チュニジア戦映像記録をOCS『Tunisia II』で

 だいぶ前に本屋で500円で売っていたのを買ってそのまま見てなかった、『独・アフリカ軍団撃滅作戦』というのを見てみてました。今でもAmazonで500円で買えるようですね。




 内容としては、チュニジア戦に向かうアメリカ軍を撮影したもののようで、全編カラー映像で、チュニジアの風景の様子などが分かってなかなか興味深いです。出てくる戦車は基本的にM3戦車で、M4はまったく出てきませんでした。スチュアート戦車らしきものも1回だけ出てきましたが。空襲を受けるシーンとか、空中戦を地上から撮影したりとかが結構あります。

 で、中にある程度地名が出てくるので、OCS『Tunisia II』のマップで確認してみました。

unit00148.jpg

 左上から。まずボーヌ(Bone)という港にM3戦車を陸揚げしたりしてるシーン。シナリオ1「チュニスへの競争」やキャンペーンで、このボーヌという港は連合軍にとって非常に重要な港となっています。

 その下の「ここはボーヌ近くの飛行場」という映像ですが、まさにボーヌのすぐ南のヘクス(17.25)に航空基地があるのです。映像ではここが空襲され、スピットファイアが迎撃したりしてます。先日のプレイで、連合軍を受けもった私はこの飛行場をワニミさんの枢軸軍に地上部隊でもって占領されてしまい、往生しました(>_<)

 その下、「スーク・アハラス東部のアトラス山脈を登る」とありますが、映像の左のヘクス19.17にまさにSouk Ahrasという村があります。その右上のヘクスの方向に進んでいくところでしょう。この道路はゲーム上では一級道路(自動車化移動ならば1/3、他は1/2移動力)なのですが、映像中では「道は悪い」と言われてました(^_^;

 この後、しばらく進撃シーンですが、フランス軍が幹線道路を監視し守備しているという話とか、P-38が進撃中の戦車部隊を空から護衛しているというような話が興味深かったです。

 その右側の「ガソリン集積場だ」という映像ですが、これがスーク・エル・アルバ(Souk el Arba:ヘクス30.20)にある飛行場をドイツ軍機が爆撃して、ガソリン集積場が燃えている様子。このヘクスはゲーム上で非常に重要な結節点の場所となっており、極めて重要な場所です。ワニミさんに何度ここを攻撃、あるいは包囲されたことか……(初期のプレイでは占領もされて死にました)。

 その上の写真は、捕虜になったというイタリア軍空挺兵士の様子。映像では、ニコニコしている兵士が多いですが、そうでない兵士もいます。軍服の襟章の角度や帽子の形と赤い徽章、それに今回貼った映像では見えませんが、左の二の腕に赤い徽章という特徴的なスタイルは、フォルゴーレ空挺師団の軍服https://www.pinterest.co.uk/pin/95138610858549593/の左上参照)に極めて良く似ているように思うのですが、どうなんでしょうかね……。つい先日『Rommel's North Africa Campaign』でイタリア軍空挺師団のコラム(P177)を訳した時には、チュニジアでは生き残ったわずか数百人のフォルゴーレ空挺師団の兵士が第285フォルゴーレ大隊を形成して、半分トリエステ師団の下に入るような感じで戦ったらしいですが、『Tunisia II』のユニットではトリエステ師団の中にそのようなユニットはなく、「1RA」「Loreto」という空挺大隊が存在していますが……。

 右下の映像は地図上に、チュニス(Tunis:ヘクス48.24)とメジェズ・エル・バブ(Medjez el Bab:ヘクス41.22)の間のテブルバ(Tebourba:ヘクス43.25)が分かりやすく描かれています。実際、テブルバは史実で重要な戦地であったはずです。

 このDVDの最後はまさにこのテブルバの戦いの映像で、谷(と言っても結構広い)での戦車戦を北側の山から撮影しており、ドイツ軍のⅣ号戦車がまさに戦車戦の最中であるのが映っています

 で、この映像なんですが、↓のウェブサイトで見られるのです。なんか映像の真ん中に字が入った状態ではありますが(しかもフルHDの映像を有料で買えるらしいですが、高っ)。

Allied Force artillery exchange fire with the Germans near Tebourba in Tunisia,North Africa.


