追い落とせ」と、シュポネックに命じた。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P387



 一方、『Hitler's Commanders』や英語版Wikipediaでは、フォン・マンシュタインが拒否したというよりは、この冬期反攻の時期にヒトラーが撤退が禁じる命令を出していたため、それに(フォン・マンシュタインが)従って撤退が禁じられたのだという感じの書き方になっています。

 また『Hitler's Commanders』は、フォン・シュポネックによるより強い2回目、そして必死の3回目の撤退許可要請も拒否されたと書いています(『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』には2回目までだけが書かれています)。


 12月29日までに、フォン・シュポネックの前方部隊(第46歩兵師団と少数の部隊)は1万人にまで減少していました。その日、新たなソ連軍部隊(2個師団)がフェオドシヤ(F33.08)付近に上陸したという知らせが届きます。フォン・シュポネックは予備兵力をすべて投入してしまっており、ケルチ半島内に留まるのが不可能なことは明らかでした。フォン・シュポネックは30分考えて決断を下したといいます。ヒトラー/フォン・マンシュタインの命令に背き、パルパチ地峡まで後退するよう、麾下の部隊に命じたのです。

 恐らくこの時のこととして、ドイツ語版Wikipediaは「シュポネックは上級指揮官であるエーリヒ・フォン・マンシュタイン指揮下の第11軍に相談することなく、ケルチ半島からの撤退を命令。命令を迅速に実行し、無線機を破壊することで、第11軍が命令を撤回することも不可能にしました。」と書いています。この無線機の件はOCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーにも挙げられているのですが、私が今回参照した他の資料には言及されていません。
(私が大好きな「大陸軍 その虚像と実像」のR/Dさんの考え方からすると、「無線機の破壊」なんていう非常に面白いエピソードは、それが面白いがゆえに史実である可能性は低そう(虚説がミームになったものだという可能性が高い)ということになりそうですが……?



 この撤退は摂氏-7度の氷雪の中で行われ、何千人もの凍傷患者が発生し、車両が動かなくなってしまう中で行われたと『Hitler's Commanders』には書かれています。

 パルパチ地峡にたどり着いた彼らはフォン・マンシュタインが差し向けた増援の力も借りて、追撃してきたソ連軍部隊による1942年1月1日の戦車部隊の攻撃を、大きな損害を出しながらも撃退することに成功します。しかし同日のうちに、フォン・シュポネックは第42軍団の指揮権を剥奪され、マッテンクロット歩兵大将に譲るように命令されます。

 この解任を誰が命じたかについても、資料によってバラバラで困ってしまいます(T_T) ↑の英語版Wikipedia「Franz Mattenklott」なんかは「フォン・マンシュタインが激怒して解任した」と書いてますが、他の資料には誰が解任したか書かれていないですし、フォン・マンシュタインが激怒したなんてことも書かれていません。

 一方、『Hitler's Commanders』などは、このソ連軍の冬期反攻の時期にドイツ軍将官の不服従が相次いでおり、それらへの「見せしめ」としてフォン・シュポネックの解任と軍法会議が、スケープゴートとして必要とされたのだ、という風に書いています。


 この軍法会議の開催について、『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』にはこう書かれています。

 死に至るまで【……】、シュポネックは、第46師団に撤退を命じたのは正しい行動だったと主張しつづけた。あとになって、マンシュタインも相当程度それに同意したとみられる。1941年12月29日の事件【独断撤退】の結果としてシュポネックを軍法会議にかけるのではなく、第72歩兵師団長だったフランツ・マッテンクロット歩兵大将と交代させることを、マンシュタインは望んだ。けれども、軍法会議は開かれた。マンシュタインは、その期日も知らされず、かつての部下のために正式に意見表明する機会も与えられなかった。1942年1月23日、職務怠慢と戦場における不服従の罪で、シュポネックは死刑を宣告された。一ヶ月後、ヒトラーは、この判決を6年間の「要塞禁固」に減刑している。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P388



 解任されたフォン・シュポネックは、軍法会議のためにベルリンに出頭し、裁判は1月23日に開始(同日判決?)されました。軍法会議の議長は、かつてフォン・シュポネックに激怒したゲーリングでした。この軍法会議では重要な証人の陳述は認められず、被告は裁判中ずっと起立していなければならなかったといいます(ドイツ語版Wikipedia)。フォン・シュポネックは「プロイセン軍将校として、部下達を救うために戦術的な状況から必要とされれば、上官の命令に反してでも独断で行動するように教えられてきた」と主張。この抗弁は一蹴され、「現場での過失不服従」の罪で有罪、死刑判決を受けます。

 ヒトラーが刑を減刑したいきさつについても資料間の食い違いがあり、英語版Wikipedia他ではフォン・マンシュタインが減刑を提案したからだとしてたりしますが、『Hitler's Commanders』は「フォン・マンシュタインは彼を助けるために指一本動かさなかった」と書いてたりします。
(この件では、より記述において慎重であろう書籍となっている2つのソースがフォン・マンシュタインの減刑提案を否定していることからすると、フォン・マンシュタインは減刑提案してないのではないでしょうか)




 フォン・シュポネックはゲルマースハイム(フランス国境近くの街)の軍事刑務所に送られ、囚人としては恵まれた生活を享受しました。時々街に出て、本やタバコを買うことも許されました。妻(二人目の)は1ヵ月につき7日の頻度での面会が許され、末の息子(1942年に3歳になっていました)とも面会できました(一方、ドイツ語版Wikipediaは、家族は拘留され、財産は没収されたとしています)。

 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の後、治安当局者のハインリヒ・ヒムラーはフォン・シュポネックの処刑を命令しました。その背後には、ゲルマースハイムを含む管区の長であり、ナチ党の初期からのメンバーであったヨーゼフ・ビュルケルの圧力があったとWikipediaにはありました。

 7月23日午前7時13分にフォン・シュポネックは銃殺刑に処されました。彼は聖餐を受けることを許され、拘束も目隠しもされないという彼の要求は尊重されました。フォン・シュポネックの妻は前妻も含めて2人とも処刑に立ち会い、共同で彼の遺体の引き渡しを求めました。遺体はゲルマースハイムの墓地に埋葬され、彼の墓で弔辞を述べたり演説したりすることは禁じられましたが、主の祈りは捧げられました。


 フォン・シュポネックの長男は戦闘機パイロットとしてノルウェーとドイツ上空で戦い、大尉で終戦を迎えました。次男は騎兵部隊で大尉となっていましたが1943年、東部戦線のドン川戦区で戦死。

 二人目の妻との間の末の息子であるハンス・クリストフ・フォン・シュポネックは西ドイツにおける最初の良心的兵役拒否者の一人となり、外交官としてキャリアを積みます。彼は国連事務次長補およびイラク担当国連人道調整官を務め、国連内でも非常に尊敬されている人物であるそうです。


 戦後の西ドイツでは、ヒトラーに反抗して兵士達の命を救ったとして伯爵フォン・シュポネックを記念してゲルマースハイムの街の空軍基地、通りなどに彼の名前が付けられました。しかし、2014年に発表されたエリック・グリマー=ソレムの論文でフォン・シュポネックが数多くの戦争犯罪を犯していたことが明らかになり、市民の抗議活動が起こり、空軍基地などは改名されました。



 実は、以前書きました第90軽師団で後衛を指揮して活躍するも、チュニジアで降伏したテオドール・フォン・シュポネック将軍について (2022/09/23)で、このテオドール・フォン・シュポネックは今回のハンス・フォン・シュポネックの弟であると、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』の著者であるミッチャム氏が書いていたためそれを信じてそのように記述していたのですが、今回調べてますと二人は親の名前も全然違うし、ミッチャム氏以外の資料でこの二人が兄弟、あるいは親戚関係にあるとの記述さえ見つけられませんでした。なので、苗字は同じですけども基本的に二人は無関係なのだと思われます。当該ブログ記事は訂正しました。


 ミッチャム氏の著作は今までも、推測が先走っていると思われたり、本が違うと記していることが違ったりと、信頼性が低い気がビンビンにしてはいたのですが、またもや大きな問題が発見されてしまいました(T_T) ロンメル麾下の指揮官関係で興味深い本を書いてくれる大変ありがたい方なんですが……。

 また、ハンス・フォン・シュポネック関連にしても、資料によっては出てくる「無線機を壊して撤退した」「撤退にフォン・マンシュタインが激怒した」「フォン・マンシュタインが減刑を提案した」などの、ある意味興味深い記述は、どうも信頼できないのではないかということが明らかになったのではないかという気がしています。


OCS『Crimea』のシナリオ1「通過儀礼」についてと、明確化

 先日のミドルアース大阪で、OCS『Crimea』のシナリオ1「通過儀礼」をプレイできました。古角さんが枢軸軍、私がソ連軍を担当しました。



 ↓初期配置。

unit8454.jpg


 先日書いてました、クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したリッター・フォン・ショーベルト将軍について (2023/12/27)の後の、フォン・マンシュタインが指揮を引き継いだ後のクリミア半島攻略の最初の段階を扱っています。

 1941年9月26日から12月26日までの3ヵ月間(28ターン)ですが、フォン・マンシュタイン麾下の部隊はわずかしかなく、史実では開始1ヵ月後にようやくペレコプ地峡(ウクライナとクリミア半島の間の地峡)を抜け、シナリオ終了時にはセヴァストポリ周辺の陣地帯以外を制圧していました。

 勝利条件は、クリミア半島(ケルチ半島を含む)の港湾をどれだけ支配しているか、セヴァストポリ周辺の陣地帯をどれだけ支配しているか、それに戦艦セヴァストポリ(この時期の艦名はパリジスカヤ・コンムナになっていました)の損傷具合です。



 プレイしてみると、ペレコプ地峡北側の最初の陣地帯はあっという間に抜けてしまうのですが、その後の地峡の南側の陣地帯の手前でしばらく止まってしまうようです(主にSP不足により)。でもまあ、それが史実通りです。

 ソ連軍側は、最初の2ターンはユニットのほとんどが動かせない設定になっており、できることが少ないのでプレイしやすいです。

 全体的にユニット密度が低いので、OCSのシナリオの中でもプレイしやすいだろうと思います。ただし、陣地関係の処理(たいしたことないですが)が必須なのと、ソ連軍の戦艦と軽巡艦隊ユニットが出てくるので、艦砲射撃したり、艦船に航空ユニットで攻撃したりするとそこらへんの処理のルールを読んでやることになるでしょう。



 ↓今回のプレイの終了時。

unit8453.jpg




 今回のプレイではペレコプ地峡の南側の陣地帯のところまででしたが、その後の展開を予測すると、ソ連軍側はクリミア半島の南側(ケルチ半島を含む)にたくさんある港湾の、どれだけは放棄するか、遅滞するか、固守するかの決断を迫られますが、勝とうとすればなるべく多くを守りたいわけで、そうすると防御ラインが薄くなって枢軸軍側に弱点を突かれる可能性が高まる……というジレンマに悩まされるのではなかろうかと思います。

 ドイツ軍側としては、セヴァストポリ周辺の陣地帯のいくつかを占領できれば勝利に近づくので、ソ連軍側の不意や見落としを突ければ面白そうです。あと、空軍力はものすごいので、それを活用して、戦艦を沈めたり、ヒップシュートしてのオーバーランをしたりでアクションレーティングが低めのソ連軍ユニットを吹き飛ばしていければ……。

 このシナリオ1は、直後のシナリオ2(20ターン:42年3月1日ターンまで)へと継続してプレイすることもできます。シナリオ2ではソ連軍側が逆襲を試みて、ケルチ半島を占領しようとします。その後、ミニシナリオ1(42年5月の4ターン)でケルチ半島のソ連軍を枢軸軍が追い出し、ミニシナリオ2(42年6~7月の10ターン)でセヴァストポリが攻略されます。それで42年までのシナリオは終了です。


 フォン・マンシュタインのクリミア半島攻略戦については、一応これまでに3種類ほど読んだことがあった(コマンドマガジンの海外翻訳記事と、大木毅氏の記事と、フォン・マンシュタインの伝記)のですが、頭に入っているとは全然言えませんでした(^_^; が、やはりゲーム上でプレイしてみると、ものすごく良く理解できますね……。






 それから、今回のプレイで2点ほど疑問点が出たのでfacebook上で質問してみました。OCS『Crimea』の現時点で判明しているエラッタ&明確化 (2024/01/07)には追記しておきましたが、その2点はこのシナリオに深く関わってくる部分なので、ここにも書いておきます。


■ルールブック

共通再建表
「2Paxを消費するユニット」の一覧に、「(ソ連軍の1ステップユニットの)騎兵師団」を追加します。


■プレイブック

明確化:
5.1 シナリオ1 および ドイツ軍増援到着表
シナリオで使用できる分遣連隊ユニットの数は、セットアップ情報で制限されています。一方、ドイツ軍増援到着表の1941年10月5日ターンに分遣連隊ユニットとして到着すると指定されている増援があります。この増援はセットアップ情報で個数が制限されている分遣連隊プールの中から出します(分遣連隊プールに追加される形で到着するのではありません)。

OCS『Crimea』のミニシナリオ1「立ち退き通告」(トラッペンヤークト作戦)についてと、明確化

 OCS『Crimea』のミニシナリオ1「立ち退き通告」(トラッペンヤークト作戦)を、富山のKさんとプレイしました。古角さんとプレイしたのと合わせて2回目です(その間に一度ソロプレイもしました)。








 このミニシナリオは1942年6月に行われたマンシュタインのセヴァストポリ港攻略作戦(ミニシナリオ2:「シュトルファング(チョウザメ捕獲)作戦」)の直前の5月に、ケルチ半島にいたソ連軍を追い出したトラッペンヤークト(野雁狩り)作戦(を包含?)を扱っています。

