『最小スケールのウェリントンの勝利』:歴史を歪めようとするのは誰か?

 だいぶ前に何かの折に買った、ウェリントン将軍の子ども向け伝記洋書を読み始めてみました。





 で、良くやるのですがふと思いついて「あとがき」の部分を読んでみたら、「ウェリントンについてオススメの本や史跡としてはこんなのがあるよ」というようなのが書いてある中に、以下のような記述がありました。

 ロンドンでは、チェルシーの国立軍事博物館に、ウィリアム・シボーン(William Siborne)によって作られた巨大なワーテルローの戦いのミニチュアがありますから、それを訪れるのも良いでしょう。このミニチュアに関する舞台裏の話はPeter Hofschröer【どなたかこの名前の発音教えて下さい(^_^;】によって書かれた『Wellington's Smallest Victory』で語られています。
『Who Was the Duke of Wellington』あとがき



 SiborneとHofschröer! Siborneと言えばワーテルローの戦いに関しての膨大な証言を集め(1844年に出版)、現在巷間流布しているワーテルロー象を作った、ワーテルローに関する(過去の)歴史家としては最も重要なんじゃないか?と思われる人物です。

 一方、Hofschröerと言えば、(1999年頃から?)ドイツ語資料や証言を駆使してこれまでの「ワーテルローの勝者はウェリントンであり、イギリスである」説に異論を唱え、プロイセン軍や、ウェリントンの率いた軍隊の中のドイツ語圏の兵士達の貢献に光をあて、またウェリントンやそのシンパによる自己宣伝による歴史記述の歪みを糾弾した人物として印象深いです。ただし、彼もまた、自説のために証言を歪めていると非難されたりもしています(→R/DさんのHofschröerの問題点)。


 ↓『Wellington's Smallest Victory』





 巨大なワーテルローの戦いのミニチュアという話は全然知らなかったのですが、「Model of the field of Waterloo」で検索すると画像が色々出てきます。ワーテルローの戦いの開始時のミニチュアではなく、その最終盤の時点(19:45)におけるミニチュアらしいです。

 公的な紹介ページは↓こちら?

Model of the field of Waterloo with troops positioned as at 19.45 hours, 18 June 1815.


 このページやWikipedia英語版William Siborne、あるいは大英図書館所蔵「ワーテルローの戦い」関連文献集成というpdfファイルを見ていると……大略。


 シボーンはワーテルローの戦いの時には兵士として18歳でパリにいましたが、その後の人生で何冊かの本を出版。1830年にイギリス軍最高司令官であったローランド・ヒル卿から、ワーテルローの戦いのミニチュアの製作を命じられました。彼は大規模な調査を開始し、当時のフランス陸軍省にも資料を提供してもらえるように丁寧にお願いしたもののそれは完全に無視され(フランス側にしてみれば負けた戦いですからね)、しかしオランダのオラニエ公からは親切にオランダ軍に関する資料をもらえたとか。

 彼は8ヶ月間ワーテルローの古戦場を調査し、またイギリスに生き残っていた当時の将校達に手紙を出して当時の様子について詳細に聞き取りをおこないましたが、当時のフランス軍やプロイセン軍の将校達にはその聞き取りはおこなわれませんでした。

 さて、ここからがややこしいのですが、公的ページによると、「このミニチュアモデルには、前進するプロイセン軍がいるべき領域がカットされてしまっており、明らかにイギリス側の立場から見るようにして作られていた」。一方Wikipediaによると、「Hofschröerの主張によると、ミニチュアモデルの建設中にシボーンはウェリントン公から敵意をもたれるに至ったが、それはシボーンがワーテルローの戦いにおけるウェリントン公の(巷間伝えられる?)出来事の一部に疑問を呈したからであった」。と。

 で、集められた資料はまとめられ、1844年から出版され始めましたが、Wikipediaによると「客観性の欠如は依然として議論の源です。」だとか。


 歴史を歪めようとしたのは、シボーンか、ウェリントンか、Hofschröerか? その全員であるというのが答えなのでしょうか。いや、そもそも我々人間は誰しも、「歴史を歪めようとする無意識から逃れられない」と言うべきなのかもしれませんが(脳科学的にそもそもそうであるようですね(>_<))。