 もちろん日本語字幕も英語字幕もないのですが、解説の英語音声は入っています(私はヒアリング能力がないのでトホホですが)。ページ右側の「Related Clips」から、他にも色々映像が見られるようです。

 DVDの最後(上記ウェブページで見られる映像でも最後に)で、「(テブルバ戦に勝利して)この地に自由をもたらしたのだ……!」とナレーションが言って、非常にプロパガンダっぽく終わるのですが、この後連合軍はチュニスまであとわずか2、3ヘクスの所まで進撃したもののそこで食い止められ、ドイツ軍のネーリング将軍の逆襲を食らってテブルバを放棄せざるを得なくなるのです(^_^;

 そこらへんの戦いをドイツ軍側から詳しく見た話が、大木毅さんの『第二次大戦の<分岐点>』(あるいは戦史エッセイ集2『ルビコンを渡った男たち』)の「二つの残光 「チュニスへの競争」とカセリーヌ峠の戦い」で読めます。




スポンサーサイト

『「砂漠の狐」回想録』第2次エル・アラメイン戦の空軍の話とOCS

 『「砂漠の狐」回想録』を続けて読んでいってます。

 『「砂漠の狐」回想録』については、大木毅さん訳の『「砂漠の狐」回想録』が出てました (2017/12/23) をご覧下さい。


 第2次エル・アラメイン戦(『ドイツ戦車軍団』の「エル・アラメイン」で扱われているやつですね)のところまで読んだんですが、この時の戦いでは「連合軍の空軍によってもうとにかくやられまくって、それでどうにもならなかった。連合軍の地上部隊は大して何もしないままで損害も受けないまま、空軍だけで打撃を与えられてしまった。」という風に書かれてまして、今までの知識では第2次エル・アラメイン戦がそこまで「空軍のみにやられた」という感じでは思っていなかったので、「ほぉぉ~」と思いました。

 この時の経験でロンメルは、ノルマンディーの時に「空軍にやられたらどうにもならない」という風に思っていたらしいです。


 OCSをプレイしている時でも、航空優勢が圧倒的だと、劣勢側はどうにもならない感があります。そいでもって、我々のプレイでは最近は、航空優勢を取りに行くことが重要で、また航空優勢を取ったらさらに、相手の航空基地に対して施設砲爆撃をやる(航空基地レベルを下げ、非活動状態の航空ユニットにダメージを与える)ことが重要だ……ということになりつつあります。


 また、『「砂漠の狐」回想録』を読んでいると(あるいは普通に北アフリカ戦記を読んでいてもですが)ロンメルは「陽動攻撃」を必ずといっていいほどしてますが、これもOCSでは重要な気がしてます。特に航空優勢が圧倒的でない(相手の爆撃機がある程度飛べる)場合には、陽動攻撃をしてないと主攻撃軸がほぼ必ず、リアクションフェイズ中に爆撃を食らって混乱させられてしまいます。

 だから攻撃軸を2~3用意しておくことが重要な気がします(それができれば……なわけではありますが。しかしそういうことができるようになる為にも、補給を集積していざ攻勢の時にはそれを陽動にも主攻撃にも割り振る……ということなのかもしれません)。

 

『歴史群像 No.147』 ヨハン大公とウジェーヌが素晴らしい!

 買ってからだいぶ経ってますが、ようやく『歴史群像 No.147』の「ナポレオン戦争」を読みました。




 今回は1809年戦役のイタリア方面に関してで、ヨハン大公とウジェーヌの激突ということでした。両者とも弱冠28歳で、「防御的でいろ」と命令されていたにもかかわらず、できれば攻勢をかけたいと思っていたとか。

Leopold Kupelwieser 001Eugene de Beauharnais by Shtiller

 ↑Wikipediaから、ヨハン大公(1828年頃?)とウジェーヌ(1810年頃)


 ヨハン大公に関して、どんな人物か良く分かっていなかったのですが、今回その人物像について記述がありました。

 オーストリア皇帝フランツ1世や、カール大公の弟に当たり、1800年のホーエンリンデンの戦いでは弱冠18歳で軍を指揮するが、モロー率いるフランス軍に敗れている。

 【1809年戦役の時】
 ……ヨハン大公は弱冠27歳、軍人としては経験不足で方面軍を指揮するのも初めてだった。彼自身は兄カールに憧れを抱いていたようだが、武人よりも文人に向いているというのが周囲の評価だった。
 ……
 だがヨハン自身はチャンスがあればフランス軍に大きな打撃を与えて北イタリアの支配を取り戻すか、あるいは少なくとも優勢に戦いを進めて全体の戦略に寄与したいと考えていたのである。
『歴史群像 No.147』P157,8



 記事中ではヨハン大公は最初は攻勢をかけて進撃・勝利するものの、ドナウ方面の退却とフランス軍の増援を受けて退却し、本国が無茶な要求をしてくるのに対してもそれを無視して無理をしないでいるという、穏当な感じがして好感が持てます。


 他の記事でヨハン大公について調べてみますと、ますます好感を持ちました。ヨハン大公についていきます!(おい)

 彼ら【ハプスブルクの12人の王子達】は優れた君主と賛えられた父【レーオポルト帝】の血をうけて、いずれもが異才を発揮し、それぞれが独自の道を歩んでいった。ところが12人の中で最年長のフランツだけは、弟たちとはちがってごく凡庸で狭量な、よくいえば従順、悪くいえば無能な兄だった。
 ……
 しかもフランツの弟たち、たとえば一つ違いの次弟フェルディナントや、三歳年下のカールそしてヨーハンなどは、少年時代から有為の王子としてすでに大器の片鱗をあらわしていた。やがてカール大公は、天下無敵を誇っていたナポレオンを、初めてウィーン郊外のアスペルンで破ったし、ヨーハン大公はチロルやシュタイアーマルク州で、市民や山岳地帯の農民たちと親しく交わり、「アルプス王」として地方文化の振興につとめた。
『ハプスブルク家』P200~208


皇帝フランツ2世は平凡な人物であり、有能なヨハンを疎んでいた。特に軍人向きではないヨハンを戦場へ送り出し、ヨハンは多くの兵士を死なせたことに深く傷ついたという[3]。また、平民出身の兵士らと接触したことで宮廷や貴族の生活を嫌うようになる[4]。

貴族社会よりも山岳を愛し、スイス出身の芸術家の影響でスイスに傾倒するが、やがて自国のチロル地方にも同様に美しい風景があることに気づく[5]。非常に活動的でまた庶民的な人柄であり、シュタイアーマルク州の農業、鉱工業、林業を繁栄へと導き、その他にも学校や病院の開設を進めた。1809年のチロル動乱のおりには民衆の味方でもあった。1811年には、自然科学の研究と技術教育を目的としたグラーツにヨアネウムを設立した。
 ……
この時代に活発化した産業教育や社会福祉の遠大な先覚者として広く知られ、民衆から慕われた。山登りで鍛えた健脚もありおおむね健康であったが、大公の加齢につれアンナが領地の管理を引き受けるようになった。1859年、大公は77歳で死去した。大甥にあたるフランツ・ヨーゼフ1世やエリーザベト皇后らもその死を惜しんだという。アンナも1885年に死去し、南チロルのシェーナに2人揃って埋葬されている[12]。

大公の死後、地元の人たちが大公を偲んでいつともなく歌いだしたといわれている歌に「ヨハン大公のヨーデル」(Erzherzog Johann Lied)がある。この歌は日本においても大変有名で、この歌が入っているかどうかでレコードの売れ行きが全く違ったほどである。
Wikipedia ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ



 「ヨハン大公のヨーデル」は、↓これ? 知ってるような、知らないような……(^_^;







 
 ウジェーヌに関しては、『ナポレオン一八一二年』がものすごくよかったです (2014/08/29) で書いてましたように、ロシア遠征でものすごい活躍していて、Wikipedia ウジェーヌ・ド・ボアルネでも絶賛されていますね。1814年にはナポレオンに対して「一般的には反逆」と取られてもしょうがない行動をしたということですが、まあ1814年のナポレオンは見捨てられてもしょうがないとは思いますので、いいですかね(おい)。

 ウジェーヌと言えば、記憶によれば、エジプト遠征の時(20歳になるかならないか)に現地の女性を手に入れて、着飾らせるのに夢中になっていて、なんかもう自分を制御できないんだとか何とか言っている……というのをどこかで読んだ気がするのですが、どこに書かれていたのかが思い出せません(ちょっと調べてみたのですが、分からなかった……)。

 ウジェーヌは次号で活躍するらしく、期待大です。



 今号タイムリーにありがたかったのが、「サウーの騎兵師団」という記述があったこと。

 実は最近また1806年戦役に興味が再燃してきてまして、『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』のP9に10月8日のすごくいい戦況図があって、ぜひ真似したいと思っているのですが、その地図の中にフランス軍の騎兵指揮官として「Sahuc」というのがあって、「これって何て読むんだろう?」と疑問だったのです。同一人物かちゃんと付き合わせたわけではないんですが、まあ多分間違いないでしょう。ありがたやありがたや……。




フランス軍のジュノー将軍とその夫人ロールについて

 承前、フランス軍のジュノー将軍とその夫人ロールについてです。


Marguerite Gérard - La Duchesse Abrantes et le General Junot
↑ジュノーとロール(Wikipediaから)


 ジュノーはナポレオンの2歳年下で、法律を勉強していましたが革命が起こって志願して従軍し、トゥーロンでナポレオンと知り合ったそうです。

 その時のエピソードとして、こんなことがあったとか。

 ジュノーは、トゥーロンで軍曹として口述筆記をしている時に、ナポレオンの注目を引くことになった。砲弾が土を巻き上げて紙を土まみれにした時に、ジュノーは言ったのだ。
「やあ、砂を(インクを拭い取るために)使う必要がなくなったぞ」
 砲火の下でのこの冷静さの故に、彼はイタリアでナポレオンの副官となったのだった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 その後、ナポレオンとジュノーは「親友」となったそうで、いくつかの資料でナポレオンがジュノーを「親友」呼ばわり?しているのが出てきます。


 ジュノーが16歳のロールと結婚したのは1800年のことで、その時のエピソードが、ナポレオニック雑文集の「ジュノ将軍の結婚騒動」の項に書かれています(ずっとサイト閉鎖されていたのですが、復活したのですね! サイト上でCtrl+Fして左下に出る検索窓で「ジュノ将軍の結婚騒動」と入れて検索してみて下さい)。

 ロールについて、『Who was who in the Napoleonic Wars』はこう書いています。

 ロールは美人と機転、それに浪費で名高く、それ故にジュノーは常に金の心配をしなければならなかったが、彼自身もまた同じように浪費家であった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 で、新刊の『ナポレオン時代』に書かれていたジュノーとロールの話なんですが、ナポレオンの居城となったマルメゾンにジュノー夫婦が間借りしていたものか、こんな風に書かれていました(ロールの信頼性に欠けると言われる回想録にあるものでしょう)。

 【マルメゾンの】二階の寝室のむき出しの赤いタイルの冷たさをぼやきながらも、ナポレオン配下の【ジュノー】将軍(嵐(ラ・タンペット)の異名を取った、当時のパリ知事)の妻で、17歳のロール・ジュノーは「私たちは楽しく日々を送っていた。けれども楽しい夏はあっという間に過ぎ去った」と記録している。要するに、未来の皇帝に言い寄られるまでは楽しかったということだ。ジョセフィーヌの目を盗んで、そしてラ・タンペット【ジュノーのこと】がパリに戻っている隙を突いて、ナポレオンは夜明けの訪問を始め、彼女の足の指をつねるなどしてその気にさせようとした。三日目の晩、彼女は内側から施錠しておいたが、ナポレオンにはマスターキーがあった。そこで、ロールは夜が明けきるまで一緒にいてほしいと夫に懇願した。翌朝、ナポレオンはロールのベッドで朝食をとるジュノーを見て驚いたが、平静を取り戻すとこう言った。わが将軍は「私よりよほど優秀な目覚まし時計だな!」「そのとおりであります。それでこそあっぱれな男というものでございましょう!」と、愚直そのもののジュノーは応えた。マルメゾンの居づらさに耐えきれず、ロールはパリに逃げ帰った。その後ジュノーが元帥に昇進することは決してなかった。
『ナポレオン時代』P47



 ここで私は吹いたのですが(^_^;、この原因に関する分析は合っているのでしょうか? ただ、1804年に18人が元帥号を受けた時、元帥になれなかったジュノーは不満であったっぽいですし、元帥になってしかるべきだったという議論もあるようです。一応、他の元帥を見ると、最も若いダヴーが1770年生まれで、ジュノーはそれより1年後の1771年生まれなので、年齢を言い訳にできなくもない……?

 ただ、ここでは「愚直そのもののジュノー」と書いてありますが、ナポレオニック雑文集のロールの回想録によると「ジュノも空気を読む才能にたけていたので、適切な話題を選び」と書いてあったりします。


 その後ジュノーは、ナポレオンの妹カロリーヌ(ミュラの妻)との不倫で左遷されます。

 カロリーヌの方は、田舎の小国【ベルク大公国】ぐらいでは我慢できなかった。この不満を解決すべく、1807年、カロリーヌはついに陰謀を企てる。
 戦場に立つナポレオンには、常に戦死の危険がつきまとっていた。その身に万が一のことがあった場合、次の皇帝として夫ミュラを即位させようと考えたのである。
 皇位継承順位を無視してミュラを担ぎ出すためには、クーデターが必要だった。そのためにカロリーヌは、パリ駐屯軍の指揮権を握っている総督ジュノを抱きこんだ。
 1807年6月、フリートラントでの戦いを勝利におさめたナポレオンは、その月末にティルジットに入り、7月7日平和条約に調印する。この最中に、妹とジュノの不倫の噂を耳にした。7月27日午前6時、宮殿サン・クルーに帰り着いたナポレオンは、まずカロリーヌを呼びつけて叱責、その後ジュノを左遷する。
『人はなぜ裏切るのか ナポレオン帝国の組織心理学』P44,45




 この左遷の先がイベリア半島だったのか、ジュノーは1807年の秋にポルトガル遠征の最高司令官となります。

 元帥杖がジュノを待っていた。首尾よくポルトガルに侵入して国王一家を拘束し、イギリス船の商行為をとめればよい。カロリーヌ・ミュラとの火遊びを帳消しにするため、ジュノは最善をつくした。猛烈な速度でイベリア半島を横切ったため、彼と一緒にリスボン郊外に到着したのは数百人にすぎなかった。残りの兵士は消耗しきって次々と倒れていったのだ。だがジュノの努力は報われなかった。ポルトガル貴族たちは、サーベルをがちゃつかせていたランヌのことを思い出して大急ぎで荷造りをするとイギリス船に乗りこみ、船隊はすでに出港していた。もう少しだけ運がよかったら元帥杖を手にしていただろう。ジュノをとり巻く状況が一筋縄でいかなかったことを考えれば、彼はなかなかよくやった。だが結局、この戦争から得たものは【アブランテス】公爵の称号だけだった。
『ナポレオンの元帥たち』P167,8



 『ナポレオンの元帥たち』ですが、さきほどの「ナポレオニック雑文集」のところで読めます。ぜひどうぞ!

 ロールの英語版Wikipediaによると、ロールは半島戦争の時にいくらかジュノーと同行していたらしいですが、リスボンで得た戦利品でも満足しなかったそうです。


 この後1808年、ジュノーはアーサー・ウェルズリー(後のウェリントン公爵)を相手に、ヴィメイロの戦いで敗北を喫します。『歴史群像 138号』の連載「ナポレオン戦争」でこのヴィメイロの戦いが扱われており、改めて目を通してみたんですが、ジュノーのせいで負けたわけではなく、しょうがなかったような印象を受けました。ただ、このフランス軍の敗北は全ヨーロッパに大きな衝撃を与え、ナポレオン自身が半島にやってきて事態を収拾することに。ジュノー自身は再び軍団指揮官などとして半島で戦うのですが……。

 かつてこの地で元帥になる機会を逃したジュノは、頭に受けた傷のせいでわけのわからない言動をするようになっていた。
『ナポレオンの元帥たち』P213

 彼は半島へと戻って軍団指揮官を務め、短期間サラゴサの攻囲を指揮した(ここで、ルジュヌの意見では彼の尊大さと嫉妬深さがますますひどくなり、精神の不安定さが深刻な状態となった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 1812年のロシア遠征にもジュノーは参加したのですが……。

 楽しいことが大好きだったロールは……ジュノーは荒涼たるロシアの地で命を賭けて戦って次第に精神を病んでいったというのに、家を離れて新しい愛人とエクス・レ・バン〔フランス南東部の都市〕で気晴らしをしていた。
『ナポレオン時代』P230



 そして、スモレンスクでジュノーは、絶好の機会に動こうとせず……。

 8月19日、ネイ軍はヴァリューティナ【スモレンスクのすぐ東にある村】に到着、ジュノー軍は北岸に渡ってネイ軍のやや前方に出た。暗闇の中で自軍ともども道に迷ったバルクライはそのちょうど中間をうろついていた。ネイ元帥はジュノー将軍のところへ駆けつけ、「さあ、一挙に片付けましょう。栄光と元帥杖が待っておりますぞ」と勇んだ。ところがネイ軍は敢然と攻撃に出たのに対し、ジュノーは、ヴュアテンバーク公の騎兵隊が突撃を拒否したとか、自分はナポレオンから河を渡って待てと命令されているとか言って動かない。ナポレオンは……「ジュノーがロシア軍をみすみす逃した。この遠征を台無しにしたのは彼だ」と容赦なく叱責した。ミュラーはもっとかんかんに怒って、「お前なんかナポレオン軍の騎兵のどん尻にさえくっついて来る資格はない」と詰った。
『ナポレオン1812年』P82


 ナポレオンによると「……彼はもはや以前と同じ人間ではない。大失敗をしでかし、我々に大きな代償を払わせることになってしまった。」
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 ジュノーはそのまま、ボロディノの戦いにも参加し、大陸軍の主力と共にフランスへ帰ってきました。

 1812年のクリスマス直前、愛人に見限られたロール・ジュノーはアヘンチンキ〔アヘンを主成分とする鎮静剤〕を過剰にあおって自殺しようとしたが、首尾を果たせなかった。かつては意気盛んで、ハンサムで若くしてパリ知事を務めたこともある夫のジュノーがロシアから戻った。往年のラ・タンペット【嵐という異名】は「よれよれの軍用コートをだらしなく羽織り、腰は曲がり、杖がなければ歩きづらそうな下卑た年寄りとなり」、戦争のせいで精神を病んでいた。
『ナポレオン時代』P232



 その後イリュリア総督に任命されるも、

 彼のだらしのない生活の結果、梅毒が進行し、精神的な不安定さが極度に酷くなり、職を免ぜられ……彼は1813年7月29日、窓から飛び降りて死亡した。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 ロールの方ですが、こんな風に書かれてました。

 彼の妻はいささかスキャンダラスな生活を続け、ローマの社交界で多くの時間を過ごし、破産を免れようと面白くはあるが信頼性に欠ける回想録を出版したが、無駄であった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168



 「無駄であった」というのは、結局のところ貧困のうちに亡くなったからのようですが、しかし浪費家なんだったらしょうがないですかね……。
 

 1828年以来彼女の恋人であるバルザックの励ましと監督を受けて、彼女は魅力的ではあるが悪意に満ちた回顧録を書いた。
 ゴーティエが「アブラカダンテスの公爵夫人」と揶揄し、貧困に陥った彼女は、1838年にパリの老人ホームで亡くなった。
Laure Junot, Duchess of Abrantès(英語版Wikipedia)





 今回使用した資料です。




イギリスのフランス史家による『ナポレオン時代』が新書で

 もう一カ月ほど前に、『ナポレオン時代』という新書が出るのをたぶん新聞広告で知りまして……。




 試しに店頭で立ち読みしてみたんですが、「アウステルリッツの戦いの後、別にフランスは湧いていなかった」とあるのを見つけて面白いなと思ったので、買ってきました。

 序文や改題を読んでみると、著者のアリステア・ホーンというのはイギリスのフランス史家であり、様々なフランス史の本を書いている人らしいんですが、なんと、この人の1940年のフランス戦に関する本『To Lose a Battle: France 1940』を私は買って持っていました。尤も、持っているだけで読めてはいないんですが(^_^;




 ただ例えば、OCS『The Blitzkrieg Legend』のデベロッパーズノートで「1969 年のAlistair Horne 氏の『To Lose a Battle』は少し古くなってしまったかもしれないものの、素晴らしい本でした。」と書かれてました。

 新書でこういう史家の本の翻訳が読めるというのは非常にありがたい話で、こういう風なことはどんどんやってもらいたいなぁと思います。元々2004年に書かれた本らしいです。


 で、途中まで読んでいて、フランス軍のジュノー将軍とその夫人ロールについての話が出てきて(P47)、それがあまりに面白くて電車の中で吹いてしまいました(^_^;

 そういうわけでジュノーとロールについて興味を持ちまして、手持ちの資料で調べてみたので、次回、その件で書いてみたいと思います。

 


今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR