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ナポレオニック:大陸軍の歩兵の種類&『La Bataille D'Auerstaedt』和訳

 『La Bataille D'Auerstaedt』の特別ルールを翻訳していたのですが、歩兵にいくつか種類があり、良く分かっていないので(フランス軍のもののみを)少し調べてみました。


 ↓BoardGameGeekにあった戦闘序列シート?の一部です。

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 右側にある「Ligne(戦列歩兵)」が主たる歩兵ですが、連隊を分割して下側の「Grenadier(擲弾兵)」と「Voltigeurs(選抜軽歩兵)」の中隊ユニットも出せるようになります。20-7を分割して、7-8と2-10と1-9を2つずつ出せるということです。ちなみに、第17連隊の第2大隊がここにないのは、戦場の後方のコーゼン橋を守備していたのでマップ内に出てこないからです。

 左側の連隊は「Legere(軽歩兵)」ですが、軽歩兵連隊を持っているのは第1師団のみで、第2、第3師団は戦列歩兵連隊しか持っていません。軽歩兵連隊は2-10の「Carabinier(騎銃兵)」(精鋭)と、6-9から2-10を3つに分割できる「Chasseurs(猟兵)」に分けられます。

 大まかに言うと、「戦列歩兵」とは戦列を組んで戦う歩兵で、「軽歩兵」は戦列を組まずに(地形に個々に身を隠しながら)戦う歩兵です。が、戦列歩兵連隊の中にも散兵になれる擲弾兵中隊と選抜軽歩兵中隊が配属されており(戦列歩兵の前に散兵線を出したりするのに使われる)、軽歩兵連隊は全員が散兵になれるんだけども戦列歩兵として戦おうと思ったら戦える、ということかと思います。また、「擲弾兵(騎銃兵)」は精鋭で背が高い者、という共通項があるようです。





 日本語版Wikipedia「大陸軍(フランス)」の「歩兵」の項にあった説明を要約しますと、こういうことらしいです。


「Ligne(戦列歩兵)」……歩兵の大部分で、その中でも細かく言えば「Fusilier(小銃兵)」という名前が、戦列歩兵連隊における「Grenadier(擲弾兵)」と「Voltigeurs(選抜歩兵)」以外を意味したかのようです。いわゆる一番普通の歩兵であり、戦列を組んで戦います。


「Grenadier(擲弾兵)」……戦列歩兵連隊の中の精鋭であり、古参兵で占められていました。
「擲弾兵の新兵の条件は連隊の中でも背が高く恐ろしげであり、しかも口ひげを生やしているということになった。これに加えて帽子が熊毛になり上着には赤の肩章を着けた。」


「Voltigeurs(選抜軽歩兵)」……戦列歩兵連隊の中のエリート軽歩兵(「選抜歩兵」という訳語と「選抜軽歩兵」という訳語があるようなのですが、軽歩兵であるらしいので私は「選抜軽歩兵」にしようかと)。
「1805年、ナポレオンは戦列大隊の中で背は小さいが敏捷な者を選んで選抜歩兵中隊を作るよう命じた。この中隊は大隊の階層の中では擲弾兵中隊に次ぐものである。」
選抜歩兵は重要な任務をこなし、散兵戦や各大隊の偵察などを行った。その訓練では射撃技術や素早い動きに重点が置かれた。帽子は二角帽で黄と緑あるいは黄と赤の大きな羽毛が付いていた。」



「Legere(軽歩兵)」……「戦列歩兵が大陸軍の歩兵の大部分を占めていたが、軽歩兵(Infanterie Légère)も重要な役割を果たした。【……】また散兵戦を含め戦列歩兵と同じ作戦行動を執れた。その違いは訓練方法であり、高い団結心を生んだことである。

軽歩兵の訓練は射撃術と素早い動きに特に重点が置かれた。その結果、軽歩兵は戦列歩兵よりも正確な射撃の腕前と迅速な行動力を身につけた。軽歩兵連隊は多くの戦闘に参加し、さらに大きな作戦の哨戒に利用されることが多かった。当然ながら、指揮官達は戦列歩兵よりも軽歩兵に任務を任せることが多く、軽歩兵部隊の団結心が上がり、またその華やかな制服や態度でも知られた。軽歩兵は戦列歩兵よりも背が低いことが要求されており、森林を抜ける際の敏捷性や散兵戦の場合の物陰に隠れる能力に生かされた。


「Chasseurs(猟兵)」……猟兵は軽歩兵大隊の大部分を占める存在です(少数の精鋭は「Carabinier(騎銃兵)」となります)。
「猟兵の制服はフュジリエ【戦列歩兵の大部分を占める歩兵】よりも華美なものであった。1806年までは円筒帽に濃緑の大きな羽と白の紐が付いていた。制服は戦列歩兵よりも暗い青で小競り合いのときのカムフラージュにもなった。上着は戦列歩兵と同じだったが、折り返しと袖口は濃青だった。また濃青と赤の肩章を付けていた。ズボンは濃青で靴は騎兵のような長いものだった。」


「Carabinier(騎銃兵)」……「騎銃兵は軽歩兵大隊の擲弾兵【つまり精鋭】である。2回の方面作戦参加を経験し、背が高く勇敢な猟兵が選ばれた。彼らは大隊の精鋭部隊であった。擲弾兵と同様に口ひげを蓄えることを要求された。
「制服は猟兵と同じだが、赤の肩章だった。騎銃兵中隊はより大きな騎銃兵部隊を構成することがあり、突撃を要するような作戦に使われた。



 それぞれのフランス語の発音は、カタカナにするとこういう感じでしょうか? ネット上でネイティブの発音も聞けます。

「Ligne(戦列歩兵)」……リーニュ
「Fusilier(小銃兵)」……フュジリエ
「Grenadier(擲弾兵)」……グレナディエ
「Voltigeurs(選抜歩兵)」……ヴォルティジュール
「Legere(軽歩兵)」……レジェール
「Chasseurs(猟兵)」……シャスール
「Carabinier(騎銃兵)」……カラビニ



 『La Bataille D'Auerstaedt』の特別ルールの和訳は、一応形にはなったので、公開しておきます。

『La Bataille D'Auerstaedt』の特別ルールの和訳

 ただ、色々間違えているところもあるかと思います。間違いを見つけられたら、指摘していただけると大変ありがたいです(>_<)

 とりあえず、白兵戦修正の表にある「Feu de Provocant」が何を意味しているのか分かっていません(^_^;

 ↑コメントにて教えていただきました。大変ありがとうございます!(^^)





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OCS『KOREA』12「リッパー作戦」シナリオのバランス改造案

 この土日、OCS『KOREA』のシナリオ12「リッパー作戦」をVASSAL対戦してました。

 史実で国連軍が勝利した戦いなのですが、プレイしてみた感じ、国連軍が楽勝すぎる(共産軍がどうしようもなさすぎる)気がしたので、今後プレイする際のためにもバランス改善案を考えてみました。



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 ↑全9ターンで、国連軍がソウルの3ヘクスと春川(チュンチョン)を占領していれば勝利します。共産軍はソウルの1ヘクスと春川(チュンチョン)を占領していれば勝利します。それ以外は引き分けです。

 史実では、国連軍が3月15日(第5ターン)にソウルと洪川(ホンチョン)を占領、22日(第7ターン)に春川(チュンチョン)を占領し、作戦自体は3月いっぱい続いたのだとか。

 しかしゲーム上では、国連軍側が兵力も多く、アクションレーティングも高く、しかも航空兵力が暴威であるのに対し、共産軍側は貧弱な戦力しかなく、洪川(ホンチョン)などは第1ターンに一撃で陥落しますし、ソウルや春川(チュンチョン)の陥落も史実のスケジュールなどあり得ないだろうと見込めました。


 ただしシナリオ改造前に、できるだけの努力として共産軍側が最初のリアクションをかなりうまくやることが必要だろうと思います。

 その場合恐らく重要なのは、ソウルの東4ヘクスの場所にある12-3-3の歩兵で、これが戦闘フェイズ中に抜かれるとひどいことになります。なので、予備マーカーをうまく設定して、ステップをこのヘクスに入れたり、攻撃側に砲爆撃すべきだと思われました(ただし、国連軍側がここを狙わないとか、ここを狙うと見せかけて別の場所を狙うということは当然あり得ます)。

 当然、春川(チュンチョン)側の戦線でも予備を重々うまく設定すべきです。初期配置ではこちらにアメリカ海兵隊(アクションレーティングが高く、ヒップシュートの観測もできる)がいますし。



 もしシナリオ改造するなら、その時に使えそうな案を複数考えてみました。

1.初期配置での共産軍側のステップロスマーカーをすべて除去する。

2.国連軍のうちイギリス連邦軍と「その他の国連軍(薄いグレー)」は、移動で自ら敵ユニットに接することができない(最初から接している、あるいは敵から接してくる、退却で接するのは問題ない)。

3.国連軍のうち韓国軍も、以下同文。

4.シナリオ設定では両軍とも増援を(5SPずつのみしか)出さないことになっているが、キャンペーン用の増援を両軍ともに補給源に出す。この場合、シナリオ初期配置では共産軍に航空基地がないが増援で航空ユニットが出てくるので、シナリオ5.11にピョンヤンにレベル2航空基地があるのに倣って置く。
(シナリオの期間である51年3月中、共産軍は大量の増援が出てきますが、国連軍側は1ユニットしか出てきません)


 ただし、4は即効性が低い割に労力が非常に増えるので、せっかくの1マップで手軽にできるシナリオなのによろしくない気がします。個人的には、1と2を導入して試してみたいところです。3も入れると、国連軍プレイヤーにとっては結構チャレンジングになる……といいなぁ。

『La Bataille D'Auerstaedt』に出てくるsunken road(陥没道路?)について

 『La Bataille D'Auerstaedt』には、「sunken road」(陥没道路?)というのが出てきますが、よく分からないので少し調べてみました。


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 ↑ハッセンハウゼン村の南側にあるのが「sunken road」(陥没道路?)です。


 Hassenhausenの南側にある窪んでいる部分は、あらゆる意味において道路とみなします。

 この窪んだ道路ヘクスサイドを横切ることができないユニットは、それらのヘクスサイド越しにZOCを及ぼしません。

 唯一の例外は、騎馬散兵としておかれた騎兵です(この隊形で散兵戦を行うことができるため、それらのヘクスにZOCを及ぼすわけです)。砲兵が、この窪んだ道路のヘクスにいるユニットに砲兵の効果を及ぼすことを意図している場合、砲兵はこれらのヘクスサイドを越えて砲撃を行えません。従って、砲兵はこれらのヘクスにZOCを及ぼすことはできません(この窪んだ道路の土手の深さは9フィート【約2.74m】もあり、砲兵はそのような深さまで砲の角度を下げることはできないのです)。





 検索してみると、英語版Wikipedia「Sunken lane」というのがありました(日本語版の項目はありませんでした)。

La Meauffe - Chemin creux 1


 これによると、人の手ではなく、自然に長い時間をかけて形成されたものらしいです。ヨーロッパやシリアなどでの例が説明されていました。また、検索しているとアンティータムの戦いにおけるSunken laneというのもあるらしいので、アメリカにもあるのでしょうか。



 試しに、Googleストリートビューでハッセンハウゼン村の南側を見てみると、↓のような感じにはなっていました(南側にはそれらしき土手がありますが、北側にはありません)。

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 とりあえず、「sunken road」の訳語をどうするのが適当なのかが問題です。検索しても日本語の訳語が出てこないですし……。

 「陥没道路」とすると「道路だけが低くなっている」ような語感があると思うんですが、実際には「道路の左右が高くなっている」のではなかろうかとも思われます(でないと、道路に雨水などがたまってしまってどうしょうもないでしょう(^_^;)

 「切通し」(山や丘などを部分的に開削し、人馬の交通を行えるようにした道)という日本語があり、鎌倉の切通しは昔見に行ってなかなか壮観でしたけども、これは人工的なものですし、景観的にも全然違うでしょう。


 うーん、何か良い案があれば教えて下さい(^_^;

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団の連隊長と参謀長の更迭について

 トングー戦の時期に、日本軍の第55師団は連隊長と参謀長の更迭が行われたそうで、その件について戦史叢書『ビルマ攻略作戦』に述べられていました(P299,300)。


 ↓現状の第55師団ユニット。

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 連隊長というのは第112連隊長であった小原沢幸蔵大佐で、これまでの戦闘で多数の死傷者を出して神経衰弱気味であり、爾後の行動に積極性を欠いていたそうです。それで3月19日にピユ付近の敵(中国軍)を撃破して占領した日に、連隊副官から「連隊長の神経衰弱が昂じ、部隊の指揮がとれなくなった」と報告がありました。

 師団の方でも連隊長の更迭を考慮していた際でもあったので、先任大隊長に指揮をとらせて連隊長はラングーンの兵站病院に後送することにしたそうです。

 後任には棚橋真作大佐が任命され、4月3日に着任しました。


 私は以前、洋書か何かで「第55師団のいずれかの連隊長が積極性を欠いていたとして、後に更迭された」という記述を読んでいたような気がしていたのですが、これなんでしょうね。私は「指揮官の性格が積極性を欠いていた」あるいは「戦果の課題報告」とかからと思っていたのですが、そうではなくて心労のためだった?

 また、新たに連隊長となった棚橋真作大佐は、後に第2次アキャブの戦いでその時第55師団長であった花谷正中将から督戦されるも独断撤退し、終戦後割腹自殺したことで知られ、高木俊朗氏の『戦死 インパール牽制作戦』で詳しく扱われています。





 『戦死』を読んだ印象では、棚橋真作大佐は立派な人であったと私は思いましたし、指揮能力も高かったように思われました。



 閑話休題。

 第55師団の参謀長の方の話ですが、師団司令部内では出征以来(第55師団はタイ、ビルマ方面が初の出征)、「師団長と参謀長をはじめ高級副官その他幕僚との間はとかく折り合いが悪く、特に参謀長とはことごとに反発し合っていたといわれる。その結果師団がトングーに向かって北進中、師団長(竹内寛中将)はついに参謀長の更迭を上申するに至った。」とのこと。

 新たな参謀長は久保宗治という人でしたが、特筆されるようなことはなし? 更迭された参謀長の名前は記されていませんでした。



 第55師団の2つの連隊のアクションレーティング(AR)なんですが、現状私は第112連隊をAR3とし、後から来る第143連隊をAR4としています。最初は両方とも3にしていました。一方、第33師団の先に出てくる連隊2つはAR5です(後で追いついてくる連隊1つはAR4)。

 最初に第55師団の連隊2つをAR3にしていた理由なんですが、「(日本軍をひいきし過ぎて)あんまりぽんぽんARを高めにしたくない」「ARが低い部隊があったり高い部隊があったりした方が良いじゃないか」という思いがあり、第33師団のARは高めにせざるを得ないとしても、第55師団のARを低めである3にできないか……という思いがあったのでした。

 ところがその後、ツイッター上で英語圏の日本軍マニアだという人から「第55師団のARが低すぎるのではないか。第55師団は出征前にジャングル戦の訓練を受けていたのだから、もっと高くすべきだと思う」というような指摘をいただきまして、悩んだ挙げ句、少し遅れて登場する第143連隊の方を、「ゲーム登場前にマップの南方域ですでにいくらか戦闘を経験していたから」という理由を頭の中でむりやり付けて、AR4に上昇させました。が、第112連隊の方は「ARが低いユニットもあった方が面白い」という理由にしがみついてそのままにしていたのでした。

 ところがここに来て、第112連隊のARが低めであるべき理由が見つかって、「よっしゃ」となりました(バキッ!!☆/(x_x))


 しかし逆に、連隊長がこの頃更迭され、指揮能力が高めかもしれない棚橋真作大佐が新連隊長になったとすると、「AR4とかの差し替えユニットを用意して、差し替えすべき」という説が頭をもたげてくるかもしれません。

 まあそれはそれでもしかしたらアリかもしれないので、今後考えていくということで……(反論としては、連隊長のみでARが決まるものではないでしょ、というのもあると思います(^_^;)。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:トングー戦の時期の中国軍の動き

 トングー戦の時期の中国軍の動きについて、主に陸戦史集『ビルマ進攻作戦』に記述があったので、地図にしてまとめておきたいと思います。


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 ↑は、OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から (2023/10/15)で作っていた中国軍の配置図を元にして、そこからの移動を記したものです(第200師団の表記位置はトングーに移動させましたが、他の部隊の表記位置は元のままです)。



 以下、OCSのターン(3.5日毎)を最後に付けて記します。


 日本軍は3月15日以降にトングーへの北進をはじめます。17日に最初の戦闘があり、18日、19日と続きましたが、この3日間の敵は英印軍(第1ビルマ師団隷下?)でした。(3月15日ターン~19日ターン)

 20日にニャングチダウクで初めて中国軍(第200師団隷下の第598連隊)と衝突します。(3月19日ターン)

 22日にトングーのすぐ南のオクトウィンにあった中国軍陣地で激戦となり、ようやく24日にこれを占領。(3月22日ターン)

 26日からトングー戦が始まりましたが、中国軍の陣地は固く、また守備する中国軍第200師団約3000名の戦意は高く、日本軍の第55師団はその攻略に手こずります。(3月26日ターン)

 この頃、ラングーン港に日本軍の増援の第56師団が到着し始め、その第56捜索連隊、およびこの方面に配属を受けた重野戦砲兵第3連隊、航空爆撃隊の協力により、30日にトングー攻略に成功したのでした。(3月29日ターン)


 OCSのターン的には、トングー戦の南での北進しながらの前哨戦が3ターンあり、トングー戦自体は3月26ターンのものが失敗して、戦力を追加して次の3月29日ターンのものが成功した、という感じでしょうか。








 中国軍側の動きは以下のように書かれていました。

 3月22日、スチルウェルはトングーの第200師団を救援するために、第6軍の第55師団(55T)主力にカレン山地からの移動を命じます。この移動命令が実行されたかどうかまでは書かれていないのですが、この頃だったかにモチ(Mawchi)に中国軍の連隊が入ったという記述をどこかで見た気がします(またもや、今回どこにその記述があったか見つけられず! トホホ……)。

 この頃、第22師団はピンマナに、第96師団はマンダレー方面に移動。

 日本軍の一部がトングー北西のトングー飛行場を占領したのに対し、3月24日にスチルウェルは第5軍の訓練部隊の第1、第2予備連隊をトングー北方地区に進出させ、飛行場を奪回するように命じます。ただし命令は受領されたものの実行されず。

 3月26日までに第22師団はピンマナに着いており、列車輸送でトングーに前進させようとしたのですが、地方官憲の連絡ミス等で鉄道運行が不能になったそうです。

 3月30日に第200師団はトングーの陣地を放棄して、エダッセ以北で陣地を守備していた第22師団を超越して撤退しました。






 中国軍については、今回のような「ミスで動けなかった」という話以外にも、中国軍の軍司令官や参謀達が、蒋介石による「部隊温存」の意向から部隊を移動させようとしなかったという話もありますし、師団毎に「移動チェック」をして失敗すると動けない、とかってルールを織り込むと良いのかも?

 あと、私は個人的にOCSにおける「反陣地主義者」であることもあり(おい)、これまでのOCS『South Burma』(仮)では「両軍とも陣地は建設できません」というルールを入れていたのですが、今回のトングー戦の記述を見るに、陣地を出さなければならないですね……(^_^;

大戦中を通じて南方軍総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥について

 OCSで『Luzon: Race for Bataan』(1941~2)を作り、今『South Burma』(仮)(1942/1945)を作れないかなと悪戦苦闘しているわけですが、その間ずっと、それらの軍部隊の上級司令部であった南方軍の総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥というのはどういう人なのだろうというのが気になってました。


Hisaichi Terauchi 2

 ↑寺内寿一元帥(Wikipediaから)



 で、この春にゲームマーケット東京に行った時に神保町で『元帥寺内寿一』という本を見つけて買ってみたんですが、まだ全然読んでいません バキッ!!☆/(x_x)






 それはともかくとして、最近本屋に行っていると光人社NF文庫で『都道府県別 陸軍軍人列伝』という本が出てまして、悩んだものの買ってみました。




 藤井非三四氏の本で、東西2分冊で以前出ていたものが今回1冊の文庫本になって出たもののようです。

 「はじめに」を読んでますと、「人物を中心に歴史を見る」方が興味が持てるじゃないか、戦国時代なんかはそうなっているのに、近現代史ではそういうのが排斥されている傾向にあるのではないか、なので「人物」というものに興味を持って見られる一助となるかもと思って書いてみた……というようなことでした。

 もちろんこれは賛否両論あると思います。例えば、『大いなる聖戦』なんかは、北アフリカ戦の流れはロンメルとかモントゴメリーとかって人物とは何の関係もなく、それぞれの時期の大戦全体の状況から来る投入戦力と補給によってすべて説明できる、というようなことを書いてました(^_^;




 まあそういう方向性の見方もあるかとも思いますけども、私は個人的に歴史や戦史における「人物(キャラクター)」に関心がかなりある方で、藤井非三四氏の主張?には大いに共感するものがありました(個人的には、指揮官のキャラクターによって歴史が動いている割合は結構高いのではないか、と以前より思うようになっている感があります)。

 ただそこで問題になってくるのは、「人物評」というのは著者によるバイアス・偏見が大きくなりがちだということで、ロンメルなんかも「天才!」説もあれば、「単なる無謀な指揮官」評をしている著名戦史家もいるそうです。

 しかし逆に、「偏っているかもしれない短い人物評」でストンと腑に落ちる……ということもあるなぁと最近思ってまして、「石原莞爾は、その特異な終末思想が時代にアピールした。軍人というよりも宗教家としての才能に溢れていた」という評で「なるほどなぁ!」と思ったりしました(『大東亜戦争の謎を解く』P41,2)。





 で、前置きが長くなりすぎましたが、寺内寿一元帥に関して、『都道府県別 陸軍軍人列伝』(P510~516)をメインとして今回まとめてみようと思います。




 そもそも、寺内正毅と寺内寿一が「親子で元帥」という世界的にも珍しいケースなのだそうです(他の例が知りたいです。皇族とか王族とか以外で)。

 父親の寺内正毅は出征していないそうですが、陸相在任期間の記録を作ったり朝鮮総督などとして日韓併合を成し遂げたので元帥になったのだろうといいます。

 寿一の評価はまったく二分されるそうで、「軟弱な二代目、武人どころか単なる遊び人」という酷評と、「勉強こそしなかったが頭脳明晰で、なにより出世欲がないのが素晴らしい。」という絶賛?があるそうです。

 陸軍内での評判が良かったのは、人にご馳走するのが好きで、軍の多人数を料亭に招いて支払いを全部自分で持ったこと(が多かった?)に行き着くそうで、例えば昭和8年の「ゴーストップ事件」の時に大阪第4師団長であった寺内寿一はなかなか強硬に軍の立場を訴えて陸相の荒木貞夫が「寺内を見直した」と言ったそうですが、それより軍と警察の話がついた後、警察や大阪府の役人を多数料亭に招待して自分もちで大盤振る舞いをやったそうです。

 父親が超エリートであっただけに、金持ちだったから可能だったのでしょうか。

 能力の方はというと、「成績や能力については注目されなかった。ただ関東大震災のとき、近衛師団参謀長であり、てきぱきと処置をして、「さすがは東京育ち、地理に明るい」とされたぐらいであった。【……】将官演習旅行の成績が悪かったようで、ここで予備役に編入【……】」されるところを何とか現役にとどまることができたものの、中将となれてそれで終わり……と思っていた(中将まではかなり多くがなれるが、大将はなかなかなれない)のが、無欲が幸いしたか人に引き立てられて大将に。これらには軍内部人事における「父親への義理」という側面もあったようです。

 その後、二・二六事件後に親子二代で陸相となり、徹底した粛清人事を断行(ただしこれは冷徹な能吏梅津美治郎が次官にいたからだとか)。

 昭和16年に南方軍司令官となったのは、海軍の山本五十六よりも先任が望ましいという条件で7人ほどに絞られ、その中で手が空いている軍事参議官かつ最先任者が寺内寿一であったからとか。あるいはまた、東條英機(長州閥が大嫌い)と寺内寿一(父が長州閥のボスだった)とは仲が悪く、東條が寺内を東京に置いておきたくないという気持ちがあったのではなかろうかとも書いてあります。

 寺内寿一の方でも東條英機に対して不満を募らせており、東條が占領地視察に訪れても出迎えすらせず、大本営とは喧嘩状態であったとか……。

 また、降伏の儀式の時に、名刀がないと格好が付かないからと、わざわざ日本本土まで飛行機で刀を取りに帰らせたそうです。




 以上の見方は割と悪い方に偏っているとは思います。試しに『元帥寺内寿一』をパラパラと見てみたら、こっちはこっちで戦後に寺内寿一と関係のあった軍人達の筆による寺内寿一顕彰のための本であるらしく、中立的な、あるいは研究的な本では全然ないようでした(中を見ずに買った感があります……1500円くらいだったと思うのでまあいいのですけど)。



 他の資料で寺内寿一に関する短い評伝を探してみたのですが、数冊持っている日本軍人の列伝形式の本には寺内寿一は取り上げられていませんでした。

 一方、英語による第二次世界大戦中の世界中の軍事司令官等に関する百科事典形式の本を3冊持っているのですが、その3冊にはすべて寺内寿一の項目がありました。




(上段真ん中の『Who Was Who In World War II』の和訳本が2種類あり、それらが下段になります。が下段右側は反戦主義的な研究者が軍事用語に知識がない中で翻訳されたかのようで、個人的にはお勧めしません。左側は元軍人の軍事研究者が監修であり、記述も丁寧ですし、兵器関係のコンテンツも含んでいるので非常にお勧めします。)


 上段左の『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』は記述が最も簡潔であり、真ん中の『Who Was Who In World War II』の少し短い版的な内容であったので省略します。

 真ん中の『Who Was Who In World War II』には寺内寿一の写真が載っており、キャプションには「日本軍の指揮官の中でもかなり無慈悲【more inhumane】な人物であった。」と書かれています(P203)。また、「彼【寺内寿一】は【……】現地人に対しあまりに寛大な政策を施したとして今村均を非難した。」という風にも書かれていました。まあ今村均は陸軍の当時の主流派のほぼ全員から非難されていたのでしょうけども。


 一番右の『The Biographical Dictionary of World War II』には、「この老貴族【伯爵】は有能な行政官であり、ロジスティシャンであったが、無能な戦略家であった。優秀な部下の作戦を台無しにした彼の多くの失敗については、「山下【奉文】」で詳しく取り上げている。」とありました(P558)。

 「山下【奉文】」を見ると、寺内と山下は政敵であったそうで(山下が主流派から嫌われまくっていた?)、フィリピン防衛戦において「日本の最も偉大な軍人【山下】は、日本で最も無能な将軍の一人である寺内の深刻な妨害にもかかわらず、精力的に行動した。」(P626)とありました。



 あと、今回見つけたものとしては、「寺内寿一」というウェブサイトの一番下の記事には、インパール戦やフィリピン戦の最中にもサイゴンの贅沢な公館で優雅な生活を続けていたとか、日本本国から自分の妾(芸妓)を軍用機で総司令部の官舎に連れ込んでいたというようなことが書かれていました。


 まあ、さすがに悪いことだらけだと前述の『元帥寺内寿一』なんていう本も作りようがないでしょうし、良い面も色々あったんだけども、悪い面もいっぱいあったということではなかろうかと想像しますけど、どうなんでしょうか。



 しかしやはり、「短い人物評」は、偏っているとしても興味関心を持つには非常に優れていると改めて思いました。また折に触れて『都道府県別 陸軍軍人列伝』等を紐解ければと思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の連合軍の新作戦態勢

 これまで、陸戦史集『ビルマ進攻作戦』から、ラングーン陥落後の日本軍、英印軍、中国軍の作戦計画についてまとめてました。





 同書で続けて、「連合軍の新作戦態勢」(P109~111)というのがあって、割と重要そうだなと思ったのでまとめておきます。というか、OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の英印軍の作戦計画 (2023/10/24)に描いてました第1ビルマ師団の推測の後退路は間違ってました(^_^;


 ↓その間違っていた地図。「1 Burma Div」から延びる赤い矢印の経路は間違いでした。

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 ↓今回作った地図。「1 Burma Div」はエダッセ(Yedashe)にまず撤退し、3月21日頃にそこで集結、その後タウンギー(Taungdwingyi)へ鉄道で移動したそうです。

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 3月19日までに中国軍の第200師団の前進部隊(戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P292によれば第598連隊)がピユ(Pyu)方面に進出しており、19日に日本軍から攻撃を受けてトングー周辺の主陣地に下がったそうです。


 時間的に遡りますが、第1ビルマ師団の3月11日~17日の動きは、『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』の地図からです。諸資料によると、ラングーン陥落後の第2段階での最初の戦闘は3月17日にキョクタガ(Kyouktaga)で起こったようです。


 画像には東西にまたがるようにして2本の赤線が引かれていますが、実はこれはマップ割(案)でして、上の線は一番南のマップの北端の線、下の線は真ん中のマップの南端の線です。前者は単純に、一番南のマップの南東端を決めた後のOCSのマップのヘクス数から自動的に決まった線なのですが、後者は「第2段階はプロームとトングーの少し南から始まったのだろうから、マップ間を1ヘクスだけ重ねるのではなく、南端をもっと南にずらしておいて、マップ2枚で第2段階全体を再現できるようにできれば」と思ってずらしておいたのでした。

 今回調べたことからすると、まさにその南端のキョクタガ(Kyouktaga)で第2段階が始まったわけですが、あまりにもギリギリすぎて困惑してしまいました(^_^; 本当にキョクタガ戦から始めるならば、さらに数ヘクス南にずらしておかないとダメなんじゃないでしょうか。しかし、ここらへんの戦いは小競り合い的なもので割とすぐにトングーに近づき、しかし3月22日にトングーの1ヘクス南のオクトウィン(Oktwin)で予想外の中国軍の抵抗にぶつかったということなので、マップ2枚シナリオ上では最初の数日分は省略するという方向性はあるだろうと思います。

 より重要なのは、プローム方面での(省略できなさそうな)戦いがどこらへんから始まったかでしょうか。そこらへん、今後見ていくということで。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の中国軍の作戦計画

 承前、ラングーン陥落後の中国軍の作戦計画についてです。今回も要約します。



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 これは3月中旬ころに中国軍が考えていた全般作戦計画だそうですが……(日本軍第15軍が入手していたもの。『ビルマ進攻作戦』P106~9)。

1.有力な一部でタイ・ビルマ国境(画像の右側)を守備する【タイ北部から日本軍が侵入する動きを見せていたため:赤色破線矢印】

2.別に一部でトングーおよびマンダレー街道【トングーからマンダレーへ通じる道】を守備し、要所を固守し、逐次日本軍を撃滅する。主力はマンダレー付近に置き、日本軍を誘引して深入りさせ、その後方の交通路を遮断し、爾後攻勢に転じて日本軍を捕捉撃滅する。

3.日本軍がもしマンダレー街道沿いに北進してくれば、ピンマナ(Pyinmana)、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)の各守備隊【水色破線】は、各陣地を固守し、日本軍に重大な打撃を与える。その際、トングー東北方の山岳地帯を根拠として遊撃戦法により敵後方に侵入し、連絡路を遮断して日本軍の前進を妨害する。

4.日本軍との会戦において万一不利に陥った時でも、必ずトングー、サジ、マンダレー以東の山岳地帯を確保し、ロイレム(Loilem)およびメイミョー(Meymyo)の両拠点【緑色破線】を核心としてこれを固守し、新国際路線【インドルートのこと?】を確保する。

5.【この項、かなり省略】日本軍がタイ・ビルマ国境から進出した時は、山地で頑張る。日本軍が英印軍方向に主力を向けた時は、そちらの方向に進出して英印軍と協力する。

 で、この計画は、「中国軍得意の<誘致導入、消耗撃破、遊撃ゲリラ>の戦法を基調とするものであった。」そうです。


 「山岳地帯からの遊撃」は、画像の水色の矢印で、確かにこれをやられたらイヤだと思います。逆に日本軍から見れば、この山岳地帯(の道路)を押さえることが重要であったとも言えますね。



 今回、個人的に非常に気になったのは、ピンマナ(Pyinmana)、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)の3箇所が固守地点に選ばれた理由についてです。固守地点に選ばれるにはそれなりの地形的な理由があるはずですから。

 というのは実は以前、1945年のビルマ戦について調べていた時に、日本軍はマンダレー街道を南進してくる英印軍をトングーで止めるということを意図したらしいのですが、その時に自分の作っていたマップを見てみたら、「トングーで止めるよりも、他の場所で止めようとした方が明らかにいいじゃん!」と思えるものだったのです(^_^;


 ↓その頃のマップのトングー付近。トングーより、その南の隘路で止めた方が良さそうです(平地ではありますが)。

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 ↓現状のトングー付近。トングーを小都市にし、荒地を隣にまで延ばしました(両方とも中障害)。

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 で、各地点に関して見てみます。まず、ピンマナ。

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 道路の結節点であるという意味においては非常に重要な場所だと思いますが、守りやすいとは思えません(^_^; むしろ、その南の隘路で敵を阻止した方がいいでしょう。今後資料を読んでいって、修正したいと思います。




 次に、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)について。

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 まだここら辺は平地を設定していないのですが、守りやすそうな気はしません……。あえていえばピヨベの方は、結節点だらけになる北方のサジやメイクテーラ(Meiktila)の前で止めるという意味では、重要な気はします。しかしサジの方は、メイクテーラの方や東方の道路からでも回り込みやすいでしょうから、すごく守りにくそうな……。

 ここらへんもまた、今後資料を読んでいく中で、検証・修正していこうと思います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の日本軍の作戦計画

 承前、ラングーン陥落後の日本軍の作戦計画についてですが、『ビルマ進攻作戦』(P96~103)上の記述が結構長いので、要点のみ記します。


 まずは基本的に、援蒋ルートのうちの「インドルート」というものが大きく関わっていたようです。


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 日本陸軍は「すぐに終わる」と考えて日中戦争(支那事変)を始めましたが、英米ソが蒋介石を援助し始めたこともあってズブズブの泥沼にはまっていきます(プーチンが「すぐ終わる」と考えてウクライナ戦争(特別軍事作戦)を始めたものの、欧米の援助で終わらなくなったのと同じです(>_<))。

 この軍事援助のルート(援蒋ルート)は複数ありましたが、次々に遮断、あるいは機能しなくなり、残っていたのは「ビルマ公路」だけになっていました。

 「ビルマ公路」は、ラングーン港に陸揚げした物資を鉄道でラシオ(Lashio)まで運び、あとは道路で中国国内に運ぶというものでした。が、これもラングーン陥落によって使えなくなります。そこで唯一残されたのが「インドルート」で、インド国内のインパールからビルマ中部のマンダレー、ラシオを経由し、中国国内に運ぶというものでした。が、ラングーン港と鉄道を使用するルートよりはかなり輸送量は少なくなっていただろうと思います。

(なお、その後このルートも使えなくなった連合国は、一時期ヒマラヤ山脈を空路越える「ハンプ越え」ルートを使用しましたが損耗が甚大で、1942年からビルマ北部を通るレド公路を作り始め、1944年後半に完成しました。……尤も個人的には、「他にもルートがあり得るのでは」と思ってOCS『Burma II』のマップを見てみたら、インドウ(Indaw)を経由するルートは一応あるのではないかと思いました。しかしそれ故、1942年の日本軍はインドウ辺りまでは一応行っておかねばならなかったのだろうと思います。まあ、すでにメインの戦いは終わった後の掃討戦でですけども)


 で、↑の事情を勘案すると、ラングーン陥落後の連合軍にとってはマンダレー(赤い□で囲みました)を保持することが「超重要」だということになります。地理的にも一番南ですし、ビルマ中部における最大の町でしたし。そのため、日本軍側は「連合軍はマンダレー周辺を保持しようとし、そこで大会戦が起こるだろう」と推測しました。

 そしてこの推測の未来の「マンダレー付近会戦」を「マン会戦」と呼んだそうです。『ビルマ進攻作戦』P99には「マン付近(マンダレーを中心とする中部ビルマ地方を広く包括する)」というような記述もありますが、「マン」という呼び方がそもそもあったというよりは、この頃に「そういう風に短縮して呼ぼう」としたということなんでしょうか……??