 トラッペンヤークト(野雁狩り)作戦は、パルパチ地峡での攻撃のコードネームでした。これはマンシュタインらしい、大胆な作戦でした。彼は、自軍の2倍以上の19個師団と数個戦車旅団からなるソ連軍を攻撃するために、実戦経験のない第22装甲師団と5個歩兵師団、それに数個ルーマニア軍師団しか持っていなかったのです。マンシュタインは1942年5月8日の攻撃開始において、最も警戒の薄い場所を攻撃することによって作戦上の奇襲性を確保するという、1940年のフランス戦のアプローチを再び用い、敵の強力な戦線を突破したのです。

 結果は、第2次世界大戦で最も一方的な勝利の一つとなりました。ソ連軍はドイツ空軍に攻撃され、ドイツ軍の快速部隊が後方に侵入し、司令部が混乱に陥って崩壊してしまいました。ケルチ半島全域は2週間で掃討され、ソ連軍25万の部隊の70%が死亡または捕虜となりました。元々トラッペンヤークト作戦の見通しは確実ではなかったのですが、すべてのカードがドイツ軍に有利に働いたのでした。
OCS『Crimea』ヒストリカルコメンタリーPage23



 このミニシナリオはかなりプレイしやすいと思いました。OCS初心者の方にもオススメでしょう。

 シナリオ特別ルールで、第1ターン先攻ドイツ軍の移動フェイズ中(のみ)は燃料があらかじめ全部入れられている、というのが非常に重要です。あと、南岸で1回だけ戦闘のダイス目を+2できますが、これはあんまり効果が大きい気はしませんでした(^_^;

 古角さんと私は「このルートがドイツ軍の進撃路だろう」と思われるものを考えましたが、富山のKさんはそことは違うルートを通って大勝利されてました。ドイツ軍側も色々選択肢や、考えるべきところがあると思います。とりあえず重要なのは、ヒップシュートしてオーバーランする、という流れです。

 ソ連軍側はドイツ軍側よりも一層チャレンジングですが、色々とあがく案が思いつくので、個人的には非常に面白いと思っています。


 『Crimea』の特別ルールはまあまあ量がありますけど、このミニシナリオ1をプレイする上で必要な特別ルールの量はそれほど多くありません。プレイしやすくするために、以下に挙げておきます。

1.ドイツ軍の航空ユニットはすべて、ヒップシュート可能です。
2.ソ連軍の航空ユニットはすべて、ヒップシュートできません。
3.ミニシナリオではランダムイベント表は使用しません。
4.ドイツ軍がケルチ港(あるいはケルチに隣接する2つの港湾)を占領しても、そこはドイツ軍の補給源にはなりません(1.1d項により)。
5.乾燥湖(Dry Lake)は基本的には中障害(Very Close)ですが、砲爆撃の対象となる時はオープン扱いです。



 それから、細かく考えていくといくつか疑問点があったので念のためにfacebook上で質問してみました。その件と合わせて、さらにルール解釈について書いておきます(OCS初心者の方は、↓のあたりは考えずにプレイしてOKだとも思います)。

unit8463.jpg


5.ケルチ港に隣接する2つのヘクスにも、元々の港湾能力が2Tと1Tの小さい港湾があります。特別ルール1.1d項の書き方は「元々1SP以上の港湾」でなければ補給源にはならないかのような文とも受け取れるのですが、確認したところ、元々1SP未満の港湾でも1.1d項に従って、1T港湾は2RE、2T港湾は4REだけを一般補給できます(厳密には、打ち消された敵ZOCにある場合にはそれがさらに半分になる?)。
 ですから、「ドイツ軍がケルチを占領した」だけでは、ソ連軍は一発KOにはなりません。あと、ケルチとその右上の港湾ヘクスの間には進入禁止ヘクスサイドがありますが、OCSでは補給路における最後の+1ヘクス、それにZOCはどんな地形でも通すので、その進入禁止ヘクスサイドも通ります。
 それから、ソ連軍プレイヤーのSPは自由配置で、タマン半島側にも置けます。普通の人はケルチ半島側に置いた方がいいと思いますが、OCSの超玄人であればタマン半島側にSPを置いても、それを「1.4a ケルチ海峡を渡る常設フェリー」や、海上輸送力1SP分や、タマン半島の鉄道輸送力1SP分で運んだりして、何か良からぬことを考えるという選択肢はあると思います(むちゃくちゃ有効というわけではないと思いますが(^_^;)。

6.F35.09とF36.08の間のヘクスサイドは通行可能です(非常に重要だと思います)。(facebook上で確認しました)

7.シナリオ特別ルールを読んでいると、私はノヴォロシースクボックスは使用不可だと思っていたのですが、facebook上で確認したところ(ソ連軍プレイヤーにとって)使用可能なのだそうです(シナリオ特別ルールに「マップ外ボックスの航空基地は使用できません」とありますが、この文言をとりあえず無視して下さいと言われました)。ソ連軍のSPは極度に少ないので、ノヴォロシースクボックスでノーコストで航空ユニットを整備するという選択肢は重要だろうと思います(そうした方がいいかどうかはともかく)。

8.ソ連軍ユニットのかなりの数が第1ターンで包囲されてしまう可能性もあるので、脱出(Breakout:OCS 12.8e)のルールを活用するという選択肢はあるかもしれません。念のためfacebook上で質問してみましたが、ミニシナリオ1(と2)でも脱出はできるということでした。脱出を活用する場合、ソ連軍プレイヤーは司令部ユニットを港湾に退避させた方がいいでしょうね(3.1bにより、一般補給下の司令部にいきなり帰ってくるので)。

9.シナリオ特別ルールには「追加のSP……はありません」と書かれています。OCSで「追加のSP」と書かれている場合は普通、マップ外ボックスからSPを空輸するとか、無限のSPがある場所から海上輸送するとかってのを指すと私は思っていました。だとすると、「補給表」による毎ターンの補給は得られるのか……? と思ったのですが、補給表を見てみると、そもそもミニシナリオ1(と2)の時期は補給表の時期表示に入ってないので、やっぱり補給表による補給は得られないと思います。ミニシナリオ1はドイツ軍は7SP、ソ連軍は4SPをセットアップ時に持っていて、それ以上びた一文もSPを得られないので、かなり大変です。LOWやExhstd上等ということになるでしょう。



 ソ連軍側は、まずは自由配置の4SPをどこに置くかが非常に重要で、様々な選択肢があると思います。恐らく大事なのは、「ドイツ軍にSPを踏まれないこと」と「SPを何に使わないかを厳選すること」でしょう。防御戦闘に2Tをほいほい入れていくことすら、オススメしません(いわんや、砲兵砲爆撃においておや)。セットアップ時に予備モードにするユニットの選定も重要です。





<2024/01/15追記>

 それから、恐らく非常に重要なテクニックとして、第1ターンの先攻枢軸軍プレイヤーターンのリアクションフェイズ中に、ソ連軍側が司令部方式(OCS 12.5cのC)で1SPを消費して、支給範囲内のすべての独立ユニットに給油してしまうという方法があると思います。

OCSでのリアクションフェイズ中の給油(移動できない、させないユニットにも給油できるか?)について (2021/09/13)

 ↑に書いてましたように、予備マーカーを乗せているかどうかにまったく関係なく、司令部ユニットは給油できます(この時、その司令部ユニット上に給油済みマーカーを置きます)し、各独立ユニットは給油されます(もちろんこの時、予備マーカーが乗っていなかった独立ユニットは移動はできませんが、予備マーカーが乗せられていたユニットは給油されて移動できるわけです)。そして、この司令部の給油済みマーカーは後攻ソ連軍プレイヤーターンのクリーンアップフェイズまで有効となります。

 ただし、この司令部の給油済みマーカーによって続く後攻ソ連軍プレイヤーターンの移動フェイズ、および突破(拡張)フェイズに再び給油されるためには、それらの各独立ユニットがその司令部の支給範囲内にいなければなりません(12.5eに従い、その判定は各独立ユニットが移動を開始する時に判定されます。フェイズ開始時に一斉にチェックされるのではありません)。ですから、例えば一部のソ連軍ユニットが枢軸軍ユニットによって包囲されており、ソ連軍側の給油済みマーカーの乗った司令部から支給ができない場所にいた場合、包囲下のユニットは給油状態にはなれません、が、そのフェイズ中に包囲を解除できれば、支給できるようになる可能性はあります。

 この方法によって、うまく行けばソ連軍側は、戦車ユニット、オートバイユニット、砲兵ユニット(移動モードが自動車化)、司令部ユニットのほとんど(あるいはすべて)を、第1ターン後攻ソ連軍プレイヤーターン中に移動させられる可能性があります。

 枢軸軍プレイヤーはこれを防ぐためには、単にケルチ周辺の港湾を押さえるだけでなく、ある程度のソ連軍部隊に対して第1ターン先攻枢軸軍プレイヤーターン中に包囲環を作っておく必要がある、ということになるかもしれません。

<追記ここまで>

<2024/02/12追記>

 あと、枢軸軍は最初の移動フェイズ中に、がら空きのケルチを占領してしまうという作戦があり得ると思います。その場合、ケルチの航空基地にSPを空輸できるので、ケルチを占領したユニットがLow/Exhstdにならないよう、空輸した方がいいだろうと思います。Exhstdになると防御力が半分になりますから(ただし、すぐにやられてしまった場合SPが無駄になるとか、SPを取られてしまうというデメリットはあるでしょう)。

<追記ここまで>



 OCSには色々な小さいシナリオがありますが、このシナリオは両軍がかなりチャレンジングで面白い、ある意味で教育的な、能力を試される好シナリオなのではないかと思いました。

OCS『Crimea』の現時点で判明しているエラッタ&明確化

 OCS『Crimea』ですが、現時点で判明しているエラッタと明確化がいくらかありますので、書いておこうと思います。今後順次、加筆することにします(明確化は、facebook上で質問したものです)。

 サンセット版和訳は2024/01/26時点までのエラッタ&明確化だけが含まれています。その後明らかになったエラッタ&明確化に関しては、赤字で表示します。



■サンセット和訳のエラッタ

◇ルールブック上

Page3 1.4c 氷結 の6行目
「3ターン続くする必要が」とありますが、正しくは「3ターン続く必要が」です。

Page11 3.3d 再編態勢 のB)の3つ目の◇
「砲兵砲爆撃【3.4】は行えません。」とありますが、正しくは「砲兵による砲爆撃は行えません。」です。
【私はここのArtillery Barragesは3.4のArtillery Barrage(マーカーのルール)を意味すると解釈していたのですが、そうではなく、通常の「砲兵による砲爆撃」を意味すると解釈すべきようです(>_<)】

Page13 3.6c オデッサ(1941年)の項の後ろから6行目
「退出させることができます」とありますが、正しくは「退避させることができます」です。
【「退出」という用語を訳者は、「ゲームプレイから取り除かれる」という意味で使用するようにしていました。3.6cの件はそうではないので、誤解を招かないように修正しておいていただけると幸いです。】


◇プレイブック上

Page4 シナリオ2の「勝利条件」の2行目
「クリミアで自軍が支配している」とありますが、正しくは「クリミアとタマン半島で自軍が支配している」です。

Page10 シナリオ3の「最後のターン:」
「1944年6月22日ターン」とありますが、正しくは「1944年1月22日ターン」です。

Page11 勝利条件 の4つ目
「枢軸国の戦略的勝利:」とありますが、正しくは「枢軸軍の戦略的勝利:」です。

Page23 右の列の最後の見出し部分
「第4ウクライナ正面軍ユニットが配置される任意のターンに(第4ウクライナ正面軍ユニットと一緒に配置します)」とありますが、正しくは「第4ウクライナ正面軍ユニットが活性化されたターンに(第4ウクライナ正面軍ユニットのいるヘクスに配置します)」です。
【サンセット和訳を作成した時点ではこの見出しの部分は「第4ウクライナ正面軍が到着した時」のことだと解釈していたのですが、正しくは「第4ウクライナ正面軍が到着して2ターン目に再編態勢に移行した後、増援表で11以上の目を出すなどして条件を満たして活性化されて攻勢態勢になった時」という意味でした】





■マップ

 天候表(Weather Tracks)の「15-29 Nov」の「Freeze」のコラムが「5-6」となっていますが、正しくは「3-6」です。


 ケルチ海峡氷結進行表(Kerch Strait Ice Development)の右側の説明文の2つ目の最後に「一番左(leftmost)のボックスまで」とありますが、正しくは「一番右(rightmost)のボックスまで」です。


明確化:
ヘクスF10.03は荒地です(ヘクスのほとんどが丘ですが、ヘクスの右上の方に荒地が少しあるので、荒地となります)。


unit8439.jpg


明確化:
F46.08は全海ヘクスであるとみなします。ソ連軍のBBやCL等は通常、海岸ヘクスには入れませんが、全海ヘクスであるF46.08、F45.09を通って、Kamysh Burun港とKerch港に入ることができます。また、KerchのあるF45.10は「港湾のある海岸ヘクス」なので、そこを通ってKolonka (F46.10)に入ることができます。
(F46.08にほんの少しだけ陸上が入っているように見えるのは校正ミスだということです)


unit8429.jpg


明確化:
↑の画像で、例えばケルチ港とカミシュ・ブリュン港がドイツ軍ユニットに占領されていて、ケルチ半島にいるソ連軍が使用できるのはコロンカ港だけだとします。その場合、ケルチ半島で一般補給を供給されるのは1Tのみ(2RE分)になります。その場合、下記のようになります。
1.脱出(Breakout:OCS 12.8e)判定時、2RE分のユニットには一般補給が供給され、それ以外のユニットは一般補給が引けないとして脱出の対象となります。
2.戦略移動は、一般補給が引けるヘクスで移動を終了しなければなりません。2RE分のユニットにしか一般補給が引けないため、戦略移動が可能なのは2RE分のユニットのみです。
3.上記1、あるいは2で、「一般補給が引ける」として「脱出の対象とならなかったユニット」/「戦略移動をしたユニット」は、続く補給チェックの際に、一般補給が入れられるのでなければなりません(別のユニットに一般補給を入れるのは許されません)。