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OCS『Case Blue』第2次ハリコフ第3回、第1ターン先攻

 OCS『Case Blue』第2次ハリコフ第3回プレイの第1ターン先攻を尼崎会(拙宅)でプレイできました。


 ↓第1ターン先攻(ソ連軍)終了時。

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 今回私は初めて、南側のソ連軍を受けもちました。オーソドックスな方向での突破を狙いますが、敵の爆撃を恐れて戦力を分散させ過ぎたか……(^_^; 北側のワニミさんは(前回ドイツ軍側が突破を狙ってきた)最北の戦線をまず潰す作戦に出ました。

 赤い弧で描いたイジュム南岸の辺りはなんとしても保持しておかないと攻勢があっという間に頓挫してしまうので、ある程度守っています。史実ではこの方面にドイツ軍の攻勢計画「フレデリクスⅠ」が発動されましたが、果たして……?(他のゲームでどんな感じなのか知らないのですが、OCSでプレイしているとこのイジュムの辺りのソ連軍の余りの脆弱さに泣き言しか出てこないのを今回身をもって体感しました。なんでこんな脆弱なのに攻勢計画とかしよったんや~(>_<))

 ドイツ軍の攻勢計画ですが、イジュム方面へを当然ながら警戒していたのですが、ワニミさんの予告によると、もっと東の方の、ソ連軍後背部へ出る計画のようです(それをするとソ連軍最強の第24戦車軍団が湧いてくるのですが、そんなことは知らん、と(^_^;)。

OCS『Case Blue』第2次ハリコフ第2回プレイ、第4~6ターン

 この土日に尼崎会(拙宅)で、OCS『Case Blue』第2次ハリコフ戦シナリオの第2回目の第4~6ターンをプレイできました。


 南部はほとんど動きがなかったので、北部だけ写真を挙げていきます。


 ↓第4ターン先攻(枢軸軍)終了時。

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 ドイツ軍の反撃でソ連軍のいくらかの部隊が被包囲下になってます。



 ↓第4ターン後攻(ソ連軍)終了時。

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 ソ連軍側は足止め部隊を残しつつも、OCS『Enemy at the Gates』リトルサターン研究 (2016/07/10) で挙げていたような防御を狙ってみました……が、第6ターン終了時の結果から鑑みるに、もっともっと重心を後ろにする(もっと部隊を下げる)べきだったのかなぁという気がします。



 ↓第5ターン先攻(ソ連軍)終了時。

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 イニシアティブを枢軸軍が取ったので、補給切れチェックが入るようにとソ連軍が先攻を取らされました。ここでも割と前のめりに足止め部隊を置いて、下げ具合が少ないです。



 ↓第5ターン後攻(枢軸軍)終了時。

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 枢軸軍はSPがかなり少ないものの、ソ連軍部隊を包囲をしていきます。


 この後、馬鹿げたことに写真を撮り忘れていたんですが(T_T)、第6ターンのイニシアティブをソ連軍が取り、ソ連軍側は「補給切れチェックで前線被包囲下部隊が死んでしまうより、ここはドイツ軍にターンを渡した方がいいんじゃないか?」と先攻を枢軸軍に取らせたんですが、結果としては失敗だったように思います。ソ連軍の司令部が踏まれるわ、被包囲下の部隊が増大するわ……。やはり、攻勢側にダブルターンを取らせるのはやめた方がいいですねぇ……。

 第6ターン後攻(シナリオが終了する)にはソ連軍は、「最後だから」ということで(本当はそういうプレイをすべきではないのですが(^_^;)大反撃を敢行し、SPの枯渇していた枢軸軍は多くのユニットがLOWやExhaustになっていきましたが、しかし反撃が有効かというとそうでもない気がしました……。


 反省点としては、ソ連軍はSPにかなり余裕があるのに対して枢軸軍はSPに全然余裕がないので、ソ連軍側は1ターン中にもう2~3回どこかで攻撃をかければ、枢軸軍はほとんど何もできなくなる可能性もあるのではないか?