 まあそれはともかく、マン会戦までの作戦計画としては、おおまかに↓のようでした。

1.主攻撃は、英中両軍のうち中国軍の方に指向し、これに対しては戦機を構成捕捉して決戦を強要し、特に徹底的な打撃を与え、その再起企図を完封する。

2.マン会戦に先立ち、エナンジョン(Yenangyaung:油田があった)・マグエ(Magwe)付近【こちらは英印軍】の戦闘を一兵団で行わせ、務めてこれを殲滅して、爾後の会戦参加に支障がないようにする。

3.マン会戦の発起点は、エナンジョン、メイクテーラ(Meiktila)、タウンギー(Taunggyi)の線と見込む。

4.マン会戦に当たっては、重点を右翼に保持し、まず、すみやかに広くかつ深く連合軍の諸退路特に自動車道を遮断し、大包囲圏の完成を図るとともに,連合軍を分断し、その後随所にこれを撃滅掃討し、地形の利とあいまって完全に連合軍を殲滅する。
 遠大迅速な機動、要点の急襲占領確保、見敵必滅の意気の3つをもって、本作戦完成の要件とする。


5.半自動車化されている第56師団は、上陸後ラングーン~トングー道を経てタウンギーに向かい、務めて企図を秘匿して前進し、4月上旬までに同地付近に進出してタウンギー飛行場群を確保し、その北方または東北方に向かう爾後の作戦を準備する。




 ゲーム上でも、地形から見て第56師団が敵後方に回り込めるかどうかが重要な気がしますが、史実を知っているプレイヤーはそうはさせじとその道路上をより大きい兵力で守ろうとするかもしれません。

 あるいはまた、キャンペーンゲームや自由配置シナリオの場合には(現状アクションレーティングが最強にされている)第33師団をマンダレー方面に向けたりというようなこともあるかもですが、それはそれでバランスの問題として、英印軍をある程度以上撃滅できないとダメなようにすべきなのでしょうね……。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の英印軍の作戦計画

 陸戦史集『ビルマ進攻作戦』を読んでましたら、ラングーン陥落後の日本軍、英印軍、中国軍の作戦計画についてまとめられていたので、それぞれを引用し、地図にしておこうと思います。まずは、英印軍の作戦計画について。






 ↓今回、記述から作った地図。トングーとプロームは赤い□で囲ってあります。その北方にマンダレーやエナンジョンがあります。

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 このような状況をみたアレキサンダー大将は、日本軍の引き続く大規模攻勢を可能かつ必然と考えた。攻勢に対し、果たして連合軍がいつまで中北部ビルマを持ち得るかの見とおしを立てることが、アレキサンダー大将の目下の問題であった。

 当時連合軍がビルマに持っていた兵力は、手傷を負った第17師団、第1ビルマ師団、第7機甲旅団の計7個旅団基幹の英印軍と、中国2個軍(実兵力約2個師団相当)の実質総計約四個師団で、これを支援する航空機は約150であった。しかも、中国第6軍は連合軍の左翼を掩護するため、タイとの国境付近に張りついており、自軍を犠牲にしてまで、中部ビルマで生起する次の作戦に直接参加しそうになかった。結局劣勢の3個師団で日本軍に当たることになり、ビルマを保持できる期間は、一に日本軍が集中使用する兵力のいかんによって決まるであろうと思われた。

 そこで、アレキサンダー大将は、カルタッタでウェーベル大将から受けた口頭指令を念頭におきながら、日本軍を最大限遅滞させることによって、日本軍が他の方面に使用するかも知れない兵力と資源を、なるべく多くかつ長く、ビルマに吸いつけておき、できる限りそこで消耗させようと考えた。

 このため、ラングーンからエナンジョンおよびマンダレーに通ずる2つの河谷を掩護するように、イラワジ河谷には英印軍を、またシッタン河谷に中国軍を使用し、中国軍はそのままシャン州方面の左翼掩護に当てることにした。

 ところが、中国第5軍は、それがいかなる理由によるかアレキサンダー大将には当時分らなかったが、やはりトングー以南に前進することを強く拒んだ。種々努力はしたが致し方のないアレキサンダー大将は、全般の戦線をそろえるため、ラングーンからプロームに至る約200キロの地域をむなしく捨て、プロームとトングーを結ぶ東西の線を一般防御線として選ばなければならないと考えた。

 このことは、同大将が、ビルマを利用して日本軍を引きつけ、かつ、消耗させようとした作戦目的と、そのため広く地域を利用して時間をかせぐという戦いの原則に照して考えるとき、約200キロの地域を利用する縦深遅滞の時の利は失われ、逆に日本軍に、より早くエナンジョン油田や、マンダレー等の緊要な地点に迫る可能性を与えることになると思われた。すなわち、トングーの早期失陥の可能性は大きく、そこを失えば、トングーからシャン州に通ずる作戦路を日本軍に開放し、その結果、日本軍のこの方面からの迂回前進を許し、包囲される態勢になるからである。

 また、多量の貯蔵米があるカレン地区を早く放棄する結果、米を主食とする中国軍は一層苦しくなり、その持久がむづかしくなって、結局連合軍の持久日数を減らすことになろうと予測された。

 しかし、中国軍と連合を政戦略上の前提とし、かつ、当時状況が差し迫っていたので、アレキサンダー大将には何とも方法がなかった。そこで、シッタンで中国第5軍の南方にいた第1ビルマ師団と、サラワジー付近で集結中の英印第17師団とを、中国第5軍の第200師団がトングー付近の陣地に着き次第、西方のプローム方面に移動転進させるように決定した。結局第17師団、第1ビルマ師団および第7機甲旅団等の英印軍はイラワジ河谷で、また、中国第5軍はシッタン河谷で、作戦することに最終計画が決定された。

『ビルマ進攻作戦』P104~6



 まずびっくりしたのが、「航空機が150機であった」という記述。15機で1ユニットにしているので、10ユニット程度ということになりますが、現状ユニット化してあるのは5ユニット程度しかありません(^_^; まあ、可動機が150機あったのかどうか分かりませんが……。今後また情報収集で。


 それから、トングーとプロームを結ぶ線から第二段階が始まったということに関して、おおまかには知っていたものの、その詳しい理由については理解していなかったので「なるほど」と思いました。

 「カレン地区(カレン州)」というのは調べてみると薄く緑色で塗った領域で、カレン諸族が住んでいる地区のようです。この近くであれば中国軍の一般補給は楽なのだけども、そこから離れていくと苦しくなってくるということですね。


 それから、英印軍はイラワジ川沿いの線を守ることになり、第1ビルマ師団は西へ移動したわけでしょうけども、その際、トングーからプロームへ通ずるような道(小道)が、これまで見てきた地図には描かれていなかったようですし、マップ上にも描いてませんでした。ただ、その少し南に、赤い矢印で描いたようにして小道があるので、たぶん第1ビルマ師団はこの道を通ってイラワジ川沿いに移動したのではなかろうかと想像しました。

 多分史実でもそうであったように、ゲーム上で英印軍と中国軍は一緒には戦えないようにすべきでしょうし、そうすると、もし本当にトングーとプロームの間にまともな道がなかったならば、第二段階が始まる前に第1ビルマ師団は西に移動しなければならないでしょうし、また英印軍と中国軍とで戦区を完全に分けることが切実に必要だということになるだろうと思われました。そこらへんから考えると、現状のマップはこれはこれで良いと思われました。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第18師団の編成

 前回↓に続いて、第18師団の編成についてです。第18師団長はあの牟田口廉也中将であり、進撃を督励しまくったそうです。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第56師団の編成 (2023/10/19)



 第18師団の編制・編成は諸資料(主に陸戦史集『ビルマ進攻作戦』P239)によると以下の通りであったそうです(旅団司令部もありましたが、ゲームには出さない予定なので略します)。

第18師団
 歩兵第55連隊
 歩兵第56連隊
 歩兵第114連隊
 歩兵第124連隊(ビルマ戦には欠:川口支隊)
 騎兵第22大隊
 山砲兵第18連隊
 工兵第12連隊
(『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P371によれば、戦車第1連隊が第18師団隷下であるかのように書かれていますが、とりあえず無視?)


 歩兵連隊は3個大隊からなり、歩兵大隊は4個中隊からなります(ということは、第33師団と同様に7戦力となります)。

 騎兵大隊は乗馬2個中隊、機関銃1個中隊からなります。一方で、すでにゲームに登場している騎兵第55連隊は、乗馬中隊2、機関銃中隊1、戦車中隊(軽戦車2、装甲車6)1、速射砲中隊1からなっていたという話もあります。現状騎兵第55連隊は「テストプレイの結果、ゲーム序盤で英印軍後方に進出しまくってゲームを壊す可能性が高い」という理由から(^_^;、元々5戦力(5-4-5)であったのが1戦力減らされ(4-4-5)、しかも再建不能にされています。これを踏襲すると、第18師団の騎兵第22大隊は3-4-5の再建不能というところでしょうか……。


 山砲兵連隊は3個大隊からなり、うち2個大隊は山砲、1個大隊は野砲編成であったそうです。『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P372によると、「第18師団の山砲兵連隊は、各12門の2個大隊と、75mm野砲12門を持つ1個大隊からなっていた。キャウクセ(Kyaukse:マンダレーの少し南)でそれ(it)は、第3重砲兵連隊(1個大隊欠)の150mm砲8門を増援された。」そうです。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:砲兵部隊の具体的な砲の種類と門数 (2023/06/18)
OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第56師団の編成 (2023/10/19)

 ↑の計算とおまけの付け方からすると、

 山砲は0.257×12=3.084×3=9.252で9ですがおまけして、11くらい。
 野砲は第56師団のものそのままで、最終的に11くらい。

 「150mm砲8門」という話は、マンダレーのすぐ南あたりでの話ですから割と最終盤なので、そこらへんまで資料を読み進むまで棚上げにしておきます。


<2023/10/21追記>

 ミト王子さんからコメントいただきました!

 やはり「支那事変、大東亜戦争間の師団の編制」では、この師団の山砲兵連隊は改造三八式野砲12、九四式山砲18となっています。
 「日本騎兵史」によるとこの師団の騎兵大隊は恐らく昭和17年内のある時期に徒歩編制に改編されたようですが、恐らく進攻作戦後の話だと思われます。

 アジア歴史資料センターのレファレンスコードC14111053300によると、S14年9月14日時点では山砲大隊2、野砲大隊1で、山砲中隊は九四式山砲3、野砲中隊は三八式野砲3、としていますから、もしかしたら野砲は9門であったかも知れませんね。


 この場合、九四式山砲9門で1個大隊、九四式山砲9門で1個大隊、改造三八式野砲12門で1個大隊でしょうか。だとすると山砲大隊は火力が少し下がりますし、野砲大隊は射程が1に下がると思います(これは矛盾がないので、そうしてしまっていいのでしょうけど)。この微妙な差異……(^_^;

 『日本騎兵史』は私もコピーしてきていたので見てみると、P443に確かにそれらしき記述がありました。どうなんでしょうね。ここらへんも、他の資料の情報集積待ちで……。

<追記ここまで>




 第18師団がラングーンに到着したのは、4月7日夕だったそうです。

 が、これもまた全部がいっぺんに到着したわけではなく、歩兵第56連隊第3大隊基幹の部隊は、主力とは別にアンダマン作戦に参加しており、その作戦終了後、ビルマに追及して師団に復帰したとか。これは戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P241によると「4月17日夕刻にラングーンに到着」であったそうです。



 とりあえずユニット化してみました。

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 師団ストライプはもちろん、菊の花の黄色で。

『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』の全5章の内容

 『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』を読み始めてみましたら、「はじめに」に全5章の内容が書かれていて、それだけで非常に興味深かったので引用してみます。





 この本は5章で構成されている。第1章では、バトルアクス作戦における連合軍地上部隊の限界と、第4インド師団が西方砂漠部隊【第8軍の前身の組織】の他の構成部隊と共にそれらをどのように克服しようとしたかを分析する。空軍と野砲の、歩兵との不十分な協調は、西方砂漠部隊の作戦を特徴づけるものであった。イギリス軍の機甲部隊はそれぞれがバラバラに戦闘を行い、諸兵科連合戦術によって防御された枢軸軍の陣地に対し、バラクラヴァのような無益な突撃を行ったのである。

第2章では、バトルアクス後に第8軍がどのような教訓を得たのか、そしてそれらの教訓がクルセイダー作戦の時期に連合軍によってどこまで反映されたのかを描いている。第8軍の学習過程は不完全だった。その結果、ロンメルは敗北したものの、彼の部隊は壊滅しなかった。連合軍の歩兵部隊と機甲部隊はバラバラに戦った。第8軍は諸兵科連合戦術の必要性を認識していたが、実行はできなかったのだ。その一因は、大英帝国軍が異質な性格と伝統を有する様々な連隊を集めて戦っていたことにあった。また大英帝国軍のさまざまな兵科における島国根性は非常に強く、諸兵科連合戦術は訓練マニュアルや情報分析で繰り返し強調されていたにもかかわらず、実践されることはなかった。

 第3章では、1942年半ばの砂漠での大失敗の理由を説明しようと試みている。ドクトリンの混乱はオーキンレック、ニール・リッチー中将、A.H.ゲートハウス少将、メッサーヴィー、トゥーカーら第8軍の指揮官達の不和を招き、第2次ガザラの戦いでの連合軍敗北の重要な要因となった。アフリカ装甲軍が繰り広げた流動的な機動戦に対して、連合軍の指揮官達は開けた砂漠で堅固な直線的防御を行ったが、それは不適切だということが証明された。リッチーは、連合軍の機甲部隊は高速で分散して走るドイツ軍の装甲部隊にはかなわないことに気付いていた。その反動で、静的で防御重視の旅団「ボックス」が登場した。だが、オーキンレックによる革新的なコンセプトであった旅団サイズの「ボックス」をジョックコラムと共に使用する方策は、アフリカ装甲軍に対しては効果がなかった。しかし一方で、この「ボックス」は1943年から1944年にかけてのビルマ戦で軽武装の日本軍に対して有効であることが証明された。つまり、すべての戦術的革新がすべての戦場で効果を発揮したわけではないのである。技術革新には、有効な地域や、有効な敵というものがあったのだ。第1次アラメインの戦いでの連合軍の勝利は、補給問題に悩まされていたロンメル軍の疲弊によるところが大きかった。

 第4章は、第2次、第3次アラメインの戦いにおける連合軍の勝利は、数的、物的優位に裏打ちされた高度な陣地戦戦術によるものであったと論じている。アラメインの陣地の地理的制約から、アフリカ装甲軍は側面からの突進を伴う機動戦が不可能であった。しかし、イギリス軍機甲部隊の学習スピードは十分ではなかったようだ。モンティの幕僚達は、砲兵戦術の革新、航空写真の活用、パトロールと偵察などを目撃した。しかし、機動戦を遂行するための歩兵-砲兵-機甲-地上攻撃機を含む親密な協力関係は、第8軍ではあまり発展しなかった。例えば、機甲師団と機甲旅団は、歩兵や野砲兵との密接な協力に反対していたのである。モンティの厳格な指揮システムと、ゲートハウスのような一部の師団長達の保守的な態度が、ドクトリンと戦術の分野における革新を妨げた。つまり、軍司令官と師団長達の態度が、戦場の革新のプロセスを加速させることもあれば、減速させることさえあったのだ。そして、これらの要因が、数で劣るアフリカ装甲軍のアラメインからマレトラインへの撤退を成功させたのである。

 第5章では、第8軍によるチュニジアでの戦闘が描かれる。ここでは砂漠戦のパラダイムが山岳戦のパラダイムに取って代わられた。チュニジアの地形を利用して、枢軸軍は山岳地帯を中心とした防衛線を次々と構築した。そしてインド歩兵は、イギリス歩兵に比べて山岳戦に秀でていた。マレト、アカリト、エンフィダヴィルの3つの戦いにおいて、インド第4師団は、丘陵地帯での夜間戦に関して、イギリス第50師団と第51師団に対する優位性を証明した。これは、インド師団が北西辺境でパタン族【パキスタン西北部とアフガニスタンとの国境地帯の部族】と戦いながら培った戦闘技術と、エリトリアにおいてイタリア軍と戦った経験によるものであった。技術的に後進的なパタン族や軍事的に「軟弱な」イタリア軍を相手にした山岳戦と、重火器を装備したアフリカ軍集団の冷徹なドイツ軍の「殺し屋」を相手にした山岳戦は別物だった。中東参謀学校、軍団長や師団長達、インド軍事訓練局との意見交換のおかげで、インド歩兵は荷馬車、迫撃砲、大砲を潜入や小競り合いの技術と統合することができた。第8軍のインド人部隊は、近代的条件下での山岳戦のパラダイムを開発し、それは1944年のイタリア戦で大きな効果を発揮したと断言できる。

『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P6




 北アフリカの英連邦軍がバラバラに戦っていたことに関しては、↓でも書いてました。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)

 『Fighting Rommel』では、↑とはまた違ったことも色々書かれているようで、興味深そうで楽しみです。



 前掲ブログ記事でも少し書いてましたが、OCS『DAK-II』では英連邦軍ユニットが何の縛りもなく連携して?戦えるため、強すぎるという印象を個人的に抱いています。で、↓でも少しハウスルール案を書いてましたが、うまく機能しなかった感があります。

OCS『DAK-II』7.5「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」のサマリーと改造ハウスルール案 (2021/12/02)



 そこらへん、うまく再現しているゲームはあるんでしょうかね……?



OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第56師団の編成

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』で、第56師団の編成についての話が出てきました(P239)ので、その件についてまとめようと思います。


 第56師団はシンガポールでの捕獲車両により半自動車化されていたという話があり(全員は車載できないが、ピストン輸送する)、実際ものすごい大進撃をしたらしいので、移動力設定が問題となります。OCS的には、完全自動車化で無茶苦茶早いやつだと18とか20移動力、ドイツ軍の自動車化歩兵師団なんかは14移動力です。「半自動車化」ということを重視するなら10移動力とかって感じなんですが、マップ上を動かしてみると16とか18とかでないと史実通りにならない、ってことはあるかもと思います。



 その編制・編成は以下の通りでした。

第56師団
 歩兵第113連隊
 歩兵第146連隊
 歩兵第148連隊
 野砲第56連隊
 捜索第56連隊(実質大隊規模)
 工兵第56連隊
(『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P371の戦闘序列によれば、戦車第14連隊も第56師団隷下となっていますが……?)

 歩兵連隊は3個大隊、歩兵大隊は3個中隊よりなります。すると、基本的には6戦力となります。

 捜索連隊は3個中隊からなり、全員車載。


 野砲兵連隊は3個大隊、うち2個大隊は野砲、1個大隊は十榴【91式10センチ榴弾砲?】編成(後述の坂口支隊は野砲第1大隊を含んでいたというので、第1大隊が野砲でしょうが、第2、第3は不明。でもまあ、第2が野砲で第3が榴弾砲でしょうか?)。

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P372によれば、2個大隊が75mm野砲【90式75mm野砲?】、1個大隊は105mm砲であり、各大隊は12門を持っていたそうです。

 90式75mm野砲は最大射程14km程度で、1ヘクス8kmなので射程は2ヘクス? 機械化牽引用の機動90式野砲というのもあったようですが、日本語版Wikipedia「九〇式野砲」を見ている感じでは、この時期に投入された感じは受けません。尤も、機械化牽引用でなくても、自動車で無理矢理引っ張ったのでしょうか。第56師団は野砲も含めて完全自動車化の特別部隊を作って運用したらしいです(詳細はまた今後出てくるでしょうからその時に)。

 91式10センチ榴弾砲は最大射程10~11km程度で、射程は2ヘクスでしょうか。105mmだとすると38式というのと14年式というのがあったらしいですが、非常に重かったとか、後者は少数しか作られなかったとかって『第2次大戦事典②兵器・人名』にあって、その可能性は低そうだと素人考えでは思います。戦史叢書の方を信用してみようかと思います。


 各大隊が12門、ということに関しては信頼すると(おい)↓の計算方法からしますと……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:砲兵部隊の具体的な砲の種類と門数 (2023/06/18)

 75mm砲の係数0.257×12門=3.084。3倍スケールなので3倍して、9砲爆撃力。ですが、↑では少しおまけしている感があるので、10か11。

 100mm砲の係数0.3辺り×12門=3.6。3倍して、10.8。11砲爆撃力でしょうが、これもおまけして、12か13。


<2023/10/21追記>

 ミト王子さんからコメントいただきました!

 前に言及した「支那事変、大東亜戦争間の師団の編制」によると、第五十六師団の野砲兵連隊はこの時期、改造三八式野砲18、九一式十榴9とされています。

 アジア歴史資料センターのレファレンスコードC14060236100によると、S16年12月22日の編成完結時の野砲兵連隊の火砲は27門としています。(砲種記載なし)


 改造三八式野砲だとすると、射程は1が穏当っぽいですね……。また、門数が1個大隊につき9門ということになりそうです。そうすると火力が少し変わってきます。

 英語資料より日本語資料を信用した方が良いような気もしますけど、今後他の資料でもそこらへんの記述が出てくる可能性もあるかもですので、そこらへん期待したいと思います。

<追記ここまで>






 第56師団のラングーンへの海路での到着は3月25日とあります。



 が、第56師団も全部がいっぺんに到着したわけではないようです。

 坂口支隊(歩兵第146連隊、野砲兵第1大隊基幹)というのがあり、ジャワ攻略作戦に参加。ジャワ攻略後第56師団に復帰することになりましたが、当時東部ボルネオのサンガサンガの警備に任じていた久米支隊(歩兵第146連隊第1大隊基幹)を残して3月31日にジャワ島を出発してラングーンに航行、4月19日にラングーンに到着したそうです(『ビルマ進攻作戦』P239では「4月下旬、シャン州において師団に帰り、追撃作戦に参加した」)。

 坂口支隊はラングーンに到着するまでに合計158名の損害を出していたとか。ただ、これは連隊全部での損害でしょうから、計算しても各大隊の戦力を減らしておくほどではなさそうです。

 久米支隊は3月31日の南方軍命令により、同地の警備を海軍側に委譲し、その後連隊主力に追及してビルマに転進したとのこと(到着日時は書かれていません)。



 とりあえず、適当にユニットを作ってみました。

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 師団ストライプの色は、青龍っぽい感じで……。


<2023/10/20追記>

 工兵連隊が抜けていました……(T_T)

 上記のリスト上に追加しておいたのと、↓がユニットです。

unit8509.jpg


<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:第2段階開始時(3月19日)の英印軍の戦闘序列から

 ラングーン陥落後の第2段階開始時(3月19日)の英印軍の戦闘序列がある(*)ので、それ以前の戦闘序列や現状のユニットと見比べてみてました。

*:『The War Against Japan Vol.2』P454、『ビルマ進攻作戦』P245



 とりあえず、その戦闘序列にある部隊でまだユニット化していないものをユニット化してみました。前回の日本軍のものも一緒に。

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 それから、以前にOCS『South Burma』(仮)製作のために:1941年12月末時点でのビルマの英連邦軍の配置とその後の移動 (2023/03/30)で作っていた配置図と見比べてみました。

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 すると、3月19日の戦闘序列にはある「F.F.6」という部隊が↑にはないことに気付きました。それだと、ゲーム上でF.F.6がどこから登場すれば良いのか分からないので困ってしまいます。

 で、その前回の資料や、その元になったのであろうとも思われる『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』の戦闘序列も見てみたのですが、どうにも見つかりません……。

 まあ、困るのは困るのですが、「だって資料にないんだから」ということで、適当な場所に適当な時期に湧かせるということでいいのかもしれません。尤もその判断が困るのですが……。

(↑ここに書いておくことによって、この件について忘れないようにするということで)


 あと気付いたのが、この戦闘序列で「Line of Communication Troops」と書かれている一覧の中に、2 KOYLIやビルマ小銃大隊の3、4、6などの、ユニット化してある部隊が含まれていることでした。「Line of Communication Troops」というのは、OCS『Burma II』では後方連絡線を守備する弱体な部隊であるかと思います。史実でだいぶ弱体化していて、後方に回されていたのかもしれません。

 そこらへん、ルール化する可能性も考えましたが、まあそれらの部隊はデッドパイルにあるということで、よほど必要でなければそういう部隊をユニット化しない方向でいくということで……(ルールを増やしたくないので)。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:第33師団が中支に残してきた第213連隊と砲兵2個大隊の主力への追及時期

 第33師団は↓のようにユニット化していましたが、これらとは別にビルマ戦開始時には中支(徐州)に残置してきた部隊があり、3ヵ月遅れで主力に合流しました。
(ちなみに、第55師団も隷下の第144連隊が南海支隊として別行動していましたが、こちらはポートモレスビーでほぼ壊滅したそうです)


unit8525.jpg


 その遅れて追及してきた部隊は、↓のものになります(まだユニット化していません)。

第213連隊第1大隊
第213連隊第2大隊
第213連隊第3大隊
山砲兵第33連隊第1大隊
山砲兵第33連隊第2大隊


 これらがいつ主力に追いついたかが分からないといけないわけで、今回、少し調べてみました(今後また情報を見つけたら追記していきます)。

 以下、戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P243から(抜粋)。

 3月6日~8日の間にバンコクに上陸。【その後、陸路をラングーンに向かう】
 師団主力の前進開始【3月中旬】までにラングーンに到着したのは、歩兵団長荒木少将および先頭の第213聯隊第1大隊(長有延厳少佐)だけであった。



 以下、『私(達)の歩いて来た道 第三十三師団(弓部隊)歩兵第二百十三聯隊第二大隊第七中隊(及各部隊)の戦跡』から。

 私達第3梯団は3月13日列車にて泰緬国境に向かう【P134:第3梯団がどういう内容か不明】

 3月18日【頃?】【……】これより「ビルマ」領だという所につく。【P135,6】

 夜行軍を初めて4日目だったろうか、徒歩から軍用車(トラック)で一気に「ビルマ」の首都「ラングーン」に到着する。【P141:日にち不明】



 まあ、ほとんど何も分からないのと一緒です(^_^; が、今後情報集積ということで……。




<2023/10/19追記>

 その後、『歩兵第二百十三聯隊戦誌』というのをコピーしてきていることに気付きました(^_^;

 この本による記述を参考に、地図を作ってみました。第2大隊は少し遅れて追及していたようです。


unit8513.jpg


 前掲の戦史叢書『ビルマ攻略作戦』では、第1大隊は3月19日頃にはラングーンに入っていたかのようなので、やや合わない面もあります。

 が、とりあえずこの地図に挙げた『歩兵第二百十三聯隊戦誌』の記述に従うならば、登場の仕方は例えばこんな感じでしょうか?