■カウンター

ドイツ軍のHe.111Hのカウンターの内の1つには、「1/2T」と2箇所に書かれています。右下の方の記載は無視して下さい。

unit8459.jpg



ドイツ軍の第22装甲師団の師団砲兵(第140自動車化砲兵連隊)ユニットの移動モード面の移動力が間違っています。白色の3となっていますが、黒色の16が正しい数値です。
【『The Forgotten Battles』にて訂正カウンターが提供される予定です。】

unit8426.jpg



注意事項:
ドイツ軍の歩兵師団ユニット(複数ステップユニット)のうち、第50歩兵師団と第73歩兵師団は1941-42年のシナリオと、1943-44年のシナリオの両方に登場し、前者では20-4-3で後者では16-4-3となっていますので、注意して下さい。
(この項、facebook上での質問から。歩兵師団については今回、他にもないか私はチェックしてみましたが、見つかりませんでした。しかし歩兵師団以外でも同様の例があるかもです)

【この件ですが、とは言っても実際にプレイする時には忘れてしまっていてユニット名だけで選別してしまいやすいので、プレイブックの当該師団の項に蛍光ペンを引いておくとかするのが良いと思います】

unit8438.jpg

unit8437.jpg



明確化:
カウンターの裏に「One Sided」あるいは「Static」と書かれているユニットで、戦闘モードの移動力が0であるもの(沿岸砲兵ユニット、セヴァストポリ砲兵ユニット、UR旅団に付随するMG旅団と野戦工兵旅団ユニット)は、いかなる手段によっても移動できません(フェリーや海上輸送等でも)。ただし、パルチザンユニットは裏に「One Sided」と書かれているものの戦闘モードの移動力が1なので、戦闘モードであれば移動できます(ただし、移動モードにはなれないので、移動モードでなければ不可能なフェリーや海上輸送等はできないでしょう)。






■ルールブック

1.1b 大都市として「メリトポリ」の名前が挙げられていますが、正しくは「マリウポリ」です。


明確化:
1.4a 「ケルチ海峡を渡る常設フェリー」を使用できるのは、移動フェイズ中のみです(突破フェイズやリアクションフェイズ中には使用できません)。このフェリーの能力を使用した上で、通常の海上輸送をまったく別に使用できます。
 また、その「2ユニット」という規定は、文字通りであり、例えば4ステップを持つ複数ステップユニットでも1ユニットですし、5SPのカウンターでも1ユニットですし、1T輸送トラックでも1ユニットです。



明確化:
1.4c 氷結
ケルチ海峡が氷結している時には、そこを「ソ連軍の海軍輸送船舶(Naval Transports)」は通ることができません。
(また氷結している時、タマン半島北岸にあるTemryuk等のアゾフ海の港湾は、1.1dの「アゾフ海の港湾」にあるように、使用できません)


明確化:
1.5a ソ連軍の「歩兵」でなければならない、とありますが、ここでの歩兵とは□に×の兵科マークのみを持つものを指し、山岳歩兵や海兵、UR旅団などは含まれません。

明確化:
1.9cの3) ドーラでステップロスの結果が出た場合、陣地のレベルを下げるというのは、「ユニットのステップロスを与え、同時にそれと同じだけ陣地レベルも下げる」という意味です(陣地レベルを優先的に下げ、ユニットのステップロスは後回しにされる、というような意味ではありません)。

明確化:
2.2b 3つ目の「・」の最後に「(そして、上記の「・」の項目はそのまま適用されます)」とあるのは、「OCS『The Third Winter』と連結している場合に「クリム航空艦隊以外のいずれかの航空艦隊司令部マーカーから60ヘクス以内でしか行えないようになる」」という意味です。






明確化:
3.3d 再編態勢
 再編態勢の正面軍司令部を、例えば前線から大幅に後方へと移動させると、前線の多くのユニットは再編態勢の特典/制限を受けなくなり、攻撃や砲撃を行えます。これは「いかがわしい(ゲーム的)」ではなく、許される行為です。この件についての、OCS班長チップ・サルツマン氏の記述を引用しておきます。

 いかがわしくはありません! 正面軍ルールは『The Third Winter』のもので、正面軍が攻勢を行うか、あるいは部隊を再建、訓練、あるいはより活動的な戦線に転属させる間、手ごわい防御を構築するというソ連軍のやり方を反映したものです。ローマ軍が行軍の終わりに砦全体を建設するのと同じように、彼らはこの変更を素早く行うことができました。戦争のこの時点では、枢軸軍はソ連軍が攻勢を行っている場所で機動力(衰えつつありましたが)を必要としていたため、再編態勢の正面軍を攻撃しませんでした。私は、『The Third Winter』において、独創的なプレイヤーの一人が、再編態勢の特典を受けながら、再編態勢の正面軍のユニットを前進させるのを見たことがあります。それはローマの「テストゥード」陣形のようなもので、防衛線にぶつかるまでは有効だと思います。私はこれを "消極的戦略"と考えています。正面軍司令部を後退させるのは賢いアイデアですが、それでもユニットが攻撃するためにはSPを前進させる必要がありますし、ソ連軍の輸送手段には限りがあります。私は、このアイデアは「システムと協力するのではなく、システムと戦おうとしている」と考えます。それよりも、再編期間を利用してSPを蓄積し、攻勢態勢に移行した時に、重く、決定的な一撃を与えられるようにしたほうがよいでしょう。そのほうが、毎ターンSPを消費して限定的な作戦を行うよりも効果的なことが多いのです。




明確化:
3.5a 上陸作戦
 上陸作戦の「準備中(Preparing)」とは、ノヴォロシースクボックスに必要なターン数の間、ユニットを置いておくことを意味しています。つまり、「いったん上陸作戦を行ったら自動的に「準備」期間に移行し、ノヴォロシースクボックスに何も置かれていなくても3/5ターンが経過したら準備完了(Ready)となる」のではありません。
 言い換えれば、そのユニット毎に「準備中(Preparing)」から「準備完了(Ready)」になるのだと言えるでしょう。例えば、海軍歩兵ユニットだけが置かれた状態で2ターンが経過し、3ターン目に通常の歩兵ユニット1個がノヴォロシースクボックスに追加されたとすると、元いた海軍歩兵ユニットは3ターン経過した時点で「準備完了(Ready)」となりますが、3ターン目に追加された通常の歩兵ユニットは、3~7ターン目の間ノヴォロシースクボックスに留まらなければ、「準備完了(Ready)」とはなりません。




明確化:
3.5b 上陸拠点マーカー
4番目の「・」に「ユニットは正面軍司令部から受給するのと同じようにして、上陸拠点マーカーからSPを受給できます。」とありますが、
1.この機能は、上陸拠点マーカーが正面軍司令部ユニットから10ヘクス以内にある時にのみ使用できます(ルール上その点は明確に書かれていませんが)。
2.この機能は、「上陸拠点マーカーの下(あるいは周囲)にSPがなくても、10ヘクス以内の正面軍司令部の下(あるいは周囲)にあるSPを、上陸拠点マーカーに対して受給できる」というものです。
3.上陸拠点マーカーは、正面軍司令部の持つ「10ヘクスの指揮範囲」をも持つわけではありません。ですからユニットは、上陸拠点マーカーに向かって5移動力+1ヘクスで受給する必要があります。


明確化:
3.5e ソ連軍の海上輸送船舶
通常は揚陸(ALT)でSPは陸揚げできませんが、海軍輸送船舶(Naval Transport)はSPを陸揚げできます。



3.6c オデッサ(1941年)
 3.6cで「オデッサに置かれているソ連軍ユニットは、枢軸軍の陸上ユニットがxx.21ヘクス列の南側に移動したターンに活性化され、その後4ターンの間退避させることができる」という風に書かれています。
 一方、1.3e オデッサボックスでは、「オデッサボックスは1941年10月22日ターンまではソ連軍の支配下にある」と書かれています。
 すると、例えば枢軸軍の陸上ユニットがxx.21ヘクス列の南側に移動したターンが10月19日ターン(22日ターンの前のターン)だった場合、「4ターンの間の退避期間」はどうなるのか不明確でした。
 エラッタとして(次のエラッタに掲載予定)、枢軸軍のxx.21ヘクス列の南側への移動が遅れた場合も、その後の「4ターンの間の退避期間」は確保されます(10月22日ターンより後もソ連軍支配が続きます)。そして、もしその5ターン目にオデッサボックスに依然としてソ連軍ユニット(航空ユニットも含めて)がいた場合、それらはデッドパイルに置かれます。



共通再建表
「2Paxを消費するユニット」の一覧に、「(ソ連軍の1ステップユニットの)騎兵師団」を追加します。

明確化:
再建において、マップ上にいてステップロスしている複数ステップユニットのステップを回復させたい場合には、その複数ステップユニットが(一般補給下の工兵能力を持つ)司令部の2ヘクス以内にいる場合のみ可能です(司令部から3ヘクス以上離れていてはいけませんし、また、司令部と同じヘクスにいなければならないわけではありません)。この件は、Paxだけでなく、「特別(Special)」の適用においても同様です。




■プレイブック

明確化:
5.1 シナリオ1
枢軸軍プレイヤーは1ターンにつき2ヘクスをゲージ変換できます。【BoardGameGeekでのやりとりによる明確化:鉄道工兵ユニットは必要ありません。ただし、敵ZOCは変換できません】

明確化:
5.1 シナリオ1 および ドイツ軍増援到着表
シナリオで使用できる分遣連隊ユニットの数は、セットアップ情報で制限されています。一方、ドイツ軍増援到着表の1941年10月5日ターンに分遣連隊ユニットとして到着すると指定されている増援があります。この増援はセットアップ情報で個数が制限されている分遣連隊プールの中から出します(分遣連隊プールに追加される形で到着するのではありません)。

5.3 ミニシナリオ1
シナリオ特別ルールに「マップ外ボックスの航空基地は使用できません」とありますが、この文言を無視します(ソ連軍はノヴォロシースクボックスを使用可能です)。

明確化:
ミニシナリオ1で、枢軸軍は自由配置のSPをプレイエリア外に配置することもできます(航空基地に置いて、空輸する等)。また、ソ連軍はプレイエリア外に航空任務を行えません(ですから、プレイエリア外の枢軸軍航空基地を爆撃したりはできません)。
【後者は、シナリオ特別ルールに「プレイエリア外からプレイエリア内に航空任務を行える」と書いてあるが、逆は書かれていないからです。そうすると、厳密に考えると、枢軸軍が航空ユニットをプレイエリア内からプレイエリア外に「基地移動」することもできない、ということにはなりそうです。ただし、プレイエリア内から出発した航空ユニットが、プレイエリア外の航空基地に「帰還」することは許されるのではないでしょうか。】



5.4 ミニシナリオ2
勝利条件の2つ目 「42年6月26日ターンから7月29日ターン」とありますが、後者は正しくは「6月29日ターン」です。


明確化:
5.5 シナリオ3
枢軸軍の陣地で、Tamanの南西ヘクス、Feodosiyaの北東ヘクスに配置されるものがありますが、この配置は間違いではありません(Taman、Feodosiyaのヘクス自体に陣地を構築すべきだったろうと意見はありますが)。


unit8413.jpgunit8412.jpg



枢軸軍増援到着表
第22歩兵師団のいる場所について、「F24.26, F20.25, and F24.27」と6箇所に記載されていますが、このヘクス番号は誤りです。正しくはシナリオ1に記載されているように、「F20.26, F24.26, and F27.24」です。

1941年12月19日
20-4-3 Inf Div (73) を 6-4-3 Infantry KG (Hitz)と交換します(状態マーカーはそのままで)。第73歩兵師団に必要な残りステップは1ステップです。【facebook上での回答による明確化:第73歩兵師団が2ステップ以上あった場合、それらのステップは失われます。第73師団がデッドパイルにあった場合は、デッドパイル上で 6-4-3 Infantry KG (Hitz) と交換します】




■両軍のTables Display

「Replacements」と「Supply」の縦の真ん中のコラムの見出し
「June 1942」とありますが、正しくは「June - July 1942」です。


ルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人であったというラドゥ・コルネについて

 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーを訳していますと、クリミア戦最初期に編成された「ツィーグラー支隊」の中にルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人であったラドゥ・コルネ大佐という人がいたということで、調べてみるとその後結構重要な戦いで師団長などを務めたということで、OCSゲームでどういう部隊を指揮していたかを調べてみました。


unit8475.jpg

 ↑ラドゥ・コルネ大佐(Wikipediaから)



 またぞろ、日本語版Wikipeida「ラドゥ・コールネ」が簡潔で分かりやすかったので、引用してみます。

ラドゥ・コルネ(Radu Korne, 1895年12月13日 - 1949年)は、ルーマニア王国の軍人。最終階級は少将。

ブカレストのボイヤー(貴族)出身。本来の姓の表記はCorneaだが、ラドゥは年代記にて記されていたKorneを好んで名乗った。

1913年、トゥルゴヴィシュテの騎兵士官学校に入学し、15年卒業。騎兵第4連隊「マリア王妃」第703機関銃分隊長として第1次世界大戦に従軍。7月31日〜8月13日にかけてタラパン高地にて行われた第二次オイトゥズ会戦で砲撃に巻き込まれ負傷するものの、8日後に護送されるまで前線を引かず指揮し続けた。この勲功により、3等ミハイ勇敢公勲章(英語版)を受章。ハンガリー・ルーマニア戦争では第2機関銃大隊長。

戦後、上級戦争学校を経てフランスに留学。帰国後はシビウの騎兵特別学校教官に就任し、以後長らく教育畑を歩んだ。

第二次世界大戦勃発当時、第5騎兵旅団隷下の第6騎兵連隊長であった。1941年6月22日独ソ戦が始まると第6騎兵連隊はかねてよりソ連に支配されていたモルドバに進軍。要所を次々と陥落させた。