 枢軸軍側としては、ソ連軍の戦闘機をすべて叩き落とした上で航空基地に対施設砲爆撃を繰り返して、航空基地レベルを下げ、ソ連軍側に航空作戦を不可能ならしめるべきではないか、と。


 色々反省点があるので、もう1回このシナリオをプレイしようということになりました(えらいOCSを楽しんでいると思います(^_^;)。次回は私がソ連軍の南方の攻勢を担当するつもりです。

OCS『Case Blue』第2次ハリコフ第2回プレイ、第1~3ターン

 この土日に、尼崎会(拙宅)にてOCS『Case Blue』第2次ハリコフ戦シナリオの第2回目のプレイができまして、第1から第3ターンまで進行できました。


 ↓セットアップ状態。

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 今回はワニミさんに腹案があるということで、ワニミさんがソ連軍の総司令官を担当することになりました。後で聞いたところによるとその作戦は、「ソ連軍の南方からの突破戦力を、中央部での攻勢に使用する」ということであったようです。というのは、南方の突出部があまりに脆弱すぎてそれを維持したままで南方で突出するのがムリすぎるから……ということでしょう。


 ↓第1ターン先攻(ソ連軍)終了時。

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 ↓同、北方戦区。

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 私はソ連軍の北方戦区を担当したのですが、ワニミさんからの指示は「できるだけドイツ軍の戦力を削ること」で、突出は重視しないということであったので、守備も気をつけながらプレイしました。あと、尼崎会のハウスルールとして、「初期配置での1ヘクス単位での入れ替えを許容する」や「ユニットの隠匿用に置き換え用の数字マーカーを使用する」を採用しています。


 ↓同、南方戦区。

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 ↓第1ターン後攻(枢軸軍)終了時。

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 枢軸軍は北方がワニミさん、私が南方を担当。私としては、「枢軸軍はSPが非常に少ないから、なるべく戦闘をすべきではなく、移動で相手を困らせるべきである」という方針のもと、南方でポケットを2つ形成しています。



 ↓第2ターン先攻(ソ連軍)終了時。

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 ソ連軍は続けて、ドイツ軍に損害を与えることを重視していますが、中央部で攻勢はそれほどうまくいかなかったので、戦車軍団や騎兵軍団を北方戦区に回し始めています。



 ↓第2ターン後攻(枢軸軍)終了時。

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 このターン、史実のドイツ軍はイジュム突出部を切り取るべく第14、第16装甲師団、第60自動車化歩兵師団を含む第3装甲軍団によって攻勢作戦「フレデリクスⅠ」を発動したのですが、南方戦区を担当する私は悩みまくり! ソ連軍部隊はすでにドネツ川の向こうに繋がる渡河点を強力に押さえてしまっており、そこを突破するような攻勢作戦は絶対に膠着することがありありと見て取れる……。ふと、「どこか、すでにドネツ川の向こうに橋頭堡がある戦区はないのか?」と探してみると、あるじゃないですか! マップの一番北の戦線では、ドイツ軍がドネツ川の東岸に存在している! 「ここだ! ここから突破作戦を発動に変更だ!」というわけで、第3装甲軍団の主力の3個師団をまるまる北方へスライドさせることにしました。


 ↓同、北方戦区。

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 ただしもちろん、いきなり前線にまではとどかないので、ハリコフの南西にその3個師団がまだいる状態になってます(戦略移動マーカーが載っているスタックが第16装甲師団)。

 次の第3ターン、枢軸軍がイニシアティブを獲得したので、ダブルターンとすべく、先攻を枢軸軍が取りました。


 ↓第3ターン先攻(枢軸軍)終了時。

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 北方のドイツ軍がベルゴロド周辺のソ連軍守備部隊を吹き飛ばして南下、その最先端ではソ連軍司令部を蹂躙してしまいます! 


 ↓同、北方戦区。これはソ連軍、大量の補給切れのピンチか……と思われたのですが。

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 ↓第3ターン後攻(ソ連軍)終了時。

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 ↓同、北方戦区。

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 焦るソ連軍……ですが、司令部を急遽他の場所から回してみると、意外に補給は繋がることが判明。しかし防勢転移はしょうがないのか……防勢一辺倒ではダメで、攻勢も取らなきゃダメなのが今までの教訓だが……と思って攻勢の取れるところを探していたら、いや実は、ドイツ軍側の攻勢部隊を切り取ってしまえるのではないか……? と考え、この方面に部隊を回します。これは……逆にドイツ軍側がピンチなのか……?

 全然分かりません。ドイツ軍はむしろこの後、ソ連軍を縦横無尽に削りまくれるのか……?

 ワニミさんが、「次のプレイが待ちきれない」と仰ってました(^_^;

 今回は下野守さんが見学に来て下さり、いくらかダイスを振ってもらったところ、やはり高いダイスの目で敵軍に悲鳴をあげさせておられました(*^_^*)


黒シャツ隊(ファシスト義勇軍)とイタリア正規軍との間のいさかい

 黒シャツ隊(ファシスト義勇軍)については以前、OCSのユニットで見る黒シャツ隊 (2017/01/31) で触れていましたが、イタリア正規軍兵士達とのいさかいについて、『ふたつの戦争を生きて』で何カ所か触れられていたのでそれを。


 ↓そもそも『ムッソリーニの戦い』にこういう記述があって、「なんてこった」という感じだったわけですが……(^_^;

 「リビア東部国境はいかなる観点からしても、非常に憂慮すべき状態にある。軍需資材が不足し、兵員は敵の優勢を恐れ、士気が著しく低下し、組織力を欠いている。(ある将校の供述によれば、とくにファシスト義勇軍と正規軍との間で相互に恨みを抱いていることが指摘される。)
『ムッソリーニの戦い』P39




 1940年11月6日は、バドリオが全軍参謀総長の職を解任された日である。その日の朝、軍事史の授業があった。教官は - レッジャーニ大佐、コンメンダトーレのロレンツォであった - 非常に厳格な老士官で、その胸をおおう15~18年戦争のメダルやリボンの威光もあって、尊敬を集めていた。大佐が教室に入ってきて、私たちは気をつけ、の姿勢をとった。すると大佐は、由々しき事態にあることをほのめかす重々しくも厳かな声で、おおよそ次のような内容を私たちに告げた。「わが軍にとって、きょうは大いなる不幸の日だ。卑しいファシストどもの陰謀が、烏合の衆どもの陰謀が、わが軍のピエートロ・バドリオ元帥を罷免したのである。バドリオを叩くことで、ファシストどもはイタリア全軍を侮り、辱めた。暗黒の時代となった。この先が思いやられる」
 衝撃の発言であった。私の胸に一撃をくらわせたのは、ファシズムとファシストに対する歯に衣着せぬ手厳しい物言いと、「烏合の衆」という決めつけだった。かなり前から、ファシズムと軍とは別物であると気づいてはいた。いまや私は軍人であり、いまや軍の一員であった。国家治安義勇軍【ミリツィア=黒シャツ隊】が得体の知れない連中の寄せ集め、軍隊の醜悪なコピーで、その将校たちがでっち上げの虚飾の階級で自らを飾り立てていることは、先刻承知していた。しかしながらファシストとファシズムに対するこのような直裁の非難を、私はそれまで耳にしたことはなかった。士官学校入学以来、少なからぬ対立の議論を耳にすることはあったが、おおかたが揶揄であり、つまりは陰口にすぎなかった。ところが、 - 繰り返し言うが - 、ファシズムに対してこれほど明白な、真正面からの批判を聞いたのははじめてだった。明らかにレッジャーニ大佐は私たち生徒を信頼していたのであり、だからこそ胸のつかえを吐露したのであった。話すうちに見るからに感極まった大佐が、涙さえ浮かべていたのを覚えている。こうして、反ファシズムの最初のメッセージを、軍という閉鎖集団による反ファシズムとはいえ、私はモーデナの士官学校で受けとったのである。家の中でも、学校の中でもなく。おそらく早くも戦況が不利になっていたからであろう。とはいえ、それだけが理由であったとは思えない。
『ふたつの戦争を生きて』P56~58


 7月、クネエンセ師団は火器演習のための夏の野営で、ストゥーラ谷に集結させられた。私はパラッツィ中佐に容易ならざる任務を託された。連隊の輜重隊、300人の山岳兵と同数の騾馬を、ストゥーラ谷の上流まで率いていくよう命じられたのである。私は誇らしかった。そのような責任を負ったのははじめてのことで、与えられた任務を完璧に遂行しようと、心に期した。
 当日の朝4時、私たちは長蛇の列をなしてクーネオを発った。ストゥーラ谷はガイオーラ村のやや手前で折れて、いちだんと静まりかえった日陰の軍用道路を進んだ。私が殿の将校で、列がアコーディオンのように伸び縮みするのを防ぎ、遅れをとった者たちの態勢を整えていた。フェスティオーナ村とアイゾーネ村の中ほどの地点で、隊列の先頭のほうがなにやら騒がしく、動きが滞っているのに気がついた。前方へ走っていくと、そちらから叫び声が聞こえる。何が起こったのか。道路ぎわが林になっていて、そこに国家治安義勇軍の小さな野営地があった。義勇兵たちはそこに即席のバレーコートを設けて、のどかにボール遊びに興じていた。短パン姿で上半身は裸だった。家畜のように荷を負わされて、何時間も行軍しつづけている山岳兵たちには、我慢のならない挑発だった。
 山岳兵たちは口々に叫びだした。「黒シャツめ、うす汚いシャツ連中め」「バリッラ野郎」「厄介者の穀つぶし」。あげくにコートになだれ込み、支柱やネットを取り壊しはじめた。大乱闘が勃発、拳骨と足蹴りが飛びかった。この殴り合いを目のあたりにして、私はとっさにわが経歴もこれまでかと観念した。それから、ようやくみなをなだめた。山岳兵たちは、自分たちより高給を得ている義勇軍の隊員を、ぐうたらの《兵役志願者》と見なしていたのである(山岳兵たちは彼らを不精者と考え - 侮蔑をこめて - こう呼んでいた。自ら志願して国家治安義勇軍での兵役に服したという意味で)。

 そうした決めつけには公正を欠くところがなきにしもあらずだった。というのも《M(ムッソリーニ)》大隊の中にはロシア戦線で多大の損害を受け、この上なく高い代価を払った部隊もあったからだ。
 治安義勇軍の兵士と山岳兵のもめごとは後を引かずにすんだ。私はお咎めなしだった。こうしたことは特別な事柄ではなくて、少々殴り合いや蹴り合いがあったからといって、物議をかもすようなことにはならなかったのだ。実際、集合地点に着いたところで、私はことの次第をパラッツィ中佐に報告したのだが、中佐が最後に言ったのはこういうことだった、「諸君はやっつけたほうか、それともやっつけられたほうか」。「こちらがやっつけました」と私は答えた。「それならよろしい」
『ふたつの戦争を生きて』P74,5


 ジュゼッペ・カステッリーノの証言。「対フランス戦にそなえ、またしてもモンドヴィのヴァル・エッレロ大隊第10中隊に徴用される。イタリア人は全員ファシストで(少なくとも表向きは)、黒シャツを身に着けていた。私たちはファシストではなかったが、それでも好むと好まざるとにかかわらず、ファシストのあとに従った。それが唯一の道だったから。ここでは国家治安義勇軍の黒シャツは見かけない。やつらは日当として5リラ銀貨を支給されるが、われわれは1リラだ。おまけにやつらは何もしないのに、われわれは山中で苦労している。やつらは女性をそばにはべらせて戦争を起こし、われわれは銃と背嚢を背負って戦い、地べたで眠るのだ。
 西部戦線開戦前夜、《黒シャツども》はジェッソ谷のピアン・デル・レで野営していた。ところがやつらはマフィアがひしめいているヴァルディエーリの温泉場にたびたび下りていっては、ホテルで従軍看護婦たちとダンスをして楽しんだ。ある夜、チェーヴァ村の連中がやつらを探しにやってきた。めった打ちにあい、頭を割られた者もいて、少なからぬ《黒シャツども》が病院に送られる羽目になった」。いやはや、フランス軍と戦う代わりに、仲間うちで戦をしていたわけだ。

『ふたつの戦争を生きて』P39,40




 ただ、ネット上で『Italian Blackshirt 1935-45』が読めるので見てみたのですが、黒シャツ隊が一般兵士より優遇されていたというのは、それほどではない印象を受けました。むしろ、何もかも不足しているイタリアにおいて鬼子のようにいきなり出てきた黒シャツ隊は兵舎も訓練場もなく、政治的熱狂があったとは言いつつもそれは生活(生存)の必要からがなり立てているだけの中年の社会的弱者の部隊に過ぎなかったのではないか……という印象を受けました。

 以下、同書から適当な訳でもって抜き書きしてみます。

 志願者を元に
 26歳から36歳までの間だけ入隊できる

 陸軍は21-24歳を徴兵するのに対して、黒シャツ隊は26-45歳。東アフリカに送られた40,000名の黒シャツ隊の構成を見ると、1/4が31-36歳で、半分が26-30歳。通常は下士官は年輩者(50%は35歳以上で、22%は40歳以上)であるものだが、黒シャツ隊の下士官はほとんどの兵士達よりも年下であった。

 黒シャツ隊は、たとえばフィールドキッチン(炊事用車両)などの補給段列的なものを持っていないことがしばしばあった。

 黒シャツ隊の下級将校の大部分は、陸軍の予備中尉から供給されていた

 黒シャツ隊ではラバが広く使用されており、多くの場合車両は少なかった

 この時代のイタリア軍の訓練はつねに不充分なものであったが、黒シャツ隊も例外でなく、それどころか半永久的な特質とも言うべきで、そもそも兵舎や訓練場にも事欠いていた

 ファシスト体制の大言壮語的なプロパガンダにもかかわらず、黒シャツ隊の訓練はイタリア軍の標準的な歩兵とほとんど一緒で、使用できる物資の不足によって大きく制約されてしまっていた。訓練の大部分は基礎教練と長い行軍より成り、実弾射撃訓練などは使用できる弾薬がごく限られたものであったためにほとんど行われなかった(特に自動拳銃や重火器がそうであった)。

 実際の戦争に赴いた比較的短い期間以外の、ほとんどの期間の黒シャツ隊の主たる役割は公式行事で行軍するということに限られており、それゆえ教練の重点はその見栄えに置かれたのであった

 黒シャツ隊に入って得られる恩典というのは大して魅力的なものではなかった。そのリスクと不快さにもかかわらず黒シャツ隊に入るというのは、その他になれる適当な職がなかったというのの裏返しであった。明らかに、彼らのほとんどは1935-36年かそれ以降にかけて黒シャツ隊に志願した者達であり、わずかな恩典を目当てにしていた。特に農民、肉体労働者、失業者達(彼らの多くは1929年の世界経済恐慌の結果そうなった者達であり、もはやアメリカへの移民も許されない者達であった)は、将来植民地へ入植できることをあてにしていたのである。



 こうしてみると、イタリアの黒シャツ隊とドイツの武装親衛隊とのあまりの差異にくらくらしてくる感があります。武装親衛隊の多くは精強で装備も優先的でした(後期になればなるほど外国人も多く悲惨になっていきますが……)が、黒シャツ隊は元々貧しいイタリアにおいても、イタリア正規軍よりも訓練充足度も設備充足度も低く、それで活躍するのはムリがあるでしょう……。一部の部隊(特に、東部戦線に送られた黒シャツ隊)が比較的良く戦ったのは、むしろ褒め称えられるべきなような気もします。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。
 過去に作ったイタリア軍関係動画もどうぞ。
※リプレイ記事は練習が主になっていて、間違ったルールでプレイしてる事が多々あることにご注意下さい。気付いたものはその都度新しい記事でその事を書いてますが、古い記事に修正はほどこせていませんので……。

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