「第213連隊(第2大隊以外)は、4月1日ターンに他の第33師団ユニットのいる道路/小道ヘクス(あるいはその隣の道路/小道ヘクス)に自由に到着させます。到着ヘクスには敵ユニット、あるいは敵ZOCがあってはいけません。また、到着ヘクスからラングーンまでの間の道路/小道ヘクスに敵ユニット、あるいは敵ZOCがあってはいけません。」


 第2大隊は、その一部(約250名)がアキャブ(『South Burma』(仮)の範囲外)へ派遣されたので、戦力が少し減った状態で登場することになります。以前、↓で計算していたやり方に従いますと……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団と第33師団の歩兵大隊の戦力について (2023/03/01)


 とりあえず、810名で6戦力であると仮定します。すると、810÷6=135で、1戦力は135名となります。

 第2大隊は990名から約250名が抜かれているので、990ー250=740。740÷135=5.48で、四捨五入すれば5戦力となります。

 尤も、990名とか810名とかってのは司令部要員103名を含んでいるので、戦闘要員だけ見れば四捨五入したら6戦力であろうとは思いますが、まあ、戦力が抜かれているのが分かりやすいのでとりあえず5戦力ということにしてみます。


 それで調整したユニット↓。

unit8512.jpg



 第2大隊ですが、「4月15日ターンにラングーンに登場」でしょうか。


<追記ここまで>

北アフリカ戦:ビル、シディ、ジェベルなどの意味

 次に読むつもりと書いていた『Inside Hitler's High Command』はとりあえずやめておきまして(^_^;、『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』を読み始めました。




 北アフリカ戦における、インド人部隊の学習をメインとした書物らしく、その点は書名からすると意外でしたが、個人的にはインド人部隊にもかなり興味があるのでよし。インド人部隊以外もバランスよく取り上げられるようです。また、自ら「これは研究論文です」という風に書いていて、色んな説が取り上げられたりするのも個人的に好きですし、またなんか、文章が読みやすくて面白いです(DeepL翻訳で読んでます)。


 その中で「へぇ~!」と思うことがあったら、小さなことでもブログに書いていこうとも思ってるんですが、早速「へぇ~!」と思うことがありました。

 砂漠を縦横に走るのはトリグ(小道)だった。これらの小道は、雨天時には路面が悪化して流され、装輪車両は泥にはまった。2本以上のトリグが交差する場所には、ビル(井戸)やシディ(イスラム聖人の墓)があった。このような交差点は、時に戦闘の中心地となった。海岸近くの砂漠にそびえ立つのはジェベル(断崖)である。ジェベルを占領することで、いくつかのトリグとバルボ街道の一部を支配することができた。そのため、戦闘は主に断崖に沿って行われた。
『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P5



 ↓英語版Wikipedia「Battle of Point 175」から

Tobruk2Sollum1941 en

 「ビル・エル・グビ」とか「シディ・オマール」とか、聞き馴染みがあるんですが、そういう風な意味だったんですね。



 今までに北アフリカ戦の地名に関して情報集積していたものを探しましたら、「ビル」の意味については少しありました。

"ビル"とは井戸を意味する言葉
『狐の足跡』上P119

 ビル・ハケイムに到着したわたしたちは、それが堡塁というよりも、戦前にアラブの遊牧民たちが交易に使っていた古代の道が交わる場所に過ぎないということを知った。ほんの少しだけ砂と石が盛り上げられた12キロメートル四方の平地。イタリアは戦争が始まる前にそこに小さな石の建物を持つ堡塁を作ったが、建物は全部崩れ落ちていた。吹きさらしの砂漠以外、何マイルもほとんど何もない場所だった。地面は固い砕石だらけで、少ない雨水を溜めるビルスと呼ばれる石の貯水槽は、かつては植民地時代の砦に水を供給していたものだが、今ではひびがはいり、砂が浮いて半ば空になっていた。……
 ……"ビル"とはアラビア語で水という意味だと聞いていた……あるのは平らな岩とコンクリートの小屋の残骸、そして一方の端にある監視所と呼ばれる小さな丘ぐらいだった。
『外人部隊の女』P147

 唯一の小さな利点は、ビル・ハケイムが砂漠の他の場所に比べ、20フィート【約6m】ほど高くなっている長方形の地形で、見張りがしやすいということだった。
『外人部隊の女』P150






 ↑この『外人部隊の女』というのは、ガザラの戦いの時に孤軍奮闘したフランス人部隊に所属していた女性ドライバーの手記で、このフランス人部隊はビル・ハケイムの地を何日間にもわたって固守し、ロンメルを怒らせたのでした。


Map of siege of Tobruk 1942


 しかしそうすると、「ビル」から始まる地名であっても、昔は井戸があったのかもしれないが、北アフリカ戦の頃にはもう涸れて、なくなってしまっていたということもあったわけですね。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍のラングーン占領の頃の兵力増強命令

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでましたら、第15軍がラングーンに突入する直前(3月4日)に、第15軍への兵力増強に関し大本営が命じた命令が載ってました(P181)ので、ゲーム上で関係してくる可能性がある部隊を抜粋引用しようと思います(工兵は今回、除いておきます。また、カタカナをひらがなに直しました)。


 前回の分は↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落あたりまでの第15軍麾下の独立部隊について (2023/10/14)



2 第25軍戦闘序列より除き第15軍戦闘序列に編入する部隊
 第18師団(歩兵第35旅団司令部、歩兵第124聯隊欠)(筆者注 その欠部隊は川口支隊である)
 第56師団
 独立速射砲第1大隊(留守近衛師団)
 独立速射砲第6中隊(留守第6師団)
 独立速射砲第11中隊(留守第5師団)【この部隊はすでに前の段階で送られていました】
 戦車第1聯隊(第56師団)
 戦車第2聯隊の軽戦車中隊(留守近衛師団)【この部隊はすでに前の段階で送られていました】
 戦車第14聯隊(第23軍司令官)
 野戦重砲兵第3聯隊(甲)(筆者注 15榴)(留守第3師団)
 野戦重砲兵第18聯隊(乙)(筆者注 10加)(第61独立歩兵団)
 野戦重砲兵第21大隊(1中隊欠)(筆者注 15榴)(留守第3師団)【前の段階の、独立混成第21旅団砲兵隊 (第21師団から)と同一か?】


 ゲームに関係してきそうなのは以上ですが、(甲)とか(乙)とかって何でしょう? 甲が優秀な部隊で、乙はそれに次ぐ部隊ってことでしょうか。また、(留守~)とかってのは元の部隊のことかもですが、「戦車第1聯隊(第56師団)」とあるのは、第56師団が前線に来るのですが、いやそれでも元の部隊は第56師団だったってこと?

 色々全然分かってません(^_^; (分かる方、教えていただければ幸いです~)


『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』 読了:なぜ、イタリア軍は弱かったという見方が無批判に受け入れられ続けたのか?

 ようやく、『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』を読了しました。「イタリア軍は弱かった」という見方に対して、様々な証拠や観点から再検討をおこなった本です。







 これまでにこの本関係で書いたブログ記事をまとめてみました。


『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』を注文しました (2020/01/28)

イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由、その4 (2020/03/22)

ミリタリー本なんかの脚注やPCソフトの脚注機能、それに索引とかについて (2020/05/26)

イタリア軍のメッセ将軍は、ドイツ軍に激怒して騎士鉄十字章を投げ捨てた?(が、その後も佩用し続けた) (2020/10/09)

ドイツ軍の第318歩兵連隊は、小土星作戦開始後どうなったのか?(付:OCS『Case Blue』) (2020/10/27)

オストロゴジスク=ロッソシ作戦:イタリア軍のアルピーニ軍団の「敢闘」は、誇張されたものである?(付:OCS『Case Blue』) (2020/10/29)

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍師団の評価 (2023/04/18)

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍の上級指揮官達の評価 (2023/04/20)

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍は人道的で、現地民に何も悪いことをしなかったのか? (2023/06/10)




 ↑で挙げました「東部戦線のイタリア軍の上級指揮官達の評価」なんかもそうですが、この本ではイタリア軍の上級指揮官達は無能とは言えない、むしろ有能な者も多かった(ただし、訓練された下士官クラスの人材が不足していたのは確か)とか、あるいは東部戦線のイタリア軍はそれまでの北アフリカ戦などでの戦訓も着実にフィードバックして日々改善をおこなっており、もちろん国力から来る限界は大きかったが、決して無能ではなかったと考えられる……というようなことが様々な証拠を挙げて書かれています。

 そして本の最後で、戦後における「戦中のイタリア軍」に対する見方に関して、どのような攻防があったのかが検討されています。


 大まかに言えば、戦後に「イタリア軍(上層部)は無能であった。それによって無辜のイタリア軍兵士達が犠牲になった」という言説を大いに主張したのは、

・兵士達の回顧録(自分達は何も知らない庶民で、犠牲者だった)
・政治的左派(その敵の右派は、軍を擁護していた)
・クレムリン

 だそうで、「残念なことに、これらの神話は国内および国際的な学界にほぼ受け入れられ、第二次世界大戦中のイタリアに対する我々の理解を歪めてしまった。」(P334)

 それに対して戦後、右派と軍の擁護者として孤軍奮闘せざるを得なくなったメッセ将軍は多くの記事や本を書いて、「イタリア軍は何ら悪いことをしなかった」と主張しまくったそうです。その言説はそれはそれで偏りが大きいものの、政治的左派によるメッセ攻撃の内容(例えば、チュニジアで枢軸軍が苦難にある時にメッセは自分を元帥に昇進させるようにムッソリーニに要請したとか、自分の名声を重視して元帥の位を得た直後に「鶏のように」降伏したとか、あるいは東部戦線でも敗北が予見できていたのに、十分な補給を確保することなく部下達を見捨てたとか)は、その後の裁判で事実とは認定されず、メッセの主張よりも嘘の度合いがあまりに大きかったのですが、結局はそういう風な政治的左派が広めまくった言説が世の中に広がっていってしまった……。


 私自身、1980年代の中高生だった時代には日本でも「左翼にあらずんば人間にあらず」という感じで、ほんの少しでも左派的でない言説をすれば社会から総叩きされたのを見てきましたから、「あ~、さもありなん」という気がしました(T_T)


 日本では、一時以来『AxisPowersヘタリア』という作品が流行ったりしましたが、一方でその後ミリタリー界ではイタリア軍擁護的な出版や記事も結構出てきたような気がしますから、現状ではそれほど悲観したものでもないかと思います(『AxisPowersヘタリア』も、別に悪かったというものでもなく、様々な興味関心を持つきっかけになったという点で素晴らしい作品だったのだろうと思います)。できれば、この『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』(の内容)を有名人が取り上げてくれたらとも思いますが……。


 あと、個人的にはメッセ将軍の実像的な部分に興味があるわけですが、この本で最後の方のところ(P334)に、「実際、メッセは、冷戦政治がいかにイタリア陸軍と第二次世界大戦におけるその役割に対する私たちの認識をいまだに歪めているかを示す好例であり、さらなる研究が必要であることを示すもう一つの事例でもある。メッセの学問的な伝記が出版されることが最も望ましい。」と書かれていて、とりあえず現状ではメッセに関する学問的な研究がされた出版物はまだない状態である、ということなんでしょうか。期待したいところですが……。



 とりあえず、これでようやく「特に読みたい積ん読本」の一冊を読了することができました。次は『Inside Hitler's High Command』を読みたいと思っています。その次は『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』で。




 

OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から

 先日、中国軍の初動について地図付きで書いてましたが、その前に一度文字のみでまとめていたものがありました。

先日の:OCS『South Burma』(仮)製作のために:1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について (2023/10/10)
より前の:OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマで戦った中国国民党軍について (2023/03/31)

 より前の記事を読み返していますと、中国軍は英印軍から補給を受けていたようです。あ~、OCS的に問題なさそうで良かった(^_^;



 で、少し手持ちの資料で他に探してみたら、『中国=ビルマ=インド』(ライフ第二次世界大戦史)という本に、かなり面白く中国国民党軍の初動について、スティルウェルを中心にして書かれていました。





 ↓後述の本の地図を元に関連地図を作ってみました(P82の次のページのMAP 3から)。

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 ラングーンは陥落しており、一番南に3月19日時点での前線(赤い破線)があります。英印軍はプローム(Prome)から北の軸を防衛し、中国軍はトングー(Toungoo)から北の軸を守るという風に役割分担されていました。

 前回の地図で私は中国第5軍はプーアル?方面からかのように描いていましたが、今回の地図を見てると(ミト王子さんから教えてもらった話からしても)ビルマロード沿いに昆明方面から来たのかもです。

 紫色の破線のラインは後の資料に出てくる、蒋介石の考えていた防衛ラインです。


 その弱点だらけの防御線を日本軍の意のままにさらしておくよりはと、もともとが攻撃的なタイプの司令官であったスリムとスティルウェルは、ラングーンに向けて反攻に出ることを考えた。しかしこのような作戦行動に出るためには、スティルウェルは、配下の中国軍を移動させる必要があった。彼は蒋介石から第5軍、第6軍および第66軍の3つの部隊を与えられていた。それぞれアメリカ軍の1個師団にはほぼ相当する規模である。このうち第66軍は、ビルマ公路がサルウィン川の峡谷を渡るあたりのビルマとの国境を守るために、中国にとどめておくことになっていた。残る2軍のうち、第5軍の第200師だけが防御線の東端のトングー付近で実際に日本軍に対峙する位置にいた。しかもそこは、そのときすでに敵に包囲される危険にさらされていた。第5軍の残る第22師および第96師の2個師はまだ中国を発進していなかった。補給物資が到着するまで待つ必要があるというのが重慶側の説明であった。たとえ準備が整って前進したとしても、中央部のマンダレー付近までしか出てはならないことになっていた。スティルウェルは、トングーの第200師を救助するためにこの2個師をただちにビルマに移動する許可を求めたが、蒋介石はこれを拒否した。スティルウェルに与えられた中国軍のうち、残る第6軍は確かにビルマに入りはしたものの、ビルマ公路を東北部のシャン州まで下ってきただけだった。

 彼らがその地点にとどまって動こうとしないのは、タイ北部から国境を突破して日本軍が進入してくるのを阻止せよという、蒋介石の命令があったからであった【ちなみにこの時、日本軍はタイ軍と合同で、タイ北部国境からビルマへと侵入しようとするかのような囮作戦を行っていました】。

 3月19日、激しい議論ののち、スティルウェルはようやく、トングーの危機に陥っている第200師の救援のために第22師をビルマに移動させるという了解を取りつけた。- 少なくとも取りつけたと考えた。彼はさっそく、中国第5軍の司令官杜聿明に必要な命令を出した。ところが杜も、フランスで教育を受けたインテリだという第22師の師長廖耀湘少将も、怠慢ということにかけては大の達人だった。くる日もくる日も彼らは、何かと口実を見つけては第22師を戦闘に参加させずにすませようとした。鉄道輸送に問題がありすぎる、途中があまりにも危険である、日本軍の戦車隊が多すぎる、廖師長としては増援部隊を待ちたい、日本軍の先遣隊が入り込んでいるので連隊の移動は不可能である、などといった調子である。スティルウェルに話しかけられそうだと見ると、杜は自分の部屋に逃げ込んでしまったり、大声をあげて部下に当たってみせたりするのである。「腰抜けども」と、スティルウェルはあとで杜と廖のことを書いている。「撃ち殺してしまうわけにもいかない。首にするわけにもいかない。……といって話をするだけでは何の効果もない」。

 アレクサンダー将軍も、前線に杜将軍を訪れ、野砲をどこに配置したかと尋ねたとき、スティルウェルが直面している問題をある程度理解した。杜は野砲は引き揚げたと答えたのである。「しかし、それでは役に立たないでしょう」とアレクサンダーは尋ねた。

 「閣下」と杜は答えた。「第5軍はわが国最良の軍隊ですが、それは第5軍だけがともかく野砲をもっているからなのです。ですから、この砲は大切に扱わなければなりません。万一壊してしまったら、第5軍はもはや最強軍ではなくなってしまうのですから」。


 杜がこうした態度に出たのは、あらゆる可能性から考えて蒋介石の指示によるものと思われた。蒋介石は当初、自説である縦深防御理論を固守して、第200師を増援するというスティルウェルの案に難色を示したのであった。スティルウェルは蔣総統からビルマ戦線の指揮をまかされていたとはいえ、文書による辞令ではっきり司令官として任命されたわけではない。それで彼の指揮下に入った中国軍の将官たちも、いちいち重慶の指示を仰がないでは、スティルウェルの命令に従おうとはしなかったのである。

 蒋介石はビルマ作戦に関しては終始、しばしばスティルウェルを通り越して直接杜やその他の将官たちに指令を出すことをやめなかった。蔣は、2500キロも遠く離れたところから連隊レベルにいたる作戦命令まで自分で出そうとしたものである。しかもその命令は、「情勢の些細な変化を根拠として、行動と戦備を根本的に変更するといった具合のものであった」とスティルウェルは書いている。時には遠くからの指令が前線に届いたころには、時機を失して命令そのものがばかげたものになってしまっている場合もあった。全作戦を左右する重大な局面で中国軍が絶望的な戦いを続けていたとき、スティルウェルは総統閣下から次のような命令を受け取った。「兵士がのどがかわいているときは、士気回復に西瓜がよい。4人当たり1個ずつ、西瓜を配給せよ」。

 結局、第22師はトングーの戦闘には最後まで参加しなかった。第200師は孤軍奮闘を余儀なくされ、そのため、ラングーンに迫ろうというビルマ作戦中唯一の連合軍側の攻撃も、行動開始前に内部から混乱し、責任のなすりあいになって崩壊してしまった。
『中国=ビルマ=インド』P23,4



 これを読んで、「そういえばスティルウェル関係の本は何も買ってないけど、スティルウェル関係の洋書から攻めるという方法はあるなぁ……」と思ったので、少しそこらへんの洋書がないか調べてみました。その中で、『Stilwell's Mission to China』という本がネット上でPDFで提供されているのが分かり、見てみたらいくらか関係のことが描かれていました(前掲の地図は、その本の中にあった地図から作ったのですが、しかしその地図は以前に他のどこかで見た記憶があるものでした。が、今回探してみたものの見つからず)。

 輸送手段が乏しかったため、部隊の移動はゆっくりと行われた。中国軍第93師団(第6軍)の残りをビルマに移動させることは、1月19日にビルマ軍司令部からの要請でウェーベル将軍が同意した【ウェーベルは中国軍をビルマ戦に参加させることに反対であったため、許可を取る必要があった?】。

 その2日後、彼は第49師団にも同意した。中国陸軍省は2月3日、第6軍の3個師団の最後のもの【第55師団?】を移動させる命令を出した。

 ビルマ軍総司令官T.J.ハットン中将は、総統【蒋介石】がインドを訪問した際にこの問題について協議し、合意に達した。1月31日、ハットンは第5軍がビルマに入ることの許可をウェーベルに要請し、2月3日に総統はこれに同意、2月28日に移動が開始された。ウェーベル将軍の行動は、チャーチルとルーズベルトの介入に先立つものであった。ルーズベルトは、ビルマ防衛に中国が参加することを政治的、行政的な問題で妨げることは許されないと考えた統合参謀本部に促され、自らチャーチルにこの問題を提起した。こうして、中国の第一次ビルマ作戦への参加が始まった。第93師団の到着は予期されていたため、その補給に支障はなかった。

 第49師団は何かと問題が多かったが、3月中旬には快適に宿営できるようになっていた。臨時第55師団は、第6軍の中で最後に到着した新しい部隊で、統率が悪く、装備も貧弱で、訓練も不十分だった。
『Stilwell's Mission to China』P85

 3月6日の最初の会談で、総統はビルマで作戦する計画はないとはっきりと述べた。その後の会談で、彼はスティルウェルに自分の見解を明らかにしようとした。これらの会談で明らかになったのは、第5軍と第6軍が彼の持つ最高の部隊であり、彼らは日本軍を攻撃すべきではなく、もし彼らが日本軍に攻撃されて撃退したのであれば、攻撃に移ってもよい、と総統は考えているということであった。彼はイギリスに対する極度の不信感をあらわにした。より具体的には、総統は次のように述べたのである。「私の最終的な考えは、中国軍がマンダレーを防衛するべきなのであれば、サジ【ミイトキーナのすぐ東】を東西に貫く線を保持するということである。この場合でも、もしプロームから英軍が撤退すれば、その時は我々はマンダレーを中心としてミイトキーナからラシオに至る斜めの線を保持し、インドと中国の間の連絡線を途切れさせないように鉄道と幹線道路を守ることにする。」 翌日、彼はこう言った。「イギリス軍がプロームを保持する限りにおいて、我々はトングーを保持するのだ。」 

 戦術に関しても、総統はスティルウェルを厳しく制限した。スティルウェルは、部隊を約50マイル離して師団を縦に配置することになった。第5軍の第200師団は、イギリス軍がプロームを保持する限り、トングーに留まることになっていた。第6軍はシャン州を頑として保持する。第5軍の残りの2個師団は、補給が十分に整えられた時点でビルマに入り、マンダレーまで前進することになっていた。防御が繰り返し要求され、警告されていたにもかかわらず、スティルウェルはラングーン奪還のための攻勢を主張した。スティルウェルの心には、3つのことが渦巻いていた。すなわち、インドへのルートをカバーするためにビルマ北部を保持すること以外の総統の禁止令と、おそらく5月15日ごろから始まるであろうモンスーンの雨の接近と、マンダレーから北側のビルマの地形(マンダレーのすぐ東の平原から急峻な断崖が劇的にそびえ立っている)である。スティルウェルのビルマにおける作戦意図は、ラングーン奪還を目指すことであった。なぜなら彼は、日本軍は実際には弱いのではないかと思い、大胆な作戦が大きな利益を生むかもしれないと考えたからである。この計画が失敗した場合には、中国軍は北方へ後退し、マンダレー東方の高地に陣取り、日本軍の北上に対して側面からの脅威を与えればよい。モンスーンの雨は、日本の任務を非常に複雑にすると予想された。
『Stilwell's Mission to China』P97

 スティルウェルの説得により、総統は戦術に関する制限をいくらか緩和した。緊急時には第5軍第22師団が第5軍第200師団をトングーで助けるかもしれないが、第5軍第96師団はマンダレーに留まる。総統の態度は極度に防御的であり、アレクサンダー将軍【英印軍】を支援するのは緊急時にのみだった。さらに3個師団(第66軍)が約束され、うち1個師団はマンダレーに、2個師団は国境に留まることになっていた。総統は、日本軍1個師団に対抗するには中国軍3個師団が必要であり、日本軍の攻勢時には中国軍5個師団が必要であると見ていた。
『Stilwell's Mission to China』P99


 最後の1:3とか1:5の比率ですが、中国軍の1個師団は他国の1個連隊相当なので、実際には1:1とか1:1.5くらいの比率かとも思われます。ウォーゲームの種類によっては1:1なら攻撃側はビシバシやっても大丈夫、というようなものもありますが、OCSや『激マン』シリーズなんかは4:1か5:1の戦闘比は欲しいところなので、そっちの感覚でなら理解できる気はします。



 この『Stilwell's Mission to China』のP103以降には、この後の中国軍の動きも書かれているようでしたが、とりあえず今回はこの辺で。戦史叢書とかでも書かれているかもですが……。


<2023/10/16追記>

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでいたら、日本軍側の諜報による中国軍の初動についての記述がありましたので、追記しておきます。2月中旬頃までに南方軍が入手していた情報だそうです。

2 蔣軍の入緬状況
(1) 滇緬公路【ビルマ公路のこと】方面
 ビルマ進入を企図しある蔣軍は第5、第6軍にして、第200師(第5軍)は12月27日下関(筆者注 龍陵東北方200粁)を通過せるが如く、新編第22師(第5軍)も移動中にして、2月上旬ビルマに進入せしものの如く、第49師(第6軍)は2月15日ラシオに在るが如し。
 第5軍長は2月10日には未だ昆明に在りたること確実なるも、既に移動を開始し、2月15日第6軍長、第49師長とラシオにおいて会見しあり。現在ラシオ附近に集中しありと判断せらるる蔣軍兵力は第5軍の第200師、新編第22師、第6軍の第49師にして合計2万6千乃至3万にして、近く増加し或は既に到着しあらんと判断せらるるもの第96師(第5軍)暫編第55師(第6軍)計1万8千乃至2万、総計4万4千乃至5万なり。
(以上A情報、確度甲)(筆者注 A情報は無線諜報)
 マンダレーよりの帰還住民報によれば、ラシオより鉄道によりマンダレー附近に南下し、其の一部はトングー附近に進出しあるが如し。(確度甲)

(2) ケンタン方面
 A情報によれば、第93師(第6軍)は2月11日既にケンタン附近に到着しあり。
 其の師部(筆者注 師団司令部)はケンタン附近に、第277団はモンパヤック附近、第278団はミヤウンダ附近、第279団はロイムイ附近に在り。
 筆者注 以上いずれもケンタン州の北部タイ国境方面

『ビルマ攻略作戦』P168,9



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の工兵部隊について

 承前。ビルマ戦緒戦での日本軍の工兵部隊について調べてみました。

 資料としては、奈良県立図書情報館でコピーしてきました、

『独立工兵第二十連隊戦史』(こちらは第15軍麾下の独立部隊)
『工兵第三十三聯隊戦記』(こちらは第33師団隷下の師団所属部隊)

 がありましたので、それで。


 独立工兵なんですが、資料を読んでいると後方での橋梁修理(敵が爆破していったやつとかを)が主で、まれに敵が来て防御戦をやったりしたようですが、基本的には後方での行動が主だと思えました。で、例えばOCS『The Third Winter』なんかはドニエプル川渡河がメインテーマでもありますし「橋梁爆破」と「橋梁修理」がかなりルールに盛り込まれているのですが、『South Burma』(仮)においてはできるだけ特別ルールは少なくしたいですし、現状では独立工兵をユニット化する必要はないかと思えました。


 それに対して師団所属の工兵の方ですが、こちらは敵前で渡河して架橋作業とが主で、時には敵が列車で逃げるのを爆破して列車内に突っ込んで戦闘とか、敵戦車が出てくると工兵の中から戦車攻撃班(地雷による対戦車攻撃の訓練を受けてきていた)が突っ込むとか、そういうことをしていたようです。

 そうするといくらか戦闘力は持っていてもいいかとは思われますが、しかし最低限の戦力ではあるべきでしょう。

 実は、OCS『Burma II』では日本軍の工兵大隊は歩兵大隊とまったく同じ戦力やアクションレーティングを持っていたりしたのですが、あれは通常スケールで各大隊が2戦力(移動モードで1戦力)なので、工兵をユニット化するならそのレーティングにしなければしょうがない、という側面があったのでしょう。しかし『South Burma』(仮)は3倍スケールで歩兵大隊は6とか7戦力を持っているので、工兵大隊の戦力は下げてもいいと思います。

 これまでは頭が『Burma II』に引っ張られていた感もあり、『South Burma』(仮)の師団所属工兵大隊は3戦力(移動モードで2戦力)としていたのですが、下げて2戦力(移動モードで1戦力)にしてみようと思います。1の0にするとか、(1)の(0)にするという案もあり得ますけども、戦力が低すぎると今度は工兵ユニットを守るために歩兵大隊がそこにスタックしなければならない、という本末転倒なことも起こったりしますし。


unit8518.jpg



 工兵ユニットのゲーム上での活用方法について考えてみたんですが、OCSでは架橋能力(戦闘モードで川に隣接するだけでOK)で河川ヘクスサイドの移動力コストを減少させることができ、また通常は橋なしでは渡河できない自動車化タイプや装軌タイプのユニットを攻撃可能にすることはできますが、戦闘において有利な修正を得られることはありません。なので、日本軍プレイヤーはどちらかというと、工兵能力を使うよりは戦闘ユニットとして使ってしまうんじゃないでしょうか……。

 ただ、架橋によって大河川(徒歩で移動力All)を小河川(徒歩で移動力+1)にするというのは、司令部の支給範囲が普通なら大河川で止まってしまうのを+1だけにしてしまうので、そこが一番でかいのではないかと思いました(『South Burma』(仮)の日本軍の司令部は『Burma II』と同様、徒歩移動コストで支給範囲を伸ばします)。



 あと今回考えたのは、大河川を渡るには工兵部隊や、舟艇をかき集めてくることが必要で、その量によって1日の間に渡れる兵士数に限界があった(特に最前線では)ようなので、そこらへん制限するべきだったりするかな? ということでした。

 例えば「1つの大河川(どのように繋がっていても)を架橋能力なしで移動できるユニットは、1フェイズに1個までに制限される。この制限には戦闘後前進も含まれる。」とか……。でもまあ、ルールは少ない方がいいですから、どうしても必要そうなら入れるとしても、そうでもないなら勿論入れないということで。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落あたりまでの第15軍麾下の独立部隊について

 現状ではOCS『South Burma』(仮)の日本軍側は、第55師団と第33師団隷下の部隊しかユニット化していないのですが、第15軍【ビルマ作戦の軍】麾下の独立部隊もいくらかあったようです。

 ゲーム中の最初の10ターンくらいはそれらは出てこない(ような)のですが、シッタン川を渡る頃(第13ターン頃)には、前線の部隊としていくらか記述が出てき始めます。そこで、それら独立部隊の投入予定に関する記述を戦史叢書『ビルマ攻略作戦』からまとめてみようと思います(ただし今回はラングーン陥落あたりまで。ラングーン陥落後はまた、結構独立部隊が投入されるようです)。


 ただし、OCSでは高射砲部隊なんかはユニット化されないのが通例ですし、他のウォーゲームでも通常ユニット化はされない輜重部隊は通信部隊なんかの情報もあるので、ユニット化されそうなものだけを抜き書きしていきます。
(「独立自動車第○○大隊/中隊」とかってのは、私は戦闘部隊かと思っていたのですが、今回調べてると兵站部隊の一覧の中にあったり、旧日本軍(陸軍)自動車第32連隊について、その役割や行動などが分かる資料を探している。から、輜重部隊なんだろうなと思いました。なので、今回のリストから抜きました)


 南方軍は、マレー作戦の予期以上の進展と同軍後続部隊の輸送状況などにかんがみ、第25軍【マレー作戦の軍】じ後の作戦に必ずしも必要としない部隊その他転用可能の兵力は、逐次第15軍方面にその輸送先を切りかえ、同軍の指揮下に入れた。
『ビルマ攻略作戦』P98


 以下、抜き書きします。

1月15日の南方軍命令による転用
 独立工兵第4連隊(甲) (第25軍から)

1月18日の南方軍命令による転用
 独立速射砲第11中隊 (第25軍から)(カムラン【ベトナム南中部?】)
 戦車第2連隊軽戦車中隊 (同右)(カムラン)
 独立工兵第20連隊(甲) (同右)(カムラン)
 独立工兵第26連隊の1中隊(2小欠) (川口支隊から)(ボルネオ)

2月14日の南方軍命令による転用
 独立混成第21旅団砲兵隊 (第21師団から)(インドシナ)

3月3日の南方軍命令による転用
 独立工兵第14連隊(丁)(1中欠) (本部、1中隊は第16軍から。1中隊は第25軍から)
 独立工兵第26連隊(丁)(1中欠) (1中隊は第16軍から。本部、1中隊は第25軍から)



 「独立工兵」部隊というのが情報的に多めです。幸いにして、↑のうちの独立工兵第20連隊の戦記『独立工兵第二十連隊戦史』の第1編と第2編を奈良県立図書情報館でコピーできており、他の独立工兵部隊の話も含めていくらか情報がありそうなので、別にブログ記事を設けて検討することにしようと思います(他に今回出てくる独立工兵部隊が蔵書にないか検索してみたのですが、ないようでした)。

 独立工兵部隊以外は、↑では3つだけですね。



 さらに、シッタン川橋梁が爆破され、シッタン川西岸からラングーンへと向かおうとする時点での第15軍命令から(P165。カタカナをひらがなに直します)。

 第55師団(川島支隊欠、戦車第2連隊軽戦車中隊、独立速射砲第11中隊、渡河材料第10中隊の一部属)は主力を以て3月3日夜「シッタン」河の渡河を開始し所在の敵を撃破しつつ其の作戦地域を先つ「ペグー」南方地区に向ひ前進すへし


 ここに、先ほどの記述独立工兵以外の3つのうち、2つが出てきています。


 この2つの部隊のユニットをとりあえず作ってみました(速射砲というのは対戦車砲のことだそうです)。


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 「戦車第2連隊軽戦車中隊」ですが、『戦車第十四聯隊戦記』P164によれば「戦車第2連隊第1中隊(九五式軽戦車装備)」です。

 タイから陸路進攻した戦車第2聯隊第1中隊 (九五式軽戦車装備)がワウ(ペグー東北方)でM3【スチュワート】軽戦車と遭遇し、その火力装甲防護力の格差から、苦闘の結果、中隊長の指揮する1コ小隊が全滅し、続いて進出してきた独立速射砲中隊も全く歯が立たず、その全火砲を蹂躙された。M3軽戦車は、ビルマ戦線の日本軍にとって最新最大の脅威になっていた。
 聯隊は、ろ獲したM3軽戦車1両を入手し、これを撃破するための研究訓練に早速取り組んだ。M3軽戦車は、アメリカ製で、その火砲は、わが九五式軽戦車と同口径の37ミリであるが、貫徹威力は著しく優れ、その装甲厚は表面硬化された10~50ミリもあり、わが徹甲弾をピンポンの球のように跳ね返し、その機動力は空冷星型エンジン (航空機用)とゴムパットを着けたキャタピラにより最高時速57キロを出しうるものである。彼我の技術、性能の差が歴然としていた。このM3軽戦車に対して、どこに勝目を見出すのかが緊急な問題となった。一応の結論は、M3軽戦車の戦力発揮が困難な地域(錯雑地)に誘致し、不意にその側背、至近距離に進出し、軌道部、砲塔回転部等を砲撃し、機動力と戦車砲火力を封ずることであった。
『戦車第十四聯隊戦記』P164




 この時日本軍がやられたイギリス第7機甲旅団の戦車部隊ユニットは、現状↓のようにユニット化しています。

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 ユニット上の総戦力では、英印軍は戦車2個大隊(12戦力)、日本軍は戦車と対戦車砲の2個中隊(4戦力)なので、そこらへんの問題でやられてしまったのだという解釈も成り立つかもとは思いますが、どうなんでしょう(^_^; また、日本軍は戦車中隊全部がやられたわけではなく、1個小隊が全滅です(対戦車中隊は全滅(T_T))。

 日本軍の戦車中隊のアクションレーティングですが、もしかしたら2もありかもですが、3はあって欲しい/あったんじゃないかという願望込みで3に(3は普通、2は劣るというレーティングです)。イギリス軍の第7機甲旅団は北アフリカ戦での歴戦の部隊であり、アクションレーティングは5はないとしても4は確実にあると思われるので、その4と3の差と戦力差でやられたという感じで……。

 またOCSの兵科マーク的に、イギリス軍戦車ユニットは日本軍戦車ユニットに対して平地で2倍の攻撃力を持ちますが、日本軍が攻撃側に回った時には1.5倍にしかなりません(防御時は両軍とも×1倍)。一方で、日本軍の軽戦車中隊が例えばインド人部隊に攻撃をかけた場合には攻撃力2倍になります。





 日本軍の独立速射砲第11中隊ですが、37ミリ砲装備だったそうです(『ビルマ攻略作戦』P167)。

 『第2次大戦事典②兵器・人名』P59によると、「94式37ミリ速射砲【……】の徹甲能力は極めて低いものであったが、ほかに高性能の対戦車砲がなかったため、ないよりましといった存在であった。」とあったので、そこらへんの性能的な劣勢から、アクションレーティングを2としてみました(1でも良いくらい?)。

 日本語版Wikipedia「九四式三十七粍砲」によれば、「運動性は繋駕(馬にひかせる)、駄載(馬にのせる)もしくは人力牽引とし」とあるので、徒歩移動タイプにしてみました(移動力が2の4であるのは適当です(^_^;)。




 あと、「独立混成第21旅団砲兵隊 (第21師団から)」というのもありますが、編制・編成が全然分かりませんし、今後また何か記述が見つかったら考えるということで……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:第55師団隷下であった、宇野支隊と沖支隊の登場ヘクス

 OCS『South Burma』(仮)ですが、最初に出てくる日本軍の第55師団は、かなり細切れに登場します。



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 ↑のうち、初期配置で置かれるのは、第112連隊の第1、第2大隊と、第55捜索連隊(実質は大隊規模)のみです。



 ↓現状の初期配置。エントリーヘクスAのあたりに日本軍がいます。

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 残りの歩兵大隊4つは、ゲーム開始時期の少し前から、マップ南端よりも南のテナセリウムと呼ばれる地域で戦闘行動をしていました。


 第143連隊(第1、第2、第3大隊)は連隊長の名前から宇野支隊と呼ばれ、ゲーム開始時期より割と前に戦闘行動を終えていました。そして第3大隊をビクトリアポイント(テナセリウム南部)に残置していったんタイに戻っており、ゲームを開始してすぐ後に第1、第2大隊はエントリーヘクスAから出てきます。第3大隊はかなり後になってからテナセリウム地域を北上し、エントリーエリアBから出てきます。

宇野支隊
 1-143-55 1月22日ターン(第2ターン)にエントリーヘクスAから
 2-143-55 1月26日ターン(第3ターン)にエントリーヘクスAから
 3-143-55 2月26日ターン(第12ターン)にエントリーヘクスBから

(↑は現状の設定であり、変更の可能性はありまくります)



 残りの第112連隊第3大隊は沖支隊と呼ばれ、2月1日にモールメンに到達したと諸資料にあります。

 で、この3-112-55が、エントリーヘクスAとB、どちらから出てくるべきなのかなのですが、戦史叢書『ビルマ攻略作戦』では本文や付図からするとBから出てくるように思えます。しかし、ちょっと前に聯隊戦記などの資料を複数入手して読んでいた時期に、沖支隊はいったんタイ国内に戻ってエントリーヘクスAから出てくるべきと思える様な記述を2箇所で見て「これは確定だな。Aからということにして、その出典やページ数は書かないでいいや」と思ったのでした。

 しかし、出典とページ数を書かないでおいたことをその後、後悔してまして、今回そこらへん確定させようと思って記述を探してみました。そしたら、Bであるべきだという記述を見つけてしまいましたバキッ!!☆/(x_x)

 沖支隊は1月26日タボイ【テナセリウム中部の海岸沿いの町】発、海岸道を北進、2月1日モールメンに進出して師団長の隷下に復帰した。
『歩兵㐧百四十三聯隊史』P78



 まあ、ある意味良かったんですが、しかし出典とページ数を書いておくというのは、後で確認するためにもやっぱりやっとかないとダメだと改めて痛感しました。ただ、ある程度の内容だとブログに書いておくかとなるんですが、細かいことだと「ブログに書くほどでもないか……じゃあメモって置かないでいいか」となりがちです。

 しかし、細かいことでもやはりブログに書いておいた方が良い感じなので、今後そういうことで……(^_^;
(メモっておけば良いじゃないかというご意見もあると思いますけども、メモはメモで訳分からなくなりがちで、ブログというのはそこらへん便利なんですよね。たまたまですが、このFC2ブログはブログ内検索ができることもあり)


 以前Aだと思ったのはなぜなのか、宇野支隊とこんがらがったのかのかもとは思いますが、あるいは、Aであるべきだという記述がやはりどこかにあったのかもです。それらももし見つけたら、追記しようと思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:迂回して一挙にラングーンを突くという作戦について

 前回に引き続いて、ラングーンへ突進するという作戦について。

 『歩兵第二百十四聯隊戦記』を読んでましたら、この作戦行動について結構印象的な記述があったので、引用し検討してみたいと思います。


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 【第33】師団は3月25日【ママ。2月25日の間違いと思われます】各部隊長をメヨンガル(シッタン東南方4キロ)の司令部に集め、ラングーン攻略に関する作戦方針を示した。
 すなわち、まず政戦略上の要地である首都ラングーンを奪取した後、北進して決戦を指導しようとするものであった。
 というのも、泰緬国境を越えるとき、すでに多数の装備を残置し、さらにその後、数次の戦闘と急速な突進で、相当の損耗を来たしているにもかかわらず補給はなく、しかも、ラングーン攻略後は、北部ビルマ作戦を遂行しなければならないので、この際、万一の場合にも軍の兵站線を海路に求めうる戦略上の要求、ならびに、すみやかに英総督府の所在地を占領するという国際政治上の効果を考慮しての重要な決定であった。
 すなわち英印軍は最近、あらたにラングーンに上陸した精鋭戦車部隊第7機甲旅団を加え、これをペグー付近に進めて、日本軍の進撃を阻止しようとする態勢であり、また北方マンダレー方向からは中国第6軍がトングー付近に集結し南下の情勢にあった。この敵両軍の間の、15キロの間を抜けて、一挙にラングーンに殺到することは、いわば戦略的挺進奇襲であり、きわめて放胆な戦略であった。
 ペグーの敵には第55師団が当たることとなり、【第33】師団は一路ラングーンに挺進、一挙に敵の指揮中枢戦略基地を占領することとなった。いま考えてもぞっとするほどの作戦計画であった。
 というのは、もし敵がラングーンまたはその周辺で2~3日の抵抗でもしたならば、【第33】師団の後方はペグー、トングーの敵に断たれ、しかも新鋭第7機甲旅団に引っ掻き回される羽目になるのは明らかであったからだ。いわんやラングーンの配備状況はまったく不明であるばかりでなく、第7機甲旅団の増援に続いて、英国はさらに有力部隊を上陸させて、あくまでもラングーンを確保しようとするかもしれなかったのだから、状況不明と錯誤の交錯するなかで、この放胆な作戦を決定する原動力となった第33師団長桜井中将の卓抜さは高く評価されるべきであろう。
 さらには、「敵にかまうな、この際ほしいのはラングーンという港だ。敵の指揮中枢だ。戦略要地だ」と徹底した作戦目的を確立したことが、敵の過早退却と相まって師団の作戦を成功に導いたのである。チャーチルはラングーン喪失後のことをその回顧録で次のように述べている。「ラングーンの失陥はビルマの喪失を意味した。したがってアレキサンダー大将に援軍を送る望みはまったくなかった。上陸させる港がなかったからである」と。
『歩兵第二百十四聯隊戦記』P318


 なかなかに燃える文章ではあるんですが、(無意識の?)誇張はあると思います。

 「15キロの間を抜けて」という文ですが、上の画像の1ヘクスは約8kmで、つまり2ヘクスくらいに相当しますが、中国軍と英印軍の間が15キロということはないかな、と。

 英印軍の部隊は画像の「3/4」とある辺りにもいたようですが、中国軍がいたというトングーは画像の北端から13ヘクス程度北にあり、いくらか南下していたとしてもそれほど英印軍と接近はしていなかったのではないかと(今のところ)思います。

 「15キロ」というのは、第214連隊と第215連隊の間の距離がそれぐらいで並進した、ということなら理解できる気がします。


 この時点での中国国民党軍の脅威について、まだ全然調べられていないのですが、今のところの印象ではそれほどでもなかったのではないかという感じで思っています。ただ、当時日本軍側は脅威に思っていたというのは確かなのでしょうし、またゲーム上でも「中国軍の脅威」はある程度あった方が良いでしょうね。


 当時の英印軍側は、「日本軍の次の狙いは、ペグーを押さえることだろう」と考え、またペグー周辺の地形は戦車戦に向いているため、第7機甲旅団をそこに差し向けて日本軍に大ダメージを与えることを狙いました。実際それは最もありそうなことだったと思いますが、史実の日本軍はある意味「その裏をかいた」わけで、そしてゲームをプレイする現代の我々は、それを知っているわけです(ウォーゲームにおいては良くあることですが!)。


<2023/10/24追記>

 陸戦史集『ビルマ進攻作戦』を読んでましたら、この時期の英印軍側(ウェーヴェル将軍)の考え方について書かれてましたので、引用してみます。

 ウェーベル大将は、シッタン河以北にはまだ大なる日本軍がいないこと、第7機甲旅団がまだ無傷であり、また、中国軍がトングーに向けて南下中である状況を確認した。同大将はビルマに来る途中、もしラングーンの撤退が必要となれば、イラワジ河下流を越え、東方の中国軍と連接して一連の戦線を構成することが必要であり、そのため、なるべく多くの部隊が必要であると考えていた。そこで、早速さきにハートレー大将が【カルカッタに反転せよと】回航処置を認可した第63旅団と砲兵1個連隊を、再度ラングーンに向けるよう手配し直した。
 それとともに、これらの増援部隊が到着するまではラングーンを確保しようと決心し、そのためには単に防勢をとるだけでなく、時をかせぐため日本軍に一撃を加えるべく、ペグー方面で攻勢をとれとハットン中将に命じた。
『ビルマ進攻作戦』P80,1


 また、同書にはトングー方面から英印軍が日本軍を圧迫しており、日本軍の側面防御部隊がそれを撃退していたことが書かれていました。もし日本軍側が撃退できなかったら、苦境に陥るわけですね。

川島支隊の右翼掩護 軍直轄で作戦を命ぜられた川島支隊は、軍主力の渡河に先立ち、3月2日夜クンゼイク北方でシッタン河を渡って前進し、3月4日にダイクを占領した。その後、北方からしばし英印軍の攻撃を受けたが、支隊はそのつどこれを撃退し、軍主力のラングーン作戦間、ダイク付近の陣地を確保してその右側背を安全にした。
『ビルマ進攻作戦』P82



<追記ここまで>



 英印軍プレイヤーは当然、ペグー北東のジャングル地帯の、少なくとも道路の結節点や小河川の南側には警戒部隊を置くことでしょうね。ただまあ、日本軍側はペグーの南側を迂回していくという方法もあるかもしれませんし、逆に全力でペグーを包囲・攻撃するというような作戦もありかもです。

 英印軍プレイヤーがラングーン周辺で半周防御のようなことをした場合は……どうなるんでしょう。確かに結構やっかいかもしれません。



 あと、ペグー北東のジャングル(「ペグー山系」と呼ぶようです)についてですが、今回見つけた記述には↓のようにありました。

 【第215】聯隊は休息をとることなく急進撃を続行した。夜明けまでにペグー山系内に潜入しなければならない。幸いにも、【3月4日の】この朝は低い霧があり、延々と続くこの大部隊は、敵機に発見されることなく平原を踏破し、山系内の樹林下に入ることができた。
 その後、聯隊は作間聯隊【第214連隊】と並列した形で、ペグー山系内の密林を南下していった。高い山はないが、起伏の多い広大なジャングル地帯であり、昼間は敵機の眼をのがれて樹間に仮眠し、夜間は南へ南へと行進する。歩く歩く、ただ南をめざして、汗と砂塵にまみれてひたすら歩きつづけた。シッタン出発以来、夜行軍の連続であり。【ママ】睡眠不足と疲労とは大なるものがあった。しかし、ただ「ラングーン占領」、これが、苦痛に耐える合言葉であった。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P159

 【第214】聯隊の行軍速度、とくに縦隊の先頭をきた第3大隊尖兵中隊長の進路選定のよさが賞賛されるべきであろう。
『歩兵第二百十四聯隊戦記』P319


 これらを見ていると、やはりずっとジャングル地帯であったようで、また進路は、少なくとも大きな地図には表示されていないようなものをある程度以上進んでいったような印象を受けました。(ただし、シッタン川西岸地域についてはずっと平地でも良さそうで、そのように修正しようと思います)


 第33師団の部隊のこの進撃の速さについては、どうも何らかの特別ルールは必要なのかも、という気が現状してます。しかしどのようなルールにしたものか……。「2ターンの間、予備モードによる移動力増加を、1/4ではなく、全移動力にできる」とか……? あんまりうまそうな気はしませんけど。


 また、別件になりますが、「シッタン川橋梁の爆破」に関するルールは必要だろうと思っていたのですが、前回、今回と調べてみていて、「爆破のルールはなしにした方が、最終的なタイムスケジュールがうまくいくのではなかろうか」という気がしてます。もしそれでうまくいきそうなら、特別ルールは少ない方が良いですし……(^_^;

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン攻略までの3月3日~8日の経路

 資料を読んでましたら、第214連隊のラングーン攻略までの3月3日~8日の経路について割と詳しい地図があるのに気付いたので、他の資料とも合わせて地図を作ってみました。



 ↓赤色が第214連隊、オレンジ色が第215連隊の進路。矢印や文字は、元の資料ほぼそのままの位置に置いてあります(厳密にどういう意味合いか分からないのですが)。

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 第214連隊の経路は、『歩兵第二百十四聯隊戦記』P261から。第215連隊の経路は、『歩兵第二一五聯隊戦記』P153からですが、こちらは割と小さい地図なので、『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』や『Japanese Conquest of Burma 1942』の地図により近づけてあります。

(また、資料には良く出てくる「Pyinkadogon」という地名なのですが、詳しい地図資料には全然出てこず、当時の道路沿いになかったのか、位置が良く分かりません。とりあえず、https://www.tageo.com/index-e-bm-v-09-d-m638858.htmという検索結果の画像を重ねて、その位置に置いてみました)



 出発地にあたるシッタン川東岸に日本軍が突入し、英印軍によってシッタン橋梁が爆破されたのが2月23日の朝でした。

 日本軍はその後、東岸での掃討戦や戦利品の確保、そしてシッタン川の渡河のための作業をやったようですが、シッタン川西岸からの作戦を開始したのが3月3日だったようです。つまりその間、戦線としてはほぼ動きがなかったことになります。

 OCSのターン的には、

2月22日ターン(22~25日) シッタン橋梁爆破
2月26日ターン(26~28日)
3月1日ターン(1~4日) シッタン河西岸から進撃開始

 となるので、丸1ターンくらい掃討戦をやったらちょうどのタイムスケジュールでしょうか。


 で、

3月1日ターン(1~4日) シッタン河西岸から進撃開始
3月5日ターン(5~7日)
3月8日ターン(8~11日) ラングーン突入、占領

 と史実ではなるのですが、かなり早い移動であり、しかも地図に出てくるような道路を通ってない部分が結構あると思うのです。


 現状、両連隊の移動力は↓のようなものなのですが……(歩兵としては破格ですが、AR5の歩兵部隊としてこのような移動力設定はOCSの東部戦線ものにも出てくるので、OCSの枠を出ているとは言えません)。

unit8525.jpg


 仮に、ジャングルは日本軍だけは2(英印軍は3)移動力コストという今の設定で、第214連隊の先ほどの地図の移動コストを数えてみた場合……(シッタン川西岸から移動開始として)。

3月3日 2
3月4日 6
 (3月1日ターンは8移動力)

3月5日 7
3月6日 6
3月7日 4
 (3月5日ターンは17移動力)

3月8日 4
 (ここまでの総計は29移動力)

 となります。いやいや、1ターンで17移動力とか、どうすれば!


 第215連隊は日ごとやターンごとは分かりませんが、総計では25移動力となりますから、途中少し小道を通るとはいえ、第214連隊とそれほどは変わりません。


 OCSにおける移動力を増大させる方法として、予備モードになって許容移動力の1/4をプラスする方法はありますが、焼け石に水です。戦略移動モードになれば倍の12移動力になれますが、戦力0、AR0になります。うーんでも、司令部をシッタン川西岸におけば、最初の1ターンくらいはありかも……(2ターン目はどうかな……)。


 まあ、史実と同じ経路を通らなければならないこともないですし、現状ジャングルにしてあるヘクスを適当に平地にしたり、小道を増やす(例えば、後世の地図では道路がある場所など)などの方法もあり得ます。


 あるいは、史実でシッタン川東岸で丸1ターンほど止まっていたターンからシッタン川西岸にゲーム上では渡れて、史実でラングーンに入った3月8日ターンはよほど運が良くないと無理でも、3月12日ターンにはまあうまくいけば入れる……くらいでもいいのかもしれません。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでいたら、1942年1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について書かれていたので、地図を作りました。併せて引用して残しておきます。


 ↓青色が国民党軍で、実線が1月下旬の動き。点線は2月初旬に合意した動き。赤色は英印軍。

unit8526.jpg





 ハットン中将は、右のように、インドからの増援を要求したが、それと同時に中国に対しても増援を要望していた。
 当初ハットン中将の受けていた訓令は、中国第6軍の第93師以外の部隊は極東軍総司令部の許可なくビルマに使用してはならぬということであった。
 そして、1月初め、同師の1コ連隊がメコン河の線に進出し、また同師の主力がビルマのシャン州に進出して同方面の防衛に当たるよう処置されたが、1月20日、ハットン中将はウェーベル大将に対し、タイ国の北西国境の防衛にあてるため、さらに次の1コ師を使用する許可を求め、その認可をとりつけた。
 これにより、ハットン中将は、中国の第49師をラシオを経て南シヤン州に進出させ、タカオ付近サルウィン河東方地区を防衛するように処置するとともに、中国第55師をワンチン(雲南とビルマの境にある町)まで前進させて、訓練および装備を完了させることにした。
 ハットン中将は以上の処置を行なうとともに、中国第49師の主力がタカオ付近に進出するに伴い、それまでケンタン、モンパン地区にあった第1ビルマ旅団の主力をへホおよびロイレム地区に移動させ、また第13旅団をパプン付近で第17師団と連接させるため、トングー東方ボーレイク地区に移動するよう命令した。
 第48旅団は1月31日ラングーンに到着、軍予備としての再訓練を行ないながら重隊の到着を待った。
 中国軍は輜重部隊も衛生部隊も持たなかった。かれらは後方からの補給にたよらず、つねに現地補給を本則とした。
『ビルマ攻略作戦』P155,6


 ↑最後の一文は、OCS的には困った感じですね……。日本軍でさえ、一応後方からの補給はいくばくか受けて戦っていたのに、中国軍は後方輜重なし!? 「中国軍は負傷者は現地に全部置き去りにする」というのは今までにも読んでいたんですが……。


 以上の間、ハットン中将は2月3日ラシオで蒋介石総統と会見したが、この時同総統は、中国軍をハットン中将の指揮下に入れることを明言し、第6軍をもってすみやかに北部泰緬国境の防衛を引き継がせ、かつ、第22、第96および第200師から成る第5軍をビルマ公路防衛のためトングー地区に進出させることに同意した。
 右により、第6軍の第49および第93の両師を依然シャン州にとどめ、第55師をトングー東方カレン山中の国境防衛のためワンチンから南下させる協定ができた。
『ビルマ攻略作戦』P157


 中国第5軍がどこから来るのか(第6軍と同じ場所からか、あるいはビルマ公路からとか)とかは、私はまだ良く分かってません。一応『South Burma』(仮)上でもキャンペーンシナリオ上ではそこらへんは必要な情報になってきますから、今後分かったらまた追記していこうと思います。


 あと、英印軍(「英連邦軍」という呼び方よりも「英印軍」の方が良いかのようなので、今後この呼び方で)の第1ビルマ旅団は、ある資料地図では『South Burma』(仮)の初期配置時にはトングー南方にいたかのように描かれていたので、とりあえず初期配置に置いて「移動不可」にしてあったのですが、少なくともその主力はもっと北方にいたようですね。そこらへんまた、今後調整で。


<2023/10/13追記>

 ミト王子さんにコメントいただきました! 参考になります。大変ありがとうございます<(_ _)>

 ルールとしては、中国軍が米どころにいるならば……とか、わずかながらもいくらかは補給があったならば、日本軍と同様に1Tで10ユニットに一般補給できるという風にするとかいう案もありかもなのです。

 こちらに引用追記しておきますね。

 中国遠征軍は第5軍、第6軍、第66軍、直轄部隊がありますが、手元の「抗日戦争図誌」からの複写と思われる(昔過ぎて記憶が曖昧)紙片によると、中国軍増援方向という矢印が昆明から2本出ているので出所は昆明で良いと思います。
 簡単な図で矢印がどの部隊を指しているのかは記載がありませんが、1本は保山を経てビルマ深くまで侵入し、もう1本はやや南寄りルートで保山までしか延びていません。
https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BF%9C%E5%BE%81%E5%86%9B
 でも昆明からビルマ公路を経てビルマに出てきているので地図のマップの範囲にもよりますが左翼防御の第6軍も大元は昆明だったのでしょう。。


 大雑把な資料ですが「民国軍事史略稿」によると中国軍の1939年型編制だと軍に1個の輜重営がありますが師にはないようです。これは支那事変緒戦の損害による再編が原因と考えられます。
 1940年型編制だと軍に1個輜重営がある他、師にも1個輜重営が設けられています。
 衛生部隊である野戦医院は師に各1個、衛生隊は師に1個、団(連隊)にも各1個があったようです。(中国軍輜重営は、稀に第3連として自動車中隊がある)
 
 「陳誠先生従軍史料選輯 整軍紀要」によれば、輜重営(大隊)は基本的に2個連(中隊)からなり、各連は将校6、下士官兵210、駄輓馬127、輜重車66。

 日本軍師団の輜重兵連隊は任務によってかなり異なり2~6個中隊からなりますが、輓馬中隊1個が馬匹296、輜重車240(連隊本部の数を幾分含むか?)を持ちますから、馬匹で2倍、輜重車で4倍弱もの差があったことになります。
 中国軍には輜重車を約2倍上回る数の馬匹がいますから、2匹で輜重車を曳いたか駄馬で輸送力を補っていた可能性もあります。
 日本軍の基準では輓馬1匹で225kg、2匹450kg、駄馬1匹94kg、自動貨車1台1.5tの輸送力。
 中隊種別では輓馬中隊45t、駄馬中隊23t、自動車中隊45t。

 中国軍輜重連を上記基準で試算すると輜重車66×225kg+駄馬61×94kg≒20.6t。
 1個師が2個輜重連を持つと41t程度の輸送力になり日本軍の1個中隊程度です。
 日本軍師団の輜重兵連隊が多種多様の編制を持つとはいえ、多くは輓馬乃至自動車2~3個中隊ですから中国軍の輸送力はその1/2~1/3だったことになりますね。
 もっとも師団の規模が定数で2倍前後違うことも考慮の必要があります。

 日中共に現地調達を重視する軍隊ですが、ビルマ侵攻作戦での中国軍は昆明から1,400km以上のビルマ公路という長大な補給線になっていたことを考えると、やむを得ない点があるように思われます。
 陸戦史集「ビルマ進行作戦」でも、連合軍は米どころを放棄すると米を主食とする中国軍の補給を悪化させるという懸念をもっていたとの記載がありました。



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:最初の数ターンはうまくいく……今後の取り組み案

 OCS『South Burma』(仮)ですが、テストプレイで最初の数ターン(5~7ターン)はうまくいきそうだという感触が得られてきました。その後も、第11ターン(シッタン川の橋梁が爆破されたターン)あたりまでは何とかなるのではないかと思ってます。

 史実でラングーンが陥落したのは第16ターンなのですが、第12~第16ターンあたりがゲーム調整における次の難関かと思ってます。というのは、史実ではこの時期、両軍がペグー周辺で殴り合っている中、日本軍の第33師団がペグー~ラングーンの北西のジャングルの中を突っ切ってラングーンに突入したのですが、それがうまく再現できるのかどうか。ゲームなので史実通りになる必要はないのですが、史実通りの行動がまったく不可能だったらそれはそれで問題でしょうし、またゲームとしてそもそも面白いものに組み立てられるのかという……。

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 それから、1942年のビルマ戦の第2段階が、北側のフルマップ2枚上で20ターンかけて(たったの!)行われたわけですが、それが今の設定でうまくいくのかどうか。

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 第2段階では、今の移動力設定や、移動タイプ設定ではうまくいかない可能性が結構あるのではないかという危惧があり、しかしもちろん、1942年戦の分は一つの設定でもってうまくいかせなくてはならないですから、結局今の設定を改変した上で、最初の数ターンに関しても調整のやり直しという事態が考えられる……。

 それを考えると、あんまり最初の数ターンでガチガチにうまくいかせてもしょうがないわけですよね。あくまで暫定的なものにしておいて、全体を構築してから最終的な調整をすべきなのでしょう。


 なので、とりあえず最初期の調整については大体良いとして、今後は第2段階の終わりまでのユニットや配置の作業をしていくのが必要だと思われます。第2段階については非常におおまかなことしか私はまだ分かってません……。



 あと、マップ割についてなんですが、facebookで『South Burma』(仮)について書いた時、ある方から「東の方の山岳地帯は戦場になっておらず、主戦線は西側にあったのだから、北の方のマップはもっと西にずらして、L字型にするのが良いのではないか?」という意見をもらってました。

 基本的には実際その通りで、ただ、マップの一番北東あたりにあるラシオ(Lashio)と、そこに繋がる南からの道は入れておかないと思いますが、しかし6ヘクス程度は西にずらせるかと思います。一方で、ゲームの開始地点が一番南東にあるわけですが、良く考えるとそこの部分だけを追加のミニマップで提供する……というのでも良いのかなと(『Case Blue』で、スターリングラードの東側の追加ミニマップがあったりしました)。1945年戦も考えると、実は一番いらないのが、この南東の部分なのです(^_^;


 1945年のビルマ戦を重視すれば、マップはもっと北西方向に寄っているべきだと思われ、そこらへんまた今後考えていこうと思います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:第46インド歩兵旅団の初期配置について

 第46インド歩兵旅団の初期配置について、かなり迷走しているのですが、考えをまとめるため&備忘録のため、ブログに書いておこうと思います。




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 ↓最初、および現状の初期配置場所(左上の2ユニット)

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 ところが、一時期はこの2ユニットを、Thaton(サトン)とBilin(ビリン)に初期配置することにしていたのでした。しかし、どうもそれは史実からするとだいぶやり過ぎ(無理)だったことに気付き、最初に設定していた状態にとりあえず戻しました。


 史実でこの部隊がどうであったかについて、引用しておきます。

【……】後者【第46旅団】はインドからビリン地区に移ってきたばかりで、輜重未着のため【1】月末まではビリンから動くことができない状態である。
『ビルマ攻略作戦』P154

 第46旅団は1月20日頃汽車にてビリンに輸送せられ、爾後サルウィン河(マルタバン及パアン対岸)の警備をなす。
『ビルマ攻略作戦』P168

第46インド歩兵旅団は、第16インド歩兵旅団の後方または北側に配置された。師団で最も古い旅団の一つで、1月末にビルマに到着した最初の増援部隊であった。第10バルーチ連隊第7大隊、第17ドグラ連隊第5大隊、第7グルカ連隊第3大隊の3個大隊からなる。第1大隊と第3大隊はインドから運ばれてきて輸送手段なしで下船し、輸送手段は1月30日まで到着しなかった。

1月16日、彼らはラングーンから鉄道で移動し、第17インド師団に合流した。その後、ビリン周辺への移動を命ぜられ、そこでKing's Own Yorkshire Light Infantry第2大隊と合流した。第17ドグラ連隊第5大隊は1月31日に到着し、翌日フニンパレ(Hninpale)地区【ビリンのすぐ南】で第46インド歩兵旅団司令部に合流した。そのM.T.【輸送手段? 輜重?】も後方に残された。旅団は経験の浅い部隊で構成され、それまで何度も何度もベテランを引き抜かれていた。個々の兵士の訓練は水準に達していなかった。新しい将校の流入と迅速な昇進は、経験豊富な将校にさらなる負担を強いていた。そのうえ訓練内容は、完了したら配属されるはずのイラク向けのものだった。ビルマに到着する前に、あと6ヶ月訓練を受ければ、はるかに優れた戦闘部隊になっていただろう。

この旅団の担当地域は、Kyauknyat、Kamamaung、Bilinで、Thaton方向へは小さな三角形の突起のようになっていた。司令部はビリンから3マイル南のフニンパレにあった。旅団の任務は、Papunを強力に保持することと、DagwinとKyauknyatのSalween川にかかるフェリーを保持することであった。第7ビルマ小銃大隊は、この目的のために一時的に旅団の下に配置された5。また、ビリン-サトンの道路をパトロールし、その地域の海からの接近を監視することになっていた。
『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』P120


 ↑この最後の、Papun保持のための任務というのは、ゲーム上では場所が離れすぎていて、この旅団のまとまりでやらせるのは無理という気がします(そもそも英連邦軍は師団や旅団隷下部隊の縛りが非常にゆるいですし)。


 現状の初期配置案では、戦闘モードでしか移動できないという制限を第3ターンまで付けてはいるものの、移動不可ではない、としています。第17ドグラ連隊第5大隊はラングーン港からプレイヤーが陸揚げし、その後恐らくプレイヤーが鉄道輸送で前線へ運ぶでしょう。

 しかし史実により忠実にするとすれば、ビリン地区周辺に数ヘクス以内自由配置で、その1月末まで(第4ターンまで)は移動不可、とした方がいいのかもしれません。その場合、第17ドグラ連隊第5大隊が1月29日ターン(第4ターン)にいきなりビリン地区に現れるべきなのでしょう。

 でも後者はどうにも、ゲーム的面白さに欠けるでしょうね……。前者は、やや史実からは逸脱するものの、ゲーム的面白さがあります。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:テストプレイでのモールメン、パアン周辺について

 OCS『South Burma』(仮)のVASSALでのテストプレイに、尼崎会のタエさんや富山のKさんに付き合っていただいてまして、大変ありがたいです。自分一人では気づけないでいた、色々重大な改善点が見つかってます(^_^;

 この土日はお二方とも多忙ということだったので、今までの知見を元にソロプレイをノロノロと進めてました。

 で、最初の重要な地理的目標であるモールメン、パアンあたりのことについて自分なりに考えてることを書いてみようと思います。


 ↓第4ターン(1月29日ターン)の日本軍移動フェイズ終了時。

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 最初の重要な考察点は、史実でモールメンが陥落した第4ターンに英連邦軍側がどうするのが良さそうか、だと思ってます。

 というのは、勝利条件として、史実より遅い第5ターン以降にモールメンが陥落した場合、英連邦軍側に勝利得点が入るようにしようと思っているからです(史実より早く陥落した場合、日本軍に勝利得点が入る)。

参考:OCS『South Burma』(仮)製作のために:前方(サルウィン川沿い)で防御すべきか、後方(シッタン川沿い)で防御すべきか (2023/03/21)



 ちなみに、日本軍が第3ターンにモールメンを陥落させるのは、英連邦軍側がモールメンをほぼ空にしたのでなければあり得ず、一方で第5ターンには日本軍の攻撃戦力が(戦闘モードになるなどして)かなり大きくなり陥落の可能性が高いはずです。そのように苦労して調整しました(^_^;


 英連邦軍側は、↓のような選択肢があるだろうと思います。

1.モールメンを守らずに明け渡す
2.第4ターンに防御撤退の方向で考える
3.第4ターンは固守し、第5ターン以降柔軟に

 1もなしではないと思います。というのは、2と3では無損害ということは難しいのに対し、1では無損害が可能だからです。ただしもちろん、勝利得点上は不利であり、また次の守備ラインであるマルタバン周辺は半島状に突き出ていて結構守備が難しいという問題があります。また、モールメンは中障害(Very Close)でかなり攻撃側に不利なので、そのような地形をあっさり明け渡すのかという話も……。


 個人的には、2が面白いと思ってます(ただし、私が「史実通りになった方が美しいよね」という思いに引っ張られているのも確かでしょう バキッ!!☆/(x_x))。というのは、第4ターンの日本軍は、モールメンの南東には戦闘モードで接敵できるのですが、北東では移動モードでしか接敵できないので、マルタバンにZOCを及ぼせないのです(上の画像でそうなっています)。


 OCSでは、

・敵ZOCに退却したらDG(混乱)になる。そしてそこに元いたユニットも全部DGになる。
・DGであったスタックが敵ZOCに退却したら1ステップロスする

 というルールがあるのですが、第4ターンにモールメンから戦闘結果によりマルタバンに退却する場合、

・モールメンのスタックがDGでない場合、マルタバンに退却する時にDGにならない
(マルタバンに日本軍ZOCが及んでいた場合、マルタバンに退却する時にDGになり、かつ元々マルタバンにいたユニットもすべてDGになる)
・モールメンのスタックがDGにさせられていても、マルタバンに退却する時にステップロスしない。
(マルタバンに日本軍ZOCが及んでいた場合は1ステップロスし、かつ元々マルタバンにいたユニットもすべてDGになる)

 という風に悪い影響を受けないで済みます。ところが3の選択肢の場合はおそらく、↑の()内のような悪い影響を受けまくるのです。


 しかも3の場合、モールメンのハイスタックを見て日本軍は第4ターンの攻略を諦め、(史実でもモールメン攻略後にしたように)マルタバン周辺への包囲環を作ろうとする可能性があると思ってます。結果として最悪の場合、モールメンとマルタバンに英連邦軍の数ユニットが閉じ込められ、壊滅させられるケースも……? そうなってしまう可能性はやや低めだとは思いますが、日本軍側にとっては恐らくそのパターンが「最高の結果」だろうとも思います。


 仮に2の選択肢を選択する場合、↓のようにするのが良いだろうと思います。

・可能な限り高いARのユニットを、モールメンで守備させてARを使用する。
(英連邦軍も、日本軍ほどではないですが結構補充でユニットが戻ってくるので、日本軍がなるべく高いARのユニットを攻撃せざるを得ないようにさせるべきです。そして、デッドパイルから補充してまた使うのです。また、ARが高い方が、ステップロスを食らわずに退却だけで済む可能性も高まります)
・自動車化タイプでしか移動させられないユニットをモールメンで守備させる場合、大河川をまたいで退却可能にさせるために、モールメンかマルタバンに戦闘モードの司令部を置いて、架橋しておく。
・現状のルール案では、3ユニット以上で守備している時に日本軍が戦闘後前進すると、「チャーチル給与」のダイス目に+2されるので、2ユニット以下で守備する。

 最高なのは、第4ターンに日本軍にモールメンを攻撃させて、それが失敗する、あるいは退却だけで済むというケースかと思います。




 それから、パアン(Pa-an)とラインブエ(Hlaingbwe)の守備ラインの話です。史実で英連邦軍は、最初このラインで防御線を引く予定でした。

 ところがこの防御ラインは、天然の防御ラインであるサルウィン川の向こう側にあり、「いやいや、サルウィン川の西側に防御ラインを作った方がはるかに有利ではないか。なぜわざわざ、川の向こう側に防御ラインを設けるのか?」と私は思ってました。

 ところがテストプレイ中をしていると、英連邦軍がサルウィン川の西側にのみとどまっていた場合、パアンの南東の地域で日本軍はユニットを戦略移動モード(戦力0、AR0になる)で置いたり、SPを載せた輸送ワゴン(防御力0)を守備隊なしで置いたりできるということが分かりました。

 ですからもし英連邦軍プレイヤーがパアンにユニットを置いたならば、日本軍プレイヤーはそのような戦力0のユニットを無防備でパアン南東に置けなくなり、その分移動が遅くなったり、守備隊を置かねばならなくなって手が縮こまることが見込めました。

 英連邦軍プレイヤーとしては、どちらかと言えば、パアンにユニットを置いて、日本軍に好き勝手されないようにした方が良いのではないかと思います。日本軍がラインブエ方向に進撃する可能性もあるのですが、その場合でも英連邦軍がサルウィン川西岸にしかユニットを置いていない時よりも、対応が容易ではないかとも……。


 現状では、ある程度面白いゲームになり得ているのではないかと思います。常に危惧しているのは「見落としている必勝法が存在してしまっているのではないか」ということです。これまでのテストプレイで、日本軍の騎兵ユニットが突進して英連邦軍の後方連絡線をカットしてしまうのが問題だということが認識できたので、マップ上で小河川や荒地や山岳を追加したり、騎兵ユニットを再建不能にしたりしました(^_^;


OCS『South Burma』(仮)製作のために:サルウィン川沿いの防御ラインの守り方

 OCS『South Burma』(仮)のVASSALモジュールを作ることができ、テストプレイが行えるようになりました。

 最初の5ターン(モールメン占領あたりまで)を何回も繰り返していて、修正点は100以上になっただろう(>_<)と思うのですが、ようやく次の、サルウィン川沿いの防御ラインを日本軍が越える辺りまでプレイできるようになってきました。


 で、そこらへんに関する史実の記述を探してみました。すると、以前は読み飛ばしていたような内容が今度はかなり深く分かってくる気がしました。


 ↓現在のマップに、記述の内容を重ねてみたもの。

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英印軍の計画 日本軍2個師団の進撃を迎える英印第17師団の新防衛地域は、南はマルタバンから、北はサルウィン河畔のカママウンに至る約100キロの正面を持ち、奥行きはサルウィン河からシッタン河にわたる約130キロもあった。右翼を海岸に、左翼をダウナ山系に託し、海岸を底辺とする不斉三角形のかっこうをした地域である。
 遅滞陣地線としては、サルウィン河、ビリン河の二線があり、その中央に、ドンサミ河とマルタバン山系がほぼ東西に走って区画をつくり、陣地正面は西に行くほど狭くなった地形である。また、兵站線はマルタバンからビリンを経て、キャクトウ、シッタンにおよび、しかも海岸線に近く走っているので、海からの脅威を受け易かった。
 スミス師団長は、マルタバン地区は出張っていて弱いからこれを捨て、サトン~クゼイクの線を確保するよう軍司令官【ハットン】に提案した。しかしハットン中将は、ラングーンに到着する増援と中国軍の来着に必要な時間をかせぐため、天然の障害であるサルウィン河を利用しようとし、第17師団に〈北はパアン付近から南はマルタバンにわたる線を防御し、理由なく土地を放棄するな〉と命じた。
 スミス師団長は示された防衛線を守ることにはしたが、手持の兵力に比し正面が広いので、結局日本軍は、各所から浸透できると考えた。そこで、第一線はその要点を保持し、中央に大きな予備兵力を控置しようと考え、第16旅団でサトン、カママウン、パアン、マルタバン地区を、第46旅団でビリン、パプン地区の第二線を、またモールメンで戦力が低下した第2ビルマ旅団をキャクトウ地区に配置し、シッタン橋梁と後方地域を守備させることに決定した。
『ビルマ進攻作戦』P38,9



 昨日、私は連合軍側でテストプレイしていたのですが、モールメンとマルタバンが連続して失陥してしまったこともあって、サトン~クゼイク線への撤退はちらっと考えました。尤も、その時は手持ちの兵力がやばいほど減少していたので、極力一目散の撤退しか現実的な選択肢はありませんでしたが……。


 一方で、サルウィン川沿いの防御ラインを守るとしても、手持ちの兵力でそのライン全体を守備できないのは確かにその通りです。ゲーム上のユニット数的にそもそもこのラインを埋められないのですから。

 すると確かに、スミス師団長が考えたように、要点にだけ戦力を置き、何か起こったことに後方予備で対処する、というのが賢いかもしれません……。これまでに見てきたクゼイク周辺での戦況図なんかでは、クゼイクに連合軍部隊は置かれているものの、その左右の川沿いに部隊が置かれておらず、むしろ後方のDuyinzeikに部隊が置かれていて、「なんでだろう?」と思っていたのですが、そこらへんに納得がいきました。

 またそうすると、これまで連合軍のビルマ人部隊は防御専用の()付き戦力にしてあって、テストプレイしてみてるとほとんど役に立たなかったのですが、攻撃もできる()無しにすれば、予備戦力として攻撃にも出られるのでその方がいいかな、と思えました。



 それから、この時期の連合軍部隊は「守備位置周辺でパトロールをしていた」という記述が今まであるのがちょっと不思議に思っていたのですが、日本軍の海岸上陸や河岸上陸を警戒していたということなんだろうと思えてきました。

 OCS『Sicily II』の揚陸(ALT:上陸作戦)結果表のダイス修正には「-1 2ヘクス以内の沿岸防衛ユニット毎に」というのがあったのですが、それを見習って『South Burma』(仮)でも「-1 4ヘクス以内の連合軍戦闘ユニット毎に」という風にしようと考えました。そしたら、パトロールという記述に合うなと。

『戦慄の記録 インパール』読了しました & 佐藤幸徳第31師団長の独断撤退への賛否について

 『戦慄の記録 インパール』を読了しました。録画していた番組も全部見ました。






 私はこれまで、インパール関連本は3冊程度、牟田口廉也中将関連本も2冊程度読んだだけだとは思うんですが、中でも一番理性的、かつ編集の上でも様々な話にバランス良く触れて、良くまとめられた良書であるような印象を受けました。番組(2017年)以前には未発見であったような資料や証言も多く盛り込まれていましたし。


 個人的に論争的な話が好きなので、巻末近くに、「佐藤幸徳第31師団長の独断撤退への賛否について」と「牟田口中将の構想通りに(上官の河辺は禁止した)ディマプールへの突進を行っていたら日本軍は勝てたのか」ということについて、複数の人の意見が載っているのが特に興味深かったです。


 「佐藤幸徳第31師団長の独断撤退への賛否について」なんですが、OCS『Burma II』ルールブックの参考文献一覧のところ(P41)に↓のような記述があったのが、どういうことなのかずっと分かっていませんでした。

『Monograph 134: Burma Operations Record- 15 Army Operations』 アメリカ軍:この資料も戦後、米軍の依頼で日本軍の生存者が作成したものです。この資料は、著者が反佐藤派であるため、インパール作戦の失敗を彼のせいにすることに多くの紙幅を費やしているのが難点です。


 私はどうも、これまで「独断撤退して当然じゃないか」という派の本ばかりに触れてきたようなのですが、『戦慄の記録 インパール』によると、反佐藤派として「どのように合理的な理由があろうとも、命令違反は絶対に許されない」という考え方をする人が結構いたのと、それから「独断撤退において隣接する第15師団に何も知らせなかったため、第15師団の側面がいきなりがら空きとなり、多くの死傷者が出たのが許せない」という感情がどうしてもあった、ということらしいです。

 一方で『Burma II』が挙げた参考文献の場合、「インパール作戦の失敗を彼(佐藤幸徳)のせいにする」というわけですから、もしこの件で佐藤幸徳が批判されているという見立てが正しければ、佐藤師団長が独断撤退していなければインパール作戦には勝てたはず、ということなのでしょうか(そういう書き方は『戦慄の記録 インパール』にはなかったように思います)。


 ただ、もう一つの「牟田口中将の構想通りに(上官の河辺は禁止した)ディマプールへの突進を行っていたら日本軍は勝てたのか」ということについては、『戦慄の記録 インパール』は複数の人の意見を挙げて、最終的には↓の研究論文?を挙げて、ディマプールの占領など不可能だったと結論づけているように思えます。

平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書
日本の戦争指導におけるビルマ戦線--インパール作戦を中心に--
(うちのブラウザ上で開いて見ると字が崩れているのですが、完全にダウンロードしてpdfファイルを開けばちゃんと読めると思います。ちなみにこの報告書は、英語版が1万円以上で売られているのを見たのですが、日本語なら無料で読めるわけで、結構いいと思いますのでオススメです)


 しかしそうでなくとも、「命令違反は許されない」派にとって都合が悪いだろうと思うのは、ディマプールに進むことは牟田口中将の上官である河辺正三ビルマ方面軍司令官が禁じていたということです。

 『牟田口廉也とインパール作戦』という本も、「日本陸軍は任務遂行に全力を尽くせ」という型の組織だったのだから、牟田口司令官がやると決めたら部下達はそれに邁進するのが要求されることで、部下達がそうしなかったことが良くなかったのではないのか、という論だと思うのですが、だとしたらより上級の司令官の命令に沿って、ディマプールに進むことはできない。





 『戦慄の記録 インパール』によると牟田口廉也は戦後、ずっと本当に贖罪の日々を送っていたらしいのですが(それらの具体的な描写があって、結構意外でびっくりしました)、イギリスの軍人から「当時日本軍がディマプールに突進していればイギリス軍は敗北必至だった」という手紙をもらって大喜びし、その後は河辺正三がディマプールへの進撃を禁止したことが作戦の失敗をもたらしたのだと主張する録音を残したそうです。

 でも、命令違反は許されないんじゃ? 命令違反した師団長を更迭しまくったのに、軍司令官として方面軍司令官への抗命を戦後したということになるのでは。



 命令違反に対する意見や、任務遂行型組織という見方に対する意見ですが、私は個人的にゲーム理論や進化論的な見方が好きなので、「命令違反は許されない組織」「任務遂行型組織」は、それが成功する限りにおいて勢力圏を伸ばすだろうし、いくらかの勢力圏を持つのは持つだろうと思います。でも「個々の判断を尊重する組織」「任務に疑問を持ってもいい組織」ももちろん勢力圏を持つわけで、どっちが勢力圏を伸ばせるかの話だと考えます。

 でも、現今で言えばロシア軍や北朝鮮軍はまさに「命令違反は許されない組織」だと思います。旧日本陸軍の話は昔の話だと思うから、「命令違反は許されないじゃないか!」と頭で思えるとしても、じゃあそう考える人は今のロシア軍や北朝鮮軍に所属してもその中であくまで頑張るんですね、と言われたら、今の自分に当てはめて「いや、まっぴらごめん」と思ったりするのでは……。

アウエルシュタットの戦いは、どの場所で始まったのか?

 先日ミドルアース大阪で、『La Bataille D'Auerstaedt』の初期配置をし、少し戦闘をやってみました。


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 ところがその初期配置が、持っていっていた洋書による記述と合わないので、ちょっと疑問に思ってました。で、調べてみようと。






 ↓『La Bataille D'Auerstaedt』の初期配置(何ヘクス以内というのが多いので、大体です)。

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 ハッセンハウゼン(ハッセンハウッセン)村というのがあり、その周辺でプロイセン軍の前哨騎兵と、フランス軍のバーク大佐隷下の前哨騎兵および第25連隊の部隊が衝突寸前という感じになってます。

 『La Bataille D'Auerstaedt』のヒストリカルノートを見ると、このハッセンハウゼン村の周辺で最初の衝突が起こったと書かれています。

 バークは前哨騎兵や前哨部隊に遭遇することなく前進していたが、ハッセンハウゼン村周辺でプロイセン軍騎兵を発見した。霧が濃くて敵から見つかっていないようだったので、バークは自分の率いる前哨騎兵に、プロイセン軍を動揺させるために発砲するよう命じた。驚いた敵のおおよそ2個騎兵大隊は立ち直ると、やや無秩序に突撃してきた。バークは数人の捕虜を獲得することに成功して任務を達成したが、敵ははるかに優勢であり、またより秩序立った攻撃を仕掛けてきたため、急いで撤退した。ギャロップで戻ると、彼は幹線道路の右側で隊列を組んで前進している第25連隊に遭遇したので、その後ろで自分の騎兵部隊を再結集させた。道路の左側では第85連隊も隊列を組んで前進していた。この2個連隊はギュティエ【Guthier。他の資料ではGauthierとも】准将の旅団の指揮下にあり、バークは彼に敵騎兵の接近を報告した。ギュティエは第25連隊に方陣を組むように命じ、これらは敵の2個騎兵大隊を撃退した。しかし、彼らの後ろには、ハッセンハウゼンからの道路に沿って、ブリュッヒャー将軍の指揮下にある約600の騎兵、擲弾兵1個大隊、1個軽砲兵中隊からなるプロイセン軍の前衛部隊がいたのである。
『La Bataille D'Auerstaedt』のヒストリカルノートの2ページ目



 つまり、ハッセンハウゼン村の周辺(方向は良く分かりません)で最初の衝突が起き、そしてその最初の衝突の後、ハッセンハウゼンの東側に前線があったかのように感じられます。


 ハッセンハウゼン周辺が最初に衝突が起こった場所であったという記述は例えば、日本語版Wikipedia「イエナ・アウエルシュタットの戦い」でもそうなっています。

 ところが、英語版Wikipedia「Battle of Jena–Auerstedt」ではペッペル村周辺が最初の衝突場所であったという風になっています。


 ペッペル村説は、私がミドルアース大阪に持っていっていた『Jena, Auerstaedt: The Triumph of the Eagle』でもそうでしたし、チャンドラーの『ナポレオン戦争』でもそうなっていました。試しに『ナポレオン戦争』の記述を引用してみます。

 14日の早朝、微小のものさえ見分けがつかない程の霞が立ち込めた夜明けを迎えたとき、事態はそのままであった。しかしダヴーの部隊は午前4時過ぎからずっと行動中であった。ダヴー自らが同行する、ギュダン将軍の師団に先導されて、第3軍団はハッセンハウッセンの村落を難なく進軍した。ちょうどそのとき、道路探索をしていたバーク大佐の前哨騎兵が、突然ペッペル村の近くでプロイセン軍の騎兵4個大隊と砲兵1個中隊と出くわしたのである。いまや7時を回り、ギュダンは前進を続ける前に歩兵隊に方陣を作る予防措置をすぐに講じた。ハッセンハウッセンを過ぎたときに霧が一時的に消え、約1000ヤード離れた場所にプロイセン軍の騎兵隊が姿を現したので、ギュダンは時を失せず射撃を開始した。これが即座にプロイセン軍の大砲を無力化し、騎兵隊をあわてて逃走させた。そしてギュダンはリスバッハの小川沿いへと押し寄せたが、そこでフリアンとモランの後続師団がやって来るのを待つことにして、兵員に停止を命じた。実際には、フリアン将軍は8時にコーゼンの橋を渡ったに過ぎず、一方モランはまだはるかに遠い所にいたのである。このことは、ギュダンの兵員が増援軍の到着まで相当長い時間孤立していなければならないであろうことを意味したのであった。
 そのうちに報復をねらうプロイセンの軍勢がリスバッハ川に次々と集結しつつあった。その第2および第3師団の東進は、北へ移動中の輸送隊とひどく縺れ合ってしまったが、プロイセン国王やブランシュヴァイクに伴われたシュメッタウ将軍の師団は午前8時までに位置に着き、ブリュッヒャーの騎兵12個大隊はシュピールベルクの側面部に配備された。この重大局面においてギュダン軍は歩兵9個大隊、24門の大砲、さらに騎兵16個大隊に直面していたのだ。戦闘は双方の側の前哨軽歩兵による小競り合いで開始され、その間に両主力軍が展開を完了したが、凌駕されていたギュダンにとって幸運なことに、プロイセン軍の攻撃の際の協調が絶望的なほどうまくいかなかったのである。
『ナポレオン戦争 第3巻』P74




 で、さらに他の資料での記述も探してみたところ……。

ハッセンハウゼン説:『1806 The Coming Storm』(OSGのSpecial Study Nr.5)、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars』
ペッペル説:オスプレイ『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』(チャンドラー)


『1806 The Coming Storm』に関しては↓こちら。
ナポレオン関連本3冊、他 (2012/04/30)








 オスプレイ本は『ナポレオン戦争』と同じチャンドラーが書いているので、同じ説を採るのは不思議ではないですがチャンドラー本と並んで権威とみなされているであろう『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars』と、そしてウォーゲーム界におけるナポレオニックの権威であろうザッカー率いるOSGの『1806 The Coming Storm』がハッセンハウゼン説を採っているわけです。

 そうすると、素人たる私なんかでは、どうしたものかさっぱり分かりませんね……(^_^; 一応、『1806 The Coming Storm』の記述は、ものごとの進行が『La Bataille D'Auerstaedt』と酷似しているものの最初のうちは地名が全然出てこず、しばらくしてからハッセンハウゼンなどの名前が出てきて、「フランス軍がハッセンハウゼンを確保した……」というような記述が現れるので、ハッセンハウゼン説とペッペル説を合わせたような理解の仕方が不可能ではないかも、という気はしました。



 『La Bataille D'Auerstaedt』(バタイユシリーズルール第3版で)をちょっとやってみての感想なんですが、反応突撃とか臨機突撃とか戦闘前後退とか、採りうる行動の種類が(他の版より少ないらしいとはいえ)やっぱりある程度以上あるので、そこらへんの把握が必要だなぁという気がしました(大学生時代にはシミュレーションゲーム研究会でバタイユのモスクワやアイラウは何回かやりましたし、その後も大阪で中村皇帝陛下と『La Bataille D'Auerstaedt』をやったことはあるのはあるので、当時は把握していたのだと思うのですが、もう25年以上が経って全然忘れてしまっているということですね~)。

 また、初期配置でフランス軍散兵がプロイセン軍騎兵の目の前にいまして、どうしたらいいのか良く分からないものの散兵で近づいて射撃してみたところ、1ダメージは与えたものの臨機突撃されて、戦闘前後退ができず(ここらへんひたすらルールブックとにらめっこしてました(^_^;)、プロイセン軍騎兵が攻撃側になる白兵戦に対する士気チェックにフランス軍散兵が失敗して(兵力数に圧倒的差があったので)、散兵は混乱して退却してしまいました。

 ヒストリカルノートの記述を読んでみると、フランス軍の歩兵連隊(大隊?)でとりあえずは方陣を組むのがセオリーなんでしょうか(散兵は逃げる?)。セオリーが分からないもので、ちょっと前にKimataka氏と『Ney vs. Wellington』をやった時なんかでも「何をすれば良いか分からない」状態になってしまってました。ナポレオニックの戦術級ゲームをやる上では、史実を調べて「こういう場合には大体こうしていた」というセオリーも頭に入れていきつつ……というのが、割と史実を読むのが好きな私としては良いのかなとも思われました。




<2023/09/21追記>

Bernadotte66さんがコメントを下さいました、というかブログ記事として書かれておられました!

こんにちは。
次の本ではp674に次の記述があり、ハッセンハウゼン説です。
Campagne de Prusse, 1806
https://www.amazon.co.jp/Campagne-Prusse-1806-Archives-Classic/dp/1390094251

”この前衛(*1)は霧の中にフランス軍分遣隊(*2)を発見し、ハッセンハウゼン付近で停止した。”
*1 上記の前に記載された文章内容からブリュッヒャー将軍の前衛のこと。
*2 上記の前に記載された文章内容からバーク大佐の分遣隊こと。

こんばんは。
散兵は逃げるのが基本です。
https://sbataille.berjisan66.com/sbataille_blog/2023/09/20/skirmish-target-of-cavalrycharge/



 大変参考になります。ありがとうございます!(^^)

<追記ここまで>

牟田口廉也中将の「ジンギスカン作戦」に使用された牛について

 インパール作戦において牟田口廉也中将は、「歩く食糧」として牛や羊を部隊にもたせ、「ジンギスカン作戦」と自賛した……という話があります。

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいると、この時の牛の様子について複数の詳しい記述があって興味を持ったので、英連邦軍にとってのラバの件と比較しつつまとめてみようと思ったのですが、ネット検索してみると日本版Wikipedia「インパール作戦」にジンギスカン作戦についてのかなり詳しい項目がありました(^_^;

ジンギスカン作戦

インパール作戦のような長距離の遠征作戦では後方からの補給が重要であるところ、当時の第15軍は自動車輜重23個中隊、駄馬輜重12個中隊の輜重戦力を持っており、その輸送力は損耗や稼働率の低下を考慮しなかった場合、57,000トンキロ程度であった。しかしながら実際に必要とされる補給量は第15軍全体において56万トンキロ程度と推計され、到底及ぶものではなかった[注釈 6]。なお、自動車中隊は、当時のビルマ方面軍全体でも30個中隊しかなかった。

この点は第15軍としても先刻承知の上であり、事前に輜重部隊の増援を要求したものの、戦局はそれを許さなかった。第15軍は150個自動車中隊の配備を求めたが、この要求はビルマ方面軍により90個中隊に削減され[157]、さらに南方軍によって内示された数に至っては26個中隊(要求量の17%)へと減らされていた。しかも、実際に増援されたのは18個中隊だけにとどまったのである。輜重兵中隊についても、第15軍の要求数に対して24%の増援しか認められなかった。第15軍参謀部は作戦を危ぶんだが、牟田口はインパール付近の敵補給基地を早期に占領すれば心配なしと考え、作戦準備の推進につとめた[158]。

牟田口は車輛の不足を駄馬で補うために、1944年初頭から牛、水牛、象を20,000頭以上を軍票で購入[159]もしくは徴用し、荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させることとした。特にウシについては広大なチンドウィン川の渡河が懸念され、渡河中に先頭の1頭が驚いて頭を岸に回すと、他の全部が一斉に岸に向かって走り出すという習性があるので、先頭のウシについては銃爆撃に怯えないような訓練をさせた[160]。そしてウシは訓練の結果、1日13㎞の行軍が可能となった。牟田口はさらに家畜を輸送手段だけではなく、「歩く食料」として連れていくことを思い立ち、山羊・羊を数千頭購入した。これは、過去のモンゴル帝国の家畜運用に因んで「ジンギスカン作戦」などとも呼ばれた[159]。作戦計画において食糧は「各兵士7日分、中隊分担8日分、駄馬4日半分、牛2日分」を携行して輸送し、最後は輸送してきた牛を食べて3日分食いつなぎ合計25日分とされた[161]。これは既述の通り3週間以内という作戦期間に基づくものであった[162]。

牟田口はこの「ジンギスカン作戦」を自信満々に報道班員に披瀝している[40]。

インパールへ落ち着いたら、あとは現地自活だよ。だから生きたヒツジを連れていく。草はいくらでもある。進撃中でも、向こうでも飼料には不自由しない。種子も持っていく。
昔ジンギスカンがヨーロッパに遠征したとき、蒙古からヒツジを連れて行った。食糧がなくなったら、ヒツジを食うようにね。輸送の手間はかからない、こんな都合のいい食料はないよ。
その故知を大いに活用するんだ



しかし、ヒツジは1日にせいぜい3㎞しか移動せず、逆に進軍の足かせとなってしまった。モンゴル帝国は家畜を伴いながらゆっくりと進撃していたが、第15軍の部隊はわずか20日でインパールに達しなければいけないという時間的制限を課されており、ヒツジの習性を理解しないで企画した作戦であることは明らかであった。そのため、ヒツジは作戦開始早々に見捨てられることとなった[163]。また肝心のウシもチンドウィン川の渡河で消耗したうえ、もともと農耕用であったビルマのウシはいくらムチで叩こうが急峻な山道を登ろうとはしなかったため、山岳地帯の移動でも順次消耗していった[164]。第31師団を例にとると、渡河から最初のミンタミ山脈踏破でまず1/3を消耗、次のアラカン山脈でも次々と損耗し、目的地のコヒマに到着できたのはわずか4%に過ぎなかった[165]。

本作戦に第15師団に陸軍獣医(尉官)として従軍した田部幸雄の戦後の調査では、日本軍は平地、山地を問わず軍馬に依存していたが、作戦期間中の日本軍馬の平均生存日数は下記。日本軍の軍馬で生きて再度チドウィン川を渡り攻勢発起点まで後退出来たものは数頭に過ぎなかったという。

・騾馬:73日
・中国馬:68日
・日本馬:55日
・ビルマポニー:43日

また、輸送力不足は戦力的にも大きな影響を及ぼした。牟田口は乏しい輸送力でなるべく多くの食糧を輸送するため、険しい山脈を進撃する予定の第15師団(祭)と 第31師団(烈)については、火砲などの重装備は極力減らして軽装備とさせた。特に速射砲が減らされたが、これは敵が戦車をあまり装備していないという都合のいい想定に基づくものであった[166]。しかし、実際には多数の戦車が待ち構えており、対戦車火力に乏しい両師団は敵戦車に甚大な損害を被ることとなった。このように「ジンギスカン作戦」は輸送力強化にも、食料確保にも大きく寄与することはなく破綻し、結局のところ輸送は人力に頼らざるを得ず、兵士らは消耗していった[159]。

家畜を輸送力として有効活用できなかった日本軍に対してイギリス軍の場合、途中の目的地までは自動車で戦略物資を運搬し、軍馬は裸馬で連行した。自動車の運用が困難な山岳地帯に入って初めて駄載に切り替えて使用していたという。また使用していた軍馬も体格の大きなインド系の騾馬だった。これらの騾馬は現地の気候風土に適応していた。なお、田部は中支に派遣されていた頃、騾馬は山砲駄馬としての価値を上司に報告した経験があったという[167]。


 ある時点でのWikipedia上での記述らしきものも見つけました。

インパール攻略作戦において、日本陸軍第15軍司令官:牟田口廉也が、補給不足打開の切り札として考案した作戦。牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言うのが特徴。しかし近代戦においては、歩みの遅い家畜を引き連れて、迅速さを求められる拠点攻略を強行するという作戦には無理があり、実際、家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらにジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前に脱落し、たちまち破綻した。しかも水牛は味が悪く、現地の中国人でさえ食用にしないものであった。おまけに3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した。結果、各師団とも前線に展開した頃には糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、戦闘力を大きく消耗する事態を招いた。
ジンギスカン作戦



 ビルマにおける英連邦軍側のラバの使用については以前、↓でいくらかまとめてました。

チンディット部隊の荷物を運んだラバ達について(付:『Burma II』) (2021/04/26)


 ↑を見ていると英連邦軍のラバの使用については結構訓練期間などもあったということもあり、個人的に気になったのは、ジンギスカン作戦では牛や羊についての事前の訓練があったのかどうか、でした。が、やってはいたのですね。


 他にもこういう記述も見つけました。

 ビルマのコブがある牛は、こぶに棒をひっかけて荷車を引くことはできるが、荷を積むことはない。それをどうにかして荷を積む訓練を重ねた。それも急峻な地形では荷がずれて牛が進まない。三週間分の食料しか持っていないため、それまでにインパールを陥落させる必要があった。牛の歩みを待つと、食料がなくなる。仕方なく、放牧した。一石二鳥どころではなかった。
『未帰還兵』P29



Burma07

 ↑ビルマ(現ミャンマー)の牛と牛車(Wikipediaから)



 以下、『戦慄の記録 インパール』から引用してみます。

「集めた牛や羊は、何万だからね、数がすごかった。"畑やる牛から何もかも日本軍が軍票を払って持って行って、もうビルマに牛なくなっちゃって、仕事できなくなっちゃった"って、ビルマ人が嘆いていた。それぐらい、すごい数だった」
 集めた牛や羊は、兵士一人で二頭ほど引いて歩いた。1944年3月15日、目の前に立ちはだかるチンドウィン河を渡ることになった。
「雨期でないから、まだ雨はあまり降ってないもんで、チンドウィン河の水もいくらか少なかったけどね、それでも大きな川だからね。船と言ったって、そんな大きな船じゃない。板がはってあるだけで囲いなんてない。そこに、みんな牛を乗せた。もちろん、人間も兵隊も乗った。牛が嫌がって大暴れする。それを扱う我々は、みんな素人だから抑えようとしてもうまくいかない。そのうち、暴れる牛と一緒に川に落ちてしまう。牛も沈んだけど、兵隊も相当沈んでしまった。みんな流された
『戦慄の記録 インパール』P72

 【……】佐藤哲雄さん(97)は、牛や羊を引き連れての渡河を指揮した。
「とりあえず一週間、二週間分の食糧の代わりとして牛が配給になったんだわ。川の流れが強いために牛が騒ぐもんだから、鼻環切れたり、ロープが切れたり、向こうへ着くのは半分ぐらいしかなかったんだわ。日暮れからすぐ行動を開始したけども、渡りきるまでは、夜が明けるちょっと前だな、そのくらい時間かかった。
 それで今度は山越えでしょ。〔牛たちは〕食うものないから、山越えるまでには、そのまた半分ぐらいになっちまったんだ。だから、結局最後に兵隊のところに配置になった牛なんて、ほんのわずかずつしかいなかったんだわ
想像以上に牛の扱いに手こずったことを、佐藤さんは記憶していた。
みんな、こんな牛持ってって、足手まといになるから却ってダメじゃないかという意見が多かったんだけども。上からの命令である以上は連れて行ったけれども、面倒くさくなれば牛を放してしまう。そうすると牛はどこでも行ってしまう」
牟田口司令官が自ら考案した〝ジンギスカン作戦〟は、絵に描いた餅だった。
『戦慄の記録 インパール』P73,4

 牟田口司令官の思いつきで連れて行った牛も足手まといとなった。荷物を運ばせようにも、背中がコブのように突き出ていて、乗せるのが難しかった。もともと農耕などに使っていた牛が多く、性格的にも臆病で、悪路を進むのを嫌がった。兵士は牛のお尻を押したり、叩いたり、最後には尻尾に火を点けて進ませようとしたが、動かなくなった。これでは兵士の方が疲弊してしまうと、渡河から一週間ほどで放棄した部隊が多かったようである。
『戦慄の記録 インパール』P104



 ただ、『戦慄の記録 インパール』を読んでいるとすぐにすべての牛や羊を失ってしまったかのような印象も持ったのですが、Wikipediaによるとコヒマには4%が到着したということで、あんな奥地にまで4%も到着したのであれば、ジンギスカン作戦が100%ダメな考えだったとも言えないかなという気はしました。

 OCS『Burma II』でも、水牛なしでは日本軍はインパール作戦の実行は全然できない感はあります。

unit8868.jpg



 ただ、恐らくジンギスカン作戦を思いついてから実行するまでの期間が短く、訓練も少しはやったものの、細かい検証(たとえば、渡河においてはどうなのか、険しい地形ではどうなのか……等)が足りなかったのだろうし、「うまくいく」という前提で数を集めてとにかく実行させるということが姿勢として勝っていたのだろうな、という気はします。

 それに対して英連邦軍側は、ラバ等の動物を作戦に用いるにあたって、1943年から1944年にかけてかなり長い期間をかけ、検証を繰り返し、うまくいかせるための合理的努力を日本軍の何倍もやったんだろうな、と思います。


太平洋戦争自体がそもそも大博打なのだから、インパール作戦が大博打でも、それはやるのが当然だった?

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいましたら、↓という記述が出てきてハッと思い出したことがありました。

 河辺中将は、ビルマ方面軍司令官としてラングーンに赴任する直前に、東條首相に面会していたのである。その席で、東條首相から切り出されたのが、インド進攻であった。
 東條首相は、「日本の対ビルマ政策は対インド政策の先駆に過ぎず、重点目標はインドにあることを銘記されたい」と語った。
『戦慄の記録 インパール』P44




 思い出したというのは、そもそも太平洋戦争は勝算がほとんどない「大博打」であることが日本側にも(程度の差はあれ)明らかだったわけですが(連合国側は、そもそも勝算がないのだから日本側が宣戦してくるとは思っていなかったし、最終的に日本を敗北させられるのは明らかだったのでまずは対ドイツ戦に集中して太平洋戦域は後回しにした)、薄い勝算の中でも少しでも可能性があるものとして目指されていた一つの方策が、「イギリスの戦争からの脱落」であった……という話をここ1年くらいの間に複数の資料で読んでいたことでした。イギリスを戦争から脱落させることができれば、即勝利とは言わずとも講和などの点でかなり有利に運ぶことが見込めるということでしょう。

 そのために、インドやインド洋戦域で勝利を挙げることが初期には一応目指されたものの、さまざまな要因で(やっぱり)それがとりあえずうまくいかなかった……。

 一方でイギリス側はどうだったかというと、少なくともインド統治に関してはマジにやばい状況で、対日戦が始まっているにもかかわらずインド(人)を抑えておくことのためにものすごい大部隊をインドに駐留(あるいは警備?)させておかなければならなかった……というのもどこかで読んでいました。具体的に100の桁の部隊を張り付けておかなかったというような記述を見たような気がしてまして、ものすごく驚いた記憶があるのです。100個大隊だとすると、10個師団くらい? ちなみに1942年にビルマで戦った英連邦軍は、総計2.5個師団くらいでしょうか。

 以前、↓で書いてましたような理由で、インド東部を日本軍が支配すれば、少なくともイギリスのインド統治はガタガタになって天秤がガタッと傾く……という可能性はあったのかもです。

1942年のビルマ戦で、なぜインド軍部隊は日本軍を歓迎せずにイギリス側に立って戦い続けたのか? (2023/06/22)



 とすると、太平洋戦争自体がそもそも大博打であったことを考えると、ガダルカナルなどで太平洋戦域の敗勢が明らかになってきたならば、日本(東條首相)としては当然、他のいくらかでも可能性のある場所(ビルマ・インド戦域)で大博打をせざるを得ない、というか大博打をするのが当然、という考え方は、それはあるだろうかなと。

 命がかかった麻雀(その時点で大博打)で、点数的にかなり負けてきているのに役満を狙わないのか、いやそりゃ狙うでしょ、という話だと考えれば分かりやすいような……。


 『戦慄の記録 インパール』の記述だと、「イギリスを屈服させるために」という表現なんですが、「屈服」というのは具体的な程度が分かりにくいとも思います。東條首相などが具体的に狙っていたのは、インド侵攻作戦という大博打にもし勝てれば(もし役満が出れば)、イギリスが現在四苦八苦しているインド統治を崩壊させて少なくとも対日戦から脱落させられ、負けがこんできた(麻雀の)点数をもしかしたら五分以上に戻せるかもしれない、という感じの話だったのではないかと思いました。


 もしそうだとすると、東條首相がこの時期にインパール作戦の実行を望んだのは、結構納得がいくなと(もちろん、そもそも太平洋戦争という大博打を始めるべきでなかったのでしょうけども)。


 ただ、例えば配牌時に手牌がバラバラでもはや役満なんか狙えるはずがないのに「できるできる!」と主張しまくったり、もうおりるべき局面に入ったのにズルズルとおりる決断ができずに最終的に超高めに振り込んでしまう……とかってのが牟田口廉也中将のやったことなのではないでしょうか。

 そう考えると、東條首相にしても牟田口廉也にしても、麻雀マンガにおけるダメな一般人(私なんかも全くその内の一人ですね)の代表という感じとも言えるのでしょうか……。



日本軍とイギリス軍の「ラングーン放棄」の違いは、言霊信仰のあるなし?

 先日、↓で日英両軍の「ラングーン放棄」の比較について書いていましたが、両者の大きな違いの要因として日本人の「言霊信仰」があるのではないかということに思い至りました。

ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」についての、初見的考察 (2023/09/04)


 「言霊信仰」とは、「言葉には現実に影響を及ぼす力が宿っており、良い意味の言葉を発すれば良いことが起こり、悪い意味の言葉を発すれば悪いことが起こると信じる」というようなことで、日本社会では無意識にもこれが信じられているといいます。

 日本語版Wikipedia「言霊」によれば、

山本七平や井沢元彦は、日本には現代においても言葉に呪術的要素を認める言霊の思想は残っているとし、これが抜けない限りまず言論の自由はないと述べている[4]。山本によると、第二次世界大戦中に日本でいわれた「敗戦主義者」とは(スパイやサボタージュの容疑者ではなく)「日本が負けるのではないかと口にした人物」のことで、戦後もなお「あってはならないものは指摘してはならない」という状態になり、「議論してはならない」ということが多く出来てきているという[5]。


(脚注にある井沢元彦『言霊の国解体新書』は昔読みましたし、山本七平・小室直樹 『日本教の社会学』も多分読んだのではないかなぁと思うのですが、処分してしまって今手元にありません(>_<))





 例えば、↑これらの本に書いてあったことだと思うのですが、欧米では結婚の時に、「もし離婚することになった場合にはこうこう」とあらかじめ決めておくというのです。日本では、結婚の時に離婚する場合のことを話し合うなんて、まったく考えられないでしょう! 欧米での結婚でホントにそんなことをするのか、私は信じがたいのですが、もしホントにするのだとすれば、私もまったく言霊信仰の支配下にあると言えそうです。



 1942年3月初旬の英連邦軍による「ラングーン放棄」ですが、日本軍のビルマ侵攻が始まった時点(1月20日)で、ビルマ方面軍司令官となっていたハットン中将はラングーンが陥落した時に備えて、ラングーンにあった大量の補給物資をビルマ北部へと移す作業を開始しました。ビルマは、イギリス軍の策源地であるインドと繋がっている良好な陸路がなく、海路はラングーンとしかほぼ繋がっていなかったので、補給物資の移送なしでラングーンが陥落した場合、即時にビルマ全土の英連邦軍が干上がってしまうという理由もありました。そしてこの作業のお陰で、ラングーンが陥落した後も在ビルマの連合軍があっという間に全崩壊することはなかったのです。

 また、その上級司令官であったウェーヴェルは徹頭徹尾、日本軍を阻止できると考えており、日本軍がラングーンに近づいた時でもラングーン保持を(ハットンを解任して新たに司令官とした)アレクサンダーに命じましたが、確か「ただしやむを得ない場合にはラングーンを放棄してもよい」という一文を入れていたと思います。


 一方1945年4月下旬の日本軍の「ラングーン放棄」ですが、私自身まだ資料を詳しく読み込んだわけではないですが、「あらかじめラングーンを放棄せざるを得なくなった場合について考えておく(準備しておく)」ということを、ビルマ方面軍司令部自体がやっていなかったのではないでしょうか(これまで読んでいた限りでは、そのような行動があったという記述は見ていないと思います)。もし幕僚の一人がそんなことを言い出したら敗北主義者のそしりを受けたことでしょう。「そんなことを言うから負けるのだ」あるいは「そんなことを思うだけでも、負けに繋がる」というわけです。

 4月13日の時点で、第28軍司令官であった桜井省三中将が木村兵太郎中将に対して「どうぞ早くモールメンに下がって下さい」と意見具申していますが、この意見具申はかなり悩んだ上でなされたものらしく、「誰かが言ってあげないと」いけないだろうということがあったようです。当時の日本軍であらかじめラングーン放棄について考慮してそれを言葉に出して木村中将に伝えたのは、桜井中将しかいなかったということが、非常にありそうな気がします(桜井中将は、先を見通す能力に長けていたという印象もあります)。

 また、日本兵や日本人民間人においても、「やばそうだ」とは思っていたとはしても、あらかじめラングーン放棄について口に出したり準備したりすれば敗北主義者として容易に糾弾されることが分かりきっている中ではそれに順応して、ラングーン放棄を考えもせずに奮励努力していたということが想像できるような気がします。



 このようなことは別にラングーン放棄についてだけでなく、日本軍や日本社会全体がそうであった(今もそう)でしょう。

 最近、日本軍や日本軍兵士について「うまく行っている時はいいが、予期しないことをされると弱い」という指摘を複数見て、「いや、そんなの、どんな軍隊でもそうなんじゃ? 逆に、予期しないことをされても強い軍隊って具体的にどこの軍隊?」とか思っていたのですが……。

 例えば↓。

一方、日本兵の短所は「予想していなかったことに直面するとパニックに陥る、戦闘のあいだ常に決然としているわけではない、多くは射撃が下手である、時に自分で物を考えず「自分で」となると何も考えられなくなる」というものであった。
日本人は知らない、米軍がみた日本兵の「長所と弱点」 米軍報告書は語る


 また、ビルマ戦に勝利したスリム将軍は著書(『Defeat into Victory』?)の中でこう書いているそうです。

「日本軍は意図がうまくいっている時はアリのように冷酷で、勇敢だ。しかしその計画が妨げられたり、退けられたりすると - 再びアリのように - 混乱に陥り、順応し直すのが遅く、必ず最初の構想に長くしがみつきすぎた」
(引用は『戦慄の記録 インパール』P131から)



 あるいは、日本軍のマラリア対策に関する新聞記事で↓こういう記述がありました(2020年8月3日。読売新聞)。

「日本の組織には、うまくいっている時には緻密さや几帳面さがあるが、いったん狂い出すと、修正がききにくくなる側面があるのではないか。方向性を途中で変えにくい空気が、今もあるように思う」


 これらの指摘に関して、今まで得心がいってなかったのですが、言霊信仰のことを考え合わせてみると「なるほど……!」と納得できた気がしました。

 日本社会や日本軍は、悪い結果になった場合にどうするか、考えない傾向が強い。悪い結果になるということを考えたり、口に出したり、備えたりしてしまえば、それが敗北に繋がると信じられており、また周りの人達に敗北主義者だと非難されるから。それに対して欧米社会や欧米の軍は、悪い結果になった場合について考えておいたり、準備したりしておくことができる……。

 もちろん、悪い結果になった場合のことを考えないからこそ「強い」だとか、余計なことを考えずにひたすら勝利に向かって前進できる、ということもあるとは思います。

 ただ、プロイセン軍に端を発する参謀組織というのは、あらかじめあらゆるケースに関して考え、準備しておく(おける)ということに強みがあったはずなのに……。


<2023/09/14追記>

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいたら、牟田口司令官がまったくそのように思っていたことについて書いてあったので、追記してみます。

 この作戦【インパール作戦】をどう終わらせるか、牟田口司令官は想定していなかった。その理由について、「回想録」にこう書き残している。
「万一作戦不成功の場合、いかなる状態に立ち至ったならば作戦を断念すべきか。このことは一応検討しておかねばなるまい。作戦構想をいろいろ考えているうちに、チラっとこんな考えが私の脳裡にひらめいた。
 しかし、わたしはこの直感に柔順でなかった。わたしがわずかでも本作戦の成功について疑念を抱いていることが漏れたら、わたしの日ごろ主張する必勝の確信と矛盾することになり、隷下兵団に悪影響を及ぼすことを虞【おそ】れたのである
『戦慄の記録 インパール』P189



<追記ここまで>




ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」についての、初見的考察

 1945年のビルマ戦線の崩壊局面における、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」という話は、今までいくらか見たことがありました。

 連合軍がラングーンに迫るのに対して、木村兵太郎中将は独断でさっさと逃げ出し、指揮や士気において大混乱をもたらした……ということのようでした。


KimuraHeitaro

 ↑戦後、1947年の木村兵太郎。A級戦犯として死刑の判決を受け、絞殺刑に処されました。



 ただまあ、詳しいいきさつに関して読んだことはなかったのですが、新たに購入した戦史叢書の『シッタン・明号作戦―ビルマ戦線の崩壊と泰・仏印の防衛』の途中から読み始めると、その「敵前逃亡」についてある程度詳しい記述がありました(P231~5)。そしてそれを読んだ感じでは、木村中将がラングーンから撤退したのはむしろ妥当ではなかろうかという印象を受けたのです。






unit8542.jpg



 1945年4月22日に、英連邦軍の大規模機械化部隊群がトングーを南下していったことが判明します(現地の小規模日本軍部隊はただそれを離れた場所から眺めるだけで何もできませんでした)。ラングーンの失陥が目前に迫っていることが明らかになって、ビルマ方面軍の各参謀達が集まって検討した結果、ラングーンから撤退もやむなしという空気となります。地形的に考えて、ラングーンに留まるとラングーンだけで孤立することになるのに対し、ビルマ方面軍司令部をモールメンにすぐに移動させれば、シッタン川やシャン高原の線での抵抗を指揮するのに適当な位置を持つことになるためです。

 反対意見も出なかったため、撤退の命令案をまとめて木村中将に提出すると、すでに撤退の決意を固めていた木村中将は命令案にあっさり署名します。

 ところが翌日に方面軍の田中新一参謀長が司令部に帰還して撤退のことを知ると、これに猛然と反対。結局意見の一致を見ることなく(手続き上、別に参謀長の了解を取る必要はなかった)、23日夕方から25日朝にかけて木村中将と方面軍司令部の幕僚達は空路モールメンへと撤退したのでした。

 個人的には、地形上の問題としてモールメンへ司令部を移すというのはごく当たり前の判断のように思えます。OCSでは司令部が敵に踏まれたり孤立したりしないようにうまい位置に置いておくということはかなり重要であるため、そういう感覚に共感を覚えやすいということはあるかもです。



 ただし、モールメンへの方面軍司令部の撤退について、上級司令部や現地部隊に対して充分告知したり、撤退後にどうすべきかについての指示を与えずにいたため、その後現地が大混乱に陥ったということはあり、その面についての責めは確かに負うべきなのだろうなとは思われました。

 また木村中将は、あらかじめ4月13日に第28軍司令官の桜井省三中将から「早めにラングーンから撤退しておいた方が良い」と声をかけられたのに対して「撤退はしない」と返答しており、ビルマ方面軍全体としては(当時の日本軍の根性論的あり方からしても)撤退するなどあり得ないという空気でもあったのだろうとも想像できますから、いきなり撤退という判断になったのは「唐突」ではあったでしょう(実際、この時から撤退を準備し始めていれば、後世の責めを負う度合いはだいぶ低くなったと思われます)。

 ただ、1942年の連合軍側のラングーンからの撤退にしても、上級司令部のウェーヴェル将軍はラングーン保持を命令していたのに、ビルマ軍司令官アレクサンダーはいきなり撤退命令を出したのですから、単に木村中将を非難するだけでなく、アレクサンダーと比較してどうだったのかというようなことを検討した方が、戦後70年以上経つ現在としては建設的ではないかと思いました(その結果として、木村中将のやり方の方が悪かった、ということは大いにありそうだと思います)。1942年の時は、連合軍側がペグーで日本軍を阻止できると思い込んでいた(実際、そこでは連合軍側が勝っていました)ら、実はその北西を別の部隊に迂回されていてラングーンが北から攻められそうなことが判明して「もうダメだ」となった……という面があったのだろうと思います。1945年においては、トングーでいくらかでも抵抗できると思っていたのがまったく不可能で、大規模機械化部隊がラングーンに突進してくるようだということが明らかとなって「もうダメだ」となったのかもしれないと思います。


 あと、木村中将は『アーロン収容所』によれば、非常に根性論的なことを兵士達に言う人であったらしく、その面では「なんでやねん」という印象になるのはやむを得ないとは思います。

 私たちの小隊長は学徒出身兵で、二十年はじめにビルマの土を踏んだのだが、そのときの様子をこう話した。自分たち学徒出陣兵が、候補生となりビルマにやってきたとき、方面軍司令官K【木村兵太郎】大将【当時は中将だと思いますが、最終階級は大将】に引見された。その席の訓辞はこうであった。
「生っ白いのがやってきたな。前線は貴様らの考えているような甘ちょろいものではないぞ。お役に立つためには覚悟が必要だ。行け、立派に死んでこい」
 19年秋、病院に入っていた私たち兵隊は、ともかく歩行にたえるものはいっせい退院を命ぜられ、前線に向った。私と同行した右手を失った兵士もそうだった。私たちが驚いて、どうしてこんな障害者に前線復帰命令が出たのだろうと噂をしていたら、軍医が大喝した。
「片手で銃は持てなくとも馬のたづなはひける。すこしでもお役に立つものは前線へ行くのだ。K【木村】閣下のご命令なのだ」
 このK閣下はラングーンに敵が迫ると、一般市民を兵役に徴発して守備させ、自分たちは飛行機で脱出した。残された日本人は、一般市民といわず看護婦といわず、英軍の包囲下にほとんど全滅した。私たちの最後の戦闘場所、シッタン河の陣地で、私たちは髪をふり乱して流れてくる赤十字看護婦さんの屍体を毎日見た。「死んでこい」という言葉のつぎには「おれは飛行機で安全地帯へ逃げるから」と補足して述べるべきだったのだ。
『アーロン収容所』P171,2






 あと2つ、気になることがあります。日本語版Wikipedia「木村兵太郎」には、↓のように書かれていいるのですが、この記述に対してはいくらか別の視点を提供できるのではないかと。

4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシャン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言したが、木村はこれを却下した。同様に田中新一方面軍参謀長も「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各方面で破綻に瀕しつつある方面軍統帥の現実的かつ精神的中心たるの存在を、方面軍自らラングーンを確保することにより明らかにすべき」と主張していたが、司令部の撤退が田中参謀長の出張中に決定された。



 桜井省三中将が「方面軍司令部を速やかにシャン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と言っていたというのは、『シッタン・明号作戦―ビルマ戦線の崩壊と泰・仏印の防衛』のP237にも書かれていました。

 しかし、『ビルマの名将・桜井省三』では、違ったニュアンスで書かれているように思いました。



方面軍司令部が戦闘の渦中に巻き込まれてはまずい。今のうちならまだ整斉と後退できるので、どうぞ早くモールメンにさがって下さい。そして速やかにシャン高原に戦闘司令所を推進するのが適当だと思われます。ラングーンの防衛は第28軍で引き受けますから
『ビルマの名将・桜井省三』P216


 ここでは「モールメンに下がって欲しい」としていますし、「シャン高原に戦闘司令所を推進する」というのは木村中将がそこにいるべきだというのではなく、適当な指揮官を任命してシャン高原に司令所を置くべきだ、という意味である可能性もあるのではないでしょうか。ただし、同書P220には「(作戦指揮所は)戦闘司令所ではないので軍司令官はいない」という記述があり、この記述からすると戦闘司令所には軍司令官がいるのが普通かもしれません。ただだとしても、シッタン川の東岸に木村中将がいた方がいい、ということではあるかとは思います。



 それから、田中新一参謀長についてです。Wikipediaの記述では、田中参謀長の方がまともなことを言っているように感じられるかもしれませんが、田中新一という人は日本陸軍の最強硬派で、参謀本部第1(作戦)部長として対米開戦を主張して開戦に導いた人物であり、ガダルカナル撤退を頑として認めず乱闘騒ぎを起こし、ビルマ方面軍参謀長としてもインパール作戦失敗後、防御態勢を取った方が賢明だと他の幕僚達が考えているのに積極的攻勢論を主張しまくって周りの人々を困らせていた人物なのです(ただし、ビルマに来て最初に指揮を執った第18師団長としては、非常に優秀であったと思われます)。

 正直、私自身、田中新一がビルマ方面軍参謀長としてビルマ戦線に与えた悪影響というのはかなりあったのではないかという印象を持っています。GameJournal誌16号P24で上田洋一氏は「連合軍が野戦指揮官としての田中を高く評価していることを考えると配属される部署【ビルマ方面軍参謀長のこと】が誤っていたと思えてくるのは筆者だけであろうか?」と書かれているのですが、私も田中新一が師団長にとどまっていた方が遙かに良かったのではないかと思えます(もちろん、反対意見もあることでしょう)。


 また、ガダルカナル撤退に田中新一参謀本部第1(作戦)部長が反対していた時、木村兵太郎は陸軍次官でその席におり、田中新一に対してその言動を詰問して「なにッ!」と反抗してやりとりがあったりしたそうです(『ビルマの名将・桜井省三』P221)。その後、彼等は方面軍司令官と参謀長という関係になるわけですが、その間ずっと「ただならぬ空気」だったそうです。そこらへんの悪影響もあったのではないでしょうか。



 しかし特に、木村兵太郎の人となりや能力については、私はまだまだ知識がないので、そこらへん詳しく知ってくると、意見も変わってくるかもしれません。とりあえず、今の時点での、私なりの「論争的」なものを提示してみました。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942と1945は、マップは共通、ルールは別で

 OCS『South Burma』(仮)は、まずは基本的に1942年1月~5月の日本軍によるビルマ攻略を扱うものなわけですが、1945年1月~8月のビルマ戦線の崩壊局面も同一マップで再現できそうなら、ぜひそうできるようにしたいと漠然と思っていました。



 ↓現状のマップ割。フルマップ3枚で、一番北のマップはOCS『Burma II』のマップと一部重なります。

unit8546.jpg



 この件は、リサーチの面からも必要だと思ってました。というのは、OCS『South Burma』(仮)を作る上で最も困難なのはマップ製作の部分だと思っているのですが、ビルマ戦の往路(1942年)の資料だけでなく、復路(1945年)の資料も読めば、地形に関する記述は数倍あるだろうことが見込めるからです(1ヘクス8kmというスケールでは、単に資料の中の地図を参考にしてマップを作るのでは全然充分でなく、文字資料の部分から見つかる材料を織り込んでいかないとダメだと、ここまでの作業でも痛感してます)。


 なので、往路の最初の部分から資料を読み始めて、復路の最後の部分で重なるところが出始めたら、後者も読んでいこうと。尤も、復路の最後の方とはどういうもの(資料)なのか、実は分かってなかった(^_^;のですが、先日ようやく、「シッタン川突破作戦(日本軍の残存部隊が南部ビルマの中央部にいて、その東側が英連邦軍に阻止されていたのを突破し、シッタン川を渡河して南東ビルマに向かおうとする作戦)」が最後の作戦に当たり、戦史叢書にもその作戦を扱った本があるのだということを理解して注文したのでした(そういう作戦行動があったこと自体は知っていたのですが)。






 で、いよいよ少し復路の部分にも手を付け始めそうなので、『South Burma』(仮)のテストプレイ用ルールブックを改訂する上で復路に関しても織り込んでいかねば……と思って、しばらく考えて諦めました。「往路も復路も同一のルールで再現するなんて無理だな! 往路と復路は、別のルールやチャートを使用するということにしよう!」

 マップは同一のつもりですけども、1942年から1945年の間に橋が落とされたり架けられたり、鉄道や道路などの変遷がある可能性はあるかと思います(それらの変遷がかなりの件数あるようなら、別マップ別ゲームということにした方がいいのかもしれません)。ユニットは、1942年は3倍スケール、1945年は標準スケールのつもりですし、全然別となります。地形効果表も、1942年のはかなり移動しやすいのですが、1945年のは(『Burma II』と同様の)かなり移動しにくいものにした方がいいのではないかと思っています。


 ルールを別にするので、ルールブックにはそれぞれ「South Burma: 1942」「South Burma: 1945」とでも書こうと思っています(シモニッチ的な感じがするなぁと思いましたが、良く考えたらシモニッチなら「'42」とかですかね)。

『リデルハート 戦略家の生涯とリベラルな戦争観』を読了しました

 古本屋でたまたま見つけて買ってみた『リデルハート 戦略家の生涯とリベラルな戦争観』を読了しました。





 この本、記述の姿勢が個人的に非常に好みでした。

 リデルハートについては今までに読んだ記事等などでも賛否両論がある(自分の功績を大きく見せようとしたとか)ことは少し知ってましたけども、この本はリデルハートに関してその功績を語るものではありながら、その欠点も事細かく大量に挙げていて、むしろ欠点に関して割かれた分量の方が多いのではないかと思われるほどでした。

 私は、人間には長所も短所も両方あるのが当たり前だと思いますし、長所しかないとか短所しかないとする記述には胡散臭さを非常に感じるタチではないかと思われます(ごくまれに、長所しかない、短所しかない人間もいるでしょうけども。大谷翔平とか、短所あるんでしょうか?(^_^;)。

 なので、牟田口廉也の長所に関して非常に気になり続けていますし、あるいは、GameJournal誌で児玉源太郎には長所しかないかのような連載記事(そうでもなかったでしょうか?(^_^;)があったのに対して、「ホンマかいな」という印象を抱いたりしました。



 ミリタリーからはずれますが、『人新世の「資本論」』というベストセラー本を買って読んでみていた時に、著者が晩年のマルクスの論について褒めまくりどころか、現代の思想家の色々な論と比べても必ず勝っているかのような記述を繰り返すのに、私は超絶胡散臭さを感じて途中で読むのをやめてしまいました……。環境問題に関して劇的な変革をしなければどうにもならないでしょという著者の方向性に、私はかなり一致する(ただし、すでに手遅れである可能性の方が遙かに高いと私は思っていますけども)のですが、晩年マルクスに対するあまりの傾倒ぶりとか、変革ができる・できて当然と思っているかのような姿勢には個人的に違和感を感じています(尤も、私なんかは世の中を変えることはできない人間で、この著者のように「傾倒性」が高く「楽観的」な人間が、世の中を変えるのでしょう)。






 閑話休題。

 リデルハートについての後世からの論評は、大木毅さんが短く触れていたものの他は『戦略の世界史(上)』での数ページの記述が私が読んだ今までの上限だったと思うのですが、この400ページを越える本で細かくその長所にも短所にも細かく触れ得たというのは大変ありがたかったです。

『戦略の世界史(上)』で個人的に価値のあった部分(付:OCS『The Third Winter』ネタ) (2022/01/05)



 中でも白眉は、「リデルハートがグデーリアンに戦前から影響を与えていた」という説に関して、戦後ある研究者が否定した後、別の研究者がやっぱり与えていたということを明らかにした……という話でした(もちろん、それがまた否定されるとか、議論が継続している可能性もあるでしょうけども)。

 あと、索引があるのが偉いです。参考文献一覧は当然あります。


 この本の個人的に良くなかった面も書いておきますと、同じ内容の繰り返しが多いです。繰り返しをうまく編集すれば、分量は半分近くになったのではないでしょうか。また、間接的アプローチがうまく実戦に適用できないという話とか、西側流の戦争方法とかに関するもっと具体的な例をいくつも挙げてくれると、個人的にはもっと良かったと思いました。

 この本が書かれた時期が2008年で、リデルハートに発する西側流の戦争方法が良いものであるという主張はまあ別にいいと思うのですけども、個人的には、その後のロシアによるクリミア併合やウクライナ戦争というような「権威主義国家による戦争方法」に対して西側流の戦争方法がどうしていけるのだろうか、というようなことが非常に気にかかっています。

#あなたの周りのインパール作戦:ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー

 『戦慄の記録インパール』の「おわりに」をまず読んでみたところ、NHKスペシャルの放送後に、「#あなたの周りのインパール作戦」というハッシュタグが登場して、今現在の日本人が日常の中で直面したインパール作戦的な経験をつぶやく人が急増したという話が載ってました(文庫版P267)。






 その種別としては、「上司への忖度、曖昧な意思決定、現場の軽視、科学的根拠に基づかない精神論、責任の所在の曖昧さ……」などということなんですが、今話が大きくなっている「ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー」も、私が思うにインパール作戦的な要素がいくらかあるのではないかと思い至りました。

 たとえば、

1.「つきあい(人間的結びつき)」が優先されて「人道的公正性(フェアネス)」が徹底的に閑却されたこと。

2.「迫力」で反対意見を黙らせるリーダーに、まわりが沈黙していったこと。



 特に1は、日本社会全体の問題である可能性が高そうな気がしています。あ、でも公(おおやけ)よりも個人的結びつきの方が遙かに重視される中国やイタリアとかもそうかも……?

 それに比べて欧米(イギリスやアメリカ?)なんかは、フェアネス(社会的に公正であること)が重視され、人間的結びつきがあるからかばうとかって度合いが少ないらしいと、昔何かで読んだ気がします。


 『アーロン収容所』を読んでいても、当時イギリス人はむちゃくちゃ人種差別的なわけですが、約束を守ること(これも一種のフェアネス?)に関してはむちゃくちゃ大事にしていて、約束が守られなかった時には人種差別の対象である日本人捕虜に対してさえも真摯に謝ったものだった、という話が何カ所か出てきていました。


 日本社会の道徳性は、「みんながそうしているから(同調圧力)」という、人と人との間的なもので維持されるのですが、欧米ではそういうのはほとんどなく、むしろ「フェアネス」(あるいは法律)という概念でもって各人(あるいは裁判所)が判断している。もちろん何が「フェアネス」であるかとか、どこからが「フェアネス」になるかとかは各人で違っていったりもするから、その辺についての議論が活発だったり、訴訟が活発だったりする。


 日本社会が、今日から欧米社会になれ、と言われても無理だと思いますし、欧米社会がばら色というわけでもないと思いますけども、「ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー」は別にメディアだけが悪者になるべきものではなく、そもそも日本社会ってそういうことが起こりやすい社会構造らしいね、インパール作戦とか、というような理解の方が、「マスゴミ」論よりも、私は個人的に好みです。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:サルウィン川周辺の小道と、ビルマ人部隊を改訂

 OCS『South Burma』(仮)製作のために、ネット上にあった『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』を読んでいく作業をしてました。


 この本には詳しい地図がけっこう入っているのですが、その中のP119の地図は、1942年2月1日時点(モールメンを日本軍が占領した直後)の英連邦軍の配置図となっています。


 ↓今回改訂したOCS『South Burma』(仮)のマップにその配置図の一部を描いたもの。

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 以前、OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていた (2023/07/15)で書いてましたように、英連邦軍側は海岸沿いやサルウィン川上流の方も警戒してかなり広い範囲に部隊を配置しています。

 それはそれで、プレイヤーがそうしたくなるような史実に基づいた状況設定を盛り込んでいこうと思うのですが、その他に2つほど、ちょっと解決しなければならない問題が認識できてきました。

1.史実では、画像の赤い□で囲んだPa-an、Hlaingbwe、Kamamaung等を保持することが意図されていたようなのですが、これまでに作っていたマップ上では、英連邦軍がそれらを保持することに魅力を感じられないだろうこと(日本軍にとってもっと良い進撃路が他にある感じなので)。


 ↓以前のマップ。

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 小道は、資料で見つけられていたものを描いてみていたわけですが、↑だと、サルウィン川を渡る上では、モールメンのすぐ北のあたりや、Pa-an(パアン)の北にも2箇所くらい有望な場所があるように感じられます。ですから、先に書いてました史実の「Pa-an、Hlaingbwe、Kamamaung等を保持する」などという事に意味はないようになってしまうでしょう。

 そこで、よりそれらを保持することに意味が感じられるように、小道や平地を取捨選択して削ることにしたのでした。




2.Hlaingbwe、Kamamaung等に英連邦軍はどうやって一般補給を入れるのか?

 OCS『Burma II』で英連邦軍が小道を通して一般補給を入れるのは地獄のように大変なのですが、『South Burma』(仮)はそこらへんは緩和しないとどうにもならないのでそうしようとは思ってます。しかしだとしても、史実ではかなり離れた場所に英連邦軍は部隊を配置することをしており、単なる緩和ではどうにもならないと思われました。

 そこで気付いたのが、そういうかなり離れた場所への守備隊配置に使用されていたのが、ビルマ人部隊であったことです。具体的には第2ビルマ小銃大隊、第4ビルマ小銃大隊、第8ビルマ小銃大隊など。

 ビルマ人部隊は現地での食料等入手にかなり有利であっただろうと考えても良いかと思い、『South Burma』(仮)では日本軍だけが使用可能と考えていた「食糧入手表」をビルマ人部隊も使用可能であることにすればなんとかなるだろうと思いました。ただし普通にそのユニットのアクションレーティングで判定していてはやっぱりダメなので、ビルマ人部隊はアクションレーティングに+3できるという方法で。


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 ただしそうした場合、ビルマ人部隊(の一部)が攻撃も可能な戦闘力を持っていては、日本軍の後方でのゲリラ活動が可能になってしまう(史実では後に「そういう風に使った方がよかった」と報告があったものの、序盤ではそう使用するための条件が整っていなかったのでそれができなかったのです)ので、とりあえずすべての部隊に()を付けて防御専用にすることにしました。


 ↓現状のユニット。

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 『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』でサルウィン川渡河のあたりまで読んだら、テストプレイ用のセットを作ろうと思ってます。


台湾有事に関わらない(戦争に関わらない)ことで日本が何を失うことになるか考えるべきだと思っています

 ツイートで↓のように書いてました。





 ここらへんのことで、もうちょっと詳しく自分の思っていることを書いておこうと思います。


 最初の↓ですが……。

「報道特集」が左の立場からどういう風に台湾有事を語るか気になって見てました。

最後のまとめとして、台湾側が過激なことをしない限り習近平が戦争をしかける可能性は低いという総括でしたが、これはツッコミどころだらけだと思います。
【「過激なこと」というのは、独立派が政権を取るなどのことです】


 しかし私が思うに(というか、日本の左翼以外の衆目の一致するところ)、習近平が戦争をしかけるタイミングは、↓のような場合でしょう。

1.台湾侵攻が成功するだけの条件が整った時
2.(条件は完全に整ってはいないが)習近平の権威が危険に晒され、大きな功績を示す必要が出てきた時
3.習近平の任期延長のために功績が必要なタイミング
4.上記3つにも合致しなくても、習近平が「今だ」と思い込んだ時(習近平が寿命を意識した時など)


 ロシアのウクライナ侵攻は、4の時に行われたように見えます(3も少しあるでしょうし、またプーチン自身は1だと思っていたでしょう)。


 日本の左翼は長年、「戦争を起こすのは日本やアメリカである(中国やロシアは平和勢力だ)。平和のために日本は軍備を増強すべきではなく、日本が軍備を増強するから戦争が近づく」と主張してきましたし、そうすると「報道特集」のように言うしかないのでしょう。



 2つ目の↓ですが……。

ただ、「日本民間人の犠牲者に関して考えるべきだ」という話に関しては同感で、日本国内の軍備増強派もそこの話から逃げるべきでないと思います。

数万人の犠牲が出ても台湾有事にコミットするのか、犠牲には耐えられないから台湾が中国に占領されることになってもコミットしないのか考えるべきだと。


 「べき」だとは思います、思いますけども、それは今の日本ではまだ、極度に難しいでしょうね……。

 というのは新聞などを読んでいても、戦争体験者や戦争について考える若い人によって「戦争は絶対にしてはいけない」というフレーズが何度も何度も繰り返されており、日本社会の(考え直すことなど不可能な)ドグマとなっている感があるので。


 それに対して私は、日本社会は「戦争をしないことのデメリット」について考えたり、話題にするべきだと思っています。それが禁忌でなくなって初めて、冷静な議論が可能になる。現状では冷静な議論が可能な条件は全然整っていないでしょう。


 中国に台湾が侵攻された際に、日本が「在日米軍基地の使用を許さない」であるとか、「自衛隊の出動を見送った」場合、どういうことが起こるか。

 メリットとしては、日本人の犠牲は少なめですむでしょう。日本は戦争には関わらないですみます。

 デメリットとしては、シミュレーションによればその場合、台湾は中国に占領される可能性が高いとされています。台湾は香港やウイグルのようになるでしょう。台湾の民主主義は完全に壊滅し、人権抑圧も頻発するでしょう。台湾人は日本(人)を恨むかもしれませんが、元々台湾人は日本が立ち上がってくれるとは期待できていないという話も聞きます。

 それ以外のデメリットとして(素人の)私が思いつくのは、同盟の信頼関係が傷つくということです。特にアメリカと韓国による、日本への同盟の信頼感は地に落ちるでしょう。結果として、アメリカは東アジアへのコミットを減らし、韓国はアメリカよりも中国の傘に入ることを選択する可能性が高まるのではないでしょうか。つまり、中国の影響圏が広がることになるということです。

 そうすると次に、中国は沖縄に対する影響力を増大させようとすると共に、日本が(韓国のように)中国の言うことを何でも聞く(アメリカの影響力を削ぐ)ように要求をエスカレートさせるでしょう。まさに、「太平洋は中国とアメリカの両国が勢力圏を分けあう広さがある」のであり、太平洋の西側は中国の勢力圏に入るべきなわけです。


 ……と、私は思っているのですが、そうでもない? ここらへんの予測に関して、識者の意見も見たことがないので個人の勝手な憶測にとどまってます。

 私の予測がある程度正しければ、こういうことが言えると思っています。「台湾有事に日本がコミットしなければ、将来的に日本(特に沖縄)は香港やウイグルのようになる可能性がかなりある」。

 「日本が将来香港にようになってもいいから、戦争をしたくない」のも一つの意見だと思います。その認識のある非戦主義者となら、議論ができると思う。しかし「日本は戦争をしない。そして今の民主主義も当然、享受し続けることができる」というのは見通しが甘すぎるのではないかと。



 今回のツイートに市川さんのコメントをもらいまして、そのリンク先のブログ記事にこうありました。

特に、台湾在住の日本人が避退できないうちに有事となった際、中国側から「中国の船舶で在台日本人を避難させてあげるから、台湾や米軍に協力しないように」と交渉される可能性も挙げられているのもなるほどなと。そのように交渉されたら、昨今のウクライナ情勢でも見受けられるように「日本人の生命を優先して、戦争には関わるな」と主張する人たちも出てくるだろう。


 中国の認知戦、ヤバいですね……(>_<)。本当にそうだと思います。そういう人は恐らく、50%を越えるのではないでしょうか。

 それらの結果として、中国が台湾侵攻に成功する可能性もある程度あるのではないかと私は思います(中国が数百万台のドローンを活用するとか、アメリカの国内政治の状況が悪化するなどの条件が重なって)。


 日本社会に広くはびこる「空想的平和主義」が健全な程度まで減るためには、私は、一回本当にひどい目に会うしかないのではないかとも思っています。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていた

 1942年のビルマ戦の初期の一時期、モールメン攻略後(2月1日)からビリン川の線からの撤退(2月20日)あたりの期間において、英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていたことに関して複数の資料に書かれているのを発見しまして、OCS『South Burma』(仮)でもそれが可能なように配慮することが必要かと思われました。


 ↓OCS『South Burma』(仮)の現状のマップ。

unit8560.jpg


 日本軍がモールメン(Moulmein:画像の右下の赤い□)を攻略した前後、日本軍は多数の小さい船を入手していたようです。

 サルウィン川では、マルタバンとダグウィン【画像の右上の赤い□】の間に船が数隻あった。小道や道路はこれらから東【西の間違いか?】へと続いており、そのため船には注意深い監視が必要だった。海岸沿いの多くの河口や小川も同様だった。日本軍は筏、川船、大きなボートを多数所有していることが分かっていたのである。したがって、彼らは我が軍の戦線の背後で海岸上陸を試みることが十分に可能であった。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P79

 少なくともダグウィンまでは船が遡れたということであると思われ、ダグウィンに日本軍部隊が上陸すればパプンまで移動することもできるでしょうから、それが警戒されたのでしょう。


 【第17インド歩兵】師団長は【サルウィン川沿いのラインという】新しい状況に満足しておらず、シッタン川のラインへの撤退を望んでいた。しかし、彼は却下され、ハットン将軍はサルウィン川の線に固執した。マルタバン(Martaban)は確実に保持すべきであり、また部隊の配置全体はマルタバン湾からの上陸にも配慮されていなければならない。第17インド師団はマルタバン、サトン、パアン、ビリン、キャイクトー、パプンを保持し、マルタバンからシッタン橋までの主要道路と鉄道をパトロールすることになっていた。この地域は、機甲部隊の支援のない小部隊には広すぎた。お互いの連絡手段が失われてしまうほど遠く離して薄く分散配置するのがせいぜいで、横の連絡もなしではこの地域では、一つ一つの部隊が側面から包囲されてしまうだろう。そのうえ、部隊の配置は海上からの上陸に振り向けられ、より多くの部隊がマルタバンからキャイクトまでの鉄道路線に集中し、地形的に潜入が容易なビリン・パプン・パアンの三角地帯にはより小さな部隊しか配置されていなかったのである。このようにして、ラインは薄く引き延ばされた。師団長は、戦線の延長は縦深を不足させるという金言に基づき、戦線を短縮する許可を要求し、ビリン川戦線への撤退を希望した。
『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』Introduction xxix, xxx



 さらに、英連邦軍側は、ラングーンの東側の海岸に日本軍が部隊を上陸させることをも警戒していたようです。

 ウェストヨークシャー【軽歩兵大隊】はラングーンのすぐ東の海岸線を監視するために派遣された。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P75




 ところが史実で日本軍側は、サルウィン川を渡河したりするのに船を使用したものの、川を遡ったり、海岸からの上陸作戦などは行いませんでした。後者の理由については、どの資料で見たのか忘れましたが、マルタバン湾(画像の海の部分全部がそれです)の制海権はこの時期、英連邦軍側が握っており、英連邦軍側の艦船によって上陸用の舟艇が沈められてしまうのを危惧したからなのだそうです。


 しかしゲーム上では、可能な作戦として提示されるべきでしょうし、またそうでなくては英連邦軍側が最前線にばかりユニットを配置できてしまうことになってしまうでしょう。

 案としては、日本軍がモールメンを占領したら、たとえば2T分の上陸用舟艇が日本軍に与えられると。OCSシリーズルールで、上陸用舟艇は1つの移動セグメントに10ヘクスずつ移動できるので、それで上陸作戦を行えます。上陸用舟艇は陸上ユニットなどの下に隠すことができます。

 上陸用舟艇を外洋に出した場合、英連邦軍側の艦船に沈められてしまうかどうかのチェックは必要でしょう。

 OCSシリーズルールでは上陸用舟艇にユニットを載せるのは港湾でしか行えないため、モールメンを港湾にしてみましたが、色々な理由からモールメンを港湾にするのはやめて、単純にシリーズルールの例外としてどこでも載せられるようにした方がいいかもです。
(色々な理由……モールメンを港湾にすると、英連邦軍側がモールメンに増援を送りやすくなってしまう。かといって、モールメンの港湾能力をダメージで予めゼロにするようにすると、シリーズルールで上陸用舟艇にユニットを載せる際にも港湾能力が必要なので困ってしまう(>_<))


第二次世界大戦前のインド等でイギリス人(白人)が人種的優越感を持っていた理由を探して

 ↓でイギリス人の人種的優越感らしきものについて書いていましたが、どうやってそういうものが醸成されたのかが気になって最近本を探したりしてました。


『アーロン収容所』から:ビルマ人が日本軍に好意的であった理由について (2023/06/28)


 そんな中で、↓という本を見つけていくらか参考になるかもと思って買って読んでみまして、少し理解が深まった気がしました。





 1810~1820年代以降は、ヨーロッパ文明の絶対的な優越性と、インド社会の後進性がさらに強調されていく。この背景には、他のヨーロッパ諸国を排斥しイギリスがインドで独占的な地位を占めたこと、産業革命の進展による一等国としての自信などが働いていたであろう。さらになによりも、数千マイル離れた国土を支配する状況を正当化する必要性があった。ここに、「文明化の使命」がインド支配を正当化するイデオロギーとして登場し、【……】
『イギリス支配とインド社会』P10


 これは「マニフェスト・デスティニー」的な考え方なわけですけども、それで「人種的優越感」を持ってインド人を支配することには直結しないかと思います。

 しかしその後、インド人の中に英語知識を持つ者が増えてきつつ、1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるようになると……。

 イギリス直接統治への移行がもたらした心理的影響として重要なのは、インドが一介の商社【東インド会社】の領土としてではなく、イギリス国家の所有物としての位置づけが与えられたことである。インド統治は、イギリスの国威に直結するという意識が生まれたのである。インド総督カーゾン卿によるつぎの発言は、こうした意識を明確に示している。「インドを支配するかぎりわれわれは世界最強の勢力である。インドを失うならば、われわれはただちに三流の勢力に転落するであろう」。帝国支配の永続が暗黙の了解事項となるとともに、当初の「文明化の使命」イデオロギーは後退していった。マコーリが望んだような英語知識をもつ現地人中間層が台頭してくれば、当然のことながら「文明化」の意義は色あせてくる。19世紀後半以降は、むしろ支配「人種」としての優越性、インド社会を構成するさまざまな集団の利害を「公平に」調停するアンパイアとしてのイギリスの存在の意義が、支配を正当化する論理として利用されるようになる。また、インド人知識人層からの、統治への一層の参加要求にたいしては、彼らはインドの「一般民衆」を代表していない、むしろイギリスこそが、インド大衆の擁護者であるという主張によって対抗するようになるのである。
『イギリス支配とインド社会』P14,15




 そして、むしろ「人種差別意識」「人種的優越感」が必要とされ、それが強められていく……。

  「人種」問題は、ことに1883年に起きたイルバート法案をめぐる論争で表面化した。この法案は、刑事訴訟法に修正を加え、インド人判事にもヨーロッパ人犯罪者を裁く権限を与えることを内容としていた。これにたいして、インド在住のヨーロッパ人コミュニティから予想をはるかに上回る反対があり、最終的な法律は、ヨーロッパ人には、過半数をヨーロッパ人が占める陪審員による審理を受ける特権を残したかたちで落ちつくことになる。この論争の過程で、ヨーロッパ人系の新聞・雑誌では歯止めのない「人種差別」的な言論が繰り広げられた。19世紀後半、「ニガー」といった蔑称がヨーロッパ人コミュニティのあいだに浸透した事実に明らかなように、ヨーロッパでの人種理論の発達と平行して、「人種差別」意識は19世紀をつうじてむしろ強まったのである。イルバート法案をめぐる議論を典型とする、露骨な人種的優越性の誇示は、イギリス支配の善意、ヨーロッパ思想文化の「啓蒙性」を信じる知識人の意識に冷や水をかけることになった。
『イギリス支配とインド社会』P59



 ここらへん、もし日本という国家(例えば豊臣政権とか?)がイギリスと同じようなことをしていったとしたら、同じ様な経過をたどった可能性も……?



 他にも、『黒人と白人の世界史――「人種」はいかにつくられてきたか』という本の著者は、人種差別意識が元々あったから黒人が奴隷にされたのではなく、黒人を奴隷としていこうという経済的必要性から人種差別意識が必要になったのだ、というようなことを言っているらしいです。






 もちろん、他にも色々な要因があるだろうこととも思えますけども、個人的にはこういう、「誰でもがそういう風になる可能性がある」という理由付けは割と好みです(誰でもが牟田口廉也のようになりうる、というような)。

牟田口廉也の失敗は、誰にでも起こりうる。ただし、そうなりやすい人と、なりにくい人がいる? (2023/01/28)




<2023/07/13追記>

 もう一冊、『帝国主義と世界の一体化』という本も買ってまして、こちらにも参考になりそうな記述を見つけました。





 すなわち、デカルト的合理主義に象徴される西洋近代のアイデンティティはじつは「大航海」以来搾取し、従属させてきた他の世界の「野蛮の発見」をつうじて形成されたのであった。このことは16世紀から19世紀までヨーロッパ人がもっぱら奴隷として接触したアフリカ黒人との関係でとくにきわだっており、そこでは白人は生まれながらの主人であるのにたいし、黒人はあらゆる否定的な性質を集めた下僕、いや家畜並みの存在であった。
 これにたいし、古い文明と「静止」した政治・社会制度をもつ褐色ないし黄色のアジア人ははじめ、「文明化」され、改善・再生が必要にせよ、まったく異質で、下等な人種と見下されていたわけではない。たとえば18世紀にインドに長期滞在する東インド会社のイギリス人社員がインド人の妻をめとるのはごくあたりまえであったし、もしラジャ(藩王・貴族)の娘とでも結婚できればもうけものであった。同様に18世紀、王侯貴族をはじめヨーロッパ人は中国や日本の華麗な陶磁器に熱中し、その背景となる東洋文化の豊かさにあこがれをいだいた。東洋は西洋と別の世界ではあれ、まだ「野蛮」ではなかったのである。
 しかし19世紀にはいって西欧が産業革命の結果近代工業を発展させ西と東の技術=生産力格差が開くにつれ、またヨーロッパ人が進歩や変化を善しとする価値観になじむにつれ、停滞するアジアはしだいに「野蛮」視され、西洋の「文明」によって救済されねばならない哀れむべき存在に変わったのであった。とくに19世紀半ばイギリスがインドで支配を確立し、また中国が阿片戦争やアロー戦争の敗北をつうじ従属的な条件で「世界システム」に組み込まれるにつれ、西洋の東洋蔑視は普遍的な確信の域に達した。そしてこの蔑視での、「進歩」対「停滞」、「文明」対「野蛮」、「男」対「女・子ども」、「白」対「有色」といった割り切りはヨーロッパ人のアイデンティティを支える柱となり、それは相手の価値や要求に一切眼を閉ざす傲慢を育てるとともに、己の側の実態や欠陥を真剣にかえりみる謙虚さを失わせた。

▼「白」対「有色」 人間を皮膚の色で差別する偏見はヨーロッパ人だけのものではない。たとえばインド(ヒンドゥー教)のカーストにおける四姓(ヴァルナ)はもともと肌の色を意味し、バラモン(白)、クシャトリア(赤)、ヴァイシャ(黄)、シュードラ(黒)と明るい色が暗い色より優位にたった。またある人種の肌色をどうみるかもときと事情によって変わり、ヨーロッパ人は中国人や日本人を18世紀には「白」とみていたが19世紀後半には「黄」とみなすようになった。
『帝国主義と世界の一体化』P54~56

 この変化【進化論を根拠として、白人の生物学的優位を強調する社会ダーウィニズムが代表的思潮になったこと】の背景には当時、世界分割競争の激化にともない、列強の国民のあいだに対抗意識が強まり、それとともにジンゴイズム【自国の国益を保護するためには他国に対し高圧的・強圧的・好戦的な態度を採り脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)も厭わない、あるいは自国・自民族優越主義的な立場を指す言葉】やショーヴィニズム【熱狂的愛国感情が生み出す排他的思想態度のこと】と呼ばれる偏狭な愛国心や白人と有色人種の差異を決定的なものとする人種差別がヨーロッパ人の心に深く根をおろすようになった事情があった。

 たとえば、上述のように19世紀中葉まで - 1857年の「大反乱」(セポイの反乱)後もなお - イギリス本国では、インドの「文明化」とその後に訪れる自治ないし独立の可能性を漠然とではあれ予想する人びとがかなりいた。しかし【18】80年代以降、列強の通商や植民地の拡大を求める動きが活発になり、イギリスの覇権がゆらぎはじめると流れが変わり、インドの「文明化」よりも統治の強化を求める声が主流になった。すなわちイギリス=ヨーロッパ文明の普遍性への信頼、その結果としてインドの「文明化」への期待ではなく、インド人の癒しがたい後進性・弱さが強調され、帝国主義的支配の強化・継続が主張されたのであった。
『帝国主義と世界の一体化』P59,60


 確かに、幕末(1850~60年代)頃の外国人との接触が結構描かれている『風雲児たち』というマンガを読んでいると、(ジョン万次郎がアメリカ本土で差別されたという話もありましたが)日本人が差別されているという感じは受けません。

 しかしその後、欧米では人種差別意識が強まっていって、インド人やビルマ人、日本人らにとってもそれらが堪えがたくなっていったという流れがあったわけですね。


 あるいはまた、太平洋戦争の終盤にはそれまでよりも日本人に対する欧米人の差別意識が強まり、極限にまで達したというような話もあったようです。現在進行形で戦争している相手ですからある意味では当然ではありますけども、ドイツ人やイタリア人に対する見方に同じ様なことがあったかというと……ではありますね。




<追記ここまで>


OCS『South Burma』(仮)製作のために:九七戦とP-40の航続距離について

 『Flying Tigers』を読み進めていましたら、↓のような記述に出会いました。






 指揮下の戦闘機【九七戦】を敵に近づけるため、吉岡【第77戦隊長】はラングーンからわずか200マイルのラーヘンの前方滑走路に【ラングーンから300マイル東のピサンロークから】部隊を進めた。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P103



 別の資料を読んでいると、ラーヘンとラングーン(ミンガラドン飛行場)との間などを日本軍の九七戦も、義勇アメリカ航空部隊(AVG)のP40Bも、往復して空戦したり在地機を銃撃したりしています。


 ↓OCS『South Burma』(仮)のマップを作る時参考にした地図のうちの一つと重ねているもの。

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 一番左の小さい赤い□がミンガラドン飛行場です。ナコンサワンにも飛行場があったり、その南の方にドムアンという飛行場があり、そこも連合軍航空機から攻撃を受けていたもようです。


 ところがふと、現状のP-40と九七戦(Nate)の航続距離と、ラングーン~ラーヘン間のヘクス数を確認して青くなりました。

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 ↑P-40の37ヘクス、Nateの40ヘクスに対して、46ヘクスほどあったのです!(>_<)
(ミンガラドンからマップ東端まで38ヘクス、マップ東端からラーヘンまで8ヘクス(ミンガラドンから46ヘクス))



 これはまずい……。


 で、色々調べたところ、↓のようなことが分かりました。

 九七戦の航続距離は627kmらしく、『South Burma』(仮)で使用しているOCSの標準スケールの1ヘクス5マイル(約8km)での片道でのヘクス数は39、まあおよそ40となります。

 ただこれは、翼内にのみ燃料を入れた時のものなのか、「九七式戦闘機の航続距離を教えてください。本気で知りたいのです。」というページのやりとりによると、↓という推測が書かれていました。

(1)翼内燃料のみの280Lのときは航続距離627km(燃費2.24km/L) 【39ヘクス】
(2)胴体内燃量まで搭載した330Lのときは航続距離825km(燃費2.5km/L) 【52ヘクス】
(3)主翼下の落下式増槽まで搭載した596Lのときは航続距離1710km(燃費2.84km/L) 【107ヘクス】

 ゲーム的には、「ピサンロークからではラングーンまで届かないが、ラーヘンからならラングーンまで届く」という航続距離が望ましいかと思うので、航続距離を52ヘクスに変更するのが良いかな、と思われました。ただ今後、九七戦がピサンローク他からラングーンに飛んでいる記述が多く見つかれば、考え直します。


<2023/07/13追記>

 九七戦が落下式増槽を付けていた(ことがある)ことに関する記述を見つけました。

 彼らはミンガラドンと九七戦を同時に視界に入れた。アメリカ人パイロット達が見守る中、24機の日本軍戦闘機が補助燃料タンクを落とした。「紙吹雪のようだった」とニールは回想する。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P154


 また、九七戦がナコンサワンを進発してラーヘンで給油してからラングーンに向かったという記述もあった(P158)ので、ナコンサワンを基地とできるだけの航続距離を持たせても良いのだろうと思います。

<追記ここまで>






 P-40は、これまでのOCSでは航続距離37というケースが一番多いのですが、57や60というのもあります。

OCSにおけるカーチスP-36とP-40について (2022/09/26)


 ただ、Wikipeida「P-40 (航空機)」を見ていると、航続距離は↓となってました。

P-40 2,253km 【141ヘクス】
P-40E 1,529km 【96ヘクス】
P-40L 2,213km 【138ヘクス】
P-40N 1,207km(落下式増槽装備時) 【75ヘクス】


 よく分からないですが、P-40Bの航続距離を96ヘクスぐらいにしても許されるのかもと思いました。が、37ヘクスとは何だったのかということは全然分からないままです(^_^;


 とりあえずは、ゲーム上良さそうなある程度のところの数字でやっていってみようとは思いますが、何か「それはこうですよ」とかありましたら、ぜひご教授下さい(^^)



<2023/07/10追記>

 ↑で引用していた文の直後に、参考になる記述がありました(^_^;

 義勇航空部隊のマニング大尉はヘルズ・エンジェルス【AVG第3飛行隊】に、メルグイに増援部隊を運ぶ兵員輸送船の護衛を依頼した。オーリー・オルソンは、トマホークがテナセリム上空でガソリンを確保できるのは45分と計算し、この任務を拒否した。67戦隊の足の長いバッファローはそのような問題はなかった。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P103,4




 ↓関係地図

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 今回の引用文で「テナセリウム」というのはビルマ南東部、タイ国境沿いの南北に長い地域のことで、メルグイ(Mergui)の町は現在はベイという名前に変わっています。

 「ターク」の辺りが「ラーヘン」で、画像上の各ヘクス数はラングーン(ミンガラドン飛行場)からのおよそのヘクス数見積もりです。


 ここから推測すると、P-40B(トマホーク)は、だいたい85ヘクス辺りまで行くと、残りの活動時間は45分程度となり、危険になったのでしょうか。すると、安全に活動できる限界は70ヘクスあたり……?(全然分かりません。80弱くらいでもOK?)

 一方、バッファローの方は航続距離が1600kmという数値が出てきまして、ヘクス数にするとちょうど100ヘクスとなります。


 すると、バッファローが100ヘクス、P-40Bが70数ヘクス程度、九七戦が52ヘクス、あたりでしょうか……?

<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマの英連邦軍自動車化部隊の一度の積載量について

 1942年のビルマ戦におけるイギリス人部隊、キングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵第2大隊の兵士であった人物の日記を元にしたという本があるのを発見したので、購入して読み始めてます。






 この中に、大隊の持つトラックの総積載量が非常に少ないものであったということが書かれているのに興味を持ちました。

 この大隊には6両の15cwt【約3/4t】トラックしかなかったが、これは大隊全体はおろか、6個小隊にも十分ではなかっただろう。
『Burma 1942: Memoirs of a Retreat: The Diary of Ralph Tanner, KOYLI』P40



 「15 cwt truck」というのは「CMPトラック」というのの1種であるようです。

 「6個小隊」が大隊のうちのどれだけなのかですが、『WWII戦術入門』という本によると、イギリス軍はこのような編制であったようです(P42)。





1個歩兵大隊=4個小銃中隊

1個小銃中隊=3個小銃小隊


 つまり、1個歩兵大隊は12個小銃小隊から成っていたことになります。ということは、「大隊の半分を運ぶにも十分ではなかった」ということになりましょう。


 OCSでは、ユニットの兵員すべてを乗せるだけの車両(あるいは馬)がなかった場合、移動モードにおける移動力が低めにレーティングされるようになっています。


 ↓現状のOCS『South Burma』(仮)用ユニット。今回の「キングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵第2大隊」というのは、左下から2番目の「2 KOYLI」です。

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 自動車化部隊の移動モードの移動力を「10」としてますが、実は最初全部「12」にしてあったのを、先日「少し下げた方がいいかも?」と思って10にしていたのでした。

 OCSの自動車化部隊の移動モードの移動力は通常、12か14あたりで、高いものだと18とか20とかってのもあります。10というのは記憶にはないのですが、あったかどうか……?

 ただ、OCSルソンの第48師団は自動車化部隊であったとはいうものの、師団長の土橋勇逸氏の回想録によれば実態としては1/3は徒歩、1/3は自転車、1/3が自動車であったそうで、私は歩兵連隊は8移動力、捜索大隊は10移動力としてました。


 ↓OCSルソンの第48師団の移動モード面。

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 ビルマ戦における英連邦軍全体が車両不足気味であったのか、あるいは部隊によって足りない、足りてるの差が激しかったのか等、今まで気にしていなかったこともあって良く分からないのですが(^_^;、ゲーム上の必要から設定されていく面もかなりあるとは思います。


 今後またこの件について気にして、情報を見つけたら集積していこうと思います。


<2023/07/06追記>

 他の部隊もトラックが不足していた旨の記述を見つけました(今までにも読んでいた内容とは思いますが、気を付けていなかったので……)。

 動員されたグロスターは、鉄製ヘルメットがなかったため、陸軍型の日よけヘルメットをかぶっていた。装甲ブレンキャリア、迫撃砲、トラックも不足していた。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P38

 ジョーンズの旅団【第16インド旅団】は、動物による輸送と自動車による輸送を混合して装備していた。例えば、1/7グルカは、52頭のラバ、6頭の馬、10輌の大型トラック、水タンク車、4台のオートバイを所有していた。車両は砂漠迷彩に塗られ、中東の目印のない荒野を横断するための太陽コンパスを持っていた。すべての兵員や動物を一度に運ぶには十分な数の車輛はなかったが、大隊は少なくとも自前の貯蔵品や重装備を移動させることができた。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』58



<追記ここまで>




OCS『South Burma』(仮)製作のために:パアン周辺での戦闘でのインド人部隊の様子

 『歩兵第二一五聯隊戦記』を入手して読んでいて、パアン周辺での戦闘でのインド人部隊の様子がいくらか書かれていて興味を持ったので、抜き書きしてみたいと思います。



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 第33師団の第215連隊がパアン(Pa-an)から対岸のKuzeik(『歩兵第二一五聯隊戦記』の表記はクンゼイク)を確保しようとした一連の戦闘中の記述からです。

 敵は呑気に大きな薪をたいて、身体を温めている。歩哨は居眠りの最中。「突込め」の号令で突込むと、十五、六名のインド兵は銃を捨ててバンザイした。英印軍とはいうものの、最前線にいるのはインド兵ばかりだ。生れて初めて戦いをしたのだろうか。体格は五尺六寸【約170cm】から六尺【約182cm】近い者ばかりだが、度胸のない連中だ。わたしたちもインド兵は初めてなので、ちょっと胸がどきどきしたが、これを見て自信がついた。十五、六名を捕虜にして、三木小隊長は得意の英語で小哨の位置や兵力、装備などを聞く。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P227

 夜が明けて撤収して本部に帰ろうとしたら、森の中から敵の敗残兵が30名近くでてきた。インド人部隊だったが、英国の大尉が一人いた。戦闘開始前、原田聯隊長が英軍将校の捕虜がほしいと言われたことを思い出し、これ幸いと手真似で投降を呼びかけた。インド人大尉とインド兵は全員手を挙げて投降しようとしたが、英人将校だけは敢然と抵抗してきた。その上、彼は友軍であるインド人大尉を我々の目前で射殺してしまった。結局は、この英軍大尉を捕虜にしたが、このことで民族の異なった混成部隊というものは、こうしたことから破綻をきたすものだと思った。しかし、【後に日本の】敗戦というかつてない惨めさを味わった時、日本人の目に彼等を見る甘さがあったことをしみじみと感じたものであった。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P231


 ↑の例では、イギリス人大尉とインド人大尉の2人の大尉がいたことになってます。大尉は主に中隊長、中隊は約200人とネット検索では出てきました。


 【日本軍の】夜襲だ。敵か味方か近寄らないとわからない。闇の中であちこち銃弾が乱れ飛ぶ。奇襲作戦に驚いた敵のうろたえぶりは大変だった。夜が明けて掃討戦が行われた。わが分隊は敵陣地の裏側斜面に回った。あちこちに敵の戦利品が散らばっている。舗装道路に出た。一人の白人兵が手を挙げて近寄ってきたので、後手にしばり身体検査をすると本国兵であった。彼の胸のポケットから恋人らしい女の写真が出てきた。瞬間、いまごろ、この彼女は何をしているのだろうか、ふと思ったりした。
 戦利品は小銃、機関銃、食糧品などであった。敵の歩兵は日本兵と違い歩かない。自動車で行進するので何でも持っている。メリケン粉にフライパン、チーズに砂糖、バターなど……。横文字のわからないわれわれは、バターの一缶を持ってきて「よい保革油があった」と乾ききった軍靴に塗りつけ、いささか効果があったと喜んだ。
 進撃は続く、ぽつぽつ敵空軍が攻撃に飛んでくる。昼は木陰を歩き仮寝、夜は行軍、舗装道路あり、山道あり、田圃ありであった。敵機が頭の上で爆弾を落とすのがよく見える。斜めに落ちてくるので真上なら安心だ。歩け歩けで、敵を追って追撃した。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P231,2


 ↑の記述では、「イギリス人の兵」とあります。恐らくインド兵大隊だとイギリス人は士官クラスしかいないと思うのですが、当時ビルマにあったイギリス人大隊のうちの一つの兵かもです。イギリス人士官を「兵」と誤認した可能性もあるかもですけども、イギリス軍の軍服は階級章でしか士官と下士官が区別できないとえはいえ、兵隊さんは階級にものすごく敏感だと思うので、そういうことは考えにくいかなあ? と。

 中段の「敵の歩兵は日本兵と違い歩かない。自動車で行進するので何でも持っている。」という記述も興味深いです。他の資料でも、当時のビルマの英印軍は移動をあまりに自動車に依存していたため、日本軍部隊に後方の道路を封鎖されてしまうと、ジャングルを車は通行できないため、道路封鎖を攻撃して何とか突破するか、あるいは物資を捨てて徒歩でバラバラに逃げるしかなくなってしまったという話がありました。これは1942年のビルマ戦が終わった後に英連邦軍側の深刻な反省事項となり、その後改善が図られていったのでした。

 1942年のビルマ戦で得られた戦利品(チャーチル給与)のリストを作るとものすごい膨大なものになるでしょうし、英連邦軍の物資が豊富なことに関しては、他の資料でも、イギリス人士官?が捕虜になってまず最初に言った言葉が「ウイスキーをくれ」というもので、日本兵は感覚の違いにとまどったという話がありました。

 後段の爆撃の様子も興味深いですし、あるいはまた「舗装道路」という話はこのパアン戦の回想録に何回も出てきまして、想像していたよりもかなり広範囲がアスファルトで舗装された道路であったり、あるいは村の通りがアスファルト舗装されていたようです。

 敵の大部分はインド人であったという。多勢と優勢な火力を頼む敵の真正面から攻める不利を知っている友軍は、横へ横へと回り込んで銃剣を振るってあばれ回ったので、インド兵はすっかりおびえきって逃げ回ったという。彼等は、発砲もせずにいつどこから突っ込んで来るかわからない命知らずの日本軍に、すっかり震え上がってしまった。この一撃でインド兵に与えた恐怖心はその後の作戦を有利にした。一方友軍の損失も大きかった。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P233


 こういう話は他の資料にも出てきます。実は最近、最初にとりあえずレーティングしていたアクションレーティングの数値が、「あまりに極端すぎるかな?」と思って、少し英印軍のアクションレーティングを上げようともしていたのですけども、この奇襲効果の強さを考えると、差はあって良い(攻撃側奇襲が成立しやすく、日本軍はそれを頼りに戦闘をやっていく)ということかもと思ったりも。


 ↓現状でのユニット。グルカ兵はあまりアクションレーティングを下げるわけにはいかないかなと3にしてますが、これでうまくゲームが回るかどうか……。

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 サルウィン河西岸道に沿い南下中、突如、敵幕舎数個を発見した。右往左往する敵兵を縦横に刺突して突進した。戦闘司令所とおもわれる幕舎に突入したところ、数名の部下とともに、負傷した指揮官(英国人中佐)が端座していて「われを撃て」の意志を示した。轟然たる銃声の下に従容として死に就いた。その態度は、まさに英国軍人の面目を示したもので、敵ながら天晴れ、われもまたこうありたいと思った。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P234


 ネット検索すると、中佐は主に大隊長を務めるとあり、大隊規模でユニット化してあるので、もしかしたらその大隊長なのかもです。このパアン~クゼイク戦で英印軍側で主に戦ったのはインド人部隊の第10バルーチ連隊第7大隊で、「7-10 Ba」とあるユニットです。今後また英印軍側の資料も調べていく中で、詳細が分かるかもしれません。

 この話は別の資料でも見た記憶があるのですが、今見つけられませんでした。また継続して探してみますが、まったく同文であった可能性もあります。



 『歩兵第二一五聯隊戦記』は「発刊のことば」を見ていると、1969年にようやく同連隊の慰霊祭を行うことができてほっとしていたら、遺族達から「どんな状況で死んだのかが知りたくてやってきたのだが」という声をかけられ愕然として、作られることになったということが語られており、他の聯隊史本よりも各人の死んだ時の状況が詳しく語られている感じがします。

 例えば印象的なものとして、傷が大きくもう助からないと殺してくれる事を頼む兵が多くいて、ある人の場合上官が命じて他の兵士が空へ向かって銃を一発撃つと、その重傷の兵士が事切れた、という話がありました。あるいはまた、「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬ兵士もいて、中国戦線ではそういう叫びは聞かなかったのだが、という記述も興味深く感じました。


『アーロン収容所』から:ビルマ人が日本軍に好意的であった理由について

 『アーロン収容所』から、ビルマ人が日本軍に好意的であった理由についてについても書いておこうと思います。


 実は、著者はその理由について「分からない」と何度も書いており、事実その理由を述べていません(おい)。また、日本軍は(負け戦の中で)ビルマ人達に色々ひどいこともしたのは確かであったと書いていて、実際に日本軍にひどい目にあったビルマ人は日本軍を恨んでいたらしいと述べていますし、あるいは著者らが使役していたビルマ人青年に関して、

 まことに申しわけないが、私たちはこのよく働くビルマ人を可愛がっていたというものの、何もわからぬ上等な家畜のようにしか考えていなかった
『アーロン収容所』P160


 とも書いています(ところがこの青年は日本敗戦となって著者らが餞別などを渡してもう帰るといいよと伝えると、仏教の流転的な所感を述べて、絶望的になっていた著者ら日本兵達を心の底から感動させたのです)。


 ただ、著者の接したビルマ人がどのように日本兵捕虜らに好意を示したかについての記述は、何回も出てきます。日本兵のいる場所に密かにタバコや食べ物を置いておいてくれたり、また著者らがイギリス軍の命令で汚物を処理させられている時にでさえ、そこにタバコなどをくれたこと。ビルマ人のある老人などは日本兵捕虜に出会うといつも道に土下座して手を合わせ頭を下げてくれたため、兵隊一同はありがたいよりは恥ずかしくて閉口したとか(P166)。


 一つには、ビルマ人がインド人やイギリス人を非常に嫌っていたので、それへのあてつけということもあったもののようです(ビルマ人は穏やかで、当時の日本人がよく人を殴ったりするのとは全然違っていたそうですが、インド人とは集団で喧嘩したり、ひどいイギリス人の役人の宿舎を夜ごと襲ったりすらしていたとか)。

 それにも絡むところですが、私は著者の書いている↓のエピソードが、「理由」の部分ではなかろうかと思いました。著者が作業の休憩中にビルマ人達に無理矢理招かれ、食事を出された時の話です。

 私の飯には匙をつけてくれたが、手で食べる方が礼儀なのだということは私も知っていた。しかし自分は捕虜だという気持は抜けきらない。手で食べることが何かおもねるような気がして、しばらくためらった。しかし、この人たちはそんな私の気持には気がついていないらしい。戦争中とおなじように、何か期待して好奇心に満ちた目でにらんでいる。仕方なしに手で食べ出した。
 とたんにみんな、ワッという喚声をあげ何かしきりにしゃべりだした。やはりニッポンのマスターはえらい。イギリス人は自分たちと食事など絶対にしない。手で食べるのは野蛮人だなどと言う。日本人は自分たちをおなじように取扱ってくれるというようなことを言っているらしい。はっきりとはわからないが、幾度もおなじ手まね足まねで、イングリはいかん、いかん、ということをしきりに言って憤慨する。
「戦争は本当に負けたのか。負けても日本のマスターがたくさんいてくれるので自分たちは心強い。どうか帰らないでくれ。武器はどこにかくしてあるか。いざというときは一緒に戦おう。また勝つさ」話はたいへん景気がよい。
 ビールのような泡がでる、アルコール分のうすい、昔なつかしい椰子酒をしきりにすすめてくれる。すこし甘酸っぱくて冷たくてとてもうまいものだ。しきりにいろんなことを言ってくれるが、はっきりしたことはわからないし、それに内容もこんな調子なのでなんとも答えにくい。「帰らないでくれ」と涙まで浮かべ、手を握って頼まれたのにはどうにも答えようがなかった。
『アーロン収容所』P168


 つまり、(当時の)イギリス人はビルマ人を対等などとは絶対に考えないし、そういう振る舞いも絶対にしない。しかし日本人は自分達ビルマ人のやり方を尊重し、対等の人間として接してくれる、ということではないかと。


 今読んでいる途中の『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』という本は、白人による人種差別を糾弾する方向に偏った本だとは思います(ただし、日本人による残虐行為がまったく記述されていないわけではないです)が、その中のマレー人の項にも↑を敷衍するような印象深い記述がありました。




 【マレーで】イギリス人は、国王様のような生活をしていた。「8000人弱の白人が、白人でない者の上に、君臨して」いた。海軍軍人の家庭では、イギリス人の少年にまで給仕(ボーイ)や召使いがいた。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P266

「白人で、自分たちを対等に扱ってくれる者はいなかった。我々先住民が怒りを感じ、日本軍を歓迎したのは、対等に扱ってくれたからだった。日本がついに我々を解放してくれると、思った」【……】
 彼【シンガポールに移住していたインド人】が大英帝国を支持しなかったのは、「イギリス人はアジア人に対して優越感(スーペリアー・フィーリング)を持っていた。我々を差別した」からだった。「インド人は、イギリス人の奴隷だった。それが全てのインド人の思いだった」と、語った。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P269

 彼ら【マレー人の軍隊】は新たな教官である日本人に、訓練を受けることになった。日本人はイギリス人と比べ、はるかに好感が持てた。訓練には40マイル【約64km】の行軍もあった。マレー人にとって感動的だったのは、【日本軍の】将校も、教官も、一緒に行軍したことだった。イギリス人の将校だったら、車で移動しただろう。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P268




 ただし、私の今まで読んできたビルマ戦線での話としては、日本の軍人などは当時の日本では当たり前であったビンタを頻繁にビルマ人に対してもし、そしてビルマ人にとってビンタをされるというのは恐ろしく屈辱的なことであったため、大きな反感を買っていたという話もありました。

 あるいはまた、「男尊女卑(男性が女性を対等だと思わずに差別的に扱う)」にかけては日本は現在進行中で先進国ぶっちぎりですから、「日本はすばらしい」と言うわけにもいきません。しかし、当時のイギリス人や白人の振るまいが、多くのアジア人に当時現在進行形で屈辱を与え続けていたのだろうということは、一応知識としてはあったものの、こういう具体的なエピソードで、ようやく理解が深まってきたかなという気がします。

 もちろん、相反する証言や意見こそを、積極的に集めなければならないと思います。


『アーロン収容所』から:イギリス軍の士官と、下士官・兵の差について

 『アーロン収容所』を読んでいて、イギリス軍の士官と、下士官・兵の差について書かれているのが少し興味深く、今後もイメージを持っていく上で有用かなと思われるので、ブログに書いてみようと思います。


 しかしまず私自身、「士官(=将校?)」と「下士官(および兵卒)」の間の断絶について、まだまだ良く理解もできておらず、実感も持てていない感があります。実際のところ長い間私は、字面的にも「士官」というカテゴリの中の下半分が「下士官」ということなんだろうなぐらいに思っていただろうとも(いや、そういう人多いのでは!?)。

 しかし、士官というのは士官学校を出た、(上級)指揮官になっていく人達で少尉(小隊長?)以上、下士官というのは兵卒から上がっていった人達で最高で曹長(あるいは特務曹長とか准尉とかってのもあるとか)で、あくまで指揮官たる士官の指揮の下で戦う兵隊である……?(という理解で合ってます? 例外はあったというのは一応把握してます)


 これが何か、イメージしやすいものに喩えられないか考えてみたのですが、土佐藩の「上士(山之内家の家来出身)」と「下士(長宗我部家の家来出身)」とか……一般的ではないか(^_^; あるいは、第二次世界大戦前・戦中だと「大卒なら士官相当」というような話も見たのですが、それは大卒が数%の状況においての話で。(私はしかし、大学に行く人間は社会の数%程度というのが本来のあるべき姿ではないかなぁ、という気もしますけど)

 ともかく、少なくとも私には想像しにくいのですが、士官と下士官(兵卒)の間にはものすごい断絶感があったようなのです。これがどうも、イギリス軍においてはその差がものすごかったようで……。

 イギリス兵の服装は、日本のように士官と下士官・兵のような劃然とした区別はない。士官であるかどうかは腕にある階級章で区別できるだけである。この点はアメリカ兵と同じである。ところがそのうち私たち【日本兵捕虜】は遠くからでも一見して区別できるようになった。動作や態度とか、そういうものからではない。【……】
 【……】それは、体格、とくに身長である。五尺七寸余(1.75メートル)の私より背の高いのは下士官や兵ではすくない。五尺四寸【1.63メートル】くらいのものがすくなくないのである。しかし士官は、大部分が六尺【1.82メートル】以上もあると思われる大男で、私より低いものはほとんどいなかったのである。
 体重も下士官や兵には見事なものは多くない。かえって貧弱だなあと思うような男もすくなくなかった。しかし士官は老人以外はほとんどが堂々たる体躯で私たちを圧倒した。【……】しかも体格だけではない、動作が生き生きとして自信にみち、しかも敏捷であるのが目立つ。

『アーロン収容所』P109,110


 その理由らしきものとして、著者は↓のようなものを挙げています。

 士官たちは学校で激しいスポーツの訓練をうけている。フェンシング、ボクシング、ラグビー、ボート、乗馬、それらのいくつか、あるいは一つに熟達していない士官はむしろ例外であろう。そして下士官・兵でそれらに熟達しているものはむしろ例外であろう。士官の行動は、はるかに敏捷できびきびしているのである。
 考えてみれば当然である。かれらは市民革命を遂行した市民(ブルジョア)の後裔である。この市民たちは自ら武器をとり、武士階級と戦ってその権力を奪ったのだ。共同して戦ったプロレタリアは圧倒的な数を持っていたが、そのあとかれらが反抗するようになると市民たちは力で粉砕し、それを抑えてきたのである。私たちはこの市民の支配を組織や欺瞞教育などによると考えて、この肉体的な力にあったことを知らなかった。
『アーロン収容所』P112,3


 後段については「本当かなぁ……?」とも思うのですが、一応見聞の例としてはそういう感じであったらしいのでしょう。ただ、著者らが見たのは恐らく下級の士官達(尉官とか、高くても佐官?)であって、イギリスの上級将校(将官)は貴族で占められていたとか、あるいは背が低い将官も結構いた(オコーナーやハーディングなど)という印象も私は持っています。

WW2のドイツ軍、イギリス軍、イタリア軍の上級指揮官は貴族閥によって占められていた……? (2021/06/26)
コンパス作戦の準備(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/01)



OCS『South Burma』(仮)製作のために:内陸部の重要性&ハーフマップ案はなし?

 以前ブログかツイッターで書いていたと思うのですが、「The Burma Campaign」というウェブサイトがあり、参考になるかもとは思ってました。


 今日、ふとまた覗いてみたところ、先日ユニット化だけとりあえずしていたビルマ小銃大隊×10個に関して、非常に詳細な個別のページがあることに気付きました。しかも今まで手持ちの資料で見たことがなかった、詳細な部隊配置や部隊移動が記されたマップなども!

 「これはヤバいほど有用……」とヨダレを垂らしながらDeepL翻訳で読みつつ、ユニットのレーティングを変更していったりなどしていたのですが、その中で第2ビルマ小銃大隊が2月中に置かれていた位置について非常に興味深いことがわかりました。


unit8571.jpg

 同大隊は2月中ほぼ、赤い○で囲んだパプン(Papun)という集落に置かれていたというのです。史実では日本軍の進撃路は画像の下の方の矢印のようなものでしたが、上の方の矢印のようにして一部の部隊が進み、非常に重要な障害であるシッタン川を渡ってしまう可能性もあるとして、そうならないように置かれていたのでしょう。

 同大隊は、日本軍がシッタン川を渡ってしまうと、西方へ退却しました。


 ゲーム中でも、日本軍はパプンを経由してシッタン川渡河を図ろうとすることも可能でなければならないということだと思います。逆に、英連邦軍側も、このような内陸にユニットをポツンと置いていても一般補給などの上で問題は(ほぼ)ないという風にしなければなりません。『Burma II』の地形効果表そのままではそれは全然無理なのですが、一つの方法としてはビルマ小銃大隊は(日本軍と同様に)「食糧表」を使用して一般補給を得られる、とかでしょうか。ただ、食糧表はアクションレーティングが高くないとヤバいことになるのですがビルマ小銃大隊のそれは高くなく、そこらへん更に特別なルールが必要にはなります。


<2023/07/04追記>

 その後、『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』という英連邦軍大佐?による本を読んでいましたら、なかなかにこの本は英連邦軍の動向に関して詳細で(ただし日本軍に関しては詳しくなく、英連邦軍を「我々」と呼び、ビルマ人や日本軍に対しての偏見があるように感じられます(^_^;)、別のビルマ小銃大隊も内陸部の監視に当てられていたことが分かりました。



 ShwegunとKamamaungの渡し場は第4ビルマ小銃大隊が監視し、Salween川とDontami川【マルタバン近く?】沿いのパトロールも行った。後に第8ビルマ小銃大隊の中隊がKamamaungの駐屯地を引き継いだ。この場所とShwegunの分遣隊は、我々がSalween川の下流から撤退する際もそのままの位置に留まり、その後Papunで第2ビルマ小銃大隊の指揮下に入った。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P79




unit8567.jpg


 また、この本を読んでいると、(モールメンを占領した)日本軍側は、多くの筏、川船、大きなボートを所有していることが分かっており、それらを利用してサルウィン川の上流のDagwin(画像の赤い□)や、海岸線上で英連邦軍の背後に上陸することも可能だと考えられたため、それらにも備えなければならなかったそうです。

 日本軍側にそれらが可能なようにできたら面白いとは思いますが、使用するルールは増えますし、あんまり日本軍が好き放題できても困るので、バランスが難しいところかなぁと思います。

<追記ここまで>






 ただ、パプンにそのような重要性があるならば、あることを諦めねばならなくなりました。


unit8570.jpg

 ↑この画像全体(赤い□内)がフルマップ1枚の広さです。一方で水色の□で囲った部分がハーフマップ1枚の広さであり、ラングーン占領までの第一段階については、このハーフマップ1枚でプレイできるのではないかと考えていたのでした。ところがくだんのパプンは赤い○の位置でして、パプンからシッタン川への小道はハーフマップの領域からはみ出てしまうわけです(^_^;

 ただ、青い○で囲った場所には中国軍の第200歩兵師団がいて、日本軍はシッタン川を渡ったものの、北方から有力な中国軍が南下してくるという情報もあって、ラングーン攻略を急がなければならなくなったという話もありました(『歩兵第百四十三聯隊史』P3)。しかし逆に、日本軍はシッタン川を渡って中国軍が近くにいる段階で、いっそまずは中国軍側に進んでそれに大打撃を与えようかという考えもあったそうです(どこで読んだか忘れました(^_^; また見つけたら書いておきます)。

 そういう様々な作戦案や、あるいはジレンマなどがマップ上で再現されるためにはフルマップ1枚でなければならないだろうという気もしますから、フルマップ1枚が必要ということで全然いいのかもしれません。

 ただ、西の方の1/4は全然関係なさそうなので、折ってプレイしても良いかもですね。この西1/4の領域は、1944~45年の戦いの時にはこの辺りに英連邦軍が上陸作戦を行ってラングーンを奪取してしまうのではないかという恐れがあっていくらかの日本軍部隊が置かれており、その中には非人道的超絶根性主義で味方兵士をも散々苦しめ自殺に追いやった花谷正中将もいました。44~45年の戦いもできればゲーム化したいので、その時には必要になってくるはずです。

第2次アキャブ戦で第55師団長であった花谷正中将がとてつもなく酷い将軍であったことを知りました (2022/05/08)
『戦死 インパール牽制作戦』から、花谷正第55師団長が高く評価されていたことに関する記述を抜き出してみました (2022/06/11)



OCS『South Burma』(仮)製作のために:第55山砲兵連隊の第2大隊と第3大隊について

 OCS『South Burma』(仮)の戦闘序列で、第55山砲兵連隊第2大隊と第3大隊に関して良く分からないので、備忘録&後に情報が見つかったら集積するためにブログに書いておきます。


unit8572.jpg


 第55山砲兵連隊のユニットが「55(-)」とあるのは、私の今までの推測では「ビルマ戦の初期にはこれらは大隊単位で運用されていたのではなく、抽出された大砲と人員で運用されていたのかな?」と思っていたのでこんな表記にしていたのでした。


 第55山砲兵連隊のうちの第1大隊は、南海支隊というのの一部としてグアム、ラバウル方面の作戦に参加していたので、ビルマ侵攻作戦には参加していません。第55山砲連隊は、「3大隊から成り、94式山砲27門を持っている」と『ビルマ攻略作戦』P45にありますので、1個大隊の門数は27÷3=9門(1個中隊3門)であると思われます(第33山砲兵連隊も同じ)。



 第55山砲連隊はビルマに入る際に、第2大隊と第3大隊の両方がほぼ同時に入ったのかもしれません。↓のような理由から。

1.『山砲兵第55連隊行動表』の「連隊本部」「第2大隊本部」「第9中隊【第3大隊所属】」の行動表を見ていると、すべて同じように行動し、1月末から2月初めにモールメンに到着している。

2.『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P99のモールメン戦の記述に、「山砲の両大隊は」とある。

 山砲の両大隊は展開し夜明けに飛行場東端の聯隊観測所をみると、飛行場を丘陵に向かう歩兵主力がよく見えたが、あっと思う間に援護射撃の必要もなく丘陵に到達した。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P99






 ただし、中隊の門数が1門、あるいは2門に減らされていたという記述があります。

 【第55師団】師団長は、諸隊を国境地帯に推進するに先立ち、車両部隊をすべて駄馬または駄牛編成に改め、特に山砲隊は携行弾数を多くするため、中隊は1門編成にし、バンコクに残した火砲は、モールメン攻略後陸路あるいは海路により追送させることにした(64)。
『ビルマ攻略作戦』P84

 注64の内容は「第55師団参謀であった福井義介大佐回想」とありました。

 今になると聯隊長は小径もない渓谷づたいの長距離のあのジャングルのタイ、ビルマの山脈を横断していかにして山砲兵がモールメン前面に進出するかに苦心されていたのがよく分かる。このため3門編成の各中隊は2門とし残りの火砲と聯隊大行李を石黒築兵技軍曹以下に宰領させて追及を命じた。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P96

 こちらは、飯村茂聯隊指揮班長という方の回想です。


 さらに、こんな書き方をしている資料もあります。

4.第55師団は歩兵団本部の指揮下でグアムに行っていた第144連隊等を欠いていた。師団はヴィクトリアポイントに向かった第143連隊第2大隊と、タボイに向かった第112連隊第3大隊を欠いた状態でビルマに入った。両大隊はモールメンで再合流した。Their two remaining mountain artillery battalions each had six guns.
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P372

 この英文の意味するところがイマイチ分からないのですがDeepL翻訳等は、「残る2つの山砲大隊は、それぞれ6門を保有していた。」という感じで訳してきます。この「残る(remaining)」というのが、戦場に来ている方なのか、あるいはバンコクに残されていた方なのか?


<2023/07/06追記>

 各大隊が6門を持っていたという記述を見つけました。

 【第55】師団の2つの山砲大隊はそれぞれ6門しか持っていなかった。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P56


 欧米ではこの「大隊に6門=中隊に2門」という捉え方が流布しているのかもです。ただその場合、価値が高いとみなされているらしい戦史叢書のうちの一冊である『ビルマ攻略作戦』の情報は無視されているということになりそうです。

<追記ここまで>




 さらに、よく分からないのがこの記述です。

6.【ラングーンを占領した後の3月の】第二段階では、第33師団と第55師団の山砲連隊が27門のフル装備になった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P372

 第55山砲兵連隊の第1大隊はグラム、ラバウル方面に行っていたはずなのに、どうやって連隊定数の27門にするのでしょう……? Wikipedia「第55師団 (日本軍)」によれば、南海支隊の生存者200名がビルマ戦線の第55師団に合流したのは43年11月です。


 しかしそもそもが、「中隊は1門」「中隊は2門」という時点で(記憶に?)齟齬がありますし、間違いのない本なんてあり得ないと思いますので、27門というのは『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の勘違いなのかもしれません(あるいは、2個大隊で27門にしたとか、ラングーンで1個大隊増やしたとか、そういう方法がとられた可能性もあるのかも)。


 これらの件を一応頭に置いといて、今後資料を読んでいく中で情報が見つかったら、集積していこうと思います。

 実は、『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』と『山砲兵第55連隊行動表』は、私が奈良県立図書情報館で取るものも取りあえずコピーしてきた部分のしかないので、今回コピーしてなかった部分にそこらへんの情報が書かれている可能性はあるかもと思います。ので、色々調べるべきことを集積してから、また行こうと思います。



 ただ、とりあえずのゲーム的な解決方法としては、↓かなと思ってます。

 「その大隊の中に史実で欠があっても、定数で登場させる(後に欠が埋められていた場合には特に)」という1つのやり方(「史実で欠があったら減らす」という方法もあります)に従って、しかし、この件の場合、第2大隊と第3大隊の両方を定数の火力で登場させるのではなく、便宜的に、例えば第2大隊ユニットのみを定数の火力で登場させる。ラングーン占領後に第3大隊を増援として登場させ、山砲が追送されたことを表現する。


<2023/10/20追記>

 第55師団の山砲兵第3大隊のユニットをとりあえず作ってみました。ラングーンへの登場時期が不明ですが……。

unit8508.jpg


<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:最初のシナリオの設定案と、モールメン攻略戦の分析

 OCS『South Burma』(仮)の最初のシナリオの設定案を考えました。



unit8573.jpg


 今まで『Burma II』の地形の色に合わせていたんですが、『Burma II』では平地/ジャングル/荒地の間の色が似ていて非常に分かりにくいので、最近のOCSゲームの色合いに近いように塗り直してみました。

 東端のエントリーヘクスAの辺りから日本軍は進軍を開始し、第55師団は第5ターンにモールメンを占領。第7ターンにはその対岸のマルタバンを占拠し、また並進していた第33師団がサルウィン川の上流パアンから対岸のクゼイクに渡りました。ビルマ独立義勇軍のモールメン兵団もこのターン中にサルウィン川をその北方で渡っているようです。


 私は元々は、最初のシナリオ的なものは「第5ターン終了時にモールメン占領」だけを目指すものかと漠然と考えていたんですが、↓に書いてましたように勝利条件が複数あった方が絶対に良いと確かに思われるので、第7ターン終了時に「マルタバン、クゼイク(等の複数のサルウィン川西岸)を占領していること」にした方が良さそうだと思いました(あるいは、それらの複数ヘクスに勝利得点を設定し、その中にモールメンも含め、またモールメンの得点を高くしておくべきかも)。

OCSのシナリオの勝利条件改造 or 設定のために:勝利条件が複数あるとよい? (2023/03/21)


 シナリオ名は「サルウィン川渡河」でしょうか。




 また、モールメン攻略やその後に関して、先日コピーを取ってきた資料等にやや詳しい分析的記述があるのを発見しました。

 一月三十日夜から三十一日までのモールメンに対する師団の攻撃は、速やかに占領したという点では成功であったが、聯合国軍、ビルマ第二旅団(約三千名)を補足殲滅し得なかった点では失敗といえる。敵は市街東方の丘陵に陣地を占領する一方、撤退のための船を準備していた。また制空権はどちらにもなく、必要に応じ双方ともに、地上攻撃が可能であった。敵を殲滅し得なかった原因は先ず第一に敵の逃げ足が早かったことであるが、わが方の攻撃が統一されていなかったというか、一部隊が独断で敵陣地に突入したためといえる。問題は山砲部隊が敵の後退前か、その直後にモールメン東方丘陵に進出し、逃げる敵船を撃沈し得なかったことである。つまり三十日夜、師団司令部に出頭した私は、明三十一日払晩攻撃、山砲聯隊は前記丘陵東方の飛行場周辺に展開し、歩兵の攻撃を支援せよとの命令を受けた。ところが三十日夜、徳島聯隊【第143連隊】の第三中隊(土井茂俊中尉)は敵戦線に潜入して寡兵をもってサルウイン河に進出し、拠点をつくり同時にガソリンを含む敵補給物資に火をつけた。同時に丸亀隊の一部が丘陵上のパコダを白兵突撃で占領してしまった。敵はかくして逃げ始めた。山砲の両大隊【山砲第55連隊の第2大隊と第3大隊か。山砲第55連隊の第1大隊は南海支隊に配属されていました】は展開し夜明けに飛行場東端の聯隊観測所をみると、飛行場を丘陵に向かう歩兵主力がよく見えたが、あっと思う間に援護射撃の必要もなく丘陵に到達した。「しまった」と思い、同時に隊長は私に「単騎右丘陵に先行せよ」と命じられた。伝騎のみを連れて最大速度丘陵に達し崖を駆け上ると、山上に松田中隊が展開し、逃げる敵船とマルタバンを砲撃して一隻は漂流し出したが、その他の敵船は最大射程外にまもなく去り、マルタバン北方に列車のあげる煙りが見えた。松田中隊長の判断はさすがであった。戦闘後の聯隊長の反省は深刻だったが、私は結局敵の逃げ足の早さを予想せず、師団の行動を統一出来なかった師団司令部の責任だと思う。その後、隊長がいつも歩兵の大隊、時としては中隊の線まで聯隊本部を進出したのはこの時の教訓の結果と思う。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P99



 あるいはこのような記述もありました。

 しかし、モールメンは南部ビルマの要衝であり、かつ、サルウィン河は南部ビルマ防衛のため、戦略上重要な価値を持っている点からみて、英軍はモールメンを固守するとともに、サルウィン河を利用して頑強に抵抗するであろうと考えられた。
『ビルマ攻略作戦』P90

 騎兵隊【第55捜索連隊】は行軍縦隊で前進中、1月30日夜【モールメン近郊の】標高183高地北方地区で、尖兵中隊が不意に衝突し、直ちに攻撃に移ったが当面の敵は案外軽く退却した。
 そこで川島大佐は、全般の状況は全く不明であったが、今が戦機と判断し、騎兵隊の全力を率いて一気に本道上をモールメン市街に突入し、払暁までに市街の一角を占領した。
『ビルマ攻略作戦』P93,4




 一方で、英連邦軍側からの見方では、このような記述が。

 【1月30日】午後になると、スミス【第17インド歩兵師団長】はモールメンの状況が深刻になってきたという結論に達し、ラングーンのハッ トン【ビルマ軍司令官】にその状況を報告した。彼は、マルタバンにいる第16旅団から2個大隊を引き抜いて守備隊を増援するか、【モールメンを守備していた】第2ビルマ旅団を撤退させるかのどちらかの選択肢しかないと考えます、と伝えた。11時に、増援を行うのは得策ではなく、成功する見込みもないと考えた彼は、必要と思われる時点で守備隊を町【モールメン】から撤退させることを提唱した。ハットンもこれに同意し、時期についてはスミスに判断を委ねたが、撤退後はマルタバンを含むサルウィン川沿いの線を維持しなければならないと述べた。
『The War Against Japan Vol.2』P32



 OCSゲーム的に考えると、↓こういう感じにできるかも?

1.早めのターン(例えば第5ターン)で、モールメンに急いで撤退してきた移動モード面の英連邦軍部隊がいる場合
 日本軍は補充能力が高め(『Burma II』のルールでも)ですし、日本軍側は損害上等で寡兵で攻撃をかけるとします。すると現状私はインド兵部隊ユニットの移動モードは自動車化タイプにしてあり、サルウィン川は大河川で自動車化では撤退できないので、もし退却の結果が出たらユニットごと失われることになります(ビルマ兵部隊ユニットは移動モードでも徒歩にしてます)。

2.遅めのターン(例えば第6ターン)で、モールメンのインド兵部隊ユニットが戦闘モード(徒歩タイプ)になっている場合
 日本軍は全力でもってモールメン攻撃をかけられるかもしれませんが、英連邦軍側もモールメンをより大きい兵力で守れますし、撤退においても大河川を渡れます。ただし、日本軍がモールメンの南北の2ヘクスに戦闘モードのユニット(つまりZOCあり)を置いてある場合、すべての退却ヘクスにZOCが及んでいるので、守備隊がもしDGでなければDGになり、もし戦闘前にDGであったならば1ステップロスします。


unit8582.jpg



 これはジレンマがあっていいかもです。




 あと、一つの悩みとして、史実で第55師団はモールメン攻略後、約1週間(OCSの2ターン)ほどモールメンで休養していたということがありました。BCSの場合は疲労が重視されるシステムなので休養の必要性も再現しやすいかと思うのですが、OCSは疲労は関係ないのでどうしたものかな~、と。OCSは補給が重要なシステムなので、補給状況を悪目に調整するという案は一応持っていましたが……。

 そこらへん、まさにそうすれば良いかのような記述を見つけました。

 東南アジアにおける他の戦場での物資の使いすぎと、海上ルートがまだ十分には確実でなかったので、迅速な補給ができなかったために生じた小休止の後、これらの師団はラングーンに向かい猛進を続けた。
『ビルマの夜明け』P163


 そうすると例えば、ゲーム上で第55師団のモールメン攻撃は内部備蓄を1~2段階消費して行われざるを得ず、モールメン攻略で得られる敵の補給物資(チャーチル給与)でも再備蓄に十分でなく、追送されてくるSPを待って1~2ターン程度は止まっていた方が安全……という風に調整すれば良いのかもです。まあ、LowとかExhaust状態でそのまま進撃してもいいのですが、そうすると敵に攻撃された場合に戦闘補給が入れられずに半分の戦闘力で防御せざるを得なくなるでしょう。


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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