1941年7月22日、第6騎兵連隊隷下の山砲3個大隊を分離再編させ「コルネ」自動車化騎兵集団(2個自動車化騎兵連隊規模)を編成。8月上旬までにブグル(Bugul)を経てドニエプル川まで進軍を果たした。

9月25日、ソビエト赤軍第9軍および第18軍は大規模な反攻作戦に転じた。第5騎兵旅団はアキモフカにて深刻な打撃を受け撤退を余儀なくされるが、第6騎兵連隊は戦線を維持し続けた。これにより2等ミハイ勇敢公勲章を受章。

翌1942年、かねてよりセヴァストポリ攻略に苦悶していた第11軍司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、コルネ大佐にクリミア半島への転進を命じた。第6騎兵連隊および第10騎兵連隊、第54砲兵師団、一個対戦車大隊および二輪車部隊から編成されたコルネ支隊は、3月5日半島南部のフェオドシヤに上陸。ただちにグロデック旅団の指揮下に編入された。ケルチ郊外の戦いにおいて、重要な役割を果たし、16万人以上を捕虜にした。

1942年に第3騎兵旅団、1942年から1943年に第8騎兵師団を指揮した。1943年10月、第8騎兵師団は第8装甲騎兵師団に改編される計画であったが、実際は1944年8月まで装甲化されてはいない。同旅団はマンシュタイン指揮下のドン軍集団ルーマニア第4軍の下で作戦行動を行い、スターリングラードで包囲されたフリードリヒ・パウルス将軍の包囲解除を試みた冬の嵐作戦に参加した。1942年12月18日、騎士鉄十字章を授与された。

1944年4月から第1装甲師団の司令官に親補された。敗戦の濃くなった8月20日、バフルイ川南部にソ連軍の大規模な部隊が押し寄せた。第1装甲師団はスコブルツェニにて戦闘を展開。これは連合軍との最後の大規模な戦闘となった。23日、宮廷クーデターによりイオン・アントネスク政権が崩壊。

1944年9月、予備役に編入され、間もなく逮捕された。1946年に釈放されたが、1948年に再逮捕され、軟禁の上で病死した。







 マンシュタインは大きな装甲部隊を持っていなかったため、即席の「ツィーグラー支隊」(ハインツ・ツィーグラー大佐は、ドイツ軍第42軍団の参謀長でした)を、第190突撃砲大隊やルーマニア軍のコルネ旅団(ラドゥ・コルネ大佐は、ルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人でした)、その他の雑多な自動車化部隊によって編成します。彼らは素早く前進し、わずか2日でシンフェロポリ(F18.08)郊外に到達しました。
『Crimea: Conquest & Liberation Playbook』P22



 ↓OCS『Crimea』の「ツィーグラー支隊」と思われる構成ユニット。右側がコルネ旅団です。

unit8476.jpg





 英語版も含めて、Wikipedia上に書かれているコルネが指揮したという部隊の名称が、OCSゲーム上に見つからないことが多いのですが、とりあえず……。




 ↓OCS『Case Blue』のコルネ連隊。

unit8474_2023122909233017a.jpg

 ↑これは『Case Blue』の扱う前半の時期のものなのかもです。





 スターリングラード攻略戦、および冬の嵐作戦の時にはコルネは第8騎兵師団の指揮を執ってそれらに参加していたというのですが、OCS『Case Blue』には第8騎兵師団のくくり(複数ユニットフォーメーション)でユニットが入っていません(第7、第9騎兵師団は複数ユニットフォーメーションで入っているのですが!)。

 OCSでは、割とばらばらに使用されていた師団などではそういうことがあって(例えば、イギリス第6歩兵師団は枢軸国の情報機関を欺くために第70歩兵師団へと改称された(付:OCS『Reluctant Enemies』、『DAK-II』、『Burma II』) (2021/06/06))、それ自体はいいのですが、じゃあ具体的に第8騎兵師団の隷下のユニットがどれであるか、調べようとしてみたのですが……。


 ↓OCS『Case Blue』の冬の嵐作戦シナリオの初期配置。

unit8473.jpg


 ↑ルーマニア軍の騎兵ユニットが4つほど見えています。この中に第8騎兵師団と、第5騎兵師団があったらしいです。


 ところが、手持ちの資料で(楽をしようと)戦闘序列の表を探してみたのですが、見つけられず。文の中を探せば隷下の部隊は分かるのかもですが、面倒なのでパスで(^_^;

 とりあえず見つけられたのは、以下の2つの記述でした。もしどなたか分かりましたら教えて下さい!(>_<)

・Group Popescu (General Korne's 8th Cavalry Division, two regiments of 5th Cavalry Division, and Group von Pannwitz)
『Companion to Endgame at Stalingrad』P319

5th Cavalry Division Col. Dumitru Popescu
8th Cavalry Division Br-Gen. Radu Korne
『Stalingrad Battle Atlas Volume IV』P94








 OCS『The Third Winter』の期間においてコルネは、ずーっと第8騎兵師団長、そして最後の最後で第1装甲師団長かと思われます。

unit8471.jpg

unit8472.jpg


 OCS『Case Blue』の時にはアクションレーティングが4で頼りになりましたが、OCS『The Third Winter』の時期にはアクションレーティング2が基本で、なかなかつらいものがありますね……(T_T)


クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したリッター・フォン・ショーベルト将軍について

 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーを訳していまして、クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したというリッター・フォン・ショーベルト将軍(ドイツ軍の将軍で第二次世界大戦中に最初に(前線で?)死亡した。また、その後任がフォン・マンシュタインでクリミアを攻略した)について興味を持ったので、調べてみました。


Eugen von Schobert

 ↑リッター・フォン・ショーベルト将軍(Wikipediaから)


 簡潔で分かりやすかったので、日本語版Wikipedia「オイゲン・フォン・ショーベルト」の記述をまず挙げてみます。

ヴュルツブルクにバイエルン王国軍少佐の息子として生まれる。1902年7月にバイエルン王国軍に入隊。1904年に少尉に格別の優秀な成績によりルイトポルト・フォン・バイエルン王太子に賞されて任官。第一次世界大戦では全期間を通じて西部戦線に従軍、塹壕戦や浸透戦術に格別の能力を示し、負傷すること数回。その功によりバイエルンの最高軍事勲章であるマックス・ヨーゼフ勲章 騎士章を受章し、騎士(Ritter)の称号を叙された。第一次世界大戦終了後もヴァイマル共和国軍に留まることができた。1929年にベルリンに転属となり、高級参謀教育を受ける。1933年12月に歩兵総監に就任。第17歩兵師団、第33歩兵師団(ドイツ語版)長を経て、1938年2月に歩兵大将に昇進し、直後に第7軍団司令官に任命された。

1939年9月のポーランド侵攻時には南方軍集団に所属した第7軍団を指揮し、フランス侵攻時にもA軍集団の第16軍に所属した同軍団を指揮した。1940年6月29日に騎士鉄十字章を受章。1940年9月に第11軍の司令官に就任した。1941年6月のバルバロッサ作戦では第11軍は南方軍集団に所属した。

しかし、作戦偵察中に搭乗していたシュトルヒ偵察機がソ連軍の地雷原に墜落し、パイロット共々戦死した。1941年9月15日に葬儀が執り行われた。

フォン・ショーベルトはナチズムの信奉者として知られており、第11軍司令官当時にはソ連軍の政治将校や政治活動をする占領地の民間人を即時処刑するよう命じた「コミッサール指令」を下達している。


 ドイツ語版Wikipedia「Eugen Ritter von Schobert」によると、ナチズムの信奉者として活動していたことから恩恵を受けて出世が早くなったそうです。ただし、1939年10月に第16軍の司令官に同輩のエルンスト・ブッセが任命された時に、挫折を味わったとか(ブッセも同様にナチズムの信奉者でしたが、フォン・ショーベルトの方が先任?であったので)。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第7軍団司令部ユニット。

unit8481.jpg



 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーンの初期配置上の第7軍団司令部の位置。

unit8480.jpg




 バルバロッサ作戦中にフォン・ショーベルトの第11軍司令部は、ルーマニアの名目上の最高司令官アントネスクの参謀として機能したとかなんとか……ってことも少し興味深いのですが、そこらへんはOCSでゲーム化されていないので無視しまして(おい)、OCS『Crimea』のマップ上の出来事としましては……。


 ↓OCS『Crimea』のシナリオ1の初期配置。

unit8477.jpg



 8月12日、フォン・ショーベルトはドニエプル川に向かって進撃し、クリミアへ入るためにそこに橋頭堡を確立するようにという新たな命令を受け取りました。ソ連軍とは後衛との局的な小競り合いがあっただけで、ドニエプル川北岸のBerislav(Beryslaw)にはすぐに到達することができました。

 Berislavは赤い○のF17.35の北側のヘクスだと思われます。スターリンはドニエプル川の線を何としてでも保持するよう命令していたため、8月30日から9月5日までこの地域で激しい戦闘が展開されましたが、その間にフォン・ショーベルトはドニエプル南岸に橋頭堡を形成することに成功します。そして9月10日までにはソ連軍をメリトポリ方面に押し返しました(赤い破線の矢印)。

 さらにフォン・ショーベルトが投入した第54軍団の偵察部隊はクリミア半島への入り口にあたるペレコプ地峡まで進みました(赤い実線の矢印と、赤い□)が、そこで激しい抵抗に会い、小兵力の急襲だけでは突破できないと思われると報告します。

 その同じ9月12日、フォン・ショーベルトはフィーゼラー・シュトルヒに乗り込み、先遣師団の司令部へと飛びました。理由は不明ですが、おそらくはソ連軍の機関銃による対空射撃のために着陸せざるを得なくなってソ連軍の地雷原に突っ込み、直後に機体は爆発。フォン・ショーベルトとパイロットの両名は死亡したのです。

 1941年9月16日、ブク河口の軍港ニコラエフの第11軍司令部では、前任司令官リッター・フォン・ショーベルト上級大将の葬儀が執り行われていた。ショーベルト将軍は、空中偵察の際にソ連軍地雷原に不時着、爆死してしまったのだ。葬儀はしめやかな弔意にみちていた。
 しかしその一方で、参謀長ヴェーラー大佐の以下の第11軍首脳部は不安を禁じ得なかった。新任司令官【フォン・マンシュタイン】は第11軍の担当している東部戦線の南端、最右翼の部隊という重圧に耐え得る人物だろうか? 前任者のショーベルトはバイエルン人らしい率直さで軍の信頼を勝ち得たものだった。プロイセン人だという新任司令官はうまくやれるか? 第11軍の指揮下には山岳猟兵(ゲビルクスイェーガー)が多い。彼らの多くはバイエルン人なのである。
『灰緑色の戦史 ドイツ国防軍の興亡』P162

 ショーベルトが干渉しないタイプの司令官だったのに対し、マンシュタインはすぐにあらゆる作戦立案の中心となっていった。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P352,3


 ショーベルトは第二次世界大戦で亡くなった最初のドイツ軍の将軍であり、ヒトラーの命令によってドイツ国内で盛大な葬儀が営まれたそうです。

 東部戦線における処刑などに関するフォン・ショーベルトの関与等も、前掲ドイツ語版Wikipediaには色々記載されていました。




 フォン・ショーベルトの死後5日目の9月17日に、フォン・マンシュタインは第11軍司令部に到着しました。

 攻撃に先立ち、【第11】軍司令部はロストフとクリミヤの両正面の指揮がしやすいアスカニア・ノヴァ【赤い☆印の湿原地帯】に移っていた。ここには有名な動物園【広大な野生動物保護区】があり、多くの動物が放し飼いにされていた。作戦主任参謀のテオドル・ブッセ大佐が作戦立案に熱中していると、迷い込んだ鹿に突きとばされたなどという珍事も起こったのである。
『灰緑色の戦史 ドイツ国防軍の興亡』P166


(ただしゲーム上では第11軍司令部はヘルソンの方に置かれています)



 OCS『Crimea』の(時期的にも)最初のシナリオであるシナリオ1:「通過儀礼」は、41年9月26日ターンから始まります(12月26日ターンまでの28ターン)。史実では攻撃自体は9月24日に始まり、きわめて激しい戦いで、数百年前にタタール人によって築かれた壕まで前進。そして、26日のその壕と壁への強襲が始まったもののようです。

牟田口廉也が非難する三人の師団長にも問題はあった?

