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OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第3ターン後攻ドイツ軍

 しばらく尼崎会が不成立になっていたのですが、久方ぶりに成立してOCS『Beyond the Rhine』キャンペーンの続きができました。


 ↓第3ターン後攻ドイツ軍終了時の北部方面

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 戦線の西側に取り込まれて(包囲されて)しまったドイツ軍部隊群がおり、救出はできませんでしたがダイス目がよかったのでかなり生き残りはしました。しかし第9SSや第10SSのかなり強力なユニットもその中に……

 また、大河扱いのアルベール運河ですが、もう保持できないと見て中央部はもうユニットを置かずに部隊を下げています。



 ↓同、南部方面。

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 メッツの少し南ではアメリカ軍ユニットを包囲。南端近くでは「ダブルターンを取れれば東へ脱出できるかも」という態勢を取りましたが、やむを得ないもののかなりのユニットが補給チェックで損耗しました。



 次の第4ターン(9月15日ターン。史実でのマーケットガーデン作戦はこのターン中の18日に開始された)のイニシアティブは連合軍が取り、色々検討した結果、先攻を取ってアルベール運河を渡り、マーケットガーデン作戦を発動することにしました。で、処理は移動フェイズ直前までやっておき、空挺降下の予定場所にもユニットを置いておきました。


 ↓その様子

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 赤い矢印は史実でのマーケットガーデン作戦の進撃路。緑色の○が、ワニミさんが計画していた空挺降下作戦の場所です。このターンはイギリス軍のみが降下し、次のターンにアメリカ軍が降下する予定らしいです(どこかは私は知りません(^_^;)。

 空挺降下の遅延・中止は航空ユニット整備フェイズに決断するルールになっており、移動フェイズ開始時まで進めたのでもう降下はキャンセルできません。この後移動フェイズ中に、オーバーランなどで道を切り開いていくことになります。さあ、どうなるでしょうか……。


 次回の尼崎会は、一応来週、6月23日(日)の予定です。

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『大いなる聖戦』:なぜ1940年のフランス軍は弱かったのか?(付:ベルギー軍は頑張ったのか?)

 『大いなる聖戦』を主資料としてやりたいネタがまだいくつか残っていたのですが、とりあえずその中の「なぜ1940年のフランス軍は弱かったのか?」について。

 第二次世界大戦においてよく、「イタリア軍の弱さ」が言われますが、1940年のフランス軍だって丙丁つけがたい弱さでしょう(^_^;






 フランス軍の弱さの最も大きな原因について、純軍事的な本を読んだ場合、フランス軍の戦車の乗員数が少なくて複数の役割をこなさなければならなかったこととか、フランス軍の老齢の将軍達の思考硬直などが理由として挙げられることが多いと思うのですが、『大いなる聖戦』では最大の要因として、「1938年以降の出来事の連続により、敗北は避けられないとの宿命論がフランスに広がっていたから」としていました。

 ……【1940年に独仏】両軍が干戈を交えて以来論議の的となっているのは、独軍がなぜあのように迅速かつ一方的な勝利を収めたのかということである。裏を返せば、それまで3世紀にわたってヨーロッパの軍事分野で諸国を凌駕し、直近の過去20年間は世界で誉れの高かった仏軍が、1940年5月に1916年のヴェルダン戦などで示した強靭性とは比較にならないようなぶざまな崩壊をなぜ喫したのかという疑問である。その結果、1940年の敗北を引き起こした要因の一端は第一次大戦でフランスが払った勝利への代償に求められるという論理が概ね受け入れられている。18歳から26歳までの男性人口の27%が戦死したことに象徴される第一次大戦における人的損失のため、戦間期のフランスでは「このような西部戦線の戦いを繰り返すことは、 今後しばらくはできるものではない」といった考えが支配的となっていたことに疑いはなく、フランスが戦争に突入せざるを得なくなった1939年に、この厭戦気分が不可避的に悪影響を及ぼしたのである。
 フランスの戦意の乏しさは、1939年9月から翌40年4月まで続く「まやかしの戦争」期間中に英国の軍事指導者が痛感したものであったが、これは先の大戦におけるおぞましいまでの人命の喪失への反作用だけに由来するものではなかった。実際に戦端が開かれるまでにフランスの戦意を削いだことには、1930年代にフランス国内で見られた深刻な分裂、社会主義者よりはヒトラーの方が良いと公言したフランスの右翼勢力、世界恐慌(フランスでは他の諸地域よりも長引いた)と死に体となっていた第三共和政の政情不安が共にもたらした衰退気運、といった諸々の要因すべてが関わっている。しかしながら、仏軍の士気の崩壊を招来した直近の要因として最も重要であったのは、1940年5月までにフランスには負け癖がついて、負け犬根性が身につき、それが無気力な宿命論に似た独自の色合いを帯びるようになってしまっていたことにある。仏軍の動向を見守っていた英陸軍の専門家は、1937年頃までは仏軍には精神的強靭さがあることを自信を持って報じていた。ところが1940年の春頃になると、ドイツのラインラント再占領から連綿として続いてきた出来事の後に待っているのは敗北しかないといった考えがフランスで台頭するようになる。オーストリア併合、ミュンヘン協定、スペイン内戦をめぐる紛糾、独ソ不可侵条約、ポーランド戦、冬戦争、そして最後にノルウェー戦における連合軍の総崩れを目の当たりにしたために育まれた敗北主義の結果である。そして、ガムラン大将が1939年9月にザールラントに向けて取るに足らないような不要な攻勢をしかけた結果として仏軍が翌年までの冬の間に行動を控えたことが、このフランスの精神的自壊作用を必然的結末に導いたのである。
 ……
 ……フランスは、戦場においては最初の四日間で痛打されていたが、フランスの敗北には、軍事上の要因に劣らず政治·心理的要因が作用していたのである。既に敗北していたポーランドと同様に、フランスの敗戦は戦端が開かれる前から定まっており、ポーランドの場合とは異なり、その理由は、国家としてのフランスが戦争を起こすのに必要な犠牲を払う態勢になかったこと、軍が技術上の進歩から置き去りにされた存在となってしまったこと、1917年~18年当時にフランスが戦い続けられるように支えてくれたような同盟国に恵まれなかったこと、などに求められる。
『大いなる聖戦 上』P175~8



 前段の、「第一次世界大戦の犠牲の大きさによる厭戦感」というのは実際他の本などでも良く見るところかと思います。

 しかし『大いなる聖戦』が「要因として最も重要」と指摘するのは、「負け癖」の話でした。イメージしにくくてぱっと得心するところまで行ってなかったのですが、例えば、オバマ大統領の時のアメリカがシリア(アサド政権)の化学兵器使用に対して何もできずに「アメリカは世界の警察官ではない」と宣言し、その後ヒラリー・クリントン政権でロシアや中国や北朝鮮やイランの挑発行動に対して譲歩を繰り返しつつ軍縮を進め、中国が台湾や沖縄を占領し、北朝鮮が韓国を併合していく中で負け癖がついていって、ついには中国によってハワイが占領される……というようなことでしょうか? これはこれで想像がしにくいような気もしますが(^_^;、まあ分からないでもない……???

 あいや、日本が中国に尖閣を取られても何もできず、沖縄が独立して中国の同盟国になっても何もできず、北朝鮮がミサイルをばんばん撃ってくるのに譲歩して経済援助し続けていく中で、ついには中国とロシアが共同して日本に上陸作戦をしかけてきたけど、もう負け癖がついていてどうにもならなかった……というようなパターンでしょうか。

 しかし歴史上、この1940年のフランスに似たようなこと起こったことって、実際に他にあったんでしょうか? ぱっと思いつかないのですが(仮説的な話としては例えば、1960年代?頃かに「もし日本がソ連に攻撃されたら、その瞬間に降伏すべきだ」という説があったそうですが。ただし、ソ連に降伏した後に日本がアメリカに攻撃されたならば、「その場合は抵抗すべきだ」と社会党は考えていたそうです。:p)。



 1939年、あるいは1940年のフランス軍の士気が低かったことは、『米英機甲部隊』にも書かれていました。

 1938年12月、やっとのことでB型重戦車を歩兵部隊から切りはなし、軽量なルノー戦車とホチキス35戦車をあわせて、いわゆる機甲師団に統合するこころみがはじめられた。
 ……
 しかし、最高会議がこの問題の審議をおわったときには、すでにフランス軍の戦意は大幅におちていた。将校の防御型戦闘の思想を逆転させ、兵士たちの訓練を転換させるだけの時間は、もはやのこっていなかったのである。
 攻撃的性格の機甲師団をつくることに、フランス国民と軍部が消極的であったことは、表面上、政府の政策に反していた。なぜなら、1936年の「大編成部隊の戦術的作戦にかんする訓令」は、従来と正反対の思想に書きあらためられていたからであった。
 すなわち、
「攻撃こそ最良の作戦である。……攻撃のみが決定的な戦果をもたらす」と。
 だが、方向転換がおそすぎた。静止的防御の中心であるマジノ線は完成していたし、いずれにせよ、第一次大戦中の総攻撃で、あれほどひどい損害をこうむったフランス国民に、ふたたびその悪夢をもとめるのは、あまりにもよくばった要求だといわざるをえなかったからである。
 1939年のフランス軍は、1914年のフランス軍ほどの精彩はなかった。
『米英機甲部隊』P44,5


 ここ【1940年のフランス戦の初頭】で、ドイツ軍は予想しなかったひとつの教訓を、はやくもまなんだ。それは、フランス軍将兵にかつての精気がなく、彼らの士気は、前年秋のポーランド軍の闘志とはくらべものにならないほどひくい、ということであった。
『米英機甲部隊』P59



 OCS『The Blitzkrieg Legend』のフランス軍のARは、戦闘モードで3、移動モードで2というのが多いのですが、ここらへんの資料を読んでいると、もっと低くても良いのかもと思ったり……『Smolensk:Barbarossa Derailed』のソ連軍のARなんか、むちゃくちゃ低いですからねぇ……。



 一方、ベルギー軍の戦意についても『大いなる聖戦』には書かれていました。

 ……左翼でベルギー軍の一部が敵の攻勢を支えられなくなったこともあって、英国海外派遣軍は全面崩壊の危機に瀕することとなる。このようなこともあって、1940年5月のベルギー軍の戦いぶりに対する歴史の審判は芳しいものではなく、 特に英米仏においてその傾向が顕著である。しかしながら、ベルギー軍は第一次大戦の時と同様に、その国土を頑強かつ決然たる姿勢で守ろうとしたのが事実である。ベルギー軍は常に数の上で優る敵と相対し、英国海外派遣軍が直面したものよりも熾烈な攻撃に絶えず曝されており、20日以降は英軍が南方に転じたためにその戦線は延びきっていた。このような2週間にわたる絶え間ない戦闘と強行軍の中で酷使されたベルギー軍師団は疲弊の極みに達していた。24日になってベルギー軍はリズにおいてB軍集団からの抗す術もない攻撃を受け、翌朝、独軍はベルギー軍の防衛線を14マイルにわたって突破する。
 自助努力以外に英国海外派遣軍を救ったのには、本国政府が5月28日に降伏するまでベルギ一軍が戦い続けることができたことや、最後まで戦いを止めなかった仏軍の犠性的支援、そして独軍が24日に下した装甲部隊の進撃を止めさせる決定といった複合的要因があった。
『大いなる聖戦 上』P193

 ベルギー軍が頑張ったからイギリス海外派遣軍は脱出できたのだし、フランス軍はイギリス軍に対して犠牲的支援をした、と……。


 その当のイギリス海外派遣軍によるベルギー軍に対する見方ですが、こう書かれていました。

 英国海外派遣軍の本音は、その参謀長の言を借りれば、英軍の左翼を固めている限り「ベルギー軍がどうなろうと知ったことではない」のである。
『大いなる聖戦 上』P189,190


 おい(^_^; まあでも、そういうものかもしれませんが……。


OCS『Smolensk』『Guderian's Blitzkrieg II』ユニットで見るドイツ軍第221保安師団

 メルカリで購入した『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』を読んでいたんですが、その中に、東部戦線に参加したドイツ軍の第221保安師団についてある程度詳しく書いてありました。





 ↓左が『Smolensk:Barbarossa Derailed』、右が『Guderian's Blitzkrieg II』の第221治安師団

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 この第221保安師団の中に配属されていた秩序警察第309大隊や、その他の保安師団についてはOCSユニットで見る?バルバロッサ作戦で各軍集団に3個ずつ配備された後方任務用の警備師団等 (2018/11/28)で触れていました。


 とりあえず時系列順の説明になるように、まずは英語版Wikipedia「221st Security Division (Wehrmacht)」から。

 この師団は1941年6月に編成された。ドイツ軍の部隊と共に、秩序警察の第309大隊(唯一の自動車化された部隊であった)が含まれていた。この部隊はゴメル周辺で、3ヵ月間前線で、6ヶ月間後方の保安任務に従事した。その任務は、通信と補給ラインの保安、経済的搾取、それにドイツ軍の後方地域におけるパルチザンとの戦いなどであった。


 私は保安師団は、後期にバグラチオン作戦などで蹂躙されたような頃を除けば、ずっと後方任務に就いていたのかと思っていたのですが、1941~2年の時点ですでに前線で戦ったりもしていたのですね? だとすればOCSでユニット化され(そしてプレイヤーが前線に投入す)るのも当然か……。


 次に、1942年3月のことについて。

 1942年3月に、この師団はスモレンスクの東のYelnya-Dorogobuzh地域で大規模なナチの保安戦闘作戦に着手した。“盗賊がはびこる”とされた地域におけるこの対パルチザン作戦でおこなわれたのは、村々の破壊、家畜の押収、ドイツ本国で働かせるための労働力の強制徴用、そして働くことのできない年齢の者達を殺すことであった。その戦術には、ドイツ軍の支配下にない村々に重火器で砲撃することも含まれており、その結果大量の民間人の犠牲者が出た。司令官ヨハン・プフルグバイルは麾下の部隊に「この作戦の目的は、敵を追いはらうことではなく、敵を根絶することである」と指示した。この作戦中、部隊は278名のドイツ兵が戦死したと記録し、一方806名の敵が戦死し、120名の囚人が処刑のためにドイツ軍の秘密野戦警察に引き渡されたと報告している。押収されたのはわずか200丁の武器(ライフル銃、機関銃、ピストル等)であった。


 1942年3月というとソ連軍の冬期反攻が一応まだ続いていた頃で、『Guderian's Blitzkrieg II』で扱われる期間中に当たります。そこで同ゲームで「Yelnya-Dorogobuzh地域」を見てみますと……。

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 ↑楕円で囲ったあたりがその作戦地域なのかと思われます……。


 さて、『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』における第221保安師団に関する記述なのですが、1942年4月のこととしてこう書かれています(文脈の必要上、その前の文も引用します)。

 さらにドイツの保安部隊は、いたずらに厳しい措置を講じれば住民がかえってパルチザン化すると知っていたし、民間人への無差別攻撃を「行き過ぎだ」と考える後方地域の陸軍司令官もロシアにはいた。1942年4月に中央ロシアで対パルチザン作戦を担当した国防軍のある保安師団【第221保安師団】では次のような指示が出されている - 「民間人を虐待すれば、翌日にはパルチザンとなり銃を持って目の前に現れるかもしれないということを、全兵士に理解させておく必要がある」。しかし司令官プフルグバイルはその同じ月、同じ保安師団に、「部隊が戦う目的は、敵を退却させることではなく、絶滅させることにある」と述べている。
 ……
 パルチザンに参加する人々が増加し、活動が激化するにつれ、ドイツの保安部隊がとる対策は厳しくなった。彼らは、比較的少数で訓練もろくに受けていない人間が広大な領域の莫大な数の人々を思いどおりに支配するには厳重な措置が必要だと信じていたのだ(106)。
『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』P167


 で、この原注(106)にはこう書かれています。

 ベン・シェファードはある保安隊(第221)に注目している。これは1942年夏の時点でほとんど訓練を受けておらず装備も貧弱でありながら、「7000をはるかに下回る戦闘力で3万キロ四方、2560の村と130万人以上の住民」への対処を任された。1942年9月には、2対1でパルチザンに劣勢だった。以下を参照。Shepherd, 'The Continuum of Brutality', p.72
『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』P306,7


 「3万キロ四方」というのは「√30000」、つまり「173km×173km」ということらしいのですが、これを1ヘクス=約8kmのOCSに換算すると、「22ヘクス×22ヘクス」ということになります。先ほど挙げていたマップを数えてみると「25ヘクス×17ヘクス」だったのですが、これを計算すると「2万7200キロ四方」ということになり、つまりこのマップより少し広い範囲を、第221保安師団だけで対処しなければならなかった……ということになりましょうか。


 OCS『Guderian's Blitzkrieg II』のプレイ中には、これら保安師団は例えばスモレンスクなどに置かれていて、スモレンスクほど重要な都市であれば守備隊を置いていた方がさすがに安心なので保安師団を置きっぱなしにしておくのですが(前線に出す人もいるでしょうが)、史実ではそういうことが行われていたということも、一つの知識として知っておくことも重要であるように思われます……。


『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』を読了しました

 先日買っていた、『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』を読了しました。






 ↓買った時のことを書いたエントリはこちら。

神戸三宮の古本屋などでミリタリー本を大量購入 (2019/04/13)



 感想ですが、むっちゃ分かりやすくて面白くて、大変良かったです。以前に2冊ほどムッソリーニの詳しい伝記を読んでいたのですが、ある意味詳しすぎて当時それらの本からほとんど何も理解できなかった感もあり、その前にこの『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』を読んでいれば全然違ったかも……と思いました(その2冊の本に関しては、こちらに書いてました→SLGamer RE:再評価されるべきイタリア (2013/09/07) )。


 『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』が分かりやすく面白いというのは、ムッソリーニの性格の悪い点や良い点についてある意味誇張かもしれないほどに特徴的に書いてあってすごく印象に残りやすかったのと、ムッソリーニに欠点が多かったにもかかわらず何故政権を取ることに成功したのかということとか、あるいはどのようにして戦争に突き進んだかというようなことが端的に説明されているのが非常に良かった……ということによると思います。

 以下、非常に印象的だったところを抜き書き、あるいは引用していこうと思います。

 ムッソリーニが若い頃の性格描写についてですが、「ケンカずきで、短気」(P11)、「ケンカばかりしていていたため、何度も放校され
(P12)、「じっとしていることができず、気がみじかく、暴力的で、野心家」(P13)、「神経質で、興奮しやすかった」(P14)、「彼は、婦人に暴力をくわえることを自慢していた」(P15)などと書かれていますが、成績は良く、また非常に良い声で(イケメンボイスってこと?)、演説が上手かったそうです。




 ↑動画からは、良い声という印象は私は受けませんが……(^_^; もっと若い頃の演説だと良いのでしょうか。あと、どうでも良いことながら、声優の緑川光さんとか中村悠一さんとかの声は私は非常に好きですね~。ムッソリーニの演説をその声でされたなら、私は付いていきます(おい)


 ムッソリーニが有名になっていき、権力を握っていく上でこの演説能力の高さは大変重要な役割を果たしたらしく、↓のように書かれていました。

 彼は、きわめて有能なジャーナリストとして活躍したばかりでなく、独特なタイプの、すばらしい演説家としても、名声をたかめた。
 彼の態度はいつも芝居がかっていて、その意見は矛盾し、発言はしばしばまちがっており、またその攻撃は悪意にみち、マトはずれのばあいもおおかった。
 しかし彼の声は、人びとを魅了し、その何回もくりかえす、力づよいゼスチュアは、大いに効果をあげた。そしてしゃべることばは劇的で、しかも適切で効果的な比喩を、たくみにつかった。
 そのうえ彼は、いくつかのみじかくて、人の心に訴える名文句をつくりあげる名人で、それを継続的にどなりながら、全体をクライマックスにもりあげてゆく才能があった。
 とくに彼は、聴衆のなかにひとつのムードをまきおこし、それから自分をそのなかに投げこむという、きわだった能力をもっていた。そして彼が演説するときは、彼がくりかえすひとつひとつの文句に、聴衆も「そのとおり!」とさけびかえし、一種の対話集会のようになってしまうのだった。

『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P17



 ヒトラーも非常に演説が上手かったそうですし、近年だとオバマ前大統領が名演説で有名で当選を果たしましたが、オバマ前大統領は(も)ある意味「口だけ番長」で、その時代にアメリカの理想主義的リベラリズムは極限まで行って攻勢限界点を超えてしまい(?)、その後は全世界において反理想主義的な反動主義の揺れ戻しが来るようになったようにも思われます。ムッソリーニの暴力主義的(ファッショ)から端を発して、ヒトラーが人種差別主義(ホロコースト)の極限まで自国を導いてヨーロッパに惨禍を招き、その後は逆方向(反暴力主義、反人種差別主義)に世界が向かったのに対して、それを逆転させたのも「演説の上手さ」によって人物を選んでしまったことによるのではないか……とも考えたり(いや、オバマ氏が大統領になってなくたって、反転はしたでしょうかね~)。

 尤も、世界の潮流は第二次世界大戦以後、反暴力主義に向かったはずなのに、私の地元尼崎では体罰による部活指導がまだまだ健在であり続けているというのが泣けます(T_T)


 閑話休題。


 なぜムッソリーニが権力を握ることができたのかについて、同書ではこのように書かれていました。

 当時イタリアは、戦後の無政府状態になやんでおり、国民はムソリーニの説く、国家の病弊をなおすという独裁主義をうけいれるようになっていた。
 ……【ローマ進軍の成功でムソリーニが政権を得た】
 ムソリーニの成功は、めざましく、また突然であったが、これには、それ相当の理由があったのである。
 まず彼は、いくつかの外的状況 - 経済危機、労働者階級の分裂、うっかりしていた中産階級政党などの条件が、きわめてタイミングよく組み合わさった - によって助けられたのであった。
 また彼の力づよい肉体や、断続的にくりかえすたくみの演説のやりかた、人をひきつける魅力なども、大いに役だった。
 しかし、彼を成功させたのには、これ以上の大きな理由があった。
 それは彼の生まれつきの直観か、あるいはぬけ目のない計算か、そのいずれにしても、彼がとびきりのオポチュニスト〔日和見主義者【ある定まった考えによるものではなく、形勢を見て有利な方に追従しよう」という考え方のこと】〕であり、またきわめてかわり身のはやいアジテーターであり、また敵のあいだにクサビをうちこんで分裂させる、政治技術の名人でもあった、という点である。
 ……
 そしてイタリア人が、彼を熱狂的に歓迎したのは、国民的指導者としてであった。
 人びとは、ストライキや騒乱にあきあきしており、ダヌンチオ〔イタリアの愛国詩人で第一次大戦に活躍〕がフュウメ市民をもえあがらせたような、ファシズムのはなやかな舞台装置や、中世ふうの装飾をもとめていたのであった。
 ……
 ムソリーニは、大衆にたいしてたくみに、自分がいかにもイタリアの運命の人であるかのような印象をあたえ、人びともまた、そう信じた。
『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P24~27



 そういえば、「英雄のいない国は不幸だ」「ちがう、英雄を必要とする国が不幸なのだ」というセリフのやり取りを思い出して、「ムッソリーニの件とか、本当にそうだなぁ……」と思ったのですが、私はこのやり取りは『銀河英雄伝説』の中にあったと、大学時代のシミュレーションゲームサークルの先輩に聞いたと思っていたのですが、今検索してみると、『ガリレイの生涯』という戯曲の中のセリフだとか?

 まあそれはともかく、ムッソリーニの成功の要因に、独裁者を望む国民と、偶然のタイミングのよさと、機会を見て迅速に変り身するムッソリーニのやり方があったということで、うーむ、なんとも不幸な……。


 しかしその後の国内政策ではムッソリーニは多くの成功を収め、当時チャーチルをはじめ多くの人びとがムッソリーニを「真に偉大な人物」と尊敬したそうなのですが、エチオピア侵略を嚆矢として戦争に突き進んでいって大失敗しました。

 またイタリアの有名な作家アルベルト・モラビアは、つぎのようにのべている。
「もしムソリーニが、国内政策とおなじように、賢明な外交政策をとっていたならば、おそらく彼は、こんにちでもドゥーチェであったろう」
 これは、一考にあたいする意見である。
 エチオピア〔アビシニアともいう〕侵略と、その後の彼の没落への道をひらいたのは、彼の傲慢さ、外国人ぎらい、そして、イタリアにとって根本的に必要なことはなにか、ということについてのあやまった判断によるものだった。
 彼の没落は、自分がつくりだしたものであることを、彼はけっしてみとめなかった。なぜならば、彼はなが年にわたり、自分自身の宣伝を信じ、自分はあやまりをおかさない、と確信してしまったからである。
「わたしの墓には、こういう墓碑銘をつけてほしい」
 あるとき彼は、すこしのユーモアも自制心もなく、こういった。
「地上にあらわれたもっとも知性のある生物、ここに横たわる」と……。
 これはあきらかに、誇大妄想狂のしるしである。
 じじつ、ムソリーニは、おおくの偉大な才能をもっていたにもかかわらず、たえず不安定で、ずるく、体質的にうたがいぶかく、病理学的には利己主義であった。そのうえ大言壮語をどなりちらすのとはうらはらに、じつは臆病で、優柔不断であることを、ながいあいだかくしていたのであった。
『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P30



 「戦争さえしなければ、偉大な政治家として世界史に名を残しただろうに」というようなことはヒトラーについても言われているのを見たことがあるような気がするのですが、今読んでいる途中の『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』を見ていても、ヒトラーの目的はそもそも戦争をして東方にドイツ人の生存圏を確保する(そしてその過程で必然的にスラブ人等の数を減少させる……)ことにあり、そもそも「戦争をしない」という選択肢自体がなかったようなのですが、ムッソリーニの場合にはそういうわけではなかったのに(また、イタリア軍に戦争ができる能力がなかったのに)戦争に突き進んでしまいました。

 また、疑い深いとか、実は臆病であるというようなことは、スターリンにも似ていると思うのですが、なぜムッソリーニはスターリンのように権力を維持できなかったのか……?


 ムッソリーニが戦争に突き進んだ要因としては、ポーランド戦やフランス戦におけるドイツ軍の成功を目の辺りにして、日本の「バスに乗り遅れるな」と同様、焦って気も狂わんばかりになっていたということがあるようです。

 ムソリーニは、平和がイタリア国民の福祉に不可欠なものであること、長期戦はかならず害悪をもたらすこと、また自分は盲目的にドイツとともには行進しない、とかんがえていたが、半面、ドイツ人が“安あがりにうまい仕事をせしめてしまうのではないか”という不安におそわれていた。
 ……
 彼はファシスト大評議会に、つぎのように通告した。
「イタリアは、当分のあいだ軍事行動を開始しない。……
 われわれは、冷静に事態を注視し、われわれの計画をねらなくてはならない」
 だが、ムソリーニは、冷静に事態を注視するどころではなかった。彼はほとんど気も狂わんばかりの熱心さで戦争の進展を見まもり、また例の長広舌で、チアノやそのほかの閣僚をつかれさせたり、イライラさせたりした。
 ……
 そしてドイツがフランス侵攻を開始するころになると、ムソリーニは、ヒトラーが独力で戦争に勝つのではないか、という不安にとりつかれた。
 ……
 ムソリーニは、あまりおそくならないうちに参戦することを熱望するあまり、イタリア国民はみなドイツ側について参戦するのを歓迎している、とおもいこんでしまった。
 彼は「イタリア人は売春婦のように、いつも勝つ側につくのさ」といった。

『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P36~41



 また、ムッソリーニの統帥についてはこのように書かれていました。

 しかし彼は、補給というかぎられた問題よりも、大計画につよい関心をもち、軍の統帥という、ほんとうに重要な問題よりも、制服や勲章とか、ドイツ軍の“ガチョウ歩調”〔ヒザをまげずに、歩調をとって行進する歩き方をいう〕を、イタリア軍にとりいれて、“ローマ式歩調”とよぶような、つまらない問題に関心をそそいでいた。
 また重要問題の解決は、自分でかんがえずに彼をとりまく無能で、へつらう部下の手にまかせた。これらの部下は、ムソリーニが当然知らなければならないことよりも、ただ気にいりそうなことだけを報告していたのである。
 また彼は、不快な事実に、注意をむけなくてはならなくなったときでさえ、それを無視するか、信じないことにした。こうして彼は、自分の宣伝に自分がまどわされることになった。

 ……
 もちろん、その気質や性向からして、彼はまったく政治家ではなく、ジャーナリストであった。そのジャーナリストとしての才能は - 彼自身も誇りにしていたが - 文章や演説など、ことばによって大衆を扇動することであった。
 しかしこまったことに、ムソリーニは物語や見出しを書いたりすることだけでは満足しなかった。
 彼は、それに生命をふきこみ、栄光につつまれて世界中を行進することをのぞんだ。

『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P51



 ロンメルのエル・アラメインへの進撃の際には、ムッソリーニはカイロ入城を白馬に乗って果たそうと、白馬を北アフリカに持ち込んで待機していたらしいですから……。


 読んでいて、『高学歴モンスター』という本に書かれていたことを思い出しましたね。



 豊田真由子様(「このハゲー!」で有名になった人)とかも、姉妹が超絶優秀であったらしく、本人も経歴的には超優秀ですが、ムッソリーニばりの嫉妬心(ヒトラーに対する)がすごくて、モンスターになってしまった感が……。

 また今までも時々当ブログで、「サイコパス傾向の人の方が(そうでない人よりも)出世し、成功する確率が高い。ただし、慢心して大失敗して大コケする可能性も結構あると思う」というようなことを書いていましたが、ムッソリーニもそうではないでしょうか。というか、ヒトラーもスターリンもチャーチルもそうだと思われ……(ルーズベルトとか東条英機とかは違うかな……?)。

OCSユニットで見るマーチンB-26マローダー(とその他のアメリカ製爆撃機)

 最新号の『歴史群像』の連載「蒼空の記憶」の記事が今回、アメリカ製の爆撃機であるB-26でした(P22~25)。





B 26

 ↑マーチンB-26マローダー(略奪者)(Wikipediaから)




 で、OCSでその他のアメリカ製爆撃機と共にユニットを探してみました。


 まずはOCS『Sicily II』のアメリカ軍爆撃機を挙げてみます。

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 ユニットの左上に「S」とあるのは戦略爆撃で、OCSではユニットに対して爆撃できません。港湾や航空基地への爆撃や、移動妨害にのみ使用できます。

 「T」とあるのが戦術爆撃機で、ユニットに対して爆撃でき、混乱(DG)の結果を狙うことができます。

 同記事によると、1938年の時点ですでにあった「重爆撃機であるB-17と攻撃機(軽爆撃機)であるA-20の中間に位置する機体も求められていた。」。そこで登場したのがB-25とB-26だったそうですが、B-25の方は、「既存の技術を巧みに組み合わせることにより、最先端の高性能機ではないが信頼性が高く、「使い勝手が良い」中爆撃機」であったと。

 それに対してB-26の方は最先端の技術を用いた野心的な設計で、胴体を太くして(OCSユニットで見ても、一番太くなってます)B-17並みの爆弾搭載量を確保しつつ、B-17が1000馬力×4発であったのに対し2000馬力×2発として、より高い高速性能を発揮したそうです。

 が、新機軸が多く、着陸速度も速かったことから慣れない整備兵や未熟パイロットによる事故が続発して、「ウィドウ・メーカー(未亡人製造機)」という有難くない名前で呼ばれるように……。

 しかし、パイロットの訓練方法が改善されたり、整備の慣れや整備施設が完備されると共に、その堅牢な機体性能で最も安全で、最も高い命中率を誇る、B-25と並ぶ傑作爆撃機となった……らしいです。それでも総合的に見るとB-25の方が「第二次大戦の最高の中型爆撃機」となるみたいですが(この段、『第2次大戦事典②兵器・人名』P214から)。


 また、B-26には長い滑走路と完備された整備施設が必要であったことから、戦争の初期の時点で今後ヨーロッパ戦線に送られるように配慮されることになり、「太平洋戦域はB-25の独壇場、地中海戦域は本機とB-25の両方、そしてヨーロッパ戦域が本機の独壇場とされた」。そうです。





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 ↑OCS『DAK-II』のイギリス軍の両爆撃機。




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 ↑OCS『Tunisia II』のアメリカ軍爆撃機(このゲームにはイギリス軍にはこれらの機種は登場しません)。



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 ↑OCS『Beyond the Rhine』のアメリカ軍爆撃機(これまでの(2)-6が(3)-10に上がってます)。



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 ↑OCS『Beyond the Rhine』のイギリス軍(左)とフランス軍爆撃機(フランス軍のB-26は(3)-8と、アメリカ軍のものよりやや爆撃力が低い一方、米仏軍が運用していないB-25を運用するイギリス軍のそれは(2)-15という、B-26よりは打たれ弱いけども、爆撃力は高めの設定に)。



 OCSユニットにおけるB-26ですが、『DAK-II』『Tunisia II』『Sicily II』における(2)-6という性能は、結構中途半端です(^_^; この頃はまだ、事故が多発していた時期ということなんでしょうか。戦闘機に迎撃されたらまず負ける一方で、爆撃力は高いとは言えず、数ユニット単位で爆撃するか、あるいは航空阻止(移動妨害)に利用するか……?

 『Beyond the Rhine』だと(3)-10とレーティングが上がっていますが、これは機体性能の向上ではなくて、パイロット等の熟練によるものの反映だと思われます(1st Edition デザイナーズノートで、航空ユニットはレーティングの多くの部分をパイロットの技量に置いている、と説明があります)。枢軸軍の戦闘機の性能も上がってるのですが、しかし『Beyond the Rhine』では枢軸軍の戦闘機がステップロス状態(空戦力が1下がる)で配置されていたり、数が足りなかったりであまり活躍できないので、結構ばんばん飛んでいけるのかもです。


 今まで良くプレイしていた『Tunisia』『Tunisia II』『Sicily II』などで、B-25とB-26は良く見ていましたが、正直性能的に微妙ではありました。また、B-25ミッチェルの方は、小5~中1くらいにかけて好きだったウォーターラインシリーズで1/700のものを持っていたことがあり、その垂直尾翼が2枚ある特徴的なフォルムと、ドーリットル空襲で使用された件なども絡んである程度イメージがありましたが、B-26に関してはまったく知識がありませんでした。でも、今回の記事で今後、『Sicily II』までであればまだ事故が多発していたらしいとか、『Beyond the Rhine』でならば堅牢で命中率も高い名機として認識できそうです。


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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