 今回『都道府県別 陸軍軍人列伝』を読んでいて、もう一つ「ほお?」と思ったことがありました。


 著者の藤井非三四(ひさし)氏が、「牟田口廉也が非難する(インパール作戦時の)三人の師団長にも問題はあった」と書かれていたことです。これまで読んできた本では、とにかく牟田口廉也が非難される超悪役であり、罷免された3人の師団長は皆「善人」側とされるのが当たり前であったと思われましたので。

 司令官の牟田口廉也は、戦後の回想を見ても、それほど悲劇だとは感じていないようだ。すべての責任は、隷下三人の師団長にあり、もう少しで勝てた作戦であったと強弁し、あれほど凝り固まる人は佐賀県人でも珍しいと評された

 もちろん、牟田口廉也が非難する三人の師団長にも問題はあった。抗命して独断退却した第31師団長の佐藤幸徳(山形、25期)は政治色が濃く、自分が東條英機(岩手、17期)の後釜に座るという妄想にかられていた。作戦中に作戦中止を具申した第33師団長の柳田元三(長野、25期)は、陸大恩賜の秀才だが、本来は情報畑育ち。第15師団長の山内正文(滋賀、25期)は、駐米武官もした米国通だが、どう見ても野戦向きではないし病気がち。そんなことで三人とも作戦中に罷免されるという珍事となった。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P611




Kōtoku SatōGenzou YanagitaMasafumi Yamauchi

 ↑佐藤幸徳(第31師団長)、柳田元三(第33師団長)、山内正文(第15師団長)(Wikipediaから)




 3人についてそれぞれ詳細を調べるのは大変なので、これまで収集していた情報から、3人の「悪い面(?)」と思われるような記述だけを抜き出してみようと思います(もちろん、「良い面」の記述も大量にあるわけですが)。

 佐藤幸徳の場合は、その性格の激しさにおいて、牟田口と四つ相撲を引き分けるほどのものを持っていたのだから、意見が合えばその力は2倍になるが、そうでないときは、逆に大変なマイナスに転ずる危険性が潜在していたのだ。コヒマの戦闘では、後者の方が悲運を招来してしまったのであった。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P360,1

 偶然、この師団【張鼓峰事件での第19師団】には長【勇】、佐藤幸徳、田中隆吉と札つきの荒武者が連隊長にいたため、日本軍の徴発か陰謀と疑われたが、これはヌレギヌだったようだ。
『昭和史の軍人たち』P196

 高野手記に出てくる佐藤幸徳は、のちにインパール作戦で抗命退却を強行した異色の人物だが、このころは広島連隊付として統制派の拠点づくりに熱中、福山連隊にいた皇道派の相沢中佐を孤立させ、あわよくば統制派に引きこもうと工作していた。
『昭和史の軍人たち』P468

 中【永太郎参謀長】は佐藤を「豪放と小心とを兼有する人物であり、政治に興味を持ち、よく大言壮語したものである」と手厳しい。
『牟田口廉也とインパール作戦』P265

 中佐時代に始まる牟田口との関わりからか、佐藤には上司指揮官を指揮官とも思わない発言や、命令を軽く見る兆しが見られた。後の危機存亡の中、これを更迭することは、むしろ牟田口が軍紀を守ったという見方もできる。
『牟田口廉也とインパール作戦』P293

土門周平によるとインパール作戦時には、上司の牟田口中将とだけでなく、部下の第31歩兵団長である宮崎繁三郎少将とも折り合いが良くなかった。宮崎は、食糧が十分でない前線部隊にまで佐藤が慰安所を設けようとしたことや、宴席で率先して猥談をしたこと、公然とインパール作戦の失敗を予言していたこと、テント暮らしの兵士を尻目に数寄屋造の豪華な師団長宿舎を造らせていたことなどを不快に感じていた。
日本語版Wikipedia「佐藤幸徳」





 第33師団長の柳田元三中将と参謀長田中鉄次郎の激しい反目がそれであった。そもそも二人の性格は氷炭相容れなかった。柳田はすべてに慎重で消極的にさえ見られるのに対して、田中は猪突猛進の積極型であった。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P359

 彼【中永太郎参謀長】は柳田を生一本の「正義の士」と表現する。理屈に合わないことが大嫌いと言い、時に柳田は偏狭とさえ見られると心配する。ソ連関係の権威だけに、物量に重点を置き過ぎると警鐘も鳴らす。
『牟田口廉也とインパール作戦』P264

 そして、インパール作戦となる。柳田ほどの情報センスがあれば、インパール作戦の行く末も予測できる。そのため、「危ない、危ない」と及び腰になっているから、思いもよらぬ錯誤を犯す。
 敵の頭を押さえていた第一線から、「玉砕覚悟で奮闘す」との報告が来ると、「大変だ玉砕させてはならぬ」と包囲を解かせてしまった。それからはさらに慎重になり、インパールに向けての突進を渋り
、軍司令部に「即刻、作戦中止」の意見具申をするまでになった。
 インパール作戦と言えば、牟田口廉也ばかりに非難が集中して来たが、彼が柳田元三に激怒する気持ちもわかる。猛烈な譴責電が発信されるが、柳田も負けてはおらず、作戦構想そのものを批判し、ほかの二個師団に同じ過ちをさせてはならないとまで言い切った。
 こうして柳田元三は、師団長に着任してからわずか二ヵ月、しかも作戦中に更迭された。理路整然と説けば、だれでも納得するはずとの信州人の思い込みが、こまた偏屈で理屈が多く、しかも感情激発型の佐賀県人には通じなかったということになる。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P292,3





 中【永太郎参謀長】は山内を「実に穏やかな人柄」と言い、真面目な米国通で中国語も堪能と評価する。山内は「うちの兵団(第15師団)はご承知のとおり、支那戦線から押っ取り刀で駆けつけてきたので、様子も皆目わからず準備も未だ十分ではない」と正直に話す。【……】山内はご命令通り一生懸命やると言うが、自信はあまりなさそうだったと中は感じている。参謀長の岡田菊三郎少将は往々夫人を亡くしたばかりだったが、そんな素振りは一切見せず、張り切って作戦準備に専念していた。山内が岡田を信頼しきっている様子も看守されたという。
 後日のことだ。メイミョーの兵站病院に重篤となった山内中将を中参謀長は見舞った。その時でさえ、山内は自分が既に罷免されたことを知らされていなかったらしい。後送されて床にいることもわからず、死相も呈していた。顔面を緊張させ、頻りに「申し訳ない」と繰り返す。また高熱にうなされ、うわごとのように戦場の地名を呼び、何やら命ずるように言ったかと思うと、眠ってしまうという状態だった。この数時間後に山内は絶命した。中は「自分が山内に最後にあった知己ではなかったか。実に見上げた人格であった」と述懐している。
『牟田口廉也とインパール作戦』P265



 私は、どんな人物も長所と欠点の両方を持っているものだと思うので、いわば「善人」側だとされていたであろうこの3人の欠点についても、検証されなければ牟田口廉也に対して不公平だという気はします。

牟田口廉也は上司の河辺正三への反骨心でインパール作戦に突き進んだ?

 以前、大戦中を通じて南方軍総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥について (2023/10/27)で書いてました『都道府県別 陸軍軍人列伝』で、牟田口廉也と、その上司であった河辺正三(まさかず)についてどう書かれているか、読んでみました。






Lieutenant General Reiya Mutaguchi, Commander of the 15th Army of the Imperial Japan ArmyMasakazu Kawabe

 ↑牟田口廉也と河辺正三(Wikipediaから)



 私はこの二人は、「仲の良い」、いわばインパール作戦に関する「共犯関係」のように今まで本を読んできて思っていたのですが、『都道府県別 陸軍軍人列伝』著者の藤井非三四氏は、むしろ牟田口廉也は河辺正三に対する反骨心を持っていたのだろうという書き方をされていて、興味深く思いました。

 例えば、↓では、牟田口と河辺は「仲が良い」という見方で書かれていると思います。

インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理 本当に、牟田口ひとりの責任だったか 広中 一成

日本語版Wikipedia「河辺正三」



 以下『都道府県別 陸軍軍人列伝』の中の文を引用していきますが、それぞれの県(地方)人性に関する分析の文は偏りがあるかも……。でも、この本はそこらへんが売りであるのでしょうね(^_^;

【盧溝橋事件の時】夜間に部下を展開させていた牟田口廉也は、すぐさま攻撃の命令を下した。報告を受けた河邊正三は、「なにっ、攻撃するっ」と不快感を表したとも、牟田口を叱責するかのように無言のままだったとも言われる。
 夜襲が成功して一帯が静穏になったとき、河邊正三はこだわりなく「それはよかった。これで安心しました」と牟田口廉也に語った。しかし、牟田口は数時間前の叱責じみた河邊の言動が忘れられなかった。
 河邊正三は北陸人のためか、秀才のためか、その性格は暗い。報告を受けたとき、「適当なところで切り上げて」となり、暖かい一言があればこじれることもなかったろう。
 牟田口廉也は一見豪放そうだが、佐賀県人の性か気が小さく、いつまでも根にもつ。それにしても、この廬溝橋での悪感情が昭和19年3月からのインパール作戦にまで持ち越されるとは、人間関係のむずかしさを痛感させられる。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P232,3

 それなのに牟田口廉也は、軍司令官になると積極的になった。インドに攻め入り、その独立を促し、戦争終結の糸口をつかむという夢みたいな話へと衝き動かしたものは、彼の奇妙な責任感であった。
 牟田口廉也は、支那駐屯歩兵第1連隊長として盧溝橋事件の渦中にいた。だから、この戦争のはじまりに責任があり、終結の決め手を演じるのは自分の責任だと思い込んだ。しかも当時、上司であった支那駐屯歩兵旅団長の河邊正三(富山、1期)は、今度も上司のビルマ方面軍司令官だ。
 二人してやるんだと言うよりも、あのとき、冷たかった河邊正三に見せてやるんだと、牟田口廉也は気負い立ったのである。【……】
 そんな責任を感じる必要はどこになかったし、戦線の西端で3個師団ぐらい動かしたところで大勢が決まるはずがない。ところがひとたび思い込むと、それに凝り固まる性格の牟田口廉也は、その道理に納得できなかったのだろう。この偏執的で頑固な性格を見て、なるほど佐賀県人と思う人は多いはずだ。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P612



 この見方の論拠については書かれていませんが、この本はそもそも論拠を挙げる性質のものではないので……。

 県人性への見方と共に、単なる著者の推測かもですけども、私は「色んな見方がある方が面白い」と思う人間なので、かなり興味を持った次第です。



 河辺正三については、私は少し前に読んだ『戦慄の記録 インパール』で、かなり印象深かった彼のセリフがありました。

 1937年の盧溝橋事件以来、直属の上司と部下という関係から労苦を分けあってきた河辺中将と牟田口中将。強固な信頼関係によって、インパール作戦をともに推し進めた二人の戦後は、あまりに開きがあった。
 軍事研究家の大田嘉弘氏は、戦後、この二人にそれぞれ面会している(大田嘉弘「インパール作戦」)。牟田口中将は「感情の高ぶるままに絶句落涙することが少なくなかった。一方、〔略〕河辺大将に対しては一言も加えるところがなかった」。しかし、河辺中将は、牟田口中将について、「牟田口はまだそんなことに悩んでいるのか」と述べていたという。
 大田氏は、「あれほど許し合った両将軍の仲を冷却させた原因は、陸軍中央部が、河辺中将に対しても、インパール敗戦の責任をとらせなかったことに因る」と述べている。
『戦慄の記録 インパール』P241,2


 河辺正三のいう「そんなこと」とは、たぶん「インパール作戦で多くの将兵を犠牲にしたこと」だと思ったので、私はこのセリフにある意味「戦慄」したんですが、あるいはそうではない?

 しかし今回、『都道府県別 陸軍軍人列伝』を読んでいると、河辺正三はどうも「将兵の犠牲」とかを気にしない人物であったかのように思え、そこらへん自分の中では整合性がとれたような気がしたんですが、どうなんでしょう。

 そして、河邊正三が表面に出てくるのは、作戦がどうにもならなくなった昭和19年6月、とうとう悲鳴を上げた牟田口廉也が攻撃中止の場合、後退する線について意見具申したときであった。これを受けた河邊は、「消極的意見を具申するのは意外とする所なり」と冷たく突き放した。そうしておいて南方軍には、ウ号作戦【インパール作戦】中止を要請しているのだから、そこに河邊の老獪さ、抜け目なさを感じさせる。
 【……】
 昭和19年8月、河邊正三は激戦がつづくビルマ戦線を離れて、参謀本部付として内地に帰還した。インパール作戦の責任を痛感して自決するのではないか、予備役編入を申し出るのではないかと周囲は心配したが、そんな憂慮はこの人には無用であった。
 すぐに河邊正三は中部軍司令官に就任し、同軍が第15方面軍に改編されてからの昭和20年3月9日、大将に進級した。まったく時期が悪く、東京大空襲が3月10日、13日から14日にかけては河邊が所在していた大阪がB29【、】280機の大空襲を受けた。そこで、「戦さに負けると大将になれる」と公然と語られた。
 そんな下々の声を気にするような河邊正三ではない。
堂々と新設された航空総軍司令官に就任し、杉山元の自決後には第1総軍司令官に就任した。インパール作戦という大悲劇の当事者が、これらの要職に平気で就任するとは、超エリートの心境というものは並の人間には推し量れない。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P234,5





 河辺正三の能力や人となりについては、これまで収集していたものも含めてこんなのがありました。彼は教育畑でしたが、ともに陸大恩賜であった弟の河辺虎四郎は作戦畑で、非常に賢くて勤勉で実力があったそうです。

 この【関特演の】とき、牡丹江正面の第3軍が独断専行して日ソ戦の口火を切るのではとささやかれた。その理由はさまざまあろうが、河邊が司令官では、部隊を統制できないのではないかと憂慮されていたのだ。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P233

 河邊も皇道派との距離の近さが中国への転任に影響したと言われていた。彼は学究肌で野戦の将に相応しいとは思えなかった。また、強烈な個性の持ち主にも見えなかった。
『牟田口廉也とインパール作戦』P81

 河邊の【ビルマ方面軍司令官】就任の辞は、将兵と聖戦の目的達成に邁進し、天皇の懸念を取り除くことを期す、という簡単なものだった(河邊正三「陸軍中将河邊正三就任の辞」)。虚飾を嫌う河邊らしいと言える。また、ここで言う「天皇の懸念」とは西陲(西端)の守護であるのは論を俟たない。これも作戦に重大な影響を与えることになる。
『牟田口廉也とインパール作戦』P147

 後世における評価は、ビルマ方面軍の長であった河辺、木村【兵太郎】両者に対してはなはだ厳しいものになっている。 すなわち河辺については、牟田口が提唱し河辺が承認したインパー ル作戦の失敗に対して、木村についてはラングーン撤退戦の不首尾に対して、かれら最高責任者の判断が問題とされている。
 このような対照的な結果は、飯田【祥二郎】の在任した期間が幸運にも日本有利の時期であり、その後の両者の時代が不利な時期であったという点だけでなく、両方面軍司令官の実戦指揮官としての適性にも関係しているものと思われる。
 戦後数十年の年月を経ていた昭和の末年に到っても、将官としての河辺正三を仰慕する人の数は少なくなかった。陸軍教育関係のキャリアも長く、かれの感化を受けた人も多かったものと思われる。飯田とは陸大同期で軍人としてはやや小柄であるが、その端正な風貌と品位に満ちた立居振舞いは、人をして自然に畏敬の念を呼び起させるものであった。河辺については詳しい伝記も出版されている(「軍事研究」臨時増刊、昭和四十六年刊)。
 かれはまた漢詩をよくし、多くの作品が平成に入って刊行された私家版の漢詩集「興観集」に収録されている。この漢詩の中で特に目を引くのはやはり盧溝橋事件について詠んだ数編の作品である。華北の一点から起きた暗雲がやがて全大陸に拡大し、運命の太平洋 戦争開戦に到ったことに対して、幾度か感懐をこめて振り返っている。
今後も同じ上下関係 河辺正三-牟田口廉也のコンビが関係した二度の出来事、盧溝橋事件とその拡大ならびにインパール戦は、日本の歴史の上で忘れられることはないであろう。
『隠れた名将飯田祥二郎』P210,212

TPRGのマスターは、ゲームを面白くするためだったらダイス目の操作も許されるけど、審判制ウォーゲームの審判にそれは許されるか?

 たかさわさんの「審判ありの『エル・アラメイン』」という記事が上がっていて、非常に興味深かったです。





 審判制でダブルブラインド、移動計画をプロット、同時移動というのは、私も特に数年前から興味があったんですが、ここ最近ウォーゲーム業界においても少しずつ話が出てきている気がします。

 私も一応、まずは1806年のイエナ・アウエルシュタット戦役で審判制ゲームが作れないかなと思って、ルール等も考え始めてはいるんですが、「審判にはどこまで許容されるか(審判にどこまでを任せるとみなすのか)」についてが、一番問題かもしれないという思いがありました。

unit8484.jpg



 私が特に考えていたのは、「TPRGのマスターは、ゲームを面白くするためだったらダイス目の操作も許されるけど、審判制ウォーゲームの審判にそれは許されるか?」ということでした。


 でも今回、たかさわさんの記事を読んでいて、これもまたルール案が思いつけないでいて困っていた「偵察」のルール案を思いついたのですが、その中で。

 1日の昼の時点で、それぞれの陣営の偵察が成功したかチェックする。成功率は1/3とか? その時点で一番近い敵の場所が例えば1/3で、それに失敗したら次に近い敵(軍団)の場所が1/3で……という風にチェックして、一箇所のみが、夜に伝えられる?
(特定の日に必ず偵察結果が伝えられるのだとすると、それまで動かないでおこうとなるだろうから、不特定の方がいいだろう)
 ただこれだと、片方の陣営が3日連続で偵察に成功し、逆の陣営は3日連続で失敗する……というようなことも全然起こりうる。それは、審判が調整する?


 ↑ダイス目の偏りによってゲームが壊れるようなことが偵察の時点で考えられ、それは審判が調整した方が良いと思われるわけですから、他のことでもある程度は審判に委ねて良いということかな、と(自分の中で)思われました。


 また、たかさわさんが書いておられたように、「ルールで規定されていないようなことが起こった時にそれをどう処理するかも、審判が(常識に照らして)判断する」ということであれば、ルールも簡潔にできそうです(^_^; そこらへん「かなり厳密に規定しなければならないのではないか」と私は思っていたので、気が楽になりました。


 あと、『エル・アラメイン』だとまだユニット数はちょっと多いなという気がしたのですが、1806年戦役だと軍団単位で、片方の陣営が目標ヘクスを指定するのが6個ぐらいなので、そこらへんプレイしやすくてやはり良いなという気がしました。

 1815年(ワーテルロー)戦役だと、イギリス連合軍とプロイセン軍は最初割とバラバラに初期配置されているのですが、だんだん集まってそれぞれ2つぐらいのグループにまとめられますから、集める処理だけすれば後は楽だと思います。

 クルセイダー作戦も審判制で欲しいのですが、これはグループはもっと多そうです……。


 たかさわさんの記事で少しまたモチベーションが上がったので、できたら次はユニットを作りたいと思ってます。

『Ney vs. Wellington』(SPI)の今回の備忘録

 Kimatakaさんに言われて、ボードゲームギークス松原にお邪魔しまして、『Ney vs. Wellington』(SPI)を練習プレイしました。


unit8485.jpg



 ルール理解もですが、「こういう時にはだいたいこうするのが良い」というような戦術的な部分の理解がまだ全然できてない気がします。

 今後、同システムの『Winter's Victory』(NES)もやっていきたいですし、今回「こうなのかな?」と思われた部分をメモっておこうと思います。



・イギリス連合軍側は横隊で待ち構えるのかもですが、一線級(イギリスと、ハノーファーの一部)と二線級(オランダとブラウンシュヴァイク)のユニットがあります。今回二線級ユニットで前線を組み、一線級ユニットを予備にしてましたが、逆、あるいは混合が良いのかも。

・11.24により、フランス軍側の縦隊突撃(白兵戦)の直前に、防御側から射撃を受ける? ここで1~3ステップ失う可能性があります。縦隊突撃の際には、ユニットを1つずつ横に並べるとそれぞれに防御射撃を受けてしまうだろうけども、スタックしていればスタックの一番上のユニットだけが射撃を受ける?

・「ステップの半分を失うまでは戦闘効率は変化せず、半分以上になってから戦闘効率が下がり始める」というルールを入れてやってましたが、それでも混乱(Dis)はしまくった印象がありました。しかし混乱したら3ヘクス後退し、そして回復フェイズに敵から3ヘクス離れていたら自動回復かと思われ、そうすると混乱からの回復は早いかも?

・一方、敗走(Rout)は隣に指揮官がいる(ウェリントンのみ、4ヘクス以内でOK)のでなければ回復(混乱になる)しないし、勝手に下がっていくので、厄介。ウェリントンを回復用に常に用意しておくか、幾人かの指揮官を回復用に回すか……?

・イギリス連合軍はただ守っているだけでなく、散兵に縦隊で白兵戦を挑んだりした方が良い? あるいは、フランス軍が縦隊突撃の試みで混乱した時に、そこに騎兵突撃をかけるとか?

拡張横隊が、各ヘクスに全戦力を持つのかどうか未解明。拡張横隊のメリットがいまいち良く分かりません。

<2023/12/03追記>

 satoさんから旧ツイッターの方でコメントいただきました。ありがとうございます!(; ;)ホロホロ

延長横隊はルール[8.32]により両方のヘクスそれぞれに全兵力が存在するたみなされます。射界が広いのがメリットといえるかもしれませんが、どちらかというとこのルールは大規模編成が強制的にヘクスからはみ出てしまうことを再現してるのではないかと思います。ご参考までに。



<追記ここまで>


・戦線の角があると、側面をさらす部隊がどうしても出てくるので厄介です。どうすればいいのでしょう? 散兵を置く? 砲兵の射界を入れておくとか、騎兵や予備を近くに置いておくとか……?

・障害地形のヘクスサイドは、垂直方向には射界を遮るが、並行方向では射界を遮らない。

ナポレオニック:大陸軍の歩兵の種類&『La Bataille D'Auerstaedt』和訳

 『La Bataille D'Auerstaedt』の特別ルールを翻訳していたのですが、歩兵にいくつか種類があり、良く分かっていないので(フランス軍のもののみを)少し調べてみました。


 ↓BoardGameGeekにあった戦闘序列シート?の一部です。

unit8486.jpg



 右側にある「Ligne(戦列歩兵)」が主たる歩兵ですが、連隊を分割して下側の「Grenadier(擲弾兵)」と「Voltigeurs(選抜軽歩兵)」の中隊ユニットも出せるようになります。20-7を分割して、7-8と2-10と1-9を2つずつ出せるということです。ちなみに、第17連隊の第2大隊がここにないのは、戦場の後方のコーゼン橋を守備していたのでマップ内に出てこないからです。

 左側の連隊は「Legere(軽歩兵)」ですが、軽歩兵連隊を持っているのは第1師団のみで、第2、第3師団は戦列歩兵連隊しか持っていません。軽歩兵連隊は2-10の「Carabinier(騎銃兵)」(精鋭)と、6-9から2-10を3つに分割できる「Chasseurs(猟兵)」に分けられます。

 大まかに言うと、「戦列歩兵」とは戦列を組んで戦う歩兵で、「軽歩兵」は戦列を組まずに(地形に個々に身を隠しながら)戦う歩兵です。が、戦列歩兵連隊の中にも散兵になれる擲弾兵中隊と選抜軽歩兵中隊が配属されており(戦列歩兵の前に散兵線を出したりするのに使われる)、軽歩兵連隊は全員が散兵になれるんだけども戦列歩兵として戦おうと思ったら戦える、ということかと思います。また、「擲弾兵(騎銃兵)」は精鋭で背が高い者、という共通項があるようです。





 日本語版Wikipedia「大陸軍(フランス)」の「歩兵」の項にあった説明を要約しますと、こういうことらしいです。


「Ligne(戦列歩兵)」……歩兵の大部分で、その中でも細かく言えば「Fusilier(小銃兵)」という名前が、戦列歩兵連隊における「Grenadier(擲弾兵)」と「Voltigeurs(選抜歩兵)」以外を意味したかのようです。いわゆる一番普通の歩兵であり、戦列を組んで戦います。


「Grenadier(擲弾兵)」……戦列歩兵連隊の中の精鋭であり、古参兵で占められていました。
「擲弾兵の新兵の条件は連隊の中でも背が高く恐ろしげであり、しかも口ひげを生やしているということになった。これに加えて帽子が熊毛になり上着には赤の肩章を着けた。」


「Voltigeurs(選抜軽歩兵)」……戦列歩兵連隊の中のエリート軽歩兵(「選抜歩兵」という訳語と「選抜軽歩兵」という訳語があるようなのですが、軽歩兵であるらしいので私は「選抜軽歩兵」にしようかと)。
「1805年、ナポレオンは戦列大隊の中で背は小さいが敏捷な者を選んで選抜歩兵中隊を作るよう命じた。この中隊は大隊の階層の中では擲弾兵中隊に次ぐものである。」
選抜歩兵は重要な任務をこなし、散兵戦や各大隊の偵察などを行った。その訓練では射撃技術や素早い動きに重点が置かれた。帽子は二角帽で黄と緑あるいは黄と赤の大きな羽毛が付いていた。」



「Legere(軽歩兵)」……「戦列歩兵が大陸軍の歩兵の大部分を占めていたが、軽歩兵(Infanterie Légère)も重要な役割を果たした。【……】また散兵戦を含め戦列歩兵と同じ作戦行動を執れた。その違いは訓練方法であり、高い団結心を生んだことである。

軽歩兵の訓練は射撃術と素早い動きに特に重点が置かれた。その結果、軽歩兵は戦列歩兵よりも正確な射撃の腕前と迅速な行動力を身につけた。軽歩兵連隊は多くの戦闘に参加し、さらに大きな作戦の哨戒に利用されることが多かった。当然ながら、指揮官達は戦列歩兵よりも軽歩兵に任務を任せることが多く、軽歩兵部隊の団結心が上がり、またその華やかな制服や態度でも知られた。軽歩兵は戦列歩兵よりも背が低いことが要求されており、森林を抜ける際の敏捷性や散兵戦の場合の物陰に隠れる能力に生かされた。


「Chasseurs(猟兵)」……猟兵は軽歩兵大隊の大部分を占める存在です(少数の精鋭は「Carabinier(騎銃兵)」となります)。
「猟兵の制服はフュジリエ【戦列歩兵の大部分を占める歩兵】よりも華美なものであった。1806年までは円筒帽に濃緑の大きな羽と白の紐が付いていた。制服は戦列歩兵よりも暗い青で小競り合いのときのカムフラージュにもなった。上着は戦列歩兵と同じだったが、折り返しと袖口は濃青だった。また濃青と赤の肩章を付けていた。ズボンは濃青で靴は騎兵のような長いものだった。」


「Carabinier(騎銃兵)」……「騎銃兵は軽歩兵大隊の擲弾兵【つまり精鋭】である。2回の方面作戦参加を経験し、背が高く勇敢な猟兵が選ばれた。彼らは大隊の精鋭部隊であった。擲弾兵と同様に口ひげを蓄えることを要求された。
「制服は猟兵と同じだが、赤の肩章だった。騎銃兵中隊はより大きな騎銃兵部隊を構成することがあり、突撃を要するような作戦に使われた。



 それぞれのフランス語の発音は、カタカナにするとこういう感じでしょうか? ネット上でネイティブの発音も聞けます。

「Ligne(戦列歩兵)」……リーニュ
「Fusilier(小銃兵)」……フュジリエ
「Grenadier(擲弾兵)」……グレナディエ
「Voltigeurs(選抜歩兵)」……ヴォルティジュール
「Legere(軽歩兵)」……レジェール
「Chasseurs(猟兵)」……シャスール
「Carabinier(騎銃兵)」……カラビニ



 『La Bataille D'Auerstaedt』の特別ルールの和訳は、一応形にはなったので、公開しておきます。

『La Bataille D'Auerstaedt』の特別ルールの和訳

 ただ、色々間違えているところもあるかと思います。間違いを見つけられたら、指摘していただけると大変ありがたいです(>_<)

 とりあえず、白兵戦修正の表にある「Feu de Provocant」が何を意味しているのか分かっていません(^_^;

 ↑コメントにて教えていただきました。大変ありがとうございます!(^^)





OCS『KOREA』12「リッパー作戦」シナリオのバランス改造案

 この土日、OCS『KOREA』のシナリオ12「リッパー作戦」をVASSAL対戦してました。

 史実で国連軍が勝利した戦いなのですが、プレイしてみた感じ、国連軍が楽勝すぎる(共産軍がどうしようもなさすぎる)気がしたので、今後プレイする際のためにもバランス改善案を考えてみました。



unit8487.jpg

 ↑全9ターンで、国連軍がソウルの3ヘクスと春川(チュンチョン)を占領していれば勝利します。共産軍はソウルの1ヘクスと春川(チュンチョン)を占領していれば勝利します。それ以外は引き分けです。

 史実では、国連軍が3月15日(第5ターン)にソウルと洪川(ホンチョン)を占領、22日(第7ターン)に春川(チュンチョン)を占領し、作戦自体は3月いっぱい続いたのだとか。

 しかしゲーム上では、国連軍側が兵力も多く、アクションレーティングも高く、しかも航空兵力が暴威であるのに対し、共産軍側は貧弱な戦力しかなく、洪川(ホンチョン)などは第1ターンに一撃で陥落しますし、ソウルや春川(チュンチョン)の陥落も史実のスケジュールなどあり得ないだろうと見込めました。


 ただしシナリオ改造前に、できるだけの努力として共産軍側が最初のリアクションをかなりうまくやることが必要だろうと思います。

 その場合恐らく重要なのは、ソウルの東4ヘクスの場所にある12-3-3の歩兵で、これが戦闘フェイズ中に抜かれるとひどいことになります。なので、予備マーカーをうまく設定して、ステップをこのヘクスに入れたり、攻撃側に砲爆撃すべきだと思われました(ただし、国連軍側がここを狙わないとか、ここを狙うと見せかけて別の場所を狙うということは当然あり得ます)。

 当然、春川(チュンチョン)側の戦線でも予備を重々うまく設定すべきです。初期配置ではこちらにアメリカ海兵隊(アクションレーティングが高く、ヒップシュートの観測もできる)がいますし。



 もしシナリオ改造するなら、その時に使えそうな案を複数考えてみました。

1.初期配置での共産軍側のステップロスマーカーをすべて除去する。

2.国連軍のうちイギリス連邦軍と「その他の国連軍(薄いグレー)」は、移動で自ら敵ユニットに接することができない(最初から接している、あるいは敵から接してくる、退却で接するのは問題ない)。

3.国連軍のうち韓国軍も、以下同文。

4.シナリオ設定では両軍とも増援を(5SPずつのみしか)出さないことになっているが、キャンペーン用の増援を両軍ともに補給源に出す。この場合、シナリオ初期配置では共産軍に航空基地がないが増援で航空ユニットが出てくるので、シナリオ5.11にピョンヤンにレベル2航空基地があるのに倣って置く。
(シナリオの期間である51年3月中、共産軍は大量の増援が出てきますが、国連軍側は1ユニットしか出てきません)


 ただし、4は即効性が低い割に労力が非常に増えるので、せっかくの1マップで手軽にできるシナリオなのによろしくない気がします。個人的には、1と2を導入して試してみたいところです。3も入れると、国連軍プレイヤーにとっては結構チャレンジングになる……といいなぁ。

『La Bataille D'Auerstaedt』に出てくるsunken road(陥没道路?)について

 『La Bataille D'Auerstaedt』には、「sunken road」(陥没道路?)というのが出てきますが、よく分からないので少し調べてみました。


unit8536.jpg

 ↑ハッセンハウゼン村の南側にあるのが「sunken road」(陥没道路?)です。


 Hassenhausenの南側にある窪んでいる部分は、あらゆる意味において道路とみなします。

 この窪んだ道路ヘクスサイドを横切ることができないユニットは、それらのヘクスサイド越しにZOCを及ぼしません。

 唯一の例外は、騎馬散兵としておかれた騎兵です(この隊形で散兵戦を行うことができるため、それらのヘクスにZOCを及ぼすわけです)。砲兵が、この窪んだ道路のヘクスにいるユニットに砲兵の効果を及ぼすことを意図している場合、砲兵はこれらのヘクスサイドを越えて砲撃を行えません。従って、砲兵はこれらのヘクスにZOCを及ぼすことはできません(この窪んだ道路の土手の深さは9フィート【約2.74m】もあり、砲兵はそのような深さまで砲の角度を下げることはできないのです)。





 検索してみると、英語版Wikipedia「Sunken lane」というのがありました(日本語版の項目はありませんでした)。

La Meauffe - Chemin creux 1


 これによると、人の手ではなく、自然に長い時間をかけて形成されたものらしいです。ヨーロッパやシリアなどでの例が説明されていました。また、検索しているとアンティータムの戦いにおけるSunken laneというのもあるらしいので、アメリカにもあるのでしょうか。



 試しに、Googleストリートビューでハッセンハウゼン村の南側を見てみると、↓のような感じにはなっていました(南側にはそれらしき土手がありますが、北側にはありません)。

unit8488.jpg



 とりあえず、「sunken road」の訳語をどうするのが適当なのかが問題です。検索しても日本語の訳語が出てこないですし……。

 「陥没道路」とすると「道路だけが低くなっている」ような語感があると思うんですが、実際には「道路の左右が高くなっている」のではなかろうかとも思われます(でないと、道路に雨水などがたまってしまってどうしょうもないでしょう(^_^;)

 「切通し」(山や丘などを部分的に開削し、人馬の交通を行えるようにした道)という日本語があり、鎌倉の切通しは昔見に行ってなかなか壮観でしたけども、これは人工的なものですし、景観的にも全然違うでしょう。


 うーん、何か良い案があれば教えて下さい(^_^;

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団の連隊長と参謀長の更迭について

 トングー戦の時期に、日本軍の第55師団は連隊長と参謀長の更迭が行われたそうで、その件について戦史叢書『ビルマ攻略作戦』に述べられていました(P299,300)。


 ↓現状の第55師団ユニット。

unit8492.jpg


 連隊長というのは第112連隊長であった小原沢幸蔵大佐で、これまでの戦闘で多数の死傷者を出して神経衰弱気味であり、爾後の行動に積極性を欠いていたそうです。それで3月19日にピユ付近の敵(中国軍)を撃破して占領した日に、連隊副官から「連隊長の神経衰弱が昂じ、部隊の指揮がとれなくなった」と報告がありました。

 師団の方でも連隊長の更迭を考慮していた際でもあったので、先任大隊長に指揮をとらせて連隊長はラングーンの兵站病院に後送することにしたそうです。

 後任には棚橋真作大佐が任命され、4月3日に着任しました。


 私は以前、洋書か何かで「第55師団のいずれかの連隊長が積極性を欠いていたとして、後に更迭された」という記述を読んでいたような気がしていたのですが、これなんでしょうね。私は「指揮官の性格が積極性を欠いていた」あるいは「戦果の課題報告」とかからと思っていたのですが、そうではなくて心労のためだった?

 また、新たに連隊長となった棚橋真作大佐は、後に第2次アキャブの戦いでその時第55師団長であった花谷正中将から督戦されるも独断撤退し、終戦後割腹自殺したことで知られ、高木俊朗氏の『戦死 インパール牽制作戦』で詳しく扱われています。





 『戦死』を読んだ印象では、棚橋真作大佐は立派な人であったと私は思いましたし、指揮能力も高かったように思われました。



 閑話休題。

 第55師団の参謀長の方の話ですが、師団司令部内では出征以来(第55師団はタイ、ビルマ方面が初の出征)、「師団長と参謀長をはじめ高級副官その他幕僚との間はとかく折り合いが悪く、特に参謀長とはことごとに反発し合っていたといわれる。その結果師団がトングーに向かって北進中、師団長(竹内寛中将)はついに参謀長の更迭を上申するに至った。」とのこと。

 新たな参謀長は久保宗治という人でしたが、特筆されるようなことはなし? 更迭された参謀長の名前は記されていませんでした。



 第55師団の2つの連隊のアクションレーティング(AR)なんですが、現状私は第112連隊をAR3とし、後から来る第143連隊をAR4としています。最初は両方とも3にしていました。一方、第33師団の先に出てくる連隊2つはAR5です(後で追いついてくる連隊1つはAR4)。

 最初に第55師団の連隊2つをAR3にしていた理由なんですが、「(日本軍をひいきし過ぎて)あんまりぽんぽんARを高めにしたくない」「ARが低い部隊があったり高い部隊があったりした方が良いじゃないか」という思いがあり、第33師団のARは高めにせざるを得ないとしても、第55師団のARを低めである3にできないか……という思いがあったのでした。

 ところがその後、ツイッター上で英語圏の日本軍マニアだという人から「第55師団のARが低すぎるのではないか。第55師団は出征前にジャングル戦の訓練を受けていたのだから、もっと高くすべきだと思う」というような指摘をいただきまして、悩んだ挙げ句、少し遅れて登場する第143連隊の方を、「ゲーム登場前にマップの南方域ですでにいくらか戦闘を経験していたから」という理由を頭の中でむりやり付けて、AR4に上昇させました。が、第112連隊の方は「ARが低いユニットもあった方が面白い」という理由にしがみついてそのままにしていたのでした。

 ところがここに来て、第112連隊のARが低めであるべき理由が見つかって、「よっしゃ」となりました(バキッ!!☆/(x_x))


 しかし逆に、連隊長がこの頃更迭され、指揮能力が高めかもしれない棚橋真作大佐が新連隊長になったとすると、「AR4とかの差し替えユニットを用意して、差し替えすべき」という説が頭をもたげてくるかもしれません。

 まあそれはそれでもしかしたらアリかもしれないので、今後考えていくということで……(反論としては、連隊長のみでARが決まるものではないでしょ、というのもあると思います(^_^;)。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:トングー戦の時期の中国軍の動き

 トングー戦の時期の中国軍の動きについて、主に陸戦史集『ビルマ進攻作戦』に記述があったので、地図にしてまとめておきたいと思います。


unit8493.jpg

 ↑は、OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から (2023/10/15)で作っていた中国軍の配置図を元にして、そこからの移動を記したものです(第200師団の表記位置はトングーに移動させましたが、他の部隊の表記位置は元のままです)。



 以下、OCSのターン(3.5日毎)を最後に付けて記します。


 日本軍は3月15日以降にトングーへの北進をはじめます。17日に最初の戦闘があり、18日、19日と続きましたが、この3日間の敵は英印軍(第1ビルマ師団隷下?)でした。(3月15日ターン~19日ターン)

 20日にニャングチダウクで初めて中国軍(第200師団隷下の第598連隊)と衝突します。(3月19日ターン)

 22日にトングーのすぐ南のオクトウィンにあった中国軍陣地で激戦となり、ようやく24日にこれを占領。(3月22日ターン)

 26日からトングー戦が始まりましたが、中国軍の陣地は固く、また守備する中国軍第200師団約3000名の戦意は高く、日本軍の第55師団はその攻略に手こずります。(3月26日ターン)

 この頃、ラングーン港に日本軍の増援の第56師団が到着し始め、その第56捜索連隊、およびこの方面に配属を受けた重野戦砲兵第3連隊、航空爆撃隊の協力により、30日にトングー攻略に成功したのでした。(3月29日ターン)


 OCSのターン的には、トングー戦の南での北進しながらの前哨戦が3ターンあり、トングー戦自体は3月26ターンのものが失敗して、戦力を追加して次の3月29日ターンのものが成功した、という感じでしょうか。








 中国軍側の動きは以下のように書かれていました。

 3月22日、スチルウェルはトングーの第200師団を救援するために、第6軍の第55師団(55T)主力にカレン山地からの移動を命じます。この移動命令が実行されたかどうかまでは書かれていないのですが、この頃だったかにモチ(Mawchi)に中国軍の連隊が入ったという記述をどこかで見た気がします(またもや、今回どこにその記述があったか見つけられず! トホホ……)。

 この頃、第22師団はピンマナに、第96師団はマンダレー方面に移動。

 日本軍の一部がトングー北西のトングー飛行場を占領したのに対し、3月24日にスチルウェルは第5軍の訓練部隊の第1、第2予備連隊をトングー北方地区に進出させ、飛行場を奪回するように命じます。ただし命令は受領されたものの実行されず。

 3月26日までに第22師団はピンマナに着いており、列車輸送でトングーに前進させようとしたのですが、地方官憲の連絡ミス等で鉄道運行が不能になったそうです。

 3月30日に第200師団はトングーの陣地を放棄して、エダッセ以北で陣地を守備していた第22師団を超越して撤退しました。






 中国軍については、今回のような「ミスで動けなかった」という話以外にも、中国軍の軍司令官や参謀達が、蒋介石による「部隊温存」の意向から部隊を移動させようとしなかったという話もありますし、師団毎に「移動チェック」をして失敗すると動けない、とかってルールを織り込むと良いのかも?

 あと、私は個人的にOCSにおける「反陣地主義者」であることもあり(おい)、これまでのOCS『South Burma』(仮)では「両軍とも陣地は建設できません」というルールを入れていたのですが、今回のトングー戦の記述を見るに、陣地を出さなければならないですね……(^_^;

大戦中を通じて南方軍総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥について

 OCSで『Luzon: Race for Bataan』(1941~2)を作り、今『South Burma』(仮)(1942/1945)を作れないかなと悪戦苦闘しているわけですが、その間ずっと、それらの軍部隊の上級司令部であった南方軍の総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥というのはどういう人なのだろうというのが気になってました。


Hisaichi Terauchi 2

 ↑寺内寿一元帥(Wikipediaから)



 で、この春にゲームマーケット東京に行った時に神保町で『元帥寺内寿一』という本を見つけて買ってみたんですが、まだ全然読んでいません バキッ!!☆/(x_x)






 それはともかくとして、最近本屋に行っていると光人社NF文庫で『都道府県別 陸軍軍人列伝』という本が出てまして、悩んだものの買ってみました。




 藤井非三四氏の本で、東西2分冊で以前出ていたものが今回1冊の文庫本になって出たもののようです。

 「はじめに」を読んでますと、「人物を中心に歴史を見る」方が興味が持てるじゃないか、戦国時代なんかはそうなっているのに、近現代史ではそういうのが排斥されている傾向にあるのではないか、なので「人物」というものに興味を持って見られる一助となるかもと思って書いてみた……というようなことでした。

 もちろんこれは賛否両論あると思います。例えば、『大いなる聖戦』なんかは、北アフリカ戦の流れはロンメルとかモントゴメリーとかって人物とは何の関係もなく、それぞれの時期の大戦全体の状況から来る投入戦力と補給によってすべて説明できる、というようなことを書いてました(^_^;




 まあそういう方向性の見方もあるかとも思いますけども、私は個人的に歴史や戦史における「人物(キャラクター)」に関心がかなりある方で、藤井非三四氏の主張?には大いに共感するものがありました(個人的には、指揮官のキャラクターによって歴史が動いている割合は結構高いのではないか、と以前より思うようになっている感があります)。

 ただそこで問題になってくるのは、「人物評」というのは著者によるバイアス・偏見が大きくなりがちだということで、ロンメルなんかも「天才!」説もあれば、「単なる無謀な指揮官」評をしている著名戦史家もいるそうです。

 しかし逆に、「偏っているかもしれない短い人物評」でストンと腑に落ちる……ということもあるなぁと最近思ってまして、「石原莞爾は、その特異な終末思想が時代にアピールした。軍人というよりも宗教家としての才能に溢れていた」という評で「なるほどなぁ!」と思ったりしました(『大東亜戦争の謎を解く』P41,2)。





 で、前置きが長くなりすぎましたが、寺内寿一元帥に関して、『都道府県別 陸軍軍人列伝』(P510~516)をメインとして今回まとめてみようと思います。




 そもそも、寺内正毅と寺内寿一が「親子で元帥」という世界的にも珍しいケースなのだそうです(他の例が知りたいです。皇族とか王族とか以外で)。

 父親の寺内正毅は出征していないそうですが、陸相在任期間の記録を作ったり朝鮮総督などとして日韓併合を成し遂げたので元帥になったのだろうといいます。

 寿一の評価はまったく二分されるそうで、「軟弱な二代目、武人どころか単なる遊び人」という酷評と、「勉強こそしなかったが頭脳明晰で、なにより出世欲がないのが素晴らしい。」という絶賛?があるそうです。

 陸軍内での評判が良かったのは、人にご馳走するのが好きで、軍の多人数を料亭に招いて支払いを全部自分で持ったこと(が多かった?)に行き着くそうで、例えば昭和8年の「ゴーストップ事件」の時に大阪第4師団長であった寺内寿一はなかなか強硬に軍の立場を訴えて陸相の荒木貞夫が「寺内を見直した」と言ったそうですが、それより軍と警察の話がついた後、警察や大阪府の役人を多数料亭に招待して自分もちで大盤振る舞いをやったそうです。

 父親が超エリートであっただけに、金持ちだったから可能だったのでしょうか。

 能力の方はというと、「成績や能力については注目されなかった。ただ関東大震災のとき、近衛師団参謀長であり、てきぱきと処置をして、「さすがは東京育ち、地理に明るい」とされたぐらいであった。【……】将官演習旅行の成績が悪かったようで、ここで予備役に編入【……】」されるところを何とか現役にとどまることができたものの、中将となれてそれで終わり……と思っていた(中将まではかなり多くがなれるが、大将はなかなかなれない)のが、無欲が幸いしたか人に引き立てられて大将に。これらには軍内部人事における「父親への義理」という側面もあったようです。

 その後、二・二六事件後に親子二代で陸相となり、徹底した粛清人事を断行(ただしこれは冷徹な能吏梅津美治郎が次官にいたからだとか)。

 昭和16年に南方軍司令官となったのは、海軍の山本五十六よりも先任が望ましいという条件で7人ほどに絞られ、その中で手が空いている軍事参議官かつ最先任者が寺内寿一であったからとか。あるいはまた、東條英機(長州閥が大嫌い)と寺内寿一(父が長州閥のボスだった)とは仲が悪く、東條が寺内を東京に置いておきたくないという気持ちがあったのではなかろうかとも書いてあります。

 寺内寿一の方でも東條英機に対して不満を募らせており、東條が占領地視察に訪れても出迎えすらせず、大本営とは喧嘩状態であったとか……。

 また、降伏の儀式の時に、名刀がないと格好が付かないからと、わざわざ日本本土まで飛行機で刀を取りに帰らせたそうです。




 以上の見方は割と悪い方に偏っているとは思います。試しに『元帥寺内寿一』をパラパラと見てみたら、こっちはこっちで戦後に寺内寿一と関係のあった軍人達の筆による寺内寿一顕彰のための本であるらしく、中立的な、あるいは研究的な本では全然ないようでした(中を見ずに買った感があります……1500円くらいだったと思うのでまあいいのですけど)。



 他の資料で寺内寿一に関する短い評伝を探してみたのですが、数冊持っている日本軍人の列伝形式の本には寺内寿一は取り上げられていませんでした。

 一方、英語による第二次世界大戦中の世界中の軍事司令官等に関する百科事典形式の本を3冊持っているのですが、その3冊にはすべて寺内寿一の項目がありました。




(上段真ん中の『Who Was Who In World War II』の和訳本が2種類あり、それらが下段になります。が下段右側は反戦主義的な研究者が軍事用語に知識がない中で翻訳されたかのようで、個人的にはお勧めしません。左側は元軍人の軍事研究者が監修であり、記述も丁寧ですし、兵器関係のコンテンツも含んでいるので非常にお勧めします。)


 上段左の『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』は記述が最も簡潔であり、真ん中の『Who Was Who In World War II』の少し短い版的な内容であったので省略します。

 真ん中の『Who Was Who In World War II』には寺内寿一の写真が載っており、キャプションには「日本軍の指揮官の中でもかなり無慈悲【more inhumane】な人物であった。」と書かれています(P203)。また、「彼【寺内寿一】は【……】現地人に対しあまりに寛大な政策を施したとして今村均を非難した。」という風にも書かれていました。まあ今村均は陸軍の当時の主流派のほぼ全員から非難されていたのでしょうけども。


 一番右の『The Biographical Dictionary of World War II』には、「この老貴族【伯爵】は有能な行政官であり、ロジスティシャンであったが、無能な戦略家であった。優秀な部下の作戦を台無しにした彼の多くの失敗については、「山下【奉文】」で詳しく取り上げている。」とありました(P558)。

 「山下【奉文】」を見ると、寺内と山下は政敵であったそうで(山下が主流派から嫌われまくっていた?)、フィリピン防衛戦において「日本の最も偉大な軍人【山下】は、日本で最も無能な将軍の一人である寺内の深刻な妨害にもかかわらず、精力的に行動した。」(P626)とありました。



 あと、今回見つけたものとしては、「寺内寿一」というウェブサイトの一番下の記事には、インパール戦やフィリピン戦の最中にもサイゴンの贅沢な公館で優雅な生活を続けていたとか、日本本国から自分の妾(芸妓)を軍用機で総司令部の官舎に連れ込んでいたというようなことが書かれていました。


 まあ、さすがに悪いことだらけだと前述の『元帥寺内寿一』なんていう本も作りようがないでしょうし、良い面も色々あったんだけども、悪い面もいっぱいあったということではなかろうかと想像しますけど、どうなんでしょうか。



 しかしやはり、「短い人物評」は、偏っているとしても興味関心を持つには非常に優れていると改めて思いました。また折に触れて『都道府県別 陸軍軍人列伝』等を紐解ければと思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の連合軍の新作戦態勢

 これまで、陸戦史集『ビルマ進攻作戦』から、ラングーン陥落後の日本軍、英印軍、中国軍の作戦計画についてまとめてました。





 同書で続けて、「連合軍の新作戦態勢」(P109~111)というのがあって、割と重要そうだなと思ったのでまとめておきます。というか、OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の英印軍の作戦計画 (2023/10/24)に描いてました第1ビルマ師団の推測の後退路は間違ってました(^_^;


 ↓その間違っていた地図。「1 Burma Div」から延びる赤い矢印の経路は間違いでした。

unit8503.jpg





 ↓今回作った地図。「1 Burma Div」はエダッセ(Yedashe)にまず撤退し、3月21日頃にそこで集結、その後タウンギー(Taungdwingyi)へ鉄道で移動したそうです。

unit8494.jpg



 3月19日までに中国軍の第200師団の前進部隊(戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P292によれば第598連隊)がピユ(Pyu)方面に進出しており、19日に日本軍から攻撃を受けてトングー周辺の主陣地に下がったそうです。


 時間的に遡りますが、第1ビルマ師団の3月11日~17日の動きは、『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』の地図からです。諸資料によると、ラングーン陥落後の第2段階での最初の戦闘は3月17日にキョクタガ(Kyouktaga)で起こったようです。


 画像には東西にまたがるようにして2本の赤線が引かれていますが、実はこれはマップ割(案)でして、上の線は一番南のマップの北端の線、下の線は真ん中のマップの南端の線です。前者は単純に、一番南のマップの南東端を決めた後のOCSのマップのヘクス数から自動的に決まった線なのですが、後者は「第2段階はプロームとトングーの少し南から始まったのだろうから、マップ間を1ヘクスだけ重ねるのではなく、南端をもっと南にずらしておいて、マップ2枚で第2段階全体を再現できるようにできれば」と思ってずらしておいたのでした。

 今回調べたことからすると、まさにその南端のキョクタガ(Kyouktaga)で第2段階が始まったわけですが、あまりにもギリギリすぎて困惑してしまいました(^_^; 本当にキョクタガ戦から始めるならば、さらに数ヘクス南にずらしておかないとダメなんじゃないでしょうか。しかし、ここらへんの戦いは小競り合い的なもので割とすぐにトングーに近づき、しかし3月22日にトングーの1ヘクス南のオクトウィン(Oktwin)で予想外の中国軍の抵抗にぶつかったということなので、マップ2枚シナリオ上では最初の数日分は省略するという方向性はあるだろうと思います。

 より重要なのは、プローム方面での(省略できなさそうな)戦いがどこらへんから始まったかでしょうか。そこらへん、今後見ていくということで。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の中国軍の作戦計画

 承前、ラングーン陥落後の中国軍の作戦計画についてです。今回も要約します。



unit8499.jpg





 これは3月中旬ころに中国軍が考えていた全般作戦計画だそうですが……(日本軍第15軍が入手していたもの。『ビルマ進攻作戦』P106~9)。

1.有力な一部でタイ・ビルマ国境(画像の右側)を守備する【タイ北部から日本軍が侵入する動きを見せていたため:赤色破線矢印】

2.別に一部でトングーおよびマンダレー街道【トングーからマンダレーへ通じる道】を守備し、要所を固守し、逐次日本軍を撃滅する。主力はマンダレー付近に置き、日本軍を誘引して深入りさせ、その後方の交通路を遮断し、爾後攻勢に転じて日本軍を捕捉撃滅する。

3.日本軍がもしマンダレー街道沿いに北進してくれば、ピンマナ(Pyinmana)、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)の各守備隊【水色破線】は、各陣地を固守し、日本軍に重大な打撃を与える。その際、トングー東北方の山岳地帯を根拠として遊撃戦法により敵後方に侵入し、連絡路を遮断して日本軍の前進を妨害する。

4.日本軍との会戦において万一不利に陥った時でも、必ずトングー、サジ、マンダレー以東の山岳地帯を確保し、ロイレム(Loilem)およびメイミョー(Meymyo)の両拠点【緑色破線】を核心としてこれを固守し、新国際路線【インドルートのこと?】を確保する。

5.【この項、かなり省略】日本軍がタイ・ビルマ国境から進出した時は、山地で頑張る。日本軍が英印軍方向に主力を向けた時は、そちらの方向に進出して英印軍と協力する。

 で、この計画は、「中国軍得意の<誘致導入、消耗撃破、遊撃ゲリラ>の戦法を基調とするものであった。」そうです。


 「山岳地帯からの遊撃」は、画像の水色の矢印で、確かにこれをやられたらイヤだと思います。逆に日本軍から見れば、この山岳地帯(の道路)を押さえることが重要であったとも言えますね。



 今回、個人的に非常に気になったのは、ピンマナ(Pyinmana)、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)の3箇所が固守地点に選ばれた理由についてです。固守地点に選ばれるにはそれなりの地形的な理由があるはずですから。

 というのは実は以前、1945年のビルマ戦について調べていた時に、日本軍はマンダレー街道を南進してくる英印軍をトングーで止めるということを意図したらしいのですが、その時に自分の作っていたマップを見てみたら、「トングーで止めるよりも、他の場所で止めようとした方が明らかにいいじゃん!」と思えるものだったのです(^_^;


 ↓その頃のマップのトングー付近。トングーより、その南の隘路で止めた方が良さそうです(平地ではありますが)。

unit8498.jpg



 ↓現状のトングー付近。トングーを小都市にし、荒地を隣にまで延ばしました(両方とも中障害)。

unit8497.jpg




 で、各地点に関して見てみます。まず、ピンマナ。

unit8496.jpg


 道路の結節点であるという意味においては非常に重要な場所だと思いますが、守りやすいとは思えません(^_^; むしろ、その南の隘路で敵を阻止した方がいいでしょう。今後資料を読んでいって、修正したいと思います。




 次に、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)について。

unit8495.jpg


 まだここら辺は平地を設定していないのですが、守りやすそうな気はしません……。あえていえばピヨベの方は、結節点だらけになる北方のサジやメイクテーラ(Meiktila)の前で止めるという意味では、重要な気はします。しかしサジの方は、メイクテーラの方や東方の道路からでも回り込みやすいでしょうから、すごく守りにくそうな……。

 ここらへんもまた、今後資料を読んでいく中で、検証・修正していこうと思います。


